立命館法学  一九九五年四号(二四二号)




◇ 紹 介 ◇
ギュンター・シュペンデル

祝 賀 論 文 集 の 紹 介(八)
Festschrift fu¨r Gu¨nter Spendel zum 70. Geburtstag am 11. Juli 1992/
hrsg. von Manfred Seebode.-Berlin ; New York : de Gruyter, 1992


刑  法  読  書  会
生  田  勝  義 編







目    次


  • クリスティアン・キュール「当罰的態度の自然法的限界」
  • H・ミュラー=ディーツ「量刑と効果指向」
  • ウルリッヒ・クルーク「七〇年を経たカール・フォン・オシーツキー裁判に対する再審の試みに関する考察」
    ---以上一九九四年一号 
  • クラウス・ロクシン「復活したローゼ・ロザール」
  • ヘルベルト・トレンドレ「基本法の人間像と統一ドイツの堕胎法の新規制」
  • クラウス・ラウベンタール「少年の逸脱行動に関する犯罪学的認識の結果としての少年審判補助機関の任務の変化」
    ---以上一九九四年三号 
  • ハンス=ルートヴィッヒ・ギュンター「刑法上の正当化事由の分類」
    ---以上一九九四年四号 
  • ハロー・オットー「過失の正犯と共犯」
  • ギュンター・ベムマン「裁判官と制定法を超える法」
  • オトフリート・ランフト「刑事訴訟における証拠禁止についての覚書」
    ---以上一九九四年五号 
  • ゲルト・ガイレン「『死の天使』の(への)哀れみ」
    ---以上一九九四年六号 
  • マンフレート・ゼーボーデ「不真正不作為犯の法的明確性について」
    ---以上一九九四年一号 
  • インゲボルク・プッペ「量刑事由としての犯行の有責な諸結果」
    ---以上一九九五年二号
  • ウルリッヒ・ウェーバー「麻薬剤刑法における自己答責的な自己危殆化への関与説に対する異議」
    ---以上本号 


  ウルリッヒ・ウェーバー
    「麻薬剤刑法における自己答責的な自己危殆化への関与説に対する異議」

Ulrich Weber, Einwa¨nde gegen die Lehre von der Beteiligung an eigenverantwortlicher Selbstgefa¨hrdung im Beta¨ubungsmittelstrafrecht, in: Festschrift fu¨r Gu¨nter Spendel zum 70. Geburtstag, 1992, S. 371-380.
〔紹介者はしがき〕
  本稿は、麻薬の密売人が麻薬摂取者に麻薬などを譲渡・交付し、麻薬摂取者がそれを自分に注射することによって自己の生命、健康に危険を生じさせた場合における、麻薬密売人の刑法的責任を論じたものである。
  麻薬剤法(Beta¨ubungsmittelgesetz)二九条一項は、連邦保険庁の麻薬剤に関する許可なく麻薬剤を譲渡、交付などした者を四年以下の自由刑または罰金によって処罰すると定めている。ところが、ドイツの判例では上述したような状況において麻薬摂取者に死が引き起こされた場合、刑法二二二条の過失致死罪(五年以下の自由刑または罰金)による処罰を行ってきた。例えば、BGH, NStZ 1981, 350. においては、「麻薬密売人に刑法二二二条の意味での過失を認めるためには、購入者が麻薬を注射することを行為者が知っているかあるいは計算に入れなければならない場合や、交付した麻薬の危険性を知っていたかあるいは知ることができた場合であれば足りる」とされていた。学説の多数説は、規範の保護目的の理論などによって、過失致死による処罰を認める判例に異議を唱えていた。
  BGHSt 32, 262 のヘロイン判決はこのような判例の動向に転機をもたらした。この判例は、学説の多数説に従い、自己答責的な自己危殆化へ関与した者を、たとえ死の結果が発生した場合においても不可罰とすることを認めたのであった。
  本稿においてウルリッヒ・ウェーバーは、麻薬剤法による麻薬譲渡・交付の禁止は危殆化された者(被害者)の同意の有効性を阻害し、その結果麻薬密売人の刑法二二二条による可罰性が生じるとして、BGHSt 32, 262 のヘロイン判決や学説の多数説に異議を唱えている。
  以下は、本論文の要約である。
*     *     *

I

 1.ギュンター・シュペンデルは、BGHSt 24, 342 の裁判例を素材にして、JuS 1974, 749ff. に自殺及び他殺への過失による関与についての自己の見解を表明した。シュペンデルはその裁判例の事実関係を、教育上の理由から以下のように単純化した。
  ある警察官が、彼と親密な関係にある婦人と居酒屋を訪れた。彼女が飲酒によって「自殺したい」といつも言い出すことを知っていたにもかかわらず、彼は居酒屋を出た後自動車の運転を始める際に、自分の装填されたピストルを自動車のダッシュボードの上に置き放しにした。停車している間に、同乗していた婦人は彼に気づかれずに拳銃を手に取り自殺した。
  BGHは過失致死(刑法二二二条)による警察官の可罰性を否定した。その結論は妥当なものであり、シュペンデルもこれを承認している。警察官の不可罰性に対して、シュペンデルは以下のことを強調している。
---拡張的正犯概念と刑法的原因概念(等価説)は正犯共犯論の疑いもなく確かな出発点をなしている。
---もっとも、他人(直接実行者)の故意の自殺を誘致もしくは促進する過失的態度においては、拡張的正犯概念と可罰性が制限される。
---しかしながら、そのような制限は、因果関係の中断、遡及禁止、および規範の保護目的の理論からは到達できない。
---その制限は、むしろ、法の一般的な正犯及び共犯の規定から生じる。過失的教唆もしくは過失的幇助は、それらは概念的にはあり得るのだが、可罰的とされるべきではないという評価を法は持っているのである。
---この立法者の決断を、過失的な共犯を過失的な正犯に読み変えることによって、かいくぐってはならない。
---この結論は刑事政策上もまた支持しうるし、適切である。
  2.上で再現したシュペンデルの考え方は、意識的に自己答責的に実行された自殺への過失的誘致もしくは促進の事例にたしかに限定されている。それにもかかわらずこのシュペンデルの考え方は、被害者は死という結果を意欲してはいなかったがあり得ることだと考えていた場合における他人の死にたいして共同原因となった義務違反的態度をとった人の過失責任の問題の解決にも役立ちうるものなのである。
  私はこのような問題の様相を、同じく最近出版されたバウマン祝賀論集において扱った。実際的な事例としては、一九二三年の有名なメーメル河事件や道路交通における危険な態度様式及び麻薬使用の事例が挙げられる。
  3.バウマン祝賀論集において、私は以下のような結論に達した。危険が実現して法益主体Rが明白に健康毀損を被り、もしくは死亡してしまう場合には、Rの危険に対する同意は、麻薬もしくは注射器一式を提供した危険惹起者Gを過失傷害や過失致死を理由とする可罰性から解放することはできない。なぜなら、第一には、麻薬剤法二九条一項一号、三号、六号bの規定は国民の健康を保護するものであり、Rはこの超個人的な法益を処分することができないのであって、この規定の刑罰によって担保された禁止は、Rの自らの健康と生命についての有効な処分と矛盾するからである。第二に、Rの麻薬依存を満足することを可能にしたり促進したりするGの態度は善良な風俗に違反し、そのためRの危険に対する同意が尊重されないこと、および過失で引き起こされた法益侵害の違法性が刑法二二六条aからも生じることは疑い得ないからである。それ故、Gの可罰性は、正犯的な犯罪事実を出発点としなければならない場合には不可避なのである。
  私は、バウマン祝賀論集における論文において、Gの行為は正犯的性質のものでなく過失的に成し遂げられた不可罰的な幇助としてしか評価されえないものであるという点で彼の可罰性が挫折しうるかという問題を考慮の外におかなければならなかった。この問題を以下において扱うことにする。

II

  1.まず第一に以下のことが確認されなければならない。Gの正犯的答責性は客観的帰属連関が無いという理由で挫折することはあり得ないということである。Gがともに誘致した危険が結果発生に影響を与えたことは明白である。私がバウマン祝賀論集においてオットーとの論争で詳述したように、この危険の実現はまさしくGに帰属させられるべきである。なぜなら、Iの3であげた麻薬剤法の規定は、Gの答責性領域からRの答責性領域へ危険を転嫁することと矛盾するからである。このことは RGSt 57, 172 のメーメル河事件判決から明らかである。
  2.ロクシンも、死に至るような麻薬使用の事例においては許されない危険の実現が欠如しているということから出発する。即ち、彼は以下のように述べる。刑法二三〇条、刑法二二二条の保護目的は、故意の答責的な自己危殆化への共働において、すでに客観的構成要件への帰属を排除する。しかし、保護目的説に原則として批判的に対立しない場合であっても、麻薬事例においては、結果帰属に反対するどころかむしろ賛成することになるだろう。なぜなら、麻薬剤法の刑罰規定の保護目的、即ち国民の健康の利益において、事情によっては死の結果を伴う健康の毀損を回避することは、「国民の健康」という法益の代表者の役割を与えられている具体的な被害者の健康毀損もしくは死の中に危殆化禁止に対する違反があらわれている事例において妥当しないとすれば、それ以外のいったいどこで有効に妥当させられるのであろうか。
  3.ロクシンは BGHSt 32, 262 のヘロイン判決の書評においても保護目的説を厳格には主張してはおらず、むしろ、BGHと同様に、それを以下のようにして共犯の要素に結びつけている。合意ある他者危殆化事例、たとえばGの行為が麻薬の調達(Beschaffung)にとどまったのではなく、注射を自分ではすることができないとみられる中毒者Rに注射もしてあげたような事例において、簡単には彼はGの不可罰性を前提としない。その点で、結論的には、ロクシンの保護目的説と事象経過への他人の自由答責的な介入による帰属連関の中断を主張するオットー説との間には相違がある。

III

  1.  他人の完全に答責的な故意の自殺を過失で誘致しもしくは促進した者は故意で行為した教唆者もしくは従犯よりも不利な地位に立つことはないという命題は正しい。しかし、この命題からは、他人の「過失の」自殺を過失で誘致しもしくは促進した人も不可罰とされなければならないという命題をただちに導き出すことはできない。なぜなら、この事例においては、刑法二六条、二七条が前提としている被殺者の故意の行為が欠けており、また被殺者に事象の支配が存在せず、その結果、被殺者には彼に唯一の答責性を負わせるまでに優越的な主たる答責性があると言うことができないからである。麻薬摂取と結びついた危険が麻薬依存者に支配されているのであれば彼は死に導かれないであろう。正確にもヘルツベルクは以下のように指摘している。自分自身を危殆化するRは通常錯誤に陥っている。即ち、彼は自己の予期に反して死に至る麻薬使用の危険を過小評価しているのである。仮に彼が危険を正確に評価していたとすれば、彼は疑いをもって麻薬の使用をやめていたであろう。従ってこの場合、完全答責的な危険引き受けから出発することがすでに誤っていると思われる。即ち、Iの3で述べられたRへの危険転嫁の客観法的な禁止と並んで、Gを免責すべき危険への同意の主観的要件も欠如しているのである。
  麻薬剤法の規定はRへの唯一の危険割り当てを禁止しており、それはGの正犯的答責性に賛成している。ここではRとGの一種の「過失の共同正犯」が存在する。GとRが各々の注意義務違反的な態度で第三者の傷害や死を惹起したときと同様に、刑法二三〇条や刑法二二二条によるGの正犯的可罰性が導かれなければならない。即ち、過失の同時犯である。
  2.  (a)  BGHSt 32, 262 のヘロイン判決においては、麻薬剤法三〇条一項三号の適用は考慮されなかった。麻薬剤法三〇条一項三号は、直接使用のための麻薬の交付、供与、売却によって麻薬使用者の死を軽率に惹起することのみを、結果的加重犯として重罪の刑(二年以上の自由刑)で処罰する。(なお、ここでいう「軽率な」とは、かなり重い程度の過失を意味している。従って、単なる過失にとどまる場合には、本号は適用できない。ー紹介者注)
  その当時、Gが麻薬剤法三〇条一項三号の要件のもとで行為した場合に、Rの自己答責的な自己危殆化がGを免責できるかという特殊問題のみを、BGHは未解決のまま残していたのではなかった。むしろ、ヘロインや他の麻薬の交付による過失致死(刑法二二二条)の事例において、自己答責性の思想がGの刑罰解放を導くことができるかという一般問題も解決していなかった。
  一九八四年一一月九日のBGH第二刑事部の裁判例ならびに大部分の文献において、この第二の問題(一般問題)を肯定する解答がなされている。それに対して、一九九〇年九月二五日の第四刑事部決定においては、この一般問題はかつてと同じく未解決のまま残された。またこの決定において、第四刑事部は特殊問題についてこれを否定し、以下のように説明した。
ー麻薬剤法規定の領域に関して、麻薬剤法三〇条一項三号と麻薬剤法二九条三項二号におけるように、麻薬摂取による人の死亡もしくは健康毀損の危殆化が、刑罰加重のための根拠である場合においては、意識的な自己危殆化の場合にだけ行為者の答責性を制限する意義は与えられ得ない。
     (b)  これには無条件に賛同するべきである。なぜなら、麻薬剤法三〇条一項三号の結果的加重犯において、国民の健康を保護する麻薬剤法二九条一項の禁止に対する違反の無価値と人の軽率な死亡の不法とが以下のようにして互いに関係づけられるからである。具体的な被危殆化者及び被殺者Rにとって、(共同)答責的なGを免責する危険引き受けの形態での自己の生命及び健康についての処分の自由は明白に奪われているというようにしてである。
     (c)  Iの3およびIIの2で説明したように、麻薬使用者Rに対して麻薬剤法二九条一項に違反する供給者(Lieferanten)Gを免責する危険引き受けは禁止される。なぜなら、Rは超個人的な法益「国民の健康」の代表者として機能するからである。加えて、この法益への侵害が麻薬剤法三〇条一項三号の結果的加重犯としてではなく刑法二三〇条、刑法二二二条として捕捉される場合でも、麻薬剤法二九条において捕捉される「国民の健康」という法益への故意の攻撃の禁止、及びそこから帰結する個人的法益である生命と健康への過失的侵害の禁止は、同程度のことであるからである。それ故、ここで扱われている事例において、過失犯(刑法二三〇条、刑法二二二条)としての可罰性の問題は肯定されるべきである。
     (d)  麻薬剤法二九条一項において麻薬犯罪のすべての事例が同一の刑罰で威嚇されるということを考慮するならば、麻薬の放置や他の方法(たとえば注射器の放置)によって意識的な自己危殆化が誘発されもしくは促進されたかどうかに応じて、殺人もしくは傷害の罪を理由とする可罰性が、あるときは否定されあるときは肯定されるということは実際上あり得ない。通説及び BGHSt 32, 262 に反して、私は以下のように考える。過失の行為が確認され麻薬剤法三〇条一項三号が適用されない場合には、Rのいわゆる自己答責的な自己危殆化においても例外無く刑法二三〇条、刑法二二二条を適用すべきである。

IV

  以上のことを要約すれば以下のようになる。
  1.故意で犯された正犯行為への過失的教唆及び幇助は、概念的には可能である。しかし、刑法二六、二七条に含まれる評価から明らかなように、それは不可罰である。そのことから、他人の完全に答責的な故意の自殺への過失的誘致もしくは促進も不可罰である。
  2.それに反して、他人の意欲されない死もしくは健康毀損を過失で誘致し、可能にし、もしくは促進することは不可罰でない。
  3.危険を作り出すことが行為者に法的に禁止されており、その結果Rが、Gを刑罰免除する効果でもって危険を引き受けることができない場合には、Gに刑法二二二条もしくは刑法二三〇条による可罰性が生じる。
  4.麻薬剤法の刑罰規定は、Rへの危険割り当ての禁止を含んでいる。この規定に違反して、過失によって麻薬使用者の死もしくは健康毀損を引き起こした者は、事例形態に応じ刑法二三〇条、刑法二二二条によって、もしくは麻薬剤法三〇条一項三号によって可罰的である。
(塩谷  毅)