立命館法学  一九九五年四号(二四二号)




◇論  説◇
戦後国際政治における基軸的対抗関係の形成と
「冷戦」戦略の発動
(一九四〇年代後半ー五〇年代) (一)
−現代国際政治史序説II−


菊井 禮次






目    次




一  戦後国際政治における基軸的対抗関係の形成

  〔1〕  第二次世界大戦の終結と対抗基軸の転換
  二〇世紀の前半期を占める第二次世界大戦終結以前の国際政治構造は、前稿で紹介した既存の国際政治史の概説書(特に福田他『二〇世紀国際政治史』及び柳沢他『危機の国際政治史一九一七ー一九九二』)でもほぼ共通して認識されているように、一言で表現すれば、帝国主義列強の対立・協調関係を展開基軸(=対抗基軸)とする資本主義大国主導型国際政治秩序であった。前稿の末尾で略述した戦後国際政治の構造的変容とその特徴を浮き彫りにするために、前史として、第二次世界大戦に至る戦前国際政治の推移と同世界大戦の複合的性格について、以下簡単に触れておくことにしよう(1)
  一九世紀末から今世紀初頭にかけて成立した帝国主義の世界システムは、その後主として欧米列強間の政治・経済・軍事的力関係の変化(先発の英・仏の相対的後退と後発の独・米・日の相対的前進)に伴って、一九一〇年代に世界の再分割をめざす大国間(英・仏・露・米グループ対独・墺グループ)の第一次世界帝国主義戦争を惹き起こしたが、その結果は、史上初の社会主義国家、ソヴェト・ロシアの出現、それと連動する植民地・従属国における民族独立運動の一定の高まり(中国・インド・トルコ等)、及び帝国主義世界内部での新たな力関係の形成(独・墺の敗退、米・日の進出、英・仏の現状維持)であった。戦勝国グループの利益、とりわけ強大帝国主義諸国(英・仏・米)の利益に重きを置いた戦後国際秩序(ヴェルサイユ=ワシントン体制)は、これに不満を抱く独・伊・日グループの反撥を招いて永続きせず、一九三〇年代に資本主義諸大国の対立(帝国主義間矛盾)は再び激化し、各自の支配する植民地や勢力範囲の拡大、再分割をめぐって再度の世界帝国主義戦争(英・米・仏グループ対独・伊・日グループ)=第二次世界大戦の勃発をみるに至った。
  第一次大戦末期の一九一七年に誕生したソヴェト・ロシア(一九二二年以降はソ連)の社会主義体制は、大戦後、帝国主義世界の包囲下にあって、世界各地の民族独立運動や労働運動に一定の積極的影響力を及ぼし始めていたものの、第二次世界大戦以前の段階にあっては、資本主義大国主導型国際政治秩序そのものを根底から揺り動かすだけの力を持つには至っていなかった。むしろ逆にソ連自身が、一九三九年のナチス・ドイツとの不可侵条約締結、それに基づくポーランドの分割(同年)、バルト三国の併合(一九四〇年)等にみられるように、「社会主義祖国防衛」の名の下に帝国主義的パワー・ポリティクスの軌道に引き込まれていったのである。当時、資本主義諸大国の支配階層にとって、ソ連の登場は共通の潜在敵の出現(体制間矛盾の発生)ではあっても、その存在は未だ現実の顕在的脅威とは映っておらず、彼らは、それぞれが内部に抱えている自国の勤労諸階層との対立(階級矛盾)及び自国の領有する植民地・従属国人民との民族的対立(民族矛盾)の捌け口を求めて互いに協調または抗争を繰り返し、とどの詰まりは二大帝国主義グループに分かれて再度の世界大戦に突入する(帝国主義間矛盾の爆発)だけの余力を残していたのである。
  このように第二次世界大戦以前の国際政治は、英・米・仏・独・伊・日の六大帝国主義国を主要なアクター、その他の資本主義諸国や植民地・従属国及びソ連を脇役ないし観客とし、主役たちによる世界の分割・再分割支配と彼らの間の対立・抗争、必要に応じて協調を主な構成内容とする帝国主義的国際政治構造であった。勿論戦前の国際政治においても、前述のように、帝国主義諸国間対立という対抗軸以外に、ソ連との体制的対立、それと直接・間接的に連動する植民地・従属国の民族独立運動に起因する被抑圧諸民族との民族的対立(例えば中国の抗日運動、朝鮮の反日独立運動)、資本主義諸国内での国民諸階層との階級的対立(例えばフランス人民戦線、スペイン人民戦線運動)という複数の対抗軸が存在していた。そして、それらが相乗作用して、一九三〇年代後半に帝国主義間対立を激化させ、再度の世界再分割戦争=第二次世界大戦へと押し上げていったことは事実である。しかし、そのことは逆に言えば、資本主義諸大国の支配層をそれぞれ当事者の一方とするナショナルなレベルの階級的対立、植民地・従属地域民衆との民族的対立、ソ連との体制的対立という三つの対抗軸の作用が一体となって、帝国主義間対立というもう一つの対抗軸の規定作用を抑制するよりもむしろ助長する方向に働いたこと、言い換えれば、戦前期の国際政治において、前三者の対抗軸の作用にもかかわらず、そのダイナミクスを左右する上で最大の規定力を発揮したのは、後者の対抗軸、即ち帝国主義間対立であったことを示している。その意味で、戦前期国際政治の動向を規定した複数の対抗関係(対抗軸)の中で、基軸的対抗関係(対抗基軸)の位置を占めていたのは米欧日資本主義諸大国間の対立・抗争であったと言えよう。
  しかし、戦前期国際政治におけるこの対抗基軸の急激な展開の所産−第二次世界大戦の勃発とその諸結果は、既に前稿で言及しておいたように、大戦終了後、国際政治の対抗基軸そのものを大きく転換させることになる。転換の内容とその歴史的意義を理解するためには、その前提として、同じく世界帝国主義戦争でありながら、第一次世界大戦のそれとは大いに異なる第二次世界大戦の多面的かつ複合的な性格を把握しておくことが必要であろう。
  第二次世界大戦のまず第一の性格は、いうまでもなく二大帝国主義グループ(デモクラシーの政治体制に立脚する英・米・仏対ファシズム体制の独・伊・日)間のヘゲモニー争奪戦争であり、それは、ヨーロッパ及び中東・アフリカ地域では主に一方の独・伊と他方の米・英・仏との間で、またアジア・太平洋地域では主として一方の日本と他方の米・英・仏・蘭との間で争われた。相互にライバル帝国主義国グループの打倒をめざす帝国主義戦争としてのこの性格は、戦勝国(連合国)側の敗戦国(枢軸国)側に対する戦後処理方針の中に色濃く反映している。例えば、連合国による旧ナチス・ドイツの分割占領とその固定化(東西両ドイツ国家への分断)の背後に、ドイツ軍の攻撃で二千万人の犠牲者を出したソ連の過剰防衛意識と並んで、強大な旧ライバル、ドイツ帝国主義の再来を恐れる英・仏・米などの意向が働いていたことは否定し得ないし、また米国の初期対日占領方針の中に、後述の反ファシズム戦争という性格を反映した民主主義的要素と混在する形で、アジア・太平洋地域での帝国主義的旧ライバル、日本軍国主義の精神的・物質的基礎の根絶という要素(天皇制の改編・軍隊の解散・財閥解体など)が含まれていたことはよく知られている。第二次帝国主義戦争としてのこの戦争の勝敗の結果は、戦後、資本主義諸大国間の力関係を大きく変化させるだけでなく、帝国主義国間対立(いわゆる西西対立)の態様そのものをも戦前のそれから著しく変容させることになる。
  第一のそれに優るとも劣らない第二の重要な性格は、同世界大戦が、独・伊・日三大ファシスト国家による東西ヨーロッパ、アジア、アフリカ諸大陸の国々に対する公然たる侵略戦争であったこと、逆に侵略を受けた国々の側からすれば、そのような侵略に抵抗し、自国をファシズムの軛から解放する反ファッショ・民族解放戦争であったこと、即ち侵略対解放の戦争であったことである。特に民族解放戦争という後者の側面は、とかく日本国民の間では忘却されがちであるが、この側面を抜きにして、大戦直後の東欧革命やヴェトナム・朝鮮・中国革命の歴史的背景、アジアを起点とする民族独立運動のグローバルな展開、西欧における民主的変革運動の高揚の歴史的要因を探ることはできないであろう。「アジア・太平洋戦争」で筆舌に尽くし難い多大の犠牲を蒙りつつも、日本軍国主義の最終的打倒に重要な役割を演じた中国や東南アジア諸国民の抗日闘争こそが、戦後におけるアジアの反帝・民族独立運動の原動力となったのであり、これと同様に戦後の東欧革命や西欧、特にフランス、イタリア、ギリシア等での民主的変革勢力の発展は、第二次大戦期の果敢な反ナチ・レジスタンス運動の所産に他ならないのである。大戦直後の東欧革命をソ連軍の東欧占領ないし侵略の産物としか見做さない見解は、東欧諸国の民衆が反ファシズム闘争で果たした主体的役割に故意に目を閉ざすものであり、第二次世界大戦の内包する侵略対解放戦争の性格を軽視するものといえよう。
  第三に、第二次世界大戦は、ナチス・ドイツの侵略に抗するソ連国民の「社会主義防衛戦争」という側面を有していた。その意味で、同世界大戦には、部分的にせよ帝国主義(ドイツ)対社会主義(ソ連)の体制間戦争としての性格も含まれていたわけである。そしてソ連の対独戦争参加とその勝利が、結果的にはドイツ・ファシズム打倒に主要な役割を演じたのみならず、それを通じて、戦後の国際政治における帝国主義勢力の地歩を全体として後退させ、東欧革命や中国革命の成功に有利な国際環境を生み出す一因となったことは否定し得ない事実である。だが他方、外圧によって余儀なくされたソ連の第二次大戦参加は、戦後、同国にとって負の遺産を残すことになった。というのは、戦時中、対独戦勝利のために極度に掻き立てられたロシア・ナショナリズムとステーティズムの高揚は、戦後期に、国内では下からの民主主義の発育不全という歪んだ政治システムをもたらし、対外的には米国からの「冷戦」圧力に過剰反応して、最終的には自らの墓穴を掘ることになるからである。
  最後に第四の、だが第二次世界大戦を全体として特徴づける最も重要な性格は、上述の三つの性格(帝国主義戦争、侵略対解放戦争、そして部分的には体制間戦争)を渾然一体のものとして包括する性格、即ち一方のファシムズ勢力(独・伊・日)と他方の反ファシズム勢力(議会制民主主義の政治体制をとる米・英・仏等の帝国主義諸国、反帝・民族解放勢力、社会主義国ソ連の連合勢力)との間で闘われたグローバルなファシズム対デモクラシーの戦争であったということである。後者の勢力内部の利害関係は必ずしも一致したものではなかったし、またその性格上完全に一致することはあり得なかったが、にもかかわらず彼らを一つの統合した勢力(「連合国」グループ)に結集させたのは、彼らに共通する反ファシズムの理念であり、この理念実現への意欲であった。第二次世界大戦が第一次大戦と同様に帝国主義戦争の性格を内包しながらも、その全体的な性格を後者のそれと大きく異にする理由は、この点に求められるのである。
  以上に挙げた四つの要素からなる第二次世界大戦の複合的性格、特に最後のファシズム対民主主義の戦争という性格と、反ファシズム勢力側の勝利は、「連合国」グループ内部の資本主義大国(米・英・仏)支配層の本来の意図−ライバル帝国主義国グループ(独・伊・日)の打倒−を超えて、戦後国際政治の形成過程に決定的影響を及ぼし、その展開基軸(基軸的対抗関係)を根底から転換させることになった。即ち、戦前期国際政治の展開過程を支配していた対抗基軸−帝国主義列強間の対立・協調関係は、大戦直後その規定的役割を大きく後退させ、次項で述べるように、戦前とは全く異質の新たな基軸的対抗関係にその地位を取って代わられることになった。

  〔2〕  グローバル・レベルの対抗軸とサブ・レベルの対抗軸
  前述のように、第二次世界大戦が民主主義・民族解放・社会主義諸勢力の勝利の裡に終結したことは、大戦後の国際政治の構造と動態、とりわけその展開基軸を、戦前のそれから決定的に変化させるに至った。そのような構造的変容の諸要素に関しては既に前稿で言及したが、戦前のそれとは態様を異にする戦後国際政治の対抗軸の構成(既存の対抗軸の変動と新たな対抗軸の形成)という視角から、グローバル・レベルの対抗軸とサブ・レベルの対抗軸というカテゴリーを用いて再度簡単に触れておこう。
  ここで言うグローバル・レベルの対抗軸とは、特定の歴史的時代における国際政治の構造全体(グローバル・システム)を規定し特徴づけるところの対抗基軸(基軸的位置を占める対抗関係)のことであり、それに対してサブ・レベルの対抗軸とは、所与の時代の国際政治の諸相を構成する相対的に独立した諸領域(サブ・システム)の動態を左右する対抗軸(特定領域の対抗関係)のことを指している。戦前期の国際政治で言えば、帝国主義列強の対立・協調関係が前者の対抗軸であり、ナショナル・レベルの階級的対立関係、宗主国と植民地・従属国との民族的対立関係、帝国主義諸国とソ連との体制的対立関係が、それぞれ後者の対抗軸に相当する。それでは、このカテゴリーを用いて、大戦直後の国際舞台に生じた対抗軸の変動を一瞥すれば、そこにはどのような国際政治像が浮かび上がってくるであろうか。叙述の便宜上、サブ・レベルの対抗軸から取り上げることにしよう。  戦後国際政治の形成過程に影響を及ぼした複数の対抗軸の中で、特に戦後初期段階(一九四〇年代後半ー一九五〇年代)に強い規定力を発揮し、相対的に大きな比重を占めたという意味で、先ず最初に挙げられるサブ・システムとその対抗軸は、いうまでもなくいわゆる東西関係と体制間対抗軸(東西対立)である。この対抗軸は戦間期に既に「一国社会主義」のソ連対帝国主義列強という形で萌芽的には出現していたものの、その規定力は潜在的なレベルに留まっており、当時の国際政治には「東」対「西」という認識枠組みはみられなかった。戦後まもなく、非対称の力関係にあったとはいえ「東西両世界」、「東西関係」、「東西対立」等の表現に代表される認識枠組みが新たに成立したこと、そしてこの枠組みが、その後長期にわたって戦後国際政治理論の基本的パラダイムの地位を獲得していたことは、国際政治過程に作用する体制間対抗軸の規定力が、戦前とは比較にならないほど強まったことを示している。
  戦後初期の国際政治過程にインパクトを及ぼし始めた第二のサブ・システムとその対抗軸は、大戦直後から一九五〇年代にかけて国際政治の新たな主体として登場したA・A・LA三大陸の新興独立国家群(後年の第三世界の発展途上諸国)と旧宗主国たる資本主義諸大国との間に形成されたいわゆる南北関係と資本主義先進国・後進国間対抗軸(南北対立)である。この対抗軸も個別の植民地支配対民族独立運動として戦前から存在していたが、ナショナルな枠を超えたインターナショナルないしトランスナショナルなレベルでその影響力を行使するようになるのは、新興諸国が「北」のアクターに対抗する「南」のアクターを自覚して行動し始めた戦後のことである。その意味では、南北関係と南北対立は、戦後の国際政治に登場した新しいサブ・システム及び対抗軸として位置づけられよう。
  戦後国際政治に現れた第三のサブ・システムと対抗軸は、主として先進資本主義地域(西欧・北米・日本)のナショナル及びトランスナショナルな階層間関係(支配階層と被支配階層の間の政治・経済・社会的諸関係)と階層間対抗軸(国内及び国際レベルの階層的対立)である。この種の対抗関係は一九世紀後半以来、国際労働・社会主義運動(第一ー第三インターナショナル等)の形でかなり早期から出現していたが、それが、より広範な階層からなる民衆レベルの国際的政治・社会運動(反核・平和運動を含むINGO活動)として展開され、支配階層の対外政策に一定の影響を及ぼすようになるのは戦後である。大戦直後に行われた仏・伊政権からのコミュニスト閣僚の追放、世界労連に対決する国際自由労連の育成等の事例は、一国の枠を超えた支配階層の側からするこの対抗軸への迅速な対応ぶりを示しているといえよう。
  上述した三つのサブ・システムと対抗軸は、いずれも戦前既に萌芽的あるいは潜在的に存在し、何らかの程度において当時の国際政治過程に作用していたが(2)、戦後これらの対抗軸が前面に立ち現れ、その規定力が各段に強まった結果、第四のサブ・システム、即ち資本主義大国間関係(米・西欧・日間のいわゆる西西関係)とその対抗軸(帝国主義的対立としての西西対立)の態様は、戦前のそれから大きく変容することになった。旧来の資本主義大国主導型国際政治経済秩序の存続に異議を唱える新たな諸勢力の登場によって、米・欧・日の支配層は、戦前の個別的対応とは異なり、いまや最強の軍事・経済大国となった米国のヘゲモニーの下に結束を固め、これらの勢力に共同で対処することを余儀なくされた。その結果、米国が主導し西欧・日本が依存ないし従属するという新たな非対称の大国間関係が形成され、戦前のように大国同士が互いにせめぎ合う剥き出しの帝国主義的対立は後景に退くことになった。彼らには、もはやそうするだけの余裕は失われたのであり、それとともに、この対抗軸はかつてのような国際政治の展開基軸(対抗基軸)としての地位を失ったのである。
  なお、戦後初期の国際舞台には、以上のほかに、戦前にはみられなかった二つの新たなサブ・システムと対抗軸が芽生えつつあった。即ち、一つは形成過程にある社会主義国間関係(いわゆる東東関係)とその内部対立(東東対立、例としてソ連・ユーゴ紛争)であり、もう一つは新興民族国家間関係(いわゆる南南関係)とその内部対立(南南対立、例としてアラブ・イスラエル紛争)である。だが、前者の対抗関係は東西対立と、また後者の対抗関係は南北対立とそれぞれ密接に絡み合って発生したものであり、先述の四つのサブ・システムと比較すれば、初期段階の国際政治形成過程に及ぼすそれらの規定力は、さほど強いものではなかった。
  さて、以上に挙げた四つの主要なサブ・レベルの対抗軸の重層的かつ複合的な相互作用に規定されて、これらのサブ・システムの総体から構成される戦後初期の国際政治の全体構造(グローバル・システム)とその展開基軸(グローバル・レベルの対抗軸=基軸的対抗関係)は、戦前のそれから大きく変容し、質的転換を遂げるに至った。即ち、六大帝国主義列強の対抗・協調関係を発展基軸とする資本主義大国主導型国際政治構造から、戦前型国際秩序の温存を図るアクター(資本主義諸大国の支配層)と、それに代わる新しい国際政治経済秩序の構築を模索するアクター(形成過程の社会主義諸国グループ、新興独立諸国、先進資本主義地域の民主的変革勢力)とのグローバルな対抗関係を新たな展開基軸とする国際政治構造への転換である。このような新しい基軸的対抗関係の出現は、後述するように、旧国際秩序固執勢力に戦前とは全く異なる戦略的対応−広義の「冷戦」戦略(3)の形成と発動−を迫ることになる。

  〔3〕  主導的対抗関係・副次的対抗関係・その他の対抗関係
  上述のように、旧来の資本主義大国主導型国際秩序の維持・拡大か、それとも将来の新たな民主的・平和的・対等平等の国際秩序の構築かをめぐるグローバルな対抗関係(対抗基軸)は、複数のサブ・レベルの対抗関係(対抗軸)の相互作用を通じて、戦後徐々に形成され発展してゆくが、しかし、基軸的対抗関係の形成過程(形成期)と展開過程(展開期)にそれぞれ作用する個々のサブ・レベルの対抗関係の規定力の強さは、当然ながら一様ではない。したがって、基軸的対抗関係が形作られてゆく戦後初期段階(一九四〇年代後半ー五〇年代)において、前掲の六つのサブ・システムと対抗軸のうち、どの対抗関係が、対抗基軸の形成にそれぞれ主導的、副次的、あるいはその他の役割を演じたかを明らかにしなければならない。それを解明する上で手掛かりとなるのは、旧国際秩序温存勢力(資本主義諸大国の支配階層)が、自らを当事者の一方とする四つの対抗関係の中で、自分たちの支配秩序の存続に対する当面最大の脅威をどの対抗関係に見出していたか、またそれにどのように対抗しようとしていたか、という問題である。そして、この問題を解く鍵が、戦後まもなく表面化したいわゆる「東西冷戦」戦略(狭義の「冷戦」戦略)である。前稿の末尾に掲げた図3「基軸的対抗関係の発展過程における主導的対抗関係の推移」の中で、戦後初期段階の国際政治における((1))主導的対抗関係を東西関係、((2))西側大国の戦略を「冷戦」戦略、((3))副次的対抗関係をトランスナショナルな階層間関係と南北関係、((4))その他の対抗関係を西西関係、東東関係、及び南南関係としておいたのは、これに基づいている。以下、この図式について簡単に説明しておこう。
  大戦直後の一九四〇年代後半期に、従来の資本主義大国主導型国際政治経済秩序の持続を目論む勢力、とりわけ米国の支配層にとって、彼らの意図を妨げる最大の脅威と映ったファクターは、東欧及びアジアの一連の国々における大戦中の反ファシズム・抵抗闘争の延長線上に発展した反帝・民族解放革命の成功と、それらの革命を積極的に支援し自国の対外政策の軌道に引き入れようとするソ連指導層の行動、そしてそれらの結果として、一三カ国から成るソ連主導の「社会主義圏」(社会主義諸国群=「東側世界」)の登場であった。したがって、戦後初期段階に当時の旧国際秩序温存勢力の側からみて、また客観的条件からしても、グローバルな基軸的対抗関係の形成過程において主導的役割を演じつつあったのは体制間対抗関係(東西関係)であり、その暴力的解決(生まれたばかりの「東側世界」を萌芽のうちに摘み取ってしまうこと)をめざす西側政策形成者の世界戦略が、先ずはソ連・東欧諸国を標的とした狭義の「冷戦」戦略(トルーマン・ドクトリン→マーシャル・プラン→NATOの結成)の発動、次いで一九五〇年代における同戦略のアジア地域への拡大(第一次インドシナ戦争と朝鮮戦争(4)であった。
  それと同時に、この時期には、他の二つのサブ・レベルの対抗関係も基軸的対抗関係の形成に一定の副次的役割を果たした。即ち、大戦直後の西欧では、仏・伊を中心に急進的労働運動・社会変革運動が高揚して、旧来の大資本主導の政治支配体制を揺さぶり(ナショナル及びトランスナショナルな階層間対抗関係の展開)、また広大な植民地・従属地域では、戦前の帝国主義的支配体制の打破をめざす民族独立運動が、アジアから中東、北アフリカ地域へと急速に拡がりつつあった(南北関係の発生と拡大)。それ故、旧国際秩序固執勢力の「冷戦」戦略は当初から、単に「社会主義圏」を対象とした狭義の「冷戦」政策(「東西冷戦」)としてだけではなく、先の主導的対抗軸(東西対立)が、これらの副次的対抗軸と連結して旧国際政治経済秩序を動揺させる危険性をも視野に入れて、旧秩序対抗勢力全体を対決目標とする広義の「冷戦」戦略として企図されていたのである。トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プラン(欧州復興計画)が、単にソ連・東欧諸国への対決だけでなく、西欧での政治体制変革の阻止、及び植民地・従属地域での民族独立運動に直面していた西欧独占資本に対する梃入れをも意図していたことはよく知られている。
  ところで、このような広義の「冷戦」戦略を成功裡に遂行するためには、戦前の熾烈な抗争関係とは異なって資本主義諸大国間の緊密な共同行動が不可欠となる。それは、戦後まもなく、米国が主導(支配)し西欧・日本が米国に政治・軍事的及び経済的に依存(従属)するという新たな大国間関係(西西関係)の形成(具体的にはGATT、IMF、マーシャル・プラン、NATO、日米安保体制)となって現れ、その限りでは資本主義大国間の対抗関係(西西対立)は、この時期には一時後退し潜在化する。また生成過程にある「社会主義圏」の内部関係(東東関係)にも既に一定の軋轢(一九四八年のソ連・ユーゴスラヴィア紛争、一九五六年のハンガリー事件とポーランドのポズナン事件等に見られる東東対立)が芽生えており、一九五〇年代末には中ソ対立が発生するが、まだこの段階には基軸的対抗関係の行程にさしたる影響を及ぼすものではなかった。同様に、新興民族国家同士の関係(南南関係)に生じていた紛争(アラブ・イスラエル紛争やインド・パキスタン紛争等の南南対立)も、対抗基軸の形成過程に直接インパクトを与えてはいなかった。したがって、ここに挙げた西西関係、東東関係、南南関係とそれらの内部対立は、戦後初期段階には「その他の対抗関係」として位置づけられよう。
  以上、戦後初期の国際政治過程に占める六つのサブ・システムと対抗関係の位置について概観したが、次節以下では、それぞれの具体的な動態に関して、より詳しく述べてゆくことにしよう。

(1)  戦前の国際政治過程と第二次世界大戦の性格に関する以下の叙述は、拙著『増補  現代国際政治構造論』(法律文化社、一九九三年)、二六ー三〇ページでの記述と内容的にかなり重複していること断っておく。
(2)  これらの対抗軸が、戦間期に既に強く作用していたと主張する見解もある。例えば、前稿で紹介したように、D・F・フレミングは、体制間対抗軸の起源をロシア革命時の一九一七年に求めているし、また松岡  完氏は、戦間期における植民地・従属地域でのナショナリズムの重要な役割を強調している。
(3)  広義の「冷戦」戦略概念について、詳細は、拙著『現代国際関係とソ連外交理論』(法律文化社、一九七六年)、二二ー二五、六四ー七二ページ参照。
(4)  但し第一次インドシナ戦争と朝鮮戦争には、単に体制間対抗関係としてのみならず、後述するように、資本主義大国と新興独立国家との南北間対抗関係としての性格も内包されていた。


二  主導的対抗関係(東西関係)の形成・展開と「冷戦」戦略の発動

  〔1〕  東欧革命の展開と「社会主義圏(1)」の成立
  第二次世界大戦期に独伊ファシズムの直接・間接的軍事占領下に置かれた東欧諸国では、国によって強弱の差はあれいずれの国においても、占領軍及びこれと結託する自国支配層(一部の大ブルジョアジーと大地主勢力)に対する労働者階級(とその政党=共産主義政党・社会民主主義政党)を主体とした国民諸階層の反帝国主義・反ファシズム抵抗運動が展開されていた。そして、大戦末期にソ連軍による東欧軍事解放が進行するなかで、これらの民族解放闘争は、ソ連軍の支援と介入の関係を内在させつつも、自国の政治・経済的変革を展望する「人民民主主義革命」へと発展し、その結果、大戦末期から直後にかけて東欧諸国には、社会主義政党を中核とし農民及び一定の資本家層の諸政党も参加する新たな国家権力−「人民民主主義政権」(以下「人民政権」)が誕生するに至った。
  これらの「人民政権」は、ソ連の支援(=介入)の下に、ナチス占領軍に協力した旧支配層の財産没収、一定の土地改革、重要産業の国有化など一連の「反帝・反封建・民主主義」的政策を実施していくが、その過程で、これらの政策の徹底的遂行に抵抗する資本家層は次第に「人民政権」から離反していった。このような民主主義的課題の解決は、その遂行主体が社会主義政党主導下の「人民政権」である以上、政治と経済の更なる「社会主義的変革」への移行の道を切り開くものであった。この移行期は国によって異なり、国内解放勢力が強力であった国々(ユーゴスラヴィア、アルバニア、ポーランド)では相対的に早く、解放勢力の弱かった国々(ハンガリー、ルーマニア等)では若干遅れるが、ほぼ一九四五ー四八年の時期に相当する。この間に米欧諸大国の支援下に巻き返しを図った資本家政党は政権から脱落、もしくは追放され、共産主義政党の主導下に社会民主主義政党との共産・社会両党合併が進行し、その延長上にいわゆる「プロレタリア独裁」政権が樹立されていった。他方、経済面では第二次土地改革と中小企業の国有化が進み、それを通じてその後の「社会主義経済建設」の初歩的基盤か築かれていく。
  大戦直後における東欧諸国でのこうした体制変革の過程は同時に、対外政策面では、「人民政権」内主流派の対ソ友好路線と資本家政党の親欧米路線との激しい闘いの過程でもあった。国内変革の推進とこれに抗する資本家層の離反につれて後者の路線は排除され、東欧諸国は、米国主導の「冷戦」戦略発動下に、ソ連及び他の「人民民主主義」諸国との政治・経済・軍事面での協力関係を確立していく。一九四七年から四九年にかけてソ連とこれらの国との間に、また東欧諸国間に一連の「友好・協力・相互援助条約」が相次いで締結されたのは、その現れであった。他方、ソ連の側は東欧諸国の「人民民主主義政権」をいち早く承認して、これらの国の国際舞台進出への道を開くとともに、それらとの政治的・軍事的結束を固め、また経済面では東欧諸国の国民経済再建、次いで「社会主義経済建設」の着手に際して資材・食糧の供給、クレジット、技術供与等の支援を与え(但し後述のように否定的側面もある)、更に一連の通商条約・経済協力協定を締結して、主として二国間貿易による経済的結合関係を強めていった。
  以上のような経過を経て一九四〇年代後半期に、東欧には計八カ国(ユーゴスラヴィア、アルバニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ)の「人民民主主義国家」=社会主義国家が出現した。これと類似の反帝・民族解放革命と体制変革の過程は、日本帝国主義の支配から自国の解放を勝ち取ったアジアの一部の諸国でも展開され、一九四五ー四九年の期間に、ヴェトナム民主共和国、朝鮮民主主義人民共和国、次いで中華人民共和国の誕生を見た。こうして大戦直後の世界には、戦前以来のソ連、モンゴルを加えてユーラシア大陸の一三カ国から成る社会主義国家群、「社会主義圏」(=「社会主義世界」)が登場した。世界の覇権をめぐる再度の帝国主義戦争として開始された第二次世界大戦が予期せぬ結果として生み出した鬼子、「社会主義圏」の出現が、ソ連の国際的地位の飛躍的増大と相まって、戦後世界における資本主義大国主導型国際秩序の維持・再編を目論む米欧支配層に重大な危機感をもたらし、後述の「冷戦」戦略発動の直接的契機、主因となったことはいうまでもない。そして、そのような「冷戦」戦略の発動が、以下に述べるように、今度は逆に「社会主義圏」の形成過程そのものを規定する重要な要因として作用していくことになる。
  ところで、大戦直後のこのような東欧「人民民主主義革命」の展開と「社会主義圏」の形成を、従来(そして「社会主義圏」崩壊後の今日では一層)、専らソ連による「東欧占領」と「支配」の所産として捉える傾向が根強いが、ソ連の関与ないし介入なしに東欧革命が達成されたと考えるのは確かに現実に合わないし、形成過程にある「社会主義圏」を対等平等の社会主義諸国の集合体と見做すことも事実に反していよう。しかし「ソ連の東欧支配」論は、ファシスト占領下の東欧諸国で、ソ連による軍事的解放以前に(因みにユーゴとアルバニアはソ連軍の直接的支援なしに自力解放を達成した)既に進行しつつあった民族解放闘争と、戦後遂行された体制変革との密接な内的連関、歴史的連続性を無視している点で一面的であると言えるし、ソ連の東欧解放が「人民民主主義革命」の展開に有利な内外条件を保障した歴史的事実そのものは、直ちに論難の対象となるものでもあるまい。大戦末期、ソ連軍による東欧解放が進行する過程で、現地の解放勢力とソ連軍との間に、前者に対する後者の介入を含めた非対称の協力関係が形成され、それが戦後における「人民政権」の対ソ「友好路線」確立の基盤となったこと、また特定の東欧諸国(ポーランド、ルーマニア、ハンガリー)へのソ連軍駐留と物質的支援が、その背後に東欧地域を自己の対外政策の軌道に引き入れようとするソ連指導層の強力な意図が働いていたことは明らかだとしても、客観的に見て、東欧諸国の西欧支配体系への復帰を図る内外勢力の企図を阻止し、「人民政権」の強化と社会経済的変革の推進にそれなりに貢献したことは紛れもない事実である。問題は、「ソ連の東欧支配」を根拠とする米欧諸大国の「冷戦」戦略発動過程とソ連主導下の「社会主義圏」形成過程との因果関係ないし相互作用をどのように位置づけるかである。
  上述のように、東欧・アジアの一連の革命と「社会主義圏」の形成は一九四〇年代後半期に徐々に進行していくが、その過程は決してスムーズなものではなかった。いうまでもなく、その過程は同時に「冷戦」戦略の発動過程と時期的に重なり合っていたからである。従って両者の過程の因果関係を、前者が原因で後者が結果であると単純に割り切って論ずることはできない。先に触れたように、東欧革命の進展が米欧支配層に危機感を抱かせ、その芽を未然のうちに摘み取ろうとする彼らの「冷戦」戦略発動が、形成期の「社会主義圏」の内実を規定しデフォルメさせることになる。以下そのプロセスを「冷戦」要因及びそれに対応するソ連の政策の双方と関連させて略述しておこう。
  既に大戦末期から潜在的に進行し、戦後チャーチル元英国首相のフルトン演説を皮切りに、特に四七年三月のトルーマン・ドクトリン、同年六月のマーシャル・プラン発表によって表面化した米国主導の「冷戦」戦略(但し当初は狭義の対ソ・東欧「冷戦」戦略)の発動とその急速な推進は、四七年九月のコミンフォルム結成を促し、次いで四八年二ー三月におけるソ連と一部の東欧諸国(ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー)との各「友好・協力・相互援助条約」(チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ポーランドとの同種の条約は大戦終了以前に既に締結されていた)、更に四七年三月ー四九年一月における東欧諸国同士の類似の条約締結を促進する一因となった。その限りでは、米欧の「冷戦」開始がソ連・東欧諸国の政治的・軍事的結束を促迫し、ソ連主導下の「社会主義圏」形成の一契機となったことは否定できない。この点について、ある論者は次のように述べている。「第二次大戦後しばらくの間ソ連は、不均等でルーズな勢力圏を東ヨーロッパに形成することで満足していたが、一九四七年頃から、このような東欧勢力圏を、より明確な目的のもとに、強固に組織していくようになった。この年の三月に革命情勢の緊迫するギリシアとトルコの援助を目的として表明されたトルーマン=ドクトリンと、六月に発表されたアメリカのヨーロッパ援助計画(マーシャル=プラン)が、このようなソ連の東欧締めつけ政策、および東欧各国の共産党ないし革命勢力による権力掌握を促進したことは否定すべくもない(2)。」こうした経過からすれば、このような結束は、後年フルシチョフ・ソ連首相自身が認めたように「実質的には軍事的・政治的同盟」としての結束、つまりいわゆる「帝国主義陣営」に対抗する「社会主義陣営」の結成であって、同「陣営」の急激な軍事力強化の重圧が、発足したばかりの東欧諸国の「社会主義経済建設」にマイナスに作用し、当初から国民経済の形成に重大な歪みをもたらしたことも事実である。また後で言及するように、ソ連・ユーゴ紛争を含めて戦後初期のソ連・東欧関係に現れた否定的諸事件(東東対立)は、「冷戦」攻勢の激化と決して無関係ではありえなかったのである。
  以上のような「冷戦」要因と関連して、戦後初期の「社会主義圏」の形成過程に強力に作用したもう一つの要因は、一方における「冷戦」攻勢に誘発されたソ連の大国ナショナリズムの現れと、他方における東欧諸国の対ソ追随主義的傾向の存在である。ソ連の大国ナショナリズムは、その発生要因を、帝国主義諸国に包囲されていた戦前の「一国社会主義」時代に求めうるであろうが、大戦中の米英ソ三大連合国協調期を経て、戦後「冷戦」戦略が発動される過程で、苛烈な対独戦争を勝ち抜いて連合国側に勝利をもたらしたソ連国民の自負心と愛国心の高まりに支えられて再現する可能性をもっていた。こうした大国主義が、ソ連の東欧・アジアの「人民民主主義」諸国に対する政治的支援と経済援助の中に、他国への内政干渉と自国の社会主義建設経験を一方的に押しつける独善的態度となって具現したことは否定しがたい事実である。他方、「人民民主主義」諸国の側についていえば、以前に「社会主義経済建設」の経験を全くもっていなかったこれらの国にとって、ソ連での建設経験は唯一の模範と見做され、また戦後初期の経済援助・協力が事実上ソ連から他の国々への一方的援助・協力であったことと相まって、ソ連の経験に機械的に順応、追随するという傾向が生じたのは、ある意味で已むを得ないことであった。殊に「冷戦」進展下の当時の世界情勢においては、被援助国の側から、このような傾向を主体的に克服することは不可能に近かったと言えるであろう。
  上に挙げた二つの要因は互いに有機的に絡み合って、「社会主義圏」の形成過程に屈折した複雑な否定的影響を及ぼさずにはおかなかった。一九四八年のソ連・ユーゴ関係の断絶、後者の「社会主義陣営」からの離脱は、その最初の現れであった。ソ連・ユーゴ紛争の主因は、後年ソ連の公式見解が認めたように、スターリンに代表される当時のソ連指導層のユーゴに対する大国主義的専横と、逆にユーゴ側の民族主義的対応にあったが、「冷戦」攻勢の激化が、形成途上の「社会主義陣営」のリーダーを自任するソ連をして、そうした大国主義的態度をとらしめた背因であることを見逃してはなるまい(3)。同紛争の要因がこうしたものである限り、そのような現象は、ソ連と他の東欧諸国との関係にも大なり小なり現れざるを得なかった。ソ連のある論者は控え目な表現ながら、ソ連側に主たる責任があったそのような現象として、ユーゴ問題以外に、ソ連が東欧諸国の利益に合致しない条約・協定を締結したこと、不必要な合弁会社を設立したこと、前記の東欧駐留ソ連軍の法的地位協定を欠いていたこと、ポーランド炭の対ソ譲渡価格が不当に低かったこと等を挙げている(4)。これらの現象と並んで、ユーゴの「社会主義陣営」からの離脱が、他の東欧諸国にいわゆる「チトー主義者の追放」となって跳ね返り、そのことが、対内的には特定の指導者への「個人崇拝」傾向を生み、対外的には対ソ追随・依存傾向の助長となって現れたことも看過すべきではなかろう。こうした傾向が後年のハンガリー事件等の一因となり、更には「社会主義圏」崩壊の遠因を形成していくことになる。

  〔2〕  「冷戦」戦略の発動と東西対抗関係の形成
  上述のような否定的現象を内在させつつも、戦前の「一国社会主義」時代とは異なり、既往の資本主義世界政治経済システムにともかくも集団で挑戦する潜在的可能性ないし危険性を秘めた新たなアクターとして形成されようとしている「社会主義圏」の出現は、末だ萌芽の段階において早くも資本主義大国指導層の危機意識を掻き立てるに十分であったといえよう。だが、彼らを「冷戦」戦略発動に駆り立てた要因はそれだけではない。東欧での変革過程の進行と並んで、大戦直後の西欧でも戦勝国、敗戦国を問わず、戦争で蒙った経済的荒廃、海外植民地の喪失による経済的危機が進行する中で、戦時中の反ファシズム・レジスタンス運動をバックとする革命的労働運動・民主的体制変革運動が高揚し、政治的危機(大資本による政治的支配の危機)に見舞われつつあった。一九四六年秋のフランス総選挙で共産党が第一党となり、イタリアでも地方選挙で共産党が大勝して、これら両国に共産党閣僚を含めた連立政府が誕生したのはその現れであった。東西ヨーロッパでのこのような激動に呼応する形で、戦前欧米日帝国主義諸国の植民地・従属地域であったアジアでも、抗日戦争の勝利を契機に四五年から四八年にかけてインド、インドネシア、フィリピン、ビルマ、セイロン等が、民族ブルジョアジーの主導下に民族解放運動を展開して次々と国家的独立を獲得し、労働者階級とその政党がイニシァティヴを握ったヴェトナムと北朝鮮では国家的独立に留まらず、「社会主義」的変革へと進みつつあった。更に中国では四六年六月から国共内戦が再開され、蒋介石の国府軍は米国の軍事援助にもかかわらず、民衆の広範な支持を受けた共産党率いる解放軍の前に次第に敗色を濃くしつつあった。「社会主義圏」形成を中軸とする以上のようなユーラシア大陸全土にわたる各地の政治的激動が一体となって、米欧支配層の危機意識を醸成したのである。以下に略述するように、トルーマン・ドクトリン(一九四七年三月)からマーシャル・プラン発表(一九四七年六月)を経て北大西洋条約機構(NATO)結成(一九四九年四月)に至る米欧支配層の迅速な政策展開過程、即ち「冷戦」戦略の発動過程は、彼らのそのような危機感とそれへの対応策を物語っている。
  一般にアメリカ主導の「冷戦」戦略発動の起点とされるトルーマン・ドクトリン(ギリシア及びトルコに関するトルーマン大統領の特別教書演説)は、イギリス政府の支援要請を受けて、ギリシアとトルコにおける革命的危機を米国の経済・軍事援助によって回避することを直接の動機として出されたものであるが、その中の次の一節は、同ドクトリンの広範な狙いを端的に示している。「世界史の現時点では、殆ど全ての国がどちらか一つの生活様式を選ばなければならない。・・・/一つの生活様式は、多数者の意思に基づき、自由な諸制度・・・を特徴としている。/第二の生活様式は、少数者の意思が多数者に強制的に押しつけられるという状態に基づいている。それは、・・・個人の自由の圧迫の上に成り立っている。(中略)ギリシア国民の生存と保全が、より広い情勢の中で重大な意義をもっていることを理解するには、地図を一見すればよい。もしギリシアが武装した少数派の支配下に落ちれば、隣国トルコへの影響は切迫し深刻なものとなろう。混乱と無秩序が全中東に広がるかもしれない。/更に、独立国ギリシアが消滅すれば、戦争による損害を修復しつつ自国の自由と独立を維持するために大きな困難と闘っているヨーロッパ諸国に奥深い影響をもたらすであろう。(中略)もし、この致命的な瞬間に、ギリシアとトルコを援助できなければ、東洋並びに西洋にとっても広大な影響を及ぼすだろう。/我々は直ちに断固とした行動を取らなければならない(5)。」これらの文言があけすけに語っているように、トルーマン・ドクトリンは、ギリシアとトルコの革命的激動が西欧、中東地域へ波及し、ひいては「東洋並びに西洋にとっても広大な影響を及ぼす」のを事前に阻止するという広大且つ深長な発想を根底に持っていた点で、言い換えれば、米欧資本主義諸大国主導の「自由な諸制度を特徴とする」戦前型国際秩序の維持を目的としていた点で、同秩序の転換を模索するヨーロッパとアジアの変革勢力に対する反撃、「冷戦」攻勢の第一歩であった。それはまた、旧大国イギリスに代わってアメリカが直接ヨーロッパと中東地域への介入に乗り出したという意味では、英仏を含む西欧諸国に対する米国の政治的ヘゲモニー確立への最初の歩みでもあった。
  トルーマン・ドクトリンの構想を受けて、一九四七年六月にマーシャル米国務長官が提唱し四八年四月から実施に移されたマーシャル・プラン(欧州復興計画)は、アメリカのヨーロッパ経済支配と、西欧諸国の政治・経済的危機への対応=「冷戦」政策の形成を、これらの国々に対する経済援助という形で具体化したものであった(この「経済援助」提案は当初、一部の東欧諸国に対してもなされたが、これらの国はソ連の介入と圧力を受けて同プランへの参加を拒否した)(6)。即ちマーシャル・プランの目的は、東欧のみならず西欧地域をも巻き込みつつある危機的状況の進行を食い止め、体制変革勢力の進出を抑えるために、アメリカのヘゲモニー下に西欧諸国を政治的にも経済的にも復興させること、それと同時に、西欧市場を含む世界資本主義市場を米国の統轄下に再編成することにあった。西欧諸国の支配層はマーシャル・プランを受け入れることによって、自国経済に対する米国の支配と介入(援助資金受入過程ての基幹産業部門に対するアメリカ資本の支配と、援助見返り資金運用面での自国財政への介入)を許し、アメリカに追随して国内変革勢力への圧力を強めた。フランスとイタリアでは、マーシャル・プラン受け入れの条件、代償として、共産党閣僚の閣外追放(一九四七年)が断行され、また国際労働運動の分野では右派社会民主主義的潮流の協力を得て、当時の世界統一組織「世界労働組合連盟」に対抗する「国際自由労働組合連盟」の結成(一九四九年)が策された。
  マーシャル・プランの受け入れによってアメリカ主導下の資本主義世界経済再編に組み込まれた西欧諸国の支配層は、進行中のソ連・東欧諸国の「社会主義陣営」形成過程に対応する形で、チェコスロヴァキア「二月革命」=「二月政変」(「人民政権」からの資本家代表の離脱と共産党単独政権の確立、一九四八年二月)、ソ連による「ベルリン封鎖」事件(ベルリンの米英仏占領地区の外部との交通・運輸の遮断、同年六月)を契機として更に、米国を中核とする大規模の反ソ・反共軍事同盟の結成へと進んでいった。西欧では既に一九四八年三月に英国のイニシァティヴの下に、事実上の反ソ軍事同盟に当たる英・仏・ベネルックスの五カ国から成る西欧同盟条約(ブリュッセル条約)を発足させていたが、同条約加盟国からのアメリカに対する共同防衛協定の締結要請に応えるという形式を踏んで、翌年四月、北米・西欧一二カ国の加盟する北大西洋条約がワシントンで調印され、ここにアメリカが実質的指揮権をもつ世界最大の軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)〔原加盟国は米・英・仏・カナダ・ベネルックス三国・ノルウェー・デンマーク・イタリア・ポルトガル・アイスランドの一二カ国で、後五二年にギリシア・トルコ、五五年に西ドイツの三カ国が加盟〕が結成された(因みにNATOに対抗するソ連・東欧側の集団的軍事組織、ワルシャワ条約機構の成立は一九五五年のことである)。NATOの成立は、当時唯一の核兵器保有国アメリカの指揮下に加盟諸国の通常戦力を糾合することによって、西欧諸国に対する米国の政治・軍事的ヘゲモニーを確立させた。
  こうしてトルーマン・ドクトリンに始まりマーシャル・プランを経てNATOで形を整えた米国を中軸とする資本主義諸大国主導型国際秩序の維持・再編政策−「冷戦」戦略は、その形成過程自体が示しているように、先ずは、その当時同秩序存続への最大の脅威と目されたソ連・東欧「人民民主主義」諸国に対するいわゆる「封じ込め」政策となって発動された。この政策の標的となったソ連・東欧諸国側は、前述のように、形成の緒についたばかりの「社会主義圏」を実質的にはソ連主軸の「軍事的・政治的同盟」即ち「社会主義陣営」の結成という形で推進し、「封じ込め」政策に対決した。その結果として、戦後初期の国際政治における主導的対抗関係−東西関係(体制間対抗関係)は、当初から顕著な軍事的対決の色彩を帯びることになった。尤も東西間の軍事的対決といっても、それは極めて不均等な力関係に立つ対立であり、従ってソ連・東欧側が軍事力で米欧諸大国側に対峙しようとする限り、先に触れたように、その代償は各国内及び「社会主義圏」の社会主義政治・経済建設に跳ね返らざるを得なかった。そして、そのような跳ね返りこそ「封じ込め」政策の狙いであり思う壷であったといえよう。けだし当時の米欧支配層の立場からすれば、生まれ出ようとしている「社会主義圏」が単なる軍事同盟としての「社会主義陣営」ではなく、大国主導の資本主義世界システムに将来対抗しうるかもしれない異質の社会・経済システムに立脚した「社会主義世界」として生育し、トルーマンが懸念したように「東洋並びに西洋にとっても広大な影響を及ぼす」危険性を未然に防止することが、戦後初期段階における「冷戦」戦略発動の眼目だったからである。その意味では、敢えて言えば、体制間対抗関係としての東西関係は、米欧支配層の視点からする限り、成立の最初から政治・軍事的側面に大きく偏った非対称の関係として国際舞台に登場せざるを得ない歴史的宿命を背負っていたのである。そのことの確認は、その後の東西関係の推移を見てゆく上で必要であろう。それはともかくとして、米欧側の「冷戦」戦略発動と、それに対応する「社会主義陣営」の結成を通じて、ここに軍事的色彩の濃厚な狭義の「冷戦」体制ないし「冷戦」構造(東西「冷戦」体制・構造)が形成されたのである。

  〔3〕  東西「冷戦」体制の展開
  さて、以上のようにして一九四〇年代後半期に先ずヨーロッパを主舞台に形成された東西「冷戦」体制は、それとほぼ同時期に進行しつつあったアジアにおける変革勢力の前進と革命の勝利(一九四五年九月にヴェトナム民主共和国、四八年九月に朝鮮民主主義人民共和国、次いで四九年十月に中華人民共和国がそれぞれ成立した)につれて拡大し、一九五〇年代前半期の朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争の勃発を通じてグローバルな体制に転化した。そしてその過程で「冷戦」戦略の主導者アメリカの支配層は、第二次世界大戦での旧ライバル−西ドイツと日本の再軍備を推し進め、これら両国をそれぞれ自己の支配する軍事同盟網(NATOと日米安保条約体制)に引き入れることによって、「冷戦」戦略を拡大・強化していった。以下に、そのプロセスを簡単に辿ることにするが、先ず初めに、五〇年代前期におけるアジアでの二つの戦争−朝鮮戦争及び第一次インドシナ戦争の勃発と日米安保体制成立の相互関連過程から見ていくことにしよう。
  前述のように、大戦直後アジア大陸では戦前資本主義列強の植民地・従属地域であった国々で大規模な民族独立運動が展開され、四〇年代後半期に多くの新興独立国家が誕生したが、中でも労働者階級とその政党が主導権を握って貧農層との同盟の下に解放闘争を推進したヴェトナム、朝鮮北部、中国では「人民民主主義革命」が勝利を収め、ソ連・東欧諸国と並んで、形成途上にある「社会主義圏」の一角を占めるに至った。とりわけ一九四九年十月の中国革命の成功とその所産たる中華人民共和国政府の成立は、蒋介石の国民政府をアジア地域におけるソ連の進出を抑える「冷戦」攻勢の橋頭堡、反共防波堤に予定していたアメリカにとって最大の打撃となったばかりでなく、世界各地における民族解放革命の前進に巨大なインパクトを与えるものでもあった。対ソ・東欧「封じ込め」から対中国・北朝鮮・ヴェトナム「封じ込め」への「冷戦」戦略の展開は、インドシナの植民地支配の復活を策したフランスの対ヴェトナム・インドシナ侵略戦争(一九四六ー五四年)とアメリカによるその肩代わり、及び朝鮮戦争(一九五〇ー五三年)となって表面化した。
  戦後朝鮮半島は北緯三八度線を境として北部はソ連軍、南部は米軍の分割占領下に置かれたが、朝鮮臨時政府樹立をめぐる米ソの確執が解けぬ中で、南部には四八年八月に大韓民国政府(南朝鮮)、北部には同年九月に朝鮮民主主義人民共和国政府(北朝鮮)が成立し、それぞれ朝鮮全土に対する統治権を宣言していた。これを承けて米ソ両国軍は朝鮮半島から撤退したが、五〇年三月以来三八度線で頻発する韓国軍の攻勢に脅威を感じた北朝鮮側は同年六月下旬、ソ連政府の内密の了解の下に総反攻に着手し、三八度線を越えて南朝鮮内に進撃した。こうして朝鮮戦争が勃発した。アメリカは直ちに国連の場を利用して、北朝鮮と同国を支援した中国(「抗米援朝」の人民義勇軍を派遣)に「侵略者」のレッテルを貼りつけ、米軍を主力とする「国連軍」を組織して、朝鮮半島を舞台とする大規模な「熱戦」に乗り出した。朝鮮戦争は局地戦争、内戦という形を取っていたが、それは明らかに、戦後アジアにおける帝国主義的大国支配の復活阻止をめざす朝鮮・中国民衆と、資本主義大国主導下の東アジア秩序の再構築を図る米国及びその従属勢力との間の戦争、即ち新旧二つの国際秩序をめぐる対抗勢力間の戦争という性格を帯びていた。朝鮮戦争と並行してフランスが一九四六年以来遂行していた第一次インドシナ侵略戦争も、その末期に米軍が仏軍に肩代わりすることによって、アジアにおける旧国際秩序固執勢力と民族解放勢力との間の国際的対抗としての性格を露にした。従って、戦後初期のアジアを舞台とするこれら二つの戦争は、関係当事国の一方に形成途上の「社会主義国」が含まれていたことからすれば狭義の「冷戦」(「東西冷戦」)体制の所産、その「熱戦」化であるとはいえ、それに留まらないより広範な性格、新旧国際秩序をめぐるグローバルな対抗としての性格を既に萌芽的に備えていたと言えるであろう。両戦争はいずれも民族解放勢力側の優勢のうちに前者は一九五三年夏に、後者は五四年夏に休戦状態に入るが、米国はその前後に、日本の支配層を新たな支柱としてアジアにおける「冷戦」戦略の再構築に取り組んでいく。その過程を簡単に見ておこう。
  大戦直後日本を事実上単独占領下に置いたアメリカ政府は、当初旧ライバルとしての日本軍国主義の政治的・物質的基盤を根絶するために軍隊の解散、農地改革による地主制解体、財閥解体、新憲法の制定作業等一連の「民主化」政策を推進したが、まもなく「冷戦」戦略の発動とともに、中国に代えて日本をアジアにおける「冷戦」体制の新たな支柱に仕立てるべく、その占領政策を大きく転換していった。朝鮮戦争勃発直後の一九五〇年七月、占領軍総司令部は当時の吉田内閣に対して七万五千人の警察予備隊設置を命令した。これは、「国連軍」として朝鮮半島に出動する米占領軍の代わりに国内治安に従事させるという名目で設けられたものであるが、実態は、それ以前から日本政府に再軍備を迫っていたアメリカ当局と、国民の反撃を恐れて正式の再軍備を躊躇する吉田政府との妥協の産物であり、憲法で戦力保持を禁止した戦後日本の再軍備の第一歩であることに変わりはなかった。朝鮮戦争の過程で、米軍は日本全土を同戦争遂行のための前進・補給基地として利用したが、他方日本の大資本もいわゆる「朝鮮特需」によって復活の基盤を固めつつあった。一九五一年九月の対日講和条約、それとセットになった日米安全保障条約の締結(五二年四月発効)によって確立された米国を主とし日本を従とする日米同盟体制は、当面は米軍による朝鮮戦争の遂行に有利な戦略拠点を引き続き確保するためのものであったが、それのみならず、より長期的には、中国革命後のアジアにおけるアメリカ主導の「冷戦」体制に、日本をその主な支柱として積極的に組み入れることを目的としたものであった。講和条約の発効によって日本は形式的には主権を回復したとはいえ、安保条約の締結は事実上、米国の対日軍事・政治的支配の継続を合法化することになった。日米安保体制の下で日本の実質的再軍備が進められ、警察予備隊は一九五二年に保安隊に衣更えし、更に五四年には自衛隊へ改組されて装備・兵力とも飛躍的に強化された。
  こうして米国は、一方で日本の「冷戦」体制編入を促進するとともに、他方東南アジアでは、インドシナ休戦後ジュネーヴ会議で確認されたインドシナ三国の独立とヴェトナムの統一を保障する国際協定(一九五四年七月)をボイコットして、自国の影響下に南ヴェトナム共和国を発足させ、同年九月には米国主導の軍事同盟=東南アジア条約機構(SEATO)〔加盟国は米・英・仏・豪・ニュージーランド・タイ・フィリピン・パキスタン〕を結成して、ヴェトナムへの介入を一段と強めるに至った。
  では、以上のようなアジアへの「冷戦」体制拡大の時期、つまり一九四〇年代末から五〇年代前半にかけての時期に、狭義における東西「冷戦」体制の主舞台・ヨーロッパでは事態はどのように展開しつつあったのであろうか。西ドイツの再軍備とNATO編入を中心に、その過程を以下に略述しておこう。
  四〇年代後半期にアメリカが西欧諸国に与えた膨大な経済援助(その額は、同期間の米国の対外援助総額の七割近くを占めた)の結果、西欧諸国の支配階層はまもなく大戦直後の政治的・経済的危機を切り抜けて安定を回復し、後進国への輸出拡大、域内取引の増大、各国間の国際協力(一九五〇年に欧州石炭・鉄鉱共同体〔ECSC〕発足)等を通じて、五〇年代以降これらの国の経済は急速に発展し始めた。中でも旧敵国、西ドイツの経済発展は目覚ましかったが、それには次のような国際的背景があった。周知のように敗戦後のドイツは米英仏ソ四大国によって分割占領されていたが、東欧諸国の「人民民主主義革命」と西欧諸国の政治的・経済的危機が進行する中で、米国はこれに対処するために、旧強敵のドイツをヨーロッパにおける「冷戦」戦略展開の一支柱に据えることを企図して、一九四九年九月にソ連の反対を押し切って米英仏三国占領地区にドイツ連邦共和国(西ドイツ)を発足させた。これに対抗してソ連占領地区には、ソ連の支援と介入の下に同年十月、東欧「人民民主主義革命」の一環としてドイツ民主共和国(東ドイツ)が樹立され、こうしてドイツは東西二つの分裂国家となった(この状態は九〇年秋の東ドイツ消滅に至るまで以後四十年間続くことになる)。西ドイツは対米政治・経済的依存の下で、米国の集中的な経済援助の助けを借りて急速に自国経済を復興し、五〇年代前半には同国の支配層が「奇蹟の復興」と自画自賛する程の経済発展を遂げるに至った。西ドイツも参加した一九五〇年春のECSCの発足は、同国に課せられていた生産制限の撤廃と石炭・鉄鋼資本の西方進出をもたらし、またその後の同国の再軍備への道を開くことになった。その間、東欧諸国は前述のように「人民政権」を樹立し、ソ連を中核とする緊密な政治・軍事同盟関係=「社会主義陣営」を形成しつつあったが、アメリカ主導の「冷戦」戦略の更なる展開にとって、同陣営の「社会主義世界体制」(複数の社会主義諸国から成る政治・経済・社会的共同体)への成長を阻止し、ヨーロッパにおける「自由民主主義体制」を強化するためには、西ドイツの再軍備とNATO加盟は不可欠であった。一九五二年の欧州防衛共同体(EDC)条約が西ドイツの強大化を懸念するフランスの反対で一旦挫折した後、暫くおいて五四年秋に米欧九カ国間にパリ協定が締結され、これに基づいて西ドイツの主権回復とNATO加盟が実現し、西ドイツ国防軍はNATO統一軍に編入されることになった。こうして西ドイツはいまや米・西欧諸大国の忠実な同盟者、その一員として、ヨーロッパにおける「冷戦」戦略を支える重要な経済的・軍事的役割を担うことになったのである。これへの対抗措置として、ソ連・東欧の「社会主義陣営」諸国は翌年、五五年五月にワルシャワ条約(東欧友好協力相互援助条約)機構を設立し、ここに東西「冷戦」体制の軍事的色彩は一段と強くなるに至った。
  以上に略述したように、一九四〇年代後半から五〇年代半ばにかけて、米国を主導力とする資本主義諸大国の発動した「冷戦」戦略と、その所産としての東西「冷戦」体制は次第に形を整え、その舞台をヨーロッパからアジアへと拡大していくが、この時期における広義の「冷戦」戦略の主たる対象は、東欧とアジアの「人民民主主義」諸国、それらを支援し自国の軌道に引き込もうと図るソ連、そのソ連を中心に形成されようとしている「社会主義圏」(実質的には政治・軍事的ブロックとしての「社会主義陣営」)であった。けだし同上時期において、戦前期のような資本主義諸大国主導型国際政治経済秩序の維持をめざす勢力にとって、その目論見を挫折させるかもしれない最大の脅威、最大の国際秩序変革勢力として立ち現れたのは、社会主義建設を標榜するユーラシア大陸の一連の国々に他ならなかったからである。換言すれば、この時期における新旧国際秩序をめぐるグローバルな対抗関係の主導的局面−主導的対抗関係は、東西関係に具現することになったのである。
  しかし、戦後初期段階における国際秩序をめぐるグローバルな対抗関係は、前節で触れておいたように、東西関係のみに収斂されるものではない。次節以下で取り上げるこの時期の副次的対抗関係(南北関係、トランスナショナルな階層間関係)とその他の対抗関係(西西関係、東東関係、南南関係)もまた、程度の差はあれ、基軸的対抗関係の形成と展開に一定の影響を及ぼしていく。そして、これら次元を異にする諸対抗関係の複合的作用が積み重なって一九五〇年代末以降、旧国際秩序志向勢力に主導的対抗関係の転換、従ってまた「冷戦」戦略の再編を迫っていくことになるのである。

(1)  一九四〇年代後半からほぼ八〇年代末まで存在していた一連の社会主義諸国(但し九〇年代半ばの今日もアジアと中米の社会主義諸国は存続している)の総称として、欧米では主に「共産圏」、「ソヴェト・ブロック」が使用され、ソ連・東欧では「社会主義世界体制」、「社会主義陣営」、「社会主義共同体」が用いられていたが、ここでは、十数カ国から構成される社会主義国家群という最も一般的な意味で、差し当たり「社
会主義圏」という呼称を用いることにする。なお上記の呼称をめぐる議論について、拙著『社会主義国際関係論序説〔増補版〕』法律文化社、一九八八年、第三ー五章を参照。
(2)  百瀬  宏「『ソ連・東欧圏』の成立と変遷−ソ連=東欧関係の史的考察II」(『世界』一九七〇年六月号)、一八〇ページ。
(3)  ソ連・ユーゴ紛争の主な原因としては、ソ連が大戦中に米英との反ファシズム連合の維持・強化という政治的配慮から、ユーゴの解放勢力への支援を抑制したことに対するユーゴ側の一定の不信を底流として、直接的には、ユーゴ主導下の「バルカン連邦」構想にソ連が最終的に否定的態度をとったこと、両国の経済関係をめぐる軋轢、ユーゴ派遣ソ連軍事顧問団の「解放者」的態度と彼らの処遇をめぐる紛争等が挙げられる。それらの背後に、一方では、ソ連側の後年の公式見解「ソ連・ユーゴ関係悪化の主な責任は、ユーゴスラヴィアに対して粗野で弁明の余地のない専横を許したスターリンにある」という文言にもあるように、当時のソ連指導層の大国主義的「専横」と、他方では、他の東欧諸国のような対ソ追随主義の幣に陥ることを避けつつも、ソ連の横暴に抵抗する中で、自力で祖国を解放した自負心に媒介されて醸成されたユーゴ側のこれまた民族主義的な傾向とが強く作用していたことは確かであろう。だがそれと同時に、ユーゴに対するソ連側の大国主義的対応を助長させた外部要因として、当時既に激化しつつあった「冷戦」攻勢があったことを見落とすことはできない。例えば、ソ連が一時同意していた「バルカン連邦」構想を四八年になって拒否するに至った背景には、ユーゴを中心とするこの構想が、いまや公然たる「冷戦」攻勢に直面したソ連、しかも形成途上にある「社会主義陣営」の盟主を自任する同国指導層の観点からして、ソ連を中核とする同陣営の結束を弱めかねない計画として映じた、という事情が存したであろう。また両国経済関係をめぐる軋轢が、ユーゴ側の経済建設に不利となるような条件を押しつけようとしたソ連側の経済的要求に主として起因していたとしても、そうした要求をソ連が強引に押しつけた背景には、「冷戦」攻勢のそれ以上の激化に備えて、早急に戦争で破壊された自国の経済、特に重工業部門の復活を図り、それによってソ連を含めた「社会主義陣営」の軍事力を強化しようとする考慮が強く働いていたであろう。このような「冷戦」攻勢の激化という外的事情を無視して、ソ連・ユーゴ紛争の原因を専ら双方の民族主義的傾向に求めることには問題があると言えよう。
(4)  M・アイラペチャン他著(菊井禮次訳)『社会主義世界の国際関係』法律文化社、一九六六年、五二ー五四ページ参照。
(5)  トルーマン・ドクトリンの全文は、『「赤旗」評論特集版』一九九三年一一月二九日号に訳出掲載されている。
(6)  マーシャル・プラン提唱の発端となったハーヴァード大学の講演で、マーシャル国務長官が「人間の悲惨を長続きさせて、そこから政治的にしろ他のものにしろ利益を収めようとする政府・党派は、米国の攻撃を受けるだろう」と述べていたように、この計画は当初からソ連を除外することを前提とした反共的色彩の強いものであった。
(未完)