立命館法学 2000年5号(273号) 33頁




強制連行・強制労働と安全配慮義務(二・完)

- 合意なき労働関係における債務不履行責任成立の可否 -


松本克美


 

目    次

は じ め に

一  安全配慮義務をめぐる理論状況

二  強制連行・強制労働訴訟における安全配慮義務問題  (以上二七〇号)

三  安全配慮義務の成立と合意

四  強制連行・強制労働における安全配慮義務の成否と内容

お わ り に   (以上本号)    




三  安全配慮義務の成立と合意



1  はじめに
  通常の雇用・労働関係は合意によって成立するのであって、すなわちそこには雇用・労働契約関係が成立する(以下単に労働関係、労働契約とする)。労働契約関係が成立すれば、労働契約上の信義則に基づき使用者の安全配慮義務が成立する。これは判例・通説の認めるところである。他方で、強制労働は合意なき労働関係である。従って、強制労働関係における使用者に安全配慮義務が成立し、その違反が債務不履行責任をもたらすかどうかを検討するためには、合意なき労働関係に安全配慮義務が成立するのかどうか、そしてその違反は債務不履行責任をもたらすのか否かが検討されねばならない。まさにそれが副題に示した本稿のテーマの核心である。
  ここではまず前提的問題として、安全配慮義務の法的性質をめぐる議論を検討したい。なぜなら、近時、民法学において安全配慮義務を債務不履行責任の領域から排除して不法行為責任の問題として論ずべきだとする見解が、それなりに有力に主張されているからである。もしその主張が妥当するならば、強制労働に限らず通常の労働契約関係においても、またその他の契約関係においても、およそ債務としての安全配慮義務一般が否定されることになってしまう。同時に、この問題の検討は、後述のように債務不履行責任としての安全配慮義務の固有の存在意義とその本質的根拠を浮き彫りにすることになる。
  これから述べる私見の結論を予め要約しておこう。
  第一に、安全配慮義務を債務不履行責任の領域から放逐して、不法行為責任の領域の問題としてのみ論ずることは、理論的にも実践的にも誤った方向である。
  第二に、労働関係における債務としての安全配慮義務の本質的な成立根拠は労働契約関係それ自体ではなくて、その根底をなす使用者の労働関係設定の意思に対する信義則を媒介とした意思の合理化に求められる(労働関係設定意思説)。
  第三に、強制労働関係においては、確かに強制労働者の労働関係成立への合意は欠けているが、他方で使用者側の労働関係設定の意思は認めることができる。従って、強制労働関係においても労働関係設定意思を合理化する信義則に基づき、債務としての安全配慮義務の成立を認めることができる。
  以下、本稿三で第一、第二の問題を扱い、四で第三の問題を検討する。

2  安全配慮義務の体系的位置づけ
  (1)  問題の所在
  日本における安全配慮義務は労災・職病病という事故領域において、一九六〇年代後半から七〇年代にかけて訴訟の場で被災(罹患)した原告(ないしその遺家族)の側から、後述のような実践的なメリットを考慮して使用者の債務不履行責任を追及するために、その前提として主張された義務である(1)。従って、ここで注意すべきは、安全配慮義務概念がまず登場して、次にその違反が債務不履行責任となるかどうかが論じられたわけではなく、むしろ債務不履行責任の追及が課題としてあり、そのための前提的義務として安全配慮義務概念が展開されてきたという点である(2)。だから判例上安全配慮義務違反の法的性質が債務不履行責任であるとして定着していったのは当然のことであった。
  ところが安全配慮義務の判例上の定着とともに、とくに八〇年代以降安全配慮義務の体系的位置づけが議論されている背景として、次の三点を指摘することができる。
  @  最高裁一九七五年判決の法的構成    本稿一で述べたように、最高裁が安全配慮義務概念を認めた初めての七五年判決(最判一九七五年(昭和五〇)年二月二二日・民集二九巻二号一四三頁)の事案が公務員の労働災害であり、そこで認められた安全配慮義務の実質は、それまで下級審判決や学説で展開されてきた労働契約上の信義則に基づく安全配慮義務に他ならなかった(3)。しかし、七五年判決が安全配慮義務の一般的な法的構成として、「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきもの」としたことは、その後の安全配慮義務の労働契約以外の契約関係にも安全配慮義務の適用領域が拡大されていく重要な契機を与えるとともに、そこでの責任の性質論の不明示は安全配慮義務違反責任の法的性質論を喚起する潜在的契機を与えたと言えよう(4)
  A  安全配慮義務の適用領域の拡大    実際に、安全配慮義務の適用領域は、判例上、労災以外の事故類型、学校事故、欠陥商品事故、欠陥施設の事故、サービス上の安全にかかわる事故等に拡大していった(5)。そこで、安全配慮義務の適用領域を画定する基準をどこに求めるべきかという議論とともに、他方でこれらの事故においては、同時に不法行為責任も追及し得る事例であるため、契約責任の拡大現象に疑問を呈し、むしろこれらの事故の一定領域においては、不法行為責任規範を適用すべきではないかとの視角から、安全配慮義務の固有の存在意義が問われるようになってくる。
  B  不法行為法における過失論の発展    更に安全配慮義務の適用領域においても不法行為責任規範で対処すべきという議論が台頭してくる契機には、日本における不法行為法理論の発展をあげることができる。とりわけ一九六〇年代の公害事例における過失論の発展、それを基礎にした薬害や食品公害事例での国や企業の安全確保義務論の進展、欠陥商品事故等をめぐる製造物責任論の進展などを通じて、過失の本体が一定の措置義務違反としての予見義務違反及び結果回避義務違反にあり、従って、何がなすべき措置であったのかが重要な問題となってきた(6)。その中で後述するように一方での安全配慮義務論の進展が、過失の前提たる措置義務の内容を具体化する機能をも果たし、そのことがこれらの適用領域で不法行為責任を追及することを容易にしたことなどをあげることができる。
  なお一九六〇年代からの民法学における契約上の義務の構造論の進展(7)は、むしろ逆に安全配慮義務の契約責任における固有の存在意義を確認していくことになるが、この点については後に触れることにする。とりあえず、ここで確認すべきは、安全配慮義務を契約責任と不法行為責任という責任体系の中で再吟味すべきだとの視角は、安全配慮義務論の進展そのものと不法行為法理論の進展そのものに内在的契機を有すること、それは単に理論的な整理の問題としてのみではなく、実際の訴訟の展開を背後にもちつつたち現われた問題であること、そのような性格の問題であるからこそ、ここで理論的検討を加える意義のあることを確認して、次にそれぞれの議論の中身の検討に進みたい。

  (2)  不法行為責任説
  この主張は安全配慮義務の問題は体系的には不法行為の問題として位置づけるべきであるという「理念」の次元とともに、不法行為で処理しても困らないという「実益」の次元の両方での主張を含んでいる。後者については、個別問題のところで検討することにして、ここでは「理念」問題をとりあげる。
  @  安全配慮義務の保護法益としての完全性利益への着目    不法行為責任説は、上述した安全配慮義務の適用領域の拡大=契約責任の拡大に対して、契約責任の中核は契約目的達成に向けた当事者の意思=合意に基づく責任に求められるべきであり、信義則を根拠に契約責任を拡大していくことは疑問である、むしろ安全配慮義務で問題とされている生命・身体・健康などの完全性利益の保護はそれを本来の目的とする不法行為責任規範の適用こそがふさわしいという主張として、安全配慮義務の判例上の定着・拡大現象が顕著になってくる一九八〇年代以降台頭してくる。
  その急先鋒ともいうべき平野博之は、安全配慮義務は、「元来不法行為法の領域にあったものを目の前の実益を求めて無理に債務不履行に組み込んだもの」であり、安全配慮義務論は、「目の前の実益を獲得せんがために道を踏みはずし出口のない迷路をさまようことになっており、安全配慮義務論は契約責任・不法行為責任の構造論・本質論という基礎理論を欠いた脆弱な土台の上に成り立っており瓦解する一歩手前にあるといってよい。」とし、「実益論のところで狙われているのは、契約的接触場面に適合した不法行為類型を作り上げることに帰着し、正面から不法行為法の改良に努めるのが正道ではなかろうか。」とする(傍点原著者(8))。しかし後述のように私見によれば、果たしてそれが「正道」であるか、はなはだ疑問である。
  A  特定人間の不作為不法行為論の発展という課題    以上と関連して、一方での不作為不法行為論の発展が安全配慮義務=債務不履行という法的構成を経由しなくても、特定の関係における措置義務の具体化としての過失把握により、安全配慮義務違反と同じ過失を理由に不法行為責任を追及できる実践的、理論的道を切り開いてきており、実践的にも理論的にも安全配慮義務の存在意義にこだわらなくてよく、むしろ、特定人間の不作為不法行為論の発展こそが求められるべきであるとする議論も近時有力である。
  前掲の平野裕之もそのような指向性を明示して次のように指摘する。「契約責任の拡大の背景には不法行為法の不備がよく指摘されるが、これまでの不法行為法があまりにも無関係の者の間を中心に構築されてきたのが問題の根本であり(概して契約責任の拡大を志向する者は狭い不法行為観を持っている)、むしろ不法行為法こそ柔軟であるべきであり契約的場面に適した理論構築が必要であろう。そして、方向としては、理論的な無理を犯して契約責任の拡大を行うよりも、かかる不法行為法の類型化・改良こそが採られるべきではなかろうか。」「不法行為上の一般的注意義務が先行事実によって各事例類型に応じて作為義務へと具体化されるのであり、契約関係はその一つの契機をなすにすぎない(したがって、その有効・無効は問わず、契約の効力に基づく契約責任ではありえない)。また、その注意義務の厳格化は、契約関係からというよりも労働者保護という政策的判断から導かれるものというべきであろう(9)。」
  また青野博之は、「不法行為法上の注意義務は、不法行為法において独自に決まるものではなく、当該状況に鑑みて決定されるので、契約または契約的接触によって決定されることもある。」とし、「契約ある不法行為」につき論じ、安全配慮義務は、社会的接触により発生し、その内容・程度が規定される不法行為上の注意義務にほかならないとする(10)
  更に、奥田昌道は、「特定人間における特別の不法行為規範」について論じ、「対万人的・一般的不可侵義務(その内容は、自己の行為または自己の支配管理する物から他者に危険・侵害が及ばないようにつとめること)を超えて、更に、特定人に対する特別的不可侵義務(一般的不可侵義務が特定人との関係で個別化され、強化されたもの)が成立すると考え得ないであろうか。」として、「一般的・抽象的安全配慮義務の達成手段としての具体的・個別的な、安全配慮措置義務は、不法行為法でいう注意義務(その違背・懈怠は過失を基礎づける)にほかならない。判例(とくに昭和五〇年判決)上、安全配慮義務を契約責任法=債務不履行規範に服させるために信義則を根拠とする法的構成が採用され、それなりの役割を果たしてきたが、時効の処理問題を別とすれば、敢えて契約責任=債務不履行規範による処理でなければならない、という必然性はない(むしろその逆)といえるのではあるまいか。」と論じている(11)
  以上の批判にもかかわらず、私見は今後とも安全配慮義務を債務不履行責任にも位置づけるべき意義があると考えている。項をあらためて検討しよう。

  (3)  債務不履行責任説
  @  完全性利益の保護と契約目的    そもそも、完全性利益の保護は不法行為責任規範で図るべきであって、債務不履行責任を拡張して保護をはかるべきでないとの立論は、その前提自体が疑問である。不法行為責任規範の目的の一つに完全性利益の保護があるとしても、そのことが、なぜ債務不履行責任適用排除という結論に直結するのであろうか。むしろ問題は安全配慮義務概念の中味であって、そこに不法行為責任規範で保護目的とする完全性利益というのとは異なる意義(契約目的の保護等)が存在するのであれば、不法行為責任規範も適用されれば、債務不履行責任規範も適用されると解すことになるのではなかろうか。この点については、契約上の義務の構造論の進展が大きな示唆を与えている。
  例えば、この点について詳細な検討を行っている潮見佳男は、完全性利益保護を目的とする義務を「保護義務」として、「保護義務の段階的把握」を提唱する(12)。その含意は、完全性利益保護違反を不法行為責任としてではなく、契約責任として構成するためには、完全性利益を侵害する行為が、給付結果及び契約目的を実現する過程としての履行行為に関連することを要するとする点にある。そして、第一段階の保護義務として、「主たる給付義務」としての保護義務(「完全性利益の保護が、合意を基礎として実現されるべきものとされた(主たる)給付義務を形成している場合」。警備契約、寄託契約、幼児保護預り契約など)、第二段階の保護義務として「契約目的達成のための従たる給付義務」(「給付結果を契約目的に適って保持・利用するためには完全性利益が保護されていることが必要であるという場合」。例えば、運送契約、診療契約、宿泊契約、運動施設利用契約など)、第三段階の保護義務として「完全性利益保護が契約目的達成のための必要条件とはなっていないけれども、『取引的接触』つまり給付結果を実現する目的でなされた具体的行為に際して発生し得る完全性利益侵害から相手方の保護を図るべき保護義務」とし、最後に第四段階の保護義務として「およそ特別の事実的接触が存在すれば、そこにおいて生じ得る完全性利益の侵害をも保護義務の保護対象とする」場合として段階づけする。このうち、第一段階、第二段階の保護義務は完全性利益の保護が契約目的達成の必要条件となっている点で契約責任の適用範囲の問題であり、第三段階の保護義務は完全性利益の保護が給付結果及び契約目的達成の履行行為に関連する場合に契約責任の妥当するところとなるとする。ただし、第四段階の保護義務は、「契約との接点を欠くがゆえに、本質的にはむしろ不法行為責任の問題として処理すべき」とする。そして、判例上の安全配慮義務の主たる適用領域である雇用契約上の安全配慮義務は、第三段階の従たる給付義務としての保護義務にあたるとし、また、第四段階の不法行為責任に属すべき保護義務は、安全配慮義務判例としては現われていないと結論している。
  潮見による保護義務の段階づけの具体的内容や基準については更に検討を要しようが(後述)、いずれにせよ完全性利益の保護が契約目的との関連で内在性を有すれば、債務不履行責任を適用することは当然ではないだろうか。とくに、契約当事者の特定の一方による特定の他方への安全配慮が「契約目的」とされる場合には、そこに給付義務としての安全配慮義務が成立することに異論はないと思われる(13)。具体的には、「入院患者に対する病院の義務」「託児所・保育所の乳幼児に対する義務(14)」、「旅客運送契約」「宿泊契約(15)」、「警備保障契約(16)」などがあげられよう。高橋眞は、「静的利益と動的利益の峻別論をあらゆる場面に拡大して、少なくとも完全性利益の保護を給付目的とする場合までも契約責任の外に放逐するという点には疑問がある。」「より一般的に、不法行為法上の保護が問題となる場合に契約責任が成立してはならない理由が、理論的になお十分に説明されているとはいえないものと考える。」と指摘するが(17)、全く同感である。
  A  請求権競合のメリットを奪う根拠の薄弱    その上、「不法行為責任が成立するのだから、債務不履行責任は問わなくて良い」というのは、請求権競合が認められている現在の判例・通説を前提とした場合には、請求権規範についての被害者の選択の自由を制限するものである。この点に関して半田吉信は、「特に債権者が生命または重篤な身体上の損害を被った場合は、一〇年の一般の消滅時効に服する賠償請求権を認めておくことが被害者の保護に適するから、両責任の競合の余地を残しておくことは現実の要請に適う。また論理的にみた場合でも、債権者の完全性利益の保護が債務者の給付内容または従たる給付行為の目的となっている場合だけでなく、単なる付随義務の目的になっているにすぎない場合や給付物の瑕疵によって瑕疵惹起損害が発生した場合を含めて、債権者の生命、身体、財産上の損害が給付行為又は契約に基づいて債務者の負担する義務の違反によって生じたものである以上は、本来的には不法行為責任的保護の与えられるべき領域であるとしても、一応それとは別個に契約責任的保護を与えることも可能とみるべきであり、かような場合に契約責任を肯定することになんら論理矛盾はないと考えられる。」とするが妥当な見解である(18)

  (4)  小    括
  以上のように安全配慮義務の保護利益が完全性利益であることをもって契約責任から放逐するという考えは妥当ではない。しかし、このような不法行為責任説による債務不履行責任説批判が、安全配慮義務を債務不履行責任として把握する視点としての契約上の義務の構造論の進展を促進し、また、後述のように、不作為不法行為論や時効論の進展を促進した触媒的機能を果たしてきたことは否定できない事実であろう。
  さて、次に不法行為責任説の主張のもう一つの側面である「実益論」につき、検討しよう。これは、損害賠償責任の前提的義務しての安全配慮義務に係り、とくにこれまで安全配慮義務構成の固有のメリットして強調されてきた過失の主張・証明責任の問題及び消滅時効の問題の点で現われる。

3  損害賠償責任の前提的義務としての安全配慮義務
  (1)  過失の主張・証明責任
  @  安全配慮義務の固有の存在意義否定論    安全配慮義務概念を利用した債務不履行責任構成は、不法行為責任構成と比べて、故意・過失等の帰責事由のないことの主張・証明責任が加害者側に課されるので、加害者側に故意・過失のあることを被害者が主張・証明しなければならない不法行為責任構成に比べて被害者に有利であると考えられてきた。しかし、この点はとくに最高裁一九八一年判決(最判一九八一(昭五六)・二・一六民集三五巻一号五六頁)によって、安全配慮義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張・立証する責任は、被告(債務者)の義務違反を主張する原告(債権者)にあるとされたことによって、この義務違反に該当する事実の証明の具体度によっては、不法行為上の過失の証明と変わらないのではないかとの疑問がでてきた。
  例えば新美育文はこの点を次のように述べている。「安全配慮義務の内容は当事者の合意によって明らかにされているわけではなく、安全配慮義務が安全を絶対的に確保すべき義務として捉えられないかぎり、当事者を取り巻く諸般の事情を考慮してその内容を事後的に特定せざるをえない。安全配慮義務の内容を特定し、その存在を証明することは、その実質において、不法行為法における『過失』の前提たる注意義務の内容を特定し、その存在を証明することとほとんど異なるところがなく、債権者にとってきわめて困難であるといえる。しかし、その困難さは、安全配慮義務が当事者の合意等によって予め明確にされていないことに起因するのであり、債権者にとってこれを甘受させたとしてもあながち不当とはいえまい(19)。」
  また同様に平野裕之は、「安全配慮義務とは不法行為法上の過失の前提たる注意義務にすぎないため、その不履行(=違反)を証明することは過失を証明することに等しく」なるとし、最判八一年は「かかる結果を容認している」ので、「今や振出しに戻って、安全配慮義務は不法行為法上の注意義務にすぎずその義務違反の証明は過失の証明に帰一することを認めた上で議論を進めるべき」だとする(20)
  A  安全配慮義務の固有の意義確認論    (i)  安全配慮義務と主張・証明責任  しかし私見によれば、安全配慮義務違反の主張・証明責任については、被害者側が、当該法律関係で一方当事者(加害者)が安全配慮義務を負う事実と、当該法律関係の中で生命・身体・健康等が害された事実を主張・証明すれば、加害者側が安全配慮義務を尽くしたことを主張・証明しない限り、免責されないと考える。当該法律関係で安全配慮義務を認めることの意義はまさにその点にこそある(従って、そのような安全配慮義務を当該法律関係で認めることの法的根拠こそが重大である)。そして具体的な安全配慮義務違反の事実について被害者は主張・証明する必要はなく、むしろ安全配慮義務を負担する加害者側でこそ具体的な安全配慮義務措置を尽くしたことを主張・証明すべきである。
  この点で、松本博之は「判例のように安全配慮義務違反を具体的な危険回避措置のレヴェルで捉えるのであれば、もともと使用者は抽象的一般的に安全配慮義務を負担しているのであるから−損害が明らかに安全配慮義務違反によらないことが明らかでない限り−使用者には、被害労働者に対してどのような内容の安全配慮義務を負担していると考え、どのような内容の危険防止措置を講じてきたかを事故原因との関連で陳述し、場合によっては証拠を提出するよう要求されて然るべきであろう。」と主張するが(21)、私見も同感である。
    (ii)  不法行為上の過失の判断への安全配慮義務論の影響  更に過失の証明責任をめぐって、安全配慮義務の存在意義を否定する平野裕之は、「契約責任へと抜け道を選ばねばならなかった時代とは異なり現在では不法行為上も過失の証明をめぐりさまざまな改良がなされており、不法行為責任の受け皿も用意されている」とし、「債務不履行の名の下で論じられていると同様の結論は不法行為の下でも実現できるのであり、したがって過失の証明責任の点につき債務不履行によった方が被害者に有利であるという実益はない」。「不法行為上の注意義務を無理に契約責任をめぐるメカニズムに押し込んで理論的な不合理をもたらす債務不履行責任説はまず過失の証明責任をめぐっては放棄されて然るべきである」と指摘する。そして具体的な証明責任論としては、(1)使用者が支配管理している機械・施設等の危険物の安全性の不備ゆえに事故が発生した場合には、被害者が労災発生の事実のみを証明すれば、使用者の義務違反=過失が推定され、(2)また、使用者の指示・監督が不十分・不適切であり、使用者の義務違反を疑わせる事実を証明すれば、使用者の側で指示・監督義務を尽くしたことの証明を要するとする(22)
  この平野説によれば、少なくとも前者については安全配慮義務に関する私見とほぼ同様の証明責任論ということになろう。しかし、平野のような不法行為上の過失の証明責任論を労災領域で主張することが現実味を帯びているのも、安全配慮義務概念の発展の結果がそこに影響を及ぼしているからではなかろうか。
  B  安全配慮義務の導出が不法行為上の過失判断に与える影響    安全配慮義務構成される事案は不法行為責任も追及できる事例であるから、安全配慮義務構成の固有の存在意義はないという場合に忘れ去られているのは、なぜそのような事案で不法行為責任が現実に追及され得るようになったのかという問題である。当該契約関係に固有な安全配慮義務の存在が抽象的に認められることによって、そこから具体的な安全配慮義務が導出され、それが不法行為上の過失の前提としての措置義務の具体的内容や程度に参照されていったというのが現実なのではないだろうか。つまり、安全配慮義務には当該法律関係に特有な安全配慮にかかわる抽象的な措置義務を措定し、そこから更に具体的な措置義務を導出するという「措置義務設定・具体化機能」があるのであって、まさにそれが故に、同一事案において不法行為責任の追及が、すなわち過失の主張・証明が可能になったというべきである。
  この点で、國井は「一般的な安全配慮義務を措定するからこそ、個別・具体的義務の導出が可能になっている」ことを強調し(23)、また滝澤聿代は、「安全配慮義務は不法行為の領域にも入り込み、独自の機能を果しているようにみうけられる。すなわち、一定の接触関係にある被害者の生命、健康に配慮しなかったという不法行為の類型が必然的に形成されたわけであり、安全配慮義務違反としての不法行為を特定しうることにより、裁判上の主張、判断をより明確にすることができるようになった。」と指摘するが(24)、このような把握こそが妥当ではないか。
  そして、一端具体化され判例に定着した不法行為上の過失判断も、それを理由に安全配慮義務構成を否定する理由にはならないし、また、今後も新たな事故態様や事故領域が発生することが一般的に予想される以上、ますます安全配慮義務構成を否定する理由にはならないといえる(25)

  (2)  損害賠償請求権の消滅時効
  @  時効メリット論の否定    また従来安全配慮義務概念による債務不履行構成の固有のメリットして強調されてきた消滅時効の問題については、安全配慮義務と不法行為上の過失との同質性から、その義務違反を理由とした損害賠償請求権の消滅時効には、むしろ不法行為の損害賠償請求権の短期消滅時効を定めた七二四条の(類推)適用こそがふさわしいとして、時効の点でのメリットそのものを否定する見解も主張されるようになってきた。
  既に早い段階から新美は、「安全配慮義務違反による損害賠償請求権は、突発的な事故によって発生するものであり、立証の困難性あるいは加害者とされるものが不意打ちをくらわされる虞があること等において、不法行為損害賠償請求権と同じ性質を有するから、民法七二四条を適用すべき」とする見解に賛成すべきとし(26)、また、青野博之も「最判昭和五〇年二月二五日の事案は、本来不法行為法でゆくべきところを、消滅時効の壁にぶつかったため、債務不履行法へ逃避したと考えられる。」とし、「安全配慮義務の内容は合意によって形成されたものではなく、その内容が一義的に決まるわけでもなく、書面化されることも稀であろうから、一〇年ではなく、三年の消滅時効に服すべきものである。」とする(27)
  A  反批判    時効の問題での安全配慮義務違反という債務不履行構成のメリットをメリットとすること自体を否定する見解については、私見は既に別稿で詳細な反論を加えてきたのでそれに譲り(28)、ここでは、焦点を絞って三つの問題だけとりあげたい。
    (i)  権利行使の困難性の疑問視  かつて私見は、判例分析から、日本における安全配慮義務構成の裁判例の圧倒的多数が労災・職業病領域であり、次いで学校事故領域が多いことに着目し、これらの訴訟で安全配慮義務構成が主張された大きな存在理由が、不法行為構成で請求する場合の短期消滅時効の完成問題の回避にあることを明らかにした(29)。そして、これらの事故領域に於いて不法行為の短期消滅時効が完成してしまうほど権利行使が遅れる要因には、当該法律関係の特殊性に規定された権利行使を抑圧する構造的要因が存在するからだと指摘し、このような法律関係において短期消滅時効よりも一般の債権の消滅時効期間である一〇年間の適用をすることの合理性を指摘した(30)
  これに対しては、雇用契約関係において使用者を相手取って提訴することが構造的に困難だとするのは、雇用契約関係に対する固定的観念を前提としており、賛同できず、今日七二四条の損害および加害者を知った時から三年間という短期消滅時効を適用しても不合理ではないとする批判が寄せられた。論者は筆者の見解を、「被害者が被庸者の場合には、雇い主に対して損害賠償を請求することを困難にしている要因(権利行使抑止要因=被害者側の雇用契約関係継続の必要性、雇い主による被害認識の阻害・事故原因の隠蔽・請求権の認識の阻害・権利意識形成の阻害など)が雇用関係に本質的な要素として存在するという点を指摘し、時効期間を比較的長い一〇年と解すべきであるとする見解」として紹介した上で、「しかし、これが雇用関係にとって本質的要素といってよいかは疑問である。このような理解の前提にある雇用契約観は、無知で貧しく搾取される弱い立場の被庸者と狡猾で被庸者を使い捨てにする雇い主との関係が雇庸契約であるという一般的・固定的図式の契約観であって、とうてい支持するすることはできない。」とする(31)。私見は被庸者が無知で貧しく、使用者が狡猾であるというレッテルを貼った覚えはなく、その点は辻の誤解であろう(被庸者における権利行使の困難性、使用者の側での権利行使阻害性を指摘する論者は、そのような「一般的・固定的図式の契約観」を持っているに違いないという、それこそ「固定観念」であろう)。ところで私見は現実の裁判例分析から、上述のような見解を導いたのであるが、これを「一般的・固定的図式の契約観」という批判者は、どのような現実分析の中からかかる結論を導いたのであろうか。損害及び加害者を知った時から三年間を過ぎて提訴される多くの訴訟は、権利者(被害者)の怠慢であるとでもいうのであろうか(32)
  また辻は、「たしかにじん肺被害事例においては、損害賠償の請求が長年月後にはじめてなされる場合が多い。しかし、それはむしろ継続的・進行性被害の生じるケース特有の問題であって、公害・薬害被害による損害賠償請求などの不法行為事例においても、同様の請求の遅延がしばしばみられるのである。そうであるとすれば、安全配慮義務違反か不法行為かで適用すべき時効規範を別異に捉えるのではなくて、時効の起算点や援用権の制限の問題として処理すべきものとして、侵害事例に応じた時効規範の解釈適用を構築していくべきであり、その一端はすでに公害被害事例を中心に七二四条の解釈論として試みられていることは、周知のとおりである。」とする(33)。辻の見解のうち、じん肺被害においては継続的被害という特質があること、それに応じた七二四条起算点論や援用制限論を構築すべきであるという指摘は私見も全く同感である(34)。しかし、じん肺被害に対する権利行使の困難性には、「継続的被害」ということに解消されない、労働関係特有の権利行使の困難性があることも事実である(35)。三年間の時効期間こそが妥当だとして、現実の裁判実務で現に認められてきた権利行使可能時から一〇年間は提訴可能とする被害者のメリットを奪う理論を主張するならば、それだけの現実的分析を対置することこそが、求められるのではなかろうか。
    (ii)  時の経過による加害者側の立証上の防禦・採証の困難問題について  時効メリット否定論の中心的論点の一つとしてあげられるのが、時の経過による加害者側の立証上の困難を理由に、一般の債権の消滅時効期間である一〇年間(民法一六七条)は長すぎるという批判である。しかし、安全配慮義務が認められるような法律関係においては、不法行為規範が一般的に想定するような何らの法律関係もない場合とは異なる継続的な法律関係があり、また当初から加害者は安全配慮義務を尽くさなければならない立場なのだから、不法行為における短期消滅時効の存在理由として強調される時の経過による主張・証明ないし防禦の困難性は相対的に少ないことが指摘できる(36)
  またそれがあるとしても、それは安全配慮義務を尽くしたことを主張・証明できない加害者側で甘受すべきことであって、被害者側に転嫁すべきことではない(常日頃安全配慮を尽くしていれば、時が経過してもそれを主張・証明することは容易のはずだし、またそれを常日頃、記録として保管すべきである)。
  また裁判所における採証の困難も、これは安全配慮義務にだけ固有の問題ではなく、一般の債権の消滅時効期間が一〇年間とされている以上、裁判所も甘受すべきである。また消滅時効は当事者の援用にまかされるのであるから、不法行為でさえ、加害者側が時効を援用しない限りは、少なくとも不法行為の時から二〇年経過するまでは提訴可能であり、その場合も裁判所にとっての採証の困難という問題は生ずる。
  (iii)  時効問題として解決すべきで安全配慮義務構成に「仮託」すべきでないとの見解への反論  一定の法律関係のもとでの権利行使の困難性を承認しつつも、問題は時効論にあるのであって、これを解決するために、安全配慮義務構成に「仮託」すべきないとの批判がある(37)。私見も、安全配慮義務論の研究をする中で、日本の時効論にかかわる立法上の不備や判例・学説の問題点に行き当たり、これを立法論的、解釈論的に克服すべき理論的道筋について、未だ形成途上ではあるが一連の研究を公表してきた(38)。従って、時効論について検討を深めるべきだという立論には全面的に賛成だが、だからといって、問題を時効論にのみ解消させることはできないと考える。
  なぜなら、上述したように、安全配慮義務概念が問題となる法律関係においては、三年間の短期消滅時効よりも、一〇年間の一般の消滅時効期間の方こそが妥当する合理的理由があり、従って安全配慮義務構成は時効の点でも決して便宜的な「仮託」という性質のものではないからである(39)

  (3)  小    括
  以上のように、安全配慮義務の固有の存在意義を認め、これを債務不履行責任のもとに妥当させようとする見解に対して、不法行為責任で処理すべきであり、また処理すれば足りるという見解からの批判点とそれへの反批判を吟味してきた。これらは、損害賠償責任の前提としての安全配慮義務の問題であったが、次に安全配慮義務の固有の存在意義として注目されている履行請求等の問題を検討しよう。

4  交渉規範としての安全配慮義務
  (1)  履行請求権としての安全配慮義務
  以上は債務不履行責任としての損害賠償責任発生の前提としての安全配慮義務の存在意義にかかわる議論であるが、とりわけ一九八〇年代以降の付随義務論の進展の中で、債務としての安全配慮義務の固有の存在意義としての履行請求権の根拠づけ、同時履行の抗弁権との関連での安全配慮義務の固有の存在意義が議論されるようになってきた(40)
  私見もすでにドイツの議論も参考に別稿で述べたように、給付義務として位置づけられるべき安全配慮義務は、履行請求権を根拠づけ、また、労働契約上の安全配慮義務が尽くされていなければ、就労拒絶権も認められると考える(41)。この点につき、固有の存在意義否定論者の中には、安全措置の履行請求権や就労拒絶権は不法行為の効果として導くことも可能であり、この点で安全配慮義務の固有の存在意義はないとする見解がある。例えば、新美は、「契約がない場合であっても、安全配慮義務が問題となるような危険については、被害を受ける虞のある者は、物権あるいは人格権に基づく妨害排除請求権によって危険の除去請求ができるはずである。」とし、安全配慮義務に基づく給付請求権についても、「実際には、具体的状況における危険の性質・程度やその危険を回避するための措置の社会的・金銭的費用などを考慮して社会通念に基づいてどのような回避措置が必要なのかが判断され、それによって個別具体的な給付内容が定まるのが通例であろう。そうであるならば、先に述べた物権や人格権に基づく妨害予防請求権が行使される場合と選ぶところがないというべきであろう。」「安全配慮義務が契約上の給付義務と位置づけられるとするならば給付請求権が認められるというのは、いわば危険回避措置の請求を『契約』のもとに名寄せしただけのことをいうにとどまるのではなかろうか。」とする(42)
  また、平野は、就労拒絶権や履行請求権は「不法行為法上の(差止請求権に類した)権利とでも説明しておけばよい」とし、「労働者に生命・身体に対する危険から身を守る権利があるのは当然であり、労働者が請求しても(危険が切迫している場合には、事前の請求は不要)使用者が安全を尽くさない場合には、就労を拒絶しても労働者に義務違反=過失はなく、後は危険負担に類する場合として使用者側の過失を理由に賃金債権につき債権者主義をもって解決してよい。」とする(43)
  しかし、仮に不法行為の効果としてこれらの権利が認められるからといって、だからといって安全配慮義務を排除する理由にはならないし(安全配慮義務構成でこれらの権利を認めては何故いけないのか)、また過失論と同様、当該法律関係で安全配慮義務を根拠に安全措置の履行請求権や就労拒絶権が認められるならば、それは不法行為の法的効果としての履行請求権や就労拒絶権の導出をも容易にする方向で機能するのではないか。

  (2)  交渉規範としての安全配慮義務
  更に履行請求権や同時履行の抗弁権としての安全配慮義務の存在意義を広く捉えた場合、これを一定の法律関係にあるものの間の安全配慮をめぐる交渉規範として位置づけることが可能である。この点に早くから着目する山本隆司は「契約責任の特質」を「契約関係のなかにある、当事者間の交渉関係を媒介とした継時的進展の契機」にあるとし、「安全配慮義務を定立する規範」は、「継続的接触関係にある当事者間で設定される交渉準則を具体化されるもの、従ってそうした関係全般の、生命身体保護に向けての最終的受け皿」であり、安全配慮義務は「交渉関係それ自体を規律する規範としての性質を有する義務」であることを指摘している(44)
  ところで、私見はかつて、労災領域での使用者の安全配慮義務論の進展が、労使関係における安全配慮をめぐる労働者の規範意識の把握と密接に結びついていることを指摘した(45)。それは労働法学においては、市民法たる民法とは異なる独自の法体系としての労働法の理論的把握とその中での労働法学の独自性の確立という戦後当初からの課題意識を背景としつつ、戦後、法体系として整備された特別法上の労災補償責任を、単なる弱者に対する恩恵としてではなく、個別資本たる使用者が当然に負うべき法的責任であることを論証する作業との関連で、深められていった。すなわち、労災補償責任を労使関係の特殊性において把握する見解は、「一般的な不法行為責任ではなしに、特別の契約法上の責任」(蓼沼謙一)として把握する見方をもたらし(46)、このような把握は、一九六〇年代になって合理化闘争の中で焦眉の課題となる個別資本の労災責任の確立の課題を「労働者を雇い入れる使用者にとっては、当然に、労働災害に対する責任を負うべきことが契約内容となっているという法的規範意識の確立」(林=宮崎)の課題として捉える見解によって(47)、「契約責任説の再評価」として継承・発展されることになったのである(48)
  そして、このような「法的規範意識の確立」は、一九六〇年代初頭の合理化闘争の渦中で生じた日本労働災害史上最大規模の災害である三井三池炭鉱災害なども大きな契機としつつ、日本の労働運動においてはじめて「抵抗なくして安全なし、安全なくして労働なし」のスローガンが掲げられていく中で、「俺たちは命までも売っていない」という労働者の規範意識として形成され、それが後の労災訴訟闘争にもつながっていくのである(49)。使用者は労働契約上の信義則に基づき安全配慮義務を負うとの観点は、かかる規範意識の形成と密接に結びつき、また、それが種々の労働安全衛生法規の制定にもつながっていくことになる(50)。そして使用者の安全配慮義務が認められることによって、まさに労働者は労働関係の中で安全配慮を使用者に実現するための、また安全配慮が実現されない結果被害にあったことへの損害回復を求める交渉のための法的道具を手に入れるのである。それは、単に行政によって上から安全配慮が外在的に使用者に押し付けられたり、或いはその恩恵を労働者が反射的に受け取るというのではなく、むしろ労働者が労働過程で必然的に危険にさらされる自らの安全と健康の問題を、使用者と対等の立場で自律的に交渉し、実現していくための法的道具なのである。
  そして、これが集団的労使関係や特別法の次元ではなく、まさに個別的な労働契約の次元で、すなわち、個々の労働者に対して交渉道具を与えた点に重大な意義を見出すことができる。なぜなら安全や健康に関する労働条件はある程度集団的な規律に服す面があるのは当然としても、個々の労働者に即して安全や健康に対する配慮は異なるし、また個々の労働者の権利実現のための組織であるはずの労働組合が「労災隠し」に手を貸したり、或いは労災被災者の要求に背を向けるというあってはならない現実もあるからである(51)。この意味で、個々の労働者が自分に対する安全配慮義務の履行を使用者に請求する権利があり、使用者は信義則上それを履行する義務を負うことが明らかにされた意義は大きい。
  以上のような履行請求権としての安全配慮義務の位置づけは、当該法律関係において一方当事者が他方当事者に対して安全配慮を請求することの正当性を基礎付け、他方がそれに応ずる法的義務があることを通して、安全配慮をめぐる交渉規範としての意義をもたらす(52)
  むろん、このような安全配慮義務が契約関係上の義務としてだけではなく、契約関係がない場合の不法行為上の義務の内容として措定される場合もあるかもしれないし、その点は今後理論的な解明が必要であろう(53)。しかし、繰り返しになるが、そのことが契約上の安全配慮義務の固有の存在意義を否定する論拠にはなり得ない。

5  安全配慮義務の法的根拠としての契約関係の要否
  (1)  契約関係における安全配慮義務の法的根拠
  @  当該契約関係の本質的特徴に起因する安全配慮の規範的要請    安全配慮義務を契約上の合意に基づいて契約当事者に課すことはもちろん可能である。しかし、契約上の合意がなければ安全配慮義務は成立しないかというとそうではない。多くの裁判例で被告側は当該契約関係において争点となっている安全配慮義務の存在自体を争っているが、それでも判例は安全配慮義務の存在を認めている。当事者の合意がなくても安全配慮義務の存在が認められるのは、当該契約においては(一方)当事者が他方当事者に対して安全配慮義務を負うものと解釈すべきという、当該契約の補充的解釈の結果である。更にこの契約の補充的解釈の法規定上の根拠は当該契約関係における信義則に求められる(54)。しかし、何をもって当該契約関係における信義則の要請と考えるかは、恣意的に定められてはならないであろう。
  この点で一つの基準となるのは、当該契約の本質的特徴から導出される他方当事者への安全配慮の規範的要請であろう。この点でかつて私見は、損害賠償義務の前提としてのみでなく、履行請求権としての特質をもつ「給付義務としての安全配慮義務」成立のメルクマールを、「契約目的」及び「本来の給付義務の履行の類型化された危険の実現」ととらえ、この基準によれば雇用・労働契約上の安全配慮義務の他、在学契約、売買契約、危険施設設置契約、乳児委託契約、病院施設入院契約、スポーツレッスン契約、旅行契約、賃貸借契約、競技観覧契約などにも給付義務としての安全配慮義務を認めることができることを論じた(55)
  これを労働契約に焦点を絞って検討すると最高裁八四年判決(最判昭和五九年四月一〇日・民集三八巻六号五五七頁)は、「雇用契約は、労働者の労務提供と使用者の報酬支払をその基本内容とする双務有償契約であるが、通常の場合、労働者は、使用者の指定した場所に配置され、使用者の供給する設備、器具等を用いて労務の提供を行うものであるから、使用者は、右の報酬支払義務にとどまらず、労働者が労務提供のため設置する場所、設備もしくは器具等を使用し又は使用者の指示のものとに労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務(以下「安全配慮義務」という。)を負っているものと解するのが相当である。」とした。
  ここでは、「労働者は、使用者の指定した場所に配置され、使用者の供給する設備、器具等を用いて労務の提供を行うものであるから」という労働契約における本質的特徴が、使用者に安全配慮義務を負担させる根拠とされている。この点に関連して、奥田は、「広義の雇用・労働関係(労務の提供関係)に場面を限定して考えると、判例上(学説上も)安全配慮義務の成立する場面ないし前提条件は、使用者(労務を受ける者)と労務者との間に事実上の(法的に雇用・労働契約関係があるかないかを問わないという意味での)使用関係、支配従属関係、指揮監督関係が成立しており、使用者の設置ないし提供する場所・施設・器具等(先に物的側面と表現したもの)が用いられ、これらの物的側面ないしは労務の性質が、労務者の生命・健康に危険を及ぼす可能性があること、である。」と要領よくまとめているが(56)、私見も同意見である。
  A  当事者の合意と安全配慮義務    このように契約上の安全配慮義務が当該契約の本質的特徴から規範的に要請されるとした場合、他方での安全配慮義務の根拠となり得る合意との関連はどう解すべきか。この点につき多くの論者は、当該契約関係において信義則上求められる安全配慮義務を否定する当事者の合意は無効であるとか、合意による安全配慮義務の内容・水準は、信義則上当該契約関係において認めれる安全配慮義務を下回るものであってはならない、或いは不法行為上の保護を下回るものであってはならないとしている。例えば、この点を明快に論ずるものとして、青野は、「契約により注意義務のレベルを不法行為法のそれより低くすることは許されない。これは、不法行為法が最低保障であることによる。無償契約で責任が軽減されている(民法五五一条、六五九条)が、これを安易に類推適用すべきではない。免責合意の有効性が問題となる。責任を強化する合意のみが許されるとすれば、免責合意も無効にする必要がある。特に、人身事故については、免責合意を無効とする必要がある。」とする。また「最低限保障としての不法行為法による保護では十分でない場合がある。たとえば、子どもを預かる契約では、不法行為法における注意義務よりも高いレベルの注意義務を尽くすことを合意する場合があろう。注意義務を尽くすことを合意内容にすることは認められる。この場合に強いて不法行為法の標準化されたレベルの注意義務に戻す必要もなく、当該状況に合わせた措置を取る義務に還元する必要もない。」とする(57)。鋭い指摘であり、私見も同感である。
  なお下級審判決の中には、アメリカでの語学研修中に寮のベットから落ちて傷害を負った者が、語学研修の企画会社に語学研修契約上の安全配慮義務違反の債務不履行責任を追及した事例で、安全配慮義務違反の債務不履行責任を認めるとともに、被告が主張した免責特約の有効性につき、「本件のような被告が原告に対し負う債務不履行責任まで免除するものとは認められない。仮に、被告の債務不履行責任まで免責する趣旨のものであれば、かかる合意内容は、公序良俗に反し、無効といわなければならないであろう。」とするものがあり、注目される(58)
  結局、安全配慮義務との関連で法的に意味のある当事者の合意とは、当該契約関係において信義則上も安全配慮義務が認められないときに安全配慮義務を設定する場合、信義則上安全配慮義務の成立は認められる場合に、その内容を高める場合に意味をなすということになる。すなわちその意味での合理的意思のみが安全配慮義務を根拠づけるのである。
  B  小括    以上のように一定の契約関係において安全配慮義務が認められる場合、その法的根拠は結局は当該契約関係から他方当事者に安全配慮が規範的に要請されるかという点に帰着する。当事者の合意もこのような規範的要請に反しない限りで意味を持つのであるから、安全配慮義務自体についての当事者の合意はその意味で相対的な意味をもつだけである。
  しかし、にもかかわらずここでは契約関係が存在する場合の安全配慮義務の問題を想定しているのであるから、安全配慮義務自体についての合意は相対的なものであっても安全配慮義務が成立する場としての契約関係の成立には合意が必要ではないかということが問題となる。安全配慮義務についての規範的要請といっても、結局は当該契約関係における当事者の合理的意思の解釈ということになるのであって、合意なき法律関係においては債務不履行責任を導く安全配慮義務は成立しない、ということになるのであろうか。次にこの点を検討しよう。

  (2)  契約関係の存在と安全配慮義務
  @  「特別の社会的接触関係」    既に繰り返し引用しているように最高裁七五年判決は、「安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務」とし、安全配慮義務の法的根拠としての契約関係の存在を明示していない。しかし、そこでの具体的な事案は、自衛隊員に対して国が負う安全配慮義務であり、国と自衛隊員との関係が全くの私法上の労働契約と同一とは言えないまでも、使用者が報酬を支払い、被用者が労務を提供するという限りでは労働契約の本質が妥当する関係である。しかも、国が勝手にある者を自衛隊員にするのではなくて、自衛隊に志願する意思が被用者にあり、また、使用者としての国も当該自衛隊員を雇用する意思があるのであるから、その実態は労働契約と同視することができよう。すなわち、ここでは通常とは法形式が異なるにせよ、報酬支払・労務提供の法律関係を形成することへの当事者の「合意」が存在するといえば存在するのである(59)
  それではこのように安全配慮義務の主体と保護主体との間で直接的な合意に基づく関係が存在しない法律関係においてはどうか。この点は従来、元請人の下請人の労働者に対する安全配慮義務の成否の問題として論じられてきたところである。従来、判例・通説はその法的構成の違いはあるにせよ、元請人の下請人の労働者に対する安全配慮義務の成立を肯定し、その違反に対する元請人の債務不履行責任の成立を肯定してきた(60)。まず最高裁の判決を紹介しておこう。
  A  直接契約関係がない場合の最高裁の判決    (i)  最判一九九〇年(平成二年)一一月八日(判時一三七〇号五二頁)  元請そのものの事例ではないが、類似の側面がある事例である。事案は、特殊船の船長Aが航行中に積荷のタンク内に充満した窒素ガスにより死亡した事件で、Aを雇用していた船主Bとの間で運航委託契約を締結していた海運会社Yが、この船舶を自己の業務の中に一体的に従属させ、指揮監督権限を行使する立場にあったとして、Aの遺族XらがYに対して安全配慮義務違反の債務不履行責任ないし不法行為責任があるとして損害賠償請求をなした事案である。一審は、この事実関係のもとでは、信義則上Y海運会社に安全配慮義務があるとして、その安全配慮義務違反の不法行為責任を認めた。原審も同様にYには「本件運航委託契約に信義則上伴う義務」として「本件船舶で前記危険物を運搬することから生ずる生命及び健康の安全を配慮すべき義務あるものと解するのが相当であり、右義務はXら主張の不法行為の前提事実となる」として、請求を認容した。
  最高裁も同様に次のように判示した。「原審の適法に確定した事実関係によれば、本件船舶の運航委託契約の受託者であるYは、本件船舶を自己の業務の中に一体的に従属させ、本件自己の被害者である本件船舶の船長に対しその指揮監督権を行使する立場にあり、右船長から実質的に労務の提供を受ける関係にあったというのであり、このような確定事実の下においては、Yは、信義則上、本件船舶の船長に対し安全配慮義務を負うものであるとした原審の判断は、正当として是認することができる。」
    (ii)  最判一九九一年(平成三年)四月一一日(判時一三九一号三頁)  事案は三菱重工の神戸造船所の下請労働者が従事していた船舶建造に起因して難聴に罹患した等につき、元請に対して安全配慮義務違反の債務不履行責任を追及した事例であり、最高裁もその請求を認めた。そこでは、元請の下請労働者に対する安全配慮義務につき次のように判示している。
「右認定事実によれば、上告人の下請企業の労働者が上告人の神戸造船所で労務の提供をするに当たっては、いわゆる社外工として、上告人の管理する設備、工具等を用い、事実上上告人の指揮、監督を受けて稼動し、その作業内容も上告人の従業員であるいわゆる本工とほとんど同じであったというのであり、このような事実関係の下においては、上告人は、下請企業の労働者との間に特別な社会的接触の関係に入ったもので、信義則上、右労働者に対し安全配慮義務を負うものとであるとした原審の判断は、正当として是認することができる。」
  B  元請人の下請人の労働者に対する安全配慮義務の法的構成    従来その法的構成としてはおおよそ以下の四つの構成が主張されてきた(61)

  ア  重畳的債務引受説  元請は下請等の労働者に対し、元請と下請の請負契約において下請がその労働者に対して負う安全保護義務を下請とともに引き受けたとする説(62)
  イ  第三者の保護効を伴う契約説  元請は下請との請負契約において、同契約上の信義則にもとづき下請等の労働者に対し直接安全保護義務を負うとする説(63)
  ウ  労働契約説  元請と下請等の労働者間に労働関係ある場合、労働契約は成立し、元請は下請の労働者に対し労働契約上の信義則にもとづき安全保護義務を負うとする説(64)
  エ  労働関係説  元請と下請等の労働者間に使用従属関係(労働関係)ある場合、労働関係上の信義則にもとづき、元請は下請等の労働者に対し安全保護義務を負うとする説(65)

  前述した最高裁判決のうち一九九〇年判決は、船長が雇用された船舶の海運会社への一体的従属性と海運会社の船長への指揮監督権限、及び海運会社が船長から実質的に労務の提供を受けていたことをメルクマールとして信義則上の安全配慮義務の成立を肯定しており、その法的構成の実質は労働関係説といえる。また、最高裁一九九一年判決も、下請労働者が元請労働者の提供する施設・器具を利用して、元請の指揮監督のもとに労務を提供している点をもって元請が負う信義則上の安全配慮義務の成立根拠としているので、その法的構成の実質は労働関係説であると言える。
  C  元請人の安全配慮義務の法的根拠と合意    さて以上の元請の安全配慮義務にかかわる四説のうち、ア−ウまでは、何らかの意味での契約関係の成立をもって、元請人の安全配慮義務の法的根拠とするものである。これに対して労働関係説は契約関係の成立を前提としない見解である。
  もし契約関係を前提とせずに労働関係上の信義則を根拠に安全配慮義務が肯定されるならば、合意なき労働関係である強制労働においても安全配慮義務が成立することが考えられる。事実、強制労働訴訟においても原告側からこのような主張がなされている(66)。後述するように、通常の労働契約上の信義則に基づく安全配慮義務も、そのような信義則を妥当させるべき本質的根拠は、使用者が労働者をその指揮・監督のもとに、使用者の提供する器具や施設等を用いて労務の提供をすることを請求する点に求められる。従って、労働関係説がいうように、このような労働関係が成立しているならば、元請と下請労働者の間に労働関係上の信義則に基づく安全配慮義務が生ずるというのは、本質を突いた見解ではある。しかしこの説の難点は、労働関係上の信義則をもって安全配慮義務が成立するとしても、それがなぜ債務不履行責任をもたらすのかという点について理論的根拠の解明がいまひとつ不足していると思われるという点である。この点は前掲最高裁九一年判決のように「特別な社会的接触の関係に入った」ことをもって信義則上の安全配慮義務の根拠とするとしても、なぜそのような「特別な社会的接触の関係」から、債務不履行責任を生じさせるような信義則上の安全配慮義務が生ずるのかという問題を浮き彫りにさせる(67)(私見は後述のように労働関係の成立+下請労働者に労務を提供させる労働関係成立についての元請の意思的関与に債務としての安全配慮義務の成立根拠を求める)。
  他方で、ウの労働契約説によれば、元請と下請労働者との間に直接的な労働契約関係の成立を認めるのだから、この労働契約関係に基づく安全配慮義務違反としての債務不履行責任が認められるのも当然ということになる。しかし、契約の成立にとって両当事者の合意(契約成立に向けての合意)が本質的意味を持つとすれば、ここに労働契約関係の成立を認めることは擬制的過ぎるという批判が妥当しよう(68)
  この点で直接の労働契約関係が成立していない元請人と下請労働者との間で、元請人が下請労働者に安全配慮義務を負い、かつその義務違反が元請人の債務不履行責任をもたらすとすれば、その法的構成としては、重畳的債務引受説ないし第三者の保護効を伴う契約説の方がむしろ妥当ということになろう。但しその場合の問題は、重畳的債務引受や第三者の保護効を伴う契約が明示的に認められない場合にどう解するか、その際、黙示の債務引受や黙示の第三者の保護効を伴う契約の成立を認めるとすれば、それを更にどのような法的論理で正当化するかという点である。
  D  労務受領権限説    さて、近時、学説の中には、元請人が下請労働者に対して安全配慮義務を負う根拠をあくまで契約関係に探求し、その法的根拠を元請人の下請労働者からの労務受領権限に求める見解が存する。
  高橋眞は、次のように言う。「……安全配慮義務は、労務の受領という権利行使に伴って課せられる義務であると考えられる。下請人の被用者が元請人のもとで、その指揮・監督のもとに労務に従事することは、被用者と下請人との雇用契約並びに下請人と元請人との請負契約に基づく関係である。そして後者の契約が、下請人(及びその被用者)が元請人の指揮・監督に服する趣旨を含むものであるときには、これに基づいて元請人は右被用者に対する労務給付請求権を取得し、それに伴って右被用者に対する労務指揮権を得、安全配慮義務を負うことになる。このようにして、元請人の右被用者に対する安全配慮義務は、右のような契約に基づく労務受領権限に伴うものとして、同様に契約に基礎を置くものであるということができる(69)。」
  E  私見(労働関係設定意思説)    高橋説がいう、元請人が下請人に対して労務給付請求権を取得するが故に安全配慮義務を負うという指摘は、労働契約関係上の信義則に基づく安全配慮義務の本質的根拠に即したものでもあり、的を得た妥当な見解である。
  すなわち、労働契約関係ないしそれと同視できる関係が直接にある場合につき、判例は次のように述べてきた。
  「公務員が前記の義務(職務専念義務、上司の命令に従う義務−引用者注)を安んじて誠実に履行するためには、国が、公務員に対し安全配慮義務を負い、これを尽くすことが必要不可欠であり」(最判七五年)、また、「労働者は、使用者の指定した場所に配置され、使用者の供給する設備、器具等を用いて労務の提供を行うものであるから、使用者は、右の報酬支払義務にとどまらず、労働者が労務提供のため設置する場所、設備もしくは器具等を使用し又は使用者の指示のものとに労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務(以下「安全配慮義務」という。)を負っているものと解するのが相当である」(最判八四年)。
  すなわち直接の労働契約関係ないしそれと同視できる関係のある場合に信義則上安全配慮義務が使用者に負わされる法的根拠は、使用者が労働者に対してその指揮・監督のもとに使用者が提供する設備や器具等を用いた労務を提供させ、他方で労働者がそのような指揮・監督下でそのような使用者提供の設備や器具等を用いて労務を提供せざるを得ないという点にある。この点は、上述の労働関係説における元請人の安全配慮義務成立の法的根拠論があげるのと同じであるが、危険を管理する者が危険の実現によって被害を受けた者に対し責任を負い(危険責任)、また、他人を雇用することによって利益を得るものが責任を負うべき(報償責任)という観点からみても、この使用者に安全配慮義務の責任が課されるのは当然といえる(70)
  その上で、高橋説は更に付け加えて、この場合に元請人には下請人との請負契約関係を通じて、下請労働者に対して労務を請求する権限を有し、下請労働者は下請人との雇用契約関係に基づいて労務提供義務を負っているからという理由を付して、安全配慮義務違反を債務不履行責任と構成することの正当性を論証しようとしたわけである。
  しかし上述した判例上の雇用契約上の安全配慮義務の法的根拠の中核的な要素として析出したところは、いやしくも他人に労務の提供を請求するからには、その安全が配慮されていなければならないということではないか。別の言葉でいえば、被用者が労務の提供義務を履行するためには、その反対債務としての安全配慮義務の履行が尽くされていることが信義則にかなうということである(71)
  このように使用者の安全配慮義務の法的根拠を「他人に労務の提供を請求するからには、その安全に配慮すべき信義則上の義務がある」と考えた場合には、高橋が強調するように、安全配慮義務は使用者における「労務の受領という権利の行使に付随する義務」であるとして、それゆえに、労務の受領についての正当な権限が必要であり、従ってその前提として契約関係が必要であると限定する必要もなくなる。すなわち、「他人に労務の提供を請求する」点に安全配慮義務の成立の本質的メルクマールがあるとすれば、労働関係における本質的、第一次的な安全配慮義務成立のメルクマールは、労働関係において使用者が被用者をして自己の指揮・監督下において、自己の提供する施設・器具等を利用して労務を提供させ、また被用者がそのような中で労務を提供せざるを得ない関係にあるという事実と(それだけでは不法行為責任規範の適用)、それに加えて、そのような他人に対する労務の提供を他ならぬ使用者が自らの意思で要求している(自己決定・自己責任!)という点(従って債務を負担しなければならない)である。従って、使用者に正当な労務請求権限があるか否かとか、労働者に法的な労務提供義務があるか否かは二次的な問題ではないだろうか(むろん通常は何らかの契約関係があるから、このような正当な労務請求権限及び労働者の労務提供義務を前提とすることができるというのにすぎない。)
  かくして、労働契約上の安全配慮義務も、煎じ詰めれば労働関係を設定する使用者の意思が信義則により合理化されたものと捉えることができる(労働関係設定意思説)。もとより、これは当事者に何ら安全配慮義務についての合意が存在しない場合でも最低限課される安全配慮義務の根拠であって、当事者の合意によりその内容が高められることは当然であり、その場合には、契約関係における合意が安全配慮義務の根拠をなすことになろう。
  以上の考察を前提に、いよいよ本稿がテーマとする強制労働における安全配慮義務の問題を検討しよう。

四  強制連行・強制労働における安全配慮義務の成否と内容



1  強制労働関係における使用者の安全配慮義務
  (1)  問題の所在
  後述2で述べるように強制労働はあってはならない人権侵害であって、その点は戦前日本においても同様であった。従って、強制労働それ自体が不法行為にあたり得る性格のものであることは、論ずるまでもないところである。ここでは、しかし、だからといって、不幸にも強制労働関係におちいった被強制労働者は労働を強制する主体(便宜上このような者も使用者と呼んでおく)に対して安全配慮義務の履行を請求することはできないのであろうか。また、その義務違反に対して債務不履行責任を追及し得るとすることは理論的に成り立ち得ないことなのであろうか。私見は強制労働関係においても使用者は信義則上債務としての安全配慮義務を負うと考える。以下その理由を述べよう。

  (2)  労働関係における使用者の労働関係設定意思と信義則
  労働関係は、通常、労働の提供についての合意、すなわち労働契約を通じて成立するのが正常な姿である。この場合は労働契約上の信義則に基づき安全配慮義務が成立する。しかし、元請と下請労働者の関係のように、直接の労働契約関係のない場合にも、元請は下請労働者に対して信義則上安全配慮義務を負う。その法的構成としては、元請の重畳的債務引受や第三者の保護効を伴う契約上の信義則に基づく義務として元請が下請労働者に対して安全配慮義務を負うとする法的構成が考えられる。
  ところでこのような法的構成が妥当するとして、そのような債務引受や第三者の保護効を伴う契約が明示的に成立していない場合でも、そこに黙示の意思を認め、そのような契約解釈をすべき規範的要請、法的には信義則の要請はどこに根拠を有するのか。それは、本稿三のおわりに述べたように、結局、元請と下請労働者との間に、通常の使用者と労働者の間に存在するのと同じような安全配慮義務を認めるべき法律関係、すなわち元請の指揮・監督のもとで、下請労働者が元請の提供する施設・器具等を用いて労務を提供するという関係とそのような労働関係を他ならぬ元請の意思によって設定しているという点に求められる(労働関係意思設定説)。

  (3)  強制労働関係上の信義則に基づく安全配慮義務
  強制労働関係においては、元請と下請労働者のように、元請と下請の契約関係、下請と下請労働者の間に存在するような契約関係は何ら存在しない。従って、重畳的債務引受や第三者の保護効を伴う契約も観念することはできない。にもかかわらず、強制労働の使用者は、強制労働関係上の信義則に基づき債務としての安全配慮義務を負うと考えるべきである。その根拠は、労働関係上の使用者の安全配慮義務の最終的根拠が、上述のように使用者における他人に労務提供を請求する労働関係の設定意思に求められるからである。
  他人に労働を要求するからには、契約の成立を必要とするのに、それを使用者は無視して他人に労働を要求しているのである。そして、労働契約が成立すれば、労働契約上の信義則に基づく使用者は債務としての安全配慮義務を負うのである。もしこの場合、違法に強制的に労働させられた者はそれだけでも自らの意思に反して労務に服し重大な人権侵害を被っているのに、更に使用者に自らの安全配慮も請求できないとすれば、二重の不利益を法が認めることになる。この場合、使用者が労働契約関係の不在をもって安全配慮義務の存在を否定することが許されるならば、法はかかる不正義に加担することになってしまう。このような解釈は著しく正義に反し許されるべきではない。
  契約関係が成立していないのは、労働者の落度ではなく、むしろ使用者の落度、しかも重大な故意による落度である。他方で、強制労働関係も、使用者が自らの意思によって労働関係を創設した点では、通常の労働関係と何ら異なるところはない。しかも、契約関係もなく自らの意思で労働関係にはいったわけでもない強制労働者からすれば、自らの生命、身体、健康の安全配慮についての積極的な作為を使用者に請求するのは当然である。強制労働訴訟の原告が主張するように、合意がある労働関係における労働者でさえ命まで売ったわけではなく、使用者に安全配慮を請求できるのだから、ましてや合意なく労働関係に強制的に編入された強制労働者は、通常の労働関係以上に生命、身体、健康についての安全配慮を請求できてしかるべきである。
  まさに強制労働関係におけるこのような意味での信義則上の義務として、使用者は自らの意思で強制労働関係を作り出した者として、また、強制労働者は逆に自らの意思で労務の履行を義務付けられているのではないが故に、債務としての安全配慮義務が成立すると考えるべきである。もしかかる安全配慮義務を使用者が負担したくなければ、当然のことながら、他人をして強制労働をさせるような行為をしなければ良かったのである。強制労働についての自己責任を使用者は負担しなければならない。それが最低の信義というものではなかろうか。このように解しても強制労働関係において労務提供のための施設や器具、労働条件一般を管理しているのは使用者であり、また強制労働によって使用者は利益を得ているのであるから、危険責任の観点からも報償責任の観点からも使用者に安全配慮義務が課され、その違反についての責任が課されても何ら公平に反しない。また強制労働関係設定への意思的関与が、契約関係があれば使用者に信義則上認められる債務としての安全配慮義務を、契約関係がなくても債務として負担させることを合理化する。
  このように強制労働関係において使用者に債務としての安全配慮義務が認められることによって、自らの意思に反して強制労働関係に組み込まれた強制労働者が使用者に対し安全配慮について請求し交渉し、その違反につき責任を追及するための法的道具としての安全配慮義務概念を獲得することになる(72)

2  戦前日本における強制労働関係上の信義則に基づく安全配慮義務の成立
  (1)  強制労働の法的性格
  本論に入る前に、まず初めに確認しておかねばならないことは、本人の意に反する強制労働は、個人の尊厳に対する重大な侵害であり、許すべからざる行為であるという点である。日本国憲法が基本的人権について定めるにあたり、その冒頭に、「何人も、いかなる奴隷的拘束を受けない。又、犯罪に因る処刑の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」(第一八条)と規定したのは、このような奴隷的拘束および苦役からの自由が、基本的人権の出発点であり、前提であることを示している(73)
  またその第一条で「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。」とする労働基準法は、「この法律で定める労働条件の基準は最低のもの」としつつ(一条二項)、その第五条において、「使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神または身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意に反して労働を強制してはならない」ことを明文化している。
  このように現行法制のもとにおいては、強制労働は「労働者が人たるに値する生活を営むため」の最低条件を侵害するものであり、あってはならない基本的人権侵害である。このような強制労働の禁止は、「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない」として(世界人権宣言四条)、或いは「何人も、強制労働に服することを要求されない」として(市民的及び政治的権利に関する国際規約第八条第三稼)、繰り返し国際社会で確認されてきたところである。
  ところで、本稿で問題としているような戦前日本において強制労働はどのような法的位置づけにあったか。なるほど、大日本帝国憲法においては、日本国憲法が規定するような奴隷的拘束および苦役からの自由についての明文の規定はなかったが、人身の自由を拘束するような強制労働が近代法の原則に反することで、あってはならないことであるとの認識は、明治五年に出された有名な太政官布告「芸娼妓等年季奉公人一切解放」に関する布告(明治五年一〇月二日・第二九五号)に見て取ることができる(74)
  また民事上は、強制労働を伴う契約は人身の自由を拘束する公序良俗違反の契約とされ(いわゆる前借金付芸娼妓契約につき、戦前の大審院判例は、前借金契約については有効としながらも、その「身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約」の部分については、前述の人身売買禁止令に違反するという理由で(大判明治二九年三月一一日民録二輯三巻五〇頁、大判明治三三年二月二三日民録大輯二巻ハ一頁)、或いは公序良俗違反として(大判大一〇・九・二九民録二七輯一七七四頁)無効とした(75)。さらに、暴行、脅迫、監禁を伴う強制労働が刑事上の暴行罪や脅迫罪、監禁罪にあたるとされることもあった(大判大四年一一月五日刑録二一輯一八九一頁、大判大一一年三月一一日刑集一巻一二七頁など)。
  なお日本は一九三二年にILOの「強制労働に関する条約」(第二九号条約)に批准していた点も忘れてはならない。そこでは、「能フ限リ最短キ期間内ニ一切ノ形式ニ於ケル強制労働ノ使用ヲ廃止スルコトヲ約ス」とされ(第一条1)、経過期間中に強制労働が認められるとしても、「公ノ目的ノ為ニノミ且例外ノ措置トシテ」使用が認められ、しかも後述するような厳格な「条件及保障ニ従フモノ」とされたのである(76)
  このように他人に対する労働の強制は、戦前においても民事上公序良俗に違反し、刑罰の対象となる不法な行為であり、基本的人権を著しく侵害し、個人の尊厳を脅かす、あってはならない行為であって、戦後はそれが犯罪による処罰を除いては、一切認められないこと、また、戦前においても、それが仮に認められるとしても法律に基づき厳格な条件でのみ認められたにすぎない例外的行為であったことを十分に認識しておく必要がある。

  (2)  強制労働訴訟における安全配慮義務の本質的特徴
  @  生命健康保障義務    ここでは、強制労働における安全配慮義務の成立と内容を論ずる際の検討素材として、強制労働訴訟における安全配慮義務論を詳細に展開する中国人の強制連行・強制労働訴訟である劉連仁強制連行訴訟(77)における原告の主張を紹介しておこう。
  この訴訟で原告が強制労働に関する国の安全配慮義務として論じている義務の内実は、原告によれば、「@生命、健康を維持するに十分な食糧を与え、A生命、健康を維持していける程度の労働条件で働かせ、B健康を維持し人としての尊厳を保ち得るような衛生状態で暮らすことができるような住環境と衣服を与える義務」であり、「生命健康保障義務」ともいうべきものとされる。そして、これを安全配慮義務と呼ぶのは、国の安全配慮義務を最高裁として初めて認めた前掲最高裁七五年判決がいうように、「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務」であり、「労働者の生命、健康、安全、衛生を守るべき義務」であることにかわりはないからだという。
  私見は、原告が主張するこのような「生命健康保障義務」が安全配慮義務の中に含まれ得ること、本件における国も原告に対してこのような意味での安全配慮義務を負っていたと考える。以下、その理由を述べる。
  A  労働条件と安全配慮義務    まず原告主張の「生命健康保障義務」のうち、前述の@Bは、衣・食・住・衛生状態に関する保障義務であり、Aが労働そのものの条件(狭義の労働条件という)にかかわる保障義務である。このうち、従来判例、学説において、労働過程において使用者や国が負うべき安全配慮義務として論じられてきたのは主としてAに関してであり、強制労働でない通常の労働であれば、Aが安全配慮義務の内容となることについては異論の余地がないであろう。その結果、労働者の生命、健康を維持できないような労働条件を課していたとすれば、そのこと自体が安全配慮義務違反とされることになろう。

  (3)  衣・食・住・衛生状態と安全配慮義務
  他方で@Bは、通常の労働関係上の安全配慮義務では問題とされることはない。なぜなら衣・食・住・衛生状態は本来、自己責任の妥当する領域であって、その保障を他人に請求する権利はないと考えられるからである。但し、労働者が使用者の寄宿舎で生活するような場合は別である。この場合、使用者が労働者の食事や住環境、衛生状態を管理した上で労務の提供を請求するからには、通常の労働条件の保障に加えて、食・住・衛生状態の水準にも配慮義務が生ずるものといえる。なぜなら、ここでは食・住・衛生状態について労働者の自己決定権が及ばないので、自己責任をとることができず、このような労働者の自己決定権を制約し管理権を有する使用者こそが、そこから生ずる危険につき管理責任を負うべきであり(危険責任)、またそのような責任を負わせても、寄宿舎生活をさせて労務を提供することが結局は使用者の利益にかなうのであるから、利益が帰するところに責任が帰すことに問題がないからである(報償責任)。
  労働基準法九五条が、事業の付属寄宿舎に労働者を寄宿させる使用者は、食事に関する事項や安全及び衛生に関する事項などについて寄宿舎規則を作成し、行政官庁に届出をしなければならないことを定め、また、九六条で「使用者は、事業の附属寄宿舎について、換気、採光、照明、保温、防湿、清潔、避難、定員の収容、就寝に必要な措置その他労働者の健康、風紀及び生命の保持に必要な措置を講じなければならない。」としているのも、こうした安全配慮義務を明文化したものと捉えることができる。
  また衣服については、いかに寄宿舎生活であっても自己決定権の範囲が及ぶものといえるが、労務の特殊性から要請される特別な衣服を着用する必要があるというような場合も、「保温、防湿、清潔」その他労働者の生命、健康の保持に必要な措置(労基法九六条)を採ることとの関連での配慮が使用者に義務付けられるものといえよう。
  以上のように原告が主張する「生命健康保障義務」は通常の労働関係のもとにおいて、使用者が労働契約に付随する信義則上の義務として、安全配慮義務の内容に含まれるものと位置づけることができる。
  なおこの点に関して、事業所に付属する寄宿舎における事故について、使用者の安全配慮義務違反を認めた事例として山路医院事件・名古屋地判昭五六・三・九判時一〇一八号一〇二頁がある。同判決は、「使用者は、労働契約に基づき労働者から労務の提供を受けるため提供した場所、施設もしくは器具等の設置管理に当たって、労働者の生命及び健康を危険から保護するよう配慮すべき義務を負っており、右は労働契約に付随する信義則上の義務と解されるところ、そのような義務を肯定する以上、右提供した場所又は施設とは、労働それ自体が行われる場所、施設に限らず、労務の受領を容易ならしめるための事業に付属する寄宿舎の如き場所、施設をも含むと解するを相当とする」とした(同旨・道園会松永病院事件・東京地判昭五九・六・二六判時一一三三号八四頁)。
  また、寄宿舎ではないが、使用者の事業運営に少なからず関連性を要している寮内で入寮者たる労働者が急性気管支炎により死亡した事故で、「入寮者との間の雇用契約に附随する信義則上の義務として、入寮者が通常期待できる看護を受け療養することができるよう配慮するべき義務がある」とした裁判例がある(日産自動車事件・東京地判昭五一・四・一九判時八二二号三頁)。
  B  戦前の労働関係における生命健康保障義務    劉連仁訴訟の原告側も主張するように、戦前においても、労働者災害扶助法は、「行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニヨリ事業ノ行ワルル場所ニ於ケル危害ノ防止又ハ衛生ニ関シ必要ナル事項ヲ事業者又ハ労働者ニ命スルコトヲ得」と規定し(七条。昭和七年一月一日施行)、また、同法規則二条は「事業主ハ事業ノ行ワルル場所ニ負傷者ノ救護ニ必要ナル救急用具及ヒ材料ヲ備置クベシ」とし、更に土木建築工事場付属宿舎規則が、事業主に対して宿舎における危害の防止及び衛生に関し詳細な規定を定めているのも、こうした雇用契約上の信義則に基づく生命健康保障義務を明文化したものと捉えることができる。
  従って、強制労働訴訟において、国が直接に原告を労働させている主体であり、かつ、それが強制労働でない通常の労働である場合には、以上の理由から、国が負う安全配慮義務違反が問題となり得ると考える。さて、本稿で問題としている強制労働訴訟の特徴は、直接に原告を労働させているのは、各企業であること、また通常の労働ではなく強制労働である点にある。次に、強制労働と安全配慮義務について私見を述べる。

  (3)  強制労働に関する条約上の安全配慮義務
  戦前日本が批准した強制労働に関するILO条約二九号は、その第一五条一項で「労働者ノ労働ニ基因スル災害又ハ疾病ニ對スル労働者補償ニ関スル法令又ハ規則及死亡シ又ハ無能力ト為リタル労働者ノ被扶養者ノ為ノ補償ヲ規定スル法令又ハ規則ニシテ関係地域ニ於テ実施セラレ又ハ実施セラルベキモノハ強制労働ガ強制セラルル者及任意労働者ニ均シク適用セラルベシ」と規定している。
  また、第一七条は、「労働者ガ労務場所ニ長期間留ルコトヲ必要ナラシムル建設又ハ保存ノ事業ノ為強制労働ヲ使用スルコトヲ許可スルニ先チ権限アル機関ハ左記ヲ確ムベシ  (1)労働者ノ健康ヲ保障シ且必要ナル医療ヲ確保スル為一切ノ必要ナル措置ガ執ラルルコト就中  (a)労働者ガ労務開始ニ先チ及労務期間中一定ノ期間毎ニ医学的検査ヲ受クルコト  (b)一切ノ要求ニ応スル為必要ナル薬局、病舎、病院及設備ト共ニ充分ナル医員ガ存在スルコト及  (c)労務場所ノ衛生状態並ニ飲料水、食糧、燃料、炊事道具及必要アル場合ノ住居及被服ノ供給ガ満足ナルコト」と規定している。
  これらの規定は、強制労働が強制労働者の意思に基づく労働関係ではなくても通常の労働関係と同様に、使用者が労働者の生命、身体、健康に配慮すべきことを示している。このことは、強制労働関係も使用者が自らの意思で設定した労働関係である点では通常の労働関係と同じであり、その点で強制労働における使用者は強制労働関係上の信義則から安全配慮義務を負うことを示唆しているのではないだろうか。

3  強制労働関係上の安全配慮義務の根拠と国の位置
  前述した強制労働関係上の信義則による安全配慮義務は、以下の三つの要素によってその成立を規定されていた。
  @使用者が自らの意思で強制労働関係を創設したこと、A強制労働から生ずる労働者への危険を管理する権限を有すること、B強制労働によって利益を得ること。
  ところで、これら三つの要素は全て強制労働における国に当てはまるものである。
  (1)  強制労働関係創設に対する国の意思的関与
  そもそも強制労働訴訟で問題となっている強制労働は、国家目的たる戦争の遂行のために国内の労働力不足を補う目的で、国が計画し、実行したものである。従って、強制労働関係創設に対する国の意思的関与は明白である(78)。国がそのような安全配慮義務を免れたいのであれば、始めから強制労働関係を創設しなければよかったのである。また国がそのような強制労働関係を創設する計画をたて実行したからこそ、原告を含む多くの者の悲惨極まりない人権侵害がひきおこされたのである。この点での国の責任は重い。

  (2)  強制労働の危険への管理権限
  原告が主張するように、強制労働における労働条件や衣食住に関する条件を、大枠で規定していたのは国であったとすれば、国は強制労働者の生命・身体・健康の安全を配慮するために必要な措置を直接の強制労働主体である使用者に命ずることができる権限を有していたことになる。

  (3)  強制労働による利益の取得
  強制労働は前述のように、国家目的たる戦争の遂行のための国内の労働力不足を補うために計画され、実行されたのであり、国は強制労働の利益主体である。
  以上のように、国が自らの意思的関与により強制労働関係を創設したことにより、国は強制労働関係上の信義則に基づき、強制労働者に対して安全配慮義務を負うに至ったとみるべきであり、このような義務を負担させても、強制労働への危険への管理権限を国が有し、また国は強制労働による利益を取得していた点からも、公平にかなうものといえる。

4  国の安全配慮義務と使用者の安全配慮義務との関連
  なお、強制労働関係は、国の意思的関与だけでは成立せず、使用者たる各企業の意思的関与なしには成立しなかったのであり(79)、また、強制労働者に対する安全配慮は、労働条件を大枠で規定する国と、労働条件を直接に支配する使用者との協働によって初めて達成されるものであり、したがって、国と使用者たる各企業は強制労働関係上の信義則に基づき、強制労働者に対して連帯して安全配慮義務を負うと解すことができるし、また、そう解さなければ安全配慮の実効性がないことになろう。

お  わ  り  に



  本稿では第二次大戦中の強制労働被害者が日本国及び企業を相手取って損害賠償責任を追及する訴訟の中で、強制労働関係上の安全配慮義務違反を理由とした債務不履行責任を追及していることを契機として、その理論的当否を検討する試みであった。このような試みは、強制労働関係が契約関係を前提としない労働関係であるが故に、より一般的に合意なき労働関係における債務としての安全配慮義務の成立の理論的当否を検討することを余儀なくさせるものであった。それはまた、安全配慮義務の法的性質をめぐって、これを不法行為責任規範の中に吸収すべきであるという近時の民法学の一つの潮流との対抗関係を築くことにもなった。
  もとより、強制連行や強制労働は戦前日本においてもあってはならない人権侵害であり、むしろ、これを不法行為責任として端的に捉えるべきであるとの議論もあるであろう。そしてこれを不法行為責任として捉えた場合に桎梏となる戦前の国家無答責の法理はそれとして問題にすべきであり、或いは日本ではまだ判例上定着していない国際法上の個人賠償請求権の問題こそが理論的に深められるべき課題であるとの意見もあろう。さらには損害賠償請求権の法的構成がどうあろうと問題となり得る消滅時効の問題も含めて何らかの立法的解決を図るべき問題であるとの意見もあり得よう。
  私見もそれら諸問題に関する理論的検討はそれぞれ重要であり、立法的解決も努力されるべきであることは当然の前提としている(80)。その上でなおかつ、本稿の課題は、意に反して労働させられた者は労働を要求する者に対して、自らの安全配慮の実現を請求する法的正当性はないのか、労働契約関係があれば信義則上認められる使用者の安全配慮義務は、安全配慮義務を負うべき使用者が強制的に他人を労働させることによって免除されてしまうのかという問題をそれ自体として検討することの重要性を意識して設定された。
  合意なき労働関係においても債務としての安全配慮義務が成立するという本稿の結論は、更に、契約締結上の過失論や第三者の保護効を伴う契約などの契約責任の時間的・人的拡張論、事実的契約関係論、契約的不法行為論、契約における合意と信義則、信義則が現代国家と法にしめる位置、それらの比較法的検討など様々な観点から理論的深化を進めることが必要である。しかしそのような今後の検討を進めていくためにも、本稿が日本における安全配慮義務論の理論的発展と強制労働訴訟の実践的解決に何がしかの寄与をなしえれば幸いである。
  (研究室の窓から等持院の木立に降りしきる純白の雪を眺めつつ。二〇〇一年一月二〇日)。

(1)  日本における安全配慮義務について、この間の判例・学説の展開を鳥瞰した近時の論稿として、淡路剛久「日本民法の展開(3)判例の法形成−安全配慮義務」広中俊雄・星野英一編『民法典の百年(2)』四四七頁以下(有斐閣、一九九八)、新美育文「安全配慮義務」山田卓生編集代表『新・現代損害賠償法講座1』二二三頁以下(日本評論社、一九九七)、ドイツ民法典や日本民法典の制定過程での安全配慮義務をめぐる議論(ないしその不在)問題から説き起こし、戦前の判例・学説から現代までの理論状況を俯瞰する壮大な意欲作として白羽祐三『安全配慮義務法理とその背景』(中央大学出版部、一九九四)、労働法学からの整理として品川充儀「使用者の安全・保健配慮義務」日本労働法学会編『講座21世紀の労働法7健康・安全と家庭生活』一〇九頁以下(有斐閣、二〇〇〇)など。なお、筆者も「戦後日本における安全配慮義務論の理論史的検討−労災責任論の展開過程とのかかわりを中心に(1)(2)(3・完)」早大・法研論集三八、四〇、四三号(一九八六−七年)で検討を試みた。
(2)  この点を指摘するものとして、國井和郎「裁判例から見た安全配慮義務」(初出 Law School 三〇号六〇頁以下(一九八一)。後に下森定編『安全配慮義務法理の形成と展開』七頁(日本評論社、一九八八)所収。引用は後者による)など。
(3)  この意味で、奥田昌道が、前掲最判七五年判決において、「『ある法律関係に基づいて特別な社会的接触に入った当事者間』というような茫漠とした表現が用いられたのは、本件が国と公務員(自衛隊員)との関係(公法上の勤務関係)を念頭においてのことと思われ、したがって、私法上の雇用・労働関係における使用者ー労働者間においては、このようなもって回った言い方ではなく、端的に雇用・労働関係上の付随義務という性格づけがなされたと思われる。」と指摘したのは的を得ていると思われる(奥田昌道「船長の窒息死事故と受託海運会社の安全配慮義務」『私法判例リマークス〈一九九二(上)〉』三〇頁(一九九二)。多くの論者が同様の指摘をする。白羽・前掲注(1)二一五頁など。
(4)  この点を指摘するものとして、例えば國井は、前掲最高裁七五年判決が安全配慮義務を「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触に入った当事者間」に一般的に認められるべき義務としていることによって、「安全配慮義務はひとり雇用契約や労働契約にかぎらず、他の契約関係に及びうるものであり、さらに契約関係のない場合にも認められる可能性を窺知しうるのである」とする(國井・前掲注(2)八頁以下)。
(5)  その裁判例については、前掲注(1)の諸文献参照。
(6)  日本における過失論の発展についての近時の文献として、瀬川信久「民法七〇九」広中俊雄・星野英一編『民法典の百年(4)個別的考察(2)債権編』五五九頁以下(有斐閣、一九九八)。そこでは侵害防止義務の拡大を促したもののひとつとして安全配慮義務を位置づけている(五八〇頁以下)。
(7)  その先駆的業績として、『契約責任の研究』(有斐閣、一九六三)を始めとする北川善太郎の一連の研究(同「債務不履行の構造とシステム」法学論叢一一六巻一−六号(一九八五)、「債務不履行における有責性」同上一一八巻四・五・六号(一九八六)、「§四一五」[債務不履行]『注釈民法(10)』(有斐閣、一九八七)、奥田昌道の研究(奥田昌道「契約法と不法行為法の接点−契約責任と不法行為責任の関係および両義務の性質論を中心に−」於保不二雄先生還暦記念『民法学の基礎的課題(中)』(一九七六)、下森定「契約責任の再構成をめぐる覚書」Law School 二七号(一九八〇)、同「契約責任(債務不履行責任)の再構成」『内山他還暦記念・現代民法学の基本問題(中)』(一九八三)など。
(8)  平野裕之「安全配慮義務の観念は、これからどの方向に進むべきか」椿寿夫編『講座  現代契約と現代債権の展望2債権総論(2)』三三頁以下(日本評論社、一九九一)。
(9)  平野・前掲注(8)四一頁以下。
(10)  青野博之「契約なき債務不履行−契約ある不法行為との関係を含めて」『中川淳先生還暦祝賀論集  民事責任の現代的課題』一八四頁(世界思想社、一九八九)。なお青野自体は契約上の安全配慮義務の存在意義も肯定する。
(11)  奥田・前掲注(3)三二頁。
(12)  潮見佳男『契約規範の構造と展開』一四八頁以下(有斐閣、一九九一)。
(13)  この点につき松本克美「時効規範と安全配慮義務−時効論の新たな胎動」神奈川法学二五巻二号一七頁以下(一九八九)。
(14)  奥田昌道『債権総論[増補版]』一六七頁以下(悠々社、一九九二)。
(15)  平井宜雄『債権総論・第二版』五二頁(弘文堂、一九九四)。
(16)  北川善太郎・前掲注(7)法学論叢一一六巻一−六号二四七頁など。
(17)  高橋眞「安全配慮義務の性質論について」奥田昌道先生還暦記念『民事法理論の諸問題・下巻』二九八頁(成文堂、一九九五)。
(18)  半田吉信「契約責任と不法行為責任の交錯」奥田昌道先生還暦記念『民事法理論の諸問題・上巻』三八九頁(成文堂、一九九三)。
(19)  新美育文「『安全配慮義務』の存在意義」ジュリスト八二三号九九頁以下(一九八四)。
(20)  平野・前掲注(8)四七頁以下。
(21)  松本博之「訴訟法の論点」(私法学会シンポジウム「安全配慮義務の現状と課題」))私法五二号二七頁以下(一九九〇)。
(22)  平野・前掲注(8)四八頁、五二頁。
(23)  國井和郎「第三者惹起事故と安全配慮義務」判タ五二九号二〇五頁(一九八四)。
(24)  滝澤聿代「安全配慮義務の位置づけ」加藤一郎先生古希記念『現代社会と民法学の動向  上』(有斐閣、一九九二)二九五頁。
(25)  國井は「安全配慮義務に関し、不法行為処理が債務不履行構成と同一の結果に至ったとしても、それは、契約的契機によって変容を受けた義務の措定の結果、いわば契約上の義務が不法行為上の義務に充てられた結果と見るべきです。したがって、債務不履行処理と不法行為処理との間に大差がないとしても、安全配慮義務の存在理由を否定すべきではありません。」とする(前掲注(21)「民法上の視点」私法五二号二〇頁(一九九〇))。本文で述べたように、全く正当な指摘である。
(26)  新美・前掲注(19)一〇四頁。なお関連する新美の主張として前掲注(1)の他、同「『安全配慮義務の存在意義』再論」法律論叢六〇巻四・五合併号六〇八頁以下(一九八八)、同「安全配慮義務(1)(2)」月刊法学教室一二四号五八頁以下、一二五号五八頁以下(一九九一)。
(27)  青野・前掲注(10)一七七頁。
(28)  松本・前掲注(13)及びその要約版として松本克美「時効規範と安全配慮義務」私法五二号一四一頁以下(一九九〇)。
(29)  松本・前掲注(13)八頁以下。
(30)  松本・前掲注(13)四三頁以下。
(31)  辻伸行「安全配慮義務違反に基づく損害賠償と消滅時効規範−適用すべき消滅時効規範の検討を中心にして−」上智法学論集三九巻三号(一九九六)三二頁。
(32)  なお、消滅時効制度の存在理由の中での権利行使可能性の要素の位置づけについては、別稿で検討したので参照されたい(松本克美「消滅時効・除斥期間と権利行使可能性」立命館法学二六一号九八頁以下(一九九九))。
(33)  辻・前掲注(31)三二頁。
(34)  継続的被害における時効の起算点論については、筆者もささやかな検討を行ってきた。松本克美「『不貞慰謝料』の消滅時効の起算点」判例評論四三四号三五頁以下(判例時報一五一八頁一九七頁以下)(一九九五)の他、後掲注(35)のじん肺訴訟に関する諸論稿を参照されたい。
(35)  じん肺訴訟の原告団の聞き取り調査の結果もふまえたこの点での指摘と、そのことをふまえた理論的・立法論的課題の提起として、松本克美「じん肺事件における時効問題」法と民主主義三四六号一三頁以下(二〇〇〇)、同「権利行使条件の成熟度と消滅時効・除斥期間制度の紛争解決阻害性−じん肺訴訟・戦後補償訴訟を中心に−」法社会学五三号一六五頁以下(二〇〇〇)。なお、じん肺訴訟の時効解釈論の詳細については次の別稿で展開しているので参照されたい。松本克美「消滅時効と損害論−じん肺訴訟を中心として」立命館法学二六八号一九頁以下(一九九九)、同「進行蓄積型被害に対する損害賠償請求権の消滅時効と損害額の算定−長崎じん肺訴訟上告審判決」ジュリ一〇六七号一二七頁以下(一九九五)、同「時効とじん肺−画期を画す常磐じん肺訴訟第一審判決」判タ七三一号五六頁以下(一九九〇)、同「安全配慮義務違反による進行性被害と消滅時効−長崎じん肺訴訟第二審判決」ジュリ九四二号九八頁以下(一九八九)。
(36)  同様の指摘として、浦川道太郎「下請企業の労働者に対する元請企業の安全配慮義務−三菱重工難聴訴訟上告審判決」『私法判例リマークス(5)〈一九九二(下)〉』四七頁。
(37)  新美・前掲注(19)、平野・前掲注(8)、辻・前掲注(31)などの諸論稿参照。
(38)  松本・前掲注(13)(28)(32)(34)(35)所収の諸論稿参照。
(39)  円谷峻は、「なお、債務不履行責任を導く安全配慮義務による構成のほうが、一〇年の時効期間が適用されるので、被害者に有利であるとの反論も考えられる。しかし、この議論は、多分に感覚的なものであり、右のような構成による安全配慮義務を支える決定的な要因とはならない。」として、西ドイツの債権法改正をめぐり消滅時効期間を三年間に統一する諸意見を紹介した上で、「このように、諸外国の動向を比較しても、三年の消滅時効期間が必ずしも短いとはいえないのではあるまいか。少なくとも、仮に、三年という消滅時効期間が短いとしても、契約法的な構成を志向することは、妥当な方法であるとは思われない。」と指摘している(円谷峻『契約の成立と責任』(一粒社、一九八八)六六頁以下)。円谷の論稿は直接に私見を対象としているものではないが、本文で述べたように私見は「感覚的」なものを超えて「理論的」な提起をしている。また、日本で安全配慮義務が問題となる主領域である労災領域において、ドイツではそもそも労災保険とは別に労災に関して使用者に民事責任を追及することが制限されており、今日のドイツの保護義務の議論は労災事例を全く念頭においていないこと、今日のドイツでは日本と比べて不法行為に基づく損害賠償請求権については交渉中は時効が停止するなど時効停止事由が広く、また時効の援用制限論も日本よりも広く認められていること、西ドイツの債権法改正の鑑定意見でも時効期間短縮論とともに、時効停止事由を一般に広く認めることがあわせて提案されていることなどから、ドイツの議論をそのまま日本の議論に参照することは妥当でないと考える(松本・前掲注(13)二七頁以下)。
(40)  この点で注目されるのは、宮本健蔵の一連の研究(それを集大成したものとして、宮本健蔵『安全配慮義務と契約責任の拡張』(信山社、一九九三))、潮見佳男の研究(潮見佳男『契約規範の構造と展開』(有斐閣、一九九一)、同『契約責任の体系』(有斐閣、二〇〇〇)、高橋眞の研究(前掲注(17)の他、同『安全配慮義務の研究』(成文堂、一九九二)など)である。
(41)  松本・前掲注(13)一六頁以下。
(42)  新美・前掲注(1)『新・現代損害賠償法講座1』二三六頁。
(43)  平野・前掲注(8)四〇頁。
(44)  山本隆司「安全配慮義務論序説−不完全履行・積極的債権侵害に関する一考察」立命館法学一七一号六三二頁以下(一九八四)。
(45)  松本・前掲注(1)は、このような問題意識を背景に、日本でなぜ労働契約上の安全配慮義務論が他ならぬ戦後一九六〇年代において展開することになったのか、その理論史的、実践的必然性を検証しようとしたものである。
(46)  蓼沼謙一「災害補償」『講座・労働問題と労働法5』(一九五六)二一一頁。
(47)  林迪廣=宮崎鎮雄「現行法における保障−労働災害とその補償責任の法構造」日本労働法学会誌二六号一四六頁(一九六五)。
(48)  松本・前掲注(1)早大・法研論集四〇号二九一頁以下、同四三号二五七頁以下。
(49)  この時期の日本における裁判闘争を含む労働運動における労災闘争については、桑原昌宏『労働災害と日本の労働法』(法律文化社、一九七一)、総評弁護団労災研究会編『労災・職業病』(民衆社、一九七五)、全国労災職業病対策実行委員会編『労災職業病の理論と実務』(労働教育センター、一九七六)、角田豊他編『現代の労働と健康を守る権利』(法律文化社、一九七九)など参照。なお安全配慮義務概念に基づく「債務不履行論」が安全闘争の面で実益を有することを強調する初期の文献として、南元昭夫「労働契約上の『債務不履行』論の思想とその役割」月刊いのち四五号一三頁以下(一九七〇)。南元は使用者が労働契約上の安全保証義務を負うことが明らかにされることにより、労働者には「使用者に対し、安全保証義務の履行として、危険の除去を求め、ないしは、安全措置の取付けや装備を要求し、あるいは原材料の検査変更を請求することができる」とし、さらにこの義務は「使用者の日常的に継続して刻一刻履行されるべき債務」だから、「@安全設備の完備と安全健康を保持しうる労働条件の要求、A安全衛生管理に対する労働者・労働組合の実質的参加権の確立、B安全点検活動権の実質的保障、Cこれに付随して事故・疾病発生の場合の原因調査・立ち居利権あるいは予防のための調査立入権の保障など、を要求し得る理論的武器になりうる」とし、「これらのことは、不法行為論を根拠にして構成する限り極めて困難」とする(一九−二〇頁)。
(50)  一九七二年には労働安全衛生法が制定されるが、その背景の一つとして、平田は、「六〇年代後半以降、高揚した労災防止闘争を支えた生命と人間の尊厳の思想の投影」を指摘する(平田秀光「労働安全衛生管理体制」『現代労働法講座12』(総合労働研究所、一九八三)五七頁)。なお、近時の労働安全衛生法制をめぐり、ドイツとの比較も通して実践的な議論を展開する注目すべき試みとして、三柴丈典『労働安全衛生法論序説』(信山社、二〇〇〇)、同「労働科学と法の関連性−日独労働安全衛生法制の比較法的検討−」日本労働法学会誌九六号一七七頁以下(二〇〇〇)。
(51)  前掲注(49)『労災職業病の理論と実務』は、労災問題に消極的な組合が存在する要因として「労災や職業病の裁判を提起すれば、どうしても会社の合理化政策と全面的に対決してその責任を追及していかざるをえないのですが、そうするには賃金や解雇とは違った形での労働組合の姿勢が問われてくる」と指摘する(一七二頁)。
(52)  この点で、新美は「契約責任と構成できたとしても、個別交渉を経て成立した合意を破ったことに対する責任とはいえない。そうだとすると、契約意思を持ち出して不法行為と異なる処理をする基盤はないといいうる。交渉の場はあったけれど交渉しなかった、あるいは、できなかった場合と、そもそも交渉の場がなかった場合とで、損失ないし損害の処理について、どれほど結論に差が出るのであろうか。」と指摘する(前掲注(1)二五三頁以下)。しかし私見は本文で述べたように契約交渉規範としての安全配慮義務にもっと積極的な可能性をみており、新美のように見切りをつけることには反対である。なお、労災以外の事故類型の場合でも、例えば、学校での安全問題について、在学契約上の安全配慮義務の履行請求をめぐり在学者(ないしその法定代理人=親)が権利者として学校と交渉するとか、欠陥住宅などの売買目的物や請負目的物について買主や注文者が売主、請負人の安全配慮義務の実現を請求する、そのために交渉するなどが考えられる。この場合、安全配慮義務に対応する債権者の債権の性格・内容が理論的につめられていく必要があろう。ちなみに、安全配慮義務概念を、こうした事故規範防止規範の形成のための権利論に結び付けていく構想の試論として、松本克美「安全保護義務論・序説−権利論的事故防止法理構築のための基本視角の設定」早大・法研論集三二号三一五頁以下(一九八四)。
(53)  かつて筆者は、製造物責任における製造者の安全確保義務につき論じた際に、直接に契約関係に立たない利用者から製造者への「安全確保義務の履行請求」ができないかを検討すべきことを指摘した(松本克美「欠陥責任と安全確保義務−製造物責任法解釈の規範的判断枠組をめぐって−」神奈川大学法学研究所研究年報一五号一六三頁(一九九六))。
(54)  淡路・前掲注(1)五〇一頁は、この点につき、「安全配慮義務は、契約の明示的な文言あるいは契約の解釈から導かれる安全保護にかかわる注意義務を含まないところの、信義則上の付随義務」とする。また奥田・前掲注(2)三二頁は、「判例・学説は、このような安全配慮義務の根拠を信義則に求めたが、信義則に基礎を求めるということは、当事者の意思、その合致としての合意・契約とは無関係だということを意味する。つまり、意思とは関係なしに、法規範がかかる義務の存在を要請しているといえる。」とする。
(55)  松本・前掲注(13)一七頁以下。
(56)  奥田・前掲注(3)三二頁。
(57)  青野・前掲注(10)一八三頁。
(58)  東京地判二〇〇〇年(平成一二年)一月二八日・判時一七一六号八九頁。
(59)  この点を明確に指摘するのが公務員の労働関係をめぐる労働契約説である。室井力は、「公務員になるかならないかは本人の自由であり、両当事者の意思の一致なしには公務員関係は成立しえない」点で、「公務員関係は、法原理の本来としては、対等当事者間の労働契約関係」であることを強調する(室井力『特別権力関係論−ドイツ官吏法理論史をふまえて』三四五頁(一九六八、勁草書房))。また白羽は前掲最判七五年判決との関連で、「現在では国と公務員(自衛隊員)との勤務関係の形成は公務員の自由意思に基づくのであるから、基本的には私法上の契約関係を無視するわけにはいかないのである」として、「室井力説をもって妥当と解すべきである」とする(前掲注(1)・二一四−五頁)。なお近時、労働契約における合意を、「成立要件としての合意」と「解釈対象としての合意」の二つに分け、更に後者は、「主として契約締結時になされる基本的・概括的な部分(基本的合意)と、その後の展開でアポステリオリに追加される具体的にして詳細な部分(追加的合意)から構成される重層的な構造をもつ」とする興味深い分析がなされている(野田進「労働契約における『合意』」日本労働法学会編『講座21世紀の労働法4・労働契約』二七頁以下(有斐閣、二〇〇〇))。このような視角の安全配慮義務論にとっての意義の検討は、他日を期したい。
(60)  この点に関する判例・学説を分析したものとして、岡村親宜「使用者・事業主の民事責任」日本労働法学会編『現代労働法講座12  労働災害・安全衛生』(総合労働研究所、一九八三。後に岡村親宜『労災補償・賠償の理論と実務』(エイデル研究所、一九九二)に所収。引用は前者の講座による。)、同「元請の下請労働者に対する債務不履行責任−福岡高判一九七六・七・一四  鹿島建設墜落災害死事件批評」(初出労旬九四五号五六頁以下(一九七八)。後に同『労災裁判の展開と法理』(総合労働研究所、一九八二)に所収。引用は後者による)、奥田・前掲注(2)、後藤勇「注文者・元請負人の不法行為責任(下)−裁判例を中心として−」判タ三九一号一五頁以下(一九七八)、和田肇「雇用と安全配慮義務」ジュリ八二八号(一九八五)、後に、下森編・前掲注(1)に所収。引用は後者による)、宮本健蔵「下請労働者に生じた労働災害と元請負人の賠償責任」明治学院論叢(法学研究)六〇号二二三頁以下(一九九六)、平田秀光「注文者・元請企業の損害賠償責任」青木宗也他編『労働判例体系9  労働災害・職業病(2)(損害賠償)』(労働旬報社、一九九二)一八五頁以下など。
(61)  以下の四説への分類は、基本的に岡村・前掲注(60)『現代労働法講座12』三〇七頁以下の要領よくまとめられた整理に依拠しつつ、私見を加えたものである。
(62)  福岡地裁小倉支判一九七四・(昭和四九)三・一四判時七四九・一〇九(鹿島建設墜落災害死事件)など。
(63)  西村健一郎「労災補償」『労働法講義3』(有斐閣、一九八一)三三八頁、宮本・前掲注(60)二五〇頁。宮本は、「元請負人は契約的接触関係に入った下請負人に対して自己の支配領域の安全性に関して契約法上の義務を信義則上負うのであるが、下請労働者が下請負人の債務を履行するために元請負人の支配領域に立ち入った場合には、元請負人の契約法上の義務は下請労働者にも拡張されるものと考える。」とする。
(64)  福島地判一九七四(昭四九)・三・二五・判時七四四・一〇五(大成建設墜落災害死事件)、岡村・前掲注(60)『労災裁判の展開と法理』二一〇頁。但し、岡村はその後、労働契約説を放棄しているようにも読める(後掲注(65)参照)。
(65)  東京地判一九七五(昭五〇)・八・二六・判時八〇九・九一(早川建設転落災害死事件)、福岡高判一九七六(昭五一)・七・一四・労旬九四二・六九(鹿島建設墜落死事件)、岡村・前掲注(60)『労災裁判の展開と法理』二一二頁以下、同『現代労働法講座12』三〇八頁、星野雅紀「安全配慮義務とその適用領域について」判タ四五七号一一頁(一九八二)、古賀哲夫「孫請会社の従業員の転落事故と元請会社らの安全配慮義務」法時五五巻八号一四六頁(一九八三)など。
(66)  松本克美・本稿(一)・立命館法学二七〇号一〇頁以下。
(67)  宮本・前掲注(60)二三九頁は、「使用従属関係」「指揮命令関係」を基礎に、元請人の安全配慮義務を基礎付ける見解に対して、なぜ両者の関係が安全配慮義務の発生基盤となるのか、その義務違反がなぜ債務不履行として帰責しうる関係となるのかについて解明すべきだとする。私見も同意見である。なお労働関係説に立つ岡村は、「いわゆる市民法原理の補充ないし調整的機能を営む信義則の適用ではなく、異質の法原理である労働法原理の実現のための『社会的機能』を営む信義則の適用としては、『契約外関係』である労働関係に対して信義則が適用されるのは当然」として、「労働契約間契約において、合意そのものではなく、信義則が『安全保護義務』(債務)を発生させたと同様、『契約外関係』である『労働関係』においても、信義則が労働契約関係上のそれと同一の『安全保護義務』(債務)を発生させるものといわなければならないのである。」とする(岡村・前掲注(60)『労災裁判の展開と法理』二一三頁)。しかし私見は本文で述べるようにそのような「労働法原理」実現のための「信義則」としての共通性から労働関係上の安全配慮義務を根拠づけるよりも(この点は「市民法対労働法」という枠組みで個別解釈論の決着がつくかという大問題にもかかわる)、元請ー下請の労働関係においても元請がそのような労働関係の設定に意思的に関与している点では、労働契約関係が直接成立している場合と共通である点に、この場合の信義則上の債務としての安全配慮義務の成立根拠を求めたい。なお新美・前掲注(1)二三三頁は、「契約意思を経由することなく、『事実』から『契約』上の義務であることまで基礎づけられるものではあるまい」とするが、私見は本文で述べるように「契約意思」がなくても「労働関係設定意思」があれば、債務としての安全配慮義務を根拠づけられないかと考える。
(68)  岡村・前掲注(60)『現代労働法講座12』三〇七頁は、労働契約説につき、「労働法学説の通説は、労働契約の成立要件としてなんらかの合意を必要としているので、本問題の処理としては不適切である。」とする。
(69)  高橋・前掲注(17)一四〇頁。
(70)  危険責任と報償責任の観点から元請人の下請労働者に対する安全配慮義務の成立を肯定するのは後藤勇である。後藤は、しかしながら、「注文者・元請人と下請負人ないしその被用者との間には、いわゆる雇用契約やその他の契約関係はなく、ただ事実上の使用関係があるに過ぎないから、右安全配慮義務を、不作為による不法行為の成立要件である作為義務ないしは不法行為の成立要件である作為義務ないしは不法行為の過失を校正する一内容と考え、右義務違反のある場合には、不法行為による損害賠償責任があると解した方が適当ではなかろうか」とする(後藤・前掲注(60)一五頁)。しかし、このような安全配慮義務を債務不履行責任として構成することが理論的課題であることを指摘し、後藤説は「元請債務不履行責任論へと発展させらるべきである」と指摘するものとして岡村・前掲注(60)『現代労働法講座12』二一八頁注(3)。私見もこの点では岡村と同意見である。
(71)  奥田はこの点に関して、前掲最判七五年判決に依拠しつつ次のように述べている。「国と公務員、使用者と労働者との間において国・使用者が公務員・労働者に対して負う安全配慮義務は、公務員・労働者が勤務関係・雇用関係上の義務(職務に専念する義務、労務を提供し遂行する義務)を履行するための不可欠の前提をなすものであり、国・使用者は給与・賃金支払義務(給付義務)のほかに、なお、安全配慮義務を負うのである。」(奥田・前掲注(14)一六六頁。傍点ー引用者)。全く同感である。
(72)  なお星野雅紀は「安全配慮義務は、債務不履行を理由とする以上、少なくとも『契約的な関係』で相接触するという法律関係の存在を前提としなければならず、国・公共団体が専ら一方的な公権力の行使により特別権力関係に組み入れた場合、そこに契約関係又はこれに類似する法律関係を構成することの困難さがあると思われる。……このように考えると、強制力の伴う収容施設内の事故について安全配慮義務を問う事例が見受けられないのも一応の理由があると首肯し得るところである。」とする(星野「安全配慮義務とその適用領域について」下森定編・前掲注(2)四五頁)。しかし、その後、刑務所内での刑務作業中に負傷した受刑者が国の安全配慮義務違反の責任を追及した事例が二件ある(神戸地判一九八六年(昭和六一年)三月二五日・判夕六二一号一五〇頁、横浜地判一九八八年(昭和六三年)五月二五日判時一二九五号九四頁)。これらの判決ではここでの安全配慮義務の法的性質を明示せずに、その存在を肯定した上で具体的な義務違反を否定しているが、このような受刑者に対する安全配慮義務の成否についても、私見のような視角から再含味が必要であろう。
(73)  この点を強調するものとして、柳沢旭「強制労働の禁止と中間搾取の排除」『現代労働法講座9』二三〇頁以下(一九八二、総合労働研究所)。
(74)  なおフェミニズム法学の観点から芸娼妓解放令を検討した近時の論稿として、若尾典子『闇の中の女性の身体  性的自己決定権を考える』(学陽書房、一九九七)二一頁以下。
(75)  川島武宜「人身売買契約の法的拘束力」法律時報二七巻九号、一九五五年、『川島武宜著作集』第一巻七二頁以下(岩波書店、一九八二)。
(76)  なお日本はその後一九三九年一二月よりILOの分担金不払いにより、一九四〇年から脱退扱いされたが、条約廃棄の登録をしておらず、批准による効力発生時である一九三三年一一月二一日から継続して強制労働に関する条約に拘束されている点につき、戸塚悦郎『日本が知らない戦争責任』二三一頁(現代人文社、一九九九)参照。
(77)  劉連仁訴訟(本稿(一)・立命館法学二七〇号一七頁の戦後補償リストI事件)は、原告側訴状によれば次のような事案である。中国山東省の一農民であった原告・劉連仁氏は被告国の強制連行・強制労働政策に基づき、一九四四年九月二八日の早朝に、被告国の意を受けた中国傀儡軍に突然拉致され、家族から引き離されて日本に連行され、北海道にある明治興業株式会社昭和鉱業所において、十分な食糧を与えられず、いつ死んでもおかしくないような栄養不良状態で過酷な労働を強いられ、寒さにこごえ、皮膚病に悩むような劣悪な宿舎と衣服しか提供されなかったため、「このままでは殺されてしまう」と考え、戦争が終わる半月前の一九四五年七月末に脱走し、その後、戦争が終わってからも原告は戦争の終結を知らぬまま、北海道の山中を一三年間にわたり逃走を続け、一九五八年二月にたまたま民間に発見され保護され、その後帰国したというものである。原告は国を相手取って不法行為ないし安全配慮義務違反の債務不履行に基づく損害賠償責任等を追及した。なお、筆者はこの訴訟における原告側の意見書として「民法七二四条後段と信義則・権利濫用論の適用問題について」(一九九八年)及び「強制連行・強制労働における国の安全配慮義務について」(二〇〇〇年)を提出した経緯があり、原告側の主張について詳細を知っている。なお、本稿の以下の叙述は後者の意見書と重複する部分があることをお断りしておく。残念なことに原告の劉連仁氏は昨年九月に病死され、遺族が訴訟を継続している。
(78)  強制連行・強制労働における国の関与については、本稿(一)一三頁の注(1)参照。
(79)  前掲注(78)参照。
(80)  戦後補償訴訟における時効問題については、松本克美「戦後補償裁判と消滅時効・除斥期間−不二越訴訟第一審判決」ジュリスト一一一八号一一七頁以下(一九九七)、同「戦後補償請求権の消滅時効・除斥期間−不二越訴訟第二審判決」法律時報七一巻一一号一一八頁以下(一九九九)の他、松本・前掲注(32)八六四頁以下、(35)法社会学五三号一六九頁以下などで検討した。また戦後補償をめぐる立法論については、松本・前掲注(35)法社会学五三号一七二頁以下の他、松本克美「日本の戦後補償訴訟の現状と課題」立命館国際地域研究一七号八五頁以下(二〇〇一)でも論じた。なお最後の論稿には、本稿で述べた強制労働訴訟における国・企業の法的責任に関する私見の要約が述べられているので参照されたい。


*なお本稿二で検討した鹿島花岡鉱山中国人損害賠償請求訴訟については、被告鹿島が中国紅十字会に五億円を信託し、「花岡平和友好基金」として管理することなどを内容とした裁判上の和解が二〇〇〇年十一月二九日に成立した。日中間の戦後補償訴訟では初めての和解である。