立命館法学 一九九五年二号(二四〇号)
◇ 研究ノート ◇
サ リ ン 規 制 法 と 社 会 不 安
---「危険社会」へのプレリュードか? ---
金 尚均
目 次
一 はじめに
二 安全性と不安
三 近代主義への問い?
四 サリン規制法の概説
五 ドイツの立法状況
六 法益保護の早期化
七 シンボルとしての刑事立法
一 はじめに
三月二〇日(一九九五年)の朝、「サリン」という化学物質が犯罪遂行の手段として用いられた。まさに化学兵器としてのサリンガスが朝のラッシュ時の地下鉄の乗客を襲った。その結
果、死者一二人と負傷者約五五〇〇人が出たのである。「サリン」という神経性「毒ガス」が人々を殺傷するものであれば、これはまさに、第一世界大戦以降、戦争兵器としては使用禁止されている「毒ガス」の範疇に収まるものといえよう。戦後生まれの人であれば中学の歴史の時間で学習したように、毒ガスは、この大戦後のジュネーヴ条約で戦争武器としてはその使用が禁止されている。それにもかかわらず、現代世界においても毒ガスの保有が確認されている。例えば、第二次世界大戦中、ヒトラー率いるドイツナチ軍が「サリン」を発明・製造し、その使用を計画していたとか、世界中の軍隊がこれを「兵器」として保有し、しかも隊員にその取り扱いについて訓練を行っていることは、かなりの程度知れ渡っていることである。また、一九九〇年に勃発した、いわゆる湾岸戦争においてイラク軍が毒ガスを使用したとの報道に我々は接したが、その際にも世界中は驚愕し、イラクに対して非難の声があがった。
しかし、いずれの例にせよ、サリン等の「毒ガス」は、軍隊などを中心として、国家の保有及び管理の下にあったのが通例であった。また、今日では、紛争のあるところに必ずといってもよいほど暗躍している「死の商人」によって、普通であれば手に入れることのできない武器・兵器を金さえあれば買うことができるようになったのである。旧ソ連製のカラシニコフ自動小銃が世界各地の反体制勢力の手に渡っているのは有名である。
だが、このような武器も、計画的に非公式または不正な手段で国家管轄の軍隊組織から流出したものが売買されるというのが通例であって、一私人や合法的な一私的組織が、大量殺人を可能にする兵器・武器または化学兵器と化す化学物質を製造し、売買するのではない。
ところが、今回疑惑の対象となっているのは、合法的な宗教法人としてのある私的なカルト宗教団体がこの有毒ガスを発生する化学物質を製造し、しかもこれを使用して、何千もの人々を死傷させたことである。ここから分かることは、国家の独占的な製造、使用、そしてコントロールの下にあった化学兵器・毒ガスが私人の手で製造かつ使用されるといった、「国家から私人へ」という事態が生じていることである(同様の主旨のものとして、「サリン事件と不安の時代」世界一九九五年五月号、二二頁)。
とりわけ、本稿では、社会と刑法の相互関係を基礎にしながら、現代社会における諸々の出来事がいかなる影響を市民に与え、しかもこの出来事と市民への影響が、どのように刑法に反映されるのかを考えてみたい。
二 安全性と不安
一連のサリン疑惑事件に遭遇したことで、その際はっきり言えることは、人々が社会の安全性に対して不安をもっているということである。カルト宗教団体にまつわる一連の毒ガス事件との関連では、犯罪に対する生命・身体の保護という意味での安全性が問題となるだけには留まらず、毒ガスという、私人が使用する犯罪武器としては例を見ない物質を、国家や行政の抑制なしに、私人が製造・保有することに対する不安と、これに起因する自己の安全性と社会の安全性への要求が問題となる。ここで「安全性」という用語が出てきたが、これの背後には常に「不安」という心理的・精神的要因が存在する。この安全性と不安とは、社会情勢とこれを見つめる人々の問題意識との相互関係の中から産出される類のものであり、したがって社会と密接なかかわりをもっている。それゆえ、この問題を考える上で、現存の我々の社会をどのように捉えるべきかが重要となる。
現代では、とかく社会の行く末が見渡し難くなっていると言われる。このような今日の社会状況について、包括的にハーバーマスは、つぎのように指摘している。「しかし今日ではユートピア的エネルギーが枯渇してしまい、歴史的な思考から失わてしまったかのように見える。未来の地平は狭まり、時代精神を政治ともども根底から変えてしまったかのようである。未来は否定的に位置づけられている。二一世紀への境目で、普遍的な生の利害が世界規模で脅かされるという恐怖のパノラマがはっきりとしてきた。果てしなく続く軍備拡張、制御不能の核兵器の拡散、発展途上国にみられる構造的貧困、失業や社会的不平等の増大、環境破壊、カタストロフィと隣合わせで展開する巨大テクノロジー、そういったキーワードがマス・メディアを通じて公衆の意識の中に浸透している。知識人たちの回答は、途方にくれた状況を反映しているという点で、政治家のそれと変わるところがない。・・・状況は客観的には見通しがきかなくなっているのかもしれない。けれども不透明で見通しがきかないということは、社会のうちで行動をおこす準備が期待されているときの関数でもある」、と(ユルゲン・ハーバーマス著/河上倫逸監訳「新たなる不透明性」(一九九五年)一九六頁)。
このハーバーマスの指摘した社会状況をどのように評価すべきであろうか。
まず、現代社会の客観的状況の肯定的側面について、戦後、朝鮮における戦争をきっかけに、商工業を中心に日本経済は復活し、高度経済成長を成し遂げ、特にこのような経済成長とその資本に支えられながら、めまぐるしく、しかも急速に科学技術が発展した。それによって、市民の生活においては電気化を中心に、社会の様々な領域で合理化、高度化が進展した。その結果、程度の差こそあれ、その恩恵を我々は享受するに至ったのである。何がきっかけになるかについては相違があるかも知れないが、このような状況は先進工業諸国では類似している。F−X・カウフマンはこのような状況を捉えて、もっともなことではあるが、我々の処理できるあらゆる情報によれば、現代社会、産業社会、またはポスト産業社会におけるほど、人間はその歴史の中で一度として安全に生活したことはなかった、と述べる(Franz-Xaver Kaufmann, Normen und Institutionen als Mittel zur Bewa¨ltigung von Unsicherheit, in : Die Sicht der Soziologie, Gesellschaft und Sicherheit, 1987, S. 38.)。なるほど、この指摘にも一理ある。事実、そうだとも言える。
しかし、その否定的側面について言うと、経済利益を重視した科学技術の濫用、これと結びついた資源大量消費型産業の出現、その結果としての環境破壊が一つである。また事故によって多大な損害を発生させる危険やその処理施設等々の不整備にもかかわらず続けられる、まるでオートポイエシスを思わせる核技術開発などが顕著である。これにつけ加えるものとして一般的に「理系の人々」と呼ばれる、自然科学者の中での科学技術がもつ社会科学的意味の軽視・無視の姿勢・メンタリティーがあると思われる。つまり、もっぱら自己の研究関心に方向づけられながら、専門領域を自己言及・自己準拠システムとして、外部環境や当該技術がもつ社会的意味の影響を受けずまたこれを考慮せずに研究を進める姿勢である。近代以降、経済が外部の環境にかかわりなく、自己言及的・自己準拠的に機能していることとあいまって、彼らの知は、知らぬ間に資本の論理に取り込まれ、しかも両者は相互に関係を維持し合いつつ、それぞれ自己のもつ性格を強めている。
これらのことは、科学技術によって生み出される否定的出来事の発生やその恐れによって人々の中に危機意識を植え付け、社会的不安を生み出す一要因となっている。ここで、科学技術と社会についてのベックの評価を見ると、「我々は迫りくる困窮の下にあるのではない。我々は、迫りくる不安の下にあるのである。そして、さらにこのような事態は『歴史的遺物』などではなく、まさに近代、すなわち近代化の最高段階における産物なのである」(ウーリッヒ・ベック著/東廉監訳・永井清彦解説『危険社会』(一九八八年)二四頁)、「一九世紀の危険は鼻もしくは目を刺激し、つまり感覚的に知覚することができた。それと異なり今日の文明生活の危険は、通常、知覚できるものではない。むしろ化学や物理の記号の形でしか認識されないのである」、「今日の危険は、・・・その範囲の広さ(人間、動物、植物に渡る)と、その原因において本質的に異なっている。これらは近代化に伴う危険なのである」(ベック・四七頁)、と。このことは、人間が自己の生活のレベルの向上・合理化のために生み出した科学技術の負の側面が、予測しえない破壊の可能性をもって当事者たる人間にフィードバックし、それによって、生活世界を形成・支配するための道具が、逆に人間を危険な状況に陥れようとしていることを意味している。このような社会をベックは危険社会とよぶのであるが、この「危険社会の基礎となり、社会を動かしている規範的な対立概念は、安全性である。危険社会には、『不平等』社会の価値体系に代わって、『不安』社会の価値体系が現れる」のであり、しかもここでは、「階級社会にみられる欠乏の共有に変わって、不安の共有がみられる」(ベック・九五頁以下)、とベックは指摘する。また同様に、ギデンズは、近代の特徴について「安心と危険」もしくは「信頼とリスク」という対立図式を示し、「モダニティは、諸刃の剣的特徴を示す現象である」(アンソニー・ギデンズ著/松尾精文=小幡正敏訳『近代とはいかなる時代か?』(一九九三年)一九頁)、と述べる。
市民生活の視点からみれば、もうかつてのような破竹の勢いの経済成長の到来を到底見込むことはできず---所詮、バブル景気も中身のない「泡」でしかなかった---、企業の海外進出にともなって生じる産業の空洞化や、いわゆるリストラによって、専ら人員の削減を通じて経済の立て直しが行われるだけで、就業の可能性も次第に低下しており、高失業時代の到来も懸念されている。このような中で、確実にやって来るものとして高齢化社会がある。これは、ただ単に高齢者が増えることを意味するのではない。西欧的な核家族化現象が進行する中にあっても、日本社会ではそれに見合った社会的な介護システムが十分に整備されてはおらず、家族や自己に過度に負担が強いられ、税制においても若年就業者への負担の増大を意味しているのである。これらのこともまた、個人的不安、ひいては社会的不安を生む大きな要因といえる。
三 近代主義への問い?
つぎに、現代社会の思想潮流の観点からすると、とりわけ指摘されるのは近代主義思想の帰趨をいかように理解するか、ということである。「理性」という人間的要件を持ち出して他の動植物と人を区別し、人は、理性をもった世界の主人として君臨しながら、社会システムの構築、重商主義に支えられるかたちでの科学技術の開発、しかも人間中心主義的な環境開発、などを進めてきたのである(参照、ギュンター・シュトラーテンヴェルト/拙訳「刑法を手段とする未来の保全」立命館法学二三五号(一九九四年)一七二頁)。しかし、これに対してアラン・リピエッツは、「多くの場合国家によって指摘された技術的進歩と生産力の増大が、必ずや社会的進歩と生活の恒常につながるはずだという信念は、無限に開かれた環境を前提にしていました。・・・全体を見たとき、人類の社会は大きな自然のほんの一部にすぎず、それらの問題が顕在化するにはいたりませんでした。しかし今や世界は閉じられており、生産や消費にともなうの負の効果も自分たちに降りかかってくると考えなければならないのです」。また、「生産性の向上は生活の向上と結びつかないことが多く、しかも、全体として地球環境問題を悪化させているのです」。その結果、「技術的進歩と社会的進歩が分離してしまい、進歩主義が破綻したということは、一八世紀の啓蒙主義に始まる長いサイクルの終わりを意味します」、と指摘している(浅田彰著「『世界の終わり』と世紀末の世界」(一九九四年)八六頁以下)。こうしてほんの数年前まではあまり疑われることのなかった「進歩と科学」思想は批判と失望の矢面に立たされたのであり、しかも---判断が正しいか否かは別として---数年来の社会主義国家の変動によってこの傾向は強められたのである。
このような思想状況の下、表層的には、ポスト・モダニズム思想が流行し、その反面、ネオ・モダニズムかポスト・モダニズムか、という問題も出てきている。しかし、現実は、「とりあえずは、みんなと同じ方向に乗りかかっていよう」ぐらいの意味しかもたない一般社会の保守化傾向の上昇である。これは、一方では経済生活の安定に基づく生活の安定化の証明であると言うことも不可能ではないが、他方で、強調しておきたいことは、先ほどのハーバーマスの説示にも見られたように、社会の先いきが見渡しいにくいということである。これは何も社会が複雑化していることだけが原因ではなく、見通すためのパースペクテイブが社会にないとか、人々が従来のそれを信頼することができなくなったことも大きな要因となっている。つまり、全体として、社会科学が本来の役割を果たしていないことでもあって、社会科学者が現状の記述に終止し、「あるべき」社会像とパースペクテイブを提唱していないことの証明ともいえる。
国家・社会システムは、今日「エスタブリッシュメント」としての確固とした輪郭をもつにいたり、個人によってはどうしようもできない存在のように見なされている。世界大の環境問題を生んだ商工業システムもしかり、人々をとてつもない不安に陥れている核開発システムもしかりである。このような状況のもと、昨今見られるように、若者の中で超能力などの超常現象がブームになったり、宗教への関心が高まっている。このような風潮において注意すべき社会精神的背景とは、社会や国家の変革に対するあきらめにも似た無関心、仮想と現実の区別が曖昧になっていること、また社会において指針がないことも一因となっている未来に対する不安などである。これらは、物質的豊かさによっては裏づけられることのない人々の精神的な渇きであり、また社会的な渇きでもあると思われる。このような社会においては、「革命運動を支えた従来の組織論が破産し、自己を変えていくしかなくなったとき、それが自らが身につけた科学技術思想への信頼といびつに結び付き、世界変革の有効な武器にしようとの考えが生まれてしまう」(芹沢俊介「ウォッチ論潮」朝日新聞夕刊(一九九五年五月三〇日)」、とする芹沢俊介の指摘が妙に時代の潮流を描写しているようで、見逃せない気がする。
四 サリン規制法の概説
それでは、以上の社会状況、思想状況を基礎にすえながら、反サリン法を検討しよう。
地下鉄サリン事件が発生してまもなく、サリン等による人身被害の防止に関する法律が公布、施行(一九九五年四月二一日)された。これが、いわゆるサリン規制法と呼ばれているものである(参考文献、三田豪士「サリン等による人身被害の防止に関する法律の概要について」警察時報七月号(一九九五年)四八頁以下、露木康浩「サリン等による人身被害の防止に関する法律について」警察学論集六月号(一九九五年)一頁以下)。
・本法律では、まず目的として、第一条は、「この法律は、サリン等の製造、所持等を禁止するとともに、これらを発散させる行為についての罰則及びその発散による被害が発生した場合の措置を定め、もって人の生命及び身体の被害の防止並びに公共の安全の確保を図ることを目的とする」と規定してある。それによれば、「人の生命及び身体の被害の防止」という文言では、個人的法益の保護が図られているのに対し、「公共の安全の確保」という文言からは、むしろ社会的法益の保護が志向されていることが見て取れる。このことは、刑法第一〇八条以下の放火罪の罪質の議論と一脈通じているように見える。かつて判例は、「放火罪においては静謐なる公共的法益の侵害を以って主と為し、他人の財産的法益の侵害はその従たるものにすぎない」(大判大正一一年一二月一三日、刑集第一巻七五四頁)、と判示した。このことから推すると、放火罪ついて言えば、社会的法益を保護する公共危険罪とするに第一義的重要性が有り、個人的法益は、せいぜいのところ、前者に吸収されるものとして扱われている(中山研一著『刑法各論』(一九八四年)三七九頁以下参照)。
その上、「公共の安全」の保護との関連から常に、「公共の危険」をどのように理解するかという問題が出て来る。解釈論のレベルでは、構成要件または違法性の限定の為に危険をどのように理解するのか、危険を一般的・社会的な不安という心理的ものとして理解するのか、またはできる限り客観的・事実的なものとして理解するのか、という問題である。また、危険の立証の必要性の問題も出てくる。つまり、「公共の危険」という要件が構成要件として記述される場合が具体的危険犯であり、この場合には訴訟上、原告に危険の立証義務が課せられるとみなすのに対し、危険が構成要件として記述されていない場合を抽象的危険犯として、危険の立証は不要であると解するのか。それとも単に「危険」要件を程度の問題に還元し、構成要件上記述されている場合には、当規定は、具体的で、切迫した危険を必要としているのであり、これに対して記述されていない場合には、ある程度の危険で足りるとみなすべきか、といった問題もある。
・第二条において、サリン(メチルホスホノフルオリド酸イソプロピル)はもちろんのこと、その他、サリン以上または同等の毒性、人の殺傷に供する恐れ及び危害の程度、人の生命・身体及び公共の安全の保護の見地から要規制性をもつ物質を規制対象にしている。なお、ここには、ソマン、タブン、VX、またマスタードガスなどの化学物質も含まれることになるであろう。
・第三条では、法律上認められる場合に、サリン等の製造、輸入、所持、譲渡、または譲受が許可される。
・罰則規定を見ると、第五条「サリン等を発散させて公共の危険を生じさせた」場合に、無期または二年以上の刑罰が科せられ、しかも未遂も処罰対象になっている。ここでは、「公共の危険」の惹起が構成要件要素として規定されていることからして、当該構成要件的行為は具体的危険犯として理解されてもかまわないであろう。本規定と比較可能なものとして、爆発物取締罰則の第一条の爆発物使用罪がある。本罰則は、危険が構成要件要素とはされていないが、刑の重さから見て危険物に対する類似の規制といえる。これは目的犯の構造をもちながら、爆発物を使用した場合に、死刑又は無期若くは七年以上の懲役または禁固刑を規定している。通説・判例は本罪を抽象的危険犯として理解している点で、サリン規制法第五条とは異なる。が、しかし、爆発物取締罰則の第一条の「使用」の意味について見ると、爆発の可能性を有する物体であることと、これを爆発すべき状態に置くことの二つの要件があれば足るとされている。ここからわかるように、爆弾などの「爆発物」という物体や、サリンなどの有毒「物質」がもっている一般的な概念上の危険性にのみ立法論上または犯罪論上の関心が向けられているのではなかろうか。むしろ、逆に考慮すべきなのは、刑の重さから見て、これを用いた行為が現実にどの程度の「質」をもっていたのか(つまり、行為の「侵害適性」の問題)、この質の問題と絡め合わせつつ、どの程度の「量」が用いられたのか、いかなる領域と範囲においてこれらの物質を手段として行為がおこなわれたのか、しかも現実にどの程度の危険を発生させたのか、ということだと思われる。そうでなければ、サリンという、わずかな量で多くの人を殺傷できる物質のもっている一般的危険性と、これに対する人々の不安が「公共の危険」の中味をつくってしまう恐れがあり、このことは危険の主観化・抽象化への道をつくってしまいかねない。
・第五条一項では、公共危険罪の予備が処罰対象とされている。
・第六条一項では、上記第三条(製造等の禁止に関する規定)に違反した場合には七年以下の懲役を科している。ここでは法文上、単なる違反行為が刑罰の対象となっていることから、形式的違法だけで可罰性が判断されることも十分に予想される。しかし、単なる形式的違反行為に対して最高七年の自由刑というのは、あまりにも重すぎるように思われる。製造等の行為態様や製造の規模など、客観的資料に基づいて、現実的・客観的に危険があったのか、それはどの程度なのかについて実質的に判断されるべきではなかろうか。端的には、具体的な(抽象的)危険に関する判断は、行為の時点において存在した客観的状況を対象とし、その状況を根拠にして将来的な因果経過を予測することだと考えるべきではなかろうか(参照、岡本勝「抽象的危殆犯の問題性」法学三八巻二号(一九七四年)六二頁)。
・第六条二項においては、第五条の公共危険罪を犯す目的で、第一項に該当する違反行為が行われた場合には、十年以下の刑罰が科せられる。これは、第一項が七年以下の刑罰に対して、二項では十年以下の刑罰が規定されていることから見て、後者は刑罰加重類型と見なすことができる。問題は、犯罪目的の有無いかんで刑罰が三年引き上げられるのであるから、目的という場合も、客観的な事実に基づかない単なる主観的な目的ではなく、より重い刑罰を基礎づけることのできるような客観的事実に裏づけられた目的が必要であろう。
・しかも、第三項では前二項の未遂、第四項では第一・二項の予備も刑罰が科せられることに注意を要する。
・最後に、第七条では、前記第五・六条の行為の遂行に必要な幇助行為が規定されている。本条では、情を知って、資金、土地、建物、艦船、航空機、車両、設備、機械、器具または原材料を提供した場合に、三年以下の懲役刑が科せられることになっている。この規定についていえば、前の第五・六条の行為が行われた後に、本規定に該当する行為の可罰性が判断されるべきである。それ以前に、本規定の行為を独立に問題にするのであれば、それは、むき出しの危険刑法と主観刑法に陥ることを意味するものである。
五 ドイツの立法状況
ちなみに、ドイツでは、化学兵器に関する規制はどうなっているのであろうか(なお、海外における動向を紹介するものとして、森下忠「毒殺罪とテロ行為罪」判例時報一五二三号(一九九五年)四二頁以下)。
まず、刑法典には、ドイツ刑法第二二九条毒害罪がある。
・同条一項「他人の健康を害するために、その者に対し、毒物またその他の健康を破壊するに適した物質を投与した者は、一年以上一〇年以下の自由刑に処する」。
・同条二項「前項の行為によって重い傷害(第二二四条)が引き起こされたときは、五年以上の自由刑を科し、その行為によって死亡の結果が引き起こされたときは、無期自由刑または一〇年以上の自由刑を科する」。
もう一つ、サリン規制法に対応すると考えられる規制として、危険な物質に対する保護に関する法律(Gesetz zum Schutz vor gefa¨hrlichen Stoffen)で、一般的に化学製品法(Chemikaliengesetz-ChemG)と呼ばれる法律がある。
・第一条「本法の目的は、危険な物質及び混合物の影響から人及び環境を保護すること、特に、これらの物質を認識可能にすること、これらを回避する(abwenden)こと、及びその生成を予防することである。
(付記:一九八〇年に本法が制定された際、第一条は、「本法の目的は、物質の検査及び申告に関する義務づけ、並びに危険な物質の等級分け、記号づけ、及び充填の義務づけ、並びに混合に関する義務づけによって、同じく毒物法上の及び労働法上の特別の規制によって、危険な物質の有害な影響から人や環境を保護することである」と規定されている。)
・本法律で対象とされる「物質」の定義について、
A 第三条一号「物質とは、元素もしくは化合物であり、それらが自然に発生またはつくられた場合も同じである。汚染すること及び商品化にとって必要な補助物質もこれに含まれる」。
B 同条第二号「古物質(alte Stoffe)とは、危険な物質の等級分け(Einstufung)、充填(Verpackung)及び記号づけ(Kennzeichnung)のための法規定及び行政規定の修正についてのヨーロッパ経済共同体の指導要項(Richtlinie)一九六七年五四八号の第七次改正に関する一九七九年九月一八日の勧告のヨーロッパ経済共同体指導要項一九七九年八三一号の第一三項に基づいて、ヨーロッパ共同体委員会によって作成されるべきヨーロッパ古物質目録EINECSを基礎にして、連邦参議院の賛成をもって、法令を通じて、連邦政府が示した物質である」。
C 同条第三号「新物質(neue Stoffe)とは、第二号の意味に含まれる古物質ではない物質である」。
・第二七条では、刑罰規定がおかれている。
第一に、第二七条一項以下では、つぎの行為をした者は、二年以下の自由刑または罰金に処せられる。
A 第一号「そのつど第一七条二項、三項、四項、もしくは六項と関連して、そこに示されている物質を流通におくもしくは使用、混合、または製造するについて、第一七条一項一号a、二号b、または三号の法令に違反した者。但し、法令が、一定の構成要件に代わって、本刑罰を指示している場合に限る」。
(付記:第一七条は、禁止及び制限に関する権限、並びに被用者の保護のための措置に関する権利を定めたものであるが、
(a) 第一七条一項「連邦政府は、関係集団の聴聞の後、連邦参議院の同意をもって、法令を通じて以下のことについて権限を付与される。但し、これは、第一条において示された目的に必要な場合に限る」。
(b) 同項第一号a「一定の危険な物質もしくは一定の危険な混合物を解放可能にするもしくはこれを含有する、一定の危険な物質、危険な混合物、また製造物は、一定の状態もしくは一定の目的以外は、製造、流通におく、または使用することは許されない」。
(c) 同項第二号b「一定の危険な物質もしくは一定の危険な混合物を解放可能にするもしくはまたはこれを含有する、一定の危険な物質、危険な混合物、また製造物を製造、流通におく、または使用する者は、これに関して許可を必要とする」。
(d) 同項第三号「一定の危険な物質を発生させる製造もしくは使用行為を禁止する」。)
・第二に、第二七条一項二号「危険な物質、混合物もしくは製造物を流通におくこと、またはその使用に関して、第二三条二項一段に基づく執行可能な命令に違反した者」。
(付記:第二三条「管轄を有する州官庁は、最高三ヶ月の間、危険な物質もしくは危険な混合物を解放可能にするもしくはこれを含有する、危険な物質、危険な混合物、また製造物は、流通におくことまたはその使用が許される一定の前提条件の下、一定の状態の下、または一定の目的のため以外は製造してはならないということを命じることができる。但し、このことは、物質、混合物、または製造物によって人の生命もしくは健康もしくは環境にとって重大な危険が生じるという、特に学問的認識の見地にしたがって基礎づけられた疑念の根拠が存在する場合に限る」。)
・第三に、第二七条二項「第一項、第二六条一項一号、四号、五号、八号b、一〇号もしくは一一号において示された行為によって、他人の生命もしくは健康または、重大な価値を有する他人の財物を危険にさらした者は、五年以下の自由刑もしくは罰金刑に処する」。
(付記:第二六条一項は、以下の行為を故意または過失によって行った者は、秩序違反であるとする。
(a) 第二六条一項一号「第四条一項もしくは二項に示されている期間が経過する以前に、第四条一項もしくは二項に反して、物質を流通におくもしくは輸入した者」。
なお、第四条は申告義務に関して定めた規定である。
(1) 第四条一項「製造者は、物質そのものもしくはこれを混合の構成要素として、商売のためもしくは他の経済的事業の範囲の中で、つぎの場合にのみ流通におくことを許される。彼がそれを最初にヨーロッパ共同体の加盟国内で流通させる前の、遅くとも四五日前に申告所に申告した場合」。
(2) 同条第二項「輸入者は、物質そのものもしくはそれを混合の構成要素として、商売のためもしくは他の経済的事業の範囲の中で、つぎの場合にのみヨーロッパ共同体の加盟国以外の国から輸入することを許される。彼がそれを最初に本法律の適用領域内に輸入する前の、遅くとも四五日前に申告所に申告した場合である。但し、輸入者が物質を既に他のヨーロッパ共同体加盟国に輸入し、かつそこで同等の手続で申告した場合には、申告を要しない」。
(b) 第二六条一項四号「第二〇条二項一段と関連して、第一一条三項にもとづく執行可能な命令に違反した者」。
なお、第二〇条は検査証明の提出に関する規定である。
(1) 同条二項一段「検査証明及び他の証拠が不完全もしくは誤っているか、またはヨーロッパ共同体の組織の法律行為に基づいてさらに検査証明が必要であることを理由に、検査証明及び他の証拠が十分な判断を可能にしない場合、申告もしくは報告義務を有する者は、申告所の要請により、これによって定められた期間内に、必要な報告及び補足を提出しなければならない」。
(c) 第二六条一項五号a「第二号とも関連して、第一三条(危険な物質、混合物、及び製造物の等級分け、充填、及び記号づけに関する規定)に違反して、危険な物質または危険な混合物を等級分け、充填、または記号づけしないか、または定められた方法でこれをしない者」。
(d) 第二六条一項五号b「第一五条(新たに再び流通におくことに関する規定)に違反して、定められたやり方で充填もしくは記号づけせずに、危険な物質、危険な混合物、または危険な製造物を流通においた者」。
(e) 第二六条一項五号c「充填及び記号づけに関する第一四条(等級分け、充填、及び記号づけの規定に関する権限の付与)一項三号a、d、もしくはe、または一定の指示もしくは勧告の提供に関する第一四条二項二段に基づく法令に違反した者。但し、一定の構成要件に代わって、これが罰金規定を指示する場合に限る」。
(f) 第二六条一項八号b「被用者の保護のための措置に関する第一九条三項(被用者の保護のための規定)と関連して、第一九条一項に違反した者。但し、一定の構成要件に代わって、これが本罰金規定を指示する場合に限る」。
(g) 第二六条一項一〇号a「第二三条一項(官庁の命令に関する規定)に違反した者」、また同号b「物質、混合物、もしくは製造物の製造、流通におくこと、または使用に関して、第二三条二項一段と関連して、第二三条二項三段に基づく執行可能な命令に違反した者」。
(h) 第二六条一項一一号「その遂行を目的に、第二一条二項一段またはヨーロッパ共同体委員会もしくは理事会の法律行為の意味におけるヨーロッパ共同体の命令に違反した者。但し、一定の構成要件に代わって、第二一条二項二段にもとづく法令が本罰金規定を指示する場合に限る。連邦政府は、第一段にしたがって秩序違反として罰金を科しうる命令及び法律行為の個々の構成要件を示すことについて、連邦参議院の賛成をもって、法令を通じて権限を付与される。但し、これが命令及び法律行為の遂行にとって必要な場合に限る」。)
・第四に、第二七条三項で、未遂も可罰的とされている。
・第五に、第二七条四項一号では、過失の場合に関して、同条一項の場合には一年以下の自由刑または罰金、二号では、同条二項の場合には、二年以下の自由刑または罰金が科せられる。
六 法益保護の早期化
概略的ではあったが、サリン規制法について紹介した。つぎに、本規制法に関する若干の問題を指摘すると、一つには、法益保護の早期化が見られる。
法益保護の早期化とは、「刑罰規定によって保護されている法益にかんがみて、当該法益の侵害という結果が発生する以前の危険な行為または実行の着手以前の予備行為を一個の独立した犯罪として処罰する」(拙稿「現代刑法における法益保護の早期化について(一)」立命館法学二三三号(一九九四年)四四頁)ことであり、法益を刑法上早めに保護するとか、早い段階で法益保護を図るということを意味する。サリン規制法の規範に含まれている具体的危険犯(第五条)、形式犯もしくは抽象的危険犯(第六条)、予備犯、又は未遂犯などは、まさに法益保護の早期化のカテゴリーに含まれる。法益の早期化の問題性という観点からすれば、特に、抽象的危険犯や予備犯が関心の的となる。
現代刑法における法益保護の早期化傾向の顕著な徴候は、核システムに対する脅威、環境破壊の脅威、また経済システムに対する逸脱行為によって生み出される撹乱の脅威に対して、これらを刑法上規制するところに現れる。そもそも発端としては、このような脅威が客観的・表面的な原因となって、社会的な不安が生まれるのであるが、その背景には社会における危険・危機状況が横たわっている。この社会的危険・危機状況は、「脅威」という客観的ファクターと「不安」という主観的ファクターの相互作用の所産といえる。したがって、危険とは、存在するものではなく、それは、多層的な社会的相互作用の過程および解釈過程の中で明らかになるものなのである(Felix Herzog, Gesellschaftliche Unsicherheit und strafrechtliche Daseinsvorsorge, 1991, S, 54.)。このような過程を通じてまたはそのような中で社会において危険が意識されるようになる。ここでの危険は、文明生活の中での個人の生存のための前提基盤、つまり、例えば、核管理システム、環境システム、また経済システムに対する危険である。本稿の中心的問題のサリン規制であれば、国家的管理の下での毒ガスなどの化学兵器の管理システムの確実な保全と、化学兵器の確実な管理によってもたらされる公共の安全が保護対象となろう。そこで現代刑法において特徴的なのは、このシステムに対する危険の予防を刑法が担う傾向であり、その上抽象的危険犯という、判例・通説にしたがえば、危険というメルクマールが立法動機に格下げされ、それは行為の中に当然に化体されているものと見なされ、実際の裁判では原告は危険の立証を要しないとされる規制形式で対処しようとすることである。
大まかに言えば、ここでの刑罰の正当化根拠は---市民の内面的要素も絡んでいるのであるが---、個別の社会におけるサブシステムの「安全性」を保障することによって、全体として社会システムを安定化させることにある。これに対し、かかるシステムを撹乱させる行為の処罰根拠は、社会を「不安」にさせること、「不安」に陥れることに求められる。ここでは侵害や具体的危険を事後的・回顧的に処理する刑法は影を潜め、まさに実害という結果を問題とすることなく、規範に違反した行為者の態度が法益侵害を惹起する前に、未然にこれに対処し、刑罰を加えることを目的とするような予防刑法が現れる。いわば、「侵害刑法」から「予防刑法」への移行が行われようとしている。
このような刑法理論上のパラダイム転換を推進するのはもちろん社会的背景によるところが大きい。例えば、地下鉄サリン事件で、名百、何千もの人々が亡くなったとしたら、「ひょっとするとイデオロギー的な問題が、完全に表面化していたかもしれない。つまり戦後やってきた平和、民主主義、自由でやっていくか、それとも戦前型ではないでしょうが、何か違った形の強力なリーダーシップで徹底的にやるかという非常に激しい対立が起こっていた可能性がある」(【対談】養老孟司・青木保「何がオウムを生んだのか」中央公論六月号(一九九五年)六四頁)との指摘にも見られるように、人々を不安に陥れ、安全性への渇望を強めさせる出来事は、社会の基本原則の再検討のための動機を与えるが、このような問題は、刑法においては「近代」刑法理論の再検討という形で出てくるように思われる。
なぜそうなるかというと、その理由として、第一に、問題の重大性、第二に、刑罰の効果に対する幻想とも思われる信頼、第三に、罪刑法定主義、自由保障原則、責任原則、補充性原則、またウルティマ・ラティオ原則など、近代刑法のもつ諸原則が問題解決にとって足かせになっていると見なされていること、などが挙げられよう。ここでは、第一の理由をバック・ボーンにして、第二の理由がこれに結びついて、---近代刑法にとって、しかも個人の自由保障にとって「積極的」な意義をもつとされてきた---第三の理由が社会問題解決にとって「消極的」なファクターへと変質させられる恐れがある。
七 シンボルとしての刑事立法
もう一つの問題は、今回のサリン規制法(サリン等による人身被害の防止に関する法律)が、地下鉄サリン事件発生後、極めて異例の早さで公布、施行されたことである。なぜ問題なのかといえば、まさに社会的に話題になっている問題に対して、立法者もしくは立法に関与する人々が UP-TO-DATE に反応する、つまりこのような社会問題を立法化することは、社会の人々に、立法者の対処の積極的姿勢を見せつつ、同時に市民の心理的動揺を鎮静させようとする企図の表れであるからである。なお、一九九二年、国連で「化学兵器の開発、生産、貯蔵、及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」(化学兵器禁止条約)が採択され、日本は翌年これに署名し、一九九五年、これに批准するために「化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律」が制定されたが、それにもかかわらず、一連サリン事件を契機にサリン規制法が制定されたのである。これについて、「今日本がなすべきことは、先に成立した国内法(論者注:化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律)が不十分であればそれを補い、さらには化学兵器禁止条約に不備があればそれを国際的に指摘し、各締約国と協議の上、より実効の上がるものにしていくことであろう。また日本単独でのサリン特別立法が無意味であることは、現在の犯罪が国際化していることを考えれば用意に理解できることだろう」(常石敬一「サリン立法を考えるわが国の非国際性」、週刊金曜日第七〇号(一九九五年)五七頁)という批判が出されている。この批判自体は、それなりに意味をもっていると思われるが、しかしむしろより重要なことは、「サリン」規制の立法化が市民の心理的側面に密接に関与していることである。サリン規制法がその立法化までの速さや、犯罪の手段に供される恐れのある化学物質や化学兵器一般を包括的に規制対象とするのではなく、むしろサリンという物質名を強調して立法された点(サリン等による人身被害の防止に関する法律)を考慮すれば、なるほどと思わせられるはずである。また、「サリン法は、いわゆる地下鉄サリン事件の発生という事態にかんがみ、極めて毒性の強いサリン等による危害から公共等を守る緊急の必要から、これらの特別の物質に限って、その発散による被害が発生した場合等の警察官の措置等を定めるとともに、サリン等につき、特に規制を加重した法律であると解することができる」(登石郁朗「『科学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律』並びに『サリン等による人身被害の防止に関する法律』について」研修五六三号(一九九五年)五一頁)、との説示は、このことを強調するものである。まさにこのような立法化は、社会問題との関係や市民の心理的不安との関係と切っても切り放せない点で、まさにシンボリックな立法(象徴立法)といえる。
このようなシンボリックな性格をもつ立法では、国家は、「必要悪」ではなく、問題解決の「旗手」のように見なされ、国家による暴力はまったく「善」なものとされ、これに対する市民の監視の目はたいへん甘くなり、暴力装置としての国家権力への批判的意識が社会から消え去ってしまう。---具体例や国家観については相違するが---「現代福祉国家論にあっては、国家は既に市民の自由と権利に対立するものではなく、まさにその『保護者』として立ちあらわれる。このような国家観に立脚するかぎり、古典的な国家と個人の緊張関係は止揚され、国家の市民生活のへの干渉(それが刑罰であれ保安処分であれ)は、『保護』として積極的に是認されることになる」、という福井氏の説示は、基本的に同じことを指しているといえる(福井厚「刑法学方法論の動向」中山研一編『現代刑法入門』(一九七七年)八四頁以下、関哲夫「いわゆる機能主義刑法学について(二)」国士館法学二三号(一九九一年)八二頁以下参照)。
大ざっぱに言うと、近代刑法の理念は、市民の自由保障とか、国家からの可能な限りの自由とか、また国家権力の恣意的行使の抑制などにあったと言っても過言ではない。しかし、今回のサリン規制法にしても、シンボリックな立法について、立法機関がこれら近代刑法の理念を顧慮して法律を制定しているのかは疑問である。しかも、制定された規範の適用及び解釈に際しても、同様の疑問が湧き上がらざるを得ないように思われる。
刑法は、人の自由を剥奪するゆえ、その制裁は他の法領域と比較して最も厳しいものといえる。このような峻厳な制裁は、社会有害的で、他の法領域では処理することのできない、重大な結果を惹起した、有責な行為に向けられるべきである。これだけを見れば、サリン規制法は、サリンという化学物質が何千もの人々を殺す物質であることからして、刑事的対応に適したものといえる。しかし、殺人や傷害などであれば、従来の規定でまかなえるのであり、それにもかかわらず、サリンガスという行為手段をとり上げて独自に規制しようとするのは、市民の不安を一時的に解消させることを意図したものであり、長期的な視野から将来の社会コントロールを考えたものとは言い難い。他の方法・手段で犯罪が行われたとしたら、その手段や行為態様が、またシンボリックに立法化され、新たに犯罪化されるのである。その繰り返しになる恐れがある。
---少々大げさに聞こえるかも知れないが---市民の不安の解消と関連して刑事的対応をまことしやかに叫ぶことは、刑罰万能主義化の恐れを生じさせたり、しかも市民相互間の協力に基づいた問題への対処の機会を奪うことになりかねない。したがって、大きな社会問題だからといってすぐさま刑罰による対処という方法を用いることは、かえって問題状況を悪化させたり、法に対する市民の信頼を喪失させることにもなりかねない。我々は、このことを肝に命じておく必要があるのではなかろうか。