立命館法学  一九九五年第一号(二三九号)




抽象的危険犯の現代的展開と
その問題性 (一)

---近年のドイツの議論を参考にしながら---

金 尚均






目    次




一 は じ め に
 科学技術の発展にともなって社会は高度化し、その展開は目を見張るものがある。このことは、交通制度、食品の流通、経済諸制度の発達、そして産業技術の発達などを見れば、一目瞭然であろう。しかし、現代の科学技術の有用性の背後には常に危険がつきまとっていることもまた事実だ。第二次世界大戦後、急速に科学技術や経済活動が発達し、それらの産物が大量に普及した結果、技術それ自体がもつ危険の発生、その産物の大量普及と利用による危険の発生、また環境との調和の喪失という事態が生じた。これを例証するものとして、環境破壊、経済犯罪、原子力管理などの問題が指摘されよう。このような事態が深刻化するにしたがい、我々人間が生存している地球をいかに保護するかということが課題となっている。すなわち、我々の子孫の安全な生存の観点から彼らの生存を困難な状況におとしめるような危険を除去することが、それだ。環境問題はこれを象徴する事柄といえよう。こうしてまさに現代社会の諸問題は、人々の危機意識を煽る重大な要因となっている。
 また、社会構造の問題として、社会が高度化するにつれ、同時にそれは複雑性を増してきたといわれる。一言で複雑性と言っても、その意味は多義的といえようが、例えば、社会システムが個々のサブシステムに分岐していくことによるもの、あるサブシステムそのものの構造の複雑さによるもの、都市化などにともなう人間関係の希薄化や政治的多元性によるもの、またある技術やその生産物の作用には常に不確定性が伴うことに由来するものなどを挙げることができる。ここでは、「複雑性」の意味そのものが複雑になっていることが分かる。「複雑性」に象徴される現代社会にあっては諸々のサブシステムの機能を円滑にするために、当該システムにとって脱機能的な事象は排除されなければならない。当然のことだが、これらの問題に対して何らかの対策を講じなければならない。しかし、いかなる措置が適切であろうか。
 近年ドイツでは、このような課題について刑法的規制が注目を集めている。
 そこでは、傾向として法益保護の早期化があり、規制形態として、とりわけ抽象的危険犯という規制形式の多用化を見ることができよう。今日問題となっている抽象的危険犯は、とかく市民にとって身近なものであって、しかも通常は意識しなければ問題視されないが、しかしそれが蓄積または頻繁化することにより多大な損害を発生させる事象を対象にしている。これらの事象は、市民の自由な行動領域と密接な結びつきをもっている。なぜなら、かかる態度は違法ではあるが、一般的には許容または放置されているものや、一見社会にとって有用と見なされる態度であるからだ。
 多数説によれば、抽象的危険犯とは、法益侵害の抽象的危険で足るものとか、法文上、危険の発生は犯罪構成要件ではなく、単なる立法動機にすぎないと解される犯罪形式だ。近年、刑法理論において強い影響力をもつ予防志向・結果志向の背景のもと、抽象的危険犯という規制形式が刑法的予防の有効な手段と見なされる傾向にある。端的に言うと、抽象的危険犯は未来の危険発生を防ぐ事前的な予防手段としての性格をもつとされている。
 しかし、昨今指摘されているように、抽象的危険犯という規制形式の多用化には問題がないとは言い難い。抽象的危険という曖昧な段階で刑法が介入する際には、常にこれを担保する曖昧かつ具体化され得ない法益がつきまとう。そうなれば、問題はより深刻といえよう。このことは、抽象的危険犯の問題性の一側面をなしているが、このような問題の側面に加えて、現代刑法における抽象的危険犯の問題は、同時に刑法は何をすべきなのか、すべきではないのか、また何ができるのか、できないのかといった刑法の機能、能力、並びに限界にかかわっていることを指摘しなければならない。また余談になるかもしれないが、現代の危険が我々の文明生活とは切っても切り離せない関係をもっていることから、産業公害や原子力問題のいずれをとっても我々の生活の合理化、快適さの追求に裏打ちされたものだということは明白だ。いわば、生活世界を支配するための営為なのだ。にもかかわらず、社会政策として、かかる営為によって吐き出される負の側面に対してコストが支払われたり、また負の側面を補正するための準備が整えられてきたのかといった問題も抽象的危険犯の問題の背景にはある。
 本稿は、このような問題意識のもと、抽象的危険犯に問題をしぼって検討を加えるものだが、そもそも社会問題と抽象的危険犯の関係は、最近のドイツの刑事法学界で意識的に取り上げられているテーマだ。また、そこでは抽象的危険犯という規制形式の有用性やその問題性等について様々な見地から議論が行われている。その意味で本稿の題材たる抽象的危険犯の問題の本質を明らかにする上で、ドイツの議論を検討及び参考することは有益だと思われる。

第一章 抽象的危険犯の機能論的正当化の試みとその問題性

第一節 問題の概観
 一 現代社会が抱えている諸課題と刑法を引き合わせたとき、今日の動向としては、とりわけ危険という不法に対する未然の阻止に関心が向けられ、過去の侵害という不法の処理にはあまり向けられない傾向にある。現代社会が抱える様々な危険に対し効果的に対処するとか、社会の複雑性を縮減させることで市民の期待・予期を安定化させ市民社会におけるコミュニケーションを維持させるとか、また現代社会の危険をこれ以上増大させないとか、人類の危機をも意味する現代的危険を発生させないといった目的を実現するために、刑法が社会コントロールの一部としての機能を担おうとしているように見える。ここでは、社会生活の基盤・前提条件を保護することに重点が置かれている。本稿で特に問題とするものは、社会的法益と親近性をもちつつも、しかし社会それ自体や、環境システムや経済システムなどの諸々の社会システム・社会制度の保護を志向する点で、独自な性格を有している、いわば普遍的法益(Universalrechtsgut)とか、超個人的法益(u¨berindividuelle Rechtsgu¨ter)とよばれるものだ。
 産業活動の著しい発展は、地球規模で環境に対する危険を発生させる潜在力(Gefa¨hrdungspotentiale)を蓄積させており、現代はおろか、未来の世代に渡って人の生命や健康、ひいては地球における自然的生存基盤そのものを危うくするといわれている。このような情勢では、刑法は、従来のように個人的利益を保護するのではなく、まさに発想を切り替えて、国家やその諸制度(Einrichtungen)通じて、地球のエコシステム(O¨kosystem)の保護を中心に、天然記念物、水体、大気、そして様々な動植物または人間の自然的環境そのものが提供する平穏などの普遍的法益を保護しなければならないと主張される(1)。このような問題意識のもと、シュトラーテンヴェルトは、刑法を個人化・個別化可能な(individualisierbare)、実体的、静的な法益に結びつけることから解き放す必要があり、個々の場合に証明可能な侵害結果が存在したか否かに犯罪成立の有無をかかわらしめない、危険犯(Risikodelikt)の定立を提唱する(2)。また、クーレンも「工業化とともに、新たな形でしかも不安にさせる侵害潜在力(Scha¨digungspotentiale)を創出した、技術的に進歩した大衆社会が発展した。危殆化構成要件は、これにともなって生じ得るようになった不相応に危険な行為態様をある程度阻止するのにもっともな試みである(3)」、と述べている。
 普遍的法益の保護に重点が移されるにつれて、刑法から実害発生という要素が軽視される傾向が生じている。これにともない、刑法の任務は、社会における市民の態度規制に向けられ、したがって過去の不法に対する応報的処理にはさほど向けられないようになる。しかも、その態度規制は、法益侵害という結果発生以前の段階の危険を対象にする。これにふさわしい規制形式として昨今注目を集めているのが抽象的危険犯、またはシュトラーテンヴェルトの主張した Risikodelikt なのだ。ベックは、現代社会における危険をつぎのように概観する、「人間は危険(Risiken)を問題にすればするほど、彼らはそれに気づく。しかし彼らが危険に気づけば気づくほど、彼らの行動は塞がれる。なぜなら、危険は、我々がいかに行動すべきではないかについては言うが、しかし、我々がいかに行動すべきかについては言わないからだ」、と。しかも、危険の認識は我々の意識をセンサティブにさせ、とりわけ「社会と国家は、巨大な危険回避組織になる(4)」。この指摘から明らかなように、そこでとられる措置では、もっぱら行為の禁止に重点が置かれる。
 しかし、刑法の補充性の原則やウルティマ・ラティオ原則の見地からは、現実的な実害なき行為または軽微な行為に対して刑罰を科すことが妥当かという問題が生じる。その上、ここでは法益は立法者の政策判断にのみ依拠して創造されており、法益のもつ批判的機能は陰を潜めている。
 このような問題を考慮しつつ、まず、抽象的危険犯の問題を扱う端緒として、抽象的危険犯という規制形式がいかに理論的に把握されているのか、また根拠づけらているのかを検討しようと思うが、その素材として、社会の方向づけとの関係で刑法を機能的に把握する諸学説を検討する。とりわけここでは、機能論的アプローチが抽象的危険犯を現代社会及び現代刑法の中でどのように位置づけているのかを検討対象にする。その際、その位置づけの妥当性とも絡んで、このアプローチが現代社会にマッチした刑法理論を提供するものなのかについても言及の射程に入れたい(5)。
 なお、ここでいう「機能」の意味については、「目標を効率よく達成するコントロール(制御)とパフォーマンス(成果)の確保とを特徴とする発想法(6)」という定義にしたがいたいと思う。

(1) Gu¨nter Stratenwerth, Das Strafrecht in der Krise der Industriegesellschaft, 1993, S. 11 f.
(2) Stratenwerth, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 17. ここでは危険を発生させる潜在力の創出に関して、行為が許された程度の環境負担であったのかどうかが基準とされる(ders, a. a. O., S. 20.)。
(3) Lothar Kuhlen, Zum Strafrecht der Risikogesellschaft, GA 1994, S. 366. Vgl. Heinz Mu¨ller-Dietz, Instrumentalle vs. sozialethische

Funktionen des Strafrechts, in : Lothar Philipps und Heinrich Sollen(Hrsg.), Jenseits des Funktionalismus, 1989, S. 101.
(4) Ulrich Beck, Angst vor der Freiheit, in : DER SPIEGEL 1994, Nr. 38, S. 248.
(5) 法の機能が期待の保障なのか、それとも態度操縦なのかという問題の社会学的分析について、Niklas Luhmann, Ausdifferenzierung des Rechts, 1981, S. 73 ff.
(6) 厚東洋輔=今田高俊『近代性の社会学』(一九九二年)七九頁。また、関哲夫「いわゆる機能主義刑法学について」国士館法学第二二号(一九九〇年)一五四頁以下を参照していただきたい。

第二節 クラッチュの学説ヘお互いに
 一 現代では、危険ではあるがそれのもつ有用性のために事前的に危険を阻止する必要のあるもの、実害が発生しないように一律の標準化が必要となる自動車運転や食品生産等にまつわる規制、また環境犯罪に特徴的だが、その蓄積によって実害を発生させる行為などが、抽象的危険犯として刑法上規制されている。これらの行為は一般の社会生活や生産活動であって、ここでの危険もこれらに伴って現れるものといえよう。このような性格をもった危険に対する規制形式としての抽象的危険犯は、理論上いかに把握されているのであろうか。
 この問題を考える題材として、まずサイバネティクスシステム論に基づくアプローチで抽象的危険犯の存在根拠を論じているクラッチュの学説を概観したい。
 クラッチュは、サイバネティクス(舵取り的)社会システム論をもとに刑法理論を構築しているが、彼の議論の出発点は、従来の行為無価値理論においてはもっぱら行為者個人の行為の構造にのみ目が向けらており、刑法が市民の態度操縦システムだということは意識されてこなかったところにある(1)。このような批判的観点のもと、クラッチュは、「これ(訳者注:不法概念)は、目標に向けて操縦された人的結合の、刑法的手段でもって防止されるべき状態として構想され、しかもこの人的結合の中で、多くの者(行為者・立法者・裁判官・被害者・その他)が規範目標を最善に実現するために共同作用する(しなければならない(2))」、と主張する。つまり、刑法は、最終的には社会の安定化のために、またミクロのレベルでは市民の行動を操縦するのに積極的な役割を果たさなければならない。したがって、ヴェルツェルのように行為者の態度の目的的構造にのみ着目して不法を理解する見解は修正が必要だ、と解する(3)。
 クラッチュの見解は、行為の目的的な構造、すなわち行為者の内面(頭脳)を操縦器にして外的・客観的な行為を構成し、しかも目的の実現に向けて操縦するという意味でのサイバネティクスの理解では不十分であり、むしろ規範とその適用を通じて市民の行動をコントロールするような操縦器として刑事法システムを把握することを意図しているものと思われる。このような議論の流れからして、クラッチュは、不法を把握するには行為者の態度の構造に加えて、規範の操縦システムとしての役割---目標実現のための操縦システムとしての刑法---を考慮しなければならないというのであろう。
 二 クラッチュは、態度操縦の見地から、先のようなサイバネティクスシステムとしての刑法の理解に依拠して抽象的危険犯について言及するが、そこではもっぱら危険の防止に比重が置かれている。クラッチュは言う、「ドイツ連邦共和国という社会的法治国家は、『基本法を根拠』にして、基本法上保障されている自由の毀損に対しても第三者(訳者注:国家)を通じて積極的に保護しなければならない。根本的な基本権の取り返しのつかない侵害が問題となっているところで、国家が純粋に応報的な刑罰の賦課で十分としたり、同時にこれにかかわる予防に努力しない場合には、国家はこのような義務に明らかに反することになろう」。つづけて、「人間の生存との関係で、刑法が、発生するかもしれない損害の源泉までも抽象的危険犯という形式において阻止するといったやり方で、その規範の保護範囲を前倒しする場合には、これは一貫して各々の憲法上の保護義務の枠内にはまっている(4)」、と。このような陳述を前提にしながら、「保護装置としての刑法の使用は、危険の基礎となる現実(Wirklichkeit)の実際上の変更を前提としている。すなわち、変化とは、行為者や刑法的規範システムによる時宜に適した阻止がなければもはや支配できないような、保護されている法的価値(Rechtswerte)に対する危険(Risiko)が発生することだ(5)」、とクラッチュは述べる。ここから、彼は、「保護の限界を前倒しする特別の根拠は、行為の既遂の阻止ではなく、既遂寸前の段階で現れ、しかも程度の差こそあれ、企行者が積極的な行為をおこない、さらに得ようと努力される結果に向けて操縦するということの中に現れる結果実現の(抽象的な)特別な危険の防止だ(6)」、と主張する。
 クラッチュは、抽象的危険が個別的に確定できないことから、直接的な操縦から免れがちだ、と言い(7)、したがって、立法者は個々の事例のメルクマールを抽象化させ、類型化されたメルクマールによって規制する可能性しかもたない、と考える(8)。「そのことによって、当該規範は、規制の経過において程度の差こそあれあらゆる現代的かつ将来的側面にまで及ぶ大きな対応(Groβreaktion)という特徴を含んでいる(9)」のであり、それゆえ、「刑法の犯罪類型の体系の中では、抽象的危険犯の任務には、---数々の因果要因の共同作用のために---個別的因果関係としては十分には支配可能ではなく、それゆえ多かれ少なかれ偶然に依存している法益の危殆化を阻止する任務が与えられている(10)」、とクラッチュは解する。例えば、ドイツ刑法三〇六条二項重放火罪は、通常抽象的危険犯と理解されているが、クラッチュは、本条が抽象的危険犯である根拠として「放火において発生するかもしれない事象経過の多様性(Vielfalt)は、個々の場合において行為者によっては予見できないほど大きい。たとえ彼の経験則及び一般経験則を基礎に、注意義務に基づいて考慮される全ての危険の源泉を共に考慮したとしても、決心時には支配不可能で予期されない帰結の結合が生じる可能性がある(11)」、と述べる。それゆえ、「具体的危険犯という制御器(Regler)は、放火という複雑な影響領域に適していないであろう(12)」、と指摘する。この様な理由で、必然的な多様性を処理する対案の規制形式として個別的な個々の危険を度外視する大きな制御器(Groβregler)のそれが考慮され、しかもこれは、数々の個々の撹乱から生じる重大な撹乱たる放火を集合的(en bloc)に包括する。この様な大きな制御器の形式によってのみ、偶然による制約性(Zufallsbedingtheit)を基礎にしながら、その個々の事例の規制が回避する各々の法益の危殆化が有効に阻止されるといわれる(13)。以上のような理論をもって、クラッチュは、抽象的危険犯が一定の事象に対処する規制形式となる根拠を示す(14)。
 さらに、クラッチュは、抽象的危険犯における個々の行為の処罰の動機と法的根拠を、ある行為が法益に対する危険を発生させる類型に属することに見い出す(15)。つまり、法益に対する行為の一般的危険で足るのであって、ここでは結果という要件は通常犯罪の成否に影響を与えないとされる。このような論理からすれば、ドイツ刑法三〇六条二項のような大きな制御器の特殊性は、あらゆる潜在的撹乱が集合的に規制され、しかも規制対象たる危険は、具体的危険ではなく、抽象的危険とされつつ、その上、その根拠が、完全には排除できない偶然という要因に求められているところにある(16)。要約すると、法益侵害が偶然に左右されることを注視し、この偶然を支配することによって法益保護を最適化させることが志向されているのだ。これについては後述する。
 三 つぎに、いかなる事象が抽象的危険犯という規制形式よって保護されるべきかについて、クラッチュは、先に見たように、抽象的危険犯が大きな制御器(Groβregler)として重大な撹乱(Groβsto¨rung)を未然に阻止するということを指摘する。このことから推論すると、侵害犯・具体的危険犯に比してより小さな危険とこれと結びついた抽象的な価値が保護客体となるように思われる。これに対して、ハッセマーは、規則的で、打ち解けず(distanziert)、しかも比例的であるべき刑法的反作用の古典的特色は陰が薄くなっており、不法に対する返答(die Antwort)及び正当な反作用によってそれを帳消しする(Ausgleich)ことに代わって、今や将来の重大な撹乱の予防が問題になっている、と批判的な見地から指摘する(17)。この指摘から明らかなように、現代の抽象的危険犯は、刑法上の保護の重点が個人的法益から、全体たる社会の基本枠組みまたは社会システムに移行していることのシンボルといえる。抽象的危険犯について、現にクラッチュが法秩序に対する反抗、公的な法の平穏の破壊、公共の法秩序の維持に対する信頼を幻滅させることを規制対象として概念上把握しようと試みるのは、その表れだ(18)。つまり、「私見によれば、抽象的危険犯は、考えられる限りの帰結の連関の予見不可能な多様性にもかかわらず、各々の事例において(数々の法益客体の『類型』という意味において)法益の有効な保護を保障するように形成すべきである全体秩序の維持に奉仕する(19)」ことを目指すのであろう。
 上述のような目的と、抽象的危険犯という規制形式の保護客体が抽象的なものだということを前提にした上で、クラッチュは、つぎの三つの条件を提示する。ここでは抽象的危険犯の成否について、行為無価値がもっぱら問題となる。つまり、
「(1) 行為の志向無価値、遂行無価値(Leistungsunwert)、および結果無価値並びにその挙動の態様
 (2) 行為の生成の経過における行為の段階、時期、および既遂への近さ(Vollendungsna¨he)
 (3) 実行の中止のような行為の一定の法益保持的な変化(20)」だ。
 その反面、結果無価値の側面については、「---これは、必然的に大きな反応の機能から明らかになるが---具体的な場合においては現実には存在する必要はない。むしろここでも法律は標準価値を前提にしている。それゆえ、(訳者注:現実の具体的な)各々の個々の場合が問題ではなく、個々の事例の一定の数値において統計上測定された結果実現の危険を基礎づける構成要件上定められた行為の類型という要件を(訳者注:実際の)行為が示す場合に、行為は重大な不法連関に到達するから(21)」だ。このことは、攻撃客体への現実の危殆化は必要ではなく、統計から導き出された一般的危険の類型に属する行為もしくは統計的な結果発生の蓋然性だけで十分だということを指す。
 以上のように、クラッチュは、サイバネティクスシステム論から操縦システムとしての刑法を説くところから、態度操縦志向、つまり社会的コントロール志向の下で、刑法にその一翼を担わせようと試みているといってよい。クラッチュ説では、刑法による市民の態度操縦、究極的には社会の操縦に重点があり、形式的には、刑罰規範による偶然が問題となる以前の危険の阻止を通じての法益保護の最適化を目的とするとされているが、実質的には、法益の侵害・危険以前、もしくはこれとの関連の希薄な、単なる規範に矛盾する態度に対する処理手続きを媒介にしながら、刑法が市民に対しこの事実について社会的な承認を求めるところに本質があるのではなかろうか。理論的には、サイバネティックな刑法思想は、法益保護と市民の態度操縦、社会操縦を通じて、規範に対する市民の認知とその育成に刑法が関与し、そこで一定の役割を担うことに関心をもっているのではなかろうか。
 それゆえ、クラッチュ説にあっては、可罰性判断に際して、客観的な実害とか、被害者の特定よりも、むしろ法に対して市民が法の妥当性に対してもつ認知やこれに対する期待もしくは法服従意識を危うくするような、また規範の操縦効果にとって不利益になるような社会的撹乱が重要な判断要素になっているといえる。この点を捉えると、彼の学説に対する賛否は別として、抽象的危険犯の特徴を示すものとしてかなり率直な理論展開がなされているように思われる。

(1) Dietrich Kratzsch, Verhaltenssteuerung und Organisation im Strafrecht, 1985, S. 30. 松村格『刑法学方法論の研究』(一九九一年)一九八頁。
(2) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S .192. 松村・前掲書(1)二〇一頁。
(3) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 199.
(4) Dietrich Kratzsch, Prinzipien der Konkretisierung von abstrakten Gefa¨hrdungsdelikten--BGHSt38, 309, Jus 1994, Heft 5, 376 f.
(5) Dietrich Kratzsch, Pra¨vention und Unrecht, GA 1989, S. 54.
(6) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 5〕S. 54.
(7) Kratzsch, a. a. O〔Anm. 5〕S. 67.
(8) このような発想は、環境破壊における蓄積犯罪の規制の際に特徴的といえる。
(9) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 5〕S. 67.
(10) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 292.
(11) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 278.
(12) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 278.
(13) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 278.
(14) 松村・前掲書(1)一八〇頁。
(15) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 279.
(16) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 279., 284.
(17) Winfried Hassemer, Produktverantwortung im modernen Strafrecht, 1994, S. 13.
(18) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 284.
(19) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 284.
(20) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 289.
(21) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 289 f.

第三節 ミューシックとヤーコプスの学説
 一 ミューシックは、社会と法を、社会における人々の社会的接触(sozialen Kontakt)を可能にするコミュニケーションシステムだと解し、その機能の基盤としての社会の枠組みの形成と、その保護の見地から刑法の正当性や法益の問題を扱う。
 ミューシックは、法を、行動への期待・予期の安定化のための社会システムの機構だとして、「このような形式においては、それはコミュニケーションシステムたる社会の基本的枠組みを確定する(1)」、と把握する。このような見地から、彼は、「刑法は、社会の構造とともに、その基本的枠組みを保障しつつ、それと並んで個人的見地から見ると、概して社会的相互作用の基本的条件を保障する(2)」、と言う。また、「未来に関係したこのような社会構造の保障に刑法の予防的任務がある(3)」、と指摘する。刑罰に関しては、それは他者の態度に向けられた期待・予期の抗事実的な安定化のメカニズムとして考えられている(4)。裏を返せば、このようなミューシックの指摘は、「刑法によって保護されるべき秩序の枠組みは、各々の法益によって定義されるものではないし、しかも必ずしも法益によってのみ定義されるとは限らない(5)」、とのヤーコプスの主張に沿ったものといえよう(6)。すなわち、ヤーコプスによれば、規範には、法益を保護する規範、法益を生み出すための規範、そして平穏を保護するための規範があり、必ずしも全ての規範が法益を保護するものではなく、むしろそれは、コミュニケーショシステムの形成・維持のための諸々の条件を規範的に保障するものとされている(7)。
 ミューシックの見解によれば、刑法の任務が社会の基本枠組みの保護にあるとされることから、規範の安定化とは、具体的な社会の抗事実的な安定化を意味するのであって、何らかの心理的状態の安定化を意味するものではない。
 もっとも、心理的手がかりによって積極的一般予防の概念の道理が高められることは確かだが、それ以上のものではないとされている(8)。
 ミューシックは、ヤーコプスと同様、個人と国家について両者を対置させて把握するのではなく、個々人の社会的接触を安定化させるためのコミュニケーションの機構として国家を捉えており、両者を同次元でまたは国家の中に個人を吸収させて理解しているように思われる。その結果、ミューシックは、刑法の任務をコミュニケーションシステムたる社会の構成条件の保護に求めることになるのであろう。
 二 つぎに、犯罪構成要件の正当化の問題についてミューシックの見解を見ると、ミューシックは、刑法の正当化の問題は直接的に社会の基本的枠組みの確定(die grundlegende Gestaltsbestimmung der Gesellschaft)の問題だ、と指摘する(9)。これは、一つの社会体制の形態とか、その形態の確定、もしくはその維持の観点から、またはあるべき社会体制の構築の観点から、刑法のあり方が決定されることを意味する。ミューシックによれば、この論証は、存在的に所与の単位たる財に基づいて行うことはできず、むしろ社会の枠組みが確定されるレベルに関係しなければならない、すなわちこの論証は、コミュニケーションシステムたる社会の構成要素としての---保障されるべき---行為規範に基づいて行わなければならない、と主張する(10)。そのための立脚点としてミューシックは、当該行為規範の「社会的機能」を挙げる(11)。つまり、刑法の任務は法益保護ではなく、複雑化した社会を基礎にしつつ、現存の社会体制に照らして、そのもとで当該刑法規範がいかにして社会的接触を可能にするかが課題なのだ(12)。また、社会の枠組みの確定、すなわち社会の正当性の問題が、一般的に基本的な社会の諸々のプロセスと関連しながら判断され、それとともに社会の枠組み確定の構造が、枠組み確定の合理性の典範(Rationalita¨tsmuster)を構築するのと同じく、特に刑法の枠組みの確定は法システムの反省理論の構成要素と理解すべきであり、この反省理論は社会のアイデンティティ(die Identita¨t der Gesellschaft)に関係している、つまり、諸々の刑法規範の正当性の問題が、具体的な社会のアイデンティティの基準を具体化するということを意味するとされる。その上、一定の刑法規範の正当性の問題は、現実の社会のアイデンティティの、法創造を可能にする規範的基準としての憲法諸原則に関係するといわれる(13)。ここでミューシックは、法システムの見地からして、基本法とこれに基づいて展開された法理論は、社会の基本的な法律上の自己記述(Selbstbeschreibung)を示す、と指摘しつつ、この問題は基本法の諸原則に基づいて解決されるべきだ、と説く(14)。
 三 今紹介した議論をもとにミューシックおよびヤーコプスは普遍的法益や「名誉」などの抽象的法益と抽象的危険犯に関する理論を展開するが、その前に、いかなる事象が抽象的危険犯という規制形式の対象とされているのかを示しておく。ここではヤーコプスによる抽象的危険犯の類型に関する区分を見てみよう。
 第一に、ある領域の複雑さゆえに、そこで活動する人々が損害を惹起しないよう自己を操縦しようとしているのか否かについて他人が予期することができない場合(15)。
 第二に、自動車交通や食品流通規制の場合など、ひっくるめた形での同一形式の行動判断が必要となる場合(16)。
 第三に、行為の反復やそれが惹起した害の蓄積によって危険が高められる場合。
 これら三つの区分は、さらに二つに類型化される。
 一つ目は、放火罪、偽証罪、また虚偽の宣誓など、態度が一般的に侵害適性を有していることが違法性の要件と解されるものだ。
 二つ目には、道路交通などで必要となる大量の一律の規制、及び反復や蓄積によって危険を発生させる行為、例えば、飲酒運転や河川への垂れ流しなどの環境犯罪が挙げられる。ここでは、侵害適性の実現だけでなく、外的撹乱(externe Sto¨rende)という要件も一般化されて確定される(17)。また、武器、偽造貨幣、パスポート、毒物の製造などは、製造者の意思とは無関係に犯罪に利用される恐れがあることを理由に、これらも一定の例外を除いて犯罪化される。この類型においては、主として未だ見通しのきかない未来の危険が問題にされているように思われる(18)。
 ミューシックは、「実証的なコンフリクトのパースペクティブ」の問題性は、その制度化の社会的機能が複雑な社会システムの枠組みに関係する態度への期待・予期の制度化に限定されるものではなく、それは、抽象的危険犯にも関係する、と指摘する(19)。このような理解によれば、「このことは、一般的につぎのように特徴づけられる、つまり重大な損害を稀にしか予期できない限りで、それが破られるということがあまりコンフリクトをはらんでいるとは見なされない標準・基準(Standard)が刑法上保障される(20)」、と。このミューシックの見解は、ほぼヤーコプスの見解と同じといえよう。
 大まかに言うと、ヤーコプスは、規制形式としての抽象的危険犯の必要性根拠を社会のサブシステムの機能の維持とその円滑のために、ある一定の基準を維持する点に求める。これによって、複雑性に象徴される現代社会の中で活動する市民の期待・予期が安定化される(21)。しかもミューシックは、抽象的危険犯たる犯罪構成要件の正当性の問題を抽象的法益の問題とパラレルに捉え、つぎのように主張する、つまり、社会理論的見地からは抽象的法益の構成の問題性が、これを保護する犯罪構成要件のもつ社会的機能という特殊なシステム言及(Systemreferenz)を指し示しており、それゆえ一定の行為規範が刑法上保障されるべきだ、と(22)。
 こうして抽象的危険犯という規制形式は、特殊に(spezifische)制度化された規範複合体の構成要素もしくは構造として、一定の態度に対する期待・予期を実定化し、かつこれを保障するとされる(23)。このような任務を有する抽象的危険犯においては、消極的な結果が生じないように意図されているだけではなく、行為遂行の具体的な無害性も考慮されている、と言われる(24)。機能の面から見ると、中央集権化された社会の危険管理の領域のために、具体化された社会的な危険の定義が、例えば、国家の諸組織に加わる場合または一定の手続きに関与する場合のように、程度の差こそあれ厳格に形式化された役割の中で組織領域の形態を確定し、その限りで抽象的危険犯は不服従犯(Ungehorsamsdelikte)として公式化される、とミューシックは指摘する(25)。このミューシックの指摘について多少の説明を加えると、社会システムの安定化を目的として、それぞれのサブシステム内での活動において脱機能化現象が生じないように、消極的な結果の防止以前に、予防的配慮から人々の行為がシステムを撹乱させることなく遂行されるよう仕向けるところに抽象的危険犯の規範目的がある。ここでは、行為者がシステム安定化にとって必要な標準・基準を遵守していることが肝要となる。したがって、このようなシステムの安定化を持続させる上で遵守される必要のある標準・基準を逸脱する行為は、システムにおける標準・基準の遵守を意図する規範に服従していないことを意味する。
 四 ヤーコプスは社会学的な見地から刑法理論を構成しようと試みるが、そこでは行為のもつ意味の解釈と、社会的接触の際の「複雑性の縮減」とかかわって、期待・予期の安定化の媒介機能を果たす規範の役割に着眼点が置かれている。犯罪は、行為者と規範との関係からいえば、規範違反を意味するのに対し、他者もしくは社会的見地からすると、期待・予期の違背または社会システムの撹乱をさす。集約すれば、行為の社会的意義が問題なのだ。
 また、ヤーコプスの積極的一般予防論は、日本でもかなり知れ渡るに至ったが、ヤーコプス説では、刑罰の機能として、刑罰賦課による「規範妥当の確証」、社会一般に対する「規範意識の強化・覚醒」、ないし「規範信頼の訓練」が構想されている。その際、その刑罰の目的は、公共の規範承認の維持にあるとされている(26)。上述したように、抽象的危険犯はかなり予防的でしかも教育的な効果を意図した規制形式だ。ヤーコプス説に照らせば、見通し難く、複雑化した現代社会を安定化させるために市民に対する教育機能が刑罰の機能として想定され、規範違反に対して抗事実的に、しかもシンボリッシュに規範妥当の確証が試みられる(27)。その上、この任務をより確実なものにするために抽象的危険犯という規制形式を用いて事前的規制がおこなわれる。このような手続きを通じて、社会の複雑を縮減し、また取り返しのつかないような類の危険の発生を防止しようと考えられていると思われる。
 次節では、ここでの議論をもとにしつつ、理論上、抽象的危険犯という規制形式が何を規制、抑止するのに奉仕するのかを考察したい。この問題は、ここで議論した抽象的危険犯の正当化根拠の内実を明らかにする上で重要と考えられる。

(1) Bernd J. A. Mu¨ssig, Schutz abstrakter Rechtsgu¨ter und abstrakter Rechtsgu¨terschutz, 1994, S. 140.
(2) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 142., 149. Gu¨nther Jakobs, Strafrecht Allgemeiner Teil, 2. Auflage, 1991, 2/1.
(3) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 142.
(4) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 140.
(5) Jakobs, a. a. O.〔Anm. 2〕2/22. ヤーコプスは、刑法の任務は法益保護ではなく、規範妥当の保障にある、と主張することから見て、そこでは規範の保護に主たる関心が寄せられている(Jakobs, a. a. O.〔Anm. 2〕2/2.)。
(6) なお、オトゥは、法の「妥当」には三つのものがあると指摘する。それは、事実的妥当、規範的妥当、そして拘束力である。とりわけ事実的妥当とは、単純には、事実的な法の存在のことであり、それは社会的権威の行為によって制定されたという狭義の意味における実証性(Positivita¨t)と、広義の意味における有効性(Wirksamkeit)に分けられる。さらに後者は、心理学的有効性と社会学的有効性に区分される。社会学的有効性は、事実上、法社会によって遵守されていることと、事実上法主体によって適用されていることを意味する。つぎに、規範的妥当とは、ある法規範が規範的に妥当であるとは、法規範が、高次のまたは若干高次の規範に含まれている、低次の規範の妥当に関する基準に対応するということを意味する、とされる。最後に、また、拘束力とは、法規範が(哲学的または宗教上の)高次の見地から正当と見なされることを意味する(Walter Ott, Der Rechtspositivismus, 1976, S. 21 ff.)。
(7) Jakobs, a. a. O.〔Anm. 2〕2/25. Vgl. 2/16.
(8) ミューシックは、規範安定化について、これは違反に続いて行われる加工プロセスと制裁のシンボリッシュな中味の特徴を示す、すなわちそれはコミュニケーティブに媒介され、法システムというコミュニケーションシステムの自己言及的構成条件に従う、と述べる(Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 147.)。
(9) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 156.
(10) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 156 f.

(11) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 157.
(12) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 160.
(13) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 166 f.
(14) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 165.
(15) Jakobs, a. a. O.〔Anm. 2〕6/86 a. 裁判所の面前にいる証人は、自己の陳述の関連を自分自身では判断することができない(ドイツ刑法一五三条以下)とか、または素人は住居の放火の結末を判断することができない。
(16) 第一に、社会的接触(soziale Kontakte)に関してだ。例えば、食料品の流通に際して当該製品が素材や衛生的な見地からして安全なものであることを保障するために事前的な規制を行う。集会に参加する者は武装してはいけない。また、自動車運転手は規則を守ることができるかどうか点検しなければならない、などだ(Gu¨nther Jakobs, Kriminalisierung im Vorfeld einer Rechtsgutsverletzung, ZStW 1985, Band 97, S. 770.)。
(17) Jakobs, a. a. O.〔Anm. 16〕S. 768. ders., a. a. O.〔Anm. 2〕6/86 a.
(18) 私人が利用する場合には、合法的な目的のために用いられないか、または場合によってはまれにしか用いられない一定の事柄が犯罪の道具の典型だということが問題となる。ここでは、武器の製造、偽造貨幣、また武装集団の編成(ドイツ刑法一二七条)などのように、その使用の仕方や形態の不可視さのため自由な生産及び流通が許されるなら規範妥当のために必要な認知的期待・予期が毀損されるような事柄が問題となっている。
(19) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 194.
(20) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 194. Jakobs, a. a. O.〔Anm. 2〕6/86 a. Vgl. Marcelo A. Sancinetti, Objektive Unrechtsbegru¨ndung bei Jakobs ?, 1993, S. 32.
(21) Jakobs, a. a. O.〔Anm. 16〕S. 767. ders., a. a. O.〔Anm. 2〕2/25 b., 6/86 a.
(22) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 195. Vgl. Lothar Kuhlen, Zum Strafrecht der Risikogesellschaft, GA 1994, S. 366. システム言及とは、システムが達成しようとしている目的に至るまでの諸過程の関連を意味する。複雑なシステムにおいてはその都度数々のサブシステムが存在している。これは全体システムとサブシステムとの間の目的−手段の関係という相互関係に相応している。
(23) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 196.
(24) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 199.

(25) Mu¨ssig, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 199. Jakobs, a. a. O.〔Anm. 2〕6/88. なお、グラウルは、抽象的危険犯における一般的危険性説と不服従犯説の関連について、かかる学説は、刑事罰は実質的責任を前提とする、との責任原理の内容として主張されている原則に抵触している、と批判する(Eva Graul, Abstrakte Gefa¨hrdungsdelikte und Pra¨sumtionen im Strafrecht, 1991, S. 233.)。
(26) Jakobs, a. a. O.〔Anm. 2〕17/22. ハッセマーは積極的一般予防論の見地から、刑罰の機能として、「市民の規範に対する信頼」、「規範の保障と妥当を創出、維持、及び強化すること」を主張するが(Winfried Hassemer, Einige Bemerkungen u¨ber,, positive Generalpra¨vention", in : Problemy Odpowiedzialnsci Karnej, 1994, S. 146.)、刑法は数ある社会コントロール手段の一つであり、しかも最も峻厳なものであることを根拠にしつつ、彼は、法益侵害という最も重大な事例に対して刑法は管轄を有する、と解する(Hassemer, a. a. O., S. 141. Vgl. Winfried Hassemer, in : Rudolf Wassermann(Hrsg.), Kommentar zum Strafgesetzbuch, 1990, S. 76 ff.)。本稿では割愛せざるを得ないが、積極的一般予防論の理論的萌芽としてH・マイヤー(Hellmuth Mayer, Strafrecht Allgemeiner Teil, 1967, S. 21 f.)とヴェルツェル(Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Auflage, 1969, S. 2 f.)の学説を検討するのは有益といえる。また、刑罰の機能に関するヤーコプスの説示では、「社会」とその「法秩序」の維持というように、国家と社会を区別するかのような態度が採られているが、これに対してハルツァーは、積極的一般予防論では、「刑罰は既存の国家とその法秩序の維持を実現する」、と批判的見地から述べつつ、この理論が「国家」秩序の維持に重点を置いていることを強調している(Regina Harzer, Der Naturzustand als Denkfigur moderner praktischer Vernunft, 1994, S. 133.)。駒城氏は、社会システムの防衛を語り得るための条件は、富者にも強者にも偏倚しない完璧に中立的な社会システムが成立していることである、というアルトゥール・カウフマンの指摘にならい、「社会システムがそのようなものでないあいだは、機能的責任論は依然として問題含みの理論である」、と論じる(駒城鎮一「社会防衛刑法とシステム理論」阪大法学四四巻二・三号下巻(一九九四年)七四六頁。参考文献として、同著『ポストモダンと法文化』(一九九〇年)九九頁以下)。なお、積極的一般予防論を批判する最近のドイツの学説として、Heiko H.Lesch, Zur Einfu¨hrung in das Strafrecht, JA 1994, Heft 11, S. 518 f. を挙げておく。
(27) Vgl. Niklas Luhmann, Das Recht der Gesellschaft, 1993, S. 134 f.

第四節 偶然の支配について
 一 一般的な意味において、偶然とは、思いがけないことまたは予想できないことと定義される。また、ルーマンは、「偶然とは、必然的でもなければ不可能でもないこと全てだ(1)」、と定義している。いずれにせよ、一般的見地からすると、ある事象または結果の発生が「確実」ではないこと、つまり結果の不確定性を意味している点、また、原因の不確定性、原因の多様性の点では共通しているように思われる。これらを捉えて、「偶然だということはそこに必然的な論理が全くないということではなく、むしろ論理はあるが原因と結果の結びつき方が非常に不明確であるとか、あるいは全く独立したものが一緒になっているとか、あるいはどうでもいいような細かいことから結果の違いが出てくるとか、そういうときにそれが偶然というふうに呼ばれる(2)」、とも説示される。
 現代刑法における抽象的危険犯の根本的な制御対象は、まさに偶然ないしこれに起因する未来における不意の出来事であり、これを支配、抑制、制御するところに抽象的危険犯の任務があるといわれている。
 二 例えば、ある機械が正常に作動・機能することは、社会的な利益及び効用を生み出す。通常、そのことは、社会にとってもそうだし、個人にとっても同様だ。しかし、現代技術は同時に、個人の生命・身体、及び社会にとって大きな危険をもはらんでおり、もし、有害な結果が発生した場合には、個人的法益及び社会システムの機能に大きな支障をきたすことにもなりかねない。つまり、あらかじめ定められた形式で機能している限り問題はないが、本来予定しない何らかの作用と運動が介在した場合に、有害な結果が生じる。これは撹乱といわれる。現代社会はコンピューター社会とも言われるように、社会の管理などもコンピュータを通じて行われている。このコンピューターネットワークは、その本来の目的にかなって機能しているときは、大きな社会的効用を生む。だが、いったんこれに対する脱機能的現象が発生するやいなや、大きな混乱を生む。
 しかも、それだけではない。このような否定的な出来事の発生は、社会がいかに脆弱な基盤の上に成り立っているのかという不安感をも人々の意識の中に生じさせる。これと同時に、その損害という結果の程度と範囲が予測し得ないものになっている。
 このことは、近年話題に上がっている他の科学技術の産物にも同じく当てはまる。現代では、測り知り得ない、しかもその因果経過を見渡し得ないような危険がおぼろげながらに人々の意識の中で考られながらも、その反面、これがもたらす利益が優先的に考慮されるのが一般的だ。こうした利益衡量の上で、結果発生の防止が緊急の課題となる。この測り知ることができず、しかもその因果経過を見渡し得ないような危険と、これが発生させる有害な結果は、常に偶然(的諸条件)に依存している。したがって、偶然、詳しくは、偶然と常に隣り合わせの行為が規制の対象になるとされる。
 三 クラッチュは、偶然(の事故)を支配(Beherrschung des Zufalls)することが規制形式としての抽象的危険犯に要請されている、と言うが(3)、これに対して、ほとんど同じ意味合いで、ヤーコプスは、当該行為がもたらす将来の展開または結果の発生の不可視性(Unabsehbarkeit)ゆえに支配可能でない事象を事前に阻止するところに抽象的危険犯という規制形式の重要性を見い出す(4)。例えば、偽造貨幣の製造もしくは調達、あるいは武器にまつわる一連の事柄について、ヤーコプスはつぎのように言う、個々の場合に犯罪に使用されるに至るのか否か、しかもどのようにしてかを見渡し得ない。いずれにせよ、このような客体が自由に製造されしかも自由に流通するのが許されるならば、それは規範妥当にとって必要な認知的確実性を毀損する、と(5)。また、このような事実そのものが社会的な撹乱を意味することから、それらは規制の対象になるとされる(6)。
 クラッチュによれば、抽象的危険犯は、様々な因果要因の関連効果が原因で、十分には支配可能ではなく、しかも程度の差こそあれ偶然に依存している法益の危殆化を阻止するものといわれる。要約すれば、重大な撹乱としての偶然の危険(Zufallgefahren)が抽象的危険犯の規制対象となり(7)、それゆえ抽象的危険犯は、個人的な個別的危険を抽象化しそして数々の個々の撹乱から生じる重大な撹乱をまとめて包括し(8)、これによって個々の危険を支配することが可能になる、と解されることになる(9)。
 偶然の支配を目的としている抽象的危険犯においては、結果という客観的側面は重視されてはいない。なぜなら、「抽象的危険犯では、個人的な法益毀損という意味での結果の惹起は、個別の因果連関を支配することができないことから当然に従属的な役割しか果たさない(10)」からだ。したがって、せいぜいのところ、一般的危険性をもつ行為が規制対象とされるにすぎない。このような理由から、危険結果は、現実の場面においては必要とはされていない(11)。
 まさにこの陳述は、ある行為に起因する法益侵害の発生が常に偶然という要因に左右されており、しかも結果発生が社会的に不利益をもたらすことから、このような不利益な結果が発生する以前に、つまり偶然を支配するために、結果惹起の原因と目されるような、未だ法益侵害結果を発生させるに至っていない危険な行為を抽象的危険犯という規制形式を用いて規制することによって、例えば社会の安定化という目標を効率よく達成することを機能論的アプローチが標傍しているのを証左するものだ。

(1) Niklas Luhmann, Beobachtungen der Moderne, 1992, S. 96. ルーマンによれば、この概念は、必然と不可能性の否定を通じて得られるとされる。
(2) 竹内啓編『偶然と必然』(一九八二年)一二頁。
(3) Vgl. Harro Otto, Grundkurs Strafrecht, Allgemeine Strafrechtslehre, 4. Auflage, 1992, S. 41. ベルツ説では、偶然の排除及び縮小と抽象的危険犯の関係を問う場合、主として過失犯をモデルにした注意義務違反に比重が置かれている(Ulrich Berz, Formelle Tatbestandsverwirklichung und materialer Rechtsgu¨terschutz, 1986, S. 62.)。
(4) Gu¨nther Jakobs, Krminalisierung im Vorfeld einer Rechtsgutsverletzung, ZStW 1985, Band 97, S. 772.
(5) Jakobs, a. a. O.〔Anm. 4〕S. 770.
(6) Vgl. Gu¨nther Jakobs, Strafrecht Allgemeiner Teil, 2. Auflage, 1991, 10/1.

(7) Dietrich Kratzsch, Verhaltenssteuerung und Organisation im Strafrecht, 1985, S. 277 f.
(8) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 7〕S. 278.
(9) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 7〕S. 284., 295.
(10) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 7〕S. 288.
(11) Kratzsch, a. a. O.〔Anm. 7〕S. 289.

第五節 小  括
 一 以上、現代的抽象的危険犯の問題を解明する手がかりとしてその特徴と正当化の問題を概観した。紹介した諸学説は共に、論理上、将来に発生するかもしれない有害結果の発生の防止を基礎にしつつ、結果発生に至る過程内の偶然的要素や結果発生の見通しの困難さを除去または緩和させることに主眼を置いていることが明らかになった。ここでは偶然とか有害な結果の不可視性の制御・緩和に抽象的危険犯の機能が認められる。そもそもここでの議論の出発点は、結果の発生・不発生が常に偶然に依存しており、したがって結果は制御の対象とはなり得ない、という主張にある。しかもこのような理由から、規範は行為のみを対象にするにすぎないとも言われる。
 しかし、抽象的危険犯という規制形式の対象になっている行為は、日常的な生活や生産活動に属するものが多い。法的には、それらは違法と適法の限界線上にあるといってもよい。このような行為に対して、法益に対する客観的な侵害・危険なしに、違法か否かを判断することは極めて困難だと思われる。これに対し、ミューシックは、当該犯罪構成要件のもつ社会的機能というシステム言及、つまりサブシステムたる法システムと全体システムとの間の目的ー手段の構造という見地から、このような行為の規制の正当化を試みる。ミューシックは刑法の任務を社会の基本的枠組みの保護に求め、そこに刑法の管轄領域を限定しようとするが、めまぐるしく変転する現代社会においては、常に様々な新たな事象が発生しており、これらへの対策を講じる際に規範の機能的側面や社会の目的達成の見地だけが強調されるならば、このアプローチはどこに犯罪限定機能を見い出すのであろうか。もっとも彼は、抽象的危険犯という規制形式が個人の自由を削減し、自由の社会的構成と緊張関係にあることを認めている(1)。けれども、社会の見地または犯罪構成要件のもつ社会的機能という見地から抽象的危険犯の正当化根拠を把握する場合、個人固有の自由の保障というパースペクティブはコミュニケーションシステムたる社会の安定化の中に埋没してしまうのではなかろうか。すなわち、社会の安定化こそが個人の自由の展開を保障するのだ、と。そうであれば、ここでのミューシックの指摘は、むしろシステム論的なアプローチの問題性を自ら露呈させたものと批判することはできないであろうか。
 二 クラッチュ説は、機能論的アプローチから刑法理論を構成するが、その主たる目的は、予防的な見地からの偶然支配を通じての「法益保護」にある。しかし、シュトラーテンヴェルトは、このような姿勢に猛然と反発している。
 シュトラーテンヴェルトは、人間を他の動物から区別するための道具として用いられる「理性」という概念、つまり理性をもって行動するものとしての人間の理解、すなわち道具的思考、それとロックに由来する社会契約論を例にとり、これらが交錯しながら近代的人間像が形成され、しかもこのような人間像が、まさに刑法における法益思想の基礎をなしていると批判的に評価している(2)。これに対し、彼は、環境保護などの未来の危険への対処を全人類的課題と見なすことにより、世界の主人としての人間観の放棄と、個人への結びつきに固執する法益論から刑法を解放することを要請する(3)。このような見地から、クラッチュのように、サイバネティクスシステム論や組織論の助けをかりて、刑法を強固に機能化させながら、偶然支配を通じて法益を保護するという目的に刑法を向かわせるべきだというのは、先の道具的思考をさらに展開させる中で、人間の社会活動をもまさにこれに服従させようとする試み以外の何物でもない(4)、とシュトラーテンヴェルトは批判する。こうしてシュトラーテンヴェルトは、法益保護刑法を過去の遺物として見切りをつけ、未来の保全との関係では、態度が許された危険の程度を逸したかどうかだけが問題だとする。
 しかし、いずれにせよ、クラッチュ説、ヤーコプス説、またシュトラーテンヴェルト説においては、刑法の予防機能が強調される余り、それらの学説においては、市民と国家との緊張関係に基づく社会関係の在り方は姿を消しているように思われる。特に、シュトラーテンヴェルトに対してヒルシュは、「法益概念の合理化機能や限定機能は、法治国的根拠からだけではなく、行為の不法内容の評価に際して、法益侵害への遠近を妥当に考慮できるようにするためにも必要なのだ(5)」。「また、あまりにも一方的に予防思考に立脚することが、可罰性をますます前地へと拡張する危険をもたらすということは明白だ(6)」。ヒルシュは、刑法全体を見渡しながら、一旦、現代社会や二一世紀の社会の保全に即して刑法が変えられると、たちまち他の領域もそれによって干渉され、その点にある部分領域の浸食の影響が現れるであろう(7)、と批判する。
 また、これについてハッセマーは、予防は古典的刑法においてはせいぜいのところ刑罰正義(Strafgerechtigkeit)の側防的な目的であったに過ぎなかったが、しかし今日それは支配的な刑法のパラダイム(Strafparadigma)を担っている、と批判しながら(8)、個人的法益の保護を中心とした中核刑法の再確立や、普遍的法益を個人的法益から導出させる必要性を説く(9)。このハッセマー説からすると、刑法は、市民の基本的自由権や人格権に対する重大な違反に限定されるべきであって、全ての他のコントロール機能は、民法、保険法、国家からの自由な(staatsfreien)合意、また場合によって秩序違反法に委ねるべきだ、というフロムメルの指摘も、彼の理論の展開の中に包含されるものであろう(10)。
 現代社会と刑法の関係についての理解は極めて錯綜しているといえるが、ミューシック説にも見られるように、刑法の機能論的把握においては、社会の機能の安定化という目的の中に個人的法益が埋没してしまっている。つまり、個人的利益または個人そのものがシステム内部の一機能要素におとしめられているのではなかろうか。そうだとすれば、最終的にこれらの理論の行き着くところには配慮国家のようなものが浮かび上がって来るように思われる。けれども、たとえ未来の安全を見通した配慮的な保護の必要性が唱えらようとも、刑罰が常に抑圧的性格を備えもつことからして、かかる規制が、市民の自由を削減する危険性を常にはらんでいることに変わりはない。それゆえ、このような理論構成は、法治国的伝統を忘却するものだと批判されても仕方がないのではなかろうか(11)。

(1) Bernd J. A. Mu¨ssig, Schutz abstrakter Rechtsgu¨ter und abstrakter Rechtsgu¨terschutz, 1994, S. 200. Vgl. Gu¨nther Jakobs, Strafrecht Allgemeiner Teil, 2. Auflage, 1991, 2/25b.
(2) Gu¨nter Stratenwerth, Das Strafrecht in der Krise der Industriegesellschaft, 1993, S. 14 f.
(3) Stratenwerth, a. a. O.〔Anm. 2〕S. 16 f.
(4) Gu¨nter Stratenwerth, Zukunftssicherung mit den Mitteln des Strafrecht, ZStW 1993, Band 105, S. 690.
(5) Hans Joachim Hirsch, Strafrecht als Mittel zur Beka¨mpfung neuer Kriminalita¨tsformen, S. 7. 本論文は、一九九四年に京都の同志社大学にて開催されたDas 2. Japanisch-Deutsche Kolloquium u¨ber Strafrecht und Kriminologie でのヒルシュ氏の二五ページからなる講演原稿だ。
(6) Hirsch, a. a. O.〔Anm. 5〕S. 18.
(7) Hirsch, a. a. O.〔Anm. 5〕S. 21.
(8) Winfried Hassemer, Produktverantwortung im modernen Strafrecht, 1994, S. 7.
(9) Vgl. Winfried Hassemer, Kennzeichen und Krisen des modernen Strafrechts, ZRP 1992, Heft 10, S. 383.
(10) Monika Frommel, Umrisse einer liberal-rechtsstaatlichen Normverdeutlichung durch Strafrecht, in : Festschrift fu¨r Horst Schu¨ler-Springourum, 1993, S. 267f. Vgl. Winfried Hassemer, Grundlinien einer personalen Rechtsgutslehre, in : Lothar Philipps und Heinrich Sollen(Hrsg.), Jenseits des Funktionalismus, 1989, S. 91 f. ミューラー・ディーツは、アルトゥール・カウフマンの国家の刑罰権力を基本的な法益の保護に限定すべきだとの主張を土台にしながら、「法治国においては、社会の保護のために、すなわち他者と共存している人間の生活にとって不可欠な、しかも刑法を通じて以外の他のやり方では有効に保護され得ない法益の保護の為に、刑法が無条件に必要であるところでのみ、それは設けることが許される」、と主張しているのも注目に値する(Heinz Mu¨ller-Dietz, Instrumentalle vs. sozialethische Funktionen des Strafrechts, in : Lothar Philipps und Heinrich Sollen(Hrsg.), Jenseits des Funktionalismus, 1989, 108.)。
(11) Felix Herzog, Gesellschaftliche Unsicherheit und strafrechtliche Daseinsvorsorge, 1991, S. 40.

第二章 抽象的危険犯における法益の問題

第一節  問題状況
 一 従来、抽象的危険犯に関する議論においては、いかにして抽象的危険を解釈、判断すべきかということに焦点が絞られてきた。このことが既存の抽象的危険犯の違法性を判断する上で重要だということは、現在でもさほど変わりはない。しかし、これに反して、抽象的危険犯における法益論についての問題関心は希薄であった。前章では、一般的レベルの問題として抽象的危険犯の正当化根拠の問題を扱ったが、そこでの問題性を意識しつつ、また機能論的アプローチに代わるパースペクティブを探求するために、本章は、抽象的危険犯との関係で法益論がどのように展開されているのか、それとともに現実に抽象的危険犯が何を保護法益にしているのかに注目しながら、より個別レベル、つまり犯罪論レベルの問題たる法益にスポットを当てる。
 二 現行ドイツ刑法では、抽象的危険犯という規制形式が多く規定されている。法益と絡めながら近年問題となっている幾つかのものを列挙すると、つぎのようになろう。
 「補助金詐欺」(ドイツ刑法二六四条)では、法益は公的財産だとされているが、実質的には国家の重要な経済統制の制度としての補助金制度そのものの保護に重点が置かれている。「信用詐欺」(ドイツ刑法二六五条b)では、信用提供者の財産が保護法益とされているが、内実は、国民経済にとって特に重要な信用制度の保護だ。「河川の汚染」(ドイツ刑法三二四条)、「大気の汚染と騒音」(ドイツ刑法三二五条)、「環境を危険にするゴミの処理(ドイツ刑法三二六条)、「施設の不法な操業」(ドイツ刑法三二七条)、「核燃料物質の不法な取扱い」(ドイツ刑法三二八条)、「保護を必要とする区域の危殆化」(ドイツ刑法三二九条)などの環境犯罪では、水域、大気、そして土壌などの清潔さ、つまり環境システムの存続の保護が実質的な法益だ。また、麻薬の防止に対しては、国民の健康が保護法益として挙げられる(麻薬法二九条以下)。その他にも、コンピューターネットワーク体制の維持を課題とした「データ探察」(ドイツ刑法二〇二条a)、コンピュータサボタージュ(ドイツ刑法三〇三条b)、また債権者の請求権の満足に対する利益とともに、信用経済の機能能力の保護を目的とする破産罪(ドイツ刑法二八三条)などがある。
 従来から抽象的危険犯の法益は、国家・社会的法益や、これらと個人的法益の混合として分類されてきた。とりわけ、従来の解釈では、国家・社会的法益に対する危険という側面が重視され、違法性に関する判断もこれに対する危険の見地から行われてきたといえる。ところが、今日ではそれにとどまらず、特に、「環境システム」、「経済システム」、または「経済システムに対する信頼」などに象徴されるように、社会生活の基盤そのものとその安定的存続、またこれに対する信頼の保護に重点が置かれている。これはまさに刑法の管轄領域の拡張を指すが、そこでは、個人的な事柄、国家的な事柄の保護から、社会の周辺領域の安定や持続という事柄までが、刑法的な法益として包含されるに至っている。近年問題となっている法益の特徴は、国家権力を保護するのとは異なり、第一に、それらは市民生活を支えるバックボーンであり、第二に、環境問題に顕著なように、我々の子孫の生活基盤やその生存の保護をも考慮する意味で、「未来」に関係しており、第三に、社会の安定的な持続を標傍しているところにある。
 三 抽象的危険犯で保護される法益の内容は変貌を続けているが、しかし相変わらず、法益の中味の曖昧さ、つまり違法判断において法益の危険が可視的でない、いわば、個々の行為による結果が実害的ではないということが問題として残っている。ここでは、一定の態度が、あるシステムの機能、安定、または目標に反したものなのか否かが決定的だといえる。また、ある者の一回きりの行為は、その法益に対してさしたる害を与えない。その反復や蓄積こそが重大な問題となっている。しかもそれが、個別的には、刑罰で対処するほど非難可能なものなのかはあいまいだ。
 このように抽象的危険犯は、可罰的責任を問うに値するほどのものなのか、また責任の前提としての違法性を具備しているかについては疑問が残る。これについて、アルトゥール・カウフマンは、刑法上の責任は、具体的な不法、または少なくとも具体化され、類型化された不法要素に及んでいなければならないという主旨の批判をおこなっている(1)。
 しかし、「責任の基準もまた、法に対する信頼を維持すべきという社会的な機能の要請に方向づけられている(2)」、とのアルプレヒトの評価にも見られるように、近年では責任の有無に関して非難可能性ではなく、予防によって判断しようとする学説が有力に主張されている。したがって、抽象的危険犯の問題は理論的にも複雑な状況にある。
 法益論の見地から抽象的危険犯はいかにして根拠づけられているのであろうか。また批判されているのであろうか。

(1) Arthur Kaufmann, Unrecht und Schuld beim Delikt der Volltrunkenheit, JZ 1963, S. 426 f. 浅田和茂「[紹介]アルトゥール・カウフマン『完全酩酊犯の不法と責任』」関大法学二一巻六号(一九七二年)六六頁以下。
(2) Peter-Alexis Albrecht, Das Strafrecht im Zugriff populistischer Politik, StV 1994, Heft 5, S. 266. 参考として、アルトゥール・カウフマン/上田健二監訳『転換期の刑法哲学』(一九九三年)一五六頁以下、二六八頁以下。

第二節 抽象的危険犯における法益論
 第一項 ベルツ説の検討
 一 日本の判例と多数説は、抽象的危険犯の刑罰規定において危険は立法動機にすぎず、現実に証明する必要はないと理解している。これからすると、通常、裁判過程では、被告人の反証の可能性についてはともかく、原告側は危険の存在を立証しなくてもかまわないことになる。現代の問題からいえば、法益との関係でその侵害・危険の立証が極めて困難な場合がある。例えば、インサイダー取引によって、現実に一般投資家の市場の公正さに対する信頼が毀損されたかを立証できるであろうか。また漠然とした環境法益に対し、個々人の行為がどのような危険を生じさせたかを原告は立証できるであろうか。
 刑法の任務は、法益保護にあるといわれる。この言明から明らかなのは、いかなる犯罪も法益の侵害または危険によって基礎づけられなければならないということではなかろうか。したがって、他の犯罪と同じく、抽象的危険犯も法益を危殆化したということを理由に違法性の判断がおこなわれなければならない。だが、現実にそうなっているかはかなり疑わしい。そこで、抽象的危険犯において法益概念がいかに理解されているのかという問題をまず見る必要がある。
 二 ベルツは、刑法の任務を法益保護にあるとし、抽象的危険犯も法益保護に奉仕するものと見なしつつ、その法益とは、法的に承認されているかまたは保護されている社会的価値もしくは利益だ、と述べている(1)。ベルツは、この法益は、法益客体とは区別されるとしながら、後者は法益を具体的に具現したものだ、と指摘する(2)。例えば、殺人罪を例にとれば、法益とは、単に「生命」という抽象的価値または理念的な実態であるのに対し、法益客体とは、この法益が包括的に明らかになる実質的な基体たる「Aさんの生命」ということになる。ベルツ説では、この法益客体は、行為客体、攻撃客体と同義だと解されている。ベルツによれば、通常(つまり、侵害犯、具体的危険犯の)行為客体の侵害または危殆化によって理念的実態たる法益も毀損される。しかし、この陳述は、全ての犯罪類型に当てはまるものではないとも説示されている。「むしろ、一定の攻撃客体が侵害または危殆化されなくとも、法益は既に危殆化され得る(3)」場合もある、と。
 なぜこのように解釈するのかといえば、ベルツが刑法的反作用の正当性を(理念的な)法益の毀損に求めているためだ。説明を加えると、ベルツ説では、不法の前提条件と見なされる態度の社会侵害性は、法益侵害を意図した作為または不作為の中にある。なぜなら、これは、第一に、一定の法益の侵害に向けられ、第二に、個々の侵害を超えて、法仲間の人的な関連が問題となる法社会(Rechtsgesellschaft)の信頼の基礎、つまり法社会の他の成員の信頼を排除し、そして不信をはびこらせるからとされている(4)。このように見れば、ベルツ説では、法益の侵害または危険という場合、理念的に理解された法益とこれに関係する行為が判断素材とされることから、必然的に行為無価値の側面が重視されるように思われる(5)。このことは、つぎのベルツの言説からも見てとれよう、つまり、刑法上保護されている法益の毀損は、法秩序に対する反抗と法敵対的な意思活動を表しており、また逆も是だ、と(6)。
 それでは、このような法益に対する理解は、抽象的危険犯の把握にいかに反映されるのであろうか。
 ベルツは、抽象的危険犯においては一定の法益客体が侵害または危険にさらされることは重要ではない、と述べる(7)。
 なぜなら、不法は単に惹起された結果の側面によって実現するのではなく、むしろ行為無価値から導出されるからだ(8)。これに対してグラウルは、法益の侵害もしくはその危殆化と法益客体の侵害または危殆化を同一視する見解を誤ったものと批判している(9)。「なぜなら、何らかの方法である人間の行為によって惹起された各々の法益客体の侵害または具体的危殆化は、必ずしも理念的な法益という価値の妥当要求の軽視に基づいてはいないからだ(10)」。例えば、規則どおりに行動していた自動車の運転手が、突然、子供が駐車していた車の後ろから出てきて、そして車の前に飛び出したところで、彼をひいた場合、法益客体の侵害と結果無価値は惹起したが、身体の不可侵性という理念的価値の中に含まれている他人の身体の不可侵性に関係する注意深い態度の命令の無視と法益の毀損は、ここでは存在しない、つまり行為無価値を欠いている、との批判を展開する(11)。
 それにもかかわらず、ベルツ説に関してかなり重要で、しかも問題なのは、法益概念において理念的な実態としての法益と法益客体が区別されている点と、抽象的危険犯にあっては、行為客体の侵害ないし危険がなくとも法益の侵害が基礎づけられ、しかも行為無価値が重視されている点だ。その根拠としてベルツは、抽象的危険犯以外の他の犯罪類型にとって重要な行為は、原則的に価値中立的で、その上他人の価値を軽視した行為者の意思によってはじめて法的に認められないようになる、と言う。これに対し、抽象的危険犯として刑罰規定に記述される行為は、類型的に侵害を発生させるものだ、とベルツは解する(12)。これは、本稿において予め前提にされてきた現代的社会問題を念頭に置いたものといえる。まさにベルツ説は、法益保護の早期化と抽象的危険犯を、技術的な生活領域や大量現象が常に持ち合わせている侵害の可能性が今日増大していることをもって正当化しようとするものだ(13)。
 しかも、ベルツは抽象的危険犯を予防的な見地から把握しているが、それ以前に、彼の法益概念そのものと行為無価値を重視した違法論が既に予防的な考慮を払った構成になっていると指摘することはできないであろうか。その根拠は、ベルツが法益について理念的な価値の側面を強調するところにある。しかし、法益を「価値」と捉えるならば、そこでは規範に対する心情的な尊重要求も保護されることになり、しかも法益に対する客観的な侵害・危険以上に、価値の毀損が重要な違法要素となる。このようにして法益を価値と捉える見解は、常に危険判断を形式化もしくは抽象化させるという難点をもつことになる。
 確かに、法益と行為客体・法益客体とは区別できようが、思考形式としては、原則的には、まず行為客体への客観的な攻撃が行われ、それへの侵害・危険の程度を基礎にしながら、後に法益の侵害・危険が問われるべきではなかろうか。また、法益を「利益」と捉え、これに対する害をできる限り客観的に把握していかなければならない。これは、法益の内容の具体化・現実化、刑罰規範における法益の侵害・危険の重要な判断基準としての行為客体の明確化の必要性、危険判断の明確化、ひいては処罰範囲の限定に資すると思われる。
 今見たように、法益を「価値」と捉えるか、「利益」と解するかは、一つの重要な問題だが、これと並んで、もう一つの問題として、危険判断をも展望した抽象的危険犯独自の包括的な法益概念があるのかについても検討するに値すると思われる。これについて、近年、キントホイザーが注目すべき理論を展開している。

(1) Ulrich Berz, Formelle Tatbestandsverwirklichung und materialer Rechtsgu¨terschutz, 1986, S. 35.
(2) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 35.
(3) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 37.
(4) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 45.
(5) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 111.
(6) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 44.
(7) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 111 f.
(8) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 112.
(9) Eva Graul, Abstrakte Gefa¨hrdungsdelikte und Pra¨sumtionen im Strafrecht, 1991, S. 103 f.
(10) Graul, a. a. O.〔Anm. 9〕S. 106.
(11) Graul, a. a. O.〔Anm. 9〕S. 106.
(12) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 113.
(13) Berz, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 58.

 第二項 キントホイザー説の検討
 一 キントホイザーは、抽象的危険犯の規範が何を保護することに止目しているのかという問題を中心に議論を展開している。この問題についてキントホイザーは、「安全性」(Sicherheit)という概念を機軸にしつつ解釈を進める。
 形式的には、抽象的危殆化を禁止する目的は、法益の侵害ないし具体的危殆化を回避するところにあるといってよかろう。しかし、キントホイザーの学説を検討する上で重要なことは、彼がその本質的な目的を問いつつ、刑法における抽象的危険犯の正当化根拠はおろか、存在根拠をも見い出そうと試みていることだ。
 キントホイザーも刑法の任務を法益保護に求めるが、彼の抽象的危険犯の議論においては、刑法における法益保護の中身は、何も財の完全性の保護につきるものではなく、財の無害な利用・処理も含まれるということが前提になっている(1)。これにしたがい、キントホイザーは、財の完全性は、侵害犯と具体的危険犯の規範によって保護されるのに対し、抽象的危険犯は財の無害な利用・処理を保護する、と主張する。
 では、安全性の定義はどうなっているのであろうか。
 キントホイザーによれば、それは、財を安全に利用することまたは処理することの可能性をさす(2)。例えば、ある者がある財を利用・処理するときに他人に害を与えないようにするためにとりはからう措置により、他人が自己の財を利用することが可能になる。また自動車運転であれば、運転に際して、飲酒していないとか、スピード違反をしていないなどの一定の運転規則を遵守するといった、いわば配慮行為をする。これにより、他の交通関与者は自己の財を利用・処理することが可能になる。
 キントホイザーによれば、この安全性という概念は、自律的な安全性と他律的な安全性とに区別される。前者は、法律上許されている博打のように、たとえ財産的な損失を被ったとしても、このような態様の危険性や損失の発生が法という手段をもってして回避されるべき利益衝突ではないものをさす。これに対して、後者は、過度の費消をもってしても個々人によってはおこなわれ得ないか、またはそれをもってしてのみ個々人によっておこなわれ得る財の安全な利用のための配慮(Vorsorge)を意味する。この配慮は、社会的相当の枠組み、つまり財を通じて実施される人的展開の保障の必要的枠組み条件の中でおわなれる(3)。
 このような安全性の定義にもとづいてキントホイザーは、「抽象的危険犯の規範は、財の平穏な処理に必要な安全性条件(Sicherheitsbedingungen)を毀損することの禁止として解釈される(4)」、と述べる。ここでのキントホイザーの捉え方からすれば、具体的危殆化が主行為(Haupthandlung)の完遂、すなわち損害を防止する行為ができないことを対象とするのに対し、抽象的危険犯は幇助行為(Hilfshandlung)、つまり損害への配慮(Schadensvorsorge)のための行為ができないことに関係している(5)。この定義によれば、燃える恐れのない入れ物や空間に燃える危険性のある物質を入れることが損害の発生を防止する配慮行為であり、これに対してスプリンクラーや消化器の設置、また非常階段を作ることなどは補正的配慮行為になる。
 以上、抽象的危険犯に照らせば、安全性とは、財を利用する者にとって法的に保障された、十分に配慮された状態といえる(6)。より詳しく説明すると、「行為論的には、安全性は、財の合理的な利用の為の十分な確信(U¨berzeugung)という意味において、場合によっては意図的には遮断不可能な侵害連関をもつ条件が存在しないという、財についての将来の平穏の確さ(Gewiβheit)及びこのような確さを基礎とした平穏性(Sorgelosigkeit)を意味する」。「安全性とは、つまり一定の目的の実現に向けて無害に(gefahrlos)財を利用するため合理的に判断する主体(訳者注:行為者ではなく、一般の人々)の客観的に基礎づけられた期待(Erwartung)なのだ(7)」、とされる。もちろん安全性も一面的なものではなく、客観的側面と主観的側面を有している。キントホイザーは、前者は後者の前提条件だと捉え、したがって法は安全性の客観的側面にのみ関係する、と言う(8)。
 二 生活世界の技術化により、我々の行動には常に技術を駆使した道具が用いられる。この道具は、我々に利益をもたらすが、その反面、常に人や物に損害を与えるという危険を持ち合わせており、しかも、その結果にはとかく不確定さがつきまとう。だがこのような状態が放置され、しかも蔓延すれば、社会や個々の個人は、客観的にもそうだが、主観的に不安な状態におとしめられ、自由に行動することができなくなってしまう恐れがある。これに対して、究極的には、社会の個々の成員または潜在的被害者の自由な展開を保護する見地から安全性を把握しつつ、現代社会における様々な不確定性を縮減するために「安全性」を保護することが抽象的危険犯の規範の保護目的だとキントホイザーは理解しているように思われる。このように被害者の見地から安全性を捉え、これを違法性判断に応用する点ではキントホイザー説は妥当だと思われる。
 とりわけキントホイザーの議論のユニークな点は、「安全性」という概念を用いて抽象的危険犯を解釈しようとした点にあり、この試みは、違法性の判断においても一定の客観化を可能にすると思われる。が、しかし、反対に問題は、刑法における法益保護の内実として、財の無害な利用・処理の保護をも含めることにより、刑法でいう法益概念を拡張させているところにある。これは、刑法の保護領域をも拡張させることにもつながり、法益は単なる刑法的規制の正当化のための手段におとしめられる恐れがあるように思われる。しかも、彼の抽象的危険犯の議論を見る限り、抽象的危険犯の存在を無批判的に認めてしまっており、それによって刑法において何を保護することができるのか、またできないのかについての基準を見い出すことが困難になりかねず、最終的に、しばしば抽象的危険犯で問題となる中身の曖昧な法益をも正当化してしまうことになりはしないであろうか。
 しかも、安全性を「平穏」という、ややもすれば不安などの人間の心理的感情によって左右されやすい不明確な事柄に立脚させることにより、法益概念の抽象化はもちろん、危険判断の抽象化も懸念される。

(1) Urs Kindha¨user, Gefa¨hrdung als Straftat, 1989, S. 19., 283.
(2) Kindha¨user, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 279.
(3) Kindha¨user, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 279.
(4) Kindha¨user, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 280. Vgl. S. 281.
(5) Kindha¨user, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 280.
(6) Kindha¨user, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 280.
(7) Kindha¨user, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 282.
(8) Kindha¨user, a. a. O.〔Anm. 1〕S. 282.