立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 317頁




犯罪報道の公共性と少年事件報道


葛野 尋之


 

一  問 題 設 定
  (一)  少年法六一条による公表禁止
  (二)  応報的制裁としての公表要求
  (三)  知る権利・報道の自由からの公表要求

二  知る権利・報道の自由と少年事件報道
  (一)  アメリカ法における公表拡大の流れ
  (二)  少年法六一条違憲論
  (三)  少年法六一条違反報道の違法性を否定した判例

三  本人特定事実の公共性と少年法六一条
  (一)  犯罪報道の公共性
  (二)  本人特定事実の公共性
  (三)  少年法六一条の意義

四  結語  −刑事人権と市民の権利−





一  問  題  設  定


(一)  少年法六一条による公表禁止
  1  成人の犯罪事件に関する報道について、特別な法的規制は存在しない。これに対して、少年法は、少年審判の非公開を定めるとともに(二二条二項(1))、六一条において、「家庭裁判所の審判に付せられた少年又は少年のときに犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知できるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」と規定している。本人特定事実の公表禁止は家庭裁判所に事件が送致される前の捜査段階にも及ぶ、と理解されている。それゆえ、少年の非行事件の場合には、通常、被疑者の逮捕から家庭裁判所の審判、処分の決定、さらにその後に至るまで、氏名、顔写真などは公表されない。
  2  少年法六一条が少年の本人特定事実の公表を禁止していることについては、少年の名誉・プライバシーを保護し、否定的な社会的烙印を回避することにより、その「健全な育成」(少年法一条)を期そうとする趣旨によるものであって、少年法の福祉・教育理念が最もよく具体化した規定である、と理解されてきた(2)
  最近は、少年法の基本理念を、国際人権法との関連において「少年の最善の利益」として(3)、あるいは少年の人間の尊厳としての成長発達権の保障として(4)捉える見解が示されている。

(二)  応報的制裁としての公表要求
  1  少年法六一条があるにもかかわらず、人々の関心を強く引くような重大な非行事件が起きると、これに違反して、少年の氏名、顔写真などを公表する報道が繰り返されてきたことも事実である(5)
  この種の報道のなかには、近年、少年法六一条に違反することの理由を説明するうえで、後述する知る権利・報道の自由の視点を加味しつつ、厳罰指向の少年法改正提案と結合させる形で、少年であっても、とくに重大な事件の場合には、応報的制裁として本人特定事実を公表すべき旨提起するものが多い。
  最近の例としては、一九九八年、少年の路上殺傷事件である堺事件について、ある月刊誌が少年の氏名、顔写真を明らかにした記事を掲載したものがある。掲載にあたっては、@「……稀に見る残虐非道の犯罪であること」、A「……あと半年で二〇歳になるにもかかわらず、『一九歳少年』と匿名化され、事件の本質が隠されていること」、B「……少年法は、著しく現実と乖離していること」、C以上について編集者と記事執筆者の全面合意があったこと、という理由が述べられた。さらに、「現在、日本の社会には、『少年』の問題のみならず、地殻変動とも呼ぶべき事件が次から次へと起きています。いまこそジャーナリズムにたずさわるものとして、小誌はタブーを排し、『事件』の深い取材と分析をすべきだと考えています」との見解が述べられた。
  このように、「稀に見る残虐非道の犯罪」に対する応報的制裁という点を基調としつつ、「『事件』の深い取材と分析」を行い「事件の本質」を報道する「ジャーナリズム」の責任が指摘されており、知る権利・報道の自由の見地からの公表の正当化が提起されている。この記事掲載については、後述するように、名誉、プライバシーなどの侵害による損害賠償請求訴訟が、少年から提起された。
  2  応報的制裁として少年の本人特定事実の公表を要求する立場は、現在、少年法を厳罰化する「改正」法案と結合する形で、自民党、公明党、保守党が、「少年法改正に関しての与党三党合意」(二〇〇〇年九月二一日)として、「悪質重大な事件で社会的に正当な関心事である犯罪について、少年法六一条(記事等の掲載の禁止)の例外規定を設けることは、現在係争中の事件(原審・大阪地方裁判所平成十年(ワ)第四三二二号)の最高裁判決の動向も踏まえ検討することとし、その趣旨を法の附帯決議に盛り込む」よう要求することへとつながっている。
  少年法の厳罰化への流れが急激に強まるなか、少年法六一条の「改正」が政治課題として具体的に提起されつつある、といってよいであろう。
  3  しかし、応報的制裁として少年の本人特定事実を公表することを、認めることはできない。
  たしかに、氏名、顔写真などを公表する犯罪報道が、事実上、応報的制裁としての効果を有していることは否定できないであろう。「報道裁判(paper trial)」、「犯罪報道の犯罪」と批判されてきた所以である(6)。しかし、犯罪報道が応報的制裁の機能を積極的に担うことは、市民の知る権利への奉仕という報道が担うべき公共的機能と責任を逸脱しており、また、憲法が犯罪に対する私的制裁を禁止したうえで、人権保障の本質的要請として、実体、手続の両面にわたる法の適正手続を定めていること(憲法三一条以下)の趣旨にも適合しない(7)
  この点について、堺事件の少年法六一条違反の記事掲載をめぐる損害賠償請求訴訟において、第一審の大阪地裁は、実名報道により少年に「自分のなしたことをきっちりと認識させたうえで、分からせるべきだと考え、また、殺され、傷つけられた被害者に対する鎮魂のためでもあった」という原告の主張に対して、この主張は理解しがたく、「本来法の下に行われるべき処遇ないし制裁を、被告らにおいて行う権限があるかのごとき主張でもあって、到底首肯しえない」と認めた(8)。また、控訴審の大阪高裁も、本人特定事実の公表の違法性は認めなかったものの、「本件記事によって被控訴人に自分のしたことを認識させ分からせることができるかどうかは不明であるし、そもそも控訴人らにそれをする権利があるとも解されない」とした(9)

(三)  知る権利・報道の自由からの公表要求
  1  少年法六一条に対しては、近時、知る権利・報道の自由の観点からも、厳しい批判が提起されている。
  少年法六一条による少年の本人特定事実の公表禁止は、表現の自由(憲法二一条)としての知る権利・報道の自由を侵害するものであって、憲法上正当化されえない、というのである。このような見解は、報道の自由やそれが奉仕するべき市民の知る権利と、名誉・プライバシーなど、本人特定事実の公表禁止により保護される少年の権利、さらにはその基礎にある少年法の福祉・教育理念とが対立する、との構造を前提としつつ、表現の自由が憲法上「優越的地位」にあることからすれば、前者が原則的に優越する、とするのである。
  市民の知る権利と被疑者・被告人、受刑者、少年法上の少年などの実体的・手続的権利(以下、「刑事人権」という)との対立構造の下での前者の原則的優越という法的判断枠組みは、刑事法の他の局面においても、現在、提起されるに至っている。このような法的判断枠組みが最も端的な形で現れるのが、少年法六一条における少年の本人特定事実の公表禁止をめぐる問題である、といってよいであろう。
  2  本稿の課題は、知る権利・報道の自由の意義を踏まえて、犯罪報道、とくに少年の本人特定事実の報道の公共性を吟味することによって、少年法における本人特定事実の公表禁止の意義を解明することである(10)。そして、このことを通じて、刑事法において市民とはどのような存在として位置づけられるのか、市民の権利と刑事人権とはどのような関係にあるのか、を明らかにするための手がかりを得ることである。
  少年の本人特定事実は公共的事実にはあたらず、また、公共性のある報道が自由になされるよう保障するためにその公表を法的責任から解放する必要もないのであれば、本人特定事実の公表は、少年の名誉・プライバシーを侵害するものとして、法的責任を問われうるのではなかろうか。少年法六一条はこのことを明示した規定なのではなかろうか。少年の本人特定事実の公表は、さらに、少年法の福祉・教育の理念や、それを支える少年の成長発達権の保障の趣旨に反するものであるから、禁止されるべきではなかろうか。

二  知る権利・報道の自由と少年事件報道


(一)  アメリカ法における公表拡大の流れ
  1  少年法の母国であり、日本の少年法にこれまで多大な影響を与え続けてきたアメリカ法においては、現在までに、少年審判の公開が拡大され、本人特定事実の公表制限も大きく緩和される傾向がみられる(11)。一九九七年末の時点で、四二州が、非行事件の手続に付された少年の氏名を、なんらかの形でメディアに公表することを許容している。氏名とともに、写真、裁判記録の公表が認められる場合もある。多くの州法は、メディアの報道が許される条件を定めている。一六州においては、裁判記録または裁判手続が公開されているがゆえに、少年の本人特定事実を報道することが可能である。二七州においては、特定の犯罪に関する事件、再犯事件のいずれかまたは双方の場合に限って、少年の本人特定事実の公表が認められている。一一州においては、メディアが報道するためには、裁判所命令が必要とされる(12)
  2  この傾向は、一九七〇年代末以降、一九八〇年代から九〇年代を通じて、アメリカ少年司法が厳罰政策へと深く傾斜していったことと、強く関連している(13)
  少年の本人特定事実の公表禁止は、少年の非行克服ないし社会復帰を促進するために必要かつ重要であり、少年法の福祉・教育理念を最もよく具体化したものと位置づけられてきただけに、厳罰政策への傾斜によって福祉・教育理念が後退したとき、それにともなって、本人特定事実の公表が拡大される傾向が生じるのである。このような文脈においては、少年の場合でも、犯罪行為に対する行為者のアカウンタビリティを成人の場合と基本的に同様に問うべきであるとする立場から、犯罪行為に対する応報的制裁として、本人特定事実の公表が要求される(14)。そうであるがゆえに、福祉・教育理念を尊重しつつ少年司法の運営に携わっている実務家のあいだには、少年審判の公開と並んで、少年の氏名、顔写真などを公表することに対する根強い批判がある(15)
  3  他方、知る権利・報道の自由を基礎にする公表要求も強い。たとえば、「自らの少年司法制度がどのように機能しているか、また、コミュニティのなかで誰が事件の本人なのか、について公衆の『知る権利』に応えようとの報道機関の要求がますます強まっていることにともない、少年のためのプライバシー保護との対立が深刻になっている(16)」と説明されている。
  合衆国最高裁の判例においても、知る権利・報道の自由の視点から、少年の本人特定事実の公表禁止に関する裁判所命令ないし州法が許容されないと判断したものがある。
  オクラホマ出版社事件においては、少年が審判前の身体拘束のための審問に出席したさい、新聞記者らが審問を傍聴して、少年の氏名を知り、写真を撮影したうえで、それらを公表する記事を掲載した。その後、少年は非公開の審理に付され、裁判所は、それ以後に少年の氏名、写真を公表することを禁止する命令を発した。この禁止命令について、一九七七年、合衆国最高裁は、新聞記者らの傍聴および写真撮影に対して裁判官も、弁護人、検察官もなんら異議を申し立てなかったのであり、審問は事実上公開されていたのであるから、そのさいに明らかとなった少年の氏名、写真の報道を禁止することは、表現の自由を保障する合衆国憲法修正1条が禁止する事前規制にあたり許されない、と判断した(17)
  スミス事件においては、新聞社が、犯行現場における目撃者の取材により被疑者である少年の氏名を知り、警察が連行している少年の写真を撮影したうえで、これらを報道した。ウエスト・ヴァージニア州法は、裁判所の書面による許可がない限り少年の本人特定事実を公表することを禁止し、その違反に刑罰を科すことを定めていたので、少年の氏名、写真を公表した新聞社二社が刑事訴追された。この州法の合憲性について、一九七九年、合衆国最高裁は、少年の匿名性を保護し、その社会復帰を促進するという利益は、通常の適法な取材方法により少年の氏名を知り写真を撮影した場合には、その公表に対して刑罰を科すことを正当化するほどまでに重大であるとはいえないから、合衆国憲法修正一条の下でこの州法は許容されない、と判断した(18)
  このように、合衆国最高裁の判例は、憲法上の報道の自由にかんがみて、少年の本人特定事実の公表を禁止する州法ないし裁判所命令が許容されないとした。ただし、オクラホマ出版社事件においては、新聞記者らの傍聴が黙認されて、事実上公開の審問が行われており、スミス事件においては、公表それ自体に対して刑罰が定められていた、という点において、日本の少年法六一条の場合とは、前提において違いがあるように思われる。そうとはいえ、これら合衆国最高裁の判例からも、少年の本人特定事実の公表禁止について、知る権利・報道の自由の視点から、その意義を解明するという課題が明らかにされている。

(二)  少年法六一条違憲論
  1  最近、日本においても、知る権利・報道の自由の視点から、少年法六一条を批判し、一定の場合に少年の本人特定事実の公表を認めるべきであるとする見解が提起されている。その代表的論者である松井茂記は、概ね次のように論じている(19)
  少年のプライバシーを保護し、少年の更生を促進するという目的は正当であり、十分尊重に値する利益である。しかし、本来、報道の自由の視点からすれば、氏名の報道など表現報道の内容に基づき表現報道を制約する場合には、やむにやまれないほど重要な政府利益を達成するために必要不可欠な手段でなければ許されない。
  少年法六一条は、@事件が刑事手続に付され、審理が公開の法廷で行われるような場合にも適用され、A報道機関が通常の適法な取材によって本人特定事実を知った場合にまで、その公表を禁止し、B氏名、顔写真、学校名などの公表を、「合理的な公的関心」の対象である場合をも含めて、また、少年が成人に達した後も、一律かつ絶対的に禁止しており(過大包摂)、C「新聞その他の出版物」への掲載のみを禁止し、また、被害者の氏名、顔写真などの公表を一切禁止していないこととの均衡をあまりにも逸している(過小包摂)、という点において、憲法二一条の表現の自由を侵害している。
  少年のプライバシー保護や更生の促進のために、少年の氏名などの報道に制限をおくことは自体は許されるにしても、家庭裁判所が具体的な事案において少年保護と報道の自由を利益衡量し、少年保護という利益を達成するために必要不可欠な限度で、報道の制限を決定すべきである。そのさい、家庭裁判所は、どの程度少年保護の必要性があるか、報道制限がどれだけ少年保護に寄与するか、他方で、「その事件についてマス・メディア、そして国民が関心を持つことがどれだけ合理的であるか」を比較検討すべきである。
  このように、松井茂記は、少年の本人特定事実の公表拡大へと向かうアメリカ法の流れを踏まえて、少年法六一条が表現の自由を保障した憲法二一以上に違反すると論じている。
  2  また、田島泰彦(20)も、@表現の自由の優越的地位に基づく報道の自由の価値、A「少年の更生」、「再犯の防止」、「子どもの最善の利益」などとして提起されてきた規制根拠の憲法的意義の不明確さ、B少年事件の公的性格、などにかんがみたとき、少年法六一条は「規制の程度、方法等において、表現の自由や情報公開などの観点から重大な問題をはらんでおり、より表現の自由保護的な規定へと再検討する必要がある」と論じている。
  田島泰彦によれば、@成人後にも公表禁止の効果が及び、A少年法の対象年齢が二〇歳未満と広くとられており、B公表禁止の対象が包括的に定められているうえ、公表が許される例外の余地を明記していない、などの点において、「現行少年法の規定が過剰な報道規制措置となっていて、報道の自由やジャーナリズムの視点が希薄もしくは欠落しており、あまりにもバランスを失している」とされる。「一部成人を含み上限がかなり高めに取られている少年の身元に対して、例外の余地を明記せずほぼ全面的に報道を禁止している点は、たとえ可塑性に富む少年の矯正・更生と社会復帰の確保や、格別の人権擁護というその基本理念は是認されうるとしても、報道の自由と知る権利の保障などの憲法的要請に適うとはとうてい言いがたく、正当化するのは難しい」とされるのである。

(三)  少年法六一条違反報道の違法性を否定した判例
  1  少年法六一条が憲法上正当化されないとの見解が提起されるなかで、最近、大阪高等裁判所は、上述した堺事件の少年法六一条違反報道について、名誉毀損、プライバシー侵害などの違法性を認めず、損害賠償請求を棄却する、という注目すべき判断を行った。
  2  大阪地裁の第一審判決(21)は、少年法六一条は、少年の氏名などが「みだりに公表されないという法的保護に値する利益を保護するとともに、公共の福祉や社会正義の観点から、少年の有する利益の保護や少年の更生につき優越的な地位を与え強い保障を与えようとするもの」と理解したうえで、この公表については、「原告の有する、犯罪行為を犯したこと等につき実名及び顔写真を使用して公表されないことについての法的保護に値する利益を上廻る公益上の特段の必要性があったとも、公益を図る目的の下で必要かつ相当な手段・方法において行われたものとも認めることができない」として、違法な権利侵害を認め、損害賠償請求を容認した。
  判決は、被告側の主張に対して、@たとえ氏名、顔写真などを公開しなかったとしても、「記事内容の価値に変化が生じるものとは解されず」、「本件事件の本質が隠されてしまうものとは到底考えられない」。A原告は刑事訴追されることが確実で、公開の法廷でそのプライバシー等が不特定多数の人に明らかにされるとはいっても、「公開の法廷で審理がなされることにより原告のプライバシーが公開される場合と、出版物に掲載されてそれが公表される場合とでは、公表の規模が自ずから異なる」から、実名報道に実質的違法性がないとはいえない、などとの判断を示した。
  3  これに対して、大阪高裁の控訴審判決(22)は、違法な権利侵害はなかったと判断した。
  判決は、まず、表現の自由は「民主主義の基盤」として憲法上「優越的地位」にあることを踏まえると、「表現行為が社会の正当な関心事であり、かつ、その表現内容・方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー侵害とはならない」との立場を明らかにした。そして、「犯罪容疑者については、犯罪の内容・性質にもよるが、犯罪行為との関連においてそのプライバシーは社会の正当な関心事となり得るものであり」、少年法六一条違反によりただちに表現行為が違法となるわけではないとしたうえで、本件事件は「社会一般に大きな不安と衝撃を与えた事件であり、社会一般の者にとっても、いかなる人物が右のような犯罪を犯し、またいかなる事情からこれを犯すに至ったのかについて強い関心があったものと考えられるから、本件記事は、社会的に正当な関心事であった」と判断した。
  判決はさらに、「社会一般の意識としては、右報道における被疑者等の特定は、犯罪ニュースの基本的要素であって犯罪事実と並んで重要な関心事であると解されるから、犯罪事実の態様、特質、あるいは被害者側の心情等からみて、実名報道が許容されることはあり得る」としたうえで、本件犯罪事実は「きわめて凶悪重大な事犯であり、被控訴人が現行犯逮捕されていることと、被控訴人とは何の因縁もないにもかかわらず無惨にも殺傷された被害者側の心情をも考慮すれば」、本件の実名報道は表現内容、方法としても不当とはいえず、違法な権利侵害とはならない、と認めた。
  判決は、少年法六一条の法的性格については、「少年の健全育成を図るという少年法の目的を達成するという公益目的と少年の社会復帰を容易にし、特別予防の実効性を確保するという刑事政策的配慮に根拠を置く規定」であると理解し、そうであるから、少年法六一条が実名で報道されない権利を付与しているとはいえず、かりに付与していたとしても、違反に対する罰則がないことからすれば、「表現の自由との関係において、同条が当然に優先するものと解することもできない」とした。
  4  このように、第一審判決と控訴審判決は、判断をまったく異にした。訴訟は、現在、最高裁に係属中である。上述の「与党三党合意」にもあったように、最高裁判決の結果は、少年法六一条の「改正」をも左右することになるであろう。

三  本人特定事実の公共性と少年法六一条


(一)  犯罪報道の公共性
  1  少年法六一条による少年の本人特定事実の公表禁止は、表現の自由(憲法二一条)としての知る権利・報道の自由に関連するものであるから、その意義を明らかにするうえでは、憲法的視点から犯罪報道、とくに少年の本人特定事実を報道することの公共性を吟味しなければならない。このような解明が、これまで必ずしも十分でなかったことは、最近の知る権利・報道の自由に基づく公表許容論が指摘するとおりかもしれない。
  本人を特定して犯罪に関連する事実を報道することは、犯罪がその人の評価に関する事実である以上、その人の名誉に触れるものである。また、プライバシーを「他人に知られたくない事実」ないし「自己情報をコントロールする権利」として理解する限り、その人のプライバシーにも触れるものである。前科照会事件において、最高裁は、「前科及び犯罪経歴は人の名誉、信用に直接かかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有する」とするとした(23)。伊藤正己裁判官の補足意見が、「他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであっても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許され」ない、と認めていることからしても、多数意見に「プライバシー」との明言はないものの、実質的にプライバシーの権利が承認されたと理解してよい(24)
  2  他方、現在までに、知る権利・報道の自由の下で、市民の正当な関心事としての公共的事実についての公益目的による根拠ある報道は、名誉毀損罪を構成することはなく(25)、名誉毀損の民事責任も生じさせない(26)、という判例法理が確立している。また、公共的事実についての公益目的による報道はプライバシー侵害とはならない、との理解が定着してきている(27)。このように、報道による名誉・プライバシーの侵害について判断するうえでは、報道した事実が公共的事実かどうか、報道が公共性を有するかどうか、という点が決定な意義を有する。
  少年法六一条が公表を禁止しているのは、氏名、顔写真など、少年の本人特定事実である。少年の非行事件について、それを超える範囲で、報道を制限しているわけではない。したがって、問題は、少年の本人特定事実が公共的事実かどうか、それを公表する報道が公共性を有するかどうか、という点である。少年の非行事件そのものについての報道の公共性が問題なのではない。
  3  少年の本人特定事実の報道の公共性について、堺事件の少年法六一条違反報道に関する先の大阪高裁判決は、「重大悪質な事件であり、被疑者として逮捕された被控訴人がシンナー吸引中で、被害者らとは何の因縁もない者であったこともあいまって、被害者及び犯行現場の近隣にとどまらず、社会一般に大きな不安と衝撃を与えた事件であり、社会一般の者にとっても、いかなる人物が右のような犯罪を犯し、またいかなる事情からこれを犯すに至ったのであるかについて強い関心があったものと考えられるから、本件記事は、社会に正当な関心事であった」としている(28)
  田島泰彦は、「少年事件や犯罪に関わる事実は基本的に公共的な性格をもち、広く報道と公開の対象に据えられるべきであ」るとして、この大阪高裁判決を、「少年事件を含め、被疑者の特定など犯罪に関する事実は単純に私的な問題として一方的に保護の対象とされるべき事項ではなく、……社会の正当な関心事として公表・公開されてしかるべき性質をもつことが強調されている」点において、肯定的に評価している(29)。また、「事件が公共の関心事であれば、基本的には犯罪の実名報道は憲法二一条で保障された表現の自由というべきであ(30)」るとの松井茂記の見解も、「犯罪にかかわる事実は公共の関心事(31)」である以上、氏名、顔写真などの本人特定事実も基本的に公共的事実であり、その報道は公共性を有する、という理解を前提とするものであろう。
  たしかに、少年の本人特定事実に対して、社会の人々の関心が向けられるのは自然なことかもしれない。しかし、なぜそれが「正当な」関心なのか、なぜその報道が公共性を有するのか。また、少年の非行事件ないし非行事実そのもの、あるいはそれに関する司法手続や法的処遇が公共的事実であるにしても、そうであるからといって、少年の本人特定事実も公共的事実といえるのか。これらの点について、知る権利・報道の自由の視点から、より厳密に検討しなければならないように思われる。公共的事実は、「たんなる『公衆の関心事』ではなく『公衆の正当な関心事』としてとらえるべきである(32)」からである。
  3  もともと、知る権利・報道の自由の下で、公共的事実の報道が、報道された人の名誉・プライバシーに触れるものであっても正当化されるのは、それが、市民自治を中核とする社会の民主的発展にとって特別な意義を有するからであった。したがって、知る権利・報道の自由の特別に強い保障が及ぶ公共的事実とは、市民自治ないし社会の民主的発展のために人々が知る必要のある事実のことをいう(33)
  このことを踏まえたとき、犯罪に関する事実の報道の公共性は、第一に、人権保障に配慮した適正な刑事司法であることを監視するために必要な事実、第二に、犯罪の背景にある、または犯罪が提起した問題の解決によって社会が自省的に発展していくために必要な事実、について報道する点にあるように思われる。これらの事実の報道は、市民自治ないし社会の民主的発展に必要なものであるがゆえに、市民の正当な関心事の報道として公共性を有するのである。少年の非行事件に関する報道の場合も同様である。

(二)  本人特定事実の公共性
  1  では、本人特定事実についてはどうか。
  本人特定事実の報道が犯罪報道としての公共性を有することは原則的にない、といってよいように思われる。本人特定事実が、人権保障に配慮した適正な刑事司法の監視のために、あるいは犯罪に関する問題の解決による社会の自省的発展のために、必要な事実であることはないからである(34)
  しかし、本人特定事実が本来的に公共性を有する場合もありうる。それは、社会的地位に基づき公共的な責任を負うべき人の犯罪の場合である。このような意味の「公人」の場合には、「私人」の場合と異なり、本人特定事実の報道は、犯罪報道固有の公共性を有することはないにしても、その人の社会的活動や社会的地位を占める資質についての批判・評価のための資料となる事実の報道である以上、市民自治ないし社会の民主的発展に必要な事実の報道として、広い意味の政治報道としての公共性を有するからである(35)
  2  そうであるならば、「私人」の場合には、本人特定事実の公表は、公共性に欠けるものとして、違法な名誉・プライバシー侵害となるのであろうか。そうではないように思われる。
  刑法二三〇条の二は、憲法上の表現の自由の観点から、名誉毀損罪の正当化について定めているが、第二項は、「公訴提起前の人の犯罪行為に関する事実」の公共性を擬制している。この規定が置かれたのは、非公開の捜査手続については、知る権利・報道の自由の観点から、適正な捜査を監視するための報道の必要がとくに高いからである(36)。後述するように、知る権利・報道の自由の保障という目的のためには、「犯罪行為に関する事実」を狭く限定するべきではなく、本人特定事実もそれに含まれると理解すべきである(37)
  先に述べた犯罪報道の公共性にかんがみると、憲法八二条の裁判の公開の趣旨に照らしても、刑法二三〇条の二第一項において、公訴提起後も、「犯罪行為に関する事実」については公共性が認められていると理解すべきであろう。この場合にも、二項の場合と同様、本人特定事実は公共的事実として扱われるべきである。
  3  上述のように、「公人」の場合と異なり、「私人」の場合には、本来は、本人特定事実が公共性を有することはなかった。では、なぜ、刑法二三〇条の二の下で、「公人」のみならず、「私人」の場合にも、本人特定事実が公共的事実とされるのであろうか。
  問題となる本人が「公人」なのか「私人」なのかという区別は微妙であり、その判断には重大な困難がともなう場合が少なくない。もし、「私人」の場合には本人特定事実は公共的事実にあたらないとして、それを公表する報道が法的責任を生じさせるとしたならば、問題の本人が「私人」か「公人」かの区別が微妙なものである以上、本来的な公共的事実として報道されるべき「公人」の場合にも、法的責任を負うことをおそれて、本人特定事実の報道が差し控えられるという事態が生じうる(38)。表現の法的規制にあたっては、法的規制のもつ萎縮効果に配慮すべきであった。市民自治ないし社会の民主的発展のために報道されるべき公共的事実が、法的規制の威嚇によりこのような形で差し控えられることは、知る権利・報道の自由の保障にとってあるべきではない。
  要するに、刑法二三〇条の二の下で、「公人」か「私人」かを問わず、本人特定事実が公共的事実とされるのは、法的責任から自由にすることによって、「公人」の本人特定事実の報道が差し控えられることのないよう保障するためである。知る権利・報道の自由の保障という目的のためには、名誉毀損、プライバシー侵害などの民事責任を問題にする場合にも、同様に、本人特定事実は公共的事実とみなされる、と理解すべきである。
  法的責任から自由にされるとはいえ、「私人」の場合には本人特定事実の報道に本来的な公共性はないのであるから、報道する者の社会的責任において、「私人」の本人特定事実は公表すべきでない。報道の自由の特別な強い保障にともなう社会的責任である。

(三)  少年法六一条の意義
  1  少年法六一条による少年の本人特定事実の公表禁止は、どのような意義を有するのか。
  少年の場合には、問題となる本人が「公人」であることはおよそないはずである。したがって、その本人特定事実が公共的事実にあたることはない。また、「公人」か「私人」かの区別と異なり、少年か成人かの区別は、非行の行為時を基準とすることにより、明確に行うことができる。
  したがって、少年の本人特定事実は公共的事実にあたらないとして、その報道が法的責任を生じさせうることを認めたとしても、そのことによって、本来的に報道されるべき「公人」の本人特定事実の報道が差し控えられる危険は生じない。成人の場合と異なり、少年の場合には、「公人」の本人特定事実の報道が差し控えられることのないよう保障するために、本人特定事実の報道を、本来は公共性を有しないにもかかわらず、あえて法的責任から解放する必要はないのである(39)
  2  他方、少年の本人特定事実の公表は、少年に否定的な社会的烙印を刻み込むこととなって、少年に対する社会的排斥をもたらすと同時に、少年自身にも否定的な自己観念を植え付けることにつながる。このことは、少年から、将来の実効的な社会参加の機会を奪うことになるであろう。こうして、本人特定事実の公表は、少年が地域社会のなかで非行を克服し、少年と社会が再統合(reintegration)することを困難にする(40)
  子どもの権利条約四〇条二項・≡は、少年の非行克服に向けた成長発達の保障という文脈において、「刑法に違反したと申し立てられ、または訴追されたすべての子ども」は、「手続のすべての段階において、プライバシーが十分に尊重されること」を定めている。また、国連少年司法運営最低基準規則(北京ルールズ)は、これを具体化して、規則八・一において、「少年のプライバシーの権利は、不適当な公表またはラベリングのプロセスによって少年が害されることを避けるために、すべての段階において尊重されなければならない」としたうえで、規則八・二において、「原則として、刑法に違反した少年の特定につながるようないかなる情報も公表されてはならない」としている。これら国際人権法の規定は、少年の非行克服ないし社会との再統合を促進するためには、プライバシーの手厚い保護が不可欠であって、本人特定事実の公表は、少年に否定的な社会的烙印を刻み込み、少年の非行克服と社会的再統合を妨げることになる、という認識を基礎にしている(41)
  このように、少年の本人特定事実の公表は、少年が非行を克服し、社会と再統合することの大きな妨げとなって、少年法の福祉・教育理念に反する。そして、少年法の福祉・教育理念は、たんに弱者への恩恵として、あるいは効率的な犯罪対策のためにあるのではない。すなわち、少年は一人一人、成長発達過程にある子どもの人間としての尊厳として、いまある自律的人格を尊重されつつ、全面的に成長発達する権利を保障される。少年法の福祉・教育理念は、この意味の子どもの人権に基づくものであって、非行克服に向けて成長発達の適切な援助を受けることは、それ自体少年の権利である(42)。したがって、少年の本人特定事実の公表は、少年法の福祉・教育理念の基礎にある少年の成長発達権の保障の趣旨に反する(43)
  3  本人を特定した犯罪に関する報道は、その人の名誉・プライバシーに触れるものであるが、少年の場合には、知る権利・報道の自由の保障という目的のために、本人特定事実を公共的事実として扱う必要はなかった。さらに、少年の本人特定事実の公表は、少年法の福祉・教育理念に反し、その基礎にある少年の成長発達権の保障の趣旨に適合しない。それゆえ、少年法六一条は少年の本人特定事実の公表を禁止し、それによって、少年の本人特定事実の報道が法的責任から自由ではないことを明示した。刑法二三〇条の二の下で、本人特定事実が公共的事実と扱われていたのに対して、少年法六一条は、少年の場合にはそのような法的効果が及ばないことを明らかにしたのである。
  したがって、少年の本人特定事実の公表は、それによって生じた名誉毀損、プライバシー侵害などについて、法的責任を問われうることになる。それゆえに、少年法六一条の違反それ自体に罰則は必要なく、また、設けるべきでもない。逆に、少年法六一条違反それ自体に刑罰が定められていないからといって、少年の本人特定事実の公表が、法的責任から解放されているというわけではない。

四  結    語  −刑事人権と市民の権利−

  市民の知る権利は、市民自治ないし社会の民主的発展の基礎として位置づけられるものである。少年非行事件の報道についての以上の検討からすると、このような知る権利の主体としての市民は、自己の好奇心を満たすため、あるいはたんなる興味に駆られて、犯罪・刑事司法に関する情報に接近しようとする存在ではない。市民の知る権利は、人権保障に配慮した適正な刑事司法の監視のために、また、犯罪に関する問題の解決による社会の自省的発展のために必要な事実にこそ向けられており、報道の自由はそれに奉仕するためにある。刑事法において、市民とは、このような意味の公共的価値の実現にコミットする主体であって、市民自治ないし社会の民主的発展の担い手として存在する(44)
  少年の本人特定事実の公表禁止をめぐっては、少年法の福祉・教育理念と結合した少年の権利と、「市民」の権利との対立構造が描き出され、前者に対する後者の優位が主張される、という傾向が強まっている(45)。このような法的判断枠組みは、刑事施設釈放者についての地域社会における住所登録・前科公表など、刑事法の他の問題においても提起されている(46)。また、現在、被疑者、被告人などに保障される刑事人権の抑制をともなう実体、手続両面にわたる犯罪統制の強化への「国民の期待」があるとしたうえで、その「国民の期待」に応答するための刑事司法改革を積極的に展開することも提起されている(47)
  しかし、刑事法において市民が先の意味の公共的価値の実現にコミットする主体である以上、市民の権利と刑事人権は、本来、このような形で対立するものではないように思われる。また、刑事人権との関連において、憲法における刑事法の実体的・手続的な適正さの要請の下では、市民の期待は、本来、刑事人権の抑制と結びついた実体的・手続的な犯罪統制の強化にではなく、刑事司法における刑事人権の確保にこそ向けられているのではなかろうか(48)。ここに、憲法の措定する刑事法における市民的公共性がある(49)

(1)  松井茂記「少年事件と報道の自由」民商法雑誌一二〇巻二号(一九九九年)は、憲法八二条の裁判公開原則の趣旨を及ぼして、少年審判も原則公開されるべきとする。少年の適正手続との関連における少年審判の非公開の意義について、葛野尋之「刑事裁判の公開と少年審判の非公開」『澤登俊雄先生古稀祝賀論文集』(現代人文社・二〇〇〇年)、「少年の公開刑事裁判は公正な裁判か?−イギリスのバルジャー事件裁判に関するヨーロッパ人権裁判所判決−」法学セミナー五四六号(二〇〇〇年)、「少年審判の非公開と少年事件報道」刑法雑誌四〇巻三号(二〇〇一年予定)を参照。最後のものは、二〇〇〇年五月二〇日の日本刑法学会第三分科会「犯罪報道と人権」(京都大学)における報告に基づくものである。
(2)  白取祐司「少年事件の報道と少年法」法律時報七〇巻八号(一九九八年)が、それまでの諸見解を鮮やかに整理・分析している。
(3)  酒井安行=村山裕「少年事件報道」法律時報六三巻一二号五七頁以下(一九九一年)、新倉修「少年事件報道と少年の人権」田島泰彦=新倉修編『少年事件報道と法−表現の自由と少年の人権−』(日本評論社・一九九九年)。
(4)  山口直也「少年事件と被害者の権利」田島泰彦=新倉修編・註(3)書六六頁、服部朗「少年事件報道と人権」註(1)『澤登古稀』二六三頁以下。
(5)  飯室勝彦=田島泰彦=渡邊眞次編『報道される側の人権(新版)』(明石書店・一九九九年)二二九頁以下、田島泰彦=神奈川大学田島ゼミナール「戦後少年事件報道小史」田島泰彦=新倉修編・註(3)書一四二頁以下参照。
(6)  浅野健一『犯罪報道の犯罪』(学陽書房・一九八四年)、同『新・犯罪報道の犯罪』(講談社文庫・一九八九年)など参照。
(7)  この点については、葛野尋之「少年事件報道と人権」団藤重光=村井敏邦=斉藤豊治ほか『「改正」少年法を批判する』(日本評論社・二〇〇〇年)。また、新倉修「少年事件報道と少年の人権」田島泰彦=新倉修編・註(3)書三一頁以下参照。
(8)  大阪地判一九九九年六月九日・判例時報一六七九号六一頁。
(9)  大阪高判二〇〇〇年二月二九日・判例時報一七一〇号一二四頁。ただし、本稿註(22)参照。
(10)  葛野尋之「少年の刑事手続と少年事件報道−堺事件の刑事訴訟法的論点−」法学セミナー四五一号(二〇〇〇年)、葛野尋之・註(7)論文、葛野尋之・註(1)論文(刑法雑誌)参照。
(11)  辻脇葉子「アメリカ少年裁判所の刑事裁判化と非公開・匿名報道原則の変容」明治大学短期大学紀要六五号(一九九九年)、紙谷雅子=正木祐史「国際的動向/アメリカ」田島泰彦=新倉修編・註(3)書など参照。
(12)  Howard N. Snyder & Melissa Shickmund, Juvenile Offenders and Victims:1999 National Report, National Center for Juvenile Justice 101 (1999).
(13)  斉藤豊治「少年審判の非公開と少年事件報道の匿名性−アメリカのジーナ・グラント事件を素材に−」註(1)『澤登古稀』四二八頁は、「アメリカでも、日本でも少年審判の公開や少年事件の実名報道の要求の基底には、非行、犯罪を犯した少年に対する社会的制裁、応報の強化の意図が込められている」とする。最近の日本においても、知る権利・報道の自由に基づく公表要求を提起するもののなかには、「被害者の視点」への立脚ないし「被害者の心情」の考慮を求めることによって、結局、応報的制裁としての公表要求という視点をも組み込んでいるのではないか、と思われるものがある。本稿註(20)・註(22)参照。
(14)  Comment, Disclosing the Identities of Juvenile Felons:Introducing Accountability to Juvenile Justice, 27 Loyola University Chicago Law Review 349, 353, 389-392 (1996).
(15)  Torbet, et al., State Response to Serious and Violent Juvenile Crime, Office of Juvenile Justice and Delinquency Prevention 43 (1996) は、実際には世間を騒がせた事件を除いて公衆も報道機関も関心を持たなくなっていくとしながらも、少年裁判所の実務に携わる人たちは、「サーカス興行のような雰囲気(circus atmosphere)」に包まれることを懸念して、少年審判を公衆やメディアに公開することに重大な疑問を持っているとする。
(16)  Note, Removing Confidentiality Protections and the”Get Tough Rhetoric:What Has Gone Wrong with the Juvenile Justice, 18 Boston College Third World Law Journal 105, 134 (1998).
(17)  Oklahoma Publishing Co. v. District Court, 430 U.S. 308 (1977).
(18)  Smith v. Daily Mail Publishing Co., 443 U.S. 97 (1979).
(19)  松井茂記・註(1)論文三八頁以下(一九九九年)。
(20)  田島泰彦「少年事件と表現の自由」田島泰彦=新倉修編・註(3)書九から一一頁。ここで、「諸外国並に、少年年齢を一八歳未満へと引き下げる」ことも提起されているが、知る権利・報道の自由と少年法適用年齢の引き下げとが、どのように理論的に結合するのか、必ずしも明らかではないように思われる。田島泰彦「犯罪報道における”自由と人権”」飯室勝彦ほか編・註(5)書は、「従来の被疑者・被告人偏重主義を排して」、被害者とその関係者の「痛みや視点にしっかりと立脚した犯罪報道像の探求が今ほど求められているときはあるまい」としたうえで(一五二頁)、「社会状況や少年犯罪の変容をも踏まえて、憲法の表現の自由法理やジャーナリズムの立場などから、現行の少年法の理念とそれに支えられた報道規制措置を再検討し、改革のための問題提起」をすべきであって、この「見直しに際しては、事件における『被害者』の視点をきちんと組み込み、真実を伝えるジャーナリズムの固有の任務や主体性の観点をしっかり踏まえ、市民の知る権利と報道・出版の自由の原則的立場に立脚しつつ、被疑者である少年の人権や社会的公正などの価値とのデリケートな調整がはかられなければなるまい」と論じている(一五六頁)。「『被害者』の視点をきちんと組み込」んだ報道が、理論的に、どのように知る権利・報道の自由と結合して、本人特定事実の公表要求へとつながるのか、明らかではないように思われるが、もし「『被害者』の視点」が、しばしばそのように理解されることがあるように、社会ないし「市民」における少年への厳罰要求と結合した、応報的制裁としての本人特定事実の公表要求を意味するのであれば、この主張は、知る権利・報道の自由の視点からだけでなく、応報的制裁として本人特定事実の公表を要求する立場にほかならないであろう。少年事件報道における「被害者の視点」といわれるものについて、批判的視点から社会学的に分析したものとして、大庭絵里「少年事件とマス・メディア」後藤弘子編『少年非行と子どもたち』(明石書房・一九九九年)参照。
(21)  大阪地判一九九九年六月九日・判例時報一六七九号五五頁。また、名古屋地判一九九九年六月三〇日・判例時報一六八八号一五一頁は、仮名を用いた報道について、少年法六一条違反を認めたうえで、名誉、プライバシー侵害による損害賠償を認めた。被告の控訴を棄却した名古屋高判六月二九日(判例集未掲載)は、少年法六一条の意義を、憲法および国際人権条約による少年の成長発達の権利の保障の趣旨から、「地域社会での更生の妨げになるラベリングの弊害」を回避するための報道規制として理解し、少年法六一条は「報道の規制により、成長発達過程にあり、健全に成長するためにより配慮した取扱いを受けるという基本的人権を保護し、併せて、少年の名誉権、プライバシーの権利の保護を図っている」としたうえで、これにより保護される少年の権利は、原則として表現の自由・報道の自由に優越するとした。この訴訟も、現在、最高裁に係属中である。
(22)  大阪高判二〇〇〇年二月二九日・判例時報一七一〇号一二一頁。判決は、表現内容・方法の相当性を判断するにあたり、「被控訴人とは何の因縁もないにもかかわらず無惨にも殺傷された被害者側の心情をも考慮すれば」不当とはいえず、違法な権利侵害とはならないとしているが、「被害者側の心情」を「考慮」することが、どのようにして本人特定事実の公表が相当であることに結びつくのか、明らかではないように思われる。もし、この「被害者側の心情」の「考慮」が、社会ないし「市民」における少年への厳罰要求と結合した、応報的制裁としての本人特定事実の公表要求を踏まえることを意味するのであれば、判決は結局、知る権利・報道の自由の視点ばかりでなく、応報的制裁としての公表要求の視点に立っている、といわざるをえないであろう。本稿註(20)参照。
(23)  最判一九八一年四月一四日・民集三五巻三号六二〇頁は、「前科及び犯罪経歴は人の名誉、信用に直接かかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有する」とする。
(24)  松井茂記『マス・メディア法入門(第二版)』(日本評論社・一九九八年)一二二頁以下。
(25)  最大判一九六九年六月二五日・刑集二三巻七号九七五頁。
(26)  最判一九六六年六月二三日・民集二〇巻五号一一一八頁。
(27)  田島泰彦=右崎正博=服部孝章『現代メディアと法』(三省堂・一九八八年)七四頁以下(田島泰彦)、松井茂記・註(24)書一〇三頁以下、一二八頁以下。これらの場合、「公益目的」を独自に重視すべきではない。
(28)  大阪高判二〇〇〇年二月二九日・判例時報一七一〇号一二三頁。
(29)  田島泰彦「少年の実名掲載と少年法六一条」法律時報七二巻九号九六頁(二〇〇〇年)。
(30)  松井茂記・註(1)論文四三頁註(94)。
(31)  松井茂記・註(1)論文四二頁註(89)。そうであるがゆえに、「通常の成人の刑事事件の場合、犯罪にかかわる事実は公共の関心事であるので、氏名の報道は、プライバシーの侵害とはならない」とする。
(32)  浦部法穂『新版・憲法学教室・』(日本評論社・一九九四年)一九七頁は、「多くの人間のたんなる好奇心や興味を満足させるだけのために名誉やプライバシーを侵害された人は、たまったものではない。名誉やプライバシーをおさえても表現の自由が重視されなければならないのは、国民のあいだでの自由な議論を妨げないためである。そうであれば、その議論に関係のないことがらは、たとえ多くの人が関心を持つようなことであっても、もはや名誉・プライバシーに優越しうるものではない」(一九六から一九七頁)とする。
(33)  平川宗信「犯罪報道と人権をめぐる諸問題」法政論集一二三号三六七頁以下(一九八八年)。この意味における公共的事実の報道でない限り、名誉・プライバシーに触れる報道は、違法な権利侵害にあたることになる。名誉・プライバシーと表現の自由について、浦部法穂・註(32)書一九四頁以下参照。
(34)  平川宗信・註(33)論文三七一頁以下。浦部法穂・註(32)書一九七から一九八頁は、「たとえば政治家の汚職事件などのように、実名報道が必要である場合も当然にある」ものの、「犯罪にかんする事実そのものは国民に知らされるべき重要性を持っているとしても、その犯人がどこのだれだということは問題にとって本質的でない、という場合は、かなり多い」として、本人特定事実が「問題の本質にかかわりのない事実であったにもかかわらず実名で報道したことによって、その人の名誉を侵害し生活を破滅させたような場合には、事後的に損害賠償等の責任を負うという覚悟を、報道機関は持つべきであろうし、法律上もそれを可能にする制度が要請される」と論じている。
(35)  月刊ペン事件における最判一九八一年四月一六日・刑集三五巻三号八四頁参照。ノンフィクション『逆転』事件において、最判一九九四年二月八日・民集四八巻二号一四九頁は、「ある者の前科等にかかわる事実は、……それが刑事事件ないし刑事裁判という社会一般の関心あるいは批判の対象となるべき事項にかかわるものであるから」、@「事件それ自体を公表することに歴史的または社会的な意義が認められるような場合」、A「その者の社会活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響のいかんによっては、その社会活動に対する批判あるいは評価の一資料として」、またはB「その者が選挙によって選出される公職にある者あるいはその候補者など、社会一般の正当な関心の対象となる公的立場にある人物である場合に、その者の公職にあることの適否などの判断の一資料として」、氏名など本人を特定して前科等にかかわる事実を公表することは許されることがある、と認めた。この判決は、(1)事件・裁判から本件著作刊行までの一二年のあいだに、氏名を明らかにして前科を公表された「被上告人が社会復帰に努め、新たな社会環境を形成していた事実に照らせば」、前科を公表されないことについて法的保護に値する利益を有しており、(2)「被上告人は、地元を離れて大都会のなかで無名の一市民として生活していたのであって」、公的立場にはなく、また、(3)陪審制度の長所ないし民主的な意義を訴え、当時のアメリカ合衆国の沖縄統治の実態を明らかに」するという目的のために、「本件事件ないしは本件裁判の内容を性格に記述する必要があった」としても、実名までを明らかにする必要はなく、(4)本件著作は「陪審評議の経過を詳細に記述し」ているものの、「歴史的事実そのものの厳格な考究を目的としたものとはいえない」から、実名の公表は許されない、と判断した。このように判断していることからすれば、先の@の場合の意味は、事件それ自体が正当な公共的関心事であれば、ただちに氏名など本人特定事実の公表が認められる、というものではなく、事件それ自体の公表に歴史的・社会的意義があって、その歴史的・社会的意義のために本人を特定する必要があるといえるときには、本人を特定して前科を公表することが認められる、というものであろう。
(36)  平川宗信『刑法各論』(有斐閣・一九九五年)二三二から二三三頁。
(37)  平川宗信・註(33)論文三七五頁以下、三九四頁以下。
(38)  平川宗信・註(33)論文三七五から三七六頁は、「匿名にすべきものを実名で報道することが違法であることは前述の通りであるが、しかし、実名にするか匿名にするかの限界は微妙な場合がある。マスコミがその判断を誤って匿名にすべきものを実名にした場合、これをすべて刑法で罰するとしたら、マスコミは萎縮してしまい、安全策をとって、実名にすべきものをも匿名で報道することになりかねない。これでは、市民の知る権利が妨げられる。そこで、刑法は、匿名で報道すべきものを実名にしても一切処罰しないことにして、マスコミが自分の判断で匿名・実名を区別できるようにしたのである。したがって、この規定は、前述の基準に基づいて匿名・実名の区別をする責任をマスコミに負わせる趣旨の規定であり、実名報道を全面的に正当化した規定ではない。処罰されないということと、正当であるということとは別のことである。(刑法二三〇条の二旧規定の−引用者註)「看倣ス」という文言には、そのような趣旨が含まれている」とする。刑法二三〇条の二の下で「公人」か「私人」かを問わず、犯罪に関する本人特定事実が「公共的事実」とみなされるのは、憲法二一条による知る権利・報道の自由を確保するためであるから、「私人」の場合の本人特定事実の報道は、公益目的による根拠ある報道である限り、刑法上違法と理解すべきではないであろう。平川宗信・註(36)書二三〇頁は、刑法二三〇条の二の法的性格について、「『知る権利』としての表現の自由の保障の問題」として、違法阻却であると理解している。
(39)  村井敏邦「少年事件と情報公開」法学セミナー五二七号六九頁以下(一九九八年)は、少年の非行事件はすべて家庭裁判所の審判に付され、公訴提起されのは家庭裁判所の検察官送致決定を経た場合のみであるから、少年の非行事件に関する情報は、刑法二三〇条の二二項の「公訴が提起されるに至っていない人の犯罪に関する事実」にはあたらず、「名誉毀損罪の成否との関係においても、少年事件情報はそれ自体としてただちに公共性が肯定されるわけではない」としたうえで、「名誉毀損罪には当たらないだけの公共性をもっているが、一般的に公表をもとめるだけの公共性はないという事実は、当然にある。少年犯罪事実は、まさにそのような事実であると考えられる。かりに、少年犯罪事実が名誉毀損罪との関係においては、公共の利害に関する事実であると認められても、国民がそのような事実の公表を求めるだけの公共性は認められない。国民が情報の受けてとして公共性を主張するためには、具体的な利害関係を証明しなければならない」と論じている。しかし、本文で述べているように、少年の本人特定事実は、名誉毀損罪の成否との関係において刑法二三〇条の二の下でも、公共的事実にはあたらない、と理解すべきであろう。
(40)  斉藤豊治・註(12)論文四二七から四二八頁は、母親の殺害について保護処分を受けたという経歴を入学願書および面接試験において報告しなかったことを理由に、ハーバード大学がいったん出した少女の入学許可を取り消した、というアメリカのジーナ・グラント事件を検討したうえで、「ジーナ・グラント事件は、審判の公開や実名報道が悔い改めた少年が社会復帰し、建設的な市民として社会統合されることを阻害することを如実に示すものといえる。この事件では、審判がメディアに公開され、さらに警察官が実名を新聞記者にリークし、これが紙面で大々的に報道された。アメリカでは、独自取材で実名を知り得たメディアは、実名を報道することが憲法上の権利として承認されている。しかし、ジーナ・グラント事件は、そうした報道が少年に対する烙印効果をもち、社会復帰を阻害することに変わりがないことを例証するものである」と論じている。
(41)  Geraldine Van Bueren, The International Law on the Rights of the Child 180-181 (1995).
(42)  葛野尋之「厳罰指向の少年法改正案・批判」犯罪と刑罰一四号八一頁以下(二〇〇〇年)。少年の成長発達権について、福田雅章「少年法の拡散減少と少年の人権」刑法雑誌二七巻一号(一九八六年)。
(43)  葛野尋之・註(7)論文一二一頁以下。少年法六一条による少年の本人特定事実の公表禁止について、その意義を少年の成長発達権の保障という視点から理解するものとして、すでに、山口直也・註(4)論文、服部朗・註(4)論文がある。本文に述べたように、少年法六一条が少年の成長発達権の保障によって基礎づけられ、その違反が少年の成長発達権の保障の趣旨に反するにしても、少年法六一条に違反した本人特定事実の公表がただちに少年の成長発達権の侵害を構成する、とはいえないように思われる。具体的な権利侵害の問題としては、少年の名誉・プライバシーの侵害として構成すべきである。もし成長発達権の侵害を構成するのであれば、少年の本人特定事実の公表が公共性を有するかどうかを問うまでもなく、ただちに禁止されなければならないように思われる。成長発達権が少年の人間の尊厳それ自体として保障されるものである以上、その侵害を、知る権利・報道の自由など他の権利・利益との比較衡量によって正当化することはできないからである。また、犯罪報道が適正手続ないし公正な裁判を侵害した場合についても、たとえその報道が公共性を有するものであったとしても、知る権利・報道の自由が適正手続(憲法三一条)に優越する可能性を認めるべきではないから、適正手続ないし公正な裁判の侵害が正当化されることはないように思われる。この点については、葛野尋之・註(1)論文(『澤登古稀』)二三八頁以下、二四六頁註(46)。一般に、名誉・プライバシーの権利については、「公人」であることないし正当な公共的関心事であることにもなって、その保護の範囲が縮小することになるが(浦部法穂・註(32)書二〇一頁)、少年の成長発達権や、成人か少年かを問わず適正手続の権利については、「公人」であることないし正当な公共的関心事であることが、その保障のあり方を左右することはない、というべきであろう。
(44)  少年審判の非公開について、少年の適正手続からそれが要請されるにしても、手続の専断・恣意の危険を排除するために、一般公開に代わる、専断・恣意の抑制のための手続保障が必要とされる。そのような手続保障として、少年審判への市民参加がなんらかの形で制度化されるべきように思われる。市民参加は、同時に、少年法の福祉・教育理念を再生させ、実質化することにもつながる。この場合にも、市民は、少年審判への参加によって、少年の適正手続の保障、あるいは少年の非行克服ないし社会的再統合に向けての成長発達権の保障という公共的価値の実現にコミットするのである。この点について、葛野尋之・註(1)論文(『澤登古稀』)二三九頁以下。
(45)  Torbet, et al., supra note 15, at 35-43 は、少年の重大暴力犯罪へのアメリカ各州の対応において、「少年の保護」と「コミュニティの保護」との対立構造が「少年のプライバシーの権利」と「市民の知る権利」との対立構造に移し替えられることによって、伝統的な非公開から離れて、審判と記録の公開を積極化する方向への顕著な変化が見られることを指摘している。
(46)  松井茂記「犯罪報道と表現の自由」ジュリスト一一三六号三六頁以下(一九九八年)は、アメリカにおいて近時、子どもに対する性犯罪で有罪とされた者が刑事施設を釈放された場合における住所登録などを義務づけた「メーガン法」を多くの州が立法し、それをめぐる議論においては、公的記録上の情報であることや、「犯罪者から子どもを守るという利益」の方が優越することを理由に、釈放者のプライバシー侵害が否定される方向が強まっていることに言及したうえで、「前科の公表を、もっぱら刑を終えた者の社会復帰という視点からのみ考えるのは妥当とはいえ」ず、「前科は公的記録に記載された情報であるから、基本的にはその公表は違法ではない」とする。なお、「メーガン法」について、藤本哲也「メーガン法の連邦法化と合衆国憲法上の問題点」『宮澤浩一先生古稀祝賀論文集・第一巻』(成文堂・二〇〇〇年)、平山真理「アメリカ合衆国のメーガン法の成立とその実際的帰結」犯罪と非行一二五号(二〇〇〇年)参照。
(47)  「市民的安全」の要求に応答する形での実体的・手続的な犯罪統制の強化の動きは、一九九〇年代末には、組織犯罪対策法、盗聴法などの制定として具体化した。小田中聰樹『人身の事由の存在構造』(信山社・一九九九年)一三頁以下は、一九九〇年代以降、規制緩和、市場原理、自己責任などを掲げる一連の新自由主義的改革によって全面的な国家的・社会的再編が進められるなかで、「警察による市民支配の進行を中軸とする『現代的』治安法」が、「市民の安全要求に立脚する擬似的『市民主義』的なイデオロギー的外装をとり」つつ展開されていることを、人権保障の強化と「市民主義」的治安法の本質的矛盾という視点から、批判的に分析している。二〇〇〇年の「少年法改正」もその一例であろうか。これについて、葛野尋之「経験科学と刑事立法−「国民の期待」への応答をめぐって−」立命館法学二七三号(二〇〇一年予定)参照。
(48)  葛野尋之「司法改革審議会ウォッチングq『国民の期待に応える刑事司法の在り方』をめぐって」法律時報七二巻一一号(二〇〇〇年)八一頁。川崎英明「刑事弁護と権利運動」『井戸田侃先生古稀祝賀論文集』(現代人文社・一九九九年)一九〇頁以下は、「九〇年代の刑事立法は、捜査権限の強化を一面的に追求する『片面的刑事立法』というべきものであ」り、それが「新しい犯罪ないし組織犯罪に対して市民の安全を確保するためには、捜査権限の強化とその質的変容を容認せざるをえない」との論理に基づいて進行していることを批判的に分析している。このような「片面的刑事立法」の展開は、「安全を権力によって確保しよう」という「権力的安全」の観念によって支えられいるとしたうえで、「国会による権力統制からの自由」と「犯罪からの市民の権利・利益の保護」という二つの意味の安全を確保するためには、「権力的安全」の論理に代えて、「市民社会の内部で自律的安全の確保」することと、「国家が現に保持している権限を市民の安全を守る方向で適正に行使させること」を意味する「人権的安全」(すなわち「人権に依拠して安全を確保すること」)が追求されなければならない、と論じている。
(49)  内田博文「『市民的治安主義』の拡大」法の科学二九号(二〇〇〇年)は、小田中聰樹のいう「市民的治安主義」の拡大が、「国際化」の名の下に進められていること、マス・メディアの「犯罪」報道(犯罪に関する、犯罪的ともいえるような人権侵害をともなう報道という意味であろうか−引用者)がその基盤づくりと推進にきわめて重要な役割を果たしていることを指摘している。そして、「個人主義ならぬ孤立の孤人主義の不気味な浸透によって広範に醸成された人間不信が人々の連鎖を断ち切り、国益などに取って代わるべき市民的公共性の成長を阻み、蝕んでいる。いたるところで人間不信の悪循環が生まれつつある」としたうえで、「市民的治安主義」の温床にはこの人間不信があり、「市民的治安主義」は本来的な解決にならないから、「市民的公共性の基盤をなす人間信頼を回復させなければならない」と論じている。

*脱稿後、松井茂記『少年事件の実名報道は許されないのか−少年法と表現の自由−』(日本評論社・二〇〇〇年)に接した。同書一五二頁は、最高裁判所「逆転」事件判決を参照しつつ、「事件が公共の利害に関する事実であれば、基本的には犯罪の実名報道は憲法二一条で保障された表現の自由というべきである」とする。しかし、本文に述べたように、本人を特定して報道するがゆえに名誉・プライバシー侵害の問題が生じるのであるから、これが正当化されるための犯罪報道の公共性については、事件自体の報道の公共性と本人特定事実の報道の公共性とは区別して吟味すべきように思われる。最高裁判所「逆転」判決の意義について、本稿・註(25)参照。また、同書一四二頁は、「事件の事実や事件の背景を報道し論評するときには、容疑者の氏名は結果的に不可欠である。つまり、事件の事実や背景を報道し論評する以上、結局は少年の氏名は明らかになってしまう」。「氏名がなくとも、十分事実は明らかにできる」というのは、「現実にはあてはまらない」。「少年法六一条は、少年を特定しうる情報の公表を禁止している。たとえ容疑者の少年の氏名を仮名にしても、あるいはイニシャルを使っても、少年の住んでいた環境、少年の家族、少年の通っていた学校、少年のおいたち、犯行の事実、その背景、これらの事実について詳しく書けば書くほど、容疑者を特定する可能性は高まる」。とくに、「一般の読者」ではなく、「容疑者の周囲にいる人あるいは『少年と面識のある人』に焦点を当てるなら、わずかばかりのことを書いても、容易に容疑者を特定することは可能である」と論じている。たしかに、「容疑者の周囲にいる人あるいは『少年と面識のある人』」にとって、「その者が当該事件の本人であることを推知することができる」(少年法六一条)かどうかを基準にするならば、犯罪事実、一定の背景事実など本来的に公共性を有する事実の報道から少年本人が特定されることになって、本人特定事実の公表禁止は、公共的事実の報道を制約するものとして、知る権利・報道の自由の不当な制約にあたることになるであろう。しかし、本人特定事実の公表により侵害される名誉については、その毀損があったかどうかは、問題の情報に接した一般人が、その情報によってその対象となった人の社会的評価が低下したと感じたかどうかが基準となる(奥平康弘『ジャーナリズムと法』〔新星社・一九九七年〕一四八頁、松井茂記・本稿註(24)書九九頁。最判一九五六年七月二〇日・民集一〇巻八号一〇五九頁参照)。プライバシーの侵害についても、問題の事実が「一般の人々に未だ知られて」いないことが要件となる(奥平康弘・同書二一九頁、松井茂記・本稿註(24)書一二六から一二八頁。東京地判一九九五年四月一四日・判例時報一五四七号八八頁)。いずれについても、「周囲にいる人」あるいは「面識のある人」ではなく、一般人が基準とされている。そうであるならば、「推知することができるような記事」であるかどうかについても、「容疑者の周囲にいる人あるいは『少年と面識のある人』」ではなく、一般人を基準に判断することが適当であるように思われる。「容疑者の周囲にいる人あるいは『少年と面識のある人』」にとってどうかという基準は、曖昧・不明確であるから、本人特定事実の公表禁止も、知る権利・報道の自由の下で、公共的事実の報道を制約しない限りにおいて認められるべきであるとする以上、「推知することができるような記事」であるかどうかは、より明確な基準、すなわち一般人にとってどうかを基準として判断されるべきように思われる。

**二〇〇〇年一一月二八日、国会は少年法「改正」法案を可決したが、これの「附帯決議六」として、「悪実重大な少年事件等、社会的に関心を集める事件については、少年のプライバシーの保護の重要性に配慮しつつ、犯罪原因を究明し、同様の犯罪の防止に資する方策及び少年法第六一条の在り方についての研究に努めること」を決議した。この「附帯決議」が、婉曲的表現を用いながらも、現行少年法六一条の本人特定事実の報道禁止を、一定の範囲で緩和する方向で見直すよう提起していることは否定できない。

***二〇〇〇年一二月六日、堺事件をめぐる少年法六一条違反報道の損害賠償請求事件において、本人が上告・上告受理申立を取り下げる手続がとられ、大阪高裁判決が確定することになった。