立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 1頁




「農民兵士論争」再論


赤澤 史朗



は  じ  め  に


  ここで「農民兵士論争」というのは、岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書、一九六一年七月)の理解をめぐる論争のことである。この『戦没農民兵士の手紙』は、『きけわだつみのこえ』や『雲流るる果てに』などに代表される学徒兵の遺書や手記とは、際立って異なる性格の手記や手紙を蒐集したものとして社会的な反響を呼んだ反面、農民兵士の理解をめぐっての論争を捲き起こすこととなった。この論争を整理したものとしては、高橋武智「農民兵士論争」(『わだつみのこえ』一四号・一六号)があるが、この高橋論文での整理については、近年その今日的意義を評価する意見も生まれている(田口裕史「学徒兵の戦争責任をめぐって」『季刊戦争責任研究』二八号、二〇〇〇年夏号)。しかし、筆者は高橋の整理の仕方には疑問をもっており、その高橋とは異なる視点から「農民兵士論争」を再考しようというのが、ここで「再論」と題した理由である。
  高橋武智は、この当時安田武と対立する第二次「わだつみ会」の戦後派の代表的論客であった。そしてこの高橋の整理は、この論争整理を通じて「わだつみ会の異見を整理」しようとしたと自ら述べているように、「わだつみ会」内部での意見対立に引きつけて農民兵士論争の整理をしているのであった。ここでは農民兵士論争は、安田武に代表される「戦中派」対高橋武智に代表される「戦後派」という、「わだつみ会」内部で当時存在した意見・路線対立の枠組みに合わせてまとめられており、それは「わだつみ会」内部での「戦後派」高橋の立場に基づいた立論となっている。つまりこの整理の仕方には、一種の政治性が顕著にあった。例えば高橋の論争整理においては、筆者から見ると『戦没農民兵士の手紙』の読み方としてはあまり創造的な解釈がされているとも思えない鈴木元彦の論評が、「論争の全過程を通じて、戦後派の立場からなされた唯一の積極的な問題提起、それもすぐれて方法的な問題提起である」と、著しく高く評価されている。観点の違いといえばそれまでのことだが、こうした一つ一つの位置づけに、筆者は違和感を感じるのである。なおここでは、論争と関連する限り『戦没農民兵士の手紙』を論評した論争以外の文章も取り上げることとした。

一、論争の舞台と経緯


  まず最初に、ここで参考にした文献の一覧を示したい。
  1  石川武男「戦争の悲惨訴える集団証言ー戦没農民兵士の手紙を編集しおえて」(『岩手日報』六一年七月一四日)
  2  荒瀬  豊「”よみびとしらず”の遺書ー日本人としての私を問いつづける本」(『日本読書新聞』六一年七月二四日)
  3  臼井吉見「死と光栄ある義務とー紋切り型の裏に真実の声」(『週刊読書人』六一年七月二四日)
  4  安田  武「非人間的な歪みの確認をー『戦没農民兵士の手紙』のもつ不気味な教訓」(『日本読書新聞』六一年七月三一日、のち、安田武『戦争体験ー一九七〇年への遺書』未来社、一九六三年に再録)
  5  阿部知二「すべてが農村生活の根からー日本人の身と心とに受けた傷あと」(『東京新聞』六一年八月二日夕刊)
  6  「哀しいまでの誠実さ」(『東京大学新聞』六一年八月九日)
  7  佐伯彰一「痛いほど胸をうつ」(『週刊朝日』六一年八月一一日)
  8  瀬川富男「戦没農民兵士の叫びー生産することへのうずくようなねがい」(『アカハタ日曜版』六一年八月一三日)
  9  川口信行「戦没農民兵士の”家”ー一つの戦争証言」(『朝日ジャーナル』六一年八月二〇日)
  10  「戦没農民兵士の手記ーつつましやかな訴えに耳を傾けよう」(『サンデー毎日』六一年八月二七日)
  11  阿川弘之「強い戦死という事実」(『朝日ジャーナル』六一年八月二七日)
  12  北林  正「矛盾の裂け目」(『教育評論』六一年九月号)
  13  「戦没農民兵士の手紙」(『新週刊』六一年八月二七日)
  14  「歴史の屈折を視よー今も変わらぬ農村の状況」(『京都大学新聞』六一年九月一一日)
  15ー1  中村政則「現状変革の思想と「会」ー『戦没農民兵士の手紙』によせて」(「第二回わだつみ会「シンポジウム」報告」『わだつみのこえ』一〇号、六一年一〇月)
  15ー2  「討議」(安田武・星野安三郎らの発言)(「第二回わだつみ会「シンポジウム」」『わだつみのこえ』一〇号)
  16  野添憲治「知識人の優越感」(第四次『思想の科学』三三号、六一年九月)
  17  荒瀬  豊「知性人の責任感ー野添憲治さんに」(第四次『思想の科学』三五号特集「『戦没農民兵士の手紙』をめぐって」、六一年一一月)
  18  野添憲治「知識人は何をなすべきかー農民兵士にも責任追及の手をb022」(第四次『思想の科学』三五号)
  19  鈴木元彦「農民兵士の戦争責任」(第四次『思想の科学』三五号)
  20  牧瀬菊枝「石に語りつづけた母たち」(第四次『思想の科学』三五号)
  21  平井啓之「<知性人>の戦後責任ー学徒兵への不当な寛容さ」(『東京大学新聞』六一年一一月一五日)
  22  鈴木元彦「生き残った農民兵士ー忘却のなかの戦争体験」(『東京大学新聞』六一年一一月二二日)
  23  野添憲治「知識人の農民観」(第四次『思想の科学』三六号、六一年一二月)
  24  「明治維新の意味(討議)」中、羽仁五郎発言(『中央公論』六二年一月号)
  25  安田  武「知識人の善意主義」(第五次『思想の科学』一号特集「再び『戦没農民兵士の手紙』をめぐって」、六二年四月、のち、安田武『戦争体験ー一九七〇年への遺書』に再録)
  26  渡辺  清「帰還農民兵士の立場から」(第五次『思想の科学』一号)
  27  判沢  弘「歪曲された農民兵士像」(第五次『思想の科学』一号)
  28  「本の読み方を考えるー『戦没農民兵士の手紙』はどう読まれたかー」(岩手県農村文化懇談会編『広がる波紋』、岩手大学農学部石川武男研究室内)
  29  佐藤忠男「画期的な供養の仕方」(『日本読書新聞』六二年四月二日)
  30  高橋武智「農民兵士論争」上・下(『わだつみのこえ』一四号・六二年八月、一六号・六三年四月)
  31  「第三回シンポジウム報告」中村政則「『続わだつみ』編集の立場」(『わだつみのこえ』一五号・六二年一一月)
  32  「十五年戦争と現代ー第四回わだつみ会シンポジウム報告」(『わだつみのこえ』一九号・六三年一一月)
      (参考)  山口  瞳「江分利満氏の優雅な生活」(『山口瞳大全』第一巻、新潮社  九二年)
  この論争の主要な舞台は、二度にわたる『戦没農民兵士の手紙』の特集を組んだ『思想の科学』(上記17−20、25−27、その他に16と23も。以下、上記の論文は番号で表示)であるといえよう。ただし、この当時の『思想の科学』は、戦没学徒兵を中心とした団体である第二次「わだつみ会」と親しい関係にあり、第二次「わだつみ会」では毎年一回開いているシンポジウムで、一九六一年−六三年の三回にわたってこの問題を取り上げている(15ー1、15ー2、31、32)。こうした点から見ると、この論争を「わだつみ会」とその周辺でおこなわれた論争と位置づけるのも、あながち不当ではない(論争を整理した前述の30も、『わだつみのこえ』掲載の論文である)。以上の二誌以外では、『日本読書新聞』(2、4、29)『東京大学新聞』(6、21、22)が論争の場となっており、この四誌でここに挙げたものの六割以上を占めている。
  このように「わだつみ会」論争に深く関わったのには、それなりの理由があった。もともと第二次「わだつみ会」では、戦没農民兵士の手紙を蒐集し編纂する動きを早くから知り、それに好意的な反応を示していた。第二次「わだつみ会」事務局長の山下肇は、この本の編纂の動きを「わだつみ学徒兵の場合とはまた異った戦争体験の豊かな生活的側面を照しだすものとして、きわめて重大な意義を」持つものであるとして、「わだつみ会はもちろんこの運動とただちに連携協力」する必要があると述べ(山下肇「会の現段階を考える」『わだつみのこえ』三号・六〇年六月)、「わだつみ会」の組織としても、一九六〇年一二月の日本戦没学生記念会「”不戦の誓い”のよびかけ」(『わだつみのこえ』六号・六〇年一二月)では、「このような企画が各地で検討され、この機会に実行に移されることを期待する」と述べていた。
  またこの論争は、学徒兵としての体験を基礎とした安田武の批判(4)に端を発しており、その安田は第二次「わだつみ会」の一方の中心的な論客であった。安田の批判には、野添憲治(16、18、23)・鈴木元彦(19、22)などの共鳴する批判者が続々と現れ、こうした論争となったのである。第二次「わだつみ会」の中でもこの点での意見は多種多様であったが、白鳥邦夫、会田雄次らの会員は、安田の見解に同調するところがあったようである。
  しかし他面からいえば、この論争は奇妙な論争ともいえる。安田や野添が批判した中には、荒瀬豊の書評(2)も含まれていたが、彼らの批評はなによりも『戦没農民兵士の手紙』の編者によって書かれた、「まえがき」や「あとがき」での手紙の読み方・位置づけ方への批判であり、それに異論を呈したものであった。そしてこの論争に参加したすべての論者は、この編者の「まえがき」と「あとがき」での理解や解釈を念頭において、それに対する自己のスタンスを定めて議論しているのである。しかし、その意味では論争の本来の当事者であるともいえるこの本の編者は、論争をいわば傍観する形で、明確な形で論争には参加していない。編者からの唯一の反応は、論争の文章を一部再録した『広がる波紋』の末尾に付け加えられた「本の読み方を考えるー『戦没農民兵士の手紙』はどう読まれたかー」(28)であるが、それはまるで論争が、都市知識人の農民兵士への誤解に発しているかのように批評したものであった。
  そこでまず論争を説明する上で、岩手県農村文化懇談会の編纂に当たっての立場から説明していきたい。

二、岩手県農村文化懇談会の立場


  この「農民兵士論争」を整理した高橋(30)は、『戦没農民兵士の手紙』の発行直後の多くの書評や紹介について、「これらの書評の多く」は「余りに類型的で」あり、「大部分」が「はっきりというなら、原書の「まえがき」と「あとがき」(に現れた岩手県農文懇の解釈)を適当に消化し、アレンジし、それに多少の個人的感懐を交えたもの」に過ぎなかったと評している。この高橋の批評は、なかなか肯綮に当たっていると言わねばならない。ただし高橋はそこに、評者たちのいいかげんな不誠実さだけを読み取っているのであるが、むしろ『戦没農民兵士の手紙』の一つの特徴は、編者が「まえがき」「あとがき」によって提示した解釈が、読者の本の読み方を強く縛る力を持っている点にあった。
  『戦没農民兵士の手紙』は、この編者の「まえがき」「あとがき」の立場で編纂されているというだけでなく、特に「あとがき」での読み方を通して、明確な一つの問題提起をしている点に特徴があった。そこで提示しているのは、学徒兵とは対蹠的な「軍務に精励している農民兵士の姿」であると言ってよい。『きけわだつみのこえ』が戦争や軍隊に疑問を抱きつつ戦死していった学徒兵像を示したのに対し、ここでは軍隊や戦争に疑問を持たず、日常の農村生活で一種の「初年兵体験」が経験済みであることによって、軍隊生活を格別につらいものとも受け止めず、「”人も嫌がる軍隊”も<何一つ不自由なことがありません>と」受け止める農民兵士の姿である。むしろ「軍隊教育が学校教育の延長の意味」を持ち、一般に「農民を対等に扱ってくれ」る社会のない中で、「軍隊では都会人もインテリも労働者も、また農民もまったく平等な扱い」をしたことが指摘されている。しかも「階層秩序のきびしい農村社会の序列の中で、その序列を変え得る手だて」としては、「軍隊において占めた階級、星の数」があったことが強調されている。つまりこの「あとがき」では、軍隊を自己解放や社会的上昇の機会と捉える農民兵士像を打ち出しているのである。
  このような「軍隊につよい憧れを抱かせ、志願までせしめた」農民兵士の生まれた根本的な原因は、編者によれば農民の「底知れぬ生活の貧しさ」にあるとされている。さらに彼らは戦争の被害者である筈なのに、そのことを自覚し得ずに「死んでいったあわれさ、こんなみじめな死に方がどこにあろう」、「こう考える私たちには、”名誉の戦死”ということば」が、「耳ざわりのいいことばであればあるほど、そのようなことばで、みずからをも他をも納得さしてはいけない」というふうに、ここでは”名誉の戦死”論が批判されている。この発言に代表されるように、ここには戦争を肯定し「英霊」として賛美するような農民兵士評価を批判し、それに抵抗しようとする平和志向が見られる。また農民兵士をむざむざと戦死させた「その責任はまだ追求されつくしているとはいえない」とも述べているように、それはさらに戦争責任を追及する立場に立っているものといえよう。
  しかし編者たちの主張点の中心は、そうした点にあるのではない。「ほとんどの手紙にその時々の気候に合わせて農耕への配慮、そして農耕にたずさわる家族へのおもいやりが記されていたこと」が、農民兵士の特質を示すものとして最も重視されているのである。編者である石川武男(1)や瀬川拓男(8)の文章は、こうした点を補足して説明している。石川武男(1)は、「命をたいせつにし、それを守りつらぬくねがいは、未来につながる願いである。その願いがどんなにか細いものであっても、それをふとらし、はぐくんでいく営みが、現代に生きる意義だということを、戦没していった村の若い「たましい」たちが、声を限りにさけんでいるのである」と述べ、瀬川拓男は(8)、「これらのことばは、うずくような生産への意欲、愛するものとともに生活したいという平和ーいのちへの渇望の表現ではないであろうか」と語っている。ここには農民兵士の心の底に、生産者としての健康な平和志向が潜在していたという認識を示すものであろう。
  なお編者たちはここに採録された手紙が、画一的な決まり文句の多い農民兵士の手紙の中では、相対的には数の少ない個性的な手紙を重視して選択したことを述べている。そしてその点で、「ある意味で特殊な手紙である」ことを認め、「比較的検閲を大目にみられた」「古年兵」や「下士官」の手紙が多くなっていることを承認しつつ、なお「これらの手紙は同時に極めて普遍性のある手紙である」のではないかと理解するのであった。
  岩手県農村文化懇談会のユニークさは、軍隊に親近感を抱き、軍隊を自発的に底辺から支える農民像を、それとは全く逆の、いわば平和志向を有する「あるべき人民像」を掘り起こすという観点に立脚して説明した点であろう。『戦没農民兵士の手紙』の「まえがき」には、「岩手県農村文化懇談会のわたし達は、農民の「たましい」に学ぶ文化運動をつづけている。戦没農民兵士の手紙を集めることもその一つであった」と述べているが、この「農民の「たましい」に学ぶ文化運動」という発想には、「あるべき人民」の姿が現実の農民の「たましい」の中に存在するはずであり、それを掘り起こすのだという観点が色濃く刻まれている。前者の「軍隊を支える農民像」は、いわば戦前の農民の現実態であった。これに対し後者の「平和志向の農民像」の方は、農民兵士の心の底に隠された願望のレヴェルで提示されているといえよう。前者の農民像というだけなら、都市化されない東北の純朴な農民こそ強い軍隊の供給源というふうに、戦前から一種の「伝説」が存在していたのであり、けっしてそれ自体が珍しいものではない。逆に後者の「平和志向の民衆像」の観点だけなら、これまた戦後の平和主義に共通にありふれて見られる観点である。この両者を結びつけたところに、一九五〇年代末から六〇年代初というこの時点での、岩手県農村文化懇談会の独自性があり、問題提起としての衝撃力もあったのである。この「あとがき」に添って、または少なくとも「あとがき」の文章に引きずられて、本書を理解した書評・紹介が多数なのは、そのゆえであった。
  逆に言えばこの農民兵士論争は、「あとがき」での読み方に逆らう、「あとがき」とは異なる本書の理解から生じたともいえよう。それは主として後者の、健康で平和志向の農民または農民兵士像という理解が、農民の実態を離れた甘い認識なのではないか、という疑問・懐疑に発している。この種の批判に対する、後の岩手県農村文化懇談会(28)の頑なな反発は、佐藤忠男(29)が推測するように「死者に対する悪罵は受けつけまい、という本能的な善意の身構え」だけに基づいているのではなく、それが前述の「農民の「たましい」に学ぶ文化運動」をおこなおうという、彼らの立脚点に抵触するものであったからである。その意味で「人民史観」に立つ羽仁五郎の発言(24)、「『戦没農民兵士の手紙』について二つの意見が出ている。ああいう手紙を書いた農民はレジスタンスしながら反語的に書いたのか、それとも本気でああいうことを書いたのか、という議論です」という整理(むろん羽仁は、前者と考えている)は、論争の経過を正確にフォローした発言でもないし、論争の整理としてはトンチンカンなところがあるが、論争の一面を突いた発言ともいえよう。

三、安田武・野添憲治の批判


  この論争の一つのきっかけを作ったのは、荒瀬豊の書評(2)であった。「”よみびとしらず”の遺書ー日本人としての私を問いつづける本」と題したその書評は、岩手県農村文化懇談会の「あとがき」での読み方を受け継ぎながら、専ら「無名国民の共通の心情」の表現の問題として「手紙」を論じたものであった。そこでは、戦没学徒兵の手紙がそれぞれに個性的であるのに対し、農民兵士の手紙は概して画一的であり、「階層、境遇のちがいさえごくわずかのものである」という理解を示していた。そしてその心情が「当時の流行語」で表現されていることは、「彼等の罪ではなく、そうさせた人々への告発であるのだ」と説明されている。また、「せいぜいが分隊長どまりの農民兵士たちにとっては、学徒出身兵とは違って、表現のための時間や用具さえきびしく制約されていた」と、その表現が制約された条件を述べるとともに、「家族への愛情」は「屈折した表現」で示されているとして、「愛情の表白が金銭を通じて語られている例の多いこと」を指摘している。
  この荒瀬の書評は、表現論の問題として「手紙」を取り上げることによって、それ以降の論争の一つのテーマを提起するものであった。しかしこの荒瀬の見解には、二つの問題があったように思う。その一つは編者の「あとがき」の中にも見られる傾向であるが、「手紙」の主の戦没農民兵士を一括して、いわば無名のマスとして捉えている点である。「手紙」には、「階層、境遇のちがい」による個人差は見られなかったのであろうか。もう一つは、農民兵士の手紙に「当時の流行語」での表現が多かったのは、「そうさせた人々への告発であるのだ」というのは意味が通らないし、農民兵士とは違ってあたかも学徒兵には「表現のための時間や用具」が保障されていたような発言は、事実誤認だろうという点である。これらは、農民兵士が持たざるを得なかった表現力の上でのハンディを、おそらくは弁護する意図で書かれたものであろうが、その弁護の仕方が見当違いなのである。とはいえ「手紙」には、「愛情の表現が金銭を通じて語られている例の多いこと」を指摘しているのは重要な点であった。
  安田武の批評(4)は、「戦争体験を持つ者としての立場で」書いたとする書評であるが、それはよく読むと、農民兵士一般への批評というより、主として農民出身の古年兵や下士官への批評であった点に特徴がある。『戦没農民兵士の手紙』に採録された手紙には、編者自身が述べるように古年兵や下士官の手紙が多かったのであるが、編者自身はそれも基本的には農民兵士一般を代表するものだとして、古年兵や下士官と、より下級の兵士たちとの違いを無視する傾向があったのである。安田の次のような指摘は、この点を突いている。
「この書物の編集上で、致命的な欠陥は、個々の兵士の略歴欄に入隊年月日が記されていないことである。(中略)入隊年月日の記載がないことから起こる不都合は、軍隊では一等兵と上等兵と、彼の生きる条件がまったくちがっているという、「戦争体験を持つ者」なら誰でも知っている事実が、曖昧にされていることだ」。
「「戦線にて」の章の扉の口絵には、<農民兵はつたない筆をとって……>と註してあるが、しかし、この手紙の主は、戦死した二十六歳のとき准尉である。わずか六、七年に准尉まで進級しえた兵士が、<つたない>兵士であろう筈がないこと、(中略)一先抜で上等兵や兵長になった兵士が、どんな具合に「軍務に精励」したか、容易に想像がつくのである」。
  ここでは農民兵士と一口に言っても、その軍隊内の階級によって「生きる条件」が異なること、さらにめざましく「進級」する兵士とそうでない兵士とでは、その資質が異なることが指摘されているのである。ここには荒瀬豊と違って、無名のマスとして農民兵士を一括するのでなく、それを類型分けして捉えようとする志向がある。その類型分けの基準となるのは、安田の場合にはそれぞれの兵士の軍隊歴であった。
  それと同時に安田は、軍隊の底辺に置かれた学徒兵の視点から、それらの農民出身の古年兵や下士官を次のように描き、編者たちの認識に強力に異議を申し立てているのであった。
「学業半ばで、軍隊という「実社会」に突如抛りこまれたぼくが、内務班という「死の家」のなかで見たものは、猿のごとく猥雑で悪がしこく、惨虐なまでに非人間的な人々の群であった」。
「だからぼくは、この「手紙」を読んで複雑な感慨を禁じ得ないというのだ。家庭に向って、これほどに思いやり深く、人間味あふれる彼等が、他方では、どうしてあれほどまでに非人間的であり得たのか」。
「この書物の編者たちのような姿勢、「善良で健康な村の若者たち」という人間認識のなかからでは、何ひとつ学ぶことはできまい。憲兵曹長が、獄舎で童謡のような詩を書いている。(中略)このような詩を作ることと、憲兵であり得ることが、一人の人間の感受性のなかで可能であったという、その精神の構造のおどろくべき非人間的な歪み方を、全体として確認すること以外、この書物がもつ不気味な教訓を読みとる方法はないとぼくは思う」。
  ここでは、「内務班」の古年兵・下士官にあっても、戦犯となった「憲兵曹長」にあっても、いわば二面性を持つ存在として把握されている。そうした認識に立って安田は、編者たちがその「家庭に向って、これほどに思いやり深」かったり、「童謡のような詩を書い」たりする面ばかりを重視し、彼等の「健康」な平和志向を強調しているとして、その片手落ちな見方であることを指摘しているのである。こうした認識は、ある意味ではナチス党員の強制収容所係官がハイネの詩の愛好者であったりするような問題と同質の面を含んでおり、必ずしも農民兵の問題とばかりは言えない。なお、農民兵士の二面性というなら前述の編者たちも、農民兵士の、軍隊や軍国主義に対して親和的な側面と、逆にそれとは異なる平和志向を見ているのであるから、ある意味では農民兵士の二面性を見ていたのだともいえる。だがそれは農民兵士を、そのどちらの面においても「被害者」として位置づけた上での二面性の指摘であった。これに反し安田のそれは、農民兵士の加害者としての側面を摘出しているのであるから、その見方は編者とはかなり異なるものであった。しかし、決めつけるような調子の安田の文体は挑戦的であり、また安田の書き方もあって、この文章は元「学徒兵」が「農民兵士」を批判したものと理解されることとなった。そのためここで提起されているのが、何より日本軍隊の特質の問題だったという点は、見落とされる傾向にあった。
  なお、「下士官」の問題としてこの「手紙」を理解する文章は、安田以外にも見られなくはない(たとえば10)。また、農民兵士を一色の無名のマスとしてでなく、類型分けしようという方向も、ほかにも少数だが見られた。たとえば阿川弘之(11)の批評は、「手紙」の表現を問題にするという荒瀬と同様の視点に立ちながら、荒瀬とは違って、戦没農民兵士の手紙の中に、「稚拙」な「手紙」といっても二種類のものがあるという、独自の指摘をおこなっている。つまり一方で、「片仮名書きの手紙あるいは手記の中に、感動的なものがとくに多く見出される」と同時に、他方では「素朴というよりあまりに幼稚なもの、文意はなはだしく不明瞭なものがかなり多く」、これは「前の片仮名書きの稚拙さとは、いささかちがうもの」というのである。つまり阿川によれば、一律に「農民兵はつたない筆をとって」といった理解では問題を誤る面があり、採録に不適切な「悪文」さえもあるというのである。そして阿川は編集の方針にも疑問を呈しており、「手紙」を読むと誰しも「強い戦死という事実」に「読者は胸をつかれる」のではあるが、「編者出版社とも、少しくその事実によりかかり過ぎたきらいがあ」ったのではないかと批判している。
  野添憲治(16)の批評は、遺された農民兵士の遺族や生還した農民兵士の二面性を指摘して、安田武の提起した論点を補足したものであった。野添は近年農村で頻繁に見る「家を新築したり増築したりする」「遺族年金を受けている家」について、次のように述べている。
「その遺族たちがもっと進級して敗戦まぎわに死んでくれればよかった、と戦死した人のことをいうのをよく聞きますし、局の窓口で年金を受けとる時にニンマリと笑う遺された人たちの表情にもよくあいます。(中略)だからといって、遺族たちが戦死した身内を忘れてしまっているとは思いません。年金に執着する人たちも、(中略)亡き息子を思って時には涙を流したりもするでしょう。でもこれはすこしも変ではないのです。人間には、こうした二つの面が完全に同居できるものなのです。」
  さらに野添は、生還した農民兵士についても次のように述べている。
「「素朴な村の若もの」(石川氏)であった農民兵士の帰還者のほとんどが、現在でも戦争を賛美し、戦地で行なったかずかずの残虐行為を自慢しておりますよ。(中略)この手紙の主たちが、生還しているとこうならないといえるでしょうか。」
  野添は、後の論争の中でも(18)次のように指摘している。
「私は手元にあるこの本の書評を六編ほど読み返してみましたが、奇妙なことに引用されている手紙文は、ほとんど同じたぐいのものだということに気がつきました。(中略)私の脳裏に焼きついて離れないのは、(中略)「三時間にわたって火をつけたり家探しをやったりして敵は全滅しました」と書く小隊長代理の手紙の一節の方です。(中略)それなのに、家族のことを心配する愛情にあふれたものしか引用しないということは、あまりにも一方的だと思います。」
  野添は、編者の「あとがき」やそれに同調する読み方には一方的な思い入れが多すぎ、農民兵士や農民遺族のエゴイスティックで戦争に無反省な一面を無視していると批判しているのであった。「農民に生き甲9854を軍隊以外に求め得させないようにし」たのが「社会と政治の「歪み」の産物だとする指摘は正しい」が、だからといって「被害者であった兵士たちの無知と無感覚に支えられた自己喪失の姿勢も、同じようにきびしく批判すべき」だというのが(18)野添の立場であった。こうした意見は、安田武の指摘のような内務班での下級兵士に対する行動だけでなく、戦地での他民族に対する残虐行為を指摘してその反省を迫ったものであり、後に花岡事件の聞き取り調査をする野添の立場につながるものがある。
  ただし野添には、安田のように農民兵士を類型分けするという志向に欠けており、全体を一色の農民兵士、一色の農民遺族として批判する傾向が強かった。また農民兵士には厳しかった反面、逆に戦没学徒兵については非戦的・個性的であったとして評価していた。それとともに野添が、荒瀬豊の書評(2)を批判して、「否定しなければならない面を安易にとび越えてしまい、農民兵士たちを両手で抱きこんでしまっている知識人たちの思いやりの深い文の深部に、私は農民に対する知識人の優越感をまざまざと読みとるのです」と語った(16)ことから、この論争は知識人の民衆に対する認識や姿勢をめぐる論争へと向かう契機をつくることとなったのである。

四、論争の展開


  狭義に「農民兵士論争」というのは、前述のように『思想の科学』での特集や『東京大学新聞』、それにわだつみ会のシンポジウムでの発言などをさすが、しかしその論争は、これまで指摘してきた興味深いテーマの一部しか発展させるものとはならなかった。論争の主題から離れてしまったのは、戦没農民兵士の実態は何かというテーマであった。これに対しその一部を発展させることができたのは、農民兵士認識の視角というテーマであった。後者は知識人の民衆認識の歪みといった形に特化して、つまりは「知識人と民衆」論の一種として議論されることとなったのである。このようになった一つの理由は、議論の枠組みが主に、「学徒兵」と「農民兵士」との対比という形で設定されたためかもしれない。
  前述のように、野添憲治が荒瀬豊を批判したこと(16)に対する荒瀬の反論(17)は、農民兵士の表現力の貧しさの原因についての前稿の再確認を除けば、荒瀬は「知識人の優越感」を露わにしていると書かれたことに対する反論であった。そしてこれに対し、荒瀬も含め、編者の「あとがき」での「手紙」の解釈や読み方に同調するような書評に対する、野添憲治(18、23)や鈴木元彦(19、22)の批判の一つの脈絡は、生還した農民兵士が現在も、戦争中の行動にほとんど無反省であるという理解を前提に、知識人の農民認識のオメデタさや民衆に対する「知識人の過重な期待」(22)を叩くといった性格のものであった。野添も鈴木も農村在住者である点で共通しており、農民に対する自身の経験的な知識を基礎に、岩手県農村文化懇談会を含めた「農村問題専門家」の知識人たちが、さっぱり「実際の農村と農民」を知らないと批判していた。「農民兵士の遺文に接した知識人の多くが、どうしてあんなにもダラシなく感動してしまうのか、いまだによくわからない」というのが、野添の感想(23)であった。また農民兵士の戦争体験は、生還した元農民兵士で知る限りでは、かつての体験が自分の中で整理されることもなく、そのため「それはふたたび戦争(軍隊)体験が強制されることを防ぐ力になり得ない」のではないか、というのが鈴木の見方(19)であった。
  むろん編者である岩手県農村文化懇談会の人たちも、必ずしも野添や鈴木が考えるほど、実際の農民を知らないわけではなかっただろう。少なくとも「手紙を集めて歩いた」「編集委員」も、農民兵士の遺族には「悲しみ」の感情はあっても、あまり「怒り」の感情が見られず、時には「英霊」の「顕彰」にすら熱心であることを、充分知っていたのであった(9)。しかしながら岩手県農村文化懇談会にしてみれば、遺族の「悲しみ」の感情に寄り添いそれを掘り起こすことからしか、真の平和へのエネルギーは生まれてこないと考えていた以上、この点は批判されても、そう簡単に引き下がれる立場ではなかったに違いない。また、岩手県の「農村婦人の戦争体験を語る集い」に参加した牧瀬菊江(20)が、「私たちは庶民の戦争体験を日本の町々村々から掘りおこさなければならない。堀りおこすことで、老いた母たちの胸にたたきこまれた呪術にも似た祈りは、若い世代に受け継がれる」と語っているのも、岩手県農村文化懇談会の考えに似た地点に立つものであろう。年老いた底辺農村婦人の「戦争体験」を「掘り起こ」し「若い世代」との「話しあいを深める」ことで、やがては社会変革の「積極的な力に転化」していけるのではないかというのが、牧瀬の展望であり願望であった。
  こうした牧瀬菊江や岩手県農村文化懇談会やそれに同調する人々を、「知識人の善意主義」として批判した安田武の論評(25)は、ある種の進歩的知識人批判であるという点では、前述の野添や鈴木の系列に属する論評といえよう。安田の批判しているのは、前回と同様、民衆の二面性を見ない「感傷的な現場主義」といったようなものである。「感傷的な現場主義だけが、生活の手ごたえなどというものに感動するのだ」という彼は、かつての軍隊内務班で知った民衆の裏側にある姿、「卑しさだけがあって、屈辱ということを知らぬ人々、ごまかしの名人、盗みのベテラン、勝てる喧嘩では、徹底的に傲慢であり、負ける喧嘩には、徹頭徹尾、卑屈になる人びとー彼らがそうである、むかしも、おそらく今でもそうである。そういう姿で生活している、まさにずしりと手ごたえのある生活をしているという認識を避けて」なにも始まらないではないか、と述べるのである。そして民衆の「全体認識のなかでだけ、「何か」が」見出せるかも知れないというのである。
  安田は、民衆の戦争体験の掘り起こし自体が無意味であるという立場にあったわけではない。安田は、むしろそうした試みには好意的であった。しかし安田には、シビアな生活者である民衆の戦争体験から知識人はいったい何を学べるのか、という問いかけがあった。またこれまで知識人は、結局のところ民衆の戦争体験から何も学んでこなかったのではないかとの疑問があった。とはいえその疑問や問いかけに対する回答は、つまり民衆の戦争体験認識の方法はなにかということは、安田にもハッキリとは見出されていなかったようである。なお今回の論評では、戦犯となった憲兵曹長の昇進の速さの指摘はあるものの、軍隊歴に関する前回提起された論点は霞んでしまっている。
  わだつみ会のシンポジウムにおいても、『戦没農民兵士の手紙』は取り上げられた。そこで報告した中村政則(15ー1)は、「手紙」に表れた「妻子への気がかり」や「農耕への配慮」の中に「一家の働き手を奪われた家族の苦しい生活の有様」を見出しつつ、「この本には、文面にあらわれた限りでは戦争に対する批判や疑問を表明しているものは皆無といっていい」と述べている。その限りで中村は編者とは違って、必ずしも農民兵士の中に潜在的な平和志向を見ているわけではない。しかしその上で中村は、農民は知識人と違って思想的な価値観に立って戦争を批判することはしない、「農民は経済的利害関心から政治に近ずく」とし、そのこと自体が「農村の貧しさの反映である」と結論づけていた。これに対して討論の場で安田武(15ー2)は、「農民がかくあるのは体制や貧困からくるといった本質論ではどうにもならない。(中略)愚昧さを農民の内部でみとめ、そのことをハッキリいうべきだ」と反論していた。農民=被害者論だけではダメだというのが、安田の立場であったのだろう。
  渡辺清の論評(26)は、農民兵士の持つ二面性という安田の指摘を全面的に承認したところから出発している。とはいえ安田が、知識人の一人として民衆といかに対決するかという地点から論じているのに対し、農民出身の少年兵であった渡辺の場合には、全く逆に、「手紙」に「かつて彼らと同じ農民兵士であった自分の姿をみた」地点から論じているのである。そうして自身の過去を振り返ってみると、編者の「まえがき」での「善良で健康な村の若者たち」という認識とは違って、「娑婆にあってはいざ知らず、軍隊での僕および僕らはそんな「善良な兵士」ではなかった」のであり、彼らの遺した「手紙」にも「その文字の裏側には善良さなどにはおよそ縁のない、醜悪にみちた農民兵士の生ぐさい姿が」想像されるのであった。野添が引用した「手紙」の中の戦争犯罪の記述に関しても、「僕がもし彼らと同じ立場に居合わせたなら、僕もやはり同じ非行を避けることはできなかったろう」というのが、渡辺の理解であった。つまりは『戦没農民兵士の手紙』は、彼らを死なしめたものを告発しているだけでなく、「それは同時に本書の兵士たちをもふくめた僕、もしくは僕ら農民兵士であったものを被告の位置にひきすえた」ものなのである。そしてかつての軍隊においては、農民兵士にはあるがままの軍隊秩序を受け入れる自己放棄の姿勢があったのであり、「そのことにおいて、僕らの側にも「罪」があった」という形で、自己の責任を引き受けるべきではないかというのが、渡辺の結論であった。
  この農民兵士の一人としての自己責任の自覚という点では、渡辺の意見は独自のものであったが、農民兵士にも自己放棄の責任があったのではないかという意見は、北林正(12)も主張していた。北林は、「なるほど農民兵士たちは被害者にはちがいなかろう。だが、素直に戦い、英霊となることを強引に肯定もしたかれらに、一点の責任もないといえるだろうか」と問い、「農民兵士たちの奇妙な無知と無感覚、その下層農意識に、戦争責任の所在を追求するのはまちがいであろうか」と述べていた。
  以上のような議論が、安田武の見解に共鳴する論点を含んでいるのに対し、平井啓之(21)や判沢弘(27)は、安田の見解に反対する点でそれらと対蹠的な地点に立つものである。とはいえ戦争責任を問題とする平井啓之と戦争責任論に反発する判沢弘とでは、戦争体験を捉える方向が全く異なるのではあるが。その平井・判沢の議論は、両者とも「学徒兵」と「農民兵士」の対比という形で問題を設定している点が、共通の基本的な特徴といえよう。そうした観点からすると、安田らの議論は学徒兵に一方的に甘く、農民兵士にばかりに厳しい議論だということとなる。平井・判沢ともに、安田によって批判された戦犯となった憲兵曹長の手紙を高く評価していた。これは農民兵士に対する不当に低いと思われた評価を、改訂しようとしたものであろう。また平井は、野添や安田の見解には「学徒兵への不当な寛容さ」が見られるとし、判沢は、安田らは学徒兵の「特権的身分を自覚することなく」論じているとしていた。
  こうした平井や判沢の意見は、『きけわだつみのこえ』に代表される学徒兵の理解としては、両者ともこれまで考えられてきたような非戦・反軍的な学徒兵像に、異議を呈したものと位置づけられよう。ただし平井の場合には、生還した農民兵士の場合と同様に、「帰還した学徒兵たちは、あるいはもっと広く戦争体験を身につけた知識人たちは、どの程度に戦争否定者であろうか」と、その平和志向に疑問を投げかけ、逆に判沢の場合には、農民兵士が当時の軍国主義的な流行語で「手紙」を綴ったのは、「学徒兵たちが、戦争にたちむかう自己を「大きな世界史の命ずるところ」「歴史の歯車」等と規定し納得していたことと変わるところはない」として、農民兵士・学徒兵ともに「日本民族」の危急に「立って難におもむこうと」した姿勢を高く評価してのことであるが。
  言い換えると平井や判沢の意見は、戦争協力という点での学徒兵と農民兵士の共通性を指摘したものとも言える。一般的にいって日本においては、知識人と民衆との距離がそれほど大きくはないことからすると、この共通性の指摘には根拠があるものと思われる。また戦争体験の継承と現在の平和擁護との関係が、決して一筋縄では行かないことを示している点で、論争の大きなテーマと結びつく議論であったということが出来よう。

五、論争その後


  編者である岩手県農村文化懇談会では、こうした論争が一段落した後、『戦没農民兵士の手紙』に対する遺族の反響や農民兵士の追加資料、それにこの本ついての読後感や書評や発言、そして論争の文章をまとめた『広がる波紋』と題する私家版の本を発行している。この『広がる波紋』は、岩手県農村文化懇談会で『戦没農民兵士の手紙』を検討するために、サークル(ここでは「分科会」と述べられている)での参考資料として編まれた面もあったようで、その検討の指針としてか、本の末尾に「本の読み方を考えるー『戦没農民兵士の手紙』はどう読まれたかー」(28)という一文が載せられている。
  この「本の読み方を考える」では、一方で論争に積極的に対応する姿勢を見せながら、にもかかわらず全体としてはこの本に対する批判への、編者の閉じた姿勢が強く表明されていた。具体的に誰のどの批判に対する反論かは示されていないが、あてこすりのように書かれている「都会的なインテリ」、「独りよがりな読み方で、みずからの精神をますますかたくなにしていくような態度」などの言葉は、どれも「都会」人の歪んだ理解または誤解として、この本への批判を受け止めたことを示している。それは、前述のように農村在住の野添憲治が、編者などを相手に逆に、「あの手紙を読んでダラシなく参ってしまうのは、知識人が農村農民をぜんぜん知らないからではないだろうか」などという批判に、真っ向から答えるものとはなっていない。この「本の読み方を考える」では、この本への反響から「出てきた問題点」として次の六点をあげているので、引用してみよう。
    「@  この本のすべての読者に共通することは、戦争がいかにいとわしく、平和がいかに望ましいかという願いであろう。
    A  農民の生活が、今も昔も根本的には変わりがないこと。自衛隊に「就職」する次三男が戦争を期待していくものでも何でもない。
    B  都会のインテリ兵士にとっては、生活力の豊かな農民兵士ほど憎むべき存在はなかった。そのなまなましい体験は、農民兵士の戦争責任を追求しようとしているのである。
    C  遺族の精神的な支えが、この本が出るまでは遺族会と靖国神社とであった。後世に残る記念碑が、活字となって世に現れたことを、遺族がもっともよく評価している。
    D  書評に引用されている個所が、すべて共通していること。読むほどの人が、何か暗黙のうちに通ずるものをもっている半面、農民を知らない評論家の読み方に、ある先入観がひそんではいないだろうか。
    E  学歴の低い農民の文章について。たどたどしい文章のなかに、素直さと健康さとが満ちあふれているのが読みとられる。」
  しかしこれらの諸点の多くは、正面から論争を受け止めての発言とはいえないように思われる。@については、論争の経過からすると安易なまとめ方だし、Aのような農村の貧困論だけで説明がつくかという点も、論争で問題になったところである。Bに関しては、元「学徒兵」の「農民兵士」への逆恨みという低い次元でこの本への批判を理解したことを示しているし、Dについても、「書評」に「引用されている手紙文は、ほとんど同じたぐいのもの」であること自体が問題だとする、野添憲治の批判があった筈である。Eにだって、「稚拙」な「手紙」にも二種類あるという阿川弘之の批判があったのではないのか。つまりここでは編者側の、いずれも論争に向き合おうとしない姿勢が目立つのである。とはいえCだけは、編者の立場が遺族の戦没農民兵士への哀悼の念を、軍国主義に連なる「靖国神社」の側にでなく、平和主義的な方向で再把握しようとする意図にあったことを、よく示している部分といえよう。
  この「本の読み方を考える」に対する批評が、佐藤忠男の論評(29)であった。佐藤は上記のCについて、「このような本が新しい別の供養の仕方として現れたことには画期的な意義がある」と高く評価していた。しかし佐藤はそのことから直ちに、農民兵士や遺族のあり方をあるがままに受容しようとする編者たちの姿勢を、認めていたわけではない。佐藤は「わずかな期間軍隊に行ったが、やはり似たような手紙しか書いたおぼえがない」者の一人として、つまり渡辺清の場合と同様に自分自身の問題として農民兵士の手紙を位置づけながら、なお農民兵士や遺族の姿勢には、次のような視野の狭さがあるのではないかと指摘している。
「『戦没農民兵士の手紙』の中に、戦争についての懐疑の文章が一行もなかったと同じように、遺族からの感謝の手紙にも、とくにその人たちが戦争や平和について深く考えているというしるしは非常に僅かしか読みとれない」
「兵士たちの手紙から読みとれるのは、全く、肉親および故郷にある自分の財産としての田畑への愛着、あるいは自分のために神様に祈ってくれということだけである。それはごく普通のエゴイズムとどうちがうのか。彼等の関心がその範囲に限定されていることと、敵兵を殺し、敵地の民衆を苦しめることについての苦悩がぜんぜん欠けていることとはウラハラの関係にあるように私には思え、(中略)死者たちに、気の毒なあなたたち、と呼びかけるのは自然の情であるが、と同時に、その死者たちがかつて手にかけて殺したところの”敵”と呼ばれたもう一群の死者たちに対しても、私たちは、私たちの側の死者になりかわって、心からの供養をせねばなるまい。『戦没農民兵士の手紙』の中にも、『広がる波紋』の中にも、そういう心情がついに一つも現れてこないことが、私には納得ができなかった」。
  この佐藤の視点は、前述の渡辺清(26)のそれを受け継ぎながら、それを自己反省の問題として考えるだけでなく、「”敵”と呼ばれたもう一群の死者たち」をも視野に入れた「供養」の問題として提起している点で、これまでにない論点を提示したものといえよう。編者たちのこの「手紙」の蒐集と編纂という行動の背景には、死者たちへの強い哀悼の念があった。佐藤はそれを理解しそれに共感しつつ、なお編者たちの「死者に対する悪罵は受けつけまい、という本能的な善意の身構え」を批判しているのである。そこには、ひたすら自国の死者の哀悼・追悼にだけのめり込むのでもない、かといって一方的な戦争責任追及にも終わらない、第三の立場が示唆されているのであり、死者に対する共感と批判の双方を共存させる道が、模索されようとしているのであった。

お  わ  り  に


  最後に「農民兵士論争」が提起したものについて、述べてみたい。
  「農民兵士論争」のテーマの一つが、農民兵士の実態の解明にあったことは間違いない。安田武の兵士の軍隊歴から見る視点、阿川弘之の「手紙」の文章から見る視点は、農民兵士を一定の観点から類型分けすることで、その実態に迫ろうとするものであった。しかしこの種の議論は、充分に詰められずに終わったと思う。
  筆者も、この『戦没農民兵士の手紙』の「手紙」の性格を、その農民の階層的地位と相関させて考えようとしたことがある。ただし本書では、それぞれの農民の自小作別と所有・経営の反別、さらに長男次男など家庭内での位置の記載には不十分なところがあり、充分にその階層的地位が確定できるわけではない。ただその不十分な記載から見ても、「あとがき」での説明とその引用文が照応しないことだけはわかるのである。例えば「あとがき」の中で、「階層秩序のきびしい農村社会の序列の中で、その序列を変え得る手だてがあるとすれば、軍隊において占めた階級、星の数のみによって可能ではなかったろうか。事実下士官になって帰還した分家筋の次三男が、(中略)やがて村会議員、村会議長ともなり得た」という説明の例証として、長々とその「手紙」の文章が引用されている下士官志望の農民は、その元に当たってみると「田三町、畑五反、山林四反の自作農の長男」なのであって、けっして農村社会の底辺に位置していたわけではない。むしろ「やがて村会議員」になってもおかしくはない、比較的大きな農家の長男である。逆にここでは引用されていない、「私は学校〔下士官志願のための〕に行くのをやめました」「家の方も考えなくてはならないと思いました。(中略)今まで私の考えていましたことは間違っておりました。おゆるし下さい」と、下士官志望を諦めて父親に謝っている農民は、「小作畑二反の農家。母の連れ子で長男。父は樺太・北海道へ出稼ぎ」とあり、むしろ農村社会の最底辺に近い農民が、下士官志望を貫き得ないような現実にあったことを示している。
  「あとがき」での説明がその引用文と不整合なのは、安田武が提起した軍隊内での階級・立場との関係でも見られる。例えば「こと肉体的な面でのかぎり」では軍隊は農民兵士にとって「辛く苦しい所」ではなかったという「あとがき」の説明で引用されている、「俺達も今度は楽な者だよ。毎日遊ぶようなものだ」という文章の兵士は、「今度は」の言葉に示されるように、過去に砲兵隊の教育訓練を受けており、今回再度の召集となった「補充隊」の兵士であった。手紙の本文を見ると、この文章に続いて「馬鹿らしくて仕方がない。琴平には二回参拝に行った。中隊全部だ」とある如く、教育訓練・演習もほとんど行われず、「まだ何もして居ない。演習もまだ出来ないしね。まー楽なものだ」という状態にあったようである。これに限らず「あとがき」での説明には思い込みがあり、必ずしも「手紙」からの実証的結論を示したものとはいえないようである。つまり農民兵士の手紙も、個別に村と家の中での地位や教育歴や軍隊内の立場や状況(そして軍隊内での立場に結びつく、独自の能力や技能)に関連させて読み解くという、当たり前の手続きがおこなわれる必要があったし、彼らの「手紙」には表れない別の顔と行動も、そうした視点から究明される必要があったのだろう。
  「農民兵士論争」のもう一つのテーマは、農民兵士をいかに認識するのか、その認識の視角や立場をめぐっての議論であって、これは根本的には一九五〇年代に成立した戦後の平和主義に対する疑問や批判にあったと思う。戦後の平和主義は、過去の戦争体験の掘り起こしやその記録をする運動と、現在の戦争反対・平和擁護の意思が結びついた形で成り立つものであった。しかし戦争の実体験の記憶は、常に自動的に戦争反対へと結びつくものではない。それは戦前にあっては、日清・日露戦争の「国民的記憶」が、むしろ排外主義や軍国主義に結びついていたことからも明らかであろう。世界的に見ても、過去の戦争の記憶は、現在の国家主義や軍隊と肯定的に接合している例がむしろ一般的かも知れない。つまり日本の戦後の平和主義は、たいへん独自の形で出来上がっているのであり、それにもかかわらず、その独自の形で成り立っていることへの自覚が欠けているのである。
  ここで問題になるのは、過去の戦争体験の記憶や記録と、現在の戦争反対・平和擁護の意思とが、いかなる形で結びつくのかという点である。戦後の平和主義にあっては、それは一方で、全体としては戦争協力一色に塗り潰される戦時下の行動の中にも、戦後の価値観につながるような非戦・反軍の契機があったとしてそれを回想し、掘り起こし、それによってこの両者を結びつけていた。実際に庶民の戦争体験の中にも、戦争の最中に感じた戦争への疑問や軍国主義への反発は、少なからず見られたのである。ただ、この戦時下に存在した非戦・反戦の契機の掘り起こしは大切なポイントではあるが、しかしその非戦・反軍がどれだけのレベル、質にあったのか、その中身が問われたのがこの論争の一つの意味であった。つまり掘り起こしや認定の仕方が、安易なのではないかという問いである。
  それでは戦時下に圧倒的に存在した、日本人の多くが戦争に流されそれに協力した面を、戦後の平和主義ではどのように取り扱っているのか。この点について戦後の平和主義では、過去の戦争協力の事実を悔恨をもって振り返り、その悔恨に立脚して、未来に向けて平和を守る責任を自覚しようとしていた。問題はここでも、過去の行動への悔恨の中身である。悔恨ということの中には、弱いながら一種の道徳的な責任の意識が含まれていると思う。しかしその道徳的な責任の問題をうまく詰め切れずに、またそれを何らかの制度に反映させ定着させることができずに、体制批判(それは戦前・戦後を串刺しにしたような支配体制への批判であった)にのみ帰着させていたところに、戦後の平和主義の弱さがあったように思う。農民兵士の手紙をめぐって問題になったのは、体制批判にのみ帰結させる安直さであり、体制批判だけでは決着のつかない、個別の主体の視野の狭さや行動の責任の問題であった。別の言い方をすれば、その視野の狭さや行動パターンの問題が、現在どこまで自覚され克服されているのか、ということである。
  編者の岩手県農村文化懇談会は、戦時下の非戦・反軍の契機の掘り起こし方においても、体制批判に帰結させる論理の点でも、一九五〇年代の平和主義のもつ優れた点と問題点の双方を抱えていたように思う。そしてその意味で「農民兵士論争」は、一九六〇年代において改めて戦後の平和主義を深化させようとする課題に、接近しようとする論争であったといえよう。
  (なお、戦後の平和主義を支えたもう一つの柱は、非戦闘員まで巻き込むような現代戦の認識の問題であり、これは原爆体験に代表されるものであった。しかしこの点については、この論争中では登場する機会はなかった。)