立命館法学 2000年6号(274号) 137頁




戦後日本の戦争責任論の動向



赤澤 史朗


 

は  じ  め  に


  今日の日本では、日本の戦争責任に関する著作・論稿・記録・資料集などの出版は、毎年非常な数に達し、正確なリストを作成することが困難なほどになっている。ところがそれにもかかわらず、戦後日本の戦争責任論の歴史的推移や思想動向を跡づける研究は、なぜか僅かの数に止まっているといってよい(1)
  こうした中で、一九九六年に執筆された石田雄「戦争責任論五〇年の変遷と今日的課題」(石田雄『記憶と忘却の政治学』明石書店  二〇〇〇年所収)は、敗戦後から一九九〇年代までの戦争責任論の展開過程を、五期に分けて論じた唯一の包括的な業績である。その意味で、もしこの問題を論じようとすると、石田論文について言及せざるを得ない。筆者から見て石田論文の特徴を一言で言えば、国際的に連帯する市民運動の立場から、戦後日本の戦争責任論の動向を整理したものといえよう。しかしこの石田論文では逆に、石田氏の共鳴する市民主義的潮流とは異質の戦争責任論の流れ、例えばマルクス主義の系統であるとか、アジア主義的な潮流であるとか、キリスト教のそれであるとかについては、調査の不備も加わって充分に取り上げられなかったり、時には無視される傾向にあったように思う。しかしこれらの諸潮流も、戦後のその時々で重要な問題提起をしてきたというのが、筆者の見方である。
  石田雄論文のもう一つの特徴は、戦後日本の戦争責任論の流れを、「国民国家」とその「外部」からの挑戦という図式に従って整理している点である。石田雄氏のいう「外部」とは、文字通りの国外からの批判もあれば国内での非エスタブリッシュ的部分の声というのも含まれている。この回復しがたい戦争被害を受けた「外部」の視点に立って、そこから戦争責任の問題に接近するという視角は、たといどのような立場であれ「内部」の世界ににいる限り、そこからは見えにくい人権侵害の問題があることを、鋭く指摘する面がある。その意味で大変重要なポイントなのだが、しかし逆にそこで批判される「日本」は、その内部に対立軸を孕んだものとしてでなく、たといさまざまの異なる傾向があったとしても、それらはすべて「国民国家」にからめ取られるものとして理解される傾向がある。だが、このような理解に問題はないのか。
  論文の最初の部分で石田雄は、日本における戦争の「記憶の共同体」として、「靖国神社による「英霊」の顕彰」をあげて、これを批判するものとして「外部」からの「挑戦」を位置づけている。しかし筆者の見解によれば、日本における過去の戦争の記憶の仕方には、鋭い分岐・分裂が見られるのであり、そこに世界における日本のそれの独自の特徴が見いだせるのである。自国と自国民が第二次世界大戦をどのようにくぐってきたのかについては、アメリカであれフランスであれ、中国であれ韓国であれ、その国内では政治的な立場の違いはあれ、国民の間でそれなりに共有できる「記憶の共同体」が形成されているように思える。しかし日本は、それが未形成である点に最大の特徴があるのであり、石田のあげる「靖国神社による「英霊」の顕彰」は、決して国民全体の戦争の記憶を覆いつくすものとはならず、むしろ日本では戦後一貫して戦争の記憶の仕方をめぐる分裂と対立が、論争のテーマとして存在し続けていたのである(2)
  ここでは以上のような批判をふまえながら、敗戦後から一九九〇年代中葉までの戦後日本の戦争責任論の動向を四期に分けて整理し、近年の戦争責任論の爆発的発展がいかなる経過の中で準備されてきたかを考えてみたい。ただし日本の戦時期に対する歴史研究や叙述に関しては、戦争責任問題をめぐる論争と明確に結びついている歴史研究・叙述にその対象を限定し、一九八九年からの第四期については、その概括的特徴を述べるに止めたい。またその整理に当っては、戦争責任の追及を促す契機や、戦争責任論を立論する主体の性格とその議論のタイプに留意したい。

(1)  本文中で述べる石田雄論文を除いた、戦後の戦争責任論の動向全体を整理した近年の先行研究は、以下の通り。
      その第一は、「東京裁判・BC級戦犯裁判・戦争責任関係主要文献目録」(『思想』一九八四年五月号)中の「(4)戦争責任」(赤澤史朗執筆)であり、一九四五年〜一九八三年までの三八年間を三期に分けて、それぞれの時期の特徴を記すとともに、一点一点の文献についての簡単な解説を付したものである。これは80年代初頭までの主要な戦争責任論を、ある程度フォローしているとは思うが、あくまで思想的著作が中心で国民意識の動向にまでは言及されておらず、また執筆された時期から一九八〇〜九〇年代の論議の多くが範囲外となっている。
      その第二は、吉田裕『日本人の戦争観』(岩波書店  一九九五年)であり、これは敗戦後から一九九〇年代までを六期に分けて「日本人の戦争観」の推移を論じた著作であり、戦争責任論をとり立てて扱ったものではないが、それぞれの時期の戦争責任論に関しても言及している。本書は、戦争責任に関する国民意識の変化について論じている点が優れた特徴と言えようが、そのテーマからして当然であるが、多様に展開している戦争責任論全体の動向を見渡したものではない。
      その第三は、荒井信一『戦争責任論』(岩波書店  一九九五年)の第五章「戦後史の転回と戦争責任問題」であり、荒井氏はかつて一九五〇年代末からの主体的戦争責任論を担った論客の一人でもあった。本章は、主に戦後日本の国際関係において戦争責任問題がいかに処理されてきたかを論じたもので、その中で植民地支配の「帝国意識」の克服の課題との関係で戦争責任論にも言及がある。しかし概して六〇年代以降の戦争責任論については、十分論究されていない。
(2)  石田氏と筆者の間での討論は、石田氏が「(追記)その後の研究状況と政治状況」(前掲『記憶と忘却の政治学』)の中で述べているように、一九九六年九月の合評会で一度おこなっている。その時に述べた疑問に基づいて、戦後の戦争責任論の流れを一つのスケッチとして示してみたのが今回の論稿である。なお本稿は、二〇〇〇年一二月一五日立命館大学で開催された日韓共同シンポジウム「戦後補償と韓国の行政法・女性法」での報告を基礎としたものである。


一、戦争責任論の沸騰と退潮
(第一期一九四五〜一九五四年)


  「戦争責任」という言葉に、日本人の多くは敗戦によって事実上初めて接したと言ってよい。戦争や植民地の獲得は国家がおこなう当然の業であるという一九世紀的な戦争観を、敗戦までの多くの日本国民は抱いていたからであり、それがいかなる種類の戦争であれ、戦争をすることの責任を問われるということ自体が予想外であったからである。とはいえ「戦争責任」の用語は、急速に日本人の間に広まっていく。それは一方で連合国側から、東京裁判・BC級戦犯裁判・公職追放の実施という形で、法的・政治的・行政的に日本人の戦争責任を問う動きが急速に進行していったからであり、他方で国内でも大衆運動によって、戦時中の不正や人権無視の行為、戦争協力の発言が暴露され、政治的・思想的にその責任の追及がおこなわれたからである。とはいえこの時代の戦争責任追及の主体は、何よりも外からの力である占領軍・連合国の側にあった。そしてその占領軍の戦争責任追及に対する日本人の批判は、検閲によって禁止されていたのである。その意味で日本人による責任追及の動きは、全体としてみれば占領軍に対する共鳴板という面を持っていたといえる。
  この時点で「戦争責任」の用語は、二つの異なる意味で用いられていたと言えよう。その一つは、連合国によって外から追及される戦争犯罪行為の意味であり、そこでは日本国民は加害者の一人として、その責任を一方的に裁かれるかも知れない立場に立っていた。もう一つは、日本国民に被害を与えた国家や国家指導者の責任の意味であり、そこでは敗戦という事態に指導者に「だまされた」と反撥した国民は、戦時中の抑圧や欺瞞に対する被害者としての立場から責任を追及する地点に立っていた。戦争責任と言うことに対する日本人の考え方は、この二つの「戦争責任」に対して、どのようなスタンスを取るかによって大きな違いを見せたと言える。
  この点に関して共産党を中心とする左翼勢力は、国家や天皇を含む指導者の責任を、政治的に徹底して追及する姿勢をとっていた。その戦争責任追及は、戦後初期の左翼の大衆運動の起爆剤となり、追及の鉾先は時に町内会長や教師などの末端指導者にも及んだ。共産党がこうした徹底的な責任追及の立場に立てたのは、戦争に対し唯一「手の汚れていない」共産党にとって、戦争責任の問題はあくまで自己には降りかからない他者の問題であったからであり、しかもその自己の立場は連合国と一致するものと考えられていたためである。つまりそこには、二つの「戦争責任」に対するジレンマの意識は稀薄であった。戦争責任追及は、現在の地位からの退陣や公職追放を促す大衆運動としておこなわれ、また共産党や共産党系の団体機関誌紙だけでなく、新聞の『民報』、カストリ雑誌の『真相』誌上などでも展開されている。
  この種の責任追及は、単に政治的指導者の範囲に止まらず、『文学時標』で戦争協力した文学者たちの行動が摘発・糾弾され、『新日本文学』で文学者の戦争荷担が批判されたように、知識人を含む広い範囲で着手されていた。しかしその追及には政治主義的な面があり、かつての共産主義運動からの転向・脱落と戦争責任の問題が、しばしば区別されずに糾弾・追及の対象となっていた。むろん運動からの転向は、何らかの程度での戦争協力と結びついていたのは事実であるが、両者の問題は別物といえよう。その点で『潮流』の特集号「日本ファシズムとその抵抗線」(一九四八年)は、マルクス主義からの転向理論である生産力理論を、戦争協力でない独自の抵抗の一部と位置づけることによって、この見解への批判と論争を呼び起こした。
  また共産党を中心とする戦争責任追及は、現在の支配体制や支配層が戦前からそのまま連続しているという認識を前提としていた。しかしこの点では、戦後改革を通じての支配層の再編の問題が正確に認識されていたとはいい難かった。この戦前・戦後の支配体制と支配層の連続と断絶の問題は、その後の戦争責任認識でも争点となる点であった。
  なお共産党とその周辺でも、主に『人民評論』による「中国派」の知識人からは、南京事件など日本軍の戦争犯罪を紹介しつつ、アジア諸民族に対する、支配層だけではない日本国民の戦争責任を指摘し、その反省の必要が提起した意見も出されていた。この傍流の流れは、戦後日本の中でその後も時々に浮上する小さな流れとして存在し続ける。
  自由主義的知識人の場合には、その中に公職追放・教職追放の嫌疑を掛けられたり、実際にその対象とされる者も存在したが、戦時中に軍部支配層による抑圧感を受け続けていたことから、概して自身の戦争協力についての責任の自覚は乏しかったといえよう。彼らは占領軍に対しては、その西欧的・人道主義的な側面への共感と、占領軍が日本のナショナルな自主性を損なっていることへの抵抗感という、二つの感情を抱いており、この相反する二つの感情は、占領軍の戦争責任追及に対する態度でも同様であった。つまりそこでは、占領軍の戦争責任追及が普遍的理念に立脚していることを承認しながら、占領軍や左翼勢力の具体的な責任追及の仕方には違和感を抱き、それに同調しなかった。
  そのため自由主義的知識人の多くは、政治的・法的な責任追及の動きには消極的であったが、逆に以上の視点からその一部に、西欧的・普遍的理念に照らして自身を含めた日本人の自主性の欠如を問う、内面的・倫理的戦争責任論の議論が見られた。「だまされた」と敗戦を了解する日本人の、「だまされる」ような自主性のなさの責任を指摘した伊丹万作「戦争責任者の問題」(一九四六年)や、日本の政治指導者の主体性のなさと日本政治の「無責任の体系」を指摘した丸山真男「軍国支配者の精神形態」(一九四九年)などは、自由主義的知識人の提起した内面的・倫理的戦争責任論の代表であった。
  なお自由主義者の中には天皇の道義的責任を指摘して、その退位を主張する意見も多かった。南原繁の貴族院本会議での演説(一九四六年)や三好達治「なつかしい日本」(一九四六年)は、天皇の道義的退位論の典型といえよう。
  この時期の戦争責任論には、専ら法的・政治的責任論の方が優越していたが、戦後の多様な戦争責任論の原型は、ほとんどこの時期に出そろっているといえよう。そのうち法的・政治的責任論の一極は、もはや戦犯裁判の終了した後に出された戒能通孝「極東裁判」(一九五三年)であろう。この中で戒能は、あらゆる革命には新たに形成された権力を旧支配階級の反革命策動から守るために、革命裁判の実施が必至となる、そうした革命裁判は、従って常に事後法による裁判とならざるを得ない、このように考えると、第二次世界大戦は世界の民主主義勢力のファシズム諸国に対する民主主義革命戦争なのであり、その革命戦争の一部として、東京裁判は事後法による裁判として実施されたのだ、という理解を示している。ここには、戦争責任追及に関する「政治」の優越に対する確信が見られる。これに対し大熊信行『国家悪』第一部(一九四八年)は、東京裁判などに見られる連合国の法理が、上官の命令の存在ということが下級実行者の責任を免除するものでないという立場に立脚していることに着目する。そしてここには、たとえ国家が強制力を持って戦争犯罪の実行を迫っても、個人は普遍的人類的規範に立脚してそれを拒否しなければならない義務を担っているのだ、という考え方が示されているとするのである。その上で大熊は、戦争責任追及の最重要なものとして、国家を越える個の自立性を日本人に課していることを見出すのであった。こうした戒能と大熊の議論は、東京裁判などの連合国の戦争責任追及を、形の上では全面的に正当なものとして肯定した議論であった。
  しかし東京裁判・BC級戦犯裁判は、一部に南京事件などの実態を知らせる役割は果たしたものの、それが裁く側から日本人も中立国人も排除しておこなわれた一方的な裁判であったこととともに、起訴・判決のそれぞれに問題を孕んだ裁判であった。そのためそれらの裁判は、日本人の多くに戦争への反省を生み出すキッカケとはならなかったといえよう。東京裁判の場合でいえば、それは右翼的な部分から見れば、全く不当な「勝者の裁き」に他ならず、左翼的な部分からは最大の戦争責任者である天皇の戦争責任を曖昧にした裁判と考えられ、多くの保守的な国民からは広田弘毅の死刑に代表されるような量刑不当を含む裁判と受け取られていた。つまり東京裁判を丸ごと肯定する世論は、日本人の中には右から左まで、それぞれ異なる政治的理由からではあるが、ほとんど存在しなかったのである。
  やがて占領軍は、対日占領政策の転換以来戦犯裁判には消極的となっていく。国内で戦争責任追及の先頭に立っていた共産党は、朝鮮戦争とともに始まったレッド・パージと逆コースの風潮の中で急速に力を失った。そして講和後には、アメリカの原爆投下やソ連の日本軍人抑留など、日本を裁いた連合国の戦争犯罪を示す事実も明らかにされ、BC級戦犯の被告からは裁判が杜撰な手続きのものであったことを示す手記も多く公表された。こうした中で日本人の中には、戦犯裁判ということに対する強い不信感が広がっていったのである。

二、主体的戦争責任論の提起
(第二期一九五五〜一九六四年)


  日本の外からの戦争責任追及の動きがひとまず終息した一九五〇年代の半ばから、日本国内の論壇上で、戦争責任を自主的に問題とする動きが生じてくる。そのキッカケとなったのはスターリン批判であり、論議の主体として新たに登場してきたのは「戦中派」の知識人たちである。
  スターリン批判がなぜ戦争責任論の展開に関係するかというと、前述のように戦後第一期の戦争責任の追及を担った国内の勢力の中心は、何より日本共産党であったからである。スターリン批判の開始は、第一期に戦争責任追及を中心的に担った共産党の思考方法や追及姿勢の問題点を明らかにするものであった。そしてこの時期にジャーナリズムの世界に出現した「戦中派」とは、学徒出陣組かそれより少し若い世代の知識人層であった。彼らより年上の、敗戦直後に論壇・文壇の世界に登場した新人たちは、戦争の開始以前にすでにマルクス主義や自由主義など、軍国主義に対する批判的思想を学んでいた、敗戦直後の時期に三〇歳代の知識人層であった。しかしそれより若い「戦中派」は、思想統制の進行のためその種の批判的思想に接する機会もないまま、戦争の渦中にたたき込まれて大きな犠牲を払い、戦後になって初めてマルクス主義や自由主義などに触れた世代の人たちであり、自身の戦争体験に強いこだわりを持つ世代であった。
  「戦中派」に属する吉本隆明・武井昭夫の『文学者の戦争責任』(一九五六年)は、第一期に文学者の戦争責任を追及した日本共産党系の民主主義文学者に、戦時中に戦争協力の事実があったことを暴露したもので、自己批判を欠いたまま他人の戦争協力を追及した民主主義文学者たちの姿勢を批判していた。また丸山真男「戦争責任論の盲点」(一九五六年)は、これまで戦争責任を追及されてこなかった天皇制と共産党の戦争責任(共産党については、戦争を阻止できなかった前衛党としての政治責任)を追及したものである。こうした批判や追及の仕方には、共産党の政治主義に対し別の政治主義で対抗するような面もあったが、この種の批判の意義は、自分だけは戦時下のあらゆる責任から免れているという、従来からの共産党の主張のもつ倫理性の弱さを突いた点にあった。
  こうした折に講座派系の歴史学者(戦前の『日本資本主義発達史講座』を継承したマルクス主義系の歴史学者)である遠山茂樹・今井清一・藤原彰によって著された『昭和史』(一九五五年)は、逆コースの中で氾濫した旧軍人らによって書かれた「戦記もの」の無反省さを批判し、共産党を戦時下で抵抗する国民の極点として位置づけて叙述した現代史であった。この『昭和史』に対しては、亀井勝一郎(『現代史の課題』一九五七年)・松田道雄(『現代史の診断』一九五七年)から批判が寄せられ、それに反論した講座派系の歴史学者との間での論争となる。いわゆる『昭和史』論争である。
  『昭和史』論争の論点は多岐にわたるが、戦争責任論との関連でいえば、一つには国民の戦争体験論と戦争責任論の交錯が見られたことである。そこでは、国民の戦争体験の実感と切り離された戦争責任論は、充分な説得力を持たないのではないかという観点が出されていた。論争で提起されたもう一つの観点は、『昭和史』では支配層や財閥の戦争責任は論じられるものの、中国侵略に対する日本国民の戦争責任という観点が欠けているという批判である。『昭和史』論争は講座派系の歴史学者に一定の衝撃を与え、講座派系の歴史学自体の転換をもたらす(講座派を継承しつつ、その批判者の丸山真男や竹内好の視点を取り込んだ「戦後歴史学」は、これを機縁に形成されたともいえる)とともに、その後の戦後歴史学からの戦争責任研究への道を開く契機となった。
  なお、この当時ベストセラー小説となった五味川純平『人間の条件』一〜六(一九五六ー五八年)には、中国での日本軍の残虐行為の事実が多く記述されており、また中国において戦犯として裁かれ釈放された日本軍人の告白を記した『三光』(一九五七年)も刊行され、日本国民の間でも日本軍が中国で犯した戦争犯罪の実態が少しずつ知られるようになっていた。また従来から日本人のナショナルな主体性の欠如を論じていた竹内好は、一方で「近代の超克」(一九五九年)を著して戦時下の国民の戦争協力の中に抵抗の契機を見出そうとするとともに、「戦争責任について」(一九六〇年)で中国に対する戦争責任の自覚を通しての日本人のナショナルな主体性の創出を提起している。戦時下の民族主義の再検討とアジアに対する戦争責任の問題は、竹内の提起を媒介に広く論じられるようになった。
  この時期、竹内の提起も受けて、「戦中派」世代からは橋川文三『日本浪漫派批判序説』(一九六〇年)のように、戦時下の自己の精神史を客観的に跡づける仕事が生まれていた。こうした仕事は、橋川文三『歴史と体験』(一九六四年)のように自己の戦争体験と戦争責任の問題を突き合わせていこうとする動きに発展していく。「戦中派」知識人の戦争体験へのこだわりは、『昭和史』論争の論点を具体的に発展させる役割を果たすものであった。そしてこうした一連の流れの中で、思想の科学研究会(『会報』一九五七年、『思想の科学』)や雑誌『近代文学』(一九五七年)、そして叢書である『現代の発見』シリーズ(特に第三巻「戦争責任」一九六〇年)においては、日本人が自主的に戦争責任問題にいかに対処したらよいか、その方法や視角は何かをめぐって集中的な討論がおこなわれている。
  なお、思想の科学研究会編『共同研究転向』上中下(一九五九ー六二年)は、知識人を中心とする転向の問題を直ちに戦争責任問題として扱うのではなく(むろん必要ある場合には、戦争責任問題とも結びつけて)、独自に検討した労作であった。さらに『文学』の特集「戦争下の文学・芸術」一〜四(一九六一ー六二年)は、情報局、戦時下の文学者と文学団体、映画・演劇・歌曲などに関し、戦争動員と戦争協力の諸相を掘り起こしてみせ、第三期の戦時文化の実証的研究への道を開いたのであった。
  第二期の戦争責任論は議論のタイプとしては、法的・政治的責任論が優越していた第一期の議論に対する批判ということもあって、専ら内面的倫理的責任論の方が優位に立っていた。それはなぜ戦後の日本人の中に、戦争責任の自覚が深まっていかないのか、またそのことは何を意味するのかを問い、日本人が主体的に戦争責任を受け止める道を探ろうとしたものであった。その意味でこれらの議論は、具体的な戦争犯罪などの事実をめぐっての論争というより、主として戦争責任問題を捉える視点についての論議が中心であった。またそれは活溌であったとはいえ、専ら論壇知識人の間での論議であった。しかしこの時期に自主的・主体的に戦争責任問題を深めようとし、戦争協力の諸相に関し着実な実証研究に着手したことは、その後に続く戦争責任論議再出発の起点となった。

三、天皇と国民の戦争責任と「戦後責任」
(第三期一九六五〜一九八八年)


  第三期は、一九八二年の歴史教科書問題を境に前半・後半期に分割できるが、第三期全体を通して一貫した傾向も看取される。第三期は先行する第二期の問題提起を受けて、頂点にある天皇と底辺の国民の戦争責任や、その両者の中間にありながら広義には国民の側に位置する諸集団(宗教団体、教育団体、マス・メディアなど)の責任が、具体的実証的に論じられるようになった時代であった。また日本軍の南京事件やアメリカの原爆投下など戦争犯罪の問題が、やはり実証研究に基づいて取り上げられるようになった時期でもあった。一言で言えば、戦争責任問題として取り上げる範囲が広がり、その広げられた問題意識に即して過去の事実の掘り起こしが大きな位置を占めた時期といえる。別の言い方をすれば、第二期が理論的反省の時期とすれば、第三期は、少なくとも戦争責任問題としてはこれまで取り上げられてこなかった事実(その中には、従来からある程度知られていた事実も多く含まれている)を、史料に基づいて実証していくことによって問題提起をするという手法が、広く見られた時期であった。
  この第三期に議論の新たな担い手として登場してくるのは、キリスト教を中心とする宗教者であり、「戦中派」世代よりさらに若い、戦時中の国民学校生徒であった「少国民」世代であった。また後半期(一九八二年〜)からは、女性史研究やフェミニズムの流れ、さらには全く戦争体験を持たない純粋戦後派世代もこの議論に参加してくる。戦争責任の処理を怠っていた責任という意味で「戦後責任」という言葉が広まってくるのも、この純粋戦後派の登場と関連していた。また第三期から論者には、これまでのような知識人や学者だけではなく、一部に自己の戦争体験を引っ提げた庶民が登場してくるが、その傾向は特に後半期になって目立っている。
  まずこの時期に新しい担い手として登場したキリスト教を中心とする宗教者に関していえば、一九六七年三月、日本のキリスト教プロテスタント派最大の日本基督教団は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を発表し、第二次世界大戦下における教団の戦争協力の「罪」を「告白」した(「戦責告白」と略称される)。この「告白」はその後、機関誌『福音と世界』誌上での何回にもわたるキリスト教の「戦争責任」に関する特集号(「教会の戦争責任」一九六七年、「戦争体験と戦争責任」一九六八年、「戦責告白は何をもたらしたか」一九七一年など)の発行や、渡辺信夫『戦争責任と戦後責任』(一九七二年)、笠原芳光・森岡巌『キリスト者の戦争責任』(一九七四年)、さらには無教会派のキリスト教徒の戦争に対する姿勢とその自己総括を問題とした藤田若雄編『内村鑑三を継承した人々』上下(一九七七年)などの著作を生み出していった。戦時下にキリスト教の諸団体とその信者たちは、戦争協力への加担が見られたとはいえ、おしなべて圧迫を受ける立場にあったと言えるが、ここには相対的・客観的には「罪」の軽い者ほど、かえってその「罪」を深く自覚するという逆説が見られる。またこのキリスト者の「戦責告白」は仏教者にも衝撃を与え、市川白玄『仏教者の戦争責任』(一九七〇年)や中濃教篤編『講座日本近代と仏教』第六巻「戦時下の仏教」(一九七七年)のように、仏教教団の一部からも自教団の戦争責任問題を考えるきっかけとなった。
  キリスト教関係者を始めとする宗教者の戦争責任論は、一九七〇〜七五年にかけて連続五回にわたり国会に上程された靖国神社国家管理法案(七五年に審議未了廃案)への反対運動を通じて、さらに戸村政博『靖国問題と戦争責任』(一九七三年)のように、天皇や国家神道への批判へと先鋭化する傾向を示した。ただしそこでは、追求さるべき純粋な信仰のあり方を基準に、戦後日本においても天皇制の精神構造があたかも大衆の中に不変のまま持続しているという認識が押し出される傾向があり、その批判には観念性が強い面もあった。
  もう一つの新手の登場者である「少国民」世代は、戦時下の軍国主義教育から敗戦後の民主教育への急旋回の中で、時代に合わせてするりと転向した教師や両親などの大人たちへの、強い不信感を抱かされた世代であった。山中恒『ボクラ少国民』第一巻〜第五巻(一九七四ー八一年)、長浜功『教育の戦争責任』(一九七九年)、桜本富雄『少国民は忘れない』(一九八二年)など、彼らは戦時下の教員、教育学者、児童文学者など、広義の教育・児童文化関係者の戦争責任を追及する仕事をおこなうが、彼らの追及の底には、戦争中には子供たちに戦争協力を強いながら、敗戦後いち早く民主主義の時代に適応した大人の世代への強い不信感があった。その仕事は、戦時下の教育政策や児童文化関係者の発言に関する資料を丹念に収集して暴露する点に特徴があったが、反面その責任追及の論理は、いわば「軍国少年」であった過去の自身の体験に立脚してその体験を絶対化する面があり、戦争協力の論理の持つ諸種の側面への理解に乏しい、やや視野の狭い面があった(こうした責任追及の方式は、あるいは理念的なものから出発するという、教育学のもつ特徴に基づくものかもしれない)。
  とはいえ児童文化以外でのジャーナリズムや文化界の戦争責任の研究も、「少国民」世代による追及とは別に、この時期進んでいる。そこでは一方的な糾弾に終わらず、個々の芸術家やその作品に即して戦争協力・荷担の問題が追究されていた。高崎隆治『戦争文学通信』(一九七五年)は、戦時下に書かれた多くの文章の発掘を通じて無名の人たちの抵抗の可能性を指摘するとともに、これとは逆に職業作家たちの戦争協力ぶりを鋭く批判したものである。菊畑茂久馬『フジタよ眠れ』(一九六八年)は優れた画家である藤田嗣治の描いた戦争画の問題を論じて、藤田嗣治の戦争協力の持つ二面性を指摘し、尾崎秀樹『旧植民地文学の研究』(一九七一年)は、日本人文学者や朝鮮人・中国人文学者と戦争や植民地支配との複雑な関係を論じている。またかつての『昭和史』論争での議論を受け止めて、戦後歴史学の立場からは江口圭一『日本帝国主義史論』(一九七五年)が、満州事変期の排外主義の形成を説明して、拝外主義に走ったジャーナリズムと国民の責任を論じていた。
  第三期の出発点をなすのは、一九六五年日韓条約の締結と北爆を契機とするアメリカのヴェトナム戦争の拡大であり、日本国内でのヴェトナム反戦運動の発展であった。これをきっかけに、一方で日本の植民地支配や戦争犯罪の実態と責任を問う研究が進んでゆくとともに、他方で太平洋戦争末期のアメリカ軍による無差別爆撃の実態や原爆投下の責任を究明する研究が生じてくる。
  植民地支配については、日本朝鮮研究所や朝鮮史研究会を中心に研究が発展するが、玉城素『民族的責任の思想』(一九六七年)は植民地支配の責任を問うたものであった。日本軍の戦争犯罪についての実証研究は、資料の隠滅などの困難な条件を越えてこの時期に発展する。南京事件については、洞富雄『南京事件』(一九七二年)が膨大な資料を踏まえて南京事件の実態に迫ろうとし、さらに南京事件関係の資料集として洞富雄編『日中戦争史資料』第八・九巻「南京事件」(2)(3)(一九七三年)も発行している。また本多勝一は、南京事件など日本軍の残虐行為に関する中国での聞き取りに基づく『中国の日本軍』(一九七二年)を出版し反響を呼んだ。この南京事件に関しては一九七五年代中葉に、南京事件を否定しようとする山本七平・鈴木明らとこれに反論する洞富雄・本多勝一との間で、延々たる論争が繰り広げられている。また細菌戦部隊であり捕虜の人体実験をおこなった七三一部隊についても、高杉晋吾『日本医療の原罪』(一九七三年)、常石敬一『消えた細菌戦部隊』(一九八一年)が書かれ、さらに森村誠一『悪魔の飽食』(一九八一年)によって七三一部隊の存在は広く一般にも知られるようになった。さらに日本の阿片密輸・密売を追及した江口圭一『日中アヘン戦争』(一九八八年)や、日本軍の毒ガス戦の研究も生じてくる。
  アメリカ軍の戦争犯罪の問題を論じたものとして、原爆投下についてはアメリカの修正主義学説を受けて西島有厚『原爆はなぜ投下されたか』(一九六八年)が、また米軍の無差別爆撃については『東京大空襲・戦災史』第一〜五巻(一九七三〜七四年)が代表的なものである。また前田哲男『戦略爆撃の思想』(一九八八年)は、民間人の無差別爆撃に帰結する戦略爆撃の起点に、日本軍の重慶爆撃があったことを指摘している。
  この時期の新たな研究の一つに、天皇の戦争責任問題を取り上げた仕事がある。これは天皇の訪欧・訪米など、日本の経済大国化に伴う天皇の役割の増大への危機感と、前述の靖国神社国営化法案などへの批判の中で登場したといえるが、この分野での実証的に優れた仕事は、主に旧講座派系のマルクス主義の歴史学者とキリスト教関係者から生み出された点に特徴があった。旧講座派系のマルクス主義の歴史学者の研究としては、『木戸幸一日記』『杉山メモ』などこの時期に公刊された新資料を駆使した、井上清『天皇の戦争責任』(一九七五年)が最初の仕事といえよう。そしてこれに続いて、天皇制国家機構の機構的特質をふまえて、天皇を含む宮中グループの特質と責任を明らかにした藤原彰『天皇制と軍隊』(一九七八年)が公刊される。この種の研究は、戦時中の天皇に政治的・軍事的実権がなかったと思われていた戦後の「常識」を実証的にうち破り、またしばしば「穏健派」と位置づけられていた宮中人脈の戦争責任を問題とするものであった。キリスト教関係者の研究としては、敗戦前後の時期の連合諸国からの天皇と天皇制への厳しい眼と、天皇と天皇制の処遇をめぐっての対抗を紹介した武田清子『天皇観の相剋』(一九七八年)がある。
  しかし以上の学者の仕事とは別に、自己の苛烈な戦争体験から出発して天皇の戦争責任を追及する著作というのも、この時期に出現してくる。飢餓の南方戦線を体験した奥崎謙三『ヤマザキ、天皇を撃て!』(一九七二年)や、戦艦武蔵の少年兵だった渡辺清『私の天皇観』(一九八二年)はその代表といえよう。庶民の戦争体験に基づく天皇の戦争責任追及の流れも、細い流れとして戦後一貫して存在していたもののようであり、それがこの時期になってジャーナリズムの世界に登場してきたのであった。
  これに対し「戦中派」世代が、自己の戦争体験を踏まえて戦争責任の問題を考え詰めていこうとした労作もこの時期に見いだせる。学徒出陣から生き残った安田武『人間の再建』(一九六九年)、吉田満『戦中派の死生観』(一九八〇年)は、「戦中派」知識人の良心のあり方を究明しその責任を問題にしたものであった。しかしこの時期から、「戦争体験」に固執する「戦中派」世代と、「戦中派」世代を含めた日本人の「戦争責任」を追及するより若い世代との間で、しばしば対話や共感が欠け亀裂が拡大していく事態が進行していくのであった。
  一九八二年、歴史教科書問題が発生する。検定前の歴史教科書原稿で日本の「侵略」と書かれていた記述を、文部省が検定によって「進出」と書き直すことを強要したことが報道され、韓国・中国などアジア諸国からの広範な批判をあびた事件である。この時、文部省検定の内容がニュースとして報道された背景には、一九六五年から続けられていた家永教科書裁判があった。家永教科書裁判とは、歴史家の家永三郎が文部省のおこなう教科書検定は思想・学問・教育の自由を侵害する憲法違反のものだと訴え、検定によりその執筆した歴史教科書の改訂を強要されたことの損害賠償を争った裁判で、その争点は多岐にわたるが、天皇と民衆、それに近代日本の戦争をめぐる記述に関しての文部省による書き換えの強要が目立ち、教育者、法律家とともに戦後歴史学に属する多くの歴史家の支援で長期の裁判闘争が展開されていたものであった。
  この教科書裁判の過程で、アジアから見た日本の戦争加害の問題を中学校教育で取り上げた本多公栄『ぼくらの太平洋戦争』(一九七三年)といった教育実践記録も生み出されていたが、八二年には直ちに歴史学研究会編『歴史家はなぜ”侵略”にこだわるか』(一九八二年)が刊行された。さらに一九八四年からは教科書裁判でも、「南京大虐殺」など八つの争点(そのうち六点は戦争犯罪や植民地支配関係の記述)に絞って、検定の不法性を訴える第三次訴訟が提起される(その終了は一九九七年)。その原告の家永三郎は『戦争責任』(一九八五年)を執筆し、その中で大日本帝国憲法下の戦前日本の法体制を前提としても、一五年戦争が違法の戦争であることの論証と法的責任追及をおこなおうとしたのだった。
  一九八二年の歴史教科書問題は、日本の戦争責任をめぐっての海外諸国からの批判の再開のキッカケとなり、またこの八二年からは、海外からの批判を契機に日本の国内での戦争責任論議が活発化するというパターンが生じるようになる。この種の海外からの戦争責任追及は、八五年の中曽根首相の靖国神社公式参拝や八七〜八八年の昭和天皇の死去に際しても見られたが、そのどちらの場合も教科書問題と同じく、日本国内での議論に関しては、それ以前から靖国神社国営化や天皇の戦争責任についての批判と研究の積み重ねがあったことが、事態の展開に即応して水準の高い批判を展開できる条件となった。
  八二年からは洞富雄らによって南京事件調査研究会がつくられ、その研究会の成果の一端は吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(一九八五年)にも結晶するが、他方で田中正明らの南京事件否定論が登場して再び論争となった。しかしこの頃よりかつての旧兵士たちから、戦場での日本軍の残虐行為の存在を認め、今までタブーとされていた加害の体験を語る動きが生じてくる。朝日新聞テーマ談話室編『戦争』上下(一九八七年)にはそうした加害体験の投稿が含まれており、また井口和起ほか編『南京事件京都師団関係資料集』(一九八九年)は、南京事件を記録した日本軍の兵士・下士官の当時の日記や手記を収集・公刊したものであった。
  また八二年からは戦争責任論の新しい担い手として、女性史研究やフェミニズムの流れが登場してくる。今日の女性解放の観点に立って、女性の戦争協力と荷担を問題にした加納実紀代『女たちの〈銃後〉』(一九八七年)、婦人運動指導者の戦争責任を追及した鈴木裕子『フェミニズムと戦争』(一九八六年)などがその代表である。また、大衆女性の戦争協力団体の実態を解明した藤井忠俊『国防婦人会』(一九八五年)も生まれた。七〇年代から急成長した日本の女性史研究は、アマチュアの歴史家がとりわけ多く参加する分野であったといえるが、その意味で女性史研究からの戦争責任論には、民衆の地点からその戦争責任を考えるという面があった。しかしこれら諸研究には、現代の女性解放の視点から発想した積極面が見られる反面で、中にはやや性急な責任追及に走る場合も見られた。
  八〇年代に入って新たな展開を示した分野に、東京裁判研究がある。細谷千博ほか編『国際シンポジウム「東京裁判を問う」』(一九八四年)は、この頃再活性化した東京裁判に対する肯定・否定のさまざまな議論を集大成した面があったが、そこに見られる一つの特徴は、裁判の実態の解明を踏まえて東京裁判の位置づけの相対化が進んだという点であろう。東京裁判の意義と残された課題については、大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』(一九八五年)が、東京裁判における被告の選定過程などの究明をした研究としては、粟屋憲太郎『東京裁判論』(一九八九年)がある。なお東京裁判論は、従来「平和に対する罪」を中心に論じられる傾向が強かったのに対し、この頃からこれまで必ずしも注目されてこなかった「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」に光を当てて論ずる傾向が生じてくる。これは第四期の人権侵害問題への着目の流れを、早くも先取りするものと言えよう。こうした流れの中で、植民地支配と戦犯裁判を結びつけた内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(一九八三年)といった、ユニークな仕事が生まれていった。
  第三期の戦争責任論は、全体としては第二期の問題提起を受けて、新しい分野での実証的な発掘を基礎に内面的倫理的責任論の発展が見られた時期といってよい。ここでは内面的倫理的責任の自覚が、膨大な事実発掘に立ち向かわせる情熱を支え、その発掘された「戦争犯罪」的事実が、精神に深い衝撃を与えて内面的倫理的自覚を強めるという関係が見られる。そして責任を論ずる対象領域の拡大やより民衆的な新参入者の登場は、これまで見過ごされてきた問題に光をあてるという点でたいへん積極的な意味を持つものであったが、同時にそれを契機に、戦争責任の捉え方をめぐる亀裂の深まりも看取されるようになってくるのであった。そして一九八二年からは海外諸国からの批判を契機に、内外呼応しての戦争責任の追及が見られるようになったが、これは次の第四期での戦争責任論の発展を予告するものであった。

四、外からの衝撃と「戦後補償」論
(第四期一九八九年〜)


  一九八九年を画期とする冷戦の終結は、それまで冷戦体制下において抑圧されてきた諸地域(それはアジアのみならず東欧も含む)からの戦争責任追及の動きを、一挙に噴出させる役割を果した。それとほぼ同時に、日本にはいわゆる国際化の波が押し寄せ、こうした外からの衝撃を受けて日本の国内でも新たな戦争責任論が台頭してくる。ここではこの第四期の特徴を列挙して、簡単に説明してみたい。
  特徴の第一は、海外からの日本の戦争責任追及の動きの顕在化と、また単に日本に対してということに限らずドイツ統一などを契機に、世界的に戦争責任・戦後補償問題への取り組みが進んできたという点である。この外からの責任追及が国内の責任論の発展を促すというあり方は、八二年から見られた動きともいえようが、八九年以降のそれは、これまでと量的にも質的にも大きな違いがあった。また、海外からの戦争被害者の声が日本国内の多くの人にも伝わり、両者の直接の意見交換が大きな役割を果す傾向は、第四期になって初めて生じたともいえる。世論調査結果でも変化が見られるように、日本国内の大衆的なレベルで戦争責任を認めようとする動きは、この交流の緊密化という意味での国際化の中から生まれた。
  この国際化ということは、各国の国連NGOなどの動きと相まって、一方で国際的な連帯を作り出すとともに、他国の事例を参照した国際的な戦争責任追及の論理が導入されることになる。そこでは「外部」からの視点と、ポスト・モダン的契機を持つ「国民国家」批判が強調される傾向にあった。その「外部」からの視点は、日本の戦争犯罪を新たな視角から捉えさせ、「国民国家」批判は近代日本社会に存在する偏見をあぶり出すものであったが、逆にそれらの議論は、日本社会というものを、こうした視角を自覚しないような一体の社会として把握する向きがあり、特に戦後平和主義の基礎となった戦争体験論の系譜と断絶する契機をもっていた。
  またこれとは別に、冷戦崩壊後の世界各地でのナショナリズムの昂揚は、追及する側・追及される側双方のナショナリズムの論理を、戦争責任追及の場にも登場させることとなった。この時期に昂揚した韓国・中国からの日本の戦争責任を追及する論理の中には、しばしば強いナショナリズムが内包されていた。そして九〇年代中葉から日本国内で「自虐史観」批判を旗印にして登場した「自由主義史観」の一派は、その韓国・中国の側の強いナショナリズムを内包した論理に反撥して、アジア諸民族への伝統的な偏見と差別意識に充ちた、戦前型(時には旧軍人型)の日本のナショナリズムの論理でこれに対抗しようとする動きのように見える。
  その第二は戦争責任問題が、かつてはしばしばイデオロギッシュな色彩で捉えられていたのに、冷戦終結にともない、より人権侵害の問題として考えられる傾向が強まったということである。このことは、新たな人権論の担い手としてのフェミニズムの流れの台頭に結びついており、「従軍慰安婦」問題への注目はその中で生じた。また、従来のマルクス主義系統の学問から戦争責任問題を考えていこうとする流れは、イデオロギー性を弱めて市民運動に合流していく傾向が見られた。なお南京事件など一部事件を除き、日本国内では長い間無視されていたBC級戦犯裁判や、そこで裁かれた捕虜虐待などの戦争犯罪への着目も第4期には生じてくるが、それは戦争犯罪を人権侵害問題として理解した地点から生まれたといえよう。
  特徴の第三は新たな登場者の一角に、法律家の一群が大きな位置を占めるようになったことである。これは上記の人権侵害問題としての戦争責任論という特徴にも見合うものであるが、同時にこの時期になって戦争責任論が、現在直ちに解決を要する法的・政治的な問題として位置づけられたことによるものであった。法的・政治的責任論の優越といった第四期の特質も、ここから生じてくる。それは具体的には、従来のやや曖昧な「戦後責任」論より、戦争被害者の個人補償要求を意味する「戦後補償」論という言葉が多く用いられるようになったという点に見られよう。これはむろん、実際に戦後補償裁判が開始されていったことに基づいていた。しかし他面では現実の法的・政治的解決への接近は、反面で戦争責任追及の論理とスタイルを、政治主義的なものとする場合も生みだす。時にそれは、非政治的な倫理的批判がそのまま法的追及論と結びつくことによって、かえって政治主義の論理に転化するということも見られた。
  特徴の第四は、戦争責任という概念がやや拡大して、植民地支配・占領地支配の責任の問題がより重視されるようになったことである。研究の面でも、植民地・占領地の実態の全体的解明をめざした『近代日本の植民地』第一ー八巻(一九九二〜九三年)が刊行され、そこでは日本の「帝国」支配の問題が、欧米列強のそれと同次元の問題として論じられるようになっていた。
  それとともに、第三期に着手されるようになった数多くの領域(天皇の戦争責任、教育者・宗教者の戦争責任、文化界の戦争責任、諸種の戦争犯罪とBC級戦犯裁判、など)に関しても、新たな資料発掘が進み、新しい研究が次々と登場してくるのであった。ただしそれが、時には研究の視点の後退を含む場合もあったことは、第三期に指摘したことと同じである。なお天皇の戦争責任問題に関しては、昭和天皇の死去後、特に九〇年代に入ってからは急速にそのタブーが解けて、発言者を右翼が脅迫するといった事態は今では見られなくなっているといえよう。
  こうした中で一九九三年には日本の戦争責任資料センターが創設され、機関誌『季刊戦争責任研究』が発刊されていった。この日本の戦争責任資料センターは、戦争責任・戦後補償問題に取り組む歴史家、教育者、法律家、市民運動家など、諸種の立場の人たちの交流の場となり、また国際的な結びつきの場ともなって戦争責任論や戦後補償運動を結びつける役割を果たすようになっていくのである。

お  わ  り  に



  戦後日本の戦争責任論の動向を通観して、その特質をまとめると次のようになる。
  まず第一に戦争責任論を立論する立場としては、マルクス主義やその系譜に属するもの、キリスト教、アジア主義的な民族主義、フェミニズム、市民主義といった五つの思想的立場の人々の発言が目立っていると言えよう。これら五つの思想流派は、それぞれ独自のインターナショナリズムを内包しており、また戦争責任論といっても、それぞれ強い領域と弱い領域をもっていたといえる。たとえばマルクス主義系統やキリスト教は、日本社会全体から見れば極めて少数の勢力であったが、天皇の戦争責任問題では独自の大きな貢献があった。これらの思想流派が、大きな位置を占めた時期も異なっており、フェミニズムや市民主義は第四期になって大きな役割を演じるようになった。
  また、戦争責任論を立論する立場の一つに、世代論的視角もあった。それぞれの世代が登場してくる時期を示せば、戦前派(第一期)、「戦中派」(第二期)、「少国民世代」(第三期)、純粋戦後派(第三期後半から第四期)となろうが、その戦争体験の内容の違いや戦争体験との距離は、その立論の主体性の内実に関わり、追及のパトスや論理に大きな影を投げかけるものであった。またこうした世代論的視角は、異質の世代間の交流を促すというより、むしろ世代間の断絶を強調する面があった。
  第二に戦争責任論には大きく分けて、法的・政治的責任論と内面的倫理的責任論という二つの類型があり、どの時期にもその両者のタイプの責任論が併存している。しかし時期によって、そのどちらが優越するかには違いがあり、第一期は法的・政治的責任論が優勢な時代、第二期・第三期はうって変わって内面的倫理的責任論が優越する時期、そして第四期は再び法的・政治的責任論が優勢となる時代と整理できよう。この戦争責任論の二つのタイプの優越の問題は、日本の外部からの責任追及の強さと関連しているようであり、法的・政治的責任論が優勢な時期は、いずれも日本の外からの責任追及が迫っている時代であった。そして大きくいえば、第二期と第三期に優勢な内面的倫理的責任論にあっては、責任の問題がより広く事実に即して論じられるようになった反面、現実の法的・政治的解決にはつながりにくいという問題があった。これとは逆に第一期と第四期に優勢な法的・政治的責任論では、戦争責任が現実の政治的・法的解決に結びつく反面、その責任追及の論理やスタイルが、時には政治主義に陥いる可能性を孕んでいたといえよう。
  最後に、一九八九年以降の第四期の戦争責任論の論理の、特徴と問題点について言及したい。第四期の戦争責任論は、なにより国際化の波を大きくかぶっている点に特徴がある。その国際化とは、一方からするとヒト、モノ、カネ、さらには情報の、国境を越えた流通が一挙に展開することを意味し、他方では経済、政治、法律などの各領域で、いわゆるグローバル・スタンダード化が進行することを意味している。このうち前者の交流の進展が、第四期の戦争責任論の発展を促したことについては、すでに指摘した。問題は後者の、いわゆるグローバル・スタンダード化という点である。
  一般的に戦争責任論の特質の問題は、その前提とする国際正義観、国家観、戦争観といったものと深く関連しているといえよう。その点でいえば第2期と第3期の戦争責任論は、戦後日本の平和主義・民主主義に内包された、独特の国際正義観、国家観、戦争観といったものに結びついていたように思える。これが国際化の中で変容してきたのが、第四期なのである。
  まず国際正義観、国家観といった点について述べてみたい。もともと敗戦までの戦前の日本の国際社会のイメージは、「万国対峙」という言葉に象徴されるように、自国の利益を追求する国家がそれぞれ武器を持って隙あらば他国を叩くという無政府的状態のイメージが強く、国際的普遍的正義の存在は疑われていた。むろん「万国公法」という国際的ルールの存在は幕末維新期から知られており、その「文明国」の法に合わせようという努力がなかったわけではないが、いざ国家的危機ともなると、「万国対峙」の世界像の方が圧倒的となるのである。それでいながら国家観の面では、日本の国家が「正義」を担い、体現していることが無条件で信じられており、日本の「正義」の主張が踏みにじられていることが開戦の理由であった。
  敗戦は、この国際社会観、国家観の変容をもたらすものであった。敗戦がもたらしたのは、日本の国家が、いや日本に限らずあらゆる国家というものが、正義を担いうる存在であることへの懐疑の念である。戦後日本の平和主義・民主主義は、一方からすれば憲法の理想主義に立脚したものであったが、それと同時に憲法の理想主義とは矛盾しながら、国家が正義を体現しうることへのペシミズムの契機を内包していたのである。また国際社会観についていえば、平和擁護という国際的普遍的正義が本来存在するはずだ、またはすべきであるという考え方は新たに生じたものの、その国際的普遍的正義は必ずしもこの世界に実在するものとしては考えられておらず、いわば抽象的に存在するものと考えられていた。
  これに対し、第四期に国際化の波とともに訪れたのは、これとは異質の発想であった。そこでは日本の国際貢献ということが問題とされるが、軍事的貢献論の場合には、湾岸戦争の時の多国籍軍やボスニア紛争に際してのNATO軍のように、国際的普遍的正義を体現する力が実在することが当然視され、日本が金銭的援助をするだけで、それをまともに担わないことが問題とされる。そして逆に、こういった議論と対立する平和的貢献論の場合でも、環境保全や開発途上国への人道援助などを進める国際機関という形で、国際的普遍的正義の実在と、その正義を担う国家が存在することは、もはや自明の前提とされている。どちらも日本を、世界的な意味での「普通の国家」化する動きともいえよう。日本の国内での戦争責任追及や戦後補償要求は、この平和的貢献論に連なるものであろう。そしてそこでも単に被害者への謝罪や補償のみならず、その根拠としてしばしば「道義国家」であることの要求が提出されているように、戦後日本の平和主義に内包される国家へのペシミズム(この立場からは当然ながら、国家が「道義」を担いうるものとは考えられていない)からは、微妙な変質が生じているのである。
  この問題は、戦争観についてもいえることである。戦後日本の戦争責任論を支えていたのは、少なくとも戦後歴史学でいえば、一方では戦争一般を侵略戦争と抵抗・防衛戦争とに区別した上で、日本の過去の戦争を侵略戦争と認める侵略戦争=犯罪説に立脚しながら、同時にあらゆる戦争を総ての人間にとっての罪悪であるとする戦争=罪悪論という、もう一つの観点を備えたものであった。この戦争=罪悪説はあらゆる戦争を罪悪とし、侵略戦争か否かを分別しない議論で、戦争責任問題に関し曖昧な面を含んだ理解である。特に自己の加害の側面に対する認識の面では、弱いものがある。しかし戦争=罪悪説は、あらゆる戦争責任を無視する議論ではなく、戦争の開始・遂行を罪悪として批判することから、戦争の開始・遂行を決定する政策当事者の責任を問う契機が含まれているのであった。しかしともあれ憲法第九条を維持してきた戦後日本の平和主義が、この戦争=罪悪説に立脚していたことは否めないし、また現実の運動の上でも、侵略戦争=犯罪説的戦争観と戦争=罪悪説的戦争観の双方を基盤にして、ヴェトナム反戦運動は盛り上がりを見せたのであった。
  侵略戦争=犯罪説と戦争=罪悪説の、この二種類の観点は矛盾する面をもっており、この両者がいかなる形で結び合っていたかは必ずしも一般化し得ない。しかし前者の観点だけでは片づけられない現代戦の問題が、後者には存在していたのではないかと思われる。侵略戦争=犯罪説は、究極的には正義の戦争と不正義の戦争とを峻別する発想に立っているものといえようが、たとえ正義の戦争であっても、戦争犯罪的契機を含まないきれいな戦争というものはないのだというのが、戦争=罪悪説の根底にあった。ここには、普遍的正義の実在と正義を担う国家の存在に対する懐疑の念という、国際正義観・国家観に照応する発想があったといえる。また侵略戦争と抵抗・防衛戦争の二つの戦争しか見ない地点からは、専ら抵抗者の立場のみが強調されるのに対し、戦争=罪悪説には、現代戦に際して全く無抵抗に引きずり込まれ巻き込まれていくような、弱者からの視点があった。
  かつての東京裁判の論理は、正戦論の立場に立って、侵略戦争=犯罪説に一元化した考え方であった。そして戦後の国際秩序は基本的にはこの正戦論に立脚していたのであり、それが国際化の波とともにグローバル・スタンダードとして、再び日本にも押し寄せてくるのである。第四期の戦争責任論で登場する考え方の一つは、この正戦論の立場に立って、侵略戦争=犯罪説に一元化して日本の戦争責任を考える視角であった。
  戦後日本の伝統的な平和主義の考え方と近年のこうした変化を、いかに評価するかは意見の分かれるところであろう。しかし筆者は、戦後歴史学に代表されるような二種類の戦争観を基礎とした考え方に、世界に通用する普遍的価値があるのではないかと理解しており、それを継承する意味があるのではないかと考えている。また、戦後日本の平和主義を背景とする戦争責任論には、戦争体験論と戦争責任論の交錯が見られたのに対し、近年の動きにはその傾向が稀薄であり、そこに一つの問題点があるとも考えている。