立命館法学  一九九六年一号(二四五号)




現代フランスにおける
政治的エコロジー運動の生成と展開

−政党化をめぐるディレンマ−


國広 敏文






「危機の時代は、大いなる自由の時代である。世界は解体し、社会は統一性を失い、私たちの生活を支えてきたさまざまな価値や希望は崩れ去る。・・・古い秩序はすでに存続してゆくことができず、他のいかなる秩序も生まれるに至っていない以上、未来はこれまでの場合よりはるかに大幅に創造しなければならない。」(アンドレ・ゴルツ『楽園への道』、一九八三年より)


は  じ  め  に
  本稿の目的は、一九七〇年代半ばに始まるフランスの政治的エコロジー運動の史的展開と台頭の背景を、八四年のエコロジスト政党= Les Verts(レ・ヴェール)-cp 成立にいたるまでの時期に限定して、組織化・統一化・政治化と選挙上の発展の視点から検討し、その特質を明らかにすることにある(1)
  周知のように、生物学の一ジャンルとして出発したエコロジーの歴史は古く、語源的には「棲み場の科学」を意味するドイツ語のエコロギー(Oekologie)に由来する。「エコロジー」という言葉も、ドイツの動物学者・自然科学者でダーウィン主義者のエルンスト・ヘッケル(一八三四ー一九一九)が一八六六年に生みだしたものとされている。彼は、各生命体の萌芽的発展は長い進化過程の一つの要約として生じ現在の種に至ったと考え、エコロギーを「有機体とその環境の間の諸関係の科学」と定義した(『有機体の一般形態学』一八六六年(2))。しばしば「生態学」と訳される「エコロジー」概念は、一九七〇年代にいたるまでは、こうした個体ないし系統発生学理論に基礎を置く純生物学的・進化論的な技術的語彙として使用されてきた。この点でのフランスのエコロジーは、自然史博物館およびパリ大学理学部教授で博物学者であったイシドール・ジョフロワ=サン=ティレール(一八〇五ー六一)による一八五四年の「全国馴化協会」(la Socie´te´ nationale d’acclimatation)の創設に示される伝統に結びついている(3)
  しかし、現代のエコロジーは、こうした概念からは著しくかけ離れており、むしろ、自然・環境保護運動(environnementalisme)から始まりながらも、今日では、とくに六〇年代後半の資本主義中枢諸国における高度経済成長によって生みだされた諸矛盾・問題が提起した自然と人間社会との循環サイクルの問題として広く捉えられたエコロジー思想を運動化し、七〇年代以降の世界的な資源・エネルギー問題と地球的規模での環境汚染や破壊への関心の高まりを背景に政治争点化し、八〇年代末の東西「冷戦」の終結の結果、政治が多様化・多元化するなかで、オルタナティヴな「新しい政治」の担い手として政治勢力化してきている。したがって、ここで言う「政治的エコロジー」は、単なる環境保護を意味するのみならず、新たな社会構想につながる総体性を志向する運動であり、六〇年代末以降のエコロジー思想が規範的価値関与的・質審問的運動ないし「新しい社会運動」(New Social Movements, NSM)の旋回軸として政治的領域で表出化した現象を指している(4)。ただ、一九世紀末に起源をもつとされるエコロジーは、その後、アングロ・サクソン諸国(特にイギリス、ドイツ、アメリカ合衆国)やソヴィエト連邦で発展し、フランスではその言葉は少しも使われてこなかった。だが第二次世界大戦後の、とくに六〇年代末以降にフランスでも発展をみせる(5)
  とはいえ、フランスの政党研究者のF・ボレラが、エコロジストのレ・ヴェールは政治潮流を成しているにせよ、地方的にも全国的にも組織された単一政党という意味での政党の姿にはないとはいえ、彼らは非常に行動的であり、選挙への登場とグローバルな政治綱領の作成によって、単なる自然環境保護や一つの社会運動以上のもとなった、と述べたように(6)、フランスのエコロジストが政治の舞台に本格的に登場するまでには約二〇年を要した。つまり、一九七〇年代初めに諸団体の複雑で一時的なネットワークとして誕生し、既成の政治への浸透と対抗によって一定の脅威となり、農学者で第三世界の経済専門家であるルネ・デュモン(Rene´ Dumont)の一九七四年の大統領選挙への出馬によってその存在が知られるようになるが、分裂と組織的弱さを主因として挫折を繰り返した。その意味で、八四年一月の Les Verts-cp 誕生は、フランスのエコロジー運動にとって一つの画期を成す。この時期になって初めて、グローバルな綱領の作成によって、相対的な永続性と統一性を確保、時代に適合する政治運動として登場し、今や社会運動の域を超えて行動しつつある。だが、発言力をもつ政治勢力として真剣に受けとめられるようになるには、一九八九年を待たなければならない(7)(表1および図2を参照)。
  しかしなぜ一定の政治勢力として登場するのにこれだけの期間を要したのであろうか。そこに、フランスのエコロジスムの特徴が見いだせるのであろうか。本稿では、この政治潮流の歴史と登場の歴史的文脈をたどることによって、その点を明らかにしたい。ただし、これから見ていくように、これらの運動は、複雑で不均質で絶えず変形するので、「絶対的真実」を定義したり徹底的に解明することは困難である。したがって本稿では、可能な範囲で、エコロジスムの発展を客観的に素描することに心がけたい(8)
  以下では、フランスのエコロジー運動の六〇年代以降の展開を、組織化と選挙上の観点から見て、一九七四年までと一九七四ー八四年の二期に大きく分けて考察する(9)


(1)  フランスの政治的エコロジー運動の組織、戦略、思想などに関する政治社会学観点からの分析は、別稿で行う予定である。
(2)  A. Bramwell, Ecology in the 20th Century, A History, 1989.  〔邦訳、A・ブラムウェル著(金子  務監訳)『エコロジー、その起源と展開』河出書房新社、一九九二年、六六頁。同訳書・監訳者あとがき「エコロジズム歴史批判」も参照〕。D. Simonnet, L’Ecologisme, PUF 〈Que sais-je?〉, 1979.  〔邦訳、D・シモネ著(辻  由美訳)『エコロジー』白水社〈文庫クセジュ〉、一九八〇年、六、一二頁〕。
(3)  イシドールは、一八五九年に、「有機的存在の、家族と社会およびそれらの(集合的)全体性と共同性における関係の研究」を行う新しい研究領域を「エソロジー」(Ethology, 動物行動学、人性学)と呼んだ。D. I. Roussopoulos, Political Ecology, Black Boods, 1993, p. 18.  およびA・ブラムウェル、前掲邦訳、六七頁参照。なお、「全国馴化協会」は、のちに「全国自然保護協会」(la Socie´te´ nationale de protection de la nature, SNPN)となる(D・シモネ、前掲邦訳、一一八頁)。
(4)  NSMについては、わが国でもすでに一定の研究蓄積がある。その定義と「新しさ」については、例えば、坪郷  實「ヨーロッパの新しい社会運動−ドイツスタイルをめぐって−」(住沢博紀ほか編『EC経済統合とヨーロッパの変容−二一世紀に向けたエコロジー戦略の可能性−』河合文化教育研究所、一九九二年所収)、山口  定「新市民宣言」および坪郷  實「『新しい社会運動』と労働組合の提携の条件」(山口  定ほか編『市民自立の政治戦略』朝日新聞社、一九九二年所収)。理論動向については、梶田孝道「新しい社会運動−A・トゥレーヌの問題提示をうけて−」(『思想』一九八五年四月号、No. 730)、『思想ー特集=新しい社会運動  その理論的射程』(一九八五年一一月号、No. 737)、伊藤るり「〈新しい社会運動論〉の諸相と運動の現在」(『岩波講座  社会科学の方法』第[巻、一九九三年)。エコロジーとNSMとの関連を扱った研究としては、差し当たり、寺田良一「環境運動の類型と環境社会学」(社会運動論研究会編『社会運動論の統合をめざして』成文堂、一九九〇年所収)。とくにドイツとフランスのエコロジーとNSMとの関連では、坪郷  實『新しい社会運動と緑の党』九州大学出版会、一九八九年、C. Spanou, Fonctionnaires et militants.  L’administration et les nouveaux mouvements sociaux, L’Harmattan, 1991, Chap. 1 を参照。
(5)  F. Borella, Les partis politiques dans la France d’aujourd’hui, Seuil, 5e e´d., 1990, p. 211-212.  A・ブラムウェルによれば、エコロジー理論や思想は、一九世紀後半以降の、とくにイギリス、ドイツ、北アメリカで優勢であったが、その理由は、これらの国が、工業化や都市化のパターンに全く共通性がないにもかかわらず、((1))教育を受けた中流階級の存在、((2))非常に自由主義的なプロテスタントの存在、((3))そして歴史的過去の喪失感=アイデンティティへの強い渇望があったためだとしている。とくに、最後のものが、正統的自由主義経済学と機会論的生物学への諸批判と融合してエコロジストを生み、のちの「緑」の運動となって開花した、とする(前掲邦訳、一七-一九頁)。
(6)  F. Borella, op, cit., p. 211.
(7)  F. Borella, ibid.,; P. Hainsworth, ‘Breaking the Mould: the Greens in the French Party System’, in A. Cole, French Political Parties in Transition, Keel University, Darhmouth, 1990, p. 91.
(8)  G. Sainteny, Les Verts, PUF 〈Que sais-je? 〉, 2e e´d., 1992, p. 9-10.  なお、フランスの政治的エコロジー運動についての研究は、その運動が政治的に力を持ち組織化し始めるのが八〇年代末頃からであり、しかも未だフランス政治における安定的政治勢力となったとは言い難いという理由から、フランスでも九〇年代に緒についたばかりで、活動家自身によるものを除いて、総合的・体系的かつ客観的な研究はまだ少ない。主要先行研究については、末尾の参考文献を参照。
(9)  フランスにおけるエコロジー運動の発展過程の時期区分は、分析の力点をどこに置くかによって異なってくる。すなわち、政党化を軸に置くG・サントニィは、(1)一九七四−七九/八〇年−政党への拒否のみならず、永続的・全国的なあらゆる組織(化)の拒否、(2)一九七九ー八二年−政党ではないが、運動の永続的組織化という原理の受容、(3)一九八二年以降−抵抗を受けつつ、政権党は拒否しての政党形成の受容、の三つの時期に分ける(G. Sainteny, op. cit., p. 14)。他方で、選挙上の発展を軸に置くP・ブレションは、(1)登場−一九七〇年代初めから八一年六月の総選挙まで、(2)沈下−一九八三年のコミューン議会選挙から八六年の国民議会・州議会選挙まで、(3)進出期−一九八八年大統領選挙から九二年秋までとする(P. Bre´chon, ‘Les e´cologiste’, dans La France aux urnes, Cinquante and d’histoire electorale, La documentation Francaise, 1993)。また、フランスのエコロジー運動が様々な社会潮流間の複雑で流動的な相互関係の中から徐々に”共通の作品”として誕生したとするD・シモネは、(1)懐胎期(一九六九−七三)、(2)情報の期間(一九七四−七六)、(3)確立期(一九七七−七八)、(4)成熟または分解の時期(一九七九)の四つの時期に分けている(但し原著は一九七九年出版のため、それ以降の時期は射程に入っていない)(前掲邦訳、一二五ー一二七頁)。本稿では、政党化を含む組織化と選挙での展開の二つを軸として時期区分をした。



I  フランスのエコロジー運動の誕生とその背景(一九六〇年代後半から七四年)
(1)  今日のフランスのエコロジー運動の源流=「一九六八年五月」
  まず初めに、台頭の背景をみておきたい。フランスで政治的エコロジー運動に台頭のきっかけを与えたのは、いわゆる「六八年五月」(メ・ソワサン・ユイット)である。この「六八年五月」に象徴される「危機」は、第二次世界大戦終結後に急速な復興と高度経済成長を成し遂げた主要先進資本主義諸国の多くが共通して経験したものである。すなわちこれらの諸国は、戦後短期間に復興を成し遂げ、概ね一九五〇年代から急速な高度経済成長を経験する。六〇年代に入ると、賃金上昇と「大量生産・大量消費社会」の中での耐久消費財の普及や国民生活水準の「平準化」の結果として「大衆社会」の到来が説かれ、人々は相対的に豊かになりつつあった(「経済の時代」から「社会の時代」へ)。しかし同時に、この過程(都市化・工業化、核エネルギーの導入など)は、環境汚染や自然破壊を生みだし、近代化・合理化・高度化の帰結として、社会的諸組織の管理化=「管理社会」化を急速に進行させた。こうした中で人々は、生活レヴェルや経済成長の果実の分配への平等を問題にするよりむしろ、生活の質、その質を落とす環境諸条件の悪化、発展のあり方、そして”進歩”という神話に疑問を感じ始める。技術の進歩は地球という惑星の運命まで左右するほどになったが、破局を避けるには、進歩は制御されなくてはならない。
  フランスの「六八年五月」は、このような時代状況を背景にしつつ、直接的には大学の学制をめぐる学生たちの反抗として始まったが、本質的には、ド・ゴールによる権威主義的国家至上主義、およびテクノクラートの政策・支配に対する最初の本格的反対運動であった。とはいえ、その意味と性格については様々な解釈がなされており、一義的に確定することは困難な面もある(10)。だがその運動が、第一に、高度成長期の「豊かさ」をある程度前提としたうえで、それがもたらした質的内実を問題としたこと(例えば、急速な社会生活・環境の変化、社会諸階層間の経済的不平等の加速化、学生たちが敏感に反応したテクノクラシーによる「権威主義的合理主義」化と管理化の進行の問題、新たな運動の萌芽ともいえる労働諸関係における自主管理的・直接民主制的要求)、第二に、国家権力の奪取を目指さず、それゆえ、伝統的諸制度・組織への懐疑と敵意、それに代わる絶対的自由主義(libertarianism)=個別的自律性の獲得、旧来の左右のイデオロギーを拒否する姿勢をもっていた一方で、「文化革命」・「日常生活革命」という側面を強くもっていたことは大方了解されよう(11)。この流れは、反核=原子力発電所建設反対運動、エコロジー運動、女性解放運動、地域主義運動、消費者保護運動など、様々な側面や形態をもちながら、社会的ネットワーク型の市民運動としてのNSMの誕生を準備することになる。NSMの多くは、五月運動の直接的・間接的影響のもとに発生してくる(12)。フランスのエコロジー運動は、これらのテーマを受け継ぎ発展させてきた。そして、いわゆる「六八年世代」が高度成長期の諸矛盾の中から主体と課題を引き出した。この意味で、一九七〇年代のフランスの政治的エコロジー運動は「六八年五月の申し子」である。
  だが「六八年五月」の運動に参加した人々の志向は様々であり、あるグループは、自分たちの活動を社会変革をめざす異議申し立てイデオロギーの中に位置づけ、他は、極めてプラグマティックで組合運動的態度を採る(13)。また、こうした闘争のいくつかは、極左の支持者、平和主義者、非暴力主義者、CFDT(フランス民主労働同盟)やPSU(統一社会党)の活動家、自然科学ファン、消費者利益擁護者、そして田舎のあらゆる近代化に反対する人々さえ含む”出会いの場”となった。したがって、フランスにおけるエコロジスト潮流の誕生は、複雑で波乱に充ちたものであった。G・サントニィは、この潮流の設立を、多様で不均質なイデオロギーや活動家から構成された”未完の総合”と分析し、その諸原理は、自然・環境保護と生活防衛、公害反対闘争などの諸集団、ユーザーや消費者保護運動、オルタナティヴな(コミュニティ中心社会、自然食品、優しい医療、地球に優しいエネルギーの開発・使用などの)生活を志向するグループ、反核闘争、極左やオルタナティヴ左翼に由来すると分析している(14)。つまり、テーマ、主体ともに、伝統的ないし防衛的側面と新しい側面を混在させつつ誕生したのである。
(2)  エコロジストの諸潮流
  こうして、六〇年代以降のフランスのエコロジー運動は、多様かつ細分化されたものとして登場する。ボレラは、大きく次ぎの二つの潮流に分けている(15)
  ((1))  おとなしい潮流−この潮流は、エコロジストというよりむしろ「環境保護主義者」(environnementaliste)と自称する諸組織からなり、一九六九年には、「自然保護団体全国連盟」(la Fe´de´ration nationale des socie´te´s de protection de la nature, FNSPN)に統一される。この流れを受ける形で、一九七一年一月には、シャバン=デルマス(Chaban-Delmas)内閣のもとに「環境省」が創設され、当時ド・ゴール派政党=UDRの書記長であったロベール・プージャード(Robert Poujade)が初代大臣となる(16)。この潮流は、一九七二年一月に「自然憲章」(la Charte de la nature)を生み出す基盤となる(17)。そして、一九八九年五月には、ボルドーで開かれた第二三回大会において、八五万の会員を誇るFNSPNとその連盟下の諸組織は「フランス自然環境」(France Nature Environnement)へと名称変更をする。
  ((2))  荒くれものの潮流−この潮流こそ、一九六八年のイデオロギーの大きな影響を受け、エコロジストとしての資格を備えていた。それは、無数の組織やデモ、とくに原子力発電所の建設や軍事基地拡張に反対する運動として表現される。
  こうして六〇年代末には、大雑把に言えば、科学者がリードして、公権力とともに作業をする行政主導型の、いわば合法的な「官製的環境保護」の動きと、「六八年世代」イデオロギーを体現した大衆・市民・住民運動としての「エコロジスト運動」が存在していたと言えよう(18)。当然、前者の運動においては、国家の資源・エネルギー政策や環境政策と矛盾・対立するものは排除されるので、限定的運動とならざるをえない。
  ところで、こうした「六八年五月」以後に生み出された課題と運動がエコロジスト運動に転回する直接的きっかけを与えたのは、フランスの場合、主要には、((1))自然保護派の急進化、((2))反核運動、((3))軍事基地反対運動の三つの動きであった。その点を見ておきたい(19)
  ((1))  自然保護派の一部の急進化−一九六九年に「自然・環境保護をめざす作家・ジャーナリスト協会」(Association des e´crivains et journalistes pour la protection de la nature et de l’environnement, AEJPNE)、一九七〇年に「生き残り」(Survivre, のちに「生き残りと生存、Survivre et vivre」と改称)、同年、「地球の友」(les Amis de la Terre, AT)ー批判科学運動=「地球の友」(Friends of the Earth)のフランス支部ーなどの諸団体が結成された(20)
  ((2))  反核運動−とくにエコロジスト運動興隆の”起爆剤”となったのは、反核運動である(21)。最初の反核デモは、一九七一年四月一二日のフェッサンネイムでの一三〇〇人だったが、一年後の五月八日には一万人を集めた。一九七三年七月一〇日に、ビュジュでの原子力発電所建設に反対して一万五千人が抗議行動をし、一九七五年五月にATとPSUが呼びかけた際には、パリで二万人が抗議デモを行った。
  ((3))  軍事基地(拡張)反対闘争−エコロジスト運動統一を促進したもう一つの象徴的価値をもつ活動として、ラルザックの軍事基地拡張計画に反対する抗議行動がある(22)。一九七一年五月九日に数百名、同年一一月六日には六千人、一九七二年七月一四日には二万人のデモ参加者があり、同年五月にATが呼びかけた自転車デモにはパリで一万人が集まった。
  これらの運動を通じて、エコロジスト運動は広がりを見せ始めるが、この時期の運動は未だ固有の組織を持っていなかった。したがって、一九七〇年代初めに相次いで創刊された活動家による専門的新聞が、運動の組織化の代替物として、下部の運動で重要な役割を果たした。こうして、先述のAEJPNEの設立に次いで、一九七一年に『くじら通信』(Courrier de la baleine, のちに『くじら、La Baleine』となる)、七二年に『開いた口』(La Gueule ouverte(23))、七三年には『未開人』(Sauvage)、七四年には『闘う自然』(Combat-nature)が創刊、一九七二年に『エコロジー復権通信社』(Agence de presse rehabilitation ecologique, APRE)が創設され、ついで七五年には『エコロジー』(Ecologie)が創刊された。これらはそれぞれ、個性的オルタナティヴ通信媒体をなすと同時に、活動家の中心軸、運動の組織化の代替物でもあった。また、エコロジー問題を扱ったテレビ放送「ゆがんだフランス」(La France deguee)や映画「01年」(L’an 01)は、人々が自然と調和的に共生する世界の再来を描いて見せた。政府は、芽生え始めたこの運動を管理しようと努める(24)
  したがって、この時期のエコロジスト運動の特徴としては、第一に、誕生したばかりのATを除いて、未だ固有の組織をもっておらず、各運動機関紙が運動間・諸個人間のコミュニケーション媒体をなしていたこと、第二に、運動が地域的に限定された具体的テーマごと組織されていたことである。

(3)  社会運動から政治運動へ
  だが、諸集団や個人の連集体(アソシアティフ)としてのエコロジー運動は、徐々に政策を見つけ始め、先ずエコロジー思想を周知させるために選挙を活用する。一九七三年三月の総選挙に、アルザス地方南部のミュルーズ市とローヌ・アルプ地方北部のアン県で二人の候補を出すにいたる(25)。選挙への立候補は、「エコロジストが政党政治のアリーナに入った」ことを意味し、一九七四年大統領選挙での農学者のルネ・デュモンのキャンペーンへの道を準備した(26)。ATは、一九七四年五月の大統領選挙にエコロジー派候補を立てる考えをのべる。「政治的エコロジー」(e´cologie politique)という表現はルネ・デュモンに具現化されるかたちで選挙上の実在となった(27)


(10)  「一九六八年五月」の背景・特徴・経緯については、中木康夫『フランス政治史』下巻、未来社、一九七六年の第四章を参照。
(11)  「六八年五月」世代で、一九八八年以来、Les Verts-cp の一員であり、レギュラシオニストで経済学者のアラン・リピエッツは、「六八年五月は、フランスで戦後初めて人民による異議申し立ての運動が起こった時であり、それは戦後出来上がった発展様式のあらゆる側面に対する異議申し立ての運動でした。つまり、生産力主義、消費社会、そして都市計画の生産力主義への従属に対する異議申し立てであり、さらには、女性の男性への従属に対する異議申し立てでした」と述べている。アラン・リピエッツ著(井上泰夫・岩森章孝編訳)『レギュラシオン理論の新展開』大村書店、一九九三年、三〇ー三二頁。また、こうした問題設定は、フランスのエコロジー運動と通底する。この点については、D・シモネ、前掲邦訳、八ー一〇、一〇九ー一一二頁を参照。
(12)  宮島  喬・梶田孝道・伊藤るり『先進社会のジレンマ』有斐閣選書、一九八五年、一二ー一四頁。A・トゥレーヌ著(平田清明・清水耕一訳)『ポスト社会主義』新泉社、一九八二年、第六章。
(13)  P. Bre´chon, op. cit., p. 145.
(14)  G. Sainteny, op. cit., p. 11.
(15)  F. Borella, op, cit., p. 212-213.
(16)  環境省の設置と新しい社会運動との関連については、C. Spanou 前掲書が詳しい。
(17)  当時、大多数の自然保護組織を結集していた自然憲章委員会は、((1))地方自治体の活動への保護組織の参加、((2))ヨーロッパおよび世界規模の行動のための共同組織の創設、((3))自然環境保護に関する各国の主権の廃止、を提唱していた(D・シモネ、前掲邦訳、一一八ー一一九頁)。
(18)  ただ実際には後者の潮流も一枚岩ではなく、いくつもの潮流に分裂していった。A・リピエッツによれば、「六八年五月」運動の政治的指導者には、若干のアナーキスト、それ以上にトロツキスト、毛沢東主義者など、旧来のマルクス・レーニン主義者より遙かに急進的なグループがいた。結局、「五月運動」は、賃金引き上げ、労働組合に有利な法的措置の実施、社会立法の拡充を盛り込んだ「グルネル協定」で収束させられるが、この時点から、伝統的左翼と「六八年世代」と呼ばれる学生ないし労働者の担う左翼運動との間に断絶が生じる。だがまた、「六八年世代」内でももう一つの断絶が生じる。運動を指導したレーニン主義者、トロツキスト、毛沢東主義者らは、かなり古典的な思考様式に支配されていたため、社会闘争は労働者の物質的要求としての賃上げが主目標となり、そこに運動が限定され収斂されるようになる。しかし、「実際六八年が提起した問題は伝統的なマルクス主義の問題ではなく、社会のヒエラルヒーに対する、生産力主義に対する、消費社会に対する、不平等な社会関係に対する異議申し立て」であった。そこから、一九六八−七三年にかけて、一方に、政治革命をめざすトロツキストなどのラディカルな路線と、他方では、大衆に根を張ったフェミニズム、エコロジーなどの「新しい社会運動」との間に亀裂が生じていった、とされる(A・リピエッツ、前掲邦訳、三〇ー三二頁)。
    また伊藤るりは、フランスにおける「広義のエコロジー運動」として、(1)一九五〇年代後半以降、フランス各地の野鳥観察家や野生植物研究家が結成した自然保護団体(例えば、「フランス自然保護団体連合」=FFPNN〔FNSPNのことか?〕、(2)科学者を中心とした科学的エコロジー運動(例えば、「原子力情報科学者団体」=GSIEN)、(3)絶対自由主義的なエコロジー運動と「地球の友」、以上の三つの流れに分類している。(1)の中での、いわば主流派たるFFPNNは、政治的エコロジーなどのラディカルな社会批判とは一線を画し、あくまでも自然愛好者の同好会もしくは圧力団体の域にとどまるが、一九七〇年代中頃から原発問題を軸に環境問題が政治化するにつれ、とくに原発建設予定地の地域組織は、こうした影響を受け、反対運動に参加していく。(2)は、アメリカのR・カーソン、B・コモナーらによる環境破壊の科学的解明の系譜を引くものであるが、フランスでは、科学研究体制批判の流れが強く、原子力問題は、科学と政治、科学と軍部、および産業界との関係が収斂する場であることから、科学者による異議申し立てが最も鮮烈で、彼らは、原発反対運動の科学的根拠を提示し、運動の正当性の強化に重要な役割を演じた。(3)は、アメリカ生まれの同名の組織をモデルにしており、制度的改革を求め、圧力行動を重視する点に特徴がある。逆に、P・フルニエらを中心とする絶対的自由主義、もしくはアナーキスト的流れは、よりフランス的な政治文化に根ざしている。両者に共通しているのは、エコロジー運動を、単に環境保護の領域にとどめず、広く都市化、農業、食品、交通などの諸領域にまで射程を拡大し、産業社会への批判として展開していることである。この点で、(1)の流れとは決定的に異なっている。また、一九七二年以降、B・ラロンドをはじめとする「五月運動」の元活動家たちが「地球の友」に合流し、このことによって運動が著しく政治化した、とする。伊藤るり「開発と住民−原発建設問題をめぐって−」(宮島  喬・梶田孝道・伊藤るり『先進社会のジレンマ』有斐閣選書、一九八五年所収、一〇五ー一〇六頁)。
(19)  G. Sainteny, op. cit., p. 11-12.
(20)  ボレラは、アメリカ合衆国の「地球の友」をモデルとしたATの創設時期を一九七一年五月としている。また、彼によれば、「政治的エコロジー」という言葉の作者は、J. Dorst, La Nature de-naturee, E´d. du Seuil, 1970, とされる(F. Borella, op, cit., p. 213)。
(21)  フランスの原発建設問題をめぐる諸問題については、伊藤るり「開発と住民−原発建設問題をめぐって−」(宮島ほか・前掲『先進社会のジレンマ』所収)が詳しい。
(22)  ラルザック高原は軍事演習地であり、一九七一年に軍は戦車の射的距離をカヴァーするために演習地を七、〇〇〇から四二、〇〇〇エーカーに拡張する計画を発表した。その計画と闘うために様々なグループがフランス全土で作られ、結局その計画は、ミッテランが一九八一年大統領選挙で勝利したのちに放棄された。簡単には、J. Ardagh, France Today, Harmondsworth-Penguin, London, 1990, p. 326 を参照。
(23)  週刊誌『シャルリー・エブド』(Charlie Hebdo)のジャーナリストで反原発活動家のピエール・フルニエが創刊。だが彼は、創刊の数カ月後に死去した(D・シモネ、前掲邦訳、一一一ー一一二頁)。
(24)  P. Bre´chon, op. cit., p. 146.
(25)  ミュルーズから立候補した一人は、「エコロジーと生存」(E´cologie et survie)グループに属していた。このグループには、のちに全国レヴェルでレ・ヴェールの政治的指導者となるソランジュ・フェルヌ(Solange Fernex)とアントワーヌ・ヴェシュテール(Antoine Waechter)がいた(P. Bre´chon, ibid..)。
(26)  B. Prendiville and T. Chafer,”Activists and Ideas in the Green Movement in France, in W. B. Ru¨dig (ed.), Green Polities One 1990, Edinburgh University Press, 1990, p. 178.
(27)  F. Borella, op. cit., p. 213; P. Hainsworth, op. cit., p. 92.



II  組織化の未完成と統一の困難さ(一九七四−八四年)
  しかし、エコロジストの選挙舞台へのこの登場は、今日まで二〇年以上続く論争の開始をも意味していた。それは主要には、第一に、組織のあり方=組織化(政治化→政党化)と統一化、第二に、運動のあり方や対象に関わっていた。これら二つの問題は、一九八四年に「党」としてのエコロジー運動=Les Verts-cp が誕生する起源を探る意味においても重要である(28)。以下、この順に検討する(29)
(1)  フランスの政治的エコロジー運動内での最初の論争
  ((1))  一九七四年大統領選挙での弾みと分裂
  まず、一九七四年大統領選挙に向けての選挙キャンペーンとエコロジスト間の議論状況について見ておきたい。
  エコロジストが全国規模の選挙に最初に登場したのは、この選挙においてである。ATや「公害反対」(Pollution: Non)などのいくつかの団体や活動家の求めに応じて、経済学者、農学者、第三世界主義者で七〇歳のルネ・デュモンが大統領候補になった(30)
  彼は、選挙キャンペーンで、個別フランスの問題よりもむしろ、先進諸国による第三世界からの収奪やそれによって第三世界が被った被害、人口過剰、天然資源の節約などのグローバルな問題を強調した(31)。これらのテーマは、極左の一部の知識人が展開してきたものに近く、一定の共感を集めはしたが、有権者を簡単に動かすこともエコロジスト全体の支持を得るにもいたらず、有効投票のわずか一・三七%(三三八、七〇〇票)の得票に終わった(32)。デュモンの選挙への登場は、その後のエコロジスト運動に”はずみ”を与えると同時に、”亀裂”も明らかにした。
  とくに、ピエール・メスメル(Pierre Messmer)首相が選挙前の一九七四年三月六日の演説で、野心的な国内(シヴィル)核計画(スローガンは「総電力化=総原子力化」)への着手を発表したことは、反核運動に弾みを与えたばかりでなく、市民社会レヴェルだけに活動を限定すべきだと主張する多くの環境保護主義者(environmentalistes)に政治活動の必要性を認識させる主要な内在要因となった(33)。ともあれこの選挙は、運動に刺激を与え、エコロジストの考えの普及・宣伝、反核・エコロジー問題への有益な政治綱領を提供し、政治的エコロジーを生みだした。
  しかし他方でこの選挙は、運動内部の亀裂をも明らかにした。その第一の原因は、政治への関与をめぐるものであった。選挙過程でも、多くのグループが、エコロジーが政治領域に入ることに不満を持ち、デュモンへの支持を拒否して自らの活動を地方に限定した(34)。この亀裂は、一九七四年六月のバゾシュでのエコロジストの最初の全国集会でも明らかとなり、そこでは、全国組織に向けてのいかなる合意も成されなかった。しかし政策的に言えば、((1))生産第一主義(productivism)と消費主義(consumerism)への批判、((2))新しい労働諸形態への模索、((3))非消費的・非汚染的生活スタイルへの要求、((4))人と自然とのよりバランスのとれた関係の達成への要求などは、再生産可能なテクノロジーとエネルギー資源の発展を通した地球資源の注意深い利用という考えに基礎を置いていたし、運動内の政策形成のためのほぼ一致したイデオロギー的基礎を形成していた(35)
  第二の原因は、仮に政治への関与を認める場合でも、組織、リーダーシップ、戦略をめぐる不一致が存在していたことである。一部の人たちは、この運動を組合主義的方向にもって行きたいと考えていた。すなわち、エコロジーは現政権へ圧力を行使する防衛的運動であるべきで、権力の地位を追求してはならない。別の人たちは、運動へのリーダーシップの出現を恐れ、また別の人たちは、とくに左翼候補のミッテラン票を奪う候補を立てることに反対していた。第二回投票に際して、デュモンは何ら指示は出さなかったが、個人的には、自分はミッテランに投票すると述べる(36)。デュモンという候補者を生みだしたエコロジー運動は、選挙後、全国的で非常に柔軟な組織化の支持者(「ゴーシスト」=左翼の活動家たち)と、あらゆる組織化反対論者(右翼でも左翼でもあることを望まない人たち)とに分裂する。この紛争は極めて政治的であり、互いに、あれこれと政党の操り人形(マリオネット)だとか潜水艦(スー・マラン)だとか言って非難しあう。結局、赤(左翼)と緑(エコロジスト)、筋金入りのエコロジストとそうでない者との同盟は難しい。ルネ・デュモンは引退する。
  したがってこの時期には、政治との関係では、((1))権力を目指す、((2))自律的だが、圧力団体に徹し、政策化や政策的変更を迫る、((3))PS(社会党)などの既成左翼諸政党の補完ないし協力勢力となる。この三つの方向性の中を揺れ動いていたと言える。政治的であるべきか否か、政治的であるとすればどのような形態のもとでかが中心的論点であった。つまり総論的な部分では一致しても、それを具体化する運動段階(運動の課題・対象・レヴェル設定)では、様々なあり方が生ずるのである。
  そして、第三の、とりわけ彼らの自己組織化・統一化をめぐる最大のディレンマであり論点は、「党」という概念に対する大部分のエコロジストの絶対的不信感に由来する。彼らは、政党を、時代遅れ、拘束的・全体主義的で反民主主義的、非社会的で権力指向的、とみなす(37)。だが、先にあげた三つの方向性の内の((1))を選択した場合、自らを独立した「政治」組織=「党」として組織化せざるをえなくなるし、((3))を選択した場合でも、既存の政党政治の枠組みに組み込まれることになり、自らの政党観を放棄ないし修正せざるをえなくなる。したがってこの時期、運動の組織化の拒否は、とりわけ二つの本質的特徴に表現される。第一に、運動の永続的・全国的組織化の拒否、第二に、党への変容と政権党を目指すことの拒否である。そして、七〇年代から今日にいたるまでのエコロジスト潮流の歴史は、これらの深刻で本質的問題への絶えざる探求と応答のリズムを刻むことになる。
  では、どのようにして政治領域に介入し、民主体制において是認されてきた組織形態=政党とは別の形態と方法で、政権政党(le parti de pouvoir)を目指さずに、どのように効率的な政治を行うのか。当面は、選挙に際し一時的に提携し、全国的組織は各グループ間の調整を主要任務とし、通常は、それぞれのエコロジスト組織が独自の運動と組織化を展開していくことになる。エコロジストの空前の成功(P・ヘインズワース)にもかかわらず、問題は納得いく形で解決されなかったが、デュモンの立候補の結果、政治的エコロジーは発展した。一九七四年以後の活動の重点はジスカール政権の核政策への反対におかれた。
  ((2))  一九七〇年代後半の選挙と組織化へのディレンマ(一九七四−七九年)
  エコロジスト運動とエコロジー問題への関心の拡大とともに、選挙でも徐々に影響力を増し始める。一九七六年三月の県議会選挙には、エコロジスト候補が少なかったにもかかわらず、いくつかの満足いく結果を得た。七七年のコミューン議会選挙は、この政治勢力とって一つのテストとなる。この時点では、まだ統一的な全国組織を持っていなかったが、地方組織は非常に活発であった。多くの都市において、いくつかの運動の潮流を結集したリストが組織され、それらは全体として、新しい政治潮流に向けての好ましい結果を得る(候補を出した選挙区では約五−一三%を得票)。すなわち、シャンベリーで一八%、ミュルーズで一三%、パリ、モンペリエ、リヨン、マルセイユ、グルノーブルで八−一〇%であり、全体で約三〇名が当選した。この選挙では、沢山のエコロジストが登場し、とくに「都市化」が中心問題となっている大都市で積極的結果を出したのが特徴である(38)。地方選挙は、原始化された運動にかなり適しており、地方での活動のネットワーク化とその強さが一定の成功と効果を生んだといえる(39)
  しかし、この選挙後の七月に、リヨン東方のクレイ=マルヴィユで起きた反核抗議運動での反核抗議者と警官隊との激しい衝突は、広範なエコロジー運動内で運動の戦術と目標の再考の契機になった(40)。運動内の極左派にとって反核運動はもっぱらブルジョワ国家打倒の手段であり、彼らはこのを袋小路に導いてきた。他方で、デモの激しさは、多くの運動参加者に深い失望感を与えた。
  こうして、一九七〇年代後半にも、いくつかの基本問題が再びエコロジスト・サークル内で広まった。すなわち、どのような基盤の上でこの運動を統一することが可能か、この運動は、レジョナリスト、労働組合、女性運動、「自主管理」運動などの他の社会運動とどのような関係を結ぶべきか、運動はどのような方法で政治的になり選挙に臨むべきか。これらの問題は、運動を全国化しようとすれば、ある意味で避けられない問題である。選挙や諸闘争で勝つには一時的同盟や協定だけでなく、日常的に、しかも統一的に運動する組織が必要となる。だが政治的組織化は、エコロジストを縛るというディレンマである。
  ところで七〇年代後半には、七四年大統領選挙に続くもう一つの組織化への挑戦として、七八年の総選挙と七九年の欧州議会選挙に向けての政治的再編と一時的な選挙カルテルが生じる(41)
  一九七八年三月の総選挙に向けて、一九七七年五月にパリとその周辺地域では、「SOS環境」(SOS-Environnement)が創設された。「SOS環境」は、自然保護、交通機関利用者、一般歩行者、サイクリスト、身体障害者、釣り愛好家などの諸団体の指導者たちによって創られたもので、ジャン=クロード・ドラリュー(Jean-Claude Delarue)が議長をつとめ、政治的エコロジー綱領に基づいて、候補を公認した(42)。この「SOS環境」とは立場の異なる勢力として、「極左エコロジストの自主管理戦線グループ」(le Front autogestionnaire groupe des e´cologistes d’extre^me gauche)、PSU、「非暴力オルタナティヴ運動」(le Mouvement pour une alternative non violente, MAN)、レジョナリストなども、一九七八年三月の選挙を目指した。
  全国レヴェルでは、AT、ME(le Mouvement e´cologique =エコロジー運動)、地方諸団体が主体となり、選挙カルテル「エコロジー集合七八」(Collectif E´cologie-78)が結成された。選挙戦では、最もよく知られていたスポークスマンのブリス・ラロンド(Brice Lalonde)をはじめ、およそ三分の一の選挙区に候補者を立て、軍事・民事の核計画のストップの必要性について強調した(43)。全国的には、エコロジストは第一回投票で全フランスの有効投票の二・一八%(六二一、一〇〇票)の得票であったが(立候補者がいた所では四・五%)、結果は期待はずれであった。しかし、それでも過去最高の得票は七九年の欧州議会選挙に弾みをつけたし、選挙主義はエコロジストのアイデンティティと自己分析を促した。当時のエコロジストは、選挙を闘うための活動家も少なかったし、財政的にも貧弱であった。彼らは、一九七九年三月の県議会選挙を事実上放棄した。彼らはその力を一九七九年EC議会選挙に集中する(44)
  このように、七〇年代および八〇年代初めには、エコロジストによる選挙での全国的介入は、その都度組織された連合体(ラサンブルマン)を”経由して”実行された。すなわち、一九七四年の大統領選挙時には「ルネ・デュモン支持委員会」(le Comite´ de soutien a` Rene´ Dumont)、七七ー七八年には「エコロジー集合七八」、七八ー七九年には「エコロジー運動地域間調整」(la Coordination interre´gionale des mouvements e´cologiques, CIME)、七九年の欧州議会選挙に向けては「ヨーロッパ=エコロジー」(Europe-e´cologie)、八一年には「今日のエコロジー」(Aujourd’hui l’e´cologie)、「エコロジスト連盟」(la Fe´de´ration e´cologiste)、「緑」(Les Verts)、八四年の「エコロジスト急進派協調」(Entente Radicale Ecologiste, ERE)など。以後も、八九年の「緑ーヨーロッパ=エコロジー」(Les Verts, Europe-e´cologie)、九三年の「エコロジスト協調」(Entente e´cologiste)、九四年の欧州議会選挙に向けての「ヨーロッパのためのエコロジスト同盟」(Union des e´cologistes pour l’Europe)と「ブリス・ラロンドと歩む真のエコロジスト」(Les vrais e´cologistes avec Brice Lalonde)などが、一時的選挙協力組織としてこれまで誕生した。しかし、これらの唯一の目的は選挙準備であり、投票日直後に大抵は解散する。これらの選挙組織の最初の仕事の一つは、解散日を決めることであり、それは、権力的諸組織への不信の証として、組織の誕生よりも死に優先順位を与えるのである(45)。また、これらの集団の全国的性格とは言っても、単なる調整機関にすぎなかったり、厳密な公認組織ではなかったりする点で(例えば、「エコロジー集合七八」)、いつもはっきりしているわけではなかった。地方選挙の際には、一九七七年のパリのコミューン選挙のための「パリ・エコロジー」(Paris-e´cologie)のように、一時的に適当な地方グループが設立される。
  ところで、この時期のエコロジー運動は、以下の三つの主要グループからなっており、選挙時にはしばしば上記のような協力をした。だが、グループ間の活動の持続的・日常的調整や協力は無く、しかも既存の全国組織は、政治活動の全国的・永続的性格をはっきりと拒絶していた(46)
  1.「エコロジー運動」(le Mouvement e´cologique, ME)−R・デュモンの選挙キャンペーン時のダイナミズムから生まれた最初の全国的エコロジスト組織のMEは、A・ヴェシュテール(一九八八年のエコロジスト派の大統領候補)を総裁に担いで、一九七四年六月に中部フランスのモンタルジで誕生し、フランスのエコロジスムの組織化の端緒となる。だがMEは、基本的に地方グループ間の調整を任務とする非常にゆるい組織であった(47)。地方グループは、((1))その活動がMEの目的と一致しており、((2))MEの「全国集会」(Collectif national, 任務は諸活動の調整。地方グループがその七五%を任命)に情報を伝え、((3))MEからの情報と諸集団のイニシャティヴを受け取り上下に跳ね返らせる、という条件を充たしている限り、その組織化と活動に関して完全に自由であった(48)。だが、このMEの創設は、エコロジスト運動に組織化の問題を投げかけ、その後のエコロジスト運動の亀裂と深刻な分裂の一因ともなった。すぐにMEは危篤状態に陥ることになる。
  2.「地球の友ネットワーク」(le Re´seau des Amis de la Terre, RAT)−一九七七年から八三年にかけて存在したRATも似た性格を呈していた。その目的は、諸政党に対して完全に自立するという精神のもとでの、様々なグループ間の調整である。「・・・地球の友」が、「地球の友」全国組織であるATの一九七〇年設立後の七〇年代に各地に設立された。MEと同様に、各グループは自律的で、それがネットワークの基本的文書と一致さえすれば、その方向性と組織からも自由であった。((1))内部規則は、「規約」(status)と呼ぶには値しないほど不十分で、しかも条項という形では書かれておらず(49)、((2))指導機関は存在せず、((3))地域の代表からなる三ケ月に一度の会合(レユニオン)と純技術的な機関の「サーヴィス所」(Agence de services)だけが準備されていた。((4))二重の政治的所属は禁止される。RATの目的は、その規約にあるように、基本的には連合的なもの(アソシアティフ)で、RAT名で選挙に候補者を立てないし、ほとんど選挙上の調整もしなかった(50)
  3.「緑ーエコロジスト連合」(Les Verts-Confe´de´ration E´cologiste, VCE)−RATと元MEPの若干のメンバーが一九八一年一二月にオード県のキュイザで結成した「エコロジスト連合(CE)」(後述)の流をくむ組織である(51)
  こうして、七〇年代においてエコロジスト運動は、組織に関しては、政治的・全国的・永続的組織の欠如によって特徴づけられる(52)
  しかし、こうした全国的組織についての”表向き”の方針とは反対に、現実には、徐々に政治的組織化が進行していた。とくにそれを進めたのは、RATの指導者ラロンドである。RATは当初から、圧力団体活動と単一イッシューキャンペーンを、より一般的に政治運動と共同している他の諸活動とに結びつけており、そのことが選挙への参加を促進する理由にもなった。例えば、一九七八年の総選挙時に、RATが、エコロジストと、女性運動・地域運動のような他の社会諸運動、リップ(53)のような革新的運動間の選挙上の同盟を支持する声明を発表したことに見られるように、RATはますます公然と政治的スタンスを採用していった。そうした同盟の一例がポワティエであった。そこでは、ATの地方組織、PSU、MAN、「ラルザック委員会」(Comite´ de Larzac)や「マルヴィユ委員会」(Comite´ de Malville)の元メンバーなどが、「結集=エコロジー=自主管理=人民権力」(Covergence-E´cologie-Autogestion-Pouvoir Populaire)候補を一九七八年議会選挙に出すために結集した。RATないし少なくともその一定部分は、こうしてフランスのエコロジー運動の様々な力を統一的組織に統合するという様々な試みのなかの重要なファクターになってきた。
(2)  永続的組織の受容(一九七九−八四年)
  ((1))  一九七九年六月欧州議会選挙とエコロジストの新たな分裂(54)
  この選挙を機に、エコロジストは改めて分裂する。ソランジュ・フェルヌ率いる「ヨーロッパ=エコロジー」は、パリの人気スター=ラロンドと左翼的諸潮流に対抗して、八一名の候補者リストをもってこの選挙に臨み、豊かな社会から排除された人々の擁護、産業社会の告発に力点を置いた選挙キャンペーンを展開し、有効投票の四・三八%(約八九万票)を獲得した。このリストは、”田舎を基盤としたエコロジー”を表現していた(55)。この選挙では比例代表制が採用され、有効投票の五%を集めた潮流が四議席を得ることができ、しかも選挙費用の払い戻しを受けるとされていたが、議席を獲得できる五%のハードルにわずかに届かなかった。
  この選挙結果については、他のヨーロッパ諸国のエコロジストより多くの得票を得たことをもって「相対的成功」と位置づけ、このことがMEP創設へ導く一因となったと見る見解と、「相対的失敗」と総括して、エコロジーに共感する人々全体の統一が不可能であるとみる見解に評価は分かれているが(56)、過去の得票からの伸びをみれば「相対的成功」と言えようし、組織的統一の進展を尺度にすれば失敗とも言える。ただ問題は成功か失敗かにあるのではなく、むしろブレション自身が「相対的失敗」と総括してその理由を分析した中身にある。すなわち、相対的な失敗の理由としては、1、政治戦略の相違−「ヨーロッパ・エコロジー」はPSUとの同盟を拒否したし、RATはこの投票への参加を拒否した。結局、エコロジストたちは、少なくとも次の三つの戦略の間を躊躇した。((1))左右とのあらゆる協定を拒否し独自の綱領で選挙に臨む、((2))非共産左翼の少数派やオルタナティヴ諸潮流との同盟で臨む、((3))全国的組織化を余儀なくさせるような選挙に参加しない。2、当時の政治状況−一九七六ー七八年にかけては、エコロジストたちはおそらく、左右の両極化に反対であった中道派(サントリスト)と意見を同じくしていた。この選挙では、この中道派の声はシモーヌ・ベイユ(Simone Veil)のリストに表現されており、このこともまた、エコロジストを一層弱める要因となったのである(57)
  ((2))  永続的で統一的な政治運動の創設へ
    (a)「政治的エコロジー運動」(le Mouvement d’e´cologie politique, MEP)の創設
  この分裂は同時にまた、新たな組織化を生じさせた。S・フェルヌを中心とする「ヨーロッパ・エコロジー」推進者たちは、一九七九年一一月二四日−二五日のディジョンの最終大会で、MEの一部とともにMEPを創設を告げた。こうして、エコロジストによる全国的な永続組織の構築過程が動き出したかに見えた。しかし、ディジョンでの決定は多数ではなかった。党への発展の危険性が、ATや「SOS環境」の活動家、「ヨーロッパ・エコロジー」リストの候補者でもあり「SOS環境」のリーダーでもあるジャン・クロード・ドラリューらによって直ぐさま告発され、全体として、党の建設には反対であることを再確認したし、運動創設の四ケ月延期を提案した「イザベル動議」(発案者 Isabelle Cabut)も相対多数を得た(一二九票中、賛成五五、反対四五)。この投票後、MEPの推進者たちは、少数者たることを恐れ、MEP創設の予告動議を投票にかけることもなく、自らMEP準備事務局をつくる目的で議論の会場を後にした。結局、このディジョンの大会でのMEP創設の提起は、ある人たちには一つの分裂と映ったのである。ATはそのままだったし、多くの多様な人々が新組織の外部に依然とどまり続けていた。新組織は、法律的には、準備事務局が用意した規約がヴェルサイユで採択された際の一九八〇年六月一七日に創設されたが、党ではなく運動=エコロジー的大衆的組織と自らを定義した(58)。その組織は、構成員数四六名の評議会(un conseil)、一二名の事務局(執行部、un bureau)、総裁一名=フィリップ・ルブルトン(Philippe Lebreton)に支えられた全国指導部(direction nationale)から成る。
  いずれにせよ、MEPの形成は、これまでの運動形態では国家政策を動かすことはできないというこの一〇年の教訓と、エコロジスト運動の政治舞台への介入が効果的であろうとするなら、常設で組織化された政治的武器が必要であると考える活動家が共有する感情から生じた。つまり、一九七〇年代を通して反核運動や選挙戦は、エコロジスト活動の主要な焦点として役だったが、どちらもまとまりのある単一の政治組織を推進せず、何よりも最大の獲得目標である国家からの核政策の排除ができなかったという教訓である。MEPは結成にあたり二つの目的を掲げた。第一に、その場限りの協定を超えて、運動のための永続的組織の必要性、第二に、一九八一年大統領選挙へむけての組織作りである。現在の Les Vert-cp のリーダーのA・ヴェシュテールは、のちに次ぎのように述べる。「フランスのエコロジストは家を建てるのに時間を使い、その後で、またそれを壊してきた」と(Financial Times, June 17, 1989)。一九八一年の大統領選挙のためには、新しい組織形態が必要であった(59)
    (b)「エコロジスト連合」(La Confe´deration e´cologiste, CE)の創設
  しかし他方で、パリに本拠を置く統一的政治運動創設のこの試みは、多くのメンバーに懐疑的に見られる。彼らは、そのように中央集権化されてヒエラルヒッシュに組織されコントロールされた運動というのは、エコロジーのイデオロギーや組織的原理と対照的なものと考えていた。この感情は、MEPが「政党」=「緑ーエコロジスト党」(Les Verts-parti e´cologiste, VPE)に変容する決定によって強められたし、多くの活動家によって、同じ年(一九八一年一二月)に、地域的に基盤を置く連邦組織をもつもう一つの組織CEが創設された主要因であった。この組織は、「今日のエコロジー」の直後に、RATと「南仏エコロジスト連盟」(la Fe´de´ration e´cologiste du midi, FEM)の何人かの責任者のイニシャティヴで創設されたもので、全国的統一という組織的観点から見ると、MEPよりも後退しているように見える。事実、CEの公然たる目的は、下部と諸地域を通じての統一を成し遂げることであり、自らを党や政治組織とみなしていない。したがって、CEの規約はとても短く大雑把である(Confe´de´ration e´cologiste, Statut, s. l., s. n., s. d.)。総会と議会的機関とが混在しており、後者の規模も定まっておらず、執行機関もない。新組織は、諸連盟あるいは地域的調整(=代表連絡会議)の全国的連合に過ぎない。個々の連盟あるいは地域的調整はCEの組織から自立しており自由である。ただ道徳的人格のみが加盟できるし、加盟者たる肉体的人格が政党員たる肉体的人格であることを少しも妨げない。したがって、CEは確かに全国的な組織ではあるが、下部の地域やグループを優先し、明確な指導者集団も無く、政治的二重所属を暗に認め、しかも純然たる政治的性格を拒否する点から見て、CEを、実際には政党とみなすことはできない。こうして一九八二年には、つまり彼らが七四年に選挙でデビューして以後八年以上たった時には、エコロジストは、政治的介入に向けた組織形態=党派的形態を採ることなしに、政治領域に介入することを望み続けていたのである(60)
  MEPの創設は、運動を統一するよりむしろ一層分裂させた。VPEは、CEを政治分野で彼らに挑戦するものと見たし、RATは、一九八二年二月にCEから身を引く。エコロジストの多くは、CE(フェデラシォン)に加盟することで、自律か党かのディレンマを回避しようとした。MEPの創設は、異議を差し挟まれたものの、永続的組織=全国的で統一的な政党の必要性への認識が高まりつつあることの証明であった。しかし、それは、政権党に向かっての、明確だが漸進的で苦難にみちた、しかも未完成の発展である。
  ((3))  一九八一年大統領選挙と党の受容(61)
    (a)  左翼政権への期待と失望から独自路線へ
  MEPが設立され、選挙に向けての多くの波乱の後に、八一年の大統領選挙への準備過程で、フランスのエコロジストは、大統領候補者を選出する独自のメカニズム=「予備選挙」的試みを導入した。候補者を選ぶために、各地域の全有権者が参加できる二回投票多数決が、MEP、AT、未組織環境諸団体からなる「エコロジスト連携委員会」(Ecologist Liaison Committe)によって組織され、一一人の公認候補者が出された。そこには、例えば、ルネ・デュモンや海底探検家のジャック・クストー(Jacques Cousteau)、J・C・ドゥラリューや元フランス共産党(PCF)の知識人ロジェ・ガロディ(Roger Garaudy)らが含まれていた。この「初歩的解放」策はあまり成功しなかったものの(62)、結局、RAT派候補でPSUの元党員、ムルロワ環礁でのフランスの核実験に反対したかつての活動家のであるB・ラロンドがP・ルブルトンにごく僅かの差で勝ち、エコロジスト派大統領候補となる。彼は、中道派の社会民主中道派(CDS)の支持のおかげで、立候補に必要な五〇〇名の議員署名をかろうじて集めることができた。CDSは、左翼の中で発言力をもつこの候補者を支持することに利益を感じていた(63)
  現実主義的で政治的連合主義者のラロンドは、エコロジー運動を一つの現代的社会運動とみなし、それが効果を発揮するには、他の運動や政党とさえ連合する必要のあることを主張していた。だが、こうした姿勢は、エコロジスト運動の自律性を堀崩すものとの批判を受けた。とくにMEPやその後 Les Verts-cp となる潮流からの彼への批判は、彼が政治的エコロジーを左翼に向けて押し出そうとしており、そのことによってエコロジスト政治勢力の潜在的自律性を堀崩すというものであった。これに対してラロンドは、エコロジスト政党が個別的に創られることに警告を発しながら、同時代のエコロジストのある部分に存在するユートピアニズムへの疑念を表明する。この点での論争に決着はつかなかったものの、この大統領選挙の目的を遂げるための統一が広がり、エコロジー諸潮流間の一定の合意と全会あげてのキャンペーン後に、第一回投票で三・八七%(約一一二万票)を得票をした。重要なのは、第二回投票に際し、ラロンドが周知の心情的左翼支持者であったにもかかわらず、運動の自律性を尊重して、有権者にいかなる明確な指示や助言をしなかったことである。実際には、エコロジストへの第一回投票者たちの多くがミッテラン指示に回り、第二回投票では、約一一〇万余のエコロジスト有権者の内の四六%がミッテランに切り替え、二四%がジスカールを支持し、二六%が棄権した(64)。エコロジスト候補は第一回投票で敗れたものの、多くのエコロジストは五月一〇日のミッテランの当選を歓迎した。彼の当選は、エコロジストの思想を受け入れさせることのできる新しい未来を切り開いたように思えたからである(65)
  一九八一年の政権転換で、エコロジストは社会党(PS)政権に期待した。ある点では、変化があり対話が生まれた。論争上の核(プロゴフ原発)と軍事施設(ラルザック)は建設・拡張を抑えられ、環境相には、左翼急進派(MRG)のリーダー、ミッシェル・クレポー(Michel Cre´peau)とPSUの一九八一年の大統領候補、ユゲット・ブールシャルドー(Huguette Bourchardeau)が相次いで就任した(66)。だが結局、社会党当局の核選択への言明(一九八一年五月、仏領ポリネシアのムルロワ環礁での核実験停止を発表するが、四ケ月後に翻した)と環境予算の制限は、フランスのエコロジストを基本的に野党の立場においた(67)。事実、八二年頃になると、PS支配への不満が広がり始め、”生活を変えよう”というPSのスローガンがエコロジー問題に適用されることへの期待もほとんど無くなっていた。一九八一年六月の総選挙では、エコロジストたちは、選挙区のおよそ三分の一に二つの名称で立候補したが、結果は、全国平均で有効投票の一・一%(約二七万票弱)、立候補した所でも三・三%と芳しくなかった。エコロジストの有権者たちが、自らの可能性を政治的転換と社会主義的実験に託すことを望んだかのようであった(68)
  この大統領選挙でのミッテランと六月の総選挙でのPSの勝利による左翼政権の誕生は、他方で、「右翼でも左翼でもない」というエコロジストの命題の限界を示した。当時、エコロジスト諸潮流は、分裂や統一への試みの失敗など、極左運動が味わったのと良く似た、個人間の激しい闘いによって特徴づけられる一つの危機を経験する。この時点でのエコロジストの潮流は、以下の三つの構成部分からなっていた。
  1.RAT構成員の大部分とラロンド−エコロジストは、現実的に考え、左翼の活動をエコロジーへの強い関心へと転じさせることによって、権力を目指す左翼の行動に寄与しなければならない。すなわち環境相のミシェル・クレポーと協働しなければならない、と考える。
  2.MEP−ミッテランは一方で核政策を制限しながら、他方で原子力発電所建設を追求している、として基本的にミッテランの核政策を批判する。MEPは、一九八一年一〇月に自律的エコロジスト党の結成を試みるが、その体制づくりに苦労する。そして八二年一一月に、MEPは「緑、エコロジスト党」(Les Verts, parti e´cologiste)と称する党の規約を採用する。それによれば、全国評議会(le conseil national)は、諸地域の代表者の四分の三で構成される。
  3.RATでもMEPでもなく、極左に近い自律的な基礎の委員会を代表する勢力−先述のように、一九八一年一二月に、RATと第三の構成部分は、地方諸団体に活動の自由を与え、RATを維持しつつ、選挙運動の目的でCEを結成する(69)
  ともあれ、組織化の観点から見て重要なのは、社会党支配の経験への反対とラロンドの立候補の際に生じた統一のダイナミックさが、少なくとも、政治的エコロジー運動の様々な興隆が次ぎのような重要な諸原理に基づく五点の合意に一九八二年一〇月に調印する文脈を提供したということである。すなわち、((1))政治的自律性、((2))二重の会員登録の禁止(他の政党への同時加入の禁止)、((3))多数者支配(少数者を尊重しながら)、((4))グループないし組織会員に反対する形での個人会員制、((5))運動諸組織内での地域(レジヨン)代表制である。冒頭に、大きな会議が、一九八二年の合意を完全に承認し、一九八三年コミューン議会選挙へ向けて準備するという観点から、開かれた(70)。重要なのは、これらの特徴が二年後の一九八四年一月に結成される Les Verts-cp に引き継がれるという点である。
    (b)  永続的・政治機構か党か
  MEPによる党建設の意志は、一九八一年八月一日に確認され、続く一一月一日にフランス中部のユゼルシュで開催されたMEPの全国大会で「エコロジスト党」(Parti e´cologiste)の結成に向けての再編を促す動議を可決する。
「したがってMEPは、現実政治への唯一の真のオルタナティヴとそこで働く可能性をより多くの人たちに提供するために、エコロジストの必要とする、より衝撃的な政治的道具をエコロジストに与える時が来た・・・と考える(71)」。

  しかし、党への変容というこの原則を可決したのはエコロジスト運動のこの分派の一部にすぎず、しかも先述の条件でディジョンにおいて創設されたMEPはエコロジー運動全体をまとめるにはほど遠いことを思い起こす必要がある。動議は、遅くとも一九八二年三月にはエコロジスト党の創設を計画していたが、この変形が必ず実行されるとは限らなかった。
  エコロジストの他の諸潮流においても、永続的組織と政治機構の必要性がますます認められるようになってきてはいたが、政党への変容は拒否される。例えば、一九八二年九月に、CEは統一的機構への希望を繰り返すが、それを党と呼ぶことは拒否する。同年一〇月には、CE、MEP、RAT出身の数百名の活動家が、運動統一のためのアピールを起草して、それに調印した(72)。そのアピールは、堅固で単一の組織を求めつつ、他方でMEPに対して党への変形を諦めるよう求めるものであった。
  また、全体的に言えば、ATも政治的で単一の組織化を受容する意志はますます明確になってきていたが、相変わらず党派的組織は拒否し続けていた。「一九八二年のAT事務局活動報告」は次ぎのように断言した。
「はっきり言おう。熱望とエコロジストたちの闘いは、政治的はけ口を必要としている。つまり、われわれの計画と一致する視座でフランスを統治する適性と意志をもったスタッフからなる連合(une association)という純粋な観点からみて必要なのである〔・・・〕。それゆえ地球の友事務局は、純粋に政治的なエコロジスト機関(オルガーメ)の創設が明らかに避けられないと考える」。だが、「〔・・・〕党へ変わるというMEPの意志」は告発する(73)

  さらにATは、一九八二年の一一月と一二月にも、エコロジストが共同して選挙活動を行える政治的機関の必要性を表明するが、それが党と名乗ることは拒否した。つまり、こうした機関の結成可能性に関してはVPEと意見は一致したが、党としての組織化を一九八二年一二月末に改めて拒否する。党としての組織化の拒否は、エコロジストによる共通の政治的機関結成に参加するに際してATが提出した諸条件の内の一つであり、一九八一−八四年の間に進行した統一過程において、最終的に組織としては参加しないとしてATが挙げた理由の一つであった。その他の理由としては、単一組織化によって全体主義へ向かう恐れがあること、当選者を管理しなければならなくなること、連合的(アソシアティーヴ)組織に与えられる補助金を喪失する恐れがあること、そして、一九八二年当初からRAT指導陣がCEをそれほどコントロールできないことを実感したこと、などを挙げることができる。これらの理由によって、RATが党に対して拒絶的態度を採りながら、他方で組織上の区別を支持するその豹変ーエコロジスト運動の政治的・結合的諸側面とその枠内での連合を目指すという決定間の変化ーをも説明できる(74)
  「連合的センタリング」(recentrage associatif, 再中心化)の結果、一九八三年六月一一−一二日の総会でのATの再組織化は、この観点において行われた。RATは解散し、ATの新規約が、総会において選ばれ議会機関の役割をする評議会(コンセイユ)によって作成された。それによれば、行動のための全権限をもつ事務局(un Secre´tariat)は、評議会によってではなく総会によって選出される。他方で評議会は、事務局を罷免できず、連合体の生活に関わるあらゆる問題に対し指示を与えるに止まる(75)
  こうしたATの新規約は、伝統的党組織の規約にかなり近い。すなわち、伝統的政党は、自ら実効性をもつために、総会で選ばれる半ば全能の指導部を具備している(だが一一条は、連合体メンバーの一一%の要求がある場合のレフェランダムの可能性を想定している)。エコロジスト組織は、初めて執行部に明確な権限を与えた。確かに、その執行部は議会機関=評議会にコントロールされるが、二つの総会間は総会でなされた行動方針の枠内においては自由で全能である。この点から見ると、ATの構造は理論的には最も効果的であり、これまでエコロジスト組織が備えていなかったものである。だが、この組織化は、少なくとも公式には権力を目指すものではないし、いかなる場合にも選挙活動の責任を負わせることもできない。しかし実際には、この組織化、AT内部のこの効果的権力構造によってのみ指導者たちの一人を公的ポストに就けうるという事実と結びつけざるをえない。こうした機構は、政党の諸要素の一つなのである(76)
  ((4))  党の曖昧な受容
  1.「緑ーエコロジスト党」(Les Vert-parti e´cologiste, VPE)−一九八二年頃から、政治的組化に関して、演説や実践における発展が認められる。党という原理は、常に反対を受けているとはいえ、徐々に避けられないように見える。だが、権力の政党への一貫した拒否がユートピア政党の構想をもたらす。
  MEPは、一九八二年一一月一日、サン・プリでの総会でVPEへと変容する。フランスで最初のエコロジスト党の創設である。初めて「党」という言葉が組織名称において出現したという事実だけでなく、組織構造も、MEPやCEのそれより緻密で確固としていた。VPEは、圧力団体としてではなく、大規模組織体(フォルマシォン)の中の競合的一勢力として行動する運命を背負ったエコロジスト党として創出された。そこには、エコロジスト運動の構造化における一つの真の転換がある。とりわけ、MEPのVPEへの変容は、エコロジスト運動の統一化とその連合的・政治的諸目的の調停とを党創出の前提条件にしない人たちの観点が優位に立ったということである。彼らにとっては、指針を与えてくれる「ガイド政党」を建設することが何よりも問題であり、それは政治的戦闘に参加するために可能な最高の道具に関わるものであった。
  しかしこうした考えは、元MEP指導部の一部から批判を受ける。「党」という言葉は、主要名称= Les Verts に付属したサブタイトルの形で表れるに過ぎないが、この単純な付属物の存在が強く告発された。しかもVPEは、権力を目指す政党の姿をとらない。こうして、執行機関ではなく、議会的機関が委任(マンダ)に基づいて権力の代表から利益を得るのである。地域的諸組織は極めて自律しており、全国評議会(Conseil national)の四分の三を選出する。議長(プレジダン)や事務総長のポストは存在せず、全く平等な四人のスポークスマンが置かれた。発言ないし仲裁などのあらゆる決定は、彼らの内の三人の一致を必要とした。コミューン議会選挙、県議会選挙、州議会選挙への参加の決定は、全国段階では行われず、「関係のある組織のレヴェルで」行われる。こうした土台に基礎づけられた構造は、伝統的諸政党の機能図式のアンチテーゼであるように見える(77)
  2.「緑」(Les Verts)−一九八二年一一月に、「緑ーエコロジスト連盟」(Les Verts-confe´de´ration e´cologiste, VCE)となったCEは、一九八三年五月二一ー二三日のブザンソンでの全国大会で「緑」(Les Verts)と称する新組織の創設を決定する。
  CEの発展は重要である。規約は、より長く、より詳細で、その諸構造は一層明確であった。とくに、権限、執行的・議会的指導機関の規模が明確にされていた。二重の政治的所属は禁止された。いずれも、CE時には明確でなかった点である。CEでは、地域(re´gions)が議会機関の一〇〇%を指名したのに対し、七五%となった。ただ、VPEと比べると、党への過度の組織化が図られてはおらず、権力を目指す党への発展もブレーキをかけられていた。新しい運動は、連合的タイプの活動を続けることを望み、党という言葉は、どこにも表れておらず、二重の政治的所属の禁止原則の採用にあたっては、内部の反対派と衝突した。それにもかかわらず、この新しい構造、組織化、規約、諸手続きは、一定の人々にとってはかなり党派的とみなされたのである(78)
  ((5))  フランスのエコロジー運動統一の試み
  エコロジスト運動は、八〇年代初めには著しい落ち込みを経験する。このことは、おそらく、((1))内部対立、((2))訓練された党派的組織の欠如、((3))選挙戦に身を投じる覚悟のできた候補者の欠如に関わっていた。エコロジーは、政治的組織と言うよりは、「連合的運動」であり、「思想運動」であった(79)
  また、一九八〇年代初めの世論の二極化という文脈の中では、この古典的亀裂を拒否する政治勢力の出現の余地はほとんどなかった。一九八三年三月のコミューン議会選挙でも、これまでと同じように、エコロジスト候補者を立てた都市ではまずまずの得票を得た(人口九〇〇〇人以上のおよそ一〇〇のコミューンで)。しかし、一九七七年と比べると少し目立った低下を示した。とくにパリでは、一九七七年のおよそ一〇%に対して投票の四・二%であった。
  この選挙で、エコロジストは、極めて寄せ集めの自律的リストの表象として、統一名称= les Verts(緑)を採用した。さらに、「エコロ」は、左翼・右翼のリストにも沢山いた。エコロジストは、限られた諸手段と活動家をもって自分たちが強い地域だけで争い、全体で〇・五八%(約一五万票弱)を得票するが、結果は平凡だった。コミューン議会選挙への比例代表制導入という新しい改革によって、およそ七五〇人前後の当選者があり、その内 les Verts リストに載っているのが三〇〇名であった。選挙は、フランスのエコロジー運動統一の試みの過程にエピソードとはずみを与えた。その直後の一九八三年五月に、VCEは、一九八四年の欧州議会選挙を準備するために、単一政党=「緑」(Les Verts)設立の目的で、VPEとRATとに統一大会を提唱する。そこでは、「緑」と他のあらゆる政党との二重所属は禁止されることになろう(80)
  一九八三年五月のブザンソン(VCE→Les Verts)と一九八四年一月のクリシー(Les Verts-cp)で、「単一党兼運動」の創出のための重要な段階が踏み出された(81)



(28)  正式名称「緑・エコロジスト連合=エコロジスト党」(Les Verts, Confe´de´ration e´cologiste-Parti e´cologiste)。このエコロジスト党を指す場合、今日のフランスでは単に les Verts ないし les Verts-cp という言葉を使うが、一般に「緑」(les Verts)ないし「緑の党」〔英語では the Greens, 独語では Die Gru¨nen〕という言葉で、エコロジスト組織やエコロジー運動などを総称することが多く、しかもフランスには、一時的選挙同盟に les Verts という名称を用いたり、一九八三年一一月から一九八四年一月にかけては同名の「緑」(les Verts)が存在したため、これらと区別するために、以下では、政治組織としての「緑の党」を Les Verts cp と呼ぶ(G. Sainteny, op, cit., p. 13)。
(29)  G. Sainteny, op. cit., p. 13-25.
(30)  P. Bre´chon, op. cit., p. 146; F. Borella, op. cit., p. 213.  農学者レミィ・デュモンを父にもつルネは、ノール県カンブレィで一九〇四年に生まれ、その後、パリのリセのアンリ四世校、国立農学院、植民地農学院を卒業し、一九二九ー三三年まではインドシナ農業局の作業部長、一九三三ー七四年までは国立農学院で比較農業を講じ、国連のインド共同開発や一九四三年創設の国連食料農業専門機関(FAO)の専門委員をも務め、一九四六ー六六年までの二〇年間はパリ政治学院(IEP de Paris)教授、一九五八ー七四年にはパリ大学の研究所である経済社会発展研究所教授などを務め、農学を専門とする研究者であった。彼は、研究のために社会主義国、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を中心に世界中を調査して周り(一九七八年までに実に七八ケ国)、その著作は三〇冊を超え(例えば邦訳書として、服部伸六訳『飢餓の証人−世界を翔ける農学者−』三一書房、ジャン=ポール・リブらとの共著・辻  由美訳『エコロジストの実験と夢』みすず書房、など)、わが国でも馴染みあるエコロジストの農学者である。Who’s Who in France, 1991-1992, (232e e´d.), E´DITIONS Jacques Laffite, France, p. 626.
(31)  ボレラによれば、彼の選挙キャンペーンは、キャンペーン書『エコロジーか死か』(L’Ecologie ou la Mort, Jean-Jacques Pauvert, 1974)という本の中にも見られるように、エコロジーが自然保護のみならず別のタイプのポスト・インダストリアルソサイエティ構築の提示でもあった(F. Borella, ibid..)。
(32)  ブレションとボレラも同様の評価である(P. Bre´chon, ibid.; F. Borella, op. cit., p. 213)。逆にプレンディヴィルらは、反核・エコロジー問題への有益な政治綱領の提供、三〇万票以上の得票から、”相対的成功”と見る(B. Prendiville and T. Chafer, op. cit., p. 178)。
(33)  B・プレンディビルは、この選挙の意味を、今日の運動形態からみて環境保護主義者に対する闘いにエコロジストが最終的(エヴェンチュアリ)に勝利したと見る(B. Prendiville, ‘Review of Touraine et al., La prophetie anti-nucleaire’, Journal of Area Studies, No. 4, 1981, p. 38)。
(34)  T. Chafer, ‘The Anti-Nuclear Mouvement and the Rise of Political Ecology’, in P. Cerny (ed.), Social Movement and Protest in Contemporary France, Frances Pinter, London, 1982, p. 205.
(35)  B. Prendiville and T. Chafer, ibid.
(36)  P. Bre´chon, op. cit., p. 146.
(37)  G. Sainteny, op. cit., p. 13.
(38)  例えば、急激な開発の進むパリ郊外のポワッシーの町では、一七・一%を得た(宮島  喬「『新しい階層』とフランス左翼」、『世界』一九七八年三月号、一八〇頁)。F. Borella, op. cit., p. 213.
(39)  P. Bre´chon, ibid.,; P. Hainsworth, op. cit., p. 92-93.
(40)  T. Chafer, op. cit., p. 207.  クレイ=マルヴィユは、フランス最初の商業用高速増殖原子炉・スーパーフェニックスのサイトである。当時建設中のこのサイトはフランスの核計画反対運動にとっての焦点になっており、激しいデモと衝突でこの年に抗議者の一人が死亡した。簡単には、J. Ardagh, op. cit., p. 327 を参照。
(41)  F. Borella, ibid.
(42)  ボレラによれば、「SOS環境」はあらゆる政党から自立していると自称しながら、実際には、時の多数派すなわち保守派に近いとされる(F. Borella, op. cit., p. 214)。G・セントニィによれば、この組織は、その後、政治的運動にも独立した運動にもなることはなかった(G. Sainteny, op. cit., p. 16)。
(43)  ラロンドは、エコロジスト名だけで立候補したことを理由に一九七六年にPSUを除名され、その後、一九七七年のRAT設立の全国的推進者となった人物である。彼は、一九七六年一一月の補欠選挙、一九七七年のコミューン議会と七八年の国民議会選挙に際し、パリでエコロジストを名乗って立候補した(B. Prendiville and T. Chafer, op. cit., p. 204.)。
(44)  P. Hainsworth, op. cit., p. 93; P. Bre´chon, op. cit., p. 146; F. Borella, ibid.
(45)  Jean-Luc Parodi, ‘Essai de proble´matique du mouvement e´cologiste’, Revue politique et parlementaire, No. 878, janvier-fe´vrier 1979, p. 15-43.
(46)  B. Prendiville and T. Chafer, op. cit., p. 178-179.; G. Sainteny, op. cit., p. 15-17.
(47)  最も重要な地方グループは、アルザスの「エコロジーと生存」(E´cologie et survie)と「ローヌ=ザルプ・エコロジー運動」(le Mouvement e´cologique Rho^ne-Alpes, MERA)の二つである。
(48)  Mouvement e´cologique,”Organisation du Mouvement e´cologique, s. l., s. n., s. d., 4p (G. Sainteny, op. cit., p. 15).
(49)  Re´seau des Amis de la Terre, Status du Reseau des Amis de la Terre, s. l., s. n., s. d. (G. Sainteny, op. cit., p. 16).
(50)  ボレラの評価では、その組織は、地方諸組織の調整をする非常に小規模なものであった(F. Borella, op. cit., p. 214)。
(51)  B. Prendivile and T. Chafer, op. cit., p. 179 では、その後、名前を「緑ーエコロジスト党」(Les Verts-Parti Ecologiste, VPE)に変えたとなっているが、VPEはMEPの流れをくむ組織であり、VPEを、一九八四年設立の Les Verts-cp と混同している(本論文の図1を参照)。
(52)  G. Sainteny, ibid.
(53)  経営不振で閉鎖の予定されていたブザンソンのリップ時計工場で、一九七三年六月に労働者が工場占拠・自主管理闘争を開始した。結局、この闘争は政府の介入によって終息し工場は一九七四年に再開されるが、この「リップ闘争」は、「労働者による管理」をめぐる全国的論争を巻き起こし、現代における所有・経営・労働間の鋭い緊張関係の存在を露呈した。そしてまた、「六八年五月」が労働者の意識や行動に大きな変化を与え、彼らのエネルギーが今なお深く蓄積されていることも示すものであった。
(54)  G. Sainteny, op. cit., p. 16-19.
(55)  F. Borella, ibid.
(56)  前者にはボレラやセントニィ、後者にはブレション(P. Bre´chon, op. cit., p. 148)が挙げられる。ボレラは、「このリストの、約四・四%の得票は、ベルギーの三・三%、ドイツの三・二%と比べると良い方であった」と見る(F. Borella, op. cit., p. 214)。
(57)  P. Bre´chon, ibid.
(58)  ボレラは、一九七九年一一月にMEPの創設決定をし、八〇年二月にヴェルサイユで設立をされたとしている(F. Borella, ibid.)。
(59)  P. Hainsworth, op. cit., p. 93; F. Borella, op. cit., p. 214-215; B. Prendiville and T. Chafer, ibid.
(60)  G. Sainteny, op. cit., p. 18-19.
(61)  G. Sainteny, op. cit., p. 19-21.
(62)  ヘインズワースによれば、一九八一年の候補者選択のこの「民主的で分権化された過程」は、「運動内の最良(多様性、民主主義、論争)と最悪(派閥主義、兄弟殺し)とを集約する迷宮的で回りくどい過程である」ことを証明した(P. Hainsworth, ibid..)。
(63)  CDSは、一九七八年二月に当時のジスカール大統領を支える政治母体として結成されたUDF(フランス民主連合)に急進党とともに参加しており、政治的には穏健右派寄りないし中道右派的立場を採っていた。
(64)  P. Hainsworth, op. cit., p. 93.
(65)  F. Borella, op. cit., p. 215.; P. Bre´chon, op. cit., p. 148.
(66)  M・クレポーは一九八一年五月−八四年七月までモーロワ内閣の環境相を、H・ブールシャルドーは一九八四年七月−八六年三月までファビウス内閣の環境相を務めた。
(67)  P. Hainsworth, ibid.
(68)  P. Bre´chon, op. cit., p. 149.
(69)  F. Borella, op. cit., p. 215-216.
(70)  P. Hainsworth, op. cit., p. 94.
(71)  G. Sainteny, op. cit., p. 19 の注より。
(72)  Ibid.
(73)  Amis de la Terre (secre´tariat),”Rapport d’activie´ du secre´tariat, novembre 1982 (G. Sainteny, op. cit., p. 20).
(74)  Ibid.
(75)  Amis de la Terre, Statuts de l’association.《Amis de la Terre》(apres les modications decidees le 11/06/83), s. l., s. n., 3p; juin 1983, art. 5. 6. 8. (G. Sainteny, op. cit., p. 21).
(76)  Giovani Sartori, Parties and Party Systems, a framework for analysis, Cambridge, Cambridge University Press, 1976 を参照。
(77)  「党(パルティ)」という言葉は、規約では決して使われず、「連合体(アソシアシオン)」という言葉を用いているに過ぎない。Cf. Les Vert-parti e´cologiste, Statuts, s. l., s. n., s. d. (art. 1, 5, ...). あるいは「運動(ムーヴマン)」(art. 7...)。逆に、VPEの内部承認文書(l’agre´ment inte´rieur)は党という言葉を用いている。Les Vert-parti e´cologiste, Agrement interieur, s. l., s. n., s. d., art. 11 et 12. (G. Sainteny, op. cit., p. 22-23).
(78)  Les Verts, Status, s. l., s. n., s. d., 2p.  CE時の全一二条に対し、二二条からなる(G. Sainteny, op, cit., p. 23-24)。
(79)  P. Bre´chon, ibid.
(80)  F. Borella, op. cit., p. 216.
(81)  P. Hainsworth, op. cit., p. 94.



むすびにかえて
  筆者は、冒頭において、本稿の課題を、政党化にいたるフランスのエコロジスムの歩みを、第一に、全国的組織化・統一化・政治化、第二に、選挙上の発展の観点から検討し、政治的エコロジーの発展の特質を探ることに設定した。以下では、それらの考察を通じて浮かび上がってきたフランスのエコロジスムの特質と一九八〇年代初頭にいたるまでの歴史的流れを大雑把に整理してまとめにかえたい。
  すでに見てきたように、政治的組織化の問題と選挙への進出の問題は密接に結びついていた。組織化の点で言えば、元々エコロジスト運動の中心主体は、多様で不均質な活動家から構成される「六八年五月世代」であり、彼らは既成の政治・経済(労働)・社会のあり方や諸制度への批判的・対抗的「社会=文化運動」として登場、個人的自律の基礎の上に直接参加民主主義や自主管理思想をオルタナティヴとして掲げ、その後六〇年代末から七〇年代始めにかけての環境破壊・核軍拡反対闘争の一定の盛り上がりをテコに、運動を定着化・深化させてきた。
  しかし、固有の組織を欠き、地域に限定された直接行動だけでは国家政策を根本的に動かすことはできないし、運動の拡大にも限界があるという教訓から、一九七四年の大統領選挙を皮切りに、全国政治の舞台に登場する。地域的・具体的活動に適したエコロジー組織は、地方の選挙や活動には適しているが、全国レヴェルではこの行動スタイルと組織では通用しない。そこで、政治的再編が生ずる。エコロジー諸組織の大きな分裂と再編は七四年の大統領選挙後と七九年の欧州議会選挙後の二度生じているが、結局、拘束的でヒエラルヒッシュな政党化を拒否する形で三つの選択肢の間を躊躇することになり、七〇年代半ばには、政権政党化の拒否をうたった全国組織のMEやRATが登場する。そしてこれらの組織は、エコロジスト運動間の情報交換と調整機関的役割に当面は徹し、選挙に際しては諸組織間の一時的選挙連合が組織される。以上が、組織化と選挙から見た流れである。
  こうして政治的・全国的組織化の過程での各エコロジー集団の離合集散を辿ってみると、フランスの政治的エコロジー運動の組織化の特質として、基本的に次ぎの三つの軸を中心に組織的分岐が生じてきたことが分かる。第一の軸は、活動基盤やスタイルをどこに置くかという観点から見た「中央−地方」関係軸、第二の軸は、組織の形態をめぐるもので「党−運動」関係軸、第三の軸は、既成政党との関係・距離をめぐるもので「左翼志向−左右の拒否=中立」関係軸である。
  この三つの軸を基準に、エコロジストの組織的流れを整理してみると次ぎのようになる。七九年時点では、いわば中央志向の”都会派”エコロジストのB・ラロンドは、PSやMRGと接近し左派寄りの立場を採り、自らも環境相となった。この潮流は、((1)) AT+RAT→AT→GE と繋がる。当初は自律的・連合的組織をめざし政党化を拒否するが、八三年の新規約採用後は、その活動内容も組織も事実上政党化する。一九九四年の欧州議会選挙でも独自のリストで立候補し、他のエコロジスト派から批判を浴びる。もう一つの流れは、”地方”に活動の重点を置くグループで、S・フェルヌの「ヨーロッパ・エコロジー」以後、永続化・全国化するが、組織的には地方に基盤を置き、連邦的で自律性を保証した規律を持つ。この潮流には、((2))党でなく運動を追求する ME→MEP→VPE と、((3)) CE→VCE→Les Verts の二つの流れがあり、一九八四年一月に Les Verts-cp として一つのエコロジスト政党を結成する。F・ミッテランにも距離を置く。以後九〇年代半ばの今日にいたるまで、フランスの政治的エコロジー運動は、B・ラロンド率いるGEとA・ヴェシュテールひきいる Les Verts(レ・ヴェール)-cp とが、ある時には対立し合いながら、併存するという状態が続いていくことになる。この状況は、エコロジー運動が本来的運動スタイルと基盤から離れて、全国的統一政治勢力となるに際してのディレンマを象徴している。自律的反既成勢力としてのオルタナティヴ戦略を理念に掲げた自然発生的市民運動として始まったエコロジー運動は、影響力拡大を目的に政党政治の渦中に入り込み、自らの政治的スタンスとアイデンティティを審問されたのである(82)
  フランスの政治的エコロジー運動が遭遇することになるその後の課題も、先の三つの軸に関連して出てくる。すなわち、第一の軸との関連で言えば、八二年以降今日まで進められてきた地方分権化の中で運動をどう展開するか、第二の軸では、Les Verts-cp と「エコロジー世代」(GE)との統一・併存の問題、第三の軸では、既成政党とくに左翼・中道政党との関係のあり方の整理、さらに今日ではこれにもう一つの軸がつけ加わる。欧州統合の進展の中での「超国家(スープラ・ナシオナル)---地域(レジヨン)」軸である。国境を超えたエコロジスト運動のあり方が問われてくる。
  ともあれ、八四年の統一に至るには一九七四年からの一〇年間に六つの永続的全国組織(RAT, ME, MEP, VPE, CE, VCP)と期限付きの少なくとも五つの全国的選挙組織の創出が必要であった。しかし、第一に、最古参のATがそこに加わっていないので統一は完全ではなく、第二に、この組織的細分状態が続いたために、一九八四年にいたるまでは、活動家の活動、とくに選挙戦や選挙結果からの利点を蓄積できなかった。そして第三に、一九九〇年以降は、新しい政治的「運動」の創出、つまり Les Verts-cp 有権者の一部を取り込みをも意図した「エコロジー世代」(GE)の創設が、エコロジストの組織的分裂の新しい局面を切り開く。そして、新党の正式名称=Les Verts-cp そのものが、統一過程に付随した妥協を反映していたのである。


(82)  エコロジー運動は、全国的「政治化」することによって、政治的プログラムを発展させたが、環境に関心を持つ有権者を失望させる。つまり、異議申し立て勢力としては勝利するが、政治的提案者としては挫折を味わうことになる。この点については、中木康夫「一九九三年フランス国民議会選挙の特質」『朝日法学論集』第一三号、一九九五年三月、三六ー四五頁を参照。


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〔15〕  アラン・リピエッツ著(井上泰夫・若森章孝編訳)『レギュラシオン理論の新展開−エコロジーと資本主義の将来−』大村書店、一九九三年)。
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