立命館法学 2000年5号(273号) 151頁




ドイツ処罰妨害罪に関する一考察(二・完)

- ドイツ刑法二五八条五項について -


豊田 兼彦


 

は じ め に

第一章  ドイツ処罰妨害罪の歴史的概観−予備的考察−
  第一節  前    史
  第二節  犯罪庇護の形成
  第三節  処罰妨害罪の独立 (以上二七〇号)

第二章  自己庇護の不処罰
  第一節  序
  第二節  不処罰の実質的根拠(立法上の根拠)
    一  責任(Schuld)に着目する見解(通説)
    二  その他の見解
  第三節  不処罰の形式的根拠(体系的地位)
    一  責任阻却説
    二  構成要件不該当説(通説)
  第四節  小    括

第三章  ドイツ刑法二五八条五項成立の背景とその役割
  第一節  序
    一  本章の課題
    二  二つの類型
  第二節  二五八条五項成立以前の状況
    一  共犯者等の庇護
    二  間接的な自己庇護
    三  小    括
  第三節  二五八条五項の成立
    一  立 法 作 業
    二  二五八条五項の成立
  第四節  二五八条五項成立後の状況
    一  共犯者等の庇護
    二  間接的な自己庇護

むすびにかえて                    (以上本号)




 

第二章  自己庇護の不処罰

第一節  序

  犯人が単独で自己を処罰から免れさせようとする行為(単純な「自己庇護(1)」)は、日本と同様、ドイツでも、不可罰とされている(犯罪類型化されていない)。「他人」の処罰の妨害のみが可罰的とされているのである。もちろん、このことは、「他人が処罰されることの全部または一部を妨害した者は」(Wer …ganz oder zum Teil vereitelt, daβ ein anderer bestraft…wird)という現行ドイツ刑法二五八条一項の文言から明らかである。しかし、このように「他人」の処罰の妨害だけが犯罪類型化されたそもそもの理由は、必ずしも自明のことではない。
  前章でみたように、歴史的には、ドイツの処罰妨害罪はもともと犯行後の共犯、すなわち事後従犯の一種であり、そこではもっぱら犯人に対する第三者の事後的援助のみが問題とされてきた(犯人自身の自己庇護は問題となりえなかった(2))。というのも、犯人自身が同時に自己の共犯者でもあるということは論理的に不可能だからである(3)。しかし、事後従犯がやがて犯罪庇護(Begu¨nstigung)という独立・固有の犯罪として理解され、立法化されてくると(4)、自己庇護の問題が意識されるようになる(5)。たしかに、すでに旧二五七条(犯罪庇護)の時代から、自己庇護は犯罪庇護には含まれないと解されてきた(6)。しかし、犯罪庇護(処罰妨害)はもはや共犯ではなく、本犯から独立した固有の犯罪である。なぜ犯人だけが犯罪の主体から除外されるべきなのか。自己庇護はすでに構成要件該当性を欠くのか、それとも責任が阻却されるにすぎないのか。刑法学としては、これらの点を理論的に説明しなければならない。こうして、自己庇護の不処罰の根拠をめぐる議論が展開されるようになったのである。
  本稿の主題である現行ドイツ刑法二五八条五項は、こうした議論を前提に成立したものである。同条項の意味をよりよく理解するためには、自己庇護の不処罰の根拠をめぐるドイツの議論を知っておく必要がある。本章では、この作業を行っておきたい。以下では、まず、自己庇護がそもそもなぜ犯罪類型化されていないのかという実質的な根拠(立法上の根拠)をめぐる議論をおさえ(第二節)、ついで自己庇護は犯罪成立要件(構成要件該当性、違法性、有責性)のうちのどれを欠くのかという形式的な根拠(犯罪体系上の位置づけ)をめぐる議論を見てみることにしよう(第三節(7))。

(1)  ドイツでしばしば用いられている ヾelbstbegu¨nstigung (vgl. etwa Herbert Tro¨ndle/Thomas Fischer, Strafgesetzbuch und Nebengesetze, 49. Aufl., 1999, § 258 Rdn. 13;Karl Lackner/Kristian Ku¨hl, Strfgesetzbuch mit Erla¨uterungen, 23. Aufl., 1999, § 258 Rdn. 6) および ヾelbstschutz (vgl. etwa Walter Stree, in:Adolf Scho¨nke/Horst Schro¨der, Strafgesetzbuch, Kommentar, 25. Aufl., 1997, § 258 Rdn. 33) の訳語をあてた。自己庇護(Selbstbegu¨nstigung)には、物的庇護罪(現二五七条)に対応する物的自己庇護(sachliche Selbstbegu¨nstigung)と、人的庇護罪(処罰妨害罪、現二五八条)に対応する人的自己庇護(perso¨nliche Selbstbegu¨nstigung)との二種類があるが、本稿では、とくに断りのないかぎり、後者の人的自己庇護(犯人が自己の処罰を免れようとする行為)のみを指して自己庇護と呼ぶ(物的庇護罪と人的庇護罪の内容および関係については、第一章第三節を参照。なお、Selbstbegu¨nstigung の概念を拡張して、被拘禁者の解放、偽証、犯罪行為の仮構、虚偽告訴など、国家刑罰権に対する防禦ないし妨害を目指す他の犯罪にも用いた文献として、Hartmut Schneider, Grund und Grenzen des strafrechtlichen Selbstbegu¨nstigungsprinzips, 1991 があるが、このような用い方はあまり一般的ではない)。また、ドイツでは、第三者の援助を受けずに単独で行う自己庇護と、第三者の援助が介在する自己庇護(第三者を教唆して自己を庇護してもらう場合など)とを区別して、前者を直接的な自己庇護、後者を間接的な自己庇護と呼ぶことがあるが、本稿では、原則として、直接的な自己庇護を指して(単純な)自己庇護と呼び、間接的な自己庇護についてはその旨を明記する。
  なお、ドイツの文献の中には、人的自己庇護を ヾelbststrafvereitelung (Andreas Siepmann, Abgrenzung zwischen Ta¨terschaft und Teilnahme im Rahmen der Strafvereitelung, 1988, S. 30)、ヾelbstvereitelung (Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 247)、《trafvereitelnde Selbstbegu¨nstigung (Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 32)と呼ぶものがある。これは、一九七四年の改正で人的庇護(perso¨nliche Begu¨nstigung)が処罰妨害(Strafvereitelung)として独立に規定されたことを念頭においたものと思われるが(処罰妨害罪の独立については、第一章第三節を参照)、現在のところ、いずれも学界の確固たる共通語となるには至っていない。
(2)  事後従犯については、第一章第二節を参照。
(3)  Dieter Hoffmann, Die Selbstbegu¨nstigung, 1965, S. 25;Helmut Mun¨ch, Die Selbstbegu¨nstigung, 1961, S. 2.
(4)  犯罪庇護の形成については、第一章第二節を参照。
(5)  Hoffmann, aaO (Anm. 3) S. 24;Mu¨nch, aaO (Anm. 3) S. 2.
(6)  Vgl. etwa RGSt 60, 346;63, 233;BGHSt 9, 71;14, 172;Karl Binding, Lehrbuch des Gemeinen Deutschen Strafrechts, Besonderer Teil, Zweiter Band, Zweite Abteilung, 1905, S. 662;Franz von Liszt, Lehrbuch des Deutschen Strafrechts, 21. und 22. Aufl., 1919, S. 600;Reinhart Maurach, Deutsches Strafrecht, Besonderer Teil, 4. Aufl., 1964, S. 690;Hans Welzel, Das Deutschen Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 520;Wolfgang Ruβ, in:LK, 9. Aufl., 1973, § 257 Rdn. 30.
(7)  自己庇護が不可罰とされる理由について、わが国では、不処罰の実質的根拠(立法上の根拠)と形式的根拠(犯罪体系上の根拠)とが必ずしも明確に区別されないまま論じられてきたように思われる。しかし、ドイツでは、両者は明確に区別されている。最近のモノグラフィーとしては、Uwe Gu¨nther, Das Unrecht der Strafvereitelung (§ 258 StGB), 1998, S. 71ff. がある。

第二節  不処罰の実質的根拠(立法上の根拠)

一  責任(Schuld)に着目する見解(通説)

  (1)  緊急避難類似状況説    ドイツの判例・通説は、旧二五七条の時代から、自己庇護の不処罰の実質的根拠を「緊急避難類似状況」(notstandsa¨hnliche Lage)ないし「期待不可能性」(Unzumutbarkeit)に求めている(緊急避難類似状況説(1))。
  その内容を知るには、判例を見るのが便宜である。たとえば、ライヒ裁判所の一九二六年二月一九日判決(2)は、つぎのように述べている。「二五七条(犯罪庇護)の法定刑に表現された禁止には、その禁止に従うことを行為者に期待できないところに限界がある。なぜなら、行為者は、さもないと自分が処罰の危険にさらされるからである。したがって、そうした事態が存在する場合には、確かに別の種類の可罰的行為は存在しうるが、可罰的な犯罪庇護は存在しえない。自己に対する刑事訴追の危険の存在は、二五七条の規範の遵守に対する期待可能性を打ち消し、そのような−刑法五四条の緊急避難の事例に匹敵する(vergleichbar)−危険が存在する際には、行為の可罰性が欠如する……(3)」。また、戦後の判例として、連邦通常裁判所(BGH)の一九六二年五月二二日判決(4)は、「この法律上の規定(「他人」の庇護が要件とされていること)は、自己の身を刑事訴追にゆだねることは誰にも期待できないという考慮に基づいている(5)」と述べている。

  (2)  ウルゼンハイマーの見解    しかし、緊急避難類似状況説に対しては、同じく行為者の責任(心理状態)に着目する学説から、疑問が提起されている。ウルゼンハイマーの批判(一九七二年(6))がそれである。
  ウルゼンハイマーによると、行為者の置かれた緊急避難類似状況というのは「フィクションである(7)」。免責的緊急避難(当時は刑法五四条)と自己庇護者の置かれた強制状態との間には、「構造的一致」はみられない(8)。免責的緊急避難は、自己防衛本能によりひき起こされる行為者の心理的な強制状態のほかに、自己庇護にはない規範的要素を含んでいる。免責的緊急避難によって不可罰とされるのは、自己の責任によらずに緊急状態におちいり、その法益侵害によって同時に他の原則的に保護に値する法益(たとえば生命など)を守る者にかぎられる。刑罰から逃れようとする犯人には、このような規範的考慮は妥当しない。まず、この場合の心理的葛藤は、自己の責任によらずにもたらされたものではなく、帰責可能な事前の犯行によってひき起こされたものである(9)。また、国家による自由の侵害を避けるという処罰妨害の目的も、保護に値するとはいえない。というのも、国家には刑事訴追する権限と義務があるからである(10)。したがって、刑事訴追が迫る人間の強制状況は、緊急避難状況に匹敵するとみることはできないのである。
  しかし、ウルゼンハイマーも、結論的には通説と同じく、行為者の責任(心理状態)に着目して、単純な自己庇護が犯罪類型化されていない理由を説明する。すなわち、「自己に向けられた刑事訴追から逃れるという意図が『人間的(menschlich)な、あまりにも人間的な動機』であるという事実、そして心理的な圧迫(Druck)に基づく一定の責任減少が(中略)存在するという事実に、目をつぶることはできない」。「人道的(human)な刑法」には、自己庇護に合わせて構成要件を限定することが「まさに命じられている」のである(11)
  たしかに、ウルゼンハイマーのいうように、免責的緊急避難と自己庇護とのあいだには構造的な違いがある。しかし、彼も認めるように、行為者の置かれる心理的な強制状態が人間の自己防衛本能によるものである点では、両者は共通している。通説は、両者には構造的な違いはあるが共通点もあるということで、自己庇護者の置かれた状況を「緊急避難類似状況」と呼んでいるのである。通説とウルゼンハイマー説とは、緊急避難になぞらえて説明するかどうかに違いはあるが、行為者の置かれた心理的強制状態に着目して自己庇護の非犯罪類型化を説明する点では同じである。ウルゼンハイマー説は、通説と「類似の考え方(12)」と理解しておいてよいであろう。

  (3)  他の犯罪との関係    ところで、判例によると、自己庇護は、処罰妨害罪(旧二五七条、現行二五八条)としては不可罰であっても、それ以外の刑事司法に対する罪、たとえば犯罪行為の仮構(一四五条d)や虚偽告訴罪(一六四条)に該当する場合(13)は、当該犯罪によって可罰的とされている(14)。これは通説もみとめるところである(15)
  たしかに、ウルゼンハイマーの指摘から明らかなように、自己庇護者の置かれた強制状態は、免責的緊急避難状況とは構造的に異なっている。それゆえ緊急避難類似状況と呼ばれるのであって、犯罪成立を一般的に阻却する免責事由とは解されない(16)。したがって、自己庇護者の行為が処罰妨害罪としては不可罰であっても、犯罪行為の仮構や虚偽告訴罪(これらの犯罪では犯人は主体から除かれているわけではない)としては可罰的であるということは、解釈論上十分にありうることである。
  しかし、一般的な犯罪成立阻却事由ではないというだけでは、そもそもなぜ刑法は処罰妨害罪についてだけ犯人を犯罪の主体から除外し、犯罪行為の仮構や虚偽告訴罪についてはそうしなかったのかという立法上の根拠を積極的に論証したことにはならない。自己に対する刑事訴追を免れるために犯人自身が行う処罰妨害(自己庇護)が緊急避難類似状況にあるというのであれば、同一行為としてなされる犯罪行為の仮構や虚偽告訴罪についても緊急避難類似状況がみとめられてよいはずである(自己庇護のためにする場合は不可罰とする特別の規定を置くことは可能である)。にもかかわらず、なぜ刑法は処罰妨害罪についてだけ緊急避難類似状況にあるとして犯人を犯罪の主体から除外したのか。緊急避難類似状況説(およびウルゼンハイマー説)では、こうした疑問は十分には解消されない(17)

  (4)  H・シュナイダーの見解    そこで、H・シュナイダー(一九九一年(18))は、行為者の心理状態に着目する通説を出発点としつつ、そこに一般予防ないし刑事政策的な要素を加味して説明するという方法をとった(混合的・機能的責任モデル)。
  H・シュナイダーによると、行為者の主観的な強制状況はたしかに自己庇護者に与えられる特権の出発点である。しかし、それは、免責のための必要条件ではあるが十分条件ではない。責任(Schuld)、とりわけ免責は、一般予防的・刑事政策的な要素によって補完されてはじめて完全なものとなる(19)。ここにいう一般予防とは、一般に積極的一般予防と呼ばれている「社会統合的予防」(Integurationspra¨vention)のことである(20)。ここで決定的なのは、国家ないし社会が、犯罪者に対して何を譲歩できると考えたかである(21)。最終的に、国家は、自己庇護について、処罰妨害罪としての処罰は放棄したが(規範妥当に対する信頼は動揺しない)、それ以外の刑事司法犯罪に該当する場合については、刑法秩序の安定性を掘り崩すものとして、処罰を放棄しなかったのである(22)
  H・シュナイダーの見解は、不処罰の立法上の根拠を責任(Schuld)の領域に求めている点では、先に見たウルゼンハイマー説と同様、通説と類似の考え方といえる(23)。しかし、社会統合的予防(積極的一般予防)論を基礎に混合的・機能的責任モデルを構想し、これによって自己庇護の不処罰の理由を説明しようとしたところは、通説、ウルゼンハイマー説と異なっている。ここに、彼の見解の独自性があるといってよい(24)

(1)  Vgl. etwa RGSt 60, 101;BGHSt 17, 236;Rolf Dietrich Herzberg, Ta¨terschaft und Teilnahme, 1977, S. 137;Reinhart Maurach/Friedrich−Christian Schroeder, Strafrecht, Besonderer Teil, Teilbd. 2., 6. Aufl., 1981, S. 325;Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 346;Irene Fahrenhorst, Grenzen strafloser Selbstbegu¨nstigung, JuS 1987, S. 707;Eberhard Schmidha¨user, Form und Gehalt der Strafgesetze, 1988, S. 26;Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 248;Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 39;ders., Zum Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 371;Wolfgang Ruβ, in:LK, 11. Aufl., 1994, § 258 Rdn. 30;Walter Stree, in:Adolf Scho¨nke/Horst Schro¨der, Strafgesetzbuch, Kommentar, 25. Aufl., 1997, 258 Rdn. 33;Herbert Tro¨ndle/Thomas Fischer, Strafgesetzbuch und Nebengesetze, 49. Aufl., 1999, § 258 Rdn. 13. なお、「緊急避難類似状況」という言葉は、以下に紹介する判例の見解をふまえ、これを支持する通説が公式化した言葉とされる。Vgl. Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 32.
(2)  RGSt 60, 101. この判決以降、判例・通説は「緊急避難類似状況」ないし「期待不可能性」によって自己庇護の不処罰を根拠づけるようになったとされる。もっとも、「期待不可能性」に着目する学説がそれ以前になかったわけではない。 Vgl. Dieter Hoffmann, Die Selbstbegu¨nstigung, 1965, S. 69f.
(3)  RGSt 60, 103. 事案については、第三章第二節(1)注(5)参照。
(4)  BGHSt 17, 236.
(5)  BGHSt 17, 236f.
(6)  Klaus Ulsenheimer, Zumutbarkeit normgema¨βen Verhaltens bei Gefahr eigener Strafverfolgung, GA 1972, S. 1ff. 同じ内容の疑問は、すでに Willi Erdmann, Die Selbstbegu¨nstigungsgedanke im Strafrecht, 1969, S. 20f. において提起されている。
(7)  Ulsenheimer, aaO (Anm. 6) S. 25.
(8)  Ulsenheimer, aaO (Anm. 6) S. 22ff.
(9)  Ulsenheimer, aaO (Anm. 6) S. 25.
(10)  Ulsenheimer, aaO (Anm. 6) S. 24.
(11)  Ulsenheimer, aaO (Anm. 6) S. 25.
(12)  Seel, aaO (Anm. 1) S. 33.
(13)  たとえば、自己に対する刑事訴追を免れるために身代わりを立てたり、犯人自身がすすんで他人を犯人だと偽って申告したりする場合に、犯罪行為の仮構や虚偽告訴罪が問題となりうる。裁判の場面では、偽証罪も問題となりうる。
(14)  Vgl. etwa RGSt 63, 233;68, 286;76, 190;BGHSt 2, 375;15, 53;BayObLG NJW 1978, 2563=JR 1979, 252.
(15)  Vgl. etwa Ruβ, aaO (Anm. 1) Rdn. 31;Stree, aaO (Anm. 1) Rdn. 34.
(16)  Seel, aaO (Anm. 1) S. 35f.
(17)  Seel, aaO (Anm. 1) S. 36;Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 203.
(18)  Hartmut Schneider, Grund und Grenzen des strafrechtlichen Selbstbegu¨nstigungsprinzips auf der Basis eines generalpra¨ventiv−funktionalen Schuldprinzips, 1991, S. 155ff., 372ff. これを支持するものとして、Sowada, aaO (Anm. 17) S. 204f. 刑事政策的な視点に言及する他の文献として、Harro Otto, Straflose Teilnahme?, in:Festschrift fu¨r Richard Lange, 1976, S. 214.
(19)  Schneider, aaO (Anm. 18) S. 158, 159, 373.
(20)  Schneider, aaO (Anm. 18) S. 60ff., 70, 97f. H・シュナイダーのいう社会統合的予防(積極的一般予防)の中身は、通常いわれているそれと同様である。すなわち、「刑罰は法への忠誠の訓練(Einu¨bung in Rechtstreue)を目的とし、規範妥当に対する信頼の安定化に奉仕するものである」という考え方である(S. 61ff., 70)。
(21)  Schneider, aaO (Anm. 18) S. 159, 373.
(22)  Schneider, aaO (Anm. 18) S. 159, 346ff., 373.
(23)  Seel, aaO (Anm. 1) S. 33.
(24)  ただし、これに従うためには、その基礎にある社会統合的予防論(積極的一般予防論)を部分的にせよ採用しなければならない。現在のドイツでは、社会統合的予防論が有力になりつつあるが、これに対する批判にはなお根強いものがある(とくに、アルトゥール・カウフマン)。この点について、浅田和茂『刑事責任能力の研究・下巻』(一九九九年)三五〇頁以下、山中敬一『刑法総論(2)』(一九九九年)五六頁参照。アルトゥール・カウフマンの見解については、アルトゥール・カウフマン(上田健二監訳)『転換期の刑法哲学』(第二版・一九九九年)一九〇頁以下(浅田和茂訳)参照。


二  その他の見解

  右に見た諸学説は、いずれも、犯人が処罰妨害罪の主体から除かれている理由を、責任(Schuld)の領域で説明するものであった。しかし、ドイツには、責任以外の観点から説明する見解もある。つぎに、それらのうち代表的なものを見てみることにしよう。

  (1)  不可罰的事後行為説    クラッチュ(一九七四年(25))は、犯人の置かれた緊急避難類似状況はフィクションだとするウルゼンハイマーの批判を紹介したうえで(26)、犯人自身の自己庇護の不処罰は不可罰的事後行為(straflose Nachtat)の考え方から説明すべきであると主張する。
  「犯行の決意を実現しようとする犯人は、その際、ほぼ間違いなく、いわば必然的に、犯行時だけでなく犯行後も、犯行が発覚しないようにし、発覚した場合には刑事訴追から身を守るような、必要な予防措置を講ずる意図をもって行動する。犯人がその犯行によって遂行する『不法』は、……自己庇護(Selbstschutz)の措置の『不法』をいわば含んでいる。……これによって、すなわち不可罰的事後行為の考え方によって、……法律が人的自己庇護を構成要件に該当する独立に処罰されるべき不法とみなしていないことが説明されなければならない(27)」(傍点部分は原文では斜字体)。
  この見解は、物的庇護罪における自己庇護(物的自己庇護)の不処罰根拠として用いられている不可罰的事後行為(ないし共罰的事後行為)の考え方を、人的自己庇護に援用したものである(28)。しかし、これに対しては、通常の不可罰的事後行為の考え方と矛盾する、との批判が寄せられた(29)。すなわち、判例・通説によると、犯行後の行為が不可罰的事後行為とされるためには、その行為が新たな法益を侵害するものではないことが必要である。ところが、犯行後の自己庇護(人的自己庇護)は、本犯から独立した新たな法益(国家の刑罰請求権(30))を侵害する。したがって、自己庇護を不可罰的事後行為とみることはできない、というのである。この批判には、たしかに抗し難いものがある。そのためか、不可罰的事後行為説は、少数説にとどまっている。

  (2)  当罰性欠如説    これに対して、最近、自己庇護の実質的な不処罰の根拠を「当罰性」(Strafwu¨rdigkeit)の欠如に求める見解があらわれた。U・ギュンターの見解(一九九八年(31))である。
  彼によると、自己庇護は他者庇護と同じ不法(Unrecht)と責任(Schuld)を有する。まず、不法については、訴訟上の地位にもとづく防禦権(Verteidigungusbefugnis)による正当化が考えられる(32)。たしかに、訴訟客体としての地位を理由に当然に付与されるべき防禦権の範囲内で犯人が有罪判決から身を守る行為については、処罰妨害罪の保護法益(国家の処罰権)の侵害という性質は否定されるとみてよい(33)。しかし、訴訟法で認められた防禦権の範囲を超えるところでは、処罰を妨害する犯人は禁止に違反して法益を侵害しているのであるから(たとえば刑事訴訟法八一条aで認められた身体検査に対して犯人は抵抗する権利をみとめられていない。むしろ抵抗は禁止されている)、自己庇護が一般的に不可罰であることの実質的な根拠として不法の欠如を持ちだすことはできない(34)。それに、自己庇護が一般的に正当な行為だとすると、犯人の利益のほうが国家の利益(犯人の処罰)よりも優越することになってしまう(35)。つぎに、責任についてみると、法は犯人に対して刑事訴追の危険を甘受するよう期待できる。というのも、刑法三五条の免責的緊急避難の場合と違い、そのような危険を惹起するのは通常は犯人自身だからである。したがって、通説のように、緊急避難類似状況(期待不可能性)から不処罰を説明することはできない(36)
  では、どう考えればよいか。U・ギュンターはここで当罰性の概念を用いる。彼によれば、当罰性の判断は、正当化や免責とならぶ独立の阻却事由のカテゴリーである。それは、違法で有責な行為が同時に円滑な共同生活の基礎を攻撃するものかどうかを判断するものである。具体的には、共同体の基盤に対する攻撃がその基盤を耐えがたいほど動揺させるものでない場合には、当罰性が欠ける。自己庇護についてみると、それは法共同体にとってその基盤を耐えがたいほどまでに動揺させるものとは感じられていない。したがって、自己庇護は当罰性を欠き、不可罰とされているのである(38)
  以上がU・ギュンターの説明である。彼の見解の特徴は、不法や責任とは別に当罰性というカテゴリーを設けて、そこに自己庇護の不処罰の実質的根拠を求めるところにある。たしかに、彼のいうように、防禦権による正当化では単純な自己庇護が一般的に不可罰とされていることを説明できないし、通説の緊急避難類似状況説に弱点があることは他の論者(ウルゼンハイマー、H・シュナイダー、クラッチュ)も指摘するところである。そこで彼は当罰性という概念を用いて不処罰の根拠を説明するのである。もっとも、その具体的な中身は、先にみたH・シュナイダーの見解(39)とよく似ている。というのは、いずれの見解も、要するに、自己庇護は法共同体の基礎(H・シュナイダーの言葉でいえば「規範妥当に対する信頼」)を耐えがたいほど動揺させるものではないから不可罰なのだ、と説明しているからである。不法や責任とは区別された当罰性の概念を用いることの是非をひとまずおくとすれば、このような説明の内容それ自体は、H・シュナイダーの見解とあわせて、通説を克服しようとする最近の新しい動向として注目されてよいであろう。

  (3)  法妥当説から説明する見解    最後に、U・ギュンターの見解とほぼ時を同じくしてあらわれた、ゼールの見解(一九九九年(39))をみておこう。彼の見解の特徴は、処罰妨害罪の規範の保護目的ないし保護法益は「刑法の一般予防効果の確保」であるとする「法妥当説」(Rechtsgeltungstheorie)を基礎に、自己庇護的な態度は処罰妨害罪の保護目的・法益である「刑法の一般予防効果の確保」を侵害しえないがゆえに不法(Unrecht)でなく、よって不可罰とされているのである、と説明するところにある。
  もう少し具体的に見ていこう。ゼールによると、処罰妨害罪の目的は犯人処罰の確保ではない。諸々の犯罪を未然に防ぐことである(未来志向)。すなわち、処罰妨害に刑罰が科されることによって、つまり犯人に対する第三者の事後的援助が禁止されることによって、これから犯罪を行おうかと考えている潜在的な犯罪者は、第三者から犯行後の援助を受けることを期待できなくなる。これにより、彼の心の中で犯行が露見する危険が高まり、彼は犯行をあきらめる。こうして、将来侵害されるかもしれない諸々の法益が未然に、間接的に保護される。つまり、処罰妨害罪の目的は、それ以外の諸々の刑罰構成要件の一般予防効果を強化することによる、間接的な法益保護にあるのである(法妥当(40)(41))。
  処罰妨害罪の目的をこのように解した場合、自己庇護者を処罰しようとするのは無意味だということになる。なぜなら、犯人自身の自己庇護を禁止したとしても、(本犯で)処罰されずにすむだろうという彼の現実の見通しは減らないからである。それゆえ、処罰妨害罪の規範は犯人以外の第三者に対して向けられているのであり(第三者が犯人と連帯することを禁止している)、犯人自身はこの連帯禁止の規範(Solidarita¨tsverbot)を侵害できない(不法を遂行できない)。ここに、犯人が処罰妨害罪の主体から除外されている理由があるのである(42)
  以上のようなゼールの見解は、法妥当説を前提にすれば、たしかに一貫性があり、注目に値する。しかし、法妥当説に対しては、処罰妨害の共犯的性格(将来の犯罪の促進)の強調は、固有の法益(国家の刑罰請求権)が発見され総則から各則へと移行してきた処罰妨害罪の歴史に逆行するものであり(43)、処罰妨害罪の第一義的な目的はやはり国家の刑罰請求権の保護にあると解すべきだとする批判(44)がある。また、歴史に逆行するというだけでなく、現行法が処罰妨害罪を総則にではなく各則に置いていることと矛盾するのではないか(固有の法益でなく他の刑罰法規の法益を間接的に保護するのが目的であるならば総則に規定されていなければならないはずである)という疑問もある(45)。法妥当説に対するこれらの批判や疑問、とくに後者の疑問は、無視しえないであろう(46)

(25)  Dietrich Kratzsch, Straflosigkeit einer mit einer Angeho¨rigenbegu¨nstigung konkurrierenden Fremdbegu¨nstigung?, JR 1974, S. 186ff.
(26)  Kratzsch, aaO (Anm. 25) S. 188.
(27)  Kratzsch, aaO (Anm. 25) S. 188. 共罰的事後行為(mitbestrafte Nachtat)という言葉を用いる類似の見解として、Erdmann, aaO (Anm. 6) S. 19. さらに Friedrich−Christian Schroeder, Die Straftaten gegen das Strafrecht, 1985, S. 30f.
(28)  Kratzsch, aaO (Anm. 25) S. 188 Anm. 24. クラッチュは、自己庇護の不可罰性を不可罰的事後行為の観点から説明することは、物的自己庇護に関してはすでに一般的に承認されているとする。たしかに、物的自己庇護については、クラッチュのいうとおり、不可罰的事後行為ないし共罰的事後行為の観点から説明されるのが一般的である。Vgl. etwa Ruβ, aaO (Anm. 1) § 257 Rdn. 20;Stree, aaO (Anm. 1) § 257 Rdn. 29;Tro¨ndle/Fischer, aaO (Anm. 1) § 257 Rdn. 10;Theodor Lenckner, Das Zusammentreffen von strafbarer und strafloser Begu¨nstigung−BGHSt 11, 343 u. BGH, NJW 1961, 1827, JuS 1962, S. 303;Karl Lackner/Kristian Ku¨hl, Strafgesetzbuch mit Erla¨uterungen, 23. Aufl., 1999, § 257 Rdn. 8. 一九七四年改正の立法者も共罰的事後行為と考えている。Begru¨ndung zum RegE-EGStGB, BT-Dr. 7/550, S. 248.
(29)  Hoffmann, aaO (Anm. 2) S. 48f.;Schneider, aaO (Anm. 18) S. 351f.;Seel, aaO (Anm. 1) S. 29, 38f.;Gropp, aaO (Anm. 1) S. 248 Anm. 40;Reinhart Maurach, Deutsches Strafrecht, Besonderer Teil, 1952, S. 547. さらに物的自己庇護について、Helmut Mu¨nch, Die Selbstbegu¨nstigung, 1961, S. 10.
(30)  処罰妨害罪の保護法益は一般に「国家の刑事司法」とされているが、通説はその中身を「刑罰請求権」(Strafanspruch)と解している。Vgl. Seel, aaO (Anm. 1) S. 22;Uwe Gu¨nther, Das Unrecht der Strafvereitelung (§ 258 StGB), 1998, S. 26f. 日本では、犯人蔵匿、証拠隠滅罪の法益は「刑事司法作用」といわれることが多いが、ドイツではその中身がより具体的かつ限定的に理解されていることに注意しなければならない。たとえば、客体は真犯人に限られるし、処罰の対象も捜査妨害行為一般ではなく刑罰請求権を侵害する行為に限定されている。
(31)  Gu¨nther, aaO (Anm. 30) S. 73ff.
(32)  犯人自身の単純な自己庇護は不法ではなく、「法的に許された自己防禦」であるとする見解として、Hoffmann, aaO (Anm. 2) S. 58, 116.
(33)  Gu¨nther, aaO (Anm. 30) S. 74.
(34)  Gu¨nther, aaO (Anm. 30) S. 75.
(35)  Gu¨nther, aaO (Anm. 30) S. 79.
(36)  Gu¨nther, aaO (Anm. 30) S. 80
(37)  Gu¨nther, aaO (Anm. 30) S. 79f.
(38)  本章第二節(4)参照。
(39)  Seel, aaO (Anm. 1) S. 39f.
(40)  Seel, aaO (Anm. 1) S. 24f., 95. このような見解はすでに以下の論者によって主張されていた。Schroeder, aaO (Anm. 27) S. 11, 14f.;Olaf Miehe, Die Schutzfunktion der Strafdrohungen gegen Begu¨nstigung und Hehlerei, in:Festschrift fu¨r Richard M. Honig, 1970, S. 112f.;Wolfgang Frisch, Zum tatbestandsma¨βigen Verhalten der Strafvereitelung−OLG Stuttgart, NJW 1981, 1569, JuS 1983, S. 921. また、国家司法と刑法の一般予防効果の両方を保護法益とみる混合的見解も有力に主張されている。たとえば、Stree, aaO (Anm. 1) § 258 Rdn. 1;Theodor Lenckner, Zum Tatbestand der Strafvereitelung, in:Geda¨chtnisschrift fu¨r Horst Schro¨der, 1978, S. 344, 352ff.;Hans−Joachim Rudolphi, Strafvereitelung durch Verzo¨gerung der Bestrafung und Selbstbegu¨nstigung durch Vorta¨uschen einer Straftat−BayObLG, NJW 1978, 2563, JuS 1979, S. 861f.
(41)  ゼールは、処罰妨害罪の保護法益は「国家の刑罰請求権」であると解するドイツの通説に対して、以下のような問題点を指摘する。第一に、処罰妨害罪の法定刑に関する問題。国家の刑罰請求権を保護するものと解されている他の犯罪、たとえば被拘禁者解放罪(一二〇条)の法定刑は三年以下の自由刑である。これに対して処罰妨害罪の法定刑は五年以下の自由刑と高い。したがって、処罰妨害罪の保護法益を被拘禁者解放罪と同じ国家刑罰請求権とみるのは困難ではないか。第二に、「本犯により侵害された刑罰規範が処罰妨害者の有罪判決の時点ですでに効力を失っていた場合には、処罰妨害罪は問題にならない」とした判例(BGHSt 14, 156)との整合性の問題。この判例は、処罰妨害罪の保護法益が国家の刑罰請求権だとすると説明がつかない。なぜなら、請求権の有無は処罰妨害の行われた時に決まるからである。第三に、処罰妨害罪の既遂時期に関する問題。判例・通説によると、処罰妨害罪の既遂時期は、本犯の処罰を「相当の期間」(geraume Zeit)遅らせた時点とされる。つまり、単なる遅延行為でも、「相当の期間」が過ぎれば既遂に達するということである。しかし、処罰妨害罪の保護法益が国家の刑罰請求権だとすると、これは正当化できない。なぜなら、国家の刑罰「請求権」は単なる遅延行為だけでは失われないし、単なる遅延行為によってその貫徹が最終的に妨害されてしまうということはないからである。以上のように指摘したうえで、ゼールは、これらの問題は法妥当説によってうまく解決できるとして、法妥当説の優位性をアピールする。Seel, aaO (Anm. 1) S. 24ff.
(42)  Seel, aaO (Anm. 1) S. 39, 95. ゼールはこれと同様の説明を物的庇護罪(現行二五七条)についても行っている。Seel, aaO (Anm. 1) S. 18ff., 30ff., 95.
(43)  Udo Ebert, Die Strafvereitelung. Zu ihrer strafrechtsgeschichtlichen Entwicklung und ihrer gegenwa¨rtigen Konzeption, in:ZRG Germ. Abt. Band 110, 1993, S. 54. たしかに、処罰妨害罪はもともと事後従犯であったし、一般予防目的での処罰も、すでにローマ法およびテレジアーナ刑事法典(一七六八年)においてなされていた(第一章参照)。
(44)  Ebert, aaO (Anm. 43) S. 54f.
(45)  Gu¨nther, aaO (Anm. 30) S. 32.
(46)  さらに、わが国の犯人蔵匿罪(刑法一〇三条)との関係でいえば、法妥当説の採用は困難である。なぜなら、わが国の犯人蔵匿罪では、「罪を犯した者」の蔵匿だけでなく、「拘禁中に逃走した者」(「犯人」に限定されない)の蔵匿も、処罰の対象とされているからである。

第三節  不処罰の形式的根拠(体系的地位)

  つぎに、自己庇護が不可罰とされる形式的な根拠(体系的地位)をめぐる議論をみてみよう。不処罰の形式的根拠に関する学説としては、自己庇護は処罰妨害罪の構成要件に該当しないとする見解(構成要件不該当説)と、責任が阻却されるにすぎないとする見解(責任阻却説)とがある。ドイツの判例・通説は、旧二五七条の時代から、前者をとっている(1)。後者を主張するのは、シュミットホイザー(一九八八年(2))である。

(1)  Vgl. etwa RGSt 60, 346;63, 233;BGHSt 9, 71;14, 172;Heinrich Jagusch, in:LK, 8. Aufl., 1958, § 257 Anm. 2d;Theodor Lenckner, Das Zusammentreffen von strafbarer und strafloser Begu¨nstigung−BGHSt 11, 343 u. BGH, NJW 1961, 1827, JuS 1962, S. 303;Dieter Hoffmann, Die Selbstbegu¨nstigung, 1965, S. 40;Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 169;Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 520;Willi Erdmann, Der Selbstbegu¨nstigungsgedanke im Strafrecht, 1969, S. 17;Klaus Ulsenheimer, Zumutbarkeit normgema¨βen Verhaltens bei Gefahr eigener Strafverfolgung, GA 1972, S. 1;Dietrich Kratzsch, Straflosigkeit einer mit einer Angeho¨rigenbegu¨nstigung konkurrierenden Fremdbegu¨nstigung?, JR 1974, S. 187;Reinhart Maurach/Friedrich−Christian Schroeder, Strafrecht, Besonderer Teil, Teilbd. 2., 6. Aufl., 1981, S. 325;Claus Roxin, Anmerkung zum Urteil des BGH vom 21. 12. 1983 -2 StR 578/83, JR 1984, S. 347;Irene Fahrenhorst, Grenzen strafloser Selbstbegu¨nstigung, JuS 1987, S. 707;Wolfgang Ruβ, in:LK, 11. Aufl., 1994, § 258 Rdn. 30;Walter Stree, in:Adolf Scho¨nke/Horst Schro¨der, Strafgesetzbuch, Kommentar, 25. Aufl., 1997, § 258 Rdn. 33;Uwe Gu¨nther, Das Unrecht der Strafvereitelung (§ 258 StGB), 1998, S. 83;Harro Otto, Grundkurs Strafrecht, Die einzelnen Delikte, 5. Aufl., 1998, S. 481;Karl Lackner/Kristian Ku¨hl, Strfgesetzbuch mit Erla¨uterungen, 23. Aufl., 1999, § 258 Rdn. 6;Herbert Tro¨ndle/Thomas Fischer, Strafgesetzbuch und Nebengesetze, 49. Aufl., 1999, § 258 Rdn. 13;Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 32.
(2)  Eberhard Schmidha¨user, Form und Gehalt der Strafgesetze, 1988, S. 25f.

一  責任阻却説
  シュミットホイザーはつぎのようにいう。自己庇護が不可罰とされる実質的根拠は緊急避難類似状況の考慮にある(この点は通説と同じ)。したがって、処罰妨害罪の「他人が」という文言は特別の免責事由を示すにすぎない。つまり、自己庇護は不法構成要件に該当するが(構成要件に該当し違法であるが)、責任が阻却され、不処罰となるのである(3)。そもそも、自己庇護の不処罰から、ただちに、それが許容されているということを推論してはならない。むしろ、自己庇護は処罰妨害罪の禁止の対象に含まれているのである(4)。たとえば、他人がやむをえず暴力によって自己庇護を阻止する場合、これは違法な強要ではなく、許容されうる(5)

(3)  Schmidha¨user, aaO (Anm. 2) S. 26;ders., Illusionen in der Normentheorie und das Adressantenproblem im Strafrecht, JZ 1989, S. 420.
(4)  Schmidha¨user, aaO (Anm. 3) S. 420.
(5)  Schmidha¨user, aaO (Anm. 2) S. 25f. 反対に、もし自己庇護が完全に適法な行為だとすると、それを無理やり阻止する行為は強要罪に該当することになる。

二  構成要件不該当説(通説)
  右のようなシュミットホイザーの主張に対して、通説はこれまでほとんど反応を示してこなかった。通説にいわせれば、明文で「他人が」と書かれてある以上、自己庇護が構成要件に該当しないのは当然だ、ということであろう(6)。しかし、最近になって、通説の側から詳細な反論が示された。U・ギュンター(一九九八年(7))のそれである。
  U・ギュンターは、まず、自己庇護が不法構成要件に該当しないことを次のように説明する。すなわち、自己庇護が不可罰とされる実質的な根拠と、自己庇護が不法構成要件に該当するかどうかという問題は別である。というのも、犯罪の実質的要素と形式的要素とは、刑罰法規の不法構成要件の対象のみが実質的に法益侵害を示すものでありうるというかぎりでしか相互依存関係にないのであって、必ずしもすべての法益侵害が構成要件化されているわけではないからである。つまり、立法者はすでに刑罰法規の不法構成要件を構築する際に当罰性を考慮しているのである。したがって、特定の行為の不処罰は、形式的には、その行為がはじめから不法構成要件から除外されているということに基づくのである(8)
  つぎに、自己庇護が法的に禁止されているかどうかについて、U・ギュンターはつぎのように述べる。自己庇護が法的禁止の対象であるかどうかは、不法構成要件該当性の問題にとって重要ではない。法的禁止の問題は、もっぱら犯罪の実質的要素としての不法の内部の法規範違反にのみ関係する。これを構成要件該当性という形式的要素と取り違えてはいけない。ある特定の行為が構成要件化されていないということは、これが法的に禁止されえないということをまだ意味しない。同じように、反対に、行為が禁止されているということから、その行為が刑罰法規の構成要件に含まれていなければならないということも、なお推論されないのである(9)
  さらに、シュミットホイザー説では、「他人が」という表現は法律上の責任阻却事由とされているが、この点について、U・ギュンターはつぎのように批判する。違法性、有責性、または当罰性の反価値判断は、犯罪行為の当罰性の内容を類型化した構成要件要素とは厳格に区別されなければならない。そして、法文全体の構造から、処罰妨害罪の構成要件的不法は「他人が」という要素によって具体的に類型化されていると解される。「他人が」という表現は、不法構成要件の要素である(10)
  以上がU・ギュンターの反論である。通説的な構成要件の理解(実質的にみて違法な行為のうち立法者がとくに処罰に値すると考えたものを類型化したのが構成要件であるという理解(11))からすれば、もっともな反論であろう。ここで重要なことは、実質的な違法性(実質的な法規範違反性、法益侵害性)と、立法者による当罰性の判断(実質的な責任の考慮など)を経て構成要件に類型化された違法性(構成要件的不法)とが、明確に区別されていることである(12)。そこから、以下の帰結が導かれる。まず、第三者が犯人の自己庇護を阻止する行為は、強要にはあたらない。自己庇護は実質的に適法とまではいえないからである。もっとも、この点はシュミットホイザー説とで結論は異ならない。結論に差が出るという意味でより重要なのは、つぎの点である。すなわち、第三者による自己庇護の共犯(犯人に対して自己庇護を教唆する行為など)の可罰性の問題である。これについて、自己庇護は単に責任が阻却されるにすぎないとするシュミットホイザー説からは、自己庇護の共犯は可罰的となりうる。これに対し、通説である構成要件不該当説からは、不可罰という結論が導かれる。なぜなら、ドイツでは、構成要件に該当する違法な正犯行為(構成要件的不法)が共犯成立の必要条件とされているからである(ドイツ刑法二六条、二七条、一一条五号(13))。

(6)  もっとも、エルトマンは、文理解釈だけでは説得的でないとして、立法者の意思を根拠に自己庇護の構成要件不該当を説明している。Erdmann, aaO (Anm. 1) S. 15ff. しかし、これも、「他人が」と明記されていなかった旧二五七条の時代の話である。
(7)  Gu¨nther, aaO (Anm. 1) S. 80ff.
(8)  Gu¨nther, aaO (Anm. 1) S. 81.
(9)  Gu¨nther, aaO (Anm. 1) S. 81f.
(10)  Gu¨nther, aaO (Anm. 1) S. 82f.
(11)  ドイツの通説的な構成要件の理解については、Hans−Heinrich Jescheck/Thomas Weigend, Lehrbuch des Strafrechts, Allgemeiner Teil, 5. Aufl., 1996, S. 244ff. を参照。
(12)  これは、わが国における一般違法と可罰的違法(類型的違法、構成要件的違法)の区別に対応するものと理解してよいであろう。これに関しては、平野博士のつぎのような説明が参考になる。「構成要件は、通常違法な行為のなかから、とくに一定の類型的なものを切りとってきたものであるから、構成要件に該当しないということは、構成要件に該当しないだけであって、違法ではある、あるいは少なくとも違法である可能性はある、ということだといってよい」。平野龍一「構成要件という概念をめぐって」同『犯罪論の諸問題(上)』(一九八一年)一四頁。このような理解を前提とするならば、構成要件該当結果が欠ける場合が「適法」とは必ずしもいえないことになる。
(13)  Vgl. Gu¨nther, aaO (Anm. 1) S. 83.

第四節  小  括

  本章では、自己庇護が不可罰とされる理由について、その実質的な側面(立法上の根拠)と形式的な側面(体系的な位置づけ)の両方から考察した。不処罰の実質的な根拠については、不可罰的事後行為説(クラッチュ)、当罰性欠如説(U・ギュンター)、法妥当説(ゼール)もあったが、判例・通説は責任(Schuld)に着目する見解、つまり緊急避難類似状況説またはそれと類似する見解(ウルゼンハイマー、H・シュナイダー)を採用していることを確認した。不処罰の形式的根拠については、責任阻却説(シュミットホイザー)もあるが、判例・通説は構成要件不該当説であることを確認した。また、各学説の内容も概観した。
  それでは、つぎに、いよいよドイツ刑法二五八条五項の検討に移ることにしよう。

第三章  ドイツ刑法二五八条五項成立の背景とその役割


第一節  序


一  本章の課題
  一九七四年に新設された現行ドイツ刑法二五八条五項は、つぎのように規定する。
  「自己が刑に処せられ、若しくは処分を科せられること、又は自己に科せられた刑罰若しくは処分が執行されることの全部又は一部を、その行為によって同時に妨害することを意図した者は、処罰妨害罪によっては罰しない(1)」。
  ここから端的に読みとれることは、処罰妨害(他者庇護)を行ったとしても、それが自己庇護の意図でなされたのであれば、処罰妨害罪としては不可罰である、ということである。しかし、本規定がどのような背景から何を目ざして作られ、現実にどのような役割を果たしているかは、わが国ではほとんど知られていない(2)。そこには、わが国の議論にとって有益な素材が少なからず含まれていると予想されるにもかかわらず、である。そこで、本章では、その成立の経緯や具体的事例との関連を視野に入れながら、本規定の趣旨、射程、現実に果たしている役割等を解明したいと思う。
  以下では、まず本規定が成立する以前の判例・学説の状況を確認し(第二節)、ついで本規定成立に至るまでの立法作業と立法者の意図をおさえ(第三節)、最後に本規定成立以降の判例・学説の状況を確認することにする(第四節)。

(1)  現行二五八条の規定全体については、第一章第三節を参照。
(2)  臼木豊「自己庇護の限界ー連邦通常裁判所第一刑事部一九六二年五月二二日判決 BGHSt 17, 236」警察研究五八巻七号(一九八七年)七八頁が唯一の関連文献といってよい。


二  二つの類型
  具体的な考察に入る前に、ここであらかじめ、現行ドイツ刑法二五八条五項が対象とする問題領域を確認しておきたい。本稿の冒頭(「はじめに」)でも指摘しておいたが、本条項は、わが国にも存在する二つの問題領域を対象としている。「共犯者等の庇護」と「間接的な自己庇護」である。以下の考察では、これら二つの類型を軸にして、判例・学説・立法作業をみてゆくことになる。

  (1)  共犯者等の庇護    共犯者「等」としたのは、錯誤事例や本犯同一性の問題を念頭に置いたことによる。不可罰の自己庇護が同時に他者庇護にあたる事例の典型は、共犯者の庇護である。しかし、自分は本当は犯罪を行っていないのにそうだと勘違いして(共犯者と思っている)他者を庇護する場合もありうる(錯誤事例)。また、本犯は異なるのに、自己庇護のために他者庇護をする場合も考えられる(本犯同一性の問題)。これらの事例では、庇護される他者は厳密には共犯者ではない。しかし、ドイツの判例では、これらの事例も自己庇護との関連で可罰性が問題とされてきた。そこで、他者庇護の対象を共犯者に限定せず、共犯者「等」としたのである。

  (2)  間接的な自己庇護    「間接的」な自己庇護とは、犯罪者ではない第三者の援助を介して行う自己庇護を指す。具体的には、第三者に自己の庇護を依頼する場合である(以下では、とくに断りのないかぎり、間接的な自己庇護とは「第三者に対する自己庇護の教唆」を指すものとする)。この類型は、二五八条五項を読んだだけでは、その射程に入らないようにみえる。しかし、二五八条五項はこの類型にも関係する。この点は、立法作業および二五八条五項成立後の判例の分析から明らかになる。
  なお、間接的な自己庇護の問題は、ドイツでも、必要的共犯(notwendige Teilnahme)との関連で論じられることがあるので、一言しておこう。ドイツの判例・通説では、一般に、構成要件実現にとって必要な関与行為はすべて不可罰とされている。ここで「必要」とは、必要最小限(必要不可欠)を意味する。したがって、関与行為が(受動的な)幇助にとどまれば不可罰であるが、それを超えて「教唆」にあたる場合は共犯(教唆犯)として可罰的とされている。たとえば、破産の際に債務者が特定の債権者に対して優遇弁済をすることを処罰する債権者庇護罪(ドイツ刑法二八三条c)の場合、債務者から提供された違法な優遇弁済を単に受領しただけの債権者は不可罰であるが、優遇弁済をするよう教唆してこれを受領した債権者は共犯として可罰的とされている(3)。このような必要的共犯の一般原則は、かつての判例では、犯罪庇護(旧二五七条)にも適用されていた。すなわち、犯罪庇護の成立に必要不可欠な犯人の関与行為は不可罰だが、間接的な自己庇護(自己庇護の「教唆」)はもはや不可罰の必要的共犯にはあたらないとして可罰的とされていたのである(4)。しかし、このような判例の結論は、以下にみるように、通説から強い批判を浴び、やがて立法によって変更されることになる。

(3)  もっとも、「被害者」の関与行為(嘱託殺人罪における嘱託行為など)は、「教唆」にあたる場合も不可罰とされている。ドイツの必要的共犯論については、拙稿「必要的共犯についての一考察(一)」立命館法学二六三号(一九九九年)二〇七頁以下、同「必要的共犯についての一考察(二)」立命館法学二六四号(一九九九年)一一〇頁以下参照。
(4)  Vgl. RGSt 4, 60;50, 346;BGHSt 5, 75;17, 236;Claus Roxin, in:LK , 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 35;Erich Samson, in:SK , 6. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 64;Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 47. ドイツの犯罪庇護(旧二五七条)は犯人を「援助する」ことが要件となっている。したがって、犯罪庇護の成立には犯人の「援助を受ける行為」が必要不可欠である。旧二五七条については第一章第二節(2)参照。なお、可罰性の積極的な根拠は形式的な共犯従属性理論ないし従属性志向惹起説(修正惹起説)に求められているが、詳しくは後で説明する(本章第二節(1)参照)。

第二節  二五八条五項成立以前の状況

一  共犯者等の庇護
  共犯者等の庇護の問題は、ライヒ裁判所の判例を学説が追認するというかたちで推移してきた。この問題については、つぎの三つの判例が重要である(1)

  (1)  ライヒ裁判所の三つの判例    まず、ライヒ裁判所一八九一年二月二八日判決(2)である。本判決は、自己庇護の目的をもたず、もっぱら共犯者を庇護する目的で、共犯者と共通の証拠を隠滅しようとした場合には、犯罪庇護(旧二五七条)が成立すると判示したものである(3)。そこでは、第一に、自己庇護は不可罰であること、第二に、自己庇護の目的をもっていれば同時に共犯者を庇護する目的をもっていても不可罰であること、第三に、自己庇護の目的をもたずにもっぱら共犯者を庇護する意図でなされた場合は犯罪庇護に該当し可罰的であること、の三点が明らかにされている。
  ついで、ライヒ裁判所一九二六年二月一九日判決(4)では、@正犯行為(Haupttat)に関与した他の共犯者(Teilnehmer)を援助することが主たる目的の場合であっても、また、A本当は不可罰なのに錯誤によって本犯を理由に自分は処罰されるにちがいないと誤信していた場合であっても、自己庇護の目的でなされる他者庇護(犯罪庇護)は不可罰であるとされた(さらに、第二章で紹介したように、自己庇護の不処罰の実質的根拠が緊急避難類似状況ないし期待不可能性にあることも明らかにされた(5))。本判決では、とくにAが注目される。その論理は、自己に対する刑事訴追の危険の存在は行為の可罰性を欠如させる事情であり、これが存在すると誤信した場合は、刑法五九条の錯誤規定(6)により、行為者自身の解釈のみにしたがって可罰性が判断されなければならない、というものである。ここでは、刑事訴追の危険の存在に関する行為者の錯誤が回避しえたものかどうかは問題とされていない。これは、その頃の有力な学説(ゴルトシュミット、メツガー、フランク)が、免責事由(期待不可能性)の前提条件に関する錯誤があった場合には(通常の事実の錯誤と同じように)故意犯は成立しないと解していたことによるものと思われる(7)。免責事由の前提条件に関する錯誤が、今日のように、回避不可能な場合と回避可能な場合とに区別され、前者は不可罰であるが後者はなお期待可能性がある(刑の減軽にとどまる、あるいは故意は阻却されるが過失犯が成立する)と解されるようになるのは、本判決よりもしばらく後のことである(錯誤が回避不可能な場合は不可罰だが回避可能であった場合は過失犯が成立するとしたライヒ裁判所の判例が出るのは、一九三二年のことである(8))。しかし、後にみるように、本判決のAの部分は、その後発展した錯誤論によって修正されることなく、立法者によって、現行二五八条五項の中にそのまま取り込まれることになる(9)
  最後に、ライヒ裁判所一九二九年六月二七日判決(10)である。同判決は、同時に他者庇護でもある自己庇護は、自己庇護者と他者とが同一の本犯の共犯者でなく、それぞれ異なった本犯が問題である場合であっても、不可罰であると判断した。そこでは、他者の犯行が発覚すると自分の犯行も発覚するおそれがあり、そのために他者を庇護したという場合、そのような意思と認識をもってする他者庇護は同時に自己庇護でもあり、不可罰であるとされたのである(11)

  (2)  ライヒ裁判所判例の特徴    以上の三つの判例から明らかになったことをまとめると、以下のようになろう。すなわち、@自己庇護は(緊急避難類似状況ないし期待不可能性のゆえに)不可罰であること、A自己庇護の目的をもっていれば同時に共犯者を庇護する目的をもっていても不可罰であること(共犯者の庇護が主たる目的であっても自己庇護の目的が少しでもあれば不可罰であること)、Bしかし、自己庇護の目的をもたずにもっぱら共犯者を庇護する意図で共犯者を庇護した場合は可罰的であること、C犯罪を行っていないにもかかわらず処罰されると誤信して自己庇護の目的で他者庇護を行った場合も不可罰であること、D同時に他者庇護でもある自己庇護は自己庇護者と他者とで本犯が異なる場合であっても不可罰であること、である。
  こうしたライヒ裁判所の考え方は多くの学説によって支持され、BGHに受け継がれていく(12)。さらに、一九七四年の改正で法律上明確に規定されることになる。これこそ、現行刑法二五八条五項にほかならない。

(1)  以下に紹介する判例は一九七四年改正以前のものなので、処罰妨害罪は旧二五七条の犯罪庇護(Begu¨nstigung)として扱われている。旧二五七条については、第一章第二節三(2)を参照。
(2)  RGSt 21, 375.
(3)  事実の概要は以下のとおりである。被告人Fは当局の許可を得ずにベルリンで違法な富くじ券の販売を行っていた。上告人Lはその販売所の従業員である。ある日、警察官が捜索目的でFの販売所にやってきた。Lは、富くじ券の購入者の名前と販売済みの無許可の富くじ券とが記載されていたFの顧客名簿を手に取り、これを販売所の裏口からこっそり持ち出そうとした。しかしLはその場で取り押さえられた。原審において、Lは、自分が顧客名簿を持ち出そうとしたのは、かつてよその土地の裁判所で主人Fが取調べの際に受けたのと同じような不愉快から自分を免れさせるためであったと主張した。原審は、FとLが富くじ罪の共同正犯であることは認めたが、Lの右主張は信用しなかった。原審の裁判官が得た確信は、Lは自分が富くじ罪の共同正犯として処罰されることを捜索当日は認識していなかったというものであった。原審は、Lは自分を処罰から免れさせるためではなく、もっぱらFを処罰から免れさせるために、証拠方法を含んだ顧客名簿を持ち出そうとしたものと認定し、Lに犯罪庇護の罪(二五七条)が成立するとした。
  これに対して、ライヒ裁判所は大要つぎのように述べて、Lの上告を棄却した(傍点部分は原文では隔字体)。LとFが共同正犯であったという事情が二五七条の適用を排除するのにふさわしい事情かどうかは、たしかに問題となる。適切にも、原判決は、いわゆる自己庇護は不可罰であるということから出発している。さらにそこから、正当にも、つぎのことが導かれている。すなわち、Lが顧客名簿を自分自身に不利な証拠方法として隠滅しようとしていたならば、たとえ同時にFを処罰から免れさせる目的をもっていたとしても、Lは不可罰であった、ということである。しかし、原審によると、実際には、(犯行時一八歳に満たない)Lは顧客名簿の隠滅を試みた際に自分自身の可罰性をまったく考えていなかったということである。共同正犯者の意図が他の共同正犯者を庇護することにのみ向けられ、その行為によって同時に自己を処罰から免れさせ、あるいは自己に犯罪利益を確保させることを目ざしていない場合、そのような共同正犯者の犯罪庇護が刑法二五七条に包摂されるべきでない理由、あるいは犯罪庇護の可罰性が阻却されるべき理由は、はっきりしない。刑法典によればまったく疑いなく、また当裁判所の判例においてもくり返し承認されてきたように、犯罪庇護は本犯とは別個独立の犯罪である。独立の犯罪行為の新たな実行である。「自己庇護」であるかぎりでのみ、犯罪庇護の構成要件(Tatbestand)は阻却される。しかし、本件ではこれは否定されるのである。
(4)  RGSt 60, 101.
(5)  事案の概要と判決理由はつぎのとおりである(傍点部分は原文では隔字体)。Rは、侮辱を理由とするZに対する私訴手続において、Rと被告人Bとの性的関係を否定することによって、偽りの宣誓(Meineid)を行った。Bは、この偽りの宣誓を理由として開始されたRに対する手続において、Rを処罰から免れさせるために、証人として、宣誓しないでする偽りの供述(uneidlich unwahre Angabe)を行った。原審の陪審裁判所は、Bが、それとならんで、Rの行った偽りの宣誓の共犯として処罰されることから自分自身をも守ろうとしていたという事情に、意義をみとめてはならないと考えた。
  これに対して、ライヒ裁判所は、以下のように述べて、Bに犯罪庇護は成立しないとした。すなわち、当ライヒ裁判所は、犯罪庇護者が、庇護者自身が可罰的に関与していた本犯の共犯者を処罰から免れさせると同時に自分自身をも処罰から免れさせるために行為したという事案について、くり返し、このような場合には可罰的な犯罪庇護は存在しないと述べてきた。そのさい、行為者にとって、本犯の他の共犯者を庇護することよりも自分を庇護することのほうが重要であるかどうかは、たとえこの点についての判断が個別的に可能であったとしても、決定的に問題外である。むしろ、犯罪庇護者は、とにかくその庇護行為が自分自身をも処罰から免れさせることを目ざしていてさえすれば、不可罰である。原判決はこの原則に違反している。本犯の仲間を庇護する意図とならんで自分自身を庇護する意図があった場合、この後者の目的は「庇護の主たる目的とならべるとかすんでしまう」と主張することは、法的に誤りである。しかも、そのような自己庇護の目的は、それが単に「副次的な」目的にすぎないことがはっきりと確認された場合であっても、存在がみとめられる。
  さらに、たしかに刑法二五七条による処罰は犯罪庇護によって刑事訴追が阻止されるべき重罪または軽罪が現実に行われたことを前提とする。しかし、そのことから、刑事訴追の対象になる本犯が犯罪庇護者によって現実に行われ、国家の刑罰請求権が存在する場合にしか、犯罪庇護は不可罰とならない、ということが導かれるわけではない。原判決では、Bは「Rをそそのかして偽りの宣誓をさせたことについて自分が処罰されないかどうか、確信がもてなかった」ということもあって、Rに有利な法廷での供述を「ついでに」行った、としか述べられていない。そして、それ以前に原判決で述べられているのは、ZがBに与える侮辱をBは甘受すべきでないとRが言ったということ、および「互いに性的交渉をもたなかったという主張を二人で維持しつづければZは(侮辱罪で)処罰されるにちがいないという点で、RとBは意見が一致していた」ということだけである。これによると、「偽りの宣誓のそそのかし」−Bはこれを明らかに教唆と思った−は認められない。Rに対するBの幇助は存在しえたが、それを肯定するための確実な証拠は原判決からは読みとれない。確認されたことは、Bは、Rと申し合わせをしたことについて、Rの共犯として処罰されることを危惧しなければならないと信じていた、ということだけである。しかしながら、そのような事情の下でも、Bの行為は不可罰である。二五七条に表現された禁止には、その禁止に従うことを行為者に期待できないところに限界がある。なぜなら、行為者は、さもないと自分が処罰の危険にさらされるからである。したがって、そうした事態が存在する場合には、確かに別の種類の可罰的行為は存在しうるが、可罰的な犯罪庇護は存在しえない。そして、自己に対する刑事訴追の危険の存在は二五七条の規範の遵守に対する期待可能性を打ち消し、そのような−緊急避難の事例に匹敵する−危険が存在する際には、行為の可罰性が欠如するので、こうした事情に関する行為者の誤った表象は、刑法五九条にしたがって考慮されなければならない。したがって、行為者に有利にはたらく免責事由または正当化事由の存在については、行為者に迫る刑事訴追の危険についての行為者自身の解釈のみが決定的でありうる。ここに錯誤があった場合、行為者の行為は、現実に行われた本犯の実行者を庇護する点についても、その行為が同時に庇護者自身の利益になるはずであったという場合には、なお不可罰である。以上により、犯罪庇護を理由とするBの処罰は不可能である。
(6)  当時の刑法五七条はつぎのように規定していた。「ある者が罪となるべき行為を遂行するに際し、法律上の構成要件に属する事情または可罰性を高める事情の存在を知らなかったときは、これらの事情は当人の責めに帰せられない」。訳語は、法務大臣官房司法法制調査部編『ドイツ刑法典』(一九六七年)三二頁を参照。
(7)  期待可能性に関する錯誤をめぐる当時の学説状況については、Franz von Liszt/Eberhard Schmidt, Lehrbuch des Deutschen Strafrechts, 26. Aufl., 1932, S. 289 Anm. 13;佐伯千仭『刑法に於ける期待可能性の思想』(一九四七年)四五三頁以下参照。
(8)  RGSt 66, 222. 事案は、政敵からの暴力に対する根拠のない、しかも根拠のないことが認識可能な恐怖から、偽りの宣誓を行ったというものである。これについて、ライヒ裁判所は、錯誤が回避不可能な場合は不可罰だが、回避可能な場合は過失犯が成立しうるとして、故意の偽誓罪ではなく、過失の偽誓罪(一六三条)の成立をみとめた。他方、学説は、錯誤が回避不可能な場合は不可罰とする点では一致していたが、回避可能な場合については、判例にしたがう見解と、故意犯の成立を肯定し刑の減軽にとどめるべきだとする見解とが対立していた。しかし、一九七五年の改正で、免責事由(免責的緊急避難)の前提条件に関する錯誤について、後者の見解が採用された(現行三五条二項)。Vgl. Hans−Heinrich Jescheck/Thomas Weigend, Lehrbuch des Strafrechts, Allgemeiner Teil, 5. Aufl., 1996, S. 507f.
(9)  立法の経緯については、とくに本章第三節(2)参照。
(10)  RGSt 63, 233.
(11)  事案を紹介しておこう。被告人とその友人Gは、ある株式会社の従業員および代理人として、彼らの雇い主の金員を横領した。金額は、Gが五三〇〇〇ライヒスマルク、被告人は二二〇〇〇ライヒスマルクであった。被告人は、この横領の発覚を防ぎ、Gと自分自身とを処罰から免れさせ、右犯行で得た利益を確保するために、彼の義務とされる会社の決算発表の際、当該株式会社の利益になるように七八〇〇〇ライヒスマルクの仮装の利息債務を顧客の口座に記帳し、もって虚偽記載をした。原審は、ここに不可罰の自己庇護が存在することをみとめているが、それは被告人に責任がある二二〇〇〇ライヒスマルクの横領についてだけであった。被告人の虚偽記載行為のうち、二二〇〇〇ライヒスマルクを超える部分については、刑法二五七条により可罰的な、Gに対する犯罪庇護を構成するとした。なぜなら、被告人はGの犯行と関係がなかったからである。
  これに対して、本判決は、本文で述べたような理由から、被告人を不可罰とした。なお、本判決では、自己庇護は構成要件に該当しないということも明言されている。
(12)  Vgl. BGHSt 2, 375;9, 71;BGH NJW 1952, 754.


二  間接的な自己庇護
  共犯者等の庇護とは異なり、間接的な自己庇護については、可罰説に立つ判例と不可罰説に立つ通説とが対立していた(13)

  (1)  判  例    ライヒ裁判所は、一貫して、間接的な自己庇護は可罰的であるとしてきた(14)。連邦通常裁判所(BGH)もライヒ裁判所の判例をそのまま受け継ぎ、間接的な自己庇護を可罰的としてきた(15)。その根拠は、形式的な共犯従属性理論(正犯不法への共犯不法の連帯性)ないし「従属性志向惹起説」(修正惹起説)に求められている。
  ドイツの判例は、共犯の処罰根拠について、「刑法典が教唆者と幇助者を処罰するのは、他人を可罰的にし有罪判決を受けさせたことに責任があるからではない」として、責任共犯説を否定しつつ(RGSt 15, 315)、「刑法四八条(教唆犯の規定−筆者注)によれば、教唆される行為は教唆者にとっては他人の行為であり、教唆者のこの非独立的(従属的)な性質から、共犯者の要素は正犯行為者の側に与えられていれば足りる。行為が教唆者自身によって実行された場合でも同様に可罰的であることを要しない」として、従属性志向惹起説を採用していた(RGSt 59, 34(16))。従属性志向惹起説とは、共犯不法の正犯不法への従属性(連帯性)を重視し、共犯不法は正犯不法から導かれるとする見解である(17)。これによると、共犯の不法はもっぱら正犯不法(構成要件に該当する違法な正犯行為)によって根拠づけられ(正犯不法への共犯不法の連帯性)、共犯固有の不法(共犯者からみた構成要件該当結果の惹起)は問題とされない。つまり、正犯不法を惹起した者は、共犯固有の不法を問われることなく、共犯として処罰されることになる。
  この論理を間接的自己庇護にあてはめると、間接的自己庇護は可罰的となる。すなわち、犯罪庇護は本犯の共犯ではなく「独立の犯罪」である。庇護される犯人がこれを教唆ないし幇助する行為は、「独立の犯罪」である正犯の不法を惹起するものである。たしかに、犯人自身は「他人の庇護」という構成要件該当結果を惹起するものではないが、従属性志向惹起説ではこの点は問題とされない。このようにして、判例は、間接的な自己庇護を可罰的としていたのである。

  (2)  学  説    しかし、学説の多くは、こうした判例の結論に反対してきた(18)。その理論的根拠は、行為者が緊急避難類似状況に置かれている点では、不可罰の単純な自己庇護と何ら異ならない、ということに求められている(19)。このような説明方法がとられた背景には、当時の多くの学説は、共犯の処罰根拠に関して、判例と同じく「従属性志向惹起説」をとるか、正犯不法を誘発または促進した点に共犯の処罰根拠を求める「不法共犯説」をとるかのいずれかであったという事情がある(20)。これを前提として間接的な自己庇護を不可罰とするためには、共犯の処罰根拠論によらずに、いわば各論的に、緊急避難類似状況に置かれた行為者の「心理状況」を持ち出さざるをえない(21)
  もっとも、一九七四年の改正前に、これとは別の論拠から、間接的な自己庇護の不処罰を説明する見解がなかったわけではない(22)。その中でも、とくに注目されるのは、リューダーセンの見解である。リューダーセンは、一九六七年の時点で、判例や当時の通説が前提としていた「共犯従属性のドグマ」を批判し、共犯固有の不法(共犯者からみた構成要件該当結果の惹起)を共犯の処罰根拠とする「惹起説」の立場から、間接的な自己庇護の不処罰を説明していた(23)(以下、傍点部分は原文では斜字体)。すなわち、「惹起説とは、共犯者は自己の不法と責任に対して罪責を負う、という結論に帰着する見解である(24)」。ここにいう「共犯者の自己の不法」とは、「共犯者もまた構成要件該当的に行為すること」にほかならない(25)。なぜなら、「刑法上の不法が存在するか否かは、刑法典各則の構成要件からのみ明らかになるからである(26)」。したがって、共犯が処罰されるためには、「正犯が構成要件に該当する行為をしたことでは足りない。その法益侵害が共犯者の一身においても構成要件該当的であることがまさに重要である(27)」。そうだとすると、間接的な自己庇護は不可罰になる。なぜなら、自己庇護は犯罪庇護の構成要件に該当しないと解される以上(28)、犯人自身は構成要件該当的に法益を侵害しえない(「他人の庇護」という構成要件該当結果を惹起しえない)からである(29)

(13)  Vgl. Heinrich Jagusch, in:LK, 8. Aufl., 1958, § 257 Anm. 2d;Wolfgang Ruβ, in:LK, 9. Aufl., 1973, § 257 Rdn. 33;Adolf Scho¨nke/Horst Schro¨der, Strafgesetzbuch, Kommentar, 17. Aufl., 1974, § 257 Rdn. 44;Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 42f.
(14)  Vgl. RGSt 4, 60;50, 364;RG JW 1924, 1597;RGSt 60, 346;63, 373.
(15)  Vgl. BGHSt 5, 75;17, 236. 後者につき、臼木豊「自己庇護の限界ー連邦通常裁判所第一刑事部一九六二年五月二二日判決 BGHSt 17, 236」警察研究五八巻七号(一九八七年)七八頁参照。
(16)  ドイツの判例が従属性志向惹起説(修正惹起説)を採用していたことは、すでに大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)一四五頁以下、高橋則夫『共犯体系と共犯理論』(一九八八年)一四九頁で指摘されている。
(17)  Vgl. Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 17;Erich Samson, in:SK, Bd 1, 6. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 10;Jo¨rg Christmann, Zur Strafbarkeit sogenannter Tatsachenarrangements wegen Anstiftung, 1997, S. 59f. なお、高橋・前掲注(16)一四七頁、斉藤誠二「共犯の処罰の根拠についての管見」下村康正先生古稀祝賀『刑事法学の新動向・上巻』(一九九五年)一八頁参照。
(18)  Vgl. Jagusch, aaO (Anm. 13) Anm. 2d;Ruβ, aaO (Anm. 13) Rdn. 33;Scho¨nke/Schro¨der, aaO (Anm. 13) Rdn. 44;Seel, aaO (Anm. 13) S. 43.
(19)  Vgl. Ruβ, aaO (Anm. 13) Rdn. 33;Scho¨nke/Schro¨der, aaO (Anm. 13) Rdn. 44;Seel, aaO (Anm. 13) S. 45f.
(20)  ドイツの従属性志向惹起説(修正惹起説)および不法共犯説については、とくに高橋・前掲注(16)一二六頁以下、一四七頁以下、斉藤・前掲注(17)一六頁以下を参照。なお、大越・前掲注(16)一〇〇頁以下、一四五頁以下も参照(同書では不法共犯説は「行為無価値惹起説」と呼ばれている)。
(21)  たとえば、不法共犯説に立つヴェルツェルは、「特別の動機状態」という自己庇護の不処罰の根拠は、教唆、幇助を含むすべての関与行為の不処罰を根拠づけるとする。Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 112, 115, 123.
(22)  以下で紹介するリューダーセンの見解のほかに、法競合(不可罰的事後行為など)の観点から不処罰を説明する見解もあった。Vgl. Seel, aaO (Anm. 13) S. 43ff.
(23)  Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 25, 166, 169ff. リューダーセンの見解については、大越・前掲注(16)一二九頁以下、高橋・前掲注(16)一四一頁以下、斉藤・前掲注(17)一七頁以下、相内信「クラウス・リューダーセン著『共犯の処罰根拠について』(一九六七年)」金沢法学一九巻一・二号(一九七六年)一〇〇頁以下、松宮孝明「『共犯の処罰根拠』について」立命館法学二五六号(一九九八年)七七頁以下、拙稿「必要的共犯についての一考察(二)」立命館法学二六四号(一九九九年)八九頁、一〇〇頁などを参照。
(24)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 23) S. 25.
(25)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 23) S. 25.
(26)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 23) S. 25.
(27)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 23) S. 25. さらに彼はつぎのようにも述べている。「構成要件該当性は正犯の処罰根拠であるだけでなく、まさに共犯の処罰根拠でもある。いいかえれば、構成要件は正犯だけでなく共犯形式での犯罪の共働をも−完全にではないが(中略)その中核において−記述しているのである」(S. 29)。
(28)  第二章第三節参照。
(29)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 23) S. 169f.「惹起説」の本来の趣旨(共犯は他人の不法に対してでなく「自己の不法」に対して罪責を負うのだとする主張)を出発点として、共犯固有の不法(共犯者からみた構成要件該当結果の惹起)を共犯の処罰根拠としたリューダーセンの見解は、その後の議論に大きな影響を与えた。たしかに、リューダーセンの主張のうち、共犯の処罰にとって正犯不法(構成要件に該当する違法な正犯行為)は必要でないとする(それゆえ「純粋」惹起説と呼ばれる)部分、たとえばドイツでは処罰規定のない自殺関与は(関与者からみれば他殺の惹起であるから)殺人の共犯として処罰できるとする部分(S. 168)は、実定法上の共犯従属性に反するとして、他の学説から強い批判を浴びた。とくにこの点がネックとなって、「純粋」惹起説は現在も少数説にとどまっている(もっとも、リューダーセン自身、最近になって、自殺関与は不可罰であると改説している。Klaus Lu¨derssen, Der Typus des Teilnehmertatbestandes, in:Festschrift fu¨r Koichi Miyazawa, 1995, S. 449ff.)。しかし、共犯固有の不法を共犯の処罰根拠とし、そこから、間接的自己庇護などの必要的共犯(片面的対向犯)の不処罰を説明する部分は、現在、ロクシン、ザムゾン、シュトラーテンヴェルトといった有力な学者から支持を受けている。Roxin, aaO (Anm. 17) Rdn. 1ff., 39;Samson, aaO (Anm. 17) Rdn. 14ff., 65;Gu¨nter Stratenwerth, Strafrecht, Allgemeiner Teil I, 4. Aufl., 2000, S. 362. さらに、Seel, aaO (Anm. 13) S. 67f.;Walter Gropp, Strafrecht, Allgemeiner Teil, 1998, S. 327;Uwe Gu¨nther, Das Unrecht der Strafvereitelung (§ 258 StGB), 1998, S. 232f.;Henning Ernst Mu¨ller, Falsche Zeugenaussage und Beteiligungslehre, 2000, S. 152f. ちなみに、これらの論者は、共犯の処罰根拠を共犯固有の不法に求めつつ(この点はリューダーセンの主張に賛成)、同時に、正犯不法の存在も共犯の処罰根拠とみている(ロクシンは後者を共犯処罰の「必要条件」であるとも述べている。Claus Roxin, Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 381)。つまり、ここでは、ある行為者が共犯として処罰されるためには、共犯者からみた構成要件該当結果の惹起と、構成要件に該当する違法な正犯行為の両方が必要であるとされている。これが、今日ドイツで有力な「混合惹起説(折衷惹起説)」(gemischte Theorie)である。高橋・前掲注(16)一五三頁以下、斉藤・前掲注(17)一八頁以下、松宮・前掲注(23)八〇頁、同『刑法総論講義』(第二版・一九九九年)二七六頁以下。
  なお、わが国で惹起説といわれるとき、多くの場合、そこでは、正犯結果(正犯からみて構成要件に該当する違法な結果)を共同惹起することが惹起説の本質と考えられている。しかし、それは形式的な共犯従属性原理によって修正された惹起説(従属性志向惹起説、修正惹起説)であって、本来の「惹起説」ではない。以上にみてきたように、「惹起説」(純粋惹起説、混合惹起説)は、そうではなくて、共犯固有の不法(構成要件が共犯者に対して保護している法益の侵害)を共犯者自身が(正犯を介して)惹起したかどうかを問題にする(リューダーセンやロクシンがいうように、刑法上の不法は構成要件によってはじめて明らかにされるから、共犯固有の不法の惹起とは、共犯者からみて構成要件に該当する違法な結果の惹起、ということである)。たとえば、嘱託殺人を依頼する被害者がなぜ嘱託殺人(未遂)の教唆犯として処罰されないかというと、被害者自身は構成要件化されていない「自殺」を実現しようとしただけであって(Gropp, aaO, S. 327)、嘱託殺人罪の不法である「他殺」(嘱託殺人罪の構成要件によって保護された「他人の生命」の侵害)を惹起していないからである、と説明される。ここにこそ、間接的自己庇護を含む必要的共犯(片面的対向犯)の不処罰や未遂の教唆の不処罰を共犯の処罰根拠のレベルで導こうとする「惹起説」の本質がある。ドイツの純粋惹起説と混合惹起説はこの点ではまったく共通しているのであって、両者の違いは、正犯不法の存在を共犯処罰の必要条件とするか(混合惹起説)、しないか(純粋惹起説)にあるにすぎない(もっとも、この点は重要であるが)。松宮・前掲注(23)七七頁以下(八〇、八三頁)、拙稿「必要的共犯についての一考察(一)」立命館法学二六三号(一九九九年)二一三頁参照。

三  小  括
  以上、共犯者等の庇護および間接的な自己庇護のそれぞれについて、現行二五八条五項成立以前の判例・学説をみてきた。ここで再度その内容を簡単に確認しておこう。
  まず、共犯者等の庇護については、判例は比較的広い範囲で不処罰をみとめ、学説もこれに従っていた。すなわち、そこでは、自己庇護の目的をまったく欠く場合は可罰的とされていたが、反対に、同時に自己庇護の目的を少しでももっていれば、現実には犯罪を行っていないのに犯人として処罰されると誤信していた場合や、庇護される他者と本犯が異なっていた場合であっても、不可罰とされていた。
  これに対し、間接的な自己庇護については、判例と学説は対立状況にあった。すなわち、判例は、共犯の従属性を重視する「従属性志向惹起説」(修正惹起説)を基礎に、これを可罰的としていた。これに対し、当時の通説は、判例と同じ従属性志向惹起説ないし不法共犯説を前提としつつも、間接的な自己庇護は緊急避難類似状況という点では単純な自己庇護と変わりはないとして、これを不可罰としていた。もっとも、リューダーセンは、共犯固有の不法(共犯者からみた構成要件該当結果の惹起)を共犯の処罰根拠とする本来の「惹起説」の立場から、間接的な自己庇護の不処罰を根拠づけていた。
  こうした状況のなか、自己庇護に関する特別規定の制定へ向けて、立法作業が開始される。

第三節  二五八条五項の成立

一  立法作業
  (1)  一九三八年草案  
  自己庇護に関する特別規定の制定へ向けて立法作業が本格化するのは、第二次大戦後の刑法大委員会での議論以降のことである。しかし、共犯者等の庇護に関しては、すでに一九三八年草案に特別の規定が置かれていた(1)
  第三五三条  (3)  本条の行為が本犯の他の関与者または親族のために行われたときは、裁判官はその刑を任意に減軽し、または免除することができる。(傍点筆者)
  ここでは、親族庇護とあわせて共犯者の庇護が規定されており、その効果は刑の任意的減免である。先にみた判例と比べると、不処罰の範囲は狭くなっている。第一に、判例では、本犯の異なる他者庇護や、自己の本犯が存在しないのに存在すると誤信して行う他者庇護(錯誤事例)も、自己庇護の意図で行う場合は不可罰とされていたが、草案では、「本犯の他の関与者」という文言から、これらの場合は規定の射程外に置かれている。第二に、判例では、共犯者の庇護は(もっぱら共犯者を庇護するためになされる場合を除いて)不可罰とされているが、草案では刑の任意的減免にとどまっている。
  他方、間接的な自己庇護については規定が置かれていない。これに関する規定は、つぎにみる刑法大委員会における諸提案においてはじめて登場する。

  (2)  刑法大委員会での議論    連邦司法大臣ノイマイヤーの召集により一九五四年に設置された刑法大委員会(Groβe Strafrechtskommission(2))は、一九五八年の第六一回会議において、自己庇護に関する議論を行った(3)
  まず、連邦司法省専門委員の提案として、つぎのような案が示された(4)
  第二四二条(処罰妨害)(4)  本犯への関与を理由に可罰的であり、かつ自己が刑に処せられ、もしくは処分を科せられること、または自己に科せられた刑罰もしくは処分が執行されることの全部または一部を、その行為によって同時に妨害することを意図した者は、処罰妨害罪によっては罰しない。ただし、本犯への非関与者に処罰妨害を教唆した者については、このかぎりではない。
  この提案は、親族庇護に関する規定とは別に自己庇護に関する規定を独立に設けた点で、一九三八年草案よりも一歩前進したものといえる。また、自己庇護の意図でなされる他者庇護を不可罰とし(第一文)、間接的な自己庇護を可罰的とした(第二文)点は、従来の判例に沿うものであった。
  しかし、厳密にみると、第一文の「本犯への関与を理由に可罰的であり」という部分は、一九三八年草案と同様、判例の立場とは異なっていた。第二節でみたように、判例は、本犯への関与を理由に可罰的でない者についても、錯誤により可罰的と誤信して自己庇護の意図で他者庇護を行った場合は、不可罰としていたからである。そこで、この点について、委員の一人であるランゲから、つぎのような意見が出された。すなわち、「本犯への関与を理由に可罰的であり」とする連邦司法省専門委員の提案によると、判例で不可罰とされている錯誤事例は可罰的となるが、これは妥当でない。判例の「期待可能性の思想」をよりよく表現するためには、この部分は「自己が本犯への関与を理由に刑に処せられ……ることの全部または一部を……妨害することを意図した者」というように改めるべきである、と(5)。このランゲの提案は小委員会において考慮されることになった(6)
  また、「本犯への非関与者に処罰妨害を教唆した者については、このかぎりではない」とする第二文についても、これは削除すべきだとする意見が複数の学者委員から出された(7)。この点は議論による決着はつかず、投票が行われた。結果は、一九の委員票のうち、削除賛成が五票、棄権が二票、それ以外は削除反対であった(8)
  以上のような議論をふまえて、小委員会はつぎのような提案を行った(9)
  第一案  第二四二条(処罰妨害)(4)  自己が本犯への関与を理由に刑に処せられ、もしくは処分を科せられること、または自己に科せられた刑罰もしくは処分が執行されることの全部または一部を、その行為によって同時に妨害することを意図した者は、処罰妨害罪によっては罰しない。ただし、本犯への非関与者に処罰妨害を教唆した者については、このかぎりではない。
  第二案  第二文を削除。
  このように、小委員会の提案では、第一文はランゲの提案どおりに変更されたものの、第二文の削除の問題については結論が留保された。大委員会の最終的な決定においても、第二文の問題は決着がつかず、結局、第一案と第二案の両方を含んだ小委員会の提案がそのまま採用された(10)

  (3)  一九六〇年、六二年草案    ついで、一九六〇年、六二年の各草案は、自己庇護に関してつぎのような規定を用意した(11)
  第四四七条(処罰妨害)(5)  自己が本犯への関与を理由に刑に処せられ、もしくは処分を科せられること、または自己に科せられた刑罰もしくは処分が執行されることの全部または一部を、その行為によって同時に妨害することを意図した者は、処罰妨害罪によっては罰しない。
  ここでは、刑法大委員会決定の第二案が採用され、間接的な自己庇護を可罰的とする部分(第一案の「第二文」)は削除されている。しかし、これは必ずしも間接的な自己庇護を不可罰とする意図でなされたものではなかった。理由書は、間接的な自己庇護の可罰性について、法律で明記することはせずに、「判例の判断にゆだねる」としていたのである(12)

(1)  Vgl. Petra Wappler, Der Erfolg der Strafvereitelung (§ 258 Abs. 1 StGB), 1998, S. 55 Anm. 203.
(2)  刑法大委員会の構成、活動内容の概要については、臼井滋夫(宮澤浩一加筆補正)「ドイツ刑法沿革略史」法務大臣官房司法法制調査部『ドイツ刑法典』(法務資料四三九号・一九八二年)一八頁以下参照。
(3)  Niederschriften u¨ber die Sitzungen der Groβen Strafrechtskommission, 6. Band, Besonderer Teil, 59. bis 66. Sitzung, 1958, S. 114ff. 処罰妨害罪が議題となった第六一回会議(一九五八年一月九日)の出席者は、委員長(ノイマイヤー)、委員一九名(学者委員として、ボッケルマン、ガラス、イェシェック、ランゲ、E・シュミット、ジーバーツ、ヴェルツェル)、連邦司法省専門委員一〇名の、計三〇名であった。
(4)  Niederschriften, aaO (Anm. 3) S. 330.
(5)  Niederschriften, aaO (Anm. 3) S. 115f.
(6)  Niederschriften, aaO (Anm. 3) S. 117.
(7)  Niederschriften, aaO (Anm. 3) S. 117.
(8)  Niederschriften, aaO (Anm. 3) S. 117. 削除に賛成したのは、ボッケルマン、ガラス、ランゲ、E・シュミットの各教授とコフカ連邦裁判所判事であった。
(9)  Niederschriften, aaO (Anm. 3) S. 339.
(10)  Niederschriften, aaO (Anm. 3) S. 340.
(11)  E 1960 mit Begru¨ndung, S. 82. 一九六〇年草案と六二年草案は、自己庇護に関しては、規定の仕方も理由書の内容もまったく同じなので、ここでは一九六〇年草案のみを紹介する。
(12)  E 1960 mit Begru¨ndung, S. 589.

二  二五八条五項の成立
  以上のような立法作業をへて、一九七四年、自己庇護に関する特別規定の制定が実現した。現行刑法二五八条五項である。結論からいうと、立法者の意図は、共犯者等の庇護については判例を追認し、間接的な自己庇護については判例を変更してこれを不可罰とすることにあった。
  二五八条五項の条文を再掲しておこう。
  第二五八条(処罰妨害)(5)  自己が刑に処せられ、もしくは処分を科せられること、または自己に科せられた刑罰もしくは処分が執行されることの全部または一部を、その行為によって同時に妨害することを意図した者は、処罰妨害罪によっては罰しない。
  ここでは、刑法大委員会決定および一九六〇年、六二年草案にあった「本犯への関与を理由に」という部分が削除されているほか、間接的な自己庇護を可罰的とする「但書き」(第二文)も、一九六〇年、六二年草案と同様に削除されている。この「但書き」の削除は、「判例の判断にゆだねる」としていた一九六〇年、六二年草案と異なり、明確に間接的な自己庇護を不可罰とする意図でなされている(13)。その根拠は、行為者の置かれた緊急避難類似状況(期待不可能性)に求められている(14)
  しかし、ここでより注目すべきは、理由書の以下の指摘である。すなわち、「(間接的な自己庇護を可罰的とする)判例によれば、たとえば、犯人が同時に自己の庇護と親族の庇護を(第三者に対して)教唆する場合に満足のゆく結論が得られない。従来の判例によると自己庇護の教唆は可罰的となるのに対し、親族庇護の教唆は(旧)二五七条二項(親族間の犯罪庇護の不処罰)により不可罰になる」との指摘である(15)。他人である親族を庇護するよう第三者に教唆した場合が不可罰なのに(16)、自分自身の庇護を第三者に教唆した場合は可罰的になるというのは、期待可能性の観点からみて、たしかに矛盾である。また、共犯の処罰根拠の観点からみても、ここには一貫性がない。間接的な自己庇護の可罰性は従属性志向惹起説(または責任共犯説、不法共犯説)によって根拠づけられるが、これを一貫させるならば、第三者に対する親族庇護の教唆も同様に可罰的となるはずだからである。二五八条五項は、こうした矛盾を、間接的な自己庇護を不可罰とすることによって解消しようとしたものということができる。
  共犯者等の庇護については、判例にしたがい、自己庇護の意図を同時にもつ処罰妨害はすべて不可罰であることが明言されている(17)

(13)  Begru¨ndung zum RegE-EGStGB, BT-Dr. 7/550, S. 251. このことは、物的庇護(新二五七条)において間接的な自己庇護を可罰的とする規定(新二五七条三項第二文)が存在することの反対解釈からも、さらには、この規定の成立の経緯(一九六〇年草案では処罰妨害罪の場合と同様に「判例の判断にゆだねる」として削除されたが、一九七四年改正では処罰妨害罪とは反対に再度規定されたこと)からも、明らかである。新二五七条三項第二文については、第一章第三節注(20)を参照。
(14)  Begru¨ndung, aaO (Anm. 13) S. 251.
(15)  Begru¨ndung, aaO (Anm. 13) S. 251. 旧二五七条二項はつぎのように規定する。「正犯または共犯の親族が、正犯または共犯の処罰を免れさせるために、これに庇護を与えたときは、罰しない」。邦訳は、法務大臣官房司法法制調査部編『ドイツ刑法典』(一九六七年)一一九頁を参照。
(16)  Vgl. RGSt 14, 102;BGHSt 14, 172.
(17)  理由書はつぎのように記している。「本犯の関与者が他の関与者を利する処罰妨害を行ったことを理由に可罰的とされるかどうかという問題は、現行法にはとくに規定されていない。その可罰性は判例によって原則的に肯定されている。行為者が本犯への関与を理由とする処罰から同時に自分自身をも免れさせようとする場合にのみ、彼は不可罰である。その場合、どちらの目的が主たるものかは重要でない。草案はこの判例にしたがい、それを第五項で立法的に承認しようとしている。そこでは、RGSt 63, 235 (237) の判決に依拠して、他人を利する処罰妨害と行為者を利する処罰妨害が同一の本犯に関するものか異なる本犯に関するものかは問題とはされていない。同時に自己を庇護する目的でなされた処罰妨害はすべて不可罰であるという原則は妥当しているということである」。Begru¨ndung, aaO (Anm. 13) S. 250f.

第四節  二五八条五項成立後の状況

一  共犯者等の庇護
  (1)  二五八条五項の適用状況 
   現行刑法二五八条五項の成立後は、各事例に対して本規定の適用が可能か否かというかたちで問題が処理されるようになった。判例は、共犯者等の庇護について、従来の判例および立法者意思に従って、本規定を運用している。
  たとえば、他人がある事件について自分を告発しようとしたので、その発覚を防ぐために、この他人を庇護したという事例について、処罰妨害が自分の本犯と共通でない本犯に対するものであっても、二五八条五項は適用できるとした判例(1)がある。また、二五八条五項の適用に際しては他者庇護と自己庇護のどちらが主たる目的かは問わないとする判例(2)もある。いずれも従来の判例に沿うものであり、学説もこれに賛成している(3)。自己に対する刑事訴追の危険はないのにあると誤信して自己庇護の目的で他者を庇護する場合(錯誤事例)については、二五八条五項成立以降の判例はみあたらないが、学説は従来の判例を引用して二五八条五項の適用は可能であるとしている(4)
  これに対して、二五八条五項の適用が否定された判例として、すでに自己の本犯について確定判決を受けていた場合(5)、本犯と処罰妨害との関係が事前の虚偽のアリバイの約束と犯行後のその実行という関係にある場合(6)などがある。なお、物的庇護(現行二五七条)に対する二五八条五項の適用の可否は明らかにされていない(7)

  (2)  二五八条五項の体系的地位    二五八条五項の体系的位置づけについて、学説は、処罰妨害罪固有の「免責事由」とみる見解と、一身的な「処罰阻却事由」とみる見解とに分かれている(8)。しかし、いまのところ、本格的な論争は展開されていない。

(1)  BGH NJW 1995, 3264.
(2)  BGH NJW 1984, 135.
(3)  Vgl. etwa Walter Stree, in:Adolf Scho¨nke/Horst Schro¨der, Strafgesetzbuch, Kommentar, 25. Aufl., 1997, § 258 Rdn. 35;Herbert Tro¨ndle/Thomas Fischer, Strafgesetzbuch und Nebengesetze, 49. Aufl., 1999, § 258 Rdn. 13.
(4)  もっとも、錯誤が回避しえた場合の処理については、見解が分かれている。多数説は、錯誤が回避しえた場合であっても、二五八条五項は適用できるとしている。というのも、二五八条五項の文言によれば、不処罰の要件である自己庇護の「意思」にとって決定的なのは、自己の処罰を妨害しようとする行為者の主観的事情であって、錯誤が回避しえたかどうかという客観的事情は重要ではないからである。Vgl. etwa Stree, aaO (Anm. 3) Rdn. 35;Tro¨ndle/Fischer, aaO (Anm. 3) Rdn. 13;Wolfgang Ruβ, in:LK, 11. Aufl., 1994, § 258 Rdn. 33;Uwe Gu¨nther, Das Unrecht der Strafvereitelung (§ 258 StGB), 1998, S. 227;Karl Lackner/Kristian Ku¨hl, Strfgesetzbuch mit Erla¨uterungen, 23. Aufl., 1999, § 258 Rdn. 16. これに対して、錯誤が回避しえた場合には、刑の減軽にとどまるとする見解もある。Vgl. etwa Fritjof Haft, Strafrecht, Besonderer Teil, 5. Aufl., 1995, S. 183;Claus Roxin, Strafrecht, Allgemeiner Teil, Bd 1, 3. Aufl., 1997, S. 883f.;Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 78. この見解は、二五八条五項は個別的な免責事由を定めたものだと解したうえで(後掲注(8)参照)、免責的緊急避難について定めた三五条との関係を問題にする。すなわち、三五条二項は免責的緊急避難の前提条件に関する錯誤が回避可能であった場合は刑の減軽にとどまるとしており、これとの関係から、自己庇護についても錯誤が回避しえた場合は刑の減軽にとどまると解すべきであるとする。
(5)  BayObLG NStZ 1996, 497.
(6)  BGHSt 43, 356.
(7)  BGH NStZ 2000, 259.
(8)  免責事由説として、Haft, aaO (Anm. 4) S. 183;Seel, aaO (Anm. 4) S. 76f.;Roxin, aaO (Anm. 4) S. 883, 900;ders., Rechtfertigungs− und Entschuldigungsgru¨nde in Abgrenzung von sonstigen Strafausschlieβungsgru¨nden, JuS 1988, S. 432f.;Hans Joachim Hirsch, in:LK, 11. Aufl., 1994, Vor § 32 Rdn. 209, 227;Hans−Heinrich Jescheck/Thomas Weigend, Lehrbuch des Strafrechts, Allgemeiner Teil, 5. Aufl., 1996, S. 504 など。処罰阻却事由説として、Stree, aaO (Anm. 3) Rdn. 35;Tro¨ndle/Fischer, aaO (Anm. 3) Rdn. 13;Ruβ, aaO (Anm. 4) Rdn. 33;Lackner/Ku¨hl, aaO (Anm. 4) Rdn. 16;Gu¨nther, aaO (Anm. 4) S. 225;Reinhart Maurach/Friedrich−Christian Schroeder, Strafrecht, Besonderer Teil, Teilbd. 2., 6. Aufl., 1981, S. 325;Irene Fahrenhorst, Grenzen strafloser Selbstbegu¨nstigung, JuS 1987, S. 707;Erich Samson, in:SK, Bd 2, 5. Aufl., 1995, § 258 Rdn. 50;Ju¨rgen Baumann/Ulrich Weber/Wolfgang Mitsch, Strafrecht, Allgemeiner Teil, Lehrbuch, 10. Aufl., 1995, S. 525;Steffen Cramer, Zur Anwendbarkeitder perso¨nlichen Strafausschlieβungsgru¨nde gema¨β § 258 V und VI StGB auf die Begu¨nstigung (§ 257 StGB), NStZ 2000, S. 246 など。処罰阻却事由説に立つ判例として、BayObLG NJW 1978, 2563=JR 1979, 252(間接的な自己庇護を扱った判例である。事案は後掲注(9)参照) ;BGHSt 43, 356(前掲注(6))がある。なお、免責事由説を主張する論者の中には、錯誤事例において錯誤が回避しえた場合には、三五条二項との関係から、刑の減軽にとどまるとするものがある(前掲注(4)参照)。しかし、免責事由説の論者がすべてこのように主張しているわけではない。


二  間接的な自己庇護
  間接的な自己庇護(犯人自身による処罰妨害の教唆)については、これを不可罰とする立法者の意思に沿うかたちで、実際に判例が変更された(9)。学説も、間接的な自己庇護の不可罰性は二五八条五項により明らかになったとしている(10)
  もっとも、共犯固有の不法(共犯者からみた構成要件該当結果の惹起)を共犯の処罰根拠とする「惹起説」からは、二五八条五項の存在と関係なく、間接的な自己庇護は不可罰となる。というのも、犯人自身は処罰妨害罪の構成要件該当結果(他人の処罰の妨害)を惹起することはできないからである(11)。そこで、惹起説を支持するゼールは、二五八条五項はもっぱら他者庇護について適用されうるのであり、間接的な自己庇護には適用されないとしている(12)。惹起説からは、間接的な自己庇護の不処罰を根拠づけるのに、二五八条五項は必要ではない、ということになる。

(9)  BayObLG NJW 1978, 2563=JR 1979, 252. 事案は、無免許で乗用車を運転した被告人が、無免許運転で訴追されるのを阻止するために、Mに対して、この乗用車を運転したのはMであるという虚偽の通報を警察にするよう決意させたというもので、犯罪行為の仮構(刑法一四五条d)の教唆および処罰妨害の教唆が問題となった。これに対してバイエルン州最高裁判所は、二五八条五項には犯人自身による処罰妨害の教唆も含まれるとして、処罰妨害罪の教唆については不可罰とした(犯罪行為の仮構の教唆については有罪)。本件の評釈として、Hans−Joachim Rudolphi, Strafvereitelung durch Verzo¨gerung der Bestrafung und Selbstbegu¨nstigung durch Vorta¨uschen einer Straftat−BayObLG, NJW 1978, 2563, JuS 1979, S. 859;Walter Stree, Anmerkung zu BayObLG, Urt. Vom 20. 7. 1978−Rreg. 5 St 118/78 (=JR 1979, S. 252f.), JR 1979, S. 253.
(10)  Vgl. etwa Stree, aaO (Anm. 3) Rdn. 38;Wolfgang Ruβ, aaO (Anm. 4) Rdn. 34;Jescheck/Weigend, aaO (Anm. 8) S, 699;Maurach/Schroeder, aaO (Anm. 8) S. 326;Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 248;Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 40;Gu¨nter Stratenwerth, Strafrecht, Allgemeiner Teil I, 4. Aufl., 2000, S. 362.
(11)  Seel, aaO (Anm. 4) S. 68;Roxin, aaO (Anm. 10) Rdn. 39;Stratenwerth, aaO (Anm. 10) S. 362;Gu¨nther, aaO (Anm. 4) S. 233;Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 169ff.「惹起説」から間接的自己庇護の不処罰が導かれることについては、すでに、一九七四年改正前の学説(リューダーセンの見解)の紹介のところで説明しておいた。本章第二節(2)の本文および注(29)参照。
(12)  Seel, aaO (Anm. 4) S. 73. U・ギュンターも、同じく「惹起説」の立場から、間接的な自己庇護はすでに不法構成要件によって把握されていないので、二五八条五項の適用は問題にならないとしている。Gu¨nther, aaO (Anm. 4) S. 233.


むすびにかえて


  本稿では、これまでわが国においてほとんど論じられることのなかった現行ドイツ刑法二五八条五項が、どのような背景から生まれ、どのような役割を果たしているかを解明しようとした。すなわち、まず予備的考察としてドイツ処罰妨害罪(Strafvereitelung)の歴史を概観し(第一章)、ついで自己庇護(犯人が単独で自己の処罰を免れようとする行為)の不処罰の根拠に関するドイツの議論をおさえたうえで(第二章)、現行ドイツ刑法二五八条五項が成立するに至った背景とその役割について、判例・学説・立法作業の各方面から考察してきた(第三章)。本稿を終えるにあたり、以下では、本稿の内容を要約的に確認したうえで、わが国の議論について若干の考察を試みたいと思う。

一  本稿のまとめ
  (1)  ドイツ処罰妨害罪の歴史 
   ドイツの処罰妨害罪は事後従犯に由来する。これが司法を法益とする各則上の犯罪、すなわち犯罪庇護(Begu¨nstigung)として総則共犯から完全に独立したのは、一八七一年刑法典においてである(旧二五七条)。もっとも、犯罪庇護の内部には、今日の処罰妨害罪にあたる人的庇護(犯人を処罰から免れさせる行為)だけでなく、物的庇護(犯人に犯行の利益を確保させる行為)も含まれていた。犯罪庇護から人的庇護の部分が独立し処罰妨害罪として規定されたのは、一九七四年の改正においてであった(現行二五八条)。その際、立法者は、自己庇護の不処罰を前提とする特別の規定を新設した。それが、本稿の考察の対象である現行二五八条五項である(以上第一章)。

  (2)  自己庇護の不処罰の根拠    自己庇護が不可罰であることは、二五八条一項の文言から明らかである。しかし、その理由は必ずしも自明のことではない。処罰妨害罪が事後従犯と解されていた時代には、自己庇護の不処罰の問題は意識されなかった。犯人自身が同時に自己の共犯でもあるということは論理的に不可能だからである。しかし、処罰妨害罪が司法に対する独立、固有の犯罪として理解され、立法化されたとなると、自己庇護が不可罰とされる根拠が問題となる。犯人も司法(国家の刑罰請求権)を侵害しうるからである。
  これについて、ドイツでは、犯人が犯罪の主体から除外されている立法上の根拠(不処罰の実質的根拠)と不処罰の体系的位置づけの問題(不処罰の形式的根拠)とが明確に区別されている。立法上の根拠については、不可罰的事後行為説、当罰性欠如説、法妥当説などもあるが、判例・通説は責任(Schuld)の領域で不処罰を説明している(緊急避難類似状況説およびそれと類似する見解)。他方、体系上の根拠については、責任阻却説もあるが、判例・通説は構成要件不該当説をとっている。つまり、ドイツの判例・通説では、自己庇護は緊急避難類似状況(期待不可能性)の考慮から犯罪類型化されなかったが、犯罪体系上はすでに構成要件に該当しないと解されている(以上第二章)。

  (3)  現行ドイツ刑法二五八条五項成立の背景とその役割    では、自己庇護が同時に他者庇護(処罰妨害)にあたる場合(共犯者等の庇護)や、犯人が第三者に自己庇護を教唆した場合(間接的な自己庇護)は、どのように扱われるべきであろうか。現行ドイツ刑法二五八条五項は、まさにこのような問題を解決するために新設された。すなわち、二五八条五項は、共犯者等の庇護については判例を立法的に追認し、間接的な自己庇護については判例を変更するという目的で制定された。
  共犯者等の庇護について、二五八条五項成立以前の判例および学説は、比較的広い範囲で行為者の不処罰をみとめてきた。そこでは、もっぱら他人のためにする犯罪庇護は可罰的とされていたものの、少しでも自己庇護の目的をもっていれば、現実には犯罪を行っていないのに犯人として処罰されると誤信していた場合(錯誤事例)や、庇護される他者とで本犯が異なっていた場合(本犯の同一性を欠く場合)であっても、不可罰とされていた。二五八条五項は、このような判例および学説の方向を追認したものである。
  これに対し、間接的な自己庇護については、従属性志向惹起説(修正惹起説)を基礎にこれを可罰的とする判例と、行為者が緊急避難類似状況(期待不可能状況)にある点では単純な自己庇護と変わりはないとしてこれを不可罰とする通説とが対立していた。立法作業の過程で若干の変動はあったものの、最終的に立法者は通説の立場をとることを明確にした。その決定的な動機は、判例上、間接的な親族庇護(第三者に対する親族庇護の教唆)が不可罰なのに間接的な自己庇護は可罰的とされていたことの理論的矛盾ないし結論の不合理さを、後者を不可罰とすることによって解消しようとすることにあった。二五八条五項成立以降、判例は不可罰説をとるようになり、学説も二五八条五項を不処罰の根拠とするようになった。もっとも、本来の「惹起説」からは、二五八条五項の存在とは関係なく、間接的な自己庇護の不処罰が導かれる(以上第三章)。

二  若干の考察
  ドイツの処罰妨害罪は、わが国の犯人蔵匿・証拠隠滅罪にほぼ相当する。もちろん、両者は構成要件や歴史的沿革に違いがあり、単純に比較することはできない。しかし、これまでの考察から明らかなように、少なくとも自己庇護の問題についていえば、問題の出発点はまったく共通している。すなわち、犯人自身は犯罪の主体から除外されていること、通説はその実質的根拠を期待不可能性(緊急避難類似状況)に求めていることである。そのかぎりで、ドイツの議論とわが国のそれとを比較し、そこから何がしかの理論的成果を得ることは、十分に期待できると思われる。
  以下、共犯者等の庇護と間接的な自己庇護に分けて、若干の考察を試みることにしたい。

  (1)  共犯者等の庇護    共犯者等の庇護については、まず、日独の判例に一定の類似性がみとめられることを指摘しておかなければならない。すなわち、ドイツでは、もっぱら他人を庇護するためになされた犯罪庇護は可罰的、自己庇護の意図をもってなされた場合は不可罰とされているが、これは、証拠隠滅罪に関するわが国の判例とほぼ一致する(1)
  しかし、注意しなければならないのは、ドイツでは、自己に対する刑事訴追の危険が客観的に存在していないとか、本犯が違うという理由だけでは、共犯者等の庇護の可罰性は肯定されていないということである。自己に対する刑事訴追の危険が客観的に存在せず、あるいは本犯が異なっていても、自己庇護の意図をもっていれば不可罰とされているからである。つまり、ドイツでは、刑事訴追の危険の存在や本犯の同一性といった客観的事情は、自己庇護の不処罰の必要条件とはされていないということである。自己庇護が不可罰とされる実質的根拠が期待不可能性(緊急避難類似の心理状況)にあるとすれば、このような方向にこそ一貫性があるように思われる。わが国においても、自己庇護(自己蔵匿、自己の刑事事件の証拠の隠滅)の不処罰の根拠は、期待不可能性に求められるのが一般である。自己の刑事事件がそもそも存在しないとか、じつは犯人でなかったといった客観的事情だけで、共犯者等の庇護を可罰的とすべきではないであろう(2)
  つぎに、わが国の下級審判例(3)および一部の学説(4)では、共犯者の蔵匿は、証拠隠滅罪としては不可罰だが犯人蔵匿罪では処罰できると解されているので、これについて検討しておこう。
  犯人蔵匿罪肯定説(下級審判例)の論理はつぎのようなものである。すなわち、@共犯者の蔵匿は自己の刑事事件に関する証拠の隠滅でもあるから、証拠隠滅罪としては不可罰である。A証拠隠滅罪として不可罰なのは一般的に期待可能性が欠けるためであるが、別罪である犯人蔵匿罪については期待可能性がないとはいえない。なぜなら、B証拠隠滅罪と犯人蔵匿罪とでは法益保護の具体的態様が異なり(前者は他人の刑事事件に関する証拠の完全な利用を妨げる罪であるのに対し、後者は犯人に対する捜査、審判および刑の執行を直接阻害する罪である)、共犯者を蔵匿する行為はもはや防禦として放任される範囲を逸脱するものだからである。
  しかし、このような説明の仕方には疑問がある。第一に、期待可能性を肯定する前提となっているBの部分についてである。ここでは、犯人蔵匿罪のほうが証拠隠滅罪よりも罪質が重いと解されているようである(5)。しかし、両罪はいずれも司法に対する罪であり、法定刑も同一である。法益保護の具体的態様が異なるとはいえても、犯人蔵匿罪のほうが証拠隠滅罪よりも一般的に罪質が重いとはいえない(6)。第二に、Aに示されているように、肯定説の論者は、証拠隠滅罪が別罪(放火罪、殺人罪、死体遺棄罪など)を構成する場合には別罪の成立がみとめられるという論理を犯人蔵匿罪との関係にもあてはめようとするが(7)、これにも疑問がある。たしかに、別罪が放火罪、殺人罪といった通常の犯罪の場合には、別罪の成立は肯定される。これはドイツでも同じである(さらに、犯罪行為の仮構、虚偽告訴罪の成立もありうる(8))。しかし、犯人蔵匿罪をこれらの犯罪と同列に論じることはできない。というのも、刑法は、証拠隠滅罪の場合とまったく同じ理由(期待不可能性)から、犯人蔵匿罪においても犯人を犯罪の主体から除外している(自己庇護を不可罰としている)からである。刑法は、犯人蔵匿罪と証拠隠滅罪とを区別しているけれども、それは犯人を庇護する側の行為態様の違いに応じた区別であって、犯人の側の行為については両罪を区別することなく一律に自己庇護の不処罰をみとめているのである(かりに両罪の罪質は異なると解したとしてもこの事実は動かない)。肯定説においては、このような犯人蔵匿罪と証拠隠滅罪の特殊な関係が必ずしも十分に考慮されていないように思われる。
  以上のようにみるならば、証拠隠滅罪としては不可罰だが犯人蔵匿罪としてはどうかという問題の立て方じたいに問題があることがわかる。自己庇護について犯人蔵匿罪と証拠隠滅罪とを区別せず一律に不可罰としている現行刑法の解釈としては、端的に、「自己庇護(自己蔵匿、自己の刑事事件に関する証拠の隠滅)が同時に他者庇護(共犯者等の蔵匿、共犯者等の証拠の隠滅)にもあたる場合をどう処理するか」というように問題を設定するほうが、むしろ自然であるように思われる。さて、このように考えた場合に参考になるのが、共犯者の証拠の隠滅に関するわが国の判例である(同様の問題設定を行うドイツの議論ももちろん参考になる)。すでに指摘したように、わが国の判例は、ドイツにおけるのと同じように、自己庇護の意思を欠く場合は可罰的であるが、自己庇護の意思をもっている場合は(たとえ共犯者の利益になるとしても)不可罰であるとしている。これを共犯者の蔵匿にあてはめると、自己庇護の意思をもって行う共犯者の蔵匿は犯人蔵匿罪としても不可罰ということになる。自己庇護の側面を有する共犯者の蔵匿について犯人蔵匿罪は成立しないと解すべきであろう(9)

  (2)  間接的な自己庇護    間接的な自己庇護(犯人による自己蔵匿、証拠隠滅の教唆)について、わが国の判例はいぜんとして可罰説に立っており、これに従う学説も有力である(10)
  たしかに、わが国の判例は間接的な親族庇護(第三者に対する親族庇護の教唆)も処罰しており(11)、かつてのドイツの判例におけるような矛盾(間接的な親族庇護は不可罰なのに間接的な自己庇護は可罰的であるという矛盾)はない(12)。しかし、そこで可罰性の根拠として持ちだされる「防禦の濫用」の実定法上の根拠は明らかでないし(13)、形式的な共犯従属性理論(従属性志向惹起説、不法共犯説)ないし責任共犯説から可罰性を説明すると、今度は片面的対向犯(被害者の関与)の不処罰(14)を共犯の処罰根拠から説明できなくな(15)(16)。むしろ、結論に疑いのない被害者の関与の不処罰をストレートに説明できる「惹起説」を採用し(17)、これを一貫させて、間接的な自己庇護は不可罰と解すべきように思われ(18)(19)
  なお、わが国でも、戦前の「改正刑法仮案」(一九四〇年)において、間接的な自己庇護が不可罰とされていたことに注意すべきである(20)。そこでは、「人ヲシテ自己ヲ蔵匿又ハ隠避セシメタル者」、証拠隠滅を「自己ノ行為ニ付刑事ノ処分ヲ免ルル為犯シタル」者は、「之ヲ罰セズ」とされていたのである(二二二条二項、二二七条(21))。ドイツで立法化の動きが本格化するのは第二次大戦後のことであるから、この時点では、日本はドイツよりも先を行っていたことになる。もっとも、戦後の改正刑法草案(一九七四年)では、このような規定は姿を消してしまった。そして今日にいたるまで、わが国では立法化は実現していない。しかし、いずれにしても、わが国にも立法化の動きがあったことは銘記されるべきであろう(22)

(1)  もっぱら共犯者のために証拠を隠滅したことを理由に証拠隠滅罪の成立をみとめたものとして、大判大正八年三月三一日刑録二五輯四〇三頁、広島高判昭和二九年六月四日高刑集八巻四号五八五頁。自己のために証拠を隠滅するときは、たとえそれが同時に共犯者の利益になるとしても、証拠隠滅罪を構成しないとしたものとして、東京地判昭和三六年四月四日判例時報二七四号三四頁。なお、共犯者の証拠の隠滅に関する学説の状況については、本稿はしがき(「はじめに」)注(1)参照。
(2)  関連する下級審判例として、浦和地判昭和四七年九月二七日刑月四巻九号一五六九頁がある。事案は、いわゆる過激派グループによる陸上自衛隊朝霞駐とん地自衛官殺害事件の取材活動に関連して、警衛腕章、自衛官用ズボンが右事件の重要な証拠であることを知りながらこれを受け取り、後日右事件の犯人の一人と誤認されることをおそれて友人に依頼して焼却した、というものである。これに対して本判決は、右腕章等は自己の刑事事件の証拠とはいえず、具体的事情において行為者に適法行為の期待可能性がなかったともいえないとして、被告人に証拠隠滅罪の成立をみとめた。たしかに、被告人は自分を犯人だと誤信していたわけではなく、ただ巻き添えになりたくないという理由で証拠隠滅を図ったのであるから、厳密には、ドイツにおいて問題となった錯誤事例とは異なる。しかし、だからといって、客観的に自己の刑事事件が存在していないことのみをもって(本判決では具体的な期待可能性の有無も検討されているが)、証拠隠滅罪の成立をみとめるのは妥当ではなかろう。本判決に対して、仲家暢彦「犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪」大塚仁・河上和雄・佐藤文哉・古田佑紀編『大コンメンタール刑法・第六巻』(第二版・一九九九年)三一四頁は、「自己の刑事事件がそもそも存在しないのであるから、当然の結論であろう」とコメントするが、これには疑問がある。
(3)  旭川地判昭和五七年九月二九日刑月一四巻九号七一三頁。
(4)  青柳文雄『刑法通論(3)各論』(一九六三年)一〇九頁、前田雅英『刑法各論講義』(第三版・一九九九年)四六一頁、木村光江『刑法』(一九九七年)四二一頁、森本益之「判批」判例時報一〇八二号(一九八三年)二一〇頁(判例評論二九五号六四頁)。なお、山口厚『問題探究刑法各論』(一九九九年)二九四頁以下。
(5)  この点を指摘するものとして、西田典之『刑法各論』(一九九九年)四三三頁、高橋則夫「共犯者による犯人蔵匿罪の成否」松尾浩也・芝原邦爾・西田典之編『刑法判例百選(3)各論』(一九九七年)二三五頁、松宮孝明「判批」甲南法学二五巻二号(一九八五年)五六頁など。
(6)  森本・前掲注(4)二一四頁注(14)、西田・前掲注(5)四三三頁、高橋・前掲注(5)二三五頁、松宮・前掲注(5)五七頁、伊東研祐『現代社会と刑法各論(第三分冊)』(二〇〇〇年)四五一頁。
(7)  森本・前掲注(4)二一三頁。なお、山口・前掲注(4)二九五頁。
(8)  第二章第二節(3)参照。
(9)  同様の結論をとるものとして、西田・前掲注(5)四三三頁、高橋・前掲注(5)二三五頁、松宮・前掲注(5)五九頁、伊東・前掲注(6)四五三頁、林幹人『刑法各論』(一九九九年)四六〇頁、柏木千秋「犯人蔵匿罪」法学セミナー九六号(一九六四年)五六頁、吉田敏雄「判批」法学セミナー三五一号(一九八四年)六三頁。
(10)  わが国の判例および学説の状況については、本稿はしがき(「はじめに」)注(3)(4)参照。
(11)  大判昭和八年一〇月一八日刑集一二巻一八二〇頁。なお、当時の刑法一〇五条は、親族間の庇護は「之ヲ罰セス」としていた。
(12)  わが国の学説をみると、自己庇護の教唆を可罰的とする見解は、親族庇護の教唆について刑法一〇五条(刑の任意的免除)の適用を否定する傾向がある。たとえば、団藤重光『刑法綱要各論』(第三版・一九九〇年)八九頁、大塚仁『刑法概説(各論)』(第三版・一九九六年)六〇一頁。他方、自己庇護の教唆を不可罰とする見解は、親族庇護の教唆について刑法一〇五条の適用をみとめる傾向にある。たとえば、西田・前掲注(5)四三七頁、林・前掲注(9)四六三頁、平野龍一『刑法概説』(一九七七年)二八五頁、曽根威彦『刑法各論』(新版・一九九五年)二八七頁。もっとも、自己庇護の教唆を可罰的としつつ、親族庇護の教唆について刑法一〇五条の適用を肯定する見解もある。前田・前掲注(4)四六二頁、四六六頁、四六七頁(しかし、このように解した場合、かつてのドイツの判例と同じような問題が生じる。たとえば、犯罪を行った夫婦がいて、夫が単独で夫婦の蔵匿を友人に教唆した場合、自己蔵匿については犯人蔵匿罪の教唆犯が成立して終わりであるが、妻の蔵匿についてはさらに一〇五条の適用により刑の免除が可能となる。自己庇護について刑の免除が不可能なのに、他人である妻の庇護について刑の免除が可能となるのは、不自然ではなかろうか)。
(13)  「防禦の濫用」にいう「防禦」を刑事訴訟法上の「防禦権」と解すると、刑法において自己庇護(自己蔵匿、自己の刑事事件に関する証拠の隠滅)が一般的に不可罰とされていることと矛盾する(第二章第二節(2)参照)。また、防禦の「濫用」という概念も不明確である。小松進「犯人自身が自己を蔵匿するよう教唆した場合の罪責」藤木英雄・板倉宏編『刑法の争点』(新版・一九八七年)一七七頁、藤永幸治「犯人が他人を教唆して自己を隠避させる場合の罪責」研修三七九号(一九八〇年)六七頁。さらに、伊東・前掲注(6)四五二頁、林・前掲注(9)四六一頁。
(14)  嘱託殺人罪における被害者の関与の不処罰など。判例では、非弁活動(弁護士法七二条違反)の依頼者が不可罰とされている(最判昭和四三年一二月二四日刑集二二巻一三号一六二五頁)。
(15)  従属性志向惹起説、不法共犯説ないし責任共犯説からは、たとえば、嘱託殺人罪における被害者の関与は可罰的となる。被害者の嘱託行為は正犯の不法(ないし責任)を惹起するものだからである(もっとも、この場合は「被害者は共犯になりえない」という別の根拠を持ち出して不処罰を説明することは可能である。実際、従属性志向惹起説および不法共犯説の論者はこのような説明方法をとっている)。
(16)  わが国の判例は、間接的な自己庇護については責任共犯説的な思考からこれを可罰的とし、被害者の関与については惹起説的な思考からこれを不可罰としているとみることができる。大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)一九四頁、同『共犯論再考』(一九八九年)四八頁参照。しかし、このような判例の姿勢は理論的に一貫性を欠き、妥当でないように思われる。
(17)  この点については、拙稿「必要的共犯についての一考察(二)」立命館法学二六四号(一九九九年)八一頁以下参照。
(18)  自己庇護の構成要件不該当性(第二章第三節参照)を承認し、「惹起説」を採用するならば、間接的な自己庇護は不可罰になる(第三章第二節(2)参照)。「惹起説」は、共犯者は他人(正犯)の不法に対してではなく、「自己の不法」(共犯者からみた構成要件該当結果の惹起)に対して罪責を負う、ということから出発する。つまり、惹起説とは、単なる違法結果の共同惹起にではなく、共犯者からみた構成要件該当結果の惹起に共犯の処罰根拠を求める見解である(ここには二つのポイントがある。第一に、惹起される違法結果は単なる違法結果ではなく「構成要件に該当する」違法結果でなければならないこと、第二に、それは「共犯者からみて」構成要件に該当する違法な結果でなければならないことである。刑法上の「不法」の存在は各則の「構成要件」によってはじめて明らかにされるのであるから、これは当然のことである)。そして、自己庇護が構成要件に該当しない、いいかえると、犯人蔵匿・証拠隠滅罪の構成要件該当結果は他人の蔵匿、他人の刑事事件の証拠の隠滅だとすると、犯人自身は犯人蔵匿・証拠隠滅罪の共犯になりえない。犯人自身は、他人の蔵匿、他人の刑事事件の証拠の隠滅という犯人蔵匿・証拠隠滅罪の構成要件該当結果を惹起できないからである。
  なお、わが国には、結果の他人性は責任要素であり、犯人自身も犯人蔵匿罪、証拠隠滅罪の構成要件該当結果を惹起できるとする見解がある。たとえば、山中敬一「『共犯の処罰根拠』論」刑法雑誌二七巻一号(一九八六年)一四二頁、同「刑事法学の動き」(拙稿「必要的共犯についての一考察」の紹介)法律時報七二巻一〇号(二〇〇〇年)九三頁、林・前掲注(9)四六〇頁、同『刑法総論』(二〇〇〇年)一一〇頁。ここでは、自己庇護も構成要件に該当する違法な行為と考えられている。ドイツでは、シュミットホイザー説がこれにあたる(第二章第三節参照)。しかし、U・ギュンターが指摘するように(第二章第三節参照)、犯罪主体から犯人が除外されている立法上の根拠(実質的根拠)と、立法化された後の犯罪体系上の根拠(構成要件該当性、違法性、有責性)とは区別して考えなければならない。たしかに、犯人も現実に司法の活動を妨害しうる(この意味での違法性、つまり実質的な違法性はある)。しかし、犯人には類型的に期待可能性が欠ける(実質的な不処罰の根拠)。そこで、立法者は、犯人自身による妨害から法益を保護することを断念し、犯人を犯罪主体からとくに除外したのである。つまり、犯人の期待不可能性(緊急避難類似状況)は、立法者が犯人に対して法益保護を断念するにいたった立法上の根拠(立法理由)なのである(この点を明確に指摘するものとして、U・ギュンターのほかに、Claus Roxin, Zum Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 371 がある)。そして、このようにして犯罪の主体から犯人が除外された以上、犯罪体系上の位置づけとしては、犯人の自己庇護はすでに構成要件に該当しない(実質的な違法性はあるが構成要件に該当する違法性はない)と解さざるをえない。なぜなら、違法行為類型としての構成要件とは、実質的に違法な行為のすべてを類型化したものではなく、立法者が(行為者の責任、処罰の必要性などを考慮して)とくに処罰に値すると考えた違法行為だけを類型化したものだからである(立法者による取捨選択の際に行為者の責任が考慮されることと、取捨選択の結果できあがった構成要件の要素が何であるかということとは、別である)。以上については、拙稿・前掲注(17)一〇〇頁以下、島田聡一郎「他人の行為の介入と正犯成立の限界(四)」法学協会雑誌一一七巻五号(二〇〇〇年)一一二頁注(59)のほか、井田良・丸山雅夫『ケーススタディ刑法』(一九九七年)二六七頁(井田)、山口厚『問題探究刑法総論』(一九九八年)二四〇頁、松宮孝明「『共犯の処罰根拠』について」立命館法学二五六号(一九九八年)八四頁注(20)、八九頁を参照。
(19)  ドイツでは、二五八条五項の成立によって、(処罰妨害罪における)間接的な自己庇護は判例上も不可罰となったが、これによって実務上重大な不都合が生じたとは聞かない。立法の見直しの動きもないようである(反対に間接的な物的自己庇護を可罰的とする現行二五七条三項二文に対して批判が強い)。これは、身代わり犯人を立てるような場合については、別罪(犯罪行為の仮構)で処罰できることにもよるのであろう。日本でも、判例で実際に問題となっている身代わり犯人の事例は、虚偽犯罪の申告(軽犯罪法一条一六号)の射程に含まれる。かりに身代わりを立てる場合は不可罰とすべきでないとしても、「他人」の蔵匿を要件とする犯人蔵匿罪によってではなく、虚偽犯罪の申告によって対処すべきあろう(たしかに法定刑は軽く、当罰性の高さに対応していないとの批判も予想される。しかし、かりにそうだとしても、それは立法の不備である。立法の不備を行為者に不利益な方向で解決することは許されない)。
(20)  この点を指摘するものとして、中山研一『刑法各論』(一九八四年)五三二頁注(1)、同『刑法の論争問題』(一九九一年)二三三頁注(4)。
(21)  より詳しくはつぎのとおりである(罪名および傍点の付記は筆者による)。
第二二二条(犯人蔵匿)  (1)  罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者、罰金以上ノ刑ニ該ル罪ノ被告人若ハ被疑者又ハ奪取セラレ若ハ逃走シタル者ヲ蔵匿又ハ隠避セシメタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
(2)  親族、戸主又ハ同居ノ家族本人ノ利益ノ為前項ノ罪ヲ犯シタルトキハ之ヲ罰セズ人ヲシテ自己ヲ蔵匿又ハ隠避セシメタル者亦同ジ
第二二六条(証拠隠滅)  (1)  他人ノ刑事事件ニ関スル証拠ヲ湮滅シ若ハ偽造、変造シ又ハ偽造、変造ノ証拠ヲ使用シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
(2)  証人ヲ蔵匿又ハ隠避セシメタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス証人逃避シタルトキハ二年以下ノ懲役又ハ三百円以下ノ罰金ニ処ス
(3)  被告人又ハ被疑者ヲ陥害スル目的ヲ以テ前二項ノ罪ヲ犯シタル者ハ十年以下ノ懲役ニ処ス
第二二七条  親族、戸主又ハ同居ノ家族本人ノ利益ノ為本章ノ罪ヲ犯シタルトキハ之ヲ罰セズ自己ノ行為ニ付刑事ノ処分ヲ免ルル為犯シタルトキ亦同ジ
  我妻栄編集代表『旧法令集』(一九六八年)七四一頁参照。仮案では、犯人蔵匿罪は逃走罪とあわせて第八章に、証拠隠滅罪は偽証罪とあわせて第九章に規定されている。なお、第二二七条にいう「本章」とは第九章を指しており、ここには偽証罪も含まれるから、偽証罪についても親族庇護および自己庇護は不可罰とされていたことになる。本稿の課題からは離れるが、ここも注目すべき点である。
(22)  間接的な自己庇護を不可罰とした改正刑法仮案の規定がどのようにして起草され、戦後の草案でそれはなぜ消滅してしまったのか。これらの点を解明することも今後の課題である。
  本稿は、平成一一、一二年度(一九九九、二〇〇〇年度)科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。

[訂正とお詫び]
  本誌二七〇号掲載分のつぎの箇所につき、以下のように訂正いたします。
      四六〇(八八)頁一四行目「四二三頁内田」→「四二三頁、内田」
      四六〇(八八)頁一九行目「齋藤」→「齊藤」
      四六二(九〇)頁六行目「前者を扱ったものとして」→「前者にかかわるものとして」
      四六八(九六)頁一二行目「S.S. 5f.」→「S. 5f.」
      四六八(九六)頁一三行目「Ggemeinen」→「Gemeinen」

[追記]
  脱稿後、松原芳博「処罰妨害罪における一身的処罰阻却事由の根拠と適用範囲ードイツ連邦通常裁判所刑事第二部一九九七年一二月五日判決(BGHSt 43, 356)ー」九州国際大学法学論集七巻一号(二〇〇〇年)一九〇頁に接した。あわせて参照されたい。