立命館法学 2000年6号(274号) 114頁




バージェスのアメリカ国家論


中谷 義和


 

(一)  アメリカ国家の認識


 〈アメリカ共和国の政体〉  ジョン・W・バージェス(John W. Burgess, 1844-1931(1))は、「アメリカ共和国の理念」と題する講演において、「アメリカ共和国が実現して然るべきと信ずるに足る理念にまさる高次の政治理念など想定し得ない」と述べている。これは、アメリカ合衆国は「世界のための理念の共和国(ideal commonwealth for the world)」であり、「その起源において国民的(ナショナル)であって、その範例の点では世界的(コスモポリタン)である」との理解に発している。この認識は、チュートン系人種(レィス)によって、とりわけアーリア人種によって政治文明が形成されてきたという歴史的理解に負い、その制度化をアメリカの政治的「上部構造」に認め、これを「アメリカ的アーリアニズム(American Aryanism)」と呼んでいる(2)。かくして、バージェスは、「アメリカ共和国の基本的使命は、主としてチュートン的国民性を基礎に、政治的文明化のためにアーリア的資質を完成することに求められる」とし、ここに「アメリカ共和国の卓越的(トランセンデント)使命」を措定している。
  バージェスは「アメリカ的アーリアニズム」の代表的所産として「個人的自由(individual liberty)」の原理の制度化を挙げ、この原理は、アメリカの憲政において、「政府の必要性と社会の福祉とを最もうまく調整しつつ、憲法によって規定・保障されるとともに、裁判所によって解釈・保護されている」と指摘している(Ideal, p. 408)。バージェスにあって、「個人的自由」が「個人的力能(individual capacity)を展開するための不可欠の条件」であり、「政治的文明化(political civilization)」の不可欠の契機であるとされるのは、「政治的文明化」が個人的力能の集合的営為に負うだけに、「個人的自由」の発現がその不可欠の条件であると理解されているからである。だが、「自由」と「統治」とは緊張関係にあるだけに、バージェスは両者の調和の理想的制度化がアメリカ共和国の政体に認められるとしているのである。
  バージェスの「個人的自由」主義は古典的自由主義観に属しているが、その認識は、歴史を「精神」の顕現過程とするヘーゲル主義的歴史観に依拠しつつ、チュートン的自由観の歴史的連鎖の結節点にアメリカの自由主義的政治体制の現実態を認めるとともに、その普遍化にアメリカの「使命」を措定するものである。この歴史主義的認識は、「アメリカ的アーリアニズム」という概念に表れているように、継続的事象の増殖的自己展開に歴史の発展を認め、その頂点にアメリカを据えるものであるという点では「アメリカ例外主義(exceptionalism)」に発している(3)。したがって、その理念型からの逸脱は、後にみるように、「危機」論と結び付かざるを得ない。
  既に、代表作=『政治学と比較憲法』(一八九一年)において(4)、バージェスは、アメリカ合衆国の統治形態の特徴を「権力の制限された民主的代議政府」に求め、連邦型・選挙型・権力間調整型・大統領型にあると位置付けるとともに、その歴史的先駆性と先導性を指摘しているが(PSCCL, II, pp. 17-21)、「アメリカ共和国の理念」と題する講演においても、アメリカの政治的「上部構造」の特質を、連邦制という「二元型統治システム(dual system of government)」と世襲的公職保有の排除および権力の分立と相互協力型の統治システムに求めている(Ideal, pp. 418-21)。次に、この講演に即してバージェスのアメリカ政体論を瞥見しておこう。
  まず、連邦国家の憲政を規定して、バージェスは「国民主権」を基礎とした「連邦政府型国民国家(national state with federal government)」であるとする。この点を一七八一年の「連合規約」の発効以降のアメリカ憲政史に辿り、憲法のクーデター的制定をもって(5)「国民主権型連邦国家」の成立をみたと位置付けている。だが、「州(state)」に「主権」を帰属せしめ、「州」をもって「自由」の保塁とする「州主権」型連邦論が残存することになるが、こうしたパティキュラリズムは南北戦争をもって克服され、「国民のみが主権者であり、国民のみが現実的国家である」とする国民主権原理が確定したとする(Ideal, pp. 410, 417-18)。この点では、主権の属性としての不可分性の認識を共有しながらも、主権の帰属位置については、バージェスが統一型国家における国民主権論の立場にあっただけに、カルフーン(John C. Calhoun, 1782-1850)の連邦型州人民主権論の対極に位置していることになる(6)(Ideal, p. 417)。かくして、バージェスは次のように指摘している。
  今や、この国の地方組織を国家(スティト)と呼ぶべきではなくて、州(commonwealth)と、つまり地方政府と呼ぶべきである。この組織は、国民(ネーション)の主権と国民全体の政治的代表者の指導下にあって、自治の主要な構成要素の位置にある(7)
  国家連合から国民国家への転化とパティキュラリズムの遺制の克服というバージェスのアメリカ政治史理解は、「自由」の規範意識の民族的共有に国民国家の形成を認めるという歴史認識に底礎されているのであって、この視点をもって、「国家内国家」の克服ないし「邦」の「州」への政治的転化に高次の「自由主義国家」の成立を導いているのである。だが、国民主権を基礎とした中央・州政府型^連邦主義(フェデラリズム)は、理非と利害意識の国民的斉一化のなかで、中央集権型政府機構へと転化し得る。バージェスはその可能性を認めるとともに、また、アメリカの政治体制がその過程を辿ったとしつつも、なお、行政権の分権型構造を留めていることにアメリカの憲政と政体の先駆的範例を措定している(Ideal, p. 418)。
  第二に、バージェスは、アメリカ憲政の特徴として選挙型公職就任原理(公的権力と、財産および世襲制との分離の原理)の導入を挙げ、「世襲型政治の理念」の克服に「文明世界」の趨勢を認めることをもってアメリカの政治体制の歴史的先導性を指摘している(Ideal, pp. 418-19)。第三に、権力分立型システムに占める大統領型行政の自立性と司法権の独立性をアメリカ共和国に特徴的な政治システムとしている。とりわけ、「大統領制」と「議院内閣制(parliamentary government)」とを比較し、選挙権の拡大のなかで議会はラディカル化せざるを得ないとの、また、政党政治は多数派専政やカエザル主義化せざるを得ないとの、さらには、「議院内閣制」とは「世襲型無責任行政部に対処せざるを得ないところから起こる混乱を避ける便法」にすぎないとの認識をもって、厳格な権力分立制に立ったアメリカ型統治機構が、「個人的自由」の保守の理念の制度化点で、「チュートン型体制の最終帰結」であると指摘している(Ideal, pp. 420-22)。以上のアメリカ政体の認識において、バージェスは、この講演を次のように結んでいる。
  アメリカ共和国は、既に、理想的原理を基礎とし、理想的発展の諸段階を歩んできた。必要とされていることといえば、未熟さと予想外の病弊を克服することぐらいである。その理念を実現するためには、この国の歴史に認められる全般的方向を着実に追求することである。したがって、この国のシステムの革命など求められてはいないのであって、これに訴えることは、この理想の達成に誘う方向を逸脱させることになる。こうした革命を支持し、煽る人々を、アメリカ共和国の、しいては世界の政治的文明化の原理の敵対者と見なさざるを得ない(Ideal, pp. 424-25)。
  かくして、バージェスは、「歴史の定めは、統治の、また自由の問題の近代的解決という点で、合衆国がその最大の世界的機関であることを明らかにしている」とし(PSCCL, II, p. 40)、この認識において「アメリカ共和国の卓越的使命」を闡明しているのである。だが、この講演において、「個人的自由」に対する障害のひとつである「州人民主権」型パティキュラリズムは克服されたとしつつも、別の”脅威”として「社会主義運動」を挙げ、この運動による政府のパターナリズム化の危険を指摘せざるを得なかったように(Ideal, p. 411)、世紀末のアメリカは、社会の構造的変貌期のなかの”アキュート・アノミー”状況をむかえ、また、国際関係への関与を深くしている。かくして、政治的・経済的・社会的・思想的再編と調整を急がざるを得ない局面を迎えていたのである。この状況において、バージェスも「この国民は歴史上の重大な危機を迎えている」との、さらには、「合衆国の政府は、今や、原理的に専政的(オートクラティック)なものとなっている」との認識を深くする(8)。「チュートン精神」の漸次的実現の「使命」をおびた理念の共和国というバージェスのアメリカ政体論は、世紀転換期以降の政治・経済・社会の現実と国際状況の変動のなかで、後にみるように、歴史観と現実方向との乖離の認識と結び付いて、「危機」論に転化することになる。

 〈民主政観〉  バージェスは、「国家」と「政府」とを峻別するとともに、両者がいずれも君主的・貴族的・民主的形態に分け得るとし、「民主的国家」と「貴族的政府」の複合類型を引き出している。すなわち、国家の不可欠の属性としての「主権」の帰属位置をもって「国家」形態の、また統治機構の掌握人数をもって「政府」形態の分類指標とし、「民主的国家」と「貴族的政府」との複合形態として「人民の、人民のための、人民の最善の人々による(by the best of the people)政府」の概念を導いているのである。この形態が当面の現代型民主政の最善の形態とされるのは、代議制民主政国家においては、少数の統治集団による政治が不可避であるとする原理的理解と並んで、政治の歴史的経験と現実において、民主政はカエザル主義やボナパルト型「君主政府」に、また”ボス”政治に連なるとの、あるいは普選を媒介とした「多数専政」に陥るとの認識を背景としているのである(PSCCL, I, p. 72; II, pp. 4-5, 8, 37-40, 308)。こうした民主政の理解は、「選良」による「人民のための」「経済的民主政(economic democracy)」の理念に結び付く。
  バージェスは「民主政」の語源を「人民の支配(rule of the people, demokratia)」に辿り求め、また、リンカーンを称賛しつつも(Reminiscences, p. 401)、「民主政の最も確かな試金石(テスト)は政治的というより経済的なもの」に求められるとの位置付けにおいて(9)、「経済的民主政(economic democracy)」をもって「真の民主政(genuine democracy)」であるとの結論を導いている。すなわち、「人民の、人民による、人民のための政治」という三者一体的民主政観において、最も重要な民主政の構成要素は「人民のための(for)政治」にあるとするのである。
  バージェスは「人民の支配」という民主政概念における「人民」と「支配」の内実について検討し、「地理的」・「社会学的」・「市民的(civil)」視点とは区別される「政治的視点」をもって、「人民」とは「所与の国家の憲法と法によって投票権を付与されている全ての人々(persons)」であるとする。だが、「人民政治」の理念からすると、彼らが「主権的人民」であるとしても、代議制政治にあっては、現実政治は政治権力の運営集団を媒介とせざるを得ず、しかも、政党ボスや派閥型政治あるいは金権政治(plutocracy)という少数利益型政治に陥りがちである。したがって、人民のための政治が成立し得るには、人民に政治が帰属するとともに、「人民の誠実な代表者による」政治が求められることになるとし、この視点において、「あらゆる富の分配」が全住民に及んだ「経済的民主政」が「真の民主政治」であると位置付けるのである(Foundations, pp. 129-36)。つまり、代議制民主政における少数の統治者の不可避性の原理と政治の少数利益化の現実をもって「民主国家型貴族政府」が現代型民主政の政治形態であるとし、その政策的方向として「経済民主政」を唱導しているのである。かくして、国家の完全な「社会化」と政府のパターナリズム化という「振り子」の大きな揺れを避ける限りにおいて、「社会福祉(social welfare)」の政策的導入の必要性を指摘し、その実現のためには、集権型政府ではなく、アメリカの地方政府の自律性を強化し、この政府に実施の主体を求めることが必要であるとしている(Foundations, pp. 137-39)。
  こうして、政治形態論と民主政の政策論的視点において「経済民主政」の原理が導出されるのであるが、それは、一九世紀の社会的アノミー状況のなかで大量の新移民を集約しつつあった「マシーン(machine)」とボスによる政治や政治腐敗の表面化(「金権政治(プルートクラシー)」)に対する、また社会主義的諸運動の抬頭に対するマグワンプス(mugwumps)的危惧感に発するものであるだけでなく(10)、原理的には、選挙型多数専政は「国家社会主義」ないし「政府社会主義」を呼び、文明の起動因としての「個人的自由」の阻喪に連なるとの認識をも背景としているのである(Ideal, p. 411)。この点で、バージェスは「政治学の最大の問題は統治と個人的自由との調和を期すことに求められる」としているが(11)、「社会福祉」という「経済民主政」の政策的実施をもって、少数者による金権的支配と多数者による専政的支配を回避し、国民統合を期すことに「自由と統治との調和」の同時代的課題を設定しているのである。

(1)  J・W・バージェスの略伝、および、その政治学の特徴については次を参照のこと。中谷義和「ジョン・W・バージェス小伝」(立命館大学『政策科学』第八巻三号)、同「ジョン・W・バージェスの政治論−民族主義的国民国家の原理」(『立命館法学』二〇〇〇年第三・四号)。
(2)  The Ideal of the American Commonwealth (以下、Ideal と略記), Political Science Quarterly 10, no. 3, September 1895, pp. 405-07.
(3)  この理念においては、到達点の所与性が引照枠とされるので、不断に建国の理念に引照され、質的変更ではなく量的操作と精緻化が重視されるとともに、時間的というより空間的展開に、その自己展開の契機を展望するという論理と心理を内包することになる。Dorothy Ross, The Origins of American Social Science, Cambridge University Press, 1991, pp. 25-26.
(4)  Political Science and Comparative Constitutional Law (以下、PSCCL と略記), 2vols, Ginn & Company, 1891.
(5)  バージェスは、「大陸会議(Continental Congress)」の成立(一七七四年)をもって「アメリカ国家の最初の組織」が成立したとしている。だが、この主権的「組織」が「連合規約(Articles of Confederation)」の発効(一七八一年三月一日)をもって「中央政府(central government)」に変わることによって、「アメリカ国家」は「客観的組織としての存在を失い」、「人民の意識における観念に返った」と見なしている(PSCCL, I, pp. 100-101)。つまり、「アメリカ国家」は解体し、国家間連合に転化したと、「主権連合(confederacy of sovereignty)」が成立したとされる(PSCCL, I, pp. 57, 79, 165, 220;Reminiscences of an American Scholar:The Beginning of Columbia University 〔以下、Reminiscences と略記〕, Columbia University Press, 1934, reprinted 1966, AMS Press, pp. 246-47, 304)。しかし、権力配分をめぐる中央・地方政府間の対抗を克服すべく「フィラデルフィア会議」(一七八七年五月)が開かれることになるのであるが、この会議は「制憲権力(constituent powers)を行使し、政府と自由の構成を定め、既存の合法的に組織された全権力の頭越しにプレビシット(ple´biscite)を行使することになった」とする(PSCCL, I, p. 105)。かくして、「連合規約」の規定は無視されただけでなく、全州中の九州の批准をもって新憲法が発せられただけに、この処置は「革命」であり、「超法規的(extra legal)行為であり、法学の視点からすると不法(illegal)行為」であって、ナポレオンであれば「クーデター」を宣することになったであろうと位置付けている。こうした脈絡からすれば、新憲法の採択と「アメリカ国家の成立」は法学的視点からではなく、政治学的視点から、政治史と政治学の視点と方法をもって説明すべきものとしている(PSCCL, I, pp. 108, 143)。なお、ウィルソンは、一七七四年に「コモンウェルス」は自らを「国家(state)」と見なしていたが、この状況は、「特権」の縮少はみるものの、「連合規約」下においても継承され、やがて、一七八九年の「連邦(ユニオン)」の形成を迎えることになったとし、「統一性と共通目的を具有する国民的『国家』は、民主的構造のものであれば、協力の習慣と国民的理念の成長のなかで、常に、ゆっくりと形成される」と指摘している(W. Wilson,”A System of Political Science and Constitutional Law, Atlantic Monthly 67, 1891, pp. 697-98)。
(6)  後年、カルフーンの理論について、憲法に専政化の防止策を求めたことは至当であったが、「政府の専政的権力を規制するためのシステムとして認めた手段は、諸州(ステイツ)を過大視する余り国民(ネーション)を犠牲にすることになった」と指摘している(Reminiscences, p. 298)。
(7)  John W. Burgess,”The American Commonwealth:Changes in its Relation to the Nation, Political Science Quarterly (以下、PSQ と略記) 1, no. 1, March 1886, p. 23;id.,”Laband's Public Law of the German Empire, PSQ 3, no. 1, March 1888, p. 129.
(8)  John W. Burgess,”How may the United States govern its extra−continental territory?(以下、extra−continental territoryと略記) PSQ 14, no. 1, March 1899, pp. 1-18;id., Recent Changes in American Constitutional Theory (以下、Recent Changes と略記), Columbia University Press, 1923, pp. 1-2.
(9)  John W. Burgess, The Foundations of Political Science (以下、Foundations と略記), Columbia University Press, 1933;Transaction edition (with a new introduction by Wilfred M. McClay), 1994, p. 136.
(10)  後年、バージェスは、未完の自叙伝において、「早くから大衆の知恵や善良を信じてはいなかった。多くの人々は無知で、狭量で、欲深く、偏見に満ち、意地悪く、粗暴で、かつ執念深いものであると常に思っていた」と悲観的人間観を吐露している(Reminiscnence, pp. 11-13)。
(11)  Foundations, p. 137;The Reconciliation of Government with Liberty (以下、Reconciliation と略記), Charles Scribner's Sons, 1915.


(二)  危    機    論



  世紀転換期のアメリカは社会の構造的変貌期に、「アメリカ史の分岐点」(H・S・コマジャー)にあたる。この局面は、急激な社会経済的移行期にあるだけに、「心理的危機(psychic crisis)」(R・ホーフスタッター)と「権威の危機(crisis of authority)」(T・L・ハスケル)を呼んだとされる(1)。すなわち、農業・農村型社会から工業・都市型社会への移行期に、また、いわゆる「大陸帝国」から「海洋帝国」への転換期にもあたるだけに(2)、アメリカを象徴するフロンティア・ラインの消滅(社会的安全弁の喪失)ともあいまって、現状への不満と将来への不安のなかで価値体系の動揺と分裂をも呼んだのである。この局面において、資本と労働の組織化(株式会社化と全国型労働組合の成立)のみならず、農業経営の組織化も進み、アメリカは組織型社会へと移り、国内的には「利益集団」型政治の生成をみている。また、国外的には「米西戦争」を契機とした海外領土の獲得や、その後のカリブ海地域とラ米諸国や東アジアに対する対外政策の展開に認められるように、国際関係への介入主義的関与を強くしている。こうした国内の構造的変貌と国際政治の国内化は社会・経済的矛盾の噴出を呼び、これに国際政治への対応が重畳化することによって、政府の機構的肥大化と機能的多岐化を招来せざるを得なかった。かくして、アメリカは、やがて、二〇世紀初期の「革新主義」の時代を迎え、一連の政治改革と社会経済体制の再編をもって体制の保守を期すことになる。この局面にあって、バージェスは「危機意識」を深くしている。
  ダニング(William Archibald Dunning, 1857-1922)は、一九世紀後半の主要な政治的争点は「ナショナリズムと社会主義」であったと指摘しているが(3)、この点ではバージェスも認識を共通にし、先の講演において、「州人民主権論」から「国民主権論」の転換をもって「個人的自由」の発展が期せられたとしつつも、当時のドイツの状況をも想起しつつ、「社会主義運動」の興隆に「個人的自由」に対する新しい「脅威(メネイス)」が認められるとし(4)、さらには、「この一〇年間にドイツで政治経済を学んだ殆どのアメリカ人研究者は、程度の差はあれ、国家社会主義の傾向を強く帯びて帰国している」と、アメリカの知的状況の社会主義化に強い懸念を表明している(5)。確かに、バージェスが留学した頃のドイツは、「講壇社会主義(kathedersozialismus)」の台頭期から七三年の「社会政策学会(Verein fu¨r Sozialpolitik)」の結成へと向かう局面にあたっている。また、この頃のアメリカにあっては、「金ぴか時代(gilded age)」と七三年に始まる循環性恐慌のなかで伝統的経済社会システムの再編が進み、中西部農民層を中心としてポピュリズムの台頭をみるのみならず、マックレガーズや空想的社会主義小説も登場し、さらには激しいストライキの波が続くとともに、潮流は多様であれ、社会主義運動も一定の高揚をみている。九六年選挙が「分岐点型選挙(critical election)」と呼ばれているのは、こうした状況を背景としてのことである。
  この状況において、バージェスは、社会主義が財産権を含む個人的自由権を侵害し、政府への依存性(パターナリズム)を生むことによって、政府の介入主義体制と「個人的自由」の脆弱化を呼び、したがって、「政治的文明化」を脅かすことになると指摘している。また、組織的企業については、「私的実業法人(private business corporation)」とは「人々の結合体」にほかならず、「政府の主権」化と専政化の強力な防波堤となり得ると位置付けるとともに、鉄道・電信・銀行などの公的機能の国家的経営は、「市民的自由」のみならず政府権力の制限に最も適合的な「連邦共和制」を破壊し、「国家社会主義(state socialism)」ないし「政府社会主義(governmental socialism)」に連なると述べている(6)。さらには、「米西戦争」に伴うキューバの保護領化とフィリピン群島の領有については、キューバはメキシコ湾の入り口にあたるだけに合衆国の「自然な発展」の一部と理解されるとしても、フィリピンについては憲法上の「国土(カントリー)」の概念を本土から遠隔地にまで広げるものであり、「政府の絶対主義」化と「軍国主義」化を呼ぶことになると批判している。というのも、バージェスの歴史認識にあっては、「世界帝国的膨張(world−empire expansion)」には「国民的膨張(national expansion)」が先行すべきであるとされ、この視点において大陸外領土の領有が批判されるのである。この批判は、「政治学の原理」からすると、市民的・政治的自由とは、統治の要請との調和のうちに成立する歴史的制約性をおびた相対的概念であるだけに、政治的自覚の相対的に低い段階にある「保護領」に対する統治には専政的形態が求められるところから、「本国政府の寡頭政と金権政治」を呼ばざるを得ず、かくして「民主政治の展開」を阻害することになるとの理解に発している(7)。こうした「政治学の原理」をもって、また、「大植民地帝国」の全ては「没落ないし変容」の過程を辿らざるを得なかったとの歴史認識をもって、フィリピン群島の領有に危惧の念が表明されているのである(Foundations, pp. 139-40)。
  この認識は移民制限論にも連なる(PSCCL, I, p. 44)。すなわち、移民によって「国民としての言語・習慣・制度」が脅かされる場合には、これを制限すべきであるとしている(PSCCL, I, pp. 43-4;Ideal, pp. 405-08)。これは、「理念的アメリカ共和国の上部構造(スーパーストラクチャー)の構築を望むのであれば、アメリカにおいてアーリア民族の国民性(nationality)を維持する必要があり、非アーリア系民族がこれに触れ、精神と資質の点でアーリア化される限りにおいて、その受け入れを認めるべきである」との理解に発している(The Ideal, p. 407)。かくして、異質の政治文化の「教化」と「内包化」の必要を認めつつも、アーリア民族の「政治的資質」の自己展開に当面の歴史的課題を設定し、異質性の導入による自己疎外の危惧感において、海外領土の併合と移民の受け入れに反対しているのである。
  一九二〇年の大統領選挙において、ハーディング(Warren G. Harding, 1865-1923)は、いわゆる「正常への復帰(Back to Normacy)」をスローガンに掲げて勝利を収め、アメリカは戦間期の短い相対的安定期を迎える。バージェスは、既にコロンビア大学を退職し老熟期に入っているが、この局面において、『アメリカ憲法理論の近時の変化(Recent Changes in American Constitutional Theory)』(一九二三年)と題する著書を残している。本書は、一八九八年の米西戦争を「アメリカの政治と憲法史の転換点」にあたると位置付け、この戦争から第一次世界大戦を経てヴェルサイユ条約(一九一九年六月)に至るアメリカ政治の展開を批判的に回顧している。次に、その行論を辿っておこう。
  一八九八ー一九一四年の憲法上の争点として、バージェスは、カリブ海と中南米における「ラフライダリズム(roughriderism)」、ポーツマス講和会議の介入主義的調停、および「憲法修正第一六条」(所得税修正、一九一三年)を挙げ、ローズヴェルトのカリブ海外交は軍国主義的であると、また、ポーツマス会議の調停は日本のアジア大陸への足掛かりを与えることになったと批判的に評価している(Recent Changes, pp. 39-41)。さらには、「憲法修正第一六条」は無制限の徴税権を政府に与える条項にほかならず、「政府の専政主義」化への「長途の一歩を印すものである」と位置付けている(Recent Changes, p. 54)。というのも、こうした徴税権は、彼の呼称に従えば、「団体時代(corporational era)」において富の偏在を緩和し、戦費調達の必要を背景としつつも、「個人の財産と文化」に対する政治的介入であり、「自由権」を侵すものであるとされるからである。この点で、バージェスは「自発的社会主義(voluntary socialism)」と「強制的社会主義(compulsory socialism)」という「社会主義の二類型」を挙げ、アメリカに伝統的な献金と労力提供型の「自発的社会主義」をもって、個人主義と社会主義との妥協と調和を期すべきであるとしている(8)
  また、一九一四ー一七年の第一次世界大戦とアメリカの参戦(一九一七年四月)期における憲法上の変化として、参戦に際して導入された「選抜徴兵法(Selective Draft Act)」(一七年五月)と「防諜法(Espionage Act)」(一七年六月)を挙げ、前者は、侵略と暴動への対応ではなくてヨーロッパの戦争に介入するという点で、しかも志願兵ではなく「徴兵(conscription)」による派兵であるという点で、「最も専政的な権力」の行使であると指摘している。また、後者については、戦時下とはいえ、合衆国の政治形態に対する批判規制条項を含み、立憲主義の原則に悖るとしている(Recent Changes, pp. 60-63, 80-83)。さらには、戦後の憲法上の変更として「憲法修正第一八条」(禁酒法、一九一九年)と「憲法修正第一九条」(女性参政権、一九二〇年)を挙げ、前者は酒類の醸造と販売の自由を侵害する条項であるだけでなく、生産の規制権を州政府から連邦政府に移すという点で集権化に連なるものであると、また、後者は女性の政治参加を促すなかで、アメリカに伝統的な「自発的社会主義」に替えて「強制的社会主義」への、さらには「国家社会主義」や「政府社会主義」への道を開き、「権力の制限された政府」と「市民的自由」の破壊に連なると位置付けている(Recent Changes, pp. 86-93)。
  第一次世界大戦は、一九一九年六月の「ヴェルサイユ条約」の調印をもって、一応の終結をみている。だが、アメリカは、ウィルソン大統領の下で練られた「国際連盟」にアメリカ自体が参加しないという結果を招くことになった。バージェスは、既に、『政治学と比較憲法』(一八九一年)において、「人類は、全体として組織され得るには、まず、部分をもって政治的に組織されなければならない」との理解から、「世界国家が登場し得るには国民国家が全域で展開される必要がある」とし、「世界国家(ワールド・スティト)」を遠望しながらも「国民国家(ナショナル・スティト)」の完成を現局面の歴史的課題と位置付けている(PSCCL, I, pp. 85-86)。この視点から、バージェスは「国際連盟」の加入に反対している。というのも、彼の理解からすると、「国際連盟(League of Nations)」とは、文字どおり、諸国民の連盟であり、理非の観念を共有し得ない「超国家(スーパー・スティト)」的「世界政府」であるがゆえに、国民の主権と自律性を脅かすだけでなく、アメリカが「人種の集合体(コングロマット)」であり、その統一性と凝集性は「自然的(フィズィカル)というより精神的(フィロソフィカル)」契機に依拠しているだけに、国外対立に関与することは国内矛盾を誘発し、ひいては政府の専政化を呼ぶことになるとされるからである(9)。バージェスの歴史認識からすると、アメリカは「国民国家」の政治的構築を当面の課題としているだけに、「理念的国家」としての普遍的「世界国家(world state)」を求める段階にはなく、「理念としての共和国」の完成を目指すべきものと考えられているのである。
  この著書において、バージェスは、一八九八年以降の政治状況に「アメリカ人民の精神的帝国主義化」を認め、主権と政府との同視傾向(「主権的政府(sovereign government)」の生成)に「自由」の漸崩の危機感を覚え、「国家の船」をこの巨大な流れから抜け出させる努力が求められていると結んでいる(Recent Changes, p. 86, 104)。だが、バージェスの「国家主義的自由主義」論は、国家・政府二分論に立ち、「国家」に「自由」の実現体を措定し、その保塁の人工的メカニズムを「政府」に求めるものであるだけに、内外矛盾の噴出との対応の必要のなかで、「国家」において「政府」の自己機能の拡大が、また、「政府」によって、その国民的正統性が導出されるとともに、「自由主義」理念の組み替えが急がれる局面に至って、彼の政治観は破綻の色を深めざるを得なかったのであり、彼の「危機」感はこうした歴史状況に根差し、また、その反映でもあったのである。

(1)  Henry Steele Commager, The American Mind:An Interpretation of American Thought and Character since the 1880's, Yale University Press, 1950, p. 41;Richard Hofstadter,”Manifesto Destiny and the Philippines, Daniel Aaron, ed., American Crisis, 1952, Alfred A. Knopf, p. 173;id., Social Darwinism in American Thought (revised edition), Beacon Press, 1955, Ch. VIII(後藤昭次訳『アメリカの社会進化思想』、研究社、一九七三年);Thomas L. Haskell, The Emergence of Professional Social Science:The American Social Science Association and the Nineteenth−Century Crisis of Authority, University of Illinois Press, 1977. ハスケルの著書は、「学会の母(mother of associations)」と呼称される「アメリカ社会科学協会(ASSA)」(一八六五ー一九〇九年)の成立と展開および解体の過程を世紀転換期の「権威の危機」との連関において辿っている。
(2)  斎藤真『アメリカ政治外交史』、第七章、東京大学出版会、一九七五年。ホーフスタッターは「米西戦争」によって「西半球外の植民地(extra−hemispheric colonies)」を獲得することになったという点で、アメリカ史の「転換点」にあたるとしている。Richard Hofstadter, op. cit., 1952, p. 173.
(3)  William A. Dunning,”A Century of Politics, North American Review 179, December 1904, pp. 801-14.
(4)  「社会主義労働党(Socialist Labor Party)」(一八七七年成立)の指導者=デ・レオン(Daniel De Leon, 1852-1914)は、バージェスの「ロー・スクール」時代の教え子にあたり、その後、コロンビア大学の講師を務めているが、後年、バージェスは彼を評して、「驚くほど博識」であったと回顧している(Reminiscences, p. 182)。なお、ビアードは次の書において、バージェスが、憲法修正第五条(大陪審制度・被告人の権利・適法手続など)と第一四条(市民権の拡大・平等保護・適法手続など)は「社会主義立法による私権侵害を防ぐもの」であると教えていたと述べている。また、この書において、ビアードは、一九世紀までの政治学は「形式主義的・法学的で、影の薄い(formalistic, legalistic, and shadowy)」ものであったとし、経済との連関については不十分さを留めるとしつつも、「政党」に止目する必要性を指摘したという点で、ブライスの『アメリカ共和国(American Commonwealth)』(一八八八年)を評価している。Charles A. Beard, Public Policy and the General Welfare, Farrar and Rinehart, 1941, pp. 136-38.
(5)  Quoted in Ralph Gordon Hoxie et al., A History of the Faculty of Political Science, Columbia University, Columbia University Press, 1955, p. 51.
(6)  Private Corporations from the Point of View of Political Science, PSQ 13, no. 2, June 1898, pp. 201-12;”Ideal, op. cit., pp. 410-13;Reconciliation, p. 365.
(7)  extra−continental territory, op. cit., pp. 1-18. なお、ハリソン(Benjamin Harrison, 1833-1901)やクリーブランド(Stephen G. Cleveland, 1837-1908)からゴンパース(Samuel Gompers, 1850-1924)やカーネギ(Andrew Carnegie, 1835-1919)に至る、いわゆる「反帝国主義者」の主張については次を参照のこと。Robert L. Beisner, Twelve Against Empire:The Anti−Imperialists, 1898-1900, McGraw−Hill Company, 1968. また、世紀末の状況変化と結び付けて、アメリカの外交政策のパラダイム変化について論じたものとしては、小著ながら、次が示唆的である。Robert L. Besiner, From the Old Diplomacy to the New, 1865-1900, AHM Publishing Corporation, 1975.
(8)  Recent Changes, pp. 42-54;”Present Problems of Constitutional Law, PSQ 19, no. 4, December 1904, pp. 570-571.
(9)  John W. Burgess, Sanctity of Law:Wherein Does It Consist?(以下、Sanctity と略記), pp. 307-322;Reminiscences, pp. 247-248;Recent Changes, pp. 94-98, 107-110;”German, Great Britain, and the United States, PSQ 19, no. 1, March 1904, pp. 16, 19;”Chief Questions of Present American Politics, PSQ 23, no. 3, September 1908, p. 392.


(三)  学史的位置



  パリントンはバージェスを評して、「徹底的オースチン主義者・ドイツ型国家崇拝の使徒・ヘーゲル主義者」であるとしているが(1)、その政治論の特徴はヘーゲル主義的歴史観を基礎とした「民族主義的国民国家」論であるとすることができよう。この国家観にあっては、領土性を共有する「民族(エスニシティ)」と共通の規範意識の制度化との歴史的統体として「主権的国民国家」の概念が導出される。この点で、バージェスは未完の自叙伝において次のように記している。
  国家の基盤を国民(ネーション)に求めるとともに、国民とは、一団の人民であり、程度の差はあれ、一定の地理的統一性を共有し、言語・習慣・利害・文化を媒介として、理非の基本原則について意見の実質的合意をみるに至った人々であると定義した。この原理が、近代国家の基盤という点で、最高の道徳的観念であると考えられる。また、主権とは国家に固有の試金石であり、属性でもある。この点で、国家は、別のあらゆる組織体とは、教会・企業体・会議体(コンヴェンション)・組合、さらには政府自体とも区別される。こうした国家の本質は、法の支配と秩序に不可欠であるだけでなく、明定された自由の存在と維持にとっても絶対に必要である。この点は、理非の基本原則が既に国民的合意として確立されるに至って、完全に理解され、広く認識されることになる(Reminiscences, pp. 250-51)。
  バージェスの「民族主義的国民国家」論は、「国民国家」形成の理念的紐帯を「自由」に求め、その顕現過程に「歴史」を認め、「自由」の理非の世界的合意において「世界国家(world−state)」を遠望するものである(2)。この脈絡において「民族的国民国家」の形成が現実の歴史的課題であると位置付けられることになる。「国民国家」が「自由」の「理非」を共有した人民の現実体と観念され、また、「チュートン民族が現代の政治民族(political nations)である」との理解をもって(Foundations, p. 49)、自由民主主義的制度の歴史的系譜にチュートン系民族の政治資質を辿るとともに、アメリカの政治理念はその反映であり、これに制約されるものと位置付けることになる。かくして、英米の政治体制に特徴的な「自由」の認識をもって、また、ヨーロッパ公法学には国家と政府との混合が認められるとの理解において(PSCCL, , pp. 72-76)、国家と政府を二分し、「国家」の政治機関として「政府」を設定するとともに、政府に「自由」の制度的・機構的保障メカニズムを求めている。
  だが、「政府」は「専政」と「不自由」の機関に転化するという歴史と論理を内包している。したがって、「自由」と「国家」との一体論と「国家」と「政府」の峻別論は「統治」と「自由」との、あるいは「国家」と「政府」との調和の模索を迫ることになる。バージェスの政治学的営為が両者の調和の歴史的・制度的メカニズムの検討と模索に向けられているのは、こうした論理と認識に発しているからである(Reconciliation, p. 98;Sanctity, pp. 287-88)。この文脈の歴史的延長線にアメリカ合衆国の政治体制を措定し、これを「例外主義」的範例とすることによって、この民族主義的国民国家の歴史的先導性を導いているのである。だが、「自由」の顕現形態を「国家」に包括された人民の「主権的意志」に求めるものであるだけに、その機能不全化の認識は不断に「政府」に引照されざるを得ないことになる。したがって、「自由」の視点において国家の所与性が前提とされているところから、その神聖化の論理を内包せざるを得ないことにもなる。
  バージェス政治論をアメリカ史に即してみると、その行論は明示的軌跡にある。南北戦争という国家の分裂を経験した草創期の政治学にあって、共和主義的・自由主義的政治信条を媒介として国家統一の回復と保守が政治学の主要課題とされ、また、その「存在理由(raison d'e´tre)」の自覚化が求められざるを得なかった。この歴史的文脈に照らしてみると、バージェスの政治論は、「南北戦争」という内乱において、南部人として北軍に従軍するという青年期の辛酸な経験を原点とし、また、統一期のドイツ留学の知見を基礎に、南北戦争後の「再建期」から世紀末の社会的アノミー状況にあって、歴史主義的・国家主義的政治学とチュートン民族の「政治的資質」論とを複合してアメリカの政体と憲政の歴史的「範例」性を導出することによって、連邦国家の再統一の課題に応え、その展開に世界史的「使命」を措定せんとするものである。バージェス政治学はこうした歴史状況を背景としている。
  だが、世紀転換期のアメリカは海外膨張の方向を強くする。この政策的方向はマハン(Alfred T. Mahan, 1840-1942)の大海軍建造論やストロング(Jasiah Strong, 1847-1916)の「福音化(evangelization)」論によって正当化されている(3)。この点で、バージェスの「人種主義的植民地政策」論はこの方向と共鳴する。だが、バージェスの「膨張」論は、「理念国家」の遠望において、テュートン民族に支配的な「自由主義的」政治体制の世界的普及化の歴史的使命論と接合しているだけに、自由主義の拡大と移植に制約されざるを得ないことになる。かくして、テュートン民族ないしアーリア民族の「明白な使命」が「大陸大的膨張」に留まっている限りにおいては、その膨張主義政策は「明白な使命」論において正当化され得ても(Reminiscences, pp. 254-55;PSCCL, I, p. 47)、海外領土の領有や国際機関への加盟が国内の自由主義体制を危険にさらすと認識されるとき(4)、「民族主義的国民国家」の保守と完成の意識において、その政策的方向に対する批判を強くせざるを得ない。彼の民族主義的政策論が膨張主義と孤立主義ないし移民制限論(PSCCL, I, p. 44)という相反性を帯びるのも、ベクトルを異にする同一認識の二面的表現にほかならない。だから、チュートン民族を「規範民族」ないし「政治民族」とする目的論的歴史主義観は、第一次世界大戦がチュートン民族間の武力対立の様相をも帯びていただけに、バージェスの苦悩を呼ばざるを得なかったのである。
  また、世紀転換期のアメリカは、社会経済矛盾の表面化との対応において、国家機能の多岐化と国家機構の肥大化を、いわゆる行政国家化とコーポラ主義的積極国家化の方向を強くすることになる(5)。この点で、バージェスにおける「自由」の観念が「個人」と「政府」との二項対立型の「古典的自由主義」の枠内に留まるものであるかぎり、政府の機能的・機構的拡大は「自由」を破るものと認識され、「自由」の保守において「危機感」を強めざるを得なかったことになる。とりわけ、「社会主義政府」は「文明化」の根底に位置する所有権的自由主義を破るものと判断されているだけに、「多数専政」の危惧とも連動して、これに強く反対することになったのである。以上に鑑みると、バージェスの「自由主義」は、「統治」と「自由」との緊張関係の認識において「政府」を制限しようとするものである限りでは、「保守的自由主義(conservative liberalism)」に位置していると言えよう。だが、彼が現認した生成期の利益集団政治はアメリカ政治の駆動力として始動し、集団間の競合的統体にアメリカ政治の現実態を認めようとする方向が作動しだしていたのである。また、アメリカの自由主義的政治理念にあっては、「自由主義」理念の鋳直しと自由主義体制の再構築の原理が求められる局面にもあたっていたのである(6)。バージェスの問題意識に即するなら、「自由と統治」の新しい様式が模索されていたと言えよう。
  次に、バージェス政治論の学史的位置を定めておこう。「政治理論が明確な知的分野として浮上し、その登場をみることによって、政治学と政治権力との関係について関心を深くすることになったのは、主として、コロンビア大学のジョン・W・バージェスの営為に負うものである」とされる(7)。学史的脈絡からすると、アメリカ政治学における「国家」論型政治学の文脈には無視され得ないものがあり(8)、一八九〇年代は「国家理念の神格化」の局面にあたる。バージェス政治論は、その代表例に位置しているし、この点では、形而上学的・観念的国家論は影を薄くしだしているとはいえ、ウィルソンの『国家−歴史と現実政治論(The State:Elements of History and Practical Politics)』(一八八九年)やW・W・ウィロビーの『国家の本質−政治哲学的研究(The Nature of the State:A Study in Political Philosophy)』(一八九六年)を挙げることもできよう。したがって、リーバー以来の「国家」論は、なお、アメリカ政治学に強い影響を留めているのであり(9)、「国家」観念やドイツ国家学に対する正面攻撃の開始は、イギリスにあってはバーカーの「ポリアーキイズム」に、アメリカにあってはデューイの「実験哲学」に認められるように、第一次世界大戦との対応の局面まで待たなければならない(10)
  だが、政治学における「国家」の概念は、既に、世紀転換期に至って相対的に影を薄くしている。こうした政治学的傾向は、イギリスにあってはバジョット(Walter Bagehot, 1826-77)の『自然科学と政治学(Physics and Politics)』(一八七三年)やブライス(James Bryce, 1832-1922)の『アメリカ共和国(American Commonwealth)』(一八八八年)に、また、フランスにあってはデュギー(Le´on Duguit, 1859-1928)の「社会連帯」論からの伝統的主権論批判に、アメリカにあっては、いまだジョンズ・ホプキンズ大学にいたウィルソン(Woodrow Wilson, 1892-1924)の『議会制統治論(Congressional Government)』(一八八五年)に認めることができよう。サムナー(William G. Sumner, 1840-1910)がスペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)の「社会進化論」の影響のうちに「フォークウェイズ」を、あるいは、ウォード(Lester F. Ward, 1841-1913)がコント(Auguste Comte, 1793-1857)の影響のうちに「動態社会学(Dynamic Sociology)」を、あるいは、ベラミィ(Edward Bellamy, 1850-98)がコーポラ主義的社会主義観を提示するのも、こうした歴史的・思想史的文脈においてのことである(11)
  また、バージェスとは同僚にあたるダニングは、既に、「新しい帝国主義の時代」における対外政策を批判するとともに、オースティン以来の主権論のゆらぎを指摘するに至っている(12)。この点では、バージェスの教え子にあたるビアード(Charles A. Beard, 1874-1948)は、アメリカ政治学が「法律家の羈絆(bandage of the lawyers)」から脱し得なかった背景として憲法主義的発想が強かったとしつつも、既に、第一次世界大戦以前に「反乱の十分な徴候」が認められるに至ったとし、その政治学的反映として、グッドナウ(Frank Johnson Goodnow, 1859-1939)の『社会改革と憲法(Social Reform and the Constitution)』(一九一一年)、ベントレー(Arthur F. Bentley, 1870-1957)の『統治の過程(The Process of Government)』(一九〇八年)、リップマン(Walter Lippmann, 1889-1974)の『政治序説(Preface to Politics)』(一九一三年)、フォード(Henry Johns Ford, 1851-1925)の『アメリカ政治の生成(The Rise and Growth of American Politics)』(一八九八年)などを挙げている(13)。こうして、政治の「現実主義」的アプローチにおいて、ベントレーは「観念の幽霊」ではなく「事実」を重視すべきであると、また、デューイは「人間行動の事実から出発すべき」であると指摘することになる(14)。したがって、学史的文脈からすると、世紀転換期は政治学の転換期にもあたっていたことになる。
  『ザ・フェデラリスト』(一七八八年)は古典的共和制の基盤である「人民」を発見し得ず、「人民」を「利益集団」と「徒党(ファクション)」に解消するとともに、諸勢力の均衡導出型政治編成に統合の原理を求めた。だが、これは、ひとつの機制であるだけに不断に統合の理念的契機を模索せざるを得ない面がある(15)。バージェスの政治論は、「再建期」から世紀転換期において、チュートン民族の政治的「使命」を歴史的認識とした「国民統合」論として登場したが、それは、また、国内的・国際的移行期の危機の反映でもあったのである。さらには、バージェスにあって、「理念の共和国」の観念と歴史的「使命」論においてナショナリスティックな「統合」が模索されることになったのも、アメリカ国家が自然的紐帯の歴史的伝統に相対的に欠け、人為性と人工性を国家成立の背景とするという、この国の特徴に負うものである。だが、「国民統合」の問題はアメリカに固有の自己確認の様相をおびるだけに、国際政治へのコミットメントともかかわって、その後もアメリカ史において繰り返し浮上することになる。

(1)  Vernon Louis Parrington, Main Currents in American Thought:The Beginnings of Critical Realism in America, 1860-1920, A Harbinger Book, 1958, p. 124.
(2)  ドイツにおける歴史主義と「国家」観の展開については次を参照のこと。Georg G. Iggers, The German Conception of History:The National Tradition of Historical Thought from Herder to the Present, Wesleyan University Press, 1968;David F. Lindenfeld, The Practical Imagination:The German Science of State in the Nineteenth Century, University of Chicago Press, 1997.
(3)  Alfred T. Mahan, The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783 (1890);Josiah Strong, Our Country (1885).
(4)  Recent Changes, pp. 11-13, 98-99;”Germany, Great Britain and the United States, PSQ 19, no. I, March 1904;”Chief Questions of Present American Politics, PSQ 23, no 3, September 1908;Sanctity, pp. 307-322;Reminiscences, pp. 247-48.
(5)  R. Jeffrey Lustig, Corporate Liberalism:The Origins of Modern American Political Theory, 1890-1920, University of California Press, 1982. 世紀転換期前後の内外危機との関連において、行政改革、軍備再編、鉄道規制の点からアメリカの「国家形成(state−building)」について論じたものとしては次がある。Stephen Skowroneck, Building a New American State:The Expansion of National Administrative Capacities, 1877-1920, Cambridge University Press, 1982. また、次も参照のこと。新川健三郎「『積極国家』への胎動」(本間長世編『現代アメリカの出現』東京大学出版会、一九八八年)。
(6)  Dorothy Ross, op. cit., ch. 5, 1991.
(7)  John W. Gunnell, The Descent of Political Theory:The Genealogy of an American Vocation, University of Chicago Press, 1993, p. 36.
(8)  James Farr,”The Estate of Political Knowledge:Political Science and the State, JoAnne Brown and David K. van Keuren, eds., The Estate of Social Knowledge, Johns Hopkins University Press, 1991, pp. 1-21.
(9)  John G. Gunnell, op. cit., 1993, pp. 71-74.
(10)  Thomas I. Cooker and Arnaud B. Leavelle,”German Idealism and American Theories of the Democratic Community, Journal of Politics 5, no. 3, August 1943, pp. 213-236;John Dewey, German Philosophy and Politics, 1915(足立幸男訳『ドイツ哲学と政治−ナチズムの思想的淵源』(木鐸社、一九七七年). なお、早くもラスキの「多元主義国家」論について論じたのは次である。Ellen Deborah Ellis,”The Pluralistic State, American Political Science Review 14, no. 3, August 1920, pp. 393-407. また、W・W・ウィロビーは、アメリカの政治理念とドイツの「世界観(weltanschauung)」とを比較し、ヘーゲル歴史観は、民族の明証の競争原理と結合しつつ、チュートン民族の優秀性の認識において領土膨張に、また、権威的国家観によって「授権的国家(divine right of the State)」と国家の自己目的化に連なったとし(sic volo, sic jubeo, sit pro ratione, voluntas)、国家神話とテュートン民族称賛型歴史観はプロシア理念の宣揚に過ぎないとする。次を参照のこと。Westel Woodrow Willoughby, Prussian Political Philosophy:Its Principles and Implications, D. Appleton & Co., 1918.
(11)  William Graham Sumner, Folkways:A Study of the Sociological Importance of Usages, Manners, Customs, Mores, and Morals, 1906;Lester Frank Ward, Dynamic Sociology, 1883;Edward Bellamy, Looking Backward, 1888. この時期のイギリスにおける「政治の科学」化の志向動向については次を参照のこと。Stefan Collini, Donald Winch and Johan Burrow, That Noble Science of Politics:A Study in Nineteenth−Century Intellectual History, Cambridge University Press, 1983.
(12)  Dunning, op. cit., 1904;id., review of Harold Laski's Studies in the Problem of Sovereignty, PSQ 32, no. 3, September 1917, pp. 503-04.
(13)  Charles A. Beard,”Political Science in Crucible, The New Republic, Nov. 17, 1917, pp. 3-4.
(14)  デューイ(John Dewey, 1859-1952)は次のように指摘している。「われわれが”国家”という語を発した瞬間に、さまざまな知的幻影があらわれて、われわれの観念像を不明確にする。”国家”という観念は、われわれがそれを意図し、あるいは認知しなくても、無意識のうちにさまざまな観念相互間の論理的関係を考えさせることになり、われわれを人間行動という事実から遠くへ引き離してしまうのである。したがって、もし可能なら、人間行動の事実から出発し、それによってわれわれが、政治行動を特徴づける特色や標識を包含するなんらかの観念へと導かれないかどうかを検討する方がよりよいであろう」と(John Dewey, The Public and its Problem:An Essay in Political Inquiry 1927(阿部斉訳『現代政治の基礎−公衆とその諸問題』、みすず書房、一九六九年、一一−一二頁)。ここに、観念的政治哲学とは異なる実験的科学哲学への移行の必要性の指摘を認めることができる。
(15)  John G. Gunnell,”In Search of the State:Political Science as an Emerging Discipline in the U. S., P. Wagner, B. Wittrock and R. Whitley (eds.), Discourses on Society:The Shaping of the Social Science Disciplines, Kluwer Academic Publishers, 1991, pp. 123-161.