立命館法学  一九九五年第一号(二三九号)




ドイツにおける
民事責任体系論の展開 (二)

---危険責任論の検討を中心として---

増田 栄作






目    次




第三章 ドイツにおける危険責任論の展開

第一節 ドイツ危険責任原理の一般的理解

 第一項 概  観
 本章の課題は、ドイツ危険責任原理に関する理解の展開・変容状況、特に近時の「危険責任」特別法の増加に伴う議論を契機としたそれの検討である。ドイツ危険責任原理の基本的理解を確立した業績として挙げられるのが、Esser の著書『危険責任の基礎と展開(1)』である。それによる危険責任原理の定義をもとに民事責任体系における「責任法の複線性」の構想が成立したことは前述の通りである。現在に至るまで学説においても Esser の危険責任論は、その理論的基礎に関しては、「複線性」論と共に広範な承認を得て民事責任原理・体系論考察の出発点に据えられている。しかしながら他方で、危険責任原理のより具体的な内容に関しては、Esser の理解と学説の一部との間に従来から幾つかの点について差異が存在していた。そして、近時の「危険責任」特別法の増加に伴う議論によって、その差異が一層顕著になり、また一部では具体的内容上の差異から更に進んで危険責任の理論的基礎自体や民事責任体系の理解を新たに展開・変容させる動向も看取されるように思われる。
 本節では、現在の学説におけるドイツ危険責任原理の一般的理解を把握することによって、学説における危険責任原理に関する理解の現状、Esser の危険責任論との異同を予め概括的に提示し、それをもって第二節及び第三節における危険責任原理のより個別的局面における理解、すなわち、近時の「危険責任」特別法に関する議論を介した危険責任論の新たな展開・変容動向の検討の総論・導入とする。具体的には、まず Esser の危険責任論を概観し、学説が共通の出発点に据えている危険責任論の基本的理解の把握を行い、次いでそれとの比較において現在の学説における危険責任原理の一般的理解を幾つかの論点について整理・分析し、その上で危険責任論の展開・変容動向について若干の検討を加えることとする。

 第二項 Esser の危険責任論
 前述の通り、Esser は判例分析に基づいて、実務が過失責任の外観を装いつつ実質的にはそれとは異なる発想、すなわち、実質的な危険責任によって解決している事故処理領域が拡大している状況を確認した上で、その領域処理に適合的な責任原理としての危険責任原理の理論的基礎の探求及び実定法上の具体的内容の確定を試みる。
 Esser の危険責任論は、その理論的基礎に関しては、主に以下の三つの次元における考察に基づいて構成されている。すなわち、第一に危険責任原理の基本的性格、第二に危険責任原理を承認する社会的経済的条件、そして第三に危険責任原理固有の帰責根拠である。
 第一の危険責任原理の基本的性格に関して、Esser はそれを配分的正義の観念に基づいて特徴づける。まず Esser は、社会的不運損害を克服するという整序課題 Ordnungsaufgabe が統一的基礎として存在し、損害の分配ー共同体的損害分配という方法も、損害の賠償ー個人的損害転嫁という方法も、その整序課題の下に統一的に把握されるべきとする(2)。そして Esser は、誰にも義務違反ー主観的不法を帰責され得ない損害の処理、つまり、「事故の帰責」に関して、従来の不法行為責任ー過失責任原理がこれに関与せず、運命に委ね、あるいは被害者に帰することの不都合を指摘する。すなわち、そのような宿命論からは、無過失の衝突の際により頑丈な者が「正しい」ことになるが、そのような正しさの観念は我々の感情に合致しない。また、なぜ事故原因から少なくとも行為者よりも遠くに存在する被害者に損害が課されるのか疑問である(3)。その上で Esser は事故損害の克服の視点として、互換的正義に代わる配分的正義の観念に基づいた事前の損害配分という構想を主張する。すなわち、「事故損害の分配の際に、その問題提起が生じた損害の後に始めて開始されるのではなく、初めから、誰が危険を万一の事故に関して負担するかが問題にされるべき」であり、危険の妥当な分配が課題となる(4)。不運損害の分配は、「互換的 kommutative」、すなわち、応報的又は相互的正義の課題ではなく、「配分的 distributive」、すなわち、分配的及び割り当て的正義の課題として位置付けられる(5)。そのような非不法行為的損害の分配可能性の理解と認識は、一方で贖罪又は不法応報、他方で損害分配を担う実定法上の損害賠償の二重機能という理解によって妨げられるが、しかしながら、財貨秩序からみた損害賠償の問題はそれ自体として総じていかなる「非難 Inputation」をも含むものではない。前述の通り基本的には社会的不運の整序が問題なのであって、責任確定及び帰責可能性は損害分配問題の本質ではなく、むしろ付加的産物であるとされ(6)る(7)。
 第二の危険責任原理を承認する社会的経済的条件に関して、Esser は特に主体的担い手としての民族 Volk、そして客観的要因としての社会的経済的政策判断を指摘する。Esser は社会的不運問題の配分的正義による解決という方法の選択が、配分的理念を総じて現実化する能力及び必要性に左右されるとした上で、まずその決定の主体的側面について言及する。つまり、その決定は科学技術の進展が人的不法行為とは異なる処理を要求することに基づいた、損害原因の妥当な認識の習得、及び様々な社会的危険に対応した処理を行う洗練された法意識の獲得に左右される(8)。そして Esser は特にまた、損害の社会的計画的整序に関する民族の能力を強調する。Esser はこの民族の能力---それは Esser によれば「天分」であり、民族的特徴の発展のみならず基本的資質にも左右される---を社会的不運損害の克服の為の重要な要素として位置付ける。すなわち、社会的不運問題に関して、それを「宿命」として諦観することから転じて、合理的な「計画化」の成否に関わる問題として把握することは民族の能力にかかっている。「『事故は世界を支配する』及び『人は自らの宿命の打開者である』という二律背反に代わるのは、『(宿命に対してしばしば無力な)個々人ではなく、民族が自らの宿命の打開者である---民族はまさに計画的に行動しなければならない』という見解である(9)」。次に配分的正義による解決方法選択の客観的要因に関して、Esser はそれを社会的経済的状況に鑑みた政策判断に見いだす。「社会的損害分配の計画的貫徹はその最終的背景を決して純粋な人間性の問題や社会的同情のようなものに有するのではなく、その貫徹は全ての労働-(及び通常は購買-)力維持の国家的経済的重要性の認識、そして労働意欲の落胆的障害としての及び全ての効率性の敵としての事故損害の排除の必要性の認識に基づく(10)」。社会的不運損害の分配・整序を選択する実質的な妥当性基準が存在し、それはその都度の経済-社会整序の為の損害整序に対応している。すなわち、経済秩序の拘束的経済から自由経済、そして再び計画経済への変化、及び、社会制度の家族制度から企業制度、ついには社会主義的及び資本主義後の社会制度への変化が、また事故法又は事故損害法に反映され、社会的不運損害の社会的分配を正当化する(11)。Esser はそのような認識に基づいて、現代の社会状況の下で危険責任原理が必要とされる根拠を説明する。すなわち、その根拠は、全ての者は技術的進歩によって危険に満ちた社会生活への参加を強制されており、拘束的労働過程におけるにせよ、複雑な都市生活におけるにせよ、自ら支配し得ない危険にさらされており、その下での、事変には所有者が責任を負う casum sentit dominus という原理の貫徹は広範に反社会的と考えられるということである(12)。
 第三の危険責任原理固有の帰責根拠に関して、Esser は法意識の側面から危険責任原理の根拠づけを行う。というのは、過失を越えた帰責の際に、それでもなぜ責任を負わねばならないかという人的-及び自己答責的感覚の基本的評価が問題となり、その評価の放棄---例えば裸の原因結果責任のような純粋な外見的帰責類型による放棄---は耐え難いからとされる(13)。Esser は、危険責任原理におけるこの人的意識及び答責意識の根拠に関して、因果関係、意思といった諸要素を斥けつつ、いわゆる「許された危険」の発想の内にその手掛かりを見いだす。すなわち、自動車の運転のようなある種の危険な活動・事業等は仮にその開始時点において損害の発生が予測されたとしても、その事故損害について主観的不法において帰責可能とは見なされない、というのはその活動は一般的社会的価値を有し必要不可欠と認められるからである。そして、この危殆化の承認の事実が個々の事業者の責任非難からの免責の根拠であり、同時に新たな帰責要求の契機である。「危険責任の帰責根拠は、・・・非難可能性においてではなく、意思欠缺の存在においてではなく、享受される特別の権利に関してその際生じた不運の引受けによって補償がなされなければならないという我々の法意識の基本的理解において存在する(14)」。Esser は帰責を根拠づけるものとして、自由な意思のみならず「全体の社会的連帯」及び「特権的国民同胞 Volkgenossen の特別の責任」もまた存在することを述べた上で、このような特に有力な地位及び危険制御に基づく社会的拘束を従来の「答責」概念に含むことが、その答責概念が不法行為責任に際して有する倫理的内容を摩滅することにつながるのを危惧し、そのような危険の典型的通常的事故損害について保証する義務を「保証義務 Einstandspflicht」と呼ぶ(15)。この保証義務の本質は、他人の力に関する危険引き受けの社会的認容である。事業主は、事業の引き受けをもって保証の能力ありと自らを信頼していることを人々に表示していることになる。そして、そのような信頼の前提を欠いているその他の国民同胞は、例えば運転免許を与えられないことによって道路交通から排除されるといったように、当該社会的活動から排除されることになるとする(16)。
 以上のような危険責任原理の理論的基礎の考察に基づいて、Esser は危険責任の実定法上の具体的内容の確定を行う。それは特に不法行為責任との比較において以下の六点について検討される。すなわち、危険責任原理における((1))「衡平条項」の積極的意義、((2))賠償範囲制限の必要性、((3))いわゆる好意同乗者に対する保護の排除、((4))責任無能力者への答責、((5))「不可抗力」免責要件の意義、((6))責任規定の個別化及び原理上の統一の必要性である。注目されるべきは、それら六点の具体的内容が危険責任原理の理論的基礎との密接な関連性をもって確定されていることである(17)。
 以上の Esser の危険責任論に関して、特徴として注目されるべきは、以下の諸点である。すなわち第一に、それが危険責任論の理論的基礎を包括的に明らかにする点が挙げられる。危険責任原理が事故損害・不運損害の配分的正義に基づく社会的分配という基本的性格をもって、主体的条件としての民族の能力、客観的条件としての社会経済的政策判断---危険を強制された現代の社会状況下での casum sentit dominus の反社会性---という社会的経済的条件を背景としつつ、保証義務という危険責任原理固有の帰責根拠に基づいて成立する責任原理であるとの説明は、危険責任原理の理論的基礎を、基本思想、社会的経済的背景、法意識の三つの次元から包括的に把握するものであり、以後の危険責任論に確固とした考察の基盤を与えた。
 第二に、その危険責任原理の理論的基礎と具体的内容が、密接な理論的関連をもって展開される点である。例えば、脚注(17)において示したように、危険責任における賠償範囲の制限に関して、保険可能性の確保等の現実的要請と並んで、不運損害の配分的正義による社会的分配という危険責任原理の理論的基礎に基づいた正当化が行われる。そして、そのような具体的内容は、それがたとえ現実的に不都合を生ずるものであっても、少なくとも理論的整合性の点については、首尾一貫しているように思われる。このように、Esser の危険責任論は、理論的根拠よりもむしろ現状動向を重視する後の学説の傾向との比較において、より理論志向の強い構想であるように思われる。
 第三に、それが特殊時代的外観をまといつつ団体主義的性質を濃厚に反映している点である。Esser の危険責任論は、その理論的基礎中特に危険責任原理の社会的経済的条件において、遍在化する強制的危険の社会的計画的秩序化による克服の必要性、及び、その主体的担い手としての民族を挙げて、その責任原理が団体主義的処理を志向することを示している。いわゆる「私法の社会化」という現象は一般的な法発展の方向性を表すものとして普遍的意味を有すると同時に、それが唱えられた具体的時代における思想・思潮との関わりにおいて固有の意味をもまた帯びている。Esser の危険責任論の団体主義的性質についても、損害の個人的負担から社会的填補に至る民事責任原理・損害填補の諸制度の中での位置付けという一般的性格の側面からと同時に、それが誕生したナチス期における時代思想・思潮との関わりという特殊時代的性格の側面からも検討が必要とされるように思われる。
 第四に、以上の諸点に加えて留意すべきは、Esser の危険責任論が対象としていた危険の具体的内容である。すなわち、当時対象とされたものは、鉄道・自動車・航空機等の輸送機関やあるいは配管・配電施設に関する危険であるが、それらは市民の日常生活の比較的外側に位置し、危険の発現形態も責任主体---危険源の保有者---も定型的に把握することの比較的容易な危険であった。そのことは、不法行為責任−過失責任原理と厳格に区別された危険責任原理を確立し、それに服するべき危険の対象を立法者による厳格な審査を経て確定するという、Esser の危険責任論を成立させるための必要条件であったように思われる。
 いずれにせよ、Esser の危険責任論は、ドイツにおける危険責任原理に関する理解に確固とした理論的基礎を供するものであり、以後の学説においても必ず考察の出発点に据えられることとなった。

 第三項 現在の学説状況
 以上のような Esser の危険責任論は、その理論的基礎に関しては、学説において広範な承認を得て危険責任原理考察の出発点に据えられるようになった。しかしながら、具体的内容に関しては、Esser の所論は従来からなお幾つかの点で有力な批判を受けつつ議論が続けられてきた。そのような動向は、一九六九年の「損害賠償法の改正及び補充のための参事官草案(18)」や一九八一年の「西ドイツ債務法改正鑑定意見書(19)」といった損害賠償法改革の試みにおける危険責任規定に関する提言を契機として展開された議論に明らかである。そして現在においても、一応基本的にはその到達点が維持されているといえる。しかしながら、具体的内容の一部に関しては Esser の見解と学説の間の隔たりが一層拡大し、そして最近の学説のなかには危険責任原理の理論的基礎や、更には責任体系の理解にまで言及しつつ、Esser の危険責任論とは異なった見解を述べるものも現れている。本項では、そのような現在の学説における危険責任原理の一般的理解の概観を行う。具体的には、検討項目を危険責任原理の理論的基礎と具体的内容の二つに大別し、後者については特に展開が顕著である行為責任としての危険責任類型の是非に関する論点に注目して整理・分析を加えることとする。なお、それら検討は、基本的には現在の主要な教科書・体系書における叙述をもとに行うこととする。というのは、その方法が、教科書・体系書の叙述に現れる程度にまで一般化しているという意味で危険責任原理の標準的・一般的理解状況の把握にとって一応有効であるように思われるからである。
一 危険責任原理の理論的基礎について
 危険責任原理の理論的基礎に関しては、現在も学説の大多数が Esser の理解を共通の出発点に据えつつ一致をみているように思われるが、他方でやや異なった見解を示すものも現れている。
 通説的理解にたつ説明はおよそ以下の通りである。Larenz は危険責任原理の根拠に関して、その責任は、責任者が不法を行ったことに根拠づけられるのではなく、その者は「許された危険」と結合した他人に対する侵害の特別な危険を法規的に負担しなければならないということに根拠付けられると説明する。その責任者が責任を負うのは、危険を創出することによって、一般的に全く又は不十分にしか身を守ることが出来ない被害者に比べて、より密接に被害に関係するからであり、また、自らの利益において一般的危殆化を法秩序によって認められる者は、その損害の責任を負うということが分配的正義 austeilende Gerechtigkeit の意味で妥当であると考えられるからである。責任の根拠は、例えば V. sich. pfl. のような義務の違反ではなく、妥当と判断された危険引き受けに基づく損害の帰責に存在する(20)。
 Deutsch は危険責任原理を、他人に関する過度の危険をもたらし、維持し、又は利用する者は、その者がその他人に対して、損害現実化によって生じた損害を引き受ける場合にのみ、そのことを許される点、すなわち、「危険転嫁による損害引き受け」に見いだす。危険責任は、必要な注意が満たされた、危険との相当な関係においても、なお発生するような事故の際に、したがって過失責任がその補償機能を十分に果たさない場合に、特別規定をもって損害引き受けを認めるものと解される(21)。
 Ko¨tz は危険責任原理の帰責根拠として、自らの制御と管理の下で特定の施設が操業され、特定の物が利用され、又は特定の活動が行われることによって、他人の危殆化という特別の危険がもたらされたという状況を挙げる。危険責任においては、当該施設、物、活動の典型的危険の現実化による事故の際に、危険を発生させ制御する者が結果について賠償義務を負い、その際その者が事故を違法ー有責な行為によって惹起したかどうかは無関係であるとする。Ko¨tz はまた、危険責任原理が導入される法政策的根拠として、当該問題の施設等が非常に大きな、そして全く新たな、未だ十分に制御されない危険源として考えられるという立法者の危険に対する認識や、被害者の立証困難の事情を挙げる(22)。また、経済分析の手法を用いつつ、危険責任原理が最適の事故防止機能を有することの論証を試みてい(23)る(24)。
 このように、多くの学説は危険責任原理の理論的基礎に関して、Esser の示した理解にほぼ基づいた説明を行っている。その際特に Esser の所論中、危険責任原理の基本的性格に関して、それが不運損害の配分的正義に基づく社会的分配の問題として把握される点、及び、危険責任原理固有の帰責根拠に関して、それが保証義務という独自の帰責根拠をもって特徴付けられる点が積極的に採用されている。また、法の経済分析の手法を用いて活動水準の最適化の観点から危険責任原理の積極的意義の論証を試みる Ko¨tz の見解が新たな視角を付加するものとして注目される。
 しかしながら近時、通説的理解とやや異なる説明を行うものが現れ始めている。Canaris は、危険責任原理が「危険源保有者、事業者による危険誘引及び危険支配の原則」、「利益及びそれに対応した危険の同属の思想」、「危険の不可避性」の観点等を危険責任の妥当性の諸基準としながら、理論的中心としての「特別の危険」---高い損害発生の蓋然性、多額の損害額、未知の危険等を示す---によって統一的に根拠づけられるとする。また、危険責任原理が不運損害の分配に関する配分的正義に基づく責任原理であることを、Esser の業績に依拠しつつ承認する(25)。しかしながら他方で、「[互換的正義と配分的正義という]正義形態の従来の二分化が更なる変種のために拡張され、それによって新たな整序可能性が創出される」見通しをも示唆している(26)。Canaris は危険責任と過失責任の関係については、両者の事実上の段階的移行を認め両責任原理の限界づけの困難を指摘しながらも、しかしながら一体的把握には反対し、その区別は核心領域においてなお実際上も法倫理上も根本的であるとする(27)。危険責任原理の理論的基礎に関するこのような Canaris の所論は、基本的に Esser の理解に一致することを言明する。しかしながら、不法行為責任ー過失責任原理と危険責任原理の区別に関して、両者の理論的区別を強調しながらも、実際上の段階的移行を認めている点、及び、責任体系に関する過失責任原理と危険責任原理の二分法自体が「更なる変種」---すなわち、両者のいずれにも分類され得ない新たな形態の責任類型---によって多様化していく可能性を示唆する点に、Esser の理解からの新たな展開・変容を認めることができる。
 Bru¨ggemeier は過失責任原理及び原因責任の双方との比較において危険責任原理の特徴を明らかにする。まず、過失責任原理との比較においては、過失責任原理が基本的に可能と考えられた危険の制御に関わるのに対し、危険責任原理は基本的に完全には制御されない事業危険に関する保証義務を根拠づけるものであり、危険の創設に関わる責任であるとする。しかしながら、これらの区別基準の高度の不確定性の為に、この区別の援用は非常に擬制的であって、過失責任として示された保証責任のグレーゾーンは除外されないとする。次に、純粋な原因責任との比較においては、危険責任の根拠づけが因果関係だけでは不足であって、それに加えて損害負担の根拠及び規模に関する客観的社会政策的評価が必要とされる。この「社会的評価」は、責任負担者による危険源の「支配及び利用」、及び、被害者の「危険甘受への社会的強制」という責任根拠づけに関する二つの視点に集約されるとする(28)。このような Bru¨ggemeier の所論もまた、危険責任原理の理論的基礎に関して、基本的に Esser の理解を踏襲している。しかしながら、過失責任原理ーBru¨ggemeier のいう「客観的不法責任」と危険責任原理の差異の相対化をより積極的に認める点で、Esser の理解からの乖離が拡大している。そして、責任体系論に関しても Esser の「複線性」論に代えて「三線性」論を唱えることは、前述の通りである。
 Schlechtriem は危険責任原理に関して、それが危険に関する、又は損害としての危険現実化に関する無過失責任 Verschuldensunabha¨ngige Haftung であって、危殆化の許容に関する対価であるとし、またその責任厳格化による損害予防機能を積極的に評価するが、しかしながら他方で、危険責任の統一的概念はもはや出発点とはされ得ず、むしろ客観的責任の様々な形態が承認され得ると主張する。Schlechtriem は例えば危険責任の免責規定とされる道路交通法七条二項における「回避不能な事例」や、製造物の欠陥の定義に関する製造物責任法三条一項における「正当に期待され得る安全性」といった諸要件が、一般的不法行為責任ー過失責任における V. pfl. に関する責任の尺度と相対化することを指摘しつつ、学説における過失責任原理と危険責任原理の厳格な対置(「複線性」)が疑わしいものであり、両者の基本的区別が相対化されるべきことを主張する(29)。以上の Schlechtriem の所論は、危険責任原理の理論的基礎に関する一般的理解において、Esser の理論からの最も顕著な差異を生じている。Schlechtriem も一応は一般論として Esser の理解を振り返るが、しかしながら、むしろ重点はその理解に対する消極的評価に置かれている。すなわち、不法行為責任ー過失責任原理と危険責任原理の差異の相対化を、危険責任規定における不可抗力概念や瑕疵概念と過失責任原理における V. pfl. 関する責任の間に認めて、結局は危険責任原理の統一的概念の否定までをも主張するのである。
二 危険責任原理の具体的内容---行為責任としての危険責任類型の是非---について
 危険責任原理の具体的内容に関しては、従来から Esser の理解と異なる見解が各論点について有力に主張され、議論が続けられてきた。主要には、((1))危険責任の適用領域に関して、危険な施設及び物以外に人間の行為---例えばパラシュート競技、スキー、スケート、登山等極度に危険な運動---も含まれるか否か、すなわち、行為責任としての危険責任原理が認められるか否か、((2))損害賠償の範囲に関して、従来設けられてきた責任最高限度額の設定、慰謝料請求権の排除といった制限が存続され得べきか否か、((3))危険責任の一般条項を設け、裁判所の類推適用による危険責任の対象範囲の拡大をはかることが認められ得べきか否か、といった諸点が争われてきた(30)。それぞれの論点について概観すると以下のようである。
 第一に行為責任としての危険責任類型が認められ得るか否かという点に関しては、従来の通説的見解はこれを否定していた。理由としては、人の行為については過失責任で対応するのが普通であり、十分な注意をすれば人の活動については損害発生を回避できることが挙げられる。それに対して、人の危険な活動も「特別の危険」に含め、行為責任としての危険責任を認める少数説が存在した。
 第二に賠償範囲の限定の是非に関しては、立法者及び伝統的通説の立場からは、この限定は支持される。理由としては、危険責任原理がそもそも社会的に有用かつ制御困難な危険活動から生じた損害ー不運損害の配分的正義に基づく保証を旨とする責任原理であって、倫理的非難に基づかない責任であること、及び保険技術的要請が主張される。それに対して、限定に反対する見解も有力に主張されている。理由としては、最高限度額が損害の填補に不足であって、それを越える賠償請求の際には一般的不法行為責任に頼らざるを得なくなり、また慰謝料請求の際も同様であって、不都合であること、限度額改正の必要性が何度も生ずること、限度額を廃止しても保険料は高額化しないこと等が挙げられる。
 第三に一般条項化の是非に関しては、立法者及び伝統的理解はこれを消極的に解している。理由としては、一般条項は法的安定性を害すること、及び危険の確定・分配は原則として立法者の任務であること等が主張されている。それに対して有力説は、これを積極的に解している。理由としては、同一の危険類型には同一の責任を課すべきであること、特別法による煩わしさの解消・立法者の負担軽減につながること、危険も例示あれば確定可能であること、比較法的にみても一般条項によって法的安定性を害することはないこと等が挙げられている。
 それら各論点の内、最近新たな展開を示しているのは、第一の行為責任としての危険責任類型の是非に関する議論である。その論点に関して、以下において従来の論議状況にも触れながら、より詳細に現在の動向を検討する。
 行為責任としての危険責任類型の是非を巡る論議は、従来、個別危険責任特別法における責任規定の説明・分析を通じて行われてきた。その際特に問題となったのは水管理法二二条一項の責任規定である。水管理法は二二条一項において以下のように定める。すなわち、
 二二条一項
水域に物質を投入若しくは導入し、又は水域に水の物理的、科学的若しくは生物学的性質が変化する程度に影響を与えた者は、それによって生じた損害を賠償する義務を負う。(以下略(31))
それは、物質の投入又は導入行為によって生じた責任、すなわち行為責任を定めるものとされる。この責任規定の責任原理を巡る論議状況は、この規定が違法性要件を必要とするか否かという論点を通じて間接的にうかがわれる(32)。違法性要件を不要とする見解は、その根拠として二二条一項が違法性要件の不要な危険責任原理であることを主張する(33)。二二条一項を危険責任と解するならば、本規定は行為責任としての危険責任類型の責任規定であることになる。従来そのような立場の論者は比較的少なく、二二条一項に違法性要件が必要と解する学説が有力であった(34)。しかしながら、議論において特に注目すべきは、それが責任体系上どこにも属し得ない異質な責任規定であると解する学説が有力であったことである。立法当時危険責任説を有力に展開していた Larenz も後に改説し、「水管理法二二条一項の行為責任は、危険責任とは示され得ず、その責任は我々の責任法全体系における異物である」とする(35)。したがって、従来水管理法二二条一項が危険責任ー行為責任類型の責任規定であるとする学説は少数であり、そもそも本責任規定は民事責任体系中に類型化し難いと解される傾向が有力であったように思われる。
 しかしながらそれに対して、現在の学説においては、水管理法二二条一項を行為責任としての危険責任類型に分類するものが有力に存在する(36)。そして、最近では更に一歩を進めて、行為責任としての危険責任類型を危険責任の一般的理解において積極的に承認し、説明しようとする動向が看取される。例えば Bru¨ggemeier は危険責任の二つの基本類型として、原因者責任 Verursacherhaftung、及び、行為者責任 Handelndehaftung を認める。前者は危険な施設の保有者や企業活動の事業者等に関する責任であって、危険責任のいわば伝統的類型である。後者は Bru¨ggemeier によれば客観的不法責任であって、不法行為責任に非常に接近したものであるとされる。行為者責任の代表として挙げられるのは、水管理法二二条一項、及び、薬事法八四条である。そこにおいて問題となっているのは、いわば過失を度外視した一元的・客観的構成要件的 V. pfl. 規範であるとされ、責任は義務違反的に危険な物質を水域に導入した者、そして、損害の原因となる薬物を自らの名で流通に供した者であるとされる(37)。このような Bru¨ggemeier の所論は、危険責任の基本類型に、従来の施設責任(Bru¨ggemeier は責任主体の側面に着目して原因者責任と述べる)と並んで行為責任(Bru¨ggemeier いわく行為者責任)をも積極的に位置付けるものである。特に注目されるのは、行為(者)責任としての危険責任類型が客観的不法責任と同義であるとされる点である。Bru¨ggemeier は前述の責任体系論において故意責任・過失責任(すなわち、客観的不法責任)・危険責任の「三線性」を主張していたが、行為責任としての危険責任類型が客観的不法責任とされることで、不法行為責任ー過失責任原理と危険責任原理の差異が更に相対化する契機が生じているように思われる。
 Canaris も、従来の危険責任原理が動物、飛行機、技術施設等の具体的危険源と結合した保有者責任、施設責任、状態責任として特徴づけられていたところ、二〇世紀後半において、多くの新たな危険責任特別法の登場を契機として、また危険な行為も危険責任の基礎として認められるようになったとする。そのような行為責任としての危険責任類型に属する責任規定として、水管理法二二条一項、薬事法八四条、連邦鉱業法一一四条一項、製造物責任法一条、遺伝子工学法三二条が挙げられる。そして、たとえ非典型的であっても、この種の行為責任が危険責任の体系に位置付けられるべきことを主張する(38)。このような Canaris の所論においても、行為責任としての危険責任類型は危険責任原理内に確固とした地位を与えられており、また積極的にそうすべきことが主張されている。所論において注目すべきは、行為責任としての危険責任類型に属するとされる危険責任規定が増加していることである。従来問題になっていた水管理法に加えて、薬事法、連邦鉱業法、製造物責任法、遺伝子工学法が行為責任類型に含められている。これらは七〇年台中期以降になって現れてきたものであり、行為責任としての危険責任類型の積極的認容にもそれら責任規定の増加が大きな役割を果たしていることがうかがわれる。

 第四項 本節のまとめ
 以上、現在の学説における危険責任原理の一般的理解を概観した。それがあくまで一般的理解の概観に止まり、何らかの推論を行うにはなお多くの予断に頼らねばならないことを十分承知しながらも、本項ではそれに関する特徴を整理し、Esser の危険責任論とも比較しながら現在の理論動向について若干の考察を加え、危険責任原理の展開・変容の方向性及びその理論的根拠として考えられることの素描を試みることとする。
 特徴は以下の三点に整理できる。すなわち、まず第一に、Esser の危険責任論に対する学説の対応に関して、危険責任の理論的基礎についてはほぼ一致をみながらも、具体的内容についてはなお議論が続けられているという従来からの状況は、現在でもなお基本的に維持されていること、しかしながら第二に、現在の学説における危険責任原理の具体的内容の理解に関して、Esser の理解との差異が一層拡大しつつあること、特に行為責任としての危険責任類型の存在を認め、あるいは更に進んで危険責任原理の一類型として積極的に位置付ける傾向があらわれていること、そして第三に、現在の学説の一部において危険責任の理論的基礎に関しても、Esser に始まる従来の通説的理解を展開・変容させる新たな状況が現れつつあることである。
 特徴点のそれぞれについて若干の考察を加えるならば、まず第一点目に関していうと、それは一見従来の理論状況が現在も維持されていることの確認に過ぎないようであるが、その従来の状況自体についてなお検討の余地も残されているように思われる。すなわち、従来の論議状況において、Esser の危険責任論と学説中特に危険責任の具体的内容について Esser と異なる理解を示す有力説を比較したとき、具体的内容に関して、前者が危険責任原理の理論的基礎との論理的整合性を重視しつつ構成されているのに対して、後者はむしろ現状動向・現実的妥当性をより考慮して内容の確定を行っているように思われる。そのことは、例えば先に見たような損害賠償範囲の制限に関して、Esser の理解及び伝統的通説が保険可能性の保障といった実際的理由と共に、危険責任原理の理論的基礎からその制限を正当化する---配分的正義に基づく不運損害の分配であるがゆえに損害負担者にとって酷であってはならないとする---のに対して、反対有力説が専ら実際上の不要性又は不都合からそのような制限に反対するといった論議状況において明らかである。そして、Esser の理論構成は、たとえ現実に不都合を生ずるものであっても、少なくとも理論的基礎との関係においては論理的により首尾一貫しているように思われる。この点において、既に従来から学説において、一方で主張の実質的根拠として賠償責任法の現状動向への対応を重視しつつ、他方で危険責任の理論的基礎における Esser の理解との外見的一致にもかかわらず、自らの主張における理論的関心を希薄化させている状況が有力に存在してきたことが指摘出来るように思われる。そのことは、従来あまり問題とされなかった危険責任の理論的基礎に関する Esser の理解への一致という状況がはたしていかなる意味を有するものであるのかについての再検討を促す。
 第二点目に関しては、それは危険責任の具体的内容に関する論議状況の一部の変化に過ぎず、しかも比較的目立たない論点であるが、しかしながら、危険責任論の展開・変容状況の把握にとって重要な手掛かりを供するものであるように思われる。Esser の理論及び通説的理解が行為責任としての危険責任類型を排除した理由は、過失責任原理との関係ー役割分担において語られ、したがって責任体系論にも関わるものである。すなわち、Esser によれば危険責任は完全に義務に適った行為によっても制御されない、しかしながら社会的有用性に基づいて創出・維持される危険源---多くは技術的施設---に対する保証であり、具体的な損害結果が潜在的危険及び事業形態に対応した注意によっては回避出来ない場合に初めて注意要求に基づく不法行為的答責性基礎を補充するものである。活動、生産、導入といった行為の単なる「危険性」にも危険責任が採用された場合、支配可能な危険に対応した制御のための注意措置の要求、そしてその懈怠の際の過失責任が十分に貫徹しなくなる恐れが生ずるとされる。「・・・外科医や薬剤師や薬局の危険のような、全く特別の危険を伴う『非常に危険な職業』は危険責任の下ではなく、相応した注意義務によって制御された過失責任の下に存在する(39)」。このように、Esser による行為責任としての危険責任類型の否定の背景には、両責任原理の理論的画定による役割分担の構想、特に過失責任原理によって担われるべき領域のあいまい化の阻止の観点が存在する。そのことは、両責任原理の崚別を通じたそれぞれの機能・目的の貫徹という、「複線性」論の問題意識との密接な関連をうかがわせる。
 それに対して、現在の学説において行為責任としての危険責任類型がより広範に承認されつつあることについては、むしろ理論的関心よりも現状動向への対応が重要な契機をなしているように思われる。すなわち、その背景として近時の新たに制定された民事責任特別法ー「危険責任」特別法における責任規定の性質を巡る議論が重要な役割を果たしている。薬事法、製造物責任法、遺伝子工学法等の責任規定に関して、これを行為責任としての危険責任類型に加える見解が有力に存在する。それとの関連において、従来は例外的存在であった水管理法二二条一項についても、これをあらためて行為責任としての危険責任類型として特徴付け、同時に行為責任類型一般も危険責任原理の中に確固とした地位を与える傾向が強まっているように思われる。そのことは本論点に関する Canaris の見解に明らかである。そして、行為責任としての危険責任類型の積極的承認は、民事責任原理から体系の理解にも大きな影響を及ぼすように思われる。というのは、行為責任としての危険責任類型は、Bru¨ggemeier がそれを「過失責任ー客観的不法責任」と同一視することからもうかがわれるように、過失責任原理と危険責任原理の交錯領域に存在するからである。したがってそのような責任類型の積極的承認は両責任原理の区別を流動化する傾向の一要素あるいは一徴表として把握することができる。
 第三点目に関しては、それは現在の学説の一部が遂には危険責任原理の理論的基礎に関しても、Esser の理論から次第に異なった理解に至りつつあることとして把握できる。その動向は、第二章において概観した民事責任体系論における「複線性」論再検討の動向の、危険責任原理の場面における徴表とみることができる。そのような展開・変容はもちろん責任体系論の検討の箇所で述べたように、隣接する過失責任原理の展開・変容と併せて全体的に把握されなければならないが、特に危険責任原理に内在する事情に注目しつつ整理するならば、そこでもやはり理論的関心の希薄化及び現状動向の重視の傾向が看取されるように思われる。すなわち、たしかにそれら学説においても Esser が危険責任原理の理論的基礎として挙げた、「許された危険」より生じた損害の配分的正義に基づく引受けという性格規定は考察の出発点に据えられる。しかしながら、それら学説が両責任原理の段階的移行を認め、グレーゾーンの存在をも認容していくにつれて、その理論的基礎への応接は次第に弱まり、Schlechtriem の見解においては、危険責任の統一的概念の放棄が示唆されるに至っている。他方で、それら学説動向の原動力は、やはり現状動向への対応である。すなわち、従来の危険責任原理には必ずしも完全に適合しない民事責任特別法の増大への理論的体系的対応が、Esser の理論枠組みを越えた危険責任原理の多様な理解、あるいは、責任原理の統一的把握に対する消極的態度をもたらす一因ともなっているように思われる。
 以上三点の考察から総じていえることは、現在の学説状況において、一方では理論的根拠に関する考慮を希薄化させ、他方では賠償責任法の現状動向への対応を行いながら、危険責任原理の理解を、特に不法行為責任ー過失責任原理との関係において流動化・相対化させる方向へと新たに展開・変容させる傾向が明らかに存在することである。そして更に考察を進めるならば、危険責任原理の理論的根拠に関する考慮の表面上の希薄化に伏在する、展開・変容の理論的本質の指摘もまた可能なように思われる。すなわち、本来危険責任原理が担っていた、民事責任の機能・目的に関する損害の社会的分配機能の、危険責任原理の枠組みを越えた全責任法的な有力化である。つまり、最近の傾向は、危険責任原理の理論的基礎に関する損害の社会的分配という側面を積極的に取り上げて、具体的内容において存在する様々な条件・制限を排除しつつ賠償責任法一般に普遍化する方向にあるように思われる。例えば、行為責任としての危険責任類型を通じた危険責任原理と不法行為責任ー過失責任原理の相対化の傾向も、損害の社会的分配機能を担う領域が従来の危険責任原理の枠組みを越えて過失責任原理にまで及んでいることを示している。また、Schlechtriem による危険責任原理の統一的概念の放棄の主張も、損害の社会的分配機能が危険責任原理の枠組みを越えて損害賠償責任一般に普遍化されたところで、その枠組み自体を不要とするものと考えられる。そもそも従来からの Esser の危険責任論に対する有力学説のいわば「総論(理論的基礎)賛成・各論(具体的内容)反対」といった態度の意味するところは、危険責任の理論的基礎に存在する損害の社会的分配機能の箇所について積極的に継受しつつ、その機能の適用領域を危険責任の枠組みを越えて普遍化することにあったのではないか。とするならば、近時の傾向はそれを更に推し進めるものといえよう。
 ところで、上に挙げた特徴点の内特に最近の新たな動向である第二、第三の点に関しては、そこで示された新たな展開・変容状況はなお端緒的なものに止まっていることが改めて確認されなければならない。今日でも危険責任原理の一般的理解においては、なお基本的に Esser の理論が堅持されている。しかしながら、問題は、一般的理解の次元では端緒的現象に止まっているそれら動向が今後更に有力化していく状況が看取されるのではないかということである。先に新たな動向に関して、賠償責任法の現実動向、すなわち、近時の民事責任特別法ー「危険責任」特別法の増加が重要な契機になっていることを指摘した。前述の通り危険責任原理の一般的理解に基づく動向分析の際には、その動因や今後の展開方向の把握は、そこでなされる危険責任に関する考察も一般的説明に止まるがゆえに必ずしも容易ではない。しかしながら、より具体的に近時の民事責任特別法ー「危険責任」特別法の増加に伴う議論に目を転ずるならば、そこにおいて従来の責任原理・体系に十分整合しない類型の責任規定が増加しており、それらの責任の性質を巡って活発な議論が展開されていること、そのなかで従来の危険責任原理に関して、あるいは責任体系の理解にまで関わって、それを新たに展開・変容させる動向が有力化していることがうかがわれる。したがって、次節以降では、近時の民事責任特別法ー「危険責任」特別法に関する議論を検討し、より詳細に危険責任原理から民事責任原理・体系一般にまでわたる理解の展開・変容状況を検討することとする。

(1) Esser, J., Grundlagen und Entwicklung der Gefa¨hrdungshaftung, 1941, 2. Aufl., 1969. なお、Esser の危険責任論が既に浦川教授によって詳細に紹介・分析され(浦川道太郎「ドイツにおける危険責任の発展(一)(二)(三・完)」民商法雑誌七〇巻(一九七四年)四五八頁、六〇一頁、七七三頁)、本稿における検討も多くの点でその成果に依拠するものであることは、前述の通りである。
(2) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 69f.
(3) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 71.
(4) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 72f.
(5) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 73.
(6) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 73f.
(7) 危険責任原理の基本的性格を明らかにした上で、Esser は危険責任原理が補うべき課題領域の確定を行う。まず、不法行為責任に該当しない不運損害は、許された侵害に基づく不運損害と許されない侵害に基づくそれに大別される。前者には収容・徴用・差押え・防疫のための身体拘束等の公的侵害、及び、緊急避難・相隣関係上の侵害等の私的侵害が属する。後者は行為者の無能力・無過失・支払無能力・不特定性等によって不法行為責任による救済がかなわず不運に止まるものである。それは更に、((1))行為者の無過失の行為から生じた損害、((2))物、設備、施設の支配領域又は利益領域において第三者によって生じた損害、((3))自然現象による損害、((4))前三者における損害回避措置によって生じた損害に区別される。危険責任の課題領域とされるのは((2))である(((1))は不法行為責任が問えない状態、((3))は私法的整序領域ではなく保険や公的扶助の課題領域((4))は民法上の緊急避難の課題領域)(Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 75ff.)。
(8) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 80.
(9) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 81.
(10) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 83.
(11) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 89ff.
(12) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 92f.
(13) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 97.
(14) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 97f.
(15) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 99.
(16) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 100.
(17) Esser の危険責任論における危険責任原理の理論的基礎と具体的内容の密接な関連性を示すために、六点の具体的内容の内の幾つかについてより詳細に紹介するならば、以下の通りである。すなわち、((2))賠償範囲の制限について。危険責任原理による損害賠償の範囲に関して、その責任原理の損害分配機能に対応した諸々の制限が存在する。すなわち、責任最高限度額の設定、非財産的損害の排除、及び間接的損害の排除である。最高限度額は個別法規定によってその都度決定されるゆえに非常に不統一的・硬直的であるが、しかしながら保険における危険計算の考慮及び賠償責任者の経済的破滅の防止のために危険責任原理において合目的的であるとされる。非財産的損害は危険責任においては、不法行為責任において正当化されるようには、受け入れられないとされる。というのは、危険責任原理における純粋な配分的正義の根拠は、もはや何も分配され得ず、むしろ取り消され得ない損害の緩和の為に新たなものが付与されなければならない場合には適合的ではないからとされる。同様に、損害分配法における直接的侵害(「(事故による人的)被害者」・「事業に際して」の被害)への補償の制限は、危険責任が担っている不運関与者---被害者及び答責者---間の事故損害の分配に関する問題という整序課題の本来的構成要素をなすとされる(Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 107ff.)。((3))いわゆる好意同乗者の処理について。危険責任原理は、社会的に危険曝露に、相応の予測可能性なしに強制された者の保護を整序課題とすることから、交通手段の乗客の異なった処理がなされる。すなわち、例えば鉄道交通のような、大量輸送手段、独占事業者、社会的に不可欠の設備が問題となる限りで、当然にまた乗客も事故損害に対して保護される。それに対して、たとえ業務上職務上の理由からでも、自由意志で他人の自動車に身を委ね、またはタクシーのように公共目的ではなく、私的目的に使用される自動車を借りた者は、不可避的にではなく、自らの主導権によってその自動車の危険に身を曝す者であるがゆえに保護されないとされる(Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 109f.)。((5))いわゆる「不可抗力」免責要件の意義について。危険責任原理の答責性の範囲及び限界は、主観的帰責可能性からではなく、損害惹起事象の、引き受けられた事業領域の事業及び危険への所属から生ずるので、そのことに基づいた本質的に明確な保証領域の限定が存在する。不可抗力概念はしたがって最高度・最終的な注意義務といった擬制的概念の仮装から解放され、「外部から自然力又は第三者の行為によって事業領域にもたらされた事業外の事象」として客観的意味において把握される。その概念は、「引き受けられ答責され得る、自らの独自の典型的危険を伴った事業領域の社会的に妥当な境界、事業関連的ではない損害惹起に対する境界である」(Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. 111ff.)。
(18) Referententwurf eines zur A¨nderung und Erga¨nzung schadensersatzrechtlicher Vorschriften. 本草案については大阪市立大学外国法研究会による翻訳が存在する。大阪市立大学外国法研究会「損害賠償法の改正および補充のための法律の参事官草案(一)〜(九・完)」法学雑誌一五巻(一九六八年)一一八頁〜一八巻(一九七一年)一〇九頁。
(19) Gutachten und Vorschla¨ge zur U¨berarbeitung des Schuldrechts. 本鑑定意見書については法政大学現代法研究会による紹介・検討がなされている。法政大学現代法研究会『西ドイツ債務法鑑定意見書の研究』(一九八八年)。
(20) Larenz, K., Lehrbuch des Schuldrechts II/2, 12. Aufl., 1981, S. 698ff.
(21) Deutsch, E., Unerlaubte Handrungen und Schadensersatz, 1987, S. 171.
(22) Ko¨tz, H., Deliktsrecht, 6. Aufl., 1994, S. 134.
(23) Ko¨tz, a. a. O. (Fn. 22), 136ff.
(24) 通説的理解にたつその他の論者の考え方を簡単に紹介しておこう。Weyers は危険責任原理の目的を、危険源を占有しその利益において危険な活動を認められている者は、危険もまた負担しなければならないという原則による不運損害の分配と解し、また責任の根拠をいわゆる「許された危険」より生じた損害の引き受けに見いだす。すなわち、機械化された交通機関、核エネルギー、公共的強制接種、環境負荷的活動は、政策的決定に基づく公益的なものであるがゆえに許容されなければならないが、しかしながら、そこから生じた万一の損害は責任法によって処理され得るとする(Esser, J./Weyers, H. L., Schuldrecht II, 7. Aufl., 1991, S. 637f.)。Fikentscher も、Esser の業績以来初めて危険責任原理に独自の積極的帰責原理が基礎づけられ、危険責任もまた加害者の真の答責性に基づくことの理解が貫徹したことを指摘する。そして、危険責任の正当化の多様な観点として、許された程度で何らかの危険を行った者が危険創出及び危険支配の基本思想に基づいて責任を負うべきとする点、あるいは、危険から利益を得る者への帰責という点、更には、Ko¨tzによる法政策的及び経済的根拠付等を挙げている(Fikentscher, W., Schuldrecht 8. Aufl., 1992, S. 790f.)。
(25) Larenz, K./Canaris, C. W., Lehrbuch des Schuldrechts II/2, 13. Aufl., 1994, S. 604ff. なお、この Larenz 債権法各論教科書改訂一三版における危険責任に関する叙述は、Canaris による全面的な改訂が加えられ、それに伴って、本稿において順次検討するように危険責任原理の理解に関して幾つかの新たな特徴が見いだされる。
(26) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 25), S. 608.
(27) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 25), S. 611f.
(28) Bru¨ggemeier, G., Deliktsrecht, 1986, S. 51f.
(29) Schlechtriem, P., Schuldrecht Besonderer Teil, 3. Aufl., 1993, S. 364f.
(30) それら諸論点は参事官草案、債務法改正鑑定意見書を巡る議論において活発に展開された。そこにおける各論者の主張の詳細については、浦川・前掲(1)七七三頁、青野博之「西ドイツにおける危険責任論の動向と日本法への示唆」前掲(19)五八五頁。
(31) BGBl. I 1957 S. 1110, 1114.
(32) 水管理法二二条一項の責任規定に関する従来の議論状況については、加藤一郎編『外国の公害法』下巻(一九七八年)二七〇頁(石村善治教授執筆箇所)。
(33) その代表的な論者は Larenz であった。Larenz, K. Die Schadenshaftung nach dem Wasserhaushaltsgesetz im zivilrechtlichen Haftungsgru¨nde, VersR 1963, S. 597.
(34) Gieseke/Wiedemann/Czychowsky, Wasserhaushaltsgesetz Kommemar, 5. Aufl., 1989, S. 757f. ; Schro¨der, J., Die wasserrechtliche Gefa¨hrdungshaftung nach § 22 WHG in ihren burgerlichrechtlichen Bezu¨gen, BB 1976, S. 63. いずれの学説も、判例が水管理法二二条一項の適用に関して常に違法性を認めて来たことをその有力な根拠に挙げる。
(35) Larenz, a. a. O. (Fn. 20), S. 733.
(36) Brox, H., Besonderes Schuldrecht, 11. Aufl., 1984, S. 381. ; Ko¨tz, a. a. O. (Fn. 22), S. 140. ; Fikentscher, a. a. O. (Fn. 24), S. 796.
(37) Bru¨ggemeier, a. a. O. (Fn. 28), S. 52f.
(38) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 25), S. 611.
(39) Esser, a. a. O. (Fn. 1), S. VII.

第二節 近時の「危険責任」特別法と責任原理を巡る議論

 第一項 概  観
 Esser による危険責任原理の確立及び学説によるその理論的基礎に関する広範な承認以降も、現代的事故損害に対応した、危険責任原理に基づくとされる民事責任特別法は増え続けた。そして、そのなかに従来の危険責任特別法とは幾つかの点で異なった特徴を指摘されるものが出現、増加している。一方では、従来の危険責任原理の理解では必ずしもとらえきれないような型の責任規定が増加している。すなわち、製造物責任法、遺伝子工学法やそれに先立つ薬事法にみられるような、人によって製造された物に基づく損害に関する責任規定である。他方では、従来の法規が有さなかったような原告被害者側の因果関係立証負担を軽減する仕組みをもつ責任規定が出現している。すなわち、環境責任法及び遺伝子工学法にみられるような、因果関係推定規定及び情報請求権を有する責任規定である。学説においてそれら特別法における責任規定の責任原理の明確化を巡って論議がなされている。更にはそれら特別法責任規定の責任原理の差異を認識した上で、民事責任原理・体系中に新たな責任原理の範疇を見出し、そのなかにそれら特別法責任規定を位置付けようという試みもあらわれている。そのような論議や試みは、従来の学説における危険責任原理の理解、更には民事責任体系の理解の新たな展開・変容の契機をも含んでいるように思われる。
 第二節ではドイツにおいて近時成立した「危険責任」特別法について、それぞれの責任規定の内容、特に責任原理に関する論議を各立法ごとに個別的に検討する。具体的考察対象は、従来の一般的危険責任特別法との差異が指摘される特別法の出現、増加の契機となった、一九七六年の薬事法以降成立した四つの「危険責任」特別法ー薬事法(一九七六年制定)、製造物責任法(一九九〇年)、環境責任法(一九九一年)、遺伝子工学法(一九九一年)である。その上で第三節では、それら特別法の責任原理の特徴とそれに基づく責任原理を巡る論議状況が、ドイツにおける従来の危険責任原理や民事責任体系の理解に一定の影響を与えつつあることを指摘し、危険責任原理や民事責任体系一般の理解が新たな展開を遂げつつあることを明らかにする。

 第二項 近時の「危険責任」特別法
一 薬 事 法
 1.立法経緯・立法概要
 ドイツ改正薬事法は一九六〇年代に生じた大規模な薬禍−特にサリドマイド事件を契機として、旧薬事法(一九六一年制定)を包括的に改正し、一九七六年に制定された(一九七八年施行(1))。その法律は、一般市民の健康の保護を目的として、薬物の製造・取引に関する諸規定を定めるものである。改正薬事法においては、旧法と比較して、例えば従来薬物には登録義務のみが課されていたところ、それに代えて許可制度が導入されるなどして、薬物の安全性確保の諸規定に改善が施された(2)。そして、製薬事業者の危険責任規定の導入は改正の最も重要な柱の一つであった。薬事法八四条は条文見出しにおいて「危険責任」と明記されている。そして、このような危険責任規定を置いた主要な動機は、製品の開発当時の科学技術的水準では未だ認識され得なかった危険、すなわち、薬害の開発危険に関する責任を導入することであったといわれている。サリドマイド事件等にみられるような薬害では、薬物の開発時点において医学的に未だ認識されなかった薬物危険がその流通後被害を生ずることによって初めて顕在化することが珍しくない。薬物製造者はそのような損害に関して認識可能性がなく、従来の過失責任原理によっては責任を負わないことになるが、それでは被害者救済の観点からみて好ましくないとされ、危険責任原理による薬物製造者の客観的責任が導入されたといわれる(3)。
 2.責任規定
 薬事法は八四条において以下のように定める。すなわち、
 八四条(危険責任)
 この法規の適用領域において消費者に供され、そして許可の義務を課され又は法規命令によってその許可を免除された人間用の薬物の使用の結果、人が死亡し又は人の身体若しくは健康が看過され得ない程度に侵害された場合、この法規の適用領域においてその薬物を流通に供した製薬事業者はそれによって生じた損害を賠償する義務を負う。損害賠償義務は以下の場合にのみ生ずる。すなわち、
  一 その薬物が指示に従った使用により医学的認識によって正当化し得る程度を越える有害作用を生じ、及びその原因を開発又は製造の領域に有した場合。
  二 損害が医学的認識に相応しない表示又は使用指示によって生じた場合(4)。
 規定の形態は、いわゆる製造物の欠陥を介した責任規定であって、後にあらわれる製造物責任法型の責任規定の原型と解することができる。
 この責任規定に服する薬物は、許可又は法規命令により許可を免除された薬物である。したがって例えば治療類似行為に用いられる自然薬剤 Naturheilmittel は対象から排除される。薬局によって調合された薬物も基本的には排除される(5)。
 保護法益は人の生命、身体及び健康である。例えば薬物を服用した者がそれを原因として暴れたことによって生じた物的毀損や、純粋財産損害は排除される。また、薬物による人的侵害が疾病の期間、侵害の程度、痛みの激しさ等からみて軽微でないことが必要である(6)。
 人的保護範囲に含まれるのは、薬物を投与された患者のみである。例えば薬物を投与された者が暴れたことによって被害を受けた間接的被害者は保護範囲から排除される。物的保護範囲は二つの点から制限されている。すなわち、八四条一号の「使用責任 Gebrauchhaftung」及び八四条二号の使用説明に関する責任に制限される。この二つの責任規定をもって薬事法八四条を二つの責任類型に分類、整理する考え方が一般的である(7)。すなわち、八四条一号は、薬物が規定に従った使用の際---つまり過度の使用(例えば睡眠薬中毒)の際ではない---に医学的認識によって正当化し得る程度を越え、その原因を開発又は製造の領域に有する有害作用を有する場合に責任が生ずることを規定する。したがってこの規定はいわゆる設計欠陥、製造欠陥に関する責任を規定したものである。これに対し八四条二号は、医学上の認識を示さない表示・使用指示による責任を規定する。いわゆる表示欠陥に関する責任規定である。
 損害賠償の範囲に関しては、他の一般的危険責任特別法と同様に、責任最高限度額(五〇〇〇万マルク)(八八条一項一号)が定められ、慰謝料請求権は排除される。薬害においては苦痛が被害の中心となるので、慰謝料請求権の排除は学説において特に問題視されている(8)。
 3.責任原理
  (1) 概  観
 薬事法八四条の責任規定は、前述の通り、八四条一号及び八四条二号という二つの責任類型を含むと解される。その内八四条二号に関しては、これが表示欠陥に関する過失責任原理に基づくとされる点について異論は無いように思われる(9)。したがって、以下では専ら八四条一号の使用責任を中心に検討することとする。
 薬事法八四条一号の責任原理に関して、学説は大別すると二つに分かれる。すなわち、その責任は製造された薬物の客観的性質に基づくものであるとする製造物責任説、他方むしろその責任は製造者自身の製造行為における注意義務違反に基づくものであるとする製造者責任説である。より具体的な責任原理の考察状況をみると、その責任規定を危険責任と解する説(Deutsch、Rolland、Sander、Canaris)、無過失責任と解する説(Kullmann)、不法ー無過失責任と解する説(Schmidt-Salzer)、不法ー過失責任と解する説(Weitnauer)の四説が唱えられている。製造物責任説及び製造者責任説という分類との対応関係については、危険責任説は、「特別の危険」に基づいて、製造者の製造行為における注意義務とは無関係に、製造物の客観的な性質に注目して欠陥の認定等を行い責任を判断することから、製造物責任説に対応するということが出来る。他方、不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責任説)は、その名の通り行為者の注意義務違反の、したがって違法な製造行為に関連する責任であり、製造者責任説に対応する。
 以下、薬事法責任規定の責任原理に関する二類型、すなわち、製造物責任説・危険責任説、及び、製造者責任説・不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責任説)のそれぞれについて検討を加える。その際の具体的方法としては、両説の特徴や他説との差異が顕著にあらわれる、((1))「医学的認識によって正当化できる程度を越えた有害作用」(後に示すように欠陥概念にほぼ等しい)概念、((2))開発危険に関する責任、((3))「特別の危険」の三つの具体的論点に関する見解をそれぞれの学説に即して整理・分析することとする。
  (2) 製造物責任説・危険責任説
 薬事法八四条一号による責任を、客観的な物ー薬物に関連した特別の危険に基づく責任と解する見解である。
 ((1))「医学的認識によって正当化し得る程度を越える有害作用」概念について
 薬事法八四条一号は規定において薬物が「医学的認識によって正当化し得る程度を越える有害作用」を生じた際に損害賠償責任が生じることを定める。文言上「欠陥」概念は規定されていないが、その「有害作用」の語から欠陥が前提されていることが推論できると解されている(10)。製造物責任説・危険責任説を採る学説においてこの「有害作用」から推論される欠陥が薬物ー客観的物に関連した客観的性質のものであることについて明示したものは見当たらないが、一般に自明のこととして承認されていると思われる。
 この製造物責任説・危険責任説にあって、Deutsch の学説は独自の位置を占める。彼は後述二の製造物責任法の検討において述べるように、製造物の欠陥を介した責任類型に関して、その本質は基本的には製造者の注意義務違反の行為による不法行為責任であると解する。薬事法八四条一号に関しても規定から推論された「欠陥」に注目して「一面では、薬物製造者の責任は全く製造者責任として見なされ」るとして、その点では製造者責任説と同様の立場にたつ。しかしながらその一方で、「他面では、薬物製造者の責任はその薬物の特殊類型的規定もまた考慮されないものではない」として、結論的には客観的製造物責任を主張する(11)。
 ((2))開発危険に関する責任について
 開発危険に関する責任をどのように考えるかは、薬事法八四条一号の最大の論点の一つである。薬事法の主要な立法目的は、先に述べたように、過失責任原理では考慮され得なかった開発危険に関する責任を承認することであった。しかしながら、現在学説においてその責任は必ずしも一様に認められているわけではない。更に複雑なのは、学説中に薬物の有害作用の判断時点が現在か、それとも薬物の流通時点かといった二者択一的判断に乗らない、折衷説的見解がみられる点である。
 製造物責任説・危険責任説による場合、開発危険に関する責任の根拠付けは容易に行われ得る。立法者やこの学説を採る論者も基本的にその責任を危険責任原理から導き出す(Deutsch、Rolland)。しかしながら、同様に製造物責任説・危険責任説にたちながらも、開発危険の処理に関して一部異なる理解を示す学説も存在する(Sander、Canaris)。
 Deutsch は八四条の条文見出しの文言「危険責任」、及び、予見不可能な又は回避不可能な製造損害及び開発損害の事例に関して客観的に画定された責任を導入するという薬事法の立法意図から、開発危険に関する責任を全面的に承認する。「有害性も正当性も、遂には原因性すらも今日的水準によって査定され得るのであって、開発や生産や流通の時点における水準によってではない。責任法的に述べると我々は事後的予測 Prognose を問題とする必要はない。むしろ事後的総合評価 Diagnose に服するべきである(12)」。Rolland も、開発危険の抗弁を条文上認容した製造物責任法とは異なって、薬事法によると、いわゆる開発危険は責任を負わされると解し、有害性判断の時点を損害発生の時点に求め、薬物流通時点等に求める他の学説を「薬事法の中心部分である開発危険に関する責任が不適当に制限されるであろう」と批判する(13)。
 それらの学説に対して、Sander はやや異なった見解にたつ(14)。一部の論者によると、Sander の所論は薬物の有害作用の正当化の判断時点を現在ではなく薬物の流通時点に置き、したがって開発危険に関する責任を全く認めないと解されている(15)。しかしながら、より詳細に検討すると、彼の学説は必ずしも一律に判断時点を流通時点とし、したがって開発危険に関する責任を全く認めないといった内容のものではなく、むしろ基本的には開発危険に関する責任を認容し、ただ薬物の流通時点における代替策の不足等によって、認識はありながらもあえて甘受された有害作用に関して、それを例えば改良された薬物の登場によってあらためて責任を問うことを認めないという内容の、いわば折衷説的立場に位置するように思われる(16)。Canaris も、薬事法八四条が基本的には開発危険に関する責任を認めたものであり、したがって事後的評価ー訴訟における最終口頭弁論時の評価が医学的認識の標準となるとする一方で、しかしながら、判決は薬物の流通・使用の時点を再び引き合いに出し得るとする。すなわち、ある有害な薬物が使用当時は医学的に妥当であったが、事後に初めてより良い代替策が生じた場合は、それをもって有害作用を判断し責任を認めることはできないという。「結局問題であるのは、薬事法八四条二項一号に関しては、何が現在の認識水準によれば薬物の使用時点で妥当であったかということである(17)」。
 以上、製造物責任説・危険責任説による場合、開発危険に関する責任は基本的に認容されていると解することができる。危険責任原理からは首尾一貫した結果であるように思われる。なお、論者によってはそれを認めないと解されている Sander の見解も同様である。ただ、前述の通り、Sander の見解は、一定の場合について開発危険に関する責任を排除する折衷説的立場にある。Canaris の見解も同様である。
 ((3))「危険」について
 薬事法八四条の責任規定を製造物責任・危険責任と解する場合、その責任根拠としての「特別の危険」の存在が示されなければならない。
 Deutsch はこの特別の危険に関して、薬物の「潜在的に化学合成物質に結合した危険」と述べる(18)。
 Sander は薬事責任発生の際に「因果関係の上に更に必要とされるのは、責任が構成要件に従った関係(欠陥ある薬物の流通。薬事法八四条)によって損害危険をもたらすことである」とし、「危険」要件を欠陥ある薬物の流通に見いだす(19)。その他「危険」要件について言及する学説は必ずしも多くないが、高度な科学(化学)技術に基づいて開発、製造される薬物に結合した危険、で一応の一致はみられようか。
 ところで、Canaris は「危険」の性質理解に関して更に一歩を進め、当該責任規定が薬物の製造・流通行為に関わる、行為責任としての危険責任類型にあたることを主張する。しかも、その責任は薬物の製造・流通行為一般ではなく、欠陥ある薬物の製造・流通というより具体的な局面における行為---「具体的過誤行為」---に関わるものであり、その意味で従来の危険責任規定とは異なって抽象的危険ではなく、具体的危険・具体的瑕疵に関わる危険責任であると特徴付ける(20)。Canaris のこの理解は、民事責任原理・体系に関する従来の理解を両責任原理の相対化の方向へ新たに展開・変容させる契機をはらんだ重要な指摘である。
  (3) 製造者責任説・不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責任説)
 薬事法八四条一号による責任を薬物製造者自身の注意義務違反の製造行為に関連した責任と解する見解である。
 ((1))「医学的認識によって正当化し得る程度を越える有害作用」概念について
 「有害作用」から推定される欠陥の本質は、製造者責任説の立場からは、製造者自身の注意義務違反の行為と理解される。
 Weitnauer は、薬物製造者の責任は薬物の欠陥に関してその製造者に帰責可能な行為に存在するということを出発点とする(21)。
 Schmidt-Salzer は、八四条一号における有害作用の「正当化し得る程度を越える」ことという要件に注目して、当該責任規定が違法な行為、すなわち、一般的製造物責任の伝統的論議において、製造欠陥として又は損害を惹起する製造物の特徴にもたらした欠陥ある行為として示されることを前提すると解し、この有害作用が製造者自身の欠陥ある行為に基づくものであることを述べる。その上で、「薬事法八四条以下による責任は、法規の見出しに反して、決して違法性の構成要件が認められない危険責任ではなくて、不法行為責任である」ことが主張される(22)。
 なお、Deutsch が薬事法八四条一号の「正当化できる程度を越えた有害作用」、すなわち、欠陥に関して、これを製造者自身の注意義務違反ととらえ、製造者責任説の立場と同様の理解にたちながらも、結論的には薬事法における責任は客観的製造物責任・危険責任であると解することは前述の通りである。
 ((2))開発危険に関する責任について
 製造者責任説・不法行為責任説による場合、開発危険に関する責任の認容は困難である。薬物の流通後に発覚した医学的認識の新たな水準によって有害性=欠陥即ち薬物製造者の注意義務違反の有無を決定することは論理的に矛盾するからである。そして、確かに学説上実際に開発危険に関する責任を全面的に認めないものも存在する。Weitnauer は有害作用の正当化判断の時点として専ら薬物の流通時点を挙げ、開発危険に関する責任を全面的に排除する。そのことは、論理構成上は、彼が製造者の責任を薬物の欠陥に関して製造者に帰責可能な行為に求める点に基づく。そして実質的理由として、もし有害作用の正当化判断の時点を薬物の流通時点としなければ、薬物製造者は薬物の質を改良するために大きな勇気を必要とすることになり、新薬開発に対するブレーキが生ずるであろうということが挙げられる(23)。しかしながら、他の学説は薬事法の主要な立法理由---開発危険に関する責任の導入---に鑑みて、結論的には部分的にその責任を認容することを述べる。
 Schmidt-Salzer は結論的には、「薬事法八四条は開発危険、つまり流通の時点において客観的に存在するが、しかしながら当時の医学的基準によってはなお認識不可能であった欠陥を含む」と解し、その欠陥の評価時点は裁判所における最終口頭弁論時であるとする(24)。しかしながら、彼の所論をより詳しく検討するならば、「・・・基礎に置かれるべきは確かに流通の事実基準であり、したがって例えば当時自由になり得た又はなり得なかった診断可能性(例えば一九八〇年のエイズ感染開始の確認可能性)、製造可能性(例えば血漿の熱殺菌)及び製造限界(熱殺菌の安全性程度)、代替治療等である」として、評価の対象はあくまで流通時に既に存在した客観的事実基準であることを確認し、その上で「流通の時点においてもたらされた事実基礎に、薬物の危険性又は相対的安全性に関する(後の)認識が適用されるべきである」と述べ、流通時の事実基準は後に明らかになった医学的認識によって評価されるとする。すなわち、「当時流通にもたらされた薬物は後の損害原因の明確化によってもたらされた認識のおかげで欠陥が認められ、製造業者の責任が存在する」と解する。また、「例えば後の判決の判断時点の診断基準又は治療基準(したがってその間に可能となった一定の疾病の診断可能性又は他の、その時点で未だ認識されず又はいずれにせよ投入されなかった代替治療の使用可能性)が基礎に置かれ得ることを意味しない」として、事実基準はあくまで流通時に関わるものであるべきことを強調する(25)。このように、Schmidt-Salzer の見解は、基本的に開発危険に関する責任を認容することを述べるが、評価の対象である事実基準をあくまで薬物の流通時に固定し、流通の後に現れた事実基準(例えば当該疾病の認識可能性、より良い治療方法や薬物の出現等)を顧慮しないとすることによって、その限りで開発危険に関する責任を制限する点は、前述の Sander 及び Canaris の見解と同様であり、したがって本説は全面的に開発危険を認める見解とは異なったいわゆる折衷説的見解であるといえる。そして、このような責任の厳格化を可能とする論理的根拠は、製造者の注意義務・V. pfl. が本人の具体的個別的条件を離れた一般的規範的評価であることに存在する。
 以上のように、製造者責任説・不法行為責任説においては、開発危険に関する責任について、それを認めるものと認めないものが存在する。開発危険に関する責任を認めない見解は論理的整合性を維持するといえるであろうが、その一方で薬事法責任規定の主要な立法理由を犠牲にすることになり、批判される。他方、その責任を認める見解は、立法理由に適っているが、しかしながら認めるといっても、一定の場合についてはその責任を制限する折衷説的立場にある。そしてこの折衷説的見解について、開発危険をなお認めたものと解するかどうかは、結局、開発危険という用語の定義に関わる問題である。
 ((3))「危険」について
 後述二のように、製造物責任法に関する論議においては、製造者責任説・不法行為責任説の立場からは、薬事法の責任規定が「特別の危険」に相当する要件を有さないことをもって、製造物責任説・危険責任説に対する批判とされている。薬事法に関する論議においても同様の主張がなされ得ることが予想されるが、しかしながらそのような見解は、製造者責任説を採る学説が少ないこともあって、見いだされなかった。「危険」要件に関して批判的見解を述べるのは Kullmann である。彼による「危険」要件に関する批判は以下の通りである。すなわち、Kullmann は薬事法責任規定について「この責任は確かに従来の危険責任の場合のように特別の物、したがってここでは薬物、典型的な特別の危険に基づくものではなく、むしろ有害な薬物又は欠陥ある使用指示にのみ責任を結び付ける」と述べ、「危険」の存在を否定するのである(26)。
  (4) ま と め
 以上、薬事法八四条一号の責任原理に関する論議を検討した。学説はその責任を製造された薬物の客観的性質に関連した、高度科学(化学)技術によって開発・製造される物質に結合した危険に基づくものと把握する製造物責任説・危険責任説と、むしろその責任を製造者自身の製造行為における注意義務違反に基づくものと把握する製造者責任説・不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責任説)の両者に大別される。
 責任原理を巡るこのような論議状況は、後述二の製造物責任法の責任原理を巡るそれと同様である。しかしながら、薬事法と製造物責任法の責任規定上の顕著な差異として、薬事法八四条が条文見出しにおいて「危険責任」と明記している点が挙げられる。そして、薬事法責任規定の責任原理を巡る論議も、製造物責任法のそれに比較して製造物責任説・危険責任説が優勢なように思われる。そのような状況の背景には、立法経緯・立法概要において述べたように、薬事法が深刻な薬害の諸経験を踏まえて、開発危険に関する責任を導入することを主要な立法目的の一つに掲げるものであり、その理論的基礎づけのためには当該立法規定の責任原理を製造物責任説・危険責任説と解する方が首尾一貫するという事情が作用しているように思われる。また、開発危険に関する責任の理解を巡って若干論議が複雑化しているが、いずれにせよ少なくともその責任を基本的に認容する見解が有力であるといえる。
 また、特に行為責任としての危険責任類型と不法ー無過失責任類型との間で、責任内容の実質的近接性が認められ、そのことから民事責任原理・体系論の、両責任原理の相対化の方向への新たな展開・変容が認められる。その詳細については、製造物責任法及びそれ以降の考察において触れることとする。
 このように、薬事法八四条一号の責任原理を巡る論議は、製造物の欠陥という規範的要件を介した責任規定の責任原理をいかに解すべきかという問題提起の端緒となったものであり、後にあらわれる製造物責任法型の責任規定の責任原理を巡る論議を先取りするものである。
二 製造物責任法
 1.立法経緯・立法概要
 ドイツ製造物責任法は、周知の通り一九八五年のヨーロッパ共同体製造物責任指令(EC指令)に従って、一九九〇年に施行された(27)。従来EC各国では製造物責任に関する基準や対応方法がそれぞれ異なっており、そのことはEC域内交易の障害要因の一つとして指摘されていた。そこでEC指令を通じた製造物責任法の統合がはかられた。ドイツではそれ以前、特に一九六八年のいわゆる「鶏ペスト事件」(養鶏業者が鶏にペストの予防注射をしてもらったところ逆に鶏ペストが発生しその業者に損害が生じた事件。原告養鶏業者はワクチンの免疫性が不十分であったことが原因と主張しワクチン製造者に対し損害賠償請求をおこなった。判決は過失の立証責任を原告から被告に転換する法理を展開しつつ被告製造者の不法行為責任を認めた(28))を契機として、不法行為責任の範疇において過失の立証責任を転換しつつ製造物責任を把握する方向が定着していた。本法はそれに加えて新たに民事責任特別規定を設けるものである。
 製造物責任法は専ら製造物に関する責任諸規定を定めるものである。一般に危険責任特別法として把握されるが、その責任規定の責任原理を巡っては、後述の責任原理の検討において触れるように争いがあり、またその論点は危険責任から民事責任原理・体系一般に関する理解にとって重大な影響を及ぼし得るように思われる。
 2.責任規定
 製造物責任法は一条一項において以下のように定める。すなわち、
 一条一項
製造物の欠陥により人が死亡し、身体若しくは健康が侵害され、又は物が毀損された場合、製造者はそれによって生じた損害を賠償する義務を負う。(以下略)
製造物の欠陥を介した責任規定である。また、欠陥について三条において以下のような定義を与えている。すなわち、
 三条一項
製造物は、全ての状況、特に以下の状況を顧慮して、正当に期待され得る安全を供さない場合、欠陥を有する。すなわち、
a 製造物の表示
b 合理的に期待され得る製造物の使用
c 製造物が流通にもたされた時点(29)
 対象となる製造物は、それが他の動産や不動産の一部を構成する場合をも含んだ全ての動産及び電気である。不動産及び一次産品(農産物、狩猟物)は排除される(二条)。また、製造物は経済的目的をもって(一条二項三号)流通に供された(一条一項一号)ものでなければならない。
 責任主体は、第一には欠陥ある製造物の製造者である(一条一項)。また、自己の氏名、商標又はその他の表示によって製造者として表示する者、すなわち、準製造者(四条一項二文)、輸入業者(四条二項)も製造者として扱われる。また製造者が特定できない場合は、一定の要件の下で供給者も製造者として扱われる(四条三項)。
 保護法益は、人の生命、身体、健康及び物である。この場合の物とは、製造物以外の、個人的使用や消費に供される物であり、被害者によって使用されている物である(一条一項二文)。
 損害賠償の範囲は幾つかの点で制限されている。まず、人の死亡時には、治療費用、生計能力減損によって生ずる財産上の不利益、埋葬費用(七条一項)及び死亡により自己の扶養権を失った第三者の扶養請求権(七条二項)に対する損害賠償が認められる。身体傷害時には、治療費用、生計能力減損又は必需品増加による財産上の不利益(八条)が賠償される。また、他の一般的危険責任特別法と同様に、責任最高限度額が設定され(一億六〇〇〇万マルク)(一〇条)、非財産的損害は賠償されず慰謝料請求権は排除される。
 3.責任原理
  (1) 概  観
 製造物責任法責任規定の責任原理に関して、学説は大別すると二つに分かれる。すなわち、製造物責任法における責任は製造者自身の製造行為とは離れた客観的な物の性質に基づくものであるとする製造物責任説と、反対にその責任は製造者自身の製造行為における注意義務違反に基づくものであるとする製造者責任説である。より具体的に責任原理に関する論議状況をみると、製造物責任法における責任規定を危険責任とする説(Marburger、Rolland、Canaris)、無過失責任とする説(Kullmann)、不法ー無過失責任とする説(Schmidt-Salzer)、不法ー過失責任とする説(Deutsch、Ko¨tz)の四つに分かれるようである。製造物責任説及び製造者責任説という分類との対応関係については、危険責任説は、「特別の危険」に基づいて、製造者の製造行為における注意義務とは無関係に、製造物の客観的な性質に注目して欠陥の認定等を行い責任を判断することから、製造物責任説に対応するということができる。他方、不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責任説)は、その名の通り行為者の注意義務違反の、したがって違法な製造行為に関連する責任であり、製造者責任説に対応する(なお、Kullmann の無過失責任説については、その責任原理自体の性質が必ずしも明確でなく、どちらに位置するともいえない---第三章第三節三項二参照)。
 以下において製造物責任説・危険責任説及び製造者責任説・不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責任説)のそれぞれについて検討を加える。その際の具体的検討方法としては、両説それぞれの特徴や他説との差異が顕著にあらわれる、((1))「欠陥」概念(一条、三条)、((2))開発危険に関する責任の排除規定(一条二項五号)、((3))「危険」の三つの具体的論点に関する見解をそれぞれの学説について整理・分析することとする(30)。
  (2) 製造物責任説・危険責任説
 製造物責任説・危険責任説は、前述のように製造物責任法による責任を特別の危険に基づいた、客観的な物ー製造物に関連した責任と解する学説である。
 ((1))「欠陥」概念について
 本説は製造物の「欠陥」概念に関して、それを製造物自体に関連する客観的性質を有する概念であると把握する。Rolland は製造物欠陥の概念に関して、不法行為法的賠償責任法におけるその概念が欠陥をもたらした製造物の製造との関連で存在するのに対して、製造物責任法における欠陥概念は「危険責任として製造物欠陥の客観的責任根拠の状態に関連する」と述べる(31)。
 Marburger は後に述べる開発危険に関する責任の排除規定(一条二項五号)の存在と共に製造物責任法が要件として「欠陥」を要求することを指して、一方で「一見すると製造物責任法の規定は危険責任に関するよりも、むしろ無過失責任つまり外的注意違反(義務違反)について語るようである」とするが、他方で「正当に期待され得る安全性」(三条一項)に関して、「製造物責任法三条一項は確かに正当に期待され得る安全性を考慮するが、このことはしかしながら、違法性判断の結節点である、製造者の行為とは関連づけず、製造物と関連づける」とし、正当に期待され得る安全性という基準によって定まる製造物の欠陥概念が、製造者の製造行為ではなく客観的な製造物自体に関連したものであると主張する(32)。
 また Ko¨tz による立法過程の分析によると、立法者の意図は「製造物責任を製造者の義務違反を想起させ得る全ての要素から逃れさせること」であったという。そのために立法者はEC製造物責任指令及び製造物責任法の文言から「不注意の」・「義務違反の」という語を排除し、また立法規定の表現において「欠陥ある製造物の流通によって損害を惹起した生産者ではなく、損害惹起主体として常に欠陥自体が示されることが存在すること」となったという。そして、その代償として法規中に逐に製造物の監督義務を規定し得ない結果となったと指摘する。また、立法者の客観的製造物責任への指向は、本来は製造者自身の欠陥ある「提供」に問題があった、したがって行為に関連した責任類型を、「表示欠陥」として「およそ苦労して二つの条項(EC指令及び製造物責任法)の文言の下にもたらされたことに導いた」とする(33)。
 「欠陥」概念を製造物自体の客観的性質と関連して把握する学説の有力な根拠となるのが、製造物責任法における、いわゆるアウスライサーの処理である。この学説によると、製造物責任法の主要な立法目的の一つはアウスライサーに関する責任を承認することであったとされる。すなわち、例えば同種類の製造物を大量生産する製造工程が、その工程に生じた欠陥(製造上の欠陥)によって製造物の一つに正当に期待され得る安全性を欠いた欠陥製造物を生じ、その欠陥製造物はますます進展する製造工程の複雑化・高度化の下でいかに注意義務を尽くそうと恐らく予見できず、回避できない類のものであった場合、そのような欠陥製造物をアウスライサーというが、製造物責任法はそのアウスライサーから生じた損害を救済することを主要な課題の一つとするという。「欠陥」概念を製造者自身の注意義務違反と関連させて把握する場合、その欠陥製造物が世界最高水準の品質保証機構に基づく製造工程によっても回避され得ないアウスライサーであったことの抗弁は免責事由となる。それに対して「欠陥」概念を客観的製造物自体と関連させて把握する場合、アウスライサーの欠陥は他の正常な製造物との比較において容易に認めることができる。したがってこの学説によると、アウスライサーによる損害の救済のために、製造物責任法における「欠陥」概念は客観的性質を有するものでなければならないとされる。Marburger は、「・・・製造物責任法自体によっては、製造物は世界最高水準に相応した品質保証機構に基づいて調達され、しかし欠陥はそれにもかかわらず認識されなかったという証明は、製造者を免責しない」、「BGB八二三条一項による責任ではそのような証明はそれに対して・・・絶対に免責に適当でなければならない」と述べる(34)。Canaris もまた、製造者が製造欠陥に関して、それがアウスライサーである場合にも責任を負うべきことを挙げて、当該責任規定は過失を問題とするものではないと主張する(35)。
 ((2))開発危険に関する責任の排除規定(一条二項五号)について
 製造物責任法は一条二項五号において、「製造者が問題となる製造物を流通にもたらした時点における科学・技術の水準によって欠陥が認識できなかった場合」、製造者の賠償義務を否定し、製造物の流通時において認識できず、後に初めて認識可能になった危険、すなわち、開発危険に関する責任を排除する規定を有する(36)。文言からは、この規定における「科学・技術の水準」は流通時における製造物の欠陥に関する製造者自身の認識可能性=注意義務の水準を示すと解することができる。したがってこの規定は製造者の過失要素が製造物責任法において導入されたと考えることが可能である。
 しかしながら、製造物責任説・危険責任説の立場からは、そのような製造者自身の注意義務に関わる要素を責任規定において認めることは出来ず、一条二項五号についても客観的製造物に関する責任原理という理解に適った解釈がなされなければならない。したがって、以下のような説明がなされている。例えば Marburger によると、一条二項五号における「科学・技術の水準」は、製造者の認識可能性とは全く別に存在する、純粋に客観的な基準と解される。「その水準は、危険認識及び危険評価のための利用手段、つまり信頼のおける自然科学技術的調査及び発展の方法と認識である。可能な危険に関する膨大な考慮のみならず、---科学的に信頼ある基準と比較して---正当化され得る研究結果の総体、世界的にそれがまた辺鄙な場所であったとしても発表された研究結果の総体もまた重要である」といわれる。そのような基準は具体的な製造者や客観的ー類型的な製造者集団の基準とは異なって、つまり製造者が非常に高度な注意を払うことによって達成可能であったかどうか---V. sich. pfl の遵守---とは全く関わりなく、「ただ欠陥が客観的一般的に、したがってとにかくある者に認識され得たかどうか」に決定的に関係する。「開発危険に関する責任の排除はしたがって決して過失責任の制限ではなく、また決して無過失の客観的帰責の表現でもなく、むしろ典型的に危険責任の際に見出される不可抗力の援用に似ている」とされる(37)。
 Canaris もEC指令の目的が無過失責任の導入にあったことを挙げて、開発危険に関する責任の排除規定を過失責任と結び付けて理解することに反対する。また Canaris は、当該規定の解釈に際して基準となるのは通常の製造者ではなく、理想的製造者であるとする。これによって一方で無過失責任創出のためのEC指令の努力に対応しつつ、他方で理想的製造者も科学技術の水準に先行する必要は無いがゆえに開発危険に関する考慮も可能となると述べる(38)。
 このようにして製造物責任説・危険責任説は、一条二項五号の理解を当該行為者自身の注意義務とは完全に分離し、客観的製造物責任・危険責任の理解に従って危険責任における不可抗力免責に近いと解したり、理想的製造者を基準とするものと解したりするのである。
 ((3))「危険」について
 製造物責任説・危険責任説にたつ場合、その責任根拠たる「特別の危険」が明らかにされなければならない。Ficker は製造物責任の責任類型の責任原理に関して、「社会共同生活の危殆化が、その欠陥がその都度の使用者の生命、身体及び財産並びにその使用の際の偶然の同居人を危険にさらすような製造物の生産及び流通において存在」し、そのような欠陥ある商品からもたらされる危険は、比較し得る・・・完全には制御され得ず、一定の物よりもたらされ、その危険に関して社会政策的基礎によりこの危険を扱う者の保証義務が考慮される、そのような危険と並ぶ」と述べて、製造物の欠陥を介して生ずる損害に関する責任が危険責任の基準に符合することを早くに主張していた(39)。
 Marburger は製造物責任法の「特別の危険」に関して、「自動化に基づく製造物が常によりますます製造者による個々的な制御可能性と疎遠になること」による危険、そしてそれに加えて「全ての品質計画及び品質制御によって製造物欠陥はだんだん良くなるが、しかしながら財貨製造物の不可避の危険、公共の利益のために甘受されている危険」と解する。彼は「財貨の生産は自動化した、技術的ー工業的製造の前提条件の下でも、一律には過度の危険の生産として考慮されるわけではない」として、「今日の、近代的に制御された製造方法によって製造された製造物は決して危険ではなく、二〇年前三〇年前に市場に出ていた比較され得る製造物よりもはるかに安全」であることを認めながらも、「それでもなお、常に性能の良い品質保証機構の使用にも関わらず、誤差率〇は原則的に到達し難い」とし、その点に製造物の不可避な、しかしながら甘受されなければならない危険を見いだす(40)。
 ところで、Canaris は「危険」の性質理解に関して更に一歩を進め、これを欠陥ある製造物の製造・流通行為に関わる危険と解し、したがって製造物責任法の責任規定は行為責任としての危険責任類型に分類されると解する。ここで注意されなければならないのは、Canaris はあくまで欠陥の性質も、開発危険に関する責任の排除規定も行為者自身の注意義務とは無関係に客観的に説明されるとしていること(したがって製造者責任説にたつこと)である。ただ、危険責任説の根拠付けに関して、製造物責任が従来の他の危険責任規定のような施設や危険物の保有に危険引き受けの根拠を見いだすこととは異なり、欠陥ある製造物の製造・流通行為にそれを見いだすことが強調され、そのことから行為責任としての危険責任類型への分類が根拠付けられているのである(41)。このことは、製造物責任類型の責任規定の特殊性を示すものであり、また製造物責任規定に関する従来の危険責任説がなお十分に確認しなかった点に光を当てるものである。
 Canaris はまた更に注目すべきことに、当該責任規定が抽象的・一般的危険ではなく、具体的危険・具体的瑕疵に関する責任であるという特徴付けを行う。すなわち、当該責任は製造物の製造・流通行為一般に関する危険ではなく、欠陥を生じた製造物の製造・流通行為という、より具体的次元の客観的過誤行為に関連した危険を問題とするという。そのような具体的危険に関する危険責任の正当化の根拠は、製造者の行為の専門性に求められる。すなわち、製造者は損害の保険可能性や商品価格への転嫁可能性を有するがゆえにより厳格な責任を負い得るとする。そして、Canaris はそのような具体的危険に関する危険責任類型が、不法行為責任、特に過失要件を欠いた V. pfl. 違反の責任としての不法ー無過失責任類型に接近することを指摘する(42)。このことは当該責任類型を通じて危険責任原理と不法行為責任ー過失責任原理が非常に接近することを示しているように思われる。Canaris のこの主張は、民事責任原理・体系に関する理解を、両責任原理の相対化の方向へ新たに展開・変容させる契機をはらんだ、重要な指摘である。
  (3) 製造者責任説・不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責任説)
 本説は、製造物責任法の責任規定を、製造者自身による注意義務違反の行為に関する責任と解する見解である。
 ((1))「欠陥」概念について
 本説は、製造物の欠陥の本質は製造者自身による注意義務違反の行為であることを主張する。例えば Deutsch は「欠陥」概念に関して、それが「類型的な客観的帰責に合致」し、民法上の過失責任におけるBGHの判決の過失立証責任転換によって把握された、主観的帰責を排除した外的注意及び客観的義務違反=客観的過失責任と符合すると主張する(43)。
 Ko¨tz も同様に、「製造物責任の際に、実際上決して製造者の行為義務違反が問題とはなり得ないということは早計であろう」とし、「製造物が欠陥あるか否かという問題は、最善の意図と最大の努力にも関わらずその回答において製造者がその製造物をあの性質のかわりにこの性質で流通にもたらし、製造物にあの使用指示ではなくてこの使用指示を備え付け、あの表示ではなくてこの表示を示したことが義務違反でなかったかどうかを調べることによってのみ、よく応えることができる」と述べる(44)。
 Schmidt-Salzer もまた、「製造物責任法的欠陥概念」に関しては「欠陥ある行為について述べられなければならず、したがって定められた義務水準から外れた行為について述べられなければならない」とする(45)。
 このような、「欠陥」を製造者の義務違反行為の徴表と解する学説によれば、製造物責任は違法行為に基づく責任と把握されることになる。そしてその点もまたこの責任が違法性要件を必要としない危険責任ではないことの論拠として主張されている。
 ((2))開発危険に関する責任の排除規定について
 製造者責任説・不法行為責任説は、開発危険に関する責任を排除する一条二項五号はまさに製造物責任法における責任が製造者自身の注意義務に関わる責任であることの徴表であると把握する。当該規定における「科学・技術の水準」とは、製造者自身の認識可能性、注意義務の水準であるとされる。Deutsch はこの規定に関して、「流通の際の技術水準を遵守したことの抗弁によって責任が逃れられる場合は、外的注意の基準が論じられる」として、一般的な製造者の注意義務の水準が問題にされており科学技術水準の義務履行による免責が定められたものと解する(46)。
 Schmidt-Salzer も、製造物責任が製造者の義務違反による責任であると解する立場から当然に製造者が守るべき基準は流通時において確定されることを述べる(47)。
 以上のような理解は、従来の民法上の製造物責任において過失責任原理に基づいて開発危険の抗弁を認容する見解が製造物責任法に明示されたと解するものである。
 ((3))「危険」について
 製造者責任説・不法行為責任説の立場からは、製造物責任法における責任規定が危険責任の要件たる「特別の危険」を有さないことが主張され、そのことは製造物責任説・危険責任説に対する批判の有力な論拠の一つとなっている。Kullmann は、製造物責任法におけるような製造物の欠陥を介した責任の形態自体がそもそも「特別の危険」に相当するものをもたず、したがってそのような危険に基づいた責任ではないと主張する。彼は「商品の工業的製造の際に偶然的欠陥又は危険が発生する」が、「一般的にはこの欠陥又は危険は、より他の業務活動に基づく、例えば建築、医療、手工業等の活動の欠陥・危険に等しい。それら活動は、他の危険責任の場合における、その典型的危険の現実化によって損害賠償が負わされなければならない、そのような典型的危険とほとんど対照され得ない。更に、危険責任の際は規則適合的状態の結果に関して責任が負わされなければならないが、製造物責任はしかしながら欠陥ある製造物が流通にもたらされた場合に惹起されなければならない」とし、製造物責任は基本的に人の活動に関わる、それも欠陥ある商品の流通という違法な状態がもたらされた場合に惹起されるものであって、危険責任におけるような典型的危険の現実化によって、適法状態の下でも発生するような責任ではないと述べる(48)。その際 Kullmann においては、危険責任原理の理解に関して専ら施設責任や物責任としての危険責任類型のみが前提とされ、行為責任としての危険責任類型は排除されており、そのことから製造行為に関する危険も危険責任原理になじまないとされるようである。
 Deutsch は、Kullmann のように欠陥を介した責任類型一般が全て危険責任になじまないとするのではなくて、特に製造物責任法の責任規定が「特別の危険」に相当するものをもたないことを指摘する。彼は分業、自動的作業工程の危険が特別の危険になり得ることは認める。「製造物責任法によって受けとめられるべき現代的工業製品の危険は、場合によっては危険責任の評価の下にもたらされ得る。危険責任の個々の前提条件に関しては、この責任の発生の誘因をもたらした危険もまた場合によっては問題にされ得るであろう。個々の前提条件におけるその危険とは、分業による財貨生産の危険及び欠陥源の存在を認めることの困難である」とする。しかしながら、特に製造物責任法においてそのような「危険はほとんど具体的には述べられていない」と述べる。製造物責任法は、分業や自動的作業工程に還元され得ない、手工業において生じた欠陥や原始的人的ミスも責任発生原因としており、「危険」要件はそれら欠陥類型のもとに存在する出来事の統合によっては具体的に明確に出来ないと主張するのである(49)。
 このようにして、製造物責任法における「危険」要件を同様に否定する Kullmann と Deutsch ではあるが、その主張の次元は若干異なっている。Kullmann の見解は、行為責任としての危険責任を認めない、Esser 以来の従来的危険責任論からする主張として理解される。それに対し Deutsch の見解は、いわゆる製造者責任説にたつ学説の内でもやや特殊なものであろう。というのは、他の論者の多くが同じく欠陥を介した責任とされる薬事法責任規定の責任原理に関しても製造物責任法と同様に製造者自身の注意義務違反に関する責任と解するのに対して、Deutsch は自説の理解に従って、薬事法に関しては「危険」の基準を認め、その責任原理が危険責任であることを主張するからである。
  (4) ま と め
 以上、製造物責任法規定の責任原理に関する論議を検討した。学説はその責任を製造物自体の客観的性質に基づいて判断する製造物責任説・危険責任説と、むしろその責任を製造者自身の製造行為における注意義務違反に基づくものと解する製造者責任説・不法行為責任説(不法ー無過失責任説又は不法ー過失責責任説)の両者に大別される。責任原理を巡るこのような論議状況は、前述一の薬事法八四条一号の責任原理を巡るものと同様である。しかしながら、製造物責任法規定の責任原理に関しては、両説共有力に展開されているようであり、薬事法責任規定におけるような製造物責任説・危険責任説が有力な状況とは異なっている。
 また、特筆すべきは、欠陥を介した責任規定の責任原理の考察を介して、不法行為責任ー過失責任原理と危険責任原理の交錯現象が一層明らかに現れていることである。すなわち、Canaris による行為責任としての危険責任・具体的危険に関する危険責任という理解は、Schmidt-Salzer による不法ー無過失責任という理解と実質において非常に接近している。両者共同じく欠陥を生じた製造物の製造・流通行為を問題とした責任であり、ただ、行為責任としての危険責任説・具体的危険に関する危険責任説が、具体的危険・具体的瑕疵に基づく損害の引き受けとして危険責任の枠組みをもって評価し、他方 Schmidt-Salzer の不法ー無過失責任説が、行為者自身の客観的外的注意義務違反・V. pfl. 違反による損害の賠償として不法行為責任の枠組みをもって評価する点に原理的差異が生ずるのである。しかしながら、片や具体的危険、片や客観的注意義務・V. pfl. といっても、両者は共に客観的規範的評価である点において変わりは無く、実質的には非常に接近しているように思われる。
 以上見てきた通り、薬事法、製造物責任法におけるような製造物の欠陥を介する責任規定の責任原理を巡って論議が続けられている。いずれにせよ、これらの責任規定が「欠陥」という一定の価値判断を介して初めて判断される規範的要件を含む点で、従来の危険責任諸規定と異なった特質を有することは疑われ得ないように思われる。また、その責任規定の責任原理に関する考察を介して、不法行為責任ー過失責任原理と危険責任原理の理解が実質的に非常に接近し、民事責任原理・体系論にとって大きな影響を与え得る傾向がうかがわれる。そして、このような論議状況をも契機としながら、後述第三節におけるような、危険責任原理や民事責任原理・体系一般に関する理解について新たに検討を加える動向があらわれてくるのである。
三 遺伝子工学法
 1.立法経緯・立法概要
 ドイツ遺伝子工学法は、それまでドイツにおいて遺伝子工学に関する様々な規制を定めてきた遺伝子工学実験指針等の各種行政規則に代わって遺伝子工学分野を担う統一的基本法として、一九九一年に施行された(50)。遺伝子工学法は、「人、動物及び植物の生命及び健康並びにそれらの活動領域におけるその他の環境並びに財貨を遺伝子工学的作業及び製造物のあり得る危険から保護し、またそのような危険の発生を予防すること」、「遺伝子工学の科学的及び技術的可能性の研究、発展、利用及び促進に関する法的枠組みをもたらすこと」を目的とするものであり(一条)、遺伝子工学の対象、遺伝子工学の安全性確保のための諸組織、遺伝子工学実務上の規制、責任、刑罰・過料について定める(51)。遺伝子工学法における遺伝子工学的に変化させられた生物に関する責任の箇所は、責任についての規定を有さない遺伝子工学関連の二つのEC指令とは無関係な、ドイツ独自の発展の成果である(52)。責任に関する論議における最大の関心は、いわゆる残余危険 Restrisiko への対処であった。遺伝子工学が未知の領域であるという認識から「それ自体遺伝子工学的に変化させられた生物との関係において全ての考え得る注意が顧慮された場合でも損害に導くような、残余危険」の存在が指摘され、責任法におけるその危険への対処が主張された(53)。したがって立法の文言中にも立法資料中にも明記はされていないが、一般に遺伝子工学法における責任規定は危険責任原理によると解されている。
 2.責任規定
 遺伝子工学法は三二条一項において以下のように定める。すなわち、
 三二条一項
遺伝子工学的作業に基づく生物の性質により人が死亡し、身体若しくは健康が侵害され、又は物が毀損された場合、事業者はそれによって生じた損害を賠償する義務を負う(54)。
 「遺伝子工学的作業」とは、遺伝子工学的に変化させられた生物の生産、利用、増殖等のことである(三条二号)。その際、自然的な条件の下での交配によっては行われないような方法で遺伝物質が変化させられた生物が問題となる(三条三号)。また、生物とは増殖や遺伝物質を転写する能力のある生物学的単体 biologischen Einheit のことである。損害は、遺伝子工学的作業に基づく性質によって生ずることが必要であるので、生物は確かに一旦変化させられたが、しかしその後再変化によって元に戻ってしまった場合、その再変化した生物から生じた損害は顧慮されない(55)。
 保護法益は人の生命、身体、健康及び物である。また、純粋財産損害は賠償されない。この点従来の危険責任特別法と同様である。
 人的保護範囲には全ての法益の担い手が含まれ、したがって従業員、顧客、第三者のいずれをも問わない。ただ例外として、遺伝子工学的に変化させられた生物を含む許可された薬物及び製造物の場合は、薬事法及び製造物責任法の責任規定が専ら適用される(三七条)。
 物的保護範囲は、被侵害法益に関して遺伝子工学的危険の現実化によって発生した損害に限定される。したがって遺伝子工学的作業に際して生じたが、しかしながらその危険に基づかない結果は、規定の物的保護範囲に含まれない。更に、遺伝子組み換えと共に組み換えに基づかない変化が生じたり、再変化によって元に戻った場合、その生物から生じた損害は物的保護範囲には含まれない(56)。
 損害賠償の範囲に関しては、他の危険責任特別法と同様に責任最高限度額(一億六〇〇〇万マルク)(三三条)が定められ、非財産的損害は賠償されず慰謝料請求権は排除される。
 遺伝子工学法の責任規定において注目されることとして、それが原告被害者による因果関係立証軽減のための諸規定を設けていることが挙げられる。すなわち、「原因の推定」(三四条)及び「被害者の情報請求権」(三五条)の両規定である。遺伝子工学的作業によって変化させられた生物が惹起した損害事件では、情報量・資力等で不利な立場にある原告被害者による原因の究明は非常に困難であることが予想されるので、このような諸規定が設けられた(57)。
 遺伝子工学法三四条一項は、損害が遺伝子工学的に変化させられた生物によって惹起された場合には、その損害が遺伝子工学上の作業に基づくこの生物の性質によって惹起されたことが推定されることを定める(三四条一項)。また、この推定は損害が生物の他の性質に基づくことが推定される場合は破られる(三四条二項)。遺伝子工学法三五条は「被害者の情報請求権」として、人的損害又は物的損害が事業者の遺伝子工学的作業に基づくとの規定を根拠づける事実がある場合には、事業者は遺伝子工学施設内で実施された又は放出の基礎にある遺伝子工学上の作業の種類と経過に関する情報を提供する義務を負うことを定める(三五条一項)。またこの情報請求権は、届出、許可の授与又は監視の権限を有する行政庁に対しても発生する(三五条二項(58))。情報請求権の前提条件は、侵害が事業者の遺伝子工学的作業に基づくという推定を根拠づける事実の存在である。その際には根拠づけ可能な容疑として「単なる容疑以上のこと」、例えば侵害と遺伝子工学的作業の間との場所的時間的関係がもたらされることが満たされなければならないとされる(59)。 また他方では、立法上の義務又は事業者ないし第三者の優越的な利益による事業者の守秘可能性が認められている(三五条三項(60))。
 3.責任原理
 遺伝子工学法三二条の責任原理に関して、現在のところ学説は一致してこれを危険責任と解している。その際、それら学説は総じて遺伝子工学法の責任規定の主要な目的を、遺伝子工学における残余危険より生ずる損害、すなわち、開発危険に関する責任の導入に認め、それを実質的根拠としてこの責任規定が危険責任原理に基づくものであることを認める。
 遺伝子工学法三二条の責任原理に関して、その「特別の危険」の実質や責任類型についてより詳細な分析を加えているのは Deutsch の学説である。Deutsch は、この責任で問題にされる「特別の危険は・・・残余危険が異常、不可避で場合によっては制御困難であることに存在する」と述べる。遺伝子工学法は遺伝子工学上の作業に関する四段階の安全等級を定めるが(七条)、その内の安全等級一には「現在の科学水準に基づいて人の健康又は環境に対する危険があるとは認められない遺伝子工学的作業」が属する。このような安全等級一の作業もまた制御困難な危険、すなわち、残余危険を内包し、それへの対処として危険責任原理に基づく責任規定が設けられたと解する(61)。他の学説では特に危険責任原理のメルクマールとしての「特別の危険」をとりあげて論じた箇所は見当たらなかったが、この Deutsch の指摘した点は学説間で広く一致をみていると解してよいと思われる。
 また Deutsch は遺伝子工学法三二条の責任について、それが危険責任原理に基づくとしながらも、更に、施設責任とは異なった「間接的行為責任 mittelbare Handlungshaftung」であると指摘する。「重要なのは、間接的行為責任であって施設責任ではないことである。行為責任が間接的なのは、確かに遺伝子工学的作業が基礎として前提されているが、しかしながら、その作業は生物の性質においてあらわれなければならないからである(62)」。ここで述べられる「間接的行為責任」という責任類型の性質については、一応行為責任としての危険責任類型に含まれるものと解し得るように思われる(63)。
 なお、Canaris は遺伝子工学法三二条が施設責任であるか行為責任であるかは文言上問題とされておらず、したがってそれゆえに施設責任も行為責任も含むと解する(64)。
 以上、遺伝子工学法三二条の責任原理に関して、学説は大枠で一致してこれを危険責任と解しているが、その責任の詳細について更に分析を加えたものは少なく、なお検討の余地があるように思われる。
四 環境責任法
 1.立法経緯・立法概要
 ドイツ環境責任法は、一九八六年のチェルノブイリ原発事故やスイスの化学工場火災によるライン川汚染事件等ヨーロッパにおいて発生した大規模な環境事故、あるいは八〇年台を通じて激化した大気汚染や酸性雨による森林被害等の環境破壊といった環境問題の深刻化、そしてそれに対応した環境保護意識の高まりや環境保護運動の活発化を社会的背景として、一九九一年に施行された(65)。従来ドイツにおける法律による公害環境問題への対処は主に公法分野を中心になされており、また私法分野においても不法行為法ではなくイミッシオン法によって担われてきたが、この環境責任法は新たに環境汚染による被害に民事責任特別規定による損害賠償責任を認めるものである(66)。
 2.責任規定
 環境責任法は一条において以下のように定める。すなわち、
 一条
付表一に掲げた施設から生じた環境影響により人が死亡し、身体若しくは健康が侵害され、又は物を毀損した場合、その施設の保有者はそれによって生じた損害を賠償する義務を負う(67)。
 本責任規定は、施設保有者に責任を負わせる、施設責任となっている。問題となる施設は付表に限定列挙された、環境影響による損害を惹起する可能性をもつ九六種類の施設である。また、具体的な施設の内容は、「事業施設や倉庫のように場所的に固定された設備」(三条二項)、及び、「施設又はその一部と空間的又は操業技術的関連性を有し、環境作用の発生にとって重要であり得る」機械、器具、車、その他の可動技術設備、付帯設備等(三条三項)である。責任は環境作用、すなわち、「土壌、空気、水に拡散される物質、振動、臭気、圧力、光線、ガス、蒸気、熱その他の現象により」生じた影響を通じて発生した損害についてのみ発生する(三条一項)。
 保護法益は人の生命、身体、健康及び物であり、純粋財産損害は賠償されない点、従来の一般的危険責任立法と同様である。また人的保護範囲が全ての保護法益の担い手を含み、物的保護範囲が被侵害法益について当該施設から生じた環境影響による損害に限定される。損害賠償の範囲に関しては、まず他の危険責任特別法と同様に、責任最高限度額(一億六〇〇〇万マルク)(一五条)が定められ、また非財産的損害は賠償されず慰謝料請求権は排除される。
 また、生態系の破壊等の損害ー生態損害が一定程度損害賠償範囲に考慮される。すなわち、一六条一項は「物の毀損が自然又は景観の破壊となる場合は、この破壊が起こらなかったならば存したであろう状態を被害者が回復する限りにおいて、民法典二五一条二項が適用され、この場合以前の状態の回復のための出費が毀損された物の価値を越えるという理由だけで相当性を欠くことにはならないとの基準をもって適用される」(一六条一項)と規定し、自然や景観は、それがたとえ財産的価値が低く回復にその毀損された物の価値を越える多額の費用を要するものであっても、原状回復を請求することができるとする。
 更に、環境責任法の責任規定においても、公害環境損害に関する原告被害者による因果関係立証の困難という事情を顧慮して、遺伝子工学法におけると同様に、因果関係立証軽減のための諸規定が設けられている。すなわち、「因果関係の推定」(六条)とそれを実効たらしめるための「被害者の施設保有者に対する情報請求権」(八条)及び「官庁に対する情報請求権」(九条)である。因果関係立証負担軽減規定の導入は、環境責任法における最大の眼目の一つである。
 環境責任法六条は、「ある施設が個々の事例における諸状況に照らして発生した損害を生じさせるのに適している場合、その損害はこの施設により生ぜしめられたことが推定される」と規定する。そして、その適性は「操業経過、使用された設備、投入もしくは排出された物質の種類及び濃度、地理的事情、損害発生の時間と場所、損害像、個々の事例において損害の発生に積極的又は消極的に作用したとみられるその他全ての状況に照らして判断される」(六条一項)。この規定は操業上の特別の義務が順守され、かつ操業上の異常がない正常操業には適用されない(六条二項)。また、「個々の事例の諸状況に照らして、別の事情が損害を発生させるのに適している場合」、推定は排除される(七条一項(68))。
 環境責任法八条は、ある施設が損害を惹起したという仮説を根拠づける事実が存在する場合、被害者は施設保有者に対する情報を求め得ることを定める。その際の情報とは「使用されている設備、投入若しくは排出された物質の種類及び濃度、その他の方法で施設から生ずる影響」に関する情報であり、このような情報の提供によって六条の因果関係推定規定を実効力あるものとすることが意図されている。また、その情報はいかなる場合でも請求可能なわけではなく、「事象が法規定に基づいて秘密を保持しなければならないものである限り、又は秘密保持が施設の利用若しくは第三者の優越的な利益に資するものである限り」は情報請求権は存在しない(八条二項)。また、被害者は施設の認可、監督、環境作用の把握を行う官庁に対しても情報請求権を有する(九条)。更に、武器対等の原則から、施設保有者にも被害者及び官庁に対する情報請求権が認められている(一〇条)。
 3.責任原理
 環境責任法における責任規定の責任原理に関しては、学説はこれを危険責任そして施設保有者に対して責任を負わせる施設責任、すなわち、従来の一般的な危険責任原理に合致した責任原理とする見解で一致している(69)。例えば Deutsch は、環境責任法責任規定の責任原理に関して、それを、侵害の惹起のみに結合し、必要な注意の遵守によっては排除されない責任としての結果責任・原因責任、そして、過失に左右されない客観的責任・過度の危険に関する保証の原則に還元される責任としての危険責任と解する。更に Deutsch は、この責任がまさに環境危険の現実化によって生じた損害・環境危殆化との帰責性関連を有した損害のみの賠償を考慮する責任として、「典型的な危険責任」という類型に属すると述べる。この概念に対置されるのは、製造物責任法の責任規定---工業的製造物に関連した危険の現実化によって損害が発生したかどうかは問われず、たとえ手工業製造物から生じた損害に関しても責任を生ずる---が属する「拡大された危険責任」という範疇である(70)。
 いずれにせよ、環境責任法における責任規定の責任原理が基本的に施設責任という伝統的な危険責任類型に服することは明らかであろう。ただ、この責任が因果関係推定規定を有する点において、従来の危険責任規定よりもより厳格なものとなっていることが注目される。

 第四項 本節のまとめ
 以上の四立法の個別的検討から、近時の「危険責任」特別法の責任規定に関する動向として、二つの点が指摘できる。すなわち、一点目は薬事法、製造物責任法そして遺伝子工学法にみられるような、製造物特に工業的製造物に基づく損害に関する責任規定の増加である。そして二点目は環境責任法及び遺伝子工学法にみられるような、因果関係立証負担軽減の諸規定を有する責任規定の増加である。そして、特に一点目の動向は以下のように、民事責任原理・体系の理解に関する論点を内包しながら推移している。
 すなわち、製造物特に工業的製造物に基づく損害に関する責任規定は、既にみたように薬事法、製造物責任法、遺伝子工学法の三つによって規定されている。それらの内薬事法及び製造物責任法においては、いわゆる製造物の欠陥によって生じた損害に関する責任規定が置かれているが、その責任原理を巡って、これが製造物自体の客観的性質に基づく危険責任であるのか、それとも製造者自身の注意義務違反の行為に基づく不法行為責任であるのかが論じられている。また、遺伝子工学法における責任規定は、広い意味では薬事法や製造物責任法と同様に製造物に基づく責任を定めるものと把握出来るが、製造物の欠陥を介した責任ではない点で他の二つの法規定とは区別されよう。責任原理については一応危険責任と解されているが、この遺伝子工学的に変化させられた生物を介して生ずる責任が、従来の施設責任のような客観的な物に関わる責任なのか、それとも遺伝子工学的作業という行為に関わる責任、すなわち、行為責任としての危険責任なのか、今一つ明白ではない。
 このように、製造物に基づく損害に関する責任規定は、それぞれ責任原理に関する問題点を内包しながら増加してきた。それら責任規定の責任原理は、もはや従来の危険責任原理や民事責任原理・体系の理解にそのまま分類され得るものではなく、それらの性格規定、体系的整序のためには、責任原理・体系の新たな枠組みが必要とされる。そして特に薬事法や製造物責任法におけるような、製造物の欠陥を介した責任類型は、製造物責任法の箇所で敷延したような、その性質を巡る行為責任としての危険責任説・具体的危険に関する危険責任説と不法ー無過失責任説の実質的近接性からもうかがわれるように、危険責任原理と不法行為責任ー過失責任原理の接点に位置するものである。その上更には第三節で検討するように、その責任類型の性質を巡る議論を通じて、ドイツにおける従来の民事責任原理・体系一般の理解が新たに展開・変容する---すなわち、両責任原理の相対化が一層進行する---傾向が看取される。
 近時の「危険責任」特別法の責任規定に関する二点目の動向、すなわち、環境責任法及び遺伝子工学法におけるような因果関係立証負担軽減の諸規定を有する責任規定の増加は、それ自体直接には必ずしも責任原理に関する論点を提起しているわけではないかもしれない。しかしながら、これも第三節でみるように、このような因果関係立証負担軽減規定を有する責任規定を一つの責任類型として、危険責任の新しい体系の内に位置付ける見解が存在し、したがって民事責任原理や責任体系の問題と決して無関係ではない。
 以上のような、各法規の責任規定に関する傾向、そして責任原理に関する論点の推移をふまえて、以下第三節ではそれらの動向がドイツにおける従来の危険責任原理や民事責任原理・体系一般に関する理解にどのように影響を与え、どのような展開・変容を加えつつあるのかを分析・考察する。

(1) BGBl. I 1976 S. 2445.
(2) ドイツ改正薬事法全体の概要については北川善太郎/ペーター・バドゥーラ編『医薬品問題と消費者』(一九七九年)三九頁。
(3) 当初一九七三年の薬事法改正政府草案は、薬物の正常使用の際に生じた副作用による身体的損害に関する公的な薬物損害補償基金を予定していた。しかしながらその後、主には保険業界による薬事損害賠償に対する責任保険の設立についての承諾を契機として、薬物損害補償に関する公的基金の発想は放棄され、最終的には個々の事業者に対する損害賠償責任規定が成立した。当時構想されていた救済基金制度の概要については、竹下守夫・「ドイツにおける生産物責任関係立法」ジュリスト五九七号(一九七五年)六〇頁。危険責任規定導入までの経緯については、Deutsch, E., Arztrecht und Arzneimittelrecht, 1983, S. 301. 薬事法責任規定の邦文紹介については、北川/バドゥーラ・前掲(2)の他、川井健『製造物責任の研究』(一九七九年)一四四頁。
(4) BGBl I. 1976 S. 2473. 訳出にあたって川井・前掲(3)一五八頁掲載の訳文を参照した。
(5) 北川/バドゥーラ・前掲(2)四三頁、七九頁、Deutsch, a. a. O. (Fn. 3), S. 302.
(6) Deutsch, a. a. O. (Fn. 3), S. 302. ; ders., Das Arzneimittelrecht im Haftungssystem, VersR 1979, S. 685f.
(7) Deutsch, a. a. O. (Fn. 3), S. 303.

(8) Deutsch, a. a. O. (Fn. 3), S. 307.
(9) Deutsch, a. a. O. (Fn. 3), S. 305. ; ders., a. a. O. (Fn. 6) S. 688. : Ko¨tz, H., Ist die Produkthaftung eine vom Verschulden unabha¨ngige Haftung?, in ; Festschrift fu¨r Werner Lorenz, 1991, S. 109, 119.
(10) Deutsch は、八四条の文言は「薬物が欠陥あったことを要求するものではない。しかしながら、薬物が規定に適った使用に際して有害な作用をもたらした場合、その薬物は何らかの方法でその有用性を損なわれていたに違いないということから、[欠陥要件が]間接的に推定され」、更に、法規がそれに加えて明示的に「有害作用の原因が開発又は製造の分野に存在することを要求する」ことからも、欠陥要件を推論することが可能であると述べる(Deutsch, a. a. O. (Fn. 6), S. 687.)。
(11) Deutsch, a. a. O. (Fn. 6), S. 687.
(12) Deutsch, a. a. O. (Fn. 6), S. 687f.
(13) Rolland, W., Produkthaftungsrecht Kommentar, 1990, S. 295f.
(14) Sander, A./Ko¨bner, H. E./Scholl, H. O., Arzneimittelrecht Kommentar, Erl. § 84AMG・C (3. Lfg. Stand Oktober 1978), 17ff.
(15) Deutsch, a. a. O. (Fn. 6), S. 687. ; Rolland, a. a. O. (Fn. 13), S. 295. ; Kullmann, H. J./Pfister, B., Produzentenhaftung, 3800 (PrH 18. Lfg. VII/87), S. 25.
(16) Sander/Ko¨bner/Scholl, a. a. O. (Fn. 14), S. 18.
(17) Larenz, K./Canaris, C. W., Lehrbuch des Schuldrechts II/2 13. Aufl., 1994, S. 649f.
(18) Deutsch, a. a. O. (Fn. 3), S. 302.
(19) Sander/Ko¨bner/Scholl, a. a. O. (Fn. 14), S. 7.
(20) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 17), S. 649.
(21) Deutsch, a. a. O. (Fn. 6), S. 687. なお、Weitnauer 論文(Weitnauer, H., Die Produktenhaftung fu¨r Arzneimittel, Pharm. Ind., 40, 1978, S. 425.)の入手が出来なかったため、その所論の紹介は専ら Deutsch の文献による。
(22) Schmidt-Salzer, J., Produkthaftung, Band III/1, Deliktsrecht・1. Teil, 2. Aufl., 1990, S. 163f.
(23) Deutsch, a. a. O. (Fn. 6), S. 687.
(24) Schmidt-Salzer, a. a. O. (Fn. 22), S. 560.

(25) Schmidt-Salzer, a. a. O. (Fn. 22), S. 560f.
(26) Kullnamm/Pfister, a. a. O. (Fn. 15), S. 11
(27) BGBl. I 1989 S. 2198. 立法の紹介・検討については、さしあたりP.シュレヒトリーム(吉野正三郎訳)「西ドイツの新製造物責任法の概要(上)(下)」NBL四三八号二三頁、四四二号四二頁(一九八九年)。
(28) BGHZ 51, 91. 当該事件の紹介については、さしあたり五十嵐清「西ドイツにおける製造者責任法の現状」ジュリスト四四六号(一九七〇年)七八頁、八〇頁以下。
(29) BGBl. I 1989 S. 2198. なお、条文の訳出にあたり、シュレヒトリーム(吉野訳)前掲(27)三二頁の訳文を参照した。
(30) ドイツにおける製造物責任法責任規定の責任原理に関する議論状況については、以下の文献による紹介が存在する。円谷峻「製造物責任における欠陥概念と無過失責任(中)」NBL五一〇号(一九九二年)三〇頁以下、福田清明「ドイツ『製造物責任法律』による責任の法的性質」法学新報一〇〇巻(一九九四年)二号二八一頁。
(31) Rolland, a. a. O. (Fn. 13), S. 123.
(32) Marburger, P., Grundsatzflagen des Haftungsrechts unter dem Einfluβ der gesetzlichen Regelungen zur Produzenten-und zur Umwelthaftung, AcP 192(1992), S. 11f.
(33) Ko¨tz, a. a. O. (Fn. 9), S. 111.
(34) Marburger, a. a. O. (Fn. 32), S. 10f.
(35) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 17), S. 643.
(36) BGBl. I 1989 S. 2198.
(37) Marburger, a. a. O. (Fn. 32), S. 13.
(38) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 17), S. 644f.
(39) Ficker, H. C., Produktenhaftung als Gefa¨hrdungshaftung?, in ; Festschrift fu¨r Ernst v. Caemmerer, 1978, S. 349f.
(40) Marburger, a. a. O. (Fn. 32), S. 13f.
(41) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 17), S. 644.
(42) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 17), S. 644.

(43) Deutsch, E., Die Zurechnungsgrund der Produzentenhaftung, VersR 1988, S. 1199.
(44) Ko¨tz, a. a. O. (Fn. 9), S. 111f.
(45) Schmidt-Salzer/Hollmann, Kommentar EG-Richtrinie Produkthaftung Bd. I., 1986, S. 246.
(46) Deutsch, a. a. O. (Fn. 43), S. 1200
(47) Schmidt-Salzer, a. a. O. (Fn. 22), S. 589.
(48) Kullmann/Pfister, a. a. O. (Fn. 15), 3500(PrH27. Lfg. I/91), S. 2.
(49) Deutsch, a. a. O. (Fn. 43), S. 1199f.
(50) BGBl. I 1990 S. 1080.
(51) ドイツ遺伝子工学法の紹介・検討については、さしあたり浦川道太郎「遺伝子工学の規制に関するドイツの新たな法律」L&T一一号(一九九〇年)一一頁、斎藤純子「西ドイツ遺伝子技術法施行」ジュリスト九六二号(一九九〇年)九一頁。
(52) 立法の経緯については、Deutsch, E., Haftung und Rechtsschutz im Gentechnikrecht, VersR 1990, S. 1041, 1080. 浦川・前掲(5)一一頁以下、斎藤・前掲(51)九一頁。
(53) BT-Druks. 11/5622(1989), S, 33.
(54) BGBl. I 1990 S. 1091f. なお、条文の訳出にあたり、浦川前掲(51)二一頁以下の訳文を参照した。
(55) Deutsch, a. a. O. (Fn. 52), S. 1042.
(56) Deutsch, a. a. O. (Fn. 52), S. 1042.
(57) Deutsch は、この原因推定規定の問題点を指摘している。三四条一項に関しては、この規定は文言に反して原因推定規定ではないと述べる。というのは、被害者は損害が遺伝子工学的に変化させられた生物によって惹起されたことを証明しなければならず、すなわち、「損害が事業者によって惹起されたことは既に規定の前提条件だから」である。むしろこの規定は、その事業者による損害が遺伝子工学的作業に基づくこの生物の性質によって惹起されたことの推定、つまり遺伝子工学的作業から生ずる危険の現実化の推定であって、したがって帰責性関連の推定が問題であるとする。また、推定の否定に関する三四条二項については、推定の内容自体及び実効性について問題視する。まず、三四条一項におけるような、表見証明に関する推定は、一般的にはその表見証明が破られた場合においてのみ否定され得るのであって、異なる過程の理論的可能性のみでは十分ではないのに、三四条二項においては「損害がこの生物の他の性質に基づくことが推定されること」、すなわち、「奇妙な、逆の表

 見証明」によって否定され得ると規定されている点を疑問視する。そして、そのような表見証明は「ありそうにないこと」であり、「実際上はその表見証明に恐らくわずかな意義しかないであろう」と述べる(Deutsch, a. a. O. (Fn. 52), S. 1044f.)。
(58) 立法者は、立法理由の一つとして、遺伝子工学が全く新しい科学技術領域であることに基づく被害者の情報不足を挙げる。すなわち、「原因ー結果機構に関する経験値 Erfahrungswerten の不足に鑑みると、被害者が(潜在的)原因領域に関する事象について何の指示も行わない場合、被害者にとってその説明は通常不可能」であるとする(BT-Drucks. 11/5622 (1989), S. 35.)。
(59) Deutsch, a. a. O. (Fn. 52), S. 1044.
(60) Deutsch は、この守密可能性に関して、基本的には妥当としながらも、著しい侵害が問題となる場合は、守密に関係する者の審査が必要であるとする(Deutsch, a. a. O. (Fn. 52), S. 1044.)。
(61) Deutsch, a. a. O. (Fn. 52), S. 1042.
(62) Deutsch, a. a. O. (Fn. 52), S. 1041.
(63) Ko¨tz は明確に遺伝子工学法の責任規定を水管理法二二条一項と共に行為責任としての危険責任類型に分類する(Ko¨tz, H., Deliktsrecht, 6. Aufl., 1994, S. 140.)。また、Kullmann は遺伝子工学法の責任規定を製造物責任法型の責任類型に分類する(Kullmann/Pfister, a. a. O. (Fn. 15), S. 4f.)。
(64) Larenz/Canaris, a. a. O. (Fn. 17) S. 642.
(65) BGBl. I 1990 S. 2634.
(66) ドイツ環境責任法の紹介・検討については、吉村良一「ドイツにおける公害・環境問題と民事責任論の新しい動向」立命館法学二二〇号(一九九一年)一頁、同「ドイツ新環境責任法(公害無過失責任法)の概要」NBL四九一号(一九九一年)一七頁、エルビン・ドイッチュ(多田利隆訳)「環境責任---環境責任法(一九九〇年)の理論及び原則について---」北九州大学法政論集一九巻三号(一九九一年)三九六頁、春日偉知郎・松村弓彦・福田清明「ドイツ環境責任法」判例タイムズ七九二号(一九九二年)一六頁。
(67) BGBl. I 1990 S. 2634.
(68) Deutsch は、本法の因果関係推定規定の内容に関して、従来の一応の証明 prima fasie Beweis・表見証明 Anscheinsbeweis 理論との比較において考察を加え、両者の近接性を認めつつ、なお証明程度に関して、従来の表見証明が非典型的な経過の可能性の大きいことが証明された場合には覆されるのに対して、前者においては事件の典型性の存在は不要であり、たとえ初めての事業であっても、又は唯一の事件であっても十分であることを述べ、本法の因果関係推定規定がより強い推定機能を有することを指摘する(Deutsch, E., Umwelthaftung : Theorie und Grundsa¨tze, JZ 1991, S. 1101. なお、ドイッチュ(多田訳)前掲(66)は、本論説の全訳である)。
(69) Hager, G., Das Neue Umwelthaftungsgesetz, NJW 1991, S. 134f. ; Wagner, G., Die Aufgaben des Haftungsrecht歹ine Untersuchng am Beispiel der Umwelthaftungsrechts-Reform, JZ 1991, S. 175f. ; Marburger, a. a. O. (Fn. 32), S. 17f.
(70) Deutsch, a. a. O. (Fn. 68), S. 1098f.
 
(未完)