立命館法学 一九九五年三号(二四一号)




中 国 に お け る 選 挙 権 論 (二・完)
---日本の場合と比較して---

林 来梵






目    次




 四 中国の選挙権論における「権利」の構造に対する検討
(一) 社会主義時期の権利説における「権利」の構造
 以下では、選挙権の主体、淵源および具体的な内容という三つの点から、今日の中国の選挙権権利説における「権利」の構造を具体的に検討してみる。
 (1) 選挙権の主体について
 上でも述べたように、社会主義時期に入ってから、さまざまな学説は、選挙権を「人民の権利」と言ったり「公民の権利」と言ったりするように、その帰属について、「人民」と「公民」という二つの概念を相互交換的に採用する場合が多い。とくに初期の学説には、その傾向は強かった。
 しかし、もともと、この二つの概念は従来、同一概念とは考えられていない。社会主義時期の諸憲法に見られるように、「人民」の概念が主権の主体を指しているのに対して、「公民」の概念の方は、基本的権利および義務の主体について用いられている(1)。今日の学説では、この二つの概念の違いについて、一般的に、以下のように説明されている。第一に、「人民」の概念は、政治的概念であり、おもに「敵」の概念との対比において用いられるが、「公民」の概念は、すぐれて法律的概念であって、国籍の保持者を指して「外国人」の概念と対置するのである。従って、第二に、「公民」の概念の外延は「人民」の場合より広くて、そこにはすべての国家構成員が含まれている。そして、第三に、「公民」はおもに個々人を指しているのに対して、「人民」の概念は一般的に「総体」を指している(2)。
 「人民」の概念を政治的概念とすれば、選挙権の帰属についてはそれを採用することによって、確かに、選挙権の階級性をもっとも明確に説明しうる。初期の学説が「人民」の概念をよく用いるねらいは、ここにあるに違いない。しかし、それでは、選挙権を政治的配慮から恣意的に制限することに正当性を与えてしまいかねない。そして、一方、「人民」の概念にかわって「公民」の概念でもって選挙権の帰属を説明するようになると、中国の学者にとって、選挙権の階級性は曖昧にされることになるのみならず、選挙権を人民主権の原理と結び付けて説明することも困難になるといえよう。
 このような理論に内在する二律背反的な緊張を緩和する試みとして、董成美教授らによる次のような「『人民』=歴史的概念」説は、注目に値する。「人民」の概念は、政治的概念であり、同時に歴史的概念でもある。つまり、人民の概念は、それそれの時代にそれぞれの内容をもち、歴史的変化にともなって自らも変化するのである。今日にいたって、労働省、農民および知識人など、広汎な勤労大衆や社会主義を擁護する愛国者や祖国の統一を擁護する愛国者は、すべて「人民」の範囲に含まれているのである(3)。このような学説は、「人民」の概念の外延を広げることによって、それを「公民」の概念へと接近せしめてゆく点で、かつて中国で批判されていた旧ソ連の「全人民国家」の学説を容易に想起させるが、選挙権などの政治的権利に対する過大な制限を緩和することに正当な根拠を提供しうる解釈論として、評価されうると思われる。
 他方、社会主義時期の諸憲法の条文をみても、選挙権の主体は、「人民」ではなく、「公民」というべきである(例えば現行憲法三四条)。しかし、「公民」の用語は、選挙権の主体について用いられる場合において、どのような意味合いをもつだろうか。
 実は、社会主義時期に、はじめて「公民」を選挙権の主体とするのは、一九五三年選挙法であった。それまで、たとえば新中国時期において臨時憲法の役割を果たした『中国人民政治協商会議共同綱領』(一九四九年)においてでも、選挙権および被選挙権の主体が「中華人民共和国人民」とされていた。
 一九五三年選挙法は、おそらく、張友漁教授をはじめとする一部の有力な学者の考え方によって「公民」の用語を採用したのであろうと推定されうる(4)。日本留学の経歴をもたれる張友漁教授は、はやくも民国時代において、「一定の年齢に達した公民に属するものは、すべて選挙権および被選挙権を有する」などと説かれるように、すでに頻繁に「公民」の概念で選挙権の主体を指されていたのである(5)。ここで、もっとも指摘すべきなのは、当時、国民党政府による選挙法においても、「公民」の言葉は、かつて正式な法律用語として採用されたことである。例えば一九三七年改正後の国民大会代表選挙法は、「中華民国の満二十歳の人民で公民宣誓を経た者は、国民大会の代表を選挙する権利を有する」(第三条)と規定していた(6)。ここでも見過ごしてはならないのは、「公民宣誓」を人民に選挙権を与える要件とする制度を導入したのは、もともと、孫文によって考えられたものであるが、すでに述べたように、孫文の考え方が選挙権の本質について「二元説」的傾向をもっている、ということである。
 実は、選挙権の主体について、「公民」の概念の由来は、さらに梁啓超の学説にさかのぼる。そこでは、梁啓超は、戦前の日本における「公民」の概念、すなわち選挙などのような公務に参与する権利および義務を与えられている場合に用いられる概念を導入したと考えられる(7)。
 今日の中国において、選挙権の主体について用いられる「公民」の概念装置は、まさしく以上に述べたような学説史上の背景を背負っている。これに関して、日本の浅井敦教授による次のような指摘は、注目に値する。「中国憲法における『公民』とは、『市民(citizen)』に相当する中国法上の用語であるが、プロレタリア国家権力によって法的にその成員としての地位を規定づけられた人間(8)」を意味するものである、と。
 (2) 選挙権の淵源について
 選挙権の淵源については、今日の中国で、直接的な論及はあまり見受けられないが、選挙権を含む公民の全体の基本的権利の淵源については、おおむね、二つのような説がある。
 (イ)革命(闘争)淵源説。この説の典型的なものとして、前掲の『憲法学概論』による説明をあげることができる。そこには、「わが国の公民は憲法が保障している広汎な民主的権利および自由を享有しているが、しかし、公民が享有しているこれらの権利・自由は天賦的なものではなく、何者からの恩賜でもない。それは、中国人民が共産党の指導のもとで、長期にわたる武装闘争および他の各方面における様々な形態の闘争をとおして勝ち取った、革命の勝利の果実なのだ(9)」、と述べられている。
 人間の権利、とりわけその政治的権利としての選挙権は、政治的に困難な闘争のもとに獲得されたものだというのは、当然に至当であるが、しかし、以上のような論述を入念に検討してみれば、そこには、少なくとも一つの問題点が残されていると言える。それは、すなわち、そこに言う「革命」や「闘争」は、一般的な意味における革命や闘争ではなく、特定の具体的な「革命」や「闘争」を指している点である。このような「革命」の概念や「闘争」の概念を構成する場合において、ある特定の政党や指導者の指導に対する賛美がその概念を特徴づけるのが、民国時代からの憲法学(あるいは政治学)の伝統である。ここで、民国時代に、このような概念構成は、かつて国民党による「一党独裁」のイデオロギーと結びつけられた、というような憲法状況を想起すべきである。
 (ロ)国家(憲法)淵源説。この説は、すでに述べたような「国家による権利の賦与」説や「憲法による権利の賦与」説と同様である。例えば、ある大学の憲法テキストは、次のように述べて、その典型的な例を示している。「国家の利益は人民の利益と一致している。従って人民の国家はついに広汎な権利および自由をもって公民に賦与したのだ(10)」、というのである。
 明らかなよに、上で述べたような革命(闘争)淵源説の論理と同じように、ここにいう「国家」も、特定の具体的な「国家」を指している。そして、「憲法による権利の賦与」説も同様に、そこに言う「憲法」は、特定の具体的な憲法や実定憲法と読み替えられるに違いない。
 このように見てくると、今日の中国において、権利の淵源についての考え方は、前国家的な権利説や憲法以前の権利説とは、いちじるしい差異をもっているというべきである。ましてや、そこでは、選挙権のような市民的な権利は、前国家的に、あるいは実定憲法以前に存在するものと考えられているわけではないだろう。
 (3) 選挙権の内容について
 選挙権の内容について、現在の中国では、従来の学説と近年に見られる新たな学説という二種類の見解がある。
 (イ) 従来の学説では、選挙権の内容について一般的に、一定の定義が提示されているにとどまる。前掲の『憲法学概論』が次のように指摘しているのは、その典型的な好例である。「公民が選挙権および被選挙権を有するとは、公民は、自らの意思によって自らの代表を選出して、全国および地方各級の人民代表大会を構成せしめる権利を有すること、選出されたことによって全国および地方各級の人民代表大会の代表となる権利を有すること、代表を監督し、法律に違反し規律を乱し、または厳重に職務を怠慢した代表に対して、その代表の資格を罷免する権利を有すること、および代表が任期内になんらかの理由によって離職した場合、代表の補欠選挙をおこなう権利を有する、ということである(11)」。
 周知のように、社会主義憲法は一般的に「人民主権」原理に立脚しているから、論理必然的に、人民代表を何らかの形で選挙人の拘束の下におく(12)。中国では、人民代表に対する選挙人の拘束の形態として、人民代表に対する公民の監督権および罷免権の行使は、重要な意味をもっている。ある意味では、そうした公民の監督権および罷免権は、公民のもつ選挙権の延長線にあると考えられる。したがって、以上に述べたような学説は、素朴なものといえども、たしかに、評価されねばならない。
 (ロ) これに対して、近年は、選挙権の内容の構造についても、一部の学者によって論及されている。例えば、関星氏は、選挙における棄権の自由を論じるにあたって、選挙権を人民の権利と訴えながら、次のように述べている。「選挙権を有する公民が選挙に参加するかしないかの意思を表示できる場合においてこそ、選挙権は義務ではなく、一種の純粋な権利としてあらわれる。義務の問題は、選挙人が実際に選挙権を行使することに伴って生じるのであり、選挙人は選挙に参加する過程においてはじめて、選挙に関する義務を履行しなければならないのである(13)」、と。
 ここにいう「選挙に参加する過程」における「選挙に関する義務」という概念は、漠然としているが、こうした見解全体を「二元説」に近似するものと理解することは、大きな違いがないと思われる。このような学説は、勿論、現在の中国では、少数の学説でしかないが、それでも、見落とされるべきではない。というのも、それは、人民主権に基づいて選挙権の権利性を認めながらも明確に「二元説」のような傾向を示しているものとして、はなはだ興味深いからである。
 さらに留意されるべきなのは、選挙権の内容についてのこのような「二元説」的な見解は、おそらく「権利と義務との不可分」理論から導き出された論理的な帰結である、ということである。
 現行憲法三三条三項において「いかなる公民も憲法および法律の定める権利を享有するとともに、憲法および法律の定める義務を履行しなければならない」と規定されており、その趣旨を「権利と義務との不可分」と理解する見解は、有力である(14)。それについて、張友漁教授は、次のように説明されている。「いかなる公民も、権利を有すれば必ず義務をも有することになり、権利を行使すれば、義務をも履行しなければならないことになる。法理から言えば、権利と義務は、相互対応的な法律規範であり、それらの関係は極めて密接なものである(15)」。そもそも、張友漁教授は、すべての同一の法律関係の主体が、同一の法律関係の客体に対し同時に権利と義務が生じるとまで主張しているのではないが、しかし、そうした場合を完全に否定したわけでもない。従って、「権利と義務との不可分」という論理は、さらに曖昧なままに捉えられることになりかねない。上述したように、選挙権の内容に関して、関星氏は、それを公民の「純粋な権利」と認めながらも、「選挙に参加する過程」において、なんらかの「選挙に関する義務」を見だそうとするのは、おそらく、このような「権利と義務との不可分」理論を念頭に据えているからであろう。
(二) 中国の憲法論における選挙権の性格についての考え方
 (1) 従来の中国では、選挙権は、公民の基本的権利のカタログのなかで高い位置づけをもっている。現行憲法は公民の基本的権利に関する条文において、選挙権および被選挙権を第一に掲げており(三四条)、学説も、例えば張友漁教授が「これが人民の享有する最も重要な、最も根本的な権利である(16)」と指摘されるように、選挙権の重要性を高く評価している(17)。このことは、ある意味では、「国家からの自由」よりも「国家への自由」を重要視する傾向を示しており、そして、つまるところ、その根底には、民国時代の諸憲法から伝統的に形成されてきた権利論における「国家優位」の考え方が横たわっていると言ってもよかろう(18)。
 この権利論における「国家優位」の考え方についての典型的表現として、中国政法大学の憲法のテキスト(政府法務幹部養成訓練専用教科書)の見解に見ることができる。そこでは、公民が権利を行使しまたは義務を履行するにあたって、まず、第一に、「国家、集団および社会の利益を第一位に置かなければならない」こと、そして、第二に、「いかなる国家、集団および社会の利益、またはその他の公民による合法的な権利の行使を損ねてはならない(19)」、と述べられている。ちなみに、その第二点は、現行憲法五一条そのものを引用したものである。
 (2) このような権利論における「国家優位」の考え方と関連して、一部の有力な学説は、さらに、選挙権を行使する目的は、公民のためにあるだけではなく、国家のためでもある、あるいは、最終的に国家のためなのであると考えている。
 呉傑教授は、公民の民主的権利、「とりわけ政治に参与する権利は、実際には、国家権力の要素を内包しているのであり、例えば、公民の選挙権および被選挙権は、すなわちわが国の人民が国家権力を掌握・行使することに直接的な関係をもっているのである」として、「社会主義的民主主義を強力に発展させ、公民の自由及び権利を確実に保障してはじめて、人民大衆の社会主義を建設する積極性及び創造性を動員することができ、よって、国家を隆盛・発達、繁栄・富強にさせることになる(20)」と主張している。
 この逆説的な論理には、選挙権を行使する目的は、公民のためにあるだけではなく、国家のためでもある、という考え方が示されている。上で見たように、このような考え方は、ほかならず、梁啓超による権利思想そのものの現代版と言わねばならない。
 これに対して、前掲の中国政法大学の憲法テキストは、さらに、「わが国の経済における立ち後れた局面を加速して改変し、全国人民の物質的・文化的生活の水準を不断に向上すること、これは、国家や集団や社会またはすべての公民の根本的な利益または共同利益の所在であり、いかなる公民も権利を行使し、または義務を履行するにあたって、いずれもこの根本的な目標を目指して、社会生産力の発展を促進することに貢献するように、国家の主人公としての権利を積極的に行使し、自己の各種の義務を忠実に履行しなければならない(21)」と訴えている。
 明らかなように、右の観点から、選挙権を含むすべての権利の最終的な目的が国家のためにあるというような思考が伺われる。こうした思考によれば、権利が権利といえども、公民は、それを行使するようになると、かならず国家のために貢献できるようにしなければならないことを義務づけられる。
 これは、容易にイェーリングの「権利のための闘争」という命題を想起させるかもしれない。たしかに、イェーリングは、「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である(22)」だけではなく、同時に「権利の主張は国家共同体に対する義務(23)」でもあると訴えていた。しかし、周知のように、イェーリングは、「法」を基本的に国家制定法と理解するが、その前提として、「レヒト」を「法」と「権利」との二重の意味でとらえており、そのような意味において、権利の実行を「国家共同体に対する義務」と喩えたのである。これに対して、上で述べた中国における権利論は、むしろ、権利を行使する段階における公民に対して、「国家への貢献」を新たな義務として付け加えようとしているのである。
 J・ネイサンは、「中国憲法における政治的権利」という論文において、清末以来の一一部の中国憲法典に対する分析を通して、「すべての憲法の主な目標は、過度な国家権力に対する個人の利益を守るというよりも、むしろ国家を強化し、集団の福祉を促進することにある(24)」と指摘している。そして、彼はこうした中国憲法における強靭な伝統の思想的な根源を解明するために、「中国権利思想の源流」という論文のなかで、中国古代の民本主義(the minben idea)を実証的に検討し、その結論において、民本主義は「民」を国家の「資源」(resouce)と見なす観念にその中核を据えているのであり、そこに、従来の中国憲法や梁啓超と孫文における、権利に関する《Social Utility》的な思考の源流をもっている、と論じている(25)。
 すでに述べたところから明らかなように、J・ネイサンのこのような見解は、現在の中国の選挙権論における選挙権の性格を理解する上でも、すぐれて示唆的な意味をもっているに違いない。
(三) 今日の中国の選挙権論と日本における諸学説との比較
 (1) すでに見たように、選挙権論をめぐる憲法理論について、中国の憲法理論、とりわけ近代の中国憲法理論は、かつて、戦前の日本の憲法学から無視することのできない影響を与えられてきた。そのうち、中国自身の歴史的風土や時代の要請などによって媒介されながら、今日の社会主義憲法下における「選挙権=権利」説の深層に根強く残してきた戦前日本国憲法学的な考え方も少なくない。
 従って、ひるがえって、すでに検討してきた、今日の中国における「選挙権=権利」説の構造を、日本における選挙権論の諸類型に依拠して具体的に把握することは、まったく無意味ではないと思われる。
 まず、第一に、選挙権を「主権的権利」として理解する点で、今日の中国における「選挙権=権利」説は、日本における人民主権に基づく「権利説」と共通している。勿論、これについて、現に中国の学説が後者の影響を受けたわけではないことは、自明なところである。
 しかし、第二に、選挙権を国家によって賦与された、国家のための権利として理解する場合、それは、日本における「公務説」や「権限説」の立場と同様である。
 また、第三に、選挙権を単なる「実定憲法上の権利」とみる点では、中国の選挙権論は、日本の「権限説」や「二元説」、あるいは今日に現れた「二元説」の新たな展開形態としての「基本権説」と類似する。
 この第二点と三点については、もともと、中国の旧学説がかつての日本における戦前の学説、ことに「公務説」や「権限説」から一定の影響を受けたところが少なくなく、それが今日まで維持されてきたという事情が考えられる。
 そして、第四に、選挙権自体を権利と認めながら、「選挙に参加する過程」における「選挙に関する義務」を見だそうとするような選挙権説は、明らかなように、日本の「二元説」と極めて近似している。
 (2) こうして見ると、今日の中国における選挙権論は、人民主権原理の論理的な帰結として、選挙権を「人民(公民)の権利」と認めているが、実際には、そこにいう「権利」の内部構造には、「公務」や「権限」や「義務」などの要素が潜在しており、「権利」と混在しているのである。
 これに対して、今日の日本では、選挙権の法的性格について、かつての「公務説」や「権限説」は、「国民主権」の下で、過去の学説と化したり、あるいは無力と化したりするようになったが、長いあいだ通説的地位を占めてきた「二元説」は、精緻な理論形態に生まれ変わりつつ、選挙権の法的性格から「公務性」を完全に排除することに躊躇している。このような両国の選挙権論の状況を把握するにあたって、それぞれがもっている複雑な理論上の問題や現実における政治的な背景を具体的に分析しなければならないが、ある意味では、それらはいずれも、もともと、伝統的に「権利」の観念が欠如していたというような東洋社会の独自な法文化的な背景を背負っている、ということをも看過してはなるまい(26)。

(1) 中国憲法における主権の主体と権利・義務の主体との用語上の分別は、もともと、民国時代の諸憲法の伝統から由来しているのである。だが、民国時代の諸憲法のほとんどは、「公民」という用語が採用していなかったが、現代の社会主義時期の憲法の場合と正反対に、主権の主体を「国民全体」に、権利と義務を「人民」に帰属すると規定していたのである。陳荷夫《中国憲法類編》、北京・中国社会科学出版社、一九八〇年、三六六頁以下参照。
(2) 許崇徳『中国憲法』、北京・人民大学出版社、一九八九年、三九一〜三九二頁。蕭蔚雲・魏定仁『憲法学概論』(修訂版)、北京大学出版社、一九八五年、二六三〜二六六頁。中国人民大学法律系国家法教研室編著『中国憲法教程』、人民大学出版社、一九八八年、二六八〜二七二頁、など参照。
(3) 董成美「国民、公民和人民」、中国・『光明日報』紙、一九八〇年二月二日付、三頁、また、同 “Nationals, Citizens and People", in FBIS, February. 14. 1980, p. 9 など参照。
(4) 張友漁教授は、かつて当該選挙法の制定に参画した。同『憲政論叢』(下冊)、北京・群衆出版社、一九八六年、一〜一二頁参照。
(5) 張友漁・前掲『憲政論叢』(上冊)、四九〜五〇頁のほか、五一頁、また六〇頁参照。
(6) 張友漁・前掲『憲政論叢』(上冊)、五〇頁。
(7) 梁啓超「政治学大家伯倫知理之学説」(節録)、李華興他編『梁啓超選集』所収、上海人民出版社、一九八四年、四〇一頁、四〇九頁、など。
(8) 浅井敦『現代中国法の理論』、東京大学出版社、一九七三年九月、二六一〜二六二頁。
(9) 蕭蔚雲・魏定仁・前掲書、二八〇頁。
(10) 田軍編『憲法学教程』、南京大学出版社、一九九一年、一八六頁。
(11) 蕭蔚雲・魏定仁・前掲書、二八七頁。
(12) 畑中和夫「社会主義憲法と人民代表」(社会主義法研究年報bS、社会主義研究会編『現代社会主義憲法論』所収、法律文化社、一九七七年五月)、また同「命令的委任について」、『立命館法学』、一九八〇年二、三、四、五、六併合号、など参照。
(13) 関星「試論公民的不参選権」、梓木『民主的構想』(光明日報出版社、一九八九年)所収、一六八頁。
(14) 張友漁・前掲『憲政論叢』(下冊)、二一二頁、二一九頁。蕭蔚雲・魏定仁・前掲書、二八五頁。
(15) 張友漁・前掲『憲政論叢』(下冊)、二一四頁。
(16) 同上、二〇一頁。
(17) 勿論、天安門事件以降、当時の中国の人権状況を厳しく非難する国際世論に対して、政府公式見解や一部の学説は、こうした従来の見解を変えて、人民の「生存権」こそ、「最も重要な人権」だと主張するようになった。しかし、そこにいう人民の「生存権」は、西側で理解されている国民が自らの国に対する権利というよりも、むしろ、国家主権原理と結びついた、他の国に訴える権利という意味での「権利」だと捉えられる。従って、そうした主張の場合においても、以下に述べたような「国家優位」などの考え方がその根底に横たわっている。中国国務院新聞弁公室『中国的人権状況』、北京・中央文献出版社、一九九一年、一〜八頁参照。
(18) 拙稿「中国における立憲主義の形成と展開---立憲君主制論から『党立憲主義』まで---」(『立命館国際地域研究』第三号、一九九二年七月)参照。
(19) 廉希聖編『憲法学教程』(政府法制幹部培訓教材)、中国政法大学出版社、一九八八年、二七八〜二七九頁。
(20) 許崇徳・前掲書、三九五〜三九六頁(呉傑執筆担当部分)参照。
(21) 廉希聖・前掲書、二七八頁。
(22) イェーリング『権利のための闘争』(村上淳一訳)、岩波文庫、一九八二年、四九頁。
(23) 同上、七九頁。
(24) Andrew J. Nathan, “Political Rights in Chinese Constitutions", Human Rights in Contemporary China (by R. Edwards, L. Henkin & A. J. Nathan, Columbia University Press, N. Y. 1986)所収、p. 122. 邦訳 : 斉藤恵彦・興梠一郎『中国の人権---その歴史と思想と現実と---』、有信堂、一九九〇年、一六二頁、参照。
(25) Andrew J. Nathan, “Sources of Chinese Rights Thinkink", R. Edwards, L. Henkin & A. J. Nathan : 前掲書、pp. 125-182. 前掲邦訳書、一六七〜二一八頁参照。
(26) 日本における権利意識について、川島武宣『日本人の法意識』、岩波新書、一九六七年、一五〜六〇頁参照。中国の場合について、陳暁楓『中国法律文化研究』、河南人民出版社、一九九三年、二八四〜三〇〇頁参照。



       五 結びにかえて
---中国における選挙権論を再検討するための提言---

 以上において、本稿は、日本の選挙権論をめぐる学説的状況を概観した上で、それと比較しながら、中国の場合における選挙権論についての学説史を整理するとともに、今日に通説となっている「選挙権権利」説における「権利」の構造を検討した。
 上でも触れたように、選挙権を「主権的権利」とみる点において、今日の中国における「選挙権権利」説は、文字通り、日本の場合の「選挙権権利」説、ことに杉原・辻村説の本旨と最も近似している。そして、ある意味では、中国の現行憲法における「人民主権」原理は、杉原・辻村説の基礎となっている「人民(プープル・peuple)主権」原理の趣旨とおおいに共通しているとも理解されうる(1)。従って、従来の社会主義憲法の理念から出発する場合においては、今日の中国における「選挙権権利」説を再検討するにあたって、杉原・辻村説の優れた理論成果を参考にすることは、全く無意味ではないように思われる。
 そして、杉原・辻村説に示唆されたように、「人民(プープル・peuple)主権」原理を基礎として選挙権論を構築する場合、今日の中国における選挙権説(「選挙権権利」説)には、どのような問題点が再検討されるべきなのか。以下では、具体的に点検してみよう。
 ただ、中国の選挙権論において、被選挙権の性格を選挙権の場合と同様に取り扱うのが普通であるがゆえに、ここでも、それを個別的な問題として単独に取り上げないことをことわっておきたい。
1 選挙権を「主権的権利」として認める点について
 すでに見てきたように、孫文以降、選挙権の権利性の根拠を主権原理の理論的帰結から見だすのが、一般的である。今日の中国における選挙権権利説も、選挙権を「主権的権利」とする観念を、こうした選挙権論の歴史的展開の帰結として再確認している。
 選挙権を「主権的権利」として認める以上、主権論や統治機構論の原理の下で選挙権論を構築しなければならないことになる。というのは、日本の辻村教授も指摘しているように、選挙権は単なる人権論で処理しえないものであり、選挙権論の原点は主権論や統治機構論の原理のなかにあるからである(2)。しかし、今日の中国では、選挙権を主権的原理と結びつけて考えながらも、選挙権論を基本的に人権論(「公民の基本的権利と義務」理論)の枠組みのなかで片付けるのが、一般的となっている。そこで、選挙権論は人権論と伴って貧弱な状況に陥ってしまったばかりか、主権論との理論的整合性が綿密な論証に欠けている。
 他方では、単なる人権論のみならず、中国において主権原理・代表制論自体の研究もはなはだ貧困な状況にあると言わねばならない。従って、選挙権論を再検討するにあたって、なによりもまず主権原理・代表制論の研究を深めなければならないと思われる。
2 選挙権の構造、ことに選挙権における「権利」の構造の把握について
 今日における中国の選挙権権利説を検討してみれば、この点には、様々な問題点が集中していると言える。以下では、日本の杉原・辻村説などの研究成果を踏まえながら、さらに四つの点について具体的に触れておこう。
 (1) 選挙権の主体について
 選挙権が「人民の権利」であるというのは、選挙が人民の主権行使の一形態だからである。従って、杉原・辻村説によれば、そこにいう「人民」を「政治的概念」や「歴史的概念」というよりも、むしろ、主権行使に参加し、自ら意思の決定能力をもつ「市民(citizen)」の総体として定義づけるべきである。これと関連して、選挙権を「公民の権利」という場合では、そこにいう「公民」は、主権者人民の構成員、つまり「人民」を構成するものと理解されなければならない。
 ここにおける「人民」と「公民」に対する概念上の再構成は、かつて中国を含む社会主義諸国に見られた階級的観念による選挙権の主体に対する制限の歴史的な必然性を否定するわけではない。しかし、今日の中国では、憲法が「搾取階級は、階級としてはすでに消滅した」(現行憲法序文)と宣言しており、そこで、主権主体としての「人民」を「階級的概念」と強調する場合における解釈論的な意味は、もはや失われたというべきである。従って、こうした場合においては、日本の選挙権権利説も主張しているように、合理的な選挙権制限は、おもに国籍、年齢、法律行為能力など、主権行使参加権としての権利に内在する制約によってのみ行われなければならないのである(3)。
 (2) 選挙権の淵源について
 選挙権を実定法に先行した自然法によって認められる自然権と解することは、勿論、妥当ではないが、だからといって、それは、具体的な特定の憲法典によって与えられたものと把握されることができるわけではない。この点について、日本における諸「選挙権権利説」は、必ずしも明瞭ではないと論難されてきたが(4)、中国の選挙権論では、なおさら不明瞭であると言わねばならない。
 選挙権は人民の主権者としての地位に基づくものであるとすれば、その根拠は、人民代表大会というような代表機関などによって制定された具体的な憲法典を超越した、人民本来の意思を表明している一般的な意味における「憲法」にあると解されるべきであろう。そして、選挙権の淵源を「革命」や「闘争」にあるという場合、そこにおける「革命」や「闘争」は、人民が自らの本来の意思を憲法に表明する以前における一種の「自然状態」に相当するものとも理解されるべきではなかろうか。
 (3) 選挙権の性格について
 日本の杉原・辻村説によれば、選挙権は、勿論、国家が国家のために与えるものではなく、主観的な個人の意思や利益のなかに基礎づけられる権利である。社会主義憲法の理念からすれば、中国の場合においては、こうした人民の主観的な個人の意思や利益は、早くも、人民による民主主義革命においてすでに現れ、その革命の目標によって集約されていたと理解することができる。
 また、杉原・辻村説によれば、人民の選挙権の行使は、必然的に人民による集団行使の形態をとるが、個人の権利としての選挙権は、まず個人の意思や利益に根差しており、人民の意思や利益は、それを構築する個々の公民の意思と利益の集積にほかならない(5)。勿論、選挙権の行使は、結果的に、国家の利益や人民の共同利益とつながるが、だからといって、選挙権は単なる国家の目的にあるというわけではない。選挙権が行使されることによってもたらされた国家の利益や人民の共同利益は、最終的に具体的な利益として人民に還元することになり、公民が選挙権を行使しようとする場合に、まさにそれを予想して自主的にそれを行使するわけである。中国の現行選挙法は選挙人の棄権の自由(第三四条)を明記しているのも、すなわち、選挙権を個人のための権利と認めているからである。
 (4) 選挙権の内容について
 杉原・辻村説によれば、選挙権は主権行使に参加する権利であるから、選挙権の行使の結果が人民代表など公務員の選定という主権行使の形態を満たすものでなければならない。したがって、選挙権の内容を選挙の全過程に及ぶと理解すべきである(6)。この論理でいくと、中国の場合において、選挙人資格請求権、候補者推薦の権利(自由)、投票参加権、投票権、棄権の自由は、当然なことながら、選挙権の内容に含まれていると考えなければならない。さらに、その延長線において、罷免権のほか、今日では問題となっているところの選挙運動の自由および投票価値の平等を求める権利なども位置しているとも解されうることになる。
 このように選挙権の内容を選挙の全過程に及ぶと理解する場合において、選挙権の行使過程に義務を注入することは、勿論、妥当ではない。「権利と義務との不可分」ということは、弁証法的・具体的に理解されなければならない。選挙権についていえば、公民はこの権利をもつということは、国家はそうした公民の権利を保障する義務をもつことを意味する。今日の中国における選挙公営化(中国現行選挙法第八条)というような選挙権に対する物的な保障などは、まさしくそうした国家の義務に該当すると解されうる。
3 選挙権の憲法における位置づけの認識について
 張友漁教授は、かつて民国時代に、選挙権を「最も基本的な、最低限の政治的権利(7)」と捉えられていたが、同じ張友漁教授は、社会主義時期においては、すでに述べたように、それを「最も重要な権利、最も根本的な権利」と位置づけ、学説の変更をおこなわれた。
 本来、人民主権原理は、理論的に直接民主制を理想的な統治形態として要請するものである。従って、今日の中国では、選挙権を「最も重要な権利、最も根本的な権利」というよりも、むしろ、「最も基本的な、最低限の政治的権利」と位置づけた方は、素直ではないだろうか。というのも、徹底的に保障された選挙権であっても、それは、自己完結的権利ではなく、他の「主権的権利」(中国においては、人民代表に対する監督権・罷免権、人民の「管理の権利」)などによって補完されるべきだからである。
 そして、選挙権を含む政治的権利と「生存権」など経済的・社会的権利の関係について、我々は「上位・下位位置づけ論(8)」というような議論に終始すべきではないことを指摘しなければならない。だが、選挙権は「主権的権利」である以上、それを軽率に「生存権」など経済的・社会的権利の下位に位置づけることは、なお検討される余地があると思われる。
 いずれにせよ、「人民主権」原理の視点から今日の中国における選挙権権利説をみなおそうとすれば、新たな解釈論の展開は、論理的には可能である。しかしながら、「人民主権」原理を基礎として選挙権論を再検討するにあたって、我々は、中国社会主義憲法における「人民主権」原理自体は、つねに「中国憲法の原則」と位置づけられる「共産党の指導(9)」とつき合わされる運命にあるという今日の中国憲法の特殊な構造を看過してはならない。中国憲法における「人民主権」原理のこのような運命は、筆者がすでに指摘したように、今日の中国憲法はある意味ではなお近代立憲主義の課題を抱えていること(10)を端的に示していると言えよう。従って、杉原・辻村説のような選挙権権利説のもつ実践的な性格にも示唆されているように、単純な「人民(プープル・pecuple)主権」原理を基礎とする選挙権論は、論理必然的に純粋権利説に到達するが、今日の中国では、その解釈論の実践的意義は、やはり「共産党の指導」を掲げる中国憲法の歴史的位置と関連しながら捉えられねばならないように思われる。
 ただ、いずれにしても、だからといって、今日の中国においては、経済改革・対外開放の深化に伴う政治改革の遂行、人民代表大会制の「復権」および極端な形態で存在している様々な選挙問題への漸進的な克服を展開するためには、既存の選挙権権利説を再検討することは、決して無意味なことではなかろう。

(1) これに関して、畑中和夫「人民代表大会制度の比較憲法的検討」(王叔文・畑中和夫・山下健次・西村幸次郎『現代中国憲法論』所収、法律文化社、一九九四年六月、四七頁以下)のほか、拙稿「中国憲法における人民代表の免責特権条項---人民主権・人民代表制原理の視点から---」、(『立命館法学』、一九九四年第四号)を参照。
(2) 辻村みよ子「選挙権論の『原点』と『争点』・再論---野中教授の批判に応えて---」、杉原泰雄・樋口陽一『論争憲法学』に所収、日本評論社、一九九四年一一月、二四一頁参照。
(3) 金子勝「わが国における選挙権理論の系譜と現状」、『立正法学』一三巻三・四号、(一九八〇年)。辻村みよ子『「権利」としての選挙権』、勁草書房、一九八九年七月、四五頁など参照。
(4) このことは、前述したように、日本の選挙権権利説は、かつて「自然権説」として一部の学者に誤解されたということにも示されていると思われる。また、辻村みよ子教授においても、選挙権の淵源については、選挙権は「主権者としての地位にもとづく権利」と解されたり、「二元説」と同様に、その淵源が「実定法(≠超国家的自然権)」にあるとも指摘されたりしている。辻村みよ子・前掲書、一八三頁、四五頁など参照。
(5) 杉原泰雄「参政権論についての覚書」、『法律時報』五二巻三号(一九八九年)。
(6) 辻村みよ子・前掲書、一八三頁参照。
(7) 張友漁『憲政論叢』(上冊)、北京・群衆出版社、一九八六年、一五二頁。
(8) 中国における政治的権利と経済的・社会的権利の位置づけをめぐる論議について、鈴木敬夫「人権の主体と主体の人権---張文顕教授の所説にふれて---」を参照。『札幌学院法学』、第十巻第二号(一九九四年三月)。
(9) 例えば、蕭蔚雲『憲法学概論』、北京大学出版社、一九八五年一〇月、四〇〜四一頁。
(10) 前掲・拙稿参照。