立命館法学 一九九五年五・六号(二四三・二四四号)




沖縄職務執行命令訴訟の憲法論
---反戦地主の補助参加にかんする意見書---

小林 武








 まえおき 本稿は、現下に進行しているいわゆる沖縄職務執行命令訴訟にかんして、被告沖縄県知事側から依頼を受け、一九九六年一月八日に、福岡高等裁判所那覇支部に提出した意見書のほぼ全文である。この訴訟は、沖縄の米軍用地の強制使用手続に必要な「代理署名」を求めて、村山富市(当時)内閣総理大臣が原告となり、大田昌秀沖縄県知事を相手取って、一九九五年一二月七日に提起したものであるが、同月二〇日、被告側の、いわゆる反戦地主(意見書では「関係地主」とした)七八名が、同訴訟への補助参加を申し立てたのに対して、一部軍用地の使用期限切れを目前にして短期結審を図る国側がこれに強い異議を唱えたため、補助参加問題は、この訴訟の序盤の焦点となった。被告側は、その重要性にかんがみて、関係法分野の諸研究者から意見書を求めることとなり、この意見書もその一つとして、憲法の分野で書かれたものである。蒼惶の間にまとめることを余儀なくされた小稿を記念論文集に呈ずるのは心苦しいが、右の事情に免じてご海容をお願いする次第である。



目    次




一 はじめに---実質審理の要望
 内閣総理大臣村山富市が原告となり、沖縄県知事大田昌秀を被告として、一九九五年一二月七日、御庁、福岡高等裁判所那覇支部に提起した、地方自治法一五一条の二第三項にもとづく一九九五年(行ケ)第三号職務執行命令裁判請求事件(以下、しばしば、「本件職務執行命令訴訟」ないし「沖縄職務執行命令訴訟」という)において、同月二〇日、関係地主(権利と財産を守る軍用地主会、いわゆる「反戦地主会」に参加する七八名。被告・補助参加申立人側書面では、「反戦地主」の語が用いられている)が、右訴訟への補助参加を申立てた(一九九五年一二月二〇日付「補助参加申立書」参照)。これに対して、原告は、翌二一日、この補助参加申立に対する異議を申し立てている(一九九五年一二月二一日付「補助参加申出に対する異議申立書」参照)。右の職務執行命令訴訟は、形式のみをみれば、駐留軍用地特措法(「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法」)一四条一項、土地収用法三六条、地方自治法一五一条の二にもとづく沖縄県知事の土地調書および物件調書への立会および署名を求めるもので、沖縄県収用委員会に対する裁決申請に必要な手続の一環をなすものにとどまるが、その実質からすれば、国家主権と地方自治、国民の基本的人権、そして平和主義という、憲法の基本原則のあり方にかかわるものであって、そのもつ意義は、歴史的ともいえるほどに大きい。そして、そこにおける関係地主の補助参加の問題も、この意義を集中した形で表現しているものである。私は、のちに述べる理由により、一憲法研究者として、法律論上、関係地主の補助参加申立は正当であり、原告がこれに対して唱える異議は根拠に欠けるものと思量する。そうした立場から、主として憲法上の論点について検討を加えた本意見書を提出するものである。
 すでに報道もされ、周知のところとなっているように、原告は、本年三月に迫っている一部駐留軍用地の使用期限の到来までに判決を得たいとしている。そのため、原告は、その訴状も、駐留軍用地の使用権原、使用の認定、立会・署名拒否の経過など、手続上の問題に限定したものとなっており、また、被告の主張に対しても、憲法論議はもとより、駐留米軍基地の沖縄への集中の実態や土地接収の経緯などの事実関係については実質審理に入ることをすべて回避し、また、裁判では、証人などもできるだけ立てることなく、書面による審理を求めていく方針であるとされる(たとえば、朝日新聞一九九五年一二月二二日付夕刊)。原告が関係地主の補助参加に異議を申し立てたのも、このような「時間短縮」の方針から出たものでもあると推測できる。しかしながら、一方当事者であるとはいえ、行政府の長である原告が、裁判所に対して、行政側の都合でしかない駐留軍用地の使用期限切れに合わせた審理を求めることは、司法府の独立への配慮を著しく欠いたものといわなければならない。裁判所には、事案の解決に必要な実質審理を十分な時間をかけて行ない、公正な審理にもとづく妥当な判断を示すことが、強く期待されているのである。
 この点、つとに、最高裁も、職務執行命令訴訟における審査権の範囲について、裁判所はたんに内閣総理大臣の職務執行命令が形式的適正要件を具備しているか否かを審査するだけでなく、実質的審査を行なうものである旨を説示している(最二小判一九六〇・六・一七民集一四巻八号一四二〇頁、いわゆる砂川町長職務執行命令事件最高裁判決)。すなわち、

「国の委任を受けてその事務を処理する関係における地方公共団体の長に対する指揮監督につき、いわゆる上命下服の関係にある、国の本来の行政機構の内部における指揮監督の方法と同様の方法を採用することは、その本来の地位の自主独立性を害し、ひいて、地方自治の本旨に悖る結果となるおそれがある。そこで、地方公共団体の長本来の地位の自主独立性の尊重と、国の委任事務を処理する地位に対する国の指揮監督権の実効性の確保との間に調和を計る必要があり、地方自治法一四六条は、右の調和を計るためいわゆる職務執行命令訴訟の制度を採用したものと解すべきである。そして同条が裁判所を関与せしめその裁判を必要としたのは、地方公共団体の長に対する国の当該指揮命令の適法であるか否かを裁判所に判断させ、裁判所が当該指揮命令の適法性を是認する場合、はじめて代執行権及び罷免権を行使できるものとすることによって、国の指揮監督権の実効性を確保することが、前条の調和を期し得る所以であるとした趣旨と解すべきである。この趣旨から考えると、職務執行命令訴訟において、裁判所が国の当該指揮命令の内容の適否を実質的に審査することは当然であって、したがってこの点、形式的審査で足りるとした原審の判断は正当でない。」
とするものである(傍線は、引用者)。周知のように、一九九一年の地方自治法改正によって、右の一四六条は削除されて一五一条の二の規定が置かれたが、こうした法改正にもかかわらず、この判決が、職務執行命令訴訟における裁判所の審査権の範囲にかんする先例としての価値を保持していることは、学界の一致して認めるところである。
 以上を前置きして、以下、まず、原告側異議申立書に述べられた主張に批判を加え、それをとおして本件では憲法判断が不可欠であることを論じ、その上で、憲法上の各論点をとりあげて検討し、それによって本件補助参加が憲法的根拠に支えられたものであることを明らかにしたい。

二 憲法判断の必要性
 (一) 原告は、関係地主の補助参加の認否をめぐって、もっぱら行政事件訴訟法および民事訴訟法の水準でこれを論じ、関係規定の形式的な解釈によって、消極の結論を出している。
 その要点は、ひとつには、補助参加制度が予定されているのは、民事訴訟法六四条とその前身たる旧民事訴訟法三条に照らせば、他人の間の訴訟、すなわち独立した訴訟当事者間の訴訟であるところ、本件職務執行命令訴訟は行政事件訴訟法六条に規定する機関訴訟、すなわち国の内部的な機関相互間の権限の行使にかんする紛争についての訴訟であって、補助参加は「この訴訟の本来の性質」と相容れない、というにある。もうひとつは、補助参加をすることのできる者は、民訴法六四条によれば、「訴訟ノ結果ニ付利害関係ヲ有スル第三者」であるところ、本件職務執行命令訴訟では、行政権の内部的な行為の適否を判断するにすぎないから、その結果が私人である本件補助参加申立人らの私法上または公法上の権利義務または法的地位に直接影響を及ぼすことはない、とするものである。
 (二) 右のうち、機関訴訟はその「本来の性質」上補助参加を排除するものである、との主張を、まずとりあげよう。原告は、その前提として、知事の立会・署名を国の機関委任事務ととらえている(地方自治法一四八条二項、別表三、一、(三の四)、(一〇八)を「参照」の形で援用している)が、被告の見解によれば、それは、公共事務に分類されるべきものとされている。その趣旨は、「土地収用法三六条四項、五項は、土地所有者及び関係者が署名押印を拒んだ場合又は署名することができない場合に、市町村長、都道府県知事に対し、立会・署名を義務づけている〔が、〕これは、地域住民の平和のうちに生きる権利を保障し、生活、人権、財産権を守り、福祉を増進させることが、地方公共団体の本来の責務であり、公共事務の中核をなすものである(憲法第八章地方自治、地方自治法二条二項)ことから、土地収用法三六条四項、五項が土地・物件調書への立会・署名を地方公共団体の長である市町村長、都道府県知事の義務としたものである」というにある。したがって、被告は、また、もし知事の立会・署名が国の事務の性格を有するものであるとしても、それは、右の趣旨から、団体委任事務に属する、と主張している(以上につき、参照、訴状に対する一九九五年一二月二二日付被告側答弁書)。これらは、妥当な見解であると考えられる。ただ、ここでは、仮に機関委任事務であるとした上で論を進めるが、その場合、職務執行命令訴訟の提起が成り立ち、それは、行訴法六条にいう機関訴訟にあたる。しかしながら、本件は、同法四三条三項に照らして、「処分又は裁決の取消を求めるもの」でも、またその「無効の確認を求めるもの」でもないから、当事者訴訟にかんする規定が準用される。したがって、その審理にあたっても、行訴法に特段の定めがあるものを除いて、「民事訴訟の例による」ことになるから(同法七条)、補助参加を定めた民訴法六四条が適用される。このようにして、本件訴訟において補助参加を認めないことは、現行法の明文に反する措置であるといわなければならない。
 原告側は、補助参加否定の論拠として、職務執行命令訴訟が「国の内部的な機関相互間の権限の行使に関する紛争についての訴訟」であるから「第三者(本件補助参加申出人ら)が訴訟に介入すること」は許されない旨を強調しているが(なお、原告は、関係地主の補助参加申立にかんして、これを「申出」と呼び、したがって同申立人についても「申出人」と呼んでいる。本意見書では、「申立」の語を採る)、現行法制が右述のとおりであるのは、機関相互間の紛争であっても、権利主体間の法律上の争訟と同様の実態をもつものであることにかんがみてである、といえる。本件は、まさにそれにあたるものである。すなわち、被告は、本件立会・署名は、それが機関委任事務であるとしても、これを行なわないことこそ公益に叶うとして、次のような趣旨で争っている。「地方自治体をとおして遂行されることになる機関委任事務によって、憲法が基本的人権として保障する地域住民の平和のうちに生きる権利や財産権などを侵害し、あるいは、結果的に地域住民の生命・財産の侵害を容認したり又はこれに加担したりすることになったり、また、地域の振興開発の阻害要因の是正を将来にわたって放棄させることになるような場合には、知事は、『地方自治の本旨』に基づき、地域住民の総意を踏まえてこれを拒否し、さらに、地域にふさわしい地方自治の内容を創造する義務を負っている」がゆえに、「知事がこれを行わない即ち拒否することこそ、県民の総意に基づき、かつ地方自治の本旨にそい、憲法原理と真の公益を実現するものであり、正当で正義に適うものである」というのがそれである(一九九五年一二月二二日付被告側第一準備書面)。それゆえ、本件訴訟は、機関委任事務の遂行をめぐる機関訴訟であるにしても、実態上、独立した権利主体間の訴訟にほかならないものといえる。
 (三) そして、被告が関係地主の補助参加なされるべからずとするもうひとつの論拠は、関係地主が民訴法六四条にいう「訴訟ノ結果ニ付利害関係ヲ有スル」者に該らない、とする点にある。しかし、まず、補助参加申立人らは、本件職務執行命令訴訟において、被告が勝訴に至るなら、所有地の返還への途が開けるという利益を享け、逆に敗訴したときには、その所有地が強制使用裁決手続に付されるという不利益が生じるのであるから、当然に、同条の定める利害関係者に該当する。また、原告の勝訴判決の結果、土地・物件調書が整うと、補助参加申立人らは、その記載内容について異議を述べることができなくなるという不利益をこうむる。この点、原告は、それは補助参加申立人らが調書作成の際に立会を拒否したために生じた結果である、と主張している。しかし、申立書によれば、補助参加申立人らは、五〇年以上にわたる土地強奪の結果として、土地・物件調書に立会・署名する前提となる土地の形状・物件の存否を知ることさえできない状況にあったため、土地に立入ってそれを確認することを要求し、立会・署名期日の変更を求めた。ところが、那覇防衛施設局はこれを拒絶し、作成した調書には信憑性があるとして、立会・署名の期日を一方的に指定した。その指定期日に出頭しなかった補助参加申立人らは立会拒否をしたものとみなされた、という経過がある。こうした扱いは、土地収用法が土地所有者の意見聴取を義務づけて、その財産権と適正手続の保障を図ろうとしている趣旨に反する違法なものと解さざるをえない。さらに、補助参加申立人らは、後の収用委員会の審理の過程で参加することができることにかんがみて、職務執行命令訴訟において参加の利益を有するかも、一応争われる。この点、原告側は、補助参加申立人らは収用手続に参加することが保障されているから権利侵害は生じない、旨主張している。しかし、補助参加申立人らは、一連の手続が進行している中で、権利侵害が差し迫ったものとなっており、これを予防すべく、この職務執行命令訴訟の段階で参加する利益が認められるものといわなければならない。
 要するに、本件職務執行命令訴訟では、その意に反して自己の土地を駐留軍用地として提供することを強いられてきた補助参加申立人らこそが真の当事者であって、その権利主張に耳を傾けることなしに、本件事案を根本的に解決することはできないのである。
 (四) 以上の経緯をふまえて被告および補助参加申立人側が主張する、補助参加申立人たる関係地主の具体的な憲法上の権利は、主に、財産権(二九条)および適正手続保障を受ける権利(三一条)である。明示的には現われていないが、さらに、関係地主の裁判を受ける権利(三二条)も含意されていよう。また、それらに加えて・ないしはそれらを包括する根源的な人権の位置を占めるものに、「平和のうちに生存する権利」(前文)がある。この平和的生存権は、被告側第一準備書面では、一つの柱をなしており、また、補助参加申立書において顔を見せている、補助参加申立人らの「戦争につながるあらゆるものに対して自己の財産を使用させないという崇高な思想信条の自由」という概念も、私見によれば、この権利の一部をなすものとして主張されうるものと解される。以下、それらについて各説しておきたい。


三 補助参加を根拠づける憲法上の権利
(一) 財 産 権
 (一) 国が本件職務執行命令訴訟に及んだ目的は、米駐留軍用地として提供すべく、沖縄県民の所有する土地を、その意に反して強制使用する権原を取得しようとするところにある。そして、本件土地は、これまでにもすでに五〇年を越える間、米軍用地とされてきたものであるから、今回の訴訟は、その状態の継続・延長を図るものである。こうした行為が、憲法により保障された国民の財産権を侵害するものであることを、確認的であれ、明らかにしておきたいと思う。
 (二) 日本国憲法二九条は、まず、一項で、財産権の不可侵性を宣言しつつ、同時に二項で、財産権が「公共の福祉」による制約つきのものであることを明らかにし、そして三項で、損失補償を前提にして私有財産を「公共のために用ひる」ことができる旨定めている。歴史的にみると、財産権は、一八世紀末の近代人権宣言においては、「神聖かつ不可侵の権利」(一七八九年フランス人権宣言一七条)とされたが、一九世紀における資本主義の弊害の激化の中で、社会的拘束を負った権利と考えられるようになった。二〇世紀に入って、「所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役立つべきである」と規定した憲法(一九一九年ワイマール憲法一五三条三項)が現われたのは、その典型である。こうした思想は、第二次大戦後のほとんどの憲法に共通してみられる。日本国憲法の右条文も、このような近代的な経済的自由主義と現代的な社会国家思想の双方を反映したものといえる。そのためもあって、二九条各項をいかに理解するかについては、憲法学説は帰一していないが、ともあれ、現代においては財産権の神聖不可侵性は否定されるものの、一項は、私有財産制度それ自体を保障するほか、少なくとも、個人の日常生活に不可欠な個々の財産の自由な使用・収益・処分を憲法的に保障したものと解するのが通説である。また、財産権に対する制約根拠としての二項の「公共の福祉」は、各人の権利の公平な保障を図る自由国家的公共の福祉だけでなく、各人の人間的な生存を確保しようとする社会国家的公共の福祉を意味するものでもあるから、財産権は、社会的公平と調和の見地からなされる積極目的規制にも服する、とされる。そのことからすれば、財産の中でも、利潤追求のためにのみ用いられる資本財産と、市民が生存のために所有し使用する生存財産とを区別し、前者は当然に社会経済政策的規制の下に置かれるが、後者に対する規制は必要最小限度のものに厳格にとどめられなければならない、と解されることになる。そして、三項については、学説上、一般に、まず、「公共のため」とは、病院・学校・鉄道・道路・公園・ダムなどの建設のような公共事業のほか、収用全体の目的が広く社会公共の利益であるものを指し、また、「用ひる」とは、強制的に財産権を制限したり収用したりすることをいう旨、説かれている(以上につき、代表的に、芦部信喜『憲法』〔岩波書店・一九九三年〕一七二ー一七五頁参照)。
 このような「公共の福祉」ないし「公共のため」の概念、いいかえれば公共性概念は、それを個別の問題の解決のために用いようとするときには、事案毎に具体化することが必要とされよう。被告側第一準備書面が、「『公共のために用いる』場合かどうかの判断にあたっては、制限される財産権の種類・価値、過去の利用状況、制度の目的やその内容、制限期間、制限によって生ずる社会的影響などを十分に考慮して決すべきである」と述べているのも、そうした観点に立つものであるといえる。この場合、基本に据えられるべきは、憲法の採る公共性は、社会的・経済的弱者の保護をこそ核心とするものであるとの理解であろう。国家の政策であっても、そうした内容を具えたものでない政策は、真の公共性をもちえず、かえって、市民の担う公共性と敵対し、それに劣位することになる。軍事行政にかんしては、とくにこのことが、緊張感をもって念頭に置かれなければならない。裁判例の中にも、こうした理解に立って、正当な説示をした事例がある。いわゆる横田基地騒音公害訴訟控訴審判決(東京高判一九八七・七・一五判時一二四五号三頁)がそれであるが、国が、同基地はわが国の安全を保障し平和を維持する上で極めて高度の公共性を有するとし、それを根拠に、争われている騒音は住民の受忍限度内のものである旨主張したのに対し、裁判所は、国防にかんするものであるからといって、特別に高い公共性が認められて違法性を阻却する事由になるとは考えがたい旨述べて、国側主張を斥けたものである。
 この横田基地訴訟控訴審判決の右の説示部分は、次のとおりである。---「行政は、多くの部門に分かれているが、各部門の公共性の程度は、原則として、等しいものというべきである。国防は行政の一部門であるから、戦時の場合は別として、平時における国防の荷う役割は、他の行政各部門である外交、経済、運輸、教育、法務、治安等の荷う役割と特に逕庭はないのであり、国防のみが独り他の諸部門よりも優越的な公共性を有し、重視されるべきものと解することは憲法全体の精神に照らし許されないところである。それであるから、国防上の諸機関の公共性も他の諸部門の諸機関のそれと同程度といわなければならない。殊に、同種の機関の場合は尚更である。従って、軍事基地としての横田飛行場の公共性の程度は、例えば、航空機による迅速な公共輸送のための基地である成田空港等の民間公共用飛行場のそれと等しいものというべきである。/被告は、本件飛行場は高度の政治的判断に基づく新安保条約によって米軍に提供された施設であり、その規模や地理的条件等において代替性のないものであるとして、同飛行場の高度の公共性を強調し、私益対私益の対立の場合と異なって、公益対私益の対立の場合は私益の侵害の結果が発生しても原則として適法であるとして、公共性は全部的違法性阻却事由である旨主張している。しかし、騒音は単純な物理現象であって、騒音自体に公共性のあるものとないものとの区別がある筈はなく、侵害行為としては航空機騒音も工場騒音等々も同一視されるべきものであり、社会生活上最少限の通常の受忍限度を超えればいづれも違法なのである。右に述べたように、公共性は受忍限度を若干高める事由にはなるが、公共性の程度が高ければどれだけ受忍限度を超えても原則的に違法にならないなどということはないのである。」
 もっとも、第一次厚木基地騒音公害訴訟控訴審判決(東京高判一九八六・四・九判タ六一七号四四頁)は、防衛行政と軍用飛行場が「極めて高度な公共性」をもつことを認めて、次の趣旨を述べている。---わが国の防衛の問題は、国家としての存立と安全にかかわると同時に、わが国が如何なる国是にたち、国際関係にどのような方針で対処するのかという、世界におけるわが国の在り方、その政治および外交の基本的方向とも密接に関連し、極めて高度な公共性を帯びる事項であると考えられる。本件飛行場の自衛隊による使用および米軍への供用も以上のようなわが国が執って来ている防衛行政の一環であると理解されるのであって、併せて高度の公共性をもつものというべきである。そして、公共性のある行為に伴って第三者に被害が発生する場合、加害行為を違法とするためには公共性を帯びない行為との関係で受忍限度とされる程度を越える被害が生じているのみでは足りないのであって、当該行為の公共性の性質・内容・程度に応じて受忍限度が考慮されるべきであり、これについては、公共性が高ければ、それに応じて受忍限度も高くなるといわなければならないのである。
 しかし、同訴訟の差し戻し後の控訴審判決(東京高判一九九五・一二・二六判例集未登載。さしあたり参照、朝日新聞一九九五年一二月二六日付夕刊)は、国防の重要性についてだけ特別高度の公共性を認めることはできず、政治的、外交的重要性のため、飛行場周辺住民に特別の犠牲を強いるのは不公平であり、一定数値を越える騒音は受忍限度を越えて違法である、との判断を示している。(以上の一字分落としの補記は、校正時に施したもので、意見書にはない。)
 本件においても、関係地主の土地の強制使用がその財産権を侵害するものでないか否かは、公共性の存否の判断によって決せられることになる。それについては、沖縄米軍基地形成の歴史的経緯をふまえた検討が必要とされよう。
 (三) 沖縄の軍用地は、そのほとんどの部分が、次の二種類の経緯をもつものから成り立っている。ひとつは、沖縄における戦闘終了直後、住民を一定の捕虜収容所に収容しておいて、その間に米軍によって囲い込まれ徴発されたものである。その法的根拠として、米軍は、ハーグ陸戦法規を援用するが、それは戦闘中における必要最小限度の動産の徴発を認めているにすぎず、戦闘終了後における戦略基地建設用地の取得を許したものではなく、米軍による右土地接収は、明白な国際法違反行為であった。もうひとつは、一九五二年の対日平和条約の発効後に、米軍が自ら発した多数の布告・布令を盾に、「銃剣とブルドーザー」によって強制的に取り上げたものである。この布告・布令は、平和条約発効で右ハーグ条約の援用もできなくなったために採られた手段であったが、その実態は、文字どおりの土地強奪であった。このようにして形成された軍用地は、復帰時にはおよそその九七パーセントが地主との「賃貸借契約」の形式をとっていたが、実際は、米軍が強制的に接収しておきながら後になって契約の形をととのえたにすぎないものであった。結局、沖縄の米軍基地は、復帰前の米軍施政下でも正当な法的根拠をもたないものであったことが確認される。
 一九七一年に、七二年の復帰(施政権返還)が決定するや、日本側は、復帰後は施政権を失なうことになる米側にこれらの土地を軍事基地として引き続き提供するため、五年を暫定使用期間とする「公用地法」(「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」、一九七一年一二月三一日)を制定した。同法は、制定時から、その目的が憲法の平和条項の趣旨に反する軍事基地用に土地を供することにある点、その強制使用を認める「暫定期間」が五年という長期にわたる点、また、沖縄にのみ長期の強制使用を認める差別的立法措置をした点、そして、財産権に対する著しい制約について権利者になんら不服・異議申立などの手続を置いていない点などで、憲法一四条・二九条・三一条に違反することがつとに指摘されていたところであり、当時の琉球政府、また復帰後の沖縄県も、右の指摘に沿って日本政府に抗議したという経過もある。同法による暫定使用の終了に際して、「地籍明確化法」(「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」、一九七七年五月一八日)が制定され、米軍基地内の地籍不明地の明確化に藉口して、さらに五年間の強制使用がなされた。そして、この使用期間が切れると、それまでほとんど用いられることのなかった駐留軍用地特措法が持ち出され、現在に至るまで、同法による強制使用が行なわれてきたのである(以上については、日本弁護士連合会編『復帰後の沖縄白書』〔法律時報一九七五年増刊号〕とくに四六頁、一六六頁参照。さらに参照、同編『復帰一〇年の沖縄白書』〔同誌一九八二年増刊号〕)。
 こうした経過は、沖縄の米軍基地は、基本的に、所有者の意思に反して強制的に接収したものであって、その状態が五〇年を超えるに至っていることを示している。この点、被告側第一準備書面も指摘するとおり、民法上の賃貸借期間は二〇年が最大限であり(六〇四条)、これを超える所有権の制約は、事実上その侵害と同一視されるものであるところ、沖縄の米軍用地の強制使用は、その二・五倍以上に及ぶ間、所有者に、自らそれを使用することのできない状態を強いるものである。こうした強制使用に公共性を見出すことは、何人にとっても至難の業であるといわなければなるまい。
 (四) しかも、現在の強制使用の根拠法とされている駐留軍用地特措法についても、これが憲法に適合した法律であるとはいいがたく、それにもとづく財産権制約は、二九条の定める「公共のために用ひる」場合には該らない。同法は、米軍用地の使用・収用措置を定めることを目的とした(一条)、土地収用法の特別法である(一四条)ところ、右目的自体が、平和的生存権を国民に保障し、戦力保持を政府に対して禁止した憲法前文および九条に背馳する。また、土地収用法も、「土地を収用し、又は使用することのできる公共の利益となる事業」から、旧法では冒頭に掲げられていた「国防ソノ他軍事ニ関スル事業」が日本国憲法制定時に伴なう改正で削除され、かつ、自衛隊設置後も、それにかんする事業を対象から外しているという経緯があり、それに照らすなら、駐留軍用地特措法は、土地収用法とも相容れないのである。
 (五) さらに、土地を米軍の用に供することが公共性を有しうるかを軍事基地の実態に即して検討することも欠かせない。これについては、現地にあって、自ら歩んだ歴史と日々の体験にもとづいて叙述された被告側書面が、間然するところのないものであり、本意見書で加えるべき事柄はない。項目を挙げるにとどまるが、それは、米軍の演習・訓練による事件・事故、米軍構成員による刑事犯罪、自然環境の破壊、騒音公害、県・市町村の振興開発の阻害、行政事務の加重負担等々に及んでいる。こうして、米軍基地が諸々の害悪の根源になっているにもかかわらずその存続のために本件使用強制を行なうことに、公共性を見出すことはとうていできない。(したがってまた、仮に、駐留軍用地特措法が合憲のものであるとしても、本件使用強制が、同法三条のいう、土地等を駐留軍の用に供することが「適正かつ合理的」である場合に該るとはいいがたいのである。)
 このようにして、本件強制使用が、本件補助参加申立人ら土地所有者の財産権を不当に侵害するものであることは明白である。よって、同申立人らが、自己の右権利侵害を争うべく、本件職務執行命令訴訟に補助参加することは、当然に認められてしかるべきである。
(二) 適正手続保障と裁判を受ける権利
 (一) 補助参加申立人らには、すべての国民に適正手続を保障した憲法三一条、および、裁判を受ける権利の享有を定めた同三二条の要請するところからしても、本件職務執行命令訴訟への補助参加が認められるべきである。その理由は、次のとおりである。
 (二) まず、憲法三一条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」として、適正手続の保障を定める。その内容としてとりわけ重要なものが、「告知と聴聞」の手続の保障であって、それは、公権力が国民に刑罰その他の不利益を課す場合には、当事者にあらかじめその内容を告知し、弁解と防禦の機会を与えなければならないというものである。同条は、右の文言からも、直接には刑事手続についての規定であるが、現代国家にあっては肥大化した行政権の行使によって国民の権利への侵害が生じることも多々あるため、その趣旨を行政手続についても生かすことが求められる。その仕方をめぐっては学説が分かれているが、三一条を直接適用することが困難な事例についても、一三条が、国民が広く適正な手続による処遇を受けることを保障していると解されるから、両条を相互補完的に扱うことによって、適正な行政手続の保障の憲法的要請を導き出すことができる。最高裁判例も、一九七〇年代に、憲法三五条・三八条に限って、それが行政手続に及ぶことを原則として認め(最大判一九七二・一一・二二・刑集二六巻九号五五四頁、川崎民商事件上告審判決)、さらに、一九九二年に至り、行政手続が刑事手続でないとの理由のみで当然に三一条の枠外にあるとみるべきではないとの判断を、判決の総論部分で示している(最大判一九九二・七・一民集四六巻五号四三七頁、成田新法訴訟上告審判決)。
 適正手続の保障が要請される行政手続の中に、財産権を制約する措置も、当然に含まれる。したがって、土地等の財産を公共のために用いる場合も、法律の定めた適正な手続によってなされることが要求される。土地収用法は、右にいう「法律」として、憲法三一条にもとづいて解釈・運用されなければならないのである。
 (三) さて、問題となっている駐留軍用地特措法は、先にもふれたように土地収用法の特別法であるが、被告側第一準備書面に摘示のとおり、そこに定められた手続は著しく簡略化されている。すなわち、土地収用法一八条で提出を義務づけられている事業計画書に相当する書類が要求されておらず、認定申請にかかる収用・使用の内容が具体的に明らかにされていないこと、また、同法二四条・二五条で定められている事業認定申請書類の送付・縦覧の手続や利害関係人の意見書提出の手続が欠けていること、および、同法二三条にある公聴会の制度が除かれていること、などがそれである。
 このように、収用・使用認定の事前手続の重要部分を簡略化している駐留軍用地特措法は、そのことによっても憲法三一条違反の評価がなされうるところである。仮に、その点を措いて、同法の適用を前提に論ずるとしても、同法が切り捨てなかった土地収用法の手続保障規定についての解釈は、駐留軍用地特措法の適用によって惹起される財産権侵害が前述のとおり重大なものであるだけに、とくに、土地所有者の権利保護の方向で解釈されるべきであろう。
 (四) そこで重要視されるものが、同法一四条一項により適用される土地収用法三六条の、土地所有者の立会・署名(二項---「土地調書及び物件調書を作成する場合において、起業者は、土地所有者及び関係人を立ち会わせた上、土地調書及び物件調書に署名押印させなければならない」)であろう。同条については、従来は、たんに収用・使用認定の事前手続の一環をなすものとのみ解されていたようである(参照、「本条は、収用委員会における審理の際に、事実の調査・確認における煩雑さを避け、その能率化を図るために収用または使用する土地およびその土地の上にある物件に関する事実および権利の状態ならびにこれらについての当事者の論点を記載して、あらかじめ整理しておくことを目的としている」とする小高 剛『土地収用法』〔第一法規・一九八〇年〕二一九頁。なお参照、小澤道一『逐条解説・土地収用法』〔ぎょうせい・一九八七年〕三六三頁以下)。しかし、とくに本件のような事案に照らして見直すならば、同条は、「立ち会わせ」「署名押印させ」るとの文言にもかかわらず、立会および署名押印について、これを土地所有者の権利、しかも憲法三一条に支えられ・ないしそれと一体になったものとして尊重されるべき重要な権利と解されるべきであろう。そして、土地所有者は、同法三八条により、土地・物件調書の記載事項の真否については別途争う余地が残されているが、立会・署名の権利は、本件のようにそれが奪われると(二(三)参照)、本件職務執行命令訴訟で被告側が勝訴することによってしか回復することができないのである。したがって、本件の関係地主は、右に述べてきた適正手続保障を受ける権利の一つとして解されうる土地収用法上の立会・署名権の保障にもとづいて補助参加を求めることのできる地位にある、といえるのである。
 (五) 本件補助参加申立人らは、また、憲法三二条により保障された裁判を受ける権利を援用することもできる。
 憲法三二条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と規定している。周知のごとく、この裁判を受ける権利は、独立の公平な司法機関たる裁判所に対して、すべての個人が平等に権利の救済を求め、かつ右に示した内実をもつ裁判所以外の機関から裁判されることのない権利を意味する。ここにいう「裁判」とは、法令を適用することによって解決することの可能な権利義務にかんする当事者間の具体的紛争に対してする裁判所の裁定である。したがって、そのような実質を具えた紛争が存在しその解決が求められる以上、「裁判の拒絶」は許されない。それゆえにまた、国民は、自己にかんして右の要件が充たされているときには、自らその権利救済にとって最も適切と判断した任意の段階で裁判所に訴えを提起しうる、と解することができるのである。
 本件補助参加申立について、一応問題となるのは、右申立人らが、後に争うことが可能であるにもかかわらずこの職務執行命令訴訟の段階で訴訟に参加することに理由があるか、という点であろう。しかし、憲法三二条の規定の前記趣旨からすれば、国民の裁判を受ける権利には争訟を提起する場面・段階を自ら選択できる権利も含まれているはずであって、権利の迅速な救済の途が選ばれるのはむしろ当然というべきである。しかも、土地収用法上も、本件職務執行が命令されることになれば、次のような具体的な不利益ないし権利制限を受けることになる。すなわち、職務執行命令がなされれば、知事は立会・署名等が義務づけられ、これを拒否したとしても、内閣総理大臣による署名がなされることになる。それが完了すれば、裁決申請のための申請手続要件が充足され、これに続いて補助参加申立人らの各所有地については、土地収用法にもとづいて強制使用裁決申請がなされ、一定の手続を経た後、裁決開始が決定されると使用裁決手続開始の登記がなされる(同法四五条の二)。そして、この登記がなされると、同法四五条の三による所有権に対する各種の制限を受けることになるのである。また、本件職務執行命令が認められたなら、当然に、起業者による強制使用裁決手続が開始されることになる、などの結果が生じるのである(参照、補助参加申立書)。
 したがって、関係地主が本件職務執行命令訴訟の段階において、補助参加の形で訴訟に加わり、被告を扶けてその勝訴を促し、それをとおして自らの権利・利益の救済を図ることは、憲法三二条の裁判を受ける権利に支えられた、明らかに理由のあるものといえる。
 (六) 以上により、関係地主の本件補助参加申立は、憲法三一条および三二条の根拠をもつものであって、この点においても、その申立を排除することは許されないのである。
(三) 平和的生存権
 (一) 平和的生存権論は、被告および補助参加申立人側主張の主要な柱の一つをなしている。補助参加申立書には、平和的生存権の語そのものは見当らないものの、次の論旨は、刮目してしかるべきものと思われる。すなわち、いう。「補助参加申立人らは、沖縄戦後の米軍による土地強奪、復帰後は日本政府による土地強奪の継続の為、五〇年以上にわたって自らの土地に立ち入ることすらできないという異常状態を強いられている。憲法の保障する財産権を侵害され、戦争につながるあらゆるものに対して自己の財産を使用させないという崇高な思想信条の自由を踏みにじられ続けてきた補助参加申立人らこそが、本件訴訟の結果について最も利害関係を有するものであり、本来の当事者である」と。そこで用いられた「戦争につながるあらゆるものに対して自己の財産を使用させないという・・・思想信条の自由」なる概念は、のちにも述べるように、むしろ平和的生存権の重要な一内容を形造るものとみておきたい。
 実際、本件訴訟の被告側書面の中には、平和的生存権にかかわる叙述や主張が数多く見受けられ、しかも、それらは、これまで学説ないし裁判例において議論されてきた平和的生存権論の水準を高めることに疑いもなく貢献しうるものと思われる質を具えている。そして、この平和的生存権の主張こそ、実質的に、本件訴訟における被告側の人権論と地方自治論の基礎に据えられているものであると思われるのである。そこで、これまでの論議を一瞥した上で、被告側主張のもつ意義を指摘し、憲法の平和的生存権保障規定が補助参加申立の根拠となるものであることを明らかにしておきたいと思う。
 (二) 日本国憲法は、前文第二段において、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」として、「平和的生存権」を宣言する。ただ、学説は、今日でも、平和的生存権は、その主体・内容・性質などの点でなお不明確であり、人権の基礎にあってそれを支える理念的権利ではあっても、裁判で争うことのできる具体的な法的権利性を認めることは困難である、とするのが一般である。しかし、近時、この権利について、裁判規範性を肯定し、さらに、そのもつ広範な意義を認める学説も有力になっており(代表的に、深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』岩波書店・一九八七年)、また、下級審判決の中にも、その裁判規範性を明確に認めて事案を裁定した注目すべき事例がある(札幌地判一九七三・九・七判時七一二号二四頁、長沼訴訟第一審判決)。

 右の平和的生存権を積極的に理解しようとする見地は、たしかに、現在なお少数説にとどまっているが、しかし、それは、次の点に照らして、十分成立しうるものであるといえる。すなわち、憲法前文が、全世界の国民が平和のうちに生きる「権利」を有するとしたのは、人の平和的生存を、たんに国家が平和政策をとることの反射的利益としてとらえる従前の理解から原理的な転換を遂げて、平和をまさに権利として把握したことを意味する。換言すれば、この平和的生存権規定は、政府に対しては、軍備をもたず軍事行動をしない方法で国際平和実現の途を追求する平和政策の遂行を法的に義務づけ、そして国民には、政府が平和政策を採るよう要求し、また自らの生存のための平和的環境をつくり維持することを各自の権利として保障したもの、と解することができる。そして、この、前文に直接の根拠をもつ平和的生存権は、九条で具体化された上で、ひとつには、一三条をはじめとする第三章各条項に定められた諸人権と結合して機能し、またひとつには、第三章の各人権がカヴァーしていない領域ではそれ自身が独自の意味をもつ人権として働らくものであるといえるのである(このような見解を採る私見については、参照、拙稿「平和的生存権の歴史的意義と法的構造」(一)〜(四・完)南山法学一八巻四号・一九巻一〜三号〔一九九五年〕)。
 (三) 被告側主張も、平和的生存権を裁判規範たりうる具体的権利とみる立場に立って、その多様な規範的意味を逐一論じたものであるが、それは、とくに次の点において、今日の平和的生存権論を豊富化することに寄与しうる積極的内容をもつものである。
 注目されるのは、まず、平和的生存権の侵害を、具体的な日常的・常態的生活の中で生ずるものとしてとらえている点である。すなわち、被告側第一準備書面は次のようにいう。「在日米軍基地が過度に集中する沖縄においては、在日米軍の戦争行為によって日常生活のうえで、具体的に平和的生存権が侵害されている。この平和的生存権の侵害は、基地にかかわる住民の生活の中で、様々な形で現れている。その個々の被害は、軍による戦争行為を支える基地に起因する人権侵害としてまとめることができる」、したがって、「国は、沖縄県民が、沖縄戦以来戦後五〇年にも及ぶ長期間、平和的生存権を侵害され続けてきた事実を直視すべきであり、常態的な平和的生存権の侵害を是正すべきである」(第七の一)と。
 その上で、平和的生存権が、憲法第三章の個別の人権と結合して、この各人権に新しい意味を加えるものとして主張されている。たとえば、前出の、「戦争につながるあらゆるものに対して自己の財産を使用させないという・・・思想信条の自由」(補助参加申立書)であるが、それは、平和的生存権に支えられた一九条の人権として理解されるものであり、また、「国防・軍事目的による私有財産の強制収用・使用の禁止」(第一準備書面第九の一)は、二九条が平和的生存権に裏打ちされることによって獲得する規範内容としてとらえられるのである。
 したがって、そこで理解されている平和的生存権の内包・外延は、きわめて豊かで、かつ広い。すなわち、それは、「戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、生命の尊さと人間性の発露である文化をこよなく愛する」(第一準備書面第三の二)人間的立場に底礎された包括的なものであって、そこには、戦争の間接的加害者となることの拒否(第一準備書面第一の一。「沖縄が戦場となり沖縄県が被害者とならなくとも、沖縄に存在する基地からの出撃・補給により他国民が被害者となること、それによって自らが間接的な加害者となることをも拒否する」というものである)という重要な内容も含まれている。
 (四) たしかに、先にも述べたように、平和的生存権を裁判に載せることについては、今日の通説は、なおも消極的である。その中心的理由は、この権利が抽象的なものであるからとするところにある。しかしながら思うに、沖縄においては、とりわけ本件の問題に照らしてみれば、人々の平和に生きようとする願いが、過去においてもまた現在でも、日常的・常態的な障害に直面しており、したがってまた、憲法の保障する平和的生存権がすぐれて具体的な内容をもつものとして認識されている。それゆえ、こうした具体的規範内容を具えた平和的生存権を、本件関係地主が、補助参加申立のために援用することには十分理由がある。すなわち、憲法前文の平和的生存権規定もまた、右地主の本件職務執行命令訴訟への補助参加を要請しているのである。

四 本件訴訟と補助参加申立の本質---むすびにかえて
 (一) 関係地主らが職務執行命令訴訟への補助参加を求める本件申立は、訴訟手続的には、たんに職務執行命令訴訟追行過程のひとこまにすぎないものであるが、その実態ないし本質は、関係地主とそれに集約される県民の憲法上の基本的人権の回復・実現をめざす憲法裁判を意味する。そのことは、補助参加申立にかんして本意見書がとりあげた財産権・適正手続保障と裁判を受ける権利・平和的生存権についてのこれまでの叙述からも明らかであるが、本件職務執行命令訴訟全体の場では、さらに、平等原則違反、生存権(生活権)侵害などが論じられている(そのうち、平等原則違反の主張は、沖縄県・沖縄県民は他の地方公共団体・地域住民との比較において、米軍基地が沖縄県に集中・偏在している点で、平等取扱いを受けるべき権利を侵害されている旨を主な内容としたものであり、説得的である。また、この主張の中では、憲法九五条が正当に重視されているが、たしかに、前出「公用地法」などは、典型的に、本来同条による住民投票の対象とされるべきものであったといわなければならない)。
 このことはまた、本件補助参加申立、さらには本件職務執行命令訴訟のいずれにおいても、真の当事者は、沖縄県民の要望を集約的に担う本件補助参加申立人らであることを意味している。この点にかんして、わが国の代表的一紙が、注目に価する次のような叙述を含む社説を発表している。「現地では、知事ひとりではなく、沖縄県民すべてが裁判の当事者、といったおもむきさえある。形式上の被告は沖縄側だが、裁かれるのは安保体制のひずみであり、政府だ。裁判所には、そこを見据えた、真摯な審理を求めたい」(朝日新聞一九九五年一二月二二日付)。結局、この職務執行命令訴訟および補助参加申立の本質は、沖縄県民とりわけ関係地主を実質上の当事者とする本格的な憲法裁判たるところにあるといわなければならない。その点で、関係地主の補助参加を排除すべき根拠は、本来存在しないのである。そして、右訴訟・申立において被告大田昌秀沖縄県知事が示している見解は、その地方自治における自身の位置づけをめぐって、また憲法と人権の理解をめぐって、極めて正当であり、感動的でさえある。こうした、関係地主を含む県民の努力と、県民の負託に応えようとする知事の姿勢とが相俟って、原告内閣総理大臣の訴状に対する被告側第一準備書面を、沖縄の平和な未来を切り拓くための叙事詩と称されうるほどの水準にまで高めている。被告側書面こそ、国に対して向けられた真の訴状なのである。
 (二) したがってまた、本件職務執行命令訴訟および本件補助参加申立は、憲法が示す真の地方自治とは何かを問う場ともなっている。この点にふれて、本意見書をしめくくることにしよう。
 被告側の見解は、要旨、次のごとくである。「憲法が保障する地方自治は、当然のこととして住民の人権保障を目的とするものであり、」これを「住民に密着したレベルで実現することを基本的使命とするものである」。したがって、「県民の負託を受けた知事は、『地方自治の本旨』に基づき、県民の基本的人権を保障し、県民の生命、安全を守り、福祉の増進を図ることをその責務としている」。そして、これを平和的生存権にかかわらせて具体的に述べるなら、「地方のレベルにおいても、住民が人間としての生存と尊厳を維持し、自由と幸福を求めて平穏な生活を送ることが戦争行為によって脅かされないことを保障されていなければなら」ず、「それが、地方自治の本旨の内容の一つであり、地方公共団体は、このような住民の平和的生存権を保障する責務を負っている」。そこに、地方公共団体の担う「平和行政」の根拠がある(第一準備書面中、順に、第八の一、第一の二、第八の一の4)。
 右のような見解には、憲法上の地方自治の本来の姿が映し出されている。すなわち、立憲国家の統治機構は、その本質において人権保障のためにこそ存在するものであるところ、地方自治体は、そうであることに加えて、住民の近くにあって実情をよく知り、その需要にキメ細かく対応する役割を担った機構である。とすれば、住民が平和的環境の確保・実現を求めて、自治体が平和のために働らくことに強い期待を寄せるのは必然である。したがって、地方自治体が、この住民要求に応えて「平和行政」すなわち「平和のための事務」の遂行にあたることは、憲法の要請するところであるといわなければならない。もっとも、今日の実務においては、地方自治体の平和事務遂行に対して、「国防は国の専管事項である」とする論理による障碍が設けられている。しかしながら、それは、地方自治体が国の軍事行政に関与し、ないし自ら平和行政を創造することを一切否定する論理ではありえない。かえって、日本国憲法は、地方自治体の多様な平和行政施策の展開を期待しているのである(詳細については、拙稿「地方自治体の『平和のための事務』をめぐる法と政策」政策科学〔立命館大学政策科学部〕三巻三号〔近刊予定〕への参照を請う)。被告側主張は、こうした趣旨を具体的現実に即して論証し、地方自治を、平和および人権と一体のものとしてとらえることによって、その大きな可能性を示したものといえるのである。
 あたかも、本件職務執行命令訴訟および本件補助参加申立は、一九九五年、すなわち戦後五〇年目の年に御庁に係属し、日本国憲法公布五〇周年の今年一九九六年にかけて審理されている。被告・補助参加申立人らは、沖縄戦以降の五〇余年の歴史を根本に立入って総括し、日本国憲法にもとづく真の立憲政治が行なわれるべき次の五〇年を展望して、この訴訟に臨んでいる。御庁におかれては、被告・補助参加申立人らの提起する問いかけに耳を傾け、時間をかけて慎重に実質審理を行ない、歴史的評価に耐えうる判決を示されることを衷心期待して、意見書を結ぶ。 (一九九六年一月五日 脱稿) 

 追記 小見を含む諸意見書、反論書を反戦地主会訴訟弁護団が提出した一九九六年一月八日、福岡高裁那覇支部は、国側の審理短縮を求める意向に応えようとする訴訟指揮の方針を示した。そのため、同弁護団は、同支部の裁判官三名全員の忌避を福岡高裁に申し立てたが、一八日、同高裁が右申立を却下したため、反戦地主側は、一九日、最高裁に特別抗告を行なった。ところが、福岡高裁那覇支部は、この忌避申立が最高裁で係争中の二三日に、反戦地主の補助参加申立を却下する決定を下した(反戦地主側は特別抗告の予定)。その理由とするところは、本件職務執行命令訴訟は機関訴訟であるため反戦地主は法律的な利害関係に立つものではない、というにある旨伝えられているが、本稿の見地からすれば、不当というほかない。
(一九九六年一月二六日 記) 
    本稿(意見書)の作成にかんしては、河内謙策弁護士から資料の提供をいただいた。記して感謝の意を表したい。