立命館法学 2000年5号(273号)


◇学位論文審査要旨◇

蛯原 典子

『労働法における平等取扱原則』

審査委員

主査 吉田 美喜夫

吉村 良一

佐藤 敬二


 

〔論文内容の要旨〕


一、論文の構成


  学位請求論文(以下本論文という)の構成は次の通りである。
    序  論
    主論文  「ドイツ労働法における平等取扱原則」
    副論文  「雇用差別禁止法理に関する一考察−労働法における平等取扱原則を中心に−」

二、論文の概要


1  序論の要旨
  序論では、わが国において一般的な雇用差別禁止法理を検討する意義、本論文の課題、分析対象を示している。すなわち、労働者と使用者の関係は、差別問題が頻繁に発生するという特徴を有している。そのため、使用者による差別的取扱を如何に規制するかという問題は、常に労働法上の重要課題として位置づけられてきた。そして、労働基準法三条、四条を議論の出発点として、男女差別禁止法理の形成・発展を通じて雇用差別禁止法理が形成されてきた。そこでは、労基法の差別禁止規定が禁止される差別的取扱を限定列挙していると解されることから、個々の差別問題ごとに救済法理を検討する傾向があった。しかし、雇用差別問題は、時代の流れや社会の変化とともに新しい形態で発生するものであって、それを事前に列挙するという規制方法は必ず限界を伴う。労働者と使用者の関係においては、客観的に根拠づけられ正当化される差別的取扱のみが許容されるべきであり、そのような意味で平等な取扱に対する労働者の権利を確立する必要がある。本論文は、この平等な取扱に対する労働者の権利の確立をめざし、あらゆる差別的取扱の正当性判断を可能とし、統一的かつ明確な私法的効果を導出しうる新たな法理の探求を行おうとするものである。

2  主論文の要旨
  主論文は、序論で述べた問題意識から、一般的な差別禁止法理の比較法的研究の対象として、ドイツ労働法における平等取扱原則(arbeitsrechtlicher Gleichbehandlungsgrundsatz)に注目し、その全体像を明らかにしたものである。
  ドイツ労働法における平等取扱原則は、同等の地位にある労働者の一部を客観的な理由なく不利に取り扱うことを使用者に対して禁止する、個別労働契約法上の一般原則である。平等取扱原則の最も重要な内容は、この原則が労働契約上の義務としての平等取扱義務を使用者に課し、労働者には平等取扱請求権を付与する点である。労働者は、この平等取扱請求権に基づき、有利な取扱を受ける労働者と同等のレベルでの救済を使用者に対して請求することができるのである。さらに、使用者は平等取扱原則に基づき、差別的取扱の理由を労働者に対して公表する義務も負う。
  以上のような内容を有する平等取扱原則につき、主論文では、以下の構成で、その歴史的展開、適用領域、法的根拠、適用のための前提条件、法的効果につき検討を行っている。

  (1)  平等取扱原則の歴史的展開
  平等取扱原則の歴史は古く、すでに二〇世紀初頭には下級審判決によって援用されていた。それらの判決において、平等取扱原則は、労働契約や労働協約上の義務がないにもかかわらず使用者が行う任意的社会給付について、労働者の法的請求権を根拠づけるものとして想定されていた。しかし、学説は、このような下級審の判断に批判的であった。
  この傾向は、「ドイツ第三帝国」の時代に入ると一変する。その背景には、事業所共同体思想と忠実思想に特徴づけられる、当時のドイツ労働法(ナチス労働法)思想があった。判例・学説上、平等取扱原則は、ナチス労働法思想を忠実に反映した国民労働秩序法によって根拠づけられ、使用者が依拠すべき行動・判断基準として発展した。
  戦後、国民労働秩序法は廃止され、平等取扱原則の法的根拠とされていた事業所共同体思想や忠実思想は、法律上の根拠規定を失った。それにもかかわらず、平等取扱原則は引き続き判例において援用され、学説もこれを支持した。今日、平等取扱原則を根拠として提起される訴訟は数多く、そのなかでもパートタイム労働者とフルタイム労働者の差別的取扱に関しては、それを平等取扱原則違反と解する連邦労働裁判所の判決が、立法上の禁止規定の創設に影響を与えるに至っている。
  約一世紀にわたり、平等取扱原則が判例・学説において支持されてきた理由として、平等取扱原則の有する、使用者の権力的地位を抑制する機能の存在があげられる。さらに今日では、労働が労働者の人格と密接不可分に結びついていることから、使用者の権力的地位を抑制する機能が、結果として労働者の人格の保護にも寄与すると考えられており、この労働者の人格保護の機能が、平等取扱原則の今日的意義として認識される状況にある。
  他方、「ドイツ第三帝国」の時代に平等取扱原則が支持された理由は、平等取扱原則が事業所の平和と職場の良好な雰囲気を維持する機能を有することにあった。この機能が、ナチス労働法思想において最重要視された共同体の維持にとって有益だったのである。
  しかし、ナチス労働法思想において求められたのは、労働者を均一に取り扱うこと、すなわち共同体内部における無差別主義の実現にとどまるものであった。これに対して今日、平等取扱原則は、許される差別的取扱と禁じられる差別的取扱を判別する努力を通じて達成される「平等」の実現を追求するものであり、ナチス労働法のもとで追求された原則とは、その本質を異にするものである。

  (2)  平等取扱原則の適用領域
  平等取扱原則は、あらゆる労働条件に関する差別に対して適用されうるが、他の法規や法原則との関係で、その適用が制限される場合や否定される場合が存在する。
  完全に適用される領域に該当するものとして、法律や協約等に根拠がないにもかかわらず使用者が任意に支払う任意的社会給付があげられる。たとえば、賞与や特別手当、企業年金に代表される経営における高齢者扶助、事業所変更にともない使用者が任意に行う補償などである。これらの支払において客観的な理由のない差別的取扱がなされる場合、労働者は平等取扱原則を根拠として、他の労働者と同様の給付に対する請求権を獲得する。
  他方、平等取扱原則が部分的あるいは制限的に適用される領域に該当するものとして、使用者の指揮命令、賃金支払、損害の賠償、解雇があげられる。この領域においては、労働協約による労働条件規制、従業員代表委員会による共同決定や解雇制限法の存在、そして契約自由の原則の平等取扱原則に対する優位が妥当するため、それらの他の法規や法原則との両立を図るために平等取扱原則の適用は制限されるのである。
  最後に、平等取扱原則の適用が否定される領域に該当するものとして、採用があげられる。ここでは、契約自由の原則が平等取扱原則に完全に優位し、使用者は差別禁止を規定する強行法規に違反しない限り、労働者を自由に選択できるとするのが連邦労働裁判所の判例である。学説においては、採用において恣意的な差別がなされた場合、使用者に労働契約の締結を強制することは適切でないが、非客観的な理由に基づく労働者の選考を禁止する限りで、平等取扱原則を適用すべきであるとの見解も主張される。しかし、この見解も一般的な支持を得るには至っていない。

  (3)  平等取扱原則の法的根拠
  平等取扱原則の法的根拠如何の問題は、戦後、学説において激しい議論が展開された。主論文によれば、平等取扱原則を法解釈上完全に根拠づけることのできる唯一の視点は見いだされておらず、現在ではこの原則を「複数の法思想の共同作用の結果」として理解し、柔軟な法的思考に基づき根拠を探求すべきものとされているという。平等取扱原則は、すでに判例法理として確立したものとして理解されているため、法的根拠の問題は、適用領域など他の論点との関係で直接的な意味をもつものではないのである。しかし、法的根拠に関する論争は、平等取扱原則の労働法における意義やその特徴を明らかにする点で検討に値する。この視点から、主論文では学説において展開された議論のなかで重要と思われる法的根拠を以下のように検討している。
  まず、差別的取扱禁止規定においては、法律の前の平等を定める基本法三条と、それを労働法で具体化する事業所組織法七五条一項が重要である。これらは、現行法、そして労働法における平等取扱原則の存在意義を根拠づける規定として注目できる。さらに、これらの条文に掲げられる差別的取扱は、平等取扱原則においても、その客観性が厳格に審査されるべき絶対的差別的取扱の禁止として位置づけられる。
  ドイツ民法典(BGB)二四二条の信義誠実の原則は、労働者に請求権を付与するという平等取扱原則の特徴を説明しうることから有力に主張される。
  平等取扱原則が適用される実態の構造の分析から、この原則の説明を試みる規範の実行理論(Normvollzugstheorie)がある。この理論は、平等取扱原則の適用には常に一定の一般化された基準が前提となっている点に着目し、使用者が労働者の取扱につき、そのような一定の規範(Norm)を定立する場合には、それに該当するすべての事態を平等に取り扱うことが規範の本質として要求されると説く理論である。したがって、規範を立てた使用者はみずからその規範の本質に拘束され、結果として平等取扱義務を負うとされる。この理論は、平等取扱原則が、自己制定規範の下での首尾一貫しない行動を使用者に対して禁止することを明らかにするものである。
  最後に、平等取扱原則が使用者の権力的地位を抑制することにより、公正な処遇の実現をめざすことを根拠づけるものとして、配分的正義があげられる。

  (4)  平等取扱原則を適用するうえで必要となる前提条件
  平等取扱原則を適用するうえで必要となる前提条件として、主論文では、(a)複数労働者間に比較可能な状況が存在すること、(b)問題となる取扱が個別的合意や、労働協約ないし事業所協定といった集団的合意によるものでないこと、(c)差別的取扱に客観的理由が存在しないこと、の三点を指摘している。このうち、(a)と(b)については原告の側に、(c)については使用者の側に立証責任が課される。(c)の客観的理由の有無については、法律によって禁止される差別理由に該当する絶対的差別的取扱の禁止と、法律によって禁止されないが、それが措置の目的との関係で客観性を認められない相対的差別的取扱の禁止とに区別されるとする。絶対的差別的取扱の禁止に該当するのは、基本法三条や事業所組織法七五条一項があげる差別理由に該当するものであり、それらについては厳密な客観性が要求される。それ以外の差別が該当する相対的差別的取扱の禁止においては、措置の目的につき使用者に一定の裁量が認められるが、当該措置の目的とそのために選択される差別的取扱の間に直接的な関連が存在しない場合には、その差別的取扱は客観的に正当化されず、したがって平等取扱原則違反であると判断されるとしている。

  (5)  平等取扱原則の法的効果
  使用者による差別的取扱を受けた労働者は、平等取扱原則に基づき、平等な取扱を要求する権利を獲得する。この平等取扱請求権の具体的内容については、労働者の権利侵害を排除するために最も有効な手段が選択されなければならないと解されることから、主論文では、個々の適用領域ごとに平等取扱請求権の具体的内容を明らかにしている。
  たとえば、使用者の指揮命令において差別的取扱がなされる場合には、その差別的取扱の停止を請求する権利や労務給付拒否権が労働者に認められるべきという。しかし、平等取扱原則の法的効果として最も実務上の意義を有するとされる点は、与えられなかった手当や賃金等の給付を使用者に対して請求する権利を労働者に付与することである。さらに、この給付請求権の性質は、損害賠償請求権ではなく履行請求権と捉えられるとしている。というのは、損害賠償請求権と捉えることによって、使用者の故意・過失の有無を問題とせざるを得ないが、それは、平等取扱原則が非客観的な差別的取扱の事実を是正するものであることと矛盾するからであるとする。
  不利な取扱を受けた労働者が、差別を受けなかった労働者と同等の給付に対する請求権を有することにつき、判例・通説上異論はないとする。もっとも、その法解釈上の根拠につき活発な議論がなされているとはいえないが、平等取扱原則に違反する行為はBGB一三四条に基づき無効であり、それによって生じた規定の欠缺は、契約の解釈を通じて埋め合わされ、結果として給付請求権が発生すると説く見解もあることを紹介している。これに対して、BGB一三四条のいう無効が法律行為の全部無効を意味する点を指摘する見解は、平等取扱原則はBGB一三四条のいう法律上の禁止ではなく、労働関係に内在する原則として「直接的に履行に向けられた請求権(ein unmittelbar auf Erfuellung gerichteter Anspruch)」を構成すると解すべきであると主張するという。この二つの見解には、平等取扱原則違反をBGB一三四条の法律上の禁止と捉えるかにつき相違はあるものの、前者の見解は信義則に従った契約解釈に依拠して給付請求権を根拠づけるものであり、後者の見解も使用者の信義則上の付随義務によって給付義務を根拠づけるものであって、法解釈上大きな差異は存在しないと考えられていることを明らかにしている。

3  副論文の要旨
  副論文は、主論文でのドイツ法の研究から示唆を得て、わが国における雇用差別禁止法理の問題点につき、賃金差別事件を検討の素材としつつ、わが国の雇用差別禁止法理に新たな視点を提示しようとするものである。
  まず、わが国の雇用差別法理につき、学説上の議論もふまえて三つの論点(賃金格差相当分を請求する法的根拠、立証責任の配分と証明されるべき事実、違法な差別的取扱における救済の内容)を設定し、その論点ごとの検討により、以下の五つの問題点を抽出している。すなわち、(a)労基法違反の差別的取扱について、その私法上の効果が事案によって異なる点、また、それにより、不利益を受けた労働者に対する救済の内容に大きな格差が生じている点、(b)労基法違反に該当しない差別的取扱については、公序違反の成否が問題となるが、いかなる差別が公序違反となるかが明確でない点、また労働者にとって立証の点で困難をともなう点、(c)使用者の差別意思の立証が原告にとって非常に困難である点、(d)違法な差別から労働者を救済する際の是正の基準につき、判決に統一性がみられない点、燒@的効果につき、差別による過去の差額賃金相当額の救済にとどまり、口頭弁論終結後の将来的な平等の実現が困難とされる点、である。以上の点につき、副論文はドイツ法から示唆を得て日本法に以下のような検討を加えている。
  ドイツでは、前述のように、あらゆる差別につき、それが客観的に正当化されないものである場合には、労働者は平等取扱請求権を有する。そして、あらゆる差別につき統一的な法理に基づき、その正当性を審査しうるという点は、労働者が訴訟によって平等な取扱を請求することを容易にしてきた。またドイツでは、使用者が一定の労働者に給付を行い、他の労働者にその給付を行わなかった場合、差別された労働者は差別を受けなかった労働者と同等の給付を請求する権利を有する。この場合、不法行為構成は不十分であって、直接的な履行請求権が認められるべきと解されており、これによって使用者の行為義務内容の履行を事前に確保することができ、平等な結果の積極的実現が可能になるとしている。また、ドイツでは、履行請求権と捉えることにより、使用者の差別意思の立証も不要であるが、それは平等取扱原則の目的が、使用者の差別意思の追求にあるのではなく、恣意的な差別的取扱の除去にあるという点からも適切とされていること、是正の基準については、複数の労働者が等しい状況にあることが認容される限り、同一の取扱に対する請求権を与えることは、平等取扱原則の本質から導かれる法的効果であるとされることを参照している。そして、比較可能な状況にあって、使用者が差別を客観的に正当化できる理由を立証できない限り、比較対象労働者の賃金の全額が是正の基準とされるべきとされていることを参照している。
  以上を踏まえ、わが国においても、雇用上の差別は労基法が掲げるものに限定されないのであり、一般的な平等取扱原則が必要であるとする。その場合、労基法の差別禁止規定については、刑罰規定としては限定解釈を維持するとしても、私法的側面においては、より現実的妥当性を有した弾力的な解釈が求められるべきだとする。そして、労働法においては、客観的に正当化されない差別はすべて禁止されるべきであると主張する。その理由は、使用者の処遇が労働者の人格の形成・発展に直接的な影響を及ぼすものだからだとする。
  以上のように、副論文では、わが国においても、使用者は労働者に対して客観的で正当な処遇を行う義務を負うのであり、これを契約上の義務として構成すべきであると主張する。それは、わが国の裁判例においては、使用者による恣意的な差別を不法行為として処理する傾向があったが、雇用差別は労働契約によって成立する契約関係が存在するからこそ発生するのであり、それを不法行為という、社会生活上の一般的な注意義務違反に還元して把握する必要はないと考えるからである。また、契約上の義務とすることにより、不法行為のように事後的な効果にとどまらず、平等の積極的実現をもたらすことが可能となるからであるとする。この点は、昇格請求権など不利な取扱を受けた労働者の将来的な平等の確保にとって、貴重な示唆であると指摘している。

〔論文審査の結果の要旨〕


  本研究は、ドイツ法および日本法を対象として雇用上の平等取扱の法理の解明を試みたものである。本研究には、わが国の理論状況に照らした場合、以下のような意義ないし位置づけを与えることができる。
  雇用平等に関しては、わが国において多くの研究が存在するが、個々の差別問題ごとの研究が主流であった。わが国においては、憲法一四条とその労働法上の具体化としての労基法三条、四条が存在するため、性差別や思想・信条差別に関して、これらの条文の解釈問題を中心に議論が行われてきた。とくに性差別は、その排除が国際的な課題となっていることもあり、アメリカ法やEU法、イギリス法を中心として、間接差別法理に代表される、立証責任に関する比較法研究などが展開されている。
  他方、一般的な雇用差別禁止法理の研究に関する研究業績は多くは存在しない。たとえば、同一価値労働同一賃金原則について見た場合、性差別や雇用形態による差別に関し、この原則を根拠にわが国において平等取扱原則あるいは均等待遇原則を導き出そうとする議論がないわけではない。しかし、その場合、平等取扱原則あるいは均等待遇原則の内容は多義的に捉えられており、労基法の差別禁止規定だけを指す場合もあるし、一般的な差別禁止法理を意味する場合も見られる。このように、雇用平等の問題において重要な同一価値労働同一賃金原則についてすら、性差別や雇用形態上の差別などの個別事由を超えた雇用平等に対する一般的意義について議論が深められているとはいえない状況にある。
  他方、本研究と同様に、労基法に列挙されていない事由の差別に関して、一般的な差別禁止法理を想定する議論が全くないわけではない。それは、後述するように、ドイツの平等取扱原則の先行研究に見られるものであるが、その場合も、平等取扱原則には、実定法によって根拠づけられたものと、実定法の規定を超えた労働契約における一般的なものの二つがあるといった指摘でとどまり、両者の関係や法的効果の問題などに関する具体的な検討までには及んでいないのが現状である。
  上述のような状況において、本研究のうちドイツ労働法における平等取扱原則に関する研究は、従来、その存在は認識されつつも、概括的な紹介に止まっていたこの原則の解明に正面から取り組んだものである。すなわち、この原則は、使用者が労働契約上の主たる義務である賃金支払い義務以外の義務として負うものであって、法律上の定めのあるものと一般的な配慮思想から導かれるものとに区分される配慮義務のうち、後者に含まれるものとして、その存在がわが国でも認識され、その概要が知られていた。このような中で、主論文は、この原則を、その成立の歴史を探求した上で、@適用領域とA本原則に関する基本的論点について論じている。その際、@については、本原則が完全に適用される領域、部分的に適用される領域、全く適用されない領域に区分して分析している。このような分析手法は独創的であり、本原則がどのような差別事例について問題となるかを解明することに貢献している。また、Aについては、本原則の法的根拠、本原則の適用の前提条件、法的効果について論ずるという方法を採用している。これによって、本原則に関する重要な論点はほぼ論じ尽くされたといえる。このような分析に当たり、主論文では、多数の判例・学説を渉猟し、総合的かつ的確な分析を加え、その成果を明晰な文章で表現している。このようなことから、本研究は、ドイツ労働法における平等取扱原則を網羅的に研究した最初の業績と評価できる。
  なお、わが国においてこれまで、上記のように、この原則の存在は認識されつつも、十分な検討の対象にされなかった一つの理由は、ドイツの判例・通説が平等取扱原則に対する契約自由の原則の優位を認めている点にあったと考えられる。しかし、ドイツの学説において、この点に強い疑問を提示する見解も有力に主張されており、これらの見解によれば、平等取扱原則が労働者による合意によって簡単に排除されるものではないことが明らかになるといえよう。主論文は、平等取扱原則と契約自由の原則の関係についての学説の議論状況を分析した点でも、その意義を認めることができる。
  つぎに、副論文では、ドイツ労働法において形成され発展してきた一般的な平等取扱原則の研究から示唆を得て、わが国の雇用差別禁止法理に新たな視点を導入し、労働者の平等の権利の確立をめざそうとするものである。すなわち、副論文では、差別理由を限定することなく賃金差別事件を一般的に分析することを通じて問題点を抽出するという方法をとり、そのうえで、一般的な平等取扱原則の必要性を説くとともに、平等な取扱を使用者の契約上の義務として位置づけることの重要性を明らかにしている。具体的には、賃金格差相当分を請求する法的根拠、差別禁止規定に含まれない差別取扱に対する救済、使用者の差別意思の立証の必要性、是正されるべき賃金の基準、違法な差別的取扱があった場合の法的効果などの論点について、豊富な学説・判例の分析とともに、ドイツ法から得られる示唆に基づいて議論を展開し、最後に、わが国にも平等取扱原則を導入すべきこと、またその法的根拠は存在すること、その義務を信義則上の義務として使用者は負うとの法解釈を展開している。このような研究によって、労基法に明記される差別的取扱も含めて、統一的な差別禁止法理を主張した点に副論文の意義がある。
  本研究には以上のような意義があるが、ドイツ法研究とその成果を日本に適用する議論について以下のような課題が残されているといえる。
  まず、本論文では、ドイツ労働法における平等取扱原則が如何なる原則であるか、それがどのように確立し、またその根拠は何かなどについて全般的に提示することに主眼を置いている。いわば本原則を横断的に把握しているといえる。しかし、日本への適用を行う場合には、個別の差別事由ごとに、どのような場合には平等取扱原則に違反し、どのような場合に違反しないのかという具体的な適用基準についての検討が必要である。とくに、日本での議論とドイツでの議論では、問題が発生する事案の類型ないし現れ方が異なっている可能性がある。そうだとすると、ドイツで形成された原則を日本へ導入する場合、その可能性と限界についての厳密な検討を経る必要がある。本論文は、ドイツ労働法の平等取扱原則の日本への導入を性急に試みた感がある。したがって、このような作業を、すでに検討を加えているドイツの判例を素材としながら、具体的な差別事由ごとに類型化する作業をすることを要望したい。
  本論文は、ドイツ労働法の平等取扱原則に関し、主として学説・判例の分析を通して、平等取扱原則そのものの法的意義・内容の体系的解明を行ったものである。しかし、本原則が現実に如何なる役割を果たしているのか、また如何なる限界を有しているのか、という問題の検討は行われていない。この問題の検討にとって必要なことは、ドイツの労働関係、労使関係の特質の解明である。ある労働法上の原則は、労働関係の現実と無関係ではありえない。そのような現実との論理構造が解明されて初めて、日本への導入・適用の可能性と限界も明らかになるといえよう。
  また、日本に適用する場合、平等取扱義務を労働契約上の義務として構成するが、ドイツでは、平等取扱原則が労働契約を規律する法理としつつも、それを契約上の義務として構成することなく直截に平等取扱義務を導き出している理由の分析を深める必要がある。すなわち、平等取扱原則と契約自由の原則との関係の解明という問題である。本研究では、この点に関する学説における有力反対説を紹介するにとどまっている。しかし、この説が個々の判決において影響を与えている可能性があり、検討を深める必要がある。この場合、民法上の契約と労働契約の共通性と差異を踏まえた議論の組み立てが必要である。たとえば、労働者がある取扱に同意を与えた場合、つまり自己決定をした場合、その効力を信義則で判断するとすれば、結局、裁判官による恣意的な介入を許すことになる可能性があるから、自己決定と調和させる媒介論理が必要のように思われる。
  さらに、平等取扱原則が適用されるのは、事業所ごとなのか、企業レベルではどうか、といった問題がドイツでは議論されているが、最近、連邦労働裁判所が企業レベルでの適用を認めるという画期的な判決を出し注目されている。したがって、このような最新の動向も取り入れる必要がある。
  このほか、採用における差別の是正という問題については、それが難しい課題であることはドイツ法の議論からもうかがい知ることができる。しかし、採用における差別を規制する必要性は大きい。この点について、自説における可能性を検討するとともに、立法上の禁止規定の創設も視野に入れて検討を行う必要がある。採用の領域における立法上の規制の在り方を検討する場合、非常に詳細な差別禁止規定を設けているフランス法なども視野に入れて、その制定の経緯、訴訟の状況、判例・学説について比較検討の対象を広げることでテーマへの接近がより確かなものになるであろう。
  最後に、平等論から雇用上の差別問題を解決できるか、できるとしてどこまでできるか、という基本的な問題を検討する必要がある。この問題については、たとえば労働権保障の観点なども加えて豊富化することで、雇用上の差別問題の総合的な解明が可能となるであろう。
  なお、以上の課題の指摘は、本研究の意義をいささかも低めるものではなく、その成果の上に立って引き続き研究を期待するからであることは言うまでもない。

〔試験結果の要旨〕


  申請者は、すでに博士課程の必要単位を修得している。また、博士課程後期課程在学中の三年間で雇用上の平等取扱に関する独創的なドイツ労働法ならびに日本労働法の研究を行った。このことから、高度な学力を確認することができる。また、二〇〇〇年七月七日に開催された公開研究会では、@履行義務と給付義務の関係、A平等取扱義務を信義則から導き出すことの是非、Bドイツにおける平等取扱義務と労働契約との関係、C労基法三条、四条に関する二元的解釈の意味、D旧東西ドイツでの賃金格差と平等取扱原則との関係、E合意による平等取扱原則の排除の可能性、F採用差別と平等取扱原則の関係、Gドイツおよび日本における憲法の平等原則と労働協約、就業規則、労働契約との関係、H平等取扱原則が機能するドイツ労使関係の特徴、などの論点について活発な議論が行われた。そこでは、なお今後解明すべき課題の指摘を受けつつも、研究成果に基づき基本的に適切な応答が行われた。
  以上のことから、本学位請求者は課程博士の学位を授与するにふさわしいものであると判断する。

(以上)