立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 206頁




近世日本の訴状

− 訴願手続の考察に向けて −


大平 祐一


 

第一節  は じ め に

第二節  訴状の類型
  第一項  「出入型」の訴状
  第二項  「願型」の訴状

第三節  民事・刑事・訴願の訴状とその検討
  第一項  民事・刑事・訴願の訴状
  第二項  訴状の内容
  第三項  訴状の検討

第四節  む  す  び


 


第一節  は  じ  め  に


  一  近世日本において、公権力に対し何らかの措置を求めて行う私人の訴えのうち、ある種のものは出入筋、吟味筋と呼ばれる裁判手続で処理された。近世日本の訴訟制度、訴訟法の研究はもっぱらこの種のものを対象にして行われてきた。しかし、同じく公権力に対し何らかの措置を求めて行う訴えである訴願については、これまで法史学の研究対象としてはほとんどとり上げられることがなかった(1)
  近年、訴願の法的性格が注目されるようになり、いくつかの注目すべき研究が見られるようになった(2)。しかし、訴願手続の具体的検討にもとづく法的性格の分析は、いまなお未着手の課題として残されている。訴願の手続法的研究は空白状態にあるといっても過言ではない。近世日本において、公権力に対し何らかの措置を求めて行う私人の訴えが、人々の権利・利益救済の手段として重要な意味を持っていたことを考えると、訴願の法的手続的性格の解明は法史学研究の重要な一課題であるといってもいいすぎではないであろう。

  二  本稿は、このような課題認識から、公権力に対し何らかの措置を求めて行う私人の訴えの一形態たる訴願の全体像を明らかにするための準備作業として、各種の訴えの訴状に焦点をあててその異同を検討し、訴願の特徴の一側面を明らかにしようとするものである。訴状に焦点をあてたのは、訴状が訴えのフォーマルな姿を端的に示すものであり、その異同を知ることは訴えの法的性格の異同を知るうえでの一つの手がかりになると思われたからである。

第二節  訴状の類型

第一項  「出入型」の訴状
  一  私人が公権力に対し何らかの裁定・措置を求めて訴え出る際に用いられた訴状の第一類型として、「出入型」訴状をあげることができる。「出入型」の訴状とは、出入筋の手続にもとづく訴えに際し用いられたものであり、訴訟人(原告)と相手方(被告)の名前が訴状の冒頭に併記されているものをいう(3)
  二  出入筋とは、あい争う当事者(個人または集団)の一方が他方を訴え公権力の裁定を求める手続である。財産的権利・利益や身分的権利(特権)・利益をめぐる争いは、この出入筋の手続にもとづき、裁判所でもあり行政官庁でもある役所(以下、裁判役所と略称)で処理された。近世日本の民事訴訟法の研究は、したがって、この出入筋の手続を中心的対象として行われてきた。近世日本における民事訴訟とは、出入筋の手続で処理される訴訟といってもよいであろう。
  三  しかし、ここで注意しなければならないことは、刑事事件も出入筋の手続で処理されることが少なくなかったということである。刑事事件の被害者が加害者(犯人)を相手どって訴状(「目安」)を裁判役所に提出するということがしばしば行われたのである。この場合、事件が殺人、放火等の重大な刑事事件でなければ出入筋の手続で処理された。出入筋は、「私人間の紛争に関するもの(4)」であり、しかも、そこでは、対象となる事件が民事事件であっても軽い刑罰を課される場合があった。このように考えると、出入筋の手続は、民事訴訟手続というよりは、平松義郎氏の指摘されるように、「民事刑事両訴訟手続の合体したもの(5)」というほうが、より正確なのかも知れない。民事事件や軽微な刑事事件につき出入筋の手続にしたがって訴えを提起し、裁判役所に裁定を求める「出入型」の訴状は、近世日本における訴状の重要な一類型をなしている。

第二項  「願型」の訴状
  (一)  民事・刑事の訴状
  一  訴状の第二類型としては、「願型」の訴状をあげることができる。「願型」訴状とは、訴状の冒頭に訴訟人(願人)だけの名前しか記されていない訴状である(6)。「出入型」の訴状が冒頭に訴訟人(原告)と相手方(被告)の名前を掲げていたのと比べると、訴状の形式は明らかに異なる。「願型」訴状は、訴願の訴状、あるいは民事事件、刑事事件の訴状(以下、民事・刑事の訴状と略称)として用いられた。一般に、民事・刑事の訴訟は、権利(利益)侵害者・加害者などの他者を裁判役所に訴えるものであるが、「願型」訴訟の形式をとる民事・刑事の訴状では、訴えられた相手方の名前は、訴状の冒頭に訴訟人と並んで併記されることはなく、訴状の本文中に記されている。
  民事事件に関する私人の訴えを「願型」訴状によって行う(7)というのはあまり一般的ではない。訴訟人による訴状の相手方への送達、法廷での訴訟人・相手方の対決という出入筋の手続によらず、裁判役所の差紙(召喚状)により相手方を出頭させ相手方に債務履行を命ずることを求めるという訴訟人の意思表示を意味するのであろうか。「願型」訴状によりなされた民事の訴えが、「出入型」訴状によりなされた民事の訴えと全く同様に、出入筋の手続で処理されたのかどうかは定かでない。
  二  刑事事件に関して「願型」の訴状によって訴える場合としては、私人による「吟味願」の提出があげられる。従来、大名や旗本が、自己の裁判管轄に属さない刑事事件を幕府の奉行所の裁判にゆだねるいわゆる奉行所吟味願を「吟味願」と呼んできた(8)ので、それとの混同を避けるため、本稿では、「願型」訴状により刑事訴追を求める私人の訴えを「私人による吟味願」と呼ぶことにする(9)
  平松義郎氏は、大著『近世刑事訴訟法の研究』において、私人による犯罪の申告について六種の類型を掲げられ、その第一に目安の提出をあげられた(10)。目安の提出とは、「加害者を特定し、あるいは嫌疑濃厚なる旨を申し立てて、これを相手取り、その者の吟味ないし処罰を願うという訴状を提出することによってなされる(11)」ものである。目安の提出による訴えは「出入物」と呼ばれ、出入筋の手続で処理される。目安の提出は、一般に「出入型」訴状によって行われる。「願型」訴状の形式をとる「私人による吟味願」が、氏のいわれる目安のなかに含まれるのかどうか定かではないが、もし含まれないとしたならば、「私人による吟味願」の提出は、私人による犯罪の申告の第七番目のものとして掲げることができよう。

  (二)  訴願の訴状
  一  訴願とは、公権力への嘆願・請願であり、町村住民あるいは町村役人、惣代等から奉行所、代官所等の裁判役所へなされる各種の願がそれである(12)。行政処分の取消を求める嘆願・請願、あるいは許認可、監督、取締の権限を有する公権力に何からの裁定、措置を求める嘆願、請願等がその典型例であり、この種の訴願は近世日本のほとんどの町村が経験したといってもいいすぎではないほど広範に見られた。
  訴願には多種多様なものがみられ、長い年月の間にくり返し行われることも少なくなかったことから、のちの参考のために、その文例(ひな型)を集録した冊子が各地に残されている。東北大学附属図書館が所蔵する「諸願其外見合物(13)」もその一つであり、そこには、「御材木御払願」、「御林跡地新開願」、「定免切替願」、「新規定免願」、「破免願」、「御廻米石代願」、「類焼拝借願」、「急破御普請願」、「川欠欠損地出来御年貢引方願」、「酒造株譲渡願」、「小作百姓困窮拝借願」、「水難夫食拝借願」等、さまざまな訴願の文例がみられる。右の「諸願其外見合物」は一村単位の訴願の文例を集録したものであるが、訴願は、ときには一村、一町をこえて多数の村々、町方からなされる場合も少なくない。たとえば、「諸勧化売薬類致巡在村々難渋歎之件願(14)」、「諸肥料高値ニ付歎御願(15)」、「菜種売捌手狭難渋ニ付御願(16)」、「実綿売捌方手狭にて難渋仕候ニ付き、手広に相成候様歎御願(17)」、「青物類直売御差留御触流御願(18)」、「塩魚問屋株御願(19)」、「新規生魚差止メ御願(20)」等がそれである。この種の訴願文書は、県史、郡史、市史、町村史、その他各種刊本史料集の随所にみられる。近世は訴願の時代でもあったのである(21)
  二  近世日本においては、上記した訴願の文例集(ひな型集)のほかに、私人間の紛争たる公事出入の訴状、答弁書(「返答書」)等、各種文書の文例あるいは参考例を集録した冊子も数多く作成されている。それらは、公事師、公事宿(郷宿)等、訴訟にたづさわった者たちが職務遂行のための手引として作成したものと思われる(22)。この種の書物としては、古くは播磨辰治郎氏が紹介された「書上仮控書(23)」がある。瀧川政次郎氏が紹介された「秘下会(24)」や、石井良助氏が紹介された「大坂訴願案文(25)」もそれに類するものであろう。石井氏の紹介された「幕政秘録(26)」、「目安物訴答案文(27)」、「訴願手形案文(28)」も公事出入の訴状、答弁書などの文例を集録したものである。服藤弘司氏が紹介された「江戸宿公用留(29)」は、民事紛争(公事出入)に関する各種文書の文例を中心にしつつ、訴願に関する各種文書の文例も集録しており、公事出入、訴願の混合文例集といってもよいであろう。
  三  八鍬友広氏は、論文「訴願する実力(30)」において、新潟県立図書館に所蔵されている二冊のセット本を紹介されている。公事出入の訴状、答弁書等の文例を集録した「公聴集全(31)」と、各種の訴願関係の文例を集録した「水原府公聴集全(32)」の二冊がそれである。後者は越後水原代官所に関する訴願関係の文例集である。前者の「公聴集全」は、背に「水原府公聴集」と記されており、同じく越後水原代官所に関する公事出入関係文書の文例集とみられる。これらは公事出入や訴願を怠りなく行うための手引書として、水原代官所管内の郷宿が作成したものと思われるが、八鍬氏によれば、これらは管内の村や町に出まわっていたようである。八鍬氏は、この二冊のセット本を「訴訟マニュアル」として性格づける(33)とともに、この二冊の本の相異点につき、「『公聴集全』がもっぱら紛争出入に関する文例となっているのに対し、『水原府公聴集全』は、村や町が代官所に対しおこなう種々の訴願を内容としている。前者が『出入編』だとすれば、後者は『訴願編』ということができる(34)」と指摘されている。公事出入と訴願に関する二冊の文例集の内容上の異質性と、「訴訟マニュアル」としての同質性に言及された注目すべき指摘である。訴願と公事出入(民事訴訟)は異なるものであるにもかかわらず、「訴訟」として等しく論ずることのできる側面もあるという前提がここにはうかがわれる。上記した公事出入と訴願の混合文例集の存在もそのことを示唆しているように思われる。訴願についてはその願書をとりあえず訴状と呼ぶことにする。

第三節  民事・刑事・訴願の訴状とその検討

第一項  民事・刑事・訴願の訴状
(一) 民事の訴状
〔史料1〕


  「    乍恐以書付奉願上候

                                    松波平右衛門知行

                                     美濃国本巣郡見延村

                                      名主卯八煩ニ付代

                                  訴訟人   百姓  新 平

                                      百姓惣代  嘉 蔵

   郷例を破相掠候出入                        戸田采女正様御預所

                                      同国同郡同村

                                  相手    庄屋  平之丞

                                      年寄  儀(右ママ)衛門

                                              百姓  藤  八

                                    (外に十名)

右訴訟人新平、嘉蔵申上候、当村高九百石余ニ而私共地頭高百五拾石有之、田畑入会ニ而、当時は三組ニ分り居

候得共、不依何事ニ古来より申合セ、熟談之上取斗来候、然処、村内ニ天神一社其外ニ四社有之、右五社之外ニ

社地無御座、則古来より高四石弐斗余之社領御除有之候得共、別当、社人並棟札等入置候者決而無御座、一郷惣

氏子ニ而、右社領之地所同村百姓内ニ所持致来、取米之儀並宮修覆之儀も、三組庄屋年寄長百姓之内ニ而相談之

上、年々引請世話仕、祭礼之儀は例年二月十日ニ而郷中申合造酒御供相備、村方一同當日於神前ニ相祝候儀、先

年より之郷例ニ候所、五十ヶ年程已前宮及大破候節、惣氏子身分相應之寄進を以普請仕、其後右社領之地所其外

共ニ、相手儀左衛門祖父より世話為致置候得共、年来修覆入用等も無御座、年々地徳夥敷、其上境内之竹木四五

年ニ壹度宛伐取、賣拂候代金右儀左衛門預置候儀ニ御座候、然処、引続候凶作ニ而小分之百姓は必至ニ困窮仕、

夫喰ニも差支候者、右社徳米並竹木代金儀左衛門預置候分、借請取続申度、天明二寅年中、三組之百姓一同連印

を以、私共地頭平右衛門方名主庄左衛門代ニ願出候ニ付、右始末早速儀左衛門え申達候処、承知之旨申候得共、

兎角等閑ニ捨置候間、度々催促仕候処、同人申聞候は、社徳米竹木代共ニ一切余金無之旨申ニ付、難心得存、然

上は数年取斗候諸帳面勘定仕分、惣氏子え為見候様是迄度々掛合候得共、是又彼是難澁而已申、一向取敢不申、

其上去申二月ニ至、例年之通祭礼可致旨、村方より儀左衛門え申談候処、同人申聞候は、凶作故祭礼差延候由申

越候ニ付、一村一体ニ而仕来之祭礼、一己之存寄を以差延候段難得其意段、凶作候共右祭礼は社領之地徳を以致

候事、右村方難儀ニは不相成、殊凶作ニ候ハヽ、猶以神事之儀ニ付、仕来り之通祭礼致可然旨懸合候処、儀左衛

門儀如何相心得候哉、天神并外四社共手前支配ニ候条、祭礼は勿論、社徳并竹木代金勘定仕分も村方え為見可申

謂無之旨申之、郷例仕来相破我儘増長仕、且又新堂新社と申儀堅御法度之趣承知仕候処、糸貫川八ヶ村入會之秣

場有之、字落宮と申唱候地所え新社造立致、剰去申八月十八日新規之祭礼相企、殊ニ神子呼集湯立等相催候ニ付

、差留候得共一円承知不致、依而嘉蔵右場所へ罷越、湯立釜預罷帰申候、既右天神宮え先年度々棟札取拵入候者

有之候故、郷中申合取捨、其後宮え錠前等付候儀も、全儀左衛門外拾貳人之者共馴合を以棟札入置、面々開基之

宮抔と申偽り、社領横領可致巧と奉存候、私共地頭は至而小高之儀ニ付、萬事右体被相掠候故、自小前之者共人

気而已悪敷罷成、殊ニ村方困窮之基、先達而大垣御役所え一應相願候得共、御支配違ニ付、御吟味難被成旨被仰

聞候、依而、無是非今般御訴詔奉申上候、相手之者共不残被召出、前書之始末御吟味之上、就中儀左衛門義は、

久年預置候社徳米竹木代金勘定相立、已来右体巧を以郷例不相破、尤五社共修覆并祭礼等も三組庄屋名主年番ニ

致、明白ニ取斗、村方平和ニ相治候様、被仰付被下置度、奉願上候、何卒以御慈悲、右願之通被仰付被下置候ハ

ヽ、難有仕合ニ奉存候、以上、

                           美濃国本巣郡見延村

                                名主卯八煩ニ付代 百姓 新 平

   寛政元酉年三月                            百姓惣代  嘉 蔵



    寺社

 御奉行所様(35)〔史料2〕



「                                 井上河内守領分

                                   奥州棚倉町三丁目

  貸金出入                              家主百姓

                                       権左衛門

右訴訟人誰奉申上候、私儀農業之間何渡世仕候処、相手誰書面之通売掛貸金出来、度々催促仕候得共、彼是申延

而已仕済方不致、此節取結及懸合、村役人江相届候而も埒明不申、乍恐難儀至極仕候間、無是非今般御

訴訟奉申上候、何卒以  御慈悲、相手之者共被召出、御吟味之上、別紙貸金之分元利済方仕候様、被仰付被下



置度奉願上候、以上、

                                     井上河内守領分

                                      奥州棚倉町三丁目

                                       願人家持

   文政九戌年八月十一日                               権左衛門

    御奉行所様(36)」



















(二) 刑事の訴状

〔史料3〕



  「      乍恐以書付奉願上候

                                  三宅監物知行所

                                   下総国相馬郡三ツ保村

                                    只八聟養子

                                願 人   忠  兵  衛

    不法出入                           井戸喜助様御知行所

                                    同国同郡同村

                                相 手   磯    八

                                同     芳    蔵

                                同     金    六

右訴訟人忠兵衛奉申上候、私儀當三月中、當村只八聟養子ニ参り候者ハ、村離れニ有之候石地蔵を背負、村方軒

別ニ相廻可申旨被申聞候間、無據凡壹里四方ニ而三百軒餘も有之候村方軒別ニ相廻り候處、都合三篇相廻可申旨、

猶又被申聞候間、素より微力之私故、漸々一度相廻り候處、猶又貳篇相廻り可申旨、大勢手込ニ申り、難澁仕

候間、種々相詫候得共、承引不仕、彼是申争候内、相手三人重立、外若者共一同、私を縛り致打擲、身虜痛ミ、

手足共自由ニ不相成、剰同夜中右三人重立拾四五人之様子ニ而、私居宅前ニ、村方放生寺墓場ニ有之候石塔凡百

貳三拾本も持運ひ立ならべ置、就中呑井戸江荒糖を萌呑水ニ差支、私儀は身體相悩ミ、片輪は勿論、農業渡世も

相成兼、心外至極ニ付、無余儀御訴訟奉申上候、何卒以御慈悲相手三人之者共被召出、外大勢之者共名前等糺明

之上、前文不法乱妨之上仇致候始末、厳重ニ御吟味被成下置候様、偏ニ奉願上候、以上、

                                    三宅監物領分

                                     下総国相馬郡三ツ俣村

   年号月日                               唯八聟養子

                                 願 人    忠  兵  衛

                                 差添人    村  役  人

御奉行所様(37)〔史料4〕

  「      乍恐以書付御訴奉申上候

御支配役所蒲原郡何村百姓六助奉申上候、当月五日夜、村内久六忰石松与申者外両人同道致し、深更ニ私宅江忍

入、私江遺恨有之由ニ而、雨戸ヲ破り石砂ヲ打込之、及狼藉ニ候間、早速村役人江相届糺方相願候処、

石松不法之義申募り、此上如何様之変事出来可申も難斗奉存候間、御慈悲ヲ以右石松御吟味奉願上候、乍恐此段

書付ヲ以御訴奉申上候、以上、

                                 当御支配所

                                  蒲原郡何村

   年号月                             百姓

                                      六     助  印

                                   庄屋

                                      何 右 衛 門  印

    御役所(38)」

















(三) 「訴願」の訴状

〔史料5〕



 「     乍恐以書付奉願上候

                                   摂州武庫郡之内村々庄屋共

一此度燈油絞種之儀御触之趣承知仕奉畏候御事

一宝暦九卯年御触書之趣百性共相心得候様ハ、摂州兵庫津、西宮ニて絞候油売払候節は江戸表へ直積廻不致、大

 坂表へ可登積之旨御触書之儀ニ御座候えは、一国切ニ其向寄々ニて絞種類売買仕儀、并油絞候儀も御法度ニて

 も無御座候様ニ相心得罷在候所、此度御触書之趣は、油絞候儀手絞之外は御法度ニ御座候えは、少し宛手作仕

 候種類地廻ニて売払候儀相成不申、困窮之百性共難儀ニ奉存候御事

一一村之内たりとも他之絞種を売買不仕、手作之絞種を以致手絞、其分之油を大坂表へ可積登之旨、御触書之趣

 奉畏候え共、乍恐銘々手絞ニ仕候程之石数は手作不仕候、僅ニ弐三石、四五石之端種類絞道具を相調手絞は難

 仕儀ニ御座候えは、其向寄々ニて申合、絞り道具所持仕候方へ持寄絞申候て、其油ヲ大坂へ為積登候様仕度奉

 願上候御事

 一菜種を大坂へ為積登候儀も僅ニ五斗三斗或は弐、三石位之端種類、遠方之村々銘々より大坂へ為積登候儀迷

 惑至極奉存候、尤向寄々ニて売払候えは賦りもの少も無御座候所、少々之物を船場迄馬ニて出候節ハ、運送其

 外諸賦大分被引落、其上所々ニて9570升目減申候えは夥損銀相賦候故、白菜種作不仕麦作斗仕候様ニ相成申

 候は弥以種類無数、油直段却て高直ニ相成可申と、是又難渋之至ニ奉存候御事

右奉願上候趣被為聞召届被下候は、御慈悲難有可奉存候、以上、

  明和三年戌六月

                                 左(佐)藤伊三郎殿知行所守部村

                                     庄屋  藤 右 衛 門

                                 同断  武庫村

                                     庄屋  彦 右 衛 門>

                                 松平遠江守殿領分西新田村

                                     庄屋  吉  兵  衛

                                      (以下、一五名略)

 御奉行様(39)〔史料6〕



  「      乍恐御訴訟

                                   御料私領

                                     摂河泉州千三百七ヶ村

菜種直段下直并在方小売油                              惣 代 共

高直ニ而難義ニ付歎御願

一百性共作出候油絞草菜種・綿実直段近年大ニ下直ニ相成、其上売捌方手狭ニ而百性共手元不引合、且在方小売

 油高値ニ而難渋仕候ニ付、右両様歎御願、去未六月十三日同十八日両度摂河州千百七ヶ村惣代を以奉願上候処

 、両度共願面不行届之儀御座候ニ付、願下ヶ仕罷在候、依之尚又取調御願奉申上度奉存候処、泉州村々同様奉

 願上度旨懸合仕候ニ付、願之趣意承糺候処、種物相場下直、小売油高直ニ而摂河州同様難義之趣ニ付

 、此度摂・河・泉州村々惣代を以、右難義之始末、乍恐左ニ奉願上候、

 (以下、二ヶ条省略)

 前書願御歎、去未六月中度々奉願上候義大ニ奉恐入候得共、誠ニ近年百性共困窮難相凌候ニ付、村々潰百性多 

 、村毎竃数人別共年増ニ相減し、五拾ヶ年以来摂河泉共平均弐歩通余減申候、(中略)、尤油方御取締 

 ニ付、油懸り之者共不正之取計仕間敷義者、厳敷被仰付候義ニ御座候得者、百性共より右懸り之者共不審相立 

 候道理者無之筋ニ奉存候得共、百性共手元不引合ニ候得者、菜種作増不致、追々減作ニ成、種物払底ニ付而者

 自油高直之基ニ付、油屋共差心得候様との被仰付も御座候段、粗承知罷在候、然ル処、油懸り之者共 

 、右難有御趣意を心得違罷在候哉、百性共難義ニ相成候義を不存、自分利欲勝手而已相考候哉、前書之通 

 、不正之取計仕候、いづれ御上様之御恵不奉請候而者、相続難仕百性共ニ御座候得者、右数々難渋次第御堅

 察被為成下、油懸り之者共御召之上、前書奉申上候不正をも御糺被成下(強調大平)、以来両種物直段

 引立候様御仕法被成下、且百性共燈用油之義先達而奉願上候通、仲買ニ不抱、在方油稼之者絞立候油直々買用

 仕候様被仰付被下度、乍恐此段奉願上候、何卒格別之御仕恵を以、右弐ヶ条願之通、御聞届被成下候ハヽ、数

 万之百性広太之御慈悲難有仕合奉存候、以上

     文政七申年

      四月十三日

                                  御料私領入組

                                 摂河州弐百四拾三ヶ村

                                  岸本太夫殿御代官所

                                   河州錦部郡三日市村

                                     庄屋

                                       五  兵  衛

                                     (以下、二十人略)

                                  摂河泉州村数合千三百七ヶ村

                                     惣代

                                       弐 拾 壱 人

御奉行様(40)

 

 


第二項  訴状の内容

  一  〔史料1〕は、寛政元年(一七八九)三月、美濃国本巣郡見延村名主代理新平と百姓惣代嘉蔵が、同村庄屋平之丞、年寄儀右衛門、百姓藤八らを相手どって寺社奉行所に訴え出たときの訴状である。訴状によれば、見延村は三つの所領が混在する三組相給の村であり、村内のそれぞれの所領に名主、庄屋等の村役人が存在した。本件は、同村の三組が従来協議して管理・運営してきた同村神社の祭礼、社領からの収入(社徳米、竹木代)の管理等をめぐる争いである。訴訟人は、祭礼を勝手に延期し、社領からの収入金の使途を明らかにせず、あまつさえ新社を造立し新規祭礼を企てるなど、数々の郷例違反をくり返す儀左衛門ならびにその同調者たちとみられる同村内の戸田采女正預所の者たちを相手どって寺社奉行所に訴え出たのである。本件は、祭礼執行、金銭管理等に関する郷例違反をめぐる民事事件である。
  〔史料2〕は、貸金出入に関する訴状である。奥州棚倉町三丁目の家主百姓権左衛門が、売掛貸金の返済を先方に求めたが、あれこれと申し立てて返済せず、村役人へ訴えても埒があかなかったため、奉行所へ訴え出たものである。本件は売掛貸金の返還をめぐる民事事件である。
  二  〔史料3〕は、下総国相馬郡三ッ俣村の忠兵衛なる者が、同村の幾八、芳蔵、金八の三名を相手どって訴え出た訴状であり、出入筋の手続にしたがって提出された目安である。本件は、いやがらせ、暴行をうけ「片輪」となった忠兵衛が相手方を訴え出たものである。訴状によれば、同村に聟養子に来た忠兵衛は、村内の慣例という名目のもとに、村内の者たちから石地蔵を背負って村内の家々を廻ることを強いられ、一度廻り終えたところ、さらに二度廻ることを強いられ、固辞するも受けいれられず、ついに言い争いとなり、右三名の者たちにより、縛られ殴打され、さらに井戸へ荒糖を投入されるなどのいやがらせをうけ、「片輪は勿論、農業渡世も相成兼」るという事態に陥った。そのため忠兵衛は、乱妨、不法を中心的にはたらいた右三名の者を相手どって奉行所へ訴え出、厳しい吟味を求めたのである。本件は、暴行、障害等に関する刑事事件である。
  〔史料4〕は、越後国浦原郡の百姓六助が、同村内の石松ら三名の不法を訴え、水原代官所に提出した訴状(「私人による吟味願」)である。本件は、同村内の石松ら三名が、六助への遺恨から、深夜六助宅へ侵入し、雨戸を破り石・砂を投入れるなどの狼藉をはたらいたため、この者たちの吟味を求めて被害者たる六助が代官所に訴え出たものである。本件は、家宅侵入、器物損壊等に関する刑事事件である。
  三  〔史料5〕は、明和三年(一七六六)六月、摂州武庫郡村々の庄屋たちが、訴願のため大坂町奉行所に提出した訴状(「願書」)である。本件は、明和三年三月の幕府法令(41)により菜種油の大坂への「積登」(廻送、集積)を強制され、菜種油の地元での直売買を禁じられた大坂近郊農村の百姓たちが、難儀を訴え当局の配慮を求めて大坂町奉行所に訴え出たものである。本件は、当局の措置に対して不服を申し立て、措置の緩和、そして暗に措置の撤廃を求めて行った訴願である。
  〔史料6〕は、文政七年(一八二四)四月一三日、摂州、河州、泉州一三〇七ヶ村の惣代が訴願のため大坂町奉行所に提出した訴状である。本件は、村々農民の生産した菜種の販売値段が低下し、また、在方の小売値段が高騰しているため、農民が困窮し潰百姓が多発していること、その原因として、油商人たちによる価格をめぐる「不正之取計」があることを訴え、これらの者たちの吟味を求めて、右村々の惣代たちが大坂町奉行所に訴え出たものである。本件は、特権的営業権(「御免株」)を認められた商人たちの不当な営業活動を訴え、その取締を求めた訴願といえよう。

第三項  訴状の検討

  (一)  訴状の書出し(表題)について
  一  第一項で例示した訴状から理解されるように、訴状の書出しには、「乍恐以書付願上候」という表現が、各種の訴えの訴状に共通して見られた。民事の訴えも刑事の訴えも、訴願も、本質的には公権力に対する願であつたことを端的に示している。訴訟も願にほかならなかったのである(42)
  書出し(表題)の表現については、このほかに、「御訴」(〔史料4〕刑事の訴状)、「御訴訟」(〔史料6〕訴願の訴状)という表現がみられる。民事・刑事の訴状の書出しにおいても、「御訴訟」という表現がしばしば用いられている。公権力に対する人々の訴えは、「願」でもあり「訴」、「訴訟」でもあったのである。
  二  もっとも、近世日本において、「訴訟」と「願」が概念上、全く区別されていなかったわけではない(43)。たとえば、正徳六年(享保元年)(一七一六)六月の書付に次のようにある。
  「近世以来、公事訴訟之外に有之ものと申方有之、或は公義御用懸承度由を申、或は公儀御為を存寄由を申し、此外或は諸人御救の為と申、或一分御救の為と申すべく、此等之類種々の事を以て当地并遠国御役所へ願出候輩年々其数を増候(以下略下)(44)
これによれば、「公事訴訟」と対置された「願」とは、各種の事業、営業、企画等の認可、承認を求めて奉行所等の役所へ行う申請のことであった。これに対し、「公事訴訟」とは民事訴訟を意味し、「訴訟」とは奉行所等への訴えにほかならなかった。
  もっとも、右の「願」の意味は、右法令に見られた限りでの意味合いにすぎず、現実には、認可、承認の申請のみならず、行政当局(すなわち裁判役所)への各種の広範な嘆願、請願が「願」の語のなかには含まれた。
  しかし、こうした「訴訟」と「願」の区別は必ずしも厳格には行われていなかった(45)。このことは、上述のように、民事・刑事の訴え、訴願のいずれについても、訴状の書出しには、「訴訟」あるいは「願」という両様の表現が用いられていたこと、そしてまた、訴状の差出人欄に、「訴訟人」と「願人」という両様の表現が用いられていたことからも理解されよう。訴状の書出しから見るかぎり、訴願の訴状に、民事・刑事の訴状と著しく異なる特徴を見い出すことはできない。

  (二)  訴状の形式について
  一  民事の訴状は、一般に「出入型」訴状の形式をとっている(〔史料1〕)。〔史料2〕は、民事の訴状ではあるが相手方欄がない。相手方は本文中に記されている。民事の訴状としてはめずらしい「願型」の訴状である。刑事の訴状は、出入筋の手続にもとづき目安を提出して訴え出る場合は、「出入型」訴状の形式がとられていた(〔史料3〕)。これに対し、同じく刑事の訴状でも、「私人による吟味願」には相手方欄がなく、相手方の名前は訴状の冒頭にではなく、訴状の本文中に記されていた(〔史料4〕)。「私人による吟味願」は「願型」訴状の形式をとっており、この点では「私人による吟味願」の訴状は、上記した民事の訴状の例外事例(〔史料2〕)や訴願の訴状(〔史料5〕、〔史料6〕)と同一類型に属する。
  上述のように、民事の訴状では、一般に、「出入型」訴状が、例外的には「願型」訴状が、刑事の訴状では、「出入型」、「願型」双方の訴状が、訴願の訴状では「願型」訴状が、それぞれ用いられていたことが分かる。民事訴訟と訴願は訴状の形式からすると、一般的には対象的なものであった。「出入型」訴状が私人間の紛争に関するものであり、出入筋における三面的な審理構造(原告、被告、裁判官)を反映しているとするならば、「願型」訴状は、吟味筋に典型的にみられるように、二面的な審理の構造(糺問者と被糺問者)を反映していると見ることもできるのかも知れない。
  二  「出入型」訴状は、他人を相手どって公権力に訴え争うための訴状である。したがって、訴える訴訟人(願人)と訴えられた相手方の名前が訴状冒頭の訴訟人欄、相手方欄に明記され、誰が誰を訴え、誰と誰が法廷で争うのかが一見してすぐ分かるようになっている。これに対し、「願型」訴状は、基本的には、監督、取締、処罰、許認可、処分等の権限を有する公権力に何らかの措置を求める各種の嘆願、請願のための訴状である。それゆえ、訴訟人が公権力(奉行所、代官所等)に願い出るという形式になっている。たとえば、菜種の取引に関する当局の措置に不満を抱き善処を求めた〔史料5〕の訴願では、訴訟人(村々惣代)が自己の名を冒頭に記した訴状を奉行所に提出している。他人を相手どって公権力に出訴して争うのではなく、公権力自身の措置に不満があるため訴え出たものであるので、相手方の名前を記す相手方欄はない。公権力の措置に異を唱え、公権力を相手どって裁判役所で争う法システムを近世社会は知らなかったので、公権力の名が相手方欄(被告欄)に記されるということはなかった。また、水損、旱損等の災害による年貢減免願も、村方の名で行政当局に提出される。他人を相手どって裁判役所に訴え出るものではないので、訴えるべき相手の名前を記す相手方欄が訴状(願書)にないことはいうまでもない。この種の「願型」訴状は、他人を相手どって訴え出る「出入型」訴状とは対象的な類型の訴状である。
  しからば、「願型」訴状はいずれも他人を相手どって訴えるものではなかったといえるのだろうか。そうはいえない。〔史料2〕は相手方に売掛貸金の返済を求めて訴え出た訴状であるが、これは「願型」の訴状である。〔史料4〕の「私人による吟味願」も、明らかに加害者を訴え出てその吟味を願うものであるが、この訴状も「願型」訴状である。〔史料6〕も、「油懸り之者」たちの不正な取り計らいを訴え、彼らの奉行所への召喚と奉行による「御糺」(取調)を願い出たものである。この訴願訴状も「願型」訴状である。これらはいずれも、上記のように、監督、取締、処罰、許認可、処分等の権限を有する公権力に何らかの措置を求めるための各種の嘆願、請願のための訴状といってもよいであろう。
  ここで注目すべきは訴願の訴状である。訴願の訴状はいずれも「願型」訴状の形式をとっている。それゆえ、上述のように、訴願は、吟味筋の場合と同様、審理構造が二面的であったと想定できるのかも知れない。すなわち、そこでは、役人が訴訟人を問い糺すという糺問手続に類するような手続が用いられていたのではあるまいかという想定である。しかし、同じく「願型」訴状の形式をとった訴願訴状のなかに、上記のように、他人を訴え出たものではなく、当局に処分の撤回、災害救済、事業認可等を嘆願する型の訴状と、他人を訴え出て当局の「御糺(おただし)」(取調)を求める型の訴状という、相異なる性格のものがあったことが知られる(46)

  (三)  訴状の形式、内容と審理手続
  一  いま、「願型」訴状のうち、他人を訴えるものを「告訴型」訴状、他人を訴えるものでないものを「上申型」訴状と呼ぶことにすると、〔史料2〕、〔史料4〕、〔史料6〕は「告訴型」訴状であり、〔史料5〕は「上申型」訴状である。訴願の訴状のうち「告訴型」のもの(〔史料6〕)は、同じく他人を訴える「告訴型」の「願型」訴状であるという点で、民事の訴状の例外型(〔史料2〕)や刑事の訴状である「私人による吟味願」(〔史料4〕)と似ているところがある。
  もっとも、訴状の内容を見るならば、「告訴型」の訴願は、社会的問題・紛議の解決を求めるものなど、その内容はときとして民事紛争に類似した様相を呈することもあった。そうであるとすると、「告訴型」の訴願の場合、裁判役所が訴訟人(願人)、訴えられた者の双方の主張、反論を聴き、必要な場合は証拠を調べ、ときには和解をすすめ(47)、あるいは審理を尽したうえで判断を下すなど、何らかの一定の手続にしたがった処理がなされていたのではあるまいか、という想定も可能であろう。「告訴型」の訴願の審理が、民事紛争の処理手続(出入筋の手続)とどの程度類似し、どの程度異っていたのか、大いに注目されるところである。その異同の検討が、訴願手続の特徴を明らかにすると同時に、同じく「告訴型」の「願型」訴状によってなされた民事・刑事の訴え(〔史料2〕、〔史料4〕)の手続の解明にも資するであろう。
  二  これに対し、「上申型」の訴願訴状の場合も、「願型」の訴状であることからして、その審理構造は、基本的には、問い糺す者と問い糺される者からなる二面的構造であったと想定することもできよう。しかし、各種の「上申型」の訴願訴状の内容を見てみると、上申事項が他人の利害に大きくかかわるものも少なくない。それは、いうまでもなく、殺人、放火等の犯罪行為による他人の生命、身体、財産の侵害という意味での利害ではなく、営業活動などの民事的問題での利害である。したがって、「上申型」の訴願においても、「告訴型」の訴願の場合と同様、利害の相対立する者(あるいは集団)の存在がそこにはうかがわれる。このように考えると、「上申型」の訴願の場合も、その内容によっては、裁判役所が上申者、利害関係者双方の主張、反論を聴き、必要な場合は証拠調べ、ときには和解をすすめ、あるいは審理を尽したうえで判断を下すという、「告訴型」の訴願の場合と類似した手続にしたがった処理がなされることもあったのではあるまいかと推定することもできよう。このように考えると、ここでも、「上申型」の訴願の処理手続と「出入型」の民事紛争の処理手続(出入筋の手続)との異同が注目される。

第四節  む    す    び


  一  以上、本稿では、公権力に対する私人の訴えの一形態たる訴願の全体像を明らかにするための準備作業として、各種の訴状に焦点をあててその異同を検討し、訴願の特徴の一端を論じた。
  二  訴願とは、監督、取締、許認可、処分等の権限を有する公権力に対し何らかの措置を求める嘆願、請願であった。訴願は、民事・刑事の訴えと同様、訴状(願書)をもって裁判役所になされた。
  訴状の書出し(表題)には、民事・刑事の訴え、訴願のいずれの訴状にも「願」あるいは「訴訟」という表現が用いられ、訴願と民事・刑事の訴状との間に本質的な差異は見られなかった。このことは、訴願と民事・刑事の訴えとの一面での同質性をうかがわせる。
  しかし、訴状の形式に注目するならば、そこには大きな差異が見られた。民事の訴えでは、一般に「出入型」の訴状が用いられ、例外的に「願型」の訴状が用いられた。刑事の訴えでは「出入型」と「願型」の訴状が用いられた。これに対し、訴願ではもっぱら「願型」の訴状が用いられた。「出入型」の訴状が訴訟人(原告)、相手方(被告)、奉行(裁定者)という三面的な審理構造を反映しているとするならば、「願型」の訴状は、基本的には、問い糺す者と問い糺される者という二面的な審理構造を反映していたと見ることもできるのかも知れない。
  訴願の訴状は、上記のように、すべて「願型」訴状であったが、そこには、「告訴型」と「上申型」という二種類のものが見られた。前者は、他人の不当な行為を裁判役所に訴えるものであり、後者は、他人を訴えるものではなかった。こうした差異にもかかわらず、「告訴型」、「上申型」の訴状の内容には、ときとして共通する部分も見られた。両者の内容は、他人との利害が対立する問題に関する訴えである場合が少なくなく、それゆえ、訴願がときには民事紛争に類するような様相を呈することもあったのである。
  このように考えると、訴願の処理手続については、一面では、二面的審理構造のもとでとられた吟味筋の手続(刑事裁判手続)と、他面では、三面的な審理構造のもとでとられた出入筋の手続(民事・刑事裁判手続)との異同が注目されることになろう。その異同の検討が訴願手続の特徴を明らかにすることに大きく寄与するのではあるまいか。
  三  本稿では訴状に焦点をあてて論じたため、論ずることのできる範囲は極めて限られており、そのため隔靴掻痒の感をまぬがれず、叙述が推定的にならざるを得なかった部分も少なくなかった。訴願の手続を全面的に明らかにし、本稿の叙述の当否を検証することが今後の第一の課題となろう(48)。そして、そのことにより、訴願の特徴を明らかにし、近世日本のさまざまな訴えのなかでの位置を明らかにすることが、その次の課題となろう。本稿がそのための準備作業として何がしかの意味を持つことができれば幸いである。

(1)  大平祐一「近世の訴訟、裁判制度について」(法制史研究」四一号、一九九一年)二一五頁、同「近世の合法的『訴訟』と非合法的『訴訟』−救済とその限界−」(藪田貫編『民衆運動史3  社会と秩序』(青木書店、二〇〇〇年、五三、五四頁)参照。
(2)  岡田光代「和泉における農民の訴願運動」(大阪府立大学「経済研究」三五巻二号、平成二年)、守屋浩光「近世後期における畿内集団訴願の法的性質(一)(二・完)−『政策形成訴訟』としての把握を通じて−」(「法学論叢」一四四巻六号、一四六巻二号、一九九九年)参照。両氏の論文は訴訟と訴願(守屋氏は「請願」という用語を使われる)との差異を指摘されておられる。
(3)  後述する〔史料1〕、〔史料3〕が「出入型」訴状の例である。なお、小早川欣吾氏は、「出入型」訴状の非典型的な事例として、寛文頃の「訴状書様之覚」所収の次のような訴状を紹介しておられる(小早川『増補近世民事訴訟制度の研究』(名著普及会、昭和六三年)二六四頁)。



        「      乍恐書付差上申候
          今度何屋誰と何之出入ニ付書上 何  町  誰  
          一
              年号月日 何  町  誰印
                御奉行様」

(4)  平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』(創文社、昭和三五年)(以下、平松『研究』と略称)四〇七頁。
(5)  平松『研究』四一四頁。
(6)  後述する〔史料2〕、〔史料4〕、〔史料5〕、〔史料6〕が「願型」訴状の例である。
(7)  後述する〔史料2〕がその例である。〔史料1〕が「出入型」の訴状による民事の訴えの例であるのに対し、〔史料2〕は典型的な「願型」訴状による民事の訴えの例である。なお、註(3)で掲げた民事の訴状は、相手方の名前が訴訟人の名前とともに冒頭に併記されていないという点では、「願型」訴状に近いように思われるが、相手方の名前が、訴訟人の名前と同じく冒頭に記されているという点から考えると、「出入型」訴状に属するように思われる。
(8)  平松『研究』一〇二、一〇三、一〇七、一一九、一四五、二七四頁参照。
(9)  後述する〔史料4〕が「私人による吟味願」の例である。
(10)  平松『研究』五九八頁。
(11)  平松『研究』六〇二頁。
(12)  後述する〔史料5〕、〔史料6〕が訴願の例である。訴願の意味については、註(1)所引大平「近世の合法的『訴訟』と非合法的『訴訟』」五二頁以下をも参照。なお、近世の訴願という用語については何通りかの異なった用い方がある。第一の用例は、民事訴訟の意味で使われる例である。石井良助氏は、『続近世民事訴訟法史』(創文社、昭和六〇年)で、「大坂表訴願案文」なる史料を紹介されている(一一一頁以下)。同史料は、「願方之部」、「相手方之部」、「追加」の三部からなる公事出入に関する文例集であり、訴願が民事訴訟の意味で用いられていることが分かる。なお、同書には、民事訴訟(公事出入)に関する文書を集録した「訴願手形案文」なる史料も紹介されている(二九五頁以下)。第二の用例は、訴願を、監督・取締、許認可、処分等の権限を有する行政当局に対する各種の嘆願、請願という意味で使われる例である。本文で後述する八鍬友広氏の用例はその一例であろう。第三の用例は、訴訟と請願の双方を含めた意味で使われる例である。守屋浩光氏の用例はその一例である(註(2)所引守屋「近世後期における畿内集団訴願の法的性質(一)」五六頁参照)。本稿では、出入筋の訴え(民事訴訟)との違いを明確にするという意味で、そしてまた、近代以降の訴願法への歴史的前史を明らかにするという点を考慮して、第二の用例に従った。
(13)  本資料の入手については東北大学大学院法学研究科教授吉田正志氏のご援助を得た。ここに記して感謝の意を表したい。
(14)  『新修芦屋市史』資料編二、九三頁。
(15)  『尼崎市史』第六巻、一〇三頁。
(16)  『同上』一〇八頁。
(17)  青木虹二編・保坂智補編『編年百姓一揆史料集成』第一〇巻(三一書房、一九八二年)五五二頁。
(18)  大阪市立中央図書館市史編纂室編集兼発行『大阪編年史』第一二巻、一二四頁。
(19)  『同上』第一一巻、七六頁。
(20)  『同上』第一一巻、四一三頁。
(21)  八鍬友広「訴願する実力」(岩田浩太郎編、青木書店、一九九九年)二〇六頁参照。なお、八鍬氏は、本論文でさまざまな「訴願」の文例集を紹介しておられ、近世において訴願が広範に展開されていたことをうかがわせる。
(22)  瀧川政次郎『公事師・公事宿の研究』(赤坂書院、昭和五九年)四七六頁以下、五六五頁以下、服藤弘司『刑事法と民事法』(創文社、昭和五八年)七〇九頁以下、八鍬・前註所引「訴願する実力」二一三頁以下等参照。
(23)  本史料は、帝国弁護士会機関誌「正義」三巻二号(昭和二年)より五巻三号(昭和四年)に、「旧幕政時代訴訟文例の一班」と題して連載された。その後、瀧川・前註所引『公事師・公事宿の研究』に収録された。
(24)  本資料は、瀧川・註(22)所引『公事師・公事宿の研究』四九三頁以下に収録されている。もっとも、「秘下会」には、刑事手続に関する文例も若干収録されている。
(25)  本史料は、石井良助・註(12)所引『続近世民事訴訟法史』一一一頁以下に収録されている。なお、本史料の願方之部、相手方之部は、上掲「秘下会」の願方之部、相手方之部とほぼ同じであるが、本史料の追加は、「秘下会」の臨時之部とは全く異なる内容のものである。
(26)  本史料は、石井・註(12)所引『続近世民事訴訟法史』九頁以下に収録されている。
(27)  本史料は、石井良助『近世民事訴訟法史』(創文社、昭和五九年)五八頁以下に収録されている。
(28)  本史料は、石井・註(12)所引『続近世民事訴訟法史』二九五頁以下に収録されている。
(29)  本史料は、服藤・註(22)所引『刑事法と民事法』七二一頁に収録されている。
(30)  註(21)所引。
(31)  八鍬氏によると、本史料は、本文で触れた石井良助氏紹介の史料「目安物訴答案文」と同一物であるとのことである(八鍬・註(21)所引「訴願する実力」二一五頁)。
(32)  八鍬氏が紹介された本史料の目次を見ると、先に本文で紹介した東北大学附属図書館所蔵「諸願其外見合物留」の目次の項目と一致するものが少なからず見られる。「諸願其外見合物留」は、本史料と同系統の写本と思われる。
(33)  八鍬・註(21)所引「訴願する実力」二一六頁、二二五頁。
(34)  八鍬「同上論文」二一六頁。
(35)  春原源太郎編『近世庶民法資料』第二輯、訴訟事件の記録(法学博士春原先生還暦記念出版会発行、昭和四二年)三五、三六頁。
(36)  「江戸宿公用留」二五(服藤・前掲『刑事法と民事法』七三四、七三五頁。)
(37)  平松義郎氏所蔵「訴返請答書雛形」五十六(平松『研究』六〇二、六〇三頁所収)。
(38)  東北大学附属図書館所蔵「諸願其外見合物留」十一。
(39)  『尼崎市史』第六巻、九〇−九二頁。
(40)  『吹田市史』第六巻、史料編三、四五九−四六四頁。
(41)  高柳真三・石井良助編『御触書寛保集成』(岩波書店、昭和三三年第二刷)二九六一号(八六八頁)、『大阪市史』第三、七二〇頁。
(42)  訴状の書出し(表題)を欠いている〔史料2〕も、「江戸宿公用留」によれば、見出しは「貸金出入願書之事」となっている(服藤『刑事法と民事法』七三四頁)。
(43)  この点については、小早川・註(3)所引『増補近世民事訴訟制度の研究』二〇頁以下、服藤弘司「近世借金銀裁判法雑考(一)」(「東海法学」一四号、一九九五年)一二三頁註(16)等を参照。
(44)  大蔵省編『日本財政経済史料』第一〇巻(財政経済学会、大正一四年)七一二頁。
(45)  小早川・註(3)所引『増補近世民事訴訟制度の研究』二〇頁以下、服藤・註(43)所引「近世借金銀裁判法雑考(一)」一二三頁註(16)参照。
(46)  この点については、岡田・註(2)所引「和泉における農民の訴願運動」三一頁参照。
(47)  訴願において和解・当事者による話し合いがあったことについては、平川新『紛争と世論−近世民衆の政治参加−』(東京大学出版会、一九九六年)一八一頁、二一九、二二〇頁、二二七頁、二三〇頁、二五〇頁以下、坂誥智美『江戸城下町における「水」水配』(専修大学出版局、一九九九年)三一五頁以下等参照。なお、岡田・註(2)所引「和泉における農民の訴願運動」三七頁をも参照。
(48)  訴願の手続については稿を改めて論ずる予定である。

(二〇〇〇年三月一七日成稿、九月二七日加筆)