立命館法学 2000年6号(274) 326頁




旧ユーゴ内戦と国際社会

- クロアチア内戦・EC・国連 -


一柳 直子


 

目    次

は じ め に

一、内戦の勃発とECの和平努力
  (1)  ユーゴ危機発生当時の国際環境
  (2)  内戦勃発−スロヴェニア・クロアチア二共和国の独立宣言
  (3)  ECの仲裁外交
    (i)  「統一維持」の立場からのアプローチ
    (ii)  ドイツの「早期独立承認」政策の推進
    (iii)  ドイツの単独承認とECの追随
  (4)  EC共通外交政策挫折の要因

二、クロアチア内戦への国連の関与とPKO活動
  (1)  国連介入のプロセス
  (2)  UNPROFORの任務
  (3)  駐留延長と任務の変容
  (4)  UNCROの設置
  (5)  活動の評価
  (6)  活動からの教訓

結びにかえて




は  じ  め  に


  ユーゴスラヴィア(以下、特に必要な場合以外は「ユーゴ」と略記)連邦からの分離独立目指すクロアチア共和国の動きは、一九九一年六月二五日にスロヴェニア共和国と同日に発表した独立宣言によって、決定的となった。独立宣言発表直後にユーゴ連邦軍(以下、「連邦軍」と略記)とスロヴェニア地域防衛軍(すなわち、スロヴェニア正規軍)との間で起こったスロヴェニア戦争は、構成民族の大部分がスロヴェニア人でセルビア系住人が少なかったことから、早期に停戦合意が結ばれた。一方で、共和国人口の約十二%を占めるセルビア人が領内に「飛び地」状に点在するクロアチアでは、「クロアチア民族中心主義」を唱えるツジマン・クロアチア大統領の動きに、少数派であるセルビア人が敏感に反応し(1)、さらにセルビア共和国(及び連邦軍)が介入したことで、内戦が勃発し、長期化した。この内戦に一応の終止符を打った(2)のが、国際連合(以下、「国連」と略記)旧ユーゴ特使のバンス元米国務長官の提案した和平案で、九一年十一月二三日に原則合意し、九二年一月二日に紛争当事者の軍事司令官の署名により発効した。この停戦合意を基に、国連では平和維持軍(PKO)の派遣が決定され、国連保護軍(UN Protectin Force:UNPROFOR)として現地に展開し、平和維持活動を行うことになった。
  二共和国の独立宣言に端を発し、結果的にボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国にまで拡大した旧ユーゴにおける内戦は、いくつかの点でそれまでの地域紛争とは異なる特徴を持っていた。すなわち、一つ目は、この紛争が、第二次大戦以降初めて、ヨーロッパを舞台にした紛争であったこと、二点目は、ボスニア内戦勃発後に派遣された国連PKOが「人道的介入」や「予防的派遣」と言った、従来の停戦監視を主たる目的とするPKO活動からさらに踏み込んだ活動を実施したこと、そして最後に、NATO(北大西洋条約機構)がボスニアにおけるPKO活動に参加したことで、初めて域外に展開し空爆を行ったことと、それによって、地域軍事組織であるNATOと国連が協調して紛争の解決にあたったこと、などである。第一の点に関して言えば、内戦勃発当時、政治統合を目指していたEC(ヨーロッパ共同体、現EUヨーロッパ連合)が、「自分たちの問題」として、積極的に関与することとなった。また、ECをはじめとする国際社会の介入のもたつきが、その後紛争を長期化させることにもなったと言える。第二、第三の点については、冷戦終結後の転換期にある国際社会において、地域紛争処理の分野に、新たな概念や活動を導入し、またそのことによって数々の更なる問題点や課題を残すことになったのである。
  そこで、クロアチア内戦をめぐる国際社会の対応を分析し、とりわけ、独立承認問題を始めとするECの和平努力に焦点を当て、その失敗の原因を明らかにすることが、本稿の第一の目的である。さらに、国連の紛争への関与のプロセスを分析し、クロアチアに派遣されたPKOの活動を総括し、今後のPKO活動への教訓を提示することがその第二の目的である。本稿の構成は、第一章でクロアチア内戦勃発の経緯を概観し、独立承認問題を始めとするECの和平努力について分析した後、第二章で国連の介入のプロセスと方法を明確にした上で、UNPROFORの活動を総括し、今後のPKO活動への教訓を提示する。
  旧ユーゴ内戦は国内的諸要因と対外的諸要因が絡みあって起こり、その長期化には、「民族浄化」政策の下に、自民族のナショナリズムや他民族に対する憎悪を煽って戦争を続けた国内の指導者達と共に、一貫した確固たる信念を持たずに迷走を続けた国際社会もその責任の一端を担っている(3)。今後、地域紛争を平和的に解決するためには、旧ユーゴ紛争で犯した過ちを繰り返さないためにも、こうした国際社会の責任が明らかにされる必要があるだろう。また、内戦の過程で新たな問題に挑戦された国連PKO活動の教訓を学ぶことによって、地域紛争解決に際して国連が直面している課題も明らかになるであろう。

(1)  九一年春、クロアチア南部のクニンを中心とする「クライナ自治区」とクロアチア東部の「スラボニア・セルビア自治区」が合併し、「クライナ・セルビア人共和国」としてクロアチアからの分離独立を宣言した。
(2)  九五年五月及び八月にクロアチア政府は、一方的な武力行使により「西スラボニア」、「クライナ」両地域を制圧した。明白な停戦協定違反であるにもかかわらず、クロアチアに対する制裁措置はなかった。
(3)  多民族国家ユーゴスラヴィアは、その複雑な民族構成に加えて、第一次大戦勃発の導火線になったことでも知られるように、歴史的に見ても戦火の絶えない地域であり、九九年にはセルビア共和国内のコソヴォ自治州で多数派民族であるアルバニア系住民に対する少数派セルビア系住民の圧政から紛争が勃発し、民族問題が再燃した。内戦の要因については、拙稿「旧ユーゴスラヴィア内戦の要因をめぐる諸論争」立命館法学第二六二号、を参照されたい。


一、内戦の勃発とECの和平努力


(1)  ユーゴ危機発生当時の国際環境
  ユーゴ内戦勃発の経緯を見る前に、危機が発生した当時の国際情勢を概観しておくことは、国際社会のユーゴ問題に対する対応をよりよく理解する上で有益であると思われる。そこで、その点についてここで少し触れておきたい。
  ユーゴ危機発生当時、国際社会が直面していたのは、「冷戦の終焉」「ソ連問題」及び「湾岸危機」という諸問題であった。
  まず一つ目の東西冷戦の終了はユーゴ連邦崩壊への動きにとりわけ重要な作用を及ぼした。冷戦の終焉がユーゴに与えた重要な影響は、ユーゴ問題研究家のJ・ゴウ氏によれば、以下の三点である(1)。すなわち、(1)東西のライバル関係によって構築された外的圧力、とりわけ、ソ連によるユーゴ侵攻の脅威を排除したこと、(2)外的圧力の排除により、ユーゴの戦略的重要性が消失し、外部勢力にとって、ユーゴの各共和国の運命に対する関心が低下したこと、最後に、(3)冷戦の終了により、国際安全保障の諸問題に対処するために協調的なアプローチが取られることになったことから、ユーゴの崩壊が国際集団外交の実験用ネズミになったこと、である。つまり、冷戦の終了は外部の戦略的な競争の概念を排除することによって、連邦の崩壊を助長し、集団による国際的注目を引く機会を与え、その注目を促進したのでさえあったのである(2)
  二点目の「ソ連問題」とは、冷戦の終結−ソ連の弱体化−により、ソ連邦内部に「分離独立」を目指す各共和国の動きがあったことである。「ソ連邦解体」の結果が招く重大な混乱を回避したい欧米諸国は、後述するように、ソ連邦内の動きを牽制するためにも、「ユーゴ連邦維持」の立場でこの危機に対処していくことになった。
  最後の「湾岸危機」は、とりわけ、「湾岸戦争」後の同地域の秩序の回復が、「ソ連問題」と共に米国外交の最優先事項となり、ユーゴ危機への本格的な対応が遅れたことと、アラブの産油国との関係を修復する狙いから、米国がユーゴ(とりわけ、ボスニア)で「ムスリム寄り」の立場を取ったことが挙げられる。さらに、この「湾岸戦争」は国連のユーゴへのPKO派遣にも影響を及ぼした。すなわち、湾岸への多国籍軍の派遣により国連の財政的・人的資源及びそれらの準備が不足したことで、派遣決定後から本格的な展開までに時間がかかり、それがPKO活動にとって最も重要な要素の一つである時機的なインパクトを阻害したことは否めない(3)
  以上のことを念頭に、次に内戦勃発の経緯を見ていこう。

(2)  内戦勃発−スロヴェニア・クロアチア二共和国の独立宣言
  連邦維持か、解体かで揺れるユーゴの崩壊の流れを決定的にしたものは、一九九一年六月二五日にスロヴェニア及びクロアチア両共和国が発した「独立宣言」であったことは間違いない(4)。八九年に東欧で起こった「民主化の波」に、「労働者自主管理(5)」制度を導入するなどして独自の道を歩んでいたとは言え、共産主義者同盟による一党独裁社会主義国家であったユーゴも影響を受けないわけにはいかなかった(6)。九十年四−十二月に、ユーゴの各共和国でも複数政党制の導入による自由選挙が順次実施され、スロヴェニアでは「野党連合」が、クロアチアでは民族主義的なクロアチア民主同盟が勝利を収め、旧共産主義者同盟は敗北した。それに対して、セルビアとモンテネグロでは旧共産主義者同盟が勝利し、ボスニアでは、ムスリム・クロアチア系・セルビア系の三者による連立政権が誕生した(7)
  九十年一月に開催された共産主義者同盟第十四回臨時党大会において、スロヴェニアはECをモデルとした主権国家の自由意志に基づく連合体である「共和国連合」を主張するが、セルビアから批判を受けたため、逆にコソヴォのアルバニア系住民に対するセルビアの弾圧政策を批判して大会を退場し、翌月には共産主義者同盟から離脱してしまった。ここに連邦制の屋台骨であった共産主義者同盟の崩壊が決定的となったのである。
  共産主義者同盟脱退の後、スロヴェニアは急速に分離独立の準備を進め、九十年十二月には、国民投票で九四・七%(全有権者の八八・二%)の賛成で「独立宣言」に踏みきる方針を確定した。民族主義的色合いの濃いフラニョ・ツジマン政権が誕生したクロアチアでも、同月、「連邦からの分離権」を明記した新憲法を採択した。二共和国が「独立」を宣言したのは以上のような経緯であった。
  九一年六月二三日に発表した独立宣言によって、スロヴェニアは、クロアチアとの境界に国境施設を設営し、連邦のオーストリア・イタリア国境施設(入国管理と税関事務所)と空港の出入国施設を同共和国の管轄下に置いた。同月二六日に連邦政府は事前の警告どおり、両共和国の一方的独立宣言を違法行為と見なし、連邦内務省と連邦軍に連邦国境施設を回復するように命じ、翌二七日、連邦軍とスロヴェニア地域防衛軍(8)がついに衝突し、後に「スロヴェニア十日戦争」と呼ばれる戦闘が始まった。同年七月七日に、ルクセンブルグ、オランダ、イタリアの三外相と連邦、共和国代表が、アドリア海のブリオーニ島で会談し、停戦合意を取り付けた(9)。その一方で、この「ブリオーニ合意」を受けて同共和国内から撤退した連邦軍は、今度はクロアチア内のセルビア人勢力を支援する軍事行動を開始し、ここにおいて、クロアチアでの内戦が始まった。
  ユーゴで内戦勃発の危険性が高まる中、この問題に真っ先に対応したのは、加盟国内でユーゴと国境を接する国(オーストリア、イタリア、ギリシャ)があるECであった。そこで、スロヴェニアでの内戦勃発までに外相会議での宣言の中で、再三、ユーゴ情勢に対する「憂慮」を表明し、「対話に基づく平和的な問題解決」を当事者に要請した。それでは、次節でユーゴ問題におけるECの関与について、独立承認問題を中心に詳しく見ていこう。

(3)  ECの仲裁外交
  (i)  「統一維持」の立場からのアプローチ
  ユーゴ問題、とりわけ連邦からの分離独立を目指す各共和国の独立承認に対するECの対応は、混迷を極めたものであった。結論から言えば、ECの立場は「統一維持」政策に始まり、ドイツの「早期承認」政策の推進という「暴走」を、マーストリヒト条約交渉の完了を急ぐ内部事情から止めることができず、二共和国の独立をなし崩し的に承認してしまうことになる。ユーゴ危機勃発当時、ECは統合に向けてのマーストリヒト条約締結交渉の最終段階にあった。したがって、欧州、とりわけ仏独はユーゴ危機をEC/EU内での外交政策協力(具体的には、欧州政治協力、共通外交・安保政策、共同での紛争解決と軍事行動)の機能を示し、テストする機会の到来と見なして(10)、この問題に九一年の春から積極的に関与していくことになる。
  欧米諸国は内戦発生以前から、「ユーゴが分裂すればヨーロッパの安定に複雑な影響を与え、とりわけ、内部に同じように複数の共和国を抱えるソ連に与えるマイナスの影響は計り知れない」との認識を持っていた。さらにまた、当時連邦政府が抱えていた莫大な債務問題に関して、この問題の「交渉及び支払いの窓口は統一された連邦政府に集中していることが望ましい」と言う思惑もあった。したがって、まず「ユーゴ統一維持」の立場からのアプローチを取ることになった(11)。その根拠となったのは、「国境線の不変更」などを定めた一九七五年の全欧州安全保障会議(CSCE)のヘルシンキ宣言であった(12)。EC内で「統一支持」を強力に主張したのは英仏両国であった(13)。同年六月二二日に開催されたEC拡大外相会議で、「独立承認せず」で合意し、ユーゴ分裂を回避するために経済援助を提案して、独立阻止を目指した。
  スロヴェニアで内戦が勃発した翌日の九一年六月二八日に、ルクセンブルグ、オランダ、イタリア三国の外相が紛争調停のためにユーゴ入りしたのを契機に、ECの仲裁活動は本格化する。ECトロイカがスロヴェニアでの戦闘停止と停戦の監視を保障したことは、ECの介入が当地での紛争の平和的解決の主原動力であったという印象を与えるものであった(14)。従って、ECが公平且つ容易に、ユーゴの平和を保障できるように思われるようになったのである(15)。しかし実際には、スロヴェニア並びに連邦側はECトロイカを各々の目的のために利用したに過ぎなかったのであり、ECの仲介能力が証明されたとは言えなかったのである。この合意のもう一つの成果は両共和国の独立宣言を三カ月間凍結すること(同年十月七日まで)を決定したことであった。ECはその間に、「連邦解体阻止」を目指して、懸命の調停工作を展開することになる。
  九一年夏、クロアチアでの戦闘行為の拡大に直面したECは、スロヴェニアで彼らが行ったのと同じアプローチを試みることにした。すなわち、停戦交渉と非武装のEC監視団の派遣である。しかしながら、九一年七月に最初の停戦合意が調印後すぐに破られると、セルビア人勢力はクロアチアでのECの停戦監視の権利を認めることを拒絶した。これに対して、ECは一連の外相会議を開催して解決策を模索する。同年八月六日に開催された外相会議(ハーグ)において、ECは和平達成に向けて、全てのオプション(16)を検討するも、結局、この会合では何も決定できなかった。
  モスクワでのクーデター失敗の直後に開催された外相会議(九一年八月二七日・ブリュッセル)の後、ECは「ユーゴスラヴィアに関する宣言」を発表した。それによると、セルビア側を「停戦破り」と非難し、停戦が遵守されず、EC監視団の活動が許可されないのであれば、セルビア側に対して「国際的な行動を含む」更なる手段が取られるであろう(17)、とされた。換言すれば、セルビア側を一方的に「悪者」と定義することによって、ECは「中立の仲介者」の立場を放棄したことになったのである。続いてECは、この宣言に基づいて、同年九月七日にハーグにおいて旧ユーゴ和平国際会議を主宰した。その際ECは、「平和的手段もしくは合意によらないいかなる国境線の変更も承認しないことを決意」した。しかしながら、クロアチアでの戦闘が激化する中、議長であるキャリントン卿らによる停戦交渉は決裂し、和平会議は何の成果も生みださなかった。同年十月七日には、ECが設定した「独立宣言の凍結期間」の期限が切れ、両共和国は正式に独立宣言を発効させた。
  こうした状況を受けて十月十八日にハーグで開催された旧ユーゴ六共和国首脳会議で、キャリントンとバンデンブルック・オランダ外相はユーゴという枠組みを残す方針で、「主権国家連合(独立共和国連合)」案を提示した。これは、元の国境線内で主権、独立の共和国の「自由な連合」を作り、民族グループに「特別な地位」を与える内容であった。このキャリントン案は「クロアチア内のセルビア人に一定の安全を提供すると同時に、スロヴェニア、クロアチア両政府の要求を満足させる(18)」ことを試みたもので、全当事者の要求を満たそうとするものであった(19)。「統一維持」の立場から懸命になされた和平会議によるこの調停案も、セルビアとモンテネグロからの同意を得られなかったことで挫折した。

  (ii)  ドイツの「早期独立承認」政策の推進
  これらのECによる調停活動が成果を挙げられなかったのは、こうした「統一支持」政策の裏で、独自に「独立承認」へと動く国があったからである。それは、最初はオーストリア(20)、次いで、とりわけ後にクロアチア独立承認に多大な影響力を行使することになるドイツであった。
  オーストリアとドイツが、スロヴェニアとクロアチアの独立支持を打ち出したのは、両共和国との歴史的・地理的な結び付きがあったためである(21)。しかし、ドイツはスロヴェニアで内戦の危機が高まった九一年二月の段階では、「ユーゴの統一とその諸民族、諸共和国の共同生活の新形態」は平和な話し合いによって保証されなければならないとし、連邦国家としてのユーゴ統一の維持を必要と見なしていた(22)。その方針が変化したのは、スロヴェニア開戦直後であった。ドイツはECの停戦工作を支持しながらも、七月初めに、両共和国の早期独立承認の方針を固め、七月十八日にボンを訪問したツジマン大統領の示した「クロアチアとスロヴェニアのパッケージ承認」方針を受け入れた。このドイツの政策決定には、九十年十月に再統一を果たし、「民族自決」に好意的であったドイツ国民の世論の圧力(23)が大きく影響した。加えて、ドイツ国内のカトリック教会(24)からの働きかけもあった。
  コール政権内でも特に独立承認に積極的であったのが「西ドイツ外交の顔」ゲンシャー外相であった。彼は、「独立承認によってクロアチア戦争をやめさせられる、また後には、ボスニアへの戦火の拡大を阻止できる(25)」と主張し、九一年八月六日のEC外相会談で他の加盟国に両共和国の「国際法上の承認」を検討するように要請した(26)。ゲンシャーは九月四日、ドイツ連邦議会において、EC全体の決定を待たずに、ドイツ単独でも独立承認に踏みきる用意があると表明するに至った。時期を前後してECは、ドイツの「突出した動き」を牽制し、独立承認問題での態度を統一するために、各共和国ごとに独立基準を審査するための「裁定委員会(27)」(「バダンテール委員会」と呼ばれる)の設置を決定した(九一年八月二七日)。
  このバダンテール委員会の活動とは別に、ドイツの動きを阻止しようとしたのはミッテラン・仏大統領であった。フランスは歴史的にセルビアと結び付きが深く、EC内でも「ユーゴ統一支持」の急先鋒であった(28)。更に、「統一ドイツ」の誕生後、EC内におけるドイツの影響力を抑え、フランスの立場を守ることは当時の仏外交の最大の課題であった。九一年九月十八日の独仏首脳会談の後、ドイツの承認政策は「ECの他の加盟国がクロアチアを承認すれば、ドイツも承認する(29)」とまで後退した。一方で、十月二日、スロヴェニアのクーチャン大統領とパリで会談したミッテランは、「クロアチアとは切り離して、スロヴェニアだけを外交承認する用意がある(30)」と表明した。
  こうして一時的に後退を余儀なくされたドイツの承認政策は、同年十月七日にザグレブのクロアチア大統領官邸が連邦軍に攻撃を受けたこと(31)などから、再び早期承認へとシフトする(32)。十一月に入ってもドイツの「暴走」は止まらず、ECの共通外交政策は重大な試練に直面することになる。十一月七、八日にローマでNATO首脳会議とEC外相会議が行われた。期間中、コールはテレビインタビューに応じ、「今年中にスロヴェニアとクロアチアを独立承認する」と言明した。八日のEC外相会議では、セルビア制裁(経済協力の六カ月凍結、繊維製品輸入中止)を決定したが、クロアチアでの戦争は続いた。こうした状況下で、ミッテランが十一月十四日に、ボンを再訪した。ここでミッテランは「国境維持、少数民族保護、近隣との安全保障の条約の有効性」などの「独立承認基準」を提案した。領内のセルビア系住民の保護という点で、クロアチアが「基準」を満たしていないことは明かであったため、独立承認は断念されたかに思われたが、ドイツはEC内で強力な工作活動を展開した。
  ここに来て、国際的なドイツ批判が高まっていく。フランス、アメリカ、イギリスがクロアチア承認に反対し、「大ドイツ」登場を警戒するオランダ、二共和国の独立宣言に対応して同様に独立の準備を進めていたマケドニア共和国の「マケドニア」と言う国名に反対するギリシャなども反対した(33)。キャリントン和平会議議長も「独立承認によって、ハーグ和平会議が中断してしまうことは疑いない」、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナへ(戦火を)飛び火させかねない」と批判した(34)。自国への戦火の拡大を懸念するボスニアのイゼトベゴヴィチ幹部会議長(ムスリム系)はゲンシャーに対して、クロアチアを承認しないように再三要請した。さらに当時のデクエヤル国連事務総長も「時期尚早且つ選択的な独立承認は現在の紛争を拡大させる危険があり、とりわけ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとマケドニアに重大な結果をもたらすことになろう」と警告した(十二月十二日、ゲンシャーへの書簡)。これに対してゲンシャーは「承認しないことは、そのことを自分たちの『征服政策』の承認と解釈する連邦軍による武力行使の更なる拡大を導く」と反論(十三日のデクエヤル宛て書簡)するが、デクエヤルは再度、「コントロールされない選択的独立承認」に懸念を表明し、さらに「(承認が)PKO派遣のために必要な諸条件を確保しようとしている自身や事務総長特使の和平努力を阻害する畏れがある」と批判した(十四日のゲンシャー宛て書簡(35))。

  (iii)  ドイツの単独承認とECの追随
  にもかかわらず、ゲンシャーは「承認問題」での手綱を緩めることなく、その政策遂行に猛進した。九一年十一月にはイタリアが承認に傾く。次いで、マーストリヒト条約交渉において、条約に関する交換条件として英仏両国から消極的ながらも支持を取り付けることに成功する(36)。同年十二月十六日にブリュッセルで開催されたEC外相会議の席で、ゲンシャーは二つの点で妥協にこぎつけた。一つは、クロアチア承認問題のECとしての態度決定の期限を九二年一月十五日と定めたことであり、もう一つは、承認の基準を審査するバダンテール委員会の活動にも期限を設け、承認までのプロセスを手続き的・形式的なものに変質させたことである(37)。こうして「九二年一月十五日」は事実上「承認の期限」と認識されるようになってしまったのである。
  この時のEC外相会議の冒頭でクロアチア早期承認提案に明確に賛成したのは、デンマークとベルギーの二カ国のみであり、イギリス、ギリシャ、スペイン、オランダ、フランスの各国が反対を表明した。会議が紛糾した後に、デンマーク外相のイェイセンが提案した「旧ユーゴの共和国で、ECの独立承認を希望するものは、十二月二三日までに申請すること。その際、ECの独立承認基準を受諾する旨を明確化する(38)」という妥協案が受け入れられた。旧ユーゴ問題に詳しいジャーナリストの千田氏は、この決定は「旧ユーゴの各共和国がECの独立承認基準を受諾する旨を明確化する、という条項によって、申請時点では基準を満たしていなくても、『受諾する』と明言すれば、申請が受理されるという重大な点が含まれていた(39)」と、その問題点を指摘している。
  結局、ドイツはこの一週間後の十二月二三日にクロアチアとスロヴェニアを単独承認するに至った。クロアチアに関しては、「国内の少数民族(セルビア系住民)の人権擁護が不十分である」との非難が一般的であった。にもかかわらず、ドイツはクロアチアに「人権問題に関する憲法の条項の改正」を促し、その結果、「承認基準を満たしている(40)」として早期単独承認に踏みきったのであった。セルビアと連邦軍は「ドイツ第四帝国がわが国への侵略行為を行っている」との非難を再三繰り返し、「ドイツ脅威論」を展開、自国の戦闘行為を正当化しようとした。
  翌九二年一月十五日、「態度決定の期限」切れを前に、ECはドイツに引きずられる形で両共和国の独立を承認する。バダンテール委員会は同日、「スロヴェニアとマケドニアに関しては(基準を)満たしているが、クロアチアとボスニアについては、留保条件(自国憲法での少数民族保護の条項や住民投票で民意を問うことなど)を付ける」という裁定結果を公表した。しかし、マケドニア共和国に関しては、「クロアチア・スロヴェニア両国の独立承認と引き換えに、ドイツから反対」の援護射撃を得ることに成功したギリシャの猛烈な反対で、独立は認められなかった。ここにおいて、ECが目指した「欧州共通外交・安保政策」は、マーストリヒト条約交渉を取引材料に使ったドイツの「スタンドプレー」によって、完全に失敗に終わってしまう。
(4)  ECの共通外交政策挫折の要因
  統合を目前に控え、共通外交政策のテストケースとしてユーゴ問題に取り組んだECであったが、とりわけ、独立承認に関して「一貫したアプローチ」を取ることができなかった。では、この背景にはどのような要因があったのであろうか。
  まず最初に指摘できるのは、ECがユーゴ危機に介入していったのが「マーストリヒト条約」交渉と同時進行であったことである。日本国際問題研究所の客員研究員であるフランク・ウンバッハ氏の指摘によれば、「(紛争発生当時)ブリュッセルの官僚達の頭にあったのはユーゴ問題の根本的な解決ではなく、欧州共通外交・安保政策を編み出すために、いかに民族紛争を利用できるかということであった(41)」のである。英仏両政府は、ドイツの主張(「独立承認によって紛争を停止させることができる」とする)の効力に疑いを持っていたものの、ドイツの圧力に屈し、九一年十二月十一日に予定されていたマーストリヒト条約調印の延期を避けるために、承認を了承してしまう(42)。ユーゴ問題はEC共通外交のシンボルであったため、またそれ故に、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となってしまったのである(43)
  ECは「ユーゴ問題はヨーロッパの問題である」として米国の介入を嫌い、自分たちで問題を解決しようと、クロアチアへの監視団の派遣、度重なるEC拡大外相会議の開催やそこでのコミュニケの発表、また旧ユーゴ和平会議の主宰などに見られるように、「調停者」として活動したものの、承認問題をめぐる「内輪もめ」から、結局、国連に特使任命を依頼すること以外、何もできないことを認めざるを得なくなった(44)。さらにECは、独立承認基準を審査するために自らが創設したバダンテール委員会が下した勧告を「棚上げ」にしたことで、「中立な仲介者」としての「不適格性」をも露呈することにもなった。
  二つ目の要因は「米国の不介入の姿勢」である。一九八九年に駐ユーゴ米大使に就任したツィンマーマンは、ユーゴに対して「NATOとワルシャワ条約機構間のバランスとしてのかつての地政学的重要性はもはやない(45)」と認識し、そのことは米政府の政策にも大きな影響を及ぼした。九十年当時の米国の対ユーゴ政策を要約すると、「ユーゴの崩壊はユーゴ国民にとってもヨーロッパの安全にとっても利益にならない」との認識からユーゴの統一を支持し、「欧州は分離独立を鼓舞するような行動は避けるべきである」とドイツを牽制し、欧州に「統一と民主主義及びマルコヴィチ(ユーゴ連邦首相)の改革を支持する声明を出すように」要求した(46)。この時点で、米国は問題の解決にマルコヴィチ首相が当時連邦内で進めていた経済改革に期待を寄せていた(47)。(結局、この改革は失敗に終わる。)
  しかしながら、米国の基本姿勢は「(ユーゴ問題は)欧州の問題なので欧州に任せる」であり、米外交問題のプライオリティは「旧ソ連問題」と「(湾岸後の)中東和平問題」にあった(48)。米国がECの手にユーゴ問題を委ねたかった理由として、ゴウ氏は、(1)「国連を操作し、新帝国主義的なやり方で他国を自らの目的のために利用している」と言う、国際社会の米国に対する認識に敏感に反応したこと、(2)軍事介入の場合の泥沼化を懸念し、実際の責任を負担したくないという欲求があったこと、の二点を挙げている(49)
  この米国の「消極的」姿勢は政権がブッシュからクリントンへと変わった後も、基本的に受け継がれ、国連でPKO派遣を承認しても、PKO部隊に現地軍からの攻撃に対して実質的な対抗能力を付することを意味する「米地上軍派遣」には一貫して否定的な態度を取り続ける。承認問題に関しても、内戦発生当時から、米国は連邦の統一に固執し、早期承認に強く反対した。ところがボスニアの崩壊に強力に反対し、ECの早急なボスニア承認を疑問視(50)しながらも、ECがボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の独立承認を決定した九二年四月六日の翌日にボスニアと同時にスロヴェニアとクロアチアを一括承認するに至り、一貫した姿勢を全うすることができなかった。
  こうしてデクエヤル事務総長らが懸念していたように、独立承認を契機にクロアチア紛争はボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国へと飛び火し、ボスニアはその後三年半余りに渡って泥沼の内戦を経験することになった。この点に関して、欧米諸国が負う責任は重大である。
  国連憲章がその第八章で規定しているように、地域紛争解決の任を地域機構が受け持つという文脈で、ECによる仲裁活動は開始当初、その効力を大いに期待されたものであった。しかしながら、「加盟国間のコンセンサス」を重視し、また「強制力としての軍事組織」を持たないECは、結局、この問題で自らの「調停能力の欠如」をさらけ出し、国連に頼らざるを得なくなった。そこで次章では、ECに代わって紛争解決の表舞台に登場することになった国連の関与に焦点をあてて分析していこう。

(1)  James Gow, Triumph of the Lack of Will−International Diplomacy and the Yugoslav War, Hurst & Company, London, 1997, p. 30.
(2)  Gow, Ibid., p. 21.
(3)  同じことは同時期に派遣が決定したカンボジアへのPKOにも言える。カンボジアの場合、ユーゴよりも更に「後回し」の状態になった。このことは、国連の平和維持活動の持つ制約を如実に示している。
(4)  クロアチアは、当初、六月三十日に独立を宣言することを予定していたが、スロヴェニアの独立宣言の発表の動きに乗じて、慌てて日程を繰り上げた。
(5)  企業の意思決定を国家や党ではなく、その企業の労働者集団、あるいは労働者総体からの代表者集団が行うというもので、ソ連の影響下を離れ、「独自の社会主義」を目指す試行錯誤の中で生みだされたシステムであった。
(6)  東欧の激変後、ユーゴが何故民主主義ではなくナショナリズムに向かったかという点に関して、ウォーレン・ツィンマーマン元駐ユーゴ米国大使は「軽べつに値するほどの悪い共産主義でもなく、信じるに値するほどの民主的な対案も持っていなかった」ためであると指摘している。(Warren Zimmermann, Origins of a Catastrophe, Times Books, NY, 1996, p. 37.)
(7)  この背景には、北の先進共和国スロヴェニアとクロアチアがユーゴ独立前、数世紀にわたってハプスブルク帝国の支配下にあり、その後も経済的、文化的に西側との交流が盛んで、早くからECへの加盟を望んでいたのに対し、セルビアでは「大セルビア主義」による「セルビアの復活」を唱えるミロシェヴィチ・セルビア大統領の主張に、緩やかな連邦制の下での「セルビア封じ」に不満を持っていたセルビア人が敏感に反応したことが挙げられる。
(8)  国民総武装制を敷いていたユーゴでは、連邦軍以外に「地域防衛軍(TO)」が市町村ごとに組織されており、その指揮権は各共和国にあった。
(9)  この合意により、域内の連邦軍二万三千人及び戦闘車両、重火器が七月七日以降三カ月以内に、スロヴェニア国外に撤退することも決まった。
(10)  Spyros Economides & Paul Taylor, Former Yugoslavia, James Mayall (Ed.), The New Interventionism 1991-1994:United Nations experiences in Cambodia, Former Yugslavia and Somalia, Cambridge University Press, Cambridge, 1996, p. 65.
(11)  アメリカ国務長官ベーカーも、九一年六月二一日に米国代表としてのみならず、CSCE代表としてベオグラードを訪問し、「民主的・統一的ユーゴを支持し、米国は一方的離脱行為を承認しない」と声明を出した。しかしながら、当時の連邦政府と連邦軍首脳はベーカーの言動を「アメリカは実力行使を容認」したサインとして受け止め、ベーカーが帰った六日後、戦車部隊をスロヴェニアに出動させた。(千田善、『ユーゴ紛争−多民族・モザイク国家の悲劇』(以後、千田@と表記)講談社現代新書、一九九三年、二四三頁。)
(12)  九一年六月十九日にベルリンで開催されたCSCE外相協議会でも、ユーゴ統一支持が打ち出された。しかしCSCEは少数民族及び人権擁護のための組織であるにもかかわらず、組織としての声明や合意を行使する手段がないため、紛争期間中、CSCEの声明は象徴的な意味しかなかった。(フランク・ウンバッハ、「旧ユーゴスラヴィア紛争とNATOの役割ー欧州安全保障への教訓」(原題=The Wars in Former Yugoslavia and the Role of NATO:Lessons of Wars and Diplomacy for Future Security Challenges)佐藤治子訳、『国際問題』一九九六年五月号、二九頁。)
(13)  英国政府は、ユーゴの内戦を「民族的」且つ「歴史的」な要因に起因するものであると見なしていた。換言すれば、「ユーゴ」と「北アイルランド」とを同列視していたのであった。(Gow, op. cit., pp. 175-6.)また、英国は歴史的に「セルビア寄り」である。
(14)  Aleksandar Pavkovic´, The Fragmentation of Yugoslavia−Nationalism in a Multinational State, Macmillan Press, London, 1997, pp. 137-8.
(15)  Pavkovic´, Ibid., p. 138.
(16)  国連PKOの派遣(仏政府の提案)、拡大トロイカによる更なる仲介努力、ECあるいはWEU(西欧同盟)による軍事介入、及びクロアチアとスロヴェニアの即時独立承認(独政府の提案)の四点。
(17)  Pavkovic´, op. cit., p. 147.
(18)  Pavkovic´, Ibid., p. 148.
(19)  この提案にはセルビア(と連邦軍)を除く五共和国が同意した。セルビアの同盟国と見なされていたモンテネグロが同意した背景には、「(提案を)拒否することは国際的な孤立と制裁につながる」(Gow, op. cit., p. 57)という危機感があったためである。が、後にモンテネグロはセルビアからの圧力で同意を撤回した。
(20)  独立宣言前の早い時期から、スロヴェニア政府は、オーストリア外相・モックから独立のためのサポートを得ることができていた。したがって、元々は早期の国際承認を期待していなかった二共和国が、国際社会の警告を無視してまで独立を宣言した背景には、この支援が西欧諸国に拡がっていくであろうという期待もあった。(Pavkovic´, op. cit., p. 125.)
(21)  ドイツにはクロアチアからの出稼ぎ、移民が多い。
(22)  佐藤昌盛、「ドイツ外交の始動と誤算ー「東方政策」を中心に」『国際問題』一九九二年八月号、二七頁。
(23)  この世論形成に寄与したのが、第一に、クロアチア支援の論陣を張った新聞各紙をはじめとするマスコミの報道であり、第二に、クロアチア・スロヴェニア両政府やクロアチア系移民組織のロビー活動、並びに主にバイエルン地方を中心とするカトリック教会(及びバチカン)の活動であった。(千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したかー悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(以後、千田Aと表記)勁草書房、一九九九年、二五−六頁。)
(24)  この時期、ドイツのバイエルン州を含む地方レヴェルの経済・環境協力組織である「アルペ・アドリア会議(アルプス山脈とアドリア海周辺の各国内部の自治体の協議機関)」も、クロアチア・スロヴェニア独立支持を明確にした。バイエルン州はカトリックの影響が強く、コール政権与党のCSU(キリスト教社会同盟)の地元である。これ以外にもアルペ・アドリア会議加盟の各地域の圧倒的多数はカトリック地域である。(千田A、三三頁。)
(25)  千田@、二四三頁。ゲンシャー独外相は九一年夏以降たびたび、セルビア側や連邦軍を牽制し、圧力をかけるために「戦闘が続けば、クロアチア独立を承認する」と述べたが、これを逆手にとったクロアチア政府は、「承認のためには戦闘を続ければいい」と停戦違反の攻撃を繰り返し、内戦は拡大していったのである。(千田@、同頁。)
(26)  千田氏は、「ゲンシャーの真意は、セルビア側の武力行使を野蛮だと非難することで、それが『ヨーロッパのスタンダード』に外れた行為であり、欧州新秩序に乗り遅れたくなければ(=ECに加盟・協力したければ)ただちに『クロアチアへの侵略』を中止せよ、と説得することにあったのであろう」と指摘している。(千田A、四十頁。)
(27)  フランスの憲法裁判所判事であるバダンテールを長とし、EC各国から法律学者が集まり、独立承認問題に対して法律的見地からアプローチすることになった。
(28)  ゴウ氏によると、フランスは紛争勃発当初、ユーゴ崩壊を国家中心的に理解し、また、自国のコルシカ問題との関連から、統一支持を打ちだしていた。これはまた、セルビアとの外交チャンネルを維持し、セルビアに影響を行使しようとする意図の表れでもあった。(Gow, op. cit., p. 159.)
(29)  ミッテラン訪独直後のコールとゲンシャーの記者会見。
(30)  クーチャンの記者会見での発言。
(31)  連邦軍側は攻撃を否定し、「クロアチアの自作自演である」と主張した。
(32)  ゲンシャーは、十月十二日のFDP(自由民主党連立与党でもありゲンシャーが率いる)のノルトライン・ワストファーレン州党幹部会の席で、(1)連邦軍のクロアチアからの撤退、(2)武力による国境線変更不承認、(3)少数民族の権利の承認と擁護、(4)独立を望む共和国の独立と国際社会によるその承認は、紛争解決策の不可欠の一部であり、民主的に表示された国民の意志を非合法とすることはだれにもできない、とその「早期承認」政策遂行の決意を表明した。(千田A、四十頁。)
(33)  千田A、四三頁。ギリシャは、自国内のマケドニア系住人が、隣国マケドニア共和国の独立に鼓舞されて、ギリシャからの分離独立を目指す可能性を警戒し、また「ギリシャ帝国」時代からの歴史的名称である「マケドニア」の呼称を同共和国が使用することを認めず、同共和国の独立に強力に反対した。
(34)  十二月二日、バンデンブルックEC理事会議長への書簡。
(35)  Javier Perez de Cuellar, Pilgrimage for Peace, Macmillan Press, London, 1997, pp. 493-4.
(36)  ウンバッハ、前掲論文、二七頁。十一月末にボンでイゼトベゴヴィチと会談したゲンシャーは、その際にイゼトベゴヴィチから承認に関する青信号を得た、と推測したようである。(Zimmermann, op. cit., p. 176.)
(37)  千田A、四六頁。
(38)  千田A、四九頁。
(39)  千田A、同頁。
(40)  千田氏によれば、実際には、クロアチアはドイツ政府との約束さえも破って、憲法改正は行わなかった。独立承認に不可欠とされた「人権(擁護)裁判所」の設置が決まったのは、九二年五月に「憲法的法律」と言う名で新しい法律が制定されたときである。しかしこれさえも、セルビア系住民の人権保護には事実上何の効果もなかった。(千田A、五十頁。)
(41)  ウンバッハ、前掲論文、二八頁。
(42)  九一年末、フランスは、ユーゴの崩壊を認め、親セルビアのスタンスを微調整した。その政策変更の背景には、(1)「親セルビア」外相R・デュマから、(セルビアに対して)より強硬なA・ジュッペへの交代、(2)仏政府によるクロアチアへの介入計画の責任者に就任した当初、武力行使に強く反対していたモリヨン将軍が、一定の状況下での武力行使の必要性を認識するようになったことが、仏政府内に与えた影響、(3)ボスニアでの破壊行為を前にして、セルビア側の責任を認めたこと、並びに、(4)人道的な理由から、より強力且つ介入主義的な立場へとシフトしたこと、が挙げられる。(Gow, op. cit., pp. 162-3.)
(43)  Pavkovic´, op. cit., p. 150.
(44)  ウンバッハ、前掲論文、二九頁。一方で、ECの失敗の内部的要因であるドイツは、国際社会の批判が集中した後、ユーゴ問題に消極的になっていった。しかしながらドイツ政府は現在も、当時の決定と政策を誤りであったとは公式に認めていない。(千田A、二四頁。)
(45)  Zimmermann, op. cit., p. 7.
(46)  Zimmermann, Ibid., pp. 64-5.
(47)  しかし、九十年十一月に議会で「セルビアがコソヴォでの人権侵害をやめないかぎり、ユーゴに対する経済支援を禁止」するニクルス修正案が通過する。このニクルス修正はユーゴを対象としており、米国が解決の要として期待するマルコヴィチだけにダメージを与えるものであり、「政府と議会の政策が矛盾していた」とツィンマーマンは指摘している。(Zimmermann, Ibid., p. 131.)
(48)  当時の国務長官ベーカーはユーゴ問題の主導権を西欧諸国に委ねた理由を以下のように説明している。すなわち、(1)ソ連の影響力が低下していく一方、西欧諸国が統合を強化して一九九二年に欧州連合(EU)を創設する方針を推進しており、ECを通じて主導権を発揮する姿勢を見せていたこと、(2)米国の重要な国益にはかかわらない一方、ユーゴが欧州の中心に位置していることから、西欧諸国の重大な国益にかかっていること、(3)一九九一年の時点ではブッシュ政権にとってソ連情勢の方がはるかに重大な問題であり、また湾岸戦争後の中東和平の問題に優先的に対処しなければならなかったこと、(4)NATOとWEUとの関係をめぐって、米国と西欧諸国との対立が続いていたこと、(5)西欧諸国にユーゴ問題を任せて、結束して行動できるかどうかの試金石にさせようとする、暗黙の突き放した空気があったこと、である。(James A. Baker, III, with Thomas M. DeFrank, The Politics of Diplomacy:Revorution, War & Peace, 1989-1992, NY, G.P. Putman's Sons, 1995, pp. 636-637.)
(49)  Gow, op. cit., p. 206.
(50)  Zimmermann, op. cit., p. 187.


二、クロアチア内戦への国連の関与とPKO活動


(1)  国連介入のプロセス
  旧ユーゴ問題に関して、国連はその組織上のいくつかの根本的制約などから、大きく出遅れることになった。それは、一つには国連が国家単位で加盟、構成されていることから、国家間の国際紛争には対応できるが国家内のもめ事には対応する仕組みが無いということである。紛争発生当時の国連加盟国は「ユーゴ連邦」であり、そのことが「(加盟国の)内政不干渉」の原則をもつ国連の動きを制約するものとなり、国連の「傍観」を許すことになった。今一つは「地域主義」の原則である。これは例えば、「アフリカのことはアフリカ諸国が、アジアのことはアジア諸国がまず協議して解決する」というもので、ユーゴ問題の場合、その役割を国連の前にECが引き受けることになったのである。さらに国連の出遅れを決定的にしたのが、事務総長の消極的な姿勢であった。当時の事務総長デクエヤルは「ユーゴ危機は(ユーゴの)内政問題である」と主張し、国連の関与を否定した(1)。加えて「停戦合意後に派遣」を原則とするPKOを戦闘終了以前に派遣することにも反対であった(2)。また、事務総長の交代(九二年一月、ブトロス・ガリ氏が新事務総長に就任)に伴う膨大な事務手続きに事務局が時間を取られたのも国連の対応が遅れる一因となった。その上さらに、国連は同時期に、湾岸戦争への多国籍軍派遣、カンボジアへの「選挙管理」と「暫定統治」という新たな任務を伴ったPKOの派遣を次々に決定していた。冷戦後の国際社会において、その紛争解決能力への期待が大いに膨む中、国連は「紛争解決者」としての新たな役割を果たすために必要とされる新たな投資を欠いたまま、従来の能力や資力だけで孤軍奮闘を余儀なくされていたのであった。
  こうした国連がユーゴ問題で最初に取った措置は、九一年九月二五日に採択された安保理決議第七一三号であった(3)。そのきっかけは、安保理議長国となったフランスと当時の安保理非常任理事国であったオーストリアが安保理内で強力に働きかけたことによる(4)。フランスはEC内で対処方法をめぐって意見が一致しないことと、フランスがNATOに代わる欧州の軍事組織として推進するWEU(5)を紛争処理のために用いることに対してEC内で同意が得られなかったことによって、紛争処理の場を国連に移すことを望むようになった。一方のオーストリアの行動は隣国として紛争が拡大する可能性に対する懸念とクロアチアとスロヴェニア両共和国との歴史的・文化的結び付きに応えたものであった。
  この決議によって、安保理はユーゴ連邦への武器禁輸措置を決定した。これはユーゴ国境の保持を目的とし、ECの協力を得た憲章第七章下の行動であった(6)。しかし、この決議には問題点があった。それはその時点でユーゴが「武器輸出国」であった事実がほとんど考慮されていなかったことである(7)。したがって、この決議は紛争の一方の当事者である連邦軍に有利に働き、武器をほとんど保有していなかった共和国側には不利になり、現地での戦闘能力の不均衡を助長するものであった(8)
  十月に入って、ECの要請を受けて国連はバンス元米国務長官を事務総長特使としてユーゴに派遣し、その後仲介工作は彼の手に委ねられることになった。ECの仲裁努力の失敗が続き、国連PKOの派遣への期待が高まる中、九一年十一月九日、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領が安保理に対してクロアチア情勢を検討し、国連軍を派遣することを要請した。大統領からの要請を受けて安保理ではPKO派遣について検討されるが、十一月二七日の決議第七二一号は、PKOの派遣を時期尚早であると結論付ける(9)。「停戦協定が遵守されていないことからPKO派遣の条件が整っていない」と言うのがその主な理由であった(10)。しかし一方で、バンス特使による仲介工作が進む中、PKO派遣に対する国際的な圧力が高まっていく。こうした中、安保理決議第七二四号(九一年十二月十五日)は、PKO派遣の準備を進めることを容認する(11)。この時検討されていた決議案には、デクエヤルのイニシアティブに沿って、ドイツの姿勢を批判し、クロアチアの早期承認を事実上禁止する内容も含まれていた(12)。が、それに驚いたゲンシャーの必死の説得工作によって、決議からこれらの内容は削除された。
  九二年一月二日にバンスの仲裁によって、サラエボでクロアチア共和国政府と連邦軍及びセルビア共和国政府の三者で無条件停戦協定が調印される。これを受けて、同年二月に事務総長は安保理にPKO(UNPROFOR国連保護軍)の設置を勧告する(13)。安保理は二月二一日に決議第七四三号によって、UNPROFORの設置を決定した(14)。同じ決議の中で、UNPROFORは「平和と安全の諸条件を創造するための暫定的な取り極めである(15)」と定義された。当初の任期を十二カ月(16)と予定されたUNPROFORの派遣の決定によって、それ以後国連は紛争解決の主要アクターとして旧ユーゴの紛争に関っていくことになる。

(2)  UNPROFOR(17) の任務
  九二年一月二日の停戦協定はバンス特使の和平案を下敷きにしたものであった。すなわち、クロアチアの独立承認問題を棚上げにしたまま取りあえず停戦合意し、クロアチアのセルビア人地域を「国連保護地域(18)(UN Protection Areas:UNPAs)」に設定して、国連PKOを派遣、連邦軍は撤退するというものであった(19)。クロアチアでのPKO活動計画を明確化したのは、和平案の当事者間での原則合意(九一年十一月二三日)を受けて、九一年十二月十一日に提出された事務総長報告であった。ここで示された計画は、(1)国連軍と警察監視員を「国連保護地域」に派遣し、全クロアチア領内からの連邦軍の撤退と保護地域の非軍事化を実現する、(2)現地の権力機構と警察機構を監視する(20)、と言うものであった。すなわち、「停戦合意後の派遣」並びに「停戦監視」という任務の性格から、クロアチアでのPKO活動は「従来型」の活動であるとされた。
  従って、UNPROFORは前述の目的を達成するために、(1)保護地域へのアクセスを管理し、(2)保護地域が非軍事化されていることを保障し、(3)差別的な扱いをなくし、人権が擁護されていることを保証するために保護地域内での現地警察の活動を監視する権限が与えられた(21)。さらに、保護地域外では、UNPROFORの軍事監視団がクロアチア領内からの連邦軍及び非正規軍の撤退を検証することとなった(22)
  UNPROFORは軍事、文民(文民警察部門を含む)、情報、行政の四部門で構成され、要員数は軍事・文民を合わせて最大時で四万四千人を超え、予算も約十八億米ドルと国連史上最大規模のPKOであった(23)。また、その総司令部はボスニアの首都サラエボに設置された。UNPROFOR本部がサラエボに設置されたのは、(1)その活動がセルビアにもクロアチアにも基盤を置いていないという事実、(2)国連のプレゼンスがボスニアへの戦争の拡大を回避するかもしれないという希望、と言うのがその理由であった(24)
  軍事部門の総司令官は九二年三月から九五年三月(UNPROFORが正式に三つのPKO部隊に分割されるまで)の間に、五人の軍人が歴任している(25)。文民部門の長である事務総長特別代表は、九二年三月から九三年五月までを軍事部門の総司令官が兼任した後、トルワルド・シュトルテンブルグ(26)(ノルウェー・九三年五月から同年十二月まで)、明石康(日本・九四年一月から九五年十月まで)、コフィ・アナン(27)(ガーナ・九五年十一月から同年十二月まで)が歴任した。
  UNPROFORは展開後の一年間(九二年三月から九三年二月まで)に、現地情勢の変化に伴い、三度に渡って任務が拡大された。一度目は、九二年六月三十日に安保理決議第七六二号が採択されたときで、「ピンクゾーン(保護地域の外で、セルビア系住人が多数居住するクロアチア領内の地域)」での監視活動を開始した(28)。二度目は安保理決議第七六九号(九二年八月七日)で、UNPROFORが保護地域内への市民の進入の管理と国境線と一致する保護地域の境界での移民と税関の業務を行うことを決定した(29)。最後は、プレブレカ半島の非軍事化の監視とペルーカダムの管理を任務に新たに加えた安保理決議第七七九号で、九二年十月六日のことであった(30)
  九三年一月にクロアチア政府軍が「マスレニツァ奪回作戦」を挙行し、交通の要所をセルビア人勢力から奪還した後、UNPROFORは「従来型」の停戦監視のPKOの限界に直面することになった。何故なら、「従来型」PKOの場合、その活動の拠り所となる「停戦協定の遵守」は当事者の「善意の履行」に依存し、協定遵守を当事者に「強制」する権限や任務、さらにはそのために必要な軍事力もUNPROFORには与えられていなかったからである。当初予定の任期切れを直前にして、クロアチア政府側からの停戦違反により、本来の任務を完全に遂行できない状況に陥った国連は、UNPROFORの駐留延長と任務拡大について議論することになった。それでは、この議論の推移について次節で詳しく見ていこう。

(3)  駐留延長と任務の変容
  当初一年間の任期で活動を開始したUNPROFORは、現地で当事者の停戦破りが続き、活動能力そのものにも疑問が呈されるに至る中、八度に渡ってその任期が延長されている。クロアチアでのPKO活動の任務と性格付けに関して、国連がどのような認識を持っていたかについては、任期延長に際して安保理の要請に基づいて提出された事務総長報告を眺めると明らかになる。以下に、任期延長の際の議論を順を追って検討していこう。
  予定の任期満了を間近に控えた九三年二月十日に事務総長報告が提出された。それによると、「全当事者がクロアチアでの国連PKO計画を履行できていないこと」を喚起したうえで、「包括的な政治解決は既に存在するというクロアチア政府の立場も、独立共和国としての承認を要求するセルビア人勢力の態度も紛争の解決とはならず、その代わりに大規模な戦闘を導きうる」との懸念を表明した(31)。さらに報告は「これら二つの事項に取り組まないかぎり、クロアチアでのUNPROFORの任務を延長するための確固たる基盤は存在しない(32)」と結論付けている。また事務総長はクロアチアでの強制行動には反対であった。その一方で、「最近のクロアチア側の攻撃から生じた諸問題を解決し、国連PKO計画の完全な履行のための基盤を確立し、旧ユーゴ和平国際会議の諸原則に基づいて紛争の解決を交渉するための枠組みに合意するために緊急の努力がなされる必要がある」として、和平会議の共同議長にそのために必要な時間を与えるために、同年三月三一日まで、UNPROFORの任期を延長することを安保理に勧告した(33)。(延長を承認したのは同年二月一九日の安保理決議第八〇七号(34)。)これを受けて、共同議長はニューヨークとジュネーブにおいて数回に渡って両当事者との交渉を行ったが、双方の基本的な相違は依然として残った。したがって、事務総長は九三年三月三一日の任期切れを前に、「交渉のための更なる時間が必要」であるとして、安保理に対して、UNPROFORの三カ月の任期延長を勧告した(35)。三カ月間の任期延長(九三年六月三十日まで)を認めた安保理決議第八一五号で安保理は公式に、権力主体としての承認を求めるセルビア人勢力の主張を受け入れないことを認めた(36)
  三度目の任期延長は同年六月三十日であった。(安保理決議第八四七号(37)。)これに先立つ報告の中で事務総長は、「全当事者による国連PKO計画の履行に失敗していること」を喚起しながらも、UNPROFORのプレゼンスが「紛争を管理し、当事者間の交渉を促進する空気を助長するために不可欠である」と指摘し、さらにこうした状況でのUNPROFORの撤退によって「地域での紛争が継続する可能性」があり、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの人道的活動に不都合を生じさせる原因」になるとして、同年九月三十日までの任期延長を勧告した(38)
  同年九月のクロアチア政府軍の軍事攻勢を受けて、バンス特使とUNPROFOR軍総司令官の仲裁により、九月十五日、当事者間で停戦協定が合意された。九月二十日に提出された報告において、事務総長は六カ月間の任期延長を安保理に勧告した(39)。彼はまた、「クロアチア側の攻勢により、国連PKO計画の実施は不可能ではないとしても、ますます困難な状況にある」と指摘し、「問題の根本的な解決は政治的対話を通じて追求されるべき」であるとし、「UNPROFORの主たる目的は、交渉の開始を促進するために平和を維持することのみであり得る」との認識を表明した(40)。一方で、「PKO軍の安全を強化するために、クロアチア領内における近接航空支援(41)の拡大を要請」した(42)。この機会に事務総長はまた、クロアチアのツジマン大統領の「UNPROFORを事務総長特別代表と軍総司令官の指令の下に統一された軍事、後方支援、行政の各機構を保持したまま三つの部隊(クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア)に分割する」という提案を「考慮に値する」と言明した(43)
  にもかかわらず、九月二四日、クロアチア政府は「安保理決議の履行を促進するために、UNPROFORの任務が修正されない場合は、九三年十一月三十日までにクロアチアからのUNPROFORの撤退を要請する」と安保理に通告した。これを受けて安保理はまず、九二年九月三十日にUNPROFORの任期を二十四時間延長し(安保理決議第八六九号(44))、次いで、十月五日までの任期延長を認めた(安保理決議第八七〇号(45)・十月一日)。続いて、十月四日、安保理決議第八七一号を採択して任期を九四年三月三一日まで延長すると共に、UNPROFORに、「要員の安全と移動の自由を保証するために、武力行使を含めた必要な措置を、自衛のために取ること」を認めた(46)。このことは、それまで攻撃を受けた場合にのみ限られていたPKO軍の武力行使に関して、危険な場合の先制攻撃の権限が加えられた事を意味した(47)。同じ決議の中で安保理はまた、「国連PKO計画の全面的な履行の重要性」を主張し、「全関係当事者、とりわけ、ユーゴ連邦共和国(セルビア共和国とモンテネグロ共和国から形成)に、その履行に全面的に協力すること」を要請し、クロアチアでのPKO活動の実施に対するユーゴ連邦共和国の責任に初めて言及した(48)
  九三年十二月十七日、UNPROFORの仲裁により、クロアチア政府とセルビア人勢力がクリスマス休戦協定に調印した(49)。さらに両当事者は、信頼醸成措置の実施と「一般的且つ永続する」停戦のための交渉を早急に開催することにも同意した。九四年に入り、三月二九日にザグレブにおいて、米ロ代表、和平会議の代表及びUNPROFOR軍総司令官らの出席の下、両当事者が停戦協定を締結した。同年三月末の任期切れを前にして、事務総長は、「旧ユーゴの問題には(現時点で)軍隊派遣国が準備できているよりも多くの軍隊が必要」であるが、それにもかかわらず、「UNPROFORの派遣は、紛争当事者が政治解決を達成するのを支援しようという国際社会の意思を体現」していることから、紛争当事者自身の和平達成への責任を強調すると同時に、安保理に対して任期延長を勧告した(50)。安保理は九四年九月三十日までの六カ月間の任期延長を安保理決議第九〇八号で承認(51)し、これによって、クロアチアでの UNPROFORの活動は九四年三月二九日の停戦協定の監視に集中することになった(52)。同年六月から、クロアチア政府に支援されたクロアチア避難民協会のメンバーによって保護地域内の全ての検問所が封鎖されるという事件が続発した。これは遅々として進まない帰還作業に苛立ったクロアチア系の避難民たちが彼らの窮状に注目させ、帰還作業を促進するためにUNPROFORに対して圧力をかけることを目的とした行動であった。UNPROFORとクロアチア人勢力との交渉により、八月十九日に封鎖は解除されたが、九月に入ってもこの問題をめぐる緊張は緩和されなかった。
  時期を前後して九四年四月に、オーエン和平会議共同議長(EU側代表)の尽力により、英米仏独ロ五カ国、EUの代表及び共同議長で構成されるコンタクトグループが結成された(53)。このコンタクトグループは元来、ボスニア問題協議のために結成されたものであったが、事務総長は同年九月十七日に提出した報告の中で、「旧ユーゴの紛争は緊密に相互連関している」との認識に立ち、このグループの活動が「UNPROFORの将来にとって非常に重要」であると主張した(54)。同じ報告の中で事務総長は、クロアチアでのUNPROFORの任務に関して、四つの問題領域を明確にした。すなわち、(1)保護地域内の非軍事化、(2)「ピンクゾーン」内でのクロアチア政府の権力の復活、(3)国境管理の確立、及び(4)難民・避難民の帰還の支援、である(55)。これらの問題を解決するには、国連PKO計画を完全に履行することが前提となり、そのためにはPKO軍による強制行動もしくは両当事者の合意が必要であったが、UNPROFORはこうした強制行動を行うための手段も権限も持っていなかった。また、UNPROFORはクロアチア政府やクロアチアのメディアから再三にわたって、任務遂行能力がないことを批判されていたが、こうした非難はUNPROFORの任務の矛盾を反映したものでもあった。続けて事務総長は、「UNPROFORのプレゼンスは不満足なステータス・コーの維持に寄与しているに過ぎない」ものであるが、「停戦協定の遵守を保障することが最も重要」であり、「交渉再開のための基盤を創造するために更なる努力がなされる必要」があるとして、更なる任期延長を安保理に勧告した(56)。(九四年九月三十日、安保理はその決議第九四七号において、UNPROFORの任期を九五年三月三一日まで延長した(57)。)これが、結果的にはUNPROFORのクロアチアにおける活動の最後の任期延長となった。
  以上に見てきたように、度々その任務に変更が加えられても、国連のクロアチアにおけるPKO活動に対する認識は、一貫して「停戦監視」型のそれの域を越えることはなかった。それ故に、「紛争当事者の同意」を原則とする「従来型」のUNPROFORは、九五年初頭のクロアチア政府からの撤退要求を前に、活動計画そのものの変更を余儀なくされることになったのである。

(4)  UNCROの設置
  九四年三月の停戦協定は、和平会議とUNPROFORの仲介の下での交渉のための建設的な空気を生み出すことに寄与した。信頼醸成に向けての次なるステップとして、同年十二月二日に紛争当事者は経済問題に関する協定に調印した(58)。経済問題交渉と平行して、和平会議の代表に米ロ大使を加えた、所謂「ザグレブ4」が問題の政治的解決のための草案を練った。しかし現地では、依然としてUNPROFOR要員の移動の自由が両派によって制約され、停戦協定違反も増加した。
  翌九五年一月に入って、ツジマン・クロアチア大統領が同年三月三一日以降のUNPROFORの更なる任期延長を認めない旨を事務総長に通告した(59)。UNPROFORの駐留そのものが脅かされるという事態を受けて、安保理はその議長声明の形で、国際的に承認された国境内におけるクロアチアの主権と領土保全に対する言質に言及した(60)。ここにおいて安保理は、「国連PKO計画の主要な条項が実施できていないことに対するクロアチア政府の懸念に理解(61)」を示し、一方的にクロアチア政府側の主張を認めることで、PKO三原則の一つである「中立性」を放棄してしまう。
  その後の数カ月間、現地では停戦違反が相次ぎ、緊張が増大した。その一方で、九五年一月三十日に、「ザグレブ4」が「クライナ、スロヴォニア、南バラナ及び西シルミウムに関する協定案」を両当事者に提案した。クロアチア政府が交渉の基盤としてこれを承認したのに対して、クニンのセルビア人勢力はUNPROFORの今後のプレゼンスが保証されるまではこれを受け入れないと拒絶した(62)。UNPROFORの駐留期限延長に関する交渉が難航する中、米国が状況を打開した。九五年三月十二日にツジマンとゴア副大統領が会談した後に発表された共同声明で、クロアチア政府は新たな国連軍の駐留に関して交渉することに同意した(63)。これを受けて行われた交渉の結果、クロアチア政府は、クロアチアに駐留する国連軍が、引き続きボスニアでのその任務に関連する機能を果たすことを了承した。
  こうした新たな展開から、九五年三月三一日に安保理はその決議第九八一号でUNCRO(UN Confidence Restoration Operation in Croatia:国連クロアチア信頼回復活動)の設置を決定した(64)。同決議はUNCROの任務を以下のように決定した。すなわち、(1)九四年三月二九日の停戦協定で予定されている任務を遂行すること、(2)九四年十二月二日に締結された経済協定の実施を支援すること、(3)関連する全ての安保理決議の履行を支援すること、(4)クロアチア共和国とボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の国境並びに、クロアチア共和国と旧ユーゴ・マケドニア共和国との国境の検問所における軍人、武器などの通過を管理・監視し、報告することによって支援すること、(5)クロアチア共和国を通過するボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国への国際人道支援物資の輸送を支援すること、及び(6)安保理決議第七七九号に沿って、プレブラカ半島の非軍事化を監視すること、の六点である(65)
  UNCROの設置を機に、旧ユーゴ地域での国連PKOは、名称を UNPF(UN Peace Forces:国連平和軍)に改称し、その展開地域に応じて、UNCRO(クロアチア)、UNPROFOR(3)(国連保護軍・ボスニア)、UNPREDEP(UN Preventive Deployment Force:国連予防展開軍・マケドニア)に三分割されることになった。こうしてクロアチアにおいては、UNPROFOR はその三年に及ぶ任務を終了し、それ以降当地でのPKO活動はUNCROに引き継がれることになったのである。

(5)  活動の評価
  UNCROの派遣を決定した安保理決議第九八一号により、UNPROFORはクロアチアでの任務を終了した。この三年に及ぶクロアチアでのPKO活動はどのように評価できるであろうか。以下に詳しく見ていこう。
  まず、組織上の問題点として、総司令部の問題が挙げられる。前述のようにUNPROFOR本部はサラエボに設置されたのであるが、これはボスニアに対して「シンボリックなプレゼンス(66)」を提供することが期待されていたからである。しかしその一方で、サラエボに本部があったことから、UNPROFORはその七五%の時間を当時起こりつつあったボスニア危機への対応に協力することで費やすことになってしまった(67)。さらには、展開の遅延の問題があった。インド人将校ナンビアの指揮の下、九二年三月八日に順次展開を開始したUNPROFORは、四月七日の安保理決議第七四九号で全面展開を承認され(68)、予定では四月末までに展開を完了することになっていた。しかし、全面的に活動が開始されるようになったのは同年六月終りになってからのことであった。その理由としては、(1)UNPROFORの役割について当事者間で合意が得られなかったこと、(2)保護地域内の非正規軍の武装解除についての条項が遵守されなかったこと、(3)国連内の財政上の問題、並びに(4)ボスニア内戦の勃発によって情勢が複雑化したこと、などである(69)
  次に「ピンクゾーン」の問題が指摘できる。これはそもそもバンスのPKO派遣計画に内在する問題が起因して生じたものであった。すなわち、この計画によれば、連邦軍はクロアチアの全領域から撤退しなければならないが、クロアチア軍は保護地域内からだけ撤退すればよいとされていたのである(70)。従って、保護地域以外の区域でクロアチア軍、セルビア人勢力の両派の戦闘が多発する事態となってしまった。UNPROFORの任務が「ピンクゾーン」にまで拡大されたのはこうした経緯からであった。
  さらに、展開の遅延や実施計画の履行の不完全から、保護地域内の警察の権威は九二年九月までに低下し、「法と秩序は保護地域内には存在しない(71)」と報告されるに至った。これらの諸問題と相まって、展開当初、現地の世論にあった「歓迎ムード」は活動が進むにつれて影を潜め、UNPROFORは逆に、現地住民の敵意の標的となってしまった。こうして九三年七月には、UNPROFOR軍は紛争勃発地域へのアクセスをクロアチア政府軍に拒絶される事態に陥った。
  最後に、当初のPKO実施計画で予定されていた任務に関して、成功・失敗の両面を指摘しておこう。まず、成果としては、(1)クロアチア領内からの連邦軍の完全撤退、(2)九三年一月の第四週まで、保護地域内及び「ピンクゾーン」内での敵対行為の防止に尽力した、及び、(3)九二年十一月からは、現地警察の再組織と再配備により、法と秩序の維持に成功した(文民部門の成果(72))、などを指摘できる。逆に、達成できなかった任務としては、以下のものが挙げられる。すなわち、(1)保護地域内の非軍事化、及びセルビア人勢力軍と非正規軍の武装解除に失敗、(2)難民及び避難民の自発的帰還を促すための平和と安全の諸条件の確立に失敗、(3)安保理決議第七六九号で要請された国境管理の確立に失敗、(4)最初の十カ月間、保護地域内の多くの地域で、恐怖と脅迫の空気を払拭できなかった、及び(5)保護地域内の差別と人権侵害を防ぐ文民警察の努力は完全には成果を挙げなかった(73)、である。
  以上のように、UNPROFORの活動は、クロアチア領内からの連邦軍の完全撤退を実施、並びに監視したことことと、当事者間の停戦交渉を支援して内戦に一応の終止符を打った点で、積極的に評価することができるが、その一方で、度重なる紛争当事者からの停戦違反に直面して、PKOの能力の限界を露呈することになり、PKO活動そのものに関しての問題を提起したと言える。国連が今後、PKO活動を行う場合に、我々はUNPROFORの活動の教訓から多くを得ることができるが、それらの教訓について次節で検討しよう。

(6)  活動からの教訓
  UNPROFORの活動から我々はどのような教訓を導きだし、またさらに、今後のPKO活動に際してそれらをどのように活用することができるであろうか(74)。それらの教訓を論じる前に、UNPROFORが「当事者間の合意」「中立性」「自衛の場合に限った武力行使」と言うPKO三原則に則った、「停戦監視型」のPKOとして活動を開始したという事実を再確認する必要があろう。それ故に、当該活動が抱えた諸問題は、従来のPKO活動でも直面したものに類するものが多く、これら諸問題に対応するための国連事務局の組織上の問題、国連の財政難、及び加盟国のPKO活動そのものやPKO改革に対する政治的意思の低さや加盟国間でのPKO活動に関するコンセンサスの欠如といったこれまでにも指摘されていた側面を露呈することになった。では以下に、これらの諸問題とそこから生みだされたいくつかの教訓について具体的に見ていこう。
  最初に、PKO三原則に関して言えば、UNPROFORの活動によってこれらの原則が変容した、と指摘できる。「当事者間の合意」は展開前から保護地域内のセルビア人勢力の同意を取り付けられず、不完全なまま活動が開始された。「中立性」の問題は、前述のように、国連がセルビア人勢力の自決権の主張は一貫して認めず、逆にクロアチア政府の主権と領土保全を保障するに至って、厳密に守られたとは言い難い。三つ目の「自衛の場合に限っての武力行使」に関しては、最も重要な変更が加えられた。すなわち、国連軍兵士に「危険な場合の先制攻撃の権利」を認めたのである。これらの事実から、UNPROFORはPKO活動の概念上でもまた実際の活動上でも大きな転換点となった。コペンハーゲン平和研究所で「国連平和維持活動に関するデンマーク・ノルウェー共同研究プロジェクト」に携わるW・ビエルマン教授とM・ヴァセット将軍は、「当事者合意原則の軽視」「中立性の稀薄化」「より軍事的且つ強制的な活動」という「これらの新しい原則は、冷戦の終結以降、地球上の様々な地域で頻発し、さらにエスカレートする民族紛争に対処するための『結論』として、広く容認されるようになった(75)」と指摘している。しかしながら、とりわけ、ボスニアにおけるNATO軍によるセルビア人勢力への空爆をはじめとする「強制行動」は、加盟国間でも今だコンセンサスが形成されているとは言えず、国際社会での更なる議論が必要であろう(76)
  次いで、個別の問題について検討を加えよう。国連がPKO活動を行う場合に必ず指摘されるのが、「活動計画」に関する問題である。周到に準備され、また活動の基盤となるべき計画を立案することが、PKOを成功させるために不可欠であるが、UNPROFORにおいてもこうした計画が欠如していたのは例外ではなかった。これは国連事務局の能力と時間の問題に起因するものである。事務局職員にこうした立案プロセスに携わる能力や時間がないことから(77)、実際の計画を練り上げる責任は各加盟国から派遣され現地入りした軍総司令官や軍事監視団長及び、そのスタッフに任されることになるが、複雑化する一方のPKO活動を成功させるために、計画立案段階から専従スタッフや専門家が参画できるような体制の確立が急務となっている。
  「活動計画」と同様に「迅速な展開」もPKO成功の可否を握る重要な要素である。何故なら、国際社会のスローリアクションは和平プロセスの機運を失わせる危険性があるからである。これは加盟国の対応に大きく依存するものである。国連への迅速な軍隊の提供と同様に財政面での支援も不可欠であるが、UNPROFORの場合、任務の拡大に伴って必要とされた加盟国からの人的・財的資源の拠出は著しく不足したものであった。この「人的・財的資源の問題」も更なる改善が必要である。
  UNPROFORは「当事者間の交渉を続行するための諸条件を確立するため」に展開したが、それに関って、現地での「仲裁活動」に尽力した。実際に、当事者間での停戦協定の交渉やその調印に軍総司令官が和平会議共同議長と共に参加し、この分野で成果を収めている。これは、今後のPKO活動への教訓として活用されなければならないであろう。
  さらには「文民警察」活動に関するいくつかの議論が指摘できる。現地警察の監視活動を行ったカンボジアでの場合と同様にここでも、派遣された警察官の資質がまず問題となった。文民警察官には、派遣前に共通の訓練プログラムによって、彼らの任務に関する基本事項を教育する必要がある(78)。また派遣前の英語力と運転技術に関するテストの必要性も指摘されている(79)。現地との関係においては、文民警察の任務が現地住人並びに現地警察に理解されていることが重要である。そのために文民警察部門が現地メディアに頻繁にアクセスできることを保障する協定が必要であろう(80)。さらに、「本来の警察活動をその国内法と最低限の国際的な基準に基づいて行うのは現地政府の責任である」ということを留意すべきである。これは文民警察が離任した後に、現地警察が公正な活動を行えるかどうかを左右する故に重要である(81)。最後に、文民警察官は彼らが監視している現地軍の司令官達と、個人レヴェルで緊密且つ日常的な接触を確立する必要がある(82)。何故なら、信頼関係を構築することが任務の成功の鍵を握るからである。
  最後に、UNPROFOR軍総司令官を務めたドラプレル将軍(仏九四年三月から九五年三月まで)が指摘しているUNPROFORの教訓を紹介しておこう。彼はUNPROFORの教訓を、(1)どのような任務も明確に定義され、そのために必要な装備や目的を伴われることが重要であり、このことは、(PKOに対する)誤った希望が生じることや期待されたことを達成できなかった場合の国連軍に対する批判を回避しうるであろう、(2)軍事部門及び文民部門の指令の統一と国際社会の完全な支援が、活動の成功にとって最も重要である、(3)現地情勢の変化に応じた装備や部隊を供給するために、一層の努力がなされなければならない、(4)全当事者に政治的に受容できる解決策を見いだすのは、軍事的な平和維持者ではなく、政治的な平和構築者であり、同意した解決策の全面的な履行は当事者にかかっている、(5)平和維持活動に従事する者に対しての軍隊派遣国及び国際世論の支援が必要である、と列挙している(83)
  本章では、UNPROFORの任務、活動並びに活動から得られた教訓などについて概説した。そこで、UNPROFOR派遣決定まで国連が旧ユーゴ問題に関与することに消極的であったことが明らかになり、その結果派遣されたUNPROFORは、湾岸戦争の「多国籍軍型」ではなく、停戦監視を主要任務とする「従来型」のPKOとしての活動が期待されることとなった。活動期間の延長に伴って、新たな任務が加わり、その性格付けに関わる修正がなされたが、これらの修正は、それまでのPKO三原則の新しい解釈を含む非常に重要なものであった。しかしながら、「小競り合い程度の衝突を回避する(84)」などのいくつかの成果を挙げた一方で、「従来型」のPKOとして派遣された UNPROFORには、新しく加わった任務を遂行する能力や装備が備わっていたとは言えず、PKO活動の限界を露呈する結果となったのである。

(1)  James B. Steinberg, Yugoslavia−International Involvement in the Yugoslavia Conflict, Lori Fisler Damrosch (Ed.), Enforcing Restraint−Collective Intervention in Internal Conflicts, Council on Foreign Relations Press, NY, 1993, p. 38.
(2)  de Cuellar, op. cit., p. 487.
(3)  決議七一三号は、中国と安保理内の非同盟諸国のメンバーに対して、ユーゴが禁輸措置に反対しないと保証した後に投票され、全会一致で可決された。(Steinberg, op. cit., p. 39.)
(4)  Steinberg, Ibid., p. 38.
(5)  二〇〇〇年十一月十三日にマルセイユで開いた閣僚会議で、WEUは二〇〇一年半ばまでにその役割をEUに譲ることを決定し、半世紀の歴史に幕を閉じることとなった。(朝日新聞、二〇〇〇年十一月十五日付朝刊。)
(6)  UN, SCRes713 (91/09/25).
(7)  連邦軍はミグ29戦闘機や電子機器など一部を除き、爆弾はもちろん、迫撃砲や短距離ミサイル、自動小銃などほとんどの武器を自給できるだけでなく、イラクやソマリアを含む世界各国に輸出していた。(千田@、二三六−七頁。)
(8)  ツィンマーマン元駐ユーゴ米国大使はこの決議を「ボスニアのムスリム人に不利益を被らせることが目的ではなく、クロアチア戦争に対するものであったが、結果的には反ボスニア的行為であった」と評している。(Zimmermann, op. cit., p. 155.)
(9)  UN, SCRes721 (91/11/27).
(10)  Ibid.
(11)  UN, SCRes724 (91/12/15).
(12)  千田A、四五頁。
(13)  UN, Doc. S/23592 (92/02/15).
(14)  UN, SCRes743 (92/02/21).
(15)  Ibid., Para., 5.
(16)  PKOの任期は当初六カ月と予定されるのがそれまでの通例であった。
(17)  UNPROFORは、九五年四月にその展開地域に応じて、UNCRO(クロアチア)、UNPROFOR(3)(ボスニア)、UNPREDEP(マケドニア)に三分割された。ここでは、特にことわりのない場合を除いて、UNPROFORとはクロアチアにおけるPKO(いわゆるUNPROFOR(2))のことを指す。
(18)  クロアチア領内でセルビア系住人が多数派もしくは一定の少数派を構成している地域のうち、緊張が武力紛争にまで発展した地域で、当初は東スラボニア、西スラボニア、クライナなどがその対象となった。
(19)  千田A、四四−五頁。
(20)  UN, S/23280, annex III 同じ報告の中で、保護地域の非軍事化の方法についても言及されている。すなわち、(1)連邦軍及びクロアチア軍の全部隊、全兵士、並びに保護地域内に、拠点を置かない地域防衛部隊及び兵士は撤退する、(2)保護地域に拠点を置く全ての地域防衛部隊並びに兵士は解散もしくは武装解除される、(3)全ての非正規軍もしくは志願軍の部隊並びに兵士は保護地域から撤退するか、あるいは解散、武装解除される、である。
(21)  The United Nations and The Situation in The Former Yugoslavia, UN, DPI (Department of Public Information)/1312/Rev. 4, July 1995, p. 4.
(22)  Ibid.
(23)  Ibid.
(24)  Gow, op. cit., p. 91.
(25)  着任順にナンビア中将(インド・九二年三月から九三年三月まで)、ウォルグレン中将(スウェーデン・九三年三月から同年六月まで)、コット中将(フランス・九三年六月から九四年三月まで)、ドラプレル将軍(フランス・九四年三月から九五年三月まで)、ジャンビエ将軍(フランス・九五年三月から)。
(26)  シュトルテンベルグは、後に旧ユーゴ和平国際会議の共同議長に任命された。
(27)  九六年一月に国連事務総長に就任。
(28)  UN, SCRes762 (92/06/30).
(29)  UN, SCRes769 (92/08/07).
(30)  UN, SCRes779 (92/10/06).
(31)  UN, Doc. S/25264 and Corr. 1. (93/02/10)
(32)  Ibid.
(33)  Ibid.
(34)  UN, SCRes807 (93/02/19).
(35)  UN, Doc. S/25470 and Add. 1 (93/03/25).
(36)  UN, SCRes815 (93/03/30).
(37)  UN, SCRes847 (93/06/30).
(38)  UN, Doc. S/25993 (93/06/25).
(39)  UN, Doc. S/26470 (93/09/20).
(40)  Ibid.
(41)  UNPROFOR要員を防衛するために、空軍力による支援をNATOに対して要請するもので、最初に認められたのはボスニアにおける活動においてであり、安保理決議第八三六号であった。(UN, SCRes836 (93/06/04).)九三年には、ボスニアへのNATOの軍事的関与を強化する決議が多数、採択されている。
(42)  UN, Doc. S/26470 (93/09/20).
(43)  Ibid.
(44)  UN, SCRes869 (93/09/30).
(45)  UN, SCRes870 (93/10/01).
(46)  UN, SCRes871 (93/10/04).
(47)  この決定は憲章第七章下の行動であるとされた。
(48)  UN, SCRes871 (93/10/04).
(49)  これにより、九四年一月十五日までに停戦を実施することになった。
(50)  UN, Doc. S/1994/300 (94/03/16).
(51)  UN, SCRes908 (94/03/31).
(52)  九四年五月末までに、停戦協定が概ね履行されていることをUNPROFORは報告している。(UN, DPI/1800−E. 96. I. 14., p. 519.)
(53)  ボスニア問題に対する米ロの関与を確保するため。
(54)  UN, Doc. S/1994/1097 (94/09/17).
(55)  Ibid.
(56)  Ibid.
(57)  UN, SCRes947 (94/09/30).
(58)  この協定によって、水道と電気サービスの再築、クロアチア領内のザグレブ=ベオグラード高速道路の再開通及びクライナを通過する石油パイプラインの再開通などが取り決められた。
(59)  UN, Doc. S/1995/28, annex. (95/01/12).
(60)  UN, Doc. S/PRST/1995/2 (95/01/17). この背景には、米国のクロアチア政府に対するコミットメント強化という政策変更があった。九四年十一月に米国とクロアチア政府は軍事協定を調印し、米国及びクロアチアでの両軍による合同演習が始まった。この米国の政策変更は主に、ボスニアを念頭においたものであったが、それ以降の自国のPKOに対するツジマンの強硬姿勢を鼓舞したことは間違いない。
(61)  Ibid.
(62)  二月八日、クニンのセルビア系議会はUNPROFORの今後のプレゼンスが保証されるまで、更なる交渉と停戦協定の履行を延期することを決定した。
(63)  UN, Doc. A/50/111, S/1995/206, annex. (95/03/12).
(64)  UN, SCRes981 (95/03/31).
(65)  Ibid.
(66)  Gow, op. cit., p. 102.
(67)  A.B. Fetherston, Towards a Theory of United Nations Peacekeeping, St. Martin's Press, NY, 1994, p. 76.
(68)  UN, SCRes749 (92/04/07).
(69)  Fetherston, op. cit., p. 75. 及び Steinberg, op. cit., p. 40.
(70)   Steinberg, Ibid.
(71)  UN, Doc. S/24600 (92/09/24), 及びUN, Doc. S/24848 (92/11/24), Paras, 15-16.
(72)  United Nations Protection Force (UNPROFOR), February 1992-March 1995, The Blue Helmets & A Review of United Nations Peace−keeping, 3rd Ed. UN, DPI/1800-E. 96. I. 14. 1996, p. 515. 及び UN, DPI/1312/Rev. 4, p. 8.
(73)  UN, DPI/1800−E. 96. I. 14., Ibid.
(74)  本節で扱う教訓は、UNPROFOR(2)として区別される、クロアチアにおける国連PKO活動から導きだされるものに限っている。
(75)  Setting the Scene, Wolfgang Biermann and Martin Vadset, UN Peacekeeping in Trouble:Lessons learned from the Former Yugoslavia, Wolfgang Biermann and Martin Vadset (Ed.), Ashgate Publishing Ltd., Aldershot, 1998, p. 19.
(76)  九二年六月に提出した『平和への課題(An Agenda for Peace)』の中で、「平和維持(Peace−Keeping)」だけでなく、「予防外交(Preventive Diplomacy)」、「平和創造(Peace−Making)」、「平和構築(Peace−Building)」、自衛目的以外の武力行使を含む「平和強制(Peace−Enforcement)」と言った新たな役割を国連が担うべきだと提唱したガリ事務総長は、九三年のソマリアでの失敗やボスニアでの挫折によって、PKO活動の見直しを迫られた。九五年一月に提出した「『平和への課題』補遺(Supplement to An Agenda for Peace)」で、ガリ事務総長は「今の国連には自衛目的以外の武力行使を伴う『平和強制行動』を行うだけの条件が欠けている」とし、「今後はPKOの原点に立ち返って特に紛争防止を目的とする『予防外交』や『平和創造』を重視していくこと」を明らかにした。(An Agenda for Peace UN, Doc. A/47/277−S/24111. 92/06/17. 及び、Supplement to An Agenda for Peace UN, Doc. A/50/60−S/1995/1. 95/01/25.)
(77)  PKO活動の飛躍的な増加に伴って、国連は平和維持活動局を常設したが、実際に世界中に展開されているPKOの数に比べて、専従スタッフは質的にも量的にも大きく不足しているのが現状である。
(78)  Experiences from UNPROFOR−CIVPOL, Halvor A. Hartz, UN Peacekeeping in Trouble:Lessons learned from the Former Yugoslavia, Wolfgang Biermann and Martin Vadset (Ed.), p. 313 and p. 315.
(79)  Hartz, Ibid., p. 315.
(80)  Hartz, Ibid., p. 313.
(81)  Hartz, Ibid., p. 315.
(82)  Hartz, Ibid., p. 314.
(83)  Principles to be Observed−for the Use of Military Forces Aimed at De−escalation and Resolution of Conflict, Bertrand de Lapresle, UN Peacekeeping in Trouble:Lessons learned from the Former Yugoslavia, Wolfgang Biermann and Martin Vadset (Ed.), pp. 151-2.
(84)  千田A、一三六頁。


結びにかえて


  本稿では、九一年から旧ユーゴ地域のスロヴェニア、クロアチア、そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナで順次起こった内戦の中で、特にクロアチア内戦に焦点をあてて、その経過を見ると共に、国際社会、とりわけECと国連の関与について分析した。
  クロアチア内戦では、共和国内、ひいてはユーゴ連邦内のクロアチア人対セルビア人の歴史的な民族対立という内部要因のみならず、スロヴェニアとクロアチアの二共和国の独立承認という外部要因が緊密に連関して、紛争の長期化を招くことになった。ドイツ政府がその「早期承認政策」を正当化する理論として用いた「独立の国際承認がユーゴ紛争を国際化するであろう」と言う主張は、EC内で英仏両国から「早急な独立承認は、複雑なユーゴ内の民族対立を激化させるだけである」と反対されただけでなく、デクエヤル国連事務総長、キャリントン和平会議議長やバンス国連特使らからも非難された。事務総長らが危惧していたとおり、九二年に入って、ECによる両共和国の独立承認を契機に戦火がボスニアへ拡大し、当地で血で血を洗う内戦が始まるに至り、ドイツの主張が「絵空事」であったことが明白になったのである。
  しかしながら、クロアチア内戦を長期化させ、ボスニア内戦勃発をも防ぐことができなかった責任は、ドイツのみならず、「共通外交政策」の下、「加盟国の一致」を優先させてドイツの「暴走」を食い止められなかったECにも帰するものであったと言える。ECは旧ユーゴ問題に際して、決定的な過ちをいくつか犯している。一つは、各共和国の一方的な連邦からの離脱を認めず連邦維持を支持したときで、旧ユーゴ連邦構成共和国の中でもとりわけスロヴェニアは、独立宣言の発表前から既に、その独立承認に関して隣国オーストリアからの支持を取り付けることに成功していた。従って、「連邦維持」と言う「共通外交政策」はそのスタート時点から内部崩壊することが自明であったのである。「ECの失敗」の二点目は、自らが独立承認基準を審査するために設置したバダンテール委員会の決定を形骸化して、委員会が独立を認めたスロヴェニアとマケドニアではなく、スロヴェニアとクロアチアの独立を強引に承認したことである。この時点で、連邦からの分離独立を目指す各共和国の動きを阻止することはもはや不可能であることが明白であった。そのため「統一維持」から「独立承認」へその政策をシフトさせる過程で、ECは委員会が正式に「基準を満たしている」と認定した共和国のみに独立承認を与え、独立を求める共和国に対して人道上及び国際法上の基準を満たすことを断固として要請し、独立承認に際して一貫した態度を取るべきであったのである。
  結局、ECは内部での見解の不一致と度重なる「調停」の失敗により、「共通外交・安保政策」で目指した「仲介能力」の限界を露呈し、仲裁の役割を国連へ引き渡すことになった。ECの後を受けて、バンス特使が提案した和平案を下敷きにした停戦協定への紛争当事者の調印によって、国連PKO(UNPROFOR)の派遣が決定した。それまで旧ユーゴ問題への介入に「消極的」であった国連が、紛争解決の表舞台へ登場したのである。
  UNPROFORは、停戦協定での決定に従い、現地での「停戦監視」と「連邦軍の撤退監視」を主な任務とした「従来型」のPKOとして活動を開始した。しかしながら、連邦軍の撤退完了以外の任務は、任務遂行の際の権限や装備など「停戦監視型」のPKOに内在する能力の限界から、ほとんど達成できなかったのであった。再三に渡って駐留期限が延長され、その度に新たな任務が加えられたが、それらも、その任務を遂行するために必要な新たな人的・財的資源の投入がないままでの任務遂行が求められ、その活動は制約されたものとなってしまった。
  安保理決議第八七一号(九二年十月四日)でUNPROFORに、「危険な場合の先制攻撃の権限」が付与された。このことは、「自衛の場合に限った武力行使」と言うPKOの原則に大きな変更が加えられたことを意味し、PKO活動の分岐点であったと言える。「自衛目的以外の武力行使」の他にも、「当事者合意原則の軽視」、「中立性の稀薄化」と言うPKO三原則に関わる重要な変更が見られたことは、クロアチアでのPKO活動における特徴であった。しかしながら、これらがPKO活動に関する「一般的原則」として広く国際社会で承認されるものとなるかどうかについては、今後も更なる議論が必要であろう。何故なら、PKO活動を「より強制的なもの」に変更するには、何よりも、加盟国間でのPKO活動に関する認識に対するコンセンサスや、加盟国からの財的・人的資源の更なる拠出という課題を克服することが必要であるからである。
  冷戦後の世界において、多発する地域紛争を解決するためには、様々な課題や問題点を残しているとは言え、我々は「普遍的国際機関」としての国連を利用する以外に有効な手段を持たないのが現状である。従って、クロアチア内戦における「ECの失敗」や国連の活動から導き出された教訓を、今後の紛争処理の場面で有効に活用することが重要である。