立命館法学  一九九五年五・六号(二四三・二四四号)




ラスコーリニコフの周辺
−ドストエフスキーの『罪と罰』をめぐって−

上 田  寛






目    次




は  し  が  き
  ドストエフスキーの小説『罪と罰』は不思議な魅力を秘めた作品である。その主題も登場人物も、一三〇年前のロシアという枠を超えて、今日のわれわれにとっても新鮮であり、語られる言葉、背景に流れる思想あるいは人々の感情さえも、なお十分な生命力を失っていない。
  本稿は、この小説『罪と罰』を素材として、帝政下のロシアの犯罪と刑罰についていくつかの考察を加えることを目的としている。
  もちろん、それを文学的価値という側面から見るのであれば、かつてのソビエト時代の一時期を除き、ロシアでも、日本を含む諸外国でも、ドストエフスキーのこの作品については隅々まで検討され、多くのことが語られてきた。したがって、ロシア文学を専攻とするものではない筆者などが、今さら付け加えて述べうることは多くない。だが、ドストエフスキーのいくつかの作品では直接に犯罪がテーマとなっており、とりわけこの『罪と罰』では、刑法学あるいは犯罪学を専門とする者にとっても、注目すべき考察が随所に展開されている。今、そのような観点からこの作品を見ると、主人公たるラスコーリニコフの犯罪へと追いつめられていく心理状態の描写、犯罪後の罪責感と正当化の試みとの葛藤、予審判事ポルフィーリーとの息詰まるようなかけひき、シベリアの要塞監獄での真の悔悛と精神的な立ち直りの予感といった諸経過は、興味つきない研究の素材である。さらにまた、小説には貧困、売春、アルコール中毒、家庭内の葛藤、青年の未来への不安と現在への憤怒、正義感と短絡的思考、あるいは愛といった、犯罪の背景が綿密に描写され、多くの検討すべき素材がそこには提供されているのである。
  のみならず、一体にその作品がそうであるだけでなく、作家ドストエフスキー自身の生涯も、振幅の大きい、波乱に満ちたものであった。政治犯として死刑判決を受け、銃殺の寸前に到着するように仕組まれた減刑の勅令によりシベリアの要塞監獄に送られ、いくつかの偶然とあふれるばかりの文学的才能によってペテルブルグの文壇に返り咲いた彼に、生涯つきまとったのは財政的な窮迫であり、執拗なてんかんの発作であり、劇的な恋愛と結婚、そして飽くことのない賭博熱であった。思想史的に見て彼の基本的な立場は、反西欧・スラブ派としてのそれにあるとされ、またギリシャ正教の精神性をよく体現した宗教人でもあったと紹介される。それらの背景的な事情が、犯罪と刑罰に関するドストエフスキーの思考にどのように反映し、それをどのように特徴づけているかもまた、われわれの関心を引かずにはおかない。
  しかしながら、ここでわれわれが試みるのは、直接にそれら課題に取り組むことではない。それら課題の、いわば、周辺部への探索にすぎない。畑中教授の退職記念論文集の編集されるこの機会に、未だ発酵しきらぬ考察の断片ではあるが、小論をその一編として加えさせていただき、将来の研究を自らに期すこととしたい。
  *  本稿において『罪と罰』からの引用は、原則として江川卓氏による翻訳(旺文社文庫版)の巻と頁のみを示すこととする。

一  ラスコーリニコフ  たち
  一八六六年一月一二日、モスクワの中心部ゲルツェン街の裏通りの住居で、高利貸しである退役大尉ポポフとその下女マリヤ・ノルドマンが殺され、現金や有価証券二万三千ルーブリが奪われるという事件が起きた。被害者の現場に残した帳簿から疑わしい人物としてグリゴリーエフ某を割り出し、その人物が借金のかたとして差し入れた宝石を手がかりに、宝石店に現われてその鑑定を依頼した人物がハンサムな青年であったことを突き止め、そして警察当局が祝日の繁華街の賑わいの中に立たせた宝石店員が幸運にもその青年を発見し、ここにモスクワ大学法学部二回生アレクセイ・ダニーロフを逮捕するに至った過程、そしてまた嫌疑を否認するダニーロフに巧みに持ちかけて肉親への手紙を書かせ、その筆跡と先のグリゴリーエフ某が被害者のもとに残した鉛筆書きのメモとを鑑定した専門家がこれを同一人によるものと断定したことや、全てを否定していたダニーロフが六日間の勾留の後に供述を変え、事件当日彼が被害者宅を訪問した際、床に倒れている下女を見つけて驚愕しているところへ、被害者の書斎から飛び出してきた見知らぬ男からナイフで攻撃され、負傷しつつ逃げたのだと説明したことなど、事件の全ては大きな社会的関心と興奮を引き起こした。この事件は、ダニーロフの住居の捜索でも何の物証も発見できず、また被告人が最後まで自己の無実を訴え続ける中で、筆跡鑑定が決め手とされ(被告人が卒業したモスクワ第四ギムナジウムの生徒に特徴的な「まる文字」!)、またもう一つの鑑定対象であるオーバーシューズについて法廷に提出されたそれとの同一性が鑑定人自身によって疑われるなど、犯罪捜査科学から見てきわめて興味ある経過をたどった末に、結局、翌六七年二月一四・一五日モスクワ管区裁判所で開かれた公判において陪審員たちは被告を有罪とする評決を行ない、被告人ダニーロフは鉱山における九年の徒刑、それに引き続く終身にわたるシベリア流刑に処せられた
  *  Krylov I. F., Byli i legendy kriminaristiki, L., 1987. および Sud prisiajnykh v Rossii: Gromkie ugolovnye proytsessy 1864-1917 gg., L., 1991. による。この事件は司法改革による陪審制裁判の最初の事例となった。
  だが、この一八六六年一月こそは、雑誌『ロシア報知』にドストエフスキーの小説「罪と罰」の連載が開始された時でもある。この、半ば狂気の元学生の殺人をテーマにした小説の登場が呼び起こした社会的なセンセーションの、少なくともその一部は、上記のダニーロフ事件とのおそるべき符合にあったことは明らかである。一人の天才の筆が生み出したラスコーリニコフと実在したダニーロフとの、彼らの犯した事件それぞれのこれほどまでの類似は、誰をも驚嘆させずにはおかない。事情を知らぬ観察者であれば、これは明らかに現実の事件に題材を得た小説家の手になる作品と、あるいは逆に、迫真の筆致で描かれたおぞましい犯罪の影響下にこれを模倣する犯人が現われたと、想定するに違いない。しかし、そのいずれでもないことはよく知られている。
  ドストエフスキーはスペランスキー事件に連座してシベリアのオムスク監獄で徒刑に処せられていた時期に、当初「告白」という題名で小説を書くことを構想し、兄に手紙で知らせている。この構想は、一部は小説『地下室の手記』に実現されるが、その後六年にわたり彼の中であたためられ、より具体的な形でその執筆に向けての作業が開始されたのは一八六五年七月に出かけたドイツのヴィスバーデンで、偏執的なルーレット賭博への熱中により無一文となり、ホテルの一室で知人の誰彼に援助の送金を依頼する手紙を書き続ける合間のことであった。何度かの草稿の改訂の後、小説「罪と罰」が『ロシア報知』誌に連載開始されたのは一八六六年一月号からであった。
  したがって、ラスコーリニコフとダニーロフはお互いに知り合うことなく、ほぼ同時に類似の犯罪行為に及んだこととなる。それは一つの偶然ではあるが、しかし、後に見るような当時の社会状況を背景とした陰鬱な犯罪の頻発を念頭に置くならば、決して突飛なことではなかった。
  たとえばドストエフスキーは、ラスコーリニコフの犯罪に関する物語の基礎となったのは、自分が新聞紙上の刑事犯罪に関する雑報欄から抜き出して創作上の変更を加えて作り出した事実と書いている〔カトコフへの手紙・一九八五年九月一〇日〕。その少し前、八月にモスクワで行なわれたゲラシム・チストフ事件の裁判は、そうであれば、これまたドストエフスキーの芸術的想像力に大きな刺激を与えたはずである(このことを最初に指摘したのはグロスマンであった〔グロスマン・二四五頁)。チストフは二七歳の商人の息子であったが、一八六五年の一月にモスクワで、女主人から強奪する目的でその料理女と洗濯女の二人の老婆を殺害した罪を問われた。犯罪は晩の七時から九時の間に行なわれ、殺された二人は別々の部屋で血の海の中に発見され、鉄の長持ちから引き出された品物が散乱し、現金や貴金属の細工が盗まれていた。当時の新聞が報じたように、老婆たちは離ればなれに別々の部屋で、おそらくは斧で、何カ所も傷つけられて、殺されていた〔ベローフ・五七−五八頁〕。
  してみると、ラスコーリニコフの分身とも言うべき殺人者は何人も存在したのである。彼らの犯罪はそれぞれに一大センセーションであったが、しかしまた、当時のロシアの大都市の諸条件を背景にした典型的な犯罪であった。そのような、いわば「時代の空気」を敏感に感じ取り、ラスコーリニコフという不朽の形象を創り上げたドストエフスキーの天才をこそ、われわれは確認すべきなのであろう。

二  時代、社会、犯罪現象
  小説『罪と罰』の背景となっているのは、農奴解放直後のロシアであり、当時の社会問題の全てを抱え込んだペテルブルグという都市である。
  クリミア戦争に敗北することにより露呈されたロシアの近代化の遅れを取り戻すために、いわば「上からの革命」として断行された農奴解放ではあったが、実際には、「解放」という名目の下、農民は自分の土地を「買い戻す」ことを余儀なくされ、結局はあらゆる種類の債務にからめ取られてしまった。買い戻すだけの資力を持たなかった農民は、劣悪な条件で小作農となるか、都市に流入して職探しに奔走するかの選択を迫られた。
  農奴解放令(一六六一年)前後の犯罪現象の深刻化については当時の公式記録からも見て取ることができる。
  後者の表は多くの興味ある事実を物語っている。まず気づくのは、全犯罪の三分の二までが財産犯罪だということである。中でも、全体の二八・九%までを占める森林窃盗については、当時の『軍事統計集』の編集者自身、それが「民衆の観念では何ら犯罪的な意味を持たず、きわめてしばしば農民の貧困と租税負担の重さにより引き起こされたもの」であることを認めている。同様の事情が個人財産に対する窃盗についても当てはまることについては、当時すでに指摘されていた。これらに加えて、国家犯罪の中に含められた浮浪および国内旅券制度違反の比重の大きさを見るとき、伝統的な農村経済の破壊と土地の商品化にはじき飛ばされ、流民化した農民層の都市への流入、困窮した都市下層民の膨張、それらの必然的結果としての潜在的犯罪者予備軍の増大を読みとることは困難ではない。
  小説の舞台であるペテルブルグは、一片のパンのためには何でもする乞食や泥棒、売春婦にあふれており、スラム街と売春宿の立ち並ぶ「現代のバビロン」であった。このロシア帝国の首都において、嵐のような資本主義経済の発展のかたわらで、犯罪現象がいかに急激な展開を見せたかは左の表から明らかである。
  都市下層市民ばかりでなく、急激な資本主義経済の導入にともなう社会・経済的な変動についていけない小貴族(ラスコーリニコフがまさにそうである)や下級の官吏も、職人はじめ各種の都市住民も、生活の窮迫に追いつめられ、没落し、ある者は犯罪行動に訴えた。オストロウーモフの引用する、当時の犯罪者の階層帰属から確認されるのはこの点である。
  一方、農奴解放令の内容が期待されたものからはほど遠かったことに失望し、自棄的になった農民の騒擾事件も全国に広がり、その鎮圧のために大量の軍隊が導入された。農民への同情と政府への反発は学生運動の昂揚にもつながり、チェルヌイシェフスキーやゲルツェン、オガリョーフらの呼びかけに呼応して、「社会革命」を目指す運動も活発化する。後の一八六六年、『罪と罰』連載中に起こったカラコーゾフによるアレクサンドル二世銃撃事件、そして七〇年代のナロードニキ運動へと展開していく種子はすでに育ちつつあったのである。

三  犯罪と刑罰
  ドストエフスキーの叙述にしたがってラスコーリニコフの犯行を見ると、これはそれ自体単純な、まぎれもない強盗目的での殺人である。
  当時施行されていたロシア帝国刑法典は一八四五年の制定にかかるものであったが、強盗犯人が過失により被害者を死亡させた場合についてを除き、強盗殺人罪については直接これを規定する条項を持たなかった。一方、故意による殺人は二分され、「予め熟考された目論見やたくらみによって行なわれた殺人」に対しては一二年から一五年までの鉱山における徒刑が科せられたのに対して、「予め熟考された目論見やたくらみなしにではあるが、偶然ではなく、自分が他人の生命を侵害していることを知りながらなされた殺人」に対しては一〇年から一二年の要塞での徒刑が定められていた(一九二五条・一九二六条)。ラスコーリニコフの行為は当然前者の類型に該当し、一二年から一五年までの鉱山での徒刑に処せられたはずであった
  *  ただし、故意の殺人についてのこのような二分には早くから批判があり、一八六六年に刑法典が編集し直された後の一八七一年三月の法律により、予め熟考された目論見による殺人(刑法典一四五四条−一五年から二〇年の徒刑)、故意ではあるが予め熟考された目論見によるものではない殺人(一四五五条一項−一二年から一五年の徒刑)および、激情あるいは興奮による殺人(一四五五条二項−四年から一二年の徒刑もしくはシベリア移住)、の三分類に整理されている。
  もちろんラスコーリニコフの犯行は故意によるものであった。だが、行為に際しての彼の異常な心理状態は、罪責の評価にどのように影響するであろうか。自分自身と家族の経済的な窮迫という、彼には解決困難な問題に長らくつきまとわれてきたラスコーリニコフの、追いつめられた精神状態と、酔ったマルメラードフの言葉とが響き合う。「わかりますか、あなた、わかりますか、このもうどこへも行き場がないということが?」〔上・八一頁〕。受け取った母親の手紙から伝わってくる重苦しい愛情と期待、妹の自己犠牲的な結婚の話が追い打ちをかける。加えて、これは悪臭のする熱気のよどんだ、雑踏の人いきれとごみ、ほこりにまみれた、夏のペテルブルグの片隅でのことである。神経の高ぶりの中で彼が選んだ「一歩を踏み出す」行為が、殺人であった。
  一八四五年刑法典はロシア刑法史上初めて、責任能力に関する詳細な規定を行なっていたが、その内容は、狂気もしくは精神病、精神錯乱ないし記憶喪失をもたらす病気の発作に基づき犯罪行為を行なった者を刑罰から解放し、精神病院に収容するとしたものであった(九八条三号、一〇一−一〇三条)。だが、ラスコーリニコフの精神状態がもっともあてはまるであろう「一時的精神錯乱」〔下・四四八頁〕について刑法典は規定を持たず、その意義については刑法理論上も争われていた〔Tagantsev, pp. 172-173.〕。
  ラスコーリニコフが何を目的に犯罪に及んだかという点について、ドストエフスキーの最初の構想(カトコフへの手紙)では、これはかなり単純に、奪った金で大勢の立派な、しかし貧しい人々を幸福にするために、一人のくだらない、有害な、富める人間を殺すとされていたことを知りうる。だがその後の創作の過程で、殺人の動機についての考察はより複雑なものとなっていった。「虐げられた人々」を擁護したいと渇望する人道主義者であるラスコーリニコフの中に、人々への奉仕のため、善行のために「権力」を希求するという抽象的な志向が生まれ、それとともに犯罪の理由付けもまた抽象化していくのである。権力を持った人間とは、少数の、生まれつき多数者を統治する使命を帯びた人間であり、彼は法を超越し、ナポレオンがそうであったように、目的のためには法を犯して神の創造した世界秩序を破壊する権利を持つのである。彼らは「自分の内部で、良心に照らして、流血を踏み越える許可を自分に与えることができる」のである〔上・四四二頁〕。ここでは従順に支配される側の多数者、すなわち普通の人々への傲慢な蔑視が、犯罪の理由付けとその正当化のために用いられる。ラスコーリニコフの罪はまさにこの誤った確信にあるのである。
  ラスコーリニコフはその犯罪行為に対し、先に見たとおり、本来であれば一二年から一五年の鉱山での徒刑に処せられるはずであったが、「しかし判決は、犯行から予期されたものよりは寛大であった。〈・・・〉犯人は、自首ならびに罪状を軽減すべき若干の情状を酌量して、わずか八年」の徒刑を言い渡されたこととなっている〔下・四五〇頁〕。
  自首は当時の刑法典でも代表的な刑罰減軽事由とされていた(一四〇条一・二号)。ラスコーリニコフは警察当局が、殺人犯人として名乗り出た別人を勾留し、取り調べているときに、つまり彼自身に嫌疑がかかっていないときに警察署に出頭する。その限りで、彼は「自首」したのである。だが、実はその前日、ポルフィーリから彼が犯人であると指摘され、自首するよう勧められていた、その方が有利であると。さらにポルフィーリは、「自分は口をつぐんで、あなたの自首が全く思いがけないものだったように『あちらで』うまく仕組んで、取りつくろってあげますよ」と申し出る〔下・三一九頁〕。ラスコーリニコフの自首は、彼がソーニャに言ったように、「そうした方が、たぶん、有利だろうと考えた」上での行為である。内的な贖罪の過程はまだ始まっていない。
  ここでいう徒刑は、遠隔地域での強制労働を内容とする刑罰であり、ロシア刑法には一七世紀末から登場する。通常、すべての身分上の権利・財産上の権利の剥奪とシベリア流刑が併せ科せられた。ドストエフスキー自身、第二級の徒刑囚としてオムスク監獄で一八五〇年から四年を過ごしたが、多くの論者が指摘するように、小説の「エピローグ」に描かれているラスコーリニコフの受刑風景にはその時の経験が重ね合わされている。だが、ここで作家が見落としている重要な点は、徒刑囚を要塞に送ることは一八六四年に取り止めになっており、したがって、一八六六年の初めに判決を受けたはずのラスコーリニコフが要塞監獄での徒刑に処せられるはずはないということである。
  一八四五年の刑法典によれば、徒刑はその強制労働の内容によって三つの階級に区分されていた。鉱山での労働(無期、一五年から二〇年、一二年から一五年の三種類)、要塞での労働(一〇年から一二年、八年から一〇年の二種類)、そして工場−主として葡萄酒醸造工場と製塩工場−での労働(六年から八年、四年から六年の二種類)である。だが当初から、このような区分は必ずしも守られず、適当な施設に送致して労働させることも多かったとされており、まさに、タガンツェフの指摘するように、「国家は徒刑を科すことによって、実際にはこれを処罰するのではなく、さまざまな部門に無料の労働者を供給しているのだ」という実態であった。しかし、急激な経済構造の変化にともない、このような労働力の利用は非経済的かつ無意味なものとなり、各種の徒刑の区別は重視されなくなっていく。そのような経過の中、新しい要塞の建設は行なわれず、軍当局は徒刑囚の利用を歓迎しなかったことから、徒刑囚を要塞に送致することは一八六四年に取り止めとなり、さらに一八六九年四月には、それまでの徒刑システムが全面的に改編されるのである〔Tagantsev, pp. 987-988〕。

四  裁      判
  ラスコーリニコフの犯行は一八六五年七月一〇日のことと想定されているが、これはまさに、長年にわたり模索されてきたロシアの司法改革の実施に移された時期にあたる。「予審判事」ポルフィーリも「このところ改革が進んでおりますから」と、このことを指摘している。
  長きにわたりロシア社会の後進性の象徴となっていた農奴制の廃止へと踏み切ったアレクサンドル二世は、司法制度の改革にも並々ならぬ意欲を示した。すでに先帝ニコライ一世の治下、知識層からさまざまに提案される改革案に後押しされる形で皇帝直属官房第二部がまとめ上げた司法制度改革案は、一八三九年以来司法大臣の地位にあったパーニン伯爵はじめ保守的な勢力の抵抗を排して、一八六四年一一月二〇日、皇帝の裁可を得て施行に移されることとなった。ただ、ヨーロッパとアジアにまたがる全ロシアの司法制度を一挙に変えることはいかにも困難であり、実際には「司法改革」のプロセスはこの世紀の終わりまで続くこととなる。
  司法改革は当時の大事件であり、そのあり様をめぐって多くの論議が交わされた。当然、ドストエフスキーもその内容については周知であったと推測される。だけでなく、個人的にも、建築技師であった弟アンドレイが、八五年一一月、司法改革にともなう裁判所建設会議に出席するためペテルブルグに上京し、一二月初めまで滞在したが、彼との親密な行き来の中で、差し迫った司法改革の構想の巨大さが話題となったことは疑いがない〔グロスマン・二四九頁〕。
  新しい制度の下では、民刑事ともに第一審を管轄するのは全国一〇八の管区裁判所であり、政治事件についての第一審および管区裁判所判決についての控訴審は高等裁判所(当初一一、後に一四)、最終審は元老院であった。  通常の裁判所系統とは区別して、軽微な刑事事件と少額の民事事件を管轄する治安判事のシステムが作られ、後者は間接的ながらも、選挙によって選ばれた。管区裁判所における比較的重大な刑事事件の審理には、陪審制が導入された。その場合、判決に対して控訴することは許されず、ただ元老院への上告のみが可能であった。
  司法改革にはいくつかの柱があるが、その中でも陪審制の導入が決定的に重要であった。その導入の結果、裁判の行政権からの独立が強まり、裁判の公開性と当事者主義的構造が根を下ろし、無罪推定の原則が尊重されるとともに、形式証拠主義から自由心証主義への移行が見られた。これと並行して、訟務活動を重視した検察制度の改革が進められ、弁護士制度が新設され、予審判事の所属は警察から裁判所へと移されるという、重大な改革も推進された。判決の定期刊行物への掲載については、すでに一八六三年に司法省の提案していた点であった。
  「予審判事」ポルフィーリー・ペトロヴィチ(彼は『罪と罰』の中で唯一、姓のない重要人物である)の具体的な仕事は明らかでないが、時に彼は”pristav と呼ばれている。これは本来は何らかの公務のために任命される役人一般を指し、この場合は捜査のために任命された役人であり、ソビエト時代の予審官同様、実質的にはわが国などの捜査検事に近いと言えよう。司法改革の結果、本来であれば彼の所属も裁判所へと移されたはずであるが、ラスコーリニコフが彼を訪ねるのはまだS警察署の予審部にであり、彼はその建物に隣接する官舎に住んでいるのである。
  しかし、改革された一般裁判所がヨーロッパ・ロシアの都市部に開設されるのは、一八六六年四月一七日のサンクト・ペテルブルグ、同二三日のモスクワが最初であり、地方都市ではこれよりはるかに遅れたことが知られる。
  となると、一八六五年の末から翌年にかけて続いたと推測されるラスコーリニコフの裁判は陪審制によるものではありえないことになる。同様に、ポルフィーリーとの対決の場面で彼が口にする「陪審員」という言葉も、そのままには受け取れない〔下・一三三頁〕。多くの日本語訳で「陪審員」と訳されているのは、その意味に普通使われる”prisiajnyi でなく、deputat という語であるが、これは司法改革前のロシアの身分制的な色彩の強い刑事手続きにおいて、被告人の取調べの際には同じ身分あるいは彼の属する官庁の代表者の立ち会いが要求された際の、その立会人のことである。誤解を避けるためにも、正確に「立会人」と訳されるべきであろう。

五  ドストエフスキーの刑法思想
  ドストエフスキーは一八八一年一月二九日に死んだが、その四日後の二月二日、当時すでに法曹界の名士であったコーニはペテルブルグ大学法律協会の総会において「刑法学者としてのドストエフスキー」と題する講演を行なった。この講演でコーニはドストエフスキーを、法律的に特殊な問題に独自の芸術的で心理学的な側面から接近した人であるとし、犯罪の生きた内容、現実に存在する形での刑罰、また精神的な表われとしての犯罪などについての彼の考えを詳細に検討している。コーニはとくに『罪と罰』を挙げ、ここには「刑法を研究する上での全ての問題あるいはほとんど全ての問題が扱われている。それも、なんと思慮深く、全面的に扱われていることか!」とまで評価するのである〔Koni, p. 478〕。
  では、陸軍工兵士官学校の出身であり、系統的な法学教育を受けていないドストエフスキーは、どのようにして刑法に関する素養を得たのであろうか。この点に関し、著名なドストエフスキー研究家グロスマンは、「・・・彼〔ドストエフスキー〕の長編小説の背後には刑法学者が感じられる。彼の蔵書にはこの分野の法律知識が、職業的『小説書き』としては非常に広く収められている。」〔Grossman(中村訳・八頁)〕と書くが、しかし彼の紹介するドストエフスキーの蔵書目録に刑法学に関係する著作は見当たらない。わずかに刑事裁判関係の法令集二冊を見出すのみである。また、一八八一年二月一日、アレクサンドル・ネフスキー修道院において営まれた葬儀の際にドストエフスキーの棺を担った人々の中に、ペテルブルグ大学法学部教授タガンツェフの名を見ることができるが、作家が彼に出会うのは七〇年代末になってのことのようである〔グロスマン・四三二頁〕。またドストエフスキーが当時二九歳の検事であったコーニと知り合うのも一八七三年になってからであり、彼ら以外に法律家との格別の親交があった形跡は見あたらないようである。結局、『罪と罰』で展開されるドストエフスキーの「刑法理論」に直接の師あるいは参考書があったのかという問題は、さしあたり未解明のままとせざるをえない。
  一九世紀後半のロシア刑法学は圧倒的なドイツ刑法学の影響下に展開を見せるが、その代表的な理論家であるタガンツェフの場合に特徴的なように、刑法学の課題を法規範の論理解釈に限定せず、犯罪の社会的原因とそのダイナミズムに大きな関心をはらっていたことが特徴である。この傾向をさらに突き進め、刑法学における社会学派の成立を告げたのは、一八七二年一〇月の、当時まだ二三歳の助教授であった後のモスクワ大学教授ドゥホフスコイの講演「刑法学の課題」であった。リストの「マールブルグ綱領」に先行すること一〇年、ドイツ刑法学においてはケストリンやビンディングの全盛期であった。
  だが、刑法学上の議論から離れたところでは、犯罪の原因を社会環境に求める見解は当時すでに広く存在していた。ラスコーリニコフの面前でラズーミヒンとポルフィーリがそれを巡って論争する〔上・四三四頁−ここで特徴的なのは、「社会主義者」への冷笑的な態度であるが、ドストエフスキーと社会主義思想との関係はそれ自体一つの独立した研究課題である〕。犯罪統計学の領域で著名なA・ケトレの学説を解説する形で、犯罪を含む人間行動の合法則性が統計的にも証明されているとしたドイツの経済学者ワグナーの論文も当時翻訳紹介され評判となっていた。ワグナーの名は『罪と罰』にも登場する〔下・二一六〕。そしてラスコーリニコフ自身は、その「論文」の中で、「犯罪の実行は常に病気にともなわれる」と主張したとされている。この点に関連しては、ドストエフスキーがおそらくは『ルースコエ・スローヴォ』誌(一八六三年第七号)に掲載されたV・A・ザイツェフの論文「自然科学と司法制度」に興味をそそられた筈との推測も行なわれている。この論文で著者は、「犯罪は、狂気同様、身体の物理的条件に全面的に依存する現象である〈・・・〉いかなる科学者といえども、健康が終わり狂気が始まる境界を正しく示すことはできないし、この人間は狂人で、この人間は犯罪人であると言うことはできない」、と述べ、犯罪者には責任能力がなく、これを処罰することはできない、と主張していた〔ベローフ・二二四頁〕。
  ラスコーリニコフの書いたとされる「犯罪について」の論文の中で展開される有名なテーゼ、全ての人間が「凡人」と「非凡人」に分けられ、後者は歴史上の偉大な役割を担うと同時に、その使命を犯罪的な手段によってでも果たす権利を持つという思想は、一八六五年四月にロシア語訳が出たナポレオン三世の著書『ユリウス・カエサル史』に刺激されたものとする見解が広く採られている。この本の中で筆者は、カエサル、カール大帝あるいはナポレオンのような非凡人が歴史にとって持つ比類ない意義を強調するが、それは彼らが国民の進むべき道を切り開き、何世紀分にもあたる事業を数年間で成し遂げるからである。迫害、死刑、クーデター、殺人−歴史的な英雄はこのような手段を用いて神によって課された事業を成就したのだ、と大ナポレオンの甥は述べるのであった。このような主張は、まだ翻訳が出版される前から、ロシア国内でも論議を呼んでおり、たとえば六五年三月一日の『サンクト・ペテルブルグ新報』紙は、非凡人の特権を主張するナポレオン三世に反対して次のように書いた。「だが大多数のわれわれの同胞は次のように考えているし、将来も常にそう考えるであろう。つまり、あらゆる歴史上の事件、そして大小の別なくあらゆる人間の所業の裏側には真実と虚偽がひそむということであり、あらゆる場合に法律が勝利を得なければならない、その逆の場合は国民にとっては望ましくない、なぜなら国民は法律違反を許容することになるからである!」〔ベローフ・二二六頁〕。
  ラスコーリニコフの「非凡人」には全てが許されているという論理へのシュティルナーの影響も指摘されている。彼の著書『唯一者とその所有』は一八四五年にライプツィヒで出版された後、ロシアでも広い反響を呼び、ベリンスキー、ゲルツェン、アンネンコフなどがこの本について書いており、ドストエフスキーは青年時代にそれをペトラシェフスキーの蔵書の中から読むことができた〔ベローフ・二二二頁以下〕。
  多少とも法律学に関わりを持った者にとって、『罪と罰』という表題から必ず連想されるのは、一八世紀の啓蒙主義者ベッカリアの歴史的な著作『犯罪と刑罰』である。アンシャンレジームの刑法制度の徹底的な批判を行ない、フランス革命以降の近代刑法の諸原則を提示した名著として、ベッカリアの『犯罪と刑罰』の名は古くからロシアでも知られていた。一八〇三年にはヤズィコフ訳で最初のロシア語版が出版されており、その三年後にはフルシチョフの訳も出ている〔Tagantsev, p. 25〕。確かに、当時の出版事情を考慮すれば、六〇年代にはこれら翻訳ももう古い時代のこととなり、入手して読むことは困難だったかもしれないが、しかしベッカリアの名はなおよく知られており、たとえば一八六三年の『司法省雑誌』には若い法律家ベリコフの書いたベッカリア論が掲載されていたし(彼は後の一八八九年『犯罪と刑罰』をイタリア語から翻訳出版している)〔Reshetnikov, p. 107〕、ドストエフスキー自身が編集していた雑誌『時代』の一八六三年三月・四月号にも「犯罪と刑罰」という論文が載っている。後者はモンテスキュー、ベッカリア以来の刑法思想の変遷を論じたもので、校正まで全部自分でやっていたドストエフスキーは当然その内容にも通じていたはずである〔江川・一四一頁〕。
  だが、その内容にドストエフスキーが共感し、進歩であるとしてこれを賞賛したかと言えば、必ずしもそうは思われない。
  ベッカリアはアンシャンレジームの刑法の特徴を、封建的身分刑法、罪刑専断主義、刑罰の残虐さとともに、涜神罪に象徴される法と宗教の混交の中に見、社会契約論と合理主義の精神からこれを批判したのであった。したがって、同時代人である作家ツルゲーネフなどとは決定的に異なり、西ヨーロッパ的な合理主義の底の浅さをあげつらい、スラブ社会の伝統を重視するドストエフスキーの立場からは、これは必ずしも共感を誘わない著作であろう。彼の確信では、信仰体験に基づく人間性の回復こそが合理主義に代わって個々の人間の結びつきを確立し、本来的な人間の自由と連帯を基礎とする社会のあり様を可能とするはずなのである。
  最後の大作『カラマーゾフの兄弟』ほどにむき出しの体系的な叙述はないが、『罪と罰』にもギリシャ正教の使徒としてのドストエフスキーの意図が色濃く塗り込められている。ヨハネの黙示録に記述された悪魔の刻印たる六六六の数字を暗喩する姓名を持つラスコーリニコフが「新しきエルサレム」を信じ、「ラザロの復活」をも信じると言うとき、かえって彼の犯罪行為の無惨な無意味さがあらわとなる。彼がめざし、自己をそれになぞらえた「偉大な人間」は「この世で偉大な悲しみを味わわなければならない」〔上・四四九頁〕のであり、それこそが彼に下された罰なのである。だが、彼が犯したのは、「偉大な人間」のそれとは比較にもならぬ、単なる金貸しの老婆の殺害というちっぽけな犯罪に過ぎなかった。その実際に犯したものが、「あの一つの愚劣な行為、いや、愚劣とさえ言えない、ただの不手ぎわ」〔下・四二三頁〕にしか過ぎない以上、彼は「凡人」として現世の刑罰という苦痛にさらされねばならないのである。さらに、その間も、彼にとって自身の行為は「犯罪」ではない。自己の行為について、なぜそれが非難されねばならないのか、彼には理解できないのである。シベリアの要塞監獄にたどり着いた時でさえ、ラスコーリニコフは、自分の行為について心の底からは悔悟していない。−多くの英雄は自己の歩みを持ちこたえたために、その行為も「正当な行為」となったが、自分は持ちこたええなかった。したがって彼はこの第一歩を自分に許す権利がないのである。ラスコーリニコフは一種独特の偉業をなし遂げに行くかのように老婆の殺人へとでかけ、英雄としてではなく、殺人者として帰ってくる。その時から、期待した達成感や解放感ではなく、苦しく果てしない、陰鬱な孤独感と疎外感が彼をさいなむのである。
  だが、その苦痛の先にこそ、償いと甦りの予感がある。一般的な悔悟の心理を超えた、自らに苦痛を課すことを通じての償いと甦りこそが、ドストエフスキーの理解するギリシャ正教的な「罰」である。
  そして、ここで見落とすことができないのは、正教の伝統を生き、ドストエフスキーによっていわば「神の体現者」と捉えられているロシアの民衆の役割である。ペテルブルグでは目に入らなかったその姿が、仲間の徒刑囚として身近に現われたとき、ラスコーリニコフは「彼らがすべて人生を愛し、人生を大事にしているのに目を見張った」。だが彼らは彼を不信と敵意のこもった目で見、さげすみ、あざけるのである−一時は、教会の中で祈祷中に、みながいっせいに彼に突っかかってきた。「この不信心ものめ!  おめえは神さまを信じちゃいねえだ!」と叫んで〔下・四六五頁〕。ラスコーリニコフは彼らと宗教談義をしたわけでも、涜神的な行為に出たわけでもないのに、彼らには彼の許しがたい罪深さがわかるのである。病気と不気味な夢のもたらした暗示的な清算、彼とは対照的に徒刑囚たちに愛されるソーニャへの同化を経て、やがてラスコーリニコフはかつての敵であった囚人たちに受け容れられることとなるが、それこそ、神の許しを得ることへと至る途にたどり着いたことを示すものである。
  かくして、稔りのない思弁から真の生活へと向き直ることにより、ラスコーリニコフには復活の予兆が確実となり、「すでに新しい物語がはじまっている」と述べられつつ小説は終わる。同時に、ドストエフスキーの刑法思想も一つの環を閉じるのである。

むすびにかえて
  『罪と罰』がわが国に初めて紹介されたのは、一八九二年に内田魯庵による英語からの重訳が刊行された時であるとされており、それ以降百年以上にわたってさまざまに読みつがれてきたことになる。その書かれた国、時代とは遠く隔たってしまったわれわれに、ドストエフスキーの意図なり思想なりがそのままに読みとれると仮定することは困難である。われわれは自身の関心に従って彼の作品を読めばよい。ここで試みたのは、刑法学研究者としての関心から見た『罪と罰』の一側面である。
  であれば、当然に検討と分析の対象として浮かび上がるのは、主人公ラスコーリニコフの犯罪心理のはずである。彼の精神状態の評価と責任能力の検討、動機の分析、故意の内容、事実の認識と違法性の意識、そして悔悛の状況等々。しかし、本稿ではこれらを中心的な課題と設定することなく、それらの周辺に回避している。
  また、ドストエフスキーの刑法思想については、他にも論じられるべき点が多い。たとえば、ドストエフスキーの作品に繰り返し扱われる少女姦のテーマである。『罪と罰』でも、もう一人の犯罪者・スヴィドリガイロフが、許しの可能性すら与えられることなく自殺するが、彼の罪は、もちろんラスコーリニコフと共通する神の教えへの背信にあるとともに、少女に対する陵辱行為にある。ドストエフスキーにとっては、おそらくは、この犯罪こそが最も非道な、許すべからざる罪として意識されており、それを犯した者は、『悪霊』においてその罪を告白したスタヴェローギンもそうであったように、見捨てられた孤児として自殺するしか途はないのである。しかし、このような捉え方はドストエフスキーに固有のものなのか、それともギリシャ正教なりロシアの社会なりに根ざすものなのか。
  これまで漠然と考えてきた本稿のテーマではあるが、あらためて検討しようとして、自身の準備と思索の不足を思い知らされるばかりであった。多くの課題について、今は、将来の再度の考察の機会を期すこととしたい。
  犯罪はあたかも人間社会の永遠の同伴者であるかに、われわれにつきまとい続けている。それはおそらく、犯罪の原動力として登場する経済的欲求や性欲、権力欲などというものが、同時に人間と社会を積極的・肯定的なものへと突き動かす原動力でもあることによるのであろう。「罪と罰」はわれわれの宿命的な課題であり、したがって、この作品を通じてドストエフスキーのわれわれに投げかけている問題はいつまでも新しく、また深刻でありつづけるのである。

  【文献】
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ドリーニン編(水野忠夫訳)『ドストエフスキー  同時代人の回想』(河出書房一九六六年)
トロワイヤ  H.(村上香住子訳)『ドストエフスキー伝』(中公文庫版一九八八年)
中村健之介『知られざるドストエフスキー』(岩波書店一九九三年)
ベローフ  S.(糸川紘一訳)『「罪と罰」注解』(群像社一九九〇年)