立命館法学 2000年6号(274号) 298頁




人間の条件と物語論の接点


岡野 八代



今回は、広い世界をあなたにお届けしたいのです。やっとのことで、本当に最近になって、わたしは世界を心より愛しはじめました。今ようやく、世界を愛することができるのです。感謝の気持ちから、今度の政治理論に関するわたしの作品を「世界への愛 Amor Mundi」と呼びたいと考えています[Arendt and Jaspers 1992:264.(アーレントからヤスパースへの一九五五年八月六日付けの手紙)]。

 

は じ め に −アーレントをとりまく両義性−

  アーレントの主著『人間の条件』が出版されてから四十年が経過した一九九八年に出版された第二版への序文として、つぎのような文章をカノヴァンは寄せている。
[『人間の条件』を]織り成す糸は非常に複雑なので、多くの異なる読解の余地が存在している。アリストテレス派、現象学者、ハバーマス派、ポスト・モダニスト、フェミニストをはじめ、その他多くの人々が、この豊かな織物の異なる縒り糸からインスピレィションを得てきた。そして、公刊から四十年という年月は、本書が与えつづけている重要性とはいったい何なのかについて一つの答えを出すには、とても十分な年月とはいえない[Canovan 1998:xvi]。

  偉大な思想家のテクストとは、時代とその状況に位置づけられた読者の視線、つまり読解の光によって、さまざまに輝くプリズムのようであることを考えれば、一つのテクストについての評価が定まらない、というのはまさに、そのテクストの偉大さを語っているといえる。しかしながら、七〇年代以降、アーレント研究者として第一線で活躍してきたカノヴァンによって、アーレント評価についての難しさがこのように指摘されるには、相当の理由が存在すると考えることができよう。
  たとえば、ヴィラは、九十年代以降のアーレント研究がアーレント「本人が思索の中心に置かなかった問題」から[Benhabib 1996:3/ 94]、アーレントを再読しているのは知的怠慢である、とさえ批判する[Villa 1999:4]。そして、北米におけるアーレント研究の興隆を支えているのは、アイデンティティ・ポリティクスの台頭、あるいは、フェミニズム理論の深化であることを念頭におくならば、アーレント自身であれば「歓迎しないであろう理由から」アーレントの思想が「以前にもまして注目される」ようになった、と結論してもよいように思われる[Canovan 1998:xvi(1)]。
  たしかに、アフォリズムにも似たアーレントのテクストは、読者の考え、政治的コミットメント、さらには偏見までもが投影されてしまうロールシャッハ・テストとなっているのだ、というヴィラの指摘は傾聴に値する。だが、その一方で、アーレントの著作そのものに、一貫した体系的な読解を拒むような要素があるのではないか。アーレントがかつてマルクスを評した言葉は、アーレント自身にこそあてはまるのではないか。「はなはだしい根本的矛盾は、むしろ二流の著述家の場合にはほとんど起こらないものである。偉大な著作家の作品であればこそ、かえって矛盾がその作品の核心にまで導入されるのである」、と[Arendt 1998:104-5/ 160]。そして、その矛盾こそが、これまでのアーレント研究を牽引してきた最大要因である、ということは過言であろうか。
  たとえば、アーレントの著作に内在する矛盾の一つとして、ホロコースト経験以後になお、自由を「政治的自由」「公的自由」「行為」の様相において捉える点が挙げられよう。つまり、自由の経験の場として定義される行為の特徴として、非日常的であること、創始を引き受けること、始めること、世界のなかに唯一の比類なき存在として現れること、さらには、「知性の指導下にも、意志の命令下にもない」こと、すなわち「行為は、自由であろうとすれば、一方で動機づけから、しかも他方では予言可能な意図された目標からも自由でなければならない」、とアーレントが強調すればするほど[Arendt 1968b:151/ 204]、アーレントが思索の出発点としていたはずの、全体主義下におけるナチズムの蛮行に対するアーレントの批判点が見失われてしまうのだ。それどころか、アーレントが『全体主義の起原』において分析したナチズムとスターリニズムこそが[Arendt 1968a]、こうした行為の特徴を具現化していたのではないか、という疑いさえ生じる(2)。バーンスタインが端的に述べるように、「ギリシャのポリスだけでなく、二〇世紀の悪夢である全体主義を生み出したのも、同じ能力、行為し創始する能力」なのではないか、と[Bernstein 1977:151]。
  現在のアーレント評価をめぐる多様な論争は、個人主義的 vs 共和主義的、ニーチェ的 vs ハバーマス的、アゴニスティック vs アソシエィショナルとさまざまに表現することが可能であるが(3)、こうした論争は主に、アーレントの行為概念の持つ両義性から発していると考えられる。本稿では、アーレントの著作が露わにする両義性を克服し、一貫性のある読解を試みることを目的とはしない。むしろ、こうした両義的な解釈を許してしまう行為概念をアーレントが模索せざるを得なかったその基底には、どのような思想的背景が存在したのかを探ることを主眼としたい。
  本論で問われるのは、アーレントが描いたとされる理想の政治像と全体主義とのあいだに親和性を指摘してきた論者は(4)、非常に重要なアーレント的なモメントを見落としてきたのではないか、という問いである。そして、そのモメントが意識されて初めて、アーレントが直面していた「現代的な問い」の在り処が突きとめられることを論証してみたい。そして、彼女の「問い」の源流に、これまでのアーレント研究では周縁化され続けてきたアウグスティヌスの思想が存在することを指摘する(5)

(1)  テクスト読解とはいかなるものであるかについては、ヴィラからの批判を受ける形で、ガダマーの『真理と方法』を参照しながら論じた[岡野 2000:154-5]を参照。
(2)  こうした批判を代表する議論として[ジェイ 1989:405]、[Kateb 1984]、[King 1984]、[Mayer 1991]を参照。
(3)  たとえば、フェミニズム理論内部でのアーレント理解をめぐる論争については、[Dietz 1995]を参照。
(4)  そのような論者は、ディッシュの分類にしたがうならば、「ホメロス的英雄を、アーレントの政治的行為者の典型として確立してきた」[Disch 1994:74]。彼女/かれらの特徴として、『人間の条件』における行為の二つの側面をめぐるアーレントの記述に注目することが挙げられる。すなわち、彼女/かれらは、アーレントがアキレスを行為者の範例としている点と、公的生活を記述するために演劇をメタファーとして使用する点を強調する[Arendt 1998:194/ 312, 187-188/ 303-4]。しかしながら、ディッシュの読解によると、アーレントの「その英雄に関する議論が、主権 sovereignty や支配 mastery に反対している議論であることを考慮にいれるならば、市民性という観点からアキレスというモデルは賞賛されるためではなく、むしろ批判するために取り上げられていることは明らかである」[Disch 1994:75]。さらに、行為のメタファーとして演劇が論じられていることに注目する論者は、批判するしないに関わらず、ニーチェ的なアーレントを発見する。すなわち、畜群的な道徳を超えた善悪の彼岸において、行為の「偉大さ」「栄光」を称揚するアーレントの政治観に注目する[ex. Katab 1984, Honig 1993]。この点について、ディッシュはもう一つの異なる読解を試みている。つまり、「アーレントが政治を演劇として語るときは、彼女は一人一人のスターによるパフォーマンスを強調しているのではなく、パフォーマンスを可能にしている物理的で社会的な機構を強調しているのだ」、と[ibid.:84]。本稿もまた、こうしたディッシュの新しいアーレント読解に多くを負うている。
(5)  たとえば、『人間の条件』といったアーレントの主著ではなく、一九二九年以降アーレントが執筆準備を始めた『ラーエル・ファルンハーゲン』に注目するベンハビブは、つぎのようにこの初期の作品に焦点を当てる理由を説明している。「というのも、初期の作品は、それ自体がまた始まりであり、始まりが、思想家の全作品の核心に最も近いことはよくあることであるからだ。なぜなら、思考の起源にある実存的な問いや関心が、時間や経験、文章の洗練、学会組織などによってまだ曇らされていないからである」[Benhabib 1995:94]。しかしながら、ベンハビブに従えば、ではなぜアウグスティヌスに注目しないのだろうか、という疑問が生じる。なぜ、アウグスティヌス論がこれまでのアーレント研究において周縁化されてきたのか、について、スコットとスタークはつぎのように分析している。つまり、アーレントの公共性理論のなかに、ニーチェ的な、ときにはジャコバン的な傾向が存在することを批判する論者に抵抗して、むしろ、アーレント自身のホロコーストの経験を強調する必要が生じた。そして、この点において、ラーエルの伝記はホロコースト以前に執筆され始めていたものの、ホロコーストの経験を補強する形での読解の意図に沿うものであった。「オーソドクスなアーレント的規範を手放さないことに関心をもつ者にとって、アーレントの徳を守ることが、第一の課題である。かれらにとって、アーレントにおけるホロコースト以前と以後の明白な切断は、根本的でかつ必然的なのだ。しかしながら、このプランの中心にあるのは、アーレントの博士論文の周縁化と、ラーエル・ファルンハーゲン研究への新たな関心の高まりである」[Scott and Stark 1996:127]。


第一章  ミッシング・リンクとしてのアウグスティヌス



  先述したように、アーレント評価を巡っての論争は、アーレント自身の議論に内在する矛盾から、とくに、行為概念を巡る矛盾から生じている。一例を挙げて再度確認しておくならば、自由の経験の場としての行為は、「始めること to begin」であると定義づけられる一方で[Arendt 1998:177/ 288]、「始まりが暴力と密接に結びついているにちがいないということは、聖書と古典が明らかにしているように、人間の歴史の伝説的な始まりによって裏づけられているように思われる。すなわち、アベルはカインを殺し、ロムルスはレムスを殺した」、つまり、「はじめに犯罪ありき in the beginning was a crime」と述べられているのだ[Arendt 1963:20/ 24]。
  たしかに、アーレントの独自の解釈が施された行為概念は、読者に戸惑いを与えずにはおかない。だが、そこに一筋の別の光を差し込むことで、矛盾を克服することはできなくとも、むしろ、矛盾を矛盾として照らし出すことを可能にするようなアーレント像が浮かび上がらないだろうか。しかも、その光は「ちらちらと不確かではあるが(6)」、アーレントのテクストのいたるところに点滅しているとしたら、どうであろうか。

つじつまが合わないことを照らし出すことは、概念的で経験論的な比較的閉じられた一つの文脈から生じてくる諸問題を解き明かすことと同じではない。それは、ただ、いかにしてこうしたつじつまの合わなさが現れてくるのか、すなわち、まったく異なる複数の意図によって、何がこのような矛盾−体系的な思考にとっては、理解不可能なもの−へと導かれてしまうのか、という問いに答えることである。わたしたちは、諸矛盾をそれがそうあるままにおいておかねばならないし、それらを理解するなら矛盾として理解しなければならない。そして、その矛盾の下に何が存在しているのかを掴まえるのである[Arendt 1996:7(7)]。

  右の言葉は、アーレントが古典を読み解く際の、特徴的な方法を示している(8)。しかし、筆者がここで注目したいのは、アーレントの古典読解の特徴であるこうした方法論が、アーレントが思索しはじめた当初において、すなわち、ホロコースト以前の一九二八年の段階で、かなり自覚的に採用されていた、という点である。そして、この言葉が、アーレントが生涯にわたり「古き友人(9)」と呼んでいたアウグスティヌスに向けて発せられていることは、注目に値する。なぜなら、これまでの主流のアーレント研究がアーレントの思考の出発点として考えてきたホロコーストの経験という一つの閉じられた文脈のなかでは理解不可能なアーレントの行為論に、異なる文脈を付け加えることをアーレント自身が読者に薦めているようにも聞こえるからだ。
  この一文に注目する理由は、アーレントをいかに解読するか、という方法論に関する理由だけではなく、まさに、矛盾を矛盾として理解してみたときに、その矛盾の下に何が存在しているのか、というアーレントのテクスト内容にこの一文が深く関わっているからでもある。ホロコーストの経験をアーレントの思索が生み出された唯一の文脈として捉えることで、アーレントの行為概念についての「正しい」読解をめぐってこれまで論争が繰り広げられてきた。しかし、「すでに「偉大さ」を具えている事柄、つまり、他のすべてから区別される際だった輝きをもつ事柄、栄光を可能とする事柄にのみ賞賛が与えられてきた」明るいギリシャのポリスの時代へと遡りながら[Arendt 1968b:47/ 60]、いや、遡る前に、つねに消え入りそうな光、ポリスの明るい光の下では、むしろほの暗いであろう小さな光をアーレントが視野に収めていることをそうした論争は忘れてはいないだろうか。つまり、アーレントの政治理論を、「政治のみ politics only」へと完全に還元してしまうことは、そうしたほの暗いとさえいえる小さな光を見失ってしまうことではないか[see Scott 1988:402-405(10)]。たとえば、本当にアーレントは、外界に現れる行為のみを語り、感情、道徳、愛情、良心といったものを、人間の内面性に関わることであるから、といった理由でまったく視野の外へ放逐してしまったのであろうか[see Katab 1988:32, 160.]。
  アーレントの政治理論を「政治のみ」という限定の下で読解してきたことによって、アーレント自身がつねに視野に収めようとしてきた弱い小さな光を、読者であるわたしたちは消し去っているのではないか。その表れとして、これまでのアーレント研究において、アーレントがアウグスティヌスから受けた影響についてほとんど触れられることがなかった(11)。たしかに、『人間の条件』では「キリスト教の共同体の性格は、非政治的、非公的なものである」と否定的に語られている[Arendt 1998:54/ 80]。また、「愛」に関しても、「介在的関係性 in− between」を破壊するため、きわめて私的なものとされている[ibid.:242/ 378(12)]。
  しかしながら、アーレントのテクストを読めば明らかなように、アウグスティヌスがアーレントに与えた影響は甚大である。右のように、アーレントがキリスト教の無世界性を批判するからといって、アウグスティヌスまでをもアーレントが否定的に捉えていたとは限らない。むしろ、「古き友人」としてアーレントは生涯にわたってアウグスティヌスへの関心を失わなかった(13)
  一九九六年、合衆国の二人の研究者の手によって、新しく編集された『アウグスティヌスにおける愛の概念』−英語でのタイトルは、Love and Saint Augustine である−英語版が出版された。そして、編者らによって明らかにされたのは、アーレントが一九二九年にドイツで出版された博士論文に対する英語訳(E.B. Ashton による)に、幾度か加筆と訂正を加え、一九六二年には出版社と公刊の契約を交わしていた、という事実である。結局出版されることなく終わった修正版がようやく公刊された現在、「政治のみ」を語ってきたとされるアーレントを異なる文脈の中に位置づける必要があるのではないか。
  おそらく、その文脈から、小さな弱い光に関心を向けつづけてきたアーレントの像はよりくっきりと浮かび上がるであろうし、行為論へ集中してきた論争とは異なる流れの源流をアウグスティヌスは提供してくれるように思われる。そしてまた、アウグスティヌス論の再読によって、ホロコースト以後の一九六十年代ニューヨークでなお、アウグスティヌス論を出版しようとしていたアーレントの意図もおのずから明らかになるであろう。

(6)  [Arendt 1965:ix/ 4]の言葉。これは、「暗い時代」において人々が期待できるのは、大文字の理論や概念ではなく、少数の人々がともす弱い光である、という文脈においてアーレントが使用する表現であるが、本稿におけるアーレント読解は、これまでの主流のアーレント研究が注目してきた行為によって与えられる栄光ではなく、アーレントのテクストをほの照らす微光に注目したい。
(7)  後に説明するように、『アウグスティヌスにおける愛の概念』の英語版は、五十年代後半から六十年代前半にかけ、アーレントの手によって加筆訂正が行われている。そこで、英語版は、アーレントによって加筆訂正された部分を Copy B とし、とくに修正のない部分を Copy A としている。ここで引用されている言葉は、アーレントによってまったく加筆訂正されていない序文からの引用である。本書の構成は、三部からなり、アーレントの訂正が加えられているのは、第二部第一章の途中までである。途中でアーレントが修正を止めてしまった理由は明らかではないが、一つの理由として、出版社と公刊の契約を結んだ直後にアーレントがアイヒマン事件をめぐる論争に巻き込まれていったことが挙げられるだろう[Arendt 1996:xiv]。
(8)  「はじめに」で触れたアーレントのマルクス評価を思い起こされたい。
(9)  [see Scott 1988:395 n. 2]. 「コーンによれば、アウグスティヌスの作品は、近代における伝統との断絶を表現するさいの重要なメタファーをアーレントに提供した。そして、アウグスティヌスについての講義のあとには、アーレントはよく彼のことを「わたしの古き友人」として言及したそうである」[ibid.]。
(10)  たとえば、『人間の条件』の第一章はほとんどアウグスティヌスからの参照によって編まれていることの意味を考えてみてもよいであろう。あるいは、第五章に付されたエピグラフは、行為の喜びを語るダンテの前に、「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば堪えられる」というディネセンの言葉が添えられている意味を。
(11)  もちろん、まったくなかったわけではなく、本稿を執筆するにあたり、少ないながらも貴重な先行研究から多くを学んでいることは注記しておきたい。とくに、日本における研究では、[寺島 1990]、[伊藤 1991]が、「世界」概念をアーレントの政治思想を貫く鍵概念と設定することで、アウグスティヌス論を取り上げている。また、[千葉 1994]は、アーレントの思想における愛の概念の多様な形態を抽出しつつ、「愛の概念をそれが派生した元来の宗教的倫理的文脈から摘出しつつ、それを政治理論の言説のなかに定位しようとした」と解釈している[ibid.:8]。
(12)  こうしたアーレントのキリスト教批判が強調されることによって、アーレントのテクストの微妙な筆致そのものに寄り添いながら読解することが妨げられてきたように思われる。たとえば、キリスト教の非政治性を述べる同じパラグラフで、アーレントは、アウグスティヌスにおける神へ愛(charity/ caritas)には、一般の愛 love と異なり、人々の「あいだにある」という性格が存在することを指摘しており、ひとびとをつなぐ紐帯を見い出すことこそが、世界を共有し得なくなった時代におけるキリスト教の政治的課題であった、とさえ述べているのだ。さらにいうならば、邦訳では、「アウグスチヌス(ママ)は、少なくとも市民であることがかつてはなにを意味していたか知らなかったように思われる」[Arendt 1998:14/ 27. 強調は引用者]と訳されている箇所があるが、これもまたアウグスティヌス=キリスト教=無世界性という単純な等式からくる誤読であると考えられる。原文は、Augustine seems to have been the last to know at least what it once meant to be a citizen で、問題は the last の解釈であるが、むしろここは、「アウグスティヌスは、少なくとも、かつては市民であることが何を意味していたかを知っていた最後の人であったように思われる」と訳されてしかるべきであろう。
(13)  アーレントはほとんどの著書で、アウグスティヌスに言及している。また、最後の著作となった『精神の生活』第二巻『意志論』では、アウグスティヌスを正面から取り上げている。


第二章  時間的実存としての人間と想起



  たしかに、ホロコーストの経験は、次の言葉からも察せられるようにアーレントにとっては、決定的な一つの世界の「終わり」を告げていた。その「「犯罪」が伝統的な道徳の基準で判断することも、われわれの文明の法の枠組みで裁き罰することもできない全体主義の支配が一つの既成事実となったとき、西洋の歴史の連続性は断たれた。伝統の断絶はいまや確定的な事実である。この断絶は誰かが意図した選択の結果でもなければ、今後われわれの裁量でどうにかなるものではない」[Arendt 1968b:26/32]。
  アーレントにとって伝統は、世界と時間のなかで生きる人間にとっては非常に重要な役割を果たしていた。第一に、伝統は、一見ばらばらに見える過去の出来事を貫く導きの糸となって、世界につねに異人として生まれくる新しい世代が、世界と自分自身を経験し理解するさいの拠り所としての役割を果たしている[ibid.:25/31]。第二に、伝統は、過去ー現在ー未来という人間特有の時間概念をわたしたちに与えてくれる。つまり、伝統によって選択され、名づけられ、伝えられ、保存されることなしに、過去の財産は未来へと受け継がれることがない。過去を再現する精神の働きである想起は、なんらかの参照枠組みが存在しないと、まったく無力なのだ。そして、人間からすれば過去がなければ未来も存在しない。過去から受け継いできた遺産のみが、未来を照らすことができるからである[ibid.:5, 94/ 4-5, 127]。
  全体主義の経験がもたらしたものは、伝統との断絶という取り消すことのできない事実である、とアーレントが主張するのは、だからこそ伝統へと回帰しなければいけないと主張したいがためではない−それは、不可能な企てだとアーレント自身が最もよく自覚していた−。むしろ、世界と時間のなかで生きる人間の条件が根本的なところで掘り崩されていくことに、「社会的精神的な荒廃」を見て取っていたからに他ならない。伝統にこだわろうとするアーレントの問題意識は、市村によって次のように的確に指摘されている。

アーレントが「権威の喪失は世界の土台の喪失にも等しい」として権威という概念の身元を辿りなおしてゆくとき、その喪失が「伝統と宗教の喪失」をリアリティを帯びた出来事としたことが確かめられ、それによって伝統の喪失という「確かさの喪失」が過去の次元全体を「忘却の危険」にさらしていることが問題化されているのである。そこで手放されようとしているのは「世界」なのである。従って、そこに提起されるのは、「権威の概念全般の妥当性を完全に喪失させたことによって、いかなる種類の世界が終焉したのか」という問いにほかならない[市村 1998:19-20]。

  市村にしたがえば、アーレントは故郷喪失、世界喪失、そして、想起の不可能性、つまり忘却の危険、という基礎範疇を「全体主義の経験とそれについての考察から獲得した」[ibid.:20]。しかしながら、筆者はここで、アーレントが全体主義の経験を通じて、こうした基礎範疇を基底としながら思考を展開することができたのは、全体主義の経験以前に、世界のなかで過去と未来の狭間に生きる人間存在のあり方を思索し続けたアウグスティヌスを研究対象としていたからだと論じたい。博士論文は、アーレント自身が認めているように、もっぱら哲学的関心の下で執筆されている。しかし、その後政治理論家として「いかなる種類の世界が終焉したのか what kind of world came to an end」という問いを発しつづけながらも[see Arendt 1968b:104/ 141]、「新しい始まりの可能性に「世界」の存在を賭ける」ことがアーレントにとって可能であったのは[市村 1998:17-18]、ローマ帝国の衰退に立会いつつも、キリスト教を変容させることで、世界を現世内の新しい始まりにふたたび結びつけた religare、アウグスティヌスとの対話がすでにあったからではないか。では、「魂の座は記憶にある」[Arendt 1968b:126/ 171-2]と述べたアウグスティヌスからアーレントはいったい何を学んでいたのか。時間と世界という鍵概念を中心に詳しく見てみたい。
  アーレントの博士論文『アウグスティヌスにおける愛の概念』は、そのタイトルが示しているように、アウグスティヌスによって欲求 appetitus と定義された「愛」という概念を考察したものである(14)。しかし、アーレントはただ単に愛とはどのような感情の動きなのかを考察しているわけではない。むしろ、アーレントの問題関心は、アウグスティヌスがキリスト教に帰依し始めてもなお、キリスト教とは相容れない世界観を持つネオ・プラトン派のプロティノスの考えを手放さなかった理由と同じところにあるといえる(15)

表向きはプロティノスを否定した後もながい間、アウグスティヌスがプロティノスの用語から自由になることが困難であると考えていた理由は、ひとが生まれくる世界においてまったくの異人であることをかれ以上に説得的に理解している者がいなかったからである。そしてまた、ひとと世界のあいだに広がる深遠な溝−その深遠さは、人間の欲求と欲望のなかでこそ露わになる−をかれ以上に正しく見せてくれた者もいなかったからである[Arendt 1996:22]。

  つまり、アウグスティヌスの愛の概念を契機にして考察の対象となっているのは、世界の事象を愛すれば愛するほど、その対象物の奴隷となることによって自己を見失い、変化する世俗世界の多様性のなかで自らのアイデンティティを失い彷徨ってしまう人間が、いかに自らの存在の確からしさを取り戻すか、というプロセスである。それはまた、存在 being という人間の本質と、決して永遠ではあり得ない世界へと生まれ出づる、という事実によって世界から退却することを運命づけられた実存 existence との間で、アウグスティヌスが「わたしとは誰なのか who I am」という問いに対する答えを見出してゆく過程であるともいえる。
  わたしとは誰なのか、という問いは、アウグスティヌスにとって結局のところ、神のみが答えることのできる問いである。なぜなら、この問いは彼女/かれの起源、すなわち「どこからきたのか」という問いとなり、これ以上は遡れない究極の起源に神、すなわち永遠の存在者 Being、至高の善を見い出すからである。神のみが永遠であり、変化を知らず、それゆえ神を愛することは、将来において失われるかもしれないという恐れから自由な、本来の愛である。だが同時に、神の永遠に与ることは、ひとがこの世界で享受し得る幸福ではなく、むしろ、現世を否定し、幸福な未来を切望することを意味している。しかしながら、なぜひとはそのような「いまだない not yet」幸福、つまり未来の幸福を現在知っているのであろうか。アウグスティヌスによれば、ひとは、世界に誕生したという事実、つまり、世界にひとが生まれてくるのは創造主によってひとに存在 being が与えられた、という事実を記憶しているからに他ならない。つまり、その過去の一瞬に神の意志によって存在を与えられたという喜びの記憶こそが、未来にもまた幸福が回帰することを期待することを可能にしている[ibid.:47-8]。
  さらにまた、万物が神によって無から創造されたというキリスト教の教えは、永遠の存在 being を希求しながら、永遠ではない−つまり、ギリシャ的な全体、普遍なるものを意味しているコスモスとは相容れない−世界において生きなければいけない、という事実をアウグスティヌスに突きつけ、ひとは「ある being」者ではなくむしろ、時間の中で変転を繰り返しながら「なる becoming」者という意識をもたらした。すなわち、つねにひとは、「もはやない no more 過去」と「いまだない not yet 未来」のあいだで生きており、ひとの一生ですら、世界には「いまだない not yet」状態から、世界には「もはやない no more」状態のあいだでのみ存在しているのだ。アーレントの言葉によれば、「実存 existence に招き入れられ、そしてまた過ぎ去っていくといった可変性のなかで生が捉えられるとき、つまり、まったくの存在 altogether being でも、まったくの非在 altogether not−being でもないものとして生が捉えられるとき、生は、関係性の様態のなかで実存している。この意味で、人間の生は、そこからやってくるはずの存在 the Being を保持していない」[ibid.:53]。
  ここで「関係性の様態」について言葉を付け加えておきたい。というのも、この存在のあり方は、無から ex nihilo やってきて、無へ戻っていく時間的な/一時的な temporal 人間の実存、つまり、地の国における実存が、それでもなおあるアイデンティティを保ち得るのは、つねに過去の想起に関わっていることを示しているからである。そして、アウグスティヌスにおいて記憶は、時間を測るための重要な魂の働きである。アウグスティヌスが、「すべての過去のものは未来のものから追いはらわれ、すべての未来のものは過去から継起し、すべての過去のものも未来のものもつねに現在であるものによって造られ、そこから流れ出る」と述べるのは[アウグスティヌス 1976:109]、過去が心象として現在の記憶のなかにとどめられて初めて、過去という時間が存在することを伝えるためであった[see Arendt 1996:15]。時間内に存在するかぎり、現在がつねに未来によって「もはやない」へ追いはらわれ、そして究極的な「もはやない」へと死に急いでいるかのようなひとにとって、過去を記憶という魂の働きによって想起することは、「なによりも、集め直すこと/回顧 recollection である。つまり、「分散/散在 dispersion したわたし自身を集めること」」を意味してるのだ[ibid.:48]。
  常に過去に関わりながら生きることによって、ひとは自らのアイデンティティを保つことができる。「ある being」者ではなく変転しつづける「なる becoming」者でありながらも「わたしとは誰なのか」という問いに現在答えることができるのは、過去との関係づけにおいてその時々の自己を集め直し、回顧している recollect からなのだ。そして、この現在の記憶のなかで保存された過去の「始まり」には、神から与えられた新生 natality という恩寵が刻まれていることは、いうまでもない。

わたしたちの期待や欲求は、わたしたちが想起するものや以前の知識によって刺激されているために、人間の実存に統一性と全体性を与えているのは−たとえば、ハイデガーのアプローチにおける死の先駆といった−期待ではなく、記憶なのである[ibid.:56. 強調は引用者]。

  こうして、アウグスティヌスの時間的存在としての人間の魂のあり方、とくに想起力の考察から、現世においても、ひとは永遠に与し、幸福に預かり得ることが明らかにされた[ibid.:57]。だが、じつはここからがアーレントの問いかけなのだ。想起しうる存在としての人間のあり様は、アウグスティヌスにおいては神との孤独な対峙によって実現される。換言すれば、この世界を超越した存在者自身との対話のなかでのみ、本来の人間の生は実現されるとされているのだ。そのとき、ひとにとってこの世界は、安住の地ではなく、一時の生 temporal life を過ごすだけの荒涼とした砂漠である。なぜ、この世界を故郷ではなく、砂漠と考えなければならないのか。アーレントがアウグスティヌスに見出した根本的な矛盾は、それでもなおアウグスティヌスが「隣人愛」を説く点にあった。自己愛を驕り、強欲として強く否定するキリスト教徒たちが、いかにして「汝を愛するごとく」隣人を愛するというのだろうか。愛は、愛される者その者のための愛でなくてはならない(16)。しかし、神への愛の前で、その者のために愛するという意味において、存在の故郷たる来世ではなく砂漠である現世に生きる隣人をいかに愛するというのだろうか。
  アーレントは、アウグスティヌスのなかでは、「神への愛」と「隣人愛」とのあいだに存在する根本的な矛盾は解かれることなく、両者が併在していると考える。そして、理論とは「おそらく起源の異なる、別の経験的な文脈が」アウグスティヌスをして「隣人愛」を説かせたのではないか、と推測する[ibid.:98]。すなわち「神への愛」は、孤独な個人が自己の存在の探求のなかで見い出す信仰である一方で、「隣人愛」は、ひとはすべてアダムの末裔であり、原罪によって等しく罪深い存在であるが、そうであるがゆえに、この世界においてひとは相互に依存しあい、この世界を自らの手で作り出してきたという過去を共有するなかで見い出す信仰である。そして、贖罪のためにイエスが世界にもたらされたことからも分かるように、ひとが神を感じることができるのは、唯一この世界における出来事によってなのだ。

ひとは第一の意味[神々への愛]においては、孤立した存在であり、砂漠と考えられた世界に偶然やってきた。しかし、この第二の意味[隣人愛]では、ひとは世代 generation つまり、人間同士のつながりや来歴によって人類とこの世界に属していると考えられている[ibid.:112[  ]内は引用者]。

  アウグスティヌスがキリスト教に改宗した後もなお、プロティノスに魅せられた理由がこうして最後に露わにされる。愛においては、世界からの疎外は解消されないのだ。すなわち「ハンナ・アーレントが発見したのは、つぎのことである。隣人との社会性/関連性 relevance の土台は何かという問いに対する解答は、欲求、神への愛、そして隣人愛にさえ見出すことができない、と。アウグスティヌスにとって、隣人との社会性の真の源泉は過去である、というのがアーレントの下した結論である」[Boyle 1987:86. 強調は原文]。

(14)  愛は、愛が向けられる対象によって cupiditas/ cupidity(欲望)と caritas/ charity(神への愛)とに分類され、前者は世界への愛とされる。世界への愛は、キリスト教徒にとってみれば、滅びゆくこの世界へ愛が向けられているために、それは誤った愛とされる。唯一正しい愛は、永遠の一者 Being そのものへと向けられなければならない。つまり、神への愛が正しい愛とされるのは、その愛によって人間もまた永遠の存在に預かることができるからである。詳しくは[寺島 1990:36-46]を参照。
(15)  たとえば、ブルーエルの自伝で紹介されている大学時代のアーレントの詩には、アーレントが「絶望への誘惑」にいかに取り付かれていたかがよく現れている。その影には、ハイデガーとの恋愛がうまくいかなくなったことが関係しているのだが、当時のアーレントが抱いていた恐怖は、「無意味でいわれのない空虚な恐怖で、その虚ろな凝視の前では、すべてが無のようになる」とアーレントによって表現されている[Young−Bruehl 1982:52/ 95]。
(16)  「アウグスティヌスにとって、「愛」とはとりもなおさず無条件に他者の存在を受け入れる意志を意味したのである。/「私は汝を愛する。つまり、私は汝が存在することを意志する(欲する)」」[千葉 1994:26]。


第三章  アウグスティヌスと思考の歩み



  『愛の概念』を通じて、アーレントが発見したのは、ひとと世界のあいだに広がる深遠な溝は愛によっても埋めることができない、ということであった。そして、キリスト教徒にとって、愛ではなく「罪深い過去が、地の国を建設し、世界を人間たち相互の依存関係の故郷にした。世界に安住すること to be at home は、当然のことである」[Arendt 1996:105. 強調は引用者]。『愛の概念』の結論としては、あまりに奇妙な結論ではないだろうか。あるいは、後のアーレントのキリスト教に対する無世界性批判の萌芽として考えれば、これは必然的な帰結なのだろうか(17)。たとえば、ビーナーは、『愛の概念』は、キリスト教徒が世界への愛を拒んだ理由を考察し、『人間の条件』は、近代人が公的世界を愛するのではなく自己と生に対する愛に囚われるにいたった経緯を探求した点で、両著作は共通の関心の下にあるという[Beiner 1995:272]。

アウグスティヌスにとって、わたしたちはそうあるべき以上に世界に「安住して」いるのであり、アーレントにとって、わたしたちはそうあるべき以上に世界から疎遠であるのだ[ibid.:281]。

  筆者がビーナーの評価をいささか素朴に過ぎると感じ、また、『愛の概念』の結論を奇妙に思うのは、アーレントがアウグスティヌスの問いの核心であるとした「ひとと世界のあいだに広がる深遠な溝」への応答として、「世界に安住すること to be at home は、当然のことである」と主張するために、世界においてひとはすべて罪深い過去を共有している事実を提示する、という単純な図式では、アーレントがアウグスティヌスを通じて学んでいたはずの、過去と未来のあいだでの想起という精神の働きがまったく議論の射程に入ってこないからだ。というのも、世界への安住がそもそも当然であったなら、「わたしとは誰か」という問いも生じないし、そうであれば、想起をそもそも重要な精神の働きとして考察の対象とする必要もなかったはずなのだ。
  『愛の概念』に修正を加える中で、アーレントは時間を巡るアウグスティヌスの考察を挿入している[Arendt 1996:14-15]。そこに、カフカの寓話にインスピレィションを受け、思考の困難を記述するアーレントを彷彿とさせる議論が挿入されているのだ[see Arendt 1968b:7-14/ 6-15(18)]。すなわち、『愛の概念』のうちに世界疎外に対する批判へといたる単なる萌芽をみるだけでなく、むしろ、アウグスティヌスと同様の問題−「ひとと世界のあいだに広がる深遠な溝」−を抱えながら、アウグスティヌスとともに、その問題の解決の糸口を「想起の力」によって掴もうとするアーレントを見出すことはできないだろうか。だからこそ、五十年代後半から六十年代にかけて自らの博士論文に加筆訂正を施し、『愛の概念』を合衆国で公刊しようと考えていたのではないか、と。
  アーレントが少なくともホロコースト以後、アウグスティヌスが直面していた伝統との断絶と自らの体験を重ねて考えていることは確かである(19)。さらに、ヤング=ブルーエルの伝記によれば、すでに一九二六年の段階でアーレントは、シオニストであるブルーメンフェルトと出会っており、「学位論文を書きながらハンナ・アーレントが学んだこと−書物からではなく生きることから学んだこと−は、彼女が生まれによってユダヤ人であるということであった」[Young−Bruehl 1982:71, 76/ 118, 125. 強調は引用者]。
  アウグスティヌスが「伝統と宗教の喪失」という危機に直面したとき、かれにとって「わたしとは誰か」が問題となったように、アーレントにとってもまた「わたしとは誰か」が問題となった。そして、「わたしとは誰か」という問いは、世界とのかかわりが自明でない者に突きつけられる問いである以上、世界とのかかわり、世界に対する態度においてのみ答えが見いだせる問いなのだ。アウグスティヌスの場合、たしかに世界を越えた神との対話へと行き着いた。しかし、それもまた世界とのかかわりのなかで、かれの精神の働きによって見いだされた解答といえる。なぜなら、「わたしとは誰か」と問うかれにとっては、おそらくビーナーが考えるところとは違って、世界はやはり砂漠なのだ。砂漠だからこそ、世界とのかかわりに緊張が生まれ、世界への態度や世界における自らの立場をめぐる疑問、つまり自己への問いに向かわされる。他のひとびとがどうあれ、おそらく、「わたしとは誰か」と問わざるを得ない者にとって、世界が故郷であり得るだろうか(20)
  新しく合衆国で出版された『愛の概念』のなかで、アウグスティヌスとの対話をつうじアーレントが何を見い出そうとしていたのかについては、新生 natality という概念を中心にアーレントのテクストを再構成したボゥエン=ムーアのつぎの言葉が最もよく表現し得ている。「世界への愛 Amor Mundi という立場からすれば、ひとが新しく生まれ来ることへの愛を表明することは、個人主義的でも、他者から孤立しているわけでもない。むしろ、たとえ、あるいは、ときにはとりわけ、といったほうがよいかもしれないが、もし世界があなたに敵対しているならば、新生への愛は世界への愛なのだ」[Bowen−Moore 1989:16. 強調は引用者]。
  アウグスティヌスにおいては、たしかに新生への愛は、世界へとは向かわずに唯一の存在者としての神の愛へと向かった。だが、アーレントがアウグスティヌスに見い出そうとしたのは、新生への愛、新生の記憶、つまり、存在に与ったという記憶を常に想起しながら生きることが、世界への愛につながるような小さな光ではなかったか。神の始まり−アウグスティヌスにとって神は永遠であるため、「始まり」も「終わり」も存在しない−ではなく、人間の始まり、つまり世界に人間がもたらされたことを喜ぶこと、そこに、敵対する世界のなかでなお、自己と世界とのかかわりを時間的な実存という人間の条件のなかで問いつづけたアウグスティヌスの可能性を見い出そうとしたのではなかったか。
  わたし「と」世界のあいだに広がる深い溝を埋めるために、存在の意味を問うことをやめなかった思索家としてのアウグスティヌス。彼の問いの先には確かに超越的存在者としての神が存在していた。しかし、それは単純に彼が世界を拒んだ結果ではなく、自らに敵対する世界に迎合することなく、それでもなお、世界とのかかわりを問いつづけた結果であったといえるのではないだろうか。なぜなら、かれにとって世界とのあいだに広がる溝を埋めるのは、この世界における−世界へともたらされたという事実を含んだ−過去を想起することだったからである。アウグスティヌスに対するアーレントの関心は、無世界性を代表するキリスト教徒、といったレッテルでは語り尽くせない。そして、そのことは、アーレントがけっして精神の働きを世界から切り離された内面性への退却とは考えていなかったことからも明らかである。「自己が世界に対して保護されている内面空間は、世界との相互関係においてのみ存在し機能する心や精神と取り違えられてはならない」のだ[Arendt 1968b:146/ 198]。
  ここに来て、わたしたちはようやくアーレントの行為論をめぐる両義性の下にどのようなモチーフが存在するのかを考えることができる。たしかに、アーレントは全体主義の要因の一つとして近代以降の無世界性に幾度となく言及してきた。そして、古代ギリシャに遡って、公的空間とはいかなる空間であったかをわたしたちに想起させようと努めてきたのも確かである。だが、彼女がフランスの実存主義とは「近代哲学のアポリアから行為の全面的アンガジュマンへと逃避することにほかならない」というとき[Arendt 1968b:8/ 8. 強調は引用者]、彼女が問題としているのは、むしろ、過去の次元全体の「忘却の危険」に直面してなお、「思考」という精神の活動様式によって、いかにして「死すべき人間が住まう時間の空間のなかにこの非時間[過去と未来の裂け目ー引用者]の小道を踏み固める」かであった[ibid.:13/ 14]。
  しかし、この思考の歩み−アウグスティヌスにならって、想起と期待の歩みとも言い換えられている−は、過去から受け継がれるようなものではなく、「新たに到来する人間一人一人が、この非時間の空間をあらためて発見」することによってのみ、可能なのだ。[ibid.:13/ 15]。アーレントが新生を、またしてもアウグスティヌスにならって「始まり」の原理が世界へともたらされることと理解し、その「新しい始まりの可能性に「世界」の存在を賭ける」のは[市村 1998:17-18]、この意味において理解されるべきではないか。「世界に対して保護されている内面空間」とは異なり、この思考の歩みは、「過去と未来の裂け目」を最もリアルに体験している者たち、つまり、過去を想起しながら過去の回帰としての未来を予期・期待することで「過去と未来の裂け目」をつないでいくことが困難な者、一言でいえば、世界が自分にとっては敵対的である者たちにとって、世界における行為の場を提供している。ここに、従来の行為論とは異なるもう一つの文脈、すなわちアーレントにおける物語論という文脈の源流としてアウグスティヌスを位置づけることができる。

始まりが存在するためにはある人間がつくられたのであり、その人間の前には人間は存在しなかったのである[アウグスティヌス 1983:160. see Arendt 1996:55]。

  アーレントは続ける。「ひとは、かれ(ママ)の「始まり」すなわち起源を知ることができ、それを意識し、かつ、想起することができるので、かれは始める者として行為でき、そして、人類の物語を演じることができるのだ」と[Arendt 1996:55.]。
  アウグスティヌスがアーレントに伝えた「始まり」とは、たとえ世界がかれにとって砂漠であっても、いや、砂漠であるからこそ、新たに到来する一人一人の個人が思考の歩み−想起と期待という精神の活動−の空間を発見する可能性を秘めている、ということであった。「救済というモチーフを担う「想起」の営みは、喪失の後に残された世界(無世界性)の「暗さのなか」にある人間たちが、その内部における思考経験を通じて要請されるのである」[市村 1998:26]。アウグスティヌスは、失われた光を記憶の中の神に求めた。一方で、アーレントは、破壊された世界を想起の力で現前させようとした。その過去における世界がたとえ、彼女にとってなお安住の地ではなかったにせよ、彼女にとって、何が失われてしまったのかを物語ることのなかに、暗い時代を照らし出す光源を求めざるを得なかったのである。

(17)  千葉によれば、「キリスト教の愛の無世界的超越論および彼岸主義に関するアーレントの批判は、すでに彼女の博士論文にまで遡って観察することができるのである」[千葉 1994:22]。
(18)  たとえば、次の一文を参照。「今のとき the Now が、時間を後ろ向きと前向きに測るのである。なぜなら、今のときは、厳格に言うなら、時間ではなく、時間の外部にあるからである。今のときにおいて、過去と未来が出会う」[Arendt 1996:15]。
(19)  アーレントの言葉に従えば、アウグスティヌスは「ある点で、記録された歴史上どのほかの時代にもましてわたしたち自身の時代と似ている時代に生き、加えて、わたしたちを襲った終焉とおそらくよく似た、破滅的な終焉の衝撃の只中で執筆していた」[Arendt 1994:321]。
(20)  ここで念頭におかれているのは、つぎのアーレントの言葉である。「敵対する世界の側に立って、こうした帰属証明を拒否する人々は、世界に対して非常な優越を感じるかもしれません。しかし、かれらの優越感はもはやまったくこの世のものではなく、せいぜいのところよく整えられた夢想の国の優越感なのです」[Arendt 1965:18/ 29]。


暫定的結論 −アーレントにおける物語論の系譜へ−




今日の根底的な世界疎外の状況のもとでは、歴史にしろ自然にしろまったく考えられない。この二重の世界疎外………が後に残したのは、人びとを切り離すと同時に結びつける共通の世界をもたず、絶望的に孤立した分離のうちに生きるか、さもなくば、大衆へと一緒くたに押し込まれる人びとの世界である[Arendt 1968b:89-90/ 120]。
  喪失以後の世界(無世界性の世界)に生きるわたしたちに、何が残されているのか。ホロコーストの経験以前に、アーレントがアウグスティヌスから学んでいたのは、世界に安住できないひとにとって、想起によって自らの起源、過去を回顧する recollect 精神の活動こそが、彼女/かれらに光をもたらすということであった。もちろん、アーレントはかれが見い出した光=唯一の存在者としての神を、世界に変わるものとして受け入れているわけではない。なぜなら、それは、ひとに「絶望的に孤立した分離のうちに生きる」ことを強いているからである。だが、アーレントがアウグスティヌスの精神の活動に異なる光源を見ていたことも確かである。その光源とは、アウグスティヌスが『告白』という形で、自らの精神の動きを克明に世界に残しているという事実である[see Arendt 1996:49]。
  アーレントにとって、アウグスティヌスは、「過去と未来の断絶」を生きる困難を精神の物語としてわたしたちに伝えている思索家であった。そして、アウグスティヌスは砂漠と化した世界においてなお、物語ることで、「始まり」の原理としてひとが生まれてくる可能性を伝えているのだ、とアーレントは理解したのではないだろうか。アウグスティヌスにおける「始まり」とは、すでに述べたように、「ひとは、かれの「始まり」すなわち起源を知ることができ、それを意識し、かつ、想起することができるので、かれは始める者として行為でき」る[Arendt 1996:55]、という意味における「始まり」であった。その「始まり」は、つねに行為の前提として「世界とのかかわり」において機能している精神の活動、とりわけ想起の力に密接に関係しているのである。
  アーレントはこれまで、公的領域における行為の自由を考察した思想家として、理解される傾向にあった。しかし、アーレントが古代ギリシャ・ローマにおける行為概念を想起しようとしたのは、まず、わたしたちが「失った世界」とはいかなる世界であったのか、を描き出す必要があったからなのだ。わたしたちにとって、アーレントが直面していた「現代的な問い」に同時代性を与えているのは、アーレントが描いた失われた世界そのものにあるわけではない。むしろ、そうした世界を想起しなければならないと判断するアーレントの鋭敏な問題意識なのである。そして、アーレントはただ、栄光や伝統によって明るく照らし出された過去を想起していたわけではない。むしろ、彼女の議論の多くは、「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりは、むしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること」を想起しようとする試みであることは、決して忘れられてはならない[Arendt 1965:ix/ 4]。そして、この「少数の人々」の一人に、わたしたちはアウグスティヌスを付け加えることができるのではないだろうか。
  本稿で試みてきたことは、行為論に議論が集中することで「政治のみ」と理解されてきたアーレントのなかに、アウグスティヌスの影響を再度位置づけなおすことで、「政治のみ」の文脈とは異なる文脈からアーレントを再読する可能性を探求することであった。この試みは、その意味で、ベンヤミンの系譜のなかでアーレントの物語論を「救済としての物語」として再考しようとするベンハビブ[Benhabib 1994]、さらにベンハビブを継承したうえで、「生涯にわたって「物語ること」への古風とも見える共感を抱きつづけたということの異様さを思うとき、あらためて彼女の物語論の襞へともういちど分け入ってみることは、あながち無意味なことではない」と論じ、アーレントにおけるカフカ論にも注目する矢野久美子の議論へと繋がろうとする試みでもある[矢野 2000:25]。
  世界が安住できる場を提供しないとき、人は「絶対的な孤独に生きるか」、あるいは、「大衆へと一緒くたに押し込まれる」しかないのか。この「現代的な問い」に対してアーレントがアウグスティヌスとともに−あるいは、抗してといってもよいだろうが−見い出した答えは、「新たに到来する人間一人一人が」思考の歩みによって、過去と未来の裂け目の小道を踏み固める、という精神の活動こそが、人を新しい行為へと導くのだ、ということであった。そして、そうした一人一人の小さな光は、物語ることによって、多くの人々に共有され、幾度となく言及される過去として継承されていくに違いない。矢野のいうように、アーレントにとってカフカが重要であったのは、「カフカこそは、「世界」との結節点としての「語り」=「身ぶり」の尊厳と、それが「世界」にもたらされるまでの苦境とを、省察し記録した人だったからである」なら[矢野 2000:41]、アウグスティヌスもまた、「世界との結節点」において、世界といかにかかわることが人間の尊厳につながるのかを、人間の条件を物語ることで模索した思想家であったと考えられよう。たとえ、かれがアーレントとは異なる場所に光を見出したにせよ、それでも、かれの思考のあり方、精神の活動はその後のアーレントの思考にどれほどの影響を与えたかは、本論のなかで明らかにした通りである。
  そして、アウグスティヌスにおける想起による救済というモチーフにアーレントが親しんでいたからこそ、アーレントにとっては破壊したい過去であった全体主義を自ら「物語って」みせた後に、再び想起の物語である『人間の条件』へと向かう中でようやく、「世界への愛」を感じることができたのではないだろうか。そのとき、アーレントは、「とりわけ、世界があなたに敵対しているならば、新生への愛は、世界への愛なのだ」ということを、実感していたに違いない。
  アウグスティヌスの言葉がいかにアーレントのテクストにこだましているのかを意識しながら、再度アーレントのテクストに立ち戻れば、現在のフェミニズムやアイデンティティの政治からのアーレントへのアプローチが、ヴィラがいうような「知的怠慢」ではないことにわたしたちは気づくだろう。それらは、おそらく、「世界があなたに敵対している」ときに、いかなる「世界とのかかわり」が可能なのか、どこに「世界への愛」を見い出すのか、といったアーレントの切実な問いかけに呼応していると言えるからだ。本稿は、現在のアーレントに対する関心を生みだしている彼女の思想の源流にはアウグスティヌスが存在することを証明しただけに過ぎない。アーレントの行為論とは異なる文脈からのアーレントの鍵概念の再考は、今後のアーレント研究の課題としたい。

参考文献表
Arendt, Hannah 1998 (1958) The Human Condition, 2nd ed. with an introduction by M. Canovan (Chicago and London:The University of Chicago Press). 志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫、一九九四年)。
−, 1996 (1929) Love and Saint Augustine, edited and with an interpretive essay by Joanna V. Scott and Judith C. Stark (Chicago & London:The University of Chicago Press).
−, 1994 (1954) ”Understanding and Politics in ed. by Jerome Kohn, Essays in Understanding 1930-1954 (New York and London:Harcourt Brace & Company).
−, 1968a (1951) The Origins of Totalitarianism, 3rd. ed. (New York:Harcourt Brace Jovanovich).
−, 1968b Between Past and Future, enlarged ed. (New York:Penguin Books). 引田、斎藤訳『過去と未来の間』(みすず書房、一九九四年)。
−, 1965 Men in the Dark Times (New York:Harcourt, Brace & World, Inc). 阿部斉訳『暗い時代の人々』(河出書房新社、一九八六年)。
−, 1963 On Revolution (New York:Penguin Books). 志水速雄訳『革命について』(ちくま学芸文庫、一九九五年)。
Arendt and Jaspers 1992 Correspondence 1926-1969, ed. by L. Kohler and H. Saner, trans. by Robert and Rita Kimber (New York and London:Harcourt Brace Jovanovich).
Beiner, Ronald 1995 ”Love and Worldliness:Hannah Arendt's Reading of Saint Augustine, in ed. by Larry May and Jerome Kohn, Hannah Arendt:Twenty Years Later (Cambrdige and Massachusetts:The MIT Press).
Benhabib, Seyla 1996 The Reluctant Modernism of Hannah Arendt (London:Sage Publications). 大島かおり訳(第一章のみ抄訳)「パーリアとその影−ハンナ・アーレントのラーエル・ファルンハーゲン伝記(上)」『みすず』第四六六号、二〇〇〇年一月。
−, 1995 ”The Pariah and Her Shadow:Hannah Arendt's Biography of Rahel Varnhagen, in ed. by Bonnie Honig, Feminist Interpretations of Hannah Arendt (Pennsylvania:The Pennsylvania State University Press).
−, 1994 (1990) ”Hannah Arendt and the Redemptive Power of Narrative, in ed. by Lewis P. Hinchman and Sandra K. Hinchman, Hannah Arendt:Critical Essays (New York:State University of New York Press).
Bernstein, Richard J. 1977 ”Hannah Arendt:The Ambiguities of Theory and Practice, in ed. by Terrence Ball, Political Theory and Praxis:New Perspectives (Menneapolis:University of Mennesota Press).
Bowen−Moore, Patricia 1989 Hannah Arendt's Philosophy of Natality (London:Macmillan Press).
Boyle, Patrick S.J. 1987 ”Elusive Neighborliness:Hannah Arendt's Interpretation of Saint Augustine, in ed. by James W. Bernauer, S.J. Amor Mundi:Explorations in the Faith and Thought of Hannah Arendt (Boston, Dordrecht & Lancaster:Martinus Nijhoff Publishers).
Canovan, Margaret 1998 ”Introduction to The Human Condition.
Dietz, Mary 1995 ”Feminist Receptions of Hannah Arendt in Feminist Interpretations.
Disch, Lisa J. 1994 Hannah Arendt and the Limits of Philosophy (Ithaca & London:Cornell University Press).
Honig, Bonnie 1993 Political Theory and the Displacement of Politics (Ithaca:Cornell University Press).
Kateb, George 1984 Hannah Arendt:Politics, Conscience, Evil (Oxford:Martin Robertson).
King, Richard H. 1984 ”Endings and Beginnings:Politics in Arendt's Early Thought Political Thoery 12/ 2 (May).
Mayer, Robert 1991 ”Hannah Arendt, National Socialism and the Project of Foundation The Review of Politics 53 (Summer).
Scott, Joanna V. 1988 ”A Detour Through Pietism:Arendt on St. Augustine's Philosophy of Freedom, Polity 20/ 3 (Spring).
Scott, J.V. and Stark, J.C. 1996 ”Rediscovering Hannah Arendt, an interpretive essay to Love and Saint Augustin.
Villa, Dana R. 1999 Politics, Philosophy, Terror:Essays on the Thought of Hannah Arendt (Princeton:Princeton University Press).
アウグスティヌス  一九七六  『告白(下)』服部英次郎訳(岩波文庫)。
−  一九八三  『神の国(三)』服部英次郎訳(岩波文庫)。
千葉眞  一九九四  「愛の概念と政治的なるもの−アーレントと集合的アイデンティティーの構成−」『思想』八四四号(一〇月)。
市村弘正  一九九八  『敗北の二十世紀』(世織書房)。
伊藤洋典  一九九一  「ハンナ・アレントにおける政治概念の基底−「世界」概念の構造と「活動」の観点から」『法政研究』第五八巻第一号。
ジェイ、マーティン  一九八九(一九七八)  「ハンナ・アレントの政治的実存主義」今村、藤澤、竹村、笹田訳『永遠の亡命者たち』(新曜社)所収。
岡野八代  二〇〇〇  「暴力論再考−アーレントに抗して、アーレントとともに」『情況』第二期第十一巻第4号(五月)。
寺島俊穂  一九九〇  『生と思想の政治学』(芦書房)。
矢野久美子  二〇〇〇  「もうひとつの物語論、あるいはハンナ・アーレントの「身ぶり」について」『国際交流研究』第二号(三月)。