立命館法学 2000年6号(274号) 1頁




アンリ・クーユとその時代

- 第四共和制とフランス急進党 -

土倉 莞爾


 

は じ め に

一  フランス急進党とは何か

二  第四共和制期の急進党の特徴

三  アンリ・クーユの政治的経歴

四  アンリ・クーユ内閣論

五  時代の問題点ー結びに代えて



は  じ  め  に


  第二次世界大戦が終わった時、フランス急進党は大きな打撃を受けていた。何故なら、急進党はフランス第三共和制と同質のものであり、その体制の崩壊に責任があったからである。当初、急進党は第三共和制擁護の立場をとり、第四共和制の二つの新憲法草案に反対の立場を取った。また、解放にあたって、レジスタンスを通して誕生し強化された、共産党、SFIO、MRPなど諸勢力多数派と急進党は、占領下に発行された諸新聞の資産の管理と再配分をめぐって対立した(1)。というのは、解放後、臨時政府は直ちに占領下で発行を続けた新聞すべてを発行禁止として、その資産を没収した上で、レジスタンス諸勢力多数派に割り当てた。急進党や穏和派系の新聞は大部分が発行禁止・資産没収の憂き目にあい、レジスタンス諸勢力多数派の党派紙がその恩恵を受けたからである。
  第四共和制の最初の選挙で急進党は大敗北を喫した。だが、徐々に回復して、一九五一年六月の選挙では七八議席(本国)を獲得する。急進党は最初強く反対した第四共和制に巧みに浸透してゆく(2)
  一九四七年、共産党の離脱によって、レジスタンス諸勢力の分裂がおきる。このレジスタンス諸勢力多数派内部のバランスが崩れたことによって、急進党の地位が相対的に高くなる。このようにしてアンリ・クーユ Henri Queuille (1884-1970) が、一九四八ー四九年、一九五〇、五一年、首相となる(3)。同時に、急進党の主だった指導者たちは相続く諸内閣において重要な地位に就く。すなわち、大蔵大臣となったルネ・マイエル Rene´ Mayer (1895-1972)、エドガール・フォール Edgar Faure (1908-1988)、内務大臣となったマルチノ・デプラ Martinaud−De´plat らである。彼らは自分たちがかつて反対した政治体制に同化する能力を持った有能な政治家として立ち現れたのである。彼らの存在によって「三党政治」の神話に終止符が打たれた(4)。保守的な急進党は復活した。
  アンリ・クーユは第三、四共和制を通して政治生命の長い政治家であった。第三共和制では十一回も農業大臣を勤めた。第二次世界大戦期のアルジェのフランス臨時政府では一九四四年のド・ゴール de Gaulle (1890-1970) が不在の時は代表を委された。そして、第四共和制では首相に三度就任した。
  しかし、一九五三年、マンデス・フランス Mende`s France (1907-1982) の登場によって急進党は一変する。五四年六月、マンデス・フランスは首相となる。とはいえ、五五年二月、この内閣が崩壊したのは、当時の急進党の攻撃的なネオ・ラディコーの大物、ヨーロッパ主義者であり、アルジェにおけるフランスの利害とも結びついている「北アフリカの急進派」ルネ・マイエルの引き降ろしによるものであった(5)。ところが、五五年五月の臨時党大会において、急進社会党の旧来の多数派は覆され、マンデス派が主流となる。党は近代化されることになる。
  党内諸派の闘争は激化する。一九五六年、リヨン大会において、マンデスについて行けない十三名の議員が党を脱退する。その中には党総裁のアンリ・クーユも含まれていた。彼らは穏和派的立場に行き着く(6)。五七年五月、マンデスは党副総裁を辞任する。五九年はじめ、マンデス派は党から除名される。
  第四共和制とは何であったのか。単なる第三共和制の焼き直しであったのだろうか。急進党が一時復活の兆しを見せながらも、最終的には衰微して行くのも、すでにこの党が時代遅れの政党だったからである。第四共和制も、一九五八年、崩壊する。この体制の初期の夢から現実の過程を経てやがて第五共和制を迎えるフランス政治の一側面を、一人の典型的な急進党の政治家アンリ・クーユに焦点をあてて探ってみたい。第四共和制についてはすでに日本人による優れた研究が公刊されている(7)。これらの研究にも教えられつつ、私なりに第四共和制の一側面に光を当ててみよう。

(1)  Claude Nicolet, Le Radicalisme, P. U. F., 4e e´d., 1974, pp. 97-98.(邦訳、白井成雄・千葉通夫訳『フランスの急進主義』、白水社、一九七五年、一三五ー一三六頁)。
(2)  Ibid., p. 98.(邦訳、一三六ー一三七頁)。
(3)  クーユについては、Francis de Tarr, Henri Queuille en son temps, La Table Ronde, 1995. Idem., Henri Queille, Un homme de la IIIe Re´publique, 《Sauveur》 −a` titre provisoire− de la IVe, Pouvoir, No. 76, 1996. Actes de Colloque de Paris, Henri Queuille et la Republique, Limoges, 1987. Gilles Le Be´guec et Eric Duhamel (dir.), La Reconstruction du Parti radical 1944-1948, L'Harmattan, 1993 のほか、Gise`le et Serge Berstein, Dictionnaire historique de la France contemporaine, tome I:1870-1945, Complexe, 1995. David S. Bell et al. Ed., Biographical Dictionary of French Political Leaders since 1870, Harvester Wheatsheaf, 1990. Wayne Northcutt (Ed.), Historical Dictionary of the French Fourth and Fifth Republics, 1946-1991, Greenwood Press, 1992. 等を参照したが、事典類等については参照個所をいちいち断らなかった。これは他の政治家の経歴についても同じである。
(4)  Ibid., p. 99.(邦訳、一三七ー一三八頁)。
(5)  Ibid., p. 108.(邦訳、一五〇頁)。
(6)  Ibid., p. 113.(邦訳、一五六頁)。
(7)  例えば、中山洋平「フランス第四共和制と『組織政党』ーフランス議会体制の革新とその隘路ー」(一)−(五)『国家学会雑誌』第一一〇巻第九・一〇号、一一一巻第三・四号、第七・八号、第九・一〇号、第一一・一二号、一九九七−一九九八年。Yohei Nakayama, Pierre Mende`s France et les partis politiques sous la IVe Re´publique, in Institut Pierre−Mende`s−France (e´d.), E´thique et democratie, Edition 1, 1998. Id., La naissance de la Troisie`me force et la lutte contre la hausse des prix:e´chec de la dernie`re offensive des 《partis organise´s》, in sous la direction de Serge Berstein, Fre´de´ric Ce´pe`rde, Gilles Morin, Antoine Prost, Le Parti socialiste entre Resistance et Republique, Publications de la Sorbonne, 2000. 藤井篤「第四共和制下のアルジェリア政策ーレジームの崩壊との関連でー」(一)−(八)『法学雑誌』第三五巻第二号、第三六巻第一号、第二号、第三七巻第二号、第三号、第三八巻第二号、第四三巻第二号、第三号、一九八八年−一九九七年。


一  フランス急進党とは何か


  フランス急進党は、凝集力を欠いていたとしても、二十世紀の最初の四十年間フランスを支配してきた政党である。大抵の内閣を構成する主要な政党となり、内務大臣を常に保持した。急進党の外見、語彙、反対精神はフランス革命に由来しており、左翼を踏襲している(1)
  一九〇〇年ー一九一四年の最盛期の急進党を組織的に支えたのはフリー・メーソンであった。この時期の急進党の幹部がフリー・メーソンの会員によって占められていたことは疑いない。党の骨組みであれ、統一であれ、政治的方向であれ、フリー・メーソンは党の大会、執行委員会、その他においてを通して効率的に、その後に見られないような大きな影響をあたえた(2)
  第二次世界大戦期の急進党を象徴する政治家はカミーユ・ショータン Camille Chautemps (1885-1963) であろう。スタヴィスキー Stavisky 事件、人民戦線崩壊の時のいずれも首相であり、一九四〇年には休戦を提案し、ヴィシー政権では副首相となった。一九三七年の談話で彼は次のように言ったことがある。「私は、急進党が民主主義体制に必要不可欠な党であると思う。それなくしては、左翼と右翼という二つの大きな激しく反目する運動が、あたかも軍隊が衝突するように、社会的な憎しみと市民戦争の様相を呈してしまうだろう。その意味で急進党は安定要素なのである(3)」。何人かの急進党の指導者はエリオ Herriot (1872-1957) やダラディエ Daladier (1884-1970) のように国外追放にあったり、ドイツ軍によって殺されたりしたが、急進党のレジスタンスへの貢献はそれほど印象的なものではない(4)
  急進党を組織的に支えたのはフリー・メーソンに限らず、新聞がある。急進党が地方においても凝集力を発揮させる事が出来たのは新聞を通してであった。右翼の政党と違っている点である。さまざまな左翼の政党は、一九二〇年代、中央の共和国連盟 Ligue de la Re´publique によって調整された。この組織の後援によって、週刊誌 Le Progre`s civiques や日刊 Le Quotidien が、右翼のブロック・ナショナルに対抗して、外交問題やイデオロギー面でキャンペーンを張ったことは有名である(5)。一九二四年の Le Quotidien の影響は、それらの中のどれか一つの党を指導するというより、近くにある党を統一するという役割を担った、とデュヴェルジェも言っている(6)。エリオやアルベール・サロー Albert Sarraut (1869-1943) のような人物は、La De´pe^che や Le Progre`s を支配していた。これらの新聞は党の集団の中核となっていた(7)。一九三六年の選挙では、急進党議員のうち八五%は編集者、論説委員、寄稿家のような何らかの新聞関係者であり、しかも三五%は「編集室から直接に」議員になった(8)。第二次大戦後、解放後に、占領下で出版されていた新聞は新しい所有形態を持つことになり、これは共産党や社会党に有利だった。一九四五年、四六年、急進党が選挙で後退するのは、地方における新聞経営が思わしくなく、逆に、地方において共産党が躍進したのは新聞所有形態の変化によるものだった(9)
  ここで、一九三〇年代の党の中央組織について少しだけふれておきたい。アメリカの政治史学者ラーマーによれば、急進党の中央組織は論理的で、複雑で、高度に組織化された「ごまかし」であった。事務局は、一般政策、商業、農業についていくつかの委員会のピラミッドの上に立っていた。しかし、これらの委員会は非常に無力であったから閣僚である急進党員でその存在を知らない者もいた。すべての党の機構は地方の党員や議員にとって関係のない無人地帯に立っていた(10)。ただ、急進党の中央組織は頭でっかちのものであるとしばしば考えられているけれども、結果的には、その敵対者である社会党の財源によりも少ないもので足りている。急進党の予算は、第二次世界大戦前でも社会党の十分の一で足りていた(11)

(1)  Philip Williams, Politics in Post−war France, Longmans, 1954, p. 90. 詳細は、拙著『フランス急進社会党研究序説』(関西大学出版部、一九九九年)。
(2)  Maurice Duverger, Les partis politiques, Armand Colin, 1967, p. 176. Williams, ibid., p. 91.
(3)  Peter J. Larmour, The French Radical Party in the 1930's, Stanford University Press, 1964, p. 7. Williams, ibid., p. 92.
(4)  Williams, ibid.
(5)  Francois Goguel, La politique des partis sous la IIIe republique, 4e e´d., Seuil, 1958, p. 223.
(6)  Duverger, op., cit., p. 177.
(7)  Williams, op. .cit., p. 93.
(8)  Larmour, op. cit., p. 55. 拙稿「急進党の中央組織と地方組織(上)」『六甲台論集』第一五巻第一号(一九六八年)、七二頁。
(9)  Williams, op. cit., p. 390.
(10)  Larmour, op. cit., p. 28.
(11)  Williams, op., cit., p. 94.


二  第四共和制期の急進党の特徴


  第二次世界大戦直後の時期、急進党の地位は一人の人間、エリオの手腕と情熱に寄りかかっているように見えた。彼のリーダーシップによって、急進党は、一九四五年の第二次世界大戦後の最初の総選挙における決定的な敗北からゆっくりと回復し、一九四六年の二つの憲法制定議会によって行われた憲法改正に対して戦い、一九四七年一月、第四共和制の正式開始以降は、歴代の内閣の形成とリーダーシップにおいて、次第に重要な役割を演じるようになってゆく。エリオの一般党員における絶大な人気とすぐれた弁舌的才能は、抗争するグループや派閥を超えた独特な地位を彼にもたらした(1)。このことは、急進党の精神である権力への不信は、規律ある一枚岩的な政党に馴染まず、労働組合や教会をバックにした政党と合わなかった(2)ことを意味すると言ってもよい。
  一九四四年以降、急進党は党に対する批判を権力への顕著な復帰をもって反論しようとする。その党は第二次世界大戦以後のいかなる総選挙においても八%以上の得票は得られなかったし、議席数においても十%以上を獲得することはなかった。しかし、戦略的には、政党の位置において中央に位置したため、やがていかなる政府形成の政党連合の中でも不可欠の部分を占めることになる。そして急進党のいく人かの有能な指導者はやがてフランスを導く指導者の中に入ってゆくことになる。急進党の人たちは第四共和制期に形成された二十一の内閣の内十の内閣のトップに立つ。彼らは二十一の内閣すべてに入閣した。これらの記録は他のフランスの政党が真似のできない記録である(3)。また、新しい憲法が交付されて以降、両院の議長は古いタイプの政党を熱心に擁護していた急進党の政治家によって占められる。一九四七年一月総選挙の後、第四共和制という新しい共和国の国民議会議長にエリオが選ばれ、その後七年間その職にあった。三月にはガストン・モネルヴィル Gaston Monnerville (1897-1991) が共和国参議院議長に選ばれた。のちに、アルベール・サローはフランス連合の議長に、エミール・ロッシュ Emile Roche は社会経済会議の議長になる。急進党が「議長の党」le parti des pre´sidents と呼ばれるゆえんである(4)。それだけではない。一九四六年三月、マンデス・フランスは国際復興開発銀行総裁、六月には、国際通貨基金フランス支配人、国際連合経済社会理事会のフランスの終身代表になっているし、ルネ・マイエルは一九四七年秋、国連フランス代表団の一員となっている。エリオは一九四七年六月アカデミー・フランセーズに入る。このように急進党の正統性は「政界」pays le´gal には周知のこととなった(5)
  個人としてであれ、党のメンバーとしてであれ、あるいは党内の一グループの一員としてであれ、急進党の政治家たちは戦後のフランスが直面した多数の問題を乗り越えるためになされる継続的な試みにおいて重要な役割を演じる。これらの問題への対処を通してみられる急進党のやり方の失敗は、第四共和制の失敗であり、フランス議会民主主義の伝統的な手法の失敗でもあった。急進党はこの失敗の研究にユニークな見地を提供してくれるだろう(6)
  一九四七年四月七日、臨時政府主席を辞任したド・ゴールが、(一)共産党がフランスの敵であること、(二)憲法改正、(三)そのための国民運動、という三本の柱を内容とする演説をなしたことが出発点となり、「フランス人民連合」Rassemblement du Peuple Francais (RPF) が結成された。RPFは結成以来四ヶ月で、党員一五〇万、四七年十月の市町村選挙では一気に六〇〇万票を集めるという驚異的な成長をしめした(7)。RPF結成から四年間、エリオや他の急進党指導者のド・ゴールへの敵意にもかかわらず、急進党とRPFの両組織に属することが急進党において認められた。しかし、一九五〇年末、ボルドー市長のシャバン・デルマス Chaban−Delmas (1915-2000) がリヨンに来て応援演説をした機会を捉えて、エリオは二重所属を禁止させた。RPFの運動は弱まっていった(8)。結局、エリオのような古い政治家は、ド・ゴールを中心とするRPFの政治に親しまず、一九五一年の選挙では四分の三の候補者がRPFではなく第三勢力の社会党やMRPと提携した。当選者七八人の急進党議員のうち、五八人は第三勢力と、三人はRPFと提携し、一七人はどちらとも提携しなかった(9)
  急進党は古い政党であり、老人の政党と言われるが、第四共和制期ではネオ・ラディコー Ne´o-Radiaux の存在も注目に値する。R・マイエルやエドガール・フォールがそうである。ここでは、R・マイエルについてふれておきたい。マイエルは急進党の政治家であり、戦後初めて閣僚となった。一九五〇年代初期、急進党を支配した北アフリカ・ロビーを基盤とするネオ・ラディコーの代表的な人物である。「北アフリカの急進派」とも呼ばれる。ここで、「北アフリカの急進派」についても説明しておきたい。この急進派はどんな変化もどんな改革も欲しない。北アフリカの社会的経済的特権を擁護することを目的とすることで典型的な行動をとった。北アフリカの利益団体は、急進党、とくに、ルネ・マイエル、マルチノ・デプラ、エミール・ロッシュといった実力者たちに決定的な影響をあたえた。彼らは、モロッコの首都ラバト Rabat の政府や議会、アルジェ議会、アルジェ市長連合、チュニジアの高等評議会において実権を握り、政府や警察を利用するまでに到り、彼らの圧力は重要な地位を占めた。結局、北アフリカの急進派と本国の急進党との結びつきは、制度的な面においては、当時党の行政委員長であったマルチノ・デプラの仲介によって、財政的な面では、ロスチャイルド家との絆があまりにもよく知られていたルネ・マイエルの仲介によって機能していた(10)。ルネ・マイエルは、一九四一年、ユダヤ人であるため公職を辞職した経歴がある。「経済的リベラリズム」の主唱者であり、「植民地主義者」で「経済的デモクラシー」の墓掘り人とも言われる。「ユダヤ人銀行家と高級官僚の奇妙な混合物」(ワース)であった。四七年十一月二三日、R・シューマン Schuman, R. (1886-1963) は、社会党に隠して、経済自由化論者で知られるR・マイエルと入閣交渉を行い大蔵大臣に任命した(11)。マイエルを支えて閣外相補佐官として急進党のモーリス・ブルジェス・モヌリ Maurice Bourge`s−Maunoury (1914-1993) とフェリクス・ガイヤール Fe´lix Gaillard (1919-1970) ががそれぞれ予算大臣と大蔵大臣付きとなった(12)。マイエルは、一九四八年、マリー Marie (1897-1979) 内閣の国防相、一九五〇年プレヴァン Pleven (1901-1993) 内閣の法相、一九五一年プレヴァン内閣の蔵相を経て、一九五三年一月−五月首相となる。一九五五年にはマンデス・フランス内閣の北アフリカ政策に反対して内閣倒壊の立役者になったのはさきに述べたとおりである。
  最後に、第四共和制における急進党の性格をイギリスの政治史学者ウイリアムズにしたがってまとめれば以下のようになる。もし第四共和制期のフランスが、強大国であろうとすれば、臆病な政治指導は許されない。産業の再編成は厳しい犠牲を必要とするし、外交ははっきりした選択を要求する。ところで、急進党は、厳しい犠牲やはっきりした選択から、党の支持者層を保護する使命がある。国民のもっとも遅れた部分である保護政策を求める階層、高税を嫌がる農民や小企業主たちの利益への貢献をおこなう急進党は、建設的で活力ある経済政策に障害となってくる。党の、極端な無原則や矛盾する政党連合の選択は、第四共和制の政治の混乱に大きく寄与した。しかし、そのような急進党の欠陥にもかかわらず、否それゆえにこそ、この党はフランスの政治スタイルに大きな機能をはたしているのである。急進党の選挙民は野党志向的である。しかし党の政治家はそうではない。党が権力に長い間留まっていれば、その指導者たちは不可避的に伝統を持つし、状況感覚 sens de l'e´tat を有することになる。これらは政権についたことのない政党には欠けているものである。急進党の党規律の極端なぞんざいさは、党の卓越した政治家たちに、自分の見解を唱導することを、まったくの行動の自由さとあいまって、可能にする。この広い容認は、急進党からすぐれた知的能力のある政治家を輩出させた。急進党の伝統的な外見である偏狭で想像力のない臆病さは、確かに二十世紀の難問と危機には、不適切かもしれない。しかしこの党は、行動的で建設的でダイナミックではあっても暴力的で他に対して敵対的ないがみ合う諸勢力の間にあって、有益な緩衝装置となったのである(13)。「第四共和制は揺れ動く政府が基本である。悪化する内閣の危機はそれなりに効用をもっていた」とエドガール・フォールは喝破した(14)
  急進党の国土解放後における戦前からの政治家達は、臆病で消極的に見えるが、クーユの場合は反対の例である。政治的経験を積んだことによって、待つことによって操作するという旧式の能力によって、他の政党や他の政治家だったら失敗するところを、クーユは成功した。フランスの現代史家ベルスタンによれば、(国家の再建と国際環境にかかわる問題を別にすれば)、フランスに起きる諸問題は第二次大戦前とほとんど変わらない。そのような条件のもとで、急進党は、一九三〇年代のフランスを代表していたように、一九四六ー四八年に適した対応をなすことができたと言う(15)。急進党の機能を言い当てているかもしれない。作家アルベール・カミュ Albert Camus (1913-1960) はエリオを第三共和制を具現する人物であると見なしていた。一九四五年六月、エリオがローヌ県連で「私は、今のこの時代が、以前の時代に対して道徳的教訓を与えるだけの資格があるのかどうか疑う」と演説したことに対して、カミュは六月二七日付の『コンバ』Combat で論駁する。「エリオ氏は不用意な発言をした。……今のこの時代が以前の時代に道徳的教訓を与える意図など持っていないことをエリオ氏は知るべきであろう。しかし、この時代は、以前の時代を破局に導いた道徳をきっぱりと拒否する、激動の中で得た権利を持っている。というのは、われわれを破滅させたのは、エリオ氏や急進党の政治思想では多分ないかもしれない。しかし、彼らのものであった義務も懲罰もない道徳、彼らがもたらした小商人と煙草屋と立法の宴会のフランスは、目につく破滅以上に、われわれの魂を苛立たせ、エネルギーを消耗させた。こうした道徳でエリオ氏は一九四五年のフランスを非難することはできない。……われわれは戦前のある種の政治道徳が否定されることに対してエリオ氏が持ついまいましさをよく理解できる。しかし、エリオ氏は甘受しなければならない。フランス人は平均的な美徳に疲れている。彼らは国民全体にまで広がった道徳の葛藤は決別と苦悩を引き起こすことを知っている。彼らが偽りのエリートたちに背を向けても不思議ではない。彼らは何よりも平凡さのエリートにすぎなかったからである(16)」。
  しかしながら、自由フランスとレジスタンスの時代が、フランスの古くからの政治的亀裂を取り除いたという考えは間違っているだろう。その考えに立てば、幾人かの政治家は文句なく信用を落し、自由フランスとレジスタンスの洗礼を受けた政治家だけを生み出すだけになる。だが、フランス国土解放の興奮に続く短期間を除けば、古い名望家、待機主義者などは除去されはしなかった。人々は彼らの中に自己を認めていたのである。トラウマの体験にもかかわらず、諸政党間の論争を煽る新しい政治的亀裂は生まれなかった。政治的与件を根本的に変える、戦争によって具体化された動揺はもっと後天的なものである。一九四六−四八年のフランスにおいて、「小商人と煙草屋と立法の宴会のフランス」、「平均的な美徳」のフランスは、急進党に自分の姿を認めたのである。カミュは間違っていた(17)
  イギリスの保守党の有名な政治家ディズレーリ Disraeli (1804-1881) はヴィクトリア女王は平均的なイギリス人を正確に代表していたと考えた。同じような意味で、急進党の議員は平均的なフランス人を代表していると言えるだろう。マンデス・フランスが急進党に再び生命とダイナミズムと魂を取り戻そうとした「賭け」pari もそのような考えに立っていた。マンデスが急進党に明確な観念とスケジュール calendrier だけでなく党の民主化と党規約の改正を提案したのは正しかった(18)

(1)  Francis de Tarr, The French Radical Party from Herriot to Mende`s−France, Oxford University Press, 1961, p. xv.
(2)  Williams, op. cit., pp. 92-93.
(3)  Tarr, op. cit., p. xiii.
(4)  Williams, op. cit., p. 100. Peter Morris, Le retour aux postes de commande, in Gilles Le Be´guec et Eric Duhamel, op. cit., pp. 189-191. Nicolet, op. cit., p. 98.(邦訳、一三七頁)。
(5)  Morris, ibid., p. 190.
(6)  Tarr, op. cit., p. xiv-xv.
(7)  L'Annee politique 1947, Editions du Grand Sie`cle, 1948, p. 192-195. 拙著、前掲書、一一一頁。
(8)  Williams, op. cit., p. 98.
(9)  Ibid., p. 94.
(10)  Daniel Bardonnet, E`volution de la structure du parti radical, Editions Montchrestien, 1960, pp. 267-268. Claude Nicolet, Pierre Mende`s France ou le Metier de Cassandre, Julliard, 1959, pp. 104-105.
(11)  中山洋平「フランス第四共和制と『組織政党』ーフランス議会体制の革新とその隘路ー」(四)、八六二ー八六三頁。Williams, op. cit., p. 33.
(12)  Morris, op. cit., p. 190.
(13)  Williams, op. cit., p. 105-106.
(14)  Georgette Elgey, La Republique des illusions 1945-1951, Fayand, 1965, p. 319.
(15)  Serge Berstein, Pre´face, in Le Beguec et Duhamel (dir.), op. cit, p. 10.
(16)  Albert Camus, Actuelles I, Essais, Bibliotheque de la Pleiade, Gallimard, 1972, pp. 287-288. Berstein, op. cit., p. 8.
(17)  Berstein, ibid., pp. 9-10.
(18)  Nicolet, Pierre Mende`s France ou le Metier de Cassandre, p. 108, 112.


三  アンリ・クーユの政治的経歴


  アンリ・クーユは、一八八四年、中部フランス山岳地帯のコレーズ Corre`ze 県ノーヴィク・デュセル Neuvic d'Ussel に生まれた。同じ年にダラディエ、一年前にラヴァル Laval (1883-1945) が生まれている。「尊敬する師匠」であるエリオの十二年後であり、ルネ・マイエルより十一年前である。マンデス・フランスとエドガール・フォールでは二三年前と二四年前ということになる。クーユは一九七〇年に死ぬが、六歳年下のド・ゴールが同じ年に死んでいる。
  クーユの父親について少しふれておきたい。父親フランソワ・クーユ Francois Queuille (1844-1895) は息子にとって手本であった(1)。薬剤師であったが、一八七〇年、二五歳で町会議員となった。その年は激動の年で、帝政下で町会議員になって二週間も経たないうちに、ナポレオン三世の像は町役場の窓から投げ捨てられた。そして町議会が開会される前に、国民主権の名のもとに、共和制が宣言された。フランソワ・クーユは、七年後、助役となり、一八九五年、五一歳で死ぬまでその職に留まった。その時息子のアンリは十一歳であった。
  父親が亡くなった後、クーユの母親は近くの町チュール Tulle に彼を連れて移り、彼はそこで高等学校を卒業した。その後、アンリは奨学生として医学をパリで学び、一九〇八年医師の資格を取得したが、同年、母親が亡くなったため、郷里に帰り医者を開業した。その後、一九一〇年、結婚し(2)、一九一二年、すぐれた医者アンリ・クーユ博士は故郷の小さな町ノーヴィク・デュセルの町長に当選した。ノーヴィク町民のユーモアある語呂あわせに「一九一一年に父親、一九一二年に町長」pe`re en 1911, maire en 1912 というのがある。彼は、以後、政治家となる。クーユは終生自分の選挙地盤から離れず、県会議員に一九一三年、国会議員に一九一四年、元老院議員に一九三五年、選出された。一九一三年には急進党執行委員会の一員となる。一九二〇年に三五歳で初めて入閣し(3)、一九二一年には県会議長となり、一九四〇年までその職にあった。
  第三共和制では十九回閣僚を勤め、一九二四年から一九四〇年の間大臣職を続け、それは最長記録であった。その内十一回も農業大臣を経験した。不動の農業大臣として彼は八年以上も在職した。実際に、彼は戦間期におけるフランスの農政の主要な推進者だった。多数の農業関係の団体の会長を務めた。その中でもっとも強力なものは、サンジェルマン通り boulevard Saint−Germain にあった左翼の農業団体であった全国農業相互協力連盟 Fe´de´ration nationale de la mutualite´ et de la cooperation agricoles であった。彼は、フランスの一九一九ー一九三二年にわたる農業危機は、ナポレオン戦争や一八七〇年の敗戦の頃に匹敵すると考えた。一九三二年には『農業問題ー経済危機の観点からー』Le Drame agricole, un aspect de la crise economique を出版して一定の評判を得た(4)
  しかし、この農政通はその専門にだけとどまっていたのではなかった。彼は第三共和制末期、他の部門でも多数のポストに就いた。例えば、公衆衛生大臣(一九三〇年ー一九三一年)、郵便・電信・電話大臣(一九三二年)、公共土木大臣(一九三七年ー一九三八年)である。公共土木大臣の時、彼はフランス国有鉄道SNCFの創設にかかわった。フランスがドイツに降伏した時、彼は食糧大臣だった。クーユは急進党に属し、一九二四年左翼連合のリストの筆頭になったように、左翼の政治家として登場したが、コレーズ県での社会党や共産党との戦いは彼をより穏健な立場へと導いていった。
  一九四〇年六月、ペタンがレイノー内閣を引き継いだ時、クーユは元老院議員であったが、新政権に全権をあたえることに反対し、コレーズ県に引き戻り、すべての政治職をあきらめ、炭焼き業者となった。一九四三年、前レイノー内閣ではただ一人の大臣として(ド・ゴールは次官だった)、イギリスに向けて出発した。四ヶ月間ロンドンに滞在した後、約一年間をアルジェで過ごした。彼は解放まで最後までド・ゴールに忠実だったが、日記の中でよく書いているように、ド・ゴール主義には不快感を持っていた(5)。ド・ゴールがある時期まではクーユに絶大な信頼をよせていたことは、エドガール・フォールの回想でも明らかである(6)
  一九四四年九月二日、クーユは慎み深く臨時政府の一員になることを断った。第二次大戦中の活躍にもかかわらず、戦後、クーユは零から出発せざるをえなかった。戦争中のとくにコレーズ県の活動と疲労のせいもあって、クーユはパリで行われた一九四四年十一月から一九四五年八月までの臨時諮問議会の一員にもならなかった。彼は、解放直後、アルジェの急進党を代表していて、ド・ゴール将軍によって追求された心情左翼的政策には反対だったからでもある。しかし、一九四四年一一月、ノーヴィックの町長に解放地方委員会に代わる臨時町議会によって選ばれた。そして一九四五年五月町長に再選された。一年後には県会議員にもなった。とはいえ、印象的な二つの敗北を蒙らねばならなかった。すなわち、一九四五年十月二一日、第一次憲法制定議会選挙において落選し、十月二九日に行われた県会議長選挙にも落選した。第一次憲法制定議会選挙はコレーズ県は定員四名に五名が立候補したが、二人の共産党、一人のMRP、一人の社会党の次に、クーユは五位となり、落選した。コレーズ県で、急進党が一議席も取れなかったのは、一八八一年以来初めてのことだった。急進党が県下で得票数でトップに立ったのはノーヴィック郡のみであった。十月二九日、チュールで行われた県議会でもクーユは一九二一年以来占めてきた議長のポストを失った。共産党の議員に十五票対十二票で敗れたのである。全国的に見ても、一九四五年の県議会選挙では急進党は県会議長のポストを二しか取れなくて、一九三七年の三六に比べて大幅減となっていた(7)。次の県議会選挙の時も、クーユは、共産党の支援を受けた急進党から社会党に替わった議員に、議長のポストを奪われて、結局議長にはなれなかった。さらにクーユに痛手だったのは、十月二一日に、コレーズ県民は憲法制定議会の憲法制定を認めるかの問いに九十%が賛成したことである。クーユと彼の仲間の急進党の政治家たちは制度改定に反対であり国民にそう呼びかけていた。クーユは急進党の再建に没頭し、識者にはその政党は第三共和制とともに終わったと見られていたから、彼は一九四六年六月の第二次憲法制定議会にも立候補者になれなかった。しかしながら、一九四六年十一月の第四共和制の最初の国民議会選挙は再起の時となる。この選挙はその後の彼の経歴にとってきわめて重要なものとなる。その選挙の少し前の一九四六年十月十三日の国民投票で、憲法制定にコレーズ県では反対が三十%を獲得した。反対にまわっていたのは急進党とゴーリストだった。この結果は何よりも急進党、すなわちクーユに利することになる。積極的なキャンペーンを行った後、クーユは社会党の候補者を抜いて四位で当選する。クーユはこうして議会に戻ってきた。議会での彼の復活はもっと容易になされてゆく。まず、急進党副総裁となり、一九四七年一月二九日には、エリオが国民議会議長になった後をうけて、総裁となった。その後は順調な政治生活を送るがこれは次節で検討する。彼は国民議会議員に一九五一年にも再選され、第四共和制の終わりまで議員を全うした(8)

(1)  Tarr, Henri Queuille en son temps, p. 27.
(2)  Ibid., p. 56.
(3)  Ibid., pp. 130-131.
(4)  Ibid., pp. 181-182.
(5)  Tarr, Henri Queille, Un homme de la IIIe Re´publique, pp. 97-98.
(6)  Edgar Faure, Memoires I, Plon, 1982, pp. 188-189.
(7)  Jean−Paul Cointet, Henri Queuille et la reconstruction de l'e´tat re´publicain, in Actes de Colloque de Paris, Henri Queuille et la Republique, p. 212.
(8)  Tarr, Henri Queille, Un homme de la IIIe Re´publique, p. 99.


四  アンリ・クーユ内閣論


  フランスの政治史学者ジャック・シャプサルは次のように書いている。「第四共和制は重要な新しい時期に進む。なぜならその時期は一年以上続いたからである。その時期とはクーユ内閣の期間である。それは一九四八年九月から一九四九年十月までである。もし、ローマ史を思い起こすなら、クーユは、ド・ゴール将軍を追放したという意味でキンキナトゥス Cincinnatus に例えられてもよいが、ローマ共和制を救った遷延家 Cunctator と呼ばれるファビウス Fabius に例えることができる(1)」。また、シャプサルによれば、「彼の方法は難局を正面から打破するというより、迂回するというやり方であり、楽観的な言い方をすれば、問題が熟するまで待つ、別の言い方をすれば悪化するのを待つ、というやり方である。プレヴァンはこれを退嬰主義 immobilisme と呼んだ。しかし、後にプレヴァンが首相になった時も事態は同じなのであったが、クーユはプレヴァンに同じことを賛辞として述べた(2)」。
  ここで、プレヴァンについて簡単にふれておきたい。第四共和制の中道派の小政党「レジスタンス民主社会主義連盟」Union De´mocratique et Sosialiste de la Re´sistence (UDSR) の党首を一九四五ー一九五三年つとめた。戦後初めて閣僚になる。アメリカナイズされた事業家でもあった。「ド・ゴール・カード」によって「第三勢力」の規律の「鋳型」に巻き込まれることを回避し、要(かなめ)党としてのUDSRの交渉地位を高めようとした(3)。一九四八年三月十一日、UDSRのプレヴァンは、マサリクの悲劇を繰返さぬよう、共産党と闘うべくド・ゴールとR・シューマン首相との間に橋を架けようと提案したこともある(4)。一九五〇年十月二四日、ヨーロッパ防衛へのドイツの参加を認めるプレヴァン・プランを発表したことでも有名である。
  さて、フランスの政治史学者フォーベはクーユについてこう述べている。「首相は雄弁とあいまいな進め方でもって、見事に均衡の取れた外見を作り、制度の安定を維持することに成功した。彼によってすべては解決され何も問題は起きない。素晴らしい医者であり、問題のない首相である(5)」。
  アレクザンダー・ワースは次のように書いている。「解放の時、フランスは険しくて行き慣れぬ道に踏み出していたのであり、その行く手には多くの驚きが秘められていたのであった。一九四八年の始めにあたって、その歩んだ跡を振り返るなら、いくつかの主要な道標を認めることができたであろう。「現状維持」による「革命」の敗北、ド・ゴールの突然の辞職、三党政治の勃興と没落、ド・ゴールの対独政策ならびに彼の「仲介」と「偉大さ」の政策の失敗、インドシナにおける戦争の開始、西側でのトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プラン、東側でのコミンフォルムの創設、今や全体主義運動の指導者としてのド・ゴールの再出馬、第三勢力の誕生、一九四七年末の大規模なストライキ、それに続く労働運動の分裂と、半ば自発的、半ば強制的な共産党の政治的ゲットーへの退却などがそれである(6)」。
  また、ワースは次のように言っている。「第四共和制は、左翼の共産党から依然として鋭く批判されていたし、右翼のゴーリストからも公然と挑戦されてはいたが、すでにブルジョワ・デモクラシーとして固まり、そこにおいては、一九四四年から四七年の社会主義の虚飾は着古されて薄くなっていた。それはまた、一見したところアメリカ合衆国の衛星国であり、その政策は概してワシントンに依存していたし、時には完全に依存していた(7)」。
  ヴァンサン・オリオール Vincent Auriol(1884-1966)大統領がクーユに組閣を要請した時、フランスは事態が悪化していた。オリオールは日記にこう書いた。「この国の無秩序状態はぞっとさせる。大きな力でこの状況を厳しく急激に変えなければならない(8)」。九月十日夜、クーユはオリオールに電話して自分なら経済危機を静めてみせると言った、とオリオールの日記に書かれている(9)。九月十一日クーユ内閣は成立する。十月末には最高潮に達することになる炭鉱労働者の大規模なストライキは、それまで苛酷に維持されてきた均衡予算だけでなく、この国の経済全体を危うくしかねなかった。しかし、クーユ内閣はこの経済危機を乗り切る。一九四九年一月、「五%利子付き国債」の名前で知られる経済再建と設備投資のための国債が可決された。第四共和制の経済社会分野における近代化の遺産は顕著なものであり、世界の他の国にも見られる戦後のフランスの経済成長は第四共和制の貢献の賜物である(10)
  それだけではない。クーユ内閣は一九四八年秋の炭鉱労働者のストライキにも対応する。CGTの指令(それは共産党の戦略でもあった)「無期限延長」が宣言されたが、やがて急速に収束することになる。十月九日夜、大きく広がったストライキを前にして、クーユはラジオを通じて、労働者に再考を要請し、彼らが参加している行動の政治的性格を強調した。「ストの権利は神聖である」、だがもっと強い声で「政府は共和制への攻撃には容赦しない。制度の危機を招くような行動を止めるためには必要な手段をとる」と付け加えた。そして、内相ジュール・モック Jules Moch(1893-1985)(社会党の政治家、戦前から閣僚経験あり、四七年十一月のシューマン内閣内相、行政的手腕に優れ、治安強化に精力を注ぐ。ゴーリストと共産党に手厳しかった)の助けで混乱を収拾した。クーユは共産党が政府や共和制に挑戦しようとしていると上手に誇張した。ただ、彼は当時のRPFの同じような挑戦には同じやり方で対応したのではなかった。彼とド・ゴールの関係は複雑なものがあったし、それが続いていた。クーユは第二次大戦の間ずっと自由フランスの指導者に忠誠だった。二人の人物はそれぞれの強い信念でこの国をよく統治するために必要な共和制や制度に関する異なった考えをもっていた。第四共和制になって、この相違は政治的対立となってくるが、共通の過去は忘れられたわけではなかった。クーユはRPFの挑戦に応酬した。しかし、それは彼のやり方でやった。遅らせるという何時ものやり方で(11)
  クーユは、RPFの要求する国民議会の解散を進めるどころか、一九四八年十月に予定されていた県議会選挙を延期した。このようにして前年十月の市町村議会選挙以降順風万帆であったRPFの勢いを削いだのであった。クーユにとってはどうしても時間を稼がねばならなかったことを考慮する必要がある。というのは、一九四九年三月に実施された県議会選挙ではRPFの津波はおきなかったからである。公安機動隊によって共産党の若い活動家一人が殺害され、約十五人が負傷した十一月のグルノーブルでの発砲事件以後、クーユはド・ゴールから彼の「儀じょう兵」を奪った。結局、クーユは、劇的な要素を排除しつつ必要な時だけ威厳を示して、かっての彼の首領だったド・ゴールの「気難しい人の政治」la politique de he´risson に反対した。RPFの歴史においてあまり栄光のあることではない。ただ、その時ですら過激なのは言葉であった。例えば、十月一日の記者会見で、ド・ゴールは、ちょうどヴィシー政権に反対したように、クーユが首班である政権の正統性を認めなかった。「われわれは正統性の外に出た。もし共産党が再入閣するならわれわれは合法性の外にも出るだろう(12)」。結局、ド・ゴールにとって、急進党は他の政党と同じで、さらに言えば他の政党と同じく失効したものであった。すなわち、一九四四年八月の解放の時に政治勢力の中で重要性の薄いものであった。急進党にとってド・ゴールは最悪の時は敵、よい時でも異邦人であった。両者の間には民主主義についてまったく違った把握があり、両者は別々の世界に属していた(13)。ド・ゴールにとってクーユは第三共和制の人間なのである(14)
  これについてワースは次のように述べた。「次期内閣を組織しようというシューマンの失敗に終わった試みの後、クーユが政権をとり、社会党は、少なくとも第三勢力が明白に右翼の勢力に堕落する−いやそれより悪い可能性さえあった−のを妨げたことを祝うことができたのであった。この程度ならば社会党はまだ共和国に対して奉仕することができた。それは無視されうるものではなかった。……それは第三勢力の自己主張とド・ゴールの没落との重要な道標となったのである(15)」。
  また、ワースは次のようにも述べている。「かつてフランスにおいてヴィシー派であったほとんどすべての連中が一九四七年十月ド・ゴールのRPFに集まったのであった。これはド・ゴールにとって一種のディレンマを作り出した。ペタンの汚名をそそぐことは、RPFにより多くの人々を右翼から惹きつけることであったが、それとともに、RPFが得たいと思っている「左翼的」分子を思いとどまらせる危険も持っていた。したがって一九四八年には、ド・ゴールは「労働者階級の支持」を依然としてあてにしながらも、誰も満足させない中道を進むように注意していた(16)」。「三党政治と効果のあがらなかった統制経済の年月の後で復讐しようとするブルジョワとプチブルジョワの欲望、そして一時的ではあったがこの反共主義の憎しみと一時的な反議会主義の熱狂をRPFへと吸収しようとしたド・ゴールの素晴らしい成功、こうしたものが中立主義的気分を覆い隠してしまったのである。一九四七年十月の市町村選挙ほど、国家的にも国際的にも重要であった地方選挙は、フランスの歴史すべてを通じて一度もなかったであろう。実に四十%に近いフランス人が、大体ファシストと呼ばれてもよいものへと走ったのであった(17)」。
  四七年十月下旬、共産党のストや動員が街頭・職場に吹き荒れていただけでなく、二六日第二回投票が行われた市町村選挙ではRPFが大都市部を中心に圧勝し、ド・ゴールは「諸政党は国民のごく少数しか代表していない」と国民議会に解散要求を突き付けた。社会党とMRPの指導部が共産党ないしド・ゴールと最終的に決裂し、「第三勢力」運動に党と共和制の命運を委ねる決断を下したのは、まさにこの政治危機の最中のことであった(18)。労働階級に訴えようとしたドゴールの試みは完全に失敗した。彼の聴衆はほとんど全くブルジョアであって、ほんの少数の労働階級が点在しているにすぎなかった。彼の「組合主義」的な主張は労働階級には何の重みももっていなかったし、他方第三勢力からも全然支持が得られなかった。オリオール大統領は猛烈に彼に反対していたし、社会党とMRPはド・ゴールを「通す」まいと決意していた(19)。ワースによれば、「RPFの急速な上昇と、ほとんど同じほど急速なその没落は、フランス戦後の歴史においてもっとも奇妙なエピソードの一つである。後刻ド・ゴールの生涯を振り返ってフランソワ・モーリャックは、RPFを彼がなした最大の過ちと言わねばならなかった。モーリャックはド・ゴールを人間として、偉大な国家的な人物として愛する。それだからこそ、ド・ゴール−あの気高い孤独な人物−が突如として安っぽい扇動政治家となり、彼の個人的威信(人気という言葉よりも威信という言葉のほうがぴったりしているーけだし彼はまことに人気ある男たることに成功したことはなかったのだから)、フランス国内の経済的不満、ドルへのあがき、一時的な反議会主義の魅力(それはフランスを襲った一時的な病気だった)、一九四七年のにわかに高まった反共産党の風潮、および多少の差こそあれ解放以来公的生活から閉め出されていたフランス・ブルジョワジー一部の「帰り咲き」たいという望み等を利用しているのを見た時、彼の心は痛んだのであった(20)」。ただし、モーリャックは後に彼も誤解していたことを自己批判している。彼はこう書いている。「私は私の時評集『ブロック・ノート』を読み返したので、日付も正確にすることができるが、このころの私は自分の誤解に気がついたのである。ドゴールの使命と選挙の勝敗などのあいだには、共通の尺度は存在していなかった。もちろん私は絶えず彼のことを考え、彼の方へ眼を向けつづけていた(『ブロック・ノート』がそれを証明している)。しかし結局は私も政党の勝負に賭けをしていた訳だった。私もまた第三共和制の申し子 couve´e の一人なのだ。ド・ゴールが最初の日からすでに「忠誠の党」を批判していて、自分の経験からその危機が分かっていたのに、私の方はMRPを信頼しつづけていた(21)」。
  クーユはイギリスの保守党の首相だったスタンリー・ボールドウィン Stanley Baldwin (1867-1947) のやり方を自分のものとした。すなわち、ボールドウィンによれば、統治の技術は「問題が生じた時、解決するためには、その問題が重要性を失うまで解決を引き延ばす」ことである。これは反ド・ゴールの問題でとりわけうまく行った。一九四八年九月から一九四九年十月まで三八九日間権力の座にあって彼は制度を救った。RPFの圧力は落下し、共産党は制止され、フランは健全化した(22)
  一九四九年一月六日、『ニューヨーク・タイムズ』は次のように論評した。「クーユ内閣の安定性は、人々が、急進党、社会党、MRP、モデレの一部分の連合だけが、極左の共産党と右翼のゴーリストを遠ざけられる、という事実を知ったことによる。中道派の連合が一番希望がある。フランスはこの一年間よい内閣に恵まれた。一八七一年以降、これだけ持続した内閣は十六しかない(23)」。
  「マーシャル援助がなかったならば、あの眠気を誘うようなクーユの首相在任時代に、かなり平穏な一年間が過ぎるなどとは考えられないことであった」、「老人クーユは、静かで、退屈で、安心を与えるほど旧式であった」とアレクザンダー・ワースは評した(24)
  今世紀初頭、アナトール・フランス Anatole France (1844-1924) はある小説の中である登場人物に語らせて、共和制はうまく統治できていないとしても少ししか統治していない、と弁明させている。一九四九年九月、クーユ急進党内閣が一年間の内閣の仕事を無事終えたことを、閣僚全員が、閣議の開始にあたって、クーユを祝福した。彼らは感謝のしるしとしてクーユにアナトール・フランスの全集を贈った。第二次世界大戦後、フランスで一年間も内閣が持続したのは、その時点ではクーユが最初であった。素晴らしい達成ではある。しかし、彼の内閣は退嬰主義 immobilisme、何もしない内閣と非難され、翌月には大きな経済・社会改革の要求に直面して倒壊する。少ししか統治しないのはもはや充分ではない(25)
  一九六四年、クーユは彼の尊敬する師匠であるエリオにクーユの政治的形成に一番影響を受けたのはエリオであると語った。そこにいた人がそれでは閣僚として一番印象が深かったのは誰かと聞いたら、彼はそれはポワンカレ Poincare´ (1860-1934) だと答えた(26)。クーユには大言荘語がないかわりに執拗さがあった(27)。書きとめておかなければならないのは、一九四九年十月クーユ内閣を継いだビドー内閣、その次のプレヴァン内閣において、クーユは内務大臣として実質ナンバー二の地位を保持した事である。一九五〇年七月、二日間だけ首相だった時もあり、一九五一年三月、プレヴァン内閣崩壊後、クーユは三度目の首相となる(28)。この内閣は四ヶ月間続いた。

(1)  Jacques Chapsal et Alain Lancelot, La vie politique en France depuis 1940, 4e e´d., P.U.F., 1975. p. 180. Tarr, Henri Queille, Un homme de la IIIe Re´publique, p. 105.
(2)  Chapsal et Lancelot, op. cit., p. 181.
(3)  中山、前掲論文(四)、八六一頁。
(4)  同論文、八八三頁。
(5)  J. Fauvet, La IVe Republique, Fayard, 1959, p. 152. Chapsal et Lancelot, op. cit., p. 182.
(6)  アレグザンダー・ワース著、野口名隆・高坂正9455訳『フランス現代史  (3)』(みすず書房、一九五九年)、六頁。
(7)  同頁。
(8)  Tarr, Henri Queille, Un homme de la IIIe Re´publique, p. 100.
(9)  Cointet, op. cit. p. 218. Vincent Auriol, Journal du septennat, 1947-1954, tome 2, A. Colin, 1970, p. 437.
(10)  Serge Berstein, Le legs de la IVe Re´publique, Pouvoir, No. 76, 1996, p. 119.
(11)  Tarr, Henri Queille, Un homme de la IIIe Re´publique, pp. 101-104.
(12)  Ibid., pp. 104.
(13)  Henri Lerner, De Gaulle et les radicaux, in Le Beguec et Duhamel (dir.), op. cit, p. 65.
(14)  Tarr, Henri Queuille en son temps, p. 549.
(15)  ワース、前掲書、三三頁。
(16)  同書、三三頁。
(17)  同書、三五一頁。
(18)  中山、前掲論文(三)、七一八頁。
(19)  アレグザンダー・ワース著、内山敏訳『ドゴール』(紀伊国屋書店、一九七六年)、一六七頁。
(20)  ワース、『フランス現代史  (3)』、三五六頁。
(21)  Francois Mauriac, De Gaulle, Bernard Grasset, 1984, p. 57.(邦訳、岡部正孝訳『ドゴール』、河出書房新社、一九六六年、四七ー四八頁)。ワース、『ドゴール』、一五四頁。
(22)  Jean Charlot;pre´face de Georgette Elgey, Le Gaullisme d'opposition, 1946-1958:Histoire politique du gaullisme, Fayard, 1983, p. 131. Tarr, Henri Queille, Un homme de la IIIe Re´publique, p. 105. Williams, op, cit., pp. 33-34.
(23)  Albert Milhaud, Histoire du radicalisme, Editions SEFI, 1951, pp. 217-218.
(24)  ワース、『フランス現代史  (3)』、六頁。
(25)  Tarr, The French Radical Party, p. 28.
(26)  Tarr, Henri Queuille en son temps, p. 159.
(27)  G. Elgey, op. cit., p. 307.
(28)  A. Milhaud, op. cit., pp. 271-218.


五  時代の問題点−結びに代えて


  急進党を規律なき議員集団型の会派として、そして社会党を組織政党とすることによって、中山洋平は次のように述べた。「同じ議会多数派の中に、モデレなど「多数派現象」に対応した規律なき議員集団型の会派と、党指導部間協定を指向する「組織政党」が共存すれば、二つの連合形成のパタンはどちらも貫徹し得ず、相互に阻害し合うことになる。これこそが、三十年代以降、第四共和制まで続くフランス議会体制の深刻な危機を招いた根源のひとつであった(1)」。
  「解放以後四七年五月までの「三党体制」期は、第四共和制の創設者が目指した少数の「組織政党」による議会制の刷新が最も実現に近づいた時期であった。議席の八割近くを占有する三「組織政党」の連合の前に、急進党やモデレは政権から排除されるか、ジュニアパートナーとしての参加を強いられた。内閣の形成・運営は、三党の指導部の協議による政策協定に基づいて行われた。「多数派現象」が介在する余地はなかったと言ってよい。ところが四七年五月、共産党が下野し、同年一〇ー一一月、コミンフォルム大会後の方針転換とゼネストによって同党の「ゲットー化」が確実になると、多数派形成には急進党より右の各派の参加が不可欠となり、ここに「多数派現象」が復活した(2)」。
  この多数派現象を急進党に引きつけて言えば、急進党の第四共和制下の諸政党対立における調停者としての役割が浮かび上がる。すなわち、共産党の「ゲットー化」とド・ゴールの辞任は、第四共和制の諸政党の複雑な対立を招くことになる。一九四七年以後、世界情勢における冷戦の開始以後、フランスの新しい政治ゲームのいくつかの要素が消え、過去への回帰が政治ゲームのルールとなってくる(3)
  急進党は議会内編成にすぐれ、諸政党の体制から利益を得てきた能力を持っていた。この調停者の役割は運命的なものではなく獲得した能力であるが、どのようにして獲得できたのだろうか。イギリスの政治学者ピーター・モリスによれば四つの要素があると言う(4)。第一に、フランスの民主主義というある観念に対して、急進党と党の指導者が一体化したことである。急進党の信用が失墜していたことはすでに述べた。しかし、急進主義は共和制であるという公式と、レジスタンスの中で党の多数の指導者が果たした役割も看過されてはならない。オリオールはクーユとの会見でそのことを評価したと一九四七年二月二七日のオリオールの日記に記している(5)。急進主義もまた新しい政治秩序に共和制という保証をあたえたのである。そうでなければ、何故ド・ゴール将軍が一九四五年にエリオに対してレジオンドヌール勲章を授けようとし、臨時政府に彼を加えようとしたのだろうか。第二に、すでに指摘したが、急進党の政治家の状況感覚 sens de l'e´tat という資質である。これはオリオールからド・ゴールまで一致して同意するところである。それは政治的能力があるということでもある。オリオールの一九四八年七月十九日の日記の中に国民議会における軍事予算に関するダラディエの演説のことが記されている。「奇妙な時代だ!  彼の演説に議場は静まりかえった。彼は威厳を持って戸惑いなく話した。一九三八年のことを思い出すものは誰もいなかった(6)」。一九三八年とは言うまでもなくミュンヘン協定の年である。ダラディエは人民戦線では主役であった。しかし、一九五一年になると保守派と組んで第四勢力を作ろうとした。一九三二年の左翼は三〇年後には右翼となる。「反動でもなく、革命でもなく」Ni re´action, Ni re´volution が急進党のこの時期の性格をよく言い表しているのと同じく、ダラディエもまた急進党の大政治家であった(7)。第三に、急進党は戦後一定の支持を集める二つの大きなテーマに一体化していたことである。二つの大きなテーマとは経済自由主義とフランス帝国の防衛であった。集産主義的経済統制が評判を落とす中で経済的自由主義が再評価されてきた。急進党は食糧省の不人気を倦むことなく訴えていた。反経済統制の波はルネ・マイエルのような急進党政治家にプラスとなった。フランス帝国の防衛について言えば、急進党の第三共和制以来の一貫した植民地政策への一体化は、戦後世界の巨頭体制支配によってフランス帝国が弱化させられているにもかかわらず、帝国がフランスの存在の証である間は急進党にプラスとなった。「北アフリカの急進派」であるルネ・マイエルやマルチノ・デプラの果たした役割を無視することはできない。第四に、急進党は、マックス・ヴェーバーの言う政治を天職とする人たちや政治を出世の手段に考えている人たちにとって、集まりやすい中心地であったということである。それはすぐに第一線のポストについたフェリクス・ガイヤール、エドガール・フォール、モーリス・ブルジェス・モヌリだけでなく、ミッシェル・ドブレ Michel Debre´(1912-1996)、シャバン・デルマス、ジャック・デュアメル Jacques Duhamel についても言えることである。よく言われたように、一九四五年以降の急進党は、政治に復帰した古い人たちばかりの党ではなかったのである。エドガール・フォールは彼が政治家になった頃を回想して、「カピトリウムの丘の三神」triade capitoline として、師匠としてのエリオ、パトロンとしてのクーユ、助言者というより指導員としてのマンデス・フランスの名前を記している(8)
  第四共和制は、急進党なしで、あるいは反してさえ、創立された。しかし第四共和制はその原則と実践において「共和主義的な」re´publicaine 共和制であった。このことは急進党にとっていったん失った正統性を取り戻す手助けとなった。とくに困難な政治状況の中で発揮された、古い政治家であれ新しい政治家であれ、急進党の政治家の卓越した能力はその次の問題である。フェルディナンド・ブュイッソン Ferdinand Buisson(1841-1932)が一九〇二年の急進党の党大会で述べたことは四五年後になっても真実であった。彼はこう言った。「もし人がわれわれを軽蔑的にオメー Homais(『ボヴァリー夫人』に登場する薬剤師の共和主義者)呼ばわりするのだったら、われわれは微笑し低い声でこう呟くだろう。『オメーのような人がいなかったら共和制は一体どうなるのだろう?(9)』」。しかしながら、クーユが共和制を根本的に変革したわけではなかった。フランスの政治はマティニョンやエリゼよりもホワイトハウスやクレムリンで決まる時代になって来た(10)のである。とはいえ、第四共和制の始まる一九四六年のフランスの政治文化は、フランス革命の記憶に満ちた、国民主権の原則に適切な制度的表現である議会主義優位の、個人権力と行政権強化への不信を持った、第三共和制を引き継いだ共和制的なものであった。第四共和制の危機が重大になってはじめて、フランスはこれまでと違った一八五八年の第五共和制を迎えることになる(11)

(1)  中山、前掲論文(一)七六二ー三頁。
(2)  同論文、七六五頁。
(3)  Serge Berstein, La IVe Re´publique:re´publique nouvelle ou reconstruction du mode`le de la IIIe Re´publique? in Serge Berstein et Odile Rudelle (dir.), Le Mode`le Re´publicain, P.U. F., 1992, p. 379.
(4)  Morris, op. cit., p. 191-193.
(5)  Auriol, Journal du septennat, 1947-1954, tome 1, p. 103.
(6)  Auriol, Journal du septennat, 1947-1954, tome 2, p. 321.
(7)  Williams, op. cit., p. 104.
(8)  Faure, op. cit., pp. 187-188.
(9)  Morris, op. cit., pp. 193-194.
(10)  Elgey, op. cit., p. 322.
(11)  Berstein, La IVe Re´publique:re´publique nouvelle ou reconstruction du mode`le de la IIIe Re´publique?, p. 381.