立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 647頁




憲法問題としての政治献金

− 「目的の範囲」条項と会社の政治献金 −


中島 茂樹


 

目    次

は じ め に

一  「目的の範囲」条項の射程

二  八幡製鉄政治献金事件判決

三  会社の政治献金をめぐる私法上の議論

四  憲法問題としての政治献金

む  す  び





は  じ  め  に


  戦後日本の三大疑獄事件として名高い昭電疑獄事件、造船疑獄事件、ロッキード事件のみならず、近年のリクルート事件、共和事件、佐川事件、金丸巨額脱税事件、ゼネコン汚職事件、KSD事件など、大企業、労働組合、各種業者団体等の行う特定政党・政治団体への多額の政治献金が、利権等と結びつくことによって、政治腐敗や汚職の原因となっていることに対して、厳しい批判がつとに指摘されてきた。こうしたいわば「構造汚職(1)」とも称される政治腐敗や汚職を一掃すべく、その原因となっている企業・団体献金の廃止等に向けた政治資金規正法の改正が数次にわたって試みられたが、いまだその実効性があがっているとはいいがたいのが今日の実情である(2)
  こうした状況のなかにあって、最高裁判所は、一九九六年三月、税理士会による政治献金目的の特別会費の徴収が当該構成員の思想の自由を侵害しないか、が問題となった南九州税理士会政治献金事件において、政党等の政治団体への政治献金が税理士会の目的の範囲外の行為であって、この寄附を目的とする本件決議も無効であるとする注目すべき判断を行った(3)。この最高裁判決の憲法判例上の意義について、本稿筆者が、ある雑誌の誌上で「本判決が、政治団体への政治献金につき、これを『選挙における投票の自由と表裏を成すもの』と捉えている点はきわめて重要である。けだし、政党その他政治団体への金員の寄付を含むもろもろの政治活動は、本来的に主権者たる個人が自主的に決定すべき事柄であり、これこそが民主主義の大原則であるからである。本判決のこのような論旨を推し進めれば、『会社は自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有する』との観点から、企業に無限定な政治献金の自由を肯定していた上記八幡製鉄事件最高裁判決は、いずれその全面的な見直しを求められることになるであろう」と批評した(4)ところ、幸いにして、一部の論者からの明示的な賛同を含む肯定的な評価を得ることができた(5)
  ここにおいて、そのような観点から上記の税理士会政治献金事件判決を改めて検討する場合、本判決にあってその結論を導くに際して援用された判断枠組みとして特徴的なことは、@「民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法四三条)」という「目的の範囲」条項を前提として堅持したうえで、この「目的の範囲」条項にかかる八幡製鉄政治献金事件最高裁判決(6)の論旨を明示的に引用しながらも、A営利法人たる会社と強制加入性の公益法人たる税理士会との法的性格の違いを強調したうえで、B後者の「目的の範囲内の行為」を限定的に解し、Cそうすることによって、政党その他の政治団体への政治献金を「税理士会の目的の範囲外の行為」として位置づける、というものであった。本判決において、民法四三条の「目的の範囲」条項が限定的に解されたのは、むろん、そこで問題になっていたのが団体構成員の思想の自由であったということと、それとの関連で税理士会が強制加入団体であったという事情に基づくものであった。
  とまれ、ここで、八幡製鉄政治献金事件にせよ、税理士会政治献金事件にせよ、これらの団体・法人の政治献金にかかる問題を憲法論という観点から考えた場合、ひとつの疑問として浮かびあがってくるのは、そうした問題が何ゆえに民法四三条の「目的の範囲」条項の枠組みのなかで取り扱われるのか、ということである(7)
  この疑問に対する憲法学からのひとつの応答として、佐藤功によってつぎのような指摘がなされている。すなわち、佐藤は、法人の「人権」享有主体性を論議する文脈のなかで、「法人にも基本的人権の内容をなす権利・自由が認められるとしても、それは自然人の場合のように包括的に、かつ同じ程度で常に保障されるものではなく、それは法令によって定められるその設立の目的の範囲内で、個別的にその保障の範囲と程度を判断すべきものと考えられる。わが民法四三条が『法人ハ法令ノ規定ニ従ヒ定款又ハ寄附行為ニ因リテ定マリタル目的ノ範囲内ニ於テ権利ヲ有シ義務ヲ負フ』と定めているのも、右の考え方を示すものと解される(8)」とし、さらに、八幡製鉄政治献金事件を問題にする文脈のなかで、「会社の政治献金については、個人の場合とは異なり、ほんらい一定の規制の下にある(民法四三条参照)ものと解すべきであろう(9)」と論じている。このような記述から導くことのできるひとつの結論は、憲法上法人に保障される権利・自由の範囲と程度とが民法四三条の「目的の範囲」条項の枠組みに即して画定される、ということであろう。しかし、佐藤のこのような指摘にもかかわらず、会社その他の団体は、それが特定の事業目的を遂行するために人為的に設立された目的団体である以上、そのような団体の目的拘束性はある意味では当然のことであるとしても、そのような団体の憲法上の活動範囲、なかんずく団体の政治献金の合憲・違憲という憲法問題がなぜ民法四三条の「目的の範囲」条項によって、つまりは私法上の権利能力論の枠組みのなかで画定されることになるのか、そしてそこにはどのような憲法問題が含まれているのか、ということは、依然として未解決のままである。
  そこで、以下では、税理士会のごとき強制加入団体のなす政治献金問題は上記の税理士会政治献金事件最高裁判決において一応の決着を見たということを踏まえたうえで、民法四三条の「目的の範囲」条項と会社の政治献金をめぐる問題について、憲法論の観点から若干の検討を試みることにしたい。

一  「目的の範囲」条項の射程


(1)  立法趣旨
  民法四三条は、「法人ハ法令ノ規定ニ従ヒ定款又ハ寄附行為ニ因リテ定マリタル目的ノ範囲内ニ於テ権利ヲ有シ義務ヲ負フ」と定めている。この「目的の範囲」条項は、法人擬制説の立場から、英米法の ultra vires の理論にしたがって起草されたものとされている(10)。このことは、民法起草者自身によって次のように明らかにされている。
  「法人ハ固ト法律ノ創設ニ係リ或目的ノ為メニ存スルモノナルヲ以テ其権利能力モ法律ノ規定及ヒ其目的ノ範囲内ニ於テノミ存シ其限界以外ニ於テハ法律上ノ存在ヲ有スルコトナシ。特別法ニ因リテ特ニ創設セラレタル法人ノ権利義務ハ主トシテ其規定ニ依リテ定マリ一般法若クハ特別法ノ一般規定ニ従ヒテ設立シタル法人ノ権利義務ハ主トシテ其定款若クハ寄附行為ニ依リテ定マルモノナリ……(中略)……。
  中世以来往々法人ノ擬制ヲ不当ニ拡張シ法人ハ自然人ニ均シキ能力ヲ有スルモノナリトシタレトモ近世ニ至リテハ法人ハ限定能力ヲ有シ其能力ハ其設立ノ目的ニ因リテ限界セラルヽモノナリトノ説ハ殆ト疑ヲ容ルヽ者ナキニ至レリ故ニ法人ノ行為ニシテ其設立ノ目的ノ範囲外ニ存ルモノハ謂ハユル越権行為ニシテ(Ultra vires)之ヲ無効トスヘキヤ固ヨリ論ヲ竣タサルナリ」(民法修正案理由書第二章法人一一)。
  このように、民法起草者にあっては、法人は目的の範囲内においてのみ法律上存在を認められるものであるがゆえに、その範囲内においてのみ権利能力を有すると認識され、「目的の範囲」条項は法人の能力制限の規定として位置づけられていたことは明らかである。かくして、法人の能力は、何よりもまず「目的の範囲」の解釈の問題として争われることになる。

(2)  判例の展開
  こうして、ある行為が「目的の範囲」の内外のいずれに属するかは、それがそのまま当該行為の有効無効を判定するための物差しとなる。判例上では、営利法人については、「目的の範囲」を広く緩やかに解して行為が有効とされる傾向にあり、公益法人たる民法法人については、「目的の範囲」を厳格に解して行為が無効とされる傾向にある、ということがつとに指摘されている(11)
  初期の判例は(12)、「目的の範囲」を厳格に解して定款に明示的に記載された目的自体の範囲に限定し、会社の創業に尽力した功労者への報酬の約束や銀行による手形の支払保証を「目的の範囲外」としていた。しかしそれでは、会社はしばしばこれを債務免脱の口実に使えることになり、不合理なこときわまりない。そこで判例は、この不合理な結論を回避すべく、「目的の範囲」による制限を漸次ゆるやかに解するようになる。
  まず、一九〇八(明治四一)年に大審院は、金銭の貸借を目的としない会社でも、その目的とする営業のために金銭を借り入れるがごときは、「目的遂行ノ為メニスル行為」であり、「目的の範囲内」に属するものとした。そして、一九一二(大正元)年には、大審院は、手形の支払保証にかんする事例において、「目的の範囲」条項についての従来の理論的前提そのものを変更し、「記載事項ヨリ推理演繹シ得ヘキ事項ハ仮令定款中ニ於テ具体的ニ之ヲ指示サセルモ尚ホ其記載事項中ニ包含セラルルモノト推断スルコトヲ妨ケサルモノトス」としただけでなく、さらに一歩進めて、「会社ノ目的ヲ達スルニ必要ナル事項ハ定款中ニ記載セサルモ其目的ノ範囲内ニ於ケル会社ノ業務タルノ性質ヲ有スルモノトス」とした。
  こうして、「目的の範囲」とは、定款所定の目的だけでなく、「目的の遂行に必要な行為」をも含むとということになれば、次に問題となるのは、ある行為が「目的の遂行に必要な」事項であるかどうかをいかなる基準によって決定するかである。この点、一九一四(大正三)年には大審院は、目的遂行に必要な事項か否かは、定款所定の目的となされた行為とを「対照審究シテ判定ス可キ事実問題」であるとし、事実問題ということになれば、これを主張する者が立証すべきこととされ、「反証ナキ限リ直ニ会社事業ノ遂行ニ必要ナル行為ナリト推定スル」ことはできないとした。
  しかし、目的の遂行に必要な行為であるか否かを、個別の具体的な事情によって判断し、かつその立証責任も目的遂行に必要であったことを主張する者(多くの場合は会社と取引した相手方)が負担するとなれば、外部の第三者にはそのような具体的事情は容易にはうかがいえない事柄であるから、取引の安全は脅かされることにならざるをえない。そこで、一九三八(昭和一三)年に大審院は、ある行為が目的遂行に必要な行為であるか否かの観点からではなく、むしろ行為の外形からみて客観的に判断すべきものとし、倉庫業・運送業を営む会社が重油を買い入れた行為について、「比ノ重油買入ノ行為カ外形ヨリ観テ被上告会社ノ目的タル前記業務ヲ遂行スルニ必要ナル行為タリ得ヘキモノナルニ於テハ、右行為ハ被上告会社ノ目的ノ範囲内ノ行為ナリト謂フヘク」と判示した。そして、後に最高裁は一九五二(昭和二七)年に、取引の安全確保の観点からこの趣旨を一層明確にし、定款所定の「目的遂行に必要なりや否やは、問題となっている行為が、会社の定款記載の目的に現実に必要であるかどうかの基準によるべきではなくして定款の記載自体から観察して、客観的に抽象的に必要であり得べきかどうかの基準に従って決すべきものと解すべきである」とした。
  こうして、判例上、取引の安全確保を維持するために、目的遂行に必要かどうかの判断につき、個別の具体的事情に応じてその行為が必要であったかどうかという基準で決定するのではなく、行為の客観的性質に即して抽象的に決定すべきものとする原則が確立する。これが、「目的の範囲」条項におけるいわゆる客観的・抽象的基準説である。

(3)  学説の動向
  こうした判例の展開のなかにあって、民法四三条の「目的の範囲」条項は、従来の通説的見解によれば(13)、法人実在説の立場から、法人がいかなる範囲の権利義務を取得することが可能かという権利能力を定めたものであり、その権利能力が法人としての特別の性質による以外に法令の規定および「目的の範囲」という二標準によって制限されることを明らかにしたものであるとされる。その結果また、「目的の範囲」条項は、法人がその権利義務を取得するためにいかなる種類の行為をすることができるかといういわゆる行為能力の範囲をも限界づけたものであると説かれる。かくして、この見解からすれば、法人が本来一つの目的的存在である限り、その目的外行為をなしえないという前提に立って、「能力」外の事項については、法人のためになしたいかなる法律行為も、法人との関係においていかなる法律効力も生じえないものとされ(絶対無効説)、それが法人としての「存在」の限界でもあると説かれる(14)。そして、これがすでに検討した判例の立場でもあった。
  このような従来の通説や判例において、その企図するところが、法人の設置目的、すなわち設置者や構成員の利益の保障や法人の財政的基盤の安定にあることはいうまでもない。しかし、これでは、他面で、それが取引の相手方の主観的事情、とくに、善意・悪意、過失・無過失などを考慮の対象外におくところから、法人と取引する相手方に一方的に不利益を及ぼすという結果にならざるをえず、現代の取引社会の一般ルールという観点から見た場合不合理なことはいなめず、取引秩序を維持することができないことになる。
  そこで、今日の通説(15)は、権利能力の制限は権利義務自体の種類内容による帰属可能性の制限だけと解し、民法四三条の「目的の範囲」による権利帰属の制限は、法人の「能力」に関するものではなく、理事の代表(=代理)権限の制限であり、また、その代表行為の効果としての権利義務帰属に関する制限にほかならないとする(16)
  この見解の提唱者である川島武宜によれば、「法人とは団体(複数法主体者の集団)の法律関係を単純化して単一個人の法律関係と同様なものとして処理し、また目的によって拘束された財産の法律関係を、その財産の従前の主体その他の主体から分離して、独立の単一個人の法律関係と同様のものとして処理するための、記号的(言語的)技術である。まさにこの点に、法人の個人型法人格の法技術的意義が存在するのである。法人の法的人格(いわゆる法人の権利能力)の範囲決定は、この二つの点を離れて考えられてはならない」とし、こうした立場から、法人に帰属する財産上の権利・義務の範囲が民法四三条の「目的の範囲」条項を根拠に法人の目的によって制限されるかにつき、「同条によって制限されるのは、法人(すなわち理事)の活動およびその結果としての権利義務の帰属の範囲であって、法人の権利能力そのものの制限ではないと解すべきであろう。すなわち、法人にはすべての財産上の権利義務の帰属が可能だと解すべきであろう」とされる(17)。そして、このような川島の所論からは、その論理的帰結として、法人の行為能力−「法人自身の行為」−というような概念は、有機体説による無益な法的構成として排斥され、目的外行為といえども、なお法人の権利能力に属する事項とされるから、理事の目的外行為は、権限踰越の無権代理行為となるか、表見代理の要件をみたせば有権代理の効果が与えられ法人が責任を負うものとされることになる(18)
  こうした川島の所論の理論的前提には、「法・権利をつくりだし、また法・権利の現実的事実そのものであるところの『社会関係』は、終局においては、社会的個人相互の間の関係である」という認識から、社会やもろもろの団体を構成する「この具体的な個人と個人との関係にまで分析されないで、協同体関係が他の諸関係の出発点となる場合には、しばしば、『団体』や『社会』そのものは疑うべからざる事実として前提され、法および社会関係に内在する矛盾は見失われる(19)」、とする社会有機体説や法人実在論的見解に対する批判が企図されていることはいうまでもない(20)。とまれ、「目的の範囲」条項とのかかわりにおける川島のこうした思考の意義について、福地俊雄は、つとに次のように明らかにされていた。すなわち、川島の所論は「『目的の範囲』による権利帰属の制限の問題について、従来の通説が固守してきた『能力』というカテゴリーの狭い枠をはずしてしまい、それを代理=代表制度という一般取引法と共通の広い枠ないし土壌の上で処理しようというのである。こうすることによって、従来の通説が法人の『目的』とか『存在』ということを他の諸問題から切り離し抽象化して把握し、この抽象化された標準だけに頼って法人の内外の利害調整という複雑な作業を遂行せんとした困難さを救済しようとするのである」と(21)
  このように見てくれば、法人の「目的」とか「存在」という標準のみに依拠し、法人実在論的見地から権利能力を広くとらえるだけでは理事のなした代表行為の有効無効を適切に判定することができないのであって、法人や団体の活動範囲の画定にあたっては、法人の性格や目的、当事者双方の諸事情、当該事柄の性格が法人の名においてその代表機関がするのにまかせることができるか否か、という私法上の考慮要因のみならず、さらにはその思考の延長線上で憲法上の人権保障規定に定められたもろもろの憲法的価値をも検討の射程に入れられる必要があるであろう。いずれにせよ、ここでは、少なくとも、「目的の範囲」条項をめぐる私法上の議論が、法人が独立して活動する社会的実体であるということから、法人の「人権」享有主体性をストレートに肯定する憲法学上の通説的見解の素朴な議論の水準をはるかに踏み越えたところで展開されていることは、確認されてよいであろう(22)
  もっとも、以上のような私法上の判例・学説の展開は、しかし、すべて私法上の取引行為にかんするもので、取引の安全保護が指針となっていた事例であった。これに対して、その後、私法上の取引行為以外の事例に、しかも、会社の政治献金という、個人の政治的自由や市民の参政権的権利の根幹にかかわる事例にもこの原則が適用されるか否かをめぐって問題になったのが、八幡製鉄政治献金事件であった。

二  八幡製鉄政治献金事件判決


  八幡製鉄政治献金事件判決をめぐっては、その問題の重要性ということから数多くの文献が公表されており、事件の概要や裁判の経過についても周知のところであるが、行論の必要上簡潔に整理すれば、次のようである。
  八幡製鉄は、一九五九年下期から六〇年上期にかけての一年間に、自由民主党に対して一九五〇万円、その他の団体・派閥などに対して一億二八六〇万円の寄附を行った。そこで、地方銀行頭取の地位にある弁護士で、同社の株主でもあるXは、一九六〇年四月一四日の自民党への寄附三五〇万円につき、同社代表取締役会長が同社の名でした寄附は、会社の定款所定の事業目的(定款二条「鉄鋼の製造及び販売並びにこれに附帯する事業を営むことを目的とする」)の範囲外の行為であり、同時に商法二五四条の二(現同条の三)の定める取締役の忠実義務にも違反するとして、右取締役らに対して損害賠償を求める株主代表訴訟(商法二六七条)を提起した。

(1)  第一審判決
  第一審の東京地方裁判所は、会社の営利性という観点から出発して会社の行為を取引行為(営利行為)と非取引行為(非営利行為)とに分け、非取引行為について次のように判示して原告の請求を認めた(23)
  @無償で財産を出捐しまたは債務を負担する非取引行為は、「本来対価を予想していないのであるから、それは常に営利の目的に反する行為と云うべきである、従って、……特定の事業目的が何であるか、又は当該非取引行為がその事業目的を遂行し又は遂行するのに必要な行為であるかなどについて検討するまでもなく、凡ての非取引行為は、営利の目的に反することによって、凡ゆる種類の事業目的の範囲外にある」。Aもっとも、天災地変に際しての救援資金や育英事業への寄附など、非取引行為であっても例外的に総株主の同意が期待される行為は、「社会的義務行為」として、それが合理的限度を超えない限り例外的に取締役の責任が免責される。Bしかし、「政党は、民主政治においては、常に反対党の存在を前提とするものであるから、凡ての人が或る特定政党に政治資金を寄附することを社会的義務と感ずるなどということは決して起こり得ない筈である」から、政党への寄付が、特定の宗教に対する寄附と同様、社会的義務行為のごとき総株主の同意を得られるような例外的場合には該当しない。

(2)  二審判決
  二審判決は、会社の社会的存在に着目し、営業生活のほかにも社会の成員としての生活領域があるという観点から、原判決を取り消し、次のように判示して株主の請求を棄却した(24)
  @会社は独立の社会的存在として、個人と同様に一般社会の構成単位をなし、したがって「社会に対する関係において有用な行為は、定款に記載された事業目的の如何およびその目的達成のために必要または有益であると否とにかかわらず、当然にその目的の範囲に属する行為として、これを為す能力を有する」。A政党に対する政治献金も、その本来の性質からすれば、「政党の公の目的のための政治活動を助成するもの」として、「社会に対する関係において有用な行為」であり、したがって会社の目的の範囲内の行為である。Bもっとも、「公党たるべき政党の主義政策を左右する等の不法の目的でなされる政治資金の寄付は、寄付者が何人であるかを問わず、公序に反し、無効たるべきことはいうまでもない」が、このような一般的事実の存在についてはなんら主張・立証されていないから、政治献金を無効と判定することができない。

(3)  最高裁判決
  最高裁は、二審判決を不服とする株主の上告を棄却して、次のように判示した(25)
  @  会社は定款所定の目的の範囲内で権利能力を有するが、定款所定の「目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるもの」ではなく、その「目的を遂行するうえに直接または間接に必要な行為であれば、すべてこれに包含される」とし、そしてある行為が「目的の範囲内」かどうかの判定基準については、当該行為が目的遂行上現実に必要であったかどうかをもってこれを決すべきではなく、「行為の客観的な性質に即し、抽象的に判断されなければならない」。
  A  会社は「自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他の構成単位たる社会的実在」なのであるから、「ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは会社の当然になしうるところである」。
  B  政党は、憲法上特別の地位こそ与えられていないが、「議会制民主主義を支える不可欠の要素」であるから、「その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様としての政治資金の寄附についても例外ではないのである」。
  C  選挙権その他の参政権は自然人にのみ認められたものであるが、「会社が納税者たる立場において、国や地方公共団体の施策に対し、意見の表明その他の行動に出たとしても、これを禁圧すべき理由はない」。のみならず、「憲法第三章に定める権利」の行使として、「会社は自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有する」。政治資金の寄附もまさにその自由の一環であり、「これを自然人たる国民による寄附と別異に扱うべき憲法上の要請があるものではない」。
  D  政党の資金の一部が買収にあてられることがあるとしても、それはたまたま生ずる病理現象にすぎず、「憲法上は公共の福祉に反しないかぎり、会社といえども政治資金の寄附の自由を有し、そう解しても国民の参政権を侵害するものではなく、したがって、民法九〇条違反の主張はその前提を欠く」。
  E  会社の構成員の政治的信条が同じではないとしても、会社による政治資金の寄附が、特定の構成員の利益を図りまたその政治的志向を満足させるためでなく、「会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為である」。
  もとより、こうした最高裁判決に対しては、憲法学上、@法人実在論的見地から権利能力を広くとらえ、自然人と同視するかのごとく一般的に「政治的行為の自由」を帰結している、A巨大な経済力・影響力をもつ会社の直接的な政治過程参加は国民主権の建前と矛盾する、B本来価値観の対立する政治の領域において多数決や業務執行機関の決議を通じて法人が献金をすることは株主個人の参政権の自由・平等を侵害する、などの点において厳しい批判がなされていることは、周知のところである(26)。そしてさらに、法人の「人権」享有主体性の問題ともかかわって、「人権主体として、自然人と法人というものを……論理上同列に置くことによって、結果的には法人の法的権利というものを、事実上優先させる」典型的事例と評されている(27)ことも、つとによく知られているところである。
  とまれ、ここにおいて、八幡製鉄政治献金事件につき、本稿の主題に即して特徴的な点を指摘すれば、第一に、当該訴訟提起において問題の中心に位置づけられたのが取締役の忠実義務違反という商法固有の問題であったこともあって、実際上は、個人の政治的自由や市民の参政権的権利という本来的に民法・商法の固有の領域をはみ出た政治・公法上の領域に属する問題が会社の権利能力論の場をいわば借用する形で争われたということ(28)、第二に、そのことの帰結として最高裁は、会社が自然人とひとしく社会の構成単位たる「社会的実在」であるから、「ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に社会通念上期待ないし要請されるものである限り、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところ」であって、議会制民主主義を支える不可欠の要素である政党の健全な発展に協力して政治資金を寄附することも、その例外ではないとし、政治献金をも会社の権利能力内の行為として結論づけていること、そのうえで、さらに第三に、この権利能力論の枠組みのなかで得られた結論を補強する論拠として、会社による政治献金が自然人たる国民にのみ認められた参政権を侵害し、民法九〇条に違反するものではないということを言うために、「憲法第三章に定める権利」をも援用して、会社が「自然人たる国民と同様」に「政治的行為をなす自由」を有する、とまで断じていることがあげられるであろう。
  このようにして、最高裁が、「目的の範囲」条項につき、従来の判例で展開してきた私法上の取引行為に関する事例を踏み越えて、個人の政治的自由や市民の参政権的権利にかかわる事例にも拡大適用した限りで、会社のなす行為は原則としてすべて会社の目的の範囲内に属するという立場を明らかにしたものというべく、ここにおいて「目的の範囲」条項=権利能力論は、民法・商法学上、「形骸化」ないし「有名無実化(29)」し、判例自体によって「実質的上廃棄されたに等しい(30)」と評されるにいたっており(31)、憲法学上の観点から見ても、法人の享有しうる「人権」の範囲を画定する枠組みとしては完全に破綻したものと見なしてよいであろう。
  そこで、次の問題は、憲法問題として会社の政治献金をどのように考えるかということになるが、しかし、そこに直ちに進む前に、本件訴訟を通して主として会社の権利能力論にばかりウエイトを置いて論議がなされたという限りで、そこでの議論において、会社の政治献金はどのように論じられ、また、そこにはどのような問題点が含まれていたのか、ということがなお検討されなければならない。

三  会社の政治献金をめぐる私法上の議論


  ここでは、八幡製鉄政治献金事件判決に即して、政治献金は会社の権利能力内の行為であるとするものを政治献金肯定説、政治献金は会社の目的の範囲外の行為であり、したがってその権利能力外の行為として無効であるとするものを政治献金否定説として一応分類したうえで(32)、会社の政治献金がどのように論じられていたかを検討することにしたい。

(1)  政治献金肯定説
  政治献金を肯定する見解としては(33)、まず、法人実在説の系譜に属する我妻栄は、自然人と同様に「権利能力の主体たるに適する社会的価値を有するもの」を法人の本質と規定し、「いかなるものがかような社会的価値を有するかを、社会学・経済学などの社会科学の力を借りて、社会生活の実体を考察し、これを当代の法律理想に照らして批判することによって、研究すべきもの(34)」という観点から、会社の政治献金にかんし、「ぼくはできれば個人に限っていくのが筋だと思っている。そうしていくことが望ましいと考えている(35)」が、しかし、法人の本質論からして、「政治献金を一般に会社の目的の範囲外だということは、法律論としてはいかにも『無理だ』というのが、大部分の私法学者の感想であろうと思う(36)」としている。
  つぎに、会社の社会的存在・実在性を強調して政治献金を肯定する見解としては、上記の八幡製鉄政治献金事件二審判決と最高裁判決が典型であるが、そのほか、最高裁判決にかかる大隅健一郎裁判官の意見が、会社の権利能力は定款所定の目的によっては制限されず、営利の目的によって制限されるのみであるが、このような営利の目的によって制限された権利能力とは別に、会社が「社会的実在たることに基づく権利能力」が認められるべきであるとし、ただ、この権利能力は「社会通念上相当と認められる範囲内」に限られるべきであるから、応分と認められる金額を超える寄付のごときは、会社の権利能力の範囲を逸脱するものと解すべきである、としている点が注目される(37)。しかし、社会的実在性ということから、特定の事業目的の遂行による営利実現のために設立された目的的な人為的結合体である会社と自然人とをまったく同視するごとき見解は、さすがに、民法・商法学説上では少数にとどまっているといってよい。
  そこで、民法・商法学説の多くは、事業目的にとっての有用性・効用性といった営利性の観点から、会社の政治献金を肯定することになるが(38)、それらのうちの代表的見解として、鈴木竹雄は、政治献金について、「私自身も、会社が政党の主要な資金係になっている現状を苦々しく思っている点では人後に落ちる者ではなく、何としてもそれは是正しなければならないと考えている。しかし、その是正は社会全般の立場から特別法によってなすべきことであって、株主の利益の立場から商法の解釈によってなすべきことではない(39)」という立場に立ちつつも、会社の営利性の観点から出発して、政治献金が大局的見地から見て、会社の事業目的に必要または有用な行為であるとの認識から取締役の義務違反を生じないとする(40)。すなわち、「会社のなす寄附が是認されるのは、その経済的効果が会社の目的たる事業の遂行に役立つことに求められるべきである。したがって、それ自体だけを取り出して、会社にとりマイナスであるから目的の範囲外の行為であるというのは、あまりにも狭隘な考え方である。政党に対する寄附についても、別異に考える必要はない」と(41)
  この点を、内田貴はより端的に次のように述べている。「端的に、政治献金も企業の活動に間接的にせよ役立つと判断される以上、当然に目的の範囲内である、と論ずるべきだった。そして、そのことは、寄付の相手が政党であろうと慈善団体であろうと、あるいは災害の被害者であろうと変わりはないのである。その寄付の結果何らかの意味で会社にプラスになるのなら、すべて目的の範囲内である。寄付の対象が道徳的政治的に支持できるものであるかどうかによって贈与契約の効力が左右されるのでは、取引の安全が脅かされること甚だしいからである」と論じ、「民・商法が問題としているのは、あくまで営利活動を行なうために会社に一般的権利能力を与えるということに過ぎない。……たとえ政治的に政治献金絶対反対という立場をとったとしても、民法四三条の解釈によってそれを実現しようとするのは、解釈論としては無理がある。これが、法律家の論理というべきものである(42)」。
  政治献金の有効・無効の問題につき、それが私法上の権利能力論の枠内で、しかも会社の営利目的性もしくは社会的存在性をどのように考えるかという観点からのみ論議する場合には、会社の政治献金の否定を導くことは、議論が分かれるにせよ(43)、あるいは「解釈論としては無理がある」とする余地があるかもしれない。しかし、こうした私法上の議論からのみ具体的結論を導くことができるかどうかは問題であって、この点は、政治献金という行為の性質をどのように見るかという論点をふまえて、個人の政治的自由や市民の参政権的権利という憲法上の観点をも視野に入れた論議を媒介にしてのみ可能となるものといえよう(44)

(2)  政治献金否定説
  政治献金を否定する見解としては(45)、上記の東京地裁判決が、会社の営利性を出発点として会社の行為を取引行為(営利行為)と非取引行為(非営利行為)とに分け、後者を原則として会社の目的の範囲外のものとし、その例外を総株主の同意が期待される「社会的義務行為」に対する免責のみに認め、政治献金がこの例外の場合にも当らないとすることによって、取締役の賠償責任を肯定した。本判決は、樋口陽一によって「当時、悪罵に近い批評にさらされたが、いま、名誉が回復されるべきであろう(46)」と評されるが、会社の政治献金否定論をもっとも体系的かつ精緻に展開したのが本判決に理論的根拠を提供した富山康吉であることには、大方の異論がないであろう。
  富山によれば、会社の権利能力の範囲を定める実質的内容の主なものは、取引的行為の場合には、株主の利益保護の要請と取引の相手方である第三者の権利保護の要請との考量という「私的利益相互の対立の調整というものに還元され(47)」、そこでは「取引の安全という要請が強く働く」ところから、「会社がなしうる行為の範囲の限定を権利能力の次元から外すことは比較的容易である」のに対して、会社のなす寄付・献金にあっては、公共的・社会的利益の側からも強い制約をうけざるをえず、「会社が当然になしうる出捐の種類の限定を権利能力の次元から外して解釈することは、はるかにむずかしい」とされる(48)。そのうえで、富山は、教育・社会事業・風水害の救済事業などへの寄附については、何人にとっても共通に肯定され、基本的な価値観の対立を含まない社会の一般的利益のためになす出捐として評価されうるが(49)、政治献金については、市民法的秩序においては、会社という団体は市民がそれを介して経済的自由を実現する法形式であり、非政治的で「社会階層的に無色なもの」として性格づけられているから、政治的目的のために会社が出捐するというようなことは、会社の活動分野として法が想定していない領域の行為である点で、権利能力の範囲外の行為としてまったく許されないとする(50)
  この富山の見解は、民法四三条の「目的の範囲」という枠組みを援用しながらも、会社のなす政治献金が権利能力の範囲外の行為であることを論証しようとするものであるが、その実質的においては、民法九〇条の公序違反を主張するものであることが留意されるべきである。すなわち、富山によれば、「行為の私法上の効力を絶対的に否定する、という結論をうるかぎりでいえばこれを権利能力の範囲外の行為としても同じであるから、かりにわが国の判例・学説が、現在なお権利能力の有無ということをもって、法人のなしうる行為の限界を定める一般的形式とするたてまえを貫くのであれば、政治意思形成への参加は原則として個人たる市民の生活関係に属し、市民法上の法人はかかる生活関係には立たない、という点だけから、これを権利能力の範囲外の行為として法技術上処理することもあるいはゆるされるだろう。ただし、法技術上は、これを権利能力の範囲外の行為として処理するにしても、株式会社のなす政治目的のための支出行為の問題性は、実はその反公益性にあることが忘れられてはならない(51)」と。
  そして、その反公益性の根拠について、富山は、会社のなす政治献金は、@「その政党の特定の政治的立場を支持しこれに資金的援助を与えるものであって、投票権の行使と同様、国民の政治意思形成への参加という関係だとみることができ(る)」こと(52)、A近代民主制の下においては、「如何なる政治的立場を選択してこれを支持するかは、個人が市民としてみずから決定すべきことであって、その選択を他人に委ねうるものではない。これは、いわゆる政治的自由の最も基本をなすものである」こと(53)、B会社の政治献金の問題点は、「それが対社会的には国民の参政の平等という原則と矛盾し、対構成員の関係では構成員が市民として有する政治的自由と矛盾」すること(54)、Cしたがって、「その行為の性質からいえば、権利能力の範囲外の行為としてではなく、公の秩序違反の行為(民法九〇条)としてその私法上の効力を否定されるべきである」ことを強調する(55)
  会社の政治献金を民法九〇条の公序良俗違反として結論づけるこのような富山の論旨は、今日でも十分に説得的なもの、というよりもむしろそれ以上に、政治献金という行為自体の性質をどのように見るかという観点から見れば、後にも触れるが、すでに検討してきた南九州税理士会政治献金事件最高裁判決における当該の論旨をも先取りする内容を含んでいるといえよう。
  ただしかし、富山は、他方で、法人の構成員全員の意思の合致に基づくものであれば、政治献金は可能であるとの認識を示し、次のように述べている。すなわち、「株主の全員の意思によって政治献金がなされる場合は、これを肯定するほかはないだろう。全員がそれぞれ市民としてのみづからの意思によって決めたものであり、かつその全員が構成員として会社財産の処分権能を有する以上、これを否定する理由はないからである。法的構成としては、その政治献金は、全員が市民としてなす行為であって、会社のなす行為ではなく、会社はいわばその通路にすぎないと考えられることとなろう」と(56)
  この点、四宮和夫も、会社の政治献金につき、一方では、それが「一応目的の範囲内ではあるが、もう一ペん社会的妥当性の判断を加え、そしてまた目的の範囲の問題に返ってくる。そのような二重構造になって(おり)」、「結果においては、目的の範囲の中には入らない」と分析し、「金の行方がどうなるかは、あまり本質的な問題ではない。つまり、どの政党を支持するか、どの政党に献金すベきかは、個人が判断すべき」事柄であって、その自由を奪うことは「私法的な効果としては九〇条違反ということになる」として、会社の政治献金を民法九〇条の公序良俗違反ととらえ、つまるところそれが会社の目的の範囲外のものとされるが、しかし、他方で、鈴木竹雄の「株主全員がOKといったら(会社の政治献金は−引用者)いいというのですね」という発言に対して、「それはいいと思うのです」とし、「個人の参政権が問題になっている」から、「その個人が同意すればいい、そういうことは出てくるのではないですか」と応答している(57)
  しかし、「株主全員がOKといったらいい」というのは、総株主の同意を要求することが現実に困難な八幡製鉄のような大企業においては、理論的に全く無理な擬制というほかない(58)ということもさりながら、ここには、政治献金という行為自体の性質をどのように見るか、という政治献金問題についての本質的な論点が含まれていると思われる。

四  憲法問題としての政治献金


  政治献金という行為自体の性質がどのようなものであるかにかんし、上記八幡製鉄政治献金事件最高裁判決は、それが表現の自由の一態様として憲法二一条で保障される「政治的行為をなす自由」の一環をなすものとして捉え、「事の性質上、国民個々の選挙権その他の参政権の行使そのものに直接影響を及ぼすものではない」としている。この点、憲法学説上では、自然人=個人の政治献金にかんし、それが「表現の自由の保障の範囲内に含まれる自由」とする有力な見解(59)や、憲法一三条の幸福追求権を参政権的な権利を含む包括的な人権と捉える立場から、幸福追求権のなかに含まれる参政権的権利の一つとして保障されることを示唆する見解(60)もある。
  しかし、ここで問題にしているのは、法人、なかんずく会社のなす政治献金である。この点にかんし、まず、会社の「政治的行為をなす自由」一般ということについていえば、営利活動により利潤を上げることを目的とする会社が、その営利活動の一環としてもろもろの政治的主張を行うこと自体については、たしかにこれを否定することはできないであろう。しかし、会社の政治献金をなす行為がストレートに表現の自由の保障の範囲内のものとしうるかどうか、また、幸福追求権のなかに含まれる参政権的権利の一つとみなしうるかどうかは、きわめて問題であって、政治献金という行為の性質を端的に直視すれば、政治献金という行為自体は、決してアンビヴァレントなものではなく、行為の客観的性質としては、つねに一定の政治的価値観ないし信条にコミットするという社会的意味をもつものというべきであろう。したがって、このようなものとしての政治献金を会社が行うことは、会社役員が構成員個人の市民としての政治的信条の自由を侵害し、それゆえに、法人の名においてその代表機関がするのに任せることができないものといわなければならない(61)
  しかも、問題はこれにとどまらず、上記最高裁判決が、控訴審判決と同様に、政党への会社の政治献金が性質上国民個々の参政権行使そのものに直接影響を及ぼすものではないとしている点はきわめて重大である。
  政治献金を国民の参政権行使とのかかわりで問題にする場合、何よりもまずその前提として確認される必要があるのは、日本国憲法一五条一項が、公務員の選定・罷免権を「国民固有の権利」と定め、判例も「選挙権は国民の最も重要な基本的権利」としている点である。すなわち、衆議院議員選挙定数不均衡事件一九七六年判決(62)において、最高裁は、@「選挙権は、国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として、議会制民主主義の根幹をなすもの」であること、A「選挙権に関しては、国民はすべて政治的価値において平等であるべきであるとする徹底した平等化を志向するもの」であること、B選挙権の平等の要請が、投票の数的平等である一人一票の原則だけにとどまらず、「選挙権の内容、すなわち各選挙人の投票の価値の平等もまた、憲法の要求するところである」ことを確認している。憲法一四条一項のみでなく、一五条一項・三項、四四条但書等を根拠に投票価値の平等が憲法上の権利であることをはじめて承認した一九七六年判決は、選挙においては「徹底した平等化」が要請されるものとするが、この「徹底した平等化」として、選挙結果に至る選挙のプロセス全体を通して他の選挙人の投票と同じ影響力を及ぼすことのできる平等な法的可能性が保障されるべきものと解されよう。このように問題を見てくれば、最高裁が確認した憲法上要請される選挙平等原則の論理的帰結として、政治への発言力、影響力は平等であるべきであって、この点からみて、「個人の献金能力を凌駕する会社の政治献金は、はじめから参入を拒否され、あるいは制限されてしかるべきもの(63)」と推論することは容易に肯定されるであろう。
  とまれ、こうした「国民の最も重要な基本的権利」たる選挙権についての意義を確認してから二〇年の時間が経過して後、最高裁は、一九九六年の南九州税理士会政治献金事件において、政治献金という行為自体がいかなる性質ものであるかにかんし、次のような画期的な判示を行った。すなわち、「政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、……市民としての個人的な政治思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄である」とし、なんとなれば、政党など政治資金規正法上の政治団体に「金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党叉はどの候補者を支持するかに密接につながる問題」であるから、このような事柄を税理士会が「多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできない」と。
  むろん、本判決において、政党等の政治団体への政治献金が税理士会の目的の範囲外の行為であって、この寄附を目的とする本件決議も無効であると判断するに際して、最高裁が重視したのは、「会社とはその法的性質を異にする法人」である税理士会の強制加入団体としての性格であった。しかし、そこで争点として争われていたのが、税理士会による政治献金目的の特別会費の徴収が構成員の思想の自由を侵害しないか、という問題であった限りで、最高裁にとっても政治献金という行為自体の性質をどのように見るか、ということは避けてとおることのできない論点であった。まさしく、この問題の核心において、最高裁が、政治献金という行為自体の性質につき、@「選挙における投票の自由」という市民の参政権的権利と一体的な関係にあること、A市民が自らの個人的な政治思想に基づいて自主的に決定すべき事柄であること、B個人の政党支持の自由に密接に関係する事柄であること、C団体の名において代表機関が多数決原理によって決定するのにまかせることのできない問題であること、を確認したと見ることができるとすれば、そこから導くことのできる結論はただひとつ、営利団体であろうと、非営利団体であろうと、強制加入団体であろうと、任意加入団体であろうと、さらに団体構成員の全員の同意が得られたり、「株主全員がOK」というとしても、政治資金規正法上の政治団体でない限り、傾向企業も含めて、政治献金という行為自体の有する事柄の性質からして、およそいっさいの団体がその団体たる資格においては政治献金をなしえないものといわなければならない(64)

む    す    び


  以上、政治献金をめぐる問題について、「目的の範囲」条項と会社の政治献金という視角から、若干の検討を試みてきた。そのような検討をふまえて、ここで、むすびとして、憲法論の観点から若干の指摘をしておきたい。
  法律学上、法人とは、一般に、自然人=個人でない存在を権利義務の統一的な帰属点たらしめる技術である、と定義される。すなわち、法技術的見地から見れば、法人とは、「社会集団の権利義務をその社会集団の複数の構成員に帰属させないで(すなわち、複数の権利義務関係として処理しないで)、団体という単一体に集中帰属させるしかた」であって、このような権利義務関係の単一的帰属に対応して、その権利義務関係につきその団体の構成員等の権利義務関係から分別されて処理される技術が、近代法において法人という概念でよばれるものの具体的内容である(65)。取引の平面における法人の本質が法人のこのような技術的契機(法人格)にあるとすれば、問題はこのような技術的契機が何ゆえに発達してきたのか、ということである。
  この間の事情を簡潔に示しているのが、法人理論について精力的に研究を重ねてきた福地俊夫のつぎのような指摘である。すなわち、福地によれば、資本制的商品生産の諸関係に基づいて、生活資料のほとんどすべてが商品的性質をおびてくる近代社会においては、「人々の行動基準(価値)がきわめて数量的・画一的なものとなり、人間の行動そのものも、その行動の客体である生産資料も、多く個性を喪失してしまい、その部分だけが人々の全生活ないし全社会関係から切り離して扱われうる独立的・客観的性格をおびてくる。そのため、何らかの共同目的または非個人的目的のために財産上の取引活動が企図される場合には、非常に形式的な多数決の方法によって行動決定をすることも可能となる。たとい少数派の意見が当該の場合に否定されても、その影響するところは、……当該の事項に限局され、彼らの生活の他の局面に致命的効果を及ぼさない。また、一定の客観的な枠さえあれば−実際にそれを設けることも容易なのだが−まったく他人による意思決定に予じめ一任しておいても、ほぼ目的を到達することが可能となる(66)」。
  むろん、このような関係が典型的に見られるのが株式会社であることはいうまでもない。これに続けて、福地はつぎのようにいう。「そこでは、それをめぐる一切の人間行動の選択基準が極度に画一化され、持株数による多数決・株主の責任制限・株主間の相互関係の最大限の捨象・株式の譲渡性等が可能となり、且つ制度的に実現し、あたかも資本そのものが営利精神という『自己目的』をもって活動し、『自己増植』をとげるかのような外観を呈する(『資本の集中』)。これを株主の側からみれば、彼の出資の運命をこの画一的機構に一任することによって、却って良くその本来の目的を到達できるのである。しかも、このようなことは、資本団体にかぎらない。資本制生産様式の支配の下では、種々の非営利的目的の財産運営、たとえば教育的・学術的・宗教的・芸術的・社会福祉的目的のための財産運営も、多かれ少なかれ資本制企業の運営形式に同化され、機械的多数決や他人意思による代替の諸方法が採用されざるをえないようになるのである(67)」。
  このようにして、福地が指摘するように、「法人」というカテゴリーが、人間の共同生活の全側面を捉えるものでなく、「財産運営ないしそれに同化されうる性質をもつ権利義務的活動の側面の主体的抽象化」にほかならない(68)とすれば、法人の享有しうる「人権」の範囲や限界の画定の際に、当該法人の設立目的や性質がまずもって考慮される必要があることはいうまでもない。しかし、ここで問題になるのは、そのような法人の設立目的や性質をどのようにして判定するか、ということである。この点、従来の学説や判例は、たとえば、八幡製鉄政治献金事件最高裁判決が典型的に示しているように、私法上の権利能力=憲法上の人権享有能力という理解を暗黙の前提として(69)、民法四三条の「目的の範囲」条項の枠組みのなかで、法人実在論的観点から法人の「目的」とか「存在」ということを唯一の標準として法人の内外のさまざまの利害調整を行ってきたといってよい。
  しかし、「目的の範囲」条項それ自体にかんし、商法学上では、同条項の会社への類推適用を否定する見解が近時の有力説であること、そしてかりに同条項の類推適用を肯定するとしても、民法学上、これを法人実在説の立場から権利能力と行為能力の範囲を定めた規定と解するのではなく、理事等の代理=代表権の制限と解し、法人自身の行為とか機関概念を有機体説による無益な法的構成として排斥する見解(70)が今日の通説とされるにいたっているということであってみれば、会社の行為としていかなる行為が是認されるかにつき、権利能力の問題として抽象的に論ずるのではなく、法人の性格や目的、当事者双方の諸事情、当該事柄の性格が法人の名においてその代表機関がするのにまかせることができるか否か、という私法上の考慮要因のみならず、さらには、そこで問題となる憲法上の「人権」の性質をも含めて検討の射程に入れられる必要があるであろう。
  ここで、憲法学の観点から、「人権」観念一般について問題にすれば、そこでは「憲法上保障された権利」がすなわち人権であるという言葉の使い方は、一般的に認められた用法であるといってよい。しかし、法人の享有しうる「人権」という事柄との関係で問題にする場合、人一般の自然権という法思想史的沿革をもち、あくまでも自然人を前提としたものであるがゆえに、とくに法的保障をうけるという考え方は、今日の現代社会においていわゆる社会的権力による人権侵害から個人の人権をいかに保障するか、ということが問題となっている限りで、きわめて重要な意味をもっている。「人権」についてのこのような考え方を前提にすれば、法人に憲法上一定の「人権」が保障されるとしても、それは、自然人=個人との関係ではつねに第二義的な意味しかもちえないものというべきであろう(71)
  法人の享有しうる「人権」についてこのように捉えたうえで、次に問題となるのは、いかなる「人権」を、いかなる範囲で法人が享有しうるとするかである。この点について一義的な基準を設けることは困難であって、一般に指摘されるように、「権利の性質」に即して判定するほかないであろう。そして、権利の「性質上」、選挙権や被選挙権、生存権をはじめとする社会権、思想・良心の自由、奴隷的拘束からの自由などの一定の人身の自由が、法人の享有しえない「人権」とされ、これに対して、法の下の平等、裁判を受ける権利のような国務請求権、財産権などの経済的自由、表現の自由、通信の秘密、適正手続や住居の不可侵などの刑事手続き上の諸権利、などが法人の享有しうる「人権」とすることに異論はないといってよい。
  そこで、残された問題は、八幡製鉄政治献金事件最高裁判決がいうように、会社が「政治的行為をなす自由」を有するということから、ストレートに「政治資金の寄附をなす自由」を導くことができるか、ということである。この点にかんし、南九州税理士会政治献金事件最高裁判決が、政治献金という行為自体の有する性質につき「選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、……市民としての個人的な政治思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄」としたことは、すでに詳しく検討してきたところから明らかなように、政治献金という行為自体の性質からして団体の代表機関が多数決に基づいて決定するのにまじないものとして、八幡製鉄政治献金事件最高裁判決につき、それが本来収められるべき場所、すなわち歴史の博物館に収納されるべきことを予示したものということができよう。

(1)  室伏哲郎『汚職の構造』〔岩波書店、一九八一年〕。
(2)  さしあたり、小栗実「企業献金と政治資金」(森英樹編『政党国庫補助の比較憲法的総合的研究』〔柏書房、一九九四年〕)一七九頁以下、右崎正博「政治腐敗の現状と政治資金・政治倫理制度の課題」(森編・前掲書)一五九頁以下、吉田善明「政治資金法制と実態」(明治大学政治資金研究会『政治資金と法制度』〔日本評論社、一九九八年〕)一八九頁以下、などを参照。
(3)  最三小判平成八年三月一九日民集五〇巻三号六一五頁。なお、本件一審判決につき、中島茂樹「公益団体の政治献金と構成員の思想の自由」(憲法判例百選〔第二版〕)六四頁(一九八八)、二審判決につき、同「公益団体の政治献金と構成員の思想の自由」(憲法判例百選〔第三版〕)八〇頁(一九九四)、最高裁判決につき、「強制加入団体の政治献金と構成員の思想の自由」(憲法判例百選〔第四版〕)八四頁(二〇〇〇)と、そこで列挙している文献を参照。
(4)  中島茂樹「税理士会の政治献金が法人の目的の範囲外の行為であり、政治献金目的の会費徴収決議は無効であるとした事例」法学教室一九二号九七頁(一九九六)。
(5)  森泉章「南九州税理士会政治献金徴収拒否訴訟上告審判決」判例評論四五七号三六頁(一九九七)、木下智史「税理士会による政治献金と会員の思想・信条の自由」(判例セレクト96)法学教室一九八号別冊付録一一頁、山田創一「法人の目的の範囲−政治献金は法人の権利能力の範囲内か−」山梨学院大学法学論集三八号三一五頁注23(一九九七)。
(6)  最大判昭和四五年六月二四日民集二四巻六号六二五頁。
(7)  団体・法人とその構成員の権利・自由の衝突が問題となった一連の事件では、一般に、団体・法人の活動が民法四三条の「目的の範囲内」に含まれるか否か、という枠組みのなかで議論が組み立てられている。たとえば、労働組合の政治的活動と組合員の政治的信条との関係が問題となった国労広島地本事件(最判昭和五〇年一一月二八日民集二九巻一〇号一六九八頁)、司法書士会の活動と構成員の思想・信条の自由との関係が問題になった群馬司法書士会震災復興支援金事件の控訴審判決(東京高判平成一一年三月一〇日判例時報一六七七号二二頁)などを見よ。さらに、橋本基弘「非政治団体の政治的活動と構成員の思想・信条の自由(上)」高知女子大紀要〔人文・社会科学編〕四一巻八八頁以下(一九九三)をも参照。
(8)  佐藤功『憲法(上)〔新版〕』(ポケット注釈全書)〔有斐閣、昭和五八年〕一七九頁。
(9)  佐藤・前掲書(注8)一八一頁。
(10)  以下の立法趣旨については、高木多喜男「民法四三条(法人の権利能力・行為能力)」(林良平・前田達明編『新版注釈民法(2)』〔有斐閣、平成三年〕)二二〇頁以下、森泉章「法人の能力」(谷口知平・加藤一郎編『新版・判例演習民法1総則』〔有斐閣、昭和五六年〕)四九頁以下、前田達明「法人の権利能力・行為能力・不法行為能力(1)」法学教室一〇九号六四頁以下(一九八九)などを参考にした。
(11)  福地俊夫「民法四三条(法人の権利能力の範囲)」(篠塚昭二編『判例コンメンタール3  民法〔総則・物権〕増補版』〔三省堂、一九八三年〕)七四頁、星野英一『民法概論(2)』〔良書普及会、昭和六二年〕一三三頁。
(12)  以下の判例の展開については、竹内昭夫「権利能力の制限」(上柳克郎ほか編『新版  注釈会社法(1)』〔有斐閣、昭和六〇年〕)一〇〇頁以下、北沢政啓「定款所定の目的と会社の能力」(同編『判例と学説  商法(2)〔会社〕』〔日本評論社、一九七七年〕)二頁以下、高木・前掲書(注10)二四三頁以下、森泉・前掲論文(注10)五二頁以下、前田達明「法人の権利能力・行為能力・不法行為能力(2)」法学教室一一〇号五七頁以下(一九八九)、などを参考にした。
(13)  従来の通説的見解の代表的なものとして、鳩山秀夫『日本民法総論』〔岩波書店、昭和二年〕一三六頁、我妻栄『新訂民法総則』〔岩波書店、昭和四〇年〕一五五頁など。
(14)  福地俊夫「法人の能力と機関」(谷口知平・加藤一郎編『新・民法演習1〔総則〕』〔有斐閣、昭和四三年〕)五九頁。
(15)  前田達明は、一九九六年の判例批評(「法人の目的の範囲−会社の政治献金」民法判例百選(2)〔第四版〕二五頁)では、民法四三条を法人の権利能力制限規定と解する見解を通説としていたが、一九九八年の論文(「法人の目的」法学教室二一三号一三頁)では、「『民法四三条は代表権者たる理事の活動し得る範囲すなわち代表権の範囲を定めた規定である』と説明する学説」が通説であるとしている。
(16)  川島武宜『民法〔3〕』〔有斐閣、昭和二六年〕二五九頁、同『民法総則』〔有斐閣、昭和四〇年〕一一二、一二三頁以下、福地・前掲論文(注14)六四頁以下、星野・前掲書(注11)一三二頁、四宮和夫『民法総則〔第四版補正版〕』〔弘文堂、平成八年〕一〇二頁など。
(17)  川島・前掲書(注6〈民法総則〉)一一一頁。さらに、川島武宜「法人の代理と代表」(「『川島武宜著作集〔第六巻〕』〔岩波書店、一九八二年〕)五八頁以下、同「法的構成としての『法人』」(前掲川島著作集)七四頁以下をも参照。
(18)  森泉・前掲論文(注10)五八頁、浜田道代「会社の目的と権利能力および代表権の範囲・再考(中)」法曹時報五〇巻一〇号一六頁(一九八八)。
(19)  川島武宜『所有権法の理論』〔岩波書店、昭和二四年〕九頁以下。
(20)  相本宏「法人論」(星野英一ほか編『民法講座(2)』〔有斐閣、昭和五九年〕)一六一頁。
(21)  福地・前掲論文(注14)六四頁。さらに、浜田・前掲論文(注18)一三頁以下をも参照。
(22)  西原博史「公益法人による政治献金と思想の自由」ジュリスト一〇九九号九九頁(一九九六)も、「民法学の議論と照らし合わせた場合、〈法人の人権〉という憲法学のフィギュアには、圧倒的な素朴さが目につく」としている。
(23)  下民集一四巻四号六五七頁。
(24)  高民集一九巻一号七頁。
(25)  注6参照。
(26)  佐藤幸治「基本権の主体」(阿部照哉編『判例と学説1・憲法』〔日本評論社、一九七六年〕)七五頁、久保田きぬ子「会社の政治献金」(憲法の判例〔第三版〕)二一〇頁(一九七七)、寿田竜輔「法人と人権」(奥平・杉原編『憲法学(2)』〔有斐閣、昭和五一年〕)三八頁以下、芹沢斉「法人の人権」(別冊法学教室『基本判例』)一二頁以下(一九八五)、木下智史「会社の政治献金」(別冊法学セミナー『法学ガイド  憲法(3)(人権)』)四四頁(一九九一)、芦部信喜『憲法学(3)人権総論』〔有斐閣、一九九四年〕一七三頁以下、市川正人「企業の政治献金」法学セミナー四八九号七八頁以下(一九九五)、樋口陽一「個人の尊厳と社会的権力」(同ほか『憲法判例を読みなおす』〔日本評論社、一九九四年〕)三五頁以下など。さらに、鳥居喜代和「法人の基本能力に関する覚書−団体の憲法上の人権享有主体性研究所説−」札幌学院法学一一巻一号三九頁以下(一九九四)をも参照。
(27)  樋口陽一「『人権総論』への一つの試み」法学教室一二三号一四頁(一九九〇)。
(28)  明示的にこの点を指摘するものとして、奥島孝康「会社の政治献金」法学セミナー二四一号一二一頁以下(一九七五)、中村一彦『企業の社会的責任〔改訂増補版〕』〔同文館、昭和五五年〕一一七頁以下、芹沢・前掲論文(注26)一一頁。
(29)  森泉・前掲論文(注10)五八頁。
(30)  浜田道代「会社の目的と権利能力および代表権の範囲・再考(上)」法曹時報五〇巻九号七頁(一九九八)。この点とかかわって、浜田(前掲論文〈注18〉二一頁以下)はさらにつぎのように総括している。すなわち、「現状においても判例は、『目的の範囲』の内外を判断する際に、相手方の主観的事情を考慮したり、法人にとって利益となるか否かを考慮したりして、妥当な結論を導くよう努力している。これは、絶対無効と有効のいずれかに関係者の運命を振り分ける『目的の範囲』というたった一つの単純な道具を、名人芸的に使いこなし、妥当な結論を導こうとしているものとしては、賞賛に値することなのかもしれない。しかし、法規範が判断基準として客観的に機能しない近代法以前の状況に止まることを示すものとしては恥ずべきことでもある」と。
(31)  鍛冶良堅(「法人の『目的ノ範囲』」〔星野ほか編・前掲書〈注20〉〕一八四頁)も、「会社の政治活動すら『目的ノ範囲内』とする最高裁の見解は、『会社は定款に定められた目的の範囲内において権利能力を有する』の前提の廃棄をすら意味しかねないものであって、明らかに法人実在説理論の濫用といわなければならない」という評価を下している。さらに、竹内(前掲論文〈注12〉九九頁)も、「この原則にもとづいて会社に責任はないという会社の抗弁は、裁判上ほとんど認められなくなっており、その限りにおいては、この原則は、判例により、事実上ほぼ廃棄されるに至っているといっても過言ではない」としている。
(32)  このような観点から、服部栄三「会社の政治献金」(『商法の判例〔第三版〕』)九頁以下(一九七七)が、問題点を的確かつ簡潔に分析している。
(33)  政治献金を肯定する私法上の見解として、さしあたり、田中誠二『全訂会社法詳論〔上巻〕』〔勁草書房、昭和五七年〕七六頁以下、六三九頁以下(一九七五)、幾代通『民法総則〔第二版〕』〔青林書院、昭和五九年〕一二一頁、前田・前掲論文(注12)五九頁などを参照。
(34)  我妻・前掲書(注13)一二六頁。
(35)  我妻栄ほか「〈ジュリストの目〉政治資金の規制」ジュリスト三六五号二一頁(我妻発言、一九六七)。
(36)  我妻栄「裁判による解決の限界−政治献金判決にちなんで−」ジュリスト三四一号一〇頁(一九六六)。
(37)  このような、応分の限度内であれば政治献金が許されるとする見解については、つとに、奥島.前掲論文(注28)が指摘していた次のような所論が正当であろう。「ここで争われているのは、金額の多寡といった量的な問題ではなく、政治献金という行為の反公益性といういわば質的な問題である。常識的にみて、会社が自己の存立の基礎を危くするような政治献金が行なわれることはほとんどないと予測される以上、応分論は、取締役の責任を追及する際の基準としては、現実には、ほとんどなんの役にも立たないであろう。とすれば、本件の中心的問題点は、反公益性に収斂せざるをえないことになる」。
(38)  この点については、三枝一雄「『会社のなす政治献金』論について」法律論叢六三巻二・三号三一頁以下(一九九〇)が詳しい。
(39)  鈴木竹雄「政治献金判決について」(同『商法研究(4)』〔有斐閣、昭和四六年〕)三〇一頁。
(40)  鈴木・前掲論文(注39)二九一頁以下。
(41)  鈴木竹雄「会社の政治献金」(『会社判例百選〔新版〕』)一一頁(一九七〇)。
(42)  内田貴『民法(2)〔第2版、補訂版〕』〔東大出版会、二〇〇〇年〕二三六頁。
(43)  この点、服部(前掲論文〈注32〉一三頁)は、「政治献金が社会的弊害を伴う行為」であるということを根拠に、「これを会社の目的の範囲内の行為にして完全に適法とすることは、商法の解釈論としても疑問がある」としている。近時では、浜田道代(「会社の目的と権利能力および代表権の範囲・再考(下)」法曹時報五〇巻一一号六−七頁〔一九九八〕)も、一九九四年に政党助成法が制定された今日、「政治団体ではなくて営利法人である会社までがそのような協力(政治献金−引用者)を期待される度合いは、著しく低下している。このような情勢下では、会社による政治資金の寄付は、会社法の論理としても許されないという解釈を明確に打ち立てていくべきである」とする。
(44)  たとえば、森泉章(「法人の目的の範囲−会社の政治献金」(『民法判例百選(2)〔第三版〕』二五頁〔一九八九〕)は、「政治献金を憲法違反であるという考え方にたてば、もはや会社の権利能力との関連でこの問題を論ずる必要なない」と明言している。
(45)  政治献金を否定する私法上の見解として、福岡博之「会社と政治献金」企業法研究一八四輯二二頁以下(一九七〇)、同「会社の政治献金」法学セミナー一五五号五一頁(一九六九)、西原寛一「八幡製鉄政治献金事件の第一、第二審判決について」判例評論九二号九九頁以下(一九六六)、同「〈判例批評〉政治資金の寄附と会社の権利能力等」民商法雑誌六四巻三号五〇八頁以下(一九七一)、服部・前掲論文(注32)九頁以下、森泉・前掲論文(注44)二五頁、三枝一雄「政治資金の私法的アプローチ」(日本財政学会編『政治資金』〔学陽書房、一九九一年〕)二〇頁以下、同・前掲論文(注38)八〇頁以下、新山雄三「株式会社企業の『社会的実在性』と政治献金能力−いわゆる八幡製鉄政治献金事件判決の分析と評価−」岡山法学会雑誌四〇巻三・四号一四七頁以下(一九九一)、河本一郎『現代会社法〔新訂第八版〕』〔商事法務研究会、平成一一年〕七二頁以下などを参照。
(46)  樋口・前掲論文(注26)三九頁。
(47)  冨山康吉『現代商法学の課題』〔成文堂、昭和五〇年〕七二−七三頁。
(48)  富山・前掲書(注47)九八−九九頁。
(49)  富山・前掲書(注47)八一頁。
(50)  富山・前掲書(注47)一二七、一三〇、一三八頁。
(51)  富山・前掲書(注47)一二一頁。
(52)  富山・前掲書(注47)八一−八二頁。
(53)  富山・前掲書(注47)一一九頁。
(54)  富山・前掲書(注47)一二三頁。
(55)  富山・前掲書(注47)一二三−一二四頁。
(56)  富山・前掲書(注47)一二四頁。
(57)  鈴木竹雄ほか「〈座談会〉会社の政治献金の法律問題−東京高裁の判決をめぐって−」ジュリスト三四三号三六−三七頁(四宮和夫発言、一九六六)。そのほか、星野英一も、右座談会において、同種の発言を行っている(二一、二六頁)。さらに、河本(前掲書〈注45〉七二−七三頁)も、「株式会社のなす政治献金は、株主全員の同意に基づいてなされたものでないかぎり、商法以前の、憲法・民法の段階においてすでに無効と解する立場に賛成すべきである」とする。
(58)  大隅健一郎「八幡製鉄政治献金事件判決について」判例評論五八号三頁(一九六三)、中村・前掲書(注28)一二二頁。
(59)  野中俊彦ほか『憲法(2)〔新版〕』〔有斐閣、平成一一年〕二一四頁(中村睦男)は、「八幡製鉄政治献金事件で問題になった政治活動の自由の一環としての政治資金の寄附の自由は、表現の自由の保障の範囲内に含まれる自由であるが、他方、参政権の行使と密接にかかわる自由であるため、法人に適用されるかどうかの意見の分かれるところである」としている。
(60)  佐藤幸治(『憲法〔第三版〕』〔青林書院、平成七年〕四一五頁)は、「政党への寄附行為が仮に表現の自由の範疇に属しないとしても、『幸福追求権』の保障対象となる」とする。
(61)  高柳信一ほか「シンポジウム  政治献金」(日本財政法学会編『政治資金』〔学陽書房、一九九一年〕)一一五頁(高柳発言)は、「人はいろいろな経緯で当該法人の社員あるいは株主になるのであって、その政治的信条はさまざまであり得るのですが、それにもかかわらず、多数決で−あるいは代表取締役か単独で−献金先の政党を決定するというのは、少数者の政治的信条を侵害することになる」としている。さらに、上記で検討した富井の見解のほか、福岡・前掲論文(注45〈法学セミナー〉)五一頁、中村・前掲書(注28)一三四頁、鈴木竹雄ほか・前掲座談会(注57)三〇頁(小林直樹発言)、三六−三七頁(四宮発言)。
(62)  最大判昭和五一年四月一四日民集三〇巻三号二二三頁。なお、本判決は、選挙権を憲法上の権利として位置づけた点で一定の評価を得ているが、長尾一紘「選挙に関する憲法上の原則(上)」Law School 一四号九六頁以下(一九七九)は、@平等選挙原則と一般的平等原則との相違についてはたんに量的な徹底度の相違として把握するのみであること、A定数配分に際しての考慮事項として、非人口的要素をほとんど無限に近く認める傾向があること、を指摘する。
(63)  奥平康広「憲法政治の復権はいかにあるべきか」法律時報六一巻一二号(一九八九)。
(64)  この点、樋口陽一『憲法』〔創文社、一九九二年〕一七五頁は、八幡製鉄政治献金事件最高裁判決を批判する文脈のなかで、「『政治的行為をなす自由』にかかわる思想・表現の自由や参政権は、本来、自然人=個人のものであり、今日でも、自然人=個人の憲法上の権利と『同様』の資格でそれと対抗的に法人が主張することはできないもの、と考えるべきである」としている。
  また、浦部法穂『全訂  憲法学教室』〔日本評論社、二〇〇〇年〕六四頁は、明確に、「政治献金のようなことがらは、まさに『選挙における投票の自由と表裏を成すものとして……市民としての個人的な政治思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄』であり(南九州税理士会事件最高裁判決)、強制加入であろうと任意加入であろうと、そもそも団体としてなしうるものではない、とすべきであろう。会社なら政治献金してよいという八幡製鉄事件判決は、この点でもまちがっている」と断じている。
(65)  川島武宜「企業の法人格」(前掲川島著作集〈注17〉)四五頁。そのほか、代表的なものとして、四宮和夫・能見善久『民法総則〔第五版〕』〔弘文堂、平成一一年〕七二頁以下参照。
(66)  福地俊雄「法人の法的主体性と社会的主体性」法と政治一〇巻四号五七−五八頁(一九五九)。
(67)  福地・前掲論文(注66)五八頁。
(68)  福地・前掲論文(注66)六二頁注4。
(69)  木下智史「税理士会による政治団体への寄付と法人の権利能力」神戸学院法学二〇巻三・四号一五一頁(一九九〇)。
(70)  森泉・前掲論文(注10)五八頁。
(71)  芹沢斉「法人と『人権』」(憲法理論研究会編『人権保障と現代国家』〔敬文堂、一九九五年〕)三三頁は、「法人等の権利享有の根拠」につき、「法人等の背後に存在する自然人を『透視』し、その自然人による構成から当該法人等自身に人権類似の権利を認めることの必要性が承認される場合に限られる」ということを挙げている。