立命館法学 一九九五年五・六号(二四三・二四四号)




破壊活動防止法にみる団体規制と結社の自由
---結社の自由論の一側面---

鳥居 喜代和






目    次





は じ め に
 憲法二一条が保障する結社の自由が、個人の結社する自由、及び結社それ自体の自由の双方を含むという理解については、大方の一致があるように思われる。しかし、近年、法人の「人権」論に対する批判から出発して、結社の自由よりも結社からの自由を強調し、「明文の結社の自由条項が置かれている場合も、それは直接には、結社をとりむすぶ諸個人の自由として理解されなければならない(1)」とする有力な考え方が主張されている。社会的権力である法人が「人権」の主体となり、そのことを媒介に自然人の人権に対して否定的な影響を与えることを理論的にどのように捉えるかという点に関しては、私人間効力論のや団体の内部的な自由の問題として処理するに留まらず、法人自体が「人権」享有主体性をもつという点の吟味が必要であるという点に関しては、多くの共感を集めていると言えるであろう(2)。
 ところで、結社の自由が個人のレヴェルと結社自体のレヴェルとの双方で成立するという場合、一般には「第一に、個人が団体を結成もしくは結成しないこと、団体に加入しもしくは加入しないこと、団体の成員としてとどまりもしくは脱退することにつき、公権力による干渉をうけないことを意味すると同時に、第二に、団体じしんの成立、存続、活動に関して、公権力による抑制、干渉をうけないことを意味する(3)」とされている。このように二層構造の保証があることを前提にした場合、後者の保障があれば、この団体の内部でその構成員と団体自体との間で一定の緊張関係が生ずることになるが、その際に団体自体の優越性に連動する団体の「人権」の処理の問題と、団体自体の維持、存続等が保障されていると見ることの間には一定の距離があるはずである(4)。また仮りに、憲法二一条の結社の自由が団体自体の自由の保障を含むと考えた場合でも、この自由が直ちに団体が「人権」一般を享有するということの根拠になるわけではない。
 このように考えた場合、議論の位相は、第一に個人の結社する自由、第二に団体自体の自由、第三に団体の「人権」という三層にわたっているということができる。このうち、第一の位相については異論がなく(5)、第三の位相については、筆者自身も含めて否定的に解するか、それとも限定的に解するかという形で議論が展開している。もっとも、この傾向が全面に出る以前の段階では、国民によって作られた集団がよりよく民主主義を達成する手段であり、かつ人権をよりよく実現するものであるとの前提の下に、法人の「人権」享有主体性を積極的に承認してきたという事情もある。近年の消極的評価は、法人や団体による人権侵害という否定的現象の出現という想定せざる結果や、集団(主義)の延長にある社会体制としての「社会主義国」の崩壊といった現象もあるかもしれない。
 そこで、第二の団体自体の自由を解釈上承認するか否かは、それが二一条の文言上排除されているとまでは読みにくい以上、一方では理論的な整合性の問題と、他方では現実にそのように解さなければならない救済の必要性があるかどうかという問題にかかっていると言えよう。
 本稿では、理論的な整合性の問題は留保しつつ、現行法の中で団体に対する最も強力な規制を含んでいると思われる破壊活動防止法の団体規制の構造の分析を通して、個人の人権としての結社の自由だけで、このような規制に対する防禦が可能か否かを検討してみたい(6)。

(1) 樋口陽一『憲法』(一九九二年)、二二一頁。
(2) 例えば、木下智司「団体の憲法上の権利享有についての一考察---アメリカ合衆国における判例の展開を素材として---」神戸学院法学二二巻一号(一九九三年)一ー一一三頁、芹沢齊「法人と『人権』」法学教室一六九号(一九九四年)一九ー二五頁など。尚、拙稿「法人の基本権能力に関する覚書---団体の憲法上の人権享有主体性研究序説」札幌学院法学一一巻一号(一九九四年)一ー四一頁。
(3) 浦部法穂「二一条、集会・結社・表現の自由、通信の秘密」樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注釈日本国憲法・上』(一九八四年)四五五頁以下。
(4) ドイツにおいて、結社の自由は個人と結社の双方のレヴェルで成立する「二重基本権 Doppelgrundrecht」であるという理解が一般的であるが、法人の基本権能力を定めた一九条三項が別にあるため、議論のあるところではあるけれども、団体の自由が人権享有主体性に直結するわけではない。
(5) 例えば、法学協会『註解日本国憲法』(一九五三年)には、結社の自由は団体自体の自由を含むという記述は見えないし、宮沢俊義『日本国憲法』法律学体系コンメンタール編一(一九五五年)も同様である。両文献が暗に団体自体の自由を前提にしているか否かは定かではないけれども、個人の人権としての結社の自由という観念については異論はないと言ってよい。
(6) 筆者は、学生時代に入部したサークルの顧問であった畑中和夫先生のゼミに属し、大学院進学後も公私にわたって御指導を賜ったばかりでなく、一九九三年のドイツのフライブルク大学での在外研修の際にも大変お世話になった。一九七一年に立命館大学法学部に入学して以来二〇数年にわたってお世話になり続けてきており、先生が立命館を去られるにあたって、拙いながら本稿を捧げることでその学恩の万分の一でもお返しすることができればと考えている。


I 破壊活動防止法の基本構造

一 破壊活動防止法による規制の二本の柱と結社の自由
 破壊活動防止法(=以下「破防法」とする)は、一九五二年四月二八日に講和条約が発効するのに伴って、占領目的阻害行為処罰令が直ちに失効し団体等規正令が一八〇日後に失効することが予定され、それによって生ずる治安立法の空白を埋めるため、左翼対策として制定された法律である。周知の通り、破防法のこれまでの適用事例が、一九五〇年代に起こった共産党に関する四事件、一九六一年に起こった三無事件、その後の新左翼に対する大菩薩峠事件、渋谷暴動事件、沖縄デー事件等、いずれも刑事事件であり、特にせん動罪は表現行為に対する刑事制裁である点から表現の自由侵害であるという批判や、思想の自由を侵すものであるとの批判が多い。団体規制についても思想の自由
侵害を主張する弁護士もいる(1)けれども、ここでは結社の自由を中心に考えてみたい。
 さて、破防法は、暴力主義的破壊活動に対する刑事処分と行政処分の二つの基本的な柱からなっていると、一般に言われている。暴力主義的破壊活動の定義は、同法四条一項に示されており、図1が示すように、一号では、刑法によって犯罪とされている内乱・外患等の行為を基本類型として、その教唆・せん動や当該行為の正当性や必要性を主張する文書・図画の印刷・頒布・公然掲示、同じ内容の無線通信・有線放送による通信、二号では「政治上の主義若しくは施策を推進し、又はこれに反対する目的」(=以下「政治目的」とする)をもつ刑法その他法律で処罰の対象とされている行為を基本類型として、その予備・陰謀・教唆・せん動にまで拡張し、その行為全体を暴力主義的破壊活動とする。
 これらの行為は破防法三八条ないし四〇条に罰則が定められていることから、単なる定義に留まらず、結果的に刑罰そのものを拡張することになり、刑事処分という破防法の一方の柱の中核部分をなしている(2)。これを破防法は刑罰規定の「補整」(一条)と呼んでいる。暴力主義的破壊活動の概念は、個人の行為を処罰する構成要件を拡張するものであるが、刑罰規定の「補整」という観念が示す通り、個人の刑事責任を追及するためのものであって(3)、「暴力主義」の内容であるとか破壊活動という場合の「活動」とかに関して、何らかの集団又は団体の観念が介在するものではない。後に指摘するように、この暴力主義的破壊活動の概念はあくまで個人の行為に関して成立するものであって、集団又は団体に対して成立するものではないから、さしあたり、本稿で対象とする結社の自由とは、このレヴェルでみる限り関わりがないのである。
 結社の自由との関わりで問題となるのは、破防法のもう一つの柱である行政処分である団体規制である。図2が示すように、((1))「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体」(=以下「破壊活動団体」という)に対して、((2))「当該団体が継続又は反復して将来さらに暴力主義的破壊活動を行う」、((3))「明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由がある」ときに一定の類型の団体活動の禁止が行われ(五条一項)、さらに団体活動の禁止によっては「そのおそれを有効に除去することができないと認められるとき」に団体の解散指定が行われる(七条)。解散指定がなされると、団体の役職員・構成員につき団体のためにする行為及びその脱法行為が禁止され、団体が法人の場合には財産整理が行われるから、解散指定の規定の直接的効果ではないにせよ、実質的に解散とという効果が現れる。団体活動の禁止及び解散指定は、公安調査庁長官が公安審査委員会に対して請求し、同委員会がこれを決定するという手続で行われる。これが団体規制である。
 団体活動の禁止は、五条一項一号の「集団的示威運動、集団行進又は公開の集会」、二号の機関誌紙の印刷・頒布及び三号の「当該暴力主義的破壊活動に関与した特定の役職員又は構成員」の「当該団体のためにする行為」の三つの類型の行為の禁止である。例えば、一号による公開の集会の禁止は、個人が集会に参加する自由が間接的に制限されるという意味で個人の自由の制限として現われると同時に、団体が集会を主催する自由が直接的に制限されるという意味で団体の自由として現われる。ともあれ、一号及び二号は破壊活動団体に対して行う禁止措置であるから直接的な団体規制であり、三号は特定の者に「団体のためにする行為」をさせることを禁止することによって、その者の行為から団体が受けるべき貢献を塞ぐという意味で間接的な団体規制である。したがって、結社の自由に及ぼす影響には若干の相違がある。
 解散指定は、破壊活動団体が法人格を有する場合と有しない場合とでは意味が少々異なる。法人の場合には指定処分が確定すると解散し財産の処分が行われるが、法人でない団体、例えば権利能力なき社団の場合には解散という効果を生じることはなく、財産の整理だけを行うことになる。つまり、結社の自由と法人格は次元を異にする概念ではあるけれども、法人の場合は解散しなければならないが、権利能力なき社団の場合には解散指定は直接には団体それ自体の組織構造に変動を及ぼすのではなく、財産整理によって実質的な解散に追い込まれ、処分の原因となった破壊活動が行われた日以後、当該破壊活動団体の役職員又は構成員であった者につき、当該団体のためにする行為が禁止されることによって、事実上解散に追い込まれることがあるという形で、結社の自由に影響を及ぼすことになる。

二 破防法による規制の隠された第三の柱
 通常、破防法の規制の構造は、右に見たように、個人の刑事責任を追求する刑事処分と団体を規制する行政処分という二つの柱からなっているとされる。けれども、破壊活動防止法が現実に果たしてきた役割を考えると、法的には必ずしも正面から扱われていないけれども、政治的な文脈ではしばしば話題とされる二七条に規定された調査権の問題を指摘しなければならない。
 二七条は「公安調査官は、この法律による規制に関し、第三条に規定する基準の範囲内において、必要な調査をすることができる」と規定している。破防法の規定を文字通り読めば、刑事責任追及の局面では三八条ないし四〇条に定める罰則の対象とされる行為が行われれば、通常の警察機構がこれを捜査し逮捕し起訴して刑事責任を追及することになるはずである。公安調査庁及びその下にある公安調査官が調査を行うのは、このような暴力主義的破壊活動が犯罪として摘発された段階で、五条以下に規定する団体規制の必要に関する場合に限定されている。
 例えば、やや繰り返しになるけれども、団体活動の禁止に即して調査の構造を見ると、五条は、「公安審査委員会は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体に対して、当該団体が継続又は反復して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があるときは、左に掲げる処分を行うことができる(以下略)」と定めている。そしてこの処分は「公安調査庁長官の請求があった場合にのみ行う」とされており、したがって、調査はこの請求を行うか否かに関する公安調査庁長官の判断の資料を提供するために行うもの、という考え方が、破防法立案にあたった当時の法制意見参事官であった真田秀夫や法務府特別審査局次長の関之によって示されている(4)。
 そうであるなら、調査は、暴力主義的破壊活動が行われた場合に、まず、当該活動が何らかの「団体の活動として行われたか否か」の判定があり、もし、団体の活動として行われたのであれば、当該破壊活動団体が「当該団体が継続又は反復して将来さらに団体の活動として破壊活動を行うおそれがあるか否か」を調査し、このような「明らかなおそれを基礎付ける十分な証拠」が得られた段階で終了するはずであるし、そのような十分な証拠が得られなければ、調査権は消滅するはずである。
 また、五条に基づく団体活動の禁止が行われた場合には、七条に基づく解散指定へと規制が発展する可能性があることから、この場合には五条の規制の実効性の確認のための調査はあり得るものと思われる。
 いずれにせよ、この調査は国民の基本的人権に重大な影響を及ぼす危険性を構造的にもっている。公安調査庁はアレコレの団体を「調査対象団体」に指定して恒常的に調査活動を展開しているが、破壊活動団体でない団体に対して調査対象団体に指定して調査を行うことは、破防法に規定された調査権の範囲を超える可能性がある。それを単に破防法違反の問題として評価するのではなく、構造的に二七条を超えて調査活動が行われている(5)とすれば、結社の自由との関係で問題となる破防法の第三の柱として評価する必要があるかも知れない。なぜなら、既に見たごとく破防法の刑事処分の適用事例は八件にすぎず、これに対して、所管する公安調査庁は、一九九五年度の定員一七六八人、うち調査官一六〇七人、予算一七七億二七六六万四〇〇〇円、うち調査費二七億八九九六万九〇〇〇円という実勢力にあり、破防法が恒常的に使われているのは圧倒的に調査活動であり、この調査こそが破防法のノーマルな現実的姿であるかも知れないのである。
 尚、付言すれば、二七条の調査は任意捜査であり強制力を持たないが故に令状主義の枠外に置かれている。したがって、現実に行われている調査活動の全容を知ることは困難であるが、例えばある政治団体の本部前にカメラを設置して出入りする者を撮影するとか、その団体の構成員に対して内偵に協力するように求めるとか、の報道がなされている。
 前者については、「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であって、しかも証拠保全の必要性及び緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもって行われる」場合には、「犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになっても、憲法一三条、三五条に違反しないものと解すべきである」(最大判一九六九年一二月二四日刑集二三巻一二号一六二五頁)との最高裁の判決を踏み越えるように思われる。この場合には、撮影された個人について憲法一三条で保障された肖像権の侵害があると考えられるし、仮りに当該個人が団体の構成員である場合には、個人の結社の自由に対する侵害という問題を生ずるし、団体構成員の活動を保全するという意味での団体自体の自由の侵害も問題となろう。
 後者にあっては、調査官による脅迫は論外としても、金銭の提供や酒食の饗応による協力の場合、協力者の任意による情報提供活動であるから、協力者自体については結社の自由侵害は発生しない。ただ、団体自体についてはその自由の侵害を疑うことはできないであろう。その団体を媒介として他の構成員個人の結社の自由侵害が間接的に成立するといえよう。

(1) 思想の自由侵害については、一瀬敬一郎「現代の治安維持法---破防法団体適用と天皇制警察の復活---」社会評論社編集部編『気にいらぬ奴は逮捕しろ』(一九九〇年)がこれを強調する(二五三頁以下、及び二六三頁以下)。団体適用に関して思想取締りであるとする論旨については、仮に本質的にはそうであっても、直接的には結社の自由の問題だと思われる。もっとも、思想の自由は絶対だから、思想に基づく行為であればいかなる行為であれ刑事責任は追求されないという前提であるなら、それなりに理解できないことはないが、賛成しかねる。
(2) 四条二号チに定める爆発物使用については、爆発物取締規則にその脅迫・教唆・煽動・共謀を処罰する規定が置かれているので、破防法による刑罰拡張は行われていない。また、四二条及び四四条に団体規制に係わる禁止行為違反に対する罰則、及び規制手続中の傍聴人に対する退去命令違反に対する罰則が定められているが、これらはいずれも暴力主義的破壊活動の概念には含まれない。
 尚、「暴力主義的破壊活動」という概念に対して、規定の不明確性を批判する見解が有力である。例えば、佐藤幸治「表現の自由」芦部信喜『憲法II人権1』(一九八八年)六二八頁は、「確かに治安維持法の場合と違って刑法所定の行為が土台となっているが、その土台の中には憲法上の疑義を免れ憎いものが含まれているのみならず(たとえば、内乱罪の構成要件たる『朝憲〔ノ〕紊乱』)、四条一項二号の「政治上の主義若しくは施策・・・」なる要件は広汎かつ不明確に過ぎる」としているし、浦部法穂、前掲注釈、四五八頁は、「『暴力主義的破壊活動』の意義じたい明確とはいいがたい(とりわけ四条一項二号の『政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対する目的をもって』とする要件は、致命的に不明確である)」としている。
(3) 大塚仁『特別刑法』法律学全集四二(一九五九年)五〇頁も、「いずれについても、犯罪の主体は個人であり、団体に対する刑事責任をみとめる趣旨ではない」としており、小野坂弘「破壊活動防止法」伊藤栄樹、小野慶二・荘子邦雄編『注釈特別刑法第三巻・選挙法外事法編』(一九八三年)七九八頁も、「たしかに、形式的には、『暴力主義的破壊活動』は行政的=非刑罰的な概念であり、罪名ではない。しかし、『暴力主義的破壊活動』のうちで、すでに刑法その他の刑罰法規により処罰されているを除き、さらに刑法八七条に規定する行為の教唆を別として、他の全ての行為類型に罰則を設けて刑罰規定を補整する破防法は、特別刑法である」としている。
(4) 真田は「公安調査官による調査は、破壊的団体に対する本法の規制処分に関して、その証拠資料を収集する見地から行われるものであって、
暴力主義的破壊活動からなる犯罪の捜査ではない」としている(真田秀夫『破壊活動防止法の解説』一九五二年一三五頁)し、国会において提案の遂条説明に立った関之も後に佐藤功との対論の中で「実質的な問題として暴力主義的破壊活動の疑がある、そういうことが行われたということになれば、この調査の規定に従ってできるだけ証拠資料を集めなければならぬ。しかし全然そういう疑のないところへ持って行って調査のために特に張込みをし尾行をすることは絶対避けねばならぬ。そういう点は第三条の規制及びその他の調査の範囲を逸脱する」と述べている(佐藤功・関之、対論『破壊活動防止法の解釈』一九五二年、一五二頁)。
(5) 衆議院での法案審議の際に、提案者である木村篤太郎国務大臣は「本法案におきまする公安調査庁、今の特審局と申しますのは、事の起こらぬ前に、行政事務としていろいろなことを調査することの建前をとっておるのであります」(浅井清信、磯村哲、大西芳雄、末川博、杉村敏正、瀧川晴雄、恒藤武二、西村信雄、平場安治、宮内裕、川口是〔幹事〕「破壊活動防止法遂条解説」『破壊活動防止法---遂条解説と総批判』別冊法律時報(一九五二年)、七二頁を参照)と述べており、これは、破壊活動の起こった後に調査するという前注の真田見解、関見解と異なる。実務が木村見解に従って展開されるなら、調査権は結社の自由に対して深刻な緊張関係にたつことになる。
 この点について、公務執行妨害罪に関するある判決は、調査権に関して「容疑団体の存否、破壊活動の存否、存在の疑いのある場合にはその内容、その団体が継続又は反覆して将来更に団体の活動として破壊活動を行うおそれがあるかどうか、その危険の程度並びにこれらの事実を証する証拠資料の収集、整理等が包含せられ、規制処分の後においては規制処分の実効を確保するための調査等も考えられる」(金沢地判一九五八・二・一九判時一四三・六)としている。暴力主義的破壊活動が何も発生していない段階での調査を排除していない点に留意が必要である。
 尚、野村二郎『日本の検察〔新版〕』(一九九一年)二二四頁によると、調査対象団体に指定されているのは、((1))日本共産党、((2))全学連(代々木系)、((3))共青同、((4))共産同、((5))中核派、((6))革労協、((7))革マル派、((8))革共同、((9))在日朝鮮人総連合、((10))護国団、((11))愛国党、((12))愛国青年同盟、((13))国民同志会、((14))日本同盟、((15))関西護国団、((16))日本塾の一六団体であり、一九九五年五月二三日にオウム真理教が加えられている。同書二二八頁以下に、調査官の調査活動の実態が示されている。


II 団体活動の規制にかかる要件

一 団体の活動への個人の行為の連結
 破防法五条一項は、団体規制の発動要件を「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体に対して、当該団体が継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があるとき」と定めている。結社の自由との関係で問題になるのは、「団体の活動」という要件である。
 「団体」は、四条三項に「特定の共同目的を達成するための多数人の継続的結合体又はその連合体」と定義されている。結社の自由でいうところの「結社」の概念は、「一定の目的のためにする多数人の結合(1)」であり、両定義は極めて近接しているからである。さて、この「多数人」とは、公安調査庁発足直後の近畿公安調査局長であった徳永正次や、法務府検事局公安課長であった神山欣治によれば、「二人以上の人(2)」であるとしているが、「二人、三人ないしは数人といったようなごく限られた少人数の結合体」はこれにあたらないとする考え方もある。一時的な結合は含まれないから「公共の安全に対する大きな脅威をかもし出すに足る程度の組織なり、時間的継続性をそなえているかどうかということが、本法の団体の範囲を定める上において、ひとつの目やすになる(3)」という考え方にたつものと思われる。これを前提に団体定義を展開すると「特定の共同目的を達成する為に多数人が構成員となり、しかも、その各構成員個人をはなれた集団としての独自の意思、即ちいわゆる団体意思を決定し、これに従って行動し得る相当期間継続性のある集団(4)」ということになる。いずれにせよ、この団体定義は、一般的なものであり、結社の概念に相当するものと見てよいであろう。
 さて、暴力主義的破壊活動自体は、既に見たように個人の行為に関して成立するものである。これを根拠に団体規制を行うには、どうしても暴力主義的破壊活動と団体とを結び付けることが必要となる。それが「団体の活動」なのである(5)。特定の個人の行為が同時に団体の行為とされるのは、破防法に即して言えば「団体の意思が決定され、その決定された団体意思の実現として役職員又は構成員によって行われ(6)」た場合である。ここには、第一に、団体の意思決定手続にしたがって暴力主義的破壊活動とされる行為を行う意思決定手続が履践され意思が形成されたこと、第二に、暴力主義的破壊活動を行った行為者が団体の役職員か構成員であること、第三に、行為者が団体意思を実現するという意図の下に行ったことが含まれている。このような場合に、個人の暴力主義的破壊活動は団体の活動となり団体は破壊活動団体となるし、暴力主義的破壊活動というタームを取り去ってみれば、このような場合に個人の行為は結社の行為となることになる。
 こうして、個人の行為は団体又は結社の行為は連結される。この要件を維持するからこそ、破防法は結社の自由の規制立法となるのである。「団体の活動として」の暴力主義的破壊活動の反覆・継続であるから、「団体の活動」という要件は過去の暴力主義的破壊活動と、将来の暴力主義的破壊活動の双方に要求されている。

二 団体の悪性への「明らかなおそれ」の連動
 発動の第二の要件は、「継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由がある」ことである。「継続性というのは、同一の意思の実現として一定期間連続して行われることをいい、反覆というのは、同一傾向の性格にもとづいて、時間的間隔をおいてくり返されることをいう」と説明されている(7)。「連続する」という概念と「繰り返される」という概念の異同は具体的な場面では必ずしも明確でなく、また「同一傾向の性格」というのも狭く考えれば同一の行為となるであろうし、広く考えれば数多い暴力主義的破壊活動のうちの任意の行為になるであろうし、はたまた「同一の意思」ということであれば前段部分と重複するといった具合に必ずしもクリアでない。むしろ、真田秀夫によれば、「過去において行い、将来さらに継続又は反覆して行うおそれのある団体というのは、ことばをかえれば暴力主義的破壊活動を行うことが、ほとんど性格化した団体(8)」ということになる。ここには、一定の種類の団体又は結社に対する強い不信感がみてとれないことはないが、この点は後に触れる。
 「団体の活動として」とは、構成員が単に暴力主義的破壊活動をくり返すのではなく、先に見たように、団体の意思決定手続にしたがって暴力主義的破壊活動とされる行為を行う意思決定手続が履践され意思が形成され、その団体の構成員が、団体意思を実現するという意図の下に行うことが必要である。そのうえで、このような「明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由」がなければならない。「明らかなおそれ」とは、「社会通念上一般に認識される程度に顕著」な、「発生の客観的な蓋然性」をいう。「認めるに足りる十分な理由」とは、「証拠によって認定するにつき合理的に判断して十分と思料される理由(9)」を指す。
 関之によれば、具体的には「一定の政治上の目的を掲げ、その目的を達成するまでは断じて矛を収めるなというような指令が発せられて、それに基づいて暴力主義的破壊活動が行われ、更にこの方針を強く堅持する場合(10)」がこれにあたるとされている。この説明によれば、暴力主義的破壊活動の前提となる団体の意思決定が断固たるものであり、当該行為が行われた後にこの方針の堅持が改めて行われることが想定されているように見える。しかし、関は、別の文献では「おそれ」の認定にそれほどの厳格性を要求していないように見える。例えば、次のような記述がある。
「その団体は、既に過去において暴力主義的破壊活動を行った団体である。しかもこの暴力主義的破壊活動は、その内容、その危険性からみて、国家は、これが結果の実現せられる以前に可及的速やかに防止する必要があり、かつ、充分これを防止するに値するものである。しかるに、その団体は、過去に行ったかかる危険な暴力主義的破壊活動に継続、反覆して、将来更に同様な活動を行うものであるとの明らかな可能性を認めるに足りる十分な理由があるのである(11)。」
 ここに示された関の考え方は、先に見た真田の見解よりも深刻である。真田の場合には、暴力主義的破壊活動を過去に行った団体があり、その上でこれが性格化している否かによって団体規制に進むか否かが判定されるという論理をとるのに対して、関の考え方によれば、過去に暴力主義的破壊活動を行った経験があるというだけで、「将来更に同様な活動を行うものであるとの明らかな可能性を認めるに足りる十分な理由がある」ということになる。この論理に立てばいわば「前科団体」には必ずと言ってよい程、団体規制が行われるのである。つまり、「明らかな」とか「十分な」とかの文言はほとんど限定の意味をもたないことになろう。破防法制定の際に、当時法務府特別審査局次長として国会で答弁にあたり、破防法成立後公安調査庁総務部長となった関之の見解の方が実務を支配していると見た方が自然かもしれない。いずれにせよ、真田に見られた団体に対する不信感は、関についてはいっそう顕著であり、それだけ団体又は結社に対する規制の蓋然性が顕著であるということは言えよう。

三 解散指定への発展
 破防法七条は、公安審査委員会が五条一項の処分の対象となる団体に対して、団体活動の禁止によっては、暴力主義的破壊活動が繰り返される「おそれ」を「有効に除去できないと認められるときは」解散指定を行うことができるとしている(12)。この要件は、次のような問題を含んでいるように思われる。
 七条三号は、「第五条第一項の処分を受け、さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体」であるから「おそれを有効に除去」できなかった場合にあたる。ただ、一号は四条一項一号の暴力主義的破壊活動を行った団体をあげ、二号はイからリまでの暴力主義的破壊活動を行った、若しくはその未遂、教唆、せん動してこれを行わせた団体をあげている。したがって、暴力主義的破壊活動を行った団体と、行わせた団体、及び未遂の団体が対象とされることになる。その場合、「継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があるとき」という団体活動の禁止の際と同様の要件が置かれているが、解散指定の際には「おそれを有効に除去することができないと認められる」とされており、「おそれを有効に除去することができないと明らかに認められる十分な理由があるとき」ではないから、団体活動の禁止から解散指定へは、比較的スムーズに発展するように見受けられる。この場合にも「団体の活動として」の暴力主義的破壊活動の反覆・継続であるから、「団体の活動」という要件は過去の暴力主義的破壊活動と、将来の暴力主義的破壊活動の双方に要求されている。

(1) 宮沢、前掲書、二四五頁。
(2) 徳永正次『日本共産党と破防法---破壊活動防止法の適用の限界』(一九五二年)九九頁。また、神山欣治『遂条破壊活動防止法解説』(一九五二年)四八頁も「『多数人』とは、二以上の人(自然人又は法人)の意」であるとしている。
(3) 真田、前掲書、六八頁。関も「言葉自体の問題としては、数人以上は含まれると思うのですが、それもやはりこの法律による処分の制度に関連して考えなければならない問題でして、五人とか六人とかいう団体に対して本法が適用されということは実際問題としてないだろう、かように考えるわけです」と述べている。佐藤、関、前掲書、八九頁。尚、国会図書館専門調査員であった土屋正三は、団体の概念が不明確であることを指摘している。同「破防法論議」警察研究二三巻八号三〇頁以下。
(4) 神山、前掲書、四七頁。
(5) 一九九〇年の末に「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体」という要件を充足することが困難であることから、法務省が「団体立証」の要件を外すように法改正を検討し、また、自民党も同様の検討に入ったことが報じられたが、それが実を結ばなかったのは、「団体の活動として」という要件を外せば、暴力主義的破壊活動の概念に包摂される刑事上の犯罪が残るだけで、団体規制の根拠がなくなるという点もあったのではないかと推測される。参照、亀井弘人「急浮上する『破防法改正』論---戦後憲法体制転覆のもうひとつの環」破防法研究七〇号(一九九一年)二三ー三二頁。
(6) 真田、前掲書、七七頁。
(7) 真田、前掲書、八六ー八七頁。尚、浅井等、前掲論文三七頁は、この部分につき、「同一の意思を持続しまたは同一の意思を持続することなく繰返してということであって、団体が主観的に一定期間連続して行う意思ありと認められるときに、継続してと考えられ、客観的に一定の時間的間隔を置いて繰返されるときに、反覆してと考えられる」としている。
(8) 真田、前掲書、七九頁。
(9) 神山、前掲書、六三頁。
(10) 佐藤、関、前掲書、一〇一頁。
(11) 関之「破壊活動防止法の主要論点について」法曹時報四巻一〇号一七頁。尚、同『破壊活動防止法解説』(一九五二年)九三頁では「『明らかなおそれ』とは単なる『可能性』のことだとされている」との記述が、小田中聡樹「『破防法』という無法」世界六一六号二二八頁にある。
(12) 団体の活動禁止の処分及び解散の指定処分の手続について、これを裁判所に行わしめるべきであるとする批判が強くなされているが、手続的な問題については、本稿の関心外なので、立ち入らない。浅井等、前掲論文、四七頁以下、小野坂、前掲論文、七九四頁、小田中聡樹、前掲論文、二二九頁を参照されたい。



III 団体活動の規制

一 団体活動の禁止
 (1) 団体活動の禁止
 五条一項一号は、「当該暴力主義的破壊活動が集団示威運動、集団行進又は公開の集会で行われたものである場合においては、六月をこえない期間及び地域を定めて、それぞれ、集団示威運動、集団行進又は公開の集会を行うことを禁止すること」と定めている。期間の限定があろうと地域の限定があろうと、暴力主義的破壊活動が、集団示威運動で行われれば集団示威運動が、集団行進で行われれば集団行動が、そして公開の集会で行われれば公開の集会が、それぞれ禁止されることになり、その限りで表現の自由や集会の自由に対する極端な制約となり、憲法問題を生ずることはよく指摘されているところである。
 ここで、規制のあり方をシミュレートしてみることにしよう。既にみたように、いわゆる「前科団体」に対して団体規制が行われるとすれば、暴力主義的破壊活動があれば直ちにこれが発動されることになるが、「政治目的」をもつ「強盗」の予備・陰謀・教唆・せん動が集団行動の中で行われるとは考えにくいし、集団行動の中で内乱の正当性や必要性を通信によって訴えることも想定しにくい。想定されているのは、例えば、集団行動をするうちにせん動を受けて参加者が興奮し騒乱や汽車・電車転覆等の行動に発展する場合である。けれども、せん動とは第四条二項に定義されているところによれば「特定の行為を実行させる目的をもって、文書若しくは図画又は言動により、人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめ又は既に生じている決意を助長するような勢のある刺激を与えること」であるから、被せん動者がこのような行為を行う必要はないし、実行の決意を生じたり既に生じている決意が助長される必要もなく、ただそのような勢いのある刺激を与えるだけで成立する。
 学説は、これに対して、抽象的危険でなく具体的危険を要するとか、「明白にして現在の危険」を要求するとか、あるいはいわゆるブランデンバーグ原則を適用するとかの考え方を示してきた(1)。そのように考え運用しなければ違憲になるという前提がそこにはあるであろう。それは二条にいう「公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用す」るという規定の範囲内のことである。問題は、右定義規定を素直に読む限り、実行の決意を生ずることや生じている決意を助長することではなく、そのような勢のある刺激を与えることが、「公共の安全の確保のために必要な最小限度」の範囲内の措置と言えるかという問題であり、さらにこのようなせん動罪はそもそも違憲の疑いがあるのではないかという点である。ここではせん動罪の違憲問題については課題ではないので、これ以上は立ち入らない(2)。
 さて、集団行動の中で、「実行する決意を生ぜしめ又は既に生じている決意を助長するような勢のある刺激」が与えられると、暴力主義的破壊活動が行われたことになる。これが「団体の活動として」行われたとの認定を公安調査庁長官が行い、公安審査委員会がこれを認めた場合には、先に見たようにかかる団体は「過去に行ったかかる危険な暴力主義的破壊活動に継続、反覆して、将来更に同様な活動を行うものであるとの明らかな可能性」があることになるから、団体活動の禁止へと進むことになる。そして、集団示威運動・集団行進・公開の集会の禁止が行われる。この禁止措置は、当該団体の行為であるということ自体の危険性に着目して行われることになる。したがって、個々の集団示威運動や集団行進、あるいは個々の公開の集会の危険性は問題ではない。その意味で包括的な禁止措置であり、予定された個々の集団行動がいかに平穏無事なものであっても許されないから、憲法二一条の保障する表現の自由の概念にそもそも包摂されない行為であるという観念に基づいた極端な事前抑制の規制措置であり、危険の予防という目的から見た場合、規制手段は必要最小限度をはるかに超え、あるいは合理的関連性すらもたないように思われる。
 二号に定める機関誌紙の印刷・頒布禁止についても同様のことが言える。機関誌紙によって暴力主義的破壊活動が行われたといっても、機関誌紙によって政治目的をもつ殺人や激発物破裂が行われることは想定できないから、専ら教唆・せん動にかかる表現が行われた場合が規制の対象であると考えてよい。これも当該団体の発行する機関誌紙であるという理由に基づいて禁止されることになる。当該機関誌紙に表現されたメッセージが、抽象的にであれ具体的にであれ、危険であることが問題なのではない。こうしたメッセージの危険性やこれに起因する実害の発生に対処する方法は、一般にかかる表現物が公表された後に行う事後規制が基本的な原則であることは周知のことがらである。事前に内容を検討して不適当と認める場合にその発行を禁止するのでもない。これは憲法二一条が明示的に禁止する検閲にあたる。五条二号の措置は、検閲ではない。検閲は、個々の表現物の危険性を審査するが、破防法の機関誌紙の禁止は内容審査を行うことなく、一般的に禁止するのであるから、検閲よりも厳しい規制なのである(3)。
 いずれにせよ、団体活動の禁止措置は、団体自体の危険性・悪性に着目した、団体自体に対する規制である。その意味では、団体自体の自由を直撃する規制方式であり、その結果、確かに個人の結社する自由に深刻な影響を与えることは事実であるから、このような場合にも、個人の結社する自由だけを根拠に団体活動の規制を争うことは不可能ではないと思われるが、間接的だという印象を免れない。
 (2) 個人の行動の規制
 五条一項三号は、「六月をこえない期間を定めて、当該暴力主義的破壊活動に関与した特定の役職員又は構成員に当該団体のためにする行為をさせることを禁止すること」と定めている。この場合の「関与した」というのは、「暴力主義的破壊活動を行おうという団体の意思の決定又はその意思の実現に積極的に関与したこと」をいい、例えば「暴力主義的破壊活動を行おうという団体の意思が数人の合議によって決定された場合において、その合議の席にあって、反対の票を投じた者は、もちろん、その暴力主義的破壊活動に関与した者ということはできない(4)」と説明されている。
 どのような方法で反対票を投じたことを認定するのか、あるいは反対だったが渋々賛成票を投じた場合はどうなるのかといった疑問はさておき、この禁止措置は、「させることを禁止」するのであるから、禁止の名宛人は団体であって、役職員や構成員ではない。団体が当該役職員なり構成員なりに「団体のためにする行為」をさせることが禁じられることになるから、問題となった当該役職員なり構成員なりが自己の判断で団体のためにする行為は五条一項三号では禁じられていない。団体が特定の者を使って団体のために活動させることが禁じられるから、個人の活動の禁止ではなくて、これは団体の活動の禁止なのである(5)。
 五条二項は、「前項の処分が効力を発した後は、何人も、当該団体の役職員又は構成員として、その処分の趣旨に反する行為をしてはならない」と定めている。処分の趣旨とは、一号の集団行動の禁止、二号の機関誌紙の印刷・頒布の禁止、三号の特定の役職員・構成員に行為を命ずることの禁止である。禁止の名宛人は「何人」であるから、すべての者を包括する禁止規定であり、三号で指定された役職員を含みその他不特定の者一般を含む規制であるが、役職員又は構成員としてでなければよい。ところが、六条に「前条第一項の処分を受けた団体の役職員は、いかなる名義においても、同条第二項の規定による禁止を免れる行為をしてはならない」としているため、役職員及び構成員のうち五条一項三号の処分を受けた者は、他の団体の構成員としてであれ個人としてであれ、当該破壊活動の団体のためにする行為は禁止される。
 もし、六条の対象となる者を処分を受けた団体の役職員一般又は構成員一般を解するなら、五条二項の「何人も、当該団体の役職員又は構成員として」という規定が無駄な規定になってしまう。既に五条二項で禁止されているからである。五条一項一号で処分の対象とされた団体につき、当該暴力主義的破壊活動に関与した役職員であれ関与しなかった役職員であれ処分の趣旨に反する行為は五条二項で禁止されているから、六条を置く意味は五条一項三号の処分以外にはあり得ないものと考えてよい。
 これは個人の結社のために行う行為の自由、即ち、個人の結社する自由の制約であると同時に団体がその活動の手段を奪われるという意味で団体自体の自由の制約である。

二 団体の解散指定
 さて、解散指定が行われた場合、法的には団体の解散という効果を直ちにもたらす訳ではない。その効果は、八条ないし一〇条に定められている。八条は、指定の処分が効力を生じた後に「当該処分の原因となった暴力主義的破壊活動が行われた日以後当該団体の役職員又は構成員であった者は、当該団体のためにするいかなる行為もしてはならない」とし、九条は右の脱法行為を禁止し、一〇条は、当該団体が法人である場合には解散することとしその財産整理(権利能力なき社団の場合も含む)を定めている。したがって、解散指定処分の団体に対する直接的な効果は、団体が法人の場合に解散し、財産の整理にかかるというに止まり、自主的な諸個人の結合として存続することは法的には禁じられない。ただ、八・九条に定める構成員の「団体のためにする行為」と脱法行為の禁止によって、当該団体は事実上活動不能の状態に追い込まれるため、実際には解散という効果が現出する。
 法人格の剥奪は、団体自体の自由が法人であることをどこまでその内容とするかについて争いのあるところではないかと思われるが、直接的に団体自体の自由に影響することは明らかである。宗教法人法との関わりで、法人格を喪失しても団体としての儀式や礼拝、布教の自由が奪われる訳ではないという説明を見ることが多いが、そのことの含意が法人格の有無は結社の自由と関係がないということであれば、結社自体、団体自体の自由は損なわれてはいないことになろう。ただ、財産の帰属主体としての地位を喪失するから、結社の自由の剥奪とまでは言えないにしても深刻な影響を受けることは明らかであろう。
 もし、このような影響を結社の自由ににとって深刻なものであると考えれば、翻って、個人の結社する自由の成果が法人格を含むことになり、団体自体に生ずる影響よりは間接的になるかも知れないけれども、個人の結社の自由に対する一定の制約となる。
 役職員・構成員の「団体のためにする行為」の禁止及び脱法行為の禁止は、団体が活動する際に不可欠の手段たる機関の活動を封じられることになるから、結社自体、団体自体に対する規制であるという側面をもつ反面、個々の個人が結社する自由を直接的に規制の対象にすることになる。

(1) 例えば、古くは清水睦「『明白にして現在の危険』原則の適用について」法学新報六六巻一一号(一九五九年)一三ー四五頁、同「『明白にして現在の危険』原則の適用をめぐる問題---破防法三八II2事件の判例を中心にして」公法研究二二号(一九六〇年)一三七ー一四六頁、宮内裕「煽動罪などの表現犯罪の危険性について」同『戦後治安立法の基本的性格』(一九六〇年)一一七ー一四一頁。また、佐藤幸治、前掲、五二〇頁以下。曽根威彦『表現の自由と刑事規制』(一九八五年)三六ー六一頁。阪本昌成『憲法理論III』(一九九五年)四八頁等々。
(2) 煽動罪の憲法適合性について触れる文献は多いが、さしあたり、拙稿「犯罪の煽動と表現の自由」芦部信喜・高橋和之編『憲法判例百選I(第二版)』(一九八八年)八二頁以下、同「犯罪の煽動と表現の自由」芦部信喜・高橋和之編『憲法判例百選I(第三版)』(一九九四年)一〇四頁以下、木下智司「破壊活動防止法のせん動罪と表現の自由」芦部他編、前掲『第三版』一〇六頁以下、あるいは君塚正臣「煽動罪と破防法---いわゆる渋谷暴動事件最高裁判決」阪大法学四一巻四号(一九九二年)五〇一ー五一八頁、奥平康弘「"煽動罪"解体を試みる序説」樋口陽一、高橋和之編『現代立憲主義の展開・上』(一九九三年)、六〇五ー六四一頁のみをあげておく。
(3) 磯田進は、「六ヵ月間機関紙の発行を禁止するということは・・・一号一号検閲するのに比べれば、はるかに包括的な量的にも質的にも深刻な、基本権に対する制約であるのです。そうすれば、検閲さえもしてはいかぬというのに、そういった包括的な出版の自由に対する制限が憲法上許され得るはずはないと思いますね」と述べている。鵜飼信成・団藤重光・辻清明・磯田進「研究会・破防法の糾明」ジュリスト一〇号(一九五二年)二一頁。尚、渡辺治「政治的表現の自由法理の形成---戦後憲法理論史のための序章」社会科学研究三三巻三号(一九八一年)三一一頁を参照。
(4) 真田、前掲書、九二頁。
(5) 「団体のためにする行為」という概念はほとんど内容が特定できない。ただ、団体がさせることが禁じられるから、あれこれの具体的な行為が禁じられるというより、団体が当該役職員に何らかの行為を命じてはならないという趣旨であろうと思われるけれども、団体に対して風当たりが強いので団体が当該役職員の「しばらく行為を自粛せよ」と命じてほとぼりの冷めるのを待つ場合には、その結果生ずる当該役職員の不作為は「団体のためにする行為」ではないのかという疑問も生ずる。ともあれ、この「団体のためにする行為」の禁止は、一九二八年に緊急勅令によって改正された治安維持法一条の「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」(いわゆる目的遂行罪)という観念に近いものがある。


まとめ---個人の結社の自由と団体自体の結社の自由
 破防法による団体規制は、結社に対するドラスティックな規制である。破防法の立案者や起草者の理解の通りに運用されるとは限らないけれども、団体や結社に対する根強い不信感に基づいて作られており、「明らかなおそれ」とか「十分な理由」とかの認定上の要件はこの不信感を基礎にすれば、たやすく認定されるものであろう。ともあれ、これまで「団体の活動として」という要件の充足が困難であったり、あるいは適用した場合の政治的リスクが大きいために適用が見送られたりしてきた(1)。
 右の不信感は、結社の自由に対する基本的な見方と連動しているものと考えることができよう。本稿の課題から言えば、このような団体規制に対抗するために結社の自由論に何が必要とされているかを明らかにしなければならない。個人の結社の自由だけが二一条によって保障されていると考えた場合に、右不信感に対する抵抗は原理的なものに止まるの可能性があろう。団体活動の禁止については、団体自体の自由の制約としても現れるが、個人の結社の自由の制約としても現れる。団体に対する解散指定の場合にも同様に考えることができよう。
 本稿では処分の手続には触れなかったが、いずれの処分の場合にも、団体の役職員、構成員及び代理人が五人以内に限って受命職員に対して意見の陳述及び証拠の提出ができるとされている(一四条)ことや、処分の効力を訴訟上争うことができるとされている(五条二項但書及び八条但書)ことから、破防法のシステム自体は団体が団体として処分に対抗することを予定していると考えられるので、団体自体の自由が前面に出ることになる。もちろん、この場合ですら、間接的であるという感は否めないにしても、個人の結社の自由が集団的に行使されていると見ることは可能であるかもしれない。さらに、団体活動の禁止や解散指定の場合に規制に対する違反は四二条及び四三条によって処罰の対象とされている。この場合には、個人の刑事責任の追及であるために法廷において当事者として現れるのは団体ではなく個人である。この場合には、個人の結社の自由の問題と考えるより外はない。
 右に見たように、個人の結社の自由という観念だけで団体規制に対抗することは理論上は可能である。けれども、行政処分については団体の結社の自由で、刑事処分については個人の結社の自由で対抗する方が素直な構成であるように思われる。したがって、結社の自由は個人のレヴェルと結社自体のレヴェルで成立するものであるという一般的な理解の方が、当面は、優れていると言えよう。また、団体内部に協力者を得て内偵活動を行う場合などを考えてみると、団体自体の自由という観念を承認する方が適していると見られよう。とすれば、結社の自由論にとって今後究明されるべきは、個人と団体との二重化した自由を一旦承認したうえで、両者の内的な関連の解明にあるといえるであろうし、現代社会における集団と個人の重層的な複合を前提に、憲法が想定する社会秩序・民主主義秩序の解明にあるといえるであろう。

(1) 破防法の団体規制の概観については、拙稿「動き出した破防法 その危険性」法学セミナー四九四号(一九九六年)三八ー四三頁を参照されたい。尚、小野坂、前掲論文は、団体規制を発動すれば違憲となるので適用が見送られてきたのではないかと指摘している(前掲、七九六頁)。