立命館法学 一九九五年五・六号(二四三・二四四号)




近世の非合法的訴訟 (四)
---駕籠訴・駈込訴を素材として---

大平 祐一






目    次


  • 一 は じ め に
  • 二 駕籠訴・駈込訴の取扱
     (一) 序
     (二) 駕籠訴・駈込訴の取扱(この三まで、一八三・一八四合併号)
     (三) 駕籠訴人・駈込訴人の取扱(以上、一九四号)
     (四) 三奉行への駕籠訴・駈込訴
     (五) 小括(以上、二一一号)
  • 三 駕籠訴・駈込訴の背景
     (一) 序
     (二) 訴訟抑圧
    (以上、本号)



三 駕籠訴・駈込訴の背景
 (一) 序
 一 「民を治るの急務は、政を平にすると、訴訟を明に裁断するとの二ツに有なり(1)」とは、『平理策』の著者丹羽勗の言である。近世日本においては、「訴訟を明に裁断する」ことは、人民統治の二大柱の一つにも比定されるほど重要な課題であったのである。そのため、幕府においても諸藩においても、既述のように、人民の「訴訟」を受理し審理する体制は早くから整備されていた。
 しかし、こうした「訴訟」制度の整備・充実にもかかわらず、所定の手続を踏まずに幕府の老中・奉行等の高官に直接訴状を提出せんとする駕籠訴・駈込訴があとを絶たなかった。この種の非合法の越訴は、幕末まで衰を見せることなく頻繁に行なわれた。このことは、各種史料集や県史、郡史、市町村史等の類を繙くならば一目瞭然である。既に紹介した旧幕府評定所留役小俣景徳の証言からも、そのことが知られよう(2)。
 二 近世を通じて広範に展開された駕籠訴・駈込訴は、その「訴訟」内容も極めて多様であり、私人の民事的紛争に関するもの、村役人の不正に関するもの、村と村との紛争に関するもの、幕府・藩・知行所役人の職務に関するもの、年貢・諸負担の軽減・免除に関するもの、開墾・潅漑等各種の願事に関するもの、転封・支配替に関するもの等、様々な内容の事柄を訴える駕籠訴・駈込訴が展開された。なかには、金銀借貸棄捐願、新銅鋳銭願、喪祭願等、なかば訴願的なかば政策提案的な駕籠訴(3)も見られた。
 訴訟人は、一個人の場合もあれば、連名、村惣代、名主、村々連名等の場合もあり、個人が自己の私的利益にかかわる問題で止むにやまれず幕府高官に駕籠訴・駈込訴することもあれば、村全体の死活にかかわる問題について、村惣代らが駕籠訴・駈込訴をすることもあった。訴訟人の身分は、大半が農民そして町人であったが、なかには、武士(4)(浪人を含む)、僧侶(5)、神職(6)、修験(7)、医師(8)、無宿(9)、賎民(10)、さらには女子(11)による駕籠訴・駈込訴の例も見られ、広範な階層、身分の者により非合法的訴訟がくり広げられていたことが分かる。
 しかも、既述のように、訴えを聞き容れてもらうため、一度ならず、くり返し駕籠訴・駈込訴をするということが頻繁に見られた。幕府の民事刑事判例集にも、「度々駕籠訴致」、「度々駈込訴いたし」等の文言が随所に見られ、なかには、老中に四度まで駕籠訴した事例や、老中・奉行へ五度まで駈込訴した事例、藩当局へ二度駕籠訴、大目付へ四度駈込訴した事例、さらには、三奉行・老中へ合計一四度も駕籠訴・駈込訴した事例も見られたことについては既に紹介した(12)。このほかにも、老中へ二度、勘定奉行両名に一度ずつ、目付へ一度、勘定吟味役に一度駕籠訴した事例(13)や、老中へ五度まで駕籠訴した事例(14)も見られ、はなはだしきに至っては、山論をめぐる藩当局の措置を不満として、老中、寺社奉行に、何と駕籠訴を三二度、駈込訴を二二度も行ったという事例も見られた(15)。
 訴訟人たちが、「老中、若年寄等へたびたび駕籠訴したが、効果がなさそうなので、今度は大目付へ嘆願すべきだ」などと色々相談しあっている光景(16)、あるいは、訴訟人が老中への駕籠訴を敢行した数日後、公事宿が、今後の方針について、「再度かけ込訴をするか、宿より訴えるか、どちらにするか相談したい」と訴訟人たちに話しかけている光景(17)からもうかがわれるように、幕府高官にくり返し駕籠訴・駈込訴をするということは、決して稀有の事柄ではなかった。それはしばしば行われていた常套手段であったのであり、「波状提訴」は近世の「訴訟」形態の一つの特徴を示すものといってもいい過ぎではなかった。既に紹介した『駕籠訴・駈込訴取扱帳』なる手引書が老中公用人により作成され、それが転写されて広く用いられた(18)のも、こうした駕籠訴・駈込訴の多発に起因するものと思われる。
 三 しからば、なぜ駕籠訴・駈込訴がかくも広範に展開されたのだろうか。なぜ、これほどまでに非合法の越訴が隆盛を極めたのだろうか。この点については、本論文の「はじめに」の部分で指摘したように、「非合法的『訴訟』が断行されるということは、合法的『訴訟』制度が人民の感情や要求を満たしていないことの現われである」ということができよう。非合法的「訴訟」が展開される背景には、合法的「訴訟」制度が多くの問題を孕んでいたという事実が存在していたのである。近世の「訴訟」制度が人々の感情や要求を満たし得なかったがゆえに、人々は非合法的「訴訟」に訴えざるを得なかったのである。
 それでは、近世の合法的「訴訟」制度には、具体的にどのような問題が存在したのであろうか。人々が非合法的「訴訟」に訴えざるを得なかった背景には何があったのだろうか。本節では、近世日本の「訴訟」制度の実態を明らかにするなかで、この点を解明しようと思う。以下、非合法的「訴訟」を誘発した背景的要因と思われる事項について、順次論ずることにする。
 (二) 訴訟抑圧
 (a) 序
 一 江戸幕府は、寛永一〇年(一六三三年)七月、代官所、給人方(旗本知行所)、寺社領の町人百姓の訴訟取扱手続を定め(19)、同年八月には二一カ条に及ぶ「公事裁許定(20)」を制定して、大名領を含めた包括的な公事訴訟取捌に関する基本方針を定めた。今、幕藩体制社会における支配組織の基軸ともいうべき幕府と藩、そして幕府の頂点に立つ将軍の麾下として、幕府の重要な諸役職を担った旗本、この三者の所領(幕府領、大名領、旗本領)における公事訴訟の取扱を見てみると、「公事裁許定」第九条、一〇条に次のように定められている。
 「一(九)御代官所給人方町人百姓目安之事、其所之奉行人、代官并給人等之捌可受之、若其捌非分有之は、於江戸可申之、奉行人、代官、給人等え不断訴申族は、雖有理、不可裁許事、
 一(一〇)国持之面々家中并町人百姓目安之事、其国主可為仕置次第事」
 第九条は、御料たる代官所や、私領たる給人支配地(旗本知行所)における農民、町人の公事訴訟の取扱を述べたものであり、代官所や給人支配地内での訴訟については、その地を支配する奉行人、代官、給人等の捌さばきを受けるべしと規定している。その捌に「非分」があるときは、江戸に出訴することを認めている。但し、その場合にも、その奉行人、代官、給人に断りをした上で出訴すべきであり、断りなき出訴は受理されないとしている。第一〇条は、私領たる大名領(21)における家中ならびに農民、町人の公事訴訟の取扱いを述べたものであり、当該大名の「仕置次第」とされている。領内の公事訴訟の解決を大名の裁判権、支配権にゆだねている。
 右「公事裁許定」の規定から、御料(代官所)、私領(大名領、旗本領)内の公事訴訟を、その地の支配人の裁判にゆだねていることが分かる。幕府は、御料、私領で発生した紛争は、その地の支配人のもとで裁判し解決させることにしたのであり、代官所、知行所、藩で起こった紛争は、代官所、知行所、藩内部で処理させるというのが、幕府の方針であったのである。こうした現地処理の方針を深谷克己氏は、「所」の「捌」と表現された(22)。
 二 いま、ある集団、組織内部で発生した紛争の処理を、その集団、組織外の上位権力者の手にゆだねるのではなく、その集団、組織内部で基本的に行なうことを、紛争の「内部処理」と呼ぶことにする。代官所、知行所、藩内の公事訴訟を、代官、旗本、大名等の裁判にゆだね、公事訴訟を、原則として代官所、知行所、藩という統治組織内部で処理・解決させることにした右「公事裁許定」の規定は、この「内部処理」を紛争処理の基本方針として唱ったものといえよう。深谷氏のいわれる「所」の「捌」とは、「内部処理」の原則にもとずく紛争解決にほかならなかった。
 周知のように、寛永一〇年代は、大御所秀忠の死(寛永九年)を契機に、三代将軍家光が、幕藩制国家の基礎確立に向けて次々と重要な政策を打出す時期であった。この時期に家光は、まず手始めに全国の公事裁許の基本方針を定め、全国の紛争処理に指針を与えたのである。これが上記「公事裁許定」であった。「内部処理の原則」は、この家光のときに確立された公事裁許の基本方針にほかならなかった。
 三 近世日本において、町村は、幕藩領主の様々な需要を充足する団体(ライトゥルギー的強制団体)として位置づけられていた(23)。紛争処理についてもそのことがあてはまった。幕藩領主は、紛争の解決という公権力の重要な任務の一端を町村にも担わせたのである。後述のように、幕藩領主は、町村内で発生した紛争を、まず町村役人らの手により解決せしめようとした。紛争の内部的処理の任務を町村にも負わせたのである。「内部処理の原則」は、代官所、知行所、藩という統治組織のみならず、統治の末端細胞としての町村にも適用された紛争処理の原則であった。
 四 「内部処理の原則」が、近世日本における民事紛争処理の一つの原則であるとするならば、従来、近世日本の民事裁判の原則と見なされてきたいわゆる「内済の原則」との関係が問題となろう。「内部処理の原則」とは、既述のように、ある集団、組織内部で発生した紛争の解決を、その集団、組織の外にある上位権力の手にゆだねるのではなく、その集団、組織内部で基本的に行なうことをいう。これに対し、「内済の原則」とは、紛争を、第三者の仲介・説諭と紛争当事者の互譲により解決することをいう。「内部処理の原則」は、紛争の「内部」的処理を強調する考え方であり、紛争処理の「方法」については特に問題としない。紛争を「裁判」で処理しても「内済」で処理してもかまわず、紛争が当該集団、組織の「内部」で処理できれば良いとする考え方でる。これに対し、「内済の原則」は、理論上は、紛争が当該集団、組織の内部で解決されるのかどうかは特に問題としない。「内済」は、紛争解決の「場」ではなく、紛争解決の「方法」を問題とする考え方であり、第三者の仲介による当事者の和解という「方法」による紛争の解決、これが「内済」にほかならなかった。
 五 このように、「内部処理の原則」と「内済の原則」とは原理的に異なる考え方である。しかし、近世日本においては、町村、代官所、知行所、藩のいずれのレベルにおいても、この二つの原則が紛争処理の重要な役割を果した。近世日本の紛争解決において、この二つの原則は密接に絡み合いながら、後述のように「訴訟抑圧」の役割を果すことになるのである。
 (b) 町村
 一 近世日本において、人々の「訴訟」は、御料(幕府領)においても私領(大名領、旗本領)においても、通常は、代官所、奉行所その他常設の役所で受理され審理された。他領他支配関連事件は、常設役所、当局の許可を得て幕府評定所で審理されることになっていた。
 このように、御料、私領ともに、人民の「訴訟」を受理し審理する体制は一応確立しており、「訴訟」受理機構、「訴訟」受理手続も次第に整備されていった。岡山藩主池田光政のように、早くから人民の「訴訟」提起に理解を示した藩主も現われていた(24)。
 二 しかしこのことは、幕藩領主が、人民の「訴訟」、とりわけ公事出入についての出訴を好んでいたということを意味しない。私人間の紛争たる公事出入は、原則として幕藩領主の手を煩わすべきではなく、当事者間で解決すべきものであった。幕藩領主への出訴はやむを得ずして行う嘆願であり、幕藩領主の公事訴訟への関与は恩恵的行為にすぎなかった(25)。それゆえ私人間の紛争は、まず名主・肝煎等の町村役人のレベルで解決・処理すべきものとされた。
 たとえば、紀州藩では、正徳四年(一七一四年)、「在町蔵入、給所共に一郷限に村老各十人充申付」け、何儀によらず一村の出入はこの「十人の者共」がその次第を聞届け、相談のうえ内済あつかいにすべく、内済不能の場合は代官所へ申出るべきものとされた(26)。加賀藩では、寛文一〇年(一六七〇年)に、すべての町人訴訟は町肝煎の段階で解決すべきこと、そこで解決できなかった場合に、町年寄、町奉行等に出訴すべきことが定められた(27)。黒羽藩では、天明八年(一七八八年)の「覚え」で、「百姓訴論願えの儀、成るべく程(種カ)々名主、頭立ち候者、其の外古来の訳け存じ候者寄り合い、裨益偏頗無く明白に申して聞かせ、それにても不承知に候は、願い取り、差し出すべく候」と定め、まず、名主・古老らの説諭により紛争解決をはかるべしと指示している(28)。江戸においても、寛文六年(一六六六年)一〇月の町触で、「壱町之出入有之ハ、名主、五人組双方え異見いたし、可相済候」と、名主五人組による紛争処理が触出されている(29)。領民の「訴訟」提起に理解を示したといわれる岡山藩主池田光政も、承応三年(一六五四年)一一月に、「公事之儀、下ニて相済義は済之、又あっかいにて済義は済之、両様にて不済事有之は、此地へ罷越可致相談事」と定め、紛争の下済・内済による解決を指示している(30)。これらはほんの一例にすぎず、服藤弘司の指摘されるように、「幕藩領主の発した法に、争訟発生の場合、まず第一に内済による解決を図らせ、それが不可能な際、はじめて奉行所(代官所)へ出訴を命じたものは枚挙に遑がない(31)」。
 目を個別町村に転ずると、たとえば、宝永三年(一七〇六年)武州橘樹郡下小田中村の「五人組改帳」には、「一、郷中出入有之者、名主五人組致詮議、内證に而可相済義者取扱可済之、不相済義に而訴訟申候はゞ、名主差添可罷出事(32)」とある。寛延二年(一七四九年)上野国群馬郡板井村の「御法度御條目帳」にも、「一、公事訴訟有之節、村役人共遂評儀、利害随分申聞せ、内々ニ而事済候様可致候、・・・若内済難成儀ニ候ハヽ、訴訟人之心次第ニ可差出事(33)」とある。また、宝暦四年(一七五四年)大坂御池通五丁目「町内格式申合帳」にも、「一、公事出入ニ可成義有之節、年寄五人組家主立会、とくと其訳相糺、下済仕候様取斗可申候(34)」とある。
 三 このように、近世日本においては、紛争が発生した場合、町村役人が介入・説諭し、和解させることを原則としたのである。しかも、同一町村内部の紛争のみならず、他町村、他領他支配の町村との紛争についても、同様に、町村役人が介入・説諭し、和解をはかるべきものとされていたのである。このことは、寛文六年(一六六六年)一〇月の江戸町触に、「他町之者と出入有之は、双方名主五人組寄合、以相談可相済候(35)」とあり、文化三年(一八〇六年)信州筑摩郡二子村「五人組帳前書」にも、「他領と田畑野山川堤并水論其外公事出入候者、名主組頭立会、心之及程念を入、内詮議仕、和談いたし候様可仕候(36)」とあることからも知られよう。また、寛保三年(一七四三年)野州安蘇郡赤見村「五人組帳」にも、「一、他所の者と出入の儀出来候はゞ、双方承合せ、内々にて相済候様に可仕、若相済まざる儀にて他所に訴訟申儀候はゞ、得下知可申事(37)」とある。他領他支配との関連事件についても、町村役人は「下済」による解決をはかろうとしたのである(38)。
 小早川欣吾氏の指摘されるように、近世日本においては、「町村役人は、事件が同一支配管轄内なる時は直に当事者間に介入して事件を内済せしむ可く努力し、管轄を異にする場合は、被告の町村役人に引合書と共に訴の趣旨を通告して相互交渉に依り事件を内済せしむ可く努力(39)」したのである。紛争の相手が同一町村内の者であれ他領他支配の町村の者であれ、自己の町村内の者がかかわる紛争を「下済」「内済」するよう、町村役人は努めたのである。町村役人が、こうして、自己の町村「内部」の者のかかわる紛争を、上位権力の処理にゆだねるのではなく、自からの努力で処理することは、紛争の「内部処理」にほかならなかった。実際、多くの訴訟が町村役人の段階で処理されたのであり、長岡藩では、訴訟は、町方は検断、村方は割元の審問にて十中八、九は事済みになったといわれる(40)。福沢諭吉も、『国会の前途』において、徳川時代の村役人等が「人民の訴訟事件」を「大抵は説諭勧解して、本訴に至らしめず」と指摘している(41)。
 以上から、近世日本においては、農民、町人の紛争は、「内部処理の原則」に従って、まず第一次的には町村役人らの手により解決されることになっていたことが知られよう。そしてその解決の「方法」が、町村役人らの仲介・説諭にもとずく当事者の互譲・和解であったことからするならば、それは同時に、「内済の原則」にもとずく紛争解決でもあったのである。町村役人による「下済」や「内證」の処理等、紛争を「内々ニ而相済」す行為が「内済」とも呼ばれていた(42)のはこのゆえである。
 四 町村役人の手による「内部処理」が困難な場合、人々は紛争の解決を求めて代官所や奉行所等の裁判役所に出訴することになる。周知のように、裁判役所への出訴には、町村役人の承認が必要とされ(43)た(44)。いま、これを「町村役人承認制」と呼ぶことにする。町村役人の仲介・説諭による和解が不調に終わり、裁判役所での審理を求める訴訟人は、町村役人の奥印等を得て始めて、裁判役所に出訴することができたのである。このことは、相争う当事者間の紛争の裁定を求める裁判的「訴訟」についてのみならず、行政当局に給付、救済、許可等を求める訴願的「訴訟」についても同様に言えることである。行政当局への各種の訴願も町村役人の了解を得て関係役所に提出されることになっていた(45)。行政と司法の分離がなされていない近世日本においては、裁判上の訴訟提起と行政上の訴願との区別がなく、いずれも「訴」、「訴訟」とよばれ、裁判所でもあり行政庁でもある奉行所、代官所等にその訴状が提出されたのである。
 出訴にさいしての「町村役人承認制」は、本来的には、その所の住人であることを認証するものであったと思われるが(46)、町村役人が、既述のように、紛争の内部処理をその任務の一つとするにおよび、この「町村役人承任制」は、実際には、町村役人のレベルで問題が解決されない場合に始めて、代官所、奉行所等の関係役所へ問題の処理を正式に依頼する(出訴する)こと認める制度として機能する。
 五 かくして、この「町村役人承認制」が、「内部処理の原則」が支配した近世日本の社会において、人々の「訴訟」提起を抑圧する機能を有していたであろうことは容易に想像がつこう。滋賀秀三氏も指摘されるように、「同じ名主支配下の人間が紛争を裁判所に持ち込もうとしても、名主は当然、容易なことでは奥印を与えず、役柄の威信を背景として強力な教諭的調停を行った(47)」のである。紛争の「下済」の労をとる義務を負わされていた名主ら町村役人は、一町村内部の問題であれ他領他支配との関連事件であれ、極力「下済」による解決をはかろうとした。従って、人民の提出する訴状に、安易に奥印を与えるということは決してしなかった。
 実際、滋賀氏の指摘されるように、町村役人が奥印(奥書)を与えず、人民の「訴訟」を関係役所に取次がないという事態がしばしば発生した。たとえば、貞享二年(一六八五年)頃の作といわれている『豊年税書』に、
 「一第一公事訴訟を疎にとふべからず也、小百姓杯の公事訴訟願事有といふとも、身の多少なるをもって、遠慮いたし不申出ものもあるべし、か様のものはたとひ、名主等迄訴ても名主、庄屋むづかしがり、或はその相手を贔負して、奉行代官にも披露いたさず、中にておしかすめ置ものもあり、然る上は此小百姓は、思ふ事不達して、胸を焦すは不便なる事也(48)」
とあり、名主・庄屋のなかには、農民の公事訴訟、諸願を奉行・代官に取次がず、押え置く者もあったことが指摘されている。宝暦九年(一七五九年)七月付「村限総代之もの御請申上候一札之事」に添付された代官所宛請書の見本ともいうべき「一村限御請申上候一札之事」にも、
 「一公事訴訟のもの有之時、御手代御役人中へ其村名主庄屋押置候様被及御聞候、無筋之公論〔ハ〕異見をも可申聞候得共、是等の儀も無之、一切差押候儀小百姓共及難儀候、又は御仕置不行届之所も有之候、自今名主庄屋之類、私の計として於差押置者、御代官様へ可申上事(49)」
とあり、名主、庄屋等による公事訴訟の抑圧があること、そのことが小百姓の難儀、「御仕置不行届」をもたらすこと、従って、今後、名主・庄屋等による訴訟抑圧があったなら、代官へ申上げるべきことが述べられている。文化一二年(一八一五年)一〇月の、長崎代官高木作右衛門より大庄屋・庄屋・年寄・惣百姓宛一三カ条申渡にも、
 「一小前百姓共公事出入又者公論之儀、何事ニよらす夫々相糺茂不致、威光を以押附置候躰之儀相聞、右者以之外之取斗ニ而、何事ニよらす夫々相糺、難決候者、書附相認奥書いたし、御役所へ可差出候(50)」
とあり、ここでも村役人が小前百姓の公事訴訟を「押附置」という事態の存在が指摘されている。長崎代官は、かかる訴訟抑圧行為を「以之外之取斗」と厳しく非難し、解決し難い公事訴訟については奥書をして代官役所に差出すよう命じている。
 訴願的「訴訟」についても事態は同様であり、正徳元年(一七一一年)一〇月の越後国村上領八組之小庄屋十六人宛「申渡之覚」に、
 「一先年風損に付て、百姓共訴訟の事有之候時、大庄屋共領主の役人へ茂申通せす候事相聞え候、惣して庄屋等の役はつねづね何事によらす、領主の下知を相守り、其下の百姓共のためをも相はかるへき事にて候、然れは、よのつねと相はかり、水旱風雨の大損亡に至りては、百姓共の歎き申す所を以て、領主の役人に相通し、其沙汰に任すへき事に候処に、一切に百姓の訴訟を取次き申さゝる事、是又不当の事に候、自今以後、これらの子細諸事に付て、その取はからひあるへき事(51)」
とある。ここでも、「庄屋等の役」の者が百姓の「訴訟」を取次がないという事態の存在が指摘されている。藩当局は、こうした「訴訟」抑圧行為を「不当の事」として非難し、改善を命じている(52)。
 「町村役人承認制」とは、町村役人の奥印等を得ることにより裁判役所への出訴の道を保障することを意味したが、それは裏を返せば、町村役人の奥印等がない限り、原理的には、紛争は「内済」により解決しなければならないということを意味した。ここに「町村役人承認制」の「訴訟」抑圧的性格がある。
 六 紛争を「内部」的に処理するという、近世日本の町村における紛争処理は、「町村役人承認制」と結びついて人々の「訴訟」を抑圧する傾向を有し、ひいては駕籠訴・駈込訴等の越訴をひき起こす一因ともなった。そのことを端的に示すのが左の事件である。『御仕置例類集』新類集、八之帳、巧事取拵之部所収文化七年「元飯田町源次郎初筆押借いたし候一件」判決文(53)によれば、濃州前野村の粂七は、村内幸八宅において、安蔵ら四人と博奕を行ない、負けて三貫文の借りを作るが、その負債の清算をめぐって争いになり、安蔵に指を噛まれ、かつ、右三貫文の支払の代わりに衣類道具類を預入れるはめになった。粂七はこのことを残念に思い、支配役所へ出訴せんとして村役人へ申出たが、村役人から奥印を拒否されたため、通り一ぺんの申立てでは支配役所に訴訟を受理してもらえないと思い、博奕に加わるよう安蔵に長脇差で脅され、かつ、博奕の借金のかたに衣類道具類を奪い取られたと訴状に認め、支配役所に駈込訴した。この事件では、安蔵らの仕打ちを「残念」に思った粂七が訴訟を提起せんとしたが、村役人が奥印を拒否したため、支配役所へ駈込訴を断行したのである。村役人は、下済、内済による処理を企図したのであろう。「内部」処理、「町村役人承認制」のもとで、町村役人の奥印を得るのが困難であったことが、こうした越訴を発生させる一因となったのである(54)。
 とりわけ名主を訴えんとする「訴訟」においては、町村役人の奥印を得ることがむずかしく(55)、いきおい、人々は奥印なしの非合法的「訴訟」(越訴)に頼らざるを得なかった。年貢その他の事項に関し名主の不正を訴える駕籠訴・駈込訴が行われた背景には、このような事情が存したのである。
 七 しからば、なぜ、近世日本の民事紛争の処理において、「内済」にもとづく「内部処理」と、「町村役人承認制」という方針がとられていたのだろうか。なぜ、関係役所への人民の出訴を抑圧しかねないこのような方針を、幕藩領主は採用したのだろうか。
 この点については、服藤弘司氏の見解が有益な示唆を与えてくれる。氏は、近世日本の民事「訴訟」において「内済の原則」が支配した理由として、次の五点を掲げられた。(1)村落共同体意識の影響、(2)争いごとを蔑視する思想の存在、(3)内済による解決の有効性、(4)訴訟費用負担による当事者の困窮ならびに村方衰微、(5)村役人の権威の確立(56)。
 以上五点のうちの第一点目は、近世農村社会を色濃く蔽った村落共同体意識の影響を意味し、相互協力、相互扶助を必要とする村落において、対立・紛争を忌避し当事者双方の互譲により紛争解決を求める意識が強かったということである。第二点目は、民事紛争は当事者双方の私利私欲の追求とそれへの拘泥から生ずるものであり、お上の手を煩わすべきものではなく、当事者間で解決すべきものであるという観念が存在したということである。第三点目は、裁判役所の判決による権力的な解決よりは、当事者の熟談納得による解決の方が実効性確保のうえではるかに優れていたということである。第四点目は、裁判のために原告被告双方が奉行所に出頭せねばならず、耕作の妨げになるのみならず、旅費滞在費等、莫大な出費が崇んだということである。第五点目は、村役人の権威確立、村役人主導による村落自治制の確立維持という、幕藩領主の理想的地方支配の実現のためには、百姓間の争訟を村役人の手により解決させるのが望ましいとされたということである。
 これらの点は、いずれも近世日本における「内済の原則」採用の理由を説明する重要なポイントであり、氏の指摘は極めて説得力に富む。氏の叙述は、なぜ、近世日本の民事紛争の処理において、「内済」にもとずく「内部処理」と「町村役人承認制」という方針がとられていたのだろうかという、先の問いに対する回答としても十分な有効性を持つものといえよう。紛争の「内部処理」が、町村レベルにおいては「内済」と同義であったこと、そしてその貫徹と「町村役人承認制」が密接なかかわりがあったことからするならば、「内済の原則」の存在理由を明らかにすることは同時に、右の問いにも答えることにつながるからである。
 八 しかし、右の問いに対する回答は上記の五点に尽きるわけではなかった。「内済」による紛争の「内部処理」、「町村役人承認制」が採用された理由としては、上記五点に加えて、裁判役所の事務軽減、裁判役所の権威保持ということもあわせて挙げられるべきであろう。
 いま仮に、「内済」による紛争の「内部処理」、「町村役人承認制」という方針が存在しないと仮定すると、幕藩領主の裁判役所には大量の「訴訟」が持ち込まれる可能性が極めて大きいことはいうまでもない。しかも、民事訴訟、刑事訴訟、行政訴訟、訴願、許可申請等の境界が必ずしも明確ではなかった当時の「訴訟」制度のもとにおいては、これら各種の雑多な「訴訟」が裁判役所に持ち込まれることになる。こうなると裁判役所は膨大な数の「訴訟」に翻弄され、煩瑣な問題の処理に追われて、裁判役所としての、そして同時に行政庁としての役割を十分に果せなくなることは容易に想像がつこう(57)。そのことは当然、公権力としての権威を低下させることにもつながる。とりわけ、自己の処理能力を越えた錯綜した「訴訟」をかかえ込み、結果的に、関係者を納得させることができないような判決申渡をしてしまうことは、裁判役所の権威を大きく失遂させることになろう(58)。こうした危惧から、幕藩領主は、内済による「内部処理」と「町村役人承認制」にもとずき、町村役人のレベルで処理するにふさわしい事項については、その解決を町村役人の手にゆだねたのである。そのことにより幕藩領主は、一方では、「法廷の手数を省(59)」き、裁判役所の事務軽減をはかるとともに、他方では、裁判役所にお上かみとしての権威ある役割を果せしめ、その威厳を保たせようとしたのである(60)。
 人民の「訴訟」提起にさいし、町村役人が極力話合いによる解決、すなわち「下済」の労をとる義務を負わされ、その労をとらずに人民の「訴訟」をそのまま裁判役所へ取次ぐような名主が、「勤め方不親切、疎略」であると非難された(61)のは、こうした理由にもとずく。名主の承任を得ずに訴状を提出することが、「御上かみを軽かろんじ、不埒之儀」と厳しく非難された(62)のも、そしてまた、名主が人民の裁判役所への出訴について監督を怠り、不当な出訴を許してしまったことが、「不埒之所業」として非難された(63)のも、同じ理由にもとずく。名主は、「軽かるき儀を不訴出様に」と兼々、当局より命じられていた(64)のであり、これといった程のことでもない公事は、肝煎等が相談し、「意見仕り、押置くべし」とされた(65)のである。名主肝煎等の町村役人は、人民の提起する各種の「訴訟」について、裁判役所に持込むのにふさわしいものであるかどうかをチェックする役目を負わされていたといっても過言ではない。
 九 こうした近世日本における「訴訟」取扱が、既述のように、「訴訟」抑圧的性格を有したために、人々は、かかる取扱を回避しようとして、あるいは、かかる取扱に満足できず、駕籠訴・駈込訴という非合法的「訴訟」に訴えることになったのである。名主の奥印なき訴状をたずさえて駕籠訴・駈込訴を行った事例がしばしば見られた背景には、このような事情が存したのである。
 (c) 代官所
 一 上述のように、町村での紛争は、極力町村役人らの手により解決されるべきものとされた。「下済」「内證ニ而済」「内済」とは、そのことを示す語にほかならなかった。そして、こうした内済にもとずく紛争の内部的処理が不調に終わったときに、人々は、代官所や奉行所に「訴訟」を提起するのである。
 二 しかし、民事紛争については、「幕藩領主の公権力による解決、つまり奉行所の裁判による解決は極力差控え(66)」るというのが、幕藩領主の基本的立場であった。従って、裁判役所の役人も、提起された「訴訟」が極力本案審理に付されぬことを望んだのである。幕府裁判役所の手引書ともいうべき『目安糺要書』の第二一条「訴状糺心得之事」に、「一、出訴差留候筋ニ者無之、尤、致味吟候趣ニもなく、利害申聞、自然与出訴止候得者一段之事(67)」とあるのは、そのことを端的に物語っている。訴訟人を説諭して(「利害申聞」)、出訴を止めさせるように仕向けることを良策としているのである。この手引書の説くところが、民事訴訟に対する幕府の基本姿勢を示すものであった(68)。そして、江戸の裁判役所のみならず、地方の裁判役所ともいうべき代官所においても、この基本姿勢は堅持されていた。代官所では、提起された「訴訟」が、即座に受理され代官による本案審理に付されたのではなく、その多くは代官所役人の説諭により和解をすすめられたのである。
 いま、旧幕府の地方支配役人の書といわれる『徳川幕府県治要略』により、代官所での民事紛争の処理手続を簡単に述べると、次の如くである(69)。人民相互の間に紛争が発生し、代官所の裁判を受けようとする場合、代官所役人は、ただちに本訴の手続をすることもあるが、多くは「利解願」を提出させ、双方の理非を糺し、「和熱」することを説諭する。説諭による「和熱」が整わず和解の試みが不調に終わった場合は、改めて「出入」と称する本訴の手続に移り、訴状(「目安訴状」)を提出させる。目安訴状が提出されると代官は、対審の日時を定め訴状に裏書をする。対審日には口頭弁論がなされ、手附手代による「審査」が開始される。「審査」が終了すると双方より「口書」をとり、監督官たる勘定奉行に判決についての伺を行う。そして勘定奉行の指示を得て、代官所において判決申渡を行なう(70)。
 以上が代官所における民事裁判の手続であった。本訴のための訴状提出前に、訴訟人は、代官所役人より説諭され、「和熱」することをすすめられている。「内済」の勧奨である。『地方落穂集』にあるように、「都て公事出入等、扱之上双方和談致し内済候事、至極宜敷也(71)」というのが地方役人の基本的見地であったのである。既述した幕府裁判役所の手引書(『目安糺要書』)の記述と同様、代官所においても役人は、訴訟人を説諭し、極力人民の「訴訟」を正規に受理し審理することにならぬよう腐心したのである。このことは、ひとり裁判的「訴訟」についてのみならず、訴願的「訴訟」についても、全く同様のことがいえた。そしてそのことが、しばしば「訴訟」抑圧的結果をもたらした。手代ら代官所役人により「訴訟」が「差押へ置」かれ、訴えが取上げられないことが少なくなかったことが、そのことを端的に物語っている。たとえば、正徳三年(一七一三年)四月の「御代官支配所取計方勤方等ニ付御書付」に、「一、御料所大小之百姓訴訟の事有之時、或ハ御代官所之手代役人、或ハ其村々名主庄屋等、其事之理非をも撰はす一切差押へ置、御代官ニ申達せす、・・・(72)」とある。
 三 公事出入が表だった「訴訟」になることを避けるため、内済を専ら追求することの問題性については、諸書の指摘するところである。寛政元年(一七八九年)九月の三奉行への申渡(73)においても、内済により「事立たざるを専ら」とする役人の姿勢が厳しく批判されており、訴訟抑圧的な内済が広く行なわれていたことがうかがわれる。いわゆる寛政の三博士の一人柴野栗山は、こうした内済の問題性を極めてリアルに描き出している。『栗山上書』に次のようにある。「一昨年、備中の者が近所の者へ金を貸した。段々返済を求めるが相手は返さず、そのうえ様々な『悪口』を申すので、貸主は立腹し江戸の奉行所に出訴した。貸主は奉行の『御理判』(裏判)をもらい、帰国して奉行裏判のある訴状を相手に渡すが、相手は『豪悪の者』で、『御理判』に背いて返金せぬゆえ、貸主は、再度出府して奉行の『差紙』(出頭命令書)をもらい、帰国して相手方に渡した。しかし、相手方が役所に出頭せぬため、貸主は、またまた江戸へ登って、奉行より『追差紙』をもらい相手方に渡すが、相手方は又々出頭しなかった。貸主はまたぞろ江戸へ登り、奉行所へ右の事情を申述べたところ、奉行所で『あつかい』(内済)にせよと申渡された。貸主は、『備中より江戸へ二百里あまりのところ、四度まで往復し、その費用は二百両もかかり身上をつぶしてしまった。そのうえ、内済せよというのは、余りにも情なき御さばきだ』と言って、鬱憤のあまり涙を流したという」、と。栗山は、このような「理非の立不申」事態を厳しく批判して次のように述べている。「日本国中の万民は、天道より将軍家へお預けなされているものである。その天道より預った人民の中に、理をまげられたため御上かみを『情ない』と思う者がいては、天道の御心に叶はぬことだ」。「理を曲げられ、鬱憤に思うのは、百万石の加賀守も、田地を一反も持たぬ土民も同じことだ」、と(74)。
 『世事見聞録』の著者武陽隠士も、内済に対する同種の問題指摘をしている。すなわち、遠国の者が、幕府の奉行所の裁判を、「道理の真直に一筋なる事」と期待して出府し、訴訟を提起するが、そこで見られるのは損得勘定にもとずく「理解」(説諭)ばかりで、何ら「仁心の体」も見られず、結局内済となり、国元で、自分たちの手で相対で済ませたも同然の結果となって帰国した。これでは家を捨て命をかけて出府してきた意味も無く、「大公儀も当にならぬもの」と、お上かみを恨むことになる、と(75)。『勧農或問』の著者藤田幽谷も、「内證の和談にてのみすむべきならば、元来訟獄と云もなき筈、官吏も無用也」と、内済偏重主義を痛烈に批判し、「有司にて裁判せず、人をたのんで和談を取行ふこと、如何なる思慮にや有らん」と、裁判回避的行為に強い疑問を呈している(76)。「訴は何程多くなる共、何の憚る事かあらん、一々審に推問して曲直を断ずるまで也」と喝破したのは、『平理策』の著者丹羽勗であった。彼は、当時見られた、「訴訟は先、大方取上げぬぞよかるべきといへり」とする見解を、「大なる謬論」と批判し、村民の訴えを聴くことを、「第一緊要の事也」と力説している。そして、「訴訟」抑圧的内済が「遍く行はるゝ」ことを、「忠恕の心薄き故也」と断じている(77)。
 中田薫氏の指摘されるように、幕府裁判役所の役人は、原告被告双方を叱責しつつ、執拗に内済を追求した(78)。「和解の方法を尽して下では解決できないから出訴に及んだものを、繰返し叱りつけて追返す」という「不当なる内済強要(79)」をすることは、「訴訟」抑圧以外の何ものでもないであろう。
 四 こうした差押・押置、内済強要による「訴訟」抑圧的行為が、人々の不満をかきたて、しばしば越訴をひき起こしたのである。たとえば、慶安五年(承応元年、一六五二年)正月「御代官衆心得之条々」は、名主と小百姓の紛争にさいし、手代らが名主の片をもち、小百姓の訴を取上げず、そのため小百姓たちが止むなく江戸へ出訴する、という事態のあることを指摘している(80)。また、天保七年(一八三六年)、信濃伊那郡幕領法全寺村惣代四名が、名主重郎左衛門を相手どり、年貢勘定滞り等の不正を代官役所に訴え出た事件では、代官所役人より強引に内済をすすめられるなか、村方一同より、右の訴えに加えて、重郎左衛門の悴熊吉を名主にすることには同意できない旨、代官所へ訴え出たところ、代官所役人は、「役儀等のことで村方から彼是いうのは筋違いである。訴えは決して取上げない」、「前々の願も、早々熟談するとも願下にするとも、早くしろ」と強圧的態度をあからさまにした。村方は、こうした代官所役人の、訴訟差押え・内済強要・訴訟取下強要的姿勢になすすべもなく、やむなく翌八年、江戸の勘定奉行に駕籠訴を行った(81)。天保八年(一八三七年)十一月の甲斐八代郡幕領岩間村等東河内領三十六カ村による勘定奉行への駕籠訴も、権威を笠に着た手代の強圧的姿勢のため、とうていその手代の居る代官役所に、救済を求めて「訴訟」できるような雰囲気ではなかったことから、起こったものであった(82)。訴状受理前における訴訟抑圧的行為・態度が、ときとして越訴を生み出す要因にもなったのである。
 五 代官所で目安に裏書が与えられ、「訴訟」が正式に受理されると、所定の日に代官所で審理が開始されることになる。問題はそこでの審理状況であり、人々の提起した「訴訟」が期待通りの形で審理されるという保障は必ずしもなかった。上記した内済の強要は、訴訟受理後にも見られた現象であった。後述のように、公事訴訟や諸願につき、代官所で十分な審理が行われず、あるいは納得のいく取扱がなされぬ場合もしばしば見られた。そのような場合、人々は監督官庁たる江戸の勘定奉行所の審理を求めた。勘定奉行所への訴状提出にさいしては、代官所の添簡が必要であり、これなくしては「差越願」として訴状を受理されなかった。上級官庁たる勘定奉行所への出訴には、下級官庁たる代官所の承認文書(添簡)が必要だったのであり、『公事方御定書』下巻、第三条にあるように、「一、御料所百姓出入ハ、其支配人より添状無之候ハヽ、取上申間敷候(83)」というのが幕府の方針であったのである。代官所への出訴にさいし、町村役人の承認(奥印等)が必要であったのと同様、勘定奉行所への出訴には、代官の承認(添簡)が必要であった。そして、「町村役人承認制」が「訴訟」抑圧的機能を果したのと同様、この「代官承認制」もまた、「訴訟」抑圧的機能を果した。
 既に述べたように、寛永一〇年(一六三三年)の「公事裁許定」は、代官所内の公事訴訟について「内部処理の原則」を打出していた。代官所内の紛争は極力、代官所内で処理させようとしたのである。代官所の添簡なき限り勘定奉行所への出訴を認めぬとする「代官承認制」は、こうした「内部処理の原則」と密接な関連を有する制度であった。
 六 しからば、幕府が、代官所についてこうした「内部処理の原則」による紛争解決を強く求めたのは、どのような理由によるのだろうか。なぜ、代官所内部の紛争を極力代官所内部で処理させようとしたのだろうか。この点については、差当り、(1)江戸出訴の費用・時間の浪費防止、(2)代官所管内の紛争を内済で処理することの有効性、(3)勘定奉行所の事務増加の防止、(4)代官の権威確立等の理由が考えられる。前三者については特段の説明を要しないと思われるので、ここでは、(4)代官の権威確立の問題について若干述べる。
 もともと、代官所の支配は、極めて限られた数の役人たちによる支配であり、『徳川幕府県治要略』によれば、「五万石を管する代官に属する手附手代は、任地及江戸役所を併せ、総員僅々十三、四名より十七、八名に過ぎず(84)」といった状況であった。ここから江戸詰の人数を差引いた残りの人数で、五万石の代官所領を日常的に支配するのである。軍事、警察、民生、徴税その他、いずれの観点から見ても脆弱な支配体制であった(85)。それだけに、一方では、村役人主導の村方自治を確立しそれを有効に活用するとともに、他方では、この村方自治に依拠しつつ少人数により安定した支配を維持するため、代官(代官役所)の権威を確立・強調しておく必要があったのである。
 七 周知のように、代官所は、幕府の地方支配の拠点であり、代官は、支配地を治め年貢を収納する地方官であった。代官は、年貢収納をはじめ、勧農、普請、恤救、戸口、宗旨、治安、裁判等、民政の万般を司どったのであり、支配地の民政をつつがなく行い年貢収納を円滑に行うことが彼の任務にほかならなかった。幕府の財政基盤が御料にあり、そこからの「御収納」を以て、「御政事向、御仕置向、其外御手当、万事御入用も被弁(86)」ていたことを考えると、幕府支配の存立にとって御料のもつ意味は極めて大きく、御料の安定した支配を確立・維持することは、幕府にとって決定的ともいえるほど重要な課題であった。そえゆれ、御料の統治を司る代官の果す役割も重大であり、「御代官は大切の御役」とくり返し強調されたのである。地方支配においてこうした重要な役割を果す代官の権威を確立・強化し、代官所支配の安定をはかること、このことは、幕府為政者の脳裏を片ときも離れたことのない、幕府施政上の重要な柱の一つであったといってもいい過ぎではないであろう。
 「内部処理の原則」の強調は、こうした代官の権威確立・維持の問題と密接なかかわりを有していた。代官の添簡を携帯せぬ駆込訴を仮に勘定奉行が受理するとするならば、「百姓共も、自然と其支配の御代官を不恐、諸事軽々敷相心得」ることになるので、かかる駈込訴は受理せず、訴訟人は代官所へ引渡すべきであると命じた明和二年(一七六五年)三月の勘定奉行宛法令(87)は、紛争の「内部処理」にもとずく代官の権威保持をねらったものである。代官所で口書印形を拒んだ訴訟当事者に対し奉行所で「御咎」を申付けるのはよいが、安易に、その事件の審理にまで奉行所が踏込むことになってしまっては、訴訟当事者が「支配(代官ー大平註)を軽かろんし、取締ニ拘(も脱)」るので、口書印形の件を承伏したならば、訴訟当事者は代官へ引渡すべきであるとされた(88)のも、同様に、「内部処理」による代官の権威保持を意図したものであった。寛政四年(一七九二年)の評議にも、
 「・・・御代官一支配の儀者、唯今迄も御代官の吟味を拒候もの有之候へ共、最初より之吟味次第巨細に書記、一件口書其外證拠書物迄も相添、御勘定奉行え申聞候間、不審之儀も御座候ハヽ、再応も御代官え相尋、若不行届儀も御座候得者、吟味之致方得と差図仕、可、成、丈、御、代、官、之、吟、味、屈、伏、為、致、候、様、申、達、、容、易、に、奉、行、所、え、者、為、差、出、不、申、、其上にも実々我意申張候類は、其もの計呼出し厳敷申聞、御代官之吟味可受段申渡、證文申付、御代官へ引渡遣候儀に御座候間、以来共右之通、御勘定奉行相心得罷在候様、可仕哉に奉存候(89)」
とあり、代官の審理を拒む訴訟人に対しては、代官の審理に服すように申渡し、奉行所へは容易に「差出」をさせぬようにすべきことが述べられている。ここでも「内部処理の原則」による、紛争の処理が力説されており、訴訟人を極力「代官之吟味」に「屈伏」させることにより代官の権威を保持させようとしている。
 八 こうして幕府は、「内部処理の原則」にもとずき、代官の支配地内の紛争については、極力、代官の手で処理させようとした。代官の手に負えぬと判断した事件については、訴訟人に江戸の勘定奉行所に出訴することを認めた。しかし、代官は、容易にこうした「差出(90)」を認める措置をとらなかった。管轄地域内での紛争の処理は、本来、代官(代官所)が行うべきものであり、安易に奉行所の審理にゆだねるべきではなかったからである。他領他支配との関連事件であっても、まずは「利害申聞」(説諭)により解決すべきものとされた(91)。「御奉行所へ願出候とは大造成事」であり、下で済ませられるものは相手方との「内済」により処理するのが良いとされたのである(92)。
 こうした紛争の「内部処理」が強調された理由については、既に四点ほど指摘したが、とりわけ第四点目の代官の権威保持との関係でいえば、安易に奉行所への「差出」を認めては、人民が代官を軽んずることになり、代官(代官役所)の権威が失墜して人民統治に支障をきたすことになるからである。と同時に、本来、内部で処理すべき問題を代官所内で処理できないということは、代官(代官役所)の審理能力、処理能力、ひいては支配能力の無さを曝け出すことにもなりかねないので、代官は容易に「差出」の手続を行わなかった。享保六年(一七二一年)六月の書付に見られる、「一、御料所之百姓、其所之支配人江願候時、何、之、訳、も、不、申、聞、、久、敷、押、置、候、歟、或ハ裁許之次第請かたく、再往願候而も取上無之節ハ、不得已、奉行所江訴出候事(93)」という文言は、問題を、極力内部で処理しようと腐心している代官、代官所役人の姿をうかがわせる。
 九 しかし、こうした代官、代官所役人の姿勢は、ときとして人民の願望と大きく対立した。人民は、問題の早期解決、しかも納得のいく解決を求めていたのであり、代官所でこの願望が満たされないとするならば、右享保六年書付中に見られるように、「奉行所江訴出候」ということになるのである。奉行所への出訴に保守的な姿勢をとる代官、代官所役人に反発し、代官の添簡なしに駕籠訴・駈込訴が断行された一つの要因がここにあった。左の法令は、代官所等でのこうした保守的姿勢に警告を発したものであり、人民から提起された「訴訟」を滞らせ、奉行所への出訴を押えるような「訴訟」抑圧的取扱いにより、駕籠訴・駈込訴等の「越訴」をひき起こした場合は、「急度相糺」すと厳しく申渡している。
 「総而下より訴出候儀、奉行所江早速不相達、下役所或者其所支配人方ニ滞らせ候儀も有之由ニ候條、随分心を付可申候、若押置候故、越訴なと致候もの有之節者、其筋之役人、急度相糺可申事(94)」
 現実に、代官の添簡なしに江戸の上級官庁に駕籠訴・駈込訴した事例は、枚挙にいとまがないほど数多く見られる。寛政五年(一七九三年)七月の代官宛「申渡」にも、「毎度御箱訴、駕、籠、訴、致、候、類、不、少(95)」とある。代官所の「内部処理の原則」にもとずく紛争処理が、「訴訟」抑圧的機能を有し、それが駕籠訴・駈込訴等の非合法的「訴訟」を生み出す一つの要因になっていたのである。
 (c) 大名領、旗本領
 一 所領内に対する広範囲な自分仕置権(支配権)を認められ、強力な軍事力と整備された領民支配機構を有していた大名領(藩)では、代官所以上に、所領内の問題を独自に処理する能力を有しており、藩当局も諸問題の処理を強力に追求した。とりわけ、外様の大藩は、国持大名としての自尊心も強く、強力な自分仕置権を存分に行使した。民事紛争についても、既述のように、寛永一〇年八月の「公事裁許定」により、「其国主可為仕置次第事」とされていた。大名領においては、代官所以上に強力な「内部処理の原則」が貫徹していたのである。大名領の人民が幕府に出訴することが認められたのは、たとえば、他領他支配関連事件のような、この原則の適用範囲を越えると思われる諸問題について、幕府の裁定を求める必要性を藩当局が認めた場合に限られた。幕府への出訴にさいし藩当局の了解(添簡、添使)が必要とされたことは、代官所の場合と同様であった。
 二 ところで、こうした「内部処理の原則」は、藩内の問題を藩当局が独自に、しかも適切な形で処理できるという前提がある場合に始めて機能するものであり、問題の「内部処理」が著しく困難になった場合、人民は、その解決・救済を、藩の上位権力たる幕府に求めざるを得なくなる。藩当局は、当然、「内部処理の原則」にこだわり、領内人民の幕府への出訴を厳しく抑制した。しかし、矛盾が極限に達したとき、藩の抑止力は作用しなくなる。非合法の駕籠訴、駈込訴が行われるのである。我々はその一つの典型例を、万石騒動に見ることができる。
 正徳元年(一七一一年)一一月、安房国屋代領(北条家)では、検見による六千俵の増米打出等の年貢増徴、苛斂誅求に反対した名主百姓らが、江戸の領主屋敷に門訴した。しかし、この訴願も効を奏さず、領民はついに老中秋元但馬守への駕籠訴に及んだ。これに対し、騒ぎをおさめんとした藩当局は、三人の名主を斬罪にするという強行手段に出た。驚いた百姓らは再度老中に駕籠訴し、遂に評定所での吟味が開始されることになった(96)。
 三 問題の「内部処理」が著しく困難になり、その結果、幕府への越訴をひき起こしたのは、こうした非常時の嘆願的「訴訟」の場合だけではなかった。裁判的「訴訟」においても同様に、藩当局の処理方法の問題点や処理能力の限界が露呈し、訴訟当事者が、幕府高官に駕籠訴・駈込訴をするということもあったのである。その具体例として、二つの事例を紹介する。まず第一は、三河国田原藩(三宅氏)領内の野田村と赤羽村の山論の事例(97)である。
 寛文一三年(延宝元年、一六七三年)、野田村は、赤羽村との山論につき江戸藩邸に出訴した。国元での解決のめどがたたなかったからである。しかし、江戸藩邸で十分な審理がなされず、赤羽村との対決も認められなかったため、野田村は、藩当局の取扱に不満をいだき、「御屋敷様ニ而埒明不申候ハヽ、無是非御公儀江諍訟可申上候間、御そい状被仰付下候」と、幕府へ出訴するための添状(添簡)を藩当局に求めた。しかし添状が下付されなかったため、野田村役人は寺社奉行に駕籠訴した。これに対し寺社奉行は、藩主へ訴え出るようにと申渡して訴訟は受理せず、野田村役人を田原藩に引渡した。田原藩は、出訴した野田村役人を捕縛し厳刑に処せんとしたが、その知らせを受けた野田村から九〇名が出府し、老中に駕籠訴した。その結果、野田村は評定所への出頭を命じられた。これに対し田原藩は、捕縛した村役人を赦免するとともに、野田村の評定所出頭を阻止すべく、調停工作に乗り出した。野田村は、この藩当局の調停工作を受入れ、評定所への出頭を中止した。田原藩で「訴訟」を正式に受理してもらえる見通しが出て来たと判断したのであろう。しかし、その見通しがはずれ、調停は失敗に終ったため、見切をつけた野田村は、再び老中に駕籠訴した。その結果、評定所への出頭を命ぜられ、そこで野田村は赤羽村との対決を求めるが、老中より、「藩主のもとで処理するよう申遣したので、国もとへ帰るように」と帰国を命ぜられた。
 以上が田原藩で起きた野田村と赤羽村との山論の概要である。事件の流れを見ると、「内部処理の原則」にもとずき藩内での処理を追求しようとする藩当局や幕府の姿勢と、それに反発して幕府奉行所での審理・救済を執拗に求める訴訟人たちの姿がくっきりと浮びあがってくる。
 第二は、田沼玄藩頭領分奥州下鳥渡村定六と同村倉右衛門との地境出入の事例である。『御仕置例類集』続類集、三之帳、取計之部所収文政元年「万石以上領分之百姓、領主之吟味相拒候ニ付、奉行所吟味申上候儀、評議(98)」によれば、右地境出入を藩当局が審理していたところ、倉右衛門が吟味を拒み、寺社奉行松平右近将監へ駈込訴した。藩当局の吟味を疑問視し、「非分」があると訴状に認めて越訴したのである。倉右衛門の訴えの真偽を確かめるため、幕府が藩当局の担当役人を呼出し問い尋ねたところ、「倉右衛門は論所への案内も拒否し、藩役人の説諭にも耳を貸さず、係争地見分の節、自分に不都合なことがあれば居宅に入って出て来なくなり、藩役人を蔑った態度をとって尋問にも受答えしないので、厳しく吟味した」と藩役人は答えた。藩役人の措置に「非分之取計」があるとも思われないので、定例の通り、訴状を倉右衛門に差戻し、倉右衛門の身柄は藩当局に引渡した。ところがその後、倉右衛門は、藩当局の「吟味非分」の旨を申立てて寺社奉行松平和泉守へ駈込訴した。再度の駈込訴なので寺社奉行は、藩当局の役人を呼出し、これまでの吟味取計らい方を詳しく述べるように命じて取調べを行った。その結果、倉右衛門の吟味拒否行為に理由があるとは思えず、また、藩当局の役人の陳述も「不相当」とは思われなかったので、寺社奉行は、再度、訴状を差戻し、倉右衛門の身柄を藩当局に引渡したところ、またまた倉右衛門が駕籠訴をした。ここに至り遂に藩当局は、藩内での処理に限界を感じ、幕府奉行所での審理を嘆願することになる。
 ここでも、「内部処理の原則」にもとずき、藩内での事件処理を指向する藩当局や幕府の姿勢、そして、それに反発して、幕府奉行所での審理・救済を執拗に求める訴訟人の姿がうかがわれる。
 四 以上から、大名領において、人々は、訴願的「訴訟」においても裁判的「訴訟」においても、領内での問題処理に耐えがたい不満、疑問を感じた場合に、駕籠訴・駈込訴等の非合法の越訴により幕府に救済を求めていたことが知られよう。そしていずれの事例においても、「内部処理の原則」にもとずき、藩内での処理を追求する藩当局や幕府の姿勢、そしてかかる姿勢に反発して幕府高官にくり返し越訴を試み、救済を求めようとする訴訟人の姿がくっきりと浮かびあがってくる。武陽隠士の指摘するように、「たとひ黒白相違の裁断」がなされても、領民はその疑念を晴らすべき手だてがなく、幕府へ出訴しようとしても、「国主領主にて押へて、公儀へは差し出しくれず」というのが当時の実態であった(99)のであり、こうした「内部処理の原則」にもとずく「訴訟」抑圧的姿勢が駕籠訴・駈込訴等の非合法的「訴訟」を生み出す背景的要因として存在したことが知られる。
 五 幕府は、旗本の支配地(知行所)内の公事訴訟の処理は、原則として旗本にゆだねていた。このことは、既述のように、寛永一〇年(一六三三年)八月の「公事裁許定」が規定するところである。『公事方御定書』下巻、第三条にも、「一、一地頭之出入ハ、地頭より断有之候共、地頭ニて取捌相済由申聞、取上申間敷候(100)」とあり、旗本領における「内部処理の原則」にもとずく「出入」の「取捌さばき」がうたわれている。
 六 しかし、旗本は、家臣団の規模が大名に比して少さく、「吟味筋事訓候家来召置候儀も難行届(101)」ことから、地頭所役所での「訴訟」取扱については、大名領のそれにまさるとも劣らぬほど様々な問題をかかえていた。上記した大名領で見られたような問題事例は、旗本領でも頻繁に見られた現象であった。
 近世社会の紛争処理において広く見られた内済の強要、強圧的取調、不公正な吟味、審理の遅延等は、旗本領における紛争処理についても、そのままあてはまった。「私領之百姓地頭江願候時、久敷取上不申(102)」という事態もあったのであり、地頭役所での「訴訟」取扱、処理も、代官所や大名領の場合と同様、必ずしも人々を納得させるものではなかった。そのため、人々が江戸の奉行所への出訴を求めることも少なくなかった。
 七 知行所管内の住民が江戸の奉行所へ出訴するには、周知のように、地頭の添簡が必要であったが、「内部処理の原則」から、地頭は容易に添簡を発給しようとはしなかった。そしてそのことが、地頭の添簡を持参せぬまま江戸の奉行所に出訴するという非合法的「訴訟」を誘発することになった。『旧事諮問録』の指摘するように、「地頭も容易に添書を出してくれぬので、待ち兼ねた訴訟人は添書なしに直接に奉行に訴える(103)」のである。「内部処理の原則」にもとずく地頭の「訴訟」抑圧的措置の結果、人々は「不得已、奉行所江訴出候(104)」ということになるのであり、ここに駕籠訴、駈込訴等の非合法的「訴訟」が行なわれる一因が存したのである。

(1) 誠本誠一編『日本経済大典』第三三巻(明治文献、昭和四五年)四五頁。
(2) 本論文(三)(「立命館法学」二一一号)五四頁。
(3) 嘉永元年四月二一日「御老中阿部伊勢守殿」(『福島県史』(10)上、近世資料3、六一〇頁以下)。
(4) たとえば、「裁許留」五、天明二年二月「小栗主計元家来立花要左衛門、久松筑前守方え駈込訴いたし候始末、吟味伺書」(司法省秘書課『裁許留』(「司法資料」別冊第一九号)一〇六号三一九頁以下)、「百箇条調書」巻四、天明二年三月「小栗主計元家来立花要左エ門、久松筑前守方江駈込訴いたし候始末吟味伺書」(布施弥平治編『百箇条調書』第一巻(新生社、昭和四一年)三二四頁以下)、同上、天明二年四月「御相談書」(同上、三二九頁以下)、「御仕置例選述」初編一七、寛政九年三月「石州銀山附元同心山田清五郎外壱人駈込訴いたし候一件」(石井良助編『近世法制史料集』(雄松堂フィルム出版有限会社、昭和四〇年)マイクロフィルム・リール番号36)、註(3)所引史料等参照。
  なお、「聞訟秘鑑」には、次のような浪人の駈込訴に関する史料が見られる(牧英正、安竹貴彦「『聞訟秘鑑』とその写本について(2)」(「法学雑誌」三四巻二号、一二六、一二七頁))。
  「一通り懸り之浪人願之儀在之節之事
是は、御代官所え通り懸り之浪人抔欠込、直訴いたし候節、無宿之願難取上ニ付、住居を極、江戸表は町奉行、在々は御勘定奉行え可相願旨利害申聞、通例之事は取上間敷儀ニ候へ共、強而相願候か、又は難捨置儀を訴出候節は、手当いたし置、相手方呼出し吟味之上、御奉行所へ可伺事」
 このような心得書が残されているところからすると、浪人の駈込訴はときどき見られたのかも知れない。司法省調査部『徳川時代裁判事例』続刑事ノ部(「司法資料」第二七三号)には、「無宿浪人」「浪人」の駕籠訴・駈込訴の例が見られる(四一九、四三四、四三五頁)。
(5) たとえば、「百箇条調書」巻四、天明元年六月「差上申一札之事」(『百箇条調書』第一巻、三二一、三二二頁)、「裁許留」五、天明元年「上総国萱野村佐左衛門外壱人、相手同国砂田村最光寺外三ケ寺、古例相破候出入」(『裁許留』八七号二一一頁以下)、「御仕置例選述」初編一七、寛政元年四月「下総国布鎌太郎右衛門新田堂福寺儀、金剛院取斗方之儀申立候一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)、「公案比事」(国立国会図書館所蔵)一四、寛政三年五月「越後国保田町百姓共惣代仁左衛門、相手同町定左衛門私欲出入」、「御仕置例選述」初編一七、寛政三年一一月「駒込吉祥寺御朱印御改之節、関三箇寺添簡之儀ニ付品々申立候一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)、同上、寛政六年一二月「奥州三春城下州伝寺弟子全龍、駕篭訴いたし候一件」(同上)、「諸家問合」(東京大学法学部法制史資料室所蔵」)二、享和二年五月「中川飛弾守■阿部播摩守へ問合」、「附札集」(同上)三、寛政三年八月「御勘定奉行根岸肥前守様御用人迄問合九月朔日御附札添」、「御仕置例類集」天保類集、四拾四之帳、文政一一年「野州市塙東円寺賢全儀、同国稲毛田村崇真寺を相手取、不軽儀申立、致駈込訴候一件」(石井良助編『御仕置例類集』第一五冊(名著出版、昭和四九年)、天保類集五、一二八八号一三七頁以下)、「万年覚」(中村辛一編『高田藩制史研究』資料編第三(風間書房、昭和四三年)八九一頁以下、「寺留 駁雑」(大英図書館オリエンタル・セクション所蔵)の「駈込訴」の項等参照。
  なお、「御仕置例類集」新類集、弐拾壱之帳、文化九年「摂州鴫野村聞通寺隠居鳳林、巧を以出訴いたし候一件」には、追院となった元住持の駕籠訴の事例が記されている(司法省秘書課『御仕置例類集』第二輯、新類集二(「司法資料」別冊第二〇号)、八三一号二八〇頁以下)。
(6) たとえば、「御仕置例選述」初編一七、寛政元年五月「甲州府中神主今沢大進、相手同国上條新居村社人上條志摩外六拾弐人申渡難渋出入一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)、同上、寛政一〇年五月「武州大谷沢村伊兵衛外三人儀、同村馬之助義を申立候一件」(同上)、「諸処刑調書」竪立門訴差越訴等之部五九、寛政三年六月「下総国宮本村王子明神神主飯田主膳、地頭申渡難渋いたし候一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号50)等参照。
(7) たとえば、「御仕置例選述」初編一七、寛政二年七月「武州増林村密蔵院、八幡社領之儀申立候一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)、「御仕置例類集」天保類集、四拾七之帳、天保元年「市ヶ谷田町三丁目源八店修験清祥院大円儀、紅葉山御高盛坊主奥田久味身分等之儀申立、駈込訴いたし候一件」(石井編『御仕置例類集』第一五冊、天保類集五、一三五八号二八〇頁以下)、高柳真三『江戸時代の罪と刑罰抄説』(有斐閣、一九八八年)三〇五頁等参照。
(8) たとえば、『埼玉縣史』第六巻、江戸時代後期(昭和一二年)、六五、六六頁参照。なお、「御仕置例類集」古類集、拾之帳、寛政三年「江州柑子村鐵衣、越訴又は不埒之取計いたし候一件」(『御仕置例類集』第一輯、古類集三(「司法資料」別冊第一二号)二〇七、二〇八頁)は、「医
業兼百姓」の越訴の例であり、「御仕置例類集」天保類集、弐拾之帳、文政一〇年「評定所書役坂間亀五郎、不筋之取計いたし候一件」(石井編『御仕置例類集』第一二冊、天保類集二、三七四号三二七、三二八頁)は医師による駕籠訴教唆の例である。
(9) たとえば、「御仕置例選述」後編一五、寛政一一年三月「上総国古利村役人共取斗之儀を申立、駈込訴いたし候無宿西岸一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号38)、「諸家問合」二、寛政一〇年八月「菅沼下野守■松平周防守江問合」等参照。なお、「無宿」の浪人の駈込訴については、註(4)所引の「聞訟秘鑑」ならびに『徳川時代裁判事例』続刑事ノ部の史料を参照。
(10) たとえば、「公案比事」一五、天明二年一〇月「武州川口村役人共、同村穢多甚右衛門儀を申立候一件」、「嘉永撰要類集」第五一ノ中、嘉永四亥年十月十日来ル同十五日附札付達ス(谷川健一編集委員代表『日本庶民生活史料集成』第二五巻(三一書房、一九八〇年)二三〇頁)等参照。
(11) たとえば、「御仕置例選述」初編一七、寛政二年九月「新数寿屋町清吉妻きた越訴一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)(これは駈込訴未遂の事例である)、「公案比事」一四、寛政三年九月「野洲千駄塚村源左衛門娘まち儀、同村之者理不尽およひ候由申立候一件」、「御仕置例選述」初編一七、寛政四年六月「武州箕田村元百姓源八女房さつ、村役人取斗方之儀申立候一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)、同上、寛政八年九月「紅葉山御宮附余語久嘉妻越訴一件」(同上)、「諸処刑調書」堅立門訴差越訴之部四九、文化二年七月「桃井庄蔵女房きわ、松原安芸守江駕訴いたし候一件」(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号50)、「御仕置例類集」天保類集、弐之帳、文政一〇年「武州幸手宿仲町弥兵衛不束之取計いたし候一件、吟味下ケ之儀ニ付、評議」(石井編『御仕置例類集』第一一冊、天保類集一、一七号二四頁以下)、同上、弐拾之帳、天保八年「摂州田中村伊右衛門外七人、不届之取計いたし候一件」(『同上書』第一二冊、天保類集二、三七〇号三一九、三二〇頁)、文化一三年「武州小梅村吉十郎、相手下総国長井戸村佐四郎外壱人、譲渡対談違反出入」(司法省調査課『徳川時代民事慣例集』動産ノ部(「司法資料」第一九二号)五〇三頁以下)、天保三年九月「婦人の身として■賭博の末、返金の催促受けしを憤り、偽書を以出訴せし者」(司法省調査課『徳川時代裁判事例』刑事ノ部(「司法資料」第二一一号)、八七二号九二三、九二四頁)、天保七年八月「姦通の後本夫支配所へ告訴するを知て、事実相違の訴状を以て駈込訴せし者」(同上、第五〇九号五二九頁)、「政談秘書」(国立国会図書館所蔵)三、所収「天保八酉年七月朔日夕七時過、脇坂中務大輔様■●紙至来、請封従是為遣候」、前掲『徳川時代裁判事例』続刑事ノ部、三八七頁所掲判例等参照。
(12) 本論文(二)(「立命館法学」一九四号、一六頁)。
(13) 天保一四年一一月「御料所御改革農民騒立一件御用諸向実記」(青木紅二編、保坂智補編『編年百姓一揆史料集成』第一六巻、(三一書房、
一九九一年)二六四頁以下)。
(14) 「天保雑記」第四一冊、天保一二年五月「乍恐口上之覚」(内閣文庫編『天保雑記』(三)(内閣文庫所蔵史籍叢刊第三四巻)(汲古書院、昭和五八年)一三八頁)。
(15) 藤井智鶴「三河ひるわ山山論の展開---私領山論の公儀越訴をめぐって---」(立教大学史学会「史苑」五一巻五号、一三頁)。
(16) 「合浦珠」第一八冊(『編年百姓一揆史料集成』第一五巻、四三二頁)。
(17) 安永二年「江戸出府日記」(『岐阜県史』史料編、近世八、五九五頁以下)。
(18) 本論文(一)(「立命館法学」一八三・一八四合併号、一六三、一六四頁)。
(19) 「武家厳制録」巻三一、寛永一〇年七月「訴人可請裁許次第掟條々」(石井良助編『武家厳制録・庁政談』(近世法制史料叢書3)(創文社、昭和三四年複刊訂正第一刷)、三三六号一三九、一四〇頁)、「大猷院殿御実紀」巻二三、寛永一〇年七月一九日条(黒板勝美・国史大系編集会編『新訂増補国史大系』徳川実紀、第二篇(吉川弘文館、昭和五一年)六〇四、六〇五頁)、寛永一〇年七月「定」(大蔵省編纂『日本財政経済史料』第二巻、(財政経済学会、大正一三年改版)一一一四頁)等参照。
(20) 「御当家令條」巻三四(石井良助編『御当家令條・律令要略』(近世法制史料叢書2)(創文社、昭和三四年複刊訂正第一刷)五一八号二五〇、二五一頁)、「大猷院殿御実紀」巻二三、寛永一〇年八月一三日条(『新訂増補国史大系』徳川実紀、第二篇、六〇七、六〇八頁)等参照。
(21) 第一〇条にいう「国持之面々」が、いわゆる「国持大名」だけではなく、広く万石以上の大名を総称する語であったことについては、服藤弘司『刑事法と民事法』(創文社、昭和五八年)一八六頁参照。
(22) 深谷克己「幕藩制社会と一揆」(青木美智男ほか編『一揆』1、一揆入門(東京大学出版会、一九八一年)一二二頁)。
(23) 石尾芳久「検地帳と名寄帳に記載された賎民」(「関西大学法学論集」二二巻三号、三九、四〇頁)参照。
(24) 藤原明久「岡山藩制確立期における『民事』裁判機構の形成」(大竹秀男、服藤弘司編『幕藩国家の法と支配』(有斐閣、昭和五九年)四三一頁)。
(25) 平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』(創文社、昭和三五年)四〇七頁、小早川欣吾『増補近世民事訴訟制度の研究』(以下、小早川『増補研究』と略称)(名著普及会、昭和六三年)八一頁、牧健二「編者解題」(小早川『増補研究』一九頁以下)等参照。
(26) 野村弘子「紀州藩の支配形態について」(安藤精一編『近世和歌山の構造』(名著出版、昭和四八年)八九頁)。
(27) 田中喜男『加賀藩における都市の研究』(文一総合出版、昭和五三年)二八二頁。
(28) 黒羽教育委員会編『創垂可継』(柏書房、昭和四六年)八二二頁。
(29) 高柳真三、石井良助編『御触書寛保集成』(岩波書店、昭和三三年第二刷)二五五四号一一九四頁、近世史料研究会編『江戸町触集成』第一巻(塙書房、一九九四年)五八八号二〇二頁。
(30) 藩法研究会編『藩法集』1、岡山藩上(創文社、昭和三四年)一七五三号六六九頁、藤原・前掲「岡山藩制確立期における『民事』裁判機構の形成」四四二頁。
(31) 服藤弘司『地方支配機構と法』(創文社、昭和六二年)八五頁。
(32) 穂積陳重『五人組制度論』(有斐閣、昭和一五年第四版)三八九、三九〇頁。
(33) 野村兼太郎編『五人組帳の研究』(有斐閣、昭和一八年)追加一号、六一七頁。
(34) 乾宏巳「大坂における町人訴願運動の構造---文政四年堀江郷地代金上納一件をめぐって---」(大阪教育大学歴史学研究室「歴史研究」二二号、四五、四六頁)。
(35) 註(29)所引史料。
(36) 小早川『増補研究』一七四頁。
(37) 穂積・前掲『五人組制度論』三九八頁。
(38) 服藤弘司「近世民事裁判と『公事師』」(大竹、服藤編・前掲『幕藩国家の法と支配』三五八頁)。
(39) 小早川『増補研究』二二五頁。
(40) 『長岡市史』(昭和六年)二五三頁。
(41) 富田正文編集代表『福沢諭吉選集』第六巻(岩波書店、一九八一年)一八四頁。
(42) 牧健二「近世武家法の和解及び調停」(北村五良編『斉藤博士還暦記念、法と裁判』(有斐閣、昭和一七年)二〇四頁)、野村編・前掲『五人組帳の研究』二八号、天明八年遠江国「五人組帳前書」(二三五頁)、本稿八頁所引寛延二年上野国群馬郡板井村「御法度御條目」等参照。
(43) 一般には、名主の奥印が必要であったといわれている(たとえば、平松・前掲『近世刑事訴訟法の研究』六〇〇頁、服藤・前掲『地方支配機構と法』九〇頁、七〇四頁、小早川『増補研究』二六七、二六八頁、二八三、二八四頁、牧・前掲「近世武家法の和解及び調停」二二七頁等参照)。しかし、地方によっては、訴状への名主奥印、あるいは名主の添状持参、あるいは町村役人の同道(差添)のいずれかを選択的要件とするところもあった。たとえば、安政六年武蔵国高麗郡赤沢村「御仕置御條目五人組書上帳」(野村編・前掲『五人組帳の研究』九一号、四九九
頁)に左の如くある。
  「一公事出入之儀、相互非分之儀無之様ニ相心得、和融致ニおいてハ、自(ママ)論等ハ有之間敷事ニ候間、名主・年寄・組頭等常々理解可申含、若不心(ママ)得止之事、公事訴訟罷出候節ハ、名主・年寄・組頭・五人組江相届ケ同道候歟、又は訴状ニ名主印形取候歟、或者添状致可持参候、右躰之儀無之、一分之存寄お(ママ)以、訴状差出候共、取上無之事」
 なお、小早川『増補研究』二二五頁、染野義信『近代的転換における裁判制度』(勁草書房、一九八八年)一七六頁をも参照。
(44) 江戸の名主奥印制については、吉原健一郎、曽根ひろみ氏は、享保六年の名主奥印(奥判)制導入に関する町触は、実施されなかったとされる(吉原『江戸の町役人』(吉川弘文館、昭和五五年)九七、九八頁、曽根「享保期の訴訟裁判権と訴---享保期の公儀---」(松本四郎、山田忠雄編『元禄・享保期の政治と社会』(講座日本近世史4)(有斐閣、昭和五五年)二七五頁以下))。確かに、名主奥印制度導入に関する享保六年町触は、触出された形跡はなく(大平祐一「近世の訴訟、裁判制度について」(「法制史研究」四一号、二〇九、二一〇頁))、その限りでは、この町触が実際に触出されたと見る見解(小早川『増補研究』二六七、二六八頁、服藤・前掲「近世民事裁判と『公事師』」三五八、三五九頁)は修正を余儀なくされることになろう。
  しかし、名主奥印制は後に採用されたようである。石井良助編『江戸町方の制度』(人物往来社、昭和四三年)に、「家主が他の家主を訴ふるときは、直ちにその名主に訴書を差出し、名主は相手方の名主に通知し、相方それぞれ説諭を為すも示談の運びに至らざるに及びて、名主は訴書に奥印をなすなり」(一七頁)とあり、名主奥印のある訴状の見本が掲げられている(一七、一八頁)。
(45) たとえば、享保六年五月「申渡覚」(『御触書寛保集成』二五七八号一二〇三、一二〇四頁)、寛保二年陸奥伊達郡下保原村「五人組持高帳」(穂積・前掲『五人組制度論』三九〇頁)、元文三年武蔵国豊嶋郡角筈村「五人組帳」(野村編・前掲『五人組帳の研究』八号八五頁)、文化八年武蔵国多摩郡上長淵村「御條目五人組御改書上帳」(『同上書』四〇号二七四頁)、文政一〇年下総国葛飾郡大畔新田「五人組御仕置帳」(『同上書』五〇号三二六頁)、天保一二年上野国新田郡尾嶋村「五人組帳」(『同上書』六二号三七五頁)、天保一二年武蔵国埼玉郡樋遣川村中山御役所「御條目」(『同上書』六三号三八一頁)等参照。
(46) たとえば、天保七年山本大膳「五人組帳」(穂積・前掲『五人組制度論』三九一頁)に、
  「一訴其外不依何事、可申出儀有之ば、五人組へ断り、名主組頭を以て可申達、或は名主添状を以可訴出、若名主組頭不取上、添状不仕候はゞ、其趣を以て可申出事、
   一公事出入の節、名主他行に候はゞ、与組添翰可致、訴訟人村役人の意見を不用迚、添翰不致は心得違にて、添翰無之願は不取上、無益の
雑費も相掛り、添翰は其所の人別のものに無紛證拠迄にて、縦ひ筋違の類にて村役人意見不用共差出、不筋の次第は差添罷出可申立事」
 とあり、町村役人の添翰が、「その所の人別のもの」であることを証明するものであるとされている。
(47) 滋賀秀三『清代中国の法と裁判』(創文社、昭和五九年)二五五頁。
(48) 「豊年税書」上、「引渡之節口上にて可承事附諸事意得」(『日本経済大典』第三巻、六九四、六九五頁)。
(49) 「聞伝叢書」巻八、「百姓衣食住之儀被仰渡并御請書」(『日本経済大典』第二五巻、七一八頁)。なお、〔 〕内の文字は、荒井顕道編・瀧川政次郎校訂『牧民金鑑』上巻(刀江書院、昭和四四年)二八一、二八二頁により補った。
(50) 服藤・前掲『地方支配機構と法』一一〇五頁所引。
(51) 『新潟県史』資料編8、近世三、下越編、八五二、八五三頁。
(52) 名主のこうした民意上達阻止については、布川清司『近世庶民の意識と生活---陸奥国農民の場合---』(農山漁村文化協会、昭和五九年)一一二頁以下をも参照。
(53) 『御仕置例類集』第二輯、新類集一(「司法資料」別冊第一八号)二〇三号、三二七、三二八頁。
(54) なお、町村役人のこうした「訴訟」抑圧的性格を、人々も十分承知していたので、ときには、訴訟人の側が、始めから、町村役人の奥印等を求めるのをあきらめて、違法行為、脱法行為に走るということも起こり得た。例えば、嘉永三年(一八五〇年)七月、府中宿助郷に従事する馬士たちが、勘定奉行配下の助郷人馬取調改役に駕籠訴した事例では、その数日前に馬士二名が、同改役の宿所に赴き願書を提出したが、差越願になるとして受理されず、勘定方役人より、「村役人差添」の提出ならば受理するといわれていた。しかし馬士たちは、村役人らが願書を取次いでくれることは絶対にないと思って、結局、村役人の奥印・添書なしの訴状を携えて駕籠訴したのである(小沢誠一「終末期の助郷---馬士の篭訴とからかさ連判」(「地方史静岡」一四号、一一九頁以下))。
  また、「裁許留」五所収、天明元年秣場出入判決によれば、池田修理知行所内井原村八右衛門ほか三人は、代官支配上出部村との論所につき、幕府の奉行所吟味を願うため訴状案を作成した。そのさい、庄屋に相談すると差留められると判断して、庄屋には内緒で訴状に庄屋年寄惣代の肩書を書入れ、村役人の承認を得たように見せかけて、地頭から、奉行所吟味を願うために必要な添簡を受取っている(『裁許留』八八号二一四、二一五頁)。庄屋が容易に奥印を与えてくれないことを承知の上での脱法行為であり、実質的な越訴である。
(55) 明治二年「越後国民政之管窺奉建白候条々」にも、「一、百姓名主ヘ相掛リ候訴訟之事」の条に、「・・・里正(名主ー大平註)ヘ相掛リ訴候得ハ、旧幕法、其村役人加判不致候義不取用、元ヨリ里正ノ威ヲ恐、村内誰モ加印候者無之」とあり、旧幕府時代において、名主を訴える場合、
村役人の印をもらうことがむずかしかったことが記されている(『新潟県史』資料編13、近代一、五九八、五九九頁)。
(56) 服藤・前掲『地方支配機構と法』八五頁以下。
(57) 大竹秀男氏が、近世民事訴訟一般が内済本位に傾いた理由の一つとして、裁判役所の「裁判事務の軽減」というメリットがあったことを挙げておられるのも、こうした裁判役所の過重負担の問題を指摘されたものといえよう(大竹「近世水利訴訟における『内済』の原則」(「法制史研究」一号、二〇九頁))。なお、小早川『増補研究』一七四頁をも参照。
(58) 大竹秀男氏も、近世水利訴訟について、「不確実な裁許は、当局の権威を失遂せしめる因ともなろう」と指摘されている(大竹・前掲「近世水利訴訟における『内済』の原則」二一〇頁)。
(59) 福沢諭吉「国会の前途」(『福沢諭吉選集』第六巻、一八四頁)。
(60) 牧健二氏も、判決に対する各種の批判を避けるため、判決申渡(裁許)を極力避けて内済で処理しようとする傾向が生じた、と指摘されておられる(牧・前掲「近世武家法の和解及び調停」二二五、二二六頁)。判決に納得しない上下の者たちからの判決批判による権威失遂のおそれを回避しようとする当局の姿勢が、内済偏重主義を生み出したものであることを指摘されたものといえよう。大竹秀男氏も、「司法的権威の尊重が内済主義を採らしめた」とされる(大竹・前掲「近世水利訴訟における『内済』の原則」二一一頁)。
  もっとも、大竹氏は、そのことは、「水論に限って正しい」と主張されるが、必ずしもそのように限定して考える必要はなく、本文で述べたように、裁判役所は、「内部処理の原則」にもとずく町村役人主導の問題処理により、煩瑣な「訴訟」、自己の処理能力を越えた「訴訟」に手を染めないことにより、自からの権威を維持しようとしたと見るべきであろう。
(61) 註(28)所引史料。
(62) 寛政六年一一月「奉差上候済口一札之事」(『編年百姓一揆史料集成』第七巻、二九頁)。
(63) 「名主藤兵衛不正之取計有之候儀ニ付申上候書付」(東京大学史料編纂所編『大日本近世史料』市中取締類集六、名主取締之部二(東京大学出版会、一九六六年)四七三頁)。
(64) 万尾時春「勧農固本録」巻下、「公事訴訟心得之事」(『日本経済大典』第四巻、六〇六頁)。
(65) 青木美智男「近世民衆の生活と抵抗」(青木ほか編『一揆』4、生活・文化・思想)所収米沢藩寛永一七年「掟」(一七五頁)。
(66) 服藤・前掲『地方支配機構と法』八八頁。
(67) 服藤・前掲「近世民事裁判と『公事師』」三四七、三四八頁。なお、この「訴状糺心得之事」は、「規格秘書」三にも収録されている(石井
良助『近世取引法史』(創文社、昭和五七年)四、五頁、同『近世民事訴訟法史』(創文社、昭和五九年)三一、三二頁。もっとも、後者では、「規格秘録、」三となっている)。『古事類苑』法律部三(吉川弘文館、昭和五三年)にも、この「訴状糺心得之事」が収録されており、「牧民金鑑」一がその典拠とされている(六七五、六七六頁)が、荒川顕道編纂・瀧川政次郎校訂『牧民金鑑』には、当該史料は見当たらなかった。
(68) 服藤・前掲「近世民事裁判と『公事師』」三四八頁。
(69) 安藤博編『復刻徳川幕府県治要略』(柏書房、一九七八年第三刷)三九四頁以下。
(70) 軽微なものについては代官が直接、判決申渡を行うことができたが(『同上書』三九一頁)、基本的には、このように、勘定奉行に伺い、指示を得て判決申渡を行うことになっていた。この点で、代官所での「内部処理」は、留保づきのものであったといえよう。
(71) 「地方落穂集」巻一二、「内済致し候て能事悪敷事有之事」(『日本経済大典』二四巻、二六二頁)。
(72) 法制史学会編・石井良助校訂『徳川禁令考』前集第四(創文社、昭和四三年第二刷)二一一四号一三二頁、『御触書寛保集成』一三一四号六八九頁。
(73) 『日本財政経済史料』第八巻、七二五、七二六頁、『徳川禁令考』後集第一、四二頁以下。
(74) 『日本経済大典』二六巻、一一七、一一八頁。
(75) 「世事見聞録」四の巻、「公事訴訟の事」(武陽隠士著・本庄栄治郎校訂・奈良本辰也補訂『世事見聞録』(岩波書店、一九九四年)二二〇頁)。
(76) 「勧農或問」巻上(『日本経済大典』三二巻、二四〇頁)。
(77) 『日本経済大典』三三巻、四七、四八頁。
(78) 中田薫「徳川時代の民事裁判実録」、同「徳川時代の民事裁判実録続篇」(いずれも、中田『法制史論集』第三巻下(岩波書店、昭和四六年)所収)参照。
(79) 牧・前掲「近世武家法の和解及び調停」二二八頁。
(80) 『徳川禁令考』前集第四、二一〇八号一二五頁、『日本財政経済史料』第四巻、六二七頁。
(81) 『編年百姓一揆史料集成』第一四巻、一五二頁以下。
(82) 飯田文弥「天保八年甲州市川支配所河内領の駕籠訴」(磯貝正義先生古稀記念論文集編集委員会編『甲斐の地域史的展開』(雄山閣、昭和五七年)二〇一頁以下)、『編年百姓一揆史料集成』第一四巻、六〇八頁以下。
(83) 『徳川禁令考』後集第一、二六〇、二六一頁。
(84) 安藤・前掲『復刻徳川幕府県治要略』三二頁。
(85) 代官所の機構が極めて簡略で手薄であったことについては、服藤・前掲『地方支配機構と法』一三三、一三四頁、村上直『天領』(人物往来社、昭和四〇年再版)四二頁、鈴木寿『近世知行制の研究』(日本学術振興会、昭和四六年)一五七頁以下等参照。なお、見城幸雄「隠地禁制について(五・完)---徳川幕府土地法制の一側面」(「愛知大学法経論集」四五号法律篇、三七頁以下)をも参照。
(86) 安政五年七月「申渡」(『牧民金鑑』上巻、五八頁)。
(87) 『徳川禁令考』前集第二、八五六号一八五頁、『日本財政経済史料』第四巻、三四頁、『御触書天明集成』一八七九号四九九頁。所定の手続を経て願出るべきところそれをせず、代官をとび越してただちに勘定奉行所に駈込訴したことが、「御代官を軽しめ候致方、甚々不埒」と厳しく非難された(新潟県内務部『越後国佐渡農民騒動』(昭和五年)一七八頁。なお、「公案比事」(国立国会図書館所蔵)一四、宝暦九年九月「御代官山中源四郎御詮議一件」をも参照)のも、同じねらいにもとずくものであった。
(88) 「公裁録」一、吟味物取捌方等之部、「口書印形難渋いたし候もの取計方」(水利科学研究所監修・荒川秀俊校注『公裁録』(地人書館、昭和三八年)二六頁)。
(89) 警察協会篇『徳川時代警察沿革誌』下巻(国書刊行会、昭和四七年)二九五頁。
(90) 「差出」については、小早川『増補研究』二七三頁、中田・前掲『法制史論集』第三巻下、七五五頁、平松・前掲『近世刑事訴訟法の研究』一二三頁、四六三頁等参照。
(91) 小早川『増補研究』七二九頁所引宝暦一二年四月触書。
(92) 「聞伝叢書」巻一〇、「出入添状之事」(『日本経済大典』第二五巻、七六六頁)。
(93) 『徳川禁令考』後集第一、二六二頁。
(94) 同上、一五二頁、『日本財政経済史料』第八巻、九二四頁。
(95) 『牧民金鑑』上巻、五九頁。
(96) 「万石騒動日録」(青木紅二ほか編『日本庶民生活史料集成』第六巻、一七頁以下)。
(97) 藤井智鶴、註(15)所引論文。以下の叙述は本論文による。
(98) 石井編『御仕置例類集』第七冊、続類集一、八四号一五四頁以下。
(99) 「世事見聞録」四の巻、「公事訴訟の事」(『世事見聞録』(岩波文庫版)二一八、二一九頁)。他領他支配関連事件についても、大名は極力内済で済まそうとし、領民が幕府へ出訴せんとするのを抑圧したことについては、服藤・前掲『刑事法と民事法』一九九頁以下参照。
(100) 『徳川禁令考』後集第一、二六〇頁。
(101) 註(98)所引史料、一五六頁。
(102) 「享保六丑年御書付」(『徳川禁令考』後集第一、二六三頁)。
(103) 旧東京帝国大学史談会編『旧事諮問録』(青蛙房、昭和三九年三版)一一三頁。
(104) 註(102)所引史料。

(一九九六年一月六日) (未完)