立命館法学 2000年1号(269号) 252頁(252頁)




客観的帰属論の展開とその課題(二)


安達 光治


目次

は じ め に

第一章  目的的行為論以前のドイツにおける議論
  第一節  一九世紀の因果関係と共犯をめぐる議論
  第二節  刑法典制定後の因果理論の対立
  第三節  帰責限定理論の動揺
         −一九二〇年代後半の過失犯判例
  第四節  学説の対応
  第五節  小    括    (以上二六八号)

第二章  目的的行為論から客観的帰属論へ
  第一節  ヴェルツェルの目的的行為論構想
  第二節  目的的行為論の限界(一)  過失犯における義務違反と結果の関係の問題
  第三節  目的的行為論の限界(二)  被害者の自己答責的態度への関与の問題
  第四節  小    括    (以上本号)

第三章  客観的帰属論の現代的展開
  第一節  ロクシン等の客観的帰属論とその限界
  第二節  過失犯における限縮的正犯論(一)  最終惹起者を基準とする見解
  第三節  過失犯における限縮的正犯論(二)  社会的役割を基準とする見解
  第四節  過失犯における限縮的正犯論(三)  その他の見解
  第五節  小    括

第四章  わが国の議論の整理と今後の課題
  第一節  相当因果関係説と客観的帰属論をめぐる議論の整理
  第二節  わが国の議論についての検討
  第三節  今後の課題

む  す  び



第二章  目的的行為論から客観的帰属論へ


  本章では、目的的行為論の構想とその限界について検討することで、ドイツにおいて目的的行為論に代わり客観的帰属論が台頭した背景を明らかにする。

第一節  ヴェルツェルの目的的行為論構想

一、はじめに
  一  前章で述べたように、一九二〇年代後半にライヒ裁判所において相次いで出された、「故意正犯に過失で関与する者は、過失正犯である」という判例の見解を矛盾なく説明するために学説において提示された構想である、拡張的正犯概念の構想、および惹起犯の構想は、それぞれに体系的、実際的な面で問題を有しており、有力な学説として定着するには至らなかった。しかしながら、両者に共通する前提である「過失犯においては注意義務に違反する行為により結果を惹起する者は、すべて正犯である」という考え方自体は、判例の結論を妥当なものとしてこれを矛盾なく説明するためには必要不可欠なものと言える。この前提を維持するためには、過失犯において故意犯とは異なる正犯概念を要することになるが、「故意犯と過失犯は客観的側面で共通であり、両者は主観的側面としての責任においてのみ区別される」という自然主義の大前提から、過失犯について特に故意犯と異なる正犯概念の定義をなすことは困難であることは、前章で見たように、自然主義の前提を維持しつつ過失犯の正犯概念を統一的に解しようとした、拡張的正犯概念や惹起犯の構想に対して、根本的な批判が加えられ、広く支持を得ることができなかったことに現れている。逆に言えば、過失犯の正犯概念を統一的に解そうとする構想そのものが、すでに自然主義に代わる新しい犯罪体系が必要であることを意味するのである。
  そしてこのことは、後に見るように、自然主義に代わった目的的行為論の構想を一九三〇年代後半にすでに大枠で完成させたヴェルツェルが、過失犯の正犯概念について、ブルンスの惹起犯の構想に基本的な賛意を示したことに現われている。

  二  しかしながらヴェルツェルの構想は、惹起犯の構想が前提とする故意犯と過失犯の構成要件の性格の差異について、目的的行為概念という確固とした理論的基盤をもって論証し得た点で従来の惹起犯の構想に比べ、格段の進歩があったと言えるであろう。すなわち、この構想は、故意犯と過失犯がすでに客観的側面において存在論的に異なっていることを、目的的な行為概念で論証した上で、これを基礎として、目的的な故意犯と結果の惹起にすぎない過失犯では正犯概念が異なること、それゆえ、故意犯であれば共犯とされるべき故意正犯への過失の関与者が過失正犯として処罰されることを根拠付けることに、体系論的にも成功したのである。
  拡張的な正犯概念を正面から認めることについて批判的な学説は、概ねこの構想に賛同したと見てよいように思われる。特に戦後の学説では目的的行為論として新たな体系が構築され、さらには我が国の学界にも影響を及ぼすことになる。

  三  それでは、ヴェルツェルはこのような構想を具体的にはどのようにして根拠付けたのか。またその場合、過失犯ではどのような正犯概念が妥当し、どのような負責要件が妥当するとしていたのか。これらの点を中心に、ヴェルツェルがこの構想を初めて完全な形で体系的に提示したと評価し得る論文「刑法体系の研究(1)」での彼の論証を以下で見ていくことにする。

二、故意犯の正犯概念について
  一  彼は解釈論において妥当する行為概念として、現実の社会で機能している行為概念を描出することから始める。ここでは、彼は、従来の解釈論の主観的側面と客観的側面の分解を前提にする自然的な行為概念は、解釈論ではうまく機能しないと考える。たしかに、思考上の分解なしには、論証的な人間の認識にとって、対象の認識がそもそも不可能になるので、分解すること自体は誤りではないが、自然主義的な解釈論は、分解の仕方を誤っているために、現実の行為にアプローチすることができない、と彼は主張する(2)
  その最大の理由は、自然的行為概念は、行為を意思活動と結果の因果的なつながりという客観的側面に限定して把握することである(3)。H・マイヤーが指摘するように、因果の問題が前面に出てくる犯罪は、実際には殺人、傷害、放火などきわめて少数にすぎず、しかも限られた限界事例においてのみである(4)。ところが、自然的行為概念は、わずかな限界事例においてしか前面に出てこない因果の問題を、刑法体系の中核に押しやることで、因果の問題を因果のドグマに変えてしまっている。その結果、犯罪的な事象のすべてが因果的な関係で説明されることになる。このような犯罪的な事象は、法律的には法益侵害と理解されることになり、結果の側面だけが一面的に強調されるのに対して、現実にはしばしば問題とされる惹起の方法及び態様、すなわち行為の客観的及び主観的要素が、全く問題にされないか、もしくは少なくともその独自性については認識されないままにとどまることになってしまう。しかも、このような、「行為という統一体から因果性だけを突出させ、違法性を『外面的な』法益侵害と結びつける」解釈論は、責任の領域では、因果的な事象は心理的な存在と完全に分離されるという理由で、責任が外面的な法益侵害とは関係なく判断される心理的責任論をとることになる。その結果、主観的な不法要素や客観的な責任要素は俎上に上らなくなると彼は批判する(5)

  二  さらに、方法論としては、自然主義的な解釈論は、その自然的な行為概念について意思方向(意思内容)と意思実現の区別に依拠している。意思実現は、その因果的な作用性だけにしたがって考察され、それゆえ、因果の要因としての意思が惹起したものすべてが行為に属することになる。つまり、行為は意思の作用とされる。そして、すべての意思実現が専らその因果的な作用力にしたがって、純粋に作用として考慮されるなら、外界の変動という、故意、過失(さらには偶然)の事象に共通する客観的基礎を持つことになる。自然的行為概念による解釈論にとって、このような故意、過失に共通する客観的基礎が客観的構成要件である。故意と過失はこのような客観的事情に対する心理的なつながりとしての主観的な責任の形式とされる(6)

  三  ヴェルツェルは自然的行為概念の構想を、概ね一般的に言われるところにしたがって、以上のように整理した上で、故意と過失は客観的構成要件では共通するという自然的行為概念の帰結が、以下に挙げる三つの点で空洞化していると主張する(7)
  第一に、フォン・ヴェーバーが指摘するように、多くの構成要件では、行為者が一定の結果を目標とする、行為の基礎にある内面的な意思方向によってのみ客観的な行為を理解することができるという点である(8)。密猟の罪がこの典型例を提供する。フォン・ヴェーバーによると、「狩猟」ないしは「野生鳥獣の追跡」は野生鳥獣をしとめることを意図した行為によってのみ行うことができる。つまり、客観的な犯罪行為は、はじめから、基礎となる意思方向(故意)によって方向付けられているのである。獲物に狙いがつけられていない(過失の)「狩猟」もしくは「追跡」というのはナンセンスである。すでにこのことからヴェーバーは、故意は責任ではなく違法性(不法構成要件)に分類されるべきであると結論付けているとヴェルツェルは言う(9)
  第二の点は、前章でみたように自然主義の犯罪体系を限界に直面させた問題である、過失による関与の問題の解決に関係する。この問題の解決をめぐる限縮的正犯概念と拡張的正犯概念との争いにおいて、一部の見解により、法律はすでに純粋に文理上、故意犯と過失犯の客観的構成要件を区別しているということが指摘されている(10)。すなわち、故意犯における「殺す」行為は、過失犯の「死を惹起する」こととはすでに客観的な意味において異なるというのである。この見解に関係して、「殺す」ことには、「死の惹起」以上の特別な意味が内在しているのかという問題が、H・マイヤーによって追求され、彼は結局これを肯定した(11)。すなわちマイヤーは、惹起犯(マイヤーは過失犯と結果的加重犯をこう呼ぶ)の構成要件は、故意犯の構成要件よりも外延が大きいだけではなく、そもそも行為という概念は、単なる惹起を越えて出来事の個別の要素を統括する意味の統一という目的的な性格を有することを認めることで、故意犯と過失犯は客観的構成要件ですでに区別されることを論証しているのである。もっとも、ヴェルツェルによれば、これは各論的な考察による論証にすぎないという点で不十分である(12)。彼の構想では、故意犯と過失犯は一般的、総論的に客観的構成要件で区別されることになるが、これについては後述する。
  第三の点は、共犯論の新しい局面から生じる。ここでは、ランゲがまず、自然的行為概念から帰結されるような、(客観的な)不法構成要件を単なる結果の発生と理解するような犯罪論は、共犯論で、特に身分犯や目的犯では必然的に破綻することを指摘している(13)。身分犯や目的犯に対する共犯の問題は、自然的な意味での結果の発生では理解できないというのである。
  しかし、ヴェルツェルは、それにもまして、ランゲが正犯意思という「真正な」正犯性の決定的な基準を認めたことが重要であると言う(14)。この見解は、犯行を正犯者「自身」の仕業と見なすことができるような、犯行と正犯者の人的なつながりは、犯行を自らのものとして行うという意味に満ちた意欲によって基礎付けられるというものである。このような意思は、意思のある行為を新たな目的のための手段として把握する限り、主観的不法要素であるとされる。しかし、(目的的な)正犯意思は、それ自身だけで存在するものではなく、一定の犯罪に関係して存在するものと考えるなら、「正犯意思」だけではなく、具体的な犯罪意思はすべて「客観的な」不法構成要件に属するはずである。犯罪意思は常に正犯意思か共犯意思のいずれかとして現れるので、正犯意思と共犯意思は常に「客観的な」不法構成要件に属することになるとされる。すなわち、ヴェルツェルは、ランゲの見解を越えて、正犯意思と共犯意思は共に「犯罪意思(彼はこれを「故意」と呼ぶ)」として客観的な構成要件に属することを認める(15)。このように、正犯性の基準として正犯意思に着目するなら、必然的に犯罪意思(故意)がすでに構成要件段階で行われるべき正犯と共犯の区別の基準としても働くはずであり、本質的にこのような意思を欠く過失犯とは客観的構成要件の段階で区別されることになる。

  四  以上の三つの側面から、ヴェルツェルは自然的行為概念の帰結である、故意犯と過失犯の客観的構成要件における共通性は意味を持たないことを論証する。ここでの彼の主張は、結局、自然主義的な解釈論は行為概念を因果的に限定して捉える点で一面的であり、そのような行為概念の帰結である故意犯と過失犯の客観的構成要件の共通性も実際の解釈では維持できないので、刑法における自然主義は解釈論で機能する行為概念を提示し得ず、新たな行為概念が求められるべきであると理解することができる。

  五  ヴェルツェルは、フォン・ヴェーバーとH・マイヤーが、すでに以上の論証において、故意の犯罪構成要件の、因果関係を超えた目的的な構造を展開しているが、それは各則からの帰結にすぎず、むしろ総則を基礎として解釈論的にこれを証明できると言う(16)
  それは、共犯規定を手がかりにして行われる。この場合、「共犯関係は常に相互の故意行為のつながりにおいて妥当するのに対して、過失の関与は過失の正犯概念の下に現れることが注目されなけばならない」が、しかし、これは立法者の産物などではない。このような故意行為と過失行為の差異は、過失行為が少なくとも客観的には単なる惹起構成要件であり、客観的には全て「等価な」ため、過失の正犯性の内容が、(何らかの)過失による惹起以外の何ものでもないのに対して、故意行為が目的的な構造物であることに依拠している。つまり、過失行為とは対照的に、故意行為は、客観的な事象が、直接に自らの目的設定として、もしくは間接に他人の目的設定を介してのみ属する、目的活動的な意思から決定的に構成される内容を維持している(17)

  六  このような議論を踏まえて、行為の基本構造に到ることができるとヴェルツェルは言う。最も狭くかつ最も厳格な意味での行為は、人間の目的活動である。目的を実現すること、すなわち外界の原因の要因を一定の結果を目標として実現する手段とすること、これが人間の行為の本質的な特殊性である。このことによって、人間の行為は「盲目的な」因果経過を本質的に超越する。因果性は盲目で、目的に無関心に進行するものの秩序である。しかし因果性は、目的に無関心であるからこそ、目的活動に役立てられる(18)
  これには、原因となるものを「見通しをもって」規制する因果の要因が必要であるが、これは人間の意思である。意思は一定の限られた範囲で因果的となるもののあり得る結果を予見し、それによってその介入を目的にしたがって規制することができる。意思は現実を修正するだけでなく、とりわけこれを意識的に形成する要因である。しかしながら、これは意思の「主観的な」特性ではなく、客観的な機能である。つまり、行為という事象は、その客観的形態においては純盲目的に因果的ではなく、むしろ目的的に選択され、方向付けられており、あらゆる因果経過にもかかわらず、目的的に先行決定したり、被覆決定したり(u¨berdeterminieren)する(19)
  ヴェルツェルは以上のように整理して、全ての現実的、社会的かつ法的な存在は、意思のこのような客観的=目的的機能に依拠しているとする。そして、現存する価値ある状態を維持し、将来の価値ある状態を生み出すことを目的とする法秩序は、将来を目的意識をもって形成することができる因果の要因が存在する場合にのみ可能であると指摘する(20)

  七  もっともヴェルツェルは、意思のこのような客観的=目的的機能には限界があると言う。その限界は、意思が正しく予見し、事象を現実に目的的に前もって決定していた結果で画される。このような、具体的な手段=目的実現の外で発生した結果は、全て盲目=因果的な合成物である。これらの結果は、いかなる予測も不可能なもの(純然たる偶然)も予見可能かつ回避可能なものもあろうが、両者の間には存在論的な差異はなく、いずれも純粋な惹起の場合に属する。たしかに、回避可能な惹起は過失として法的に問題とされるが、そのような場合でも、目的的な行為の経過との存在論的な構造の差異は、法的な社会生活の領域では際立っている。なぜなら、目的的な行為の経過は、手段を目的達成のために方向付け、目的をその意味として与える意思が、その内容として付与されているが、純然たる惹起の場合は偶然であろうと、過失によるものであろうとこのような意思を欠くからである(21)
  しかし、刑法の対象が社会的現象としての行為であるのなら、意味表出としての行為と単に回避可能な惹起としての「行為」の差異は、法的にも大きな意義を有するので、目的的な行為と回避可能な惹起を客観的構造において何らかの形で同置することが禁じられることは明らかである。それゆえ、目的的な構造物(すなわち故意行為)と過失による惹起(彼はこれを広義の行為と呼ぶ)の混同は、たとえ「客観的」構成要件に関してであっても、原則について誤って構成することにつながる。そのため、刑法解釈論の第一の出発点は、目的的な(故意の)行為とすべきである(22)

  八  ヴェルツェルは、以上のように、社会的現象という側面から刑法上意義を有する行為を目的的な行為と規定し、目的性を有さない結果の惹起にすぎない過失とは、社会的現象という客観的側面ですでに区別されるべきことを論証した。彼は、このような、故意行為と過失行為とは客観的側面においてすでに区別されるという前提に立って、犯罪論の体系を構築すべきであると主張する。

三、過失正犯の問題について
  一  犯罪論体系の試金石は、彼の目的的な行為概念の存在論的適性だけに求められるのではない。むしろ、解釈論上の有用性にも求められるべきである。そしてヴェルツェルは、その最も重要なテスト項目の一つとして過失の正犯概念をめぐる議論を取り上げている(23)。換言すれば、ヴェルツェルは過失正犯に関する問題を妥当に解決できることが、彼の目的的行為概念の重要な長所であると主張するのである。それは、具体的にはいかなる論拠においてか。以下で検討する。

  二  まず、ヴェルツェルは、法律、実務、及び解釈論のそれまでの正犯論は、一致して、暗黙のうちに、故意の(行為の)構成要件と過失の惹起構成要件が原則的に異なることを前提にしてきており(24)、そして、故意の正犯に関してのみ共犯論は展開されており、過失の正犯について共犯論は妥当していなかったと言う(25)。ここでは、結果の直接的な惹起も、(他人を介した)間接的な惹起も共に正犯とされたのであり、彼はこれを正当であると評価している。
  とりわけ、解釈論における展開として、コールラウシュとランゲが主張するように、正犯のメルクマールを正犯意思に求める場合にはこのテーゼが明白となる(26)。「犯行を自らのものとして行う意思」と特徴付けられる正犯意思は、当然、故意犯にしか妥当しないので、この見解を前提にする場合には、過失犯には正犯と共犯を区別する手がかりが欠けるからである(27)。このことから、結局、体系的な帰結として、「目的的な構成要件と過失の構成要件を同一のプロクルステスのベッドに押し込める(28)のは正しくないため、故意の構成要件と過失の構成要件について同じ正犯概念を主張するのは間違いである」ということになる。
  それゆえ、過失の正犯は、全く独自の正犯であり、(先に彼が主張したように)解釈論の中心にある目的的な正犯とは、全く関係を有しない(29)。そのため、故意犯で妥当する正犯と共犯の区別が、過失犯では当然には妥当しないことになる。この場合、過失の正犯は純粋な結果の惹起であると規定されるから、過失犯においては、原因としての程度の大きさ、直接性、間接性を問わずいかなる態様における結果の惹起も、それが結果の回避可能性を有する限り、正犯性を基礎付けることになる(30)。すなわち、故意犯では、原理的に正犯と共犯が区別されるという限縮的な正犯概念が妥当するのに対し、過失犯では、結果に対して因果性を有する態度は原則的に正犯であるという拡張的な正犯概念が妥当することになるのである。

  三  これは、先に見たように、彼の目的的な行為概念が存在論的に規定するところである。ヴェルツェルは、目的的な(故意の)正犯者は、犯罪の決意と実行の支配者であり、それゆえ、正犯者が、存在及びあり方について目的意識的に形成した「彼の」犯行の支配者であるのに対し、教唆者や幇助者の共犯者は、確かに犯行を支配してはいるが、関与による(他人の犯行の)支配にすぎない点で、正犯と共犯の区別は、目的的な(故意の)行為では、実定法的にではなく、存在論的に本質的な現象形態で、実定法をもってしても廃棄できないと考えている(31)。これに対して、過失の惹起構成要件では、正犯と共犯の実質的な区別は存在しないので、回避可能な結果の惹起は、それが共働条件にすぎなくとも、正犯であるとする。この場合、立法で過失の関与を共犯として処罰するというのなら、それは過失正犯の特殊化にすぎない(32)
  このように、ヴェルツェルは、目的的行為としての故意行為と単なる結果の惹起としての過失という存在論的な区別が、当時の学説、実務における解釈論の体系的帰結と合致するものであることを示すことで、彼の目的的な行為概念が解釈論上も意義を有することを主張する。そして、当時の学説、実務において展開された正犯概念をめぐる解釈論が、前章で取り上げた「屋根裏部屋火災事件」等の、故意犯への過失の関与に関する一連の判例が提供した問題の合理的な解決をもくろんでいたなら、ヴェルツェルの目的的な行為概念は、単に行為の存在論的な規定に留まらず、当時の解釈論上の問題解決というきわめて実践的な意図を持っていた、と言うことができるのである。

四、過失の負責要件について
  一  しかし、ヴェルツェルは、過失犯は惹起犯として位置づけられ、結果の惹起でその正犯性が基礎付けられると主張したとはいっても、結果に対して因果的な態度のすべてに結果の帰責を無限定に認めるわけではない。
  純粋な惹起犯といえども、その犯罪的な事象を、単なる因果的な結果の惹起(法益侵害)に還元し、結果の惹起で客観的構成要件が満たされるとすることは、極端に客観的な不法論につながるが、これは先に彼が否認したところである。法益侵害は、原則的に、刑法の動態的な要素である行為という要素と相俟って初めて不法構成要件を満たすことができる従属的な部分要素にすぎないのである(33)。「純粋な惹起犯(34)」についてもやはり、不法構成要件は行為の動態的な要素と不可避に結びついているのである。彼によると、このような要素はまず違法性の領域に関係する。

  二  この領域に属するのが「社会的相当性」である。ヴェルツェルは、社会的に相当な行為は、歴史的に形成された国民の社会生活の秩序の中で行われる活動であり、たとえそれが法益を侵害するとしても決して違法ではないと説明する(35)。それゆえ、行為者が(法益侵害という)ありうべき結果を予測していた場合でも、社会的に相当な行為は故意犯の意味で構成要件には該当しないし、同様にこのような結果を予測することができた場合にでも、過失犯の意味での構成要件には該当しないとする(36)。つまり、社会的相当性という考え方自体は故意犯にも過失犯にも妥当するものである。

  三  しかし、とりわけ過失犯の領域では社会相的当性の考え方は、「社会生活上必要とされる注意」という過失犯の客観的基準という形で、法的には常に明示で承認されている。この基準は、職業的な社会生活の領域を把握しており、その内部では違法性の問題は全く生じることはないとされる。もっとも、ヴェルツェルは、これまでの見解は、この基準を責任に放逐することにより、その意味を見誤っていたと言う(37)。すなわち、社会生活上必要とされる注意を払った場合にでも、その行為自体は結果を惹起しているため違法で、行為者の責任が阻却されるだけだとするこのような見解は、あらゆる行為を不可能にし、職業生活をすべて死滅させてしまうにちがいないような生活観を前提にしている。なぜなら、現実の生活においては、最大限の注意を払っても、予期せぬ結果を引き起こさないという保証はないからである。
  それゆえ、社会的相当性は、まず第一に惹起犯の不法構成要件の限界を特徴付けるものであるから、惹起犯の場合にも、決して単に因果的な法益侵害が構成要件的な不法をなすのではなく、むしろ、社会生活上必要とされる注意を軽視する態度が、まず構成要件的不法をなすのである(38)。したがって、純粋な惹起犯にすぎない過失犯においても、行為が社会的相当性を有する場合には、発生した法益侵害結果にもかかわらず、行為は構成要件に該当しない。

  四  このように、ヴェルツェルの構想では、惹起犯として、その正犯性の内容は結果の惹起にすぎないと規定された過失犯においても、社会的に相当な行為(社会生活上必要とされる注意を遵守した行為)から結果が発生した場合には、法益侵害結果の惹起にもかかわらず、不法構成要件には該当しないとされる。
  このような社会的相当性の構想は、当然のことながら因果性の観点からは説明が付かないものであるが、社会的相当性の概念は、客観的帰属論においても、因果関係論を越える結果の帰属(阻却)原理の一つとして定着していく(39)。もっとも、ヴェルツェルの社会的相当性の構想は、なお漠然としており、不明確さを免れないと言える。そのため以後の学説における論議は、社会的相当性のより一層の精緻化に向かうことになる(40)

五、第二次大戦後における展開について
  一  故意犯では行為の目的性の有無を基準に正犯と共犯の区別を認め、少なくとも構成要件的結果についての目的性を有しない過失犯については正犯と共犯を区別しない統一的な正犯概念を採用する、ヴェルツェルのいわゆる二元的な正犯概念の構想は、第二次大戦後も基本的には維持された。例えば、一九五六年に出版された彼の教科書第五版では、正犯論に関して次のように述べられている。
「不法とはすでに人的性格のものであるので、正犯論は不法論に属する(41)。」
「故意犯の不法と過失犯の不法の差異は、正犯論に特にはっきりと反映される
  過失犯の正犯は、社会生活上必要とされる程度の注意に違反する行為によって、非故意で構成要件該当結果を惹起する者すべてである。社会生活上必要とされる注意を遵守しない行為によって非故意でもたらされた構成要件的結果についての共働原因性(Mitursa¨chlichkeit)は、いかなる程度のものであっても当該過失犯の正犯性を根拠付ける。それゆえ、過失犯の領域では正犯と共犯の区別は存在しない。なぜなら、社会生活上適切な注意に違反する行為による非故意の結果惹起に対する共働原因は、いかなる種類のものであってもすでに正犯であるからである(42)。」(傍点は筆者によるものである。)
  「これに対して、故意犯では正犯とは、因果的事象を構成要件該当結果へと目的意識的に制御することにより結果惹起に対して支配を行う者のみである。事象に対する目的的な行為支配により、正犯者は、正犯者により目的活動的に支配された犯行を援助するにすぎないか、彼に(正犯者に・筆者注)その決意を起こさせるかのいずれかを行った単なる共犯者から際立てられるのである。故意構成要件の中でのみ、正犯と共犯の差異は存在するのであって、ここにおいてのみこのような差異が実質的に要請されるのである。このことに注目しない者は、共犯論のひどい誤った解釈に至る(43)。」

  二  このようにヴェルツェルは、故意犯では、目的的行為支配の有無を基準に正犯と共犯の区別を要請するのに対して、過失犯においては、構成要件的結果に対する共働原因は、それが社会生活上必要とされる注意に違反する行為によるものである限りすべて正犯性を基礎付けるので、正犯と共犯の区別は実質上認められず、これを認める故意犯と比べ正犯とされる態度の範囲が、実質上広いことを明らかにしている(44)
  例えば、猟師が弾の装填された猟銃を放置したまま食堂で食事をしていたところ、その食堂でたまたま喧嘩が起こり、他の客がその猟師の猟銃で第三者を殺害したという、遡及禁止の問題で取り上げられるよく知られた事例では、猟師による猟銃の放置は、第三者の死亡結果の原因であるとして、発砲した客を故意による殺人、猟師を過失致死としている(45)。ここでは、第一行為(事例では猟師の行為)と後発の結果(事例では第三者の死亡)との間の因果連関は、中断論や遡及禁止論などが言うように、第二行為(事例では他の客の行為)によって「中断」されるのではなく、むしろ「媒介」されているとして、故意正犯の背後に過失の正犯の成立を認める(猟師に他の客の犯行について認識があるなら、猟師は殺人の幇助とされるであろう(46))。ここで問題なのは、「中断」や「遡及禁止」といった因果関係ではなく、正犯性であり、先に述べたような彼の過失の正犯概念から、故意犯であれば幇助とされるであろう態度を、過失犯では正犯とするのである。

  三  このような結論の基礎にある故意犯と過失犯の不法の差異を、彼は構成要件の段階では、構成要件的結果に対する目的的なつながり、すなわち故意、の有無に求めていた。そしてここでは過失の構成要件を、非故意の行為による法益侵害結果の惹起と特徴付けたのである(47)。ここでの彼の構成要件概念からは、過失行為による結果惹起と無過失の態度による結果惹起は構成要件の段階では区別されないことになる。
  構成要件的な結果惹起の過失としての特徴づけは、違法性において行われる。この教科書で彼は、「過失は構成要件メルクマールではな」く、「非故意の行為の違法性、すなわち現実の行為が法的に命じられた態度に対して示す食い違い(Miβverha¨ltnis)、なのである」と述べる(48)。すなわち、行為者が現実に行った法益侵害行為が、当該状況において法が行為者に命じたであろう態度から逸脱していることが、(行為者が法益侵害について故意がないこと前提として)その行為の過失犯としての違法性を本質的に特徴付けるというのである。それゆえ、いかなる態度が法的に命じられるのかが、過失犯についての決定的な問題となる(49)
  これについて、「客観的に法は、社会生活に完全な形で(ungeschma¨lert)参加しようとするすべての人間に、自らの態度の目的的な制御を、具体的な態度が内含している危険に、分別をもって思慮深く適合させることを期待」し、「それゆえ法は、必要な注意を命じることにより、行為者によってなされるであろう目的的制御に際して、分別のある思慮深い人間が行為者の立場でなすことができる程度の目的的制御を守るという客観的な要求を行う」ので、行為者に法的に命じられた態度とは、「社会的な範囲で『適切な(sachgema¨β)』(すなわち、一般的に認識可能な構成要件的結果の顧慮および回避)」である(50)。そして、これを遵守した態度こそが、「社会生活上必要とされる注意」に適った態度であり、これを逸脱することが過失犯の違法性を根拠付ける(51)。すなわち彼によると、「客観的注意とは、社会生活において法益侵害を回避するために命じられる程度の目的的制御であ(52)」り、これに対する違背、つまり結果回避のために自らの態度を目的的に制御しないことに、結果発生へと自らの態度を目的的に制御する故意犯とは逆の意味での、過失犯の違法性の根拠がある。

  四  ここで、客観的な注意、つまり社会生活上必要される注意とは、「社会的に相当な程度の法益危殆化の維持」を意味する(53)。この彼の言葉は、裏を返せば、法益侵害の危険のある態度といえども、それが社会的相当性の範囲内にあるならば、社会生活上必要とされる注意を導守した適法な行為ということになる。社会的に相当な行為として彼は、親が子供を学校へ送り出す、あるいは階段を磨くというような日常的な行為(前者は子供が交通事故に遭う危険を伴うし、後者は訪問者が滑ってけがをする危険を伴う(54))、生活上重要な企業活動のような許された危険の範囲内にある行為(55)を挙げている。彼の構想からは、これらの行為も、その社会的な性格上、法益侵害の危険が顕著でも、社会生活上必要とされる注意を逸脱した違法な行為と特徴付けることはできないのである。

  五  このようにヴェルツェルは、過失犯は単なる結果の惹起に尽きるという意味で、目的的な行為支配を内容とする故意犯とは構成要件においてすでに区別されるが、単なる因果的な結果の惹起が過失犯を決定的に特徴付けるのではなく、「社会生活上必要とされる注意」に違反する行為(社会的相当性の程度を超える法益の危殆化)だけが、違法な過失行為と評価される、という先に見た「刑法体系についての研究」で示された彼の初期の構想を、ここでも基本的には維持していたと言える。
  もっとも、過失犯が目的的行為であるかについては、戦前の彼の見解は過失犯を結果惹起で原則的に構成要件が充足される「惹起犯」と理解し、これを否定する方向で展開されたのに対し、戦後の見解では過失犯の違法性の本質に見られるように、これを肯定する方向にあることに留意すべきであろう。

  六  しかしながら、ヴェルツェルのこのような構想は、第二次大戦後、様々な角度から批判にさらされ、次第にその勢力を弱め、客観的帰属論がこれに代わり台頭してきたことはよく知られているところである(56)
  以下では、客観的帰属論が台頭してきた背景を探るという意味から、目的的行為論が体系としての限界を見せた問題として、過失犯に関する問題を取り上げることにする(57)。すなわち、過失犯における義務違反と結果の問題を第二節で、被害者の自己答責的態度に対する関与の問題を第三節で、それぞれ取り上げる。

第二節  目的的行為論の限界(一)−過失犯における義務違反と結果の問題

一、はじめに
  一  先に見たように、ヴェルツェルによる目的的行為論の構想によれば、「社会生活上必要とされる注意の違反」が、故意犯とは性格を異にする過失犯の違法性の本質的要素であった(58)。そしてこれは、法益を侵害しないように自己の行為を目的的に制御することを本質的内容とするという意味では、(故意犯とは逆の意味ではあるにせよ)目的的行為概念の過失犯における展開と評価してもよいように思われる。すなわち、「社会生活上必要とされる注意の違反」という概念は、目的的行為論による過失概念そのものと評価し得るのである。

  二  しかしながら、著名な一九五七年の「トレーラー事件」(「自転車乗り事件」という呼称もある)のBGH決定(連邦通常裁判所第四刑事部一九五七年九月二五日決定 BGHSt. 11, 1)では、交通規則に違反するという意味で社会生活上必要な注意を逸脱した行為を行った被告人が、仮に規則に適合した態度をとっても同様の結果が発生したであろうという理由で、無罪とされた。
  この事件に代表されるような、過失犯において、義務に違反した行為から法益侵害結果が発生したが、仮にその行為者が義務に従った態度をとっていたとしても、同様の結果が発生したという関係が認められる場合、「過失犯における義務違反と結果の関係」が問題とされる(この問題は「合法的(合義務的)態度の代置」の問題と呼ばれることもある)。今し方触れたように、ここでは、交通規則など一定の注意規則に違反するという意味で、社会生活上必要とされる注意に違反する行為でも、一定の場合には不可罰とすべき場合があることが認められる。しかしながら、この態度はいずれにせよ「社会生活上必要とされる注意」に違反していることは明らかであり、先に見た目的的行為論による過失論からは、構成要件該当性および違法性の存在を否定することはできないので、当該行為者個人に対する責任非難の問題を度外視すれば、不可罰の結論は説明できない。このことから、「過失犯における義務違反と結果の関係の問題」が、目的的行為論構想の限界の一つに位置付けられるのではないかと考えられるのである。

  三  そこで以下では、まず、「トレーラー事件」の概要について見た上で、これ以外の「過失犯における義務違反と結果の関係」が問題となる事案を概観し、この問題に関するヴェルツェルの見解を検討することにする。

二、問題となる事案とその共通する基本構造
  一  「トレーラー事件」の事案のあらましは、以下のようなものである(59)
  被告人は、幅六メートルのまっすぐで見通しのよい道路をトレーラーで走行していたが、その右側を、自転車に乗った男が同じ方向に向かって走っていた。被告人は、時速二六キロメートル、トレーラーの荷台と男の肘の間隔は七五センチメートルという状態でこの自転車を追い越した(道路交通規則による速度制限については不明であるが、追い越しの際の側面間隔は一・〇ないしは一・五メートル取ることが要求されていた)。追い越しの際中、男はトレーラーの下に倒れ込み、右の車輪で頭を轢かれて即死した。事故後、遺体に対して行われた血液検査では、一・九六パーミリの血中アルコールが検出され、事故時においてもそうであったと考えられた。このため、男が倒れ込んだのは、アルコールによる短絡反応によるもので、被告人は道路交通規則を遵守して追い越していたとしても、「高度の蓋然性をもって」事故は発生していたであろうと判断された。
  このような事案について、BGHは、被告人を無罪としたが、それは、被告人の義務に違反する態度と発生結果との間の因果関係が欠けるという理由からである。因果関係が存在しないことについて、BGHは以下のような理由付けを行っている。
  「たしかに、被告人の運転行為は、機械論的、自然科学的な意味においては、自転車乗りの死に対する一つの条件であった。しかし、これによって狭すぎる追い越しという挙動の中に潜んでいる交通違反は、刑法二二二条の致死構成要件の実現にとって、刑法上の意味における原因であったと言うことはできない。責任主義に支配された刑法は、行為と結果の間の関係の問題について、一定の事態の純自然科学的な結合で満足するものではない。むしろ、人間の態度を考察する評価法にとっては、法的な評価基準で条件が結果にとって意味があるかということが本質的である。これにとって重要なことは、行為者が法的に落ち度のない態度をとったとしたら、事態はどのように進展したかということである。その場合にでも、同一の結果が発生する場合、もしくは重要な事実に基づいて、そのことが裁判官の確信により排斥されない場合には、被告人によって設定された条件は、結果の評価にとって刑法上の意味を持たない。このような場合、行為と結果の間の原因連関を肯定することは許されない。」

  二  「トレーラー事件」の以前から、判例において、「過失犯における義務違反と結果の関係」が問題とされるべき事案は存在していたとされる。ヴェルツェルの弟子ウルゼンハイマーが、この問題に関するモノグラフィー(60)で議論の前提として取り上げたのは、「トレーラー事件」の他、次の四つの事例である(61)。以下、彼の紹介に沿って見ていく。

  @  「薬剤師事件」(RGSt. 15, 151)
  医師はある薬剤師に、リンを含む薬剤を調製し、投与する権限を口頭で与えた。最初に与えた容器の分がすべて消費された後、この薬剤師は、医師の同意を求めることなく、患者の母親の求めに応じ、さらにこの薬剤を何度か処方した。そうしてこの患者に中毒症状が現われ、医師の処置にもかかわらず、これによりこの患者は死亡した。この薬剤師の態度は、処方にあたり医師に事前の同意を求めなかった点で義務に違反するものであった。しかしながら、中毒症状の発生が予見されず、外見上よい健康状態にある患者にそれが起こり、またそれゆえ治療を中断するきっかけも医師にはなく、それゆえこの患者の中毒は、薬剤師の医師への薬の新たな処方の求めにより自動的に起こり、それゆえ患者の死は薬剤師が義務に適った態度をとったとしても発生していたであろうという想定が徴表され、少なくとも排除されないであろう。

  A  「コカイン事件」(RG. HRR, 1926, 1636 Nr. 2302)
  ある医師は、ある子供の手術を実施するために、命じられたノヴォカインではなく、コカインを誤って麻酔に使用したが、これは医学的な見地からは誤った処置であり、これにより子供は死亡した。この子供は、きわめてまれな、異常体質(胸腺リンパ腺が退化していなかった)のために、あらゆる麻酔薬に対して過敏に反応するので、事件の状況上許されたノヴォカインを使用したとしても死亡していたであろう。

  B  「山羊の毛事件」(RGSt. 63, 211)
  ある工場主は、自分の筆工場のために中国産の山羊の毛を購入し、除菌が命じられていたにもかかわらず、これを事前に除菌しないで従業員に加工させた。この山羊の毛には炭そ菌が付着していたので、何人かの従業員が感染し、死亡した。しかしながら、認められた三つの除菌法はいずれも不十分であったため、実際に無菌の状態になるという十分な保証はなかったので、義務にしたがった除菌を行っていたとしても、感染を防ぐことはできなかったであろう。

  C  「フェルゼンケラー(地下酒場)事件(62)(RGSt. 62, 126)
  先に取り上げた事例は、すべて過失致死に関するものであったが、本件では過失による偽証(fahrla¨ssiger Falscheid)が問題となった。この事件に関しては、これまであまり取り上げられることがなかったと思われるので、幾分詳細に紹介する。
  ライヒ裁判所の判決が前提とした事案は次のようなものである。
  被告人は一九二四年のある日に、証人たちとダンスパーティーに参加し、それから酒場に行き、帰宅の途中、証人Wと性交を行った。Wは一九二五年七月二四日に婚外子を出産し、被告人が父であると申し立てた。この子の被告人に対する養育費をめぐる法的紛争において、被告人は一九二七年一月二六日に、一九二四年九月二五日から一九二五年一月二四日までの間全く性的交渉を行っていないとの宣誓を裁判官の面前で行った。
  陪審裁判所は、性交は、被告人が主張するように、一九二四年九月一一日から十二日にかけての夜ではなく、Wが主張するように、一九二四年一一月六日に行われたことが、証明されたと考えた。裁判所は、被告人が故意に虚偽の宣誓を行ったことは否定したが、被告人が過失の偽証の責任を負うことは認めた(63)
  ライヒ裁判所は被告人の上告に対し、陪審裁判所の判決を破棄し、事件を原審に差し戻した。この判断をライヒ裁判所は以下のように理由付けている。
  まずこれまでの事実認定から、被告人には自分の認識の正しさについて疑い、それに見合った主張をし、そのような疑いを軽々しくなおざりにしたという根拠は見当たらない。それゆえさらに、それにもかかわらず、被告人の心の中の記憶をはっきりと表明したことに過失が見られるかどうかが検討されなければならない。特別な事情が、それをも自らの認識に組み入れることを被告人の義務とし、義務にしたがってこのような事情に注視していれば、彼は条件付最終判断(bedingtes Endurteil)により自らに課せられた宣誓を拒絶した、あるいは民事訴訟法四六九条の限定的宣誓(beschra¨nkten Eid)を行うことのみを申し立てたことが決定される場合に、これは認められる。
  陪審裁判所は、このような特別な事情とは、被告人とWが性交を行ったことをこの事件の他の証人たちも知っていたこと、被告人が自分の記憶がひょっとしたら誤りであることについての根拠を無視したこと、および証人たちに事実について問い質してみなかったこと、すなわち陪審裁判所の見解では、誤った記憶を正すのに適した認識源(Erkenntnisquelle)を利用しなかったことに過失を認めた(64)
  ライヒ裁判所は、このような陪審裁判所の前提には異議を唱えなかったが、陪審裁判所の結論については不十分なものであると判示した。すなわち、陪審裁判所の言う認識源に関しては、被告人による利用が考えられる時点で、それが客観的に被告人が自分の認識を正し、宣誓の拒絶を決意するのに適したものであったのか、さらに詳細に検討すべきであるとされたのである。そして、そうでないならば、認識源を利用していても結果は変わらないであろうから、虚偽宣誓は、認識源を利用しないことに認められる過失に依拠しないであろう。しかし、利用していた場合に被告人が別の態度をとることができたという結論になるなら、さらに、いかなる理由で被告人は問い質すことをしなかったのか、またこの理由およびそれ以外の宣誓の時点で存在していた事情を考慮した場合に、問い質すのを怠ったことが被告人の責任となるのかどうか検討しなければならないと判示したのであった(65)
  本件の事案とライヒ裁判所の見解の概略は以上のようなものであったが、ウルゼンハイマーは義務違反と結果の関係の問題として、次のように事例化している。すなわち、被告人は虚偽の事実を陳述した。そこでは彼は、宣誓前にいかなる説明も求めず、存在していた「認識源」を利用し尽くしていないことが非難された。しかし、被告人が説明を受けたとしても、信頼できる情報を得ることはなく、それゆえ「そのような認識源を利用した」としても偽証を行っていたであろう。

  三  ウルゼンハイマーによると、これらの事案のすべてに共通する基本構造は、「法的に重大な結果も、注意違反も存在するが、注意命令を遵守していた場合でも、法益侵害は『高度に蓋然的に』ないしは『可能的に(mo¨glicherweise)』回避されなかったであろう、という場合の過失犯が問題となる」ということである(66)。すなわちこの場合には、注意義務に違反する行為であって、それにより惹起された法益侵害結果も存在するにもかかわらず、なお過失犯の成否が問題となるというのである。
  この問題の解決について、ウルゼンハイマーは図式的に以下の四つに分類している(67)

  ・解決(a)  義務にしたがった態度をとっていてもその結果は確実性に境を接する蓋然性をもって同様に発生していた場合にのみ、このような事情が考慮され、因果連関を検討することによりこれを否定する。
  ・解決(b)  特定の事実的な根拠により、義務にしたがった態度によっても結果は可能的に(mo¨glicherweise)回避されなかったであろうという場合には、常にこのような事情は因果関係の阻却において考慮される。
  ・解決(c)  義務にしたがった態度をとっていてもその結果は確実性に境を接する蓋然性をもって発生していた場合にのみ、このような事情は法的に重要であり、行為者の責任が欠如する。
  ・解決()d  義務にしたがった態度をとってもその結果が発生していたという、特定の事実に依拠する可能性が存在する限り、行為者の責任が欠如する。

  このようにウルゼンハイマーは、行為者の過失の罪責を否定する根拠を、因果関係の欠如に求める見解と責任の欠如に求める見解に分類し、さらにそれらの要件が欠如するための基準について、義務にしたがった態度をとっていても同様の結果が発生していたという、確実性に境を接する蓋然性を要求する見解とそのような可能性で足りるとする見解に分類している。そして彼は、先に見た「トレーラー事件」におけるBGH決定の見解を、解決・の典型例であるとする(68)

  四  またロクシンは、これらの事件すべてに共通する点として、(a)被告人は不適切な行為を行った点、(b)法益侵害があった点、(c)態度に問題がなかった場合でも可能的に、蓋然的に、それどころか確実に同様の結果が発生していたであろうという点、を挙げている。そして問題とされるべきは、これらの事件のすべてで過失致死を認めるべきかどうか、すべて無罪としなければならないのかどうか、もしくは、規則にしたがった態度をとった場合にどの程度の確率で結果が発生しなかったかに応じて異なる解決をすることができるのか、にあるとする(69)
  その上で、この問題の学説における解決案を、(i)作為と不作為の区別による解決(70)、(ii)義務違反と結果の特別な関係を要件とすることによる解決(いわゆる関連説(71))、(iii)仮定的損害原因を考慮することによる解決(72)、に大別する(73)

  五  これに対してヴェルツェルは、いかなる見解を示すのか。以下に見ることにする。

三、ヴェルツェルの見解
  一  ヴェルツェルは、過失犯の違法性の内容について、必ずしも、注意違反の行為による結果の惹起という客観的要件の実現で十分としていたわけではなかった。これに関して彼は、先にも見た一九五六年の教科書第五版で以下のように述べている。
  「単なる客観的注意(命じられた目的的制御)の違反そのものではなく、法益侵害に関係するものだけが違法なのである。そこでは、法益侵害は、まさに注意違反により生じていなければならない。そのためには、同様に客観的構成要件の実現でも十分ではない。確かに(不注意な)行為が法益侵害を惹起していなければならない。しかしこれに加えて、法益侵害は注意違反と、注意深く行為が実行されていたら法益侵害は、生じなかったであろうというように専ら注意違反に起因する(zuru¨ckgehen)、という特別な関係になければならない(74)。」(傍点は筆者によるものである。)

  二  このようなヴェルツェルの過失犯の違法性要件が、「過失犯における義務違反と結果の関係」の問題に関係していることは明らかである。ここで彼は、スピードを出し過ぎて自動車を運転していた運転手が、自車で通行人をはねたが、不幸にもこの通行人は自動車の前を歩いていたので、運転手が自動車をゆっくり運転していたとしてもこの通行人をはねていたであろう、という例を挙げている(75)。たしかに彼は、スピードを出し過ぎて自動車を運転する行為を単に「不注意な行為」と表現するだけで(76)、交通法規のような具体的な注意規範に対する違反について述べているわけではないので、ここでは「不注意と結果の関係」が問題であって、「義務違反と結果」の問題とは必ずしも言えないかもしれない。しかし、「不注意な行為」といえども、具体的な注意規範との関係でこれを確定することが普通なのであるから、実際には多くの場合、注意規範に違反する行為を「不注意な行為」とみて差し支えないであろう。
  そしてこのことを前提とするなら、右のようなヴェルツェルの見解は、次のように位置付けることができると思われる。すなわち彼の見解は、行為者が問題となる行為をそもそも行っていなければ、結果が発生しなかったことは明らかであるから、(義務に違反する)行為と結果の間には結果惹起の意味での因果関係が存在することを認めた上で、なお義務違反そのものと結果の間の特別な関係を問題とする見解であると。これは、先のロクシンによる学説の分類によると、関連説に位置付けられる(77)

  三  彼は、過失犯の成立にこのような特別な関係を要求する根拠について、以下のように述べている。
  「法益侵害が行為を注意深く実行していたとしても発生していたであろうということを考慮することなく、不注意な行為による法益侵害の純然たる惹起だけで十分だとしようとするなら、法益侵害は不注意な行為の単なる客観的処罰条件とされてしまうであろう。法益侵害は、それが損害を惹起する行為とは、注意深く行為を実行していれば回避可能であったという関係にある場合にのみ、違法性の要素となる(78)。」
  すなわち彼は、すべての法益侵害結果の惹起が違法性を基礎付けるのではなく、回避可能な結果の惹起だけが違法性を基礎付けるという結果回避可能性を関連説の根拠としているのである(79)。もっとも彼は、義務に従った行為を行っていれば同様の結果が発生したことが、どの程度の確率で認められるか、という回避可能性を肯定する程度の問題についてはここでは触れていない。

  四  ヴェルツェルは、過失犯の違法性を肯定するためには注意違反と法益侵害結果との間に特別な関係を必要とするという立場は、「トレーラー事件」のBGH決定が出された後も基本的には維持していたと言える。彼はこのような関係を、「行為の注意違反性(不適切さ)が結果に現実化していなければならない(80)」という公式で説明するが、これは周知のエンギッシュによる危険実現論に倣ったものである(81)
  彼によると、結果が構成要件該当行為の現実化であると認められるための注意違反と結果の間のつながりは、過失犯の構成要件に位置付けられるべきであるが、もっともこれは犯罪構成的な要素ではなく、限定的な要素としての機能を有しているとされる。すなわち、「構成要件該当行為を実行すれば、その行為が結果に現実化したか否かに関係なく、常に規範侵害が存在することは、いかなる事情においても避けられない。しかし、その行為が結果に現実化することではじめてー実定法上ー刑法上の重要性を獲得し、その行為は刑法上の構成要件的不法の実質的基礎となるのである(82)」。ここでのヴェルツェルの見解は、注意義務に従った行為を行っても同様の結果が発生していたという関係が認められる場合には、結果は、注意違反行為が現実化したものとは認められないので、原則として注意違反行為による法益侵害結果の惹起で充足されるべき、過失犯の構成要件が例外的に阻却されるというものである。そしてこのような見解は、彼の教科書の最終版である一九六九年の第一一版でも維持されている(83)

  五  しかしながら、ここでヴェルツェルの言う、「注意違反行為の結果への現実化」、すなわち「まさに注意違反から結果が生じたという関係」とは、彼の目的的行為論による過失犯の違法性概念の本質的要素(84)である「社会生活において必要とされる注意の違反」から導き出されたものではく、むしろ負責限定的にこれに付け加えられた要素である。そして彼は、両者の関係を必ずしも明らかにはしていない。それゆえ、このような過失犯における負責基準の一貫性のなさのために、過失犯においては目的的行為論構想の体系的一貫性に疑問が持たれるのである。

  六  とはいえ、「義務違反と結果の間の特別な関係」を問題とする関連説は、通説的地位を獲得することになる。そしてその根拠付けにおいては、目的的行為概念ではなく、行為者が侵害した注意規範の保護目的と発生結果との間の関係を問題とする、いわゆる「規範の保護目的論」ないしは「保護目的連関論」が展開されることになった。さらに現在では、義務違反と結果の関係を否定するには、義務にしたがった態度をとった場合に同様の結果が発生したという可能性で足りるのか、確実性(ないしは確実性に境を接する蓋然性)まで必要とするのかに問題の焦点は移っている。そしてこれは、義務違反と結果の関係を直接問題とする関連説と義務違反の態度による許された範囲からの危険増加を問題とする危険増加論の対立の焦点であるとも言えるが、ここではこれ以上立ち入らない。
  しかしながらここで言えることは、この議論は、先に見たような目的的行為論による過失の違法性概念では、行為と結果との間の規範的なつながりを問題とすることができないので、むしろこれを直接問題とする客観的帰属論の枠組みで行われているということである。いずれにせよ目的的行為論による過失概念の前提からは、義務違反と結果の関係ついて直接アプローチすることができず、この点で優れている客観的帰属論が、これを機に台頭してきたというのがここでの結論である。

  七  次章では、客観的帰属論の展開について具体的に見ていくことにするが、目的的行為論による過失の違法性概念は、もう一つの問題−被害者の自己答責的な態度に対する関与の問題−にも限界を有しており、この問題も客観的帰属論の台頭を促したと言える。次節でこれについて検討する。

第三節  目的的行為論の限界(二)−被害者の自己答責的態度に対する関与の問題

一、はじめに
  一  被害者の自己答責的態度とは、意識的に自己の責任において、自己を法益侵害の危険にさらし、または積極的に自己の法益を侵害することを言う。ここでは特に、被害者自身による生命法益、身体法益に対する侵害、もしくはその危殆化、すなわち自殺、自傷、ないしは自己危殆化に関して、これらの態度に対する関与を問題とすることになる(なお、ここでは自殺への関与を特に問題とすることとする。自己危殆化への関与については、客観的帰属論の展開として次章において取り扱うこととし、自傷に対する関与については別の機会に取り上げたいと思う(85))。

  二  周知のようにドイツ刑法では、わが国の刑法とは異なり、自殺の教唆・幇助を処罰するという規定を有しないので、故意による自殺教唆・幇助は不可罰であることがほぼ承認されている。これに対して、他人の自殺を過失により誘発・援助する場合、すなわち自殺に対する過失の共犯的な関与の可罰性については、必ずしも明らかでない。特に目的的行為論による過失の違法性概念からは、先に見たように、社会生活上必要とされる注意に違反する行為による他人の法益侵害結果の惹起は、すべて過失正犯であると解されるので、他人の自殺についても、これを不注意で誘発・援助するような行為は、そのような行為から自殺者の死亡結果が惹起されたことが認められる限り、過失致死とされることになるであろう。
  また、被害者の自己危殆化についても、注意違反の態度により、被害者が自己の生命、身体の法益を危険にさらすような原因を設定した者は、それにより被害者が死亡し、ないしは傷害を負った場合には、目的的行為論の過失概念を前提にすると、やはり過失致死ないしは過失致傷の罪責を負うことになるであろう。

  三  本節で特に問題とする前者の問題の実例としては、BGHの著名な「警官ピストル事件」判決(BGHSt. 24, 342)が存在する。また後者の問題については、ヴェルツェルの時代には「被害者の自己危殆化」と呼ばれる独自の問題領域ははっきりと自覚されてはおらず、むしろロクシンをはじめとする客観的帰属論の論者により、この問題を客観的帰属論により解決することをもくろんで設定されたものである。
  それゆえ、本節ではまず、過失による自殺の関与に関する事例として「警官ピストル事件」を素材に目的的行為論の限界を検討し、被害者の自己危殆化の問題については、次章において詳しく論じることにする(86)

二、「警官ピストル事件」判決
  一  BGHの本判決(連邦通常裁判所第五刑事部一九七二年五月一六日判決、BGHSt. 24, 342)が前提とした「警官ピストル事件」の事案とは、以下のようなものである。
  「親密な関係にあった被告人とSPは、SPの車でドライブを行っていたが、その際、SPは二人してある飲食店に行って、酒を飲んだ後(警官である・筆者挿入)被告人の職務用のピストルを自らに向けて発砲し、死亡した。」
  「参審裁判所は、被告人は、SPがしばしば−とりわけ酒を飲んだ際には−突然抑うつ的になり、今までに何度も自殺未遂を企てており、また車に乗るときにはピストルをダッシュボードの上に置いておくという自分の習慣を知っていたにもかかわらず、ピストルから弾を抜かずに彼女と飲食店に行ったことに、SPの死に対する共働原因となる過失による被告人の態度を認めた(87)。」
  これに対して被告人は、実体法違反があるとして上告し、ラント上級裁判所はそれについて決定しなければならなかったが、裁判所は被告人を無罪とすべきであると考えていた。すなわちラント上級裁判所の見解は、「自由答責的に行為する自殺者の死を過失の態度によって共働惹起する者は、可罰的ではない」というものであった。しかしこれは、同種の事案について詳細な検討を行うことなく過失致死を認めた BGH. JR 1955, 104 判決(88)と抵触するので、上級裁判所は事件をBGHに移送した(89)
  BGHは移送理由ありと認め、さらに上級裁判所の見解に同意し、被告人を無罪とした。BGHの見解は以下のようなものである。
  「幇助の故意で自殺者の死を共働惹起する者は、自殺が犯罪ではないので、処罰することはできない。その際、幇助の故意とは、自殺者が死に至ることを知っているか、少なくとも予測し、了承していることを言う。このことはすでに、正義の根拠から、自殺者の死の原因を過失で設定するに過ぎない者の処罰を禁止する。彼は、−認識ある過失の場合には−幇助者と同様、死亡というあり得べき結末を認識してはいるが、幇助者と違いそれを了承しているわけではない。認識なき過失の場合には、あり得べき死亡という結末の認識は欠けている。そのような内心状態でなされた不法を、幇助の故意でそのような不法をなす、すなわち自殺者の死を共働惹起する者の犯行よりも、刑法上厳しく評価するのは適切でない(90)。」

  二  ここではBGHは、故意による自殺幇助が不可罰とされる場合に、それよりも当罰性の点で低い過失による同様の行為を処罰することは、「正義の根拠から禁止される」として、被告人に幇助の故意、または過失が存在したかを検討することなく、被告人を無罪としたのである。

  三  もっともこのようなBGHの見解は、同様の見解に立つ本件のラント上級裁判所が意識したように、過去の判例の見解とは矛盾する部分を含んでいる。特に、本判決中でも触れられた過失による自殺の不阻止に関する判例である「婚約者の自殺不阻止事件(91)」判決(連邦通常裁判所第一刑事休暇部(I. Ferienstrafsenat)一九五四年九月二日判決、BGH. JR 1955, 104)との関係が問題となる。

  四  この事件の事案は次のようなものである。
  すなわち、婚約関係にある被告人の男性と被害者の女性は、二人の関係を被害者の親に反対され、家出をしていたが、被害者は所持金が尽きたときに自殺しようと決心した。実際に被害者は鉄道の線路に向かい、そこで列車にはねられて死亡したが、被告人は不注意にもこれに気づかなかった、というものである。
  これに対してBGH休暇部は、一定の生活関係関係−事情によっては「婚約」もこれに含まれ得る−が、関係者の相互保障と危険回避を法的に義務付けることを前提に、本件における被告人と被害者は、異常に強い恋愛関係で結ばれており運命をともにし、事実上の生活共同体を受け入れていたとして、被告人には被害者の自殺を可能な限り阻止する法的義務が存在しているとし、それゆえ不作為による過失致死を認めた。

  五  「警官ピストル事件」ではBGHは、「婚約者の自殺不阻止事件」のBGH判決について、休暇部がすでに存在していないことを理由に、判例変更の手続きで実質的な検討を行うことなく、これと異なる判断を正当化したのである。したがって、両判決の実体判断における相違がいかなる根拠に基づくものであるのか、必ずしも明らかではない(92)

三、ヴェルツェルの見解
  一  たしかに、「警官ピストル事件」判決でのBGHの考え方はそれ自身としてみれば、至極正当なものと言えるであろう。すなわちドイツ刑法の前提では、自殺はいかなる構成要件にも該当せず、処罰されないため、それに対する幇助は、故意によるものでも、過失によるものでも処罰されないという考え方には、どこにも問題点は見られないと思われる。

  二  実際ヴェルツェルも、このような考え方に立っていると言える。彼は教科書第一一版においてまず、刑法典の殺人犯は他人の死のみに関するものであり、自殺とは、意識的に不処罰(すなわち、構成要件に該当しない)とされた行為であると定義づける。そうして、それゆえこれに対する共犯も特別規定を有しないので、幇助であろうと、教唆であろうと関係なく不処罰であると結論付ける(93)。さらに自己侵害(この中には自殺も含まれる)の誘発・援助は可罰的でなく、特に、故意によるものと同様、過失による自殺幇助も構成要件に該当しない行為への共働として不可罰であると述べているのである(94)

  三  しかしながら、本章第一節の終わりでも触れたように、ヴェルツェルは過失犯については、統一的な正犯概念を採用していたはずであった。繰り返しになることを恐れず、ここでは教科書第一一版の過失正犯の定義を引用する。
  「過失犯の正犯とは、社会生活において必要とされる程度の注意に違反する行為によって、構成要件該当結果を非故意で惹起するすべての者である。社会生活上必要とされる注意を遵守しない行為により、非故意で惹起された構成要件的結果に対する共働原因は、どのような程度のものであれ、当該過失犯の正犯性を根拠付ける。それゆえ、過失犯の領域では正犯と共犯の差異は存在しない。なぜなら、社会生活に適った注意に違反する行為による非故意の結果惹起に対する共働原因は、いかなる程度のものであれ、すでに正犯だからである(95)。」(傍点は筆者によるものである。)
  このようなヴェルツェルの考え方からすると、先に挙げた二つの事件、特に「警官のピストル事件」では、酒に酔うと自殺癖のある(そして過去の経験から、被告人もそれを知っている)被害者と一緒に酒を飲み、自動車のダッシュボードに職務用のピストルを放置するという、場合によっては警察官の服務規程に違反するかもしれないような、被告人の不注意な態度が原因で被害者は死亡しており、しかもこの場合にそのような経過をたどることは、被害者が過去に何度も酒を飲んで自殺を企てていたことに鑑みれば、被告人には予見可能と言えるので、過失致死を認めるのに障害はないと思われる。
  それにもかかわらず、ヴェルツェルは過失による自殺幇助(正確を期すなら幇助的態度)の可罰性を認めないので、この場合判例の見解と同様、被告人を不可罰とするであろう。この場合、彼は不可罰の理由を判例と同様、自殺に対する「共犯」であることに求めるが、それでは「過失犯には正犯と共犯の区別はない」という彼自身の過失正犯概念の前提に反することになる。
  また前節でも見たように、猟師が銃を血の気の多い者の集まる飲み屋に放置したまま酒を飲んでいたところ、何者かが、彼の銃で他人を撃って死亡させたという例では、ヴェルツェルは、過失致死を認めるが、放置された銃で他人を撃ったのか、自分を撃ったのかで、銃を使用される危険のある場所に放置するという、同様の行為の評価が変わる根拠も、必ずしも明らかではではない(96)。少なくとも二つの事例を比較すると、「警官ピストル事件」の方が、被害者が過去にも酒を飲んで自殺を試みたという事情がある分、それだけ結果は予見可能と言えるのではないだろうか。いずれにせよ、関与者をすべて正犯とする統一的正犯概念をとりながら、犯罪にあたる他殺への関与とそうではない自殺への関与でこのように可罰性に関して評価が分かれるのは、いずれの場合も行為者は「他人の死」を過失で惹起したことに鑑みると、必ずしも合理的なものとは言えないであろう(97)

  四  以上見たように、目的的行為論に基づいて過失犯について展開された統一的な正犯概念は、過失による自殺幇助の問題において、その解決の障害となっていると言える。すなわちこの問題において、過失による自殺幇助の不処罰を、他人の自殺に対する過失による幇助であることを理由に説明すると、必然的に目的的行為論が前提としていた過失犯における統一的な正犯概念を逸脱して、過失犯においても正犯と共犯の区別を認めねばならなくなるのである。

  五  もっとも、このような矛盾は目的的行為論に限ったものではなく、例えば過失犯について拡張的正犯概念が妥当であるとするシュペンデルのような見解(98)や、さらには客観的帰属論を主張するロクシンの見解にも見られる。
  しかしながら、彼等、とりわけロクシンは、このような場合、故意による自殺共犯が不処罰であることからの類推だけに依拠するのではなく、このような結果が過失致死の構成要件の射程範囲にあるのかを問題とし、自殺などの被害者の自己答責的な態度から生じた結果については、過失致死罪の構成要件の射程範囲には入らないとしてこれを否定するという構成をとる。「構成要件の射程」と呼ばれるこのような理論は、発生結果は誰のしわざとして帰属されるか、という客観的帰属の視点から主張し得るものである。すなわち、ここでも目的的行為論の呈する限界状況を、客観的帰属論が合理的に解決することで、これに取って代わったと評価し得るのである。
  もっとも、このようなロクシンの客観的帰属論に対しては、前提とする過失犯の統一的正犯概念について、なお先に述べたのような批判がなされているが、これについては次章で見ていくことにする。

第四節  小      括

  第一章で見たように、故意犯に対する過失の関与の問題は、限縮的正犯概念の立場からは、構成要件的行為が法律上類型化されていない過失犯を、正犯的行為と共犯的行為をすでに構成要件上含んでいるものと理解する惹起犯の構想による解決が目指されたが、これを体系的な裏付けをもって説明し得たのは、目的的行為論であった。すなわち目的的行為論は、構成要件的結果に対する目的性を有する故意行為と、これを有しない単なる結果惹起を本質とする過失行為は、その存在論的性格上異なるものであるとすることで、特定の過失犯の構成要件が故意犯より広いことを説明し得たのであった。
  しかしながら、「トレーラー事件」をきっかけとして盛んに論じられた、過失犯における義務違反と結果の問題では、義務に従った態度をとっても結果が発生していた、という関係について、目的的行為論は、そのような関係により過失責任を否定される根拠を、その過失概念から直接に導出することはできなかった。そして、むしろこの問題は「義務違反と結果の関係」を直接問題とする関連説や「許された危険からの増加」を問題とする危険増加論によって論じられるに至った。もっとも目的的行為論の主唱者ヴェルツェルも、学説上は関連説の論者に数えられている。しかし、彼の見解は必ずしも、目的的行為論の前提からの必然的帰結とは評価できず、ここに目的的行為論の限界の一つを見出すことができるのである。
  さらに目的的行為論は、被害者の自己答責的態度に対する関与の問題においても限界状況に直面したと言える。本節では特に過失による自殺幇助の問題を取り扱ったが、そこでは目的的行為論者ヴェルツェルは、体系的帰結である、過失犯における統一的正犯概念の前提に反して、過失犯においても「共犯」が存在することを認めるのである。
  このように見てくると、これらの目的的行為論の限界状況は、態度の注意違反性のみに依拠する目的的行為論の過失概念の本質そのものから生じたように思われる。そして、そのような限界は、侵害された注意規範と発生結果の関係を考慮することで克服されていった。ここでは「結果の帰属」という視点が重要な役割を果たすことになる。すなわち、目的的行為論の呈した限界状況そのものが、客観的帰属論が台頭を促したのである。
  このように学説において有力化した客観的帰属論が、どのような形で主張され、現代においてはどのような展開を見せているのか。次章で検討することにする。

(1)  H. Welzel, Studien zum System des Strafrechts, ZStW. Bd. 58 (1939) S. 491ff.
(2)  Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 491.
(3)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 492.
(4)  Vgl. H. Mayer, Das Strafrecht des deutschen Volkes, 1936, S. 163ff.
(5)  Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 491, 492.
(6)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 498.
(7)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 499.
(8)  Vgl. v. Weber, Zum Aufbau des Strafrechtssystems, 1934.
(9)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 499.
(10)  Vgl. H. Bruns, Kritik der Lehre von Tatbestand, S. 68ff.
(11)  H. Mayer, a. a. O. (Fn. 1), S. 217.
(12)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 500.
(13)  Vgl. R. Lange, Der moderne Ta¨terbegriff und deutsche Strafgesetzentwurf, S. 20ff.
(14)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 500.
(15)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 500.
(16)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 501.
(17)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 501.
(18)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 502.
(19)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 502.
(20)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 502.
(21)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 503.
(22)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 503.
(23)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 537.
(24)  とりわけ、ブルンスは故意と過失の統一的な正犯概念が可能であるかということを問うてきたとされる。Vgl. Bruns, a. a. O., S. 67ff..
(25)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 538.
(26)  もっとも、両者の主張には重点において、差異がある。コールラウシュは、正犯の定義を「正犯の意思をもって、構成要件に該当する行為を実行する者」としており、ランゲは、先にも述べたように、「犯行を自らのものとして行う意思」を正犯意思と定義する。ヴェルツェルは、両者を結合して正犯意思説の見解と整理しているのであろうか。
(27)  もっとも、ヴェルツェルは、この見解は、出発点としては実質的に正しいが、体系的基盤を欠くために過失の正犯が問題とされないだけだと指摘している。Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 538.
(28)  独和辞典によると、旅人をベッドに寝かせ、身長が短ければそれを引き延ばし、長すぎれば足や首を切ったというギリシア神話の巨人の追い剥ぎに由来し、杓子定規な枠や規範のことを指すとされる。
(29)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 538.
(30)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 539. したがって、故意犯に対する過失の関与は、故意であれば共犯とされるものであっても、条件関係を有する限り、過失の正犯となり、前章で述べたライヒ裁判所の判例の結論と一致する。
(31)  Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 539, 540.
(32)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 540.
(33)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 557.
(34)  ヴェルツェルは惹起犯を、目的的行為を一切含まない純粋惹起犯(過失傷害、失火等の通常の過失犯)と目的的行為を中核とする混合惹起犯に分類する。このうち、混合惹起犯の類型としては、内乱扇動的な文書の流布で、行為者は過失によりそのような内容については知らない場合(一八五条)、過失の偽証(一六三条)、軽率な誤った告発(一六四条五項)、有毒物の販売で、その危険な特性については行為者が過失で知らなかった場合(三二六条)、過失の認められない刑罰の執行(三四五条二項)を挙げている(条数は当時のもの)。そして、混合惹起犯については、不法構成要件の充足は結果の惹起につきるものではないことが容易に認められるとし、純粋な惹起犯について特に行為のメルクマールを求めようとしているが、当然それは混合惹起犯にも妥当する。Vgl. Welzel, a. a. O., (Fn. 1) S. 556.
(35)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 558.
(36)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 558. それゆえ、相続人の甥が被相続人の叔父に旅行に行くように熱心に勧め、叔父がその旅行中に事故で死亡するという周知の事例では、甥の行為は完全に社会相当であり、故意犯の意味でも過失犯の意味でも違法ではないとされる。
(37)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 558. Vgl. H. Mayer a. a. O., S. 305.
(38)  Welzel, a. a. O. (Fn. 1), S. 558.
(39)  シューネマンは、因果理論に代わる客観的帰属の理論への流れは、すでに一九三〇年代にホーニッヒ、エンギッシュ、ヴェルツェルの三者によって先鞭がつけられたとする。そして、ヴェルツェルに関しては特に、本文でも述べたように、彼が「刑法体系についての研究」の中で社会的相当性を、故意犯にも過失犯にも妥当する犯罪限定概念であると明言し、いわゆる「雷事例」を社会相当性で説明することについて、初期の目的主義では、社会的相当性の概念が、現代の客観的帰属論と同様の機能を有していたと評価していることが重要であろう。すなわち、社会的相当性という客観的帰属論の帰属阻却基準は、ヴェルツェルの目的的行為論にすでにその原型を見ることができるという意味では、目的的行為論も因果主義を超えた客観的帰属理論への流れに位置付けられるのである。Vgl. B. Schu¨nemann, U¨ber die objektive Zurechnung, GA. 1999, S. 211.
(40)  これに関して例えばタックは、いわゆる「中性的態度による幇助」の問題に関する論文の中で、社会的相当性について、「ヴェルツェルがこの道具を産み出したことにより、因果的な基準によって規定され、そのため広範である幇助の構成要件の限定に関する有意義な手がかりを創り出した」と評価しながら、「これ以後の議論の展開は、ヴェルツェルの構成要件の修正の憂慮すべき不明確さを、確固たる支柱をもって理解するために行われた社会的相当性の精緻化であり、帰属という思想によってもたらされた考察の完成である」とし、客観的帰属論の展開が社会的相当性概念の精緻化の側面を有していることを指摘する。B. Tag, Beihilfe durch neutrales Verhalten, JR 1997, S. 52.
(41)  H. Welzel, Das deutsche Strafrecht 5. Aufl., Berlin, 1956, S. 81.
(42)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 81.
(43)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 81.
(44)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 103f. においても、「故意犯の構成要件と過失犯の構成要件は、構成要件該当結果に対する目的的なつながりが存在するか、それが欠けるかによって、すなわち構成要件該当結果についての故意が存在するか、あるいは欠如するかによって区別される。過失犯の構成要件は、(任意の)非故意の行為による法益侵害の惹起を記述する」とし、構成要件的結果に対する目的性の有無を故意構成要件と過失構成要件の区別のメルクマールにしている。この教科書では、ヴェルツェルは正犯論を、単に構成要件論の問題ではなく、構成要件と違法性を合わせた不法論全体の問題としていることには留意すべきであるが、右のような故意犯と過失犯の構成要件の差異も、両者の違法性概念の差異を反映したものであるから、両者の正犯概念の差異が、その構成要件概念の差異に基づくものと評価してもよいと思われる。
(45)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 37.
(46)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 37.
(47)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 103.
(48)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 104.
(49)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 104.
(50)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 105.
(51)  法益侵害の危険に直面する状況で、行為者がそもそも適切な態度をとることができない場合には、その行為者にとっては、自らもくろんだ行為を行わないこと自体が社会生活上必要とされる注意の内容となる。Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 105.
(52)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 106.
(53)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 107.
(54)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 106.
(55)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 107.
(56)  現在では客観的帰属論が通説であることも、目的的行為論の論者自身も認めていることについては、本稿はしがき(注一)立命館法学二六八号[二〇〇〇年]一二二頁参照。
(57)  故意犯にも目的的行為論の限界は存在する。ヴェルツェルは、故意犯については目的的行為支配を基準として正犯と共犯の区別を行うが、身分犯などのいわゆる義務犯について、正犯原理としての目的的行為支配概念の有用性に疑問が持たれており、ここにも目的的行為論の限界があると言えるのである。橋本正博「『行為支配論』の構造と展開」一橋大学研究年報  法学研究一八号(一九八八年)八七頁でも、身分犯において正犯性を基礎付ける要素は目的的行為支配に尽きるのではなく、ここでは身分そのものが本質的意味を有することが指摘されている。
(58)  そしてシューネマンは、このような過失犯の構想は一九五〇年代、六〇年代には、目的的行為論を採用しない論者にも引き継がれ、通説となっていったと評価している。Schu¨nemann, a. a. O., S. 211.
(59)  「トレーラー事件」の事実の概要と判旨は、堀内捷三・町野朔・西田典之編『判例によるドイツ刑法(総論)』(一九八七年)一〇頁以下(「仮定的因果関係」[丸山雅夫・執筆])に解説付きで紹介されている。執筆者である丸山教授は、解説の中で「過失犯における義務違反と結果の関係」が問題となったそれまでの判例を、この問題を、「責任」の問題として取り扱うものと、「因果関係」の問題(いわゆる「仮定的因果経過」の問題)として取り扱うものに大別した上で、「トレーラー事件」のBGH決定を、本決定が「被告人の義務違反行為と結果との間の『刑法的な意味における因果関係』を否定している点」に着目して、後者の「因果関係」の問題として取り扱う判例に位置付けている。
(60)  K. Ulsenheimer, Das Verha¨ltnis zwischen Pflichtwidrigkeit und Erfolg bei den Fahrla¨ssigkeitsdelikten, Bonn, 1965.
(61)  Ulsenheimer, a. a. O., S. 26f.
(62)  原語は、Felsenkellerfall であるが、なぜこうゆう名称で呼ばれているのかは明らかでない。
(63)  RGSt. 62, 127.
(64)  RGSt. 62, 128.
(65)  RGSt. 62, 129f.
(66)  Ulsenheimer, a. a. O., S. 27f.
(67)  Ulsenheimer, a. a. O., S. 28.
(68)  Ulsenheimer, a. a. O., S. 34.
(69)  C. Roxin, Pflichtwidrigkeit und Erfolg bei fahrla¨ssigen Delikten, ZStW. 74(1962), S. 412.
(70)  G. Spendel, Zur Unterscheidung von Tun und Unterlassen, in;Festschrift fu¨r Eberhard Schmidt, 1971, S. 183ff.
(71)  Roxin, a. a. O., S. 419. なお、「関連説」という訳語は、山中敬一『刑法における因果関係と帰属』(一九八四年)三一頁に倣った。同書・三五頁(注一)では、「関連説」の命名者はロクシンであるとされる。
(72)  Arthur Kaufmann, Die Bedeutung hypothetischer Erfolgsursachen im Strafrecht, in;Festschrift fu¨r Eberhard Schmidt, 1971, S. 200ff.
(73)  Roxin, a. a. O., S. 413. この問題の解決をめぐるドイツの学説の詳細については、山中・前掲書一五頁以下参照。
(74)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 108f.
(75)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 109.
(76)  Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 109.
(77)  Roxin, a. a. O., S. 420.
(78)  Welzel, a. a. O. (Fn. 41), S. 109.
(79)  この問題を結果回避可能性の欠如によって説明する試みは、エクスナーによって行われた。彼はこの問題に関する事例として、先に見た「コカイン事件」や不注意な運転手が急に飛び出してきた子供をはねたという事例を挙げ、このような場合を因果関係の問題とするライヒ裁判所の見解に対して、特に後者の事例については、「運転手が子供をはね、それで傷害を惹起したことは全く明らか」なので因果関係が存在することに問題はないとする。その上でここでは、結果の回避可能性が欠如しているので、過失責任を問い得ないのだとする。Vgl. F. Exner, fahrla¨ssiges Zusammenwirken, in;Festgabe fu¨r Reinhart von Frank, 1930, S. 583f.
(80)  H. Welzel, Fahrla¨ssigkeit und Verkehrsdelikte, 1961, in;ders, Abhandlngen zum Strafrecht und zur Rechtsphilosophie, 1975, S. 315f., insb. S. 330.
(81)  実際ヴェルツェルは、ここでエンギッシュを参照するよう指示している。Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 80), S. 330 (Fn. 48).
(82)  Welzel, a. a. O. (Fn. 80), S. 330f.
(83)  Vgl. H. Welzel, Das deutsche Strafrecht 11. Aufl., Berlin, 1969, S. 135ff. .
(84)  後に彼は、民法二七六条を手がかりにこれを構成要件要素に位置付けている。Vgl. Welzel, a. a. O. (Fn. 83), S. 131.
(85)  周知のようにわが国では、自殺に対する関与については、嘱託・承諾殺および自殺教唆・幇助の処罰を規定した刑法二〇二条の解釈問題として論じられている。自傷に対する関与については、自傷行為自体が傷害の構成要件に該当しないことから、これに対する関与も特に問題とされることはなかったように思われる。自己危殆化に対する関与については、「被害者の承諾の問題」、すなわち自己の法益が危殆化されるような状況に自己を置くことについて、被害者が承諾していたかという問題として論じられてきたとされる。被害者の自己危殆化の問題については、塩谷毅「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について(一)ー(四・完)」立命館法学二四六号八五頁以下、二四七号七五頁以下、二四八号八〇頁以下、二五一号六七頁以下において、この問題をめぐるドイツの議論状況を素材に包括的な検討がなされている。
(86)  自殺に対する故意作為の共犯の問題については、戦後のBGHの判例は概ね、行為支配を基準として(要求による)殺人の正犯と自殺共犯を限界付けてきたように見受けられる。例えば、恋人同士による無理心中で片方の者だけが生き残った事案についてのBGH判決である BGHSt. 19, 135 では、生き残った被告人が全体事象を自己の手中に持ち、二人の死を目指す実行行為を自己が意識喪失に至るまで続けていたという事実的な行為支配により、被告人は不可罰の自殺共犯ではなく、要求による殺人の正犯であるとした。また、息子による父親の臨死介助の事案に関する BGH NStZ. 1987, 365ff=NJW. 1987, 334ff. では、臨死介助の形で父親を死亡させた息子が殺人の正犯である根拠として、被告人である息子が行為支配を有していたことを直接援用している。
  故意の不作為による自殺共犯、すなわち自殺の不阻止に関しては、夫の自殺を妻が情を知りながら阻止しなかった事案に関する BGHSt. 2, 150 が先例とされる。この判決では、妻である被告人と夫との「婚姻共同体(Ehegemeinschaft)」が、夫の自殺を可能な限り阻止する作為義務の発生根拠であるとされ、事情を知りながらこれを怠った被告人は、殺人の正犯とすべきであるとされた。これに対して、姑の自殺を阻止しなかった事案に関する BGHSt. 13, 162 では、正犯者意思の欠如を理由に姑の自殺を阻止しなかった被告人を殺人とすることを否定し、先の BGHSt. 2, 150 の見解に対しては、この見解では、特に同じような他人の正犯意思の下での従属であるにもかかわらず、作為による他人の自殺の促進は不処罰の主たる行為に対する幇助として不可罰とされ、不作為による促進は事情によっては殺人の正犯として可罰的とされるので、法律に適していない、不平等な法適用であるとされた。
  ここでは、他人の自殺を故意に阻止しない者を他殺の正犯とすることに対して、作為による自殺幇助が不処罰とされることとの不均衡が批判されていることが重要である。すなわち、故意の不作為犯においても、その正犯概念を狭義の共犯を認めない統一的なものと解するなら、本文で述べるような問題が生じるのであって、BGHSt. 13, 162 は、それを暗黙のうちに前提とする BGHSt. 2, 150 の矛盾を鋭く指摘している点で評価に値すると思われる。
  なお、これらの問題も含め自殺関与の事例に関する判例、学説の展開については、塩谷毅「自殺関与事例における被害者の自己答責性(一)(二・完)」立命館法学二五五号(一九九八年)二三七頁以下、二五七号六五頁以下を参照されたい。
(87)  BGHSt. 24, 342f. 本判決に関しては、神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(一九九四年)二〇七頁以下、および塩谷・前掲(注八六)(一)立命館法学二五五号二六一頁以下参照。
(88)  本判決については、神山・前掲書二〇二頁以下、塩谷・前掲(注八六)(一)立命館法学二五五号二六〇頁以下参照。
(89)  BGHSt. 24, 343.
(90)  BGHSt. 24, 343f.
(91)  事件の名称については、塩谷・前掲(注八六)(一)立命館法学二五五号二六〇頁に倣った。
(92)  神山教授によると、自殺の不阻止をめぐる問題においてBGHの判例は、自殺者にまだ意識があるのか、それともすでに意識喪失の状態に陥っているのかを境に、後者の場合について自殺者の不救助者は、保障人的地位にあることを前提に、不作為の殺人の正犯としてきたということである。神山・前掲書二二五頁。そうするとこの二つの事件では、いずれも被告人の自殺者に対する自殺の不阻止が問題となったのは、自殺者に意識があった時点である(特に「警官ピストル自殺事件」では、自殺者はおそらく即死していると思われるが、そうだとするならそもそも意識喪失状態での不救助など問題にならない)から、不作為による殺人の正犯を認めることはできないはずである。その意味では、BGHによるこのような判例変更は、正当であると言えよう。神山教授も、「警官ピストル事件」判決は、「婚約者自殺不阻止事件」判例の否定し、それ以前の判例である BGHSt. 2, 150 の流れに沿うものであると評価される。神山・前掲書二〇八頁参照。
(93)  Welzel, a. a. O. (Fn. 83), S. 280f. もちろん彼は、いかなる形態の自殺教唆・幇助も不処罰であるとするのではなく、自殺を誘発・援助する者といえども、自殺者を欺罔、脅迫するという場合のように、誘発・援助者に行為支配がある場合には、謀殺ないしは故殺の(間接)正犯であるとする。
(94)  Welzel, a. a. O. (Fn. 83), S. 103.
(95)  Welzel, a. a. O. (Fn. 83), S. 99.
(96)  Vgl. J. Renzikowski, Restriktiver Ta¨terbegriff und fahrla¨ssige Beteiligung, 1997, S. 165ff. これに関するレンツィコフスキーの指摘については、本稿はしがき(注四一)立命館法学二六八号一二七頁参照。
(97)  レンツィコフスキーも、自殺の場合と第三者を殺害する場合とでピストルを放置した者の評価が異なることを疑問視していることについては、すでに本稿はしがき(注四一)立命館法学二六八号一二七ー一二八頁において触れた。なお、松宮孝明・法学教室一九九九年五月号一三〇頁では、「警官ピストル事件」の事案を、第三者を殺害する事例に変えて、この場合に過失致死を認める拡張的正犯概念ないしは二元的正犯概念では、自傷との比較で(わが国では自殺幇助は可罰的であるので、自殺の場合との比較はできない)、自傷の故意による幇助が不可罰になることとの評価矛盾が指摘されている。
(98)  G. Spendel, Fahrla¨ssige Teilnahme an Selbst− und Fremdto¨tung, Jus 1974, 12, S. 749ff. なお我が国の論稿としては、過失結果犯においては、正犯概念ではなく結果の帰属の可否が処罰の妥当性を担保する上で重要であるとし、過失犯においても拡張的正犯概念が妥当し得ることを主張するものとして、内海朋子「過失犯における正犯と共犯の限界付けとその判断基準について−ドイツの学説状況を中心に−」慶應義塾大学法政論集三六号(一九九八年)二五一頁以下が注目に値する。なお、この論文における内海氏の見解については後に検討する。