立命館法学 一九九五年二号(二四〇号)




◇ 資 料 ◇
フレッド・ハリディ著

国際関係論再考
(ロンドン、一九九四年刊)(二)

菊井 禮次  訳






目    次


  • は し が き
  • 第一章 序論---「国際的なもの」の意味と関連性
     1.「国際的なもの」についての見方
     2.国際関係論の形成に影響した諸要因
     3.国際関係理論の出現
     4.リアリズムと行動主義
     5.一九七〇年代以来の国際関係論
     6.「再考」の媒介要因(以上二三九号)
  • 第二章 諸理論の相剋
     1.伝統的経験論---歴史学とイギリス学派
     2.「科学的経験論」---行動主義の魅惑(サイレン)
     3.ネオ・リアリズム---内容なき「システム」
     4.無類の誇大壮語---ポスト・モダニズムと国際的なもの
     5.結論---別の進路(以上本号)
  • 第三章 不可避の遭遇---史的唯物論と国際関係論
     1.忌避された挑戦
     2.マルクス主義と国際関係論の三「大論争」
     3.史的唯物論の潜在能力
     4.史的唯物論のパラダイム
     5.理論の抑制
     6.冷戦経過後のマルクス主義
  • 第四章 国際関係論における国家と社会
     1.国家についての難問
     2.諸定義の対比
     3.国内的・国際的アクターとしての国家
     4.国家的利益と社会勢力
     5.諸社会と諸国家システム
  • 第五章 同質なものとしての国際社会
     1.「国際社会」の意味
     2.トランスナショナリズムとその境界
     3.国際社会の「構成」パラダイムとその主唱者たち
         ---バーク、マルクス、フクヤマ
     4.国際関係論にとっての含意
  • 第六章 「六番目の大国」---革命と国際システム
     1.相互無視の状況
     2.革命とその影響
     3.国際システムの形成
     4.歴史的パターン
     5.国際的・国内的連結環
     6.革命と戦争
  • 第七章 国際関係論の隠された主題---女性と国際領域
     1.国際関係論の沈黙
     2.高まる関心---四つの要因
     3.国家と女性---ナショナリズムと人権
     4.含意と諸問題
  • 第八章 体制間対立---冷戦の事例
     1.対立の独特な形態
     2.冷戦の諸理論
     3.理論的対抗の源泉
     4.異質なものの突出
  • 第九章 一方だけの崩壊---ソ連と国家間競争
     1.旧来の問題に対する新しい見方
     2.上からの転換
     3.社会主義から資本主義への移行
     4.国際的要因と冷戦
     5.相対的な失敗
     6.国際的競争の三つのレベル
  • 第一〇章 国際関係論と「歴史の終焉」論
     1.冷戦の余波
     2.歴史的評価の多様性
     3.「歴史の終焉」論
     4.リベラル・デモクラシーと平和の展望
  • 第一一章 結論---国際関係論の将来
     1.規範的なものの挑戦
     2.新たな研究方法論


  第二章 諸理論の相剋
 第一章では、国際関係論が直面している諸々の挑戦と困難について簡単に説明した。こうした挑戦を前にして、国際関係論の学界は、近年、方法論をめぐる一連の論争に悩まされてきたが、この論争の公の目的は、その根底にある方法論上の不確定状況を解決し、外部の現実世界とのもっと厳正な関係を確立することにあった。だが、論争の結果何が生まれたかと言えば、それは殆どの場合、方法の明確化でもなければ、歴史とのもっとバランスの取れた相互作用でもなく、真理の再確認(既成のアプローチの場合)であるか、あるいは混乱への迷走、アカデミズムの内向性で一層ひどくなった理論的紆余曲折、歴史の意義と挑戦の双方の拒否(新たな理論の場合)であった。一方では、事実崇拝としての歴史への凭れ掛かりは、歴史性の否定、つまり政治的及び知的変動ないし文脈の否定に奉仕するものであった。他方では、勿体ぶって発表された「メタ理論」、つまり理論をどのように叙述するかに関する論争は、実体の分析から遊離するようになった。
 問題は、学問としての専門化や理論的発展に異議を唱えることにあるのではない。既に明らかにしたように、どちらも重要である。しかし専門化といっても、有益な専門化もあれば無用な自己隔離もある。精密で且つ可能な限り明晰であり、しかも説得力をもつ理論活動がある一方で、こうした要素を全く欠いた、理論のための理論という意味で「理論主義的」とでもいうべき理論がある。こちらの方はしばしば、古めかしい哲学的基盤を覆い隠して、実体のない、混乱した、眠気を誘うような事柄、別に明確な言い方のできる事柄を、わざわざ勿体ぶって何か新しい事柄であるかのように言う振りをする。
 この点で、方法論に関する二つの指針がとりわけ重要である。その一つは、国際関係論の著述は、方法論上抜かりのない明確なものでなければならないが、国際関係論それ自体は、他の社会科学とは異なった理論上ないし方法上の論点を提起するという意味で方法論的に特殊なものではない、ということである。国際関係論が抱えている諸問題---事実と価値の問題、合理性と解釈の問題---は、他の社会科学の諸問題でもある。つまり、国際的なものは、認識論その他の面で特別扱いを受ける地位に立っているわけではない(1)。一九八〇年代後半に国際関係論の内部に生じた「第三次論争」の躓きの石となったのは、他ならぬこの点であった(2)。国際的なものだけの議論を通じてこれらの問題を解決しようとしたり、他の社会科学での議論と切り離して国際関係論を叙述しようとするのは、独断というものである。
 第二に、国際関係論が何らかの主題---それが「現実的なもの」であれ「歴史上の具体的なもの」であれ何であれ---に適用されるとすれば、その理論を検証するものはそれのもつ説得力であって、その方法論の〔主題からの〕遠近性ではない。抽象は必要であろうが、しかしそれは説明への道筋としてである。誤った理論に取って代わるものは経験主義ではなくて、概念と説明のどちらの次元でも優れている理論である。というのは、国際関係論の学界では、これまで余りにも多く前者の例をみてきたし、またとりわけ近年になってからは、それとは反対に、歴史的説明に基づかないで理論化を図るという事例を嫌というほど目の前にしてきたからである。
 これら二つの指針を出発点として、本章では、過去数十年間に様々の点で、国際関係論が直面している諸々の挑戦への解答として提出されてきた比較的手堅い四つのアプローチを考察することにする。それらは、伝統的経験論、「科学的」経験論、ネオ・リアリズム、ポスト・モダニズム、の四つである。

 1.伝統的経験論---歴史学とイギリス学派
 すべての社会科学は、その特定の専門分野の内外から、「事実」があれば十分であり、諸々の理論、概念、専門用語は不必要な「隠語」、衒学的自負の類である、とする主張に直面している。このことは、特に国際関係論について言える。というのは、この学問分野が「隠れていて人目に付かないこと」の結果、国際問題に関心を抱いているか、それに一家言を持っている者の殆どは、この主題に関する専門的な、概念上特定の文献が存在していることを知っていないように思われるからである。またこの学問領域の内部からも、こうした方向に沿って圧力が加わる。例えば外交史家は長年にわたって、概念やモデルについて慎重な態度を取ってきており、この点で彼らが逸脱行為と見做すものを性急に指摘する。関係文献をみると、そこでは、そうした概念やモデルを研究する必要性を頑に、また実質的に拒否する議論が再三繰り返されている(3)。初めて国際関係論を学ぶ学生からは、理論的研究が必要だとする考え方は、しばしば驚きを以て迎えられる。つまり、本当に事実だけで十分ではないのか、また、国際的なものの知識はできるだけ多くの事実を知ることにあるのではないのか、という驚きである(4)。だが、国際関係論、否、他のどの学問領域においても、事実だけでは十分ではないのである。
 経験論に対する反論は至るところで、特に社会学に関する論争で説得的に且つ頻繁に述べられてきた。こうした批判は、他の社会科学と同様に国際的なものの研究にも当てはまる(5)。第一に、どの事実が重要で、どの事実がそうでないかについて何らかの予知が必要である。事実は無数にあり、それ自体で何かを語るわけではない。学者であろうとなかろうと誰にとっても、重要性の尺度が必要となる。第二に、何らかの一連の事実は、たとえそれが真実であり重要であると認められたとしても、異なった解釈を生む可能性がある。例えば、「一九三〇年代の教訓」をめぐる論争は、一九三〇年代に起こった事柄に関するものではなくて、これらの出来事をどのように解釈するべきかをめぐっての論争である。同じことは、一九八〇年代の冷戦の終焉についても言える。第三に、人間という行為主体は、ここでも学者であると否とを問わず誰でも、事実だけに甘んじているわけにはいかない。というのは、一切の社会的活動には正・不正の道義的問題が含まれており、これらの問題は当然ながら、事実によって解決できるものではないからである。国際的領域では、そのような倫理的争点に満ち溢れている。例えば、人は民族、それより広範な共同体(世界、コスモポリスをも含む)、あるいはそれより小規模な下位民族集団のいずれに服従すべきか---という正当性と忠誠心の問題、主権は最高の価値であるか否か、また他の国家あるいは行為主体は諸国家の内政に干渉することができるか否か---という干渉の争点、人権及びその定義と普遍性の問題が、それである。
 国際関係論の分野では、事実/理論の分割線は当初、外交史を基盤とする、国際的なものへの歴史学的アプローチと、「国際関係論」それ自体、つまり国際的なものに関する比較的・理論的研究に取り組もうとする最初の試みとの間に引かれた。幾つかの点で、このような分割は、国際関係論における概念的発展の成果を用いて国際史の特定の局面や挿話的事件を説明する一連の著作の中で克服されてきた(6)。国際関係論と国際史を分かつ歴史上の分割線はどこにあるかをめぐって、馬鹿げた無益な議論が至るところで続いている。この議論は、争点が「記録に拠らない歴史学」とか「概念に依拠しない国際分析」などにあるのではなく、異なったアプローチ、一方の事実に即した特定のアプローチ、他方の比較的・理論的アプローチにあるという肝心な点を見逃している。
 従来の経験論的見地と方法をまだ留めながらも、伝統的歴史学の枠を超えて新たな理論的領域に進入しようとする一つの共同の試みは、「イギリス学派」に代表されるそれであった。この学派に属する一群の著作家たちは一九六〇年代と一九七〇年代に著作活動を開始し、今日もなお英国の諸大学に有力な支持者を擁している。「イギリス学派」の強みは以下の点で明らかである。即ち、「現在重視主義(プレゼンティズム)」の流行に対する強力な抵抗、国際領域では強制と必然性が持続するとの断固たる主張、国際関係の研究では概念と価値が繰り返される旨の強調、そして決して最小のものではないが、歴史そのもののしっかりとした基礎知識、の諸点である。この学派の著作には、それに取って代わろうとしてきた、より「科学的」ないし理論として現代的だと称する文献の大半よりも遥かに強い説得力と理論的刺激がある。
 「イギリス学派」の二つの中心的概念---「国家」と「社会」---は、後続の諸章の焦点をなすものである。この二つの用語が提起する難しい問題の他に、「イギリス学派」はマーティン・ワイトの著作に反映されているように、幾つかの点で、その起源に縛られており、外交史家たちと同等の立場を示そうとする配慮に依然として拘束されると同時に、国際関係論が、国際史からの足場とともに、同学派に持ち込んだ概念上の足場にも拘束されていた(7)。
 第一に、ワイトが操作している「歴史」の概念は極めて制限されたものであった。即ち国王と女王、議会と闘争、条約と法律である。歴史家たちと格闘しながらも、彼の歴史観は歴史そのものの概念の変化と歩調を合わせることができなかった。つまり、経済的なものと社会的なものは、視野の外に置かれたままであった。マーティン・ワイトの著作を呼んで最も印象に残るのは、その中での歴史の扱い方が、見事で学識の深さを示すものであるとはいえ、歴史家自身が既に大方そうするのを止めてしまっている扱い方だということである。それと同様に、ワイトとその仲間は哲学上の論点の重要性を強調し、彼ら自身の哲学的シェーマ(特に「国際社会」)をもっているが、彼らの政治哲学の概念は同じく時代遅れのものであって、その内実は、ワイトによって合理主義、現実主義、革命主義の三つのカテゴリーに都合よく分類された一連の繰り返し現れるテーマの検討と再検討にあった。「現在重視主義」への是正策としては、また国際関係の議論の基底にある概念上の争点、つまり分析的及び倫理的争点を引き出す手段としては、それは有益であった。しかしこの概念では、政治哲学そのものがどれほど進展していたか、またそれが、「国際的なもの」を含む政治理論の極めて多様な、ある意味でもっと説得力のある形態があり得ることを、どのように示しているかを認識することができなかった。
 彼らの「哲学的」探究、つまり、国際的なものの内部にある理論的支柱を引き出す作業が、一九七〇年代と一九八〇年代の大々的な政治理論の復活の直前になされてしまったということは、ある意味でイギリス学派にとって不運であった(8)。ワイトの有名な論考---「何故国際理論はないのか」---は、理論に関する特定の概念、即ち実質的には古典哲学を前提としており、それは、同論考が発表されるや殆ど時を同じくして他の著作によって乗り越えられる運命にあった(9)。
 以上に挙げた全般的な限界に加えて更に指摘すべきことは、概念自体の用い方である。というのは、後続の諸章で詳細に究明するように、ワイトとブルが使用している中核的用語---「社会」、「国家」---は、適切な、もっと言えば明晰な概念構成上の精緻化が施されていないからである。諸々の定義が、全体的な議論に通用するような仕方で導入され意味付けがなされているが、しかし、そうすることで結果的には、彼らはそれ以外の説明及び概念的精緻化の可能性を排除している。まだ挑戦を受けていない外交史の仮説から引き出される最も明白な争点は、何が国際システムそのものを構成するのかということである。諸国家間関係の発展と関連づけた定義は、一つの有効な定義ではある。しかしこの定義では、「国際的なもの」がナショナルなもの、ないし個々の国家の間の連係からともかくも構成されるという前提に加えて、更に国際史を外交史と国家間関係史のレベルに位置づけている。経済的なものと社会的なものが起点であって、その中で政治的なものと軍事的なものが重要な役割を演じているという視点に立てば、国際的なものの歴史と概念について、この定義とは別の描き方をすることができる。ホブズボーム、ウォーラーステイン、クリッペンドルフ、ウルフ、もっと最近ではローゼンバーグの著作は、すべてそのような別の描写の例である。少なくとも言えることは、これらの著作は国際システムの全く異なった歴史を提供しており、このシステムの発展に関する通説的捉え方、「国際社会の拡張」に対する様々の倫理的回答を意味しているということである(10)。

 2.「科学的経験論」---行動主義の魅惑(サイレン)
 史実本位の経験論に取って代わると自称する一つのアプローチが、一九五〇年代と一九六〇年代に社会科学内部の「科学革命」と、歴史的及び経験論的説明に代わるものとしての行動主義の興隆の中から出現した。この学派は、国際的なものの分野においても他の領域と同様に、新たな数量的、非歴史的、且つ厳密な社会科学が可能であると公言した。それは同時に、既存の諸学派を根拠のないもの、時代遅れのものとして批判することを意味していた。だが、伝統派のヘドレー・ブル及びフレッド・ノースエッジと行動主義派のジェイムズ・ローズノー及びモートン・カプランの間で続いて行われた論争は、どちらの場合も的外れなものであった(11)。
 第一に、この論争は形の上では方法論をめぐるものであったが、二つの「国家的」伝統、つまり「イギリス的」アプローチと「アメリカ的」アプローチの衝突という性格を帯びていた。このような誤った論争の仕方は、元々の哲学的争点を曖昧にする以外に、国際関係論を、二つの暗に一枚岩的な国家陣営にともかくも分類されたものとして提示する風潮を助長し、そうすることで、どちらの陣営にもある議論の多様性、例えば英国の場合には国際政治経済論の興起、また米国の場合には広範囲に及ぶ種々の理論的・政治的アプローチといった多様性を覆い隠すことになった。言い換えれば、この論争は正統派学説と反対派学説のどちらをも補強するのに役立ったのである。多様性の隠蔽という後者の側面は、非アメリカ人著作家たちが難癖をつける伝統に従って、「アメリカ的」国際関係論を単一の、時として「帝国主義的な」総体、問題にもならないものとして扱うやり方の中に特にはっきりと現れた。政治的には的外れで分析的には不正確な、このようなやり方は続けられ、長年にわたって否定的結果をもたらしてきた。歴史と地域の相違は国際関係論の著述に形となって表れるが、しかし同種の表れ方をしないとは限らない。北米の行動主義の自惚れは、その反対派---英国の歴史学方法論であれ「反帝国主義的」挑戦であれ---の独りよがりの中に、むしろいとも簡単に自分の片割れを見出したのである(12)。
 第二に、経験論批判は、経験論に勧告すべき点を多々もっているとはいえ、ジェイムズ・ローズノーやJ・D・シンガーといった著作家たちの提起した対案(13)は、それ自体見せ掛けのものであった。科学的、計量的国際関係論ないし社会科学一般の行く先は、実現不可能な夢(キメラ)である。というのは、それは既に指摘したように、人間行動の予測不能性が避けられないこと、何が重要かを識別する基準なしに分析はできないこと、人間社会の事柄では倫理的争点が役割を演じること、を無視するからである。しかも、科学主義というその主張にもかかわらず、行動主義は見せ掛けの科学概念を使って理論を操作している。政治家たちは、亡くなって久しい経済学者たちの構想を用いて政治を操っていると言われてきたとすれば、多くの社会科学者と国際関係論内部の少なからぬ研究者は、それよりも遥か以前に亡くなった科学哲学者たち(例えばジョン・スチュワート・ミル、一八〇六ー七三年)の偏見を使って理論を操っていることになる。自然科学の多くの領域では、予測は理論的妥当性の尺度ではない。社会科学と同様に自然科学も、数量化され得ないか、あるいは精確化され得ない多数の概念を使って理論を操作している。実証主義者にとって皮肉なことに、自然科学はしばしば、彼らが伝統主義学派を激しく非難する論拠にしている「判断」にむしろよく似た分析概念を使って、理論を操作している。行動主義の潮流が、その素朴な「科学性」の主張を掲げてピークに達していた正にその時に、クーンが自著『科学革命の構造』を出版して、その中で、いかに外部からの、「制度化した」要因が特殊なアジェンダを形成するかを示したのは、皮肉というしかなかった(14)。その他の点では近代社会である米国が、時代遅れの方法論に何故それほど大騒ぎしてきたのかは、国有銀行制度の欠如と同様に、それ自体むしろ奇妙な現象である。
 こうした方法論的欠陥に加えて、そのような実証主義自身の、以下のような貧弱な成績について指摘しなければならない。即ち、他の社会科学におけると同様に、数量化と代数学の巨大な構造物は、余りにもしばしば、陳腐なものや曖昧なもの、あるいはその両者を生み出した。「国家」や「戦争」など、時代遅れになったと称する制度化したカテゴリーを躍起になって遠ざけようとする余り、学者たちはごちゃ混ぜの相互作用や極端な分類法に助けを求めた。歴史を拒否することで、行動主義は、しばしば歴史的アナロジーを無視した、そして社会現象の今日的独自性(例えばグローバリゼーション)を誇張した結論を引き出した。
 国際関係論における行動主義の成果は、従って、乏しいものであった。つまり、「行動革命」は、データの無用な蓄積と何の意味もない歴史無視の比較を通して、大きな知的、学問的遠回りの役割を演じたのである。とはいえ、歓迎すべき方法論論争の鼓吹以外に、若干の有益な成果もあった。既に第一章で論じたように、一方では、「対外政策分析」として知られる、対外政策形成過程についての広範囲にわたる探究が行われるようになった。第二の肯定的成果は、「相互依存」という用語に包摂される、新たな形態の国際的相互作用の探究であった。
 これらが国際関係論の「科学的」方向転換の重要な成果だとしても、こうした成果は、この学問分野の理論的方向転換の所為で得られた、というよりもむしろ、それにもかかわらず得られたのである。というのは、この大袈裟な「革命」の最悪の特徴の多くは、至る所で見られたからである。即ち、捕らえ所のない精確さと予測の狂気じみた追求、明白な事柄をわざわざ軽薄な且つ自分だけに通用する言葉を使ってこじつけ、しかも煽動的に述べることに益々没頭する傾向が、それである。このようなアプローチの一例は、戦争原因の諸理論に、経験的事実に基づいた精密な根拠を提供しようとする試みであった(15)。もう一つの例は、概念的にあるいは歴史的に深く追究することなしに、国家が「トランスナショナルな」新事態に取って代わられたとする断言であった。立場をもっと明確にした行動主義者たちの方法論的渦巻きに巻き込まれなかった者ですら、時代遅れになったとかいう国家についての関心に対して、彼ら自身の、斬新な、アプローチを対置した。この点が、ジェイムズ・ローズノーの高い眼識にもかかわらず、彼の著作にみられる根強い欠陥であった。その結果は、支配的なリアリスト学派の理論的前提と、その国家概念から結局のところ脱出できなかったことである。一九六〇年代に、国家は新しいトランスナショナルな現象に取って代わられたと公言し始めていた人々の多くは、国家が理論的にも実際の面でも引き続き関係していることを認め、リアリスト的アプローチの前向きの修正を提案することで終わった。
 これの重要な事例は、トランスナショナリズム・アプローチの発案者の一人であり、国際関係理論の分野で活動している研究者の中で最も革新的で、且つ広く読まれている学者の一人であるロバート・コヘインであった。トランスナショナリズムに関する彼の一九七〇年代の著作は、最良のものの一つであり、行動主義の影響を受けた著作の中では「科学的」教条性の最も少ないものであった。一九八四年に出版された彼の『ヘゲモニー後』は、トランスナショナリズムとの論争での重要な転換点を示した。というのは、同書は、リアリストの中心的主張の一つ、即ち、諸大国なしには、また国際システムにおいて「ヘゲモニー」と呼ばれる指導と権威の要素なしには、いかなる秩序もあり得ないという主張を取り上げたからである(16)。
 同書は、リアリズムのこの前提に挑戦したという点で重要なものであったが、にもかかわらずコヘインの著作には、議論の余地のある多数の前提が含まれていた。一方では、恐らくぴったりした歴史的文脈を設定するためであろうが、同書は、世界における米国の影響力の衰退の程度を誇張して言うとともに、他方、それに取って代わると称するトランスナショナルな制度、この場合には「国際エネルギー機関」の役割を誇大視した。他方では、同書の論旨は、問題のある幾つかの理論的前提を抱えたままで進められた。即ち、合衆国の「衰退」についての同書の歴史的説明は、余りにも唐突に軍事力と経済力の間に敷居を設け、冷戦後続いてきた米国の軍事的優位と主導権が、経済面その他の「領主的」権益をもたらした道筋を認識することができなかった。今日の世界における力関係についてのその説明は、先進諸国間のそれに特有のものであって、後進国家と先進国家の間の力関係を含めたものではなかった。従って一般的な説明としては、それは、一方では帝国主義の理論、他方ではリアリズムの理論でもっと公然と認識されているヒエラルキーと寡頭政治的権益を過少視したのである。
 コヘインはまた、国家についてのリアリズムの定義だけを使って、それに対抗する彼自身のトランスナショナリスト的理論を定義し、これに照らして、共通の立場に立っているとみられるリアリズムとマルクス主義のどちらからも距離を置こうとした。その結果、マルクス主義に対して敵対的ではなく、その議論を真摯に受け止めようとしていた(ある点で、彼は自らをカウツキー主義者と称している(17))にもかかわらず、コヘインは、マルクス主義の内部では「国家」は、リアリストの理論で意味するそれとは全く異なった意味をもち得ること、またこの概念が、彼が相互依存論の中に包含した経済的・社会的・イデオロギー的要素の多くを取り入れた権力論に具体化されていること、を見ようとしなかった。

 3.ネオ・リアリズム---内容なき「システム」
 上述のような挑戦と、国際過程における経済的争点の重要性の高まりに直面して、以前は歴史的及び哲学的考察に留まっていたリアリスト学派は、一群の新しい研究、「ネオ・リアリズム」を生み出した。クラスナーとタッカーの著作は、既に第一章で言及したように、この点で重要であった。「ネオ・」が、伝統的テーマ---国家、権力、紛争---を再度主張するための隠れ蓑としてある程度役立ったとすれば、それはまた、二つの点で以前のアジェンダの重要な修正を表していた。即ち、一方では、国家間関係における経済的要素の役割が大きく注目されるようになったことである。但しそれは、トランスナショナル的もしくは相互依存的アプローチの観点からではなく、国家権力の手段、つまり重商主義と競争の手段としてである。他方では、リアリズム理論をより精密にし、それが、以前の世代のように方法論に関して攻撃を受けるのを防ごうとする試みにみられるように、理論的修正が図られたことである。これらの点について論述したネオ・リアリズムの文献の中で、恐らく最も影響力をもったのは、ケネス・ウォルツの『国際政治の理論』であったといえよう(18)。
 国際関係論の分野におけるウォルツの名声は、一九五九年の『人間、国家、戦争』の出版によって確立された。同書の中で、彼は戦争の起源に関する三つの「イメージ」---人間の本性、国家の内部構成、国際システム---を比較した。その結果、彼は、戦争原因理論の論拠を提供するのは第三のイメージである、という結論に到達した。この研究から生まれ、彼のその後の著作で繰り返されることになる中心テーマの一つは、諸国家の国内的性格は国際関係の研究から排除されるべきだとする観念である。
 だが、リアリスト的立場を明快に論述した『人間、国家、戦争』は、実は二つの論点を犠牲にして、一見不動のものとみえる結論に到達したのである。第一に、同書が紛争の原因説明を、表面的には別個の三つの区画に分けて行ったのは、これまで多くの理論がウォルツの三区分に跨がって説明してきたやり方を勝手に改変するものであった。というのは、例えばイメージ1の人間性に根拠を求める殆どの理論は、人間の個性と行動について「環境」つまり社会化と関わらせて説明してきたからである。より重要なことに、ウォルツのイメージ2に根拠を置く理論、即ちリベラリズムとマルクス主義のどちらにも、原因説明の本質的部分として国際的次元が含まれていた。リベラリズムは、民主主義と平和の密接な関係を、単に前者が後者を規定するものとしてではなく、相互作用の過程として強く主張していた。レーニンの帝国主義の理論を、「第二のイメージ」の鋳型に無理矢理嵌め込むことができるのは、帝国主義が国内過程の生み出したものであるどころか、いかに国家間の経済的及び軍事的競争の所産であったかを詳細に考察したこの理論を、強引に捩じ曲げた場合だけである。第二に、一九七九年の著作にみられるように、ウォルツは彼が「還元主義」理論と名付けるものを、「システム」理論、即ち、国際システムだけを見るものに対抗して国際関係を国内的要素と関連付けて説明する理論と対照させている。彼がこれを支持する理由として挙げる論拠は、アクターの性格の変動にもかかわらず、国際関係における帰結を規定する秩序が存続しているということである(19)。ウォルツが引き出す結論は、従って、市場を分析するとき会社の内部経営を研究する必要はないのと同様に、国際関係において国家の性格を研究する必要はない、というものである。以下に論じるように、これは問題のある結論である。
 『国際政治の理論』は、国際関係の研究には理論が必要であり、且つそれは可能だ、また国家間関係の構造を分析することが重要だ、とする主張で始まっている。彼の言う構造とは「一連の制約条件」を意味しており(20)、彼は国際領域におけるこの構造を、二つの過程、社会化(即ち特定の行動の諸国家による容認)と競争の過程を引き合いに出して例証している。
 国際政治システムの構造は、ウォルツの見解では、とりわけ三つの特徴によって性格規定される。即ち、それは、より高位の権力が存在しないという意味で無政府的であるという事実、異なった構成単位間に機能の差異がない、つまりすべての国家がほぼ同じ機能を遂行していること、及び権能の不公平な配分、つまり大国・小国間の差別、という三つの特徴である。これらの一般的な命題から、彼はその他の多くの結論を引き出す。即ち、国際政治システムの中心的メカニズムはバランス・オブ・パワーである、またいかなる時代においても、国家間システムの性質はその中の諸大国の性格と数によって規定される、という結論である。一九四五年以来の世界は二つの大国間関係によって構成されていたのであり、従ってそれは、一八世紀と一九世紀の多極世界とは対照的に両極世界である、ということになる。
 ウォルツは、リアリズムについて再度述べる機会を捕らえて、彼の理論を国際関係における多くの今日的争点に適用している。こうして彼は、相互依存論の熱烈な支持者を、歴史的観点に欠けている---相互依存はある点で今日よりも一九一四年以前の方が進んでいた、と彼は主張する---として、また国家間の過度の相互作用が生み出す恐れのある危険を軽視しているとして批判する。相互依存的見解の一部として、軍事力は以前ほど役に立たないと論じる学者とは対照的に、彼は、軍事力は両極世界においてその目的を保持している、と主張する。ウォルツにとって、一九四五年以後の両極システムは、それが紛争の危険を減少させる以上、望ましいものであった。国際システムにおいては数が少ない方がよい、と彼は主張する。国際関係を管理する問題に目を向けると、国際機関の役割や権力の拡散を強調する研究者とは反対に、ウォルツは、解決の鍵は諸大国による国際関係の建設的管理にある、と論じている。
 ウォルツの分析には二つの重大な問題点があり、彼の説明と、彼の批判者たちの殆どのそれとを読み比べてみれば、そのことは直ちに明らかとなる。第一は、彼の分析は、国際関係の特定の段階の産物であり従ってその段階に特有なものであるシステムの諸特徴を、超歴史的ないし永続的特徴としているという意味で、それは非歴史的である、ということである。ゴラン・サーボーンの次の言葉は、他の社会科学部門と同様に国際関係理論にも当てはまる。「最も抽象的な理論的論述や科学的試みといえども、特定の歴史的時期における特定の社会の所産である(21)。」ウォルツは、ツキディデスと一連の歴史的事件の事例を引き合いに出して、国際システムの構造は数千年もの間同じ形態を保ってきた、と論じている(22)。だとすれば、我々は、現代国家システムとその成立過程を捨象した、また紀元前四世紀のギリシャと一九四五年以後の時代との間に介在してきた歴史過程を捨象した理論を扱っていることになる。彼及び国際関係を扱う他の多くの著作家たちが前提にしているのは、近代国家や民族ないし国際市場が登場する以前に、「国際システム」はあった、とする想定である。これは、しかしながら、問題のある主張であり、あたかも古代ローマと現代アメリカの価格政策を、あるいは古代ギリシャの市民集会(アゴラ)での投票行動と近代選挙でのそれを研究すべきだと言わんばかりの主張である。幾つかのごく一般的な論述はどちらのシステムにも適用できようが、しかし、そうした論述は殆ど重要性をもたない陳腐なものであろう。
 実際、ウォルツ自身が同書の至るところで、極めて限定された歴史的期間にしか当てはまらないような論述を行っている。例えば、現代世界における諸国家の永続性を論じて、彼は「諸国家の間で滅亡率は著しく低い(23)」と述べている。ここで言う「諸国家」が近代における独立した諸国家を意味しているとすれば、ウォルツの言い分は確かに正しい。だが、彼の言う「諸国家」が過去二千年の、否、過去一五〇年の歴史的記録を指しているとすれば、それはナンセンスとなる。というのは、様々な形態の征服、特に帝国主義の強襲によって圧殺され滅亡させられたヨーロッパ及び第三世界の一見明瞭な政治的統一体の数は、間違いなく数千に達するからである。諸国家の低い滅亡率に関するウォルツの論述が、彼が議論している構造に特有のものであるとするならば、実はその構造は、一七世紀におけるヨーロッパでの国際システムの出現以後どころか、植民地主義の終焉以後に初めて現れたごく近代の創造物なのである。
 このような非歴史的観点は、そのシステム自体の歴史、また特に中世以後の時期における現代国家システムの起源、更にそれと資本主義の勃興との関係について、何ら論及していないことで補強されている。ウォルツが国際関係の厳密に「政治的な」分析を志し、そしてそれに照応した国家の「民族的・領土的」概念を保持している以上、彼の見解には、資本主義の概念も、また個別の諸国家の興起と資本主義の国際的展開との関係についての研究も入る余地は全くない。
 実際のところ、国際過程についての、更に最近では国際経済過程についてのその関心にもかかわらず、国際関係を扱った文献は、「資本主義」という用語を少しでも用いることに著しく臆病になっているようにみえる。このような「資本主義」の無視がもたらした結果の一つは、リアリズム理論、及びこの理論でいうところの歴史が、諸国家と国際システムがどのように相互に関係しているかについて特有の説明を行っていることである。この神話によれば、諸国家は個々の統一体として出現し、その後徐々に相互に関係を持ち始めたことになる。かくしてウォルツは言う。「諸構造は諸国家の共存から生ずる(24)」と。この言い分は、歴史社会学の中心的教訓の一つと諸国家の発展に関するその説明、即ち、行政的・強制的統一体という意味での国家は、国際過程の結果として発展するのであってその逆ではない、という説明を無視している。軍事競争と市場拡大は、共有文化の存在と併せて、国家システム出現の結果ではなくて前提条件であった。最初に諸国家が生起し、次いで相互に関係を持ち始めて国際システムが構成された、とする正統学派の見解は、現実に対しては、社会契約の神話やコウノトリのお話によく似た類の関係をもっているのである。
 諸国家の歴史と定義をめぐる混乱は、ウォルツの分析にみられる第二の重大な難点、即ち、国際関係は純粋にシステム的なレベルで研究することができるし、またそうすべきである、という主張にはっきり表れている。ウォルツがこの主張に向けて進める議論は、誰にでも分かる初歩的なものである。つまり、国際関係には、諸国家の内的作用の検討を不要にするだけの十分な整然とした秩序が存在するという議論、及び理論の「簡潔さ」が望ましいとする、より一般的な主張である。この点に関するウォルツの論述は、またしても啓発的である。国際関係の分析にはシステム的要因を考慮に入れなければならないとする彼の議論、即ち、国家は単に何をしようと自由だというわけではなく、全体としてのシステムによって規制されているという議論は、非の打ち所がない。こうして彼は尤もらしく述べる。「単に諸国家の内側を見るだけでは世界政治を理解することは出来ない(25)」(傍点は引用者)と。しかし、この言い方は、国際関係の理論化に際しては諸国家の国内過程を完全に除外しても構わない、と論じることとは全く異なる。というのは、「単に」諸国家の内的作用を見るだけでは国際関係を研究することはできないという言い方から、内的作用を無視しても構わないという言い方への移行は、重大な且つ論拠薄弱な移行だからである。
 「構造」という用語の使い方について、恐らく人類学や言語学におけるそれのような他の使い方の影響を受けてであろうが、ウォルツは決定論的な用法に引きつけられており、個々の構成単位間の相違が関係していることを否定している。しかし、そうすることで彼は、言語学の場合のように、内的作用が構造の作用に全く無関係でいられるような分析対象と、外的作用と内的作用がかなりの程度相互に関係している分析対象を一つに融合させてしまう。諸国家は、言語学の形態素〔意味を担う最小の言語単位〕や惑星あるいは親族構成員の類ではない。上記のように「内的作用」の関連性を否定する上で、ウォルツが、「国家」という言葉の意味するものをめぐるスタンダードな国際関係論の混乱によって助けられることはいうまでもない。というのは、国家の当初の意味、つまり法的・政治的という意味では、内部的なものはすべて国家概念の中に当然含まれているという事実を前提にすれば、諸国家の内的作用を問うことは、厳密に言えば、辻褄が合わないからである。ところがウォルツは、これを、従来の混乱した国家概念を放棄する良い口実として取り入れる代わりに、その論理的帰結として民族的・領土的国家概念を取り入れ、アンバランスな国際関係論を生み出すのである。
 『ネオ・リアリズム』の末尾に収録されている批判者たちへの彼の回答の中で、ウォルツはこの点に関して、何らかの論拠を与えようとしているようにみえるが、しかしそれは、彼が「還元主義的」理論に対抗するものとして、厳密に「システム的な」理論を好しとすることを放棄する程のものではない(26)。ところが、そうするために彼が持ち出す事例は、「システム的」理論による解釈に当てはまるのと少なくとも同じくらい「還元主義的」理論による解釈にも当てはまるのである。即ち彼は言う。フランスとドイツがもはや戦争に訴えそうにないのは、国際システムでこの両国が占める地位が変化した、つまりどちらももはや大国ではないからだ、と(27)。しかし、世界には戦争に訴える可能性のある、また実際にそうする中・小諸国は多い。イランとイラク、あるいはインドとパキスタンは、フランスやドイツに比べれば殆ど大国とは言えない。これらの国家の政策的選択を規定するものは、そのような構造上の地位ではなくて、これと国内的要因---これらの国家が二〇世紀(特に両世界大戦)に経てきた歴史的経験の種類、それらが維持している政治的及び社会・経済的体制の種類、その結果としてそれらが発展させてきた同盟関係---とが結合したものである。この事例に基づいて、人はウォルツの主張と正反対のことを十分論証できるだろう。つまり、単に諸国家間関係を見るだけでは国際関係を理解することはできない、と。
 ウォルツが提起している二者択一---還元主義的理論かそれともシステム的理論か---は必要ではない。必要とされるのは、『ネオ・リアリズムとその批判者たち』の数人の執筆者が示唆しているように、対内的レベルと対外的レベルを結び付ける理論である。ラギーが指摘しているように、近代国家システムの出現は、国際関係の作用にかなり大きなインパクトを与えていた全く別個の種類の国家ー社会関係にもとづくものであった(28)。
 これと同様に、革命の国際的次元の研究によって、国際的要因が諸国家の内的作用にどのように影響するか、及び革命の結果、こうした国内的変化がその後、国際システムにどのような影響を及ぼすか、のどちらをも説明できることは明らかである。ウォルツは殆どのリアリストと同じように、革命の国際的影響力を控え目に表現しようとし、ボリシェヴィキ革命が、どのようにして一九二二年には国際的行動の規範を受け入れるようになっていたか、言い換えれば、構造によって「社会化」されていたか、の物語を得々として語っている。第六章で論じるように、チチェーリンがシルクハットと燕尾服を身に着けて、ラッパロでドイツとの秘密協定に調印したという事実は、ロシア革命と資本主義的西洋との間に底流としてあるイデオロギー的対立が終わったことを決して意味するものではなかった。システムの支配的な規範とそのシステム内のその他の主要なアクターの正統性とを容認する、という意味での社会化が行われなかったことは、周恩来が一九五四年にジュネーヴに到着してアンソニー・イーデンと一緒にお茶を飲んだときと同様に確かである。ボリシェヴィキ革命後、長期の対立、第二次世界大戦期間と大戦後に新たな活気を取り戻すことになる対立は、既に始まっていた。つまり、この対立は、バランス・オブ・パワー理論とリアリズムの抽象的概念に訴えるだけでは説明が付かず、それは社会的及び政治的諸システムの両立不可能性を含意していたのである。この対立がどのように、また何故進行したかを説明するためには、ソ連及びその西側敵対者それぞれの内的作用、つまりリアリズム理論が排除しているものを検討することが必要である。

 4.無類の誇大壮語---ポスト・モダニズムと国際的なもの
 ポスト・モダニズムが国際関係論の分野に登場したのは一九八〇年代後半からであり、それが他の学問領域、最初は美学と人文科学、後に社会学、歴史学及び政治学の領域で発達したのに続くものであった(29)。この学派の登場は、従って、国際関係論における「第三次論争」と呼称されてきたもの、但し構造主義とマルクス主義の導入を以て第三次とすれば実際には「第四次論争」の一部を構成することになった。この「第三次」論争は多種多様な学派の挑戦を包含していたが、その中の二つ、フェミニズムと史的唯物論の挑戦は後章で取り上げる。最も簡潔に言えば、ポスト・モダニズムの主張は以下の二点である。即ち第一は、それによって歴史または社会科学の何らかの特定部門を理解することができるような単一の合理性もしくは歴史叙述は存在しない、という主張、第二は、表面的には個別的で単一のものにみえる社会科学の諸カテゴリー及びその他の説明形式は、政治生活の主体を、より合理的と称するアプローチが示唆するよりも遥かに複雑で不確定なものにしている諸々の意味やアイデンティティの多様性を覆い隠している、という主張である。概念とスタイルの上でフランスのポスト構造主義の著作に強く影響された、だがそれ以前のニーチェの概念的及び道義的不確定性の影響をも受けたポスト・モダニズムは、一九八〇年代に大半の社会科学の内部で主要な新挑戦者となるに至った。
 社会と権力の構成に占める最も広い意味での「ディスクール(説法)」の役割---言葉、意味、シンボル、アイデンティティ、コミュニケーション形式---を重視するポスト・モダニズムの見地は、国際関係にとって、特に、諸国家が自分たちの正統性を専有し且つ突出させようとしてきたやり方の点で、重要な意味合いをもっている。コミュニケーションとメディア・イメージが重要な役割をもつ世界には、ここで検討すべき多くの事柄がある。例えば、世界における種々様々の「現実逃避」の伝播を検討しているロバートソンとフェザーストーンの著作は、そのような分析の可能性を示している(30)。それと同時に、いかなる人間主体にも多様なアイデンティティが開かれている、とする主張、及び必然的な諸矛盾(例えば「一国的なもの」と「国際的なもの」との矛盾)の否定は、解釈面でも倫理面でも重要な意味をもっている。
 しかしながら、国際関係論へのポスト・モダニズムの導入は、もっと議論する余地のある多数の要素を伴っていたのであり、それらの要素は、この学科目を進展させるどころか多くの混乱と逸脱を生んできた。そもそも、国際関係論におけるポスト・モダニズムの導入と議論は、社会科学内でのこの潮流をめぐるもっと広範な議論と殆ど切り離された形で進められてきた。というのは、一九八〇年代末期にこの流派を支持する人々は、それに先行する十年有余にわたって展開された、このアプローチに対する多くの批判に殆ど注目もしなければ回答もしてこなかったからである(31)。要約すれば、これらの批判は以下の点を強調している。即ち、一般に通用する道徳原則を一切否認するポスト・モダニズムの基底にある無道徳主義という点、歴史上の出来事や時期について実体のある説明ができないという点、社会における「ディスクール」ないしイデオロギー的要素の役割を誇張して述べている点、及びこれらの要素がその他のもっと具体的な生産過程、社会関係、実際の日常生活に対してもっている関係を無視している点、である(32)。
 これらの一般的な批判に加えて、国際関係論の内部にはっきり表れた更にもう二つの批判を挙げることができる。第一は、そのアプローチ全体が、「ポスト・モダニティ」と称するものに、つまり、ある意味で世界は新たな歴史的局面に入ったとかの論拠のあやふやな主張に頼っている、という批判である。しばしば歴史を脈絡のないままに適用して、しかも空間、時間、危険、知覚に関する何らかの不確定な観察を根拠にして唱えられる、このような「ポスト・モダン」世界のまじないは、説明というよりもむしろ呪物として役立つのである。ポスト・モダニズムは、その上、耳新しいものに関するその他の多くの主張やその方法論的意味合いについても非難を受けている。というのは、「ポスト・モダニズム」の哲学的ないし認識論的主張が、啓蒙思想の弱点、アイデンティティ、事実ー価値の区別、カテゴリー等々に関して妥当するとすれば、それらの主張は、近代におけると同様に一五世紀、否五世紀においても常に当てはまった、ということになるからである。狂気や幽閉を扱ったフーコーの著作の強みは、それが、彼が検討している数世紀の歴史的スパンを超えて当てはまるという点にある。彼の亜流たちの自惚れは、自分たちには、思想上の革命で歴史的転換をでっち上げることができる、と思っている点にある。
 以上に挙げた実体的な諸問題以外に、ポスト・モダニズムの文献で批判に値する、また実際に批判を招いているもう一つの面がある。即ち、その語調とスタイルである。ポスト・モダニズムは、支配されるもの、周辺的なもの、下位のものに対する彼らの関心を重視する。だが、これには、規範としての空虚さと、自分たちこそ、そのような問題にコミットした最初の、あるいは唯一の人間だとする自惚れが付きまとっている。歴史や概念の実体的な分析が成功しそうにないとき、こうした傾向の著作家たちは再三にわたって、気取り屋風の躊躇いとあやふやな明白さが入り交じった、スタイリスト的手法に訴える。イスラム教聖職者の著作に見られるように、論証を補強するためではなく、それの欠如を埋め合わせるために、繰り返し、取り止めのないお喋り、概念上の威嚇がいとも安易に多用される。例えば「瞑想」などの言葉は、このようなスタイルの一部であるわざとらしい敬虔さを示しており、リアリストが好んで、ツキディデスから借りてきた挿話やキケロからの引用で彼らの説話に味付けするのと同様に、ここで使われている文学作品や科学史に関する歴史書からの断片は、装飾用にちりばめられている。ダー・ダリアンの『外交論』は、この種の選択の一例である。フランスの著作物(特にサルトルとアルチュセールの著作)から派生した、以前のアングロサクソン学派の著作にはっきり表れていた「シュランシェール・パリジェンヌ(パリ風高値競売)」の誘惑は、ここでは必ずしも上手とはいえない形で再現されている。一九七〇年代に「輸入ビール」という呼び名が先手を争って使われたように、むしろ「大陸的」という言葉は、これらの理念とスタイルに尤もらしいお墨付きを与えるために利用されている。つまり、ある理念が「大陸的」または「島国的」である、パリ風またはロサンゼルス風である、といったことは、その理念の妥当性ないし説明の及ぶ範囲について何も語ってはくれないのである。
 こうした語調の内部では、「認識論」の諸問題、もっと世俗的に言えば社会科学の哲理の諸問題の扱い方が重要な役割を演じるが、ここではそれは、いやに気取った、だがしばしば陳腐で役に立たないやり方で操作されている。理論のこの要素が他に何を表現してきたかはいざ知らず、それは、科学ないし社会科学の哲理における発達状況を非公式にでも意識したものとはいえない。この学派の著作家たちは喜々として、認識論、解釈学、弁証法、閉鎖構造等々の新形態について公言している。しかし、彼らはそうすることで、科学哲学一般の諸問題を解決しているのでもなければ、国際関係論の理論化に貢献しているわけでもない。国際関係論の分野では、彼らの作業は勿体ぶった、独創性のない、空虚なものであり、既述のように、そのパリ風形式において、混乱した二流の議論であったアングロサクソン学派の二番煎じである。そのようなテキストの草分け的論集から取った以下の文章は、その語調を伝えている。
 決して単一の学派でもなければ単一のアプローチでもなく、「ポスト・モダン」あるいは「ポスト構造主義」の項目の下に知られている若干の学問的実践---脱構築、記号論、系統論、フェミニスト精神分析理論、相互原文研究(インターテクステュアリズム)、及びこれらの変種---は、それらの間にある相違にもかかわらず幾つかの共通したテーマをもっている。中でもそれらは、知識、真理、意味はどのように構成されるかという問題を扱っている。最も広義には、それらの研究は、構成に関わる啓蒙運動がもたらしたものに何故満足できないか、について説明している。哲学を起源とし、またその実践でもあるポスト構造主義は、西洋合理主義と実証主義の基盤をなす知的想定に挑戦している。これらは、近代科学とその熱愛する里子、社会科学が見つけ出した想定であることが分かる。
 フランスの哲学者たちによるポスト構造主義的立場からの合理主義批判は、他の分野にとって極めて魅力的であることが分かった。誰もその理由について適切な説明をしていないが、最初の熱烈な解釈者はアメリカの文学理論家たちであった。ポスト構造主義的分析は、事実/価値の区別と、一般に事実性に関する我々の概念、ポスト構造主義者の主張によれば、紋切り型であり、事実に根ざしたというよりもむしろ人工的に構築された概念のどちらに対しても、激烈な挑戦状を突きつけている。彼らは、言語の働きに特に焦点を合わせることによって、一見なるほどと思わせる「事実」の外観を作り出すあの約束事を、しばしば極めて説得的に明るみに出している。強力な社会勢力に利用されたディスクールは、科学的客観性の名において、「真理のレジーム」を構成するに至った。ポスト構造主義の分析手法は、そのような知識と権力の共同統治を批評する新たな手段、潜在的には社会科学の諸理論を評価する上でも助けとなる手法を提供する、と称している。
 ポスト構造主義が文学理論家たちの間に、何故そのような歓迎の場を見出したのか、考えられる一つの理由は、これらのグループに必然的な、複数の解釈を認める寛容さが、意味がどのように構成されるかについても何か重要な事柄を彼らに教えていたということである。文学理論家たちの手の中で、脱構築や系統論といった方法が、何らかの複雑なテキスト分析を行うための研ぎ澄まされた精巧な用具として改造されようとしているのは、別に驚くほどのことではない(33)。
 ここには一切のものが揃っている。つまり、パリ仕込みの気取ったおまじない、幾つかの理論的アプローチのごちゃ混ぜサラダ、文学批評と社会科学の領域間の相違に関する無邪気なほど開けっ広げなナイーヴさ、といったものである。
 その長所も短所も含めて、このようなアプローチの代表例は、ロバート・ウォーカーの著作『内側/外側---国際関係論と政治理論(34)』である。ウォーカーの批評の最も説得力のある面の一つは、彼が、見解の相違の主な領域を、決して国際的なものの分野にではなくて政治理論一般に置いていることである。学問分野として自立しているというその自負心は、実在的なものの、また倫理的なものの独立した領域としてある国際的なものという自負心と、長期にわたって重なり合ってきた。つまり、彼の伝統に対する再評価は、国際関係理論を、そのより広範な知的及び学問的文脈にしっかりと引き戻すのである。彼は、最近提起されている主な代替理論には殆ど見向きもしない。古典的リアリズムが「鋭い存在論的敵対物との軽率な抱擁」を表しているとすれば、「科学的」アプローチは「安っぽいカント哲学」にすぎず、ネオ・リアリズムは正に再燃した具象化であり、合理的選択理論は「功利主義物語」であり、政治経済学は時空的永続化の罠に嵌まっている、というわけである。
 ポスト・モダニズムとポスト構造主義の思考に広く影響されているウォーカーから見て、国際関係理論には三つの大きな弱点があり、それらはすべて政治理論それ自体から出ている。即ち、それは、歴史的に生み出され従って変化を免れない諸々のカテゴリーと対照を、永続的なもの、所与のものとして扱っている。それは、一国的及び国際的な政治の世界が、「ポスト・モダン世界」の転換とともに変化しつつある程度を表示することができない。従ってそれは、一国的、国際的あるいは地域的レベルにおける人間環境の改善を可能にするかもしれない別個の理論と実践の進化を、沈黙によって排除し追放していることになる。マーティン・ワイトがウォーカーにレッテルを貼らねばならないとすれば、彼は革命論者、しかしカントのであれマルクスのであれ、彼らのカテゴリーには懐疑的な革命論者ということになるであろう。というのは、彼らのカテゴリーは、ウォーカーの見解では、それ自体、彼ら自身の具象化の印を帯びたものということになるからである。
 ウォーカーは、永続的なカテゴリーの批判、特に、彼がリアリズム理論の形態と同じくユートピア/理想主義理論の形態においても、国際関係理論の支柱をなしていると見ている一連の反対名辞、即ち、同一性と相違、内側と外側、空間と時間、共同性と無政府性、という反対名辞の批判を行うために、ポスト・モダニズムを利用している。彼は、時間と空間のカテゴリーの概念構成的役割が、国際関係の内部で国家主権の概念に具体化されている、とみている。
 こうした具象化を批判する上で彼は、フランスの科学哲学者、ガストン・バシュラールを引用し、そこでは、「ここに」と「あそこに」という言葉が「絶対主義の高みにまで持ち上げられて、その結果、場所を表すこれらの副詞が、場違いにも、存在論的決定の無制約の力を付与されている」という趣旨のことを述べている(35)。同書の書名に謳われている「内側」と「外側」のカテゴリーは、そもそも、国内政治の性格と国際政治の性格の何らかの根本的な相違をめぐる、またそれぞれに適応した、あるいは可能な実践の差異をめぐる議論に関係している。これらのカテゴリーはまた、二つの対照的な主権概念、一方は内部で機能する潜在的に民主的で応答的な主権、他方は外部で機能する必然的に競争的で敵対的な主権、という二つの概念の幾何学的な、従って一見不変の土台を提供するものと見做されている。彼はその最も示唆に富む中心テーマの一つにおいて、このような二元的主権概念の展開について、ホッブスを経てマックス・ウェーバー(国際関係理論の歴史においてしばしば無視されているが、しかし国家及び国家間対立の厳然たる不可避性に関する近代的概念を樹立した主要人物)に至る、その過程を跡づけている(36)。
 ウォーカーの議論の理論的支柱に納得しない者にとっても、ここには頷かせるものが多々ある。即ち、国際関係理論を、政治理論と社会的に具現化された権力のより広範な文脈の中に位置づけたことは、「XはYを読んだ」とか、もっと悪い例を挙げれば、「BはAの学生であった」とかの形式張った系統論に比べて大きな進歩である。主権に関する諸理論の性格は歴史的に形成されたもので、条件次第で変わるという主張も、同じく歓迎できるものである。
 他の批判的伝統派の立場に立つ者にとっても、従って歓迎すべき多くの点があるが、但しそれは、このようなことの大半は以前から言われてきたし、またこうした点は近年、これら批判的伝統派のカテゴリーの内部に更にもっと取り入れられてきているという抗議、及び比較的少数だが、理論的再生が図られているという主張を付した上でのことである。というのは、歴史社会学(チャールズ・ティリ、マイケル・マン、ジョン・ホール、テダ・スコッチポルにみられるように)と国家に関するマルクス主義的歴史学方法論(ペリー・アンダーソン、エレン・ウッド、もっと最近ではジャスティン・ローゼンバーグにみられるように)はすべて、国家と主権に関する我々の概念の歴史的相対性を探究してきたからである。これらの著作では、国際関係論の中心的な政治的カテゴリーの批判的再評価は、歴史的過程と事実への取り組みに少なくとも匹敵するほど行われており、しかも後者の作業は、ポスト・モダニストたちが性急に一歩を進めてテキストの厳密度や遺漏の点検に努めたところで、恐らく太刀打ちできそうもないほど綿密なものである。
 目新しさの点は別として、ウォーカーの理論の難点は、国際関係理論に対する彼自身の批判において、問題を位置づけた正にその箇所に生じる。即ち、難点の第一は、彼が自分の議論を支えるために持ち出した、歴史的変化に関するより広範な仮説に、第二は、現行の永続的なものの代わりとして、政治的または倫理的に適当なものを措定したことに求められる。第一のものは、あれこれの「代替的」思考やモデル化にみられるように、掴み所のない、実際退屈なものに留まっており、ご親切にも、地域的なもの、コスモポリタン的なもの、脱構築的なものを、社会的現実または倫理的及び歴史的必然性のどちらにも結び付けずに持ち出している。事実ある点で、ウォーカーもそのことを認め、現在までの論議を、「殆ど理論化されていない諸々の可能性と仮説的苦闘の蜘蛛の巣」として要約している。彼の議論の中心をなす、一つの打って付けの解釈は、カントを国家主権論者として解釈することである。論じられているのは永久平和であって、全人類史、ではないからだ、というわけである。首を傾げざるを得ないこの解釈は、ケーニヒスベルクの教授〔カント〕が、先験的な理論的及び歴史的過程を措定することによって、二世紀以前に偉大なる知的活力を以て、彼の片割れである後世のポスト・モダニストたちが今日乗り上げた地点に既に到達していた、という議論を再度押し付けるための伏線となる理論的措置である。
 ウォーカーは、「ポスト・モダニティ」をめぐる議論で一般問題を蒸し返している。つまり、この議論は、世界は実際にどのように変化しつつあるかという議論を含んでおり、トランスナショナリズムが熱中しているものについての変種---ギデンズやデリダと組み合わせたローズノ---ーと解される。グローバルな現象としての「ポスト・モダニティ」をめぐる議論は、変化の更なる加速と我々が以前の時代から受け継いできた諸カテゴリーの消滅とに特徴づけられる歴史上の新たな段階、という概念に依拠している。ウォーカーはギデンズその他と同様に、アイデンティティはもはや明白ではない、また一般に、かつて明確さが支配していた所で不明確さが支配している、という見解を繰り返している。他の多くのポスト・モダニストと同じように、彼も性急にトランスナショナリズムの主張を受け入れ、それについての批判を無視している。彼はまたおめでたいことに、「一切の固定的なものは空中に溶解する」という趣旨のマルクスの文言を採り入れている。だが、一切の固定的なものが空中に溶解してしまうわけではないし、また社会学者や別の考え方をする思想家たちが、我々にそう信じ込ませようとしているが故に、そうなるといったものでないことも確かである。というのは、実は彼らは、以下のように全く別の、合理的な、目的論的なメッセージを伝えているマルクスの文章の後半部分を省略してしまっているからである。即ち、「・・・そして人間は最後には、冷静な意識で、自分の現実の生活条件、及び自分の類との自分の関係を直視することを余儀なくされる(37)」という部分である。ポスト・モダニストにとって、現実的なもの、否それどころか、冷静なものについての概念はあり得ないのである。
 社会科学はどちらかと言えば余りにも、「ポスト・モダニティ」について云々する人々で溢れているが、しかし子細に検討してみると、それは、イデオロギーの終焉論、小説の死滅論、新世界秩序論、国家の代替論、等々と並んで、終末観的な一時的流行であると言えよう(38)。新たな空間的・時間的世界に関する主張の殆どは、良くて比喩的、悪くすれば駄弁であり、しばしば極めて階級的及び場所的に制約された---実に、自民族中心主義的なものである。アイデンティティの不確実性についての議論は、もしポスト・モダニストが望むとすれば、いかにアイデンティティが、しばしば蒸発させられる国家と同様に、以前よりもむしろ重要になってきたかについて、証拠を挙げて反駁することができる。例えば、旧ユーゴスラヴィアにおける戦争で印象的であったのは、新たな形のアイデンティティや政治的イデオロギーの襲来ではなくて、旧来のそれの根強い生命力であった。
 世界における何らかの大規模の、だがかなり明白な変化についての断言以外には、一体どのような経験的または倫理的な力が、「ポスト・モダニティ」という概念に付与され得るのか疑わしい。というのは、既に示唆したように、この概念を使用してきた大低の者は、現実的なものについて語る資格もしくは意向を殆どと言っていい程持ち合わせていないからである。改変性、分解、凍結した枠組みについての気の利いた決まり文句と、世界で実際に変化したものについての誇大な主張は、歴史との実体的な取り組みに取って代わるものでもなければ、あるいは政治的及び理論的変化に関する別の捉え方をそれらしく概念化したというものでもない。むしろ余りにも自分自身の言い回しに酔い痴れて、ポスト・モダニズムは、新手の陳腐な言葉と化する危険を冒している。即ち、彼らが取って代わろうとしている空虚な一般論---それが勢力均衡論であれ進歩主義的目的論であれ---と同様に、あやふやでしかも役に立たない一連の断言、及びどの概念においても、何らかのものがどのように変化し得るかについての、また変化を起こさせる作因の問題についての分析的または規範的意味を欠落させていること、がそれである。ウォーカーの場合にみられるように、そこにマキャヴェリとの著しい類似点があるのは何ら不思議ではない。彼の懐疑主義と手当たり次第の歴史引用は、現代のパリ風ファッションの先駆けに他ならなかったからである。勿論マキャヴェリも当時の大いなる「ポスト・」好みの人間であった。
 それにもかかわらず、ウォーカーの著書が、国民国家を放棄するのではなく、それに新たな、より民主的で多義的な内容を付与することに焦点を合わせた、一連の重要な新しい考察を加えたという点で示唆に富んでいるのは、正にここ、即ち作因の論議においてである。そして、ポスト・モダニズムのより実体的な洞察の一つ、即ち、全ての個人及び政治制度は、唯一の排他的なアイデンティティではなく幾つかの重なり合ったアイデンティティをもっている、という洞察が有益となるのも、やはりここである。ウォーカーの著書の中で民主主義を扱った第七章は、これらの問題を、倫理的に曖昧な態度ではなく、その暗示的な性格において、国内的及び国際的レベルで民主主義がいかにして前進し得るかを論じていた以前の思想的伝統と両立できるようなやり方で提起している。この意味で、それは優れてカント的である。このことは、ポスト・モダニズム的行き過ぎの背後に、もっと実体的な、厳密で合理的なモダニスト的議論が潜んでいるという結論を示唆するものといえよう。政治思想は過去において、神秘主義的で不可思議な殻から合理的な核心を抜き出すことによって前進してきた。だとすれば、これは、そのような変換あるいは侵入が当てはまるもう一つの事例と言えるかもしれない。
 だが、この潜在的なものを現実化させるには、ポスト・モダニズムやその他多くの学者が耽溺している「新」社会運動の極めて一般的な呪文を乗り越えることが必要であろう。「新」運動について論じた文献は、一方では、旧形態の政党(主として共産主義政党)の危機に対応して、他方では、特定の政党に結びついていない、あるいは階級的帰属意識に根ざしていない一連の運動、即ちその明示的なカテゴリーとして性差別、人種差別、環境問題、軍縮問題に関わる諸運動の明白な成長に対応して、一九七〇年代に増大した(39)。だが、学問的論争では往々起こりがちなように、この学派の学術文献は、この点に関して立ち往生したままであるか、あるいは平和運動は冷戦を終結させた、といった類の慰めの断言にしがみついていた(40)。ここでは、左翼的・批判的教説が、非国家的アクターに関するトランスナショナリズムのよりオーソドックスな主張と並んでいた。この派の文献が見落としていたものは、余り歓迎されない幾つかの考察すべき問題であった。即ち、第一は、これらの運動の役割はしばしば主張されていたよりも遥かに小さなものであり、しかもその種の運動は往々にして、旧式の政党と同様に、それ自身の意見の相違と分派主義に引き裂かれていたという問題である。第二は、若干の運動は良質の解放的なものであったが、他の多くは---例えば、ドイツとフランスにおける人種差別的な大衆運動、ヒンズー及びイスラム原理主義、あるいは合衆国右翼の多様な表情は、ポスト・モダニストたちが引き合いに出した左翼やグリーン派の潮流の「社会運動」と同種のものではなかったという問題である。ポスト・モダニストたちが立ち向かうと主張した主要な課題の二つ---解放主体の説明と確認---に応える彼らの力量は、従って、むしろ限定されていた。つまり、彼らの前の行動主義者と同様に、彼らも多くの約束手形を発行したのである。

 5.結論---別の進路
 そうだとすれば、国際関係論の研究にとって、いかなる種類の方法が相応しいか。以下の諸章は、そのような努力の一端を担い、この分野における理論的作業に必要な若干の一般的基準を満たそうとする一つの試みである。第一に、これらの章では、実在する「諸事実」と「現実性」に関して反経験論的、概念的であり、且つ関連する所では批判的であるアプローチを展開している。第二に、これらの章は、社会科学にとって中心をなす基準、即ち説明という基準を満たし、そして説明を通して、研究のアジェンダ、つまりまだ明らかにされていない研究プログラムの生成を図ろうとしている。特に、冷戦を扱った議論は、一連の理論的関心を歴史的説明と結び付けようとする試みである。「第二次」及び「第三次」論争の理論的アプローチの中には、そのような性能に欠けているものが余りにも多い。第三に、これらの章は、歴史ないし歴史叙述のみから答えを求めるという意味ではなく、歴史的に考察している、つまり、論点や概念をそれらの歴史的文脈の中に位置づけているという意味で、歴史に関わっている。リアリズムが、諸々の概念を歴史のすべてに適用することで、それらの概念を非歴史的なものにしようとしているとすれば、行動主義は歴史の関連性を完全に否定し、またポスト・モダニズムは「モダン」と「ポスト・モダン」の間の歴史的断絶を断言している。それらとは対照的に、以下の諸章は、歴史における継続性を認めるとともに、関連する所では、理念や出来事の特殊性と偶発性を確認しようとするものである。

(1) これは、チャールズ・レイノルズの刺激的な著作で的確に示されている要点である。Charles Reynolds, The World of State : An Introduction to Explanation and Theory (Aldershot : Edward Elgar, 1992).
(2) Yosi Lapid, ‘The third debate : On the prospects of international theory in a post-positivist era', International Studies Quarterly, September 1989. 理論が必要としたものは「ポスト実証主義」ではなくて、幾つかの優れた「プレ実証主義的」基盤への復帰であった。
(3) 多くの事例の中で以下の二つを参照。Michael Howard, The Lessons of History (Oxford : Clarendon, 1991) ; Walter Laqueur, World of Secrets, The Uses and Abuses of Intelligence (London : Weidenfeld & Nicolson, 1985).
(4) 特にアングロサクソン世界では、経験論は世俗的宗教の地位を有している。つまり、知的能力は「全般的知識」で合成されるというわけである。従って英国では、できるだけ多くの事実を知っている者のコンテストは、「英国の頭脳」というタイトルで行われる。
(5) 経験論に対する二つの有力な批判について、以下を参照。C. Wright Mills, The Sociological Imagination (Oxford : Oxford University Press, 1959) ; David and Judith Willers, Systematic Empiricism : Critique of a Pseudoscience (Hemel Hempstead : Prentice-Hall, 1973).
(6) これについて、クリストファ・ヒルの明敏な論文、Christopher Hill, ‘History and International Relations' in Steve Smith (eds), International Relations : British and American Approaches (Oxford : Basil Blackwell, 1985) 及び彼自身の Decision-making in British Foreign Policy (Cambridge : Cambridge University Press, 1990) を参照。
(7) 「イギリス学派」に対する以前の批判について以下を参照。Michael Nicholson, ‘The enigma of Martin Wight', Review of International Studies, 1981, vol. 7, January 1981 ; Roy Jones, ‘The English school of international relations : A case for closure ?' Review of International Studies, vol. 7, no. 1, 1981.
(8) 二つの概観について以下を参照。Quentin Skinner (ed.), The Return of Grand Theory in the Human Sciences (Cambridge : Cambridge University Press, 1985) ; Perry Anderson, A Zone of Engagement (London : Verso, 1992).
(9) この論考は以下に所収。Herbert Butterfield and Martin Wight (eds), Diplomatic Investigations (London : Allen & Unwin, 1966). 歴史家たちによるこの主題の定義の相違は、同書のタイトルにも表れている。
(10) 第三章の〔原書〕五六ー八、六一ー三ページを参照。
(11) この論争の資料について、Millennium, vol. 5, no. 1, 1976 所載のフレッド・ノースエッジとジェイムズ・ローズノーの応酬と Klaus Knorr and James Rosenau (eds), Contending Approaches to International Politics (Princeton : Princeton University Press, 1969) の諸章を参照。合衆国政治学に対する以前の明敏な「イギリス的」批判は、国際関係論の論争で提起された同種の争点の多くに触れているが、これについて以下を参照。Bernard Crick, The American Science of Politics (London : Routledge & Kegan Paul, 1959).
(12) Ekkehart Krippendorft, ‘The dominance of American approaches in IR', in Hugh Dyer and Leon Margassaran (eds), The Study of International Relations : The State of the Art (London : Macmillan, 1989).
(13) James Rosenau, The Scientific Study of Foreign Policy, 2nd edn (London : Pinter, 1980) ; J. D. Singer (ed), Quantitave International Politics (New York : Free Press, 1965).
(14) 科学的方法のオーソドックスな見解に対する他の二つの、どちらかと言えばむしろ異なった批判について、以下を参照。Rom Harre´, The Philosophies of Science (London : Cambridge University Press, 1972) と Paul Feyerabend, Against Method (London : NLB, 1975).
(15) その評価について以下を参照。James Dougherty and Robert Pfaltzgraff, Contending Theories of International Relations, 2nd edn, pp. 347-50 (New York : Harper & Row, 1981). 著者たちが慎重に指摘しているように、「現在までのところ、統計的技術は何らの驚くべき成果も挙げてこなかったし、また首尾一貫した戦争理論の発展に役立つような決定的な成果は殆どない」(p. 347)。「現在までのところ」という文言には、勿論、将来躍進するとの見込みが含まれている。だが、それから十年以上経っても、何も報じられていない。
(16) Robert Keohane, After Hegemony : Cooperation and Discord in the World Political Economy (Princeton : Princeton University Press, 1987).
(17) カール・カウツキーはドイツの社会主義運動の指導者で、「超帝国主義」理論の創始者であった。この理論では、諸大国は自分たちの緊張関係を和らげ、残余の世界に対抗して協調する方向に進むだろう、とされていた。社会科学の分析枠組みの中で、これほど不幸な短い運命を余儀なくされたものは殆どない。というのは、この理論が発表された一九一四年の夏に第一次世界大戦が勃発したからである。以下を参照。Karl Kautsky, ‘Ultra-imperialism', New Left Review, no. 59, January-February 1970.
(18) Kenneth Waltz, Theory of International Politics (New York :andom House, 1979). 重要な部分は、Robert Keohane (ed.), Neo-Realism and its Critics (New York : Columbia University Press, 1986) に再録されており、また同書には、ウォルツのその後のテキスト (‘Reflections on Theory of International Politics : A response to my critics') も収録されている。以後の参照では、双方の出典を示すことにする。
(19) Waltz, Theory, p. 66 ; Keohane, Neo-Realism, p. 53.
(20) Waltz, Theory, p. 73 ; Keohane, Neo-Realism, p. 62.
(21) Goran Therborn, ‘The economic theorists of capitalism', New Left Review, nos 87-88, September-December 1974, p. 125.
(22) Keohane, Neo-Realism, p. 329.
(23) Waltz, Theory, p. 95 ; Keohane, Neo-Realism, p. 90.
(24) Waltz, Theory, p. 91 ; Keohane, Neo-Realism, p. 85.
(25) Waltz, Theory, p. 65 ; Keohane, Neo-Realism, p. 52.
(26) Keohane, Neo-Realism, pp. 323-30.
(27) Ibid., p. 323.
(28) Ibid., pp. 127-8.
(29) この学派の登場の評価について以下を参照。James Der Derian and Michael Shapiro, International/Intertextual Relations : Post Modern Readings of World Politics (Lexington, MA : D. C. Heath, 1989) ; Mark Hoffman, ‘Restructuring, reconstruction, reinscription and rearticulation : Four voices in critical international theory', Millennium, vol. 16, no. 2, 1987.
(30) 第五章の注3を参照。
(31) 一つの、だが混乱した例外は、リチャード・アシュレーである (Der Derian and Shapiro, International/Intertextual Relations, pp. 317-19)。アシュレーは、こうした批判の存在を認め、次いで周辺グループの意見に耳を傾けるべきだとする助言を頼りとしている。そうだ、しかし……。
(32) Der Derian and Shapiro, International/Intertextual Relations, pp. ix-x.
(33) ポスト・モダニズムに対する多くの批判の中で以下を参照。Peter Dews, Logics of Disintegration (London : Verso, 1986) ; Perry Anderson, In the Tracks of Historical Materialism (London : verso, 1983) ; Ernest Gellner, Post-Modernism, Reason and Religion (London : Routledge, 1992).
(34) Robert Walker, Inside/Outside : International Relations and Political Theory (Cambridge : Cambridge University Press, 1993).
(35) Walker, Inside/Outside : International Relations and Political Theory, p. 1.
(36) ナショナリズムと国際紛争に関するウェーバーの見解と、彼の広範な研究に占めるそれらの位置についての啓発的な議論は、以下を参照。Anderson, A Zone of Engagement, ch. 9, p. 158.
(37) Karl Marx and Friedrich Engels, The Revolutions of 1848 (London : Penguin, 1973), pp. 70-1.
(38) ポスト・モダニズムと国際問題に関する一つの啓発的な評価について、以下を参照。Christopher Norris, Postmodernism, Intellectuals and the Gulf War (London : Lawrence & Wishart, 1992).
(39) 「新社会運動」に関する一群の有力な文献は、エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムッフのそれ、特に彼らの Hegemony and Social Classes (London : Verso, 1985) であった。彼ら自身の、どちらかと言えばより洗練された言葉遣いと、パリ風討論の雰囲気は別として、彼らの分析が、民主主義的工業諸国の政治的現実について、彼らが取って代わると主張した正統マルクス主義学派のそれよりも何らかの利点を上げたかどうか、後から考えると疑わしい。これについて、彼らとノーマン・ジェラスとの活発な論争 (New Left Review, nos. 163 [May-June 1987], 166 [November-December 1987] and 169 [May-June 1988]) を参照。
(40) Robin Blackburn (ed.), After The Fall (London : Verso, 1991) での私とE・P・トンプソンとの論争及び Paul Hirst, ‘Peace and political theory', Economy and Society, vol. 16, no. 2, May 1987 を参照。