立命館法学 2000年5号(273号) 207頁




「義務犯」について(二・完)

- 不作為と共犯に関する前提的考察 -


平山 幹子


 

目    次

は じ め に

第一章  作為犯・不作為犯の区別と支配犯・「義務犯」の区別
  第一節  ロクシンによる「義務犯」論の展開
  第二節  ヤコブスによる「義務犯」論の展開
  第三節  小      括 (以上二七〇号)

第二章  「義務犯」をめぐる論争
  第一節  「義務犯」論に対する批判
  第二節  「義務犯」論からの反批判
  第三節  小      括

第三章  不作為と共犯
  第一節  不作為による共犯−不作為犯における正犯と共犯の区別
  第二節  不作為に対する共犯

むすびにかえて (以上本号)


 

第二章  「義務犯」をめぐる論争

  第一章では、作為犯・不作為犯の区別ではなく支配犯・「義務犯」という正犯原理にもとづく区別を構想する、ロクシン、ヤコブスらの「義務犯」論の展開を概観した。
  本章は、そのような「義務犯」論に対していかなる批判がなされているか、また、それに対して、「義務犯」論を支持する立場からはどのような反論がなされているかを明らかにするものである。その目的は、すべての犯罪を「行為支配」原理によって把握しようとする試みの限界を浮き彫りにすること、さらに、不作為と共犯をめぐる諸問題、とりわけ、不作為犯における正犯と共犯の区別を論ずる上での視座を得ることである。


第一節  「義務犯」論に対する批判


  「義務犯」論に対しては、とりわけ、それが義務侵害を中核とする犯罪を認めるものであり、しかもそこでいう「義務」が刑法外の特別義務であるという点で、批判がなされてる(1)。具体的には、「義務犯」は刑法をモラル化するものであって許されるべきではない、という批判がなされているのである(2)。また、そうした批判を前提に、不作為犯を含め、あらゆる犯罪は、「行為支配」によってのみ基礎づけられねばならない、あるいは、少なくとも「行為支配」を前提とするものでなければならない、という考えも主張されている(3)
  本節では、「義務犯」論に対するこのような批判およびそれを前提に展開されている正犯原理ないし不作為犯における保障人的義務の説明に、目を向けることにしたい。

  一  刑法の許されざるモラル化としての「義務犯」    「義務犯」論は、刑法外の特別義務(ポジティヴな義務)の侵害を中核とする犯罪を認めるものである点で、道徳的義務の違反にまで処罰範囲を広げるものである、という批判である(4)。この批判は、とりわけ、つぎの三つの考えを基礎におく。すなわち、(1)一定の作為の命令は、市民の自由な行動範囲を(一定の作為の禁止による)最小限度の制約を越えて制限するので、処罰の対象となるのは、原則作為でなければならないという考え、(2)ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別は、禁止と命令、つまり、作為と不作為の区別に対応し、それは法と道徳の区別に一致するという考え、(3)ポジティヴな義務を内容とする命令は、その範囲や主体が不明確であるという考えである(5)

  (1)  命令による自由の制限    一定の作為の命令は、市民の自由な行動範囲を、かなりの程度、あるいは、少なくとも禁止による最小限度のものを越えて制限するという考えは、古くから有力に主張されてきたものである。たとえば、エンギッシュは、命令はそれを遵守するための努力を強いるものであり、必然的に自由の制限を含む、と考えていた(6)。また、ガラスは、命令は名宛人に特定の態度にでることを要求するが、禁止は一定の態度を遮断するだけであって、それ以外のどのような態度にでるかは自由である、と述べている。こうした考えは、最近でも維持されているものである。たとえば、プッペは、刑法における結果およびその因果的説明について論ずる中で、「侵害してはならない」という禁止を充足する場合に、規範の名宛人は無限に多くの他の態度可能性を持ち続けるのに対して、「他人を助けよ」という命令の充足に際しては、無限に多くの他の態度可能性が排斥されるため、あらゆる地位は無限の他の地位を排除する、と説明している(7)
  このように、伝統的に主張されてきた考えでは、禁止か命令かによって市民の自由な行動領域は制限される度合いが異なる。ここで注意しなければならないのは、禁止はネガティヴな義務を内容とするものであり、命令はポジティヴな義務を内容とするものであると理解されている点である。つまり、ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別は作為と不作為の区別に一致し、それ故に、ポジティヴな義務はネガティヴな義務よりも自由を制限する度合いが強いと考えられているのである。
  (2)  道徳的義務としてのポジティヴな義務    このような考えにもとづいて、たとえばガラスは、つぎのように結論づけている。すなわち、ネガティヴな義務(不作為義務)は自由主義社会においても法的義務に属しうるが、ポジティヴな義務(作為行為)はそうではないとする(8)。このように、ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別が作為(不作為義務)と不作為(作為義務)の区別を意味するという前提のもと、不法は結局のところ、ネガティヴな義務の侵害によって構成されるという考えも、伝統的に主張されてきたものである。たとえば、カントは、法とは、「ある者の自由意思と一般原則にしたがって統一されるようなものの総体」であり、自己の自由意思を行使する場合に他人を侵害してはならないというネガティヴな内容を有するとした。そして、「他人の自由を侵害してはならない」ということに本質をおくネガティヴな義務と、「他人を扶助しなければならない」というような他人の幸福のためのポジティヴな義務とを区別し、本来的な義務だけが法的効果を有すると説明した。また、フォイエルバッハは、右のようなカントの見解を前提に、法律、契約といった「特別な法的根拠」が存在する場合のみ、不作為も作為と同様に可罰的になり得るとした。フォイエルバッハによれば、国家および臣民の権利を維持することが刑法の目的であり、犯罪行為とは権利侵害である。そして、本来的義務は、作為による権利侵害を行わないことのみを目指さねばならない。こうして、フォイエルバッハは、本来的義務は「侵害するな」というネガティヴな内容を有する、つまり、不作為義務のことであると説明し、損害を防止する義務すなわち権利維持の企て(作為義務)は、特別な法的根拠を必要とするのであって、道徳上の義務では不十分であると主張した(9)
  要するに、「他人を助けよ」というポジティヴな義務は道徳的義務に属し、特別な根拠がある場合にのみ法的義務となり得るという説明は、自由主義的に理解された法領域の道徳領域からの区別という、伝統的な議論の図式に裏付けられたものなのである。
  (3)  ポジティヴな義務の不明確性    ポジティヴな義務の不明確性を問題とする考えも同様である。つまり、伝統的な議論の図式では、何をいかなる理由で命令の、すなわち、ポジティヴな義務の特別な根拠とするのかが問題となるところ、(不作為犯の作為義務として理解される)ポジティヴな義務の基礎づけは、(作為犯の不作為義務として理解される)ネガティヴな義務の基礎づけほど明らかではないというのである(10)
  もっとも、ポジティヴな義務の不明確性は、真正不作為犯規定であるドイツ刑法三二三条cの一般救助義務と関連づけて主張される場合が少なくない。たとえば、ガラスは、ポジティヴな義務の侵害による処罰が行われるとすれば、それは刑法三二三条cの処罰範囲を越えるものであってはならないとして、ドイツ刑法三二三条cの処罰範囲の不明確性をポジティヴな義務の問題としている(11)。また、つぎのようなゼールマンの主張も、ドイツ刑法三二三条cの一般救助義務とポジティヴな義務を同一視するものである。すなわち、「連帯性の保障」つまりポジティヴな制度の保障は、ドイツ刑法三二三条cの場合と同じように、「義務犯」の場合も見いだしうるという主張である(12)。これらの見解によれば、ポジティヴな義務の典型は、不救助罪を定めたドイツ刑法三二三条cの救助義務であるところ、その義務は絶対的(unbedingter)・普遍的(universeller)なものである。三二三条cの救助義務は、「だれでもその隣人を愛せよ」という内容を持つものであり、そこでの義務者はどこでも義務にしたがって行動せねばならないし、その義務は個別化されておらず、だれに対しても向けられているからである。それ故、ポジティヴな義務に関しては、その主体や根拠の不明確性が問題となり、法的義務としては不適切だとされるのである(13)
  (4)  小  括    以上が、「義務犯」は法的義務のモラル化を意味するという批判の基礎にある主要な考えである。そこでは、伝統的な不真正不作為犯論や法と道徳の区別に関する議論を背景に、ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別が作為犯の不作為義務と不作為犯の作為義務の区別に一致するという理解のもとで、ポジティヴな義務による行動の自由の制約や、法と道徳の区別が論じられている点、また、ポジティヴな義務の典型は、不救助罪を定めた真正不作為犯規定であるドイツ刑法三二三条cの一般救助義務であるとして、その義務の不明確性が問題にされている点が特徴的である。

  二  「行為支配」による説明の試み    右のようにスケッチされた批判からは、ポジティヴな義務をネガティヴな義務に還元しようとする試みが導かれている。つまり、ネガティヴな義務の侵害である犯罪において一般に妥当するとされる「行為支配」という基準によってあらゆる犯罪の正犯性を把握しようとする試みである。以下では、「結果の原因に対する支配」を作為および不作為の一元的な負責原理とするシューネマンの見解、態度自由と結果責任の引き換えに基礎を置くネガティヴな義務(組織化にもとづく義務)によってやはり一元的な負責の説明を展開するフロイントの見解、さらに、ポジティヴな義務は道徳的義務に属するとの前提から、不作為犯の保障人的義務(正犯性)も「行為支配」によって裏づけられる作為同価値性にもとづいて判断されるべきであるとするガラスの見解に目を向けることにしたい。

  (1)  シューネマンの見解    シューネマンによれば、犯罪的な出来事は、行為者によって下された決意、すなわち、彼がその支配領域において何を行い何を行わないかということの表明であり、しかもそれは、「結果の原因(Grund)に対する支配」として把握される。この「支配」は、つねに、「自身の身体の挙動あるいはすでに存在している社会領域の事実的支配」として特徴づけられる。こうした理解にもとづき、シューネマンは、「義務犯」を立法者に確立させることの刑事政策的意義を問題とし、結論としてそれを否定する(14)
  そこでは、「義務犯」論によれば両親の子供に対するポジティヴな義務の違反が負責を根拠づける事例として、たとえばつぎのような場合が問題とされる。すなわち、両親が、病気の子供をそのまま放置すれば死に至ると知りながら家に残し、映画館へ出かけたという場合である。シューネマンによれば、このような事例に関しても、「(ポジティヴな)義務」を問題としなくとも、「結果の原因に対する事実的支配」という基準によって、両親への負責は基礎づけられる。なぜなら、映画館へ行った両親については、彼らが「住居の鍵、子供の居所を意のままにし、住居の危険源およその他の事情を熟知している」ことによって、自宅で眠っている子供に対する(低下してではあっても)事実的な監視支配を基礎づけることができるからである(15)。両親は、法益、すなわち、子供の「体質的なあるいは局部的な無救助状態」を支配していることによって負責されるのであり、けして親子関係にもとづく(ポジティヴな)義務そのものが負責を根拠づけているわけではない、というのである。
  しかし、その一方で、シューネマンによれば、つぎの場合の「結果の原因に対する支配」は否定される。すなわち、いわゆる刑事製造物責任における欠陥製品を回収すべき製造・販売者の義務に関しては、危険な製品に対する販売者の「支配」は否定される。シューネマンによれば、安全性が不十分なまま医薬品等の危険な製品が販売されてはならない。このことが販売の統率者にも認識しえたのであれば、購買者が後に負傷あるいは死亡した場合、個々の製品の販売に至るまでに見られる作為あるいは不作為について、販売者は責任を負う。しかし、製品が市場に出回った後に販売された製品の有害性が認識できるようになった場合には、製品を回収すべき刑法上の保障人的義務は生じない。なぜなら、市場に出された後の製品には、製造・販売者の物理的支配は及んでいないからである(16)
  要するに、シューネマンのいう「結果の原因に対する支配」とは、存在としてすでに与えられ、あるいは、その意思行為により根拠づけられる、現実の支配なのである。
  (2)  フロイントの見解    フロイントは、「義務犯」において基準とされる「刑法外の特別義務」を刑法上の構成要件に統合することは、支配概念を統合することと同じように、ほとんど成功していないと主張する。そして、「行為支配」という空虚な公式(Leerformel)が必要に応じて刑法外の特別義務の侵害という「魔法の公式(Zauberformel)」によって「義務犯」に代替されるだけであるという批判を免れないとして、正犯原理としての「行為支配」および「特別義務の侵害」の双方を批判する(17)
  まず、フロイントによれば、「義務犯」を含むすべての犯罪の負拠は、「差し迫った侵害的な出来事についての特別な答責性」に還元される。そして、「特別な答責性」は、「組織化管轄」によってのみ基礎づけられる。つまり、すべての義務は行動の自由と結果責任の引き換えによって基礎づけられる。したがって、フロイントによれば、「義務犯」は、ポジティヴな義務に関わるものではないし、「連帯の保障」に関わるものでもない。「義務犯」の「義務」も、行為者の「権利」、すなわち、組織化自由の「裏面」として基礎づけられる。たとえば、親子関係にもとづく義務は、両親が子供を「出生させた」こと、すなわち、いわばその存在を組織化したことによって生じた親権の対価として基礎づけられるのであり、けしてポジティヴな制度から導かれるものではない(18)。もっとも、子供に対する養父の義務については、「出生させた」というような論拠は使えない。しかし、フロイントは、そのような場合については、他の法的根拠から−とりわけ、具体的な扶養関係などを考慮して−「特別な答責性」を引き出すことが排除されるわけではないと説明する(19)
  (3)  ガラスの見解    すでに述べたように、ガラスは、ポジティヴな義務、つまり不作為犯の作為義務を、本来的に道徳的義務として評価する(20)。ガラスによれば、不作為犯の保障人概念は、実質的(sachlich)に作為構成要件の保護目的に対応した意味を有するものでなければならず、少なくとも、以下のことを前提にする。すなわち、不作為者の先行行為にもとづいて、あるいは、その保護が不作為者に依存しているというような不作為者との関係にもとづいて、危険にさらされた法益が保障人の「被保護者」になることである。このように考えた場合、ガラスによれば、子供に対する両親の保障人的義務を認める余地はほとんどない(21)。しかし、両親の保障人的義務に関しては、先行行為や引受という基準も、ある程度譲歩することが許容されている(22)。それ故、ガラスは、不作為による作為の可罰性は、親子関係における義務を別にすれば、保障人的地位の引受けにもとづく義務の侵害および先行する危険な作為によってのみ基礎づけられるという(23)
  もっとも、ガラスによれば、右のようにして判断された保障人(不作為者)の「行為支配」は、事象経過に対する作為者の現実的影響とは異なり、事象経過を防止するような介入の可能性を内容とする「潜在的な行為支配」である。この「潜在的行為支配」は、不作為者をただちに正犯とすることはできない。つまり、「潜在的行為支配」が作為者の現実的な行為支配と併存する場合は、「潜在的行為支配」は不作為者を正犯者とすることはできない。作為の正犯者と並んだ場合、不作為者(保障人)は、価値的に幇助の役割を演じているだけだからである。こうしてガラスは、不作為者の正犯性が認められるのは、被害結果についての責任が不作為者の手中にのみ置かれている場合であるとする(24)

  三  「義務侵害」と「行為支配」の併存    以上に加えて、「義務侵害」を否定するわけではないが、正犯性の判断には「義務侵害」に加えてつねに「行為支配」が必要であるとする見解がある。これは、身分犯の正犯性を問題とする中で、身分犯とは別に「義務犯」というカテゴリーを認めることの意義を否定したり、その必要性を疑問視するものである。

  (1)  身分犯と「行為支配」    「行為支配」のみを基準とするわけではないが、義務侵害と並んでつねに「行為支配」が必要であるとする考えのルーツは、ヴェルツェルの見解に見いだしうる。すなわち、ヴェルツェルは、身分犯に関して、「行為支配」と並んで存在する特性(身分)の意義を問題とする。そして、客観的な不法構成要件の内側に、客観的行為要素、つまり、「行為支配」によって規定された実行行為と並んで、客観的な正犯要素、たとえば、公務員や兵士という身分が正犯性の前提条件として存在することに注目する。その上で、「正犯の特別な義務者としての地位」を目的的な「行為支配」とは別の正犯独自の要件とすることを、否定するのである(25)
  (2)  必要条件としての「行為支配」    右のような考えを受けて、ハルトヴィヒやゲッセル、ヴァイゲントらは、支配犯と「義務犯」の区別は相対的なものであり、特別義務の侵害は、正犯の必要条件であるが、十分条件ではない、と主張する。
  彼らによれば、たしかに、身分犯の場合は、法律に規定された犯行主体が行為することが必要である。それ故、身分犯に関しては、「行為支配」のみで正犯とすることはできない。しかし、その場合も、「行為支配」はやはり犯行主体に要請される要素であって、正犯メルクマールであり、ただ必要条件にすぎないというだけである。したがって、身分犯の場合に特別な義務を担う者のみが正犯たり得るという原則は、義務者が原則正犯であるということを意味しない(26)。それ故、「義務犯」という硬直的なカテゴリーが支配犯や自手犯と並んで構築される必要はない。つまり、「義務犯」の場合にも、「行為支配」は放棄されるべきでない正犯基準であるが、それによってだれにでも正犯性が基礎づけられるというわけではない。正犯性は、当該規定によって詳細に特徴づけられた行為主体にのみ基礎づけられるのである(27)
  (3)  「特別な行為態様」と「行為支配」    さらに、義務と支配の混合した犯罪の存在を証明しようとした試みとして、ブロイの見解を挙げることができる。ブロイは、特別な義務者としての地位と並んで「特別な行為態様(Begehungsweise)」が予定されているような構成要件に言及し、「支配」の存在を明らかにしようと試みている。ブロイによれば、たとえばドイツ刑法三四三条一項の供述強要罪(Aussageerpressung)では、「身体的に虐待し、…その他暴力を用い、…暴力をもって脅し、又は…精神的に責苦を与えた」ことだけが予定されており、それ以外の権力の使用は、同じように「義務違反的」であっても排斥される。つまり、正犯行為は、義務侵害ではくみ尽くされないような、構成要件に公式化された「特別や行為態様」によってのみ実現されうる。そのため、ドイツ刑法三四三条一項においては、ドイツ刑法三四〇条一項(公務犯罪)が「傷害を犯し」たことと他人に「傷害を犯させた」ことを同置するように、身体的な虐待を行うことと(身体的な虐待を)行わせることを同置できない。また、たとえばドイツ刑法三四八条一項(虚偽公文書作成罪)の構成要件は、法律的に重要な事実について虚偽の記載をし、または公の登録簿もしくは帳簿に虚偽の記入をした身分者(公務員)のみを正犯としている。したがって、同僚の公務員に自由な記載をさせたり、最後の一文を記入をしなかっただけである場合、彼は共犯である(28)。要するに、ブロイの見解の重点は、いくつかの構成要件では、身分を有する正犯者(行為者)が特定の行為を行うこと、すなわち特定の作為が前提とされているのであって、彼がそのような作為を行なったかどうかかという問題については、「行為支配」という基準以外のいかなる基準も妥当しない、というところにある。

(1)  Javier Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung −Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999, S. 102.
(2)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 103ff.
(3)  Vgl. Wilhelm Gallas, Studien zum Unterlassungsdelikt, 1989, S. 90ff.;ders., Strafbares Unterlassen im Fall einer Selbstto¨tung, JZ 1960, S. 687f.;Bernd Schu¨nemann, Zum gegenwa¨rtigen Stand der Dogmatik der Unterlassungsdelikte in Deutschland, in:Internationale Dogmatik der objektiven Zurechnung der Unterlassungsdelikte, 1995, S. 72ff., 82;Georg Freund, Erfolgsdelikt und Unterlassen, 1992, S. 177, 284ff.;G. Kielwein, Unterlassen und Teilnahme, GA 1955, S. 227.
(4)  「義務犯」論に対するこのような批判を整理・検討したものとして、Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 102ff.
(5)  もっとも、本文で示すように、(1)と(2)の考えが結び付いて、ポジティヴな義務はネガティヴな義務よりも個人の自由な行動範囲をはるかに強く制限するので、自由主義社会において、法的義務には属しえないと主張される場合もある。この点に関して、Kurt Seelmann, Solidarita¨tspflichten im Strafrecht?, in:Recht und Moral−Beitrage zu einer Standortbestimmung, 1991, S. 295ff.
(6)  Vgl. Karl Engisch, Der Arzt im Strafrecht, MSchrfKrim 1939, S. 422f., Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S. 86.
(7)  Gallas, Studien, S. 67ff., 91f.
(8)  Ingeborg Puppe, Der Erfolg und seine kausale Erkla¨rung im Strafrecht, ZStW 92, 1980, S. 898.
(9)  Kant, Die Metaphysik der Sitten, in:Kant's gesammelte Schriften, 1914, S. 230, Vgl. Gu¨nther Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996, S. 11ff.;Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 51ff., 67ff.
(10)  Vgl. Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 108.
(11)  Gallas, Studien, S. 70ff.
(12)  Seelmann, Solidarita¨tspflichten, S. 296.
(13)  Vgl. Lothar Philipps, Der Handlungsspielraum, −Untersuchungen u¨ber das Verha¨ltnis von Norm und Handlung im Strafrecht, 1974, S. 21ff.
(14)  Schu¨nemann, Zum gegenwa¨rtigen Stand, S. 77.
(15)  Schu¨nemann, Grund und Grenzen der unechten Unterlassungsdelikte, −Zugleich ein Beitrag zur strafrechtlichen Methodenlehre, 1971, S. 341ff.
(16)  Schu¨nemann, Zur Kritik der Ingerenz−Garantenstellung, GA 1974, S. 231. 233ff. なお、いわゆる刑事製造物責任に関する欠陥製品の回収義務の問題をめぐるドイツの議論に関しては、平山幹子「不真正不作為犯について−『保障人説』の展開と限界−(二)」立命館法学二六四号(一九九九)一三〇頁以下、および、岩間康夫「刑法上の製造物責任と先行行為に基づく保障人的義務ー近時のドイツにおける判例及び学説からー」愛媛法学会雑誌一巻四号(一九九二)四一頁以下、同「欠陥製造物を回収すべき刑法的義務の発生根拠についてーブラムゼン説の検討ー」愛媛法学会雑誌二〇巻三・四合併号(一九九四)二〇一頁以下、堀内捷三「製造物の欠陥と刑事責任」研修五四六号(一九九三)三頁以下、ヴァルター・ペロン、高橋則夫訳「刑法における製造物責任ードイツ連邦通常裁判所『皮革用スプレー判決』をめぐってー」比較法三一号(一九九四)一頁以下、北川佳世子「製造物責任をめぐる刑法上の問題点ードイツ連邦通常裁判所の皮革用スプレー判決をめぐる議論を手掛かりにー」早稲田法学七一巻二号(一九九六)一七一頁以下、鎮目征樹「刑事製造物責任における不作為犯論の意義と展開」法政紀要第八号(一九九九)三五七頁以下参照。
(17)  Freund, Strafrecht AT, 1998, S. 334.
(18)  Freund, Erfolgsdelikt, S. 284ff., 295.
(19)  Freund, Erfolgsdelikt, S. 274f.
(20)  Vgl. Gallas, Studien, S. 67, 72.
(21)  Gallas, Studien, S. 91.
(22)  Gallas, Studien, S. 93.
(23)  Gallas, Studien, S. 92, 94.
(24)  Vgl. Gallas, Studien, S. 49f.;ders., Strafbares Unterlassen, S. 687. なお、ガラスによる正犯理論を取り扱っている日本語文献としては、神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)六三頁以下、橋本正博『「行為支配」と正犯理論』(二〇〇〇)二九頁以下、松生光正「不作為にる関与と犯罪阻止義務」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一五〇頁などがある。
(25)  Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 100f. Vgl. Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 138. なお、橋本・前掲注(24)六頁以下。
(26)  Hans−Heinrich Jescheck/Thomas Weigend, Lehrbuch des Strafrechts AT, 5. Aufl., 1996, S. 652 Anm. 30;Werner Hardwig, U¨ber den Begriff der Ta¨terschaft, −Zugleich eine Besprechung der Habilitationsschrift von Claus Roxin ゝa¨terschaft und Tatherrschaft, JZ 1965, S. 667ff.
(27)  Karl Heinz Go¨ssel, Besprechung:Ta¨terschaft und Tatherrschaft von Claus Roxin, 5. Aufl., in:GA 1990, S. 570f. なお、橋本・前掲注(24)一〇〇〇頁以下。
(28)  Rene´ Bloy, Die Beteiligungsform als Zurechnungstypus im Strafrecht, 1985, S. 229ff., 240f. Vgl. Gu¨nter Stratenwerth, Strafrecht AT, 4. Aufl., 2000, S. 307f.

第二節  「義務犯」論からの反批判

  本節は、前節で概観した「義務犯」論に対する批判およびそれを前提とする正犯性の説明に対して「義務犯」論を支持する立場からなされている反批判を整理するものである。「義務犯」論への批判がはたして維持しうるものなのかを明らかにすると同時に、従来の議論の限界を浮き彫りにすることが、その目的である。

  一  「義務犯」による刑法のモラル化?    すでに示したように、「義務犯」は刑法の許されざるモラル化であるという批判は、伝統的な不真正不作為犯論や法と道徳との区別についての議論を背景に、ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別が禁止と命令の区別に一致するとの前提から、命令による態度自由の制約や法と道徳との区別が論じられている点、また、ポジティヴな義務は不救助罪を定めた真正不作為犯規定であるドイツ刑法三二三条cに規定されている義務と同様のものであるとの理解のもと、その不明確性が問題とされている点に特色があった。以下では、これらの点についての近時の見解に目を向けながら、「義務犯」論からいかなる反批判がなされているかを整理することにしたい。

  (1)  命令による自由の制限?−禁止と命令の区別の相対化    「義務犯」は刑法をモラル化するものであるという批判の基礎にある考えとして、まず、命令は禁止よりも自由を制限する程度が大きいという考えがある。しかし、この考えについては、たとえばザムゾンが、命令は禁止よりも規範の名宛人の態度領域を強く制限しているという主張も無制限になされるわけではない、と主張している。
  ザムゾンによれば、態度領域が規範全体に規定される結果、あふれんばかりの禁止規範がたまにしか生じない命令よりも態度領域を強く制限する場合がある。たとえば、道路交通における態度領域は、とりわけ多くの禁止によって制限されるのであって、作為命令によって制限されるのではない。また、たとえば、「扉を開けよ」というような命令の場合、行為者はその命令をささやかな労苦によって履行することができる。したがって、命令が禁止よりも態度自由を強く制限しているとはいえない(1)。この点、フォーゲルも、つぎのような例によって、禁止は命令と同じ程度に自由を制限しうると主張する。すなわち、たとえば、停車禁止のトンネルの中にいる人は、走行を続ける以外、何もできないとして、禁止によっても自由は強度に制限されうるとする(2)
  もっとも、以上のような主張に対しては、ヤコブスの見解に依拠しつつ、サンチェスがつぎのように述べている。すなわち、たとえば、「扉を開けよ」という命令は自由をほとんど制約していないというザムゾンの主張は、組織化管轄にもとづいて扉を開けねばならない人にだけ当てはまる。しかし問題は、組織化管轄にもとづく保障人ではないけれども扉を開けねばならないという場合なのであって、そのような場合は、(ささやかではあっても)最小限度を越えて自由が制約されている。また、フォーゲルの示すトンネルの例については、たしかにトンネル内で止まってはならないという禁止によって、走行中の人はそれを続けるしかない。しかし、その場合、走行者の自由は、たとえば他人をひき殺さないようにするために信号の前でブレーキを踏まねばならない(命令)のと同じように、ほとんど制限されていない(3)。要するに、自由な態度領域の制限が最小限度のものであるか最小限度を越えた(強度の)ものであるかは、禁止か命令かの区別に対応するのではなく、ネガティヴな義務(組織化管轄にもとづく義務)なのかポジティヴな義務(制度的管轄にもとづく義務)なのかによるというのである。サンチェスによれば、たとえば、うっかりと他人を建物に閉じ込めてしまった人は、その他人が助けを呼ぶ声を聞いた場合、すぐに彼を自由にしなければならない(扉を開けなければならない)。彼は出来事についての管轄を有しているし、しかも組織化しているからである。他人を自由にしない場合は、「わざと閉じ込めた」場合と同様に負責される。しかしそれは、「扉を開けること」が最小限の要求(義務)だからではない。そうではなくて、「扉を開けること」が彼の組織化の一部だからである。つまり、彼は、過って組織化したので、扉を開かなければならない。かりに、負責あるいは要求の根拠が「扉を開けること」という「最小限の要求」にあるのだとしたら、閉じ込められた人を無視し、彼を自由にしなかっただけの第三者についても負責されてしまうことになる。それ故、義務の充足が最小限のものであるかどうかは、組織化にもとづく義務という意味での「ネガティヴな義務」にだけ関わる出来事なのか特別な義務という意味での「ポジティヴな義務」に関わる出来事なのかにもとづき相対的に決まるというべきである。つまり、義務の充足が最小限の労苦によって充足されるかどうかは、禁止か命令かによっては決まらない、というのである(4)
  (2)  道徳的義務としてのポジティヴな義務?−法と道徳の区別    以上のように、「義務犯」論を支持する立場からは、ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別は禁止と命令の区別に一致しないし、命令が禁止よりも強度に自由を制限するかどうかは相対的に決まる、という主張がなされている。もっとも、禁止か命令かという点を別にしても、共同世界の形成に向けられたポジティヴな義務は自由を制約する度合いが大きく、道徳的義務に属するものである、という批判は可能であるとも考えられる。しかし、この点については、サンチェスやヤコブスが以下のように述べている。
  まず、サンチェスによれば、ポジティヴな義務による自由の制限という問題についてはたしかに反論の余地がない。共同世界を形成すべきポジティヴな義務を充足せねばならない人は、自分の生活態度を「まずもって」調整しなければならないからである。たとえば、子供の両親は出産前と同じように映画館へ行くことはできないし、ベビーシッターを雇うための費用が必要になる。「他人を傷つけてはならない」という要請、つまり、最小限の義務(ネガティヴな義務)が問題となる場合、組織化した者はたしかに結果についての責任を負わねばならないが、組織化を義務づけられることはない(それ故、自由である)。これに対して、「義務犯」を基礎づける義務、すなわち、ポジティヴな義務の場合は、何かをすること、つまり、義務を充足するための条件を行なわなければならない(それ故、自由が制約される)、というのである(5)
  もっとも、ヤコブスによれば、ポジティヴな義務が最小限度を越えて自由を制約するということは、それが道徳的義務でしかないということを意味しない。最小限度を越えて自由を制約する義務であっても、法的義務に属しうるし、実際、法的義務として扱われてきた。あらゆる不法は第一義的にネガティヴな義務の侵害であって行動の自由と結果責任の引き換えに還元しうるという理解は、カントのいう自由主義社会、つまり、伝統的な自由主義の産物である。しかし、そのような自由主義社会も、ポジティヴに基礎づけられた人格性の共通性を前提とする自由主義社会であって、ポジティヴな義務(制度)を統合していた、というのである(6)
  同じことは、サンチェスによって、つぎのように説明される。そもそも国家は、自由の理念を断念しえないのと同じように、ポジティヴな制度という考えも断念しえない。というのも、法は人格を基準に決定されるが、その人格とは、たとえば、父親、公務員というような役割を担った存在であり、その役割はポジティヴな制度によって方向づけられるからである。つまり、ネガティヴな義務にもとづく保護(ネガティヴな制度)を実現するための条件は、ポジティヴな義務(制度)によって保障される。たとえば、失業者にとって職業の自由が役に立たないのと同じように、ネガティヴな制度もポジティヴな制度がなければ内容のないものとなってしまう。極端にいえば、ネガティヴな制度の保護を目的とする法が役立つのは、それがプロセスにおいても保護されている場合だけである(7)
  それ故、ヤコブスやサンチェスによれば、ネガティヴな制度を実現するためには、国家によって裁判の可能性が保障されていなければならない。つまり、実体法は手続法がなければ抽象的なままなので、手続はそれ自体としてポジティヴな義務による制度的な拘束性を前提にする、というのである(8)
  さらに、ヤコブスによれば、法とは何であり「単なる」道徳とは何なのかは、絶対的に固定的なものではなく、公式なものとして保障されるべき社会の形態とは何か、また非公式なものとして保障されない社会の形態とは何かに左右される。そして、今日の社会は、刑法がネガティヴな制度という意味での個人の自由、つまり、最小限の義務に資するというだけではなく、そこからさらに法的義務の領域を広げねばならないように形成されているという(9)
  ここで、法と道徳の区別が絶対的に固定的なものなのかどうかという点に関しては、近時、ゼールマンが刑法における法と倫理について論ずる中で、おおむね、つぎのように述べている。すなわち、刑法における法と道徳に関しては、現代、刑法に対する道徳規範の意味は変化しているのかどうか、また、刑法上の諸規範の内容に関して道徳化や脱道徳化が認められうるのかどうかが問われなければならない。また、そのためには、臓器移植や環境刑法、妊娠中絶や安楽死など、近時の刑法における処罰化や非処罰化について概観することによって、いかなる領域が刑法によってあらたに把握されるのか、反対に、いかなる領域が可罰的な領域から除外されるのかが診断されなければならないし、そのようにして診断された可罰的な領域の変化が、伝統的な法と道徳の区別を背景に理解されうるのかどうかが明らかにされねばならない。ゼールマンによれば、こうした検討によって、伝統的な法と道徳との区別が今日の状況を説明するには限界があることが明らかとなり、その結果、今日における状況の変化に対応しうるあらたな解釈モデルへ目を向けることが必要になる(10)
  要するに、自由を制限するポジティヴな義務は道徳的義務にのみ属するという見解に対しては、ポジティヴな義務がネガティヴな義務による最小限の制約よりも自由を制限する度合いが大きいとしても、その本来的な必要性や法と道徳の区別の変動性等からすれば、かならずしもポジティヴな義務が法的義務から排除されるわけではないと考えられるのである。
  (3)  ポジティヴな義務の不明確性?    そこでつぎに、ポジティヴな義務は不明確なものなので法的義務には適さない、という批判に目を向けてみたい。すでに述べたように、ポジティヴな義務の不明確性を問題とする見解は、ポジティヴな義務の典型を、不救助罪を定めたドイツ刑法三二三条cの救助義務であるとする。そして、ポジティヴな義務は、ドイツ刑法三二三条cにおいて一般的に規定されており、その限度内で認められるというべきところ、その義務は絶対的(unbedingter)・普遍的(universeller)で、主体や根拠の明確性が欠けるとして、批判するのである(11)
  しかし、第一章において示したように、「義務犯」を基礎づけるポジティヴな義務は、ドイツ刑法三二三条cの一般救助義務とは別のものである。ロクシンによれば、「義務犯」の義務とは、構成要件の実現にとって必要な、「構成要件に前置される刑法外の特別義務」のことであり、それは、行為者によって請け負われた社会的役割−たとえば、公務員としての役割−の給付を要求するものである。つまり、「義務犯」に関して立法者が引き合いにしているのは、「関与者の間ですでに確定されている」刑法外の特別義務である(12)。また、ヤコブスの場合も、「共同世界を形成しなければならない」というポジティヴな義務は、誰にでも課せられているものではなくて、親や公務員、裁判官や証人など、一定の制度的な役割を担った者にのみ課せられている(13)。要するに、ロクシンであれヤコブスであれ、「義務犯」の負責根拠であるポジティヴな義務は、十分に限定されたものだということができる。
  この点、サンチェスは、つぎのように述べている。「義務犯」のポジティヴな義務が明確性の欠如という批判にさらされないことは明白である。ドイツ刑法三二三条cの一般救助義務は、ポジティヴな義務とはまったく別のものだからである。すなわち、一般救助義務は、ある事故を認識し、被害者を救助しうる者だけに基礎づけられる。偶然的要素によって基礎づけられる義務であるし、偶然的に基礎づけられてもかまわないものである。そもそも、救助者の存在が予定されているわけではない。被害者は、法によって、自分が救助されることを期待しうるのではなくて、誰かが偶然に自分を見つけた場合に救助されることを期待できるだけである。義務の発生する状況的条件は個別の場合に限定されていない。誰かが偶然に三二三条cに相応する状況におかれた場合にのみ、救助義務は果たされるのである。このような偶然に依存する時間的条件はいつでも生じうるものであり、本来的に、義務者の個別化には弱すぎる。つまり、明確性が欠如している。しかし、こうした明確性の欠如は、そもそも許容されている。というのも、三二三条cの義務者は、「義務犯」に比べ、非常に軽い刑しか科されていないからである(14)
  要するに、「義務犯」では事故について管轄が基礎づけられるようなポジティヴな義務が問題となるのに対して、刑法三二三条cでは、行為者の救助を基礎づけ、その限りで彼の管轄を基礎づけるような義務が存在しているだけであり、双方の義務は区別されるのであって、「義務犯」に関する明確性の欠如という批判は論破されるというのである。
  (4)  小  括    以上のように、「義務犯」は刑法の許されざるモラル化であるという批判を基礎づける考え、すなわち、命令による態度自由の制約や法と道徳との区別、ポジティヴな義務の不明確性などを問題とする考えに対しては、それぞれつぎのような反批判がなされている。まず、自由の制約が最小限のものであるかどうかは、(組織化にもとづく義務という意味での)ネガティヴな義務にだけ関係するのか(特別な義務という意味での)ポジティヴな義務に関係するのかによって、相対的に決まる。制限自体が最小限のものかどうかの判断はできないし、禁止と命令の区別によらない。また、ポジティヴな義務はいずれにせよ自由を制限する度合いが大きく、道徳的義務に属するものなのではないかという点については、ポジティヴな義務がネガティヴな義務による最小限の制約よりも自由を制限する度合いが大きいとしても、ポジティヴな義務を法的義務から排除することはできない。なぜなら、その制限は自由主義社会の存立にとって本来的に必要なものであるし、法と道徳の区別は、時代や社会によって変化するからである。さらに、ポジティヴな義務の不明確性という批判に対しては、「義務犯」のポジイティヴな義務は、ドイツ刑法三二三条cの一般救助義務とは性質の異なるものであって、その主体や根拠は十分に限定されているといえる。
  以上からすれば、「義務犯」は刑法の許されざるモラル化であるという批判は、かならずしも正鵠を射たものではないように見える。それ故、「義務犯」は刑法の許されざるモラル化であるという考えから導かれる「支配」による正犯性の一元的理解も、かならずしも確かな基盤を持たないと言えそうである。そこで以下では、「行為支配」を一元的な基準とする見解が、具体的な事例の解決に際して露にする問題点に目を向けてみたい。

  二  「行為支配」による説明の限界    ここでは、不作為犯の正犯性を「支配」という観点から説明するシューネマンおよびガラスの見解、さらに、あらゆる犯罪をネガティヴな義務によって説明しようとするフロイントの見解によって処罰の間隙をもたらすことなく正犯性を説明することが可能なのか、という点に着目したい。

  (1)  「結果の原因に対する支配」?    すでに示したように、シューネマンの場合、あらゆる犯罪は、「結果の原因(Grund)に対する支配」として理解される(15)。しかし、サンチェスは、「結果の原因に対する支配」によって矛盾なく正犯性を説明することが可能かどうかは、疑問であるとする。そしてサンチェスは、たとえば、シューネマンが「結果の原因に対する事実的支配」という基準によって、病気の子供をそのまま放置すれば死に至ると知りながら家に残して映画館へ出かけた両親への負責を基礎づけたことについて、つぎのように批判する。すなわち、シューネマンは、映画館へ行った両親について、両親が住居の鍵や子供の居所を意のままにし、住居の危険源およびその他のものを熟知していることにより、子供に対する事実的な監視支配を肯定し、負責を基礎づけようとする。その一方で、いわゆる刑事製造物責任における欠陥製品の回収義務に関しては、危険な製造物に対する販売者の「支配」が欠如するとして否定し、負責を排除する。しかし、サンチェスによれば、二つの事例のこのような均一でない取扱いは適切ではない。というのも製造物の販売者は、両親が住居という危険源を熟知しているのと同じように、製造物という危険源を認識しているからである。つまり、サンチェスは、シューネマンの見解では、映画館へ行った両親の場合には「支配」が肯定されるのに、工場に居つづける製造・販売者の場合には「支配」が否定されるが、その理由は説明できていない、と批判するのである(16)
  サンチェスによれば、右のような場合において「支配」という概念が忠実に維持されるならば、そもそも両親が有しているのは、介入可能性に裏付けられる「潜在的な支配」以上のものではない。映画館にいる両親についてなお正犯的な「支配」が肯定されるとすれば、すべての関与者についてつねに「支配」が肯定されねばならず、その結果、共犯の成立する余地はまったくないことになる。なぜなら、「支配」は完全に単なる「潜在的支配」であり、このような「支配」は、両親だけでなく、両親が住居という危険源を認識しているのと同じようにその行為の「危険源」を認識しているほとんどすべての関与者、それどころか、ドイツ刑法三二三条cの前提を充たす任意の第三者すべてが同じように有するからである(17)
  同様の指摘は、ロクシンによってもなされている。すなわち、ロクシンは、介入可能性という意味での潜在的な「行為支配」によって不作為犯における「行為支配」を説明しようとする見解を検討する中で、つぎのように述べている。かりに結果防止の潜在的支配が真の「行為支配」を意味しているとすれば、結果回避の可能性を有する者はすべて不作為による正犯者となり、行為経過においてまったく従属的な意味しか持たない者であっても、作為的介入により結果を回避しえた場合には行為支配者とみなされるのだから、教唆や幇助は存在しないことになる。たとえば、自殺に対する不可罰の幇助は、不作為によって、要求による正犯的な殺人へと変えられる。結局のところ、このような考えは、結果防止の潜在的支配に加えて保障人的地位という要件が加わることによって正犯の成立を認める見解に行き着くことになる(18)
  もっとも、シューネマンの見解では、両親の子供に対する「支配」は、親というものについて社会的に把握される、子供の要扶助性に対してつねに存在する「事実的支配」であると説明される(19)。しかし、ヤコブスが指摘するように、親という特別な地位において法益の要扶助性に対する「支配」を認めることは、まさに「義務犯」の基礎にあるような特別な義務を承認すること以外のなにものでもない。シューネマンの説明では、なぜ両親による「支配」が犯罪実行の際に存在するのかが宣言されたにすぎない。しかし、そのかぎりで、「支配」、少なくとも、その名称に値する「支配」が問題なのではない。子供の要扶助性に対する「支配」というシューネマンの説明において、「支配」は子供の保護に向けられた制度の言い換えにすぎず、支配犯を基礎づけるものではないといえるのである(20)
  (2)  親権の対価としてのネガティヴな義務?    同様の批判は、フロイントの見解についてもなされている。すでに示したように、フロイントは、ポジティヴな義務による基礎づけを避けるために、両親の子供に対する義務に関しては、両親は子供を「出生させた」、つまり、子供の存在を組織化したという論拠を用いている。そのように説明することによって、子供に対する両親の義務を、行動の自由の対価、つまり、ネガティヴな義務として格付けるのである。しかし、ヤコブスやサンチェスによれば、フロイントの場合、義務は権利の裏面として理解される結果として、両親の子供に対する義務は親権の対価であるという説明以上のものではない。それ故、フロイントの見解も、実際には、制度的な関係を言い換えているにすぎないとされる(21)
  (3)  親子関係における義務の例外的取扱い?    この点、ガラスの見解では、両親の保障人的義務に関しては、先行行為や引受など、「支配」概念よって方向づけられるような基礎づけは、譲歩してきたとされる。別の言葉では、先行行為や引受による負責の基礎づけも、親子関係における義務侵害を別にして論ぜねばならない、とされる(22)。しかし、このような説明に対しては、なぜ親子関係にもとづく義務については別なのか、なぜ負責を否定するのではなくて例外的な取扱いが可能となるのかが説明されねばならないとの批判が可能である、とされる(23)

  三  「義務侵害」と「行為支配」の併存?    以上に加えて、「義務侵害」を否定するわけではないが、正犯性の判断には「義務侵害」だけでなく、つねに「行為支配」が必要であるとする見解への反批判に目を向けることにしたい。
  すでに示したように、正犯性の判断には「義務侵害」に加えてつねに「行為支配」が必要であるとする見解として、ハルトヴィヒやゲッセル、ブロイの見解等が挙げられる。このうち、ハルトヴィヒやゲッセルの主張の重点は、「行為支配」は犯行主体に要請される要素であって、正犯メルクマールであり、ただ必要条件ではあるが十分条件ではないだけである、という所にある。しかし、ブロイによれば、このような主張は、「義務犯」の場合にも「行為支配」は役割を果たすという以上のものではない(24)。そこで以下では、「義務犯」による義務侵害が「特別な行為態様」でなされるような構成要件を挙げ、そのような構成要件では、「義務侵害」とともに「特別な行為態様」、すなわち、作為によって基礎づけられる「行為支配」が要求されているとして、義務と支配の混合した犯罪の存在を積極的に証明しようと試みる、ブロイの見解に対する反批判を中心に整理したい。

  (1)  「特別な行為態様」と「行為支配」  「特別な行為態様」を根拠に「支配」の存在を説明することについては、サンチェスがつぎのように批判している。すなわち、「義務犯」による義務侵害が「特別な行為態様」でなされるものとブロイが示したいくつかの構成要件は、行為者が特定の作為を行なうことを前提としていないし、少なくとも、「行為支配」を要求しているわけではない。詳細な正犯行為(Tathandlung)の記述あるいは「特別な行為態様」は、単に、刑罰化における明確性の要請によって立法者が必要的に命ぜられた、行為の性格付けにおける通例の制限でしかない。つまり、行為態様の詳細な記述は、「特別な行為態様を伴う義務犯」独自の特性ではなく、多くの構成要件に一般に妥当するのものである。たとえば、殺人罪においても「人の殺害」という「特別な行為態様」が予定されている。また、供述の強要の場合、構成要件に規定された表現によれば身体的虐待のみが考慮されうるということは、「特別な行為態様」でなされうる「行為支配」が存在しなければならないということを意味しない。そこでは、単に、供述の強要と解されるものが記述されているだけであって、「支配」が前提とされているわけではない、というのである(25)
  (2)  身分犯における作為と不作為の同置    つぎに、ブロイが、ドイツ刑法三四三条一項の供述の強要においては、ドイツ刑法三四〇条一項のように、身体的な虐待を行うこと(作為)と他人に行わせること(不作為)とを同置できないと述べたことについても、作為と不作為の区別は重要ではないとする「義務犯」論の立場からは、つぎのような批判がなされている。すなわち、たとえば、囚人に証言を強制するために、食事を差し控えたり喉が乾いた状態にさせたりする場合、それらの不作為はいずれも身体的虐待である。またドイツ刑法三四八条一項の不実の記載に関しても、「虚偽の記載をし」あるいは「虚偽の記入をした」という標識は、ブロイが述べるように「義務侵害とならぶ行為支配」を必要とするものではない。そうではなくて、いかなる犯罪がそこで問題なのかを大まかに示しているだけである(26)
  ブロイに対するこのような反批判は、実際的には、つぎのような場合に意味を持つものである。すなわち、ブロイによれば、同僚の公務員に自由に記載させた公務員は、何も「記載をし」ていないため、共犯であるとされる。しかし、そうだとすれば、(故意的に)被公務員を介入させ、彼が自由に虚偽の記入をするのを傍観していた公務員は、それによって不可罰的に構成要件該当目的を達成することになってしまうのである(27)
  こうした点を踏まえて、サンチェスは、つぎのように述べる。記入に関する管轄を有している公務員は、自然的な意味では実際に何もしていなくとも、同僚に不実を記入させた場合には、その不作為に関して負責されるというべきである。つまり、作為と不作為の同置は、「義務犯」の規定にも妥当する。すなわち、たとえば選挙役員の構成員が、〇を書き足す(作為)こと−一〇〇の投票権を一〇〇〇と書くこと−によって、選挙記録に誤った指示(申告)をしたか、あるいは、〇を書かないこと(不作為)−一〇〇〇を一〇〇と書くこと−によって正しい申告を怠ったかは、重要ではない。いずれにせよ彼は同じように誤った記入をしたのである(28)
  要するに、身分犯の構成要件においても、重要なのは、身分ある正犯者の特定の行為の企て(作為)ではなくて、いかなる義務侵害が考慮されるのか、つまり、(作為および不作為による)義務侵害そのものだというのである(29)

(1)  Erich Samson, Begehung und Unterlassung, FS fu¨r Welzel, 1974, S. 586ff., 590, 593ff., 595.
(2)  Joachim Vogel, Norm und Pflicht bei den Unterlassungsdelikten, 1993, S. 306.
(3)  Javier Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung −Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999, S. 102.
(4)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 115.
(5)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 116f.
(6)  Vgl. Gu¨nther Jakobs, Tun und Unterlassen im Strafrecht, S. 9f. なお、右は、一九九九年に立命館大学で行なわれた講演原稿における該当頁である。松宮孝明・平山幹子「刑法における作為と不作為」立命館法学二六八号(一九九九)二六六頁以下を参照されたい。
(7)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 119.
(8)  Vgl. Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 10.
(9)  Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 10;Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 119.
(10)  Kurt Seelmann, Recht und Ethik im Strafrecht, S. 1, 14f. なお、右は、二〇〇〇年九月に立命館大学で行なわれた講演原稿における該当頁である。これについては、二〇〇一年度の立命館法学誌上で紹介される予定である。
(11)  Vgl. Lothar Philipps, Der Handlungsspielraum, −Untersuchungen u¨ber das Verha¨ltnis von Norm und Handlung im Strafrecht, 1974, S. 21ff.;Michael Pawlik, Unterlassene Hilfeleistung:Zusta¨ndigkeitsbegru¨ndung und systematische Struktur, GA 1995, S. 360ff.
(12)  Claus Roxin, in:LK, § 25, Rdn. 36.
(13)  Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996, S. 30ff.;ders., Tun und Unterlassen, S. 9ff.
(14)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 124f.
(15)  Bernd Schu¨nemann, Zum gegenwa¨rtigen Stand der Dogmatik der Unterlassungsdelikte in Deutschland, in:Internationale Dogmatik der objektiven Zurechnung der Unterlassungsdelikte, 1995, S. 72ff., 82;ders., Grund und Grenzen der unechten Unterlassungsdelikte, −Zugleich ein Beitrag zur strafrechtlichen Methodenlehre, 1971, S. 341ff.
(16)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 129.
(17)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 130.
(18)  Roxin, Ta¨terschaft und Tatherrschaft, 7. Aufl., 1999, S. 463ff.
(19)  Vgl. Schu¨nemann, Zum gegenwa¨rtigen Stand, S. 77.
(20)  Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 11.
(21)  Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 11;Sa´nchez, Pflichtdelikt, 1989, S. 133ff.
(22)  Wilhelm Gallas, Studien zum Unterlassungsdelikt, S. 93
(23)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 130.
(24)  Rene´ Bloy, Die Beteiligungsform als Zurechnungstypus im Strafrecht, 1985, S. 230ff.
(25)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 138.
(26)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 139.
(27)  この問題に関して、Vgl. RG 28, 110. さらに、Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 12;ders., Strafrecht AT, 2. Aufl., 1993, 21/104;Gu¨nterStratenwerth, Strafrecht AT, 4. Aufl., 2000, S. 307f.
(28)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 141;Scho¨nke−Schro¨der−Cramer, StGB Kommentar, 25. Aufl., 1997, Vor§§ 25ff., Rdn. 84.
(29)  なお、この点に関しては、本稿第一章第二節の
の部分も合わせて参照されたい。Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 25/46.

第三節  小      括

  本章では、ロクシン、ヤコブスらによって展開されている「義務犯」論に対していかなる批判がなされているか、また、それに対して、「義務犯」論を支持する立場からはどのような反批判がなされているかを明らかにし、すべての犯罪を「行為支配」原理によって把握しようとする見解の限界を浮き彫りにしようと試みた。その結果、明らかになったことを整理すると、つぎのようになろう。

  一  「義務犯」は刑法の許されざるモラル化なのか?    「義務犯」論への最大の批判は、刑法外の特別義務(ポジティヴな義務)の違反を中核とする「義務犯」を認めることは、道徳的義務の違反にまで処罰範囲を広げることを意味するという批判である。しかしこの批判の基礎にある考え、すなわち、(1)一定の作為の命令は、市民の自由な行動範囲を禁止による最小限度の制約を越えて制限するものである、(2)ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別は、禁止と命令、つまり、作為と不作為の区別に対応し、それは法と道徳との区別と一致する、(3)ポジティヴな義務を内容とする命令は、その範囲や主体が不明確であるという考えは、かならずしも正当ではない。まず、自由の制約が最小限のものであるかどうかは、組織化にもとづく義務という意味でのネガティヴな義務にだけ関係するのか特別な義務という意味でのポジティヴな義務に関係するのかによって相対的に決まり、それ自体で最小限の制約かどうかの判断はできないし、禁止か命令かということとは別問題である。また、ポジティヴな義務がネガティヴな義務よりも自由を制限する度合いが大きいとしても、その本来的な必要性や法と道徳の区別の変動性等からすれば、法的義務から排除しえない。さらに、ポジティヴな義務の不明確性という批判に対しては、「義務犯」のポジティヴな義務は、ドイツ刑法三二三条c(不救助罪)の救助義務とは異なり、その主体や根拠は十分に限定されている。換言すれば、一般的な救助義務を課している不救助罪は「義務犯」ではない。「義務犯」は、親や公務員など、かぎられた者だけに課せられた「特別な義務」の違反を内容とするのである。それ故、「義務犯」は刑法の許されざるモラル化であるという批判は、かならずしも正鵠を射たものではない。

  二  「支配」による説明の限界    「義務犯」を否定し、「支配」あるいはネガティヴな義務よる負責の一元的な説明を展開する見解は、「行為支配」や「結果の原因に対する支配」、「態度自由に対する結果責任」などによって、あらゆる犯罪への負責を基礎づけようとする。しかし、たとえば子供に対する両親の義務など、「義務犯」が存在するような場面では、「支配」は子供の保護に向けられた制度の言い換えにすぎず、それは「義務犯」を基礎づけるのであって、支配犯を基礎づけるものではない。両親が子供を「出生させた」こと、つまり、子供の存在を組織化したことを論拠に用いる場合も、結局のところ、両親の子供に対する義務は親権の対価であるという説明以上のものではなく、制度的な関係を言い換えているにすぎない。また、「支配」に方向づけられる負責の説明を原則とし、親子関係や国家的義務にもとづく負責を例外視するとすれば、なぜ負責を否定するのではなくて例外的な取扱いが可能となるのかが説明できていない。

  三  「義務侵害」とならぶ「行為支配」の論証の限界    「義務侵害」を否定するわけではないが、正犯性の判断には「義務侵害」だけでなく、「行為支配」が必要であるとする見解は、義務と支配の混合した犯罪の存在を積極的に証明しようと試みる。つまり、「義務犯」による義務侵害が「特別な行為態様」でなされるような構成要件では、「義務侵害」とともに、「特別な行為態様」、すなわち、作為によって基礎づけられる「行為支配」が要求されているとする。しかし、「義務犯」による義務侵害が「特別な行為態様」でなされるものとされる構成要件は、行為者が特定の作為を行なうことを前提としていないし、少なくとも、「行為支配」を要求しているわけではない。詳細な正犯行為の記述あるいは「特別な行為態様」は、刑罰化における明確性の要請によって立法者が必要的に命ぜられた、行為の性格付けにおける通例の制限でしかない。構成要件は身分のある正犯者の一定の行為の企てを前提としているのではなく、いかなる義務侵害が考慮されるのかを記述しているだけである。
  次章では、以上の点を踏まえながら、不作為と共犯をめぐる従来の議論の問題点を明らかにし、「義務犯」論によるあらな解決の方向性を指し示すことにしたい。

第三章  不作為と共犯


  本章は、前章までの検討を踏まえ、不作為による共犯、とりわけ、不作為犯における正犯と共犯の区別をめぐる従来の議論の限界と「義務犯」論によるあらたな説明を検討するとともに、不作為犯に対する共犯の問題についても、その解決の方向性を探究するものである。

第一節  不作為による共犯−不作為犯における正犯と共犯の区別

  本節では、これまでの検討を踏まえ、不作為による共犯、とりわけ、不作為犯における正犯と共犯の区別をめぐる従来の議論の限界と「義務犯」論によるあらたな説明について検討した上で、不作為による幇助に関するわが国の判例を素材に、その展開可能性を探ってみることにしたい。

  一  問題の所在と分析視角    不作為による共犯、とりわけ、不作為犯における正犯と共犯の区別問題に関してもっとも議論されているのは、他人の犯罪行為を阻止しなかった者の責任が正犯のものなのか共犯のものなのか、という問題である(1)。たとえば、毒物の管理者が殺人犯人による毒物の持ち出しを黙認するという場合、毒物を渡すという作為であれば幇助にとどまる役割でも、不作為であれば正犯になるのかという問題である。作為犯と不作為犯との構造的差異を考慮すれば、作為犯において展開されている正犯と共犯の区別基準が不作為犯には当てはまらず、不作為による共犯は成立しえないといえそうだからである。
  ここで、作為と不作為の構造的差異を考慮して不作為による共犯の成立をすべて否定すれば、不作為犯について通常の作為犯と異なる正犯原理や概念を認めることになる。しかし、そうなると、作為と不作為との同置や同価値という要件と矛盾することになってしまう。つまり、不真正不作為によって実現されるのは作為犯の構成要件そのものであり、正犯あるいは共犯の区別基準もパラレルでなければ、不真正不作為と作為との同置ないし同価値を基礎づけるのは困難なはずだからである(2)
  それ故、重要なのは、いかにして作為犯と不作為犯との構造的差異を乗り越えて、両者に妥当する正犯・共犯の区別基準を示すのかである。いかなる正犯原理のもとで、どのように作為犯と不作為犯とのパラレルが基礎づけられるのかが、検討されねばならないのである。
  こうした視点から、以下では、まず、不作為犯における正犯と共犯の区別に関してもっとも問題となるケース、すなわち、作為故意犯に不作為で関与した者の取扱いを素材に、不作為犯における正犯と共犯の区別に関するドイツおよびわが国の議論を整理・検討することにしよう。

  二  従来の議論とその限界    ここでは、不作為による共犯はありえないと主張した目的的行為論者らの見解を出発点に、他人の犯罪に不作為で関与した者の取扱いに関するドイツおよびわが国の主要な見解を整理・検討し、この問題に関する従来の議論の限界を示してみたい(3)。もっとも、この問題に関するわが国固有の議論はあまり存在しないので、ドイツの議論を軸に検討し、必要なかぎりで、わが国の見解にも触れることにする。

  (1)  原則正犯説    結果回避義務を負う保障人が他人の犯罪を傍観しつつ何もしなかったという場合、その不作為は不作為正犯の前提条件をすべて充たしているのであって、故意の作為正犯が存在しても幇助となることはないという見解である。作為犯と不作為犯との構造的差異を強調するこの考えは、ドイツでは、アルミン・カウフマンやグリュンヴァルトら目的的行為論者によって有力に主張された(4)。しかし、わが国では、この考えが影響力を持ったことはほとんどないといってよい。その理由は、わが国における共謀共同正犯の存在にある。すでに指摘されているように、わが国の実務では、多くの場合、不作為による関与も現場共謀という形態に解消され、共謀は認められないが、関与の重要性から見て処罰に値すると評価された場合にのみ、不作為による幇助犯が成立しうるとされるのである。そのため、わが国では、およそ因果力の欠如した不作為は作為犯を促進することができないのではないか、また、不作為による関与者には現実の事象に対する影響力の行使が認められず、正犯結果に対する寄与の大小によって正犯・共犯を区別することはできないのはないか、そもそも不作為による共犯は成立しえないのではないか、という原則正犯説からの問いかけは、さほど真剣に受け止められずにきたのである(5)
  もっとも、すでに述べたように、不作為による関与は原則正犯であるとする考えでは、作為犯と不作為犯とで異なる正犯原理や概念を認めることになる。したがって、不作為犯における正犯と共犯の区別問題の重点が作為犯・不作為犯に共通の正犯原理ないしパラレルな正犯・共犯の区別基準を示すことにある以上、支持できるものではない。このことは、ドイツでは、つぎのような場合の評価矛盾として問題とされている。すなわち、たとえば毒薬の管理人が殺人犯人による毒薬の持ち出しを黙認するという場合、不作為による関与は原則的に正犯として評価されると考えると、毒薬を持ち出すという作為であれば幇助にとどまる役割が、不作為であるがゆえに正犯になってしまうという矛盾である。わが国では、こうした問題はさほど意識されてはいないが、いずれにせよ原則正犯説の説明は成功しているとはいえないのである。
  (2)  作為犯における区別基準の転用    そこでつぎに、他人の犯罪(作為の故意犯)に不作為で関与した場合は不作為による幇助が成立しうる、という考えに目を向けてみたい。ドイツの判例およびかつての通説的見解によって示されたこの考えは、作為犯における正犯・共犯の区別基準を不作為犯に転用するというものである。とりわけ、ドイツにおいて不作為による関与の問題が注目されるきっかけとなった、一九五〇年代の自殺関与の諸事例をめぐっては、行為者の主観や「行為支配」を基準とする考えが主張された。なかでも、「行為支配」を基準とし、保障人が因果事象の経過を手中にしたかどうかによって正犯と共犯を区別するキールヴァインの考えや、作為者の現実的な「行為支配」は、介入可能性という意味での不作為者の「潜在的な行為支配」よりも優越するとして、故意の作為正犯が存在する場合には保障人の不作為は原則幇助であるとするガラスの見解は、現在でも有力である(6)。わが国では、不作為犯における正犯と共犯との区別にも一般の正犯・共犯の区別に関する原理が妥当するとして、関与者間の「精神関係」を考慮し、対等以上の立場にあった者が正犯であり、従属的な立場にあった者が共犯であるとする林教授の見解(7)が作為犯における区別基準の転用と解される。また、殺害現場を離れた関与者の不作為に殺人幇助を認めた大阪高裁昭和六二年一〇月二日判決(大阪高裁昭六二・一〇・二判例タ六七五号二四六頁)では、「諸般の事情を総合して考察すると、本件における被告人の行為を、作為によって人を殺害した場合と等価値なものとは評価し難く、これを不作為による殺人罪(正犯)に問擬するのは、相当ではないというべきである」と判示されているほか、わが国で不作為による幇助の成否を争った判例のほとんどは、はじめから不作為による幇助犯の成立のみを問題としている。そのかぎりで、わが国の判例も、故意の作為正犯が存在する場合の不作為は原則幇助であるとするガラスらの見解に類似するものといえそうである。
  しかし、行為者の内心的態度に注目する見解については、不確かな基準によって、裁判官に広範な裁量を許すものなのではないかというロクシンの批判(8)が妥当するし、関与者間の精神関係を考慮する見解では、看守が犯人の逃走を黙認したときは、看守逃走援助罪の正犯となることをうまく説明することができない。
  また、すでに述べたように、「行為支配」を基準とする説明では、つぎのような場合に不都合が生ずる。たとえば、公務員Aが同僚の公務員Bによって公文書に虚偽の記載がなされるのを傍観していたという場合、公務員Aについては虚偽公文書作成罪(ドイツ刑法三四八条一項)の共犯が成立することになる。しかし、そうだとすれば、故意的に非公務員を介入させ、彼が公文書に虚偽の記述をするのを傍観していた公務員について、なんら責任を問うことができなくなってしまうのである(9)
  さらに、作為の正犯者とならぶ保障人の不作為は原則幇助であるとする説明については、作為義務に違反し同価値性を備えることですでに獲得された不作為者の正犯性が他人の行為によって変更を被るのはなぜか、根拠が示されていない、とロクシンが批判している(10)。また、グリュンヴァルトもつぎのように批判している。すなわち、作為の正犯者とならぶ不作為が原則幇助になるとすると、自分の子が他人によって命の危険にさらされていると誤信した場合と事故によって危険にさらされていると誤信した場合とで、何もしなかった親の責任は異なり、合理性が欠けるとする。つまり、前者では不可罰の共犯未遂、後者では可罰的な正犯未遂が成立するということになるが、このような区別は不合理だというのである(11)。この点、ガラスは、親子といった緊密な保障関係の場合、例外的に他人がわが子を殺そうとするのを傍観する保障者の不作為は正犯と同価値のものと考えてよいとしている(12)。しかし、そうだとすると、親子関係における義務がなぜ例外なのか、また、いかなる場合であれば例外とされるのかについての合理的な理由はどこにあるのかが問題となるのである(13)
  (3)  保障人的義務の種類による区別    そこで、近時ドイツでは、不作為犯の構造と性質に着目しつつ、保障人的義務の内容・性質の相違によって不作為による正犯と共犯を区別しようとする試みが展開されている。その基本的に一致している考えによれば、保護される法益との特別の関係にもとづきあらゆる侵害からそれを保護すべき保障人的義務(保護的保障)の違反は正犯であり、監視すべき一定の危険源から生ずるあらゆる侵害を阻止することにつくされる保障人的義務(監視的保障)の違反は原則として幇助にとどまる(14)。シュレーダーやヘルツベルクらに代表されるこのような考えは、中教授や阿部教授らによってわが国でも主張されている(15)
  しかし、保障人的義務の種類にしたがって不作為関与が正犯か共犯かを論ずる見解は、そのような義務の区分自体、貫徹できることではないと批判されている。ある者の保護は、その者に迫ってくる危険をその者のために監督することであり、危険源の監督は、それぞれの場合に危殆化されている者の保護であるように、同じ保護が保護的保障でも監視的保障でもありうるからである(16)。このことは、とりわけつぎのような場合に問題となる。すなわち、他人の財産の管理人が窃盗犯人による財産の持ち出しを黙認したような場合、管理人には、不作為による窃盗幇助のほかに不作為による背任罪の正犯が成立しうるが、そうなると、同じ保護的保障なのに、窃盗罪では従犯が、背任罪では正犯が成立するという矛盾が生ずるのである(17)
  この点、わが国の判例では、義務の区分に言及されることはあっても、それによってただちに正犯と共犯の区分が基礎づけられたことはない。同僚の強盗計画への加担を知りながらこれを止めなかった不作為について幇助犯の成否が争われた近時の判例(東京高裁平成十一年一月二九日判時一六八三号一五三頁)では、不作為が幇助に当たるというために必要な作為義務は「正犯者の犯罪による被害法益を保護すべき義務(以下、「保護義務」という。)に基づく場合と、正犯者の犯罪実行を直接防止すべき義務(以下、「阻止義務」という。)に基づく場合が考えられる」と述べられているように、作為義務の分類自体は幇助犯の成否に直接かかわるものではないと考えられているようである。学説でも、たとえば平野教授は、「正犯を基礎づける作為義務と共犯を基礎づける作為義務とはその性質・内容において必ずしも同じではない。その作為義務は正犯者との関係から生じる場合もあり、被害者との関係から生じる場合もある(18)」として義務の種類に注目するものの、義務の種類による区別をただちに正犯・共犯の区別に結びつけるわけではないのである。
  そもそも、保障人的義務の種類にしたがって不作為関与が正犯か共犯かを論ずる見解には、つぎのような問題があるといわなければならない。すなわち、この見解の主張者は、保障人的義務を不作為犯固有の正犯要素とした上で、それが正犯的義務なのか共犯的義務なのかを論じ、保護的保障であれば正犯としての責任を、監視的保障であれば共犯としての責任を基礎づけようとしている。しかし、そうした義務の区分がなぜ正犯・共犯の区別を意味するのかは不明である。そして、なにより、義務の区分による正犯と共犯の区別が作為犯における正犯と共犯の区別とどのようにパラレルなのかを説明することは、保障人的義務を不作為犯の特殊な要件とするかぎり、ほとんど不可能なはずなのである(19)
  (4)  小  括    以上、不作為犯における正犯・共犯の区別問題に関するドイツおよびわが国の主要な見解を概観した。その結果、作為犯と不作為犯の構造的差異に着目して不作為による関与を原則正犯とする考えはもちろんのこと、行為者の主観や「行為支配」など、作為犯において一般に妥当するとされる区別基準を不作為犯に転用しようとする見解については、現実的な「行為支配」の認められない不作為であっても、かならずしも共犯としての責任にとどまらない場合があるなどの問題があった。また、保障人的義務の種類によって正犯・共犯を区別する見解については、義務の区別を正犯と共犯の区別に結び付けることには合理性が欠けていたし、その点を別にしても、保障人的義務が不作為犯の特殊要件とされるかぎり、作為犯とパラレルな区別基準を示しえないという本来的な問題があった。
  要するに、不作為による関与を原則正犯とする見解には、作為犯と不作為犯とで異なる正犯概念(原理)を認めた点に、作為犯における区別基準を転用しようとする見解には、「行為支配」によってあらゆる作為および不作為への負責を把握しようとした点に、保障人的義務の種類に着目する見解では、保障人的義務が不作為犯の特殊要件とされている点に、限界を見いだしうるのである。
  そこでつぎに、こうした従来の議論の限界を「義務犯」論がどのように乗り越え、いかなる解決方法を示しうるのか、見てみることにしよう。

  三  「義務犯」論による説明    ここでは、ロクシンおよびヤコブスがそれぞれの「義務犯」論にもとづいて不作為犯における正犯と共犯の区別をどのように説明しているか、あらためて目を向けてみたい。

  (1)  ロクシンによる説明    第一章で示したように、ロクシンは、身分犯など、「行為支配」がなくとも行為者に「特別な義務」が課されており、正犯が成立するためには行為者がその特別な義務に違反したことを必要とする犯罪を「義務犯」と名付け、「行為支配」を正犯原理とする支配犯と区別する。そして、結果回避義務に違反する不作為犯はすべて「義務犯」であり、原則正犯であるとする(20)
  それ故、ロクシンによれば、通常の犯罪として形作られている構成要件−たとえば殺人罪など−が作為によって実現されるのを義務に反して阻止しなかったという場合、そこには作為者に帰せられる支配という観点と不作為者を正犯者としうる義務という観点とがあり、不作為者の関与は、前者の観点では支配なき加功として幇助と評価され、後者の観点では正犯と評価される(21)。つまり、不作為関与者は、不作為の正犯であると同時に作為犯との関係では共犯(幇助)である。しかし、共犯としての性質は、通常、競合原理にしたがって正犯の背後に退く。もっとも、このような場合の不作為正犯は、作為正犯と社会倫理的反価値性という性質においては同置できるが、責任の程度や当罰性の点では同置できない。したがって、ここで不作為正犯は作為幇助と同じ重さで処罰されうる(22)。つまり、作為の行為者に不作為で関与する保障人は、不作為の正犯として幇助の刑で処罰され、作為で関与する場合には、作為犯への幇助としてのみ処罰されることになる。
  これに対し、たとえば、一身専属的な義務犯や加重された支配犯罪への関与において、結果回避義務はあっても一定の構成要件を正犯的に充足しえない場合には、正犯は成立しえず、不作為による共犯が成立する。この場合、通常ならば競合原理にしたがって正犯の背後に退いている幇助者(共犯)としての性質が、不作為者が構成要件を正犯的に充足しえない場合には表面に現れてくるからである(23)
  要するに、ロクシンの場合、結果回避義務を負う保障人の不作為は原則正犯として扱われるべきであるが、作為の行為者に不作為で関与する保障人は、不作為の正犯として幇助の刑で処罰される。また、身分犯や目的犯、自手犯など、正犯が成立するために特別の身分や目的、自手実行がなければならない犯罪については、不作為者が正犯要件をみたさなければ、例外的に不作為による幇助が成立する。
  (2)  ヤコブスの見解    以上に対して、ヤコブスによれば、支配犯か「義務犯」かの区別は、構成要件の文言が通常の犯罪として形作られているかどうかに関係しないし、作為か不作為かという実現形態にも関係しない。支配犯であれ「義務犯」であれ、作為および不作為のいずれの形態によっても実現される(24)。そして、「組織化管轄にもとづく犯罪」、すなわち、支配犯では、作為・不作為の実現形態にかかわらず、「組織化」の量を問題とすることができ、結果についての「管轄」を有していた人、つまり、重要な役割を果たした人が正犯とされるほか、何らかの組織化行為によって結果の実現について役割を果たしただけの人も、共犯として負責されうるのである(25)。これに対して、「義務犯」、すなわち、「制度的管轄にもとづく犯罪」は、作為・不作為にかかわらず、「制度」に由来する「特別な義務」の違反としてつねに一身専属的に実現される(26)ため、原則正犯である。
  したがって、ヤコブスの場合、不作為による関与であっても、「組織化管轄にもとづく義務」に違反する不作為の場合は、支配犯として、正犯と共犯の区別が可能である。たとえば、自分の管理するピストルを持ち去る犯罪者からそれを取り返さないこと(不作為)は、犯罪者にピストルを譲渡すること(作為)に対応し、いずれも幇助となる(27)
  逆に、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の侵害の場合、作為であれ不作為であれ、正犯が成立する。たとえば、検察官は、彼の友人の可罰的行為を義務に反して時効にかからせた(不作為)場合も、義務に反して進行中の手続きを停止した場合(作為)も、職務上の犯人庇護罪の正犯である(28)。もっとも、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の保持者であっても、自手犯などの特別な正犯メルクマールが欠ける場合や彼によって回避されるべき不法が共犯にしか対応しないという場合、その関与は共犯として評価される(29)
  その一方で、通常の犯罪も、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の保持者に犯された場合、つねに「義務犯」となる。たとえば、父親が自分の子供を殺害する者にナイフを手渡す場合(作為)も、殺人者が子供を殺害するのをとめなかった場合(不作為)も、「義務犯」、つまり、正犯が問題となる。父親がナイフの手渡しによって「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」を同時に侵害したことは、「義務犯」の成立を妨げない。「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の侵害は、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」の侵害を包括するからである(30)。なぜなら、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」も「制度にもとづく義務」の一種であり、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」と無関係に存在するわけではなく、ただ義務の存在形態が偶然的だというだけだからである。

  三  検  討
  (1)  両説の意義    以上のようなロクシンとヤコブスの見解に共通しているのは、つぎの二点である。すなわち、支配犯と「義務犯」の区別が重要であって、作為犯と不作為犯の区別が重要なのではないという点、そして、支配犯であれば正犯と共犯との区別が可能であるのに対して、「義務犯」であればつねに正犯が成立するという点である。不作為犯における正犯と共犯の区別は、当該不作為が支配犯のものなのか「義務犯」のものなのかによって方向づけられるのである。その意味で、両見解は、作為なのか不作為なのかという関与の形態を越えた説明を提供するものである。   (2)  ロクシンの見解の問題点    ロクシンの見解では、作為犯は支配犯と「義務犯」とで区別されるが、不作為犯はすべて「義務犯」である。つまり、不作為による関与はすべて「義務犯」であって、原則正犯と評価される。
  それ故、ロクシンの見解は、作為で実現されれば支配犯である犯罪が不作為で実現されたという場合、さきに検討した原則正犯説と同様の問題を抱えることになる。たとえば、毒物の管理者が殺人犯人による毒物の持ち出しを黙認するという場合、毒物を手渡すという作為であれば支配犯として幇助にとどまる役割が、不作為であれば「義務犯」として正犯になるという評価矛盾に陥る。この点、ロクシンは、作為の行為者に対し不作為で関与する保障人は、不作為の正犯として幇助の刑で処罰され、作為で関与する場合には、作為の幇助犯としてのみ処罰されるとして、量刑に関して矛盾を回避しようとする。この説明は、ドイツ刑法一三条の解釈としては自然であるともいえようが(31)、やはり疑問である。というのも、結局のところ、「義務犯」として刑法外の特別義務違反に裏付けられたはずの不作為者の正犯性が作為幇助とならべば退けられることになり、けして一貫した説明とはいえないからである(32)
  (3)  ヤコブスの見解のメリット    この点、ヤコブスの見解では、犯罪の実現形態が作為なのか不作為なのかということは、その犯罪が支配犯なのか「義務犯」なのかということとは無関係である。つまり、作為であれ不作為であれ、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」の侵害であれば支配犯、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の侵害であれば「義務犯」なのである。ロクシンの見解との差異を強調していえば、不作為犯の中にも支配原理になじみうるものが存在し、そこでは対応する作為の支配犯と同様、正犯と共犯との区別が可能なのである。また、通常の犯罪が作為で実現された場合であっても、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の侵害であればすべて「義務犯」となるのである。
  こうしたヤコブスの見解のメリットは、いわゆる原則正犯説やロクシンの見解に対してむけられた批判を回避しつつ、「行為支配」を一元的な正犯・共犯の区別基準とする見解の限界を越えうる点にある。
  すなわち、ヤコブスの見解によれば、たとえば、殺人犯人による毒物の持ち出しを黙認する毒物の管理人(不作為)は、あたかも殺人犯人に毒物を手渡す場合(作為)と同様に、殺人罪の幇助である。管理人は、殺人犯人と侵害経過を結び付けるプロセスについてのみ「組織化管轄」を有しているので、そのかぎりで共犯者(支配犯)としての責任を負うのである。ここで、管理人が毒物の持ち出しを黙認したか(不作為)殺人犯人に毒物を手渡したか(作為)は、正犯・共犯の区別にまったく関係しない。「組織化管轄」の範囲、つまり、「組織化」の「量」だけが問題なのである(33)。したがって、関与が作為であれば共犯なのに不作為であれば正犯になるという評価矛盾はおこらない。
  その一方で、たとえば、公務員Aが同僚の公務員Bによって公文書に虚偽の記載がなされるのを傍観していたという場合、公務員Aは「制度」に由来する「特別義務」を侵害しているので、ドイツ刑法三四八条の虚偽公文書作成罪の正犯となる。つまり、「義務犯」の正犯である。ここで、実際に虚偽の記述をした公務員Bが現実的な「行為支配」を有していたことは、公務員Aについての負責判断にとってまったく重要ではない。つまり、ヤコブスの見解によれば、公務員A自身が虚偽の記入をしたか(作為)、虚偽の記入がなされるのを傍観していただけか(不作為)にかかわらず、公務員Aは「制度」に由来する「特別義務」、すなわち、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」を侵害しているので、正犯となるのである(34)。したがって、「行為支配」を区別基準とした場合の困難、つまり、不作為の公務員Aは共犯とならざるを得ず、故意的に非公務員を介入させた公務員については、なんら責任を問うことができなくなってしまうという困難を、解消することができるのである。
  さらにいえば、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」と「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」という区別によって、作為犯・不作為にかかわらず、同じように正犯原理を区別するヤコブスの見解は、保障人的義務の種類によって正犯・共犯を区別しようとする試みの限界を越えるものである。というのも、ヤコブスの場合、保障人的義務の種類の区別は正犯・共犯の区別そのものではなく、正犯原理の区別を意味するために、正犯・共犯の区別基準自体は、作為犯と不作為犯とで共通するからである。
  (4)  小  括    以上、不作為犯における正犯と共犯の区別基準に関する従来の議論および「義務犯」論によるあらたな説明を検討した。その結果、とりわけヤコブスによる「義務犯」論に依拠すれば、支配犯と「義務犯」とが区別されるだけでなく、その区別が作為犯・不作為犯において貫かれることによって、不作為犯の正犯原理あるいは正犯・共犯の区別基準は、作為犯とまったくパラレルに説明されうることがわかった。そこで、最後に、不作為による共犯(幇助)の成立が問題とされたわが国の判例を素材に、「義務犯」論にもとづくあらたな解決方法、とりわけ、この問題に関するヤコブスによる説明の展開可能性について検討することにしたい。

  四  わが国の判例と不作為による共犯−あらたな解決の方向性    すでに述べたように、不作為による共犯(幇助)の成立が問題とされたわが国の判例において、不作為犯における正犯・共犯の区別基準を正面から論じたものはいまだ見られない。ほとんどのものは、はじめから不作為による幇助犯の成否のみを問題としている。そのため、わが国の判例は、故意の作為正犯が存在する場合の不作為は原則幇助であるという考えにたつものといえそうである(35)。もっとも、なぜ故意の作為正犯が存在する場合の不作為は原則幇助だといえるのかについては、不明なままである。したがって、これまでのわが国の判例状況を無理なく説明しつつ、不作為犯における正犯・共犯の区別基準をめぐる困難を克服し、その理論的正当性を示しうる説明が必要なのである。
  こうした意味で、わが国の判例にとって、ヤコブスによるあらたな説明は有意義であるようにおもわれる。なぜなら、ヤコブスの説明は、作為犯に対する不作為の関与を原則幇助とする考えを包括しつつ、それが区別問題において遭遇する限界を克服しうるものだからである。
  すなわち、ヤコブスの見解で、支配犯、すなわち、「組織化管轄にもとづく犯罪」に関して示された正犯および共犯の基礎づけは、つぎのような形で、わが国の判例ないし原則幇助説の考えを包括している。つまり、ヤコブスの見解で、支配犯、すなわち、「組織化管轄にもとづく犯罪」に関する正犯と共犯の区別基準は、被害結果についての「管轄」の有無に求められる。すなわち、結果について「管轄」を有していた人を重要な役割を果たした者として正犯とし、侵害経過に至るプロセスについてのみ「管轄」を有していた人を何らかの役割を分担していただけの者として共犯とするものである(36)。この点、わが国の判例ないし原則幇助説では、諸般の事情を総合的に判断し、正犯とするのが相当でない者は共犯であると説明されたり、故意の作為正犯が存在する場合にはその「行為支配」が優越するため不作為による幇助は原則幇助にとどまると説明されたりしている。つまり、いずれにせよ重要なのは、結果について決定的な役割を果たし、第一に罪責を負うべき者が正犯であり、そうでない者は共犯となりうるという点である。この点で、正犯か共犯かの区別は、まさに、被害結果についての「管轄」の有無に帰着するといえるのである(37)
  そして、わが国の判例の中で、不作為による幇助の成立を否定し無罪としたものに目を向けてみれば、そのような事案は、関与者がもはや何の「管轄」も有していないといえる場合なのである。たとえば、貸与した自己所有の船が密輸に使われていることに後で気づいたがそのまま放置した船主について、密輸幇助の成立を否定し、無罪を言い渡した、福岡高判昭和二五年八月一日(判特一二巻一二二頁)や、料理店を開店し、その客室を売春の場に提供しようと企てていたものの依頼によって、そのような事情を知らないままに同店に関する料理店営業および飲食店営業の各許可について名義貸しを行い、後に売春の場所提供が行なわれている実態を知りながらこれを放置した被告人に、不作為による売春防止法違反の幇助犯の成立が問われた事案について無罪を言い渡した、大阪高判平成二年一月二三日(判タ七三一号二四四頁)がある。これらはいずれも、道具や権利の貸与によって貸与したものについての「管轄」がすでに移転しており、被告人はもはや何の「管轄」も認められない場合だといえる(39)。また、自己の従事するゲームセンターと関係するパチンコ店の集金人への強盗計画を同僚から打ち明けられながら、犯行防止や被害の回避のための措置をとらなかった被告人に、不作為による幇助犯の成立を否定し無罪とした、東京高判平成一一年一月二九日(判時一六八三号一五三頁)である。この判決では、直接的には、本件金銭の保護ないしその本社への搬送が職務の対象であったかどうか、また、同僚の行状を監督する職務を負っていたかどうかが検討されている。つまり、ここでも、結果発生およびそれに至るプロセスについての被告人の「管轄」が問われていたと理解できるのである(40)
  このように、わが国の従来の判例のほとんどは、ヤコブスのいう「組織化管轄にもとづく犯罪」に関わるものとして、この範囲についてのヤコブスの見解によって説明されうるのである。
  問題は、ヤコブスの見解にしたがうと、「義務犯」として処理されるべき判例について存在する。すなわち、@町会議員総選挙に際して選挙権のない者が正当な理由もなく投票を行なったことにつき、選挙会における任務に反してこれを制止しなかった選挙長である被告人には、投票関渉に対する不作為の幇助が成立するとしたもの(大判昭和三年三月九日刑集七巻一七三頁)や、A内縁の夫が三歳の子供にせっかんするのを放置して子供を死に致らしめたという事案について、親権者である被告人に、不作為による傷害致死幇助罪の成立を認めたもの(札幌高判平成一二年三月一六日判時一七一一号一七〇頁、第一審釧路地裁平成一一年二月一二日判時一六七五号一四八頁)である。ヤコブスの見解にしたがえば、いずれの被告人も「義務犯」の正犯ということになる。@では、選挙会における選挙長として、選挙の公正の自由を維持すべき義務が、Aでは、親権者として子供を保護すべき義務が被告人の義務の内容であり、これらはいずれも、「制度」に由来する特別な義務(ポジティヴな義務)だからである。
  もっとも、ヤコブスの見解にしたがうならば、どのようなものが「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」に含まれるのかは、けして固定的ではない。その時々の社会において、社会の根本条件を形成しそのあり方を決定するような、つねに保護されるべき制度に由来する義務が、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」である。換言すれば、何を「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」とするかは、社会に規定される(41)
  したがって、たとえば、「親というものは子供を保護しなければならない」という制度がもはや社会において積極的に保護される必要はないというのであれば、親の義務を「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」として取り扱う必要もない。その時々の状況に応じて偶然的に発生しうる「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」の侵害のみを問題とすれば足りるということになる。
  もっとも、親子関係にもとづく義務に関していえば、それを制度的な(ポジティヴな)義務であるとすることにさして争いはないように思われる。むしろ問題は、そのような義務に違反した不作為を、傷害致死罪や殺人罪など、惹起犯の正犯として捉えることがわが国ではかならずしも容易ではなく、「義務犯」として正犯の責任を問うとすれば、保護責任者遺棄致死罪などの規定によらざるを得ないのではないかという点にある。
  いずれにせよ、「特別な義務」の範囲やその効力など、「義務犯」論の有効性については、諸々の関与形態を対象に検討する必要がある。そこで次節では、「義務犯」論にもとづけば、不作為犯と共犯をめぐるいくつかの問題がどのように解決されるのか、不作為犯に対する共犯の問題を素材に、若干の検討を行うことにしたい。

(1)  同様の指摘をするのは、松生光正「不作為による関与と犯罪阻止義務」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一四二頁、松宮孝明「不作為と共犯」中山研一・浅田和茂・松宮孝明『レヴィジオン刑法(2)共犯論』(一九九七)一八七頁、山口厚「プロバイダーの刑事責任」法曹時報五二巻四号(二〇〇〇)八頁など。
(2)  松宮・前掲注(1)一九〇頁、山口・前掲注(1)論文八頁以下、平山幹子「不真正不作為犯について−『保障人説』の展開と限界−」立命館法学二六四号一四〇頁以下。
(3)  この問題を取り扱ったわが国の主要な文献として、注(1)で挙げたものの他に、中義勝『刑法上の諸問題』(一九九一)、神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)、大野平吉「不作為と共犯」刑法基本講座第四巻(一九九二)一〇九頁以下、阿部純二「不作為による従犯(上)(下)」刑法雑誌一七巻三・四号一頁以下、一八巻一・二号七八頁以下、斉藤誠二「不作為と共犯」ロースクール一四号(一九七九)一三頁以下、宮澤浩一『刑法の思想と論理』(一九七五)一〇九頁以下、高橋則夫「不作為による幇助犯の成否」現代刑事法二巻六号(二〇〇〇)一〇四頁以下などがある。山中敬一『刑法総論(3)』(一九九九)八四八頁以下。
(4)  Vgl. Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S. 300ff.;Welzel, Das Deuche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 222;Gerald Gru¨nward, Die Beteiligung durch Unterlassungen, GA 1959, S. 111f. なお、平山・前掲注(2)論文一四〇頁以下、同・(一)立命館法学二六三号二三七頁以下。
(5)  松宮・前掲注(1)一八七頁、高橋・前掲注(3)論文一〇五頁。
(6)  Wilhelm Gallas, Ta¨terschaft und Teilnahme, in:Materialien zur Strafrechtsreform, 1. Band, 1954, S. 121ff.;ders., Strafbares Unterlassen im Falle einer Selbstto¨tung, JZ 1960, S. 649ff., 686ff.;ders., Studien zum Unterlassungsdelikt, 1989, S. 92ff.;Kielwein, GA 1955, S. 225ff.
(7)  林幹人『刑法総論』(二〇〇〇)四四三頁。
(8)  Claus Roxin, in:LK, § 25, Rdn. 204.
(9)  Javier Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung −Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999, S. 139ff. Vgl. RG 28, 110. なお、本稿第二章第二節参照。
(10)  Roxin, Ta¨terschaft und Tatherrschaft, 7. Aufl., 1999, S. 497.
(11)  Gru¨nward, Die Beteiligung durch Unterlassungen, GA 1959, S. 117f.
(12)  Gallas, Studien, S. 92ff.
(13)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 130.
(14)  Rolf Dietrich Herzberg, Die Unterlassung im Strafrecht und Garantenprinzip, 1972, S. 259ff.;Scho¨nke−Schro¨der−Cramer, StGB Kommentar, 25. Aufl., 1997, Vor §§ 25ff., Rdn. 103ff.;
(15)  中・前掲注(3)書三三〇頁以下、阿部・前掲注(3)論文八三頁、山中・前掲注(3)書八四八頁。
(16)  Vgl. Gu¨nther Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl., 1991, 29/27.
(17)  なお、松宮・前掲注(1)一九〇頁参照。
(18)  平野龍一『刑法総論(3)』(一九七五)三九六頁。
(19)  拙稿・前掲注(2)論文一三六頁、一四七頁。
(20)  本稿第一章第一節参照。Roxin, Ta¨terschaft, S. 466f.;ders., in:LK, § 25, Rdn. 37.
(21)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 483ff.
(22)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 501ff.
(23)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 501ff.
(24)  本稿第一章第二節参照。Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 28/16, 29/58, Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 29ff.
(25)  Vgl. Gu¨nther Jakobs, Die strasfrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996, S. 22;ders., Akzessorita¨t. Zu den Vorraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA 1996, S. 262f.
(26)  Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aulf., 1993, 29/57;ders., Die strasfrechtliche Zurechnung, S. 36;ders., Tun und Unterlassen, S. 11f.
(27)  Vgl. Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 11f.
(28)  Vgl. Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 12.
(29)  Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 29/107.
(30)  Jakobs, Strafrecht AT, 7/70, 21/115ff.;Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 151.
(31)  ドイツ刑法一三条は、不作為による共犯の成立を否定しつつ、作為正犯に比べて当罰性の低い不作為については、第二項の裁量的的減軽によってその刑を制限しようとするアルミン・カウフマンらの主張の影響を受けたものとおもわれる。もっとも、刑法一三条に関する刑法特別委員会の報告書によれば、「不作為犯においては正犯と共犯との区別がそもそも可能であるかという学説上の論叢問題に介入しない」という趣旨で第一項から「正犯または共犯として」という文言が削除され、かわりに、第二項に減軽規定が追加された。なお、この点に関しては、拙稿・前掲注(2)論文(二)立命館法学二六三号(一九九九)二三七頁以下、とくに二四六頁参照。
(32)  Vgl. Herzberg, Die Unterlassung im Strafrecht, S. 265.
(33)  Jakobs, Akzessorita¨t, S. 262f.;ders., Tun und Unterlassen, S. 7f.
(34)  この問題に関する議論は、本稿第二章第二節参照。
(35)  不作為による共犯(幇助)の成否が問題とされたわが国の判例には、たとえば以下のようなものがある。@町会議員総選挙に際して選挙権のない者が正当な理由もなく投票を行なったことについて、選挙会における任務に反してこれを制止しなかった選挙長である被告人について、投票関渉に対する不作為の幇助を認めたもの(大判昭和三年三月九日刑集七巻一七三頁)、A保険契約がほとんど無審査で虚偽の審査報状にもとづき締結されたことを知りながら、その旨を会社に報告して犯行を未然に防ぐ義務に反して何の措置にでることなく書類を本社に送付する手続きをとった保険株式会社代理店主である被告人甲および同会社支社の外務員である被告人乙について、不作為による詐欺幇助罪の成立を認めたもの(大判昭和一三年四月七日刑集一七巻二四四頁)、B町民が共同販売所の職員を偽罔して実数以上の配給物資を入手してるのを知りながらそれを放置した町内会長について、詐欺罪の幇助を成立させたもの(大判昭和一九年四月三〇日刑集二三巻八一頁)、C貸与した自己所有の船が密輸に使われていることに後で気づいたがそのまま放置した船主について、密輸幇助の成立を否定し、無罪を言い渡したもの(福岡高判昭和二五年八月一日判特一二巻一二二頁)、D工場の倉庫係として、入庫する製品の数量の点検と帳簿記入等の仕事に従事していたが、同僚から依頼を受けて同人が製品を窃取するのを見過ごし、後に謝礼を受け取った被告人に、不作為による窃盗の幇助の成立を認めたもの(高松高判昭和二八年四月四日高裁特三六巻九頁)、E劇場舞台のストリップ・ショウにおいて猥褻な演技がなされるのを防止しなかった劇場責任者に、公然猥褻罪の幇助罪を認めたもの(最判昭和二九年三月二日裁判集九三巻五九頁)、F犯行が確実で明白ではなかった場合に、保険金詐欺の目的で工場に放火する社長の計画を知りながらこれを阻止しなかった取締役については、不作為による放火罪の幇助は成立しないとしたもの(名古屋高判昭和三一年二月一〇日裁特三巻五号一四八頁)、G自宅内で輩下らが被害者に暴行を加える状況を見ていながらそれを黙認した愚連隊の首領に、傷害罪の幇助の成立を認めたもの(東京地判昭和三四年二月一八日判時一八五号三五頁)、H配下の暴力団員が自己の所有する有する(登録済みの)日本刀を不法に携帯し、犯行に使用するのを黙認した暴力団幹部である被告人について、不作為による傷害幇助および銃砲刀剣類等所持取締法違反幇助を成立させたもの(高松高判昭和四〇年一月一二日下刑集七巻一号一頁)、I自宅に隣接し一時使用の許された他人の土地が不法に侵奪されるのを知りながら、地主との約束に反してそれを黙認した被告人について、不動産侵奪罪の幇助犯を成立させたもの(大阪地判昭和四四年四月八日判時五七五号九六頁)、J自分がそばを離れれば被害者が共犯者によって殺害されることを予測しながら現場を離れ、その間に被害者が殺害されたという事案に関して、被告人に不作為による殺人幇助罪の成立を認めたもの(大阪高判昭和六二年一〇月二日判タ六七五号二四六頁)、K料理店を開店し、その客室を売春の場に提供しようと企てていたものの依頼によって、そのような事情を知らないままに、同店に関する料理店営業および飲食店営業の格許可について名義貸しを行い、後に売春の場所提供が行なわれている実態を知りながらこれを放置した被告人に、不作為による売春防止法違反の幇助犯の成立が問われた事案について、無罪を言い渡したもの(大阪高判平成二年一月二三日判タ七三一号二四四頁)、L同僚の銀行強盗への加担を知りながらこれを止めなかった不作為について幇助犯の成立を否定し、無罪としたもの(東京高判平成一一年一月二九日判時一六八三号一五三頁)、M被告人が内縁の夫による三歳の子供に対するせっかんを放置して、内縁の夫による傷害致死を容易にしたという事案について、被告人の行為は作為による傷害致死幇助罪とは同視できないなどとして無罪を言い渡したもの(釧路地裁平成一一年二月一二日判時一六七五号一四八頁)、N右の判決の控訴審で、無罪とした第一審判決を破棄して傷害致死幇助罪の成立を認めたもの(札幌高判平成一二年三月一六日判時一七一一号一七〇頁)などがある。
(36)  松宮・前掲注(1)一八九頁以下。
(37)  Jakobs, Akzessorita¨t, S. 262f. なお、本稿第一章第二節参照。
(38)  なお、「故意の作為正犯が存在する場合には、その犯行を阻止しなかった不作為者は、それを独立の正犯とする特別の義務犯構成要件が存在しない限り、原則として、従犯にとどまると考えたほうがよい」としたうえで、「結果について第一に在責を負うべき正犯が存在する場合には、犯行後の結果不防止も従犯になる」とする松宮・前掲注(1)一九〇頁以下は、ヤコブスの見解をさらに展開させたものとおもわれる。
(39)  松宮・「不作為による幇助」法学セミナー五四四号(二〇〇〇)一〇八頁。
(40)  もっとも、@については、中教授がつぎのように述べている。すなわち、「選挙会における選挙長の取締り義務も、公正らしさをも含めて投票の公正自由を維持するということ以外にこれを求めることができないといって支障ないであろう。そうすると、被告人には不作為による投票関渉幇助罪が成立するというより、むしろ不作為による投票関渉そのものが成立すると解せられないでもない。それにもかかわらず、判例が被告人を不作為による同罪の幇助となるにすぎないとしたのは、投票関渉罪が自手犯ないし不真正自手犯たるの性質を帯びる犯罪であり、不作為によっては正犯たりえなということを顧慮した結果ではないかと思われる」とする。このように考えるならば、「義務犯」として@を捉えつつ、特別な正犯メルクマールが欠ける場合であるとして、判例の結論をうまく説明できるようにもおもわれる。しかし、投票関渉罪の関渉行為は、かならずしも自手犯とは捉えられてはいない点で、やはり問題は残る。中・前掲注(3)論文三八六頁。
(41)  Vgl. Jakobs, Die strasfrechtliche Zurechnung, S. 36f.

第二節  不作為に対する共犯

  本節では、不作為に対する共犯に関するいくつかの問題(1)について、「義務犯」論にもとづけばどのような解決が可能になるのか、若干の検討を行うことにしたい。

  一  不作為の共同正犯
  (1)  問題となる形態    不作為の共同正犯に関しては、不作為による共同正犯および不作為に対する共同正犯の成立範囲が問題となりうる。すでに示したように、前者に関しては、支配犯(組織化管轄にもとづく作為および不作為)相互の間で関与者が結果発生およびそれに至るプロセスについて等しく役割を果たし(すなわち組織化し)、共同して「管轄」を有している場合には、共同正犯が成立しうる。後者についても同じことがいえる。もっとも、これについては、不作為に対する共犯の成立範囲の問題としてあらためて論ずることにして、以下では、不作為相互の共同正犯に関してしばしば問題とされるつぎの点に目を向けてみたい。すなわち、複数の不作為者がそれぞれ単独で保障人的義務を果たしうるという場合、不作為者相互に実行行為の分担はないので共同正犯とはならずに同時犯となると考えられる一方で、複数の保障人が共同しなければ義務の履行が不可能な場合、同時犯構成では結果回避可能性がなかったとして、いずれの不作為者の責任も問いえなくなってしまうのではないか、という点である(2)
  (2)  「義務犯」論による説明    右の点について「義務犯」論にもとづけば、支配犯と「義務犯」とを区別することにより、つぎのような説明が可能となる。支配犯、すなわち、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」の侵害に関しては、複数人が同等に分担して、あるいは共同して「組織化」することは可能である。したがって、意思の連絡があれば、共同正犯が成立しうる。これに対して、「義務犯」、すなわち、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の侵害に関しては、義務は特別な義務者の一身専属的なものなので、分担はありえない。したがって、成立するのは、複数の同時犯である。複数の義務者がそれぞれの義務を充足した場合にだけ期待された結果が生じるということ(重畳する複数の不作為)も、それ自体としては、共同正犯を基礎づけるものではない(3)
  それでは、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」の侵害と「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の侵害とが競合する場合はどうなのだろうか。たとえば、父親と母親が他人と共同してその他人に子供を殺害させた場合である。親子関係にもとづく義務が「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」であるということを前提にすれば、つぎのように説明できる。この場合、まず、父親と母親のそれぞれに、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の侵害にもとづく「義務犯」すなわち正犯が成立する。つまり、二つの「義務犯」の同時犯である。さらに、両親が他人と共同して子供の殺害を同等に「組織化」していたという場合、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」を共同して侵害したといえる。したがって、「組織化管轄にもとづく犯罪」(支配犯)の共同正犯が成立する。つまり、二つの「義務犯」の同時犯と一つの共同正犯がともに成立することになる。もっとも、結論としては、法条競合によって、二つの「義務犯」(同時犯)として処理されることになる(4)

  二  不作為犯に対する共犯
  (1)  問題の所在    中心となる問題は、保障人的義務のない者が保障人に関与した場合、何らかの責任を問うことができるのか、また、それはなぜなのか、である(5)。もっとも、保障人的義務のない者の関与といっても、その作為または不作為の関与自体に何の義務違反も認められないのに責任が問われる場合がある、というわけではない。そうではなくて、保障人の有する義務と同じ意味での義務、保障人に課せられた一身専属的な義務の違反に、そのような義務を持たない者が関与した場合が問題なのである。
  その意味で、重要なのは、「義務犯」すなわち「特別な義務」の保持者にそのような義務を持たない者が関与した場合の取扱いであるということができよう。
  (2)  「義務犯」に対する関与    それでは、「義務犯」すなわち「制度的管轄」にもとづく「特別な義務(ポジティヴな義務)」の保持者にそのような義務を持たない者が関与した場合、義務を持たない者はどのように取り扱われるのだろうか。
  この問題は、通常、作為あるいは不作為という関与形態にかかわらず、構成的身分犯に対する非身分者の関与の問題として論じられるものである。たとえば、@非公務員が作成権限のある公務員を唆して内容虚偽の公文書を訂正せずに決裁させた場合、A非公務員が情を知らない公務員を利用して内容虚偽の公文書を作成させた場合、B母親がその幼児に食べ物を与えず、餓死させようとしているのを知りながら、愛人が意思を通じて見守っていた場合などが問題とされる。基本的な問いは、身分犯と共犯に関する規定である刑法六五条について、構成的身分犯に対する関与の場合には非身分者も身分者とおなじ法定刑で処罰されるのに(一項)、加減的身分犯に非身分者が関与した場合には別の刑に処せられる(二項)のはなぜなのか、という点にある(6)。この点、わが国では、「違法は連帯し、責任は個別化する」という考えにもとづいて、身分が行為の違法性に関するものである場合には一項によって連帯し、行為者の責任に関するものである場合には二項によって個別化されると説明する見解がある(7)。しかし、最近では、通説である制限従属形式から「違法性の完全な連帯」は帰結されず、単に正犯の構成要件該当・違法行為は共犯成立の必要条件にすぎないこと、また、たとえば嘱託殺人が失敗した場合の嘱託者が嘱託殺未遂の教唆として処罰されるべきかどうかという問題などを例に、正犯行為の違法性はかならずしも共犯行為の可罰性を導くものではなく、「構成的身分の連帯性」が自明の前提ではないことが、有力に主張されている。そして、問題は、構成的身分の部分的な連帯作用および共犯の可罰性の個別的評価の根拠づけにあるとされる(8)
  この点、「義務犯」論によれば、以下のように説明されることになる。
  まず、共犯の可罰性の個別的評価については、つぎのとおりである。すなわち、「義務犯」に関与した非身分者、つまり、「制度的管轄にもとづく特別な義務(ポジティヴな義務)」の非保持者は、義務者の義務違反を通じて、「(ポジティヴな)制度」の侵害を共働できるだけである。なぜなら、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」の保持者は、彼を一身専属的に拘束する特別な役割を果たしているのであって、「特別な義務(ポジティヴな義務)」自体についての分担は、まったくないからである。しかし、「特別な義務(ポジティヴな義務)」の保持者、つまり、特別な役割の担い手によって守られるべき「(ポジティヴな)制度」は、非身分者も構成員であるような社会のものであり、非身分者も「制度」の担い手を通じて「制度」を攻撃することができる(9)。要するに、「義務犯」を基礎づける「特別な義務」は義務者によって一身専属的に果たされるものであること、しかし、そのような義務によって保護される「制度」ないし「役割」は、義務のない者にとっても無関係ではないとして、非義務者との関係を説明することができるのである。
  つぎに、違法身分の部分的な連帯作用については、このように説明できる。「(ポジティヴな)制度」を保護すべき「特別な義務」の保持者がその役割に違反するプロセスや役割違反の際に行なった組織化行為に関しては、非身分者による分担もありえる。組織化行為は分業可能だからである。そのため、非身分者は、自身で「特別な義務(ポジティヴな義務)」を担うわけではないが、「特別な義務」の保持者が「(ポジティヴな)制度」の侵害に至るプロセスを組織化行為によって分業した場合には、その範囲で部分的に負責される(10)。要するに、義務者が「特別な義務」に違反することを誘発・助長した点については、組織化行為の分業として、「特別な義務」の保持者と非身分者の間に、部分的な連帯を認めることができるのである。
  以上のような説明からは、つぎの点が帰結される。まず、正犯性を基礎づける「特別な義務」を負担しうるのは「義務」の保持者だけであって、「義務」のない者(非身分者)が間接正犯や共同正犯となることはない。その一方で、「義務犯」による「特別な義務」の違反−たとえば、「公務員としての忠実義務」の違反−を誘発・助長し、それを通じて、義務者によって保護されるべき「(ポジティヴな)制度」−たとえば、公務員として担保すべき公文書の内容の正確性−を攻撃した非身分者は、「義務犯」への教唆・幇助として負責される(11)。したがって、たとえば、さきに示した@では、虚偽公文書作成罪(刑法一五六条)の教唆犯が成立するが、Aではせいぜい公正証書原本等不実記載罪(一五七条)が成立するだけである。というのも、この場合、公務員はその「特別な義務」としての「忠実義務」に違反したわけではないので、何ら罪に問われない。そのため、非公務員が犯しえたのは、主体を公務員にかぎらない公正証書原本等不実記載罪だけだといえるのである(12)。そして、Bについては、保障人の義務の内容が「特別な義務」であるかぎり、実行行為の分担はありえず、共同正犯は成立しないということになる(13)
  いずれにせよ、「義務犯」の「特別な義務」の侵害は一身専属的で連帯はありえず、ただ、義務侵害に際して同時にまたはそのプロセスに関して組織化がなされた場合には、その範囲でのみ分業が可能となる−つまり、部分的に連帯する−と説明できるのである。

  三  「義務犯」論による説明−あらたな解決の方向性    以上のように、「義務犯」論は、不作為に対する共犯(共同正犯を含む)の問題など、義務者への関与の問題一般について、あたらしい解決方法をもたらしうるものである。すなわち、「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」と「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」という正犯原理ないし負責根拠の区別によって、当該義務がその保持者に一身専属的に課されたものなのか、他者との分担が可能なものなのかを区別する。それによって、義務者に加担した非義務者について、義務侵害に関して義務者と連帯しうるかどうか、それはいかなる範囲でなのかを明らかにするのである。
  つまり、前節で検討した不作為による共犯の問題が、主要には、「量」に関する正犯との区別問題であったのに対して、本節で検討した不作為に対する共犯(共同正犯を含む)は、「質」に関してすでに正犯とは区別されうる関与の問題である。「義務犯」論は、いずれにせよ作為なのか不作為なのかという関与形態にかかわらず、従来、カズイスティックな議論に終始していた(作為および)不作為と共犯の諸問題について、統一的視点からあらたな解決をもたらしうるものであるといってよいように思われる。

(1)  不作為に対する共犯の問題に言及した主な文献には、中義勝『刑法上の諸問題』(一九九一)、神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)、大野平吉「不作為と共犯」刑法基本講座第四巻(一九九二)一〇九頁以下、斉藤誠二「不作為と共犯」ロー・スクール一四号(一九七九)一三頁、松宮孝明「不作為と共犯」中山研一・浅田和茂・松宮孝明『レヴィジオン刑法(2)共犯論』(一九九七)一八七頁、橋本正博「不作為と共犯」西田典之・山口厚編『刑法の争点・第三版』(二〇〇〇)一一八頁以下などがあるものの、その数はけして多くはない。
(2)  橋本・前掲注(1)一一八頁、松宮・前掲注(1)一九一頁、山中敬一『刑法総論(3)』(一九九九)八一一頁。
(3)  Javier Sa´nchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung −Zugleich ein Beitragzur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999, S. 158ff. なお、ここでそれぞれの不作為と結果との関係については、「過剰に条件づけられた結果」の問題として説明しうる。Vgl. Gu¨nther Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl., 1993, 7/84.
(4)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 160, 207f.;Gu¨nther Jakobs, Strafrecht AT, 21/40ff.
(5)  橋本・前掲注(1)一一八頁、松宮・前掲注(1)一九二頁、平野龍一『刑法総論(3)』(一九七五)三九六頁、大谷實『新版・刑法総論』(二〇〇〇)四八五頁以下。
(6)  平野・前掲注(5)三六六頁。
(7)  西田典之『共犯と身分』(一九八二)一六七頁以下、同「『共犯と身分』再論」『内藤謙先生古希祝賀・刑事法学の現代的状況』(一九九四)一八一頁。
(8)  松宮「共犯の『従属性』について」立命館法学二四三・二四四号(一九九六)三二七頁以下、同「共犯と身分」『レヴィジオン刑法(2)共犯論』(一九九七)一二〇頁以下。なお、中山研一「西田典之『共犯と身分をめぐる一考察(1)ー(5)』法学協会雑誌九二巻三、六、一二号(昭和五〇年、五四年)」法律時報五二巻二号(一九八〇)一四三頁以下。
(9)  Vgl. Jakobs, Tun und Unterlassen im Strafrecht, 1999, S. 12;Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 167ff.
(10)  Jakobs, Tun und Unterlassen, S. 12;Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 168.
(11)  Sa´nchez, Pflichtdelikt, S. 126ff., 168, 172ff.
(12)  虚偽公文書作成罪は「公文書の内容に対する公共の信用」を一般的に保護する趣旨であるとして、公務員でない者についての間接正犯の成立を許容しているのは、中森義彦『刑法各論』(一九九六)二四八頁、西田『刑法各論』(一九九九)三四三頁など多数。これに対する批判として、松宮・前掲注(8)一二一頁。
(13)  保障人としての地位を身分とした上で、刑法六五条一項の適用により、義務のない者について共同正犯の成立を認めるのは、大谷・前掲注(5)書四八六頁。


むすびにかえて


    以上、本稿では、不作為と共犯の諸問題を論ずる上での前提的考察として、近年ドイツにおける「義務犯」論の展開とそれをめぐる議論を概観した。さらに、正犯・共犯の区別問題をはじめとする不作為と共犯の問題について、その解決の方向性を探究した。その要旨は、以下のとおりである。

  (1)  「義務犯」論の展開    第一章では、ロクシンによって提唱され、ヤコブスによってさらなる展開をみせている「義務犯」論がどのようなものであるかを概観した。
  @  ロクシンの「義務犯」論    ロクシンの場合、「義務犯」とは「構成要件に前置される刑法外の特別義務を侵害する者だけが正犯となりうるような」犯罪のことであり、「行為支配」を正犯基準とする支配犯とは区別される。また、結果回避義務に違反する不作為犯はすべて「義務犯」であって、原則正犯となる。さらに、共犯とは、正犯性を根拠づける刑法外の特別義務を侵害することなく構成要件充足に加担した者のことである。
  A  ヤコブスの「義務犯」論    ヤコブスの場合、「義務犯」とは「制度的管轄(ポジティヴな義務)」にもとづく犯罪のことであり、「組織化管轄(ネガティヴな義務)」にもとづく犯罪、つまり、支配犯とは、負責根拠の相違によって区別される。この区別は、作為犯と不作為犯とで異ならない。また、通常の犯罪(たとえば殺人罪)も、「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」に違反する作為または不作為で実現される場合は、「義務犯」となる。そして、支配犯では、組織化の量あるいは被害結果についての管轄の有無による正犯と共犯の区別が可能であるのに対して、「義務犯」では原則正犯しか成立しない。なぜなら、「義務犯」の負責根拠である「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」は、義務者だけが担うことのできる「特別な義務」であり、その侵害はつねに正犯的に行われるからである。換言すれば、支配犯の「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」は複数人による分担が可能であるのに対して、「義務犯」の「制度的管轄にもとづく義務(ポジティヴな義務)」は義務者の一身専属的な義務なので、分担はありえないのである。
  (2)  「義務犯」をめぐる議論  第二章では、第一章で示したような「義務犯」論に対する批判とそれへの反批判を整理・検討した。
  @  刑法のモラル化としての「義務犯」論?    「義務犯」論への最大の批判は、つぎのようなものである。すなわち、刑法外の特別義務(ポジティヴな義務)の違反を中核とする犯罪を認めることは、道徳的義務の違反にまで処罰範囲を広げることを意味し、妥当ではないというものである。これは、ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別は作為(禁止)と不作為(命令)の区別に対応するという理解のもと、自由を制限する度合いの大きいポジティヴな義務(作為義務)は道徳的義務である、という考え、および、ポジティヴな義務は、ドイツ刑法三二三条cの一般救助義務に代表されるように、その主体や内容が不明確である、という考えにもとづく。
  しかし、「義務犯」論の主張者によれば、ネガティヴな義務とポジティヴな義務の区別は作為(禁止)と不作為(命令)の区別に一致しない。また、「特別な義務」であるポジティヴな義務がネガティヴな義務に比べて自由を制限する度合いが大きいとしても、ポジティヴな義務を法的義務から排除する理由はない。その制限は自由主義社会の存立にとって本来的に必要なものであるし、法と道徳の区別自体、固定的なものではないからである。さらに、「義務犯」の特別な義務(ポジティヴな義務)は、ドイツ刑法三二三条cの一般救助義務とは性質の異なるものであって、その主体や根拠は十分に限定されている。したがって、「義務犯」は刑法の許されざるモラル化であるという批判は、かならずしも正当ではない。
  A  「行為支配」による説明の限界    「義務犯」を否定する見解は、「支配」あるいは「組織化管轄にもとづく義務(ネガティヴな義務)」よる負責の一元的な説明を展開する。つまり、「行為支配」や「結果の原因に対する支配」、「態度自由に対する結果責任」などによって、あらゆる犯罪への負責を基礎づけようと試みる。たとえば、子供に対する両親の義務については、親の子供に対する潜在的あるいは社会的に認められる事実的な監視支配や、両親が子供を「出生させた」という権利の裏面として説明したり、「支配」原理にもとづく負責の「例外」であると主張したりする。また、たとえば、不作為者の持つ「潜在的な行為支配」によって説明しようとする。
  しかし、これらの説明は成功していない。潜在的あるいは社会的に認められる「支配」というのは、社会的な「制度」の言い換えにすぎず、すでに「支配」の持つ本来の意味内容を越えている。両親の子供に対する義務を出産という組織化自由(権利)の結果(裏面)であるとする説明は、義務は親権の対価であるという説明以上のものではなく、制度的な関係を言い換えているにすぎない。また、「支配」原理に方向づけられる負責の説明を原則とし、親子関係や国家的義務にもとづく負責を例外視するという説明では、なぜ負責を否定するのではなくて例外的な取扱いが可能となるのかを論証できない。さらに、「潜在的な行為支配」による説明では、結果回避の可能性を有する者はすべて不作為による正犯者となり、行為経過においてまったく従属的な意味しか持たない者であっても行為支配者とみなされるのだから、教唆や幇助は存在しないことになってしまう。たとえば、自殺に対する不可罰の幇助は、不作為によって、要求による正犯的な殺人へと変えられてしまうのである。
  B  「行為支配」とならぶ「義務侵害」?    正犯性の判断には「義務侵害」だけでなく「行為支配」が必要であるとする見解である。「義務犯」の義務侵害が「特別な行為態様」でなされるような構成要件では、「義務侵害」とともに「特別な行為態様」、すなわち、作為によって基礎づけられる「行為支配」が要求されているというのが、この見解の重点である。
  しかし、指摘された構成要件は、行為者が特定の作為を行なうことをかならずしも前提としていない。少なくとも、「行為支配」が要求されているわけではない。詳細な正犯行為の記述あるいは「特別な行為態様」は、明確性の要請によって立法者が必要的に命ぜられた、通例のものでしかない。つまり、身分のある正犯者の一定の行為の企てを前提としているのではなく、いかなる義務侵害が考慮されるのかを記述しているだけである。
  (3)  不作為と共犯    第三章では、第二章での検討を踏まえ、不作為犯における正犯と共犯の区別をめぐる従来の議論の限界と「義務犯」論によるあらたな説明を検討した。さらに、不作為犯に対する共犯の問題についても、その解決の方向性を探究しようと試みた。
  @  不作為犯における正犯と共犯の区別に関する従来の議論の限界    故意犯に不作為で関与した者の取扱いを素材に、どのようにすれば作為犯と不作為犯とで正犯・共犯の区別基準をパラレルに示しうるかという視点から、不作為犯における正犯と共犯の区別をめぐるドイツおよびわが国の議論を整理・検討した。その結果、不作為による関与を原則正犯とする見解には、作為犯と不作為犯とで異なる正犯概念(原理)を認めた点に問題があった。また、作為犯における区別基準を転用しようとする見解には、「行為支配」によってあらゆる作為および不作為への負責を把握しようとした点に、保障人的義務の種類に着目する見解には、保障人的義務が不作為犯の特殊要件とされている点に、限界があった。
  A  「義務犯」論による説明    ロクシンの見解では、不作為による関与はすべて「義務犯」であって、原則正犯であるというかぎりで、原則正犯説の場合と同様の問題を見いだせる。この点、ヤコブスの見解は、いわゆる原則正犯説やロクシンの見解に対してむけられた批判を回避しつつ、「行為支配」を一元的な正犯・共犯の区別基準とする見解の限界を越え、作為犯と不作為犯とでパラレルな正犯・共犯の区別基準を提示するものである。また、それは、わが国の判例理論をカバーしうるものである。
  B  不作為に対する共犯    不作為犯に対する共同正犯や狭義の共犯の問題を含め、義務者に対して義務のない者が関与した場合の取り扱いに際しても、「義務犯」論はあらたな解決方法を示唆するものである。とりわけ重要なのは、「義務犯」に対する関与の問題であり、構成的身分犯に対する非身分者の関与の問題として論じられるものが関係する。たとえば、非公務員が作成権限のある公務員を唆して内容虚偽の公文書を訂正せずに決裁させた場合などである。問題は、構成的身分の部分的な連帯作用および共犯の可罰性の個別的評価をいかにして説明するかである。この点、「義務犯」論は、「義務犯」の「特別な義務」は一身専属的なものであること、しかし、義務によって保護される役割や制度は、義務のない者とも無関係でないことから、共犯の可罰性の個別的評価を基礎づける。と同時に、義務のない者が義務者による「特別な義務」の違反を誘発・助長した点については、組織化行為の分業として、義務者との間の部分的な連帯を基礎づけることができる。

  二  以上、本稿の概要を示した。冒頭でも述べたように、本稿がこのような形で「義務犯」論を検討したのは、不作為と共犯、とりわけ、不作為犯における正犯と共犯の区別問題を論ずる際の手掛かりを得るためであった。その意味で、本稿は、不作為と共犯に関する前提的考察なのである。もう少しいえば、本稿の問題意識は、「不真正不作為犯は、作為による構成要件の実現と同価値であり同置できることを条件に作為犯規定の適用を受けるのだから、作為犯と不作為犯とで正犯概念が異なるわけにはいかず、また、同価値や同置という要件からすれば、正犯と共犯の区別も、作為犯と不作為犯とでパラレルになされなければならない」というものである(1)。こうした問題意識から、不作為と共犯の問題を論ずるにあたっては、作為犯の領域で妥当している正犯原理ないし正犯・共犯の区別基準はいかなるものなのか、それは不作為犯においても維持されうるのかを明らかにする必要があるとの考えに至ったところ、近年ドイツでは、「義務犯」というあらたな正犯原理にもとづく理論が展開されていた。そこで本稿は、「義務犯」論を従来の正犯と共犯の区別理論の限界を論ずるものとして位置づけ、また、「義務犯」論への批判およびそれへの反批判に目を向けることによって、「義務犯」論というあらたな理論の基盤を検査した。さらに、以上の作業を通じて、従来の議論の限界とあたらしい区別理論への示唆を得ようと試みた(2)
  右のような本稿の問題意識や検討目的との関係でいえば、本稿の検討内容は、つぎのような答えを提示するものであったとおもわれる。すなわち、「義務犯」論に向けられた批判、つまり、「義務犯」は「特別な義務(ポジティヴな義務)」すなわち倫理的義務の違反を中核とする犯罪を正面から認めるものであって許されるべきではないという批判は、正鵠を射たものとは言い難い。なぜなら、ポジティヴな義務は、自由主義社会が存立するために本来的に必要なものであるし、今日では、伝統的な法と倫理の区別を維持すること自体、困難だといえそうだからである。実際、解釈論のレベルでも、「行為支配」のみに方向づけられた正犯性の把握には−古典的な事例解釈に際しても、環境犯罪のような新しい犯罪類型の解釈に際しても(3)−限界がある。この点、「義務犯」論は、作為犯と不作為犯の区別ではなく、支配犯と「義務犯」という正犯原理にもとづく区別が重要であるとする。そうすることによって、同じ正犯原理の妥当する犯罪においては、作為犯と不作為犯とでまったくパラレルに正犯と共犯の区別を論ずることを可能とするのである。さらに、支配犯と「義務犯」との区別は、それぞれの負責根拠およびその侵害の実現形態の質的な区別−組織化管轄にもとづく義務の侵害か制度的管轄にもとづく義務の侵害か、あるいは、分担可能な義務の侵害か一心身専属的な義務の侵害か−を明らかにすることにより、不作為に対する共犯の問題に関しても、たいへん有効な分析視角を提示するものである。
  もっとも、本稿がとりわけ注目したヤコブス流の「義務犯」論が、そのままわが国で通用するというわけではない。もっとも大きな問題は、構成要件の実現にとって作為と不作為の区別は重要ではないという考えは、ドイツ刑法一三条を前提に主張しうるものだということである。保障人的義務の侵害に関して、「支配」という考えが馴染みうる「組織化管轄にもとづく義務」の違反の場合はともかく、わが国では、保障人的義務に違反する作為および不作為を同じに扱ってよいという基盤はない。少なくとも、通常の犯罪が「制度的管轄にもとづく義務」に違反した不作為によってなされた場合については、そもそも当該構成要件に該当するということができるかどうかが問題とされねばならないのである。
  しかし、だからといって、本稿の検討の意義が損なわれるわけではない。作為および不作為による特別義務の違反を正犯原理とする説明は、いくつかの真正不作為犯規定や身分犯規定の解釈において生きてくるのである。換言すれば、特別の義務犯構成要件が存在する限り、支配犯と「義務犯」とを区別して論ずる「義務犯」論の意義は、わが国でも注目されてもよい。むしろ重要なのは、特別の義務犯構成要件に関しては、支配犯とは異なる正犯原理が妥当するという点、つまり、複数の関与者はただちに正犯あるいは共犯という関係にたつのではなくて、複数の構成要件の実現が並列している場合があるという点を明らかにし、そこから従来の(作為および不作為による)関与理論を構築しなおすことである。

  三  以上から、今後の検討課題としては、以下のものを設定することにしたい。
  本稿から得た視点を手掛かりに、虚偽公文書作成罪や職権濫用罪などの公務員による犯罪、あるいは、背任罪などの特別義務の構成要件にかかわる犯罪類型を素材に、不作為と関与ないし「義務犯」と関与の各論的検討を行なう。本稿で言及したような、公務員に対する公務員でないもの(非身分者)の関与の問題など、義務者に対する義務のない者の関与の問題あるいはその逆について、作為および不作為による関与の双方を検討する。本稿では、「義務犯」論を用いた場合、構成的身分の部分的な連帯作用および共犯の可罰性の個別的評価の双方を、「特別な義務」の誘発・助長についての組織化行為の分業として、また、「特別な義務」の一身専属性と義務のない者による義務者を通じた「制度」の攻撃として、説明しうることが示された。そこで、このような説明が、正犯原理および共犯の処罰根拠に関する一般論においてどのように位置づけられるのか、それによって、不作為と共犯、ひいては、作為犯・不作為犯の一般理論に及ぶ影響について順次検討する。
  わが国では、(不作為犯に関する総則規定がないにもかかわらず)通常の構成要件が保障人的義務に違反する不作為によっても作為と同じように実現されうるのかという問題、つまり、作為犯と不作為犯の同置の根拠については、無関心なままである。禁止規範違反および命令規範違反の双方によって、殺人罪などの惹起構成要件も実現されうると考えられている(4)。しかし、本来、行為が命令規範に違反するということは、その行為と構成要件が予定する結果との因果関係が否定される、という意味である。また、保障人的義務が不作為犯の物理的因果力を補うものでないとすれば、保障人的義務という特殊条件を備えた不作為と、そのような要件を備えていない作為を同置にしうるのはなぜなのか、価値的な根拠が問題となる。しかし、保障人的義務が不作為犯の特殊な要件とされるかぎり、その説明はほとんど不可能なはずである。したがって、立法論も念頭におきつつ、この点に関するわが国の議論をいま一度検討しなおす必要がある。
  いずれにせよ、本稿で示した支配犯・「義務犯」という正犯原理の二元的な理解は、作為犯・不作為犯の区別を越えて、今後の議論の前提となりうるものと考える。

(1)  本稿はしがきおよび第三章第一節参照。
(2)  本稿はしがきおよび第三章第一節参照。
(3)  ドイツでは、要件が満たされなくなった許可を撤回すべき環境庁の公務員の義務は正犯性を基礎づける特別な義務として理解されるようになってきている。Vgl. Hans−Joachim Rudolphi, Systematischer Kommentar zum StGB AT, Bd. 1, 7. Aufl., 32. Lieferung, Stand Ma¨rz, 2000, § 13 Rdn. 36, 54c.
(4)  この点に関する問題状況は、松宮孝明「『保障人』説について」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一六五頁以下、同「不真正不作為犯について」西原古希第一巻(一九九八)一五九頁以下。これに対して、西田典之「不作為犯論」柴原邦爾ほか編『刑法理論の現代的展開・総論(2)』(一九八八)六八頁、山口厚『問題探究刑法総論』(一九九八)三一頁、井田良「不真正不作為犯」現代刑事法三号(一九九九)八七頁、鎮目征樹「刑事製造物責任における不作為犯論の意義と展開」法政紀要第八号(一九九九)三四五頁以下。なお、平山幹子「不真正不作為犯について(一)(二)(三)−『保障人説』の展開と限界−」立命館法学二六三号、二六四号、二六五号(一九九九)二一九頁以下、五〇四頁以下、六七五頁以下。

  本稿は、平成一一年度(一九九九年度)および平成一二年度(二〇〇〇年度)科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。