立命館法学 一九九五年三号(二四一号)




メ リ ア ム 政 治 学 の 脈 絡 化
---ひ と つ の 解 釈---

中谷 義和






略   伝
 チャールズ・エドワード・メリアム(Charles Edward Merriam, 1874-1953)は、「政治学を一つの社会科学として確定」した人物であると、あるいは「アメリカの現代政治学の設計者であり、また優れた建設者」であると位置付けられ、「現代政治学(モダン・ポリティックス)の父」とも称されている(1)。
 メリアムは、一八七四年一一月一五日に、アイオワ州ホープキントン(Hopkinton)で生まれ、地元のレノックス学院(Lenox Academy)とアイオワ大学を経て、発足まもないコロンビア大の大学院(「コロンビア大学政治学大学院 (Columbia University School of Political Science)」に学んでいる。コロンビアの大学院では、主として、ダニング(William Archibald Dunning, 1857-1922)のもとで、政治理論史と政治哲学を学び、また、一八九九年秋にベルリンに留学し、ギールケ(Otto F. von Gierke, 1841-1921)とプロイス(Hugo Preuss, 1860-1925)の指導も受けている。
 メリアムは、一九〇〇年にコロンビアをおえ、シカゴ大学の政治学部へ講師として赴任し、爾来、一九四〇年に退職するまで、同大学に留まったことになる。その間に、政治学の多くの著作を残しただけでなく、シカゴ大学における政治学教学の改革を積極的に進め、多くの研究者を育てたことから、政治学における「シカゴ学派(Chicago School)」の形成者とみなされている。また、一九二三年に「社会科学研究評議会(Social Science Research Council)」を設立していることに、あるいは「アメリカ政治学会」の各種委員会の要職を務め、一九二四ー二五年には、同学会の会長に就いていることにも窺われるように、政治研究の組織化という点でも指導力を発揮している。さらには一九〇九ー一一年と一九一三ー一七年にシカゴの市議会議員を、また、フーヴァー(Herbert C. Hoover, 1874-1964)政権下の「社会傾向調査委員会(Research Committee on Social Trends)」の副委員長や、ローズヴェルト(Franklin D. Roosevelt, 1882-1945)政権下の「全国計画局 (National Planning Board)」と「行政管理委員会 (Committee on Administrative Management)」の委員などを務めたことにも認められるように、政治学による政治へのイムパクトをもって政治改革を志向したという点では、代表的な実践型政治学者でもあった(2)。
 メリアムの研究・著作活動は多岐にわたるが、大略的には、政治学史と政治学の現状の研究から出発し、政治の動態分析と政治学の科学化の提唱を経て、市民(公民)教育論と計画・民主政治論に至るという展開にあったと整理し得よう。すなわち、政治学史研究の分野においては、『ルソー以来の主権論の歴史』(一九〇〇年)、『アメリカ政治理論の歴史』(一九〇三年)、『アメリカの政治理念---アメリカ政治思想の展開の研究---一八六五ー一九一七年』(一九二〇年)を残している(3)。こうした、いわば政治学史三部作の作業と重なりつつ、政治的実践にもかかわるなかから、政治の動態分析として、『予備選挙』(一九〇八年)、『棄権』(一九二四年、ゴスネルとの共著)、『シカゴ---都市政治詳論』(一九二九年)を、また、市民(公民)教育にかかわっては、『市民の創造』(一九三一年)と『合衆国の市民教育』(一九三四年)を残している(4)。その間に、やがて行動論政治学のプロトタイプとも位置付けられることになる『政治学の新局面』をもって政治と政治学の「科学化」を提唱し、また、『成文憲法と不文の姿勢』(一九三一年)と『アメリカの四人の政党指導者』(一九二六年)を書き、さらには、ダニングの追悼論集として『最近の政治理論史』(一九二四年)の編集にもあたり、「政治思想の最近の諸傾向」と題する巻頭論文を執筆している(5)。
 メリアムは、ドイツにおいて『政治権力』(一九三四年)の草稿を書き上げているが(6)、この書は、三二年のドイツ国会議員の選挙戦を目撃するという体験をもって、また権力過程の現実主義的解剖の視点において、権力の自己維持に占める知的・情緒的要素を分析したもので、政治権力論の古典のひとつの位置を占めることになる。
 つとに指摘されてきたことではあるが、大恐慌と戦争という内外の危機にあって、また、連邦政府の政策立案機関とのかかわりを深くしたこともあって、三〇年代中期以降のメリアム政治論は、計画論と民主政治論への傾斜を強くしている。すなわち、『社会変化における政治の役割』(一九三六年)においては「民主的計画」論が展開され、『新民主政治と新専制政治』(一九三九年)、『政治序説』(一九三九年)、『民主政治とは何か』(一九四一年)、『民主政治の課題について』(一九四一年)に認められる一連の「民主政治」論においては、民主政治の理念史と現状を踏まえ、また、ファシズムないしナチズムの、さらにはソヴェト体制の批判的検討をもって「新しい民主政治」が展望されている(7)。
 その間、メリアムは、一九四〇年にシカゴ大学の定年退職をむかえ、名誉教授についている。その記念論集が『合衆国政治の将来 (The Future of Government in the United States)』(一九四二年)であり、これには、ゴスネル、ラスウェル、キー(Jr.)ら一二名が寄稿し、メリアム自身も、「チャールズ・E・メリアムの教育」と題して、三人称の叙述形式の自伝を寄せている。退職後も、メリアムは、いわば「活動的引退期」を過ごし、『公と私の政治』(一九四四年)と『体系的政治学』を残している(8)。後者は、積年の課題としていた「政治の諸原理」の体系化を試みたものである。だが、五〇年頃から病床につくようになり、念願としていた自叙伝の公刊を果たし得ないまま、一九五三年一月八日、首都ワシントンでその生涯を閉じている。『体系的政治学』は彼の最後の主著となった。
 ソミットとタネンハウスの学史区分に即してみれば(9)、メリアムは、ほぼ、アメリカ政治学の「形成期 (formative years, 一八八〇ー一九〇三年)」に政治学教育を受け、「生成期 (emergent years, 一九〇三ー一九二一年)」に政治学史と政治学の現状の研究にあたり、「中間期(middle years, 一九二一ー一九四五年)」に研究の組織化と「政治学の科学」化運動を先導するとともに、やがて民主政治論と「計画」論をも展開するに至り、戦後期の「行動論政治学」の成立期に生涯を閉じたことになる。また、アメリカの歴史に即してみると、一九世紀末の社会の構造的変貌期に青少年期の勉学・研究生活をおくり、二〇世紀初期の革新主義期に政治の研究と実践に携わりはじめ、大恐慌をはさむ二つの世界大戦とファシズムやロシア革命という「戦争・恐慌・革命」の時代に政治と政治学の営為を深くし、冷戦期にその生涯を終えたことになる。

科学化の提唱
 しげく指摘され、また引用されてきたところでもあるが、メリアムは、「アメリカ政治学会」の会長就任講演(一九二五年一二月二八日、於ニューヨーク市)において、「政治行動」の分析に政治学の将来を展望し、また、二一年の「政治学研究の現状」と二四年の「政治研究に与える心理学の意義」と題する論文においては、研究施設の充実と政治学の「科学化」を、とりわけ、心理学を政治学と政治の動態分析に摂取する必要を指摘している(10)。こうしたメリアム政治学における科学化の構想は、『棄権』における選挙実態の統計学的・心理学的分析にも読み取れるところであり、二〇年代に入って、メリアム政治学が経験科学化の志向を強くしていたことを示すものである。この点で、『政治学の新局面』は、政治と政治学の科学化の構想を明示したものとされ、『政治学の新局面』第三版の編者たるカールによれば、出版された当時にあっては、「予言の書」とも「未来へのいざないの書」とも呼ばれ、やがて、「近代的なアメリカ政治学のなかで最も広く読まれている書物のひとつ」に数えられ、行動論政治学のプロトタイプとも位置付けられることになる(11)。
 『政治学の新局面』(一九二五年)は、メリアム自身の指摘に従えば、「メリアムの教育にあって、ひとつの里程標」の位置にあったとされているように(12)、二〇年代前半のメリアムの政治学的営為を集約し、政治学史の整理と政治学の現状を踏まえて、政治と政治学の「科学化」に将来を展望するものとなっているだけに、いわば、後期メリアム政治学の画期をしるす位置にもある(13)。
 本書は全八章からなり、第一章にあっては、過去半世紀の歴史学・経済学・統計学や自然科学が政治学に及ぼした影響と寄与について概括され、第二章では、政治思想の流れをトレースし、政治過程の分析に科学的方法を導入する必要性が指摘され、また、その諸困難についても検討されている。第三章と四章では、政治学と統計学や心理学との関連が、第五章では、政治学に占める生物学や環境の位置について論じられている。そして、第七章にあっては、政治学の進歩にとって資料を精確に収集・分析する必要性について、第六章と第八章にあっては、社会的知識の組織化とその適用の方法について論じられている。
 本書に通底しているのは、自然科学の急速な展開のなかで、世界は新しい局面に至ったとの認識において、また社会科学の、とりわけ政治学の足並みの遅れの自覚において、政治と政治学の「新しい視座」を展望しようとする意識である。この点で、『政治学の新局面』は、統計学や心理学の活用のみならず、自然科学の方法と成果を政治学に明示的に応用することによって、さらには政治学と社会諸科学や隣接自然諸科学との学際的な研究協力をはかることによって、政治分析と適用方法の精確化を期する必要にあることを指摘している。かくして、政治と政治学の「科学化」の提唱という点で、本書は、メリアム政治学の新しいステップの位置にあるだけでなく、アメリカ政治学の文脈においては、いわゆる「行動論政治学」ないし政治学の行動科学化のプロトタイプとも位置付けられることになる。メリアムがとりわけ心理学を重視したのは、政治行動の精確な理解や、シンボル操作を媒介とした「強制と合意」の組織化に占める心理的契機の重要性の認識においてのことである。
 また、メリアムは、「政治学研究の現状」と『政治学の新局面』第六章において、「政治的賢慮(political prudence)」の概念を提示している。これは、「政治の諸問題にかかわる経験と考察の諸結論」とされているが、メリアム政治学が、政治と政治学の社会政策的援用をもって、あるいは政治学の応用科学化とその制度化をもって「政治過程の一層の知的コントロール」と「人々の意識的コントロール」を構想するものとなっているだけに、これには、その後、五〇年代に体系化の始動期を迎える「政策科学(policy science)」の概念が含意され、その方向が示唆されていたと理解されている(14)。したがって、政治学の政策科学化の先蹤という点でも、政治学の「科学化」の構想は、政治学史に即してみるに、画期的位置にあると言える。こうしたメリアム政治学に素朴な楽観的科学観を認めることは容易であるにしても、少なくとも、当時にあっては、自然科学の進歩には驚愕すべきものがあったし、また、メリアム政治学は、隣接社会科学のみならず、自然科学の成果と方法の摂取に政治学の方向を模索しているにとどまらず、さらには、自然科学の展開に民主化のひとつの歴史的契機を認め、その政治的・政策学的援用に民主政治の深化を展望するものでもある。
 メリアム政治学の知的営為の中心軸は、政治と政治学の「科学化」と「体系化」、および政治の「計画化」と「民主化」に求めることができよう。こうしたメリアム政治学の営為とかかわって、管見のかぎりでは、少なくとも、次の問題が設定されてきたと思える。それは、メリアム政治学における「科学化」の提唱の、泣Aメリカ政治学に占める学史的位置と激<潟Aム政治学における位置と連関の措定という二つの問題である。つまり、前者は、『政治学の新局面』に特徴的な政治と政治学の「科学化」の概念をアメリカ政治学史の文脈にどのように確定するかという問題である。後者は、メリアム政治学が、二〇年代に至って、それまでの政治学史研究から、政治と政治学の「科学」化や現実政治の動態分析という記述的契機への傾斜を強くし、さらには、三〇年代後半に至って、民主政治と計画論という規範的契機へと論述軸を移していったとの理解において、メリアム政治学の文脈に「科学化」の構想をどのように位置付けるかということ、あるいは、メリアム政治学の展開の脈絡化の問題である。したがって、前者はアメリカ政治学史の脈絡化の問題と、後者は、メリアムにおける「科学的・記述的」契機と「規範的・規定的」契機との複合化の問題と、さらには、政治学方法論の問題ともかかわることになる。本稿は、『政治学の新局面』に特徴的な政治と政治学の「科学化」の構想がアメリカ政治学の文脈においてどのような位置にあり、また、その後のメリアム政治論の展開とはどのような連関にあるかについて検討することをもって、「メリアム政治学」のひとつの解釈を試みるものである。まず、先の第一の問題からみておこう。
 D・ワルドーは、「ユネスコ報告」(一九五六年)において、アメリカ政治学にあって、「科学」という言葉は「物理学と生物学の概念と技術」を含意するものと理解されるに至ったとしている(15)。いわゆる「行動論政治学」は、政治学の科学化の方向において、政治現象の数量的モデル化、システム分析、構造−機能主義分析などを中心として、五〇年代に至ってアメリカ政治学の支配的潮流となる。この学史的文脈にあって、メリアムが、政治と政治学の科学化を提唱し、その後、「シカゴ学派」を軸に合衆国政治学が政治動態の経験的・実証的分析の傾向を強くしていっただけに、政治学の「科学」化という点で、『政治学の新局面』はそのプロトタイプと目されるようになる。だが、政治学の「科学化」という点では、その学史的位置をめぐって、意見の対立が認められる。
 セイデルマンは、『政治学の新局面』が、「二〇年代初期の科学的・行動論革命を象徴」する位置にあたるとし(16)、D・ロスは、メリアムをもってアメリカ政治学の歴史主義から科学主義への転換が起こったとみなし、五〇年代の行動論運動の「父」がラスウェル (Harold D. Lasswell, 1902-1978) とすれば、メリアムはその「父祖」の位置にあたるとしている(17)。あるいは、マニカスは、二一年の「政治学研究の現状」がドイツ流の歴史学的政治学から実証主義的政治学への転換を告げる「らっぱの声」であったと位置付けている(18)。さらには、リーバーやダニングからのメリアム政治学の離脱についても止目されてきたところである(19)。こうした理解にあっては、『政治学の新局面』の「科学」的契機をもって、政治学史上の、いわば「転換」ないし「飛躍」の意義が強調され、この点に『政治学の新局面』の学史的意義が求められてきたことになる。
 他方で、ソミットとタネンハウスの『アメリカ政治学の展開』は、アメリカ政治学における「中間期(一九二一-四五年)」の「最も重要な知的展開」として「新政治学(New Science of Politics)」運動を挙げ、その「先導者」をメリアムに求め、マンロー(William Bennett Munro, 1875-1957)、カトリン(George Edward G. Catlin, 1896-1979)、ラスウェルを中心とした科学主義的「新政治学」運動に継承されたとみなしつつも、政治学の科学化志向は、バージェスやマーシー(Jesse Macy, 1842-1919)以来のアメリカ政治学の伝統であり、メリアムに至って「科学主義」の勢いを強めたにすぎないと位置付けている。したがって、メリアムを行動論政治学の「父祖(sire)」とするなら、バージェス、ローウェル、ベントレーは、その「教祖(godfather)」とすべきであるとしている(20)。
 この視点は、B・E・リピンコットやD・ワルドーにあっても共有されている。つまり、リピンコットは、メリアムにおいても「ダニングの記述的(descriptive)方法」が基本的に踏襲されたとし、また、ワルドーは、『政治学の新局面』もアメリカ政治学に特徴的な「科学主義の再主張(reassertion of scientism)」であったと位置付けている(21)。この点では、ガネルの『政治理論の潮流(The Descent of Political Theory)』(一九九三年)も、ダニングの社会科学への基本的姿勢とメリアムの心理学的アプローチとは、また、バージェスの政治理論の認識とメリアムの政治現象の認識論的・実践的課題とには、「それほどの距離はなかった」とし、したがって、メリアムをもってアメリカ政治学に「根本的断絶」が起こったとみなすことは、「政治学の系譜の極めて重要な局面において、やや時代錯誤のうちに回帰的に押し付けられたイメージ(anachronistic retrospectively-imposed image)」にすぎないと指摘している(22)。この視点からすれば、アメリカ政治学史におけるメリアム政治学の連続性の意義が強調され、『政治学の新局面』は、事後的には、あるいは回顧的には、いわゆる「行動論革命」のプロトタイプの位置を占め、これを唱導することに連なったにしても、それまでの政治学の「転換」においてではなく、伝統的政治学の、少なくとも一九世紀末からのアメリカ政治学の科学化志向の発展的継承ないし延長において、政治学の「新しい視座」を展望しようとする位置にあったことになる。だが、「転換」と「継承」のいずれの位置付けにあっても、「科学」的契機が共通の指標とされているだけに、「科学」的契機の「内実」が問われることになる。
 確かに、メリアム自身も、『政治学の新局面』において、政治学の「旧友と決別しようという示唆にはない」と述べるとともに、統計学や心理学も、大雑把であれ、古くからの政治と政治学の手法ないし方法であったとしている。また、「政治の科学的研究」は、リーバー以来のアメリカ政治学の伝統的方法であったとも指摘している。さらには、バージェスの『政治学と比較憲法(Political Science and Comparative Constitutional Law)』(一八九〇年)をもって(23)、アメリカ政治学は「科学的形態」を帯びるにいたったと位置付け、また、政治理論研究に占めるダニングの学恩や学界への寄与についても繰り返し指摘しているところでもある(24)。この限りでは、メリアムにあっても、アメリカ政治学の科学志向の伝統が指摘されていることになる。他方で、『政治学の新局面』は、「政治諸過程の研究」を、その主潮流に即して時期区分し、(1)一九世紀中期までの「自然法とアプリオリで演繹的方法」から、(2)一九世紀末までの「歴史的・比較的方法」を経て、(3)二〇世紀に入っての「観察・調査・計量化」という政治学の科学化にたどり、(4)心理学的契機の重視に政治学の将来を展望しているのである。
 以上のように、『政治学の新局面』においても、アメリカ政治学における「科学」化志向の伝統ないし連続性と科学的政治学の「新局面」の到来という両面が指摘され、政治学の科学化の深化にその将来が展望されていることになる。この点では、「政治学研究の現状」が発表されたと同じ研究会(一九二〇年)において、H・E・バーンズは、社会学の政治学に与えた影響として、政治学が「抽象的な形而上学的・法律的アプローチ、ヘーゲル弁証法とオースティン型の分析法学やドイツ国法学」の呪縛から解放されたことを挙げ、その政治学的反映を多元主義的・過程論的政治学の登場に読み取っている(25)。したがって、『政治学の新局面』に特徴的な「科学」的政治学の「内実」を措定し、さらには、その後の「新政治学」運動と「行動論政治学」の生成とのかかわりをつけるためには、「脈絡主義 (contextualism)」的であれ、メリアムの「科学化」構想の歴史的・学史的脈絡をつけるという作業が必要とされることになる。
 二〇年代は、第一次世界大戦後の、いわゆる"幻滅の時代"と呼ばれ、また第一次世界大戦と大恐慌に挟まれた"相対的安定期"にもあたっている。この大戦は、人間の非合理性を暴露し、不断の進歩観に深刻な反省を迫った。社会科学者たちが、人間行動の心理学的分析の必要を痛感し、社会科学の行動論化を重視したのも、そうした背景にあってのことである。リップマン (Walter Lippmann, 1889-1974)の『世論 (Public Opinion)』(一九二二年)と『幻想の公衆(The Phantom Public)』(一九二五年)に、あるいはマンローの『見えない政府 (Invisible Government)』(一九二八年)に悲観的民主政治論が漂っているのも、そうした状況の反映でもある(26)。
 他方で、革新主義の運動は、経済的好況期とも重なって、楽観主義的改革運動として展開され、社会科学者も、既に、都市と州の行政改革に積極的に参加していたし、また、彼らの戦時動員は、統計学と行政学、財政学や情宣分析への道を開くことにもなった。したがって、二〇年代は、戦後に懐疑主義が漂っていたにしろ、これをバネとして、社会の「現実」の科学的検証や"科学的"方法による社会・政治生活の改善とそのコントロールに向かわしめる時代ともなった。この点は、二〇年代が「繁栄の二〇年代」とも呼ばれているように、「科学」化をもって"幻滅"の克服と理性の再生が期され、科学技術と科学的管理法をもって経済的繁栄が謳歌されたことにも窺われる。また、政治学サイドに即してみると、『政治学の新局面』が「アメリカ社会科学に対する期待」の強い論調にあることに(27)、また「社会科学研究評議会」の設立や二〇年代前半の「アメリカ政治学会」の「政治学調査委員会 (Committee on Political Research)」と「政治学全国評議会(National Conferences on the Science of Politics)」の動向に認められるところである。この点で、『政治学の新局面』が政治学と政治の「科学化」を提唱し、あるいは「政府の運営に、より高度の科学が導入されないと、文明は、無知と激情の気まぐれから、最大の危険にさらされる」との認識において、政治と政治学の「科学化」を構想するのも、この潮流においてのことと位置付けることができる。
 次いで、学史的脈絡に即してみるに、一九世紀末以降の合衆国の社会科学は、自然科学の急激な進歩のイムパクトも受けて、「科学化志向」を強くしている。この点は、例えば、ギディングズ(Franklin H. Giddings, 1855-1931)の帰納的・心理学的社会学、ワトソン(John B. Watson, 1878-1958)の行動論的心理学、ヴェブレン(Thorstein B. Veblen, 1857-1929)の「制度主義(institutionalism)」的経済学、ロビンソン(James H. Robinson, 1863-1936)の「新歴史学」、パウンド(Roscoe Pound, 1870-1964)の社会学的法学やルウェリン(Karl N. Llewellyn, 1893-1962)らの「リーガル・リアリズム(legal realism)」、そしてデューイ(John Dewey, 1859-1952)の「道具主義 (instrumentalism)」的・実験主義的哲学に認められるところである。また、政治学史の文脈にあっては、例えば、リップマンの政治現象の心理学的アプローチやベントレー(Authur F. Bentley, 1870-1957)とビアード(Charles A. Beard, 1874-1949)の利益集団型「圧力」政治論に、さらには、ローウェル (A. Lawrence Lowell, 1856-1943)が力学的・生理学的メタファーと統計学をもって政治・政党分析を試みたことにも窺われるところである(28)。この点では、『政治学の新局面』の「科学化」構想も、この知的潮流に属していると言える。
 一九世紀末からのアメリカ政治学は、いわゆる「形式主義への反乱(Revolt against Formalism)」の知的趨勢のなかにあって、制度・形式中心型静態的政治学から過程・機能中心型動態分析的政治学へ移行したとされているが(29)、この点では、アメリカに伝統的な「自由主義」の理念は、ドイツの制度拘束型自由主義観とは異なって、プラグマティズムの思想とも結合して、制度的羈絆からの脱却を促して、社会的現実の具体的検証と社会的再編の方向を模索せしめたと言えよう。こうした知的動向については、政治学史三部作や『政治学の新局面』において、あるいはダニング追悼論集の巻頭論文において、メリアムが簡潔に整理しているところでもある。また、こうした知的趨勢において、メリアムも、二〇年代から三〇年代にかけて、政党と選挙を中心に政治の動態分析に着手し、さらには市民(公民)教育のプロジェクトを編成・主宰しただけでなく、『アメリカの四人の政党指導者』に認められるように、リーダーシップについても論ずることになったのである。
 以上のように辿りみると、コロンビア大のリーバー(Francis Lieber, 1800-1872)とバージェス(John W. Burgess, 1844-1931)の国家学型政治学(30)やジョンズ・ホプキンス大のアダムズ(Herbert Baxter Adams, 1850-1901)とダニングの歴史学的・思想史型政治学に「科学」志向の共有が認められるにしても、その「志向」に共通していることは、歴史学型政治学(Historico-Politics)であり、歴史的「事実」と現状の歴史的アプローチに論述の「科学性」が求められていたのにたいし、二〇世紀のアメリカ政治学は、自然科学のメタファーとその方法の援用をもって、「経験的実証化」に「科学性」を求めるに至ったと、いわば政治現象の「科学」的アプローチと論述方向に内実転換が起こったとみるべきである。この点で、『政治学の新局面』が「政治現象の詳細を忍耐強く仔細に研究」する必要にあることを指摘するとともに、その方法として、仮説の設定・類推・量的検証という自然科学の認識方法の社会現象への適用を挙げているのも、こうした政治学の経験科学化の潮流を踏まえてのことである。こうした潮流は、学史的には、倫理学や歴史学からのアメリカ政治学の相対的自立化に、あるいは経済学からの分離と政治学の「アメリカ化」の過程にも窺えよう。したがって、『政治学の新局面』が、アメリカ政治学の「科学」志向の伝統を指摘し、あるいは、この伝統を継承するものであるとしつつも、他方で、「歴史的・比較的方法」から「観察・調査・計量化」型政治学への移行に政治学の現局面を設定しているのは、リーバー以降の政治学の「科学」志向の内実の「転回」に政治学の現局面を設定し、その「深化」に将来を展望したものと位置付けることができる。
 以上のように、リーバーからバージェスとダニングに連なるコロンビアの政治学は、自然科学の相対的未展開をも背景とし、「教条的哲学」を拒否しつつ、通時と共時の歴史学的比較の視座において、連続と変化の、あるいは現状の歴史的法則の発見に向けられていたのにたいして、メリアムの時代に至っては、自然科学の急激な展開と、社会と社会科学の科学化を背景として、自然科学の成果と方法をも援用することをもって政治学の豊富化を志向するに至ったのである。だが、メリアム政治学が政治理論史を基礎としていることにも窺われるように、政治の現状分析にあって歴史学的視点が軽視されているわけではない。この点でも、コロンビアの「科学」的伝統は、メリアム政治学においても基本的に継承されているのであって、コロンビアの伝統は、メリアム政治学において、歴史の視座を踏まえつつ、「科学化」に政治学の新局面を展望させることになったと言える。
 かくして、フリードリヒ(Carl J. Friedrich, 1901-1984)の『立憲政府と政治(Constitutional Government and Politics)』(一九三七年)が、『政治学の新局面』に「プラグマティックで精神分析的・行動論的」特徴を認め、これがカトリンの『政治の諸原理の研究(A Study of the Principles of Politics)』(一九三〇年)に連なってくると指摘しているように(31)、『政治学の新局面』が政治的現実の経験的・実証的分析を慫慂しているだけに、「新政治学」運動を呼び、さらには、「行動論政治学」に連なってくるのである。「行動論政治学」の源流を辿ることは、アメリカ政治学が、二〇世紀に入って、総じて科学化の傾向を強めていただけに、系図化の作業にも似て確定困難なものがある。だが、メリアムの「科学化」の提唱が「新政治学」運動を呼び、また「行動論政治学」が「シカゴ学派」を主な担い手としただけに、さらには、ベントレーの「行動論的科学主義(behavioral scientism(32))」がビアードの評価を除いてはそれほど注目されておらず(33)、あるいは、少なくとも、いまだ潜在的影響力にしかなかっただけに、「行動論政治学」のスプリング・ボードを『政治学の新局面』に求めることも可能であると言えよう。だが、「行動論政治学」の潮流化は、五〇年代のアメリカ政治学をまたなければならない。したがって、簡略的であれ、メリアムの「科学化」の提唱に先導された「新政治学」運動と五〇年代の行動論政治学との脈絡化が必要とされることになる。
 J・ガネルに従えば、行動論政治学は、「自由民主主義」の「基本信条」を守ろうとするための、政治学における「保守的反乱」であり、「反革命」でもあったとされるが(34)、この文脈は次のように辿ることができる。
 アメリカ政治学にあっては、法学的な主権的・人格的国家論は、その絶対主義的性格において、リベラルな社会・政治編成の理念との、また、その思弁性においては、自然科学的実証主義との原理的齟齬感を深めつつあった。かくして、多元主義国家論が、当時、マギル大(カナダ)からハーヴァード大に移っていたラスキ(Harold J. Laski, 1893-1950)によって紹介され、フォレット(Mary Parker Follett, 1868-1933)の『新しい国家(The New State)』 (一九一八年)においては、「集団民主政治論(theory of group democracy)」として展開され、あるいはセバイン (George H. Sabine, 1880-1961)がクラッベ(Hugo Krabbe, 1857-1936)の「主権概念」を積極的に検討・紹介するにいたって(35)、既に生成していた政治の現実主義的アプローチともあいまって、法学的な主権的国家論は、ほぼ、ウィロビー(Westel W. Willoughby, 1867-1945)の『公法の基本概念(The Fundamental Concepts of Public Law)』(一九二四年)をもって後景に退くことになる。さらには、二〇年代の「新政治学」運動にあって、例えば、オデガード (Peter H. Odegard, 1901-1966)の『圧力政治---反酒場連盟の物語(Pressure Politics : The Story of the Anti-Saloon League)』(一九二八年)や『アメリカの公共精神(The American Public Mind)』(一九三〇年)に、さらには、ヘリング(Pendleton Herring, 1903-)の『議会における集団代表(Group Representation Before Congress)』(一九二九年)に認められるように、アメリカ政治の多元的構成が実証されるだけでなく、利益集団政治に政党型・地域型代表の補完機能が期待されるようになり、利益集団の多元性と利益集団型政治が正当視されるようになる。かくして、アメリカ政治学は、多元主義政治論の時代を迎え、三〇年代までには、多元主義政治論をもって「自由主義的民主政治論」とみなされるようになっていた。
 だが、ナチズム・ファシズムの台頭とその政権掌握は、アメリカの知識界に深刻なイムパクトを与え、例えば、エリオット(William Yandell Eliott, 1896-1979)は、プラグマティズムにファシズムと多元主義政治論との共通の土壌を認め、多元主義政治論を激しく批判するにおよぶ(36)。かくして、三〇年代において、多元主義的・相対主義的政治認識をめぐって論争が表面化しだし、さらには、折からの亡命政治・社会学者や法学・哲学者も巻き込んで、いわゆる「実証主義論争」に連なることになる。この論争において、行動論政治学は、アメリカ政治学に伝統的な科学主義的・多元主義政治論の「保守」として、あるいは、シトラウス (Leo Strauss, 1899-1973)とキルヒハイマー(Otto Kirchneimer, 1905-1965)に代表されるように、伝統的政治学に対する左右の知的「革命」の「反革命」として生成をみたとされるのである(37)。この点では、行動論政治学は、その実証主義(positivism)的認識方向において、アメリカ政治の多元的構成の実証をもって現実の肯定(保守)論として生成したことになる。
 以上の文脈に即してみるに、行動論政治学が政治学における「保守的反乱」であり、伝統的政治学の潮流と「新政治学」運動に対する「革命」の「反革命」として生成したとすると、『政治学の新局面』に特徴的な政治学の「科学化」の構想は、アメリカ政治学の主潮流に位置し、さらには、「新政治学」運動を慫慂することになっただけに、学史の文脈にあっては、行動論政治学の、ひとつの牽引力となったと位置付けることができる。この点は、後の、いわゆる行動論者が、『政治学の新局面』に、あるいはメリアムの学会々長就任演説に繁く止目し、行動論政治学の出発点とみなしていることにも窺われる(38)。なお、政治学史三部作と政治学の「科学化」構想との関連についていえば、政治学史三部作が民主政治の理念史研究を展開軸としているだけに、次にみるように、メリアムの民主政治論の歴史的・理論的視野の礎をなし、政治と政治学の「科学化」の構想にリンクしてくることになる。

計画論・民主政治論
 政治学に限らず、社会科学にあっては、論述の「記述的(descriptive)」契機と「規定的(prescriptive)」契機とは、認識論と目的論のレベルでは知的緊張関係にある。これは、事実判断と価値判断との、経験的分析と倫理的哲学との、あるいは社会・政治生活の実証的理論とイデオロギーとの峻別と連関という、いわゆる「ウェーバーの問題」に連なる(39)。
 第二の問題とは、三〇年代後期に至って、メリアム政治学が「計画(planning)」論と「民主政治」論を展開軸とするようになっただけに、「科学」的契機と、「計画」論や民主政治論に特徴的な規範的契機との接合という、いわばメリアム政治学の脈絡化の問題である。この点は、メリアム政治学における政治行動分析から政治理論への、あるいは政治哲学への「回帰」という視点で論じられてもいる(40)。すなわち、『政治学の新局面』にあっては政治学の科学化が提唱され、また、『政治権力』(一九三四年)の分析軸が「権力の獲得・保持・喪失の力学過程の現実主義的解剖」にあると評されているように(41)、政治における倫理的諸価値は、権力状況の社会学的・心理学的分析レベルに止めおかれていたとの、あるいは、三〇年代中期のメリアム政治学にあって目的ないし目標の役割が無視されているとの理解において(42)、『社会変化における政治の役割』(一九三六年)における「計画」論との、さらには、一九三九年の『新民主政治と新専制政治』や『政治序説』に認められる明示的な規範的論述との対比をもって、メリアム政治学の政治理論ないし政治哲学への「回帰」として位置付けられるのである。
 歴史の文脈や知識社会学的理解をもってすれば、メリアム政治学が政治哲学への傾向を強くしたという問題は、確かに、ファシズムとナチズムの挑戦や大恐慌という経済的破局の到来、さらには、「民主政治の兵器廠」としての臨戦体制から参戦をもって歴史的に脈絡化され得るであろう。また、二〇年末から、メリアムが連邦政府の政策立案機関との関係を深くしたという個人的背景をもって説明し得るものでもあろう。だが、記述的・実証的契機と倫理的・規範的契機の、メリアム政治学における脈絡化の問題が残されることになる。この問題の糸口を、まず、メリアム政治学のひとつの鍵的概念である「計画」論に辿ってみよう。
 メリアムが「計画」論を系統的に展開したのは、『社会変化における政治の役割』においてのことである。この書において、メリアムは、古典的自由主義の「レッセ・フェール型自動調整」観や、アナキズムないしマルクス主義の「国家死滅論型・政府廃棄論型」政治・政府観を、いずれも「政府のボイコット(boycotting government)」論であると批判し、「社会制御(コントロール)の新しい形態の緊要性」に政府の現実的課題を認め、この視点において、中央政府諮問機関型委員会による長期的・全国的・包括的政策の立案と決定の必要性を指摘している(43)。「計画」については、三九年の『新民主政治と新専制政治』や四一年の『民主政治の課題について』においても縷説され、「計画」とは、「国民的諸政策の決定に社会の知性を活用しようとする組織的営為である」との定義をもって、また、「政治状況」とは、「均衡の移動(moving equilibrium)」であり、「変動要因の不断の再統合ないし再編成」であるとの認識において、中央政府による「長期的諸政策の設定」の必要性が指摘されている(44)。
 「計画」とは、一定の価値ないし目的を実現するための思惟と行動であり、また、目的実現の方法ないし進路の設定という点では「政策」と連動しているだけに(45)、極めて目的意識的・規範的営為であり、その内実と方向の設定という立案・政策化のレベルでは、価値判断の領域に属している。この点で、メリアムは、政府の目的を「公共福祉(コモンウィル)ないし共通善(コモン・グッド)」に求め(46)、その維持と増大に「計画」の概念と意義を措定している。だが、「計画」の概念には、社会の強圧的編制(レジメンテーション)、あるいは「集産主義」(コレクティヴィズム)ないし「しのびよる集産主義」を、さらには「全体主義的編制」を含意するものがある。この点で、メリアムは、「民主的計画(democratic planning)」の概念を対置し、「国民の成果は、本質的に、国民の利得であり、また国民の資産でもある」との認識において、民衆の「共通の合意と協力」のうちに、また、「人口と資源」の「科学的」調査と把握に基づいて、「友愛の精神」と討論・考察の自由の保証のうちに、創案の奨励をもって計画される必要にあることを強調している(47)。こうしたメリアムの「計画」論は、公私領域の二分論を排し、両者の「協力(coo¨peration)と収斂の領域」として「公共善」を設定するとともに、「政府は共通善の手段であり、共通利益のシンボルである」とする政治・政府観を背景としてのことである(48)。
 以上のように、メリアムにあっては、積極的政府観を基礎に「政府のボイコット」論が、他方では「民主的計画」の概念をもって指導者先導的・強圧的社会編制型の「全体主義的計画」論が批判されていることになる。また、メリアムは、「計画」とは、「都市計画」の用例に認められるように、すぐれて「アメリカの用語」であり、歴史的にもA・ハミルトンの製造業計画やH・クレイの「アメリカン・システム」の構想に、さらにはT・V・Aにも認められるように、アメリカに伝統的な政治的発想であるとも指摘している。かくして、メリアム政治学において、「計画」と民主政治との非両立性を主張することは「古くからの反民主的政治論」にすぎないとされ、「民主的社会計画」をもって人々の能力と個性の解放の可能性が開かれるものと、また、「我々は、基本的に、自由のために計画するのである」と位置付けられるのである。さらに、四〇年の「公行政と政治理論」と題する論文において、「政治の理論、公行政の理論、行政の実際の相互関係」について論じ、公行政は「社会科学の進化と人々の行動の十分な理解をもって、補強・豊富化をみることになろう」と予測してもいる(49)。
 メリアムの「民主的社会計画」論にあって、「共通善」の維持と増大にその目的が設定され、民衆の「共通の合意と協力」が目的実現の手段ないし方途として設定されていることに窺われるように、メリアムの「計画」論には、「民主政治」論が前提とされていることになる。この点で、三〇年代後期以降のメリアム政治学の主軸は「民主政治」論にあり、「計画」論は、「民主政治」の現代型政策論のレベルに位置していることになる。
 メリアムが「民主政治の主要仮説」として、(1)人間の尊厳性と友愛の原理を基礎とした人格の保護と育成、(2)人類をのぞましい姿へと不断に向かわしめる駆動力の確信、(3)物質的成果の適正な社会的配分、(4)被治者の合意に基づく政策の設定と執行、(5)合意を媒介とした意識的社会変革の可能性の確信、という「五つの仮説」を提示したのは、三八年の「民主政治の諸仮説」と題する論文においてのことである(50)。この「仮説」は、(1)の規範的・理念的規定と(2)の歴史観において、(3)の政策を(4)と(5)の政治的方法と「確信」において実現しようとするメリアムの「民主政治」観を反映するものである。その後、この「仮説」は、「民主政治の基礎」ないし「原則」とも、あるいは「理論的基礎」とも言い換えられているが、いずれにしろ、この「五仮説」がメリアム民主政治論の基本原則として設定され、『新民主政治と新専制政治』と『政治序説』に、また、『民主政治とは何か』(一九四一年)に、さらには、彼の最後の主著となった『体系的政治学』(一九四五年)に継承されることになる(51)。
 メリアムの最も体系的な「民主政治」論の展開は、『新民主政治と新専制政治』に認めることができる。この書が発刊された三九年の九月、ドイツ軍のポーランド侵略をもって第二次世界大戦が勃発している。したがって、この書は、政治史と政治学史研究を踏まえたメリアムの「民主政治」論ではあるが、ファシズムとナチズム批判の促迫感の強い行論にあり、あるいはソビエト体制批判の書ともなっている。
 『新民主政治と新専制政治』は、民主政治の政治形態を規定して、「コモンウェルスの全般的コントロールと方向とが、民衆の参加と被治者の合意を得るのに適合的な申し合わせと方法に従って、大部分の共同体の成員によって決定されることを慣例としている政治的結合体の一形態」であり、「人間の知恵が生んだ最善の政治形態」であるとしている(52)。この規定が、多様な少数ないしエリート支配型の「政治的結合体」との対比において、また、「強力と強制」の契機ではなく「合意」の契機の重視において設定されていることは明らかである。この点で、メリアムは、民主政治の制度化の基盤を、(1)イデオロギー(倫理的・政治的)、(2)科学と技術(発見と生産)、(3)社会技術(教育と社会参加)の歴史的展開に求め、こうした影響力と諸要因を基礎として(4)民主的経験の多様な深化をみたものとしている。とりわけ、メリアム「民主政治」論にあって特徴的なことは、「民主的合意が最大の効果を招来し得る最大の要因」であるとの確信であり、また、「民主政治」が人口と空間的規模、経済形態、集権と分権の形態、代表と執行の形態とは切り離して成立し得るとの認識にあることである(53)。したがって、メリアムの民主的政治形態の規定にあっては、民衆の「参加」と「合意」を媒介とした「決定」の政治的結合体とされているわけであるから、この限りにおいて、多様な人口と空間の規模において成立しえ、また、多様な経済体制との多様な接合形態においても可能なものとみなされる。かくして、広大なアメリカの連邦大統領制型資本主義国家とも両立し得ることにもなる。
 以上の「民主政治」観において、メリアムは、さらに、「新しい民主政治(New Democracy)」を展望している。この点で、メリアムは、現代社会の複雑化に民主政治の困難性を認めるのではなく、むしろ(1)公行政の民衆化と科学的効率化、(2)教育の拡充、(3)物質生活の富裕化、(4)自由と平等の補完的展開、(5)産業型民主制の出現、(6)豊かな生活の到来、こうした要因に「創造的進化の時代」を読み取り、民主政治の深化を展望している(54)。
 メリアムの「民主政治」論は、政治と政治学の考察と営為において練り上げられてきたものではあるが、三〇年後半に集中してくることにも窺われるように、ファシズムとナチズム批判とも深く結び付いており、独伊のファシズムないしナチズム体制を「新しい専制政治(New Despotism)」であるとし、「民主的な法的・政治的・経済的秩序」に対し挑戦するものであると位置付けている。この点で、メリアムは、ファシズムとナチズムの思想史的背景を「超人哲学とカエザル主義」や「少数(エリート)支配論」にたどったうえで、「新しい専制政治」は、民衆の政治力能に対する不信感と物理的強力の信仰を基礎とし、「指導者(Fuehrer, or Duce)」の被治者に対する「無責任性」、議会と政党の「指導者」への追随性、および「強制的同質化(Gleichschaltung)」を特徴とする「現代型独裁体制」であると位置付けている。また、理念的背景に異なるものがあるにしろ、「暴力革命」論やプロレタリア独裁論に、あるいはソビエトの指導者型体制にも現象の共通性を認め、ソビエト体制も「新しい専制政治」に含ましめるとともに、こうした「新しい専制政治」を「全体主義」の概念をもって包括し得るものとし、さらには、「全体主義」体制に「民主政治」の欠如を認めることによって、その「脆さ」を指摘してもいる(55)。
 以上のように、三〇年代の後期以降のメリアム政治学は、歴史的状況にも促迫されて、「計画」論と「民主政治」論を軸とした展開に傾くのであるが、政治と政治学の科学化の「宣言」とも称される『政治学の新局面』に特徴的な「科学化」の理念とは、どのように脈絡化され得るのであろうか。『政治学の新局面』は、「我々が現に求めていることは、心理学や精神医学そのものでも経済学自体でもなく、政治諸関係の観察・秤量、比較の科学的方法の進化である」と指摘しているように、メリアム政治学にあって、政治現象の自然科学への還元が構想されているわけではなくて、政治現象の実証において、また政治と政治学の科学化構想において、隣接社会科学や自然諸科学の知的援用と研究の協力化の必要が提示されているのである。また、政治学が「権力保持ないし権力追求集団の正統化ないし合理化」の手段とされる危険性について指摘していることにも認められるように、政治学の政治化が構想されているわけでもない。だが、『政治学の新局面』は、政治の課題を「政治過程の知的コントロール」と「福祉」の維持・向上に求め(「序文」)、「ジャングルの政治と実験室の政治とは両立し得ない」との指摘をもって結びとしている。この限りでは、メリアムの政治的実践にも窺われるように、政治学の政治への援用の必要も想定されていることになる。したがって、メリアム政治学において、政治学と政治とは、領域と実践のレベルを異にしつつも、「民主政治」の自覚において協力関係にあるとの、また、社会の「科学化」に民主政治の重要な歴史的契機を措定しているだけに、政治と政治学の複合的「科学」化が民主政治の深化に連なるとの認識にあったと理解される(56)。
 かくして、政治と政治学の「精確化」は、「実験室の政治」にあっては、目標としての「福祉」ないし「公共善」の維持と向上において社会の「民主的計画」の理念に接合するが、「計画」論には、「科学」的調査と実証の契機のみならず、規範的・価値判断の契機が不可避であるだけに、「計画」論は「民主政治」論に不断に引照・媒介され、民主政治論がその前提ともされることになる。したがって、メリアム政治学に底流し、その主軸の位置にあるのは、「民主政治」論であり、政治学と政治の「科学化」の提唱は、民主政治の深化の展望に接合し、「民主政治」論において総合されたことになる。この文脈からすれば、二〇年代から三〇年代中期のメリアム政治学が、「科学化」の重視において政治学の経験科学化を志向するものであったにしても、それは、相対的に潜在的であれ、民主政治と民主政治論の構築の意識においてのことであり、この意識において、少なくとも、やがて民主政治論を展開軸とするに至ったことになる。したがって、メリアム政治論における「記述的」契機と「規定的」契機は、歴史的背景と論述の脈絡を異にするなかで、アクセントを異にして登場しているのであって、メリアム政治学の展開軸は「民主政治」論にあったといえる。その意味で、シカゴ大学の「社会科学研究棟」の落成に際し、「数量化し得ないなら、その知識は浅薄で不十分なものにすぎない」とのケルヴィン(Kelvin)卿の言葉が、いわば扁額とされているのを、国外から戻ったメリアムがひどく不満を漏らしたという逸話が残されているが(57)、この逸話には、メリアム政治学を象徴するものがある。
 以上のように、メリアム政治学の知的営為は、政治学史と政治学の現状の研究、政治の動態分析と政治学の科学化の提唱、市民(公民)教育論、計画論と民主政治論の諸領域において展開をみたが、その知的・実践的営為は、政治学の体系化と「民主政治」論の展開過程にあったのであり、また、「民主政治」の確信において、その展望を模索し続けてもいたのである。この点で、その後のアメリカ政治と政治学の展開を視野におさめたときに、メリアム政治学に是非論があってしかるべきではあるが、プラグマティックな科学認識に、あるいは自然科学の自然制御に擬せられて「実験室の政治」が想定され、科学の方法と成果の導入をももって、民主政治の不断の深化と政治学の体系化が期されたという点で、メリアム政治学に戦後政治学に連なる展開期のアメリカ政治学のひとつの代表例を認めることができようし、さらには、行動論政治学が行動中心型分析・科学的方法・自由主義的多元主義の複合的視角を特徴としているという点では(58)、少なくとも、メリアム政治学とは多くの共通点を有するものとみなすことができる。

(1) Bernard Crick, The American Science of Politics : Its Origin and Conditions, 1959(内山・梅垣・小野訳『現代政治学の系譜---アメリカの政治科学』、時潮社、一九七三年、p. 228) ; Raymond Seidelman, Disenchanted Realists : Political Science and the American Crisis, 1884-1984, 1985(本田監訳『アメリカ政治学の形成---政治学とアメリカの危機---一八八四年〜一九八四年』、三嶺書房、一九八七年、p. 149〜. 斎藤真「チャールズ・E・メリアム小伝」(C・E・メリアム、斎藤・有賀訳『政治権力(上)』東大出版会、一九七三年、所収)、p. i.
(2) 第3人称形式の論述をとったメリアムの自伝としては、次がある。“The Education of Charles E. Merriam," in Leonard D. White (ed.), The Future Government in the United States : Essays in Honor of Charles E. Merriam (Univ. of Chicago Press, 1942). また、メリアムの伝記ないし略伝としては、次がある。Barry D. Karl, “Charles Edward Merriam : Politics, Planning, and the Academy," in Executive Reorganization and Reform in the New Deal : The Genesis of Administrative Management, 1900-1939 (Harvard Univ. Press, 1963) ; idem, “The Power of Intellect and the Politics of Idea," in Philosophers and Kings : Studies in Leadership (Issued as vol. 97, No. 3, of Journal of the American Academy of Arts and Science, Summer, 1968) ; idem, “Charles E. Merriam," in International Encyclopedia of the Social Sciences (1968, vol. 10, pp. 254-259) ; idem, Charles E. Merriam and Study of Politics (Univ. of Chicago Press, 1974) ; Gabriel A. Almond, “Charles Edward Merriam : 1874-1953," in Edward Shills (ed. ), Remembering the University of Chicago : Teachers, Scientists, and Scholars (Univ. of Chicago Press, 1991).
(3) History of the Theory of Sovereignty since Rousseau (Columbia Univ. Press, 1900, 以下、HTSR と略記) ; A History of American Political Theories (Macmillan, 1903, 中谷訳『アメリカ政治思想史(I)』、御茶の水書房、一九八二年) ; American Political Ideas : Studies in the Development of American Political Thought, 1865-1917 (Macmillan, 1920, 中谷訳『アメリカ政治思想史(II)』、御茶の水書房、一九八三年、ただし、前半のみ) .
(4) Primary Elections : A Study of the History and Tendencies of Primary Election Legislation (Univ. of Chicago Press, 1908, rev. ed., with Louise Overacker, 1928) ; Non-Voting : Causes and Methods of Control (with Harold F. Gosnell, Univ. of Chicago Press, 1924) ; Chicago : A More Intimate View of Urban Politics (Macmillan 1929, 和田訳『シカゴ---大都市政治の臨床的観察』、恒文社、一九八三年) ; The Making of Citizens : A Comparative Study of Methods of Civic Training (Univ. of Chicago Press, 1931) ; Civic Education in the United States (Charles Scribner's Sons, 1934).
(5) New Aspects of Politics (Univ. of Chicago Press, 1925, 2d ed., 1931, 3d ed., enlarged with a Foreward by Barry D. Carl, 中谷監訳、三嶺書房、近刊) ; The Written Constitution and the Unwritten Attitude (R. R. Smith, 1931) ; Four American Party Leaders (Macmillan, 1926) ; A History of Political Theories, Recent Times : Essays on Contemporary Developments in Political Theory (editor with Harry E. Barnes, Macmillan, 1924、以下、HPT と略記) .
(6) Political Power : Its Composition and Incidence (Whittlesey House, McGraw-Hill, 1934, 斎藤・有賀訳『政治権力(上)(下)』、東大出版会、一九七三年) .
(7) The Role of Politics in Social Change (New York Univ. Press, 1936, 以下、RPSC と略記) ; The New Democracy and the New Despotism (Whittlesey House, McGraw-Hill, 1939, 以下、NDNP と略記) ; Prologue to Politics (Univ. of Chicago Press, 1939, 以下、PTP と略記) ; What is Democracy (Univ. of Chicago Press, 1941, 以下、WD と略記) ; On the Agenda of Democracy (Harvard Univ. Press, 1941, 以下、OAD と略記) .
(8) Public & Private Government (Yale Univ. Press, 1944, 以下、PPG と略記) ; Systematic Politics (Univ. of Chicago, 1945, 以下、SP と略記、木村訳『体系的政治学(I)』、鎌倉文庫、一九四九年、ただし、初めの部分のみ).
(9) Albert Somit and Joseph Tanenhaus, The Development of American Political Science : From Burgess to Behavioralism (Allyn and Bacon, 1967, 2d ed., 1982).
(10) “The Present State of the Study of Politics," The American Political Science Review(以下、APSR と略記) 15 (May 1921), pp. 173-185 ; “The Signi■cance of Psychology for the Study of Politics," APSR 18 (Aug. 1924), pp. 469-488 ; “Progress in Political Research," APSR 20 (Feb. 1926), pp. 1-13.
(11) Barry D. Karl, “Foreword," in New Aspects of Politics (3d ed., 1970), p. 2 ; B. Crick, op. cit., 1959, p. 134(訳書、二五六頁).斎藤眞「チャールズ・E・メリアム小伝」(前掲訳書所収)は、『政治学の新局面』をもって「政治学に社会科学の一つとしての市民権を得さしめる契機となった」と位置付けている(p. vii)。
(12) Leonard D. White (ed.), op. cit., 1942, p. 11.
(13) 次の書評がある。Raymond G. Gettell, review of Charles E. Merriam, New Aspects of Politics, APSR (Feb. 1926), pp. 201-202.
(14) Albert Somit and Joseph Tanenhaus, op. cit., 1967, p. 111 ; Douglas Torgerson, “Policy Analysis and Public Life," in James Farr, John S. Dryzek and Stephen T. Leonard (eds.), Political Science in History : Research Programs and Political Tradition (Cambridge Univ. Press, 1995), pp. 233-235.
(15) Dwight Waldo, Political Science in the United States of America : A Trend Report (UNESCO, 1956) p. 20.
(16) Raymond Seydelman, op. cit., 1984(訳書、一四九頁).
(17) Dorothy Ross, The Origins of American Social Science (Cambridge Univ. Press, 1991), pp. 395-397, 449-458.
(18) Peter T. Manicas, A History and Philosophy of the Social Sciences (Basil Blackwell, 1987), p. 220.
(19) Bernard Crick, op. cit., 1959, p. 136(訳書、二二九頁).
(20) A. Somit and J. Tanenhaus, op. cit., 1967, pp. 109-113, 183-184.
(21) Benjamin E. Lippincott, “Political Theory in the United States," in Contemporary Political Science : A Survey of Method, Research and Teaching (UNESCO, 1950), p. 209 ; Dwight Waldo, “Political Science : Tradition, Discipline, Profession, Science, Enterprise," in Fred Greenstein and Nelson Polsby (eds.), The Handbook of Political Science, vol. I (Addison-Wesley, 1975), p. 47.
(22) John G. Gunnell, The Descent of Political Theory : The Genealogy of an American Vocation (Univ. of Chicago Press, 1993), p. 87 ; idem, “Continuity and Invention in the History of Political Science : The Case of Charles Merriam," Journal of the History of the Behavioral Science 28 (April 1992), pp. 133-142.
(23) 高田早苗・吉田巳之助訳『比較憲法論』(早稲田大学出版部、一九〇八年)。
(24) C. E. Merriam, HTSR, 1900, p. 179 ; idem, “William Archibald Dunning," APSR 16 (Feb. 1922), pp. 692-694 ; idem, HPT, 1924 ; idem, “William Archibald Dunning," in Howard W. Odum (ed.), American Masters of Social Science : An Approach to the Study of the Social Science Thought a Neglected Field of Biography (Henry Holt and Company, 1927).
(25) Harry Elmer Barnes, “Some Contributions of Sociology to Modern Political Theory," APSR 15 (Nov. 1921) pp. 532-33. 次も参照のこと。idem, “Some Contributions of Sociology to Modern Political Theory," in HPT, pp. 357-402.
(26) B. Crick, op. cit., 1959 ; David M. Ricci, The Tragedy of Political Science : Politics, Scholarship, and Democracy (Yale Univ. Press, 1984), pp. 77-78.
(27) Francis Graham Wilson, The American Political Mind : A Textbook in Political Theory (McGraw-Hill, 1949), p. 414.
(28) 例えば、次を参照のこと。Lawrence L. Lowell, “Oscillations in Politics," in Annals of the American Academy of Political and Social Sciences 12 (Jul. 1898-Dec. 1898), pp. 69-97 ; idem, “The Physiology of Politics," APSR 4 (Feb. 1910), pp. 1-15.
(29) Morton White, Social Thought in America : The Revolt against Formalism (Beacon, 1947).
(30) F・リーバーをもって、「アメリカにおける最初の国家研究と、国家としてのアメリカの最初の研究」が緒につき、ウルズィー(Theodore D. Woolsey, 1801-1889)とバージェスに継承されたとされる。John G. Gunnell, “In Search of the State : Political Science as an Emerging Discipline in the U. S.," Peter Wagner and Richard, Bjo“rn Wittrock and Richard Whitley (eds.), Discourse on Society : The Shaping of the Social Science Disciplines (Kluwar Academic, 1991).
(31) Carl J. Friedrich, Constitutional Government and Politics : Nature and Development (Harper & Brothers, 1937), p. 506, n5.
(32) Sidney Ratner, “Introduction," in S. Ratner and Jules Altiman (eds.), John Dewey and Arthur F. Bentley : A Philosophical Correspondence, 1932-1951 (Rutgers Univ. Press, 1964).
(33) Charles Beard, review of The Process of Government, Political Science Quarterly 23 (Dec. 1908), pp. 739-741.
(34) John J. Gunnell, “American Political Science, Liberalism, and the Invention of Political Theory," APSR 82 (March 1988).
(35) M. P. Follett, The New State : Group Organization, The Solution of Popular Government (Longmans, 1918, 三戸監訳『新しい国家---民主的政治の解決としての集団組織論』、文眞堂、一九九三年) : G. H. Sabine, “Pluralism : A Point of View," APSR 17 (1923) ; idem, “Political Science and the Juristic Point of View," APSR 22 (1928), pp. 553-575 ; George H. Sabine and Walter J. Shepard, “Translators' Introduction," in The Modern Idea of the State (D. Appleton and Company, 1922).
(36) 代表的著作として、次が挙げられる。W. Y. Elliott, The Pragmatic Revolt in Politics : Syndicalism, Fascism and the Constitutional State (Macmillan, 1928).
(37) より詳細には、次を参照のこと。中谷「戦後アメリカ政治学の系譜---行動論的・多元主義的政治学の生成」(田口・中谷編『講座・現代の
政治学((3)) 現代政治の理論と思想』、青木書店、一九九四年)。John G. Gunnell, “The Genealogy of American ‘Pluralism' : from Madison to Behavioralism," (Prepared for presentation at the IPSA World Congress, Berlin, August, 1994, 中谷訳「アメリカ"多元主義"の系譜---マディソ
ンから行動論まで」、『立命館法学』一九九五年第二号) ; idem, “The Declination of the ‘State' and the Origins of American ‘Pluralism'," in James Farr et al. (eds.), op. cit., 1995, pp. 19-40.
(38) 例えば、次を参照のこと。David B. Truman, “The Implications of Political Behavior Research," Items (Social Science Research Council) 5 (Dec. 1951) ; Heing Eulau et al. (eds.), Political Behavior : A Reader in Theory and Practice (Free Press, 1956), p. 7 ; Robert A. Dahl, “The Behavioral Approach in Political Science : Epitaph for a Monument to Successful Protest," APSR 55 (Dec. 1961), pp. 763-772.
(39) 科学と政治学という点で、メリアムとウェーバーの異同を論じたものとして、次がある。Avery Leiserson, “Charles Merriam, Max Weber, and the Search for Synthesis in Political Science," APSR 69 (March 1925), pp. 175-185.
(40) Tang Tsou, A Study of the Development of the Scienti■c Approach in Political Studies in the United States, with Particular Emphasis on the Methodological Aspects of the Works of Charles E. Merriam and Harold D. Lasswell (A Dissertation Submitted to the Faculty of the Division of the Social Science in Candidacy for the Degree of Doctor of Philosophy, Department of Political Science, Chicago, Dec. 1951, printed in 1995 by U・M・I Dissertation Services, A Bell & Howell), ch. 3 ; idem, “Fact and Value in Charles E. Merriam," Southwestern Social Science Quarterly 36 (June 1955), pp. 9-26.
(41) William A. Robson, review of Political Power, APSR 29 (April 1935) pp. 299-300.
(42) 例えば、次を参照。Tang Tsou, op. cit., 1955 ; C. J. Friedrich, op. cit., 1937, p. 504.
(43) RPSC, ch. 2, 3.
(44) OAD, pp. 77 ; RPSC, p. 104 ; NDND, p. 156.
(45) 辻清明「計画」、蝋山政道「政策」『政治学事典』(平凡社、一九五四年)、p. 321, 710.
(46) メリアムは、「政府の目標と目的」として、「外的安全・内的秩序・公正・一般的福祉・自由」を挙げ、これは「公共福祉(commonweal)」ないし「共通善」という用語で括られるものとしている。“The Ends of Government," APSR 38 (Feb. 1944), pp. 21-40 ; SP, p. 31.
(47) PTP, pp. 84-86, 92 ; NDND, pp. 7, 101-03, 178-179 ; RPSC, p. 124 ; PPG, pp. 69-70 ; OAD, pp. 77-89 ; C. E. Merriam, “The Possibilities of Planning," The American Journal of Sociology (March 1944), pp. 397-407.
(48) PPG, p. 16.
(49) C. E. Merriam, “Public Administration and Political Theory," Journal of Social Philosophy 5 (July 1940), pp. 293-308.
(50) Charles E. Merriam, “The Assumptions of Democracy," Political Science Quarterly 53 (Sept. 1938), p. 329.
(51) NDND, pp. 11-70 ; PTP, p. 39 ; WD, pp. 8, 94-95 ; SP, pp. 199-200.
(52) NDND, p. 11 ; WD, p. 6 ; SP, p. 211 ; PPG, pp. 66, 68, 76.
(53) NDND, pp. 50-69 ; PPG, pp. 62-63.
(54) NDND, pp. 255-262 ; WD, p. 92 ; SP, pp. 206-211.
(55) NDND, pp. 191-230 ; RPSC, pp. 67-77. メリアムがコーカー(F. W. Coker)の『最近の政治思想(Recent Political Thought)』(一九三四年)やファイナー(Herman Finer)の『ムッソリーニのイタリア(Mussolini's Italy)』(一九三五年)の引用をもって、イタリアとドイツの「全体主義」について明示的に論述しているのは、『社会変化における政治の役割』(一九三六年)であり、また、ソ連も「全体主義」概念で包括し得るとしたのは、『新民主政治と新専制政治』においてのことである。この点で、いわゆる左右の「全体主義」という規定は、一般に、フリードリヒの『立憲政府と民主政治(Constitutional Government and Democracy, 1942)』(『立憲政府と政治、Constitutional Government and Politics, 1937』の改訂版)をもって、より明示的には、一九五三年三月六日から八日に、フリードリヒを議長として開かれた「全体主義研究会」の報告と討論をもって(Totalitarianism : Proceedings of Conference at the American Academy of Arts and Sciences, March 1953, edited with an introduction by Carl J. Friedrich, Harvard Univ. Press, 1954)、さらには、フリードリヒとブレジンスキー(Zbigniew K. Brezenski)の共著=『全体主義独裁と専制政治(Totalitarian Dictatorship and Autocracy)』(一九五六年)をもって有名ではあるが、この規定は、既に、メリアムの『新民主政治と新専制政治』に明確である。この指摘は、リピンコットの「ユネスコ報告」にも認められるところでもある(Benjamin E. Lippincott, op. cit., 1950, p. 213).
(56) C. E. Merriam, “Government and Intelligence," Ethics 54 (July 1944), pp. 263-272.
(57) Gabriel A. Almond, op. cit., 1991, p. 344.
(58) James Farr, “Remembering the Revolution : Behavioralism in American Political Science," J. Farr et al. (eds.), op. cit., 1995, pp. 198-224.