立命館法学 一九九五年三号(二四一号)




現代代表民主制の
生理 「の」 病理についての一考察 (二・完)



石埼 学






目    次




第二章 現代フランスにおける批判的代表制論
1 多数派デモクラシーの完成と動揺
 さて、エスマンが半代表制における多数者の圧制の口実として析出した二つのイデオロギーのうち、現実に、フランスで重要性を増していったのは、比例代表の理念ではなく、多数者の意思を一般意思とみなす憲法伝統であると思われるが、その憲法伝統は、いかにして今日まで展開してきたのであろうか。
 樋口陽一教授は、この間の事情を次のように論じている。「第三↓第四共和制期の議会中心主義は、強力で安定した多数派を生み出すことができなかったために、『一般意思』の強力な担い手が欠け、集権的・多数派デモクラシーが機能しなかった」が「第五共和制の大統領中心主義構造のもとで、初期にはド・ゴール大統領の強力な威信のゆえに、ついで大統領多数派と議会(下院)多数派の一致によって支えられることによって、集権的・多数派デモクラシーが十全に機能することとなり、一九八一年の政権交代での大統領および議会多数派の入れかわりを経験することによって、多数派デモクラシーは完成形態に達したのである(1)」。
 このような多数派デモクラシーの展開を支えた理論的基礎は、ナシオン主権とプープル主権の両者に共通して確認される人民の統一性=「ルソー・ジャコバン型国家像」へのフランスの信念(2)であると思われる。ルシアン・ジョームは、この点について次のように述べている。「人民は主権者であり、政治主体としての地位を有するというのであれば、人民は、主体の意思の代弁者としてあらゆる尊厳をもったその代表者のうちに自分の姿をみいださねばならない」のに実際には「多数者の部分だけ」が「一般利益と人民の代表そのもの」と見做されている。ここにはズレがあるが、それにもかかわらず、なぜ多数者が人民を代表してきたのか。「それは、こういうことである。つまり一般利益は、分割、紛争状態ないし簡単にいえば非同質のものとしては理解されえないということである。しかしなぜ一般利益は統一的で同質的なものとして理解されなければならないのであろうか。明らかに、この利益の源泉である人民そのものが唯一・不可分のものとして理解されなければならないからである(3)」。
 このような人民の唯一・不可分性と社会的同質性の存在への信念に支えられて、多数派デモクラシー=多数者による一般意思の表明という図式は、一九八〇年代初頭におけるその「完成形態」まで展開してきたものと思われるが、その多数派デモクラシーの展開を支えた第五共和制憲法の枠組みは、他方でこの多数派デモクラシーという憲法伝統を動揺させる要素を当初からはらんでいたと言える。その要素の第一は、憲法院の存在である。とりわけ一九七一年判決以降の憲法院の違憲審査機関としての活性化(4)は、一般意思の表明としての法律による支配という憲法伝統との間に緊張関係をはらむものである。第二の要素とは、一九六二年の憲法改正によって選挙民によって直接に公選されることとなった大統領(5)と議会との間の国民代表の鼎立である。一九八六年に最初に出現した「公選の大統領職と議会多数が対立する勢力によって占められながら共存している状態(6)」(cohabitation)は、二つの国民代表の存在を意識させざるをえない状況を示したと言えるであろう。そして人民は唯一・不可分であり一般意思はひとつしかないはずなのに、それを代表する国民代表が対抗しながら鼎立するという状況は、多数派デモクラシーの基礎である統一的な人民や一般意思という信念を動揺させることとなった。すでにコアビタシオンの体験以前から、この二つの国民代表の間の緊張関係は、例えばトロペールらによる「議会復権論」にも意識されていた。そこでは、代表民主主義のシステムにおいては、国民代表とは、((1))一般意思を表明し、少なくとも法律の作成に参加すること、((2))普通選挙によって選ばれることの二要件を満たしたものであるとされ、第五共和制の大統領は((1))の要件に欠け、また首相は((2))の要件に欠けるから真の唯一の国民代表は議会だけであるという議論(7)がなされていた。法律の審署(第一〇条)と人民投票への付託(第一一条)という権限を有する共和国大統領が、((1))の要件を満たしていないとする議論は、極めて疑問であるが、いずれにせよ、「議会復権論」が国民代表の一元化をめざしたことは、国民代表の鼎立状態がもたらすであろう相互緊張関係を意識したものとして理解されるものであると思われる。 
 さらに、「一九八六年下院選挙での与野党の逆転が間近に予測されていたころ(8)」、すなわちコアビタシオンが目前に迫っていた頃に書かれたジャック・ジュリアールの著書『ルソーの誤り』は、国民代表の鼎立による多数派デモクラシーの動揺を次のように叙述している。「人民の代表制度が多様化する以上、議会は、人民の唯一のコピーという特権と同時に議会が原初のもの(9)にとってかわって簒奪した権利を失う。代表は、原理的に、唯一性を前提とするが、多様性が侵入し、コピーが複数になることは、原初のものが他の場所にあるということを暗に認め、不本意ながら、剥脱されていた主権を人民に返却することになる(10)」。さらにジュリアールは、「我々がかつて払い除けたと信じていたルソーの老いた亡霊が甦るのが見える。すなわち代表しえない人民である」という(11)。このようにして、代表が不可解なものとなり「代表しえない人民」が再び問題になるのであるが、問題はそこにとどまらない。つぎにはこの「代表しえない人民」そのものが俎上に乗せられるのである。「しかし、時代を隔てて、人民は統一性と一貫性を喪失していた。これは、現代民主主義のプロメテウス的で寄せ集めの多形の人民である」。しかもジュリアールによれば、この事態を招いた張本人は、「一にして不可分の共和国という旧来の考えを確かなものにする」ことに努力を払ってきた社会主義者自身である(12)。「それを殺したのは社会主義者自身だ。どのように? 人民の苦悩する部分のための個別代表を発明し、社会党を発明し、労働組合を発明し、人民代表の議会による独占を打破することによって(13)」。ここで言及されていることは、具体的にはネオ・コーポラティズム(14)であるが、そこにおける「特殊利益の神聖化(15)」が社会主義者自身をひとつの矛盾に陥れる。「このように代表の危機は、一般意思の危機を内に秘めつつ、一般意思のジャコバン的および社会主義的支持者を矛盾に陥れる。人民の統一性の必要を声高に叫びながら、同時にこの矛盾を先鋭化することを求めることはできない。大きな隔たりや八つ裂きの刑を敢えて冒すことなく、社会契約論に片足を突っ込みながら、他方の足を階級闘争に突っ込むことはできない(16)」。
 以上のようなジュリアールの議論は、要するに、大統領と議会への国民代表の二元化によって「代表しえない人民」が再び意識されるようになったが、しかし、問題は、そのようなフランス第五共和制(とりわけ一九六二年以降)における国民代表制度の問題にとどまらず、多数派デモクラシーを支える信念である「一般意思」や「統一的な人民」という観念自体が、実は、「特殊利益の神聖化」によって蝕まれているという状況がその背後には、存在するということである。社会的同質性を前提とする(あるいはそのものを意味する)一般意思による統治というフランスの憲法伝統に深く根ざした代表制論が、市民社会の分裂(同質性の喪失)というリアルな現状認識によって動揺しているのだと言えよう。そのことは実は、多数者によって表明される一般意思という図式と「特殊利益の神聖化」を基礎とする比例代表の理念との間の矛盾に他ならないのである。このようにして、エスマンが多数者の圧制の「口実」として析出したふたつのものが現代の代表制を「危機」に陥れることになったのである。
 そして、「代表の危機」論は、人民の統一性、一般意思および社会的同質性という多数派デモクラシーを支える屋台骨を侵食しつつあるようである。ルシアン・ジョームは、唯一・不可分の人民は存在するのであろうかと問い、「経験的観察は、実際には、おそらくは社会的階級、あらゆる場合に諸階層、諸利益団体、すなわち利益配分団体やその他のコーポラディヴな組織の諸団体のうちに分裂を示すだろう」とし、しかもこれらの「相対立し、さらには矛盾した多極的な諸利益は選挙に介入している」という(17)。
2 「代表性の喪失」---ジャン・トゥールノンの代表制論---
 他方、ジョームの言う「経験的観察」における人民の分裂を、民意の多様性を忠実に描写することをめざす現代的代表概念に依拠しつつリアルに説明し、「描写的代表の神話」の解体をめざすのがジャン・トゥールノンの論文「代表するのか、統治するのか、それが問題だ(18)」である。そこでは「代表性の喪失」(ジョームのいう「ズレ」)が問題となる。今度は、エスマンが多数者の圧制の「口実」としたふたつのもののうち比例代表の理念が主として問題となる。
 「代表統治」というのは「無謀な行為(19)」であるとして「描写と行為に引き裂かれた代表」の「根本的な二重性(20)」を問題とするジャン・トゥールノンは、この「二重性」が次のような次第になるという。「権威の行使は、当初の代表性(repre´sentativite´)の喪失なくしては前に進むことはできない。なぜなら支配者がある人たちを正しいとして他の人たちを非難するならば、その非難された人たちは、当然のことながら、もはやかれらを代表していない統治にかかわり合うのだと思うであろう。なぜならその統治は、かれらと対抗しかれらに強制をするからだ」。「紛争を忠実に代表するのに懸命になればなるほど、ますます調整ができなくなる。その上、統治すればするほど、ますます少なく代表する(21)」。
 トゥールノンは、国民代表機関=議会の代表原理と多数決原理という二重の原理を相互に緊張関係にあるものとして把握し、その代表性と統治の契機が反比例の関係にあることを示すのである。同じく人民の意思の実在性を承認するものであっても、その中には二つの異なる代表観がある。ひとつは、実在する人民の統一的意思を代表するとするものであり、いまひとつは実在する人民の多様な意思を描写的に代表するとするものである。前者の場合に、代表者が、その多数によって、実在する人民の統一的意思を忠実に表明したのであれば、代表者は、人民の忠実なコピーと見做される。ところが、ここでトゥールノンが問題にしている代表観は、そのような人民の統一的意思の実在性の承認に基づく代表観ではない。ここで問題となるのは「紛争を忠実に代表する」代表観である。したがって、当然のことながら、このような観察の前提となるものは、社会の「内部における緊張と不調和と両立不可能性」である。
 「もしも社会が自ずから調和がとれているならば、その統治者は、実際に限りなく、その自発的な和合の鏡でありうる。しかし、このような仮定において妨げとなるものは、このような社会は統治されることを必要とせず、論理的に、統治が代表しているか否かを気に掛ける必要がないということである(22)」。
 トゥールノンは、ここで、人民の統一的意思の実在性に基づく代表観を、ひとつのトートロジーであると考えているようである。「社会は引き裂かれてはいないのだから、社会には統一的で議論の余地のないひとつの意思が必要だ」という主張をトゥールノンは「トートロジー」であると言っている(23)。この点は、フランスの多数派デモクラシーへの批判と考えてよい。それは、ジョームの言うように、人民は統一性と社会的同質性に基づく一般意思は統一的でなければならないから、多数者は、その一般意思を表明した(すなわち人民の意思を忠実に表明した)とする論理に支えられているからである。
 トゥールノンは、このようにして人民の統一的意思の実在性に基づく代表観を退けた後に、次のように述べる。
 社会において調和が存在しないならば「代表統治は、社会に蔓延している不調和に通常なら対応せざるをえない。代表統治は、果たすべき役割を持ち、しかし代表統治は、代表することを中止する場合にしかそれを果たすことはできない。
 事実、内部における緊張、不調和および両立不可能性によって政治に頼らざるをえない社会は、社会が自らに与えた諸政治制度の中で、いわばミニチュアのように政治家が紛争を再生産するのをただ見ているだけというわけにはいかない。その紛争は、社会が、決着をつけ、或いは、ともかくもあまりそれに苦しまないようにと努めているものである。社会は、統治されることを望んでいるのであり、それ故、その支配者は、社会の矛盾した願望を表現するのとは別のことをしているのである(24)」。
 社会的同質性の欠如した社会において、その各種の異質な利益の緊張をはらんだ共存状態を「ミニチュアのように」議会構成に再生することは、現代的代表観の要請するところであるが、しかし、ここで、トゥールノンは、非同質社会は、そのようにして代表されることではなく、紛争を解決すること=「統治されること」を社会自体が望んでいるのであるという。それが代表統治が「果たすべき役割」であるというのである。そのことをトゥールノンは、「統治される」必要のない自ずから調和のとれた社会(同質社会と考えてよいであろう)との対比において明らかにしているのである。代表統治の「果たすべき役割」は紛争を解決することであるということの意味は、代表の役割が、調和(あるいは統一性)の崩壊した社会において、ひとたび失われてしまった調和をあらためて創出することであるということであろう。そうであるならば、自ずから調和のとれた社会にあっては、そもそも調和をあらためて創出する必要がないので、代表統治が「果たすべき役割」は存在しないことになる。代表の役割が調和の創出=人民の統一性の事後的な実現にあるという代表観は、他にも、ルシアン・ジョームのホッブス解釈にもみられる。ジョームによれば、ホッブスの理論において、主権者である代表者が代表するのは「『群衆(multitude)』を構成する各々の自然的個人」であり、「代表者は、『虚構的な人格』のうちに諸個人からなるこの群衆を統一する。すなわち、その人格は、それを持たぬところに遡及的な統一を与えるのである」という(25)。この「虚構的な人格」とは「人民」のことであるが、したがって、「人民は当初から存在する主体ではなく、統治の意思の対象であり、その利益のために公布された法律の対象なのである。それ故、結局は人民は、主権者の媒介によって人民にメタモルフォーゼされた群衆なのである(26)」。そこでは、「代表が何に役立つかといえば・・・人民の統一を確保することによく役立つのである」という(27)。トゥールノンは、この「人民の統一を確保する」という代表統治の「果たすべき役割」を「代表」という言葉ではなく、端的に「統治」という言葉で示している。それらの両者は異なる事柄であるというのである。「代表」とは、社会の紛争を「描写」することであり、「統治」とは、その紛争の中から調和を創出する「行為」のことである。「描写と行為に引き裂かれた代表のこの根本的な二重性は、今日の政治思想においては、誤魔化され、抑制され、さらに否定されている(28)」。このように言った後に、トゥールノンもまた、この「代表統治」の二重の性質を区別していた思想家としてホッブスの名をあげている。
 しかしそのような区別は「時とともに、選挙権の拡大とともに、そして特にある種の代表の他のものによる汚染とともにだんだん通用しなくなった。明らかに、ホッブスが非常に注意深く区別して分離しておこうとしていた代表の二つの様式を同じ道具によって解釈しようとしているのだ。そして、極めて微妙で不鮮明な現実を区別するためには当然のここと思われる二重性が、全体性とも多様性とも離れたひとつ代表ということで拒否されてきたのである。その結果として、西洋民主主義は、『代表統治』という泥沼にはまったのであり、ある時は、代表しながら支配するという論理的不可能の、またある時は抽象的なものへの、あるいはあまりに間違った諸目的を持った民主主義的な制度と手続きによる権威主義へ抗いがたく流れ込んでいったのである(29)」。
 「今日の政治思想」あるいは憲法学において、混同されてしまったふたつの問題を明確に区別しようとするところにトゥールノンの論文のもっとも重要な意義が存するのであるが、ここで区別された「代表」と「統治」との関係はどのようなものであろうか。それをトゥールノンは、両者の緊張関係(「権威の行使」による「代表性の喪失」)において把握していたのである。すなわち、「代表統治」によって、実は、「統治」のうちに自らが「代表」されている部分と、「統治」のうちに自らが「代表」されていない部分(「もはやかれらを代表していない統治にかかわり合うのだと思う」部分)が人民のうちに生まれるというのである。
 ところで現代の代表制は、そこに反映されたいくつかの意思の間で妥協・調整を図り、それらを汲んで統治するわけであるから、「統治する」場合にも「代表する」ことを中止するわけではないという反論を考えてトゥールノンは次のように続ける。
 「支配者が、妥協あるいは新しい方法によって、むしろ中庸な方法を追求するのであれば、社会的な改革によってちょうどこのようにして提案された解決策の中に当初の要求を明白に再び発見することはできないのであるから、支配者は、もはやいかなる陣営も代表しないという危険を冒すことになる(30)」。現代の代表観を社会における異質な利益の緊張をはらんだ共存状態の忠実な描写であると定義するのであれば、妥協・調整は、トゥールノンの主張するように、そのような代表観からの逸脱であるということは間違いないであろう。
 この点については、わが国の学説でも、例えば岩間昭道教授は、いわゆる妥協・調整モデルを、議会が独自の意思形成をすることを認める代表観に立脚するものであると把握している。岩間教授は、「実在する民意の忠実な『反映・代弁』に『代表』の本質が求められるようになった」ところの現代の代表観のもとでも、「厳密にみれば、A 実在する多様な民意を忠実に反映しつつも、議会が独自に議会意思の形成を行なうことを重視する代表観と、B 議会を基本的に直接民主主義の手段として捉え、したがって、議会が実在する支配的な民意を忠実に代弁することを重視する代表観、の別がみられる」とし、前者の代表観の「代表的例」として、「『すべての政治群』が、比例代表制を通して、『その大きさに比例して代表され』、こうした諸利益間の議事手続を通しての『妥協』により、『合成力』としての『共同社会意思』が形成されることを期待し、かようにして、議会制デモクラシーをもって、階級対立を『平和的かつ漸次に調停する可能性を提供する形式』とみるケルゼンの議会制観」をあげている(31)。「厳密にみれば」このようなケルゼン的議会制観は、実在する民意の忠実な反映・実現を目的とし、議会による独自の意思形成を拒絶する現代的代表観とは相容れないものであると考えられる。
 トゥールノンの主張は、つまり、社会における諸利益相互の「緊張」「不調和」「両立不可能性」を忠実に代表させようとする代表制度においては、「統治」「権威の行使」=多数決ないし妥協・調整の過程で、異質な諸利益をそのまま実現することができないのであって、それ故に「代表性の喪失」が意識されると要約できるであろう。
 さて、このトゥールノンの理論についてステファヌ・リアルスは、次のようにコメントしている。「代議士は、局在的な選挙民の像であると同時に・・・一般意思の統一性のなかに溶け込むことはできない(32)」。また「政治的代表は、次のアポリアによって蝕まれざるをえない。一方では代表者は、異質な被代表者のそれぞれの立場を忠実に描写し、他方では決定は(妥協を生み、隠された統一性を明るみにだすような審議によって)両立不可能な諸委任に対する裏切りを伴うのである(33)」。
 トゥールノンが論じているのは非同質社会を前提にして「異質な被代表者のそれぞれの立場を忠実に描写」する代表観であるが、そこから「一般意思の統一性」に到達することは、もはや不可能なのである。カール・シュミットの言うように「ルソーの考えた一般意志とは、本当のところは、同質性である(34)」とするならば、非同質社会においては、そもそも一般意思の不存在が前提とされているわけであり、その社会の異質な諸利益を忠実に代表することをめざす代表観からは、一般意思(同質性)を導きだす余地は、論理的に存在しないのである。トゥールノンの理論においては、端的に、その不可能性が意識され、その不可能性の現象形態としての「代表性の喪失」が問題とされることになったのである。
 「社会の多様性は、それが消滅するかのような一点に極度に洗練されたのであろうか。そうではなく、相似の追求は、権威の追求のために放棄されたのである(35)」。
 このようにしてトゥールノンの代表制論においては、今度は、エスマンが多数者の圧制の「口実」としたふたつのもののうち比例代表の理念が再び問題とされ、それと一般意思との相互排斥的な関係が析出されたのである。
 しかし、このように非同質社会を前提にする代表観に基づいて議論をすすめ、「代表性の喪失」がひとたび確認されると重大な不都合が生じるであろう。すなわち「法律は一般意思の表明である」という一七八九年人権宣言以来のフランスの憲法伝統における法律に関する大原則が失われてしまう。法律が人民の一部の特殊利益の表明にすぎないのであれば、なぜ人民を構成する個々の市民は法律に従わなければならないのであろうか。「代表性の喪失」の問題とは、すなわち代表されていない部分が人民のなかに存在するということである。
 しかも、ひとたび「経験的観察」によって人民の分裂が確認されてしまった以上、多数者による一般意思の表明という多数派デモクラシーへの回帰は、空虚であり、理論的に不可能である。
 ジョームは、次のように述べている。「私の考えでは、代表の危機は、一七八九年に由来するような人民という考えの危機である。なぜなら、それは同時に市民性の危機であるからだ。委任の行為が貧困な内実に対するひとつの象徴になる傾向があるのと同様に、市民という地位は相関的なその体験を喪失するのである(36)」。つまり、「各自が自分を主権者たる人民の構成員であると感じ(同意の一形態)なければならない(37)」ということ内実とする「市民性(citoyennete´)」は、一般意思の表明たる法律のうちに自らを見いだす(代表されている)ところに相関的に存するのであるから、現代的代表概念が生み出したズレによって「代表性の喪失」が意識される場合には、市民は法律のうちに自らを見いだしえないのであり、端的に他者に統治されていると感じるのであるから、個々の市民は、自分を主権者たる人民の構成員であると自覚することを内実とする市民性を喪失するのである。トゥールノンが「支配者がある人たちを正しいとして他の人たちを非難するならば、その非難された人たちは、当然のこととして、かれらと対抗しかれらに強制をするのだから、もはや彼らを代表していない統治とかかわり合うのだと思うだろう」と述べている(38)のも同趣旨のものと思われる。また社会学者のアラン・トゥレーヌは、最近の著作において、この代表性と市民性との相関関係について以下のように述べている。「今日では、様々な兆候から考えると、民主主義と称される諸体制は、権威主義的諸体制の全く同様に衰退していると考えられる」が「このような諸国家の衰退は、その国家が民主主義的であろうがなかろうが、政治的参加の低下を引き起こすのである。そのことはまさしく政治的代表の危機と名付けられる。選挙民はもはや自分が代表されていないと感じる。そしてそのことは、ある政治的階級に対する告発によって表現される。つまりかれらは、かれら自身の権力やかれらの構成員の私腹を肥やすこと以外の目的を持っていないというのである。市民性の意識は希薄化し、ある場合には多くの個人は、自分を市民というよりも消費者であると感じ、国民であるよりも国際人だと感じるのであり、またある場合には、逆に、かれらのうちの一定の人々は、経済的、政治的、民族的あるいは文化的理由によって自らが参加していないと感じているところの社会から、自分が周辺に追いやられ、排除されていると感じるのである(39)」。
 ところで、ここで市民性の希薄化が語られる時、そこで問題とされている「市民(性)」とは何を意味するのであろうか。実は、市民性は、一七八九年人権宣言(第六条)における「一般意思の表明」としての「法律」の「形成に参加する権利」を与えられた「市民」における市民性よりも、一段と充実された内容を与えられる傾向にあるのではないか、と考えられる。トゥレーヌは、「私たちは、もはや参加としての民主主義を望まない。また討論としての民主主義にも私たちは満足できない。私たちは解放(libe´ration)としての民主主義を必要としているのだ」という(40)。またトゥールノンの叙述は、「市民」という言葉は用いていないが、明らかに、民主主義のプロセスへの参加よりも高いレベルにおける代表性と市民性の相関関係を問題にしているものと思われる。すなわち、ここでは、市民の参加によって形成された法律そのものの中に市民が自らを見いだすことが市民性として論じられているものと考えることができる。そうであるならば、「代表性の喪失」の問題は、実は、「代表(性)」概念の内実の豊富化とともに「市民(性)」概念の内実の豊富化にも依存しているのである。民主主義のプロセスに参加する権利を与えられた積極市民から、すべての市民へ、そしてそのプロセスの結果に自らを見いだそうとする市民への「市民(性)」意識の発展があって、そのようなプロセスの結果に自らが「代表されている」か否かを意識するところに「代表性の喪失」の問題が生じると考えられるであろう。
 わが国における「市民(性)」と「代表(性)」の関係の理解についてもここで触れておきたい。「市民」について樋口陽一教授は、「主権主体の構成要素としての個人」という定義を与えている(41)。それは、先に引用したジョームの定義と同じであるが、代表との関わりで、この定義を、さらに詳細に考察するならば、個人が自らを「主権主体の構成要素」であると感じるためには、民主主義プロセスに代表されることが必要条件なのか、そのプロセスの結果に代表されることが必要条件なのかという問題があるであろう。辻村みよ子教授が「市民」を「主権行使(国家意思の形成)に参加しうる能力をもった具体的存在」とし(42)、また松井茂記教授が「市民」を「自然権を確保するために政府を組織し、政府の決定に参加する」ものとする(43)場合、民主主義プロセスへの参加のみが問題とされているが、半代表制において、多様な民意を「実現」することが問題であるならば、それとの関わりにおいて個人が自らを「主権主体の構成要素」であると感じるためには、個人は、民主主義プロセスの結果にも関心を持たなければならないことになるであろう。「市民」を「参加」の契機の次元においてのみ把握するのか、その「意思の実現」の契機の次元にまで高めて把握するのかという問題は、エスマン的な半代表制概念との関わりで理解するのであれば、後者の契機にまで高めて把握されるべきであろう。そのように把握して、はじめて「代表性の喪失」や「市民性の希薄化」が問題となりうるのである。いずれにせよ、議会の討論による一般意思の形成によって議会が国民代表とみなされていた純粋代表制から、人民の中に前もって存在する意思(それが一般意思であれ、多様な民意であれ)を代表することを目的とする半代表制への代表概念の根本的転換は、非同質社会を前提とする比例代表と同質社会を前提とする多数者による一般意思の表明という相矛盾した要素をそのうちに含むことによって、解決困難なアポリアに陥ることになったのである。そして非同質の多様な民意からひとつの一般意思を導きだすことの困難性の認識が、「代表性の喪失」と「市民性の希薄化」をも意識させることとなったと思われる。
3 純粋代表制への回帰? ---ステファヌ・リアルスの代表制論---
 統一性と多様性とのこのようなアポリアに代表制が陥ったのは、代表者が「国民のために意思する」ことによって、すなわち討論によってえられた「共通の意思」を代表者が自ら意思しえないナシオンのために与えることによって、意思の統一性が擬制されていた純粋代表制から、実在する多様な民意を代表することをめざす半代表制への国民代表制の歴史的展開によるものである。純粋代表制においては、多様な意思は、当初から、想定されていない。他方、純粋代表制においては、「代表」という「用語の奇異さ(44)」がもたらす現実隠蔽機能を別にすれば、代表者と被代表者に間に何らの関係も存しないことが公然と承認されていたのである。すなわち、純粋代表制においては、人民の意思の実在性が否定されていたかわりに、統治者と被治者の間の断絶が公然と宣言されていたと言える。
 この点に着目し、むしろ、このような純粋代表制を構想したシエースを高く評価するのがステファヌ・リアルスの代表制論である。リアルスは、トゥールノンやジョームの理論に共感を示しつつ、社会契約による「自然状態との断絶は、その中に人と人との断絶、社会的人間と政治的市民の断絶、消極市民と積極市民の断絶、統治者と被治者の断絶を含みこむ。そしてシエースの本来の天才は、そのことを深く理解し、この断絶のすべてを代表の特徴の下に位置付けたことに存する」とリアルスは言う(45)。
 「純粋な直接民主主義は、(それは、完全な現実的平等、絶対的な透明性、全くの直接性を前提とする上、公共の場所に集合した人民による意思の表明も完全には実現できないという点で)狭い範囲においてさえ実現できないということ、これには疑問の余地がない。したがって、純粋な直接民主主義は、決して実現されない理想である(46)」という認識に立つリアルスにとって、我々が選択するべき道は、次の二つのいずれかである。ひとつは、被治者との「代表の隔たり」を認め、「節度の精神」、「権力分立」、「広義の多元主義」などの結論を導きだす議論であり、いまひとつは、「純粋に言葉の上でこの隔たりを廃止しようとする議論」である(47)。
 この後者に立脚したのが、リアルスによれば権力を掌握した時のジャコバン派(48)である。「結局、人民の意思はひとつであって、ジャコバンの統治者がそれを表明したのであれば、その場合、もはや難問は存在しない。それならば、真実の人民の意思を絶対的に尊重した上で、完全に統治することができるのである」。ここでリアルスのいう「難問」とは、すでに紹介した人民の統一性と多様性との間の矛盾のことである。ジャコバン派が人民の意思を表明したとする論理は「徳」によってなされる。ジャコバン派によれば「徳」があるものが人民なのである。したがってそのような「徳」を有するジャコバン派は、人民の意思を表明するというのである。「かれらの手にかかると、代表は、代表制の意味における代表のひとつであることをやめ、人民そのもの、少なくとも巨大な人民という身体の頭になるのであり、その身体は、立憲主義の狭い形式主義に囚われる必要のない生きたものになるのである(49)」。
 したがって、リアルスは、このような危険を有する議論を排斥し、代表者と被治者の間の断絶を埋めようとする「不可能な異議申し立て」ではなく、その断絶に対する「懸命な諦観」が必要だとして、「暴力よりも多少とも自由のための最もよい機会が存するのは、想定された人民の始原的な純粋な意思の維持ではなく審議という方法による繰り返しの洗練のなかである」とする(50)。
 このようなリアルスの代表制論には、明らかに、実在する民意の正確な表明と実現という半代表制の理念から、代表議会の討論による意思の表明という純粋代表制の理念への方向転換が認められる。
 このような代表観への回帰を基礎付けるためにリアルスは、「一般意思」の読み替えをも行なっている。リアルスは、一般意思のシエース型とルソー型を峻別し、後者を批判する。リアルスは、ルソーの一般意思を、ライプニッツのいう積分、「内在的な秩序関係」であるとする哲学者アレクシス・フィロネンコの説に共感を示しつつ、ルソーの一般意思において審議が考慮の外に置かれるが、その一般意思の前提条件として、((1))「『小さな相違』しか存在しないこと」=社会的同質性、((2))「個別の意思の積分を表明するのは誰の役割か」という問題の解決が必要であるという。しかし、((1))については、「複雑な社会でこのような状態が維持されるということは想像しがたい」とし、また((2))について「あまり秩序だっていない、つまり複雑で多元的な社会では、誰が一般意思としてほとんどすべての人の明白な意思を特徴づけるのか?」と疑問を繰り返している。このようなルソー型の一般意思に対して、リアルスは、議会の審議の後に存在することになる「共通意思」としての一般意思というシエースの考えに共感を示すのである(51)。
 また、リアルスは、統治者と被治者の断絶を前提にしたシエース的代表制を、ただ不可避なものとしているだけではなく、「立憲主義とは代表である(52)」という結論からみられるように、そこに立憲主義的見地からの積極的な意味を見いだしているといえる。リアルスの論文の副題は「代表・連続性か必要性か?」であるが、この副題の意味をリアルスは次のように述べている。「代表を確固として維持することは、憲法史上の偶然と見做された連続性ではなく、深遠な必要性を標榜して行なわれるべきである(53)」。エスマンのいう「直接統治の代用品」ではなく、むしろ直接統治よりも望ましいものとして代表制には「必要性」が立憲主義の見地から存するというのがリアルスの結論である。
 なおリアルスは、自らの「代表」概念の用語法について、「代表(Repre´sentation)」と「代表性(Repre´sentativite´)」を区別した上で、その前者の意味であることを明らかにしている。すなわち「代表性は、政治的正当性の機能しかもたないのであり、何ら法的に固有な意味をもつものではない」として「代表性」(トゥールノンのいう「代表」=「描写」にあたるものと思われる)の問題を憲法学の対象外とし、「代表者は、代表的(repre´sentatif)である必要はないのだから、代表者は、単に法的資格によって代表者なのである」という(54)。
 リアルスの代表制論は、「代表するのか、統治するのか」という形でトゥールノンが提出した問題へのひとつの回答である。すなわち、リアルスの代表制論は、議会の審議によって代表者が「国民のために意思する」という古典的意味において代表する代表観への回帰によって「統治する」という回答を与えているといえよう。それは、人民の分裂を忠実に代表し、そこから統一性を導きだそうという現代的代表観の不可能な試みを否定して、人民の意思の実在性ではなく、その事後的な代表者による創出を代表統治の役割として承認する代表観である。このような傾向は、すでに見たように、「代表統治」の「果たすべき役割」を人民の調和の創出であるというトゥールノンや、「代表が何に役立つかといえば・・・人民の統一を確保することによく役立つ」というジョームにも見られる傾向である。その中で、リアルスの代表制論の特色は、そのような「純粋代表制的」構成を立憲主義的見地から、積極的に意義づけていることにある(55)。

(1) (1) 樋口陽一『近代国民国家の憲法構造』(一九九四年)五四〜五五頁。
(2) 「ルソー・ジャコバン型国家像」については、樋口『近代国民国家の憲法構造』三三頁以下の他に、辻村みよ子『人権の普遍性と歴史性』(一九九二年)一七一頁以下を参照。
(3) Lucien Jaume, Peuple et individus dans le de´bat Hobbes-Rousseau : dans F. d'Arcy (direction) , La repre´sentation, 1985, p. 41. なお、本書は、一九八四年一月にグルノーブルで開催された第二回フランス政治学会の記録集である。
(4) 憲法院の一九七一年七月一六日判決以降の動向について、中村睦男「フランス憲法院の憲法裁判機関への進展」北大法学論集二七巻三・四号(一九七七年)を参照。
(5) 一九六二年の憲法改正以前までは、共和国大統領は、両院議員、県会議員、海外領土の議会議員、市町村会の代表からなる大統領選挙人団制度による間接選挙で選出されていた。
(6) 樋口陽一『権力・個人・憲法学』(一九八九年)七九頁。
(7) P. Birnbaum, F. Hamon et M. Troper, R INVENTER LE PARLEMENT, 1977. p. 28-29. 「議会復権論」については、清田雄治「現代フランスにおける議会復権論」立命館法学一七二号、一七三号(一九八三年)。
(8) 樋口陽一、前掲『権力・個人・憲法学』 一一〇頁。
(9) ここでは、人民のことを意味する。
(10) Jacques Julliard, La faute a` Rousseau, 1985, p. 214.
(11) ibid., p. 215. ここでジュリアールは、ジョームの次の主張を念頭においている。ルソーにおける人民は「代表なき人民」であるが、それは、次のようなことである。すなわち「人民は、主権の客体ではなく主体であり、不確定の客観的内容を持つ生産性であり、無制約の生産性である。それは、その直前にみずから望んだこと、すなわちある法律、ある統治をその直後にあらためて問題にすることができるのである。ルソーの人民は、無から自らを創りだす神と同様に、自らを創出する場合に限って存在するのである」(Jaume, op. cit., p. 49)。
(12) ibid., p. 215.
(13) ibid., p. 216.
(14) ネオ・コーポラティズムと「代表の危機」とのかかわりについては、P. Muller et G. Saez, Ne´o-corporatisme et crise de la repr sentation : dans F. d'Arcy. op. cit.
(15) Julliard, op. cit., p. 218.
(16) ibid., p. 218.
(17) Jaume, op. cit., p. 43.
(18) Jean Tournon, Repre´senter ou gouverner, il faut choisir ; dans F. d'Arcy, op. cit.
(19) ibid., p. 108.
(20) ibid., p. 109.
(21) ibid., p. 108.
(22) ibid., p. 108.
(23) ibid., p. 109.
(24) ibid., p. 108.
(25) Jaume, op. cit., p. 45-46.
(26) ibid., p. 46.
(27) ibid., p. 47.
(28) Tournon, op. cit., p. 109.
(29) ibid., p. 111-112.
(30) ibid., p. 108.
(31) 岩間昭道「議会制の近代と現代」法学教室一六三号(一九九四年)九〜一〇頁。
(32) Ste´phane Rials, Constitutionnalisme, souverainete´ et repre´sentation ; dans La continuite´ constitutionnelle en France de 1789 a` 1989 , 1990, p. 66. なお本書は、一九八九年五月に国民議会で開催された憲法学会の記録集である。
(33) Rials, La repre´sentation ; dans DROITS No. 6, p. 3. ここでリアルスが「隠された統一性を明るみにだすような審議によって」と言っている場合、「隠された統一性」というものが現実に存在することが想定されているわけではなく、そのようなことを 標榜する「審議によって」という趣旨であると思われる。
(34) カール・シュミット、前掲、二一〜二二頁。
(35) Tournon, op. cit., p. 109.
(36) Jaume, op. cit., p. 52.
(37) ibid., p. 52.
(38) Tournon, op. cit., p. 108.
(39) Alain Touraine, Qu'est-ce que la de´mocratie ?, 1994, p. 18.
(40) ibid., p. 21. トゥレーヌの言う「解放としての民主主義」とはどのようなものであろうか。この点について本書『民主主義とは何か』から、かれの民主主義に関する言説を参考までに引用しておこう。かれは、「民主主義は、それが被る攻撃によって、いつの時代にも最もよく定義され
る」という見地から、旧ユーゴスラヴィアにおける内戦などを引き合いに出しつつ次のように述べる。「民主主義文化とフランス風の共和主義文化との対抗を示すことによって、民主主義の理念の変化は最もよく理解される。後者は、統一性を追求するが、民主主義文化は、多様性を保護する。また後者は自由を市民性と同一視するのだが、前者は、人権を市民の義務や消費者の要求と対置させる。民主主義においては、人民の権力は、人民が玉座に腰掛けることを意味するのではなく・・・玉座が存在しないことを意味するのである。人民の権力とは、最大多数が自由に生きる可能性、すなわち私たちが現にあるところのものと私たちがそうありたいと望むところのものを結合させることによって、また自由と文化的遺産への忠誠の名において権力に抵抗することによって、個人的な生活を構築する可能性を意味する。
  民主主義体制とは、最大限の自由をより多くの人々に与え、最大限の多様性を確保し承認する政治の形態である」(p. 25)。
(41) 樋口陽一、前掲『近代国民国家の憲法構造』一八六頁。
(42) 辻村みよ子、前掲「主権論の今日的意義と課題」五一〜五二頁。
(43) 松井茂記『二重の基準論』(一九九四年)三四三頁。
(44) 樋口陽一、前掲「覚え書き」五九頁。「用語の奇異さ」とは、樋口教授が、いわゆる純粋代表制のイデオロギー機能がどこから生じるのかを問題とした時に用いた言葉である。
(45) Rials, op. cit., Constitutionnalisme., p. 69.
(46) ibid., p. 63-64.
(47) ibid., p. 67.
(48) ここで、リアルスは、Lucien Jaume, Le discours jacobin et la de´mocratie, 1989 に依拠している。ジョームは、本書で「興味深いことに、ジャコバンの共和制の時に国民公会は、少なくとも幾つかの見地において、シエースのビジョンになぞらえることのできる権力構造を確立した。すなわち主権者になった代表者たちの集団である」(二五八頁)として、一七九一年から一七九三年の代表制としての連続性を実証的に示そうとしている。
(49) Rials, op. cit., Constitutionnalisme., p. 66.
(50) ibid., p. 67.
(51) ibid., p. 55-58.
(52) ibid., p. 69.
(53) ibid., p. 67-68.
(54) ibid., p. 74.
(55) 代表制における多様性と統一性の問題を、フランス第五共和制の枠組みに適合的に解決しようとするものとしてドミニク・テュルパンの所説がある。かれは、「唯一の代表ではなく、異なった相互補完的な諸機関に体現された複数の代表が、一方では国民の統合を、他方ではそれを構成する諸個人の多様性を表明する」べきことを提起している(Crise de la de´mocratie repe´sentative : dans La Revue administrative No226, 1985, p. 337)。ここでテュルパンは、大統領が「国民の統合」を代表し、議会が「諸個人の多様性」を代表することを想定しているのである。テュルパンの代表制論については、未刊行の博士論文を中心に詳しく検討・紹介している光信一宏「現代フランス憲法学における代表制論の一動向---ドミニク・テュルパンの所説をめぐって---(1)(2)(3)完」愛媛法学会雑誌第一六巻四号、第一七巻一号、二号(一九九〇年)を参照。


       終章 国民代表制論の再構成への視点
1 いくつかの代表観
 本稿の最後に、以上の検討から得たれた示唆に基づいて、今後の国民代表制論の再構成という作業の前提となる視角を提示しておきたい。
 まずは、異なるいくつかの代表観が、今日、存在することがいままで見てきたところから確認されるであろう。それは、次のとおりである。
 ((1)) 同質社会を前提にして、人民の統一的意思の実在を承認し、それを代表者が忠実に表明し、実現する代表観。これは、ルソー・ジャコバン型国家像における多数派デモクラシーの代表観である。
 ((2)) 非同質社会を前提にして、人民の多様な意思の実在を承認し、それらを代表者が忠実に描写し、実現する代表観。エスマンの半代表制概念がこれにあたる。
 ((3)) 非同質社会を前提にして、代表者の討論による「人民」の意思の創出によって、代表者が「人民」を代表する代表観。ステファン・リアルスらの提示する代表観がこれにあたる。今日、この代表観において「代表者の討論」が問題とされる場合、それが非同質社会を念頭においている点で、同質社会を念頭においたカール・シュミットの「真の討論(1)」とは異なるであろう。また「討論」ではなく「妥協・調整」によって人民の意思の統一を図るケルゼン的な代表観もここに含まれる。
 これらの代表観を大きく二つに類型化すると、実在する人民の意思(統一的であれ、多様であれ)の忠実な描写・実現をめざす代表観(((1))((2)))と代表者の独自の意思形成を承認する代表観(((3)))があることが承認されよう(2)。前者の類型は、実在する人民の意思に現実の国家権力を帰属させようとするものであるが、後者の類型は、人民に代表者の権力の正当性の源泉としての役割を期待するものである。また前者は、自ら意思することのできるプープルの主権に立脚する代表観であるのに対して、後者は、自ら意思しえないナシオンの主権を前提とする代表観である。ただナシオンを前提とする代表観といっても、それを導きだす根拠は、今日の代表制論においては、フランス革命期のそれとは異なることには注意しなくてはならない。フランス革命期においては、人民の教養と余暇の欠如などの理由で、かれらは自ら意思しえないとされた(3)のであるが、今日においてはかれらが意思しえないのは、かれらの意思の多様性によるのである。
2 純粋代表制的代表観への「回帰」について
 多様な意思を統一的な人民の意思にまとめあげることの不可能に陥った「代表の危機」を乗り越えるために国民代表制論を再構成しようとする場合、((1))の代表観に依拠することはできないであろう。それは、第一に、人民の実在する統一的意思という「経験的観察」に反する仮定を必要とする。第二に、この代表観はトゥールノンの指摘するようなトートロジーに陥る。すなわち調和を創出する(一般意思を表明する)ことをこの代表観は、その役割とするのであるが、その調和は、同質社会にあっては、代表統治の媒介なしに、すでに存在するのである。したがって同質社会を前提とした場合、調和の創出(一般意思の表明)という代表者(統治者)の果たすべき役割というものは、本来、存在しないはずである。第三にある社会が同質社会であるか否かを判断する標識をどこに置くのかという問題がある。ある社会が階級的に同質であるか、民族的に同質であるか等の問題は科学的に認識しうる。しかし、ある社会が同質社会であるかという問題は、何も階級的同質性や民族的同質性に限定される問題ではない。すなわち宗教的同質性、思想・文化などの価値的同質性もまた問題となりうる。そのような主観的価値を基準として考えた場合には、無階級の単一民族社会にあっても、個々の人間は、主観的に自らと社会の他の構成員との異質性を感じることがあるであろう。このように考えると、人間が何ら主観的価値を持たない機械仕掛けのマリオネットででもない限り、およそ人間社会は非同質社会であることになる。あるいは、人間は、すべからく一個の人間として同質であるとすると、およそ人間社会は同質社会であることになる。そこで、ある社会を同質社会であるとする場合、いかなる標識によるいかなる次元での同質性が問題とされているのかが確定されなければならない。しかし、往々にして、支配者の持ち出す同質社会論は、いくつかの異なる次元に属する各種の標識のうちのひとつを根拠として主張され、それが、あたかも他の次元における同質性をも証明するかのように援用されがちである。それ故に、同質社会を前提とする代表観は、現実味に乏しいばかりか、一部の人々の圧制に口実を与える危険を有するものであると思われる。
 以上の三つの理由から、((1))の代表観は却けられるべきであると思われる。では、((2))の代表観はどうか。これは、まさしく国民代表制論の再構成を必要とさせるところの多様な民意と人民の統一性との「アポリア」に陥ったところの代表観であるから、これは、再構成の選択肢とはならない。そこで((3))の純粋代表制的代表観が残される。
 この代表観は、トゥールノンやリアルスの代表制論にみられるように、((2))の代表観が陥った「アポリア」の批判から出発して、国民代表制論を再構成しようとするものである。すなわち、「代議士は、局在的な選挙民の像であると同時に一般意思の統一性のなかに溶け込むことはできない」という「アポリア」に今日の代表制は陥った。このような問題意識から、なぜ純粋代表制的な論理構成への転換がはかられたのかについては、何も言及されていないのであるが、おそらく「法律は、一般意思の表明である」ということがア・プリオリに前提にされ、それゆえに、一般意思の統一性を確保しうる唯一の論理構成が模索された結果であると思われる。その際、すでにみたように「一般意思」の意味内容が読み替えられていることに注意するべきである。すなわち、この代表観が意味する「一般意思」とは人民のなかに前もって存在する統一的意思ではなく、代表者による審議の結果として得られる「共通意思」なのである。自由な討論による代表者による独自の意思形成を承認するこの代表観においては、「代表」という言葉の意味は、((1))ないし((2))の代表観における意味とは異なるであろう。リアルスは、それを「代表」と「代表性」の区別として論じていた。リアルスのいう「代表」とは、トゥールノンが言う「統治」に対応するものであると思われる。
 憲法学者が「代表」と「統治」という異なるふたつの事柄を「代表」というひとつの概念で説明するようになったのは、おそらくは、一七九一年憲法の制定議会における有名な論争以来であると推察される。そこでは九一年憲法が、議会と並んで選挙されない国王を「国民代表」としたことを説明するために、国民代表とは「国民のために意思する」者であるという議論がなされていた(4)。ここで、「国民のために意思する」ということ、本来的には「統治」と呼ばれるべきものが「代表」という言葉で説明されるようになったのではないかと思われる。このような「代表」概念の「用語の奇異さ(5)」は、「代表」と「統治」の性質の違いを曖昧なものにしたのではないか。今日、トゥールノンにしたがって「国民のために意思する」という行為を「統治」であると呼ぶならば、リアルスの代表観は、むしろ「統治」観と呼ばれるべきものであろう。リアルスが、それを「代表性」と区別しているとしても、なおそのような「用語の奇異さ」は拭えない。
 このような「代表」制論の方向転換は、純粋「代表」制的な構成を行うことによって、現代代表制の陥った「アポリア」を解決しようとするものであり、今日、必要とされるべき国民代表制論の再構成という課題にひとつの選択肢を提示するものである。そしてまた「代表者」が作成する法律の民主的正当性を相対的に希薄化する(この「代表」観では、法律は、実在する民意の所産ではなく、「代表者」の独自の意思である)ことによって、「法律からの自由」という現代立憲主義の要請にも対応しうるものである。しかし、このような視角から国民「代表」制論を再構成すべきかといえば、私は、さしあたり、なお抵抗を感じざるをえない。その理由は、すでに述べたところから明らかなように、まずこの「代表」観における「代表」という言葉の「用語の奇異さ」に疑問を感じるからである。このような用語法は、「代表性の喪失」という現代代表民主制の病理現象を解決するというよりむしろ隠蔽する機能を果たすのではないか。また「代表性」(トゥールノンのいう「描写」=民意の反映)の問題を「事実の問題」として憲法学の対象から締め出してしまうことにも疑問を感じる。いずれにせよ、このような方向での国民「代表」制論の再構成の是非については、私としては、さしあたり、以上のような疑問を提示するにとどめ、今後に課題を積み残さざるをえない。
3 現代の代表民主制と立憲主義
 以上のような課題を残しつつ、ここでは、今日の議会制の生理「の」病理についての説明の視角を提示して「国民代表制論の再構成への視角」に代えたいと思う。ここでは、本稿で検討してきたエスマンの半代表制批判論、トゥールノンの「描写的代表の神話」解体の試みを中心とした批判的代表制論に示唆を受けつつ、私見を整理して示しておきたいと思う。今日、「法律からの自由」の確保という現代的立憲主義の要請が生まれたのは、なぜであろうかという問題にも答えることになるであろう。
 個人は、自らが国民代表機関によって代表されている(と感じる)場合にのみ市民たりうると感じるのである。ルソーは、いわゆる「社会契約論ジュネーブ草稿」において、「われわれは、市民であったのちにはじめて、まさに人となり始めるのである(6)」と言ったが、われわれが市民となるためには、われわれは代表されなければならないのである。
 そこで、まずは「自らが国民代表機関に代表されている」ということの意味が問題になる。そしてそれは、((1))選挙権を有すること、((2))選挙権の行使が有効になされること(死票にならないこと)、すなわち比例代表制、((3))選挙権の行使によって表明した意思が法律の内容となり自己統治の原理が貫徹されることの三段階のどの段階までが充足されれば「自らが国民代表機関に代表されている」と言えるのかという問題である。従来の国民代表制論は((2))の段階にとどまっていた。しかし自己統治という民主主義の根本原理に立ち返るのであれば、((3))の段階も充足されなければならないであろう。エスマンは、すでにみた半代表制批判論において半代表制の目的を「国民の現実の意思をできるだけ正確に表現し実現させること」と把握した。つまり、エスマンは、議会構成までの代表性ではなく、「実現」という表現で自己統治の原理の貫徹までの代表性を半代表制の内実として示し、その上でそれを批判したのである。半代表制が「直接民主主義の代用品」であるならば、当然に、このような国民代表制論の射程の拡大がなされなければならないはずであった。そうしなければ、自らの意思にのみ従属するという民主主義の根本原理は達成されない。歴史の歩みは、徐々にこの三段階を充実させることによって、デモクラシーが寡頭制を隠蔽するイデオロギーにとどまらず現実のものとなるために、代表性の内容の豊富化を追求してきたのではなかったか。ところが、このように国民代表制論の射程を拡大すると、すなわち代表性の内容を豊富化すると、抽象的には厳密な民主主義が達成される可能性があるにもかかわらず、実在する社会においては、自己統治という民主主義が幻想にすぎないことが明らかになるのである。実在する社会の経験的観察は、民意の多様性を明らかにする。したがって、多様な民意の中からひとつの意思を形成することは不可能である。そこで法律を作成するためには、止むを得ずに諸意思の取捨選択が行なわれ、少数者の意思は切り捨てられる。トゥールノンの論じるとおり、議会が「統治」と「代表」という相互緊張関係にあるふたつの役割を引き受けているので、「代表性の喪失」という現象が生じるのである。それ故に、ただ統治されているだけの人民の一部分にとっては((3))の段階で「自らが国民代表機関に代表されている」と感じることはできない。このように「代表」あるいは「代表性」の意味内容が拡大されるに従って、当初は((1))ないし((2))に満足していた人民(市民)も、いまや、代表民主主義過程の欠陥を意識することになるのである。そのことは、同時に市民性の概念の内容の豊富化を伴っている。ここで問題になっているのは、民主主義プロセスへ参加する権利だけを持つ市民ではなく、そのプロセスの結果である法律のうちに自らを見いだそうとする新しい市民である。ここに、現代立憲主義の要請が登場するのではなかろうか。すなわち、現代立憲主義(法律に対する人権保障)は、代表民主主義過程の欠陥を補い、その過程から結果的に排除された人々の「市民性」を回復することを目的とするのである。
 今日、そのような現代立憲主義をになう制度のひとつである違憲審査制の正当性の問題が論じられることがあるが、違憲審査制の果たすべき役割が現代代表民主制の課程の不可避的な欠陥から生じる「市民性の希薄化」に対応する「市民性」の回復であるならば、その正当性の根拠は、ある意味で「非民主的な」ものとなるであろうと思われる。この場面においては、民主主義と自由との矛盾と衝突の相がむしろ強調されるべきであると思われる。
 このように「自らが国民代表機関に代表されている」ということの内実の歴史的豊富化およびそれと相関的な市民性の豊富化に伴い、自己統治という民主主義が幻想にすぎないことが徐々に意識されることになり、そのことによって「代表の危機」が語られるようになったのではなかったか。しかし、自己統治という厳密な民主主義が幻想にすぎないとしても、それを理念型として設定した上で、自己統治の幻想性を自覚し、より民主主義に近い制度を追求・構想し、その不可避的な欠陥を補ってゆく道もひとつの選択肢として存在するものであると思われる。他方、理念型としての自己統治が議会構成に民意を正確に反映することによって現実となるかのような議論の仕方は、多数者の圧制という問題の所在を隠蔽する危険があることを自覚しなければならないであろう。
 エスマンらの一九世紀自由主義者の民主主義に対するペシミズムの後に、多数派デモクラシーや「鏡磨き」論的なオプティミスティックな民主主義観の時代があったことは間違いないであろう。そして今、ふたたび自己統治としての民主主義を幻想とみるペシミスティックな代表制論が展開されはじめていることは否定できない。民主主義に対するペシミズムとは、すなわち民主主義は人間の自由を実現しないのではないかという危惧であり、オプティミズムとは、民主主義こそが人間の自由を実現するのだという信念である。およそ一世紀を隔てた民主主義に対するペシミズムの再登場は、偶然の現象にすぎないであろうか。偶然というよりも、少なくとも当分の間は、民主主義に対するペシミズムとオプティミズムとをうまく折り合わせてやっていく他はないということを、この振り子現象が示しているのかもしれない。
版面合わせのアドバンス

(1) カール・シュミット、前掲、一〇頁、シュミットの考える「真の討論」とは「合理的な主張を以て意見のもつ真理性と正当性とを信ずるように相手を説得すること、言い換えれば自己が真理性と正当性とについて説得されるということを目的によって支配されているところの意見の交換を意味する」(九頁)。シュミットは、かかる討論が「一つの空虚な形式と化してしまった」(一〇頁)ことを理由に自由主義的議会制を否定しようとした。  
(2) この点に関して、高見勝利教授は、「((1))『代表するもの』に力点を置き、例えば、代表者が被代表者のために行う活動に『代表』の本質を見るか」、それとも「((2))『代表されるもの』に力点を置き、被代表者の意思・利益が代表者において如何に忠実に表現されているかにそれを見るかによって、両者の描く『代表(者)』像は、ずいぶん違ったものとなる」としている。高見「代表」(樋口編『講座憲法学五』一九九四年所収)。
(3) ARCHIVES PARLEMENTAIRES, tome. 8, p. 594(シエースの一七八九年九月七日の演説)。
(4) Carre de Malberg, Contribution, p. 268〜277. を参照。カレ・ド・マルベールは、「国民のために意思する」という権力の性質に着目した代表概念を「客観的代表概念」と呼び、選挙されるものが代表であるとする代表概念を「主観的代表概念」と呼ぶ。
(5) 樋口陽一、前掲、「覚え書き」五九頁。
(6) Jean-Jacques Rousseau, ■VRES COMPLE´TES III (e´dition publie´e sous la direction de B. Gagnebin et M. Raymond), p. 287