立命館法学 2000年3・4号上巻(271・272号) 444頁




台湾「戒厳時期叛乱曁匪諜不當審判案件補償條例」の研究

− その成立と改正をめぐって −


徐 勝(ソ スン)



は  じ  め  に


  最近、日本では「戦後補償」との関連で、「公権力による重大な人権侵害からの回復(reparation)」の問題が語られている(1)。日本の植民地支配・侵略戦争が東アジアに与えた被害からの回復は、末に完全な解決を見ていない(2)。しかし、東アジアにおける「公権力による重大な人権侵害」は、第二次世界大戦以前だけに限られるものではない。第二次世界大戦後にも、東アジアの民衆は国家暴力の被害を受けてきた。冷戦の始まりとともに、アメリカは日本の軍国主義解体を中止し、東アジア各地において反共軍事同盟の強化につとめ、軍事独裁政権を誕生させてきた。冷戦の最前線となった東アジアでは、分断の壁が朝鮮半島、台湾海峡、ヴェトナムを横切り、軍部独裁支配の下に非常事態法あるいは戒厳令による統治が行われ、極端な国家暴力がほしいままにされてきた。朝鮮半島では朝鮮戦争を挟んでほぼ半世紀近く権威主義体制が持続し、中国では国共内戦をへて蒋介石政権が台湾に依り三七年間に及ぶ戒厳令による統治を行った。
  韓国においては、米軍支配と分断・国家保安法体制の下で、一九四八年「済州(チェジュ)四・三事件(3)」から一九八〇年の「光州(クァンジュ)虐殺」に至るまで、国家暴力による数々の民間人虐殺が行われ、その犠牲者は、朝鮮戦争前後の時期を中心に一〇〇万人にも至ると言われている(4)。台湾では一九四六年の「二二八事件」に端を発し、「五〇年代白色テロ(原文白色恐怖(5))」と呼ばれる虐殺事件で数万の民衆が殺害された。
  一九八〇年代にいたって、台湾・韓国における「民主化」運動の過程で、ようやく国家暴力による「重大な人権侵害」は反独裁闘争の中心的課題として登場した。一九八九年「冷戦の崩壊」により、アメリカは冷戦時代のように、親米・反共でありさえすれば、軍事独裁政権を支持したり、場合によっては、イランやチリーのようにCIAの工作により親米・反共政権を創出する必要がなくなったことから、その闘争は、より自由な運動空間も得て、国家暴力による大量虐殺事件に対する名誉回復・賠償運動が前面に立ち現れたのである。
  韓国においては、一九九〇年と一九九五年の光州虐殺事件に対する名誉回復・賠償法、責任者処罰法の制定は、冷戦・分断体制に大きな突破口を開くものであり、大きな社会的・政治的インパクトを投げかけた。民間人虐殺事件としては初期のものに属し、広く知られている「居昌(コチャン)良民虐殺事件(6)」名誉回復法が一九九六年に成立したが、一九九九年九月、AP通信によって世界に流され、大きな衝撃を与えた朝鮮半島中部である老斤里(ノグンリ)での米軍による民間人虐殺事件以後、「朝鮮戦争を前後とする民間人虐殺事件」全般に対する真相究明と名誉回復・賠償法の制定運動は、今その途についたばかりである。しかし「済州四・三事件」に対する真相究明・名誉回復を目的とする「済州四・三真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」「四・三特別法」)、一九六八年から九三年までの間に民主化運動に関連して処罰された人たちに対する名誉回復・補償法である「民主化運動関連者名誉回復及び補償法」、さらに、アルゼンチンなど南米で大きな問題となったミッシング(行方不明者)のように独裁政権の下で拉致され行方不明になった人たちに対する真相究明特別法である「疑問死真相究明特別法」の、いわゆる過去清算三法が、一九九九年一二月に国会を通過したのは大きな前進であった。
  台湾においては、一九九五年に「二二八事件処理及補償條例」(二二八補償條例)が成立し、一九九八年に「戒厳時期叛乱及び匪諜不當審判案件(7)補償條例」(原文戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例。以下、「不當審判條例」)が国会を通過した。これら韓国と台湾両地域での「公権力による重大な人権侵害」からの回復を目的とする諸法と、その比較については、「東アジアにおける国家テロリズム犠牲者の名誉回復・賠償(Reparation)の研究(8)」においてすでに論じた。
  そこで論じたように、各地域、各時代、事件の性格によって、名誉回復・補償法の内容にかなり大きな差がある。韓国の「光州民主化運動関連者補償等に関する法律」と「五一八民主化運動に関する特別法」とを併せた、いわゆる「光州事件関連補償法」は、世界の「公権力による重大な人権侵害の被害者の名誉回復・賠償法」の中では、真相究明、謝罪、賠償、責任者処罰、記念という「重大な人権侵害の回復」の原則から見れば、かなり完全なものであるといえよう。反面、「四・三特別法」は、加害者処罰はもちろん、賠償規定が無い不完全なものである。台湾では「二二八補償條例」に比べて、「不當審判條例」は第八条において適用排除条項を置くなど、制限的な法律である。この違いは、冷戦時代のイデオロギー対立の残存、あるいは、現実政治とのかかわりに由来しており、人権救済法としての性格を損なうものであるといえよう。
  本稿においては、台湾における「不當審判條例」の成立とその後の動向について、特に、二〇〇〇年度における同條例改定の過程を第八条の「排除条項」を中心に、その問題点を論じる。

一、台湾現代史における前史


  一九四五年、日本の半世紀にわたる植民地支配から台湾は解放され、蒋介石の部下によって接収された。台湾現代史の性格を基本的に規定するものは、(国共)内戦と冷戦の「重戦」(二重の戦争)であるとされている(9)。第二次世界大戦後、「重戦」の兆しはすでに現れていたといえるが、それが本格化するのは、一九四六年のマーシャル調停の不調と第三次国共内戦の始まりからであった。一九四九年、国共内戦での国民党の敗退と、蒋介石の台湾への逃避を経て、いったん、アメリカは『中国白書』により、蒋介石の無能・腐敗を批判し、台湾不干渉政策を闡明したが、一九五〇年朝鮮戦争の開始と共に、二〇隻分に相当する「不沈空母(10)」としての台湾がトルーマンによって再評価され、蒋介石の本格的な台湾統治が始まった。第二次世界大戦終結から四九年一二月、蒋介石政権が大陸での内戦に敗れて中央政府を台湾に移すまでの四年余を台湾現代史における前史として位置づける(11)なら、この前史を象徴するものは、一九四六年の二二八事件であり、本格的な台湾現代史の幕は「五〇年代白色テロ」によってきって落とされることになる。
  一九九五年二月、台北の総統府の北にある新公園は「二二八記念公園」と改称され、そこで記念塔と記念碑の除幕式が行われ、李登輝総統の二二八事件に対する謝罪文が読み上げられた。記念塔の前にある記念碑には次のように刻まれている。

    一九四五年、日本が敗戦し投降したという消息が伝わり、慶幸にも不公不義の植民地統治から脱離したと、万民は歓喜で沸きかえった。しかし台湾省行政長官、陳儀が接収・治台(湾)の重任を負いながら、かえって民情に通じず、施政が偏頗で、台民を蔑視し、加えて官紀は敗懐し、産商は失調し、物価は飛漲し、失業は厳重で、民衆の不満な情緒は沸点に近づくとは、誰が料っても見ただろうか。一九四七年二月二七日、専売局の人員が台北市延平北路で闇タバコを取締り、タバコ売りの女を殴打し、道行く人を誤って殺し、民の憤を激発した。翌日、台北群衆はデモ行進を行い、長官公署前に押しかけ犯人を処罰することを要求したが、不意の銃撃に出会い、数名が死傷し、全面的抗争の怒火は点火された。争いを解決し、積怨を消除する為に、各地の士神は事件処理委員会を組織し、中間で協調し、政治改革要求を提出した。思いのほか、陳儀は事件処理を遷延させ強情で、一面協商しながら、もう一面では、士神を以って奸匪叛徒と為し、南京に兵を請じた。国民政府主席、蒋中正(介石)は報告を聞き、即台湾に派兵した。三月八日、二一師団は、師団長、劉雨卿指揮の下に基隆に上陸し、十日、全台湾に戒厳が宣布された。警備総司令部参謀長、柯遠芬、基隆要塞司令官、史宏熹、高雄要塞司令官、彭孟緝、及び憲兵団長、張慕陶などが、鎮圧・清郷を行う時、無辜な者を数珠繋ぎにして、数ヶ月の間に、死傷・失踪者は万を数え、中でも基隆、台北、嘉義、高雄が最も凄惨を極めた。これを世に二二八事件という。それから半世紀近く、台湾は長期戒厳に置かれ、朝野は寒蝉の若く口を噤み、敢えてこの禁忌に触れなかった。然るに冤屈は鬱積し、終には須らく宣洩すべく、省籍間の猜忌と統(一)独(立)の争議は、その隠憂の尤だしきものである。
  この碑文によって二二八事件の簡単な経緯と評価は伺い知ることができよう(12)。国民党政府の発表によっても一九四七年三月の国民党中央軍の上陸以後、一ヶ月ほどの間に殺害された、「二二八事件」の被害者は二八、〇〇〇名にのぼるものとされている(13)

 

二、台湾五〇年代白色恐怖

  二二八事件が、国民党の不正腐敗体質、それからはじまる自壊作用により惹起されたものであるとするなら、「五〇年代白色テロ」は、大陸から追い出され、絶対絶命の危機に立たされた蒋介石の生き残りを賭けた極限的な強権統治から生み出されたものであるといえよう。「五〇年代白色テロ」について、被害者団体である「台湾地区政治受難人互助会(14)」(「互助会」)の立場にたつルポライター、藍博洲は次のように性格規定をしている。

    一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争が勃発するや否や、アメリカは反共戦略上の考慮から、大陸で敗退した国民党への支持を新たにした。蒋介石政権は自らの統治を強固にするために、台湾において持続的に広汎で残酷な政治撲滅運動をすすめた。五年余にいたる恐怖政治の中で、少なく見積もっても、国民党政権は三〇〇〇−五〇〇〇名にいたる、本省(台湾)と外省(大陸出身)の「共匪」、愛国主義的知識分子、文化人、労働者、農民を殺害し、八〇〇〇名以上を投獄した(15)
  それに対し、一九九七年当時、台湾省長であり、「五〇年代白色テロ」に対する調査を命じた、宋楚瑜は、国民党政府の立場にたって、「五〇年代白色テロ」について、次のごとく述べている。

    民国三八(一九四九)年五月、戡乱(反乱鎮圧)戦局は逆転し、政府は台湾地区に戒厳令を実施することを宣布した。中央政府が台湾に移ってから、復興基地を強固にし社会の民心を安定させるために、民国三九年五、六月に、それぞれ「懲治叛乱條例(16)」及び、「検粛匪諜條例」を領布し(17)、全面的に叛乱の制圧と防諜のための措置を取って、その間、台湾にある数多くの中共の地下組織を摘発し、匪諜分子の浸透転覆活動を防制するのに効があった。ただし、処理過程において、誣陥に遭ったり、無辜にして牽連されたものがあり、これを、本書では、「政治案件」と称す(18)
  この両者より、やや中立的な立場で述べているのが、台湾中央研究院のプロジェクト・チームである。

    朝鮮戦争の勃発、東西冷戦、恐共防共などの複雑な状況の下に、情治(情報)機関が左翼反対者に対して一連の行動を取った。これを総称して「白色テロ」の整頓・粛清行動と言うが、台湾社会に対して、それぞれ、相当の影響をもたらした。一方においては、強力な掃討で、社会、政治的安定を維持し、中共の台湾侵略の野心を阻み、ある程度、後の経済奇跡の重要な基礎を定めた。他方では、その処理過程での誤り、あるいは無辜の人を連累させ、或いは公を借りて私怨を晴らし、或いは混乱して、少なからぬ冤罪を作り出し、多くの時代的悲劇をもたらした(19)
  以上の引用から、「五〇年代白色テロ」とは、国共内戦に敗北した蒋介石政権が、朝鮮戦争の勃発と共に獲得したアメリカの承認を背景に、その政治的基盤を固めるために台湾島内の政治的反対派、特に中国共産党支持派とみなされる人々に対して行った大弾圧、大粛清であると言えよう。時期的には、ほぼ朝鮮戦争の時期と重なり、弾圧がもっとも苛烈で集中的に行われた一九四九年から五四年の間を指すが、五六年までとするものもある(20)

三、「二二八事件」と犠牲者の名誉回復・賠償


  一九七一年、キッシンジャーの中国訪問は、米国の対中国・台湾政策の一大転換をもたらした。同年一〇月二五日、中国本土の〇・三%に過ぎない台湾が、中国全体を代表するという虚構を続けて行くことができなくなり、中国が国連加入と同時に常任理事国入りし、台湾は国連から脱退した。台湾で蒋介石の統治は大幅に弱体化し、息子の蒋経国を行政院長に任命し、一〇大建設に着手し、国民党の台湾化に腐心するようになった。
  一九七五年、蒋介石は死亡し、国民党の台湾に対する掌握力が顕著に弱化して、それまで押さえつけられてきた民衆たちは公然と反旗を翻し始めた。一九七七年、台湾キリスト教長老教会は人権宣言を発表し、同年一一月には、不正選挙に憤激した民衆たちによる、「中事件」が爆発した。一九七九年には、「美麗島事件(21)」が起こり、八六年には、「民主進歩党(民進党)」が結成され、一九八七年には、ついに戒厳令が解除されたのである。
  一九八七年には、二二八事件四〇周年を期して、「二二八和平日促進会」が結成され、真相究明・名誉回復・犠牲者追慕行事・慰霊碑建立などが推進された(22)。戒厳令解除に続いて、一九八八年には、「報禁」(言論統制法)、「党禁」(政党組織禁止法)の悪法が廃止された。一九九〇年には、台湾各地で、二二八記念行事が挙行された。一九九一年、李登輝総統が二二八事件の調査研究、遺族の慰労などを、行政院に命じ、翌年、行政院は、二二八事件調査研究小組を構成し、『二二八事件研究報告』を発表した。一九九五年二月二八日には、台北新公園(翌年二二八記念公園に改称)二二八記念碑の除幕式が行われ、李登輝総統が@政府の謝罪、A犠牲者の名誉回復(平反(ピンファン))、B犠牲者と家族に対する補償、を発表した。この発表によって、同年四月七日には、「二二八事件処理及補償條例」が公布され、「二二八事件補償基金会」が設立された。
  「二二八補償條例」は、第一条で制定目的を、補償事務処理、真相公開、歴史的傷跡の治癒、族群融和(23)としている。この法の特徴は、@名誉回復・賠償のための機関が基金会(財団)という形の独立機関の体裁をとり、「官・民(専門家)、犠牲者及びその家族」の三者でもって理事会を構成している点、A真相究明、特に犠牲者の確定に重点をおいて、第九、一〇条で「基金会」に強力な資料調査権を付与し、拒否するものに対する罰則を定めている点、B事業として、名誉回復、補償、記念事業、教育などを定めている点で、過去清算法として優れているが、加害者の処罰、訴追規程が無い欠点がある。

四、「不當審判條例」の成立


  一九九三年五月二八日に始まって次々と、二〇一基の政治犯たちの墓が台北、六張犁市営共同墓地で発見され(24)、「五〇年代白色テロ」の犠牲者の名誉回復・賠償要求の声が高まった。まず「互助会」が提起し、同年六月一四日、「五〇年代政治案件処理委員会」が発足し、同一六日に、監察院に真相究明などの陳情を行った。続いて、新竹、台北、台中、高雄において補償法成立運動の説明会が開かれた。七月一七日には、国会で公聴会が開かれ、処刑者の名簿と、事件関係書類の公開を国防部に要求した。当時まで、「互助会」は五回の慰霊祭を行い真相究明・名誉回復を要求したが、問題解決はたやすくなかった。被害者団体「五〇年代政治案件処理委員会」を代表する林正杰立法委員の質問書に対する、国防部の一九九四年五月一二日の回答は次のごとくである。

  1、処理委員会で提出した名簿だけでは、情報が不足しており調査が困難である。また資料公開をする場合、個人のプライバシーを侵害することになり、証人(密告者)の身元が明らかになり、仇を作り二重の傷を与えることになる。当事者や家族から問い合わせがある場合には、軍管部の責任において、個別事件について協力処理しており、「五〇年代政治案件」とは言うが、事件の範囲を定めがたく、根拠法が存在しない状況下では、関連資料、記録の公開はできない。
  2、一九五〇年代は、政府が台湾に移った初期であり、二二八事件があった直後で、社会が不安定であった、中共は正統政府の打倒をたくらんでいた。政府は、一方で社会秩序の安定を図り、他方においては、潜在的な敵を粛清するために、厳しい法で乱世を治めたのだが、当時の関係法で処罰したのは、台湾社会の安定と発展に有益であった……過去の安定発展があったので、今日の民主・福祉がある。今日、環境の変化によって改廃された法を基準にして、過去の法で処理された事件を、冤(罪)、錯(誤)、假だとすることはできない。
  3、省略(六張犁共同墓地出土の政治犯の屍体処理問題)
  4、もし過去の判決に不服があるなら、法的手続により「再審」、「非常審判」、「非常上訴」で、個別案件に関して救済申請をすべきである。いわゆる「五〇年代白色テロ」という範囲を定めがたい事件全てを無条件、名誉回復させようとするのは、法的手続きにのっとったものではないので、処理できない。
  5、……賠償権は四〇年も過ぎ、時効が過ぎたので、現行法で処理するのは困難である(25)
  上で見るように、国防部の意見書の骨子は、@「二重の傷跡論」を押し立てた資料公開不可、A弾圧が台湾の安全・発展に必要であり、過去の法で裁かれたものを今の法で不当だとすることはできない、C個別に法的手続にのっとって処理すべきで、特別法の制定による一括解決はできない、D時効が過ぎた、というものである。しかし、その問題点は次のようなものである。まず、一九五〇年代の弾圧は、令状無しの逮捕、起訴状や判決文が無かったり、不備のある裁判、監獄の処遇、釈放後の処理に至るまで、一つ一つが人権の国際的基準だけではなく、当時の国内法にも違反するものであったのに、政府の特別措置によらず、現行法の手続きによって事件を提訴せよというのは矛盾である。次に、二二八事件の場合、資料公開、真相調査、謝罪、名誉回復・賠償など、特別措置によって解決したのに、その後に起こった五〇年代白色テロ事件だけは、時効論、法的手続き論、二重の傷跡論などによって、責任回避するのは矛盾である。
  ここに二二八事件と五〇年代白色テロ事件をめぐる視角の違いが存在する。政府の本音は、五〇年代白色テロ関連者は共産主義者であり、二二八事件関連者は自然発生的な事件に巻き込まれたもの達であるということにある。これは、世界的冷戦は終結したかもしれないが、国共内戦は未だ終っていないことを示唆するものであり、李登輝政権により、標榜されてきた「大和解」「大和平」が、未だスローガンに過ぎないことを意味するものである。白色テロの被害者の立場に立って、藍博洲は次のように指摘している。「歴史をその時代の現場に立ち戻って忠実に再現してみるなら、二二八を経て、『白色祖国』に徹底して失望した後、冷戦のもう一方の当事者である『紅色祖国』を支持するようになったのは、歴史と時代の必然であり、一体どこに罪があるというのか(26)」。
  「互助会」に結集した五〇年代白色テロの犠牲者は、出獄後にも「社会主義と統一」というスローガンを掲げ、白色テロ事件を単純に人権問題とするよりも、過去に民衆が行ってきた運動に対する歴史的・政治的再評価に関わる問題として把える比較的孤立した闘いを行ってきたが、最近になって、各方面から次第に五〇年代白色テロにたいする関心が高まり、究明が進んできた。
  一九九六年六月二四日、筆者は高雄市の英雄会館(退役軍人会館)で行われた、五〇年代政治案件の被害者とその家族を対象とする、第一回の採録調査を参観することができた。これは、一九九四年の台湾省議会での「五〇年代案件」を文献委員会に調査させるという、満場一致の決議に従うものであった。約一〇〇名の出獄政治犯や処刑者家族などの関係者を一二班に分け、文献委員会の係員が、朝九時から約六時間の調査を行った。事件の概要と経緯、取調べ期間や収容期間における官の違法行為や人権侵害など四項目の質問紙によって、調査・口述採録が行われた。九六年には高雄、台南で、九七年には新竹、台中、台北の順で調査が進み、一九九八年六月に調査報告書が出された。
  中央政府が拒否した調査を台湾省政府が着手した理由は次のようなものである。まず、省政府は五〇年代事件を、その政治的性格はさておき、台湾四〇〇年史の一部であるので調査せねばならないという立場である。従って、事件名称を「五〇年代歴史事件」とし、政治性を最大限排除しようと試みた。次に、二二八事件と五〇年代白色テロの犠牲者を、まったく別のものとして区別するのは無理であり、国民の理解が得られないので、五〇年代事件の調査が不可避であるという状況認識があった。事件に責任がある中央政府が直接関与するのが難しい事情を考慮して、省政府が主導して、調査せざるを得ないと判断したのである。この調査の主旨を文献委員会は、九七年二月号の機関紙で、次のように明らかにしている。

    ……当時の国民党は危機的な中華民国政権を強固にしようとしたあまり、台湾島内で、共産党を清郷・粛清する工作を展開して、多くの冤罪・捏造事件を作り出し、多くが犠牲になり、投獄された。いま、国際冷戦構造が崩壊し、海峡両岸は和平の方向へと向かっている。われらは、政府が、人道擁護の立場に立って、全ての冤罪や捏造事件を名誉回復し、一九五〇年代の歴史を復元することを要求する。そして「ページが落丁、乱丁、汚損した」台湾史を新たに装丁して、台湾の老百姓(ラォパィシン)に返さなければならない(27)
  一九九七年の総統選挙が近づくと、政府と民進党は五〇年代白色テロ問題に関心を示し始めた。李登輝総統の立場からは、一時期、自ら共産党に関連したこともあって、台湾現代史の一定の整理が必要であるし、大陸との関係回復も考慮せざるを得なかっただろう(28)。民進党はその間、共産主義者が中心であるとされた五〇年代白色テロ事件には、比較的冷淡であったが、一九九七、当時、台北市長であった陳水扁は、台湾省文献委員会との対抗もあって、民心を容れ、台北市文献委員会に「五〇年代政治案件調査委員会」を作ることを命令した。また、陳水扁に続いて台北市長となった馬英九(国民党)は、五〇年代に政治犯の処刑場であった馬場町を記念公園化することを命じ、二〇〇〇年八月二二日に「馬場町記念公園」のオープニングと記念碑除幕式が行われた。台湾中央研究院で近代史研究所から最近刊行された『戒厳時期台北地区政治案件口述歴史』T・U・Vも台北市の援助を得たものである。
  二二八事件補償法の施行と、戒厳時期白色テロ被害者中、教員・公務員などに対する復権を規定した「戒厳時期人民受損回復條例」の公布(一九九五年一月一七日)によって、五〇年代白色テロ被害者・家族達の激しい名誉回復・賠償を求める抗議を押さえ込む合理的な口実を失った台湾政府は、ついに、一九九八年六月に適用範囲を「五〇年代白色テロ」から、全戒厳期間における国家暴力の被害者へと拡大して、「不當審判條例」を制定した。
  しかしこの法の成立は相当な陣痛を経た。特に補償基準と排除条項に無理があった。即ち、政府は、補償額を二二八事件の半分程度にするという腹案を持っていた。「共産主義者に補償をするな」という抗議も提起された。結局、「不當審判條例」の八条(排除条項)二項には「叛乱犯、または匪諜として確実な証拠があることが認められる者は補償を得られず」と規定された。
  被害者と家族の一年以上の抗議闘争によって、一九九九年九月に補償金発給基準が確定し、死刑、無期刑などの重刑者は二二八事件と同一の水準、その他の場合は二二八事件の三分の二水準で妥結を見た。しかし八条二項については、軍・公安機関の激しい抵抗や被害者団体の分裂もあり、政府案を修正することができなかった。

五、「不當審判條例」の立法過程(29)


(1)  第一次司法、国防委員会連席会議
  「不當審判條例草案」(條例および條例案については巻末資料参照)は謝聡敏など民進党を中心とする超党派七〇名の立法議員の発議で、第三屆第三会期第七、一三次会議に提出されたが、程序(手続)委員会差し戻しとなり、二一次会議(一九九七年五月九日)において、程序委員会から再提出され、司法、国防両委員会に回付され、審査されることになった。第三屆第四会期の司法・国防両委員会(一九九七年一〇月一五日)において「不當審判條例草案」(謝委員提案は、「戒厳時期不當政治審判補償條例草案」)を討議する第一次連席会議が始まった。同会において同時に「互助会」から出された法案の早期通過と排除条項の廃止を求める請願書をも審理することとなった。
  当日の出席委員一四名、列席委員二六名(主席、林宏宗)であった。まず、謝聡敏委員から提案説明があった。

  謝聡敏委員今日討論主題は国家正義の問題である。……かつての長期的な戒厳時期において軍法の暗黒は周知のところである。……法務部部長の言うことには不当審判を受けた案件は九万件に達し、戒厳解除からもうすでに一四年経って、まだ司法機関に移し処理することができずにいる。……今日に至るまで軍法局の拒絶によって不当審判を受けた者の上訴権が拒否されている。……戒厳解除後、かつて軍事審判を受けた者は地方法院に上訴できるとした一法案が通過したことがあった。ところが、立法院が国家安全法に第九条(30)を加え、これを拒絶した。
    本人が提案する法案の名称は、「戒厳時期不當政治審判補償條例」である。立法院は、かつて「二二八事件処理及補償條例」の審査期間に幾つかの司法原則を打ちたてた。戒厳以前、またはその期間、冤獄を受けた平民には平反(31)の機会がある。二二八事件の受難者はすでに平反を勝ち取った。しかし白色テロ期間の審判はいまだに平反されていない。平民だけではなく軍人・司令官までもが赤い帽子(「アカ」のレッテル)をかぶせられて不公平な審判を受けた。当時の軍法審判は弁護の機会すら与えられなかった。……現在我々は、立法を通して彼らの冤屈を雪ぐ機会を与えようとするものである。本人が提案する「戒厳時期不當政治審判補償條例草案」の補償原則は、二二八補償條例に照らして規定している。……問題はこのような過去の案件に公平な審判の機会が与えられるかどうかである。しかし我々がよく聞くことは、軍機関は証拠がすでに失われたか焼失したと言い、証拠を出すのを拒んでいる。それが我々のぶつかる最大の困難である。現在法律を改定し、もし証拠が失われたのなら無罪にすべきである。言い換えるならば、この類の不当な手続により審判された案件は、無実のものとされなければならない。
これに対して、国防部軍法局副局長は次のような反論を提起している。

  劉錦安戒厳制度はそれぞれの国にみなあり、国家安全を防衛し社会秩序を維持するために設けられた必要な制度であります。戒厳法においては戒厳時期の犯罪は軍法審判に帰せられると定めています。そして軍法機関は当時の有効な法律により一般犯罪行為を裁いたもので、その正当性を否認することはできません。委員が提案された草案中にはこの審判を不当な裁判とされているが、現在の法律をもっていうならば、これは法と証拠によっているものであり、立法院で通過した法律により憲法が付与した軍事裁判制度によって進められる審判であり、皆さまがその不当性を指摘し、その審判を受けたものに補償すべきであるとするなら、公平と正義は疑われることになるでしょう。
    国家安全法第九条の明文規定にこのような案件は上訴の機会を与えないとされています。……まさしくこの軍法審判によって長久な治安が可能であったし、我が国家の今日の繁栄があります。
    今、謝委員は軍法機関の審判はブラックボックスの作業であると言われました。本人は完全にブラックボックスでの作業ではなかったということをあえて保障することはできませんが、但し民国四二年(一九五三年)以後、軍事審判は刑事訴訟法の多くの原則を採用してきました。例えば公開審判、或いは弁護士をつけることなどが行われましたが、どうしてそれをブラックボックスの作業と言えるでしょうか?  「美麗島事件」の軍法審判において一〇余名の弁護士がつき、マスコミで放送されました。これをどうしてブラックボックスの作業であり不当な審判といえるでしょうか?  いわゆる「不当」とは、結局、当時、「懲治叛乱條例」或いは「検粛匪諜條例」がまだ廃止されず、相当に厳格でした。……この状況下で一般の大衆の権益は影響を受けたからです。国家安全法九条が上訴の機会を制限しているのは、これらの刑事案件が、長い時間がたち証拠が滅失している可能性があり、調査が非常に困難であるからです。殺人事件の時効も二〇年としております。従って、法律に時効の規定があるのは、戒厳制度が実施されて三〇数年になりますが、当時、匪諜や匪党、叛乱組織(32)に参加した者が、三〇数年後、これを最高法院に上訴するなら、法官はどのようにしてこれを審判できるでしょうか?  証拠はすでに滅失し証人はすでに存在しない状況下において、この案件の不穏定及び紊乱をつけ加えるだけではないのでしょうか?  国防部の立場は戒厳時期に冤罪や証拠薄弱な被告があった可能性に反対はしませんが、この審判制度の公正性は疑いを入れるところでありません。
    現在提出された法案が要求する賠償原則は、二二八事件賠償と比べて、その精神の観点から言うなら、長期的戒厳が不利であり、人民権益の侵害も比較的厳重であるということですが、但し中共の圧力に対して国家安全を守った功労は否定することはできません。昨年、中共は台湾近海にミサイルを発射し全国民をパニック状態に陥れ、人心は恐々としてアメリカやヨーロッパなどに移民することばかりを考えるようになりました。この制度(法案)の措置が完美を尽くさないとするなら、その重大な後果はおして知るべしです。国防部が保守しているのではありません。これが国防部の基本的立場です(33)
  提案者の側からは、立法の必要性が、@戒厳時期に重大な人権侵害がなされ、その救済が行われていない。A九万件にものぼる事件が、国家安全法九条二項によって、上訴権を剥奪されている。B二二八事件の補償はすでに行われたので、二二八事件方式の立法措置によって「五〇年代案件」も解決すべきであると、提案されている。これに対して、国防部軍法局副局長の反論は、@戒厳令は、どこの国にもあり、憲法にのっとって立法院で可決され、適法に宣布されたもので、A戒厳時期軍事裁判は国家安全保障のために必要であり、B行き過ぎがあったとしても、時効である、というものである。
  以下、五時間三〇分にわたり、まず、政府の立場から、法務部の林雲虎司長、司法院の洪昌宏科長の発言へと続く。林雲虎司長は戒厳令の法的有効性と、国家安全法九条により上訴権がないことを論じ、資料をそろえてから審議することを提案するが、かえって、議長から、「資料をそろえるべき当事者の法務部代表がそんなことを言っては困る」と叱責され、謝委員からは、「事件は四、五〇年前のもので、全て倉庫にあるというのに、何の資料を集めるというのか?」と、非難を受けた。洪昌宏科長は、国家安全法が但し書きで、非常上訴と再審を認めているので、違憲ではない、もし、再審が全て認められるとするなら、今の司法院の能力では処理不可能であると述べた。
  これらの発言に対する、各委員の批判攻撃は峻烈、苛烈を極めたものであった。顔錦福委員は、次のように攻撃した。「劉副局長は『合法性』という。しかし独裁者は不合理な合法性で無辜(の人民)を濫殺する。恐るべきことだ」、「『戒厳』制度は独裁者の人民屠殺の工具である」、「今回の提案は、このような(無辜の)人たちを平反するためだけではなく、全世界史に前例のない独裁者、殺人魔王、蒋介石を裁くところに最も重要な意義がある。お尋ねするが、あんたは、このような殺人魔王を擁護するのか」。また、黄爾委員は「関係官吏は、戒厳は多くの国にみなある制度だと言ったが、これは国家の緊急権行使として、そこには一定の制限がある。これを濫用してはならず、目的を捻じ曲げてはならず、一時的手段であり、政権の利益を図る手段としてはならない(34)」。
  このような論議の後に、第一読会に入って、この法案の逐条審議をし、続けて第二読会に入って立法を急ごうという立場と、関連行政部署の対案を待って第二読会の日を改めて取ろうという立場に議論が分かれた。葉菊蘭委員は、「戒厳時期不當政治審判補償條例草案」は二二八補償法を雛型としており、過去、二二八補償法は委員主導であったので、今回も行政院の提案を待たず、委員立法で行おうと提案した。それに対し、葛雨琴委員は、この條例案が多くの行政機関と関係しているので、行政機関に対案提示をする機会を与えるべきであるという意見を述べた。その結果、議長は、多数が(行政機関の対応が大変遅いので、その)対案を待つ必要はないとの意見であることを前提にして、二週間後にこの草案に対する各党団(議員団)間の協商を進めることにして散会を宣言した。

(2)  第二次司法、国防委員会連席会議
  第二次連席会議は、政府代表、学者専門家、受難者とその家族代表による公聴会として、九七年一二月二四日に九名の委員の出席で行われ、謝文定法務部次長などが列席した。
  冒頭に、謝文定法務部次長から、法務部としては、補償方式と国家安全法九条二項の改定との二つの可能性を検討中、との発言があった。自ら懲治叛乱条令により一〇年の投獄生活を経験した著名な文学者、陳映真は次のように述べた。

    「白色恐怖」は法律的問題ではない。……冷戦進行中に全世界的に、組織的に国家によって行われた人権蹂躙事件である。これをどうして法律条文をいじくって解決できるのか?
    ……もし法律方式を以って解決しようとするなら、謝次長が指摘したように問題が非常に多い。時効の完成、証拠不全、当事者がすでに死亡していること等の問題がある。いったん紛糾しだすとまた新たな闘争が起こり、これを口実に政府が平反を拒絶し、問題解決を拒絶することになる。案件は二万余件にものぼっているのに、(このままでは)百年たっても解決できない。個別案件処理の方式では、何時、解決が終わるのか?  受難者はもう既に七〇歳になんなんとして、白髪の老人である。
    また、補償においては、物質的補償と精神的補償が不可分である。……「叛国賊」「盗賊」と謗られた人物を光栄ある公民として平反しなければならない。……これは一方においては平反を可能にし、他方においては教訓となし、この社会から永遠にこのような国家による組織的制度的暴力が作り出した恐ろしい人権蹂躙と迫害をなくするためである。
    ……また重要な問題は、軍と情報局は必ず当時の記録文書を公開しなければならないということだ。
    同時に、今後の問題として、司法は必ず、政治的、意識上の独立を維持しなければならないということだ。そして、過去の誤りを繰り返すことなく、人権運動家に特別の法律的保護を与えなければならない。
  張旭成委員は、南アフリカの「和解と真実委員会」方式の解決を提案し、本委員会も報復が目的ではないとした。謝聡敏委員は法案提出者として、「法務部との交渉では、政府は解決の意思を持っていたが、国防部が終始反対し、甚だしくは、すべての資料はすでに焼却したとさえ言った。もし、当事者が上訴をして、国防部が証拠を出さなければ、全て無罪にすべきである」と論じた。総じて公聴会では、被害者からの体験が語られ、補償方式による解決を求める声が高かった。「台湾地区政治受難人互助会」を代表する政治受難人の林書揚は次のように述べた。

    監察院が調査後、一九九六年九月三一日に公布した調査報告書によれば「五〇年代叛乱匪諜案件の調査時に自白を強要し、訴訟手続に違反して審判し、証拠採用が不確実であり、判決理由が相互矛盾しており、判決文が送達されなかったなどの遺失した事情があった」などと指摘している。これは国家最高機関(の一つ)である監察院が政治案件の審判手続きの合法問題に対し、その歪曲された審判の公信力に問題を提出している。われらは戒厳時期政治案件の全ての案件と関連者を一律に国家暴力の被害者として、これを一括処理すべきだと主張してきた。

(3)  第三次司法、国防委員会連席会議(一九九八年一月五日)
  第三次会議では、謝聡敏草案を逐条検討し、原案全体一五条の中で、第一条から四条までと、第九、一一、一三条は文字を修正して通過、第五条から八条、第一二、一四、一五、一七条は原案通り、一〇、一六条は条文の増訂を行い一七条となった。
  法案名称が「戒厳時期不當政治審判補償條例草案」から、「戒厳時期不當政治審判及懲罰補償條例」へと変更になった。名称の変更は、裁判での判決を受けない場合(例えば、感訓教育においても、この法の適用を可能にするためである。一、二、三、九、一一条は法案名称の変更部分の修正である。第四条は、受難者の赦免の総統への呈請と、没収された財産の返還を定めているが、原案にあった、「受難者は戒厳法第一〇条の規定により上訴を得」を削除した。第一三条は、受難者の家族の範囲について、民法一一三八条による法定継承人の範囲を明確にした。第一〇条と一六条は新たに付け加えられたもので、一〇条は、「『受難者基金会』の調査を経て、受難者として認定する。ただし本條例と関係規定を適用して、政府機関が提出した相反証拠により、該当する受難者が明確に匪諜或いは叛乱犯として証明されるに足りる場合を除く」を新設し、一六条では、「『受難者基金会』の調査認定をへて、あわせて、本條例は『戒厳時期人民受損権利回復條例』を同時適用する」を設けた。
  修正・増訂について提案者の謝聡敏委員は次のように説明する。「実際、法務部が心配するのは、本物の共匪及び(それに該当する)犯罪構成要件に符合する人が補償を求めることにあるので、本條例第一〇条の規定に排除条項を加えるが、根本的に新しい修正を(法務部は)提案すべきでない」。ここにおいて、はじめて排除條項の原型が現れた。
  これに対して、蔡明憲委員の反論があった。「草案第一〇条の排除条項について、……皆さん、なぜ『叛乱犯』と言うのか?  戒厳令下で千、萬の人たちが叛乱犯にさせられた。今日、本法にこの排除条項を入れるなら、この法に何の意味があるのか?  私は条文の通過に反対する。今日、我々は、公開懺悔と公正寛恕の心情で、共同して、公平、合理、和諧の台湾社会を打ち立てなければならない」。すなわち、一部の政治犯に対する「アカ」のレッテル貼りと差別に反対する立場を明らかにしたものである。
  蘇煌瑯委員は、逮捕はされていないが、逃亡生活を余儀なくされた者の長期間の苦痛を補償するために受害者の範囲を拡大することを提案した。その他、受害者の範囲に一般犯罪の罪名で逮捕され苦難を受けた政治犯や、かつて海外居住の亡命者も入れることが提案された。

(4)  第三一次会議(一九九八年五月二八日)
  第二読会に先立ち、五月二五日と二八日の二回、条文を詰めてゆく朝野(与野)党団協商が行われ、現行の「不當審判條例」がほぼ確定した。続いて、各議員の協商案支持発言が行われ、二読(会)、三読(会)が連続して行われ、一瀉千里で進んだ。原案である謝聡敏案から第三次連席会議案へと、そこから朝野協商案へと改定され、第二、第三読会を重ね、法律案の確定を見た。
  第三次連席会議案から朝野協商案への改定の骨子は次のごとくである。
  @  法案名称の変更。
  A  法の適用範囲を拡げるために、懲治叛乱條例や戡乱時期檢肅匪諜條例という具体的な法律名を使わずに、「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件」とした。(第一条)
  B  受難者を受裁判者へと、より中立的な名称に変更。(第一条以下)
  C  戒厳時期をより細かく設定したことと、感化(訓)教育を宣告された者を受裁判者に含めた。(第二条)
  D  第四条(総統への特赦の申請、及び財産の返還・補償)を削除。
  E  第七条において補償範囲から、傷害者、健康・名誉を傷つけられたものを削除。
  F  第八条から基金会事業の独立部分を削除。↓第七条へ
  G  第八条として、排除条項を新設。
  H  第九条(資料の調査・閲覧)から、拒否者に対して刑法一六五条(35)の刑事責任付与を削除し(二二八補償法との違い)、現場での調査権の付与。
  I  第一一条から、戒厳時期不當政治審判及懲罰事件紀念活動と受難者の名誉回復、台湾民主化・自由の促進を削除。
  つまり、第八条の排除条項の新設や、第九条(資料の調査・閲覧)から、拒否者に対して刑法一六五条の刑事責任負わせることを削除したことにおいて「二二八補償法」にくらべ、国家暴力の犠牲者の名誉回復・補償法としては後退している。また、「二二八補償法」や本法においても最初は「受難者」としていたものを「受裁判者」としたことは、国家の加害性を十分に認めず、戒厳時期の弾圧法の正当性を維持しようとする意図を浮き彫りにしたものである。さらに、第二条から記念活動や民主化・自由の促進を削ったこと、「二二八補償法」に規定されている傷病者、財物損失者に対する補償を排除した点などに、行政や与党(国民党)側の保守的視点が反映されている。特に、八条の問題は後述する。

六、不當審判條例の公布とその諸問題


(1)  不當審判條例の公布
  「不當審判條例」は、上述のごとく国会での審議を経て、一九九八年六月一七日に公布された。
  法制定に至る官側の経緯説明と意図は「基金会」発行のリーフレット、「不當審判條例」の前言で明らかにされている。

    「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例」は、本年(民国八七一九九八)年六月一七日公布された。本條例(第)一六条の規定により、公布日から六ヶ月で施行される。本條例は寥法務部長が、民国八六年三月六日、一三日に法務部部務会報中で、戒厳時期不當叛乱或匪諜審判相関案件に対し、補償の法律的根拠の研究を進行させるよう指示し、行政院に問題担当の小組を構成し対応するよう建議した。
    本年二月一六日、行政院の蕭院長が、法務部の戒厳時期叛乱匪諜案件処理案の簡報を聴取し、国安(国家安全)法第九条第二款を修正する方式を取るのではなく専法(特別法)を制定し、補償する方式で処理し、原則上、真正に冤、錯、仮の事件だけに補償を与えるべきであると提示した。法務部は再度、司法院、国家安全局、行政院第一組、法規会、国防部、軍管区司令部などの機関を集めて、「戒厳時期不當叛乱匪諜審判案件補償條例草案」を検討完成した国防部と共に(行政)院に報告し、本年五月二一日行政院第二五七九次院会で審査を終え、立法院で、本(八七)年五月二八日、三読の手続が完成した。
    台湾地区で民国三八年に戒厳を実施したのはその時代背景があった。しかし、戒厳時期叛乱匪諜案件受裁判者において確に冤、錯、仮の個案(個別事件)はあったので、その権益を擁護するために、現在の民主政治の生態及び社会情勢を考慮に基づき、外国の処理実例を参酌し、情、理、法を顧みて、適当な補償を与えることが、歴史事実に向かい合い、誠意を持って責任を負う態度における政府の勇気を顕彰することになる。さらに本條例の施行は、政府が努めて傷痛を撫し、仇恨を和解し族群融和を促進する努力の表れである。

(2)  「財団法人戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償基金会」
  不當審判條例が公布されて、一九九八年一二月一四日に「財団法人戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償基金会捐助曁組織章程」が確定し、補償実務を担当する「基金会」の事業が本格的に始まった。「基金会」は、無給で二年任期の一三−一九名の董事(理事)をおき、董事会(理事会)は最高の意思決定機関であり、互選で一名の董事長を置く。受裁判者の審査・認定のために、一部の董事を交えた九から一五名の無給の委員からなる予審小組を置く。「基金会」の存立期間は八年である。
  出発時に「基金会」の董事会は一五名で構成され、陳健民(行政院政務委員)董事長を含む、法務部長、国防部長、高等法院法官二名からなる五名の官側代表、台湾省文献委員会主任、台湾大学教授、中央研究院近代史研究所研究員、牧師、国営事業董事長(調査局(36)背景)からなる五名の学者・社会公正人士、それに「台北市五〇年代白色恐怖案件平反促進会」理事長、「台湾地区戒厳時期政治事件処理協会」理事、「台湾地区戒厳時期不當審判平反促進会」代表、「施明徳辨辨公室」主任の五名の受難者とその家族代表からなっている。その他、政府からの三名の監事が置かれているが、行政院長が国防部を主管機関として指名したので、「基金会」の行政関係の業務は国防部を通じて行われるようになっている。

(3)  補償基数計算をめぐる問題点
  補償額の計算は、一基数を一〇万元(37)とするが、死亡(死刑など)または失踪者を最高値の六〇基数とし、二年以下の懲役刑を一七基数として被害の程度によって基数を加える方法によって行われる。上述の如く当初は、「不當審判條例」による補償は、「二二八補償條例」に比べ、最高基数は同一であってもそれ以外は、大体、半分に抑えられた。最初に、この問題と補償受給者の法定継承人の範囲、さらに八条の排除条項が受難者にとって最大の問題であった。
  補償基数計算については、一九九九年四月一二日に、陳健民董事長が二年懲役を一七基数とし、一年ごとに一基数を加える(二二八補償條例は五基数)という提案をして、紛糾が始まった。それから、受難者三団体が「台湾地区戒厳時期政治事件処理協会」という連合組織をつくり、猛烈な抗議行動と董事会との交渉をはじめた。六月二三日に立法院委員、王幸男主催の公聴会開催を経て、結果的には、二二八事件の七〇%ほどの補償を得ることで落着した。

七、不當審判條例の改定の動向(38)


  上記、補償基数計算をめぐる闘争の高揚ともあいまって、不當審判條例にたいする改正の動きが高まり、立法院委員からの複数の条文修正提案が成され、立法院での審議が始まった。
(1)  立法院第四屆第三会期、司法、国防両委員会第一次、第二次連席会議
  二〇〇〇年五月二五日(木)に 司法、国防両委員会第一次連席会議が開催された。出席委員(主席、徐志明)は一五人、列席委員は三七人、列席人員は、法務部次長、謝文定、司法院法官、呂丹玉、国防部軍法副局長、劉錦安、「基金会」執行長、周成瑜であった。第二次連席会議は六月一五日に開催されたが、第一次会議の継続審議であった。
  まず、両次連席会議では、大きく三つの問題が出た。一つは八条排除条項の廃止をめぐって、次は、不當審判條例ではカバーができない事件を救済する問題、最後に、「基金会」の受裁判者の認定速度の問題であった。

  (i)  八条排除条項の廃止をめぐって
  まず徐志明委員から第八条修正提案(39)説明と、それに対する討論があった。

    戒厳時期政治性冤獄賠償受難者の申請資格を緩めたが、時空久遠にして、挙証の困難を産出し、「求償無門」の下に、二度の傷害を与えている。さらには、「基金会」の審査速度が「牛歩」に過ぎず、受難者を漸漸として凋零の状況下において、人々に「基金会」の誠心の不足や人を侮っているという疑いを抱かせている。
    ……同条項(八条)第二款は、叛乱或いは匪諜として確実に証拠があるものは補償不得、と規定している。この排除条款は立法の疑義がある。当時、匪諜と叛乱の認定は、大多数が刑を受けた後で求められて作り出した紙一枚によって、若干の人は、すでに亡くなった人の証言のような粗略な資料をもって、裁判での心証形成の依拠としている。同条二、三項の規定によれば、予審小組を組織するが、それ自体は調査証拠に限りがあり、「不當叛乱及び匪諜審判」を規範の客体と成すので、この規定は排除の対象を拡大し、認定がさらに困難を加え、実際規定の必要がない。
    「條例」第八条の規範は高度の政治性を有していており、資格の制限が大きく、排除の手続きが多く、審査の速度を厳重に落後させ、申請人に老人が多いので、もし、手続き上の理由で平反を得られず、当然受けるべき補償を受けられないとするなら、当事者に明らかに不公平である。故に、戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例の修正、すなわち制限を緩めると共に手続きの簡素化を提案する。
  それに対して謝文定法務部次長は反論を提起し、続いて次のような討論が行われた。

    当時、本当に叛乱行為のあった者を考量すると、例えば、武装叛乱し判決を受けた者は、法の公平正義の原則に照らして、補償を与えるべきでないのに、予算に組み込む形で「基金会」が成立しました……
    ……もし、証拠があって判決を経た真正の武装反乱者に補償が行われる場合、このような類似案件が極めて少ないとしても、類似の案件の発生を排除することができないのであります。
陳瓊讃委員私が心配するのは、この一項(八ー二)を除いた場合、本当に行動を行って、叛乱罪を犯した者が補償を受けることができるとするなら、この條例を如何に修正するのか考えなければならない。
主席委員私は、この修正案が(現状のままでは)牛歩化し多くの申請者が高齢化し、日々、このように奔命し、とても耐えられないので、このような提案をした。……
顔錦福……真正、叛乱行為があるものを補償するのは道理のないことである。しかし、民国三八年から五、六〇年の間、何の叛乱犯があったのか?  ……以前、叛乱罪を犯したことに、何の証拠があったのか?  みんな拷問ででっち上げた証拠ではないのか?  法律には穏当性がなければならない。まさか、戒厳時期の戒厳法を法と呼べるだろうか?  今日討論するのは、主に賠償問題ではなく、平反ができるかどうかが鍵である。現行法と証拠審査によっても有罪判決をなしえず、感化教育処分を受けた者は、全て罪名を平反すべきである。……過去、内乱・外患の罪に問われた者の中で、一体何人が真正、罪を犯したでだろうか?  当時、死刑を受けた多くの者たちは、甚だしきは、全く何の証拠もなかった。
謝文定法務部次長私は判決文を多く見ました。証拠のない部分は補償いたします。
顔皆さんが良識を持つなら、一切を判決文に照らして処理しないだろう。みんな知っているように、当時はほとんどが無理矢理自供させられた。いったい自白書が証拠になるだろうか?
  劉俊雄委員は八条二項の削除を求めた。高育仁委員も二二八事件方式による一括解決を主張した。鍾金江委員は、不當審判條例は純政治性の補償立法であるので一括解決すべしという立場であった。また、受難者団体の八条に対する立場は次の通りである。

(1)  草案の第八条に三つの「補償申請をすることが出来ない」排除規定がある。これは補償條例の主旨に抵触するものである。
  @  「法によりすでに赦免された受裁判者」が排除されるのは当局の責任回避である。そもそも国家が法により一定の罪に対して「赦免」を行うのはもともとその「罪責」を免除するだけである。当事者がかつて不当に被った傷を実質的に救済するものではない。名義上の赦免を持って実質上の補償に変えるのは、まことに不合理で人民を愚弄するものである。
  A  法によって補償或いは賠償を受領した受裁判者を排除するのは不当である。「戒厳時期人民受損権利回復條例」により補償金を受けたものは、単純に本人と国家機関間のもともとあった雇用関係によって受け取ることの出来なかった部分を支払うものでありその性質上、私権行為に属する。しかし戒厳時期不當審判受害者は国家に対して要求を提起するものであり、公民権に対する不当な迫害の賠償を求める行為である……公務員の権益受損者は原服務単位によって賠償を受けるのが当然であり、公民が国家暴力により迫害された場合はこれを国家が賠償するのが当然である。
  B  「叛乱犯及匪諜として認められ確実な証拠がある者」は排除されるという条項は、政府が過去の悪法の正当性を擁護しようとするものである。恐怖政治時期の実情を考えると、全ての政治案件は関係機関が全て違法行為をしており、犯法の中でこれが執行された。罪状の認定と量刑において、ただ脅迫効果を求めるあまり正常の法を超えてこれを強行した……法令制定過程の合法性如何はしばらく置くとしても法執行において終始違法であったことは万人の認めるところである。従って国家は当然受害者の身分認定に関わらず賠償責任を負わねばならない(40)
  いわゆる「排除条項」である八条二項をめぐる論点として、廃止の立場からは次のような諸点を上げることができる。
  @  蒋介石独裁時代の戒厳時期自体が政治的に清算されるべきものである(41)ので、受難の原因は問わず、全ての受難者とその家族に名誉回復と補償が与えられるべきである。
  A  戒厳法、非常事態(戡乱時期=反乱鎮圧時期)法の三七年にわたる半恒久化自体が不法であるので、その下で制定され施行された刑事特別法自体が不法である。
  B  戒厳時期の特別刑法が有効であるとしても、逮捕・捜査・起訴・裁判・行刑に至るまで、法の手続、法の国際的基準に違反して、非人道的に行われた。
  C  ほとんどの事件が自白によっており、自白は拷問、脅迫、欺瞞によって行われた冤罪、捏造がほとんどである。
  D  例え、真正の共産主義者であったとしても、思想の自由の弾圧自体が許されるものではなく、行為に相当しない過酷な刑罰を課した。
  これに対し、政府・軍部の立場は次の通りである。
  @  戒厳時期の諸法は、国家保衛と社会の安全秩序の確保の為に、立法院の承認を得て、適法に制定された。
  A  戒厳時期に人権侵害があったとしても、当時の国家危機の状況ではやむをえないところがあったし、国家安全保障に寄与し、その後の経済発展を可能にした。
  B  明確な証拠によって、匪諜であること判決されたものまで補償すれば、社会的な情緒や公正感にそぐわず、国民の承認を得られない。
  C  現在も中共と対峙しており、匪諜を補償すれば、類似犯罪の発生を防止できない。
  D  国家安全法によって、共産主義を禁止しているのに、他方でそれを免罪することはできない。
  E  武装叛乱や暴力行為のあったものまで補償するわけには行かない。
  F  冤罪、捏造など不法な事件に対する再審・賠償の道はある。
  以上のことから、大方が蒋介石政権下での暴虐を認めるが、国家安全保障論、開発独裁論、「悪法も法である」という形式合法論、「スパイに金をやるのか」という粗暴な国民感情論などによって八条二項が支持されていることがわかる。しかし、「五〇年代白色テロ」が「重大な人権侵害」であるという観点から見れば、二二八事件と同じく、例外規定を設けず、一括解決方法をとるべきであると言えよう。

  (ii)  不當審判條例で救済されない受難者の救済問題
不當審判條例により救済されない政治受難者の問題に関して、連席会議において李鳴皋委員からは「海軍先鋒営」問題、李鳴烽委員からは「兵荒馬乱の時代に逃命(命からがら逃げた)した老百姓」の問題が出された。「海軍先鋒営」事件とは、国共内戦の最中に、舟山列島が中国側に占領され、戦況不利な状況で、海軍では軍艦を率いて中国側に寝返る者が続出し、疑心暗鬼になった蒋介石は陸軍大将の桂永という腹心を海軍司令官に据え、台湾山中の南投県に「海軍先鋒営」の名目で収容所を設営し、疑わしい海軍将兵約二〇〇名を一九五〇年から五四年まで何らの法的根拠なしに、何らの処分なしに、「飼い殺し」の状態で監禁した事件である。最近、関係者六七名が補償要求の陳情を行っている。李鳴烽委員の提起は、戒厳時期に政府の弾圧・殺戮・投獄を逃れて逃亡生活をした人たちのことである。これらは、いずれも受裁判者という「不當審判條例」の補償対象者となるべき資格要件を満たさぬものであるが、実際に受けた苦痛や、長期間にわたり地下生活を強いられ正常な家庭・社会生活、出世・致富の機会を奪われるなど被害を受けてきたので救済すべきであるという提案である。
  翁金珠委員から美麗島事件関係者の問題などが出された。これは、事件関係者の中で八名は軍法会議で裁かれたが、残りは暴行罪、秩序妨害罪などの一般犯罪として起訴され、不當審判條例の補償対象とならないので、美麗島事件関係者を含むという明文規定が必要という提起であった。
  陳瓊讃委員からは、四九年四月一六日に台湾師範大学で学生たちが拉致・投獄される事件があったが、戒厳令宣布(五月二〇日)以前であったので、補償対象となっていないので、適用期間を戒厳令宣布以前も含めた四八年一二月一〇日からにするべきだという提案があった。
  なお、鍾金江委員からは、八条一項には二二八事件で補償された者の二重受給を禁じているが、二二八事件と五〇年代白色テロ事件との二つに関わることもありうるので、その場合は、それぞれ補償すべきである。したがって、同じ事件での二重受給を防ぐ意味で八条一項に「因同一原因事実」という一文を挿入せよとの提案があった。

  (iii)  審査事務の停滞問題
  「基金会」執行長の周成瑜による、補償申請人員と処理現況に対する報告は次の通りである。二〇〇〇年五月現在、申請数は五二三二件、処理件数は五〇〇余件であり、そのうち審査終了件数は四四四件であり、二五五件が補償決定、一六九件が却下、却下件数のうち八条二項の「確実に証拠がある者」六件(42)、手続に瑕疵があるもの、一六三件、保留が二〇件。補償が執行された金額は八億元余(43)である。審査が停滞している理由としては、補償基準が一九九九年一二月にようやく確定したこと、審査資料確保が遅れ、予審小組の審査が進まないことなどをあげている。予審小組は二週に一回開催されるが、一回の処理件数は二〇件余り(「基金会」では六、七〇件処理予定)であるので、現在申請受付分だけでも二五〇週、約一〇年間(「基金会」では三年要するとしている)を要し、二年の申請受け付期間、三ヶ月以内での各申請処理期間をはるかに越えることになる。

(2)  立法院第三次連席会議(44)
  第三次連席会議は、二〇〇〇年六月二九日、出席委員一五名(主席、林宏宗)、列席委員三八名、列席人員、法務部次長、謝文定、司法院法官、呂丹玉、国防部軍法副局長、劉錦安、「基金会」執行長、周成瑜で行われた。
  ここでもまず問題になったのは、処理案件の速度問題であった。周執行長は、六月二八日にまで処理したもの七〇六件、この一ヶ月に二四〇件処理と報告した。また、「基金会」の存続期間は八年であるが、申請の受付締め切りは今年末であるので、二年間の延長を希望した。
  條例の修正案は次のように確定され付帯決議を付け、本会議に上程されることになった。

第八条一、二項の修正
  1、同一原因による事実で、法によって冤獄賠償或いは二二八事件の補償の受裁判者。
  2、現行法律或いは証拠法則の審査によって、戒厳時期の叛乱犯或いは匪諜の確実な証拠がある者。 (追加文言についての傍線は筆者)
付帯決議
壱、一五条一の増訂と一六条の修正

  第一五条の一に次のように付け加える。増訂する。
      下の場合のいずれか一つに該当するものは、本條例の修正施行日から二年内に本條例の規定に準じて補償金の給付を申請することができる。
    1.戒厳時期において同一原因の事実の行為によって、或いは部分的な行為によって本條例第二条第二項の規定の受裁判者、その他の行為によって内乱罪・外患罪或いは戡乱時期檢肅匪諜條例以外の有罪確定判決者。
    2.民国三七年一二月一〇日から三八年五月二〇日戒厳宣告前までに、内乱罪、外患罪、或いは戡乱時期檢肅匪諜條例に触犯し、有罪確定判決を受けるか、或いは感化教育の命令を受けた者。
    3.民国三七年一二月一〇日から戒厳令解除以前に内乱罪・外患罪或いは戡乱時期檢肅匪諜條例に触犯し、治安機関或いは軍事機関により人身の自由を制限されいまだ不起訴処分或いは有罪判決の確定をへざるもの。
  第一六条  本條例は公布の日から六ヶ月以内に施行する。
弐、「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償基金会」に、累積している案件が数千件に達し、審査速度が緩慢であることを鑑み、「基金会」は審査方式を改め、無意義案件は即時、董事会に報程して、補償を与える。異議のある件は予審小組に上げて、優先審議する。予算小組は人員増加をして、三組に分け、三年以内に審査を完成する。
参、九八年、不當審判補償條例が通過した時、「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例で財産没収の宣告を受けた者の賠償辨法は、行政院が研究し辨理すべし」という付帯決議を作成した。時限を区切るために、行政院は半年内に賠償辨法を作成し、本連席会議に報告すること。
四、本條例の通過後、司法、国防委員会は「基金会」に書簡で、修正法案が、美麗島事件、鼓山事件、四六(台湾師範大学)事件、海軍先鋒営事件などを包括していることを説明すること。
  以上のような最終案が確定されたが、二〇〇〇年九月に政府の第四原子力発電所建設中止決定から始まり、陳水扁総統の女性スキャンダルまでをも含む政争の中で、総統罷免決議案まで出されて激しい与野対立が続く中で、立法院の機能は麻痺し、第三読会まで終わり、本院での通過を待つばかりである修正案は、本院の決議に付されず継続審議となった。
  しかし、その後、「不當審判條例」改正の重大な動きがあり、一二月一五日に終に改正案が立法院を通過したので、次に、その状況を明らかにしておく(45)
  まず一二月五日、民進党党団は、野党議員の出席が不振であるのを見極め(46)、突如、抜き打ち的に、第八条を第一項だけ残し第二項を削除する提案、つまり政治的排除条項撤廃のために、「『不當審判條例』部分修正草案」を提出したが、結局、国民党は親民党などと連携し、議員を緊急動員して、提案は封殺された(47)

八、「不當審判條例の改正」


  二〇〇〇年一二月一五日、台湾の立法院は「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例部分修正草案併案審査案」を通過させた(48)。改正の内容は、第二条、第五条、第八条、第一四条、第一六条を修正し、第一五条の一を増訂するもので、さらに付帯決議が追加された。それは次の通りである。(傍線は筆者によるもので、新しく付け加えられたか、改訂された部分を示す)

第二条  本條例でいう戒厳時期とは、台湾地区は民国三八年(一九四九年)五月二〇日から民国七六年七月一四日まで戒厳を宣告した時期を指す。金門、馬祖、東沙、南沙地区は民国三七年一二月一〇日から民国八一年(一九九二年)一二月六日まで、戒厳を宣告した時期を指す。
    本條例でいう受裁判者とは、戒厳解除前に内乱罪、外患罪、または戡乱時期検粛匪諜條例に抵触し、判決をへて有罪が確定するか、裁判で感化教育命令を受けた人民を指す。
    受裁判者、或いはその家族は本條例で別途の規定がない限り、本條例の施行日から二年以内に本條例規定により補償金給付申請し得る。
    前項期限満了後、もし、故あって補償金の申請ができなかった受裁判者、或いはその家族があれば、二年を延長する
第五条  受裁判者の補償金額は基数計算を以ってし、毎一基数は十万元とする。ただし最高六十基数を越え得ず。ただし、受裁判者が死亡したり、或いは受裁判者が申請後死亡して、大陸地区の受裁判者家族が申領(申請・受領)者となった場合は、補償総額は二〇〇万元を越えることができず、超過部分の申領権は台湾地区の継承者となる受裁判者家族が主張し得る
    前項の補償金の基準、申請、認定手続き及び支給事務は基金会がこれを定める。
第八条  下記の場合は補償申請をなし得ず。
    1  同一原因の事実に因って、既に法により冤獄の賠償を受領したり、二二八事件の補償を受けた受裁判者。
    2  現行法律、或いは証拠法則の審査によって、内乱罪、外患罪に触犯すると認められ確実な証拠のあるもの。
  前項第二款の認定は、政府機関が提出した証拠他を除いて、基金会に因り審査小組を設置し、個別案件の事実を逐一審査し、これを認める。
  前項の予審小組は学者専門家、社会公正人士、政府代表により共同でこれを組織し、理事に限らず。その中で現任の法官、検察官その選出方式及び人選は基金会が行政院に提案しこれを備える。
  基金会は予審小組の決定に対して理事会二分の一以上の出席、三分の二以上の同意なしではこれを取消、あるいは変更出来ない。
第一四条  記念基金会の調査認定をへて、本條例の補償対象者として符合する者は、発給認定日から二ヶ月内に一時に発給する。受領通知日から五年を越えても受領しない者は、その補償金は国庫に帰属する。
  大陸地区の受領権者は、自ら或いは台湾地区人民に委託して領取することが出来る。自ら領取せんとする者は、台湾地区への進入を申請することができる。同一補償事件に二人以上の受領権者がいる場合は、その中の一人に委託し代表領取せねばならない
第一五条の1  次の事情のいずれかに該当するものは、修正後、本条例第二条第四項の規定の期限内に、本条例の規定を準用して補償金給付申請ができる
    1、戒厳時期において同一原因事実の行為に参与することに因って、部分行為人が本条例二条一の受裁判者となりしもの、その他行為人として内乱罪、外患罪、或いは戡乱時期檢肅匪諜條例以外の有罪判決の確定者
    2、民国三七年十二月十日から三八年五月二十日戒厳宣告前までに、内乱罪、外患罪、或いは戡乱時期檢肅匪諜條例に触犯したことに因り、判決を経て有罪が確定したか、或いは感化教育を命ぜられた者
    3、民国三七年十二月十日から戒厳宣告前までに、内乱罪、外患罪、或いは戡乱時期檢肅匪諜條例に触犯した嫌疑に因って、治安或いは軍事機関に人身自由の制限を受け、起訴されなかったり、不起訴処分を経なかったり、不起訴処分を経たり、裁判を経なかった者、或いは受裁判者
    4、民国三五年十月二五日から戒厳宣告前までに、台湾地区において戦争犯罪審判条例に触犯し、治安或いは軍事機関に人身自由の制限を受け、裁判を経て無罪になった受裁判者
2、本條例で決定した補償金の権利は差押えたり、譲渡、または担保に供することが出来ない。
第一六条  本條例は公布日から施行する。
付帯決議(在野連盟所提)
  (1)  戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件の補償に関し、行政院は特定費目予算を編成すべし。
  (2)  「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償基金会」に累積している案件が数千件に達し、審査速度が緩慢であることを鑑み、「基金会」は審査方式を改め、無意義案件は即時、董事会に程報して、補償を行い。異議のある案件は予審小組に上げて、優先審議する。予算小組は人員増加をして、三組に分け、三年以内に審査を終えねばならない。
  (3)  本院は、民国八七年(一九九八年)六月に「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例」を通過させたときに、「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件および財産没収宣告者の賠償.法を行政院をして研究・作成する」という付帯決議を作成したが、時限を区切るために、行政院は半年以内に賠償.法を定め、本院司法、国防両委員会連席会に提出報告すべし。
  (4)  本條例修正通過後、本院司法、国防委員会より基金会に書簡をだし、美麗島事件、鼓山事件、四六事件、及び海軍先鋒営事件などを包括するという修正法の趣旨を説明しなければならない。
  以上改正の意味を簡単に検討する。
  まず、第二条では、その間、問題になっていた申請処理の大幅な遅れによる補償給付不能の状態に陥ることを防ぐために、申請期間を二年延長した。
  次に五条では、受裁判者が死んだり、申請中に死亡し、その補償金受給者が大陸中国に居住している場合、台湾から中国への持ち出し金額の制限と関連し、二百万元以上は支給せず、残余部分は台湾に受給権者が居る場合は、その受給権者に、居ない場合は、国庫に回収されることを定めた。
  第八条では、一で、「同一原因事実」を新たに加えることによって、二二八事件と「五〇年代白色テロ」において別途の事件に関わった受裁判者は、それぞれの補償を受給できる道を開いた。同条二においては、元来、「叛乱犯、または匪諜として確実な証拠があることが認められる者」となっていたが、「現行法律、或いは証拠法則の審査によって」という一節が加えられ、「叛乱犯、または匪諜として」という部分が「内乱罪、外患罪に触犯する」という言葉に替えられた。これは、戒厳時期の特別刑法の有効性を現在と過去においても否定する考え方を示しており、適用範囲を一般刑法の内乱罪、外患罪に限定するものである。同時に、法の適用範囲を戒厳令宣布以前まで拡大する意味ももっている。排除条項の適用に関して、「基金会」の作業規定として、内乱罪の中でも武器使用・暴力行為が無い場合、(中国共産党台湾工作委員会などの)組織関係だけをもって排除せず、従寛(緩やかに)認定するとした。
  第一五条では、その1として、補償申請者の適用範囲を拡大した。つまり、無罪、令状無しの連行・拘禁、手続き上瑕疵のある裁判を受けたものなど、様々な形で、身体の安全への侵害に対する補償を詳細に規定したものである。1の1では、二二八事件に関与し、その延長で「五〇年代白色テロ」事件に関わったものに対する補償と、戒厳時期における、内乱罪、外患罪、或いは戡乱時期檢肅匪諜條例以外の罪で有罪判決の確定を受けたものの補償を規定している。1の2では、民国三七(一九四八年)年十二月十日の国民党政府の実質的な台湾遷都から戒厳宣告前までの期間を含ませるためのものである。1の3では一九四八年から戒厳解除までの期間中に、「内乱罪、外患罪、或いは戡乱時期檢肅匪諜條例に触犯した嫌疑に因って、治安或いは軍事機関に人身自由の制限を受け」、法的処分や裁判を受けなかったり、手続に瑕疵があった者への補償を規定している。1の4では、同期間中、関連法規により、人身自由の制限を受け、無罪になった者への補償を規定している。
  最後に、公布と同時に施行することを規定した。

終  わ  り  に


  台湾の最も暗黒な時代の国家暴力の残忍さを象徴する「五〇年代白色テロ」に関する、名誉回復・補償法の成立を今から一〇年前に予言できた人は誰もいなかっただろう。冷戦の終結から切り離されてきた東アジアにおいても、冷戦という国際政治システムがその役割を終えようとしている。
  東アジア冷戦の最前線に位置してきた台湾における社会の変化を推し量る様々な方法があるだろう。いわゆる「過去清算法」といわれる法を試金石にして、その社会の変化・成熟を見てゆく方法もあるように思われる。本稿では、台湾の「不當審判條例」の成立と意義、そしてさらに社会的ダイナミズムを背景とした改定運動とその動向を考察した。そこから、この法は、台湾の民主化を背景とし、先行した一九九五年の「二二八補償條例」の制定に触発され、台湾現代史の原罪である戒厳時期における国家暴力犯罪を清算する必要から現実のものになったことを明らかにした。
  「不當審判條例」は、加害者の処罰を含まない点や心身に傷を受けたものや財産損害に対する補償を定めていない点で「重大な人権侵害」からの賠償・名誉回復法としては、欠陥を持っているといえよう。しかし、公権力の犯罪を告発、ないし清算し、受難者の名誉回復・補償という救済を行おうとする点において、高く評価できるものである。ただし、八条二項の問題で論じたように、中・台両岸関係の対立を反映し、まだ、レッド・コンプレックスの壁は高いといえよう。実際、八条二項の廃止を企図した民進党による奇襲通過の試みも挫折してしまった。立法院での討議資料を見れば、軍・公安機関の抵抗が如何に激しいかということが行間から伝わってくる。條例成立後、一年にして改訂の動きが始まったことから見ても、この法は大きな葛藤と対立の中に存在しているといえよう。台湾は原子力発電所建設中止決定から始まった政争の中で立法院の機能は麻痺し、第三読会まで終わり通過を待つばかりであった修正案は、いったん流れて挫折するかのように思えたが、一二月二〇日に改定案は立法院を通過した。しかし、完全に問題が解決したわけではない。受難者団体の動向などから見て、八条二項の問題はまだ完全に終ったとは言えないし、歴史評価の問題も含めて、東アジアにおいて、長く残酷な冷戦時代の過去清算、人権侵害の名誉回復・賠償問題は、ようやく始まったばかりであるともいえよう。

(1)  特に、日本軍、慰安婦、ユーゴ、ルワンダなどの集団虐殺と関わって論議されている。例えば、『クマラスワミ報告書』(UN E/CN. 4/1996/53/Addl, 4 January 1996)
(2)  治安維持法の被害者のように、日本での「公権力による重大な人権侵害」にたいしても、名誉回復・賠償がなされていない実情であるが、本稿では、この問題はいったん論じない。
(3)  一九四八年四月三日、朝鮮半島の南西にある最大の島、済州島の民衆は、米軍政と李承晩が企図し、五月一〇日に予定されていた朝鮮半島南部だけでの単独政府樹立のための制憲議会選挙に反対して立ち上がった。「単独選挙反対」を叫ぶゲリラ部隊の攻撃によって警察署が襲撃され、これに対し、米軍と政府軍の徹底的な掃討が始まった。残酷な弾圧の中で、当時の島の人口の九分の一以上、三万名以上が虐殺されたとする。
(4)  姜驪≠ヘ、この間に行われた民間人虐殺を四段階に分けて分析している。第一段階は、一九四八年の二・七救国闘争から朝鮮戦争間での期間で、約一〇万名虐殺されたとしている。第二段階は、朝鮮戦争初期段階で、老近里の米軍による民間人虐殺、保導連盟事件などが含まれる。第三段階は、五〇年一〇月、マッカーサーの仁川上陸作戦以後、国連軍=韓国国軍が三八度線を越え、北朝鮮で行った民間人虐殺で、一七二、〇〇〇名と見ている。第四段階は、四一年六月から、朝鮮戦争の戦線膠着後、主に北朝鮮に対し、無差別爆撃と艦砲射撃が行われた。これらにより、一〇〇ー一四〇万の民間人が虐殺されたとする(姜驪∴鼡繼繼)。鄭ヒサンは李承晩統治期(一九四八ー一九六〇)の民間人虐殺を一〇〇万名と推算している(鄭ヒサン一九九〇)。徐仲錫は一九四八年から五三年までに虐殺された者の数を、最少二三六、四七五名(『大韓民国統計年鑑』一九五三年版)から、三−四〇〇万名(ジョン・ホリディ、ブルース・カミングス、一九九〇)まで、様々な数字を挙げているが、「信憑性に乏しく、……今後、厳密な調査が待たれる」としている。(徐仲錫、一九九九五五四ー五五五)
(5)  この事件を見る立場によって、「五〇年代白色恐怖」、「五〇年代政治案件」「五〇年代歴史案件」、「五〇年代案件」、「匪諜・叛乱案件」など、様々な呼称があるが、拙論においては、国家暴力の暴圧に焦点をおく「五〇年代白色テロ」を用い、文脈により他の用語を用いる。
(6)  一九五一年二月、慶尚南道居昌郡神元面で行われた民間人大量虐殺事件。韓国軍第一一師団九連隊が共産ゲリラの掃討作戦中に共産ゲリラに協力したという言いがかりをつけ、二月一一日、男女老若六〇四名を集団虐殺し、上部には共産主義者と通じた一八七名を処刑したという虚偽報告をしていた。
(7)  台湾で「五〇年代白色恐怖(テロル)」といわれている、一九四九年から一九五六年に至る、蒋介石・国民党による弾圧事件を指す。
(8)  二〇〇〇年度、韓国、全南大学出版部から出版予定<朝鮮語>。その概要の日本語での簡単な紹介は、拙稿「東アジアにおける国家暴力の被害者に対する名誉回復・賠償法の比較ー韓国と台湾を中心に」立命館大学人文研『国際化社会研究会報』二〇〇〇年  第七号を参照されたい。
(9)  林書揚
(10)  若林正丈『台湾ー分裂国家と民主化』東京大学出版  一九九四  六八頁
(11)  若林  上掲書  三六頁
(12)  一九九七年二月二八日、台北の新公園で行われた二二八事件五〇周年記念式典に筆者は、たまたま居合わせた。そこである壮年の男子が記念碑の銅板をハンマーで打ちこわしている現場を目撃した。蒋介石の中正という号が不当であり、その名を削れと言う要求であった。この事件に対する、民衆の怒の一断面を見た思いであった。
(13)  伊藤潔『台湾』中公新書  一九九三  一五九頁
(14)  一九八七年、出所政治犯と処刑または獄死した家族たちが集まって設立した相互扶助と事件の名誉回復・真相解明を目的とする組織。四個支部に約一〇〇〇名の会員を有している。その後、名誉回復・賠償運動の路線を巡り、一九九七年前後して、「台北市五〇年代白色恐怖案件平反促進会」、「台湾戒厳時期不当審判平反促進会」が分裂して作られたが、「互助会」が依然として、最大の被害者団体である。
(15)  藍博洲『高雄県  二二八及五〇年代白色恐怖民衆史』高雄県政府出版  一九九七  一一頁
(16)  「懲治叛乱條例」は、「叛乱分子」、すなわち、中国共産党とその同調者に対する処罰を定めたものである。その主な、規定は以下のようである。
    第一条  叛乱罪を犯した者は本条例を用いてこれを懲治する。
        本条例で言う叛徒とは、第二条各項の罪を犯したる者をいう。
    第二条  刑法第一〇〇条(内乱罪)一項(※1)、一〇一条一項(※2)、一〇三条(外患罪)一項(※3)、一〇四条一項(※4)の罪を犯した者は死刑に処す。
          刑法一〇三条一項、一〇四条一項の未遂犯はこれを罰する。
          予備、あるいは陰謀犯として第一項の罪を犯した者は一〇年以上の有期懲役に処す。
    第四条  軍隊を叛徒に引きわたしたり、あるいは部隊を率いて叛徒に投降した者は死刑に処す。
          前項の罪の予備陰謀犯は三年以上一〇年以下の有期懲役に処する。
    ※1  国体を破壊したり、国土を不法占領(窃拠)したり、または不法な方法で国憲を変更して、政府を転覆することを意図して着手実行したる者
    ※2  暴動で一〇〇条一項の罪を犯したる者
    ※3  外国、またはその国が派遣した者と通諜して、その国、または他の国をして中華民国と戦争をさせんと意図したる者。
    ※4  外国、またはその国が派遣した者と通諜して、中華民国の領域を、その国または他の国に所属させんとしたる者。
(17)  粛匪諜条例は一九四〇年に公布され一九九一年に廃止された。同法の目的は第四条に「匪諜(叛徒、或いは叛徒と通謀結託せる者)、或いは匪諜の嫌疑のあるものは、何人といえども当地の政府或いは治安機関に告密し検挙させねばならない」と規定されているように、人民の相互監視と相互密告を義務付けたものであった。
(18)  台湾省文献委員会編印『台湾地区戒厳時期五〇年代政治案件史料彙編』一  台湾省文献委員会  一九九八年、序
(19)  丘慧君他『戒厳時期台北地区政治案件口述歴史』第一輯、台湾中央研究院台湾史研究所一九九九  X頁
(20)  藍博洲『白色恐怖』揚知文化  一九九四  四四頁
(21)  国民党は一九五〇年から八七年までの戒厳時期を通して、基本的に国民党一党独裁体制を維持し野党の存在を許さなかった。一党独裁に反発する勢力は、党外(無所属)で選挙に出馬し、いわゆる「党外勢力」を形成し、その勢力の組織化のために、七九年七月に、文芸誌を装った政論雑誌「美麗島」を創刊した。「美麗島」同人は、国民党以外の政党を認めなかった国民党に組織的に対抗する方便として、党外勢力が結成した「野党」であった。党外勢力は、同年一二月一〇日、世界人権デーを期して、高雄市内で集会を計画したが、不許可にした警察との衝突で、一八三名の負傷者が発生した。これを口実に、当局は「美麗島」関係者、四〇名を逮捕し指導者八名を軍事裁判にかけ、同誌を廃刊した。しかしこの事件は台湾独裁体制の破滅を促す象徴的事件として記憶され、一九八七年の戒厳解除とともに、当時の被拘束者たちは、野党の中心人物として政治の舞台に登場するようになった。(若林正丈他  一九九四  五一頁参照)
(22)  「和平日促進会」副会長、李勝雄は、次のように二二八事件の解決原則を提示している。1、真相公開、及び責任の認定、2、公開謝罪、及び名誉回復、3、記念碑建立と記念日の制定、4、損害補償、5、政治犯釈放と政治迫害の根絶。(二二八和平日促進会  一九九一年)
(23)  台湾のエスニック・グループは、本省人と外省人に大きく分け、本省人は、漢族と先住民である高山族(九族に大別する)と分けることができ、漢族は福建省出身の福と客家に分けられる。外省人は、中国各地から集まってきた漢族と、少数の少数民族が含まれる。出身と背景において多様なエスニック・グループを台湾では族群といっている。ここで、族群を取り上げているのは、二二八事件発生の原因の一つとなっている本省人と外省人の対立の解消を念頭に置いたものである。
(24)  拙稿「台湾民衆闘争の足跡をたどって」『白色テロルー日本と台湾、アジア戦後史の闇に迫る』「東アジアの冷戦と国家テロリズム」日本事務局編一九九六参照
(25)  五〇年案件処理委員会・台湾地区政治受難人互助会  「国防部對『五〇年代政治案件』之研処意見」『相関文献彙集』一九九六  一七頁
(26)  藍博洲『白色恐怖』揚知文化社  一九九四  二四頁。
(27)  「省文献委員会新聞稿」『五〇年代歴史省府不譲留白』一九九六
(28)  李登輝総統は、一九九八年一二月一〇日の世界人権デーに、政治犯が苦難を受けた監獄島、緑島に、受難者を追慕する「人権記念碑」の除幕式に出席して、「民主・人権を求めて受難された方々に深いお詫びを申し上げます」と、台湾の最高指導者として、公式謝罪を行った。(『朝日新聞』一九九八年一二月一一日朝刊)
(29)  この節の記述は台湾立法院公報の委員会記録による。
(30)  国家安全法は一九八七年の戒厳時期の終結に伴い、それまで猛威をふるった「懲治叛乱条例」や「検粛匪諜条例」などの政治刑法の代替法として制定された。初めは、「動員戡乱時期国家安全法」として公布されたが、一九九一年「動員戡乱時期(反乱鎮圧のための総動員時期)」の終了によって「国家安全法」と改称された。同法は第一条で、その目的を「国家安全の確保」と「社会安定の維護」としており、第二条で、その内容を「人民の集会、結社は憲法に違背して、共産主義者を主張したり、或いは国土の分裂を主張することを得ず」と規定している。つまり、共産主義者と台湾独立の主張を禁ずる言論・結社禁止法である。しかし、同法は、第二条の禁止事項に対する罰則を持たず、実効性の弱いものとなっている。第三条では、「入出境(外国に往来する出入国とは異なり、中国大陸との往来を指す)」に関し、内政部警政署入出境管理局への申請許可を規定しており、この規定に対する違反は、同六条で、「三年以下の懲役と三万元以下の罰金を併科する」という罰則を設けており、実質的に同法は中国大陸との往来を規制する法として機能している実情である。
    同九条においては、「戒厳時期戒厳地域内において軍事審判機関の審判を経た非現役軍人刑事案件は戒厳解除後次の規定によって処理する。一、軍事審判手続が終結せざるものは調査中の案件を該当管轄検事の調査に移し、審判中の案件は該当管轄法院の審判に移す。二、刑事裁判がすでに確定した者は該当管轄法院に上訴或いは抗告することを得ず。但し再審或いは非常上訴の原因を有するものは法によって再審或いは非常上訴をすることを得る。三、省略」と規定している。
(31)  平反は、「@誤りを正す、訂正する。A(冤罪を被った者を)無罪にする」(大修館書店『中日大辞典』)の義であり、原状回復、賠償・名誉回復に近い言葉で、reparation に該当する。
(32)  「匪党」は中国共産党または中国共産党台湾省工作委員会、「叛乱組織」は中国共産党あるいは、それに同調する組織、「匪諜」はそれらの成員を指す。
(33)  『立法院公報』第八十六巻  一二一−二頁
(34)  『立法院公報』第八十六巻  一四二頁。
(35)  他人と関わる刑事被告案件の証拠を偽造、変造、或いは隠匿したり、偽造、変造した証拠を使用したものは二年以下の有期徒刑、拘役或いは五〇〇元以下の罰金に処す。
(36)  総統直属の情報機関
(37)  新台湾元のレートは変動しているが、二〇〇一年初で一元が日本円の約四円である。
(38)  『立法院公報』第八十九巻第三三期委員会記録による。
(39)  徐志明等三三名による「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例第八条条文修正草案」
(40)  台湾地区政治受難人互助会對行政院版「戒厳時期叛乱曁匪諜不当審判案件補償條例草案的幾点異見」(プリント)一九九八年五月二五日
(41)  翁金珠委員は、両委員会連席会議での発言を通じ、一連の補償法を「台湾政治平反法案」としてみるべきであると主張している。
(42)  謝文定法務部次長は、これを暴力犯案であるとしている。また、憲法一〇〇(内乱)条、一〇一条(暴力叛乱)以外は補償可能と言明している。この件について、高育仁委員は、政府機関により提出された証拠によってのみ、予審小組が審査をするのは不当であり、いわば、「四審」のようなものを開いて、公平客観的な審査を行うべしと、主張する。
(43)  一ヶ月余り後の六月二九日での周執行長の報告では、総申請五二七三件、七〇六件が処理済み、六件が八条二項該当、予審委員会係留八六七件、董事会係留一一一件、補償金執行一一億元、おおよそ三年で審査完了予定。一二月一五日、立法院で李命皋委員は、「前日(一二月一四日)まで、申請が五八〇〇余件、処理されたものが二〇〇〇余件、申請をしようとしているものが一万余件」と発言した。
(44)  台湾『立法院公報』第八九巻  第四期第三会期  第三次司法、国防連席会議記録参照
(45)  以下の部分は、再校の校正中での出来事であり、急遽入手した資料による。
(46)  台湾立法院の定数は二二五であり、現有議席は与党の民進党が六六にたいし、野党の国民党一一三、親民党一七、新党九、無所属一五、欠員五である。(『朝日新聞』二〇〇〇年一二月二二日朝刊)
(47)  台湾『聨合報』二〇〇〇・一二・六・六面。
(48)  この部分は、立法院公報第八十九巻第七十二期院会記録による。

 

参 考 文 献

1、日本語
    ジョン・ホリデイ、ブルース・カミングス『朝鮮戦争』岩波書店  一九九〇
    徐  勝「東アジアにおける国家暴力の被害者に対する名誉回復・賠償法の比較ー韓国と台湾を中心に」立命館大学人文研『国際化社会研究会報』二〇〇〇年第七号
    戴国W『台湾』岩波新書  一九八八
    「東アジアの冷戦と国家テロリズム」日本事務局編『東アジアの冷戦と国家テロリズムー台湾シンポジウム報告集』一九九七
    同『二一世紀東アジアの平和と人権ー済州島シンポジウム報告集』一九九九
    同『白色テロルー日本と台湾、アジア戦後史の闇に迫る』一九九六
    同『東アジアの冷戦と済州島四・三事件』一九九八
    李清潭「台湾冷戦時期の法制ー国家白色テロの歴史教訓」『東アジアの冷戦と国家テロリズムー台湾シンポジウム報告集』一九九七
    林樹枝『台湾事件簿』社会評論社  一九九五
    若林正丈他編『原典中国現代史』第七巻  岩波書店  一九九五
    同『台湾』東京大学出版  一九九四
    同『台湾百科』第二版  大修舘書店  一九九四
2、中国語
    二二八和平日促進会『走出二二八的陰影』自立晩報文化出版部  一九九一
    藍博洲『白色恐怖』揚智文化  一九九四
    藍博洲『高雄県  二二八  五〇年代白色恐怖民衆史』高雄県政府出版  一九九七
    李敖『安全局機密文献』上下  李敖出版社
    李筱峰『台湾史一〇〇件大事』下  玉山社  一九九九
    林書揚『従二・二八到五〇年代白色恐怖』時報文化出版企業  一九九二
    台湾省文献委員会編印『台湾地区戒厳時期五〇年代政治案件史料彙編』一−五  台湾省文献委員会  一九九八
    『台湾立法院公報』  第八六巻、八九巻  二〇〇〇
    五〇年代政治案件処理委員会・台湾地区政治受難人互助会『相関文献彙集』一九九六
    行政院研究二二八事件小組『二二八事件研究報告』時報出版  一九九四
    楊碧川『二二八探索』克寧出版社  一九九五
    中央研究院近代史研究所『戒厳時期臺北地區政治案件口述歴史』一−三  一九九九
3、朝鮮語
    姜驪=u韓国戦争と良民虐殺」『戦争の中の良民虐殺』第三回政策討論会資料  一九九九
    徐仲錫『゙奉岩と一九五〇年代』下  歴史批評社  一九九九
    鄭ヒサン『このまま目を瞑るわけにはいかない』トルベゲ  一九九〇
  本稿は、平成一二、一三年(二〇〇〇、二〇〇一年度)科学研究補助金による研究成果の一部である。


【参考資料】 戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償條例

民国八七年六月一七日公布        
第一条  戒厳時期不当叛乱及び匪諜審判案件の受裁判者として、戒厳解除後、補償または救済を受けられなかった者のために、特別に本條例を制定しこれを補償する。
第二条  本條例でいう戒厳時期とは、台湾地区で民国三八年(一九四九年)五月二〇日から民国七六年(一九八七)七月一四日まで戒厳を宣告した時期を指す。金門、馬祖、東沙、南沙地区は民国三七年一二月一〇日から民国八一年(一九九二年)一二月六日まで、戒厳を宣告した時期を指す。
  本條例で言う受裁判者とは、戒厳解除前に内乱罪、外患罪、または戡
乱時期検粛匪諜條例に抵触し、判決をへて有罪が確定するか、裁判で感化教育命令を受けた人民を指す。
  受裁判者、或いはその家族は本條例で別途の規定がない限り、本條例の施行日から二年以内に本條例規定により補償金給付申請し得る。
第三条  行政院は受裁判者の認定及び補償金申請事務の処理のために財団法人「戒厳時期不當叛乱曁匪諜審判案件補償基金会」(以下、基金会と簡称する)を設置することを得。その理事は学者専門家、社会公正人士、法官、政府代表、受裁判者及びその家族の代表でこれを組織する。
  受裁判者、及びその家族の代表は基金会理事総数の四分の一以下とする事を得ず。
  申請人は基金会の決定に不服がある時には、法によって訴願及び行政訴訟を提起し得る。
第四条  受裁判者、及びその家族で名誉を損った者は、その回復を申請し得る。戸籍を失った者は訂正を申請し得る。
第五条  受裁判者の補償金額は基数計算を以ってし、毎一基数は十万元とする。ただし最高六十基数を越え得ず。
  前項の補償金の基準、申請、認定手続き及び支給事務は基金会がこれを定める。
第六条  補償範囲は次の通りである。
    1  死刑執行された者
    2  徒刑(懲役刑)が執行された者
    3  感化(訓)教育が命令された者
    4  財産を没収された者
第七条  受裁判者、またはその家族は具体的な資料を揃えて書面で基金会の審査を申請し、それに拠り受裁判者として認める。
  基金会は独立して超然と職権を行使しなければならず、いかなる干渉も受けず。調査事実及び関連資料によって、受裁判者を認定し補償金請求を受理し支給する。
  第一項の場合、基金会は受付後六ケ月内に処理を終えなければならない。
第八条  下記の場合は補償申請を得ず。
    1  既に法により冤獄の賠償を受領したり、二二八事件の補償を受けた受裁判者。
    2  叛乱犯、または匪諜として確実な証拠があることが認められる者
  前項第二款の認定は、政府機関が提出した証拠他を除いて、基金会と設置される予審小組が個別案件の事実を逐一審査し、これを認める。
  前項の予審小組は学者専門家、社会公正人士、政府代表により共同でこれを組織し、理事に限らず。その選出方式及び人選は基金会が行政院に提案しこれを定める。
  基金会は予審小組の決定に対して理事会二分の一以上の出席、三分の二以上の同意を経ず、これを取消、あるいは変更し得ず。
第九条  基金会は調査審判の為に、必要時には関係人士を招き現場に行って説明を受け得、並びに政府機関、または民間団体所蔵の文件、あるいは档案を調査閲覧し得る。各級政府機関、民間団体はこれを拒否し得ず。
  前項でいう档案とは、戒厳時期に関係する懲治叛乱條例、または戡乱時期檢肅匪諜條例審判関係資料である。
  基金会は第一項の規定によって調査閲覧、取得した文件、及び档案は閲覧後、返還せねばならず、調査以外の用途に供し得ず。
第一〇条  基金会の調査を経て、受裁判者として認定された者、すなわち本條例、及び関係規定の適用を受け、その調査を経て第八条一項の各款の一つに該当すると認められた者は補償を与えず、第四条の規定の適用せず。
第一一条  基金会の基金の用途は下の如し。
    1  戒厳時期不当叛乱及び匪諜審判案件補償金給付
    2  戒厳時期不当叛乱及び匪諜審判案件教材、及び著作の補助
    3  戒厳時期不当叛乱及び匪諜審判案件関係調査、考証活動の補助
第一二条  基金会基金の来源は下の如し。
    1  政府予算手続により寄付
    2  国内外会社、団体、または個人の寄付
    3  基金利息、及び運営収益
    4  その他収益
  経費が不足すれば、政府予算手続により寄付。
  本條例の規定によって支給された補償金は所得税を免除する。
第一三条  本條例で言う受裁判者家族とは、死亡、または失踪した受裁判者の民法第一一三八条に規定する順序の法定相続人をいう。
第一四条  記念基金会の調査認定をへて、本條例の補償対象者として符合する者は、発給認定日から二ケ月内に一時に発給する。受領通知日から五年を越えても受領しない者は、その補償金は基金会に帰属する。
第一五条  本條例で決定した補償金の権利は差押えたり、譲渡、または担保に供し得ず。
第一六条  本條例は公布日から六ケ月以内に施行する。