立命館大学法学部ニューズレター3号

July,1995

目次


末期医療と自己決定
―シュナイダー教授を迎えて ―
平野 仁彦


 本年5月19日、日本学術振興会の招聘によって来日され京都大学大学院法学研究科で客員教授を務めておられたミシガン大学ロー・スクール、カール・E・シュナイダー教授をお招きして、立命館大学法政研究会と人文科学研究所の共催による国際学術交流研究会が末川記念会館で開催された。論題は、「自己決定理論の妥当性と限界――医療分野における自己決定の諸相」。
 近年わが国でも、生命倫理とくに末期医療の在り方については旺盛な議論が展開されているところであり、インフォームド・コンセントの法理とその実践も徐々に普及し始め、患者の自己決定権についての認識は確実に高まりつつある。シュナイダー教授の講演は、そうした自己決定の重要性を認めつつも、自己決定権の先進国アメリカの医療現場で実際上それがどのような問題に直面しているかを明らかにし、自己決定権を過度に強調する傾向に対して一定の疑問を投げかけている点においてたいへん興味深いものであった。ここに、同教授の講演要旨と講演後の議論の一部を簡単に紹介し、当研究会に関する1つのレポートとしたい。
 生命末期の医療について患者が「自己決定」するとは何を意味するのか。また、医療や死の迎え方を患者自身が決めることに実際どのような困難がつきまとうのか。  シュナイダー教授は講演の中でまず、交通事故による脳の損傷で遷延性植物症になり意識不明のまま胃に接続した栄養補給チューブでしか生き長らえられなかったナンシー・クルーザンさんのケースを取り上げた。「娘は元気なころ無益な生命維持ははからないでほしいと語っていた」「チューブをはずし娘を安らかに死なせてあげてほしい」との両親の訴えは最終審まで争われることになり、事故からほぼ7年後の1989年12月に合衆国最高裁判所の判決は両親の訴えを斥けるに至った。だが、シュナイダー教授はその判決の内容を綿密に分析し、最高裁が両親の請求を認めなかったのは患者本人の自己決定権行使の態様に合理的な疑いがあったからであって、医療における患者の自己決定権それ自体は決して否定されていず、患者の自己決定を支持する一般的通念はかえって強化される結果となっている、と指摘する。そして、その証拠として同教授の上げるのが、連邦議会の制定した「患者の自己決定法」や各州の法律で認められてきている「事前指示」である。
 事前指示(advanced directives)とは、患者が意思能力をなくした時のために予め医療の受け方について指定をしておくものであるが、アメリカでは2つの形態で実施されている。「生前発効遺言」(living will)と「恒久的委任状」(durable power of attorney)。前者は患者本人の意思表示であり、後者は、患者が意思能力を欠くに至った場合に代わりに決定する者を患者自身が前もって指定しておくものである。こうした事前指示によって、医療に対する患者の自己決定は原理上最後まで可能になる。
 しかし、シュナイダー教授によれば、事前指示の制度は実際上患者の間で余り利用されていない。また、たとえ事前指示がなされたとしても、患者の希望を十分に伝えるものとはならず、医療現場の臨床決定にそれほどの違いをもたらすものともなっていない。このことを同教授は、多数の腎臓病末期患者への面接調査に基づいて明らかにし、その理由を主として次のように分析している。
 第一に、患者は自分の死について考えたがらない。とくに懸命の闘病生活を送っている場合には、闘病の失敗を予想しての事前指示は敗北主義あるいは希望の喪失につながる。第二に、医療に関する生前発効遺言の汎用書式は漠然とした表現を用いているため、個々具体的なケースにおいて指針とはなりにくい。また自ら署名した文書の意味を患者自身がよく理解していない場合もよくある。たとえ明確な指針となるような詳細な文書を作成しようとしても、変化する状況を規定する要因は複雑多様であり、それらを予測しての合理的決定はきわめて困難である。新しい状況に直面して患者自身の希望が変化することも稀ではない。第三に、事前指示の執行に際し、その内容の解釈をめぐって、家族や医師の見解が相違することが往々にしてある。また、生前遺言を作成した本人自身に、自己の意思を最大限尊重してもらいたいと希望する一方、患者にとって有益だと判断されれば無視されてもかまわないとする心理とに相当程度アンビヴァレンスが見られる。
 したがって、末期医療の在り方にかかわる全ての問題が患者の自己決定によって解決されるとするのは早計であり、この種の複雑でデリケートな問題について、自己決定権の徹底を進める自己決定理論には困難と危険がともなう、とシュナイダー教授は指摘する。同時にまた、自己決定理論の背景にある生命は「量より質」だとする一般的な文化的態度についても、再考を促す言及をされた。
 日本では3月に東海大学付属病院安楽死事件に対し、積極的安楽死にかかわった医師を有罪とする横浜地裁の判決が出されところであり、講演後の討論でも、末期医療をめぐる日米の状況の違い、考え方の相違に議論の1つの焦点があった。シュナイダー教授の指摘されるように、患者の自己決定と選択の自由を尊重しそれを厳格に貫徹しようとするところにアメリカの困難があるとすれば、日本では、松宮教授も述べられたように、インフォームド・コンセントの実践が医療の現場ではまだまだ不徹底であり、患者が自己決定しようにもその前提条件たる情報の開示が十分なされていない、という問題がある。はたして、日本の患者はどのようなことを望んでいるのか。自己決定理論の行き過ぎを牽制すべき状況が日本にもあると言えるのか。何が問題で、どうすべきか。本格的な実証研究が待たれるところである。  (なお、本研究会のおけるシュナイダー教授の講演内容は、通訳を務めて頂いた京都大学の木南敦教授によってその改訂版の翻訳が公刊されている。ジュリスト1995.10.1.(No.1076)を参照して頂きたい。)
      (ひらの・ひとひこ 法哲学)

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ハンガリー便り
堤 功一


 

夏期休暇にハンガリーに来ています。この8月に30度に至ったのは3日程度で、大体は27度くらいですから夏は京都や東京より凌ぎやすいと言えましょう。ブタペストは緑の丘、ドナウ河の美しい橋など、立体的に変化のあるたたずまいと人口200万の規模で観光的に魅力ある街です。壮麗な国会議事堂もオペラ座も、また立派な町並みも約100年前に作られたもので、その頃の繁栄ぶりが偲ばれ、多額の富が集まっていたことが分かります。19世紀の後半から20世紀の初めにかけ以何にしてその富が出来たのか、ということは当然の疑問です。ベレント・イヴァンの書いた「ヨーロッパ周辺と工業化1780ー1914」を読み返してみました。先ず19世紀後半のヨーロッパに広く鉄道網が出来ました。この鉄道のインフラでハンガリーの上質の小麦が西欧に売れだしました。西欧は工業化が進んで人口も増え、食糧への需要が爆発的に増大した時でした。これにハンガリー独自の製粉技術が加わって、ブタペストはミネアポリスに次ぐ世界第二の製粉業の中心となったと言います。やがてハンガリーの輸出はアメリカからの安い小麦粉に圧迫されるのですが、帝国関税のおかげでオーストリアやチェコなどにはまだまだ売り続けることができました。100年ほど前のブタペストを作った基礎はこの小麦粉輸出でした。ケンブリッヂ大学のクライド・トレビルコックの「大陸諸国の工業化1780ー1914」によればオーストリア帝国の産業政策はあまり成功していなかったようですが、ハンガリーには第二次大戦前も電器産業の発達はあり、共産化がなかったら順調な工業化が行われていたことと思われます。今また道路や通信網など西へつながるインフラの整備を進めていますが、EUに入って輸出市場が拡大できれば再び相当の繁栄が期待出来るでしょう。今はまだ社会福祉の行き過ぎを切るなど財政赤字の縮小を図るのが課題で、国民一般の苦しい生活はここ暫く続くようです。政府はやっと緊縮政策を始めたのですが、これはもう何年も前からやっておくべきことでした。
 国際問題研究所に当たるテレキ研究所にゲルゲイ・アッティラ博士を訪ね、再会しました。日本経済を社会学的に研究している人です。以前私はこの研究所で「アジアにおける経済発展の歴史的、文化的背景」というレクチュアをしたのです。日本、朝鮮、中国南部を通じての灌漑水田稲作の伝統とその産業社会形成への貢献、プロテスタント倫理と完全なパラレルではないが勤勉社会の勤勉と節倹の勧め及び教育の重視、また、特に日本については江戸時代の藩経営の経験と中間管理層の蓄積が役立っているだろう、日本の大企業の前身は藩であり、日本社会は昔から集団内での役割を果たすことを重視し、それが日本の会社に生きている、日本が封建社会という地方分権となり、全国にわたって地方社会を発展させたのは、小盆地から成る島国で大帝国に直接隣接しておらず全国的防衛の必要性が少なかったし、またウィットフォーゲルの言ったような大河川治水の要もなかった、というような話しをしました。それをまとめて年報に寄稿してくれとのことだったのですが、立命館での新生活に忙しく、まだ果たしていません。しばらく待ってくれとお願いして来ました。
 ブタペストでは香西茂先生の令息がこの4月から国際交流基金の駐在事務所長をしておられます。香西所長は「中欧と日本の新たな対話」という一連のシンポジウムをやろうとの構想を持っておられます。お訪ねして伺いました。ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、クロアティア、スロヴェニアの6国を対象にして日本研究がもっと進むようにとの考えからで、来年秋第一回をブタペストでやる計画です。日本からは国際日本文化研究センターの浜口恵俊、木村汎など諸先生の協力を得、ハンガリー側では科学アカデミーの社会紛争研究所と世界経済研究所、ブタペスト大学、経済大学、テレキ研究所、オリエンタリストの集まるコロシ・チョマ研究所などが参加するとのことです。21世紀に向かって今後の各国社会は如何にあるべきか、その中で日本型シムテムの占める位置如何が主な視点になるそうです。このシンポジウムの成功を祈るものです。ブタペストでは97年にヨーロッパの日本研究学会の総会が開かれる可能性もあり、更にアジア・北アフリカ研究学会の会合の計画もあるとのことで、賑やかになりそうです。
 9月5日から京都の国立近代美術館でハンガリーの建築とジョルナイ磁器についての展覧会が開かれました。世界的に素晴らしいジョルナイの磁器を日本の方々に知ってもらいたいという念願の私共には極めて嬉しいことです。国際芸術文化振興会の野呂芙美子理事がブタペストに来られた時お願いしたのがきっかけとなり、近美の学芸員河本信次さんの努力で実現に至りました。京都の後、東京、名古屋でも開かれます。ハンガリー側でこの展覧会に準備に当たったジョルナイ磁器の権威である応用美術館の学芸員エヴァ・チェンケイさんに今回も再会しました。前述のとおり世紀末から今世紀初めにかけては近代ハンガリーの興隆期で、立派な建築も行われましたが、この展覧会ではこの時代、アール・ヌーボーからアール・デコの頃を扱います。ジョルナイ磁器もその頃ハンガリーで作られ、当時のパリやロンドンの万博にハンガリー文化を代表するものとして出品されています。最高のジョルナイ磁器が作られたのは1878年から83年まで及び1898年から1906年までの各数年間とのことで、今回この頃の作品100点以上が展示されます。日本ではエミール・ガレなど当時のフランスのガラスがよく知られていますが、ジョルナイはそのガレなどと魂と芸術性を共有し、ただし磁器というガラスとは異なった材料を使って時代の美を追求したものと言えましょう。ガレ同様にジャポニスムも見られます。東京での展覧会は来年1月5日から近代美術館であるそうですので、機会があれば是非ご覧ください。
    (つつみ・こういち 国際機構論)

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ケルン・立命館国際共同研究の成果と
今後の課題−主として「高齢化社会と法」チームについて−
吉田美喜夫

 

1.共同研究の経過と今回の課題
 ケルン大学と立命館大学法学部とは、ケルン大学の教授による本学での集中講義や本学スタッフのケルン大学への留学などを通じて密接な関係を築いてきた。この基礎の上に立って、1993年に「高齢化社会と法」を共通テーマとして共同研究会を開催した。その際ドイツからは、(1) ペーター・ハナウ教授=「高齢化社会における労働法上の諸問題」、 (2) ヴォルフガング・リュフナー教授=「公法、とくに社会保障法における人口高齢化問題」、(3) イエンス・ペーター・マインケ教授=「社会の高齢化にともなう民事法上の問題」という報告を受けた。これらの報告では、主として、各テーマについてのドイツの議論状況が紹介され、これに即して活発な議論が行われた。そして、次は立命館の方からドイツに出掛け、報告を行う形での共同研究会を開催することが課題とされ、大河教授、出口助教授をはじめとする、本学スタッフの多大な努力により、各種研究費の給付を得て、今回、総勢15名という大部隊を編成し、共同研究会に臨んだわけである。
 今回のテーマは2つ設定された。すなわち、「日本とドイツの環境法問題」と「高齢化社会における法的諸問題」の2つである。研究会は9月18日から9月20日までの3日間開催された。討論の柱を設定するための2時間に及ぶ予備研究会以外に、各テーマについて3時間半以上に及ぶ議論が行われた。すでに立命館からペーパーが提出されていたので、それを改めて報告するという方法ではなく、各ペーパー提出者が5分程度、ドイツ語または英語で主張のポイントと議論すべき論点を提示し、それに即して議論するという方法が採用された。この方法により、限られた時間を効果的に使うことができた。討論は通訳を介したわけであるが、要点を得た通訳により、密度の高い議論ができた。もちろん、参加者のいずれもが痛感したことであろうが、通訳なしに議論できたら、その成果は一層大きなものになったことはいうまでもない。これを可能にすることは、今後の各人の課題である。
 ところで、2つの大きなテーマのうち、前者については、このニューズレターのために吉村教授のレポートが用意されることになっているので、私は、後者に限定して報告したい。 なお、今回の訪問に際しては、単に研究者の範囲での共同研究会で止まらず、一般市民向けの公開講演会も組織されたという点に特徴があり、この点は新しい試みとして評価できるものと思う。1つは、ケルン市とケルン大学が共催する連続講演会の一部として、ケルン市庁舎会議場で行われた大学講座において吉村教授がクリューガー教授とともに、「ドイツと日本の環境法−その強みと弱み」というテーマで講演された。もう1つは、ケルン日本文化会館において、「高齢化社会の法的諸問題−日本とドイツの比較−」というテーマで、リュフナー教授とともに、田村教授と私(吉田)が講演を行った。いずれも講演はドイツ語で行われ、質疑は通訳を介する形をとった。そこでの質疑の内容についても、以下のレポートの中に取り込んでまとめておくことにしたい。

2「高齢化社会と法」の課題性と報告テーマ
 ところで、人口に占める65歳以上の割合が14%を超えると「高齢社会」と呼ばれるが、日本はすでに1994年に高齢社会に突入し、2000年にはこの率が17%となり、世界一の高齢国となることが確実視されている。ドイツの場合、日本より20年以上前にこのような社会に到達し、さらに今後、出生率の低下と平均寿命の伸長により、一層高齢化が進むとともに、2030年には、人口が現在の8000万人から1000万人も減少し、7000万人になると予想されている。したがって、社会の高齢化は両国に共通した、そして、先行したドイツにおいてより豊富な経験のある問題であり、これらの事情をベースにして共同研究を行うことは、両国にとってーとくに日本にとって−意義があるのである。ところで、人間の社会の変化を特徴づける場合、農業社会から工業社会、そして、情報社会などへの変化として特徴づけられることがあるが、「高齢化社会」とは、その社会を構成する人間そのものが高い割合の高齢者によって占められる社会である。このことに伴って、今まで経験したことのない様々な困難な問題が発生するのである。それは、生活、健康、介護、雇用、家族、医療、地域など、あらゆる分野に及ぶといってよい。これを我々は法的な観点から取り扱おうとするわけであるが、前述のように、このテーマについては、先の共同研究会の際、ドイツ側から3本の報告があったので、今回は、それに対応させて日本の状況を報告するとともに、さらにより広い範囲からテーマに迫るための報告が用意された。すなわち、報告レポートは以下の通りである。

(1)「高齢化社会と公法−公法における高齢者保護の課題−」 田村悦一教授
(2)「日本民法典における行為能力の制限
−明治前期法曹法による外国法の継受と民法典の編纂−」 大河純夫教授
(3)「日本における高齢者の財産管理」鹿野菜穂子助教授
(4)「高齢化社会と家族−私的扶養の可能性と限界−」    二宮周平教授
(5)「高齢化社会における高齢者の雇用保障
−日本における雇用慣行の変化との関係を中心として−」吉田美喜夫教授
(6)「高齢化社会と法−日本の社会保障法の現状と課題−」  山本忠助教授
 

これらの報告により、今回の共通テーマにおいて議論すべき領域をほぼ全体としてカバーできたということができる。なお、三木義一教授が参加されたことにより、税法についての論議が深められた点も補足しておきたい。

3.具体的な議論の内容 さて、テーマそのものが大きいことと、用意されたレポートの数も多いので、その全てについて論議された内容を紹介することは困難である。そこで、以下では、私の理解の誤り、不十分さなどのあることをお断りした上で、4つの論点についてのみ印象的であると私が感じた内容に限定して紹介することにする。すなわち、(1) 高齢者と公法上の問題、 (2) 高齢者と行為能力の問題、(3) 高齢者に対する雇用保障問題、(4) 高齢者の介護問題、の4つである。
 (1) 高齢者と公法上の問題
 高齢化に伴って、病気や福祉のための社会的な費用が増大する。この費用をどのように工面するか、という問題は、ドイツでも日本でも大きな問題である。高齢化が社会的な問題である以上、租税による負担如何が問題となり、ひいては税法の問題となる。つまり、高齢化に備える費用負担に関する合意形成を如何に図るかという問題でもある。たとえば、直接税を多くすれば、現実に勤労しているものの負担が増加することになり、他方、間接税としての消費税を増加させれば、高齢者にも経済的に格差かある以上、負担の公平さは保障されない。このように、租税のあり方について、直間比率における世代間の不公平という問題は、いずれの国でもまだ解決の方向が定まっているとはいいがたい。なお、ドイツでは、「財産税」の改革問題があるとのことであったが、日本でも議論に値するテーマであろう。また、介護保険制度については、そもそも「保険制度」の利用の是非が日本では問題となっているが、ドイツでは議論になっていないとのことである。 ところで、行政のレベルでも高齢者の自己決定権や精神的自立を如何にして促していくかという課題がある。たとえば、先の阪神大震災でも経験されたように、地域とのコミュニケーションをもっている場合、当該老人がどこに通常所在しているかがはっきりしているので、倒壊した家屋の中から発見しやすかったという経験にも見られるように、行政が一層高齢者と密接な関係を形成することが必要である。この論点について、ドイツ側からそれほど関心を引かなかったのは、上記のような地域との関係の形成が当然視されていることの現れとみることができようか。 このような両国での差異は、国民の基本的な権利である選挙権について一層顕著である。というのは、高齢者が、たとえば寝たきりになった場合、その選挙権の行使に如何に配慮するかについて両国に差異があると思うからである。たとえば、日本では郵便による投票は重度身体障害者の場合以外認められていないが、ドイツでは「在宅投票=投票郵送制度」が一般化しており、濫用もないといわれる。これは、最近日本で投票率の低下が著しいことと相まって、選挙権についての両国の国民意識の違いを表している問題であるように思われた。
 (2) 高齢者と行為能力の問題
 第二の問題は、「高齢者と行為能力」という民事法上の問題である。高齢になると意思能力が低下するが、とはいえ、さまざまな取引と無関係に生きていくことは今日の社会では困難である。すなわち、高齢者にとっても、生活用品の購入、各種費用の支払い、預金の出し入れ、保険・年金の受け取り、日常生活の世話、住宅の確保、老人ホームへの入所、医療機関の利用など、さまざまな法律行為が必要である。また、高齢者がその意思能力の低下に付け込まれ、悪徳商法の喰いものになるケースもある。さらに、「バブル経済」以降、不動産価格の上昇に伴い、遺産相続に関する紛争など、財産をめぐる紛争が多発している。 問題は、このような意思能力が低下した場合の高齢者の保護をどのようにするかということである。現行の法制度においては、禁治産・準禁治産制度があり、それぞれ後見人、保佐人制度によって保護が行われることになっている。しかし、このような制度には重大な問題が含まれている。すなわち、たとえば、禁治産制度の場合、この宣告を受けると画一的に行為能力が剥奪・制限され、日常生活もできなくなるという不自由さが生ずる。また、精神科医による心神喪失・耗弱の判定の困難さと費用の多さも障害となる。さらに、この宣告が行われると、戸籍に記載されるが、これは、日本では抵抗感の大きい問題である。遺産相続に関連して、相続人が利益を得る目的で被相続人にこの宣告を受けさせるなど、悪用の恐れもあるが、それをチェックする仕組みはない。そして、精神障害が前提であり、身体障害(寝たきりなど)の場合、利用できない、といった問題点がある。 ドイツでは、このような問題について、すでに新成年後見制度が1990年にドイツ民法に導入され、1992年から施行されるなど、対応が行われているが、日本でも、1995年6月20 日から法制審議会財産法小委員会で成年後見制度の導入について検討が開始された。これは、現行の禁治産・準禁治産制度をやめて、後見制度に一元化するものである。しかし、誰が後見人になるか、選任の手続き、部分後見を可能とするか、公示する必要があるか、裁判所がどのように関与するか、期限付とするかなど、多くの論点がある。この制度化に当たってはドイツの経験が大いに参考になるといえる。そして、大事なことは、制度化に当たって、親族間の利益調整ではなく、自己決定の尊重など、本人の利益擁護を追求する視点に立つということである。

(3) 雇用保障の問題
 わが国の場合、元々、65歳以上の労働力率が高いのが特徴であり、その率は36%である。それに対して、ドイツの場合、5%でしかない。これは、「住病老教」に備えなければならないからである。したがって、わが国では、とくに高齢者に対してどのように雇用保障を行うかが大きな課題となるのである。 この問題を考える場合、次の事情が重要である。すなわち、一方で1998年4月から定年年齢60歳の義務づけが行われることにもなったのであるが、他方で年金受給年齢が65歳に引き上げられることになったことから、両者の年齢の間に5年間の雇用の空白期間が生ずるという問題である。年金受給年齢の引き上げは今後3年単位で1歳ずつ徐々にに引き上げられるので、その間に雇用を保障する手立てを構想する必要がある。しかし、実際には、選択定年制など、むしろ早期に退職させる制度が拡大するなど、問題解決に逆行する事態の進行がみられる。 高齢者に雇用を保障する仕組みとしては、企業による継続雇用・再雇用制度、シルバー人材センターの活用、派遣労働の対象の自由化などが行われているが、いずれも高齢者の希望に沿う内容とはなっていない。ドイツからは注目されているシルバー人材センターについても、稼得就労と生き甲斐就労の二面性をもち、収入や仕事の内容も満足できるものではない。さらに、高齢者に対する派遣労働の自由化も雇用の不安定化の危険を孕んでいる。 ところで、ドイツでは、労働協約によって65歳定年が定められるのが一般的であり、65 歳から年金が受給できるので、雇用の空白期間は存在しない。したがって、日本におけるような問題は存在しない。むしろ、現実には、60歳で退職し、早期に年金を受給するのが一般的であり、65歳まで働くのは30%(日本は70%)というのが現状である。しかし、高い失業率のため、若年者に雇用を保障する必要があり、高齢者と若年者の両方に雇用を保障する仕組みとして、現在、新しい制度が検討中であるとのことである。これは日本との落差を感じさせる事実である。つまり、個別の契約によって、55歳〜60歳までパートタイマーとして雇用し、賃金の低下分は社会保険で80%までカバーするという仕組みが政府と労働組合との間で検討中とのことである。 次に、高齢者にふさわしい労働条件をどのように保障するかが問題となる。現行法は青・壮年者を前提にしているから、高齢者にとって相応しい労働条件という考え方は十分に取り入れられてはいない。わずかに、わが国の労働安全衛生法62条において、中高年齢者の適正な配置についての使用者の努力義務が規定されているに過ぎない。ドイツでは、法律上、このような配慮はないが、労働協約がこれに代替している。わが国の場合、「過労死」になるほどの労働条件は、若い労働者にとってのみならず、当然、高齢者には耐えられないものであるから、この改善が課題である。 最後に、日本では、定年=引退ではない現実がある。一定の年齢になったら、働くこと、働きつつ社会参加もすること、もっぱら社会活動に参加することなど、多様な選択肢が保障される必要があろう。高齢者になってからも積極的に社会参加するといったライフ・スタイルは一朝一夕にできるものではないから、子供の時からの生活のあり方全体の変化が必要であろう。この点では、「時短先進国ドイツ」から学ぶ点が多い。

(4) 介護問題
 最後の問題は、老後の生活保障と介護問題である。この問題は、わが国の場合、1991年に寝たきり老人が70万人、痴呆性老人が100 万人に及んでいることから、現実に差し迫った問題である。 この点について、まず、介護の担当者の問題がある。具体的には、扶養義務に介護義務があるか否か、そして、介護を遺産分割の時にどのように評価するかが問題となる。 この点について、扶養義務は経済的援助と考え、現実に介護することは強制されないとする点は、日本もドイツも同じである。そして、ドイツでは、相続人以外の介護したものに遺産を分けるには、介護契約を締結していないと困難であるとのことである。また、日本のように妻が夫の親を介護する例、つまり、「嫁が夫の親を介護する」という男女差別問題、性別役割分業の問題となる例は一般的ではない。したがって、ドイツでは、介護問題は民法の扶養義務の問題としてより、直接に社会保障の問題として把握されるのであり、日本の現状とは大きな違いがあるといえる。 ところで、わが国でも介護休業法が95年6月5日に成立し、99年4月1日から施行されることになっている。配偶者、父母、子、配偶者の父母が常時介護を必要とする状態になった場合、最低3か月の休業を認めるという制度である。期間が短いことと、各人について1回しか利用できないため、とくに老人の介護の場合、どの時点で利用するかの判断が難しい。また、所得保障をどうするかとか、だれが介護を担当するかが問題であり、介護が現実には女性に集中する危険がある。介護の社会化という課題があるといってよい。 なお、介護休業法の成立によって介護のための時間的な保障については一定改善が図られたといえるが、介護の費用をどう工面するかという問題が残っている。この点については、それを保険で確保するか税金によるかで対立があり、現在、関係機関で保険による方向で検討が進められている。すでにドイツでは、保険による方法での制度化が行われており、その経験から学ぶ必要があるといえる。

4.終わりに

(1)高齢化問題の多層的な解決
 ドイツの場合、高齢化への長期の漸進的な変化を経て、20年前に高齢化社会に突入したことから、わが国より早い段階に、かつ、総合的な高齢化への備えを行ってきているといえる。その場合、教会やボランティア、そして労働組合など、国や地方自治体以外の取り組みの経験が大きな役割を果たしているように思える。わが国の場合、ややもすると個人か国かという二者択一的に問題解決の主体を考えがちであるが、より多層的に問題への接近を考える必要があろう。その点で、単に法制度的なレベルでとどまらず、現実の問題解決の有り方にまで踏み込んだ比較検討が必要である。

(2)課題への到達段階と今後の課題
 我々の共同研究会に参加したあるケルン大学教授は次のような印象を語っている。すなわち、今回の報告や討論により、「日本の方々の高齢者に対する発想は、その人間や人の心の問題をどう取り上げるかにありますが、ドイツの方のアプローチは、金とコスト、その数字的な検討です。これは双方の文化の基本的な相違からくるものだということが、はっきりと、初めて実感できました」と。 この印象は、一方で、日本とドイツでの問題の接近の仕方の違いを言い表しているとみることができるが、他方では、この問題に対する到達段階の違いを示しているともみることができよう。つまり、わが国では、急激に解決を迫られる問題として高齢化問題が突きつけられているので、まず高齢者の保護をどう図るかに関心が集中し、かつ強調もされていると見られることである。しかし、ドイツでは、すでにそのような段階は終わり、より冷静に、かつ、政策的な対処を考える段階に至っているともいえるのである。それが負担の担い方という観点が前面に出る事情なのではなかろうか。 いずれにせよ、今後は「高齢化社会と法」というテーマのより本質的な問題への接近と文化的背景に踏み込んだ比較検討が必要であることは明らかである。これは将来の課題である。
       (よしだ・みきお 労働法)

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立命館大学法学部ホームページ開設の お知らせ
北村和生

 

立命館大学法学部ではこの11月より法学部のホームページを開設いたしました。これにより、インターネットを通じて世界中に情報を発信することができるようになりました。まだ一部準備中のところもありますが、研究、教育、入試等に関する様々な情報を提供しております。また、法学部ニューズレターのバックナンバーもこちらですべて閲覧することができます。是非、一度ご覧下さい。

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(きたむら・かずお 行政法)

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