立命館法学  一九九六年一号(二四五号)




石原廣一郎小論
−その国家主義運動の軌跡−


赤澤 史朗






目    次




は  じ  め  に
  石原廣一郎は何より南進論者として知られた人物であり、石原に関するこれまでの研究はすべて南進論研究の枠内にあると言ってよい。そのうち矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書  一九七五年)は、石原が「鉄鋼という国運と結びついた資源を扱」う実業家であったことから、戦前に南方に赴いた他の多くの日本人とは「まったく違った世界」、すなわち「八幡製鉄、台湾銀行、大蔵省、軍部などがつくりなす国策決定の基幹グループと接触」する場に常に置かれていた、と述べている。石原のこうした巨大な「政商」としてのイメージは、他にもしばしば指摘されるところであるが、それらは十分に確実な史料的根拠を踏えたものではなく(1)、過大評価されているきらいもないではない。これに対し石原廣一郎個人を対象にすえた唯一の研究ともいえる清水元「石原廣一郎における『南進』の論理と心理」は、石原を多くの南方移住日本人と同じ「一種の『棄民』」と見て、彼の太平洋戦争期の南方軍政批判などを取り上げて、「日本のエスタブリッシュメントは、やはり彼の属する場ではなかった」と結論づけている(2)。つまり清水は矢野の評価とは反対に、石原廣一郎を日本の支配層の政策決定の中枢から常に排除され、疎外され続けた存在として描き出しているのである。清水の研究は、明治以来の日本の南進論の流れの全体像を踏まえて、石原の南進論の特徴を浮び上らせようとしたものであり、立論に当っては、石原の著作・草稿類を初めて利用しており、石原の主張の個性的な側面を浮び上らせている面があると言えよう。しかし他面で清水は、石原が東京裁判での自己の無罪を主張するために書かれた手記・回想類を、史料批判抜きでそのまま事実であるかのように引用しており、そこから石原の民衆性・庶民性をこれまた逆に過大に評価するという結果に陥っているかに見える。なお近年、日本と東南アジアとの関係史が深められて来ており、その中で石原個人や石原産業の活動の跡が実証的に究明されつつあるが(3)、そこでは石原廣一郎についての評価が提示されているわけではない。
  ここで取り上げるのは、一五年戦争期にファッショ的な国家改造運動のスポンサーでありリーダーとして活動した石原廣一郎の思想と運動についてである。つまり右翼運動家としての石原を取り上げるわけだが、この点でも南進論者であることが彼の最大の特徴をなしていたことは間違いない。ただ、すべての南進論はなんらかの程度でナショナリズムと結びつくであろうが、それは常にファッショ的な国家改造運動の思想や運動と結合するとは限らない。本稿では、石原においてこの両者がどのように結び合っていたかを解明することとしたい。
  石原の国家主義運動家としての活動は、ちょうど通史的な時期区分にほぼ一致して、満州事変開始直後日本に帰国してから、二・二六事件で逮捕・起訴され無罪釈放されるまでの第一期、日中全面戦争期とほぼ重なる第二期、そしてアジア太平洋戦争期である第三期の三つの時期に区分できる。ここでは石原の活動を、以上の三期に分けて論じてみたい。なお行論の必要から、『石原廣一郎関係文書』上「回想録」の「解説」と一部で内容が重なるところもあるが(4)、逆にこの前稿から論旨を変更しているところもあることをお断りしておきたい。

(1)  一例を挙げれば、袁彩菱「マラヤにおける日本のゴム・鉄鉱投資」(杉山伸也ほか編『戦間期東南アジアの経済摩擦』同文館  一九九〇年)で指摘している石原と政友会との関係も、不確実な伝聞に過ぎない。
(2)  清水元「石原廣一郎における『南進』の論理と心理」  正田健一郎編『近代日本の東南アジア観』(アジア経済研究所  一九七八年)所収。
(3)  小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』(青木書店  一九八八年)、小風秀雅「日蘭海運摩擦と日蘭会商」(杉山伸也ほか編前掲書)、小林英夫「東南アジア占領地区での石原産業の活動」(疋田康行編『「南方共栄圏」』  多賀出版  一九九五年)
(4)  赤澤史朗・粟屋憲太郎「解説」(赤澤・粟屋・立命館百年史編纂室編『石原廣一郎関係文書』上、柏書房  一九九四年)


一、国家改造運動への登場
1.
  石原廣一郎は南方の鉱山開発で成功したことから世に出た実業家である点で、日本の国家主義運動家の中では際立って特異な存在であった。特異であるというのは、まず南方地域と深い関係をもっていたということであり、日本の右翼の多くは「支那浪人」の出身ではあっても、東南アジア地域との関わりを持つ者は稀であった。また多くの実業家はたとえ資金提供に応じることはあっても、石原のように自から直接に国家主義運動に乗り出すことはほとんどなかったからである。
  こうした石原に最も似た存在は、南方を含めた鉱山の経営者でもあった久原房之助である。もちろん久原は、政友会の幹事長となり総裁にも就任しており、既成政党の排撃を唱える石原とは一見正反対の立場に立っていたかのように見える。しかし久原が、政友会に連なる右翼運動の流れとも結びついていたように、逆に石原の考え方は、後に述べるように必ずしも既成政党のそれと遠く隔ったものではなかったし、対ソ国交を積極的に進めようとした久原の立場は、北守南進論を唱える石原のそれに相い触れるものがあった。そして久原も石原も、ともに二・二六事件で逮捕、起訴されながら無罪となり、第二次世界大戦後には東京裁判で逮捕(ただし久原は病気のため自宅拘禁)されながら不起訴のまま釈放されるという、稀有の共通の経験を有することになる。ともあれ石原には久原のスケールを小さくしたようなところがあり、一九三〇年代後半にはしばしば石原は久原と対比して論じられたりもしていた。
  石原の実業家としての顔と国家主義者としての顔の二つは、深く結び合っていたように思われるが、その石原の実業家としての顔には三つの種類があった。その事業の開始順に言えば、一つ目は南方の鉱山経営者としての顔であり、二つ目は貿易に従事する海運業者、そして最後は銅の製錬などに携わる重工業資本家としてのそれである。このうち石原の最も著名な南方鉱山経営者としての顔には、それが軍需物資となる鉱石の産出に関わることによって一種の政商的な性格がつきまとっていたようであり、これは久原とも共通する面と言える。石原のこの政商的な側面については十分にあとづけすることが難しいのであるが、一九二四年にはケママンの鉱山開発と鉱石輸入船の購入に際し、台銀頭取であった中川小十郎の援助を受けて政府から二五〇万円の低利資金融資を受けることに成功し、これによって石原の事業が深刻な経営危機を脱して発展の足掛りを得ることができたのは間違いない(1)。またその後も、石原産業の掘り出した鉄鉱石を八幡製鉄所が購入するに際し、特別の便宜がはかられて「当年度の予算面以上の鉄鉱、原鉱石」の輸入が可能となるシステムになっていたという(2)。また一九三九年の海南島田独鉱山の開発に際しては、海南島の占領作戦開始以前から作戦を担当する海軍当局から石原あてに鉱山開発に関する打診があり、先に石原が独占的に開発を担当する約束を海軍当局から取り付けた上で、後に実際の開発がおこなわれている(3)。以上のような政商としての特徴は、彼の国家主義運動家であることの基礎の一部をなしていたとは言えようが、しかしひるがえって考えてみると、あらゆる政商が国家主義運動家となるわけではない。そこには個人の資質、志向、思想ということも大いに関連しようが、単にそれだけでなく彼を国家主義運動に駆り立てるだけの積極的動機や促迫する事情が考えられてもよい筈である。
  そういう点からするとここで新たに着目したいのは、彼の第二の海運業者としての側面である。石原産業では一九二四年より採掘した鉱石の輸入のための船腹を所有するようになるが、一九三〇年に南洋倉庫をその傘下におさめて同社の再建にとりかかって以来、日本への復路で鉱石を積んで輸入するその往路の空船を利用して、南方圏との交易に積極的に乗り出していく。一九三一年三月、石原産業海運は他社に比べ二割引きの運賃でジャワ航路を開設し、雑貨を中心とした日本製品の対蘭印輸出をおこなうが、これに始まる激烈な運賃引き下げ競争を通じて、ジャワ航路の中で急速にその市場占有率を拡大していく。石原にしてみればこのジャワ航路への参入は、日本の輸出増進という国益実現のために、運賃値下げという私利の犠牲を敢て犯しておこなったものであった。この運賃の引き下げは、もともと往路の空船を利用しての輸出という条件があったため可能となったものの、石原はそのために三年間で二〇〇万円の「損失」を蒙ったという(4)。しかしこの行為は、従来からジャワ航路で運航していたオランダの商船会社や日本の他の海運業者と石原産業海運との間に、鋭い対立を生み出すものであった。石原が国家改造運動に乗り出すのは一九三一年一一月に帰国した時からであり、それには満州事変が軍部によって引き起されたことを知っての軍部に対する期待が大きかったと自から語っている。しかし石原が国家主義運動の舞台に登場したのが、折から国益の旗印を揚げたジャワ航路への強引な参入によって、内外での矛盾対立が激化しつつあった時期と一致するのは、けっして偶然ではなかったように思われる。そして南進論者としての石原の活動と視野も、この海運業者としての立場に基づいて一挙にその範囲を拡大していくのであった。なお、第三の重工業資本家として出発するのは第二期以降のことであるので、後述することとしたい。

2.
  石原の国家主義運動家としての第一期は、一九三一年一一月の帰国から一九三七年一月、二・二六事件の特設軍事法廷で無罪判決を受けて釈放されるまでの期間である。当初国家改造運動に対するスポンサーとして登場した石原は、この時期に次第に国家主義の小イデオローグ、小指導者の一人に成長していくこととなる。とはいえそのことは、この時期の彼の活動が順調に推移したということを意味するものではない。それどころかこの第一期の国家主義運動家としての石原の諸活動は、最終的にはいずれも失敗に終ったと言うことができる。このようにうまく行かなかった根拠は、石原の国家主義運動家としての目標とそれを実現する方策との間にズレや矛盾があったり、石原の主張と時代状況との間に疎隔があったりしたためであったと思われる。ここでは第一期の石原の思想と行動を、なるべく時間的経過に沿って敍述しつつも、必ずしもそれにとらわれずに、その特質や問題点ごとにまとめて論じてみたい。
  石原が国家主義運動に乗り出したのは、一九三一年秋シンガポールで満州事変の報を聞いて帰国した時からである。石原にとって満州事変とは「軍人カ海外発展ノ理想ヲ実現シテ呉レタ」ものと映ったのであり、今やこの軍人の力を借りて「海外発展」のための「政界刷新」に乗り出そうとしたのであった(5)。石原はかねて知り合いの徳川義親侯に会ってこの企図を伝え、徳川の紹介で一九三一年一二月末大川周明らと会見し、これが神武会結成の出発点となった。
  一九三二年二月一一日を期して結成された神武会は、「神武建国の精神」に基き教育・政治・経済の三分野で「皇国的」組織への変革を唱えた団体であるが、このうち政治における「皇国的政治組織の実現」は、「政党政治の陋習を打破」して「天皇親政の本義」を顕現することによってもたらすとされていた(6)。つまり反政党政治の主張である。この神武会と石原との関係を述べれば、結成に至る準備の会合において、石原はこの団体の経費を全額負担することを約束している。そしてこの約束は、石原が神武会の活動から手を引いて大川周明に神武会を託した後も、そして最終的に神武会が解散される時まで実行されたのであった。その費用は一九三二年二月から大川周明が逮捕される六月までは毎月二五〇〇円、その後大川の出獄までは団体の「維持費」として毎月五〇〇−一〇〇〇円ほどであった(7)。また石原は結成準備の会合の段階から、石原産業海運の東京支店長であり立命館大学で石原の先輩に当る井上勝好を参加させ、それを会の表面上の主宰者としている。井上は石原が神武会から手を引く時には石原と行動を共にしているが、この後これに限らず石原の政治活動の部面でも実業活動の面でも、井上は石原の腹心の一人として活動することになる(8)
  それでは神武会の主張と石原の立場は全く一致していたのだろうか。むろん金を出しスタッフを提供するということに見られるように、もともと不一致があったわけではない。しかし神武会の組織に当って、少なくとも石原と徳川義親の二人は独自のもくろみを持っていたようである。
  神武会結成に先立って一九三二年一月二五日、石原は四六版二一頁のパンフレット『国難に直面して』を発行する(9)。このパンフレットはともかく石原が初めて自己の政治的見解を公にした出版物であったが、二〇万部印刷しその月末までに「貴衆両議院(ママ)諸官庁各師団聯隊小学校中学校其他ノ諸学校在郷軍人会市町村役場青年団等各方面ニ配付」し、さらに神武会結成後その演説会場で配付するために三〇万部増刷したとのことである(10)
  このパンフレットの中で石原は、人口多く資源に乏しい日本は海外に発展せねばならぬと説き、さらに「政党政治の弊害」を「打破」するための「国民の覚醒」を訴えていた。このような主張はむろんたいへんありふれたものと言えようが、注意深く観察するとその中にはこの後にも繰り返される石原の独自のテーマが瞥見できる。その一つは、今や欧米列強を中心とする「白色人種の衰退」期にさしかかったという判断であり、逆に言えばこれは欧米列強と対立する日本にとって海外発展の「好機会」が到来しつつあるという認識である。従って「国民の覚醒」の目標も海外発展ということに置かれており、東洋の欧米植民地を「東洋人の為めに門戸開放」させ「輸出貿易増進」をはかるために、「官民一致協力」の体制をつくることが目ざされる。政党政治が非難される根拠の一つも、「殖民行政」にまで政党が「党略の魔手」を及ぼしている点に置かれているのである。日本ファシズムの思想は、国体論を強く打ち出した日本主義的主張と、より”近代的”な総力戦体制論との矛盾的結合を基礎に、これとアジアの盟主論が結びついたところに特徴があると思われるが(11)、この石原の構想では日本の海外発展をめざすアジアの盟主論の方ばかりに決定的な比重が置かれており、国内では急進的な改革どころか、むしろ逆に「官民一致」して摩擦相剋をなくすことが追求されているのである。この当時の経済難の原因も「労資相互の不心得」に求められており、やはりここでも国内対立の克服が目ざされている。こうした主張からは、国内のドラスティックな変革論は生じにくい。政党政治を排撃した後のあるべき政治としてこの中で示されているのが、「真に国本主義の政治家を擁立」するという程度の漠然としたプランに過ぎなかったのも、以上からすると不思議ではなかった。
  こうした考えに照応して、石原や徳川は神武会を陸海軍将官を含む社会の上層部や知名人に働きかけ、これを組織化した団体にしようとしていたようである。神武会の発足に際し参加した有力人物には、菊池武夫陸軍中将男爵、南郷次郎海軍少将、千坂智次郎海軍中将、田中国重陸軍大将、原道太海軍大佐、外交官の本多熊太郎、中川小十郎貴族院議員などが含まれていた。神武会では二月一一日から遊説活動を開始するが、しかしこの直後、大川周明や岩田愛之助らの「急進論者」が組織に加わっていることを危険視した警察が、これら有力知名人の参加者に警告を発し、会の発足から間もなくの二月一五日頃には、南郷次郎、本多熊太郎らが一度は約束した演壇に立つ話を断った上で退会し、中川小十郎は石原に向って京都の演説会の中止と神武会の解散を勧告し、石原とも一時「絶交」するに至る。ここに石原から見ると神武会は、「会ノ根幹トナルヘキ人カ殆ト脱会」した状態となり、「其後上層部各方面ニ勧誘シテ見マシタカ誰モ之ニ応スルモノカアリマセヌ」という事態に陥ったのであった(12)
  このように石原が組織化の目標とした社会の「上層部」から神武会が忌避されたのは、神武会に関し実説虚説こきまぜたクーデター計画に関与しているような噂が、それらの人々の間に飛び交っていたためのようである。この頃近衛文麿は原田熊雄に対し、神武会をさして「石原廣一郎が金を出してゐる大川周明一派の陰謀団」と語り、その神武会へ「最近陸軍から大分武器が渡った」という風聞を伝えており、木戸幸一は石原と徳川の関係の噂を有馬頼寧から聞きつけている(13)。そしてここに成立する石原についてのイメージは、軍の一部を含む過激で危険な国家主義運動のスポンサー・黒幕といった像であった。こうしたイメージは、石原が南方の鉱山経営で巨富を築いた成り上り者という、一種のうさん臭い人物と受け取られる側面と結びついて、広く流布していくことになる。
  しかし実像としての石原は、こうしたイメージからはやや離れた地点にあったと言わねばならない。石原が一貫して重視したのは「上層部」との結びつきの中で展開する運動であり、「急進論者」を運動の基軸にすえて考えようとしたことはなく、「急進論者」はむしろ自己の手元に手なずけておくべき存在であった。石原が神武会の即時解散を求める中川小十郎に対して、「大川岩田両名ノ如キ急進論者ヲ抱擁シタノハ彼等ノ急進思想ヲ抑ヘンカ為テアル、今ニシテ彼等ヲ私共ノ手カラ離シタナラハ又元ノ様ニ危険ナ思想ヲ抱キ不穏ナ行動ニ出ヌトモ限ラナイ」と述べたのも(14)、あながち弁明や脅しとばかりは言えなかったといえよう。
  しかしともあれ、神武会は船出の途に出て早々に座礁するような状況に陥ったが、この時周囲の圧力の中であくまで脱会しなかった人物に田中国重陸軍大将がいた。そこで石原は徳川と相談して、この田中国重を中心に神武会によって当初めざした方向を、明倫会という新団体を組織することによって追求しようと試みるのである。明倫会の名が初めて出てくるのは、『徳川義親日記』一九三二年二月一七日条の「神武会と別れ明倫会とする」が最初であり、神武会の挫折から明倫会への移行の方針が、石原と徳川の間で素早く決められたことが推測される。とはいえ神武会も解散したわけではなく、明倫会組織の準備の進んだ同年四月初めに、石原が団体の経費を負担することを条件に会を「大川周明ニ一任」することとしたのであった。石原によれば石原と大川の間の諒解では、神武会と明倫会は「同シ精神ノ下」に立つ団体であるが、神武会は専ら社会の「下層部ヲ目標」に働きかけ、明倫会は「上層部」を中心に運動する組織と位置づけられていたとのことである(15)。しかしその神武会は、会頭の大川周明が五・一五事件に連座して六月一五日に逮捕されることで、一頓座を来すことになる。
  神武会の失敗の経験を踏まえてか、明倫会の組織化は慎重におこなわれた。一九三二年五月一日「吾人の奮然蹶起したる理由」と題する準備会の声明が発表されたが、正式の発会式は、地方支部の組織化や主義綱領の確定、機関誌『明倫』の発刊後である一九三三年五月一六日のことである。この明倫会の活動の経費も、石原が一手に負担していた。明倫会の主義綱領は、日本精神の鼓吹、自主的外交による大亜細亜主義、統帥権と軍備平等権の確保、行財政整理に基づく産業振興・海外発展・国民生活の安定政策といったもので、後に述べるようにこれらはいずれも石原の主張に合致し、スポンサーである石原の意見が強く反映していたことがわかる。また明倫会は会員の資格を「既成政党員にあらざる者」として、反既成政党色を明瞭にし在郷軍人を中心に組織化を進めていたが、そのほか会員には「憂国の志を抱き相当の地位あり、或は職業あり、或は名望ある者」を求め、「可成各方面の有力者を多数」入会させようとする「希望」をもっていた(16)。これも社会の「上層部」に働きかけ組織化しようとする石原のもくろみに合致した方針と言えよう。そして明倫会の常務理事の一人には、かつて神武会の表面上の責任者となった石原の腹心の井上勝好を改めて就任させている。
  石原が一方で急進的ファッショ運動に対して資金提供を続けながら、自からの改革構想はむしろ微温的なものに止まったという関係は、この神武会から明倫会への組織化の経緯に見られるだけでなく、その後も繰り返し現われる石原の行動パターンであった。その一例を挙げれば、一九三三年秋石原は斎藤瀏の紹介皇道派青年将校の中心人物である栗原安秀と知り合い、栗原に大量の資金提供をおこなっているが、それはけっして栗原の唱える国家改造論に全面的に同意したためではなかった。それどころか逆に、石原はその折栗原の主張する「日露開戦の不可な事や、小林順一郎大佐経済論に対する内容批判、例へば財産制限論に対する反対、無制限な公債乱発論に対する反対、等の意見を述べた」という(17)。このうち「日露開戦の不可」とは、皇道派の唱える対ソ戦論への反対を意味していようが、「小林順一郎大佐経済論」とは小林順一郎の著した「昭和維新の基調たるべき経済国策骨子」をさすものかと思われる(18)。この中で小林は、国内通貨と対外通貨とは国家の意思一つで完全に切断することができると主張し、金本位制に基づく対外通貨を全額国家が管理すれば、金本位制に基づかず国家の信用を背景として成り立っている国内通貨はいくら発行してもインフレにはならず、こうして国内通貨の発行量を増やせば国民は豊かになる筈だと主張していた。そして栗原はさらにこの奇妙な経済論を敷衍して、「軍備ノ充実ノ為ニハ公債ヲ無制限ニ発行シテ可ナリ、内債ハ亳モ憂フルニ足ラナイト云フ意見」を唱えていたのである(19)。これに石原が反対したのは、多少とも経済の現実を知っている実業家として当然と言えようが、問題は石原が小林順一郎の「財産制限論に対する反対」を述べたという方であろう。小林は私有財産制度はあくまで積極的に「維持」すべきだという考えに立脚し、たとえある程度私有財産を制限するとしてもその制限の「限度は相当に高きを要す」と唱え、具体的には「約一家族壱千万円限度」に制限すべきことを提唱していたのである。これに対する石原の反対は、現に「約一千万円位」の資産を有していた実業家としての彼の立場を露骨に反映したものと言えよう(20)。後に述べるように栗原は石原への反発を強めていくことになるが、そこにはこうした資産家としての石原の姿勢への反発も含まれていたと思われる。そしてこれに限らず石原は、現行の資本主義に対するどのような大がかりな改革論にも好意的ではなかった。
  こうした石原の姿勢は、一九三四年一一月に立命館出版部より刊行された、石原の最初のまとまった著作である『新日本建設』においても見て取れる。『新日本建設』は約二万部印刷し、そのうち「七千部ヲ一部一円二十銭ニテ市場ニ販売」したが、「一万部」は「元老重臣貴衆両院中有力ナス(ママ)官吏軍人中ノ上層部、実業家ノ主ナル人、学校新聞社全国ノ図書館等ニ寄贈」し、残り三千部を石原の手元に保管しておいたというが(21)、すでにこの配付先の中に石原の働きかけようとする対象が推察されよう。
  この書で提示された石原の改革構想は、専ら行財政整理や税制改革を主としたものであったが、その税制改革は累進課税の累進性を多少高め、資産家や軍需産業への新税を創設するといった至極微温的な改革案であり、逆に言えば現体制下でも直ちに実現可能な具体的改革プランであったとも言える。これに対し教育改革や選挙法改正案は、教育課程を実務的なものに改変して教育年限を大幅に短縮し、選挙権を制限して戸主選挙制にする案など、復古的・反動的なプランであり、やや空想的色彩の強いものであった。こうした具体性と空想性の併立が石原の構想の特色とも言いうるのであるが、問題はこうした改革案が当時の日本の抱えていた諸困難−累積する農家負債や国内の政治的不安定など−をいかに解決するものなのか、ハッキリしない点にあると言えよう。つまり税制・財政改革のみで昭和恐慌の打撃からの立ち直りは可能なのか、こうした選挙法改正によって政党政治に代る安定的な政治システムは構築できるのかというと、問題の複雑深刻さに比べてその提示された解決策の単純貧弱さが目立つのである。このことはおそらく、社会問題全般に対する石原の視野の狭さに由来するものであった。たとえば社会政策ということについても石原はほとんど全く理解しておらず、この本の中では社会政策の中心を「移殖民事業」としており、またこの書のもとになった『昭和維新ノ達成ニ就テ』の中では(22)、イギリス政府は「過度ノ労働保護政策」の結果「惰民ヲ増加」させたと記している。また産業・金融政策全体に関しても、一部を除いて自由競争を守るべきことを強調し、保護・統制政策を排斥する姿勢が強いと言える。ここからは総力戦体制論に立つ統制経済論が、特に強く否定されていることが見てとれる。石原には社会や国家をシステムとして捉える視角が弱く、その限りでは日本主義的精神論に近い立場であったが、どちらにしろ急進的な改革路線はとっていない。この本に「序言」を寄せた田中国重が、「所謂世の徒に放言高論以て自ら快とする徒と其の類を異にする」ものだと石原のこの姿勢を評し、石原廣一郎論を書いた和田日出吉がその中で、石原の「右翼イデオロギー」を「かなり地についた妥協的なもの」と捉えて、彼の提唱する「税制の改革についても、従来の右翼的改革意見の最も温和なものである」と論評し(23)、実業家の各務謙吉が、石原がこの本の内容を説明するのを聞いて、「君ハモツト過激ナ男タト思ツテ居タカ仲々穏健ナ説テハナイカト云ツテ驚」いたのも(24)、みなこのことに関係する。言いかえると石原の改革案には、彼の資本家・実業家としての立場が強く反映しており、現状に不満を抱く強烈な現状否定の精神が見られないのである。これがあらゆる急進ファッショ勢力に、石原が根本的には共鳴しえない根拠であった。
  結局この本の中で石原が示した独自性や訴えかける力は、彼がそれなりに力をこめてつくり上げた上記の国内改革構想にではなく、海外発展策の中に存したと言えよう。この点については後述したい。
                    3.
  神武会結成準備の当初から、石原は親軍反政党政治の立場に立っていたということができる。しかしこのうち反政党政治について言えば、それは議会政治そのものを否定したものでなく、反既成政党であるに過ぎなかったように見える。パンフレット『国難に直面して』においても、前述のように「真に国本主義の政治家を擁立」することを「国難」の解決策として提示しており、つまりそこでは国民代表の内実だけが問題とされているわけである。また、神武会が発足した一九三二年二月は折から総選挙の最中であったが、神武会では発会当初の遊説において「既成政党ノ弊害」を説くとともに「寧ロ棄権スヘシ」と唱えることを決めている(25)。結局ここでは現在の政党政治の実態が問題とされているに過ぎぬわけだから、その改革案はせいぜい『新日本建設』で示されたように選挙制度改革に止まってしまうこととなる。つまり政治改革案としては統治機構の根本的再編の展望を含まず、現在の特権支配層の特権をそのまま残した小手先の改革案とも言えるが、しかも石原の選挙法改正案は、自薦候補者の立候補を許さず、選挙権は二五歳以上の男子の戸主に制限し、演説会は一市町村で一回だけしか開けぬなど選挙活動にも大幅な規制を加えるという、現行の制度に比べ国民の権利の縮小をはかろうとするプランであった。ここには既成政党に対する国民の不満や批判を、どのように集約し組織化し代弁していくかという視点が欠けていた。そして究極的にはこうした点が、一九三六年二月の総選挙で立候補した石原が落選する原因となったと言えよう。
  明倫会は親軍反既成党の団体であったが、田中国重陸軍大将の人脈で組織化が進められたこともあって、その役員の多くは陸海軍の退役将官クラスの人たちで占められており、会員の多くも在郷軍人であった。満州事変の開始の少し前に始まる国防思想普及講演会の活動の頃から、在郷軍人会の政治活動は活発化してきていたが、明倫会の発展はこれに支えられ、明倫会は世間からも在郷軍人の政治団体として注目を浴びるようになる。ここから逆に明倫会の中には、在郷軍人の政治団体として明倫会の政治活動には一定の制限を課すべきだという考え方が出てくる。総裁である田中国重の立場はそうしたものであった。
  田中は、参政権は在郷軍人個人にも与えられている以上、在郷軍人が政治行動をすることは当然の権利であるとしながら、明倫会としては「絶対に」「在郷軍人会を利用」してはならないとし、また軍部は政治介入すべきでなく、明倫会としても「陸海軍当局乃至現行軍人と気脈を通じ、或は提携し」て政治活動を展開することは「絶対に之を避」くべきであるとしていた。ただし「軍部当局を援助鞭撻して国防の充実」を求めることは認められるとしている(26)。さらに田中は、明倫会が政治結社として活動することにも消極的で、会を「政治教育ヲ主トスル教化団体」と性格づけようとしていた(27)。明倫会は総裁の判断で会の方針が決定される団体であったので、この田中の立場は明倫会の立場でもあった。こうした田中の姿勢には、軍部の現状に対する批判も部分的には含まれていたが、基本的には明倫会の活動を「国防の充実」を目標とした事実上軍部の政治活動の応援団としての活動にのみ限定しようとするものであり、逆にその応援団の枠を越えて、会が独自の主体性をもって軍部に働きかける行動を起すことを抑止しようとするものであった。そして実際に、田中総裁の発言はもとより明倫会が発した決議声明なども、たとえば軍部が政党を批判した「軍民離間声明」の折には政党排撃のパンフレットを発行し、在満機構改革問題での紛糾に際しては、軍部の方針に反対する行動をとる在満警察官の行動を非難する決議を発するなど、軍部と政党や他の政府機関との対立問題に関し、専ら軍部当局の立場を弁護したり支持したりする行動を繰り返すのであった。言いかえると保守的・良心的な軍人と言われた田中に代表される明倫会主流の”親軍”とは、軍を自己の政治目標実現のために利用することには抑制的で、逆に明倫会が軍の”走狗”として自発的に行動することには積極的であるような態度を意味するものであり、そこには軍人としての一種のエゴイズムが貫かれていた。
  明倫会の内部で少数の非軍人出身の役員の一人であった石原は、こうした明倫会主流の態度に違和感を抱いていたようである。後の回想であるが、石原は明倫会に結集した予後備の高級軍人たちについて、「世事ニ『ウトク』、憂国ノ士ハ軍人デアルカノ如キ偏見的自己陶酔ニ落(ママ)ツテ居ル人々ガ其ノ多数ヲ占メテ居」たと論評しているのは(28)、その当時の実感に基づいたものであったに違いない。石原にとって明倫会は、その活動資金を全額負担することで大きな影響力を行使できる団体であったのも事実であるが、他面からすると在郷将官が多数を占める明倫会の首脳部と石原とでは「年齢ニ於テ私カ一番若ク余リ出シヤバツテモ如何カト思」ったりするような遠慮が石原の側にもあり、必ずしも思いのままにならない側面も強かったわけである(29)
  こうした石原にとっての親軍反既成政党の立場とは、明倫会主流のそれとは違って、政治活動をおこなっている現役軍人たちとも積極的に接触をはかり、同時に明倫会を既成政党に対抗する実力をもつ、軍部とも相対的に独自の政党的勢力として発展させようとするものであった。ただしそれらの試みは、必ずしも成功を収めたわけではない。ここではまず後者の政党的発展の動きから見てみよう。
  前述のように明倫会は、在郷軍人の上層部のみならず「各方面の有力者」を網羅しようとする企図をもっていたが、これは軍部ととも在郷軍人会とも相対的に独自の圧力団体・政党的勢力として自己形成しようとする方向を示しており、それは石原の希望するところでもあった。しかし結果からするとこのもくろみは実現せずに終り、明倫会は将官級の在郷軍人をある程度結集させることには成功するものの他分野への組織の広がりを欠いてしまい、政治的圧力団体として十分に成長することができなかった。だからと言って、むろんこの「各方面の有力者」の結集というもくろみが追求されなかったわけではない。明倫会京都支部の動きがこれを示している。
  石原や藪田九一郎が結成の中心となった京都支部は、一九三二年中にはすでに明倫会の中で「全関西に於ても最も強大なる有志の団体」にまで成長していた。一九三三年一月二五日明倫会は全国のトップを切って京都公会堂で演説会を開き、四千人の聴衆を集めて演説会は成功する。石原はこの場で、斎藤瀏・田中国重と並んで「党弊は国家を滅亡す」の題で演説し聴衆を沸かせている。そして翌一月二六日には石原の主催で、京都ホテルに於て「京都に於ける官界実業界の一流名士七十余士」を招いた「田中総裁大歓迎晩餐会」を開いている(30)。これは前述の「各方面の有力者」を組織化しようとする試みであった。ところが京都での明倫会演説会の成功は、それ自体が在郷軍人の政治活動が注目を浴びる中で生じたものであったため、新聞にはこの演説会の盛況と結びつけて、明倫会は「全国三百万ノ在郷軍人ヲ総動員シテ議会政治ヲ否認シファッショ政治ヲ布カントスル」団体だと述べる論説も現われる。そしてこの新聞での反響が引きがねとなって、結局京都では「実業家方面ノ入会者ガ来ナクナ」るという事態が生じたのであった(31)。これは石原にとって打撃であった。
  とはいえこのことは京都において、明倫会が政党勢力として発展しなかったということを意味するものではない。明倫会は発足の当初から公認候補は認めないものの市町村議会に立候補する候補への推薦は認めていたが、政友・民政の二大政党に対する中立候補が大幅に進出した一九三三年の京都市議選においては、中立系の明倫会系候補も七名の当選者を出し、選挙後この七名で市議会内に錦旗同盟という政治団体を結成している。明倫会が議会に基盤をもつ一つのまとまった政治勢力として出現したのは、この京都市議会が最初の事例であり、京都の動きはやがて全国的な府県会議員選挙レベル、国政選挙レベルにも発展し、推薦の意味合いも次第に事実上の公認に近いものへと変化していくこととなる。そして一九三五年九月の府県会議員選挙でも、明倫会京都支部は推薦候補を当選させるのに成功している。しかし二大政党の狭間で、キャスティングボードを握る中立系の小集団として明倫会系の議員が置かれていたことは、市議会・府議会レベルでのさまざまのおもわくからの離合集散・合従連衡のめまぐるしい動きの中に、これら明倫会系の議員が巻き込まれることを意味していた。「市政浄化」を揚げて登場した錦旗同盟も、こうした紛糾の中で既成政党と類似の行動をとるようになり、次第に独自性を失なっていくこととなる。これは府議会に於ても同様であった(32)
  石原は京都においては、これら明倫会系の市議会員・府会議員の隠然たる後立てとして存在し、また一九三〇年代中葉には京都市で最大の多額納税者となるなど、京都の財政界で「名士」として遇されるようになっていく。石原が明倫会系議員との関わりで、これら市政・府政どのように関与していたかは十分明らかではないが、一九三五年初頭京都市議会が市長選出をめぐって紛糾した折には、一時錦旗同盟が政友会系の十日会とともに石原を市長候補に推す動きが表面化するといったことも生じてくる。ただしこの時は、市長選の動向が必ずしも石原に有利に推移していないこともあってか、石原は「目下国家のために」活動していることを理由に、市長候補となることを辞退する声明を発表している(33)
  他方で石原は、全国レベルでは一九三五年一月から二月にかけて、同じ在郷軍人会を基礎とする皇道会や議会内の反既成政党派である国民同盟と明倫会との三者の合同を画策している。この計画は結局失敗に終り、明倫会は二月一〇日このもくろみを否定する声明を発表するに至るが(34)、これも一時注目を浴びながら結局は既成政党の力に抗しえないでいる反既成政党勢力の大同団結をはかることで、新たな活路を開こうとしたものと言うことができよう。しかしこのように政党的勢力としての発展をはかろうとするにつれ、少数派である明倫会は政争の渦に巻き込まれたり既成政党と類似の行動パターンに陥る傾向をもち、また政党化を推進しようとする石原と、これに否定的な軍人理事との間に軋轢を引き起すことになる。そしてこれはもともと、反既成政党を標榜した明倫会の内包する矛盾の現れでもあった。
  次に、石原の政治的な現役軍人との接触について述べると、前述のようにこうした行動は明倫会としては認められておらず、従って石原の現役軍人との接触も明倫会理事としての立場を離れた個人としてのものであった。石原が接触した軍人は、皇道派・統制派の双方に及んでいたが、一回−数回の会見に終る場合と、石原に接近して政治活動資金をせびり石原が金銭を提供する場合と、石原の方から積極的に政策実現に向けて働きかける、皇道派・統制派の頂点的存在である将官クラスの場合と、大きく分けて三種の場合があったようである。このうち一回−数回の会見をした人たちとしては、花谷正中佐、馬奈木敬信中佐、石原莞爾大佐、和知鷹二中佐、長勇中佐その他数名が挙げられ、たとえば和知中佐のように戦争末期まで石原との交流が続いた人も見受けられるが(35)、これらの人たちとの会見の内容や親密度についてはわからない。ある程度までその輪郭がわかるのは、後二者の場合である。
  石原は一九三三年に約六カ月間をかけて「国難打開策」を執筆し、同年九月にはこれを謄写版刷りで二十部だけ印刷する。その内容は「農村救済ノ急務ナルコト、此際陸軍ノ予算ヲ無理シテ減ラスコト、日露戦争ハ不可ナルコト」を眼目としたものであったという(36)。つまり国内では陸軍の軍事費の一部を割いて農村救済予算に充当し、対外的には対ソ戦を回避して北守南進論をとれという方策であったと思われる。この「国難打開策」は限られた人たちにのみ配付されたが、軍人でこれを受け取ったのは、田中国重、荒木貞夫、秦真次、末次信正、建川美次、天野勇大尉、栗原安秀中尉、中馬大尉の八名であった(37)。田中を除く全員が現役軍人であり、荒木・秦・末次・建川の四名は陸海軍の派閥の頂点的な位置に居ることから、石原が積極的に献策をしたり働きかけたりする対象となる人たちであった。これに対し天野・栗原は石原が活動資金を提供した者たち、中馬は天野が連れて来た友人である。
  「国難打開策」を執筆した当時、石原が政治革新の推進力として最も期待をかけたのは、皇道派の荒木陸相や秦憲兵司令官であった。前述のように石原の立場が日本主義的精神論に近いことが、皇道派に彼を接近させた根拠であろう。石原は一九三三年九月、政府が内政会議によって根本政策を確定するという新聞報道を見て、九月三〇日荒木陸相を訪問し「国難打開策」を呈してその趣旨を説いた。この時の荒木陸相の回答は「農村問題ニ付テハ出来ル丈努力スル  日露ノ問題ニ就イテハ一時ハ戦ハネハナラヌト思ツタカ現在テハ其様ナ考ヘハ持ツテ居ラヌ」、ソ連を仮想敵国としているのは国防計画を策定する上で仮の目標として置いているに過ぎないというものであり、石原の提言を受け入れるような内容であった。そして一〇月九日石原が再訪した時に荒木陸相は、「愈々腹ヲ定メタ必ス内政確信ハヤル」と言明し、自分のこの決意を田中国重大将や近衛公にも伝えて欲しいと石原に依頼したという(38)
  石原はこの荒木の言葉を信頼し、荒木の行動を自発的に支援しようと決心する。その支援行動の一つは、斎藤瀏の紹介で会った皇道派青年将校の中心人物である栗原安秀への金銭的援助である。「貴方から資金を貰っても貴方の指示通りに動くとは限らぬ。(中略)泥溝に捨てた積りで頂き度い」と公言しつつ活動資金の提供を求める栗原に対し(39)、石原が資金提供に応じたのは、秦憲兵司令官が石原に向って栗原の人物を保証する発言をしたためであるが、石原の企図としては「荒木陸相並ニ軍ノ政策ヲ支持スル為ニ金ヲヤツタ」のであった。栗原からの要請に応じて石原が一九三三年一〇月初めから一一月中旬にかけて渡した金は五〇〇円、三五〇〇円、三〇〇〇円、三〇〇〇円と計四回合計一万円に及んだ。また石原の荒木支援は、ジャーナリズムを通じての世論喚起という形でもおこなわれた。石原は『時事新報』社長の武藤山治を訪れ、軍を中心とした「内政革新」を支援するように要請し、武藤はこれに賛同して『時事新報』を通じての支持を約束している。武藤はこの時、「結局軍テナケレバ駄目テアル」と語ったという(40)。自由主義政治家であった武藤山治は、その晩年に当るこの当時、政党の腐敗堕落を憤りそれを指弾しようとするあまりか、五・一五事件の軍人被告を称揚して軍人の政治関与に好意的姿勢を見せるなど、従来とは異る見解を発表しており(41)、この晩年の武藤の姿勢が全く肌合いの異なる石原と手を結ばせた原因であろう。
  しかし結果からすると、この石原の荒木陸相への肩入れは空しかったことになる。荒木陸相は約束した農村対策を中心とする内政改革に着手することなく、陸軍の予算中一千万円を海軍に渡して閣議で予算案を成立させたのだった。一九三三年一二月一日の新聞報道でこれを知った石原は、激怒して荒木陸相に繰り返し面会を求めるが拒絶され、かろうじて会えた秦憲兵司令官に鬱憤をぶちまけるに止まっている。
  また石原は他方で、折から姫路の師団長に赴任してきた統制派の建川美次中将に接触を求め、一九三三年九月二回目に会った時、「国難打開策」を持参して建川にこの趣旨を説くとともに、軍部内の派閥対立解消の必要を力説している。その後も石原は建川に度々会見して政権構想についてなど話し合うとともに、軍部内の派閥解消を訴え、一九三五年八・九月頃に会った時には、「統制派ノ首領タル貴方ト皇道派ノ首領タル柳川中将トカ握手シ両中将カラ各々其派ノ若イ者ニ命令シテ融和セシメ争ヲ罷メシムル」のが最良の方策と力説している(42)。ここには建川ら将官連中が、中堅・青年将校たちに担がれているに過ぎない現実が、石原には正確に認識されていないとも言えよう。なお末次信正海軍大将と石原とは早くから知り合っており、末次は海軍軍人であることから南進論に関わり、石原の著作『新日本建設』にも末次が近衛と並んで題字を寄せていることからしても、石原との間にかなり深い結びつきがあったことが推測されるが、残念ながらこの期間の両者の関係は判然としない。
  さて石原は神武会・明倫会のスポンサーとなったことで、国家主義運動家の間では著名な資金提供者として知られるようになったらしく、軍人・民間人を問わず資金提供を求める輩が数多く接近してくるようになる。このうち軍人で石原が資金提供したのは、橋本欣五郎、田中隆吉、栗原安秀、天野勇らに対してであった。こうした資金援助には、その相手によって石原の側にもさまざまのおもわくがあったと思われるが、前述のように最も多額の資金を提供した栗原安秀の場合、栗原は石原が与えた「国難打開策」を読んだ形跡もなく、石原にしてみれば「何一ツ私ノ望ム通リヤツテ居ナイノミナラス単ニ自派ノ拡張ノ為ノミニ金ヲ使ツテ居ルラシク思ハレ」、いたく失望する結果に終っている(43)。石原が栗原を警戒するようになったのは、栗原が一九三三年一一月に発覚、検挙された救国埼玉青年挺身隊事件に関与していることを聞知し、自分の提供した資金がこのクーデター計画の準備に用いられた可能性を察知したためらしい。その時から「何れにせよ危険性あるを以て、以来遠ざかる事にしました」と、石原は述べている(44)
  ところが栗原の場合にしろ田中隆吉にしろ、石原が次第に現役軍人の資金提供に消極的となり、しかも自分の敵対する軍部内の派閥にも石原の資金が流れていることを察知していることから、彼らは石原に対し逆に恨みを抱くようになったようである。栗原安秀は後に二・二六事件で検挙された時、石原が十月事件、五・一五事件の資金提供をおこなったことを自から語っていたという、石原にとって不利な、しかも事実に反する証言をおこなっている(45)。また田中隆吉は世界大戦後、東京裁判の国際検察局に対し、やはり十月事件と五・一五事件の資金提供をおこなったのは石原だと事実に反する証言をし、また石原が一九四一年には対英米開戦の主唱者として活躍したという、これまた多少事実と相違する証言をして、「彼が今次開戦にだれよりも責任を負うべき人物の一人であった」と、石原にとって決定的に不利な発言をしている(46)。こうした後の事実から見る限り、石原の軍人への資金提供は成功したとは言い難い。
  そしてこれに限らず、石原の現役軍人との接触は期待するほどの成果を収めなかったようである。それは前述のように根本的には石原が、軍部内の諸種の革新論の流れと国家改造プランに於てほとんど接点をもたなかったためとも言える。そして石原自身も荒木陸相と訣別した時から軍部に対する失望感を強め、「此ノ上ハ軍部ノ力ノミテハ到底成功シナイカラ上層部各部ノ反省ヲ促シ」、その「一致協力」によって「国家革新」の実現をはかるという方向に転じていくことになる(47)
4.
  北守南進という用語が歴史上で登場するのは明治時代に始まるが、北守と言い南進と言ってもその内容は時代とともに変化を遂げている。『新日本建設』の中で石原が唱えた北守南進の北守とは、「日、露、独の握手を図ること」であり、ナチスの奪権の翌年の一九三四年という時点で日独ソの同盟を構想したのは、国家主義運動家の中でも他に例を見ないほど早い事例と思われる。このような北守を石原が唱えたのは、国際聯盟脱退後の孤立状態を脱し、英米を先頭とする包囲網を打破しようとうする企図に基づくものであったが、同時に今後の南進の後立てにしようと考えたからでもある。石原にとって南進とは、「自主的強硬外交により、英、米其他列強に当」り、東洋における「列強殖民地の開戸開放、貿易の自由を徹底せしむること」を意味しており、英米圏との摩擦をさらに激化させる確率の高い方策であったからである。
  『国難に直面して』の中でも触れられていたが、この『新日本建設』においても石原は「白色人種の全盛期は既に去らんとす」と述べ、これまで「有色人種」を征服支配してきた「白色人種」はもはや衰退過程に入り、今や「現状維持」のために保護貿易や軍備制限に走ろうとしている、という認識を示している。これに対して勃興期にある有色人種の代表である日本は、これら白人=欧米列強に対し「生存圏」や軍備を含む「平等権」を主張して南進すべきだ、というのである。その南進とは具体的に言うと、日本が「自主的強硬外交」によって、満州・表南洋諸島・オーストラリアに移植民するとともに、日本が「中心工業国」となって、オーストラリアを含む東アジア一帯の地域を原料・製品市場に再編成し、これにより「東洋経済『ブロック』」を形成するというプランである。当然これが東アジアに最も大きな利権をもつイギリスと対立しない筈はない。そのため石原は、「日、英の経済関係は、利害の一致できない対立的なものである」と断言している。しかし、対米関係についてはこれとはやや違って、たとえ対米関係が悪化しても少なくとも日本から戦争を仕掛けるべきではない、と主張していた。
  石原の唱える南進のための「自主的強硬外交」とは、言うまでもなく軍事力を背景としたものであった。とはいえこの段階では必ずしも軍事力の発動を予想していたわけではないのであって、「自主的強硬外交」により関税障壁を撤廃して自由貿易を実現し、国家的援助を与えることで日本の海運業を育成し、それに日本の平価を二分の一に引き下げて金本位制に復帰するなどの政策により、南進は実現できるものと考えられていた。つまり自由貿易南進論ともいうべきものであって、武力南進論ではなかったわけである。
  石原のこの主張は、一方では人種主義に立脚し、「持てる国」と「持たざる国」の平等権を主張するなど、この時代にありふれた国家主義者の対外認識の枠組みを踏襲しているとも言える。しかしそこから生じて来る北守=日独ソの同盟論と、南進=自由貿易南進論の組み合わせはユニークなものであり、国家主義運動家としての石原の主張全体の中でも最も特徴的なものであった。しかし石原の唱えるこの北守南進論は、一九三〇年代の前半から中葉というこの時代にあっては、たいへん世間の理解・共感を呼びにくいものであった。この時代には一般に、満蒙・華北への関心が抱かれることはあっても、また石原の主張と反対に北進論=対ソ戦論が唱えられることはあっても、南方圏に関心を向ける人たちは極めて稀であったからである。そうした中で石原は、講演会の場で「”シンガポール以東は日本の領土である”と南進論を吐露」して、聴衆から「気狂ひ」扱いされたりする状態であった(48)。その点からすると、徳川義親や大川周明は国家主義運動家の中でもごく少数の、南方に関心を抱きその知識も有している人たちであったということができる。石原が国家改造運動に乗り出した時、最初に結びついたのが徳川・大川であったことは前述したが、石原は徳川と大川の二人に対しては、その後も一貫して深い信頼感を抱き続けており、組織の離合集散はあってもこの二人との同志的関係は持続している。二・二六事件のさ中にあっても、石原が一体の行動をとったのは徳川、大川とであった。
  ただ一般的にはこのように南方圏への関心は薄かったと言えるが、金本位制離脱後の低為替政策によって日本の南方圏への輸出額は急増し、このことは植民地を含めたブロック経済化を進める欧米各国と日本との間に鋭い貿易・経済摩擦を生み出すこととなり、この経済摩擦への注目は日本国内でも高まっていた。この貿易・経済摩擦は、海運業においては自国船保護政策を展開する欧米各国と、海洋自由の原則を旗印に強引に航路とシェアの拡大をはかる日本側との対立という形で推移したが、日蘭海運摩擦も同様の構図に立脚していた(49)。石原はこの日本の主張である海洋自由の原則の主張者の急先鋒であったのであり、石原の自由貿易南進論は日蘭海運摩擦における彼の立場にぴったり照応したものであった。そして石原を含め蘭印航路に就航している日本側四社の立場は、これだけでなく海運協定における政府の介入を排し、国別にプール配合を割り当てる方式に反対していた。一九三五年一月二五日から神戸で開かれた日蘭海運会商の場で、石原が主導する日本側代表は、会議に使用する公用語を英語と開催地の言語(つまり日本語)にすることを主張し、これに反対するオランダ側との間で意見はまとまらず、会議は実質討議に入らないまま三月二日に決裂するに至った。これは会議を決裂させる方が有利と見た石原の策謀によるもので、この日蘭海運会商によって石原の名は多少とも世間に知られるようになる。しかしこの時、用語問題での妥協をはかろうとした広田外相が、近衛を通して石原の説得をはかろうとしたことに示されるように(50)、日蘭海運問題への蘭印側との妥協をはかろうとする日本政府の介入の姿勢は次第に顕わになっていった。
  一九三五年七月六日、蘭印航路に就航している日本側の海運四社は、共同出資して南洋海運株式会社を設立するが、この会社には政府から逓信省の局長が天下りして社長となり国庫補助金も支給されるなど、官民一致の国策会社であった。官民一致協力はもともと石原の本来の立場でもあり、石原産業海運もこれに加わっていたが、南洋海運の基本路線はこれを契機に蘭印当局との妥協をはかる方向にあった。そのため石原の主張する対蘭印強硬方針は容れられず、結局彼は一二月九日南洋海運の日蘭交渉担当顧問の役を辞任するに至るのであった(51)。日蘭海運摩擦の全期間を通じて、石原は対蘭印強硬路線を主張し続ける。それは蘭印側の自国船保護政策と対立するものであったばかりでなく、蘭印当局との妥協の道を探ろうとしていた日本政府や、運賃の低下に損害を受けてやはり妥協の道を模索していた他の日本側海運会社とも敵対し、孤立する可能性をはらんだ路線でもあった。この石原の孤立はやがて現実化するが、そのことは彼の唱える官民一致協力論のおもわくの矛盾を示すものでもあった。
  さて、これまで第一期の石原の国家主義運動家としての特徴を概観してきた。そこから知れることは、石原が一見下からの急進ファシズム運動の支援者・主張者のごとく見えながら、実は「上層部」からの改革に大きな期待を掛けており、それは彼の抱いた国家改造構想の微温性、現状維持的性格に照応していること、次に石原は親軍反既成政党の立場を唱えていたが、その親軍にせよ反既成政党にせよ、いわば目的と手段との間になんらかの齟齬やねじれた関係があって、在郷軍人・現役軍人双方の軍人たちに石原は失望感を深めることになり、また反既成政党を主張する明倫会も自から政党化の方向を進めていくこと、そして最後に石原の最もユニークな主張である北守南進論は、この時代にあっては多くの人の関心を呼びにくい面があったこと、などである。そして荒木陸相と訣別した一九三四年初頭頃から、石原は自己の活動に行き詰りを感じるようになっていく。この中で浮上したのが近衛文麿である。石原は近衛とは一九三二年末に知り合い、それより交流が始まっていたが、「上層部」からの国家改造という点でも、親軍反既成政党の立場を共有しながら非軍人であることでも、また持たざる国の生存権・平等権の主張者であり南進論を唱えていることからも、石原にとっては大いに共感でき信頼を寄せることのできる恰好の存在であった。また近衛にも、石原のような”野人”を好む面があった。
  一九三四年一月になって石原は近衛から、大臣、次官などは「始終更迭」するので、むしろ「各省ノ中堅階級」である「局長級ノ実力者」と会って意見交換をすることを勧められる。この時近衛がその名を挙げ、実際に近衛の紹介によって石原が面談した人たちは、外務省情報局長白鳥敏夫、大蔵省主計局長藤井真信、内務省地方局長安井英二、内務省土木局長唐沢俊樹、司法省行刑局長塩野季彦、前商工省貿易局長であり東京市電気局長の立石信郎らの面々であった。石原はこれらの人々と個別に面談しただけでなく、議会閉会後近衛とこれら全員が「一同打寄ツテ懇談会ヲ開催」する話も持ち上っていたが、近衛の病気や内閣更迭にともなう人事異動のため、この懇談会の計画は実現しなかったという(52)。また前述の「国難打開策」の方は、藤井真信や堀切善次郎にも手渡されていた(53)。ここには国維会への参加者を含む新官僚の人たちが、近衛との結びつきをもち、さらに石原とも接触しているさまがうかがえる。
  なお石原は、これらの人のうち藤井真信には数回会っており、藤井の蔵相就任後の一九三四年九月には近衛も交えて三人で懇談している。この時こうした動きを危険視した原田熊雄は、近衛や藤井に対し石原を近づけないようにと勧告している(54)。その藤井蔵相は、昭和十年度予算において新たに特別利得税を創設しているが、石原はこれを「国難打開策」や『新日本建設』で彼が提起した「非常時特別所得税」を実行に移したものと受け止めていた(55)。つまり自分の提言が、近衛の力を背景にして初めて国策に採用されたと理解したのである。
  石原の近衛に対する期待は、一九三五年になるとさらに昂進し、岡田内閣が天皇機関説問題で揺さぶられる四月頃からは、いよいよ近衛を次期首相候補として擁立する方向に乗り出すようになる。ちょうどその頃、京都で中川、石原と会った近衛の方も、対外的には南進論を唱え、内政面では「今の元老間の空気は軟派を以(て)硬派を抑へやうと云ふ意見に一致してゐるやうだが、私は硬派を以て硬派を制しなければいけないと思ふ」と語って、石原と意気投合していた(56)。石原はかねてからの同志である大川周明や徳川義親に近衛擁立の計画を打ち明けて、大川や徳川の賛成を得た後、大川周明を伴って中川小十郎を訪ねて近衛擁立の主張を伝え、是非これが実現するように中川から元老西園寺にあててその意見を伝えるように依頼している。中川は石原の近衛擁立案に「至極御尤ナ意見テアル」と賛同し、後に石原に対して「言葉テハ間違ツテハ不可ナリト思ツテ文章ニ認メテ元老ニ差出シテ置イタ」と語ったという。他方で石原はやはり大川を伴って近衛宅に赴き、近衛に対して「此ノ際万難ヲ排シテ蹶起」することを要請するが、近衛は例によって「君ハ僕ヲ買被リ過キテ居ルヨ、僕ハ決シテ其様ナ器テハナイ」などと、言を左右にしてこれに応じようとはしていない(57)。原田熊雄日記中には、一九三五年六月一日の西園寺の発言として、オランダの総領事の報告の中に、石原が「現在の内閣を罵倒して、『数箇月後には、自分が独裁政治をやる首脳者になるんだ』といふやうなことをオランダ人に公言した」旨の情報があるとの話が出てくる(58)。もしこの石原の「公言」が事実であったとすれば、それは石原が自分自身に大命降下する可能性を想定していたのではなく、近衛を首相に担いで、自分が近衛の側近として「独裁政治をやる首脳者」となることを夢見たものであろう。
  天皇機関説の排撃については、明倫会は在郷軍人を基盤とした団体にふさわしく最も活発な団体の一つであった。早くも一九三五年二月二七日には美濃郡に対する「断乎たる処置」を要望し、四月からは各地で機関説排撃の演説会を開いて世論を盛り上げ、八月の第一次国体明徴声明の後は強く政府の姿勢を批判して倒閣運動に連なり、第二次国体明徴声明後の一〇月二二日に至ってもその内容の「不徹底」ぶりを批判して、「機関説信奉者の一掃」を要求し内閣が倒れるのも止むなしとするなど(59)、終始強硬路線を代表していたとの観がある。この時石原は一方で、明倫会の機関説排撃運動・倒閣運動の方向に片足を突っ込みながら、第一次国体明徴声明発表後の一九三五年九月頃、同文の意見書を三通作成し、一通は中川小十郎を通じて西園寺公望に上呈し、一通は吉田茂を通じて牧野伸顕に手渡し、もう一通は一木喜徳郎に書留郵便で送付したという。その意見書の内容は、まず機関説問題を「利用シテ之ヲ倒閣ノ具ニ供セントスル」やり方には反対だと述べた上で、とはいえいずれ機関説問題が「漸次下火」となった頃を見はからって「徐ニ他ノ理由ニ依リ」内閣総辞職をはかるのが妥当である、そしてこの内閣更迭後しばらく経ってから、「一木、牧野ノ両人カ辞職スル事カ最モ適当」であるとし、かくすれば「世ノ中カ円満ニ治マル」と述べたものであった(60)。これに対し牧野伸顕は吉田に、「大変ヨイ意見タ」と語ったという(61)。これは明倫会の要求するところを、より穏和な形で実現する方策とも言える。石原がこの時、近衛内閣の成立を策していたことからすると、この意見書は元老重臣に自分がさほど危険な人物ではないことをアピールし、急進的な倒閣運動との間の橋わたしの役を自から売り込もうとしたものとも読み取れよう。そしてこうした役回りこそが、石原が一貫して狙っていたところのものでもあった。

5.
  一九三六年一月の石原の総選挙への立候補から、六月の憲兵隊による逮捕、一二月の起訴に至るまでの経過は、この第一期に石原が進めてきた方向がことごとく破綻していく過程でもあった。
  一九三六年一月二八日、石原は京都二区から衆議院議員選挙に立候補する。京都二区は定員三名に対して八名(のち七名)が立候補していたが、有力候補が多くなかなかの激戦区であった。このうち与党民政党から出馬した二名は、現文相川崎卓吉の息である川崎末五郎と元府会議長の池本甚五郎であり、ともに新人ながらかなり有力であった。また政友会公認の二名は、前代議士の政友会京都支部長中野種一郎と磯部代議士の地盤を引き継いだ新人の田中好であり、これに明倫会の推薦を受けた石原の五名が新聞の下馬評でも話題に上っていた(62)。石原廣一郎の陣営では府議である北尾半兵衛が選挙事務長を引き受け、大がかりな宣伝活動をおこなっている。陣営では「延べ百回の演説会を計画」し、明倫会本部からは奥平俊蔵中将や斎藤瀏少将など在郷将官六名が応援にかけつけ、橋本欣五郎大佐などとともに演壇に立ったが(63)、来援者の中でも侯爵徳川義親の応援は人目を引くものであった。徳川義親は二月一二日東京を出発して京都ホテルに泊り、二月一三日、一四日の両日にわたり石原の応援演説に巡回し、一度他候補の応援のため名古屋に行った後、二月一八日に再び京都に来て石原の応援をした模様である(64)。石原に対しては「オール明倫同志動員」の応援活動がおこなわれ、演説会にも多くの聴衆が来集し、石原の前評判は上々で当選は固いとも思われていた(65)。ところが二月二〇日の投票の結果では、川崎、田中、池本という民政二、政友一の既成政党の三名が当選し、石原は次点にもならず次々点での落選に終る。
  これは民政党の党勢回復と国家主義団体の低調という、この選挙全体の傾向の反映でもあったが、同時に石原の場合は地元紙が指摘していたように、「他の候補者はたとひ新人でも、何かの因縁によって根拠地なり、地盤なりを有してゐる、然るに石原氏はさういふものが全然ない、広く一般有権者の明倫主義への共鳴を恃む」だけという(66)、言論活動一本槍の選挙運動の限界という事情もあった。その上石原のセールスポイントは、中川小十郎による応援演説がそうであるように、南方での鉱山開発や海運貿易などの事業の「国家的」功績を押し出すという種類のものであり(67)、これではいよいよもって選挙民の利益と結びつく接点をもたないのである。しかしこの落選は、これまで明倫会の内部でその政党化の路線をリードしてきた石原にとっては大きな打撃であり、その路線の再検討を迫られるものとなった。そしてこの落選によって、石原は政治上の公職をもって政治の表舞台に進出する決定的な機会を逸することになったのである。
  総選挙に立候補しての落選が、石原の明倫会を通じての反既成政党活動の一つの結末であったとすれば、石原の栗原安秀中尉への資金援助などによる反乱幇助容疑での起訴は、石原の親軍姿勢に基づく現役軍人との接触の、もう一つの結末でもあった。憲兵隊による検挙・起訴については後に述べるとして、栗原との関係について述べると、一九三五年秋頃には栗原は自分を遠ざけるようになった石原に対しかなりの悪感情を抱いていたらしく、石原から脅迫してでも金を提供させると斎藤瀏に公言し、斎藤からいさめられている。一九三六年一月初め、栗原は京都の石原の自宅を訪れる。石原によればその時の栗原は「何日モノ栗原トハ態度ガ違ツテイル、何トナク落付ガナイ、目モ吊上ツテイル、一寸不温(ママ)ノ挙動モ見エルノデ愈々強迫(ママ)ニ来タト直感シタ。(中略)宅ニハ老父モ居ルノデ何トカ穏ヤカニ帰スガ良イ、其レニハ彼ノ話ヲ聞カズ何レ近ク上京スルカラ東京宅ヘ来タマヘ、其所テ話モ聞コーシ金ノ都合ガ付ケバ何トカスルヨ、ト言ツテ追ヒ帰シタノデアル、確ニ強迫(ママ)トシカ思ヘズ、何トカ早ク追ヒ帰ソート言考(ママ)ヘテ頭ハ一盃デアツタ」という状況であった。その後石原が上京した折、栗原から数回連絡があったにもかかわらず、危険と思って会わなかったとのことである(68)。ただこの中で「其レニハ彼ノ話ヲ聞カズ」と言っているのは、どうやら栗原が近々蹶起することを示唆してそのための資金援助を要請したのに対し、石原はこうした非合法計画の話は聞かぬ方が安全と判断して、詳細を聞くことを断ったということらしい。
  一九三六年二月二〇日夜、銀座の鳥料理屋から斎藤瀏が京都の石原のもとへ電話をかけて来て、斎藤は栗原からの要求であるが千円提供してくれないかと依頼する(69)。石原は斎藤の選挙応援への御礼ということもあって金を出すことを諒承し、翌二一日東京宅の書生の手を通して斎藤に金を渡している。この千円の金が斎藤を通して栗原に渡され、二・二六事件の蹶起資金として用いられることとなった。この時石原は、栗原ら青年将校たちがクーデターに蹶起するか否かについては、半信半疑だった模様である。青年将校たちが大言壮語するクーデター計画について、「まさか実行するとは思っていなかった」とも回想し(70)、他方で「ことによるとこんな事も近いのではないか」と思ったとも語っている(71)。これからすると自分の提供した金が、クーデターの実行に用いられる可能性を、全く想定していなかったわけではない。
  二月二六日早朝、石原は東京からの斎藤の電話で反乱の開始を知り、続いて大川周明からも事件の連絡があった。そこで直ちに午前七時三〇分京都駅発の列車で上京し、午後四時四五分頃東京駅に到着し、山王ホテルにある東亜経済調査会事務所で大川と会い事情を聞いている。これから二七日にかけて石原は、大川周明・徳川義親・田中国重・斎藤瀏らに会って、専ら流動する情勢の正確な情報をつかむのに奔走しており、それ以上に主体的な行動はとっていないらしい。
  ただこの時期注目されることは、二月二七日朝明倫会の緊急常務委員会が開かれたが種々意見が出てまとまらず、結局斎藤瀏の仲介で反乱軍将校に会って帰って来た田中国重が決をとって、今後「軍部内閣」を組織して事件の「處理」に当らせるべきだという決議を挙げたということである。この決議は、その後陸軍省に明倫会の代表が持参したともいうがハッキリしない(72)。明倫会常務理事の井上勝好が、この日「真崎内閣」によって収拾に当らせるべきだと語ったことで知れるように(73)、反乱軍側を利する行動と思われるこの明倫会決議については、なぜか特設軍事法廷では究明・追及の対象とはなっていない。石原はこの決議の場に出席していたが、積極的にこれに賛成していたわけではなかったらしく、この点で井上とは異なっていた。
  二月二八日、情勢は急速に反乱軍側に不利になっていく。この日の早朝、石原は田中国重を訪問して反乱軍撤退の奉勅命令が伝宣されたとの情報を告げ、この際在郷将官を緊急に招集して時局収拾に乗り出すべきだと提案するが、田中国重は奉勅命令の件は誤聞だろうと述べた上で、在郷将官は「ソフ云フ事ハ出来ナイ」と石原の提案を断っている(74)。その後石原は藤田勇の家に赴き、対策を協議している。この時参集していたメンバーは、藤田のほかに、石原・大川・徳川・清水行之助・浅岡信夫らであったが、しばしば石原は大川・徳川の三人だけで密談し、そのことで清水らと衝突している(75)。この時種々の提案が出されるが、最終的には「徳川義親侯が爵位を返上し決死の覚悟の下に蹶起部隊の主謀将校等を同道して宮中に参内し、彼等をして蹶起趣旨を言上」させる、そして「言上」の後これら将校は自決するという案が決められる。なおここでは、田中国重も位記・勲等を返上する覚悟で徳川に同道するという案が決められたが、田中に連絡すると、田中はこの日の早朝の時とは逆に、奉勅命令がすでに伝宣されているからと述べてこの提案を断ったとのことである。その後斎藤瀏とも連絡をとり合った結果、斎藤瀏を通して栗原ら蹶起青年将校から、徳川義親による引率参内案には「御厚意は感謝しますが、今となっては無駄」と思うとの回答が寄せられ、何とか宮中・上層部を動かすよう尽力してほしいとの依頼があったとのことである(76)。そんな中でこの案の実行はとり止めとなった。しかしこの事件収拾に向けての活動が、後に石原が栗原安秀に対する反乱幇助容疑で起訴される一因となる。
  石原が提案したり賛同したりしたこの二つの方策は、在郷将官の結集参内案も徳川義親による蹶起青年将校引率案も、どちらも事件の現実の推移に照らして考える限りやや突飛な案であり、たとえ実行に移されたとしてもどれほどの現実的効果を持ち得たのかは疑問であった。しかしこれらは、クーデターのエネルギーを利用して一挙に国内改造をはかろうとするプランであり、しかも現在は権力の外に居る民間人主導の収集策である点に特徴があった。これに対して、前日に軍部内閣案の明倫会決議を決めた田中国重は、このどちらの案にも賛成しておらず、どこまで行っても軍人の立場と論理に固執していた。こうした中で石原は、田中ら在郷将官をいざという時に頼みにならぬ連中と思ったようである。
  二月二九日、反乱軍はいよいよ帰順する。この日以降石原は、徳川・大川とも合意の上で、近衛内閣成立による事態収拾に向けて説得工作をおこなうことになる。前年来からの懸案でもあったこの近衛擁立案には、むろん近衛を首相に押し立てての国内改造実行の期待がこめられていた。この日午後一時頃、石原は近衛のもとに訪れて近衛の「奮起」を促す。これに対して近衛は、今この状況では陸軍大臣を誰にし陸軍をいかに「統制」するかの見通しも自信もない、「自分カ苟クモ起ツタカラニハ自分ノ理想ヲ実現シタイト思フカ、サテ此ノ際陸軍カ一番難物テアル」、自分には組閣の「準備」もないし、このままでは首相となっても陸軍の「傀晶ニ過キナイ『ロボツト』」となる恐れがあると語って、どうしても首を縦に振ろうとはしなかった。しかし石原は、各方面と連絡を取り合いながら近衛擁立の運動を持続する。事件のさ中から、興津坐漁荘で元老西園寺の傍につき沿っていた中川小十郎からは、頻繁に事件の情報についての問い合わせの電話が石原のもとにかかって来ていたが、この日の夜の中川との電話の話の折に石原は、後継首班には「近衛公ヲ措イテ人ガ無イ」、各方面に近衛に対する反対はなく、この件を「是非老公ニ御推薦願ヒ度イ」と依頼している。その後三月二日、西園寺の上京につき従って来た中川小十郎に石原は面会し、やはり近衛首班が「最モ適任テアル旨ヲ西園寺公ニ御伝ヲ願ヒ度イ」と再度依頼し、その夜のうちに中川はこの旨を「老公」に伝えたとのことである。しかし西園寺の説得にもかかわらず、組閣の大命を受けた近衛は強引にこれを拝辞し、結局三月六日広田に組閣の大命が下るが、陸軍の横槍で組閣難に陥る。この時石原は近衛のもとを訪れて、もし近衛に大命再降下する場合には是非引き受けてもらいたいと再び説得している(77)
  しかし難産の末、広田内閣は漸く成立する。三月一二日鎌倉の別邸に近衛を訪ねた石原は、今回の事件に際しての「軍のあの醜態」と「重臣のあの不ざま」、そして元老の広田奏請を批判した上で、近衛に対してもなぜ内閣を引き受けて自己の抱懐する政策を実行しなかったのかと批判的意見を述べている(78)。ともあれ近衛の大命拝辞によって、選挙には落選し軍には失望した石原は、ここに最後の政治的展望までをも見失なってしまったと言えよう。この時石原は、国家改造運動から手を引こうと考えたようである。
  ここから石原は再び、日蘭海運摩擦問題への取り組みに活動を転じていく。四月一五日、石原は蘭印当局との妥協をめざして進む南洋海運とは別に、資本金二〇〇万円で中川小十郎を社長とする南洋航路株式会社を設立する。これは言うまでもなく、政府の統制に服せず、日蘭間の当面の海運協定締結をめざさないで、日本商船による強引な航路・販路の拡大をはかるための新会社の設立を意味していた。南洋航路の設立は、前述の石原の孤立路線を示すものだったと言えよう。これに対し政府は一九三六年五月、海運業における過当競争防止のため政府が強力な権限をもってこれを統制することができるとする航路統制法案を第六九帝国議会に提出する。航路統制法案での「不当競争」の取締りとは、実は石原の南洋航路のみを対象としていると言われ、当時この法律は「石原統制法」とも呼ばれた(79)。石原はこの法案に反対して、一九三六年五月五日付の『航路統制法案ヲ難ズ』というパンフレットを私家版で発行しているが、この中で石原は、「畢竟海運ハ実力ヲ有シ競争力ノ優レタルモノガ勝利者トナリテ其国ノ航権」の拡大強化をもたらして来たと述べ、しかも近年の日本海運の発達は、国家補助を受けた日本郵船・大阪商船によってでなく、補助を受けていない「社外船」の自由な活動によってもたらされていると述べている。しかしこうした石原の反対にもかかわらず、航路統制法は五月二五日には帝国議会で成立し、これをきっかけに再開した日蘭海運交渉は妥結し、石原の南洋航路設立の狙いは封じ込められることとなったのである。つまり言いかえると石原の自由貿易南進論の主張も、この段階で一つの挫折を経験することになったわけである。
  そしてこうした一連の挫折のいわば総仕上げが、一九三六年六月一三日の東京憲兵隊による検挙・拘禁であった。この六月一三日から二四日にかけて、陸軍司法警察官陸軍憲兵少佐福本亀治により、石原は五回に及ぶ聴取を受けており、その第三回と第四回の中間の六月一八日には「私の感想」と題する文書を提出している。その後七月二日には、自動車で本所駒込警察署に連行され、警視庁特高課警部原田千代太郎からも聴取を受けている。その二日後の七月四日、石原は代々木の陸軍衛戌刑務所に反乱幇助容疑で拘留されることとなり、八月一一日から九月一七日までは、予審官陸軍法務官鈴木忠純によって二五回にわたる訊問を受けている。ここでの訊問の内容は、二・二六事件に関連した石原の行動を中心としながら、これまでの石原の政治活動全般に亘っており、二五回分の訊問調書は五八八頁にも及ぶものであった。そしてこの調書の末尾には、石原が提出したらしい「最近ノ私ノ行動一覧表」が添付されている。これは、一九三一年九月ー一九三六年五月の期間の石原の政治行動について、「右翼団体」、「重大ナル知人」、「統制将校」、「皇道将校」、「私ノ国事行動」、「国内情勢」の六項目に区分して一覧表にまとめたものであり、訊問調書の内容の総括表でもあった。
  石原が憲兵隊に検挙されたのは、もともとは一九三六年六月一日付の陸軍憲兵曹長山口清馬より特高課長福本亀治宛の「報告書」に端を発していた(80)。ただこの中では、「明倫会幹部田中国重、徳川義親、石原広一郎、斎藤劉(ママ)等ハ二・二六事件収拾ノ為策動シタル状況聴込シアリタル」旨が記されており、ここでは石原は明倫会幹部の一人として名前が挙っていることからして何より明倫会が疑われていること、容疑の内容は反乱軍を利するような事件収拾策動に置かれているのがわかる。ここからいつ明倫会が疑惑の対象からはずされて、専ら栗原との関係に焦点が絞られていったのかは判然としない。しかし六月二二日ー二三日に大川周明が、六月二四日には徳川義親が憲兵隊の聴取を受けながら検挙されず、田中国重に至っては憲兵隊の聴取すら受けていないところを見ると、この転換はすでに六月中の早い時期に起っていたらしい。明倫会に罪がなく、栗原との関係だけが問題とされるなら、従来から栗原と交流があった斎藤と石原の二人だけが拘留され、栗原との交際のなかった他の人々は容疑者ではなくなるからである。
  九月一七日に最後の尋問を受けてから、石原は尋問を受けることもなく陸軍衛成刑務所の中で放置されている。この状態は一二月初旬まで続いており、石原は年内の不起訴釈放を予想していた。ところが一二月一二日になって突如公訴が提起され、この「通知ヲ受ケタ時ハ全ク晴天ノ霹靂デ、不安ト無念トカ胸ニ迫リ、一時ニ気力ヲ失ナイ陰鬱ナル日ヲ送」ることになったという(81)。迷惑を懸けることになると思ってか、この公訴提起直後に石原は井上勝好らとともに明倫会を「脱退」している(82)。その後一二月二一日、判士陸軍中将山室宗武を裁判長とし、陸軍法務官小川関治郎・判士陸軍少将三宅俊雄を裁判官とする公判通知が届けられる。そして一二月二六日、二七日、二九日と三回の公判が開かれるが、この第二回の一二月二七日の公判において石原は証人として八名の名を挙げて喚問することを求め、検察側は三名にだけその「不必要」を唱えたが、他の五名の証人喚問については「異議ナキ旨ヲ述ヘタリ」とのことであった。検察側も喚問に同意した五名の証人とは、林彦四郎(石原の相場取り引きに関連)、徳川義親、大川周明、中川小十郎、斎藤瀏の五人であった(83)。ところが意外なことに、検察側も同意したこの五名の証人喚問の申し出を、十二月二十九日の第三回公判で裁判長は全員却下し、ここに検察官鈴木忠純による論告求刑がおこなわれる。論告の内容は、第一に、栗原安秀に対し斎藤瀏の手を通して石原から提起された千円の金が、栗原らの蹶起資金に用いられたことであり、第二は徳川義親による蹶起青年将校の引率、宮中参内による蹶起趣旨の言上計画は、栗原らの反乱行為を支援するもので、どちらも反乱幇助に当るというものであった。その上で鈴木検察官は石原に対し禁錮十二年を求刑している。これに対し意見を求められた石原は、かなり長い弁論をしているが、石原によれば論告求刑を受けて「其ノ意外ニ無念ト興奮トガ胸ニ迫」っている中、突然弁論を求められたため「遂ニ言フベキ事ヲ忘レ又同シ事ニ二度繰返」すなど、まことに不十分な内容に終ったという(84)。そこで石原は改めて翌年一月八日に、山室裁判長宛の「上申書」を提出し、検察官の論告に遂一反論をおこなっている。
  一九三七年一月十八日、第四回の判決公判が開かれる。判決は、証人申請が悉く却下されるなどの状況の中で、厳しい判決を予想していた石原にとっても意外な無罪の判決であった。判決文は、検察官の論告の内容を長々と要約紹介した上で、何の理由も示さずに「右ハ何レモ其ノ証憑十分ナラス犯罪ノ証明ナキモノナルヲ以テ」無罪とするという、二・二六事件の無罪判決に共通する奇怪な形式のものであった(85)。石原の起訴と無罪判決がどのような事情で決まったものなのかは、判然としない。ただ一つ言えることは、検察官の論告中、栗原に対する資金援助の方はともかく、徳川義親の蹶起青年将校引率しての参内案が栗原らの反乱に対する支援に当るなら、石原だけに罪をかぶせることはつじつまが合わないということである。当然肝心の徳川義親も反乱幇助で逮捕・起訴されねばならない筈であるが、なぜか特設軍事法廷はこうした方向には踏み切っていない。石原の無罪判決には、こうした点が考慮された可能性がある。そうして見ると、結局栗原との関係だけを重視して検挙・拘留した方針自体に、矛盾があったとも言えよう。
  蹶起した青年将校の背後に、それを操った黒幕の民間人が居る筈だとする、特設軍事法廷の描いた全体的な構図からすれば、以前から現役軍人と接触し資金提供をおこなっていた石原は、うさん臭い危険人物として憲兵隊側に狙われ易い立場にあったと言えよう。そして栗原への資金提供に関しては、石原にも検挙されるだけの理由がないではなかった。しかしこの無罪判決で釈放されることによって、石原にとって政治活動の可能性は再び開かれることになる。

(1)  石原廣一郎『八十年の思い出』(石原産業  一九七〇年)、中川小十郎「石原鑛業昔日譚」(『創業貳拾年史』  石原産業海運  一九四一年)
(2)  『インタヴュー記録Cー5  特定研究「文化摩擦」』(東大教養学部国際関係論研究室  一九八一年)
(3)  石原廣一郎『創業三十五年を回顧して』(石原産業  一九五六年)
(4)  石原廣一郎『八十年の思い出』
(5)  「第二回被告人訊問調書」(一九三六年八月一二日、『昭和一一、二、二六事件訴訟記録』第一五巻〔東京地方検察庁所蔵、以下同記録は「東京地検記録」と略称する〕)
(6)  内務省警保局『昭和七年中における社会運動の状況』  三一書房  一九七一年
(7)  「聴取書」(一九三六年七月二日、於本所駒込警察署、東京地検記録)
(8)  井上勝好(一八八四年ー一九四二年)は一九一〇ー二八年の時期報知新聞社に記者として在籍し、政治部長も勤めた経歴を有しており、こ
の経歴を買われて石原の政治活動に当ってその補佐役を依頼されたようである(井上勝好「履歴書」  立命館大学所蔵)。
(9)  『国難に直面して』は、前掲『石原廣一郎関係文書』下巻中に、『新日本建設』の「附録」として収録されている。
(10)  このために要した費用は八万円に上ったという。「第四回・第五回被告人訊問調書」(一九三六年八月一五日・八月一七日、東京地検記録)。
(11)  古屋哲夫「日本ファシズム論」(『岩波講座日本歴史』20  一九七六年)では国体論とアジアの盟主論の結合としているが、筆者はこれを参考にしつつ本文のように変えた。
(12)  「第五回・第六回被告人訊問調書」(一九三六年八月一七日・一八日、東京地検記録)。
(13)  『西園寺公と政局』第二巻、二一八頁(岩波書店  一九五〇年)、『木戸幸一日記』上巻(岩波書店  一九六六年)一九三二年二月一〇日条
(14)  「第四回被告人訊問調書」(一九三六年八月一五日、東京地検記録)
(15)  「第五回被告人訊問調書」(一九三六年八月一六日、東京地検記録)
(16)  「本会設立に関する主要事項」  『明倫会会史』(名倫会々史編纂所  一九四二年)、傍点引用者。
(17)  11石原廣一郎「第二回聴取書」  原秀男他編『検察秘録二・二六事件』II(角川書店  一九八九年)IV「聴取書」
(18)  『現代史資料(5)国家主義運動(二)』(みすず書房  一九六四年)所収
(19)  「第十一回被告人訊問調書」(一九三六年八月二五日、東京地検記録)
(20)  「第二回被告人訊問調書」(一九三六年八月一二日、東京地検記録)
(21)  「第十二回被告人訊問調書」(一九三六年八月二六日、東京地検記録)、傍点引用者
(22)  石原廣一郎『昭和維新ノ達成ニ就テ』は、謄写版刷り全九章一一一頁の著作で、発行年月不明。内容は『新日本建設』と重複する部分が多い。
(23)  和田日出吉『二・二六以後』(偕成社  一九三七年)
(24)  「第十三回被告人訊問調書」(一九三六年八月二七日、東京地検記録)
(25)  「第四回被告人訊問調書」(一九三六年八月一五日、東京地検記録)
(26)  前掲「本会設立に関する主要事項」
(27)  内務省警保局『昭和八年中に於ける社会運動の状況』  三一書房  一九七一年
(28)  石原廣一郎『私ノ過去三十年ノ社会的活動ノ概要』
(29)  「第六回被告人訊問調書」(一九三六年八月一一日、東京地検記録)
(30)  「田中総裁以下を迎へて京都支部大演説会」  『明倫』一巻一号(一九三三年)、なお明倫会とその京都支部に関連しては、須崎慎一「日本型ファシズムの道をめぐって−在郷軍人組織=明倫会・皇道会の検討−」(藤原彰・野沢豊編『日本ファシズムと東アジア』  青木書店  一九七七年)、小関素明「一九三〇年代における『反既成政党勢力』の消長に関する一考察−京都市における明倫会と社会大衆党を事例に−」(『日本史研究』三〇四号、一九八七年)、塩出環「明倫会の成立と発展−明倫会京都支部の展開を事例に−」(『立命館法学・学生論集・一九九四年』四一号  一九九五年)を参照。
(31)  「第六回被告人訊問調書」(一九三六年八月一八日、東京地検記録)
(32)  以上の経過については、塩出環前掲論文参照。
(33)  『京都日出新聞』一九三五年一月二五日
(34)  内務省警保局『昭和十年中に於ける社会運動の状況』  三一書房  一九七二年
(35)  「第六回・第七回被告人訊問調書」(一九三六年八月一八日・一九日、東京地検記録)、なお和知との交流については、「石原廣一郎日記」一九四五年八月八日・九日・十一日条(『立命館百年史紀要』三号、一九九五年)。
(36)  「第七回被告人訊問調書」(一九三六年八月一九日、東京地検記録)
(37)  「第十回被告人訊問調書」(一九三六年八月二四日、東京地検記録)
(38)  「公判調書(第一回)」(一九三六年一二月二六日、東京地検記録)
(39)  斎藤瀏
『二・二六回顧録』  改造社  一九五一年
(40)  「第十一回被告人訊問調書」(一九三六年八月二五日、東京地検記録)
(41)  「五・一五事件と人の心の花」(一九三三年九月一九日)、「軍人と政治」(一九三二年八月一五日)(『武藤山治全集』第七巻  新樹社  一九六四年)
(42)  「第七回被告人訊問調書」(一九三六年八月一九日、東京地検記録)
(43)  「第十一回被告人訊問調書」(一九三六年八月二五日、東京地検記録)
(44)  石原廣一郎「私の感想」、前掲『検察秘録二・二六事件』II・IV「聴取書」
(45)  栗原安秀「聴取書」(一九三六年六月一四日)  前掲『検察秘録二・二六事件』II・IV「聴取書」
(46)  栗屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編『東京裁判資料  田中隆吉訊問調書』(大月書店  一九九四年)、石原と田中の双方の言い分をつき合わせてみると、どうやら田中は資金を石原から受けるに際し多少屈辱的な感じを与えられたようである。
(47)  「第十一回被告人訊問調書」(一九三六年八月二五日、東京地検記録)
(48)  『時事展望社研究録  石原産業の強硬論は自動か他動か』(一九三五年)
(49)  日蘭海運会商については、小風秀雅前掲論文参照。
(50)  『西園寺公と政局』第四巻  二〇六頁(岩波書店  一九五一年)
(51)  前掲『創業貳拾年史』
(52)  「第十一回被告人訊問調書」(一九三六年八月二五日、東京地検記録)
(53)  「第十回被告人訊問調書」(一九三六年八月二四日、東京地検記録)
(54)  『西園寺公と政局』第四巻、八五ー八六頁
(55)  「第十二回被告人訊問調書」(一九三六年八月二六日、東京地検記録)
(56)  福井憲亮「酣春濫々の莚に近衛公と語る」  『京都公論』一九三五年五月、(  )内は引用者補足。
(57)  「第十三回被告人訊問調書」(一九三六年八月二七日、東京地検記録)
(58)  『西園寺公と政局』第四巻  二六三頁
(59)  「明倫会歴史概観」四および「声明」(昭和十年十月二二日)(前掲『明倫会会史』所収)
(60)  「第十三回被告人訊問調書」(一九三六年八月二七日、東京地検記録)
(61)  「第一回公判調書」(一九三六年一二月二六日、東京地検記録)
(62)  『京都日出新聞』一九三六年二月一日、二月一四日
(63)  『回顧録』其の一  前掲『石原廣一郎関係文書』上巻「回想録」
(64)  『徳川義親日記』一九三六年二月一二日ー二月一九日条、『京都日出新聞』一九三六年二月一三日
(65)  『京都日出新聞』一九三六年二月二〇日
(66)  E記者「政戦報告書」  『京都日出新聞』一九三六年二月一六日
(67)  中川小十郎「石原廣一郎氏推薦状」  立命館百年史編纂室蔵
(68)  石原廣一郎「上申書」(一九三七年一月八日、東京地検記録)
(69)  「報告書」(一九三六年六月一八日、陸軍憲兵曹長より特高課長福本亀治宛、東京地検記録)
(70)  石原前掲『八十年の思い出』
(71)  斎藤瀏前掲『二・二六』
(72)  石原廣一郎「聴取書」(一九三六年七月二日、於本所駒込警察署、東京地検記録)、「第十八回被告人訊問調書」(一九三六年九月四日、東京地検記録)
(73)  藤田勇「聴取書」(一九三六年六月二九日、於京橋区明石町三十七番地聖路加病院二一〇号室、東京地検記録)
(74)  「第十九回被告人訊問調書」(一九三六年九月五日、東京地検記録)
(75)  前掲藤田勇「聴聞書」、清水行之助『大行』(原書房  一九八二年)
(76)  (14)石原廣一郎「第三回聴聞書」  『検察秘録二・二六事件』II・IV「聴取書」
(77)  「第二十一回被告人訊問調書」(一九三六年九月八日、東京地検記録)
(78)  (14)石原廣一郎「第三回聴取書」  『検察秘録二・二六事件』II・IV「聴取書」
(79)  「財界うらおもて」  『改造』一九三六年六月
(80)  「報告書」(一九三六年六月一日、東京地検記録)
(81)  石原廣一郎「上申書」中「感想」(一九三七年一月八日、東京地検記録)
(82)  『大阪毎日新聞』一九三六年一二月一三日、この記事では「脱退」した日は記されていないが、本文のように推測した。
(83)  「第二回公判調書」(一九三六年一二月二七日、東京地検記録)
(84)  前掲「上申書」
(85)  伊藤隆・北博昭編『新訂二・二六事件  判決と証拠』(朝日新聞社  一九九五年)