立命館法学  一九九六年二号(二四六号)




◇ 研究ノート ◇
いかなる意味で代表するのか?
代表制・半代表「制」・半代表の論理

−リュシアン・ジョームのホッブズ研究の紹介を中心に−


石埼 学






目    次




「最も簡素な民主主義と最も完璧なホッブズ主義の間に許容しうるような中間を見いだすことは私にはできません」
(Rousseau, Lettre au marquis de Mirabeau, 1767)



は じ め に
  最近、憲法学の諸論説を読みつつ、ふと気になることがある。そこでは、「市民」、あるいは「自覚的な」民意が、現下のわが国の憲法・政治・社会状況の「閉塞」を打開することを期待された「主体」として、しばしば登場しているのである(1)。あるいは、それは、今に始まったことではないかもしれない。しかし、「市民」への期待の高まりは、日本国憲法の担い手、その理念を実現すべき主体として期待された人々が、高度成長期を歴た後の「豊かさ」の中で「企業戦士」と化し、あるいは「消費者」と化したことへの苛立ちとも受け取れる(2)
  ところで「市民」とは誰のことか?私が「ふと気になる」のは、かれに憲法学が背負わせようとしている重責にもかかわらず、一向に、かれが、どこから現われ、どのような姿をしているのかがわからないということである。一言で言えば、漠然と、共通の了解のようなものを持っているようで、実は「市民」の定義となると、大いに疑わしいところがあるように思われる(3)。その共通の了解とは、「企業戦士」・「消費者」たちに「政治に(すなわち公的なものに)関心を持て」ということであろう。しかし「近代」というもののエートスが、私的生活における個人の幸福の追求であったとすれば、そしてまたそれを保護するためにのみ国家の存在理由があったのだとすれば、公的なものへの参加に個人の幸福を見いだす論理は、それほど自明のことではない。日本国憲法の出発点は、それ以前に存在した「滅私奉公」国家の否定ではなかったのか。そうであるならば、少なくとも、「市民」という言葉を自らがどのような意味において用いているのかが自覚されないと、日本国憲法の「近代的な」理念そのものが揺らぎだすことになるのではなかろうか?民主主義の主体は本当に「市民」なのだろうか?「人」を主体とした民主主義は存在しないのだろうか?また自明の理として、普通、人間は、「市民」として生まれるのではない。人間は「人」として生まれるはずである。では、憲法学が期待するところの「市民」は、どこからやってくるのか?この点から出発して、以下、「人」と「市民」との関係を軸にして、国民代表制論についての考察をすすめよう。

一、国民代表制論の新展開
(1)  ひとつの方向ーアメリカ的共和主義的代表観ー
  最近の国民代表制論の注目すべき傾向として、アメリカにおけるそれの研究をもふまえた「共和主義的代表観」というひとつの代表観の登場が挙げられる(4)。高橋和之教授によれば、それは、国民主権と人民主権の両者に共通して確認される「いかなる意思が」代表されるのかという問題設定にひとつの回答を与えようとするものである。その特徴は、「市民の選好」を正確に反映することを内実とするリベラリズムの代表観に対して、第一に政治を「討論」を中心に観念し、第二に「政治に参加する主体」の「公民的徳性」を要求するものであり、第三に「普遍主義」への信念と討論過程の「帰結において発見されるべき」「共通善」の存在を仮定し、第四に「公民権」と「政治参加」を重要視するものであるという。さらにそれは「『討論をつうじての全国民の利益』の理念へ回帰しようとする傾向」に通じているのであると言う。そのような議論を紹介しつつ高橋教授は述べる。憲法学にとって、「今や問題は『誰の意思が』ではない。『いかなる意思が』こそが問われている」のである、と。
  しかし教授の論稿で、わたしが気になるのは「共和主義にとって、政治参加は代表者を統制するためという意味で手段的なものであるのみならず、共感、徳、共同体感情といった性格を教え込むための媒体でもある(5)」(傍点・引用者)という言い方である。それでは、誰が「教え込む」のだろうか。この点をもっと率直に述べているのが松井茂記教授のつぎの共和主義の定義にうちにある論述である。「それゆえ政治的共同体は、市民がこの公徳心を涵養するように努力しなければならない(6)」。
  それでは、市民に、それにふさわしい「共感」・「徳」・「共同体感情」・「公徳心」を「教え込」み、「涵養するように努力」するところの「政治的共同体」をつくるのは誰か?  という疑問を私は持つ。つまり、ここにはひとつのトートロジーがあるのではないのか?  始原的に「市民」が存在することを前提に、「政治参加」を語り、「政治的共同体」を語るのに、その「市民」は、「政治参加」や「政治的共同体」によって「教え込」まれ「涵養」されるということなのだろうか?
  今ひとつの疑問は、このような共和主義にとって、代表制は、いかなる意味で「共通善」を代表しているのであろうか?「創出」・「発見」・「確認」・「結果」等の言葉が高橋教授の論稿には散見されるが、一言で言えば「代表する」とは何をすることなのだろうか?
  本稿では、以上二点の疑問を提示するにとどめ、つぎにもうひとつのありうる国民代表制論の在り方を提示したい。
(2)  もうひとつの方向ーフランス的自由主義的代表観ー
  一九八〇年代中頃あたりから、フランスでは、注目すべきひとつの代表制論の潮流が登場している。それは、フランス革命を「エリート革命」と見做し、九三年のジャコバン主義を「デラパージュ」(革命の行き過ぎ)とみなすフランソワ・フュレらの歴史学の潮流(7)の影響下にあると思われる憲法学者、ステファヌ・リアルスやリュシアン・ジョーム等の展開する代表制論である。リアルス等の議論は、以前に拙稿で紹介したことがあるので(8)、ここでは、かれらに共通する特徴として三点を示しておく。((1))代表者と被代表者、国家と「私」民社会の断絶の強調、((2))始原的に存在する「人民」・「市民」・「主権」といった概念構成の否定、((3))「いかなる意味で代表するのか」という問題に正面から取り組み、一定の回答を与えている、以上三点である。
  中でもリュシアン・ジョームは、ホッブズの代表国家思想、ジャコバン主義や諸人権宣言の実証的研究などにより、代表制の本質に対する鋭い論理的洞察を示しており、注目すべき論者である(9)。本稿では、なおジョームの多くの業績をすべて紹介することはできないが、かれの議論の特徴は、「代表」・「人民」・「主権」などの概念に徹底的な批判的検討を加え、さらに「公共精神」・「統一性」・「市民性」からその内実を抜き去るような議論を展開していることである。ジョームの著書『自由主義への挑戦−ジャコバン派と国家』(一九九〇年)において、かれは、つぎのように述べている。「『世論の支配』となった今日の民主主義は、世論の諸ベクトルを多元化し、政治的論議を多様化し、また・・・『公共精神』から遠ざかることによってのみ自由を獲得できるのである(10)」。
  さて本稿の課題は、共和主義的代表観とは異なるジョームの「自由主義的代表観」を、かれの処女作である『ホッブズと近代代表国家』(一九八六年)を紹介することにより垣間見ることにあるが、その前に、私なりに「代表制」とは、何なのかを簡単に整理し、ジョームの著作への理解の一助としたい(この「私の」代表観自体、ジョームの著書の影響下にあるが)。
(3)  代表制---自由主義の叡知か?---
  先に発表した拙稿(11)において、私は、「異なるいくつかの代表観」として以下の三類型を提示しておいた。
  ((1))  同質社会を前提にして、人民の統一的意思の実在を承認し、それを代表者が忠実に表明し、実現する代表観。
  ((2))  非同質社会を前提にして、人民の多様な意思の実在を承認し、それらを代表者が忠実に描写し、実現する代表観。
  ((3))  非同質社会を前提にして、代表者の討論による「人民」の意思の創出によって、代表者が「人民」を代表する代表観。
  本稿で私が「代表制」と称するのは、そのうちの((1))と((3))の類型に含まれるものを、ひとつの特徴のもとに一括した類型である。それでは、その特徴とは何か?それは、始原的に存在する(とされる)ものであれ、事後的に形成される(とされる)ものであれ、なんらかの「統一性」を志向する代表観である。
  ところで、そのような「代表制」といっても、何らかの始原的な統一性を実現するとする代表観の場合には、統治者(代表者)と被治者(被代表者)、あるいは国家と「私」民社会の間には、何らの隔たりもないことになる。他方代表者が、事後的に統一性を形成する場合には、一応両者の間の隔たりが承認されることになる。ステファヌ・リアルスは、この点を重視し、上記((3))の代表観に立脚しつつ、この「隔たり」に対する「賢明な諦観」こそが立憲主義であると論じた。そして「徳」という概念を媒介に両者の「隔たり」を「言葉の上で廃止しようとする」ものとして権力の座に就いたジャコバン派の代表制論を批判していた(12)
  ジャコバン派の他にも、たとえば、カール・シュミットが、「代表においては、より高次の種類の存在が具現する。代表の理念は、政治的統一体として実存する人民が、何らかの仕方で共同に生活している人間の集団という自然的存在に対して、より高次の・高められた・より強度の種類の存在を有することに立脚している(13)」と論じる場合にも、「実存する人民」が「具現する」という点に重点が置かれるならば、「隔たり」が廃止されることになろう。
  さらにマルクス主義において、歴史の発展法則の担い手であるプロレタリア階級こそが人民であり、それを指導する前衛党こそが人民そのものであるという論理構成が採用される場合にも、やはり「隔たり」は廃止される。
  すなわち、「徳」・「実存する人民」・「歴史の発展法則」その他の統一的な原理が、そもそも存在し、それを代表者が「代表する」という論理構成は、リアルスによれば立憲主義の枠を突き破ろうとすることになるのである。なぜなら、代表者と被代表者の間の同一性を想定すると代表者の権力行使を制約する論理的地平が失われるからである。そこでリアルスは、代表者と被代表者の間の「断絶」を自覚しつつ代表制をつくりあげたシエースを高く評価することになる。
  しかし、いずれにせよ、「統一性」ということが、これら一切の代表制論に共通する要素であり(リアルスの場合にも「討論」による「一般意思」の実現が問題である)、そこに代表制の問題を解明する鍵があると見当をつけるのも、あながち的外れではないであろう。
  シュミットは、次のことを認めている。すなわち「『支配する』とか『統治する』というような言葉に代表の契機、すなわち政治的統一体の表現が含まれている(14)」。
  以下、二、において、シュミットのいう「代表の契機」を強烈に意識しつつ、すなわち政治的統一体を如何に理論上構成するかを意識しつつ、群衆にすぎない(すなわち統一性を持たない)個々人の集まりから出発し、代表制国家の有り様を理論化した最初の思想家であるホッブズの思想を「ホッブズ自身よりもホッブズ的に(15)」再現したリュシアン・ジョームの業績を簡潔に紹介しよう。そしてそこから逆に、多様な民意を反映し「実現する」ことを標榜する今日の代表民主主義国家(半代表「制」)についてもなにがしかの理解が得られるものと思われる。本稿の表題で半代表「制」と半代表の論理というふたつの概念を私が掲げた意味も、やがて明らかになるであろう。


(1)  以下の脚注(5)および(6)の高橋教授や松井教授の論稿の他、例えば次の論稿が挙げられる。「違憲審査制の『活性化』のためには、・・・憲法価値に則った主体的・自覚的な人民の意思を集約し『民意』にまで高めることが必要であ」るとする浦部法穂「違憲審査制の構造と機能」『講座憲法学六』一九九五年八七頁。また「政治のあり方は、根本的には・・・国民の自覚の問題である」とする浦田一郎「政治による立憲主義」法律時報六八巻一号一九九六年七〇頁。また「現代における人権保障のあり方」において「その担い手として『市民』の出番が叫ばれるのも、各国に共通した潮流といえよう」とする辻村みよ子「憲法学の『法律学化』と憲法院の課題」ジュリスト一〇八九号一九九六年七四頁。
(2)  「企業社会」の問題についての基本文献として渡辺治『「豊かな社会」日本の構造』一九九〇年、同『企業支配と国家』一九九一年のみを挙げておく。また「消費社会」の問題については、ボードリヤール・今村仁司ほか訳『消費社会の神話と構造』ちくま学芸文庫、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中公文庫のみを挙げておく。
(3)  この観点から、最近、「市民」について論じたものとして、以下の諸論稿が注目される。フランスにおいて「公的存在としての〈citoyen〉と私的傾斜をもった〈citoyen〉という二つの方向が混在」しつつ、その二つの方向が交錯して語られていることを指摘している樋口陽一『近代国民国家の憲法構造』一九九四年一四一頁以下、また「個人と市民との違いはきちんと区別しておく必要がある」とする海老坂武『思想の冬の時代に』一九九二年二〇七頁以下。
(4)  アメリカにおける動向の研究として大沢秀介『アメリカの憲法と政治』一九九二年、また千葉眞『ラディカル・デモクラシーの地平−自由・差異・共通善』一九九五年をも参照。
(5)  以上、高橋和之「『国民主権』の諸形態−『誰の意思が』から『いかなる意思が』へ−」法律時報六八巻六号一九九六年二五−三〇頁。
(6)  松井茂記『二重の基準論』一九九四年三四五頁。
(7)  フランソワ・フュレ・大津真作訳『フランス革命を考える』一九八九年、フュレ・オズーフ・河野健二他監訳『フランス革命事典I・II』一九九六年を参照。また辻村みよ子『人権の普遍性と歴史性』一九九二年二一頁以下参照。
(8)  拙稿「現代代表民主制の生理『の』病理についての一考察(1)・(2)完」立命館法学二四〇・二四一号一九九五年。
(9)  私の知る限りジョームは、次の五冊の書物を刊行している。Hobbes et l’Etat repre´sentatif moderne, 1986. Le discours jacobin et la de´mocratie, 1989. Les De´clarations des droits de l’homme (ed) 1989.  E´chec au Libe´ralisme, Les Jacobins et l’E´tat, 1990.  1789 et l’invention de la constitution, 1994(これはトロペールとの共編である)他に多数の論文がある。
(10)  Lucien Jaume, E´chec au Libe´ralisme, p. 77.
(11)  前掲・拙稿
(12)  リアルスは、このような代表制論を次の論稿で展開している。前掲の拙稿の第二章で紹介しておいた。Ste´phane Rials, Constitutionnalisme, souverainete´ et repre´sentation;dans La continuite´ constitutionnelle en France de 1789 a` 1989, 1990.
(13)  カール・シュミット・尾吹善人訳『憲法理論』一九七二年二六〇−二六一頁。
(14)  同前二六八頁
(15)  Lucien Jaume, Hobbes et l’E´tat repre´sentatif moderne, 1986. p. 12.


二、リュシアン・ジョーム著
『ホッブズと近代代表国家』の紹介

「偉大な、そして真に体系的な政治思想家ホッブズ」
(カール・シュミット・田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』一九七〇年八〇頁)


  ここでは、リュシアン・ジョームの著書(Lucien Jaume, Hobbes et l’E´tat repre´sentatif moderne, 1986.)を紹介するが、それは、憲法学における国民代表制論の再構成という問題関心からする読解である。したがって、ホッブズ政治思想の広範な射程(そのアントロポロジー、政治学方法論、思想形成過程、比較など)を対象としているジョームの貴重な業績の全体的紹介ではない。しかし、著書の表題自体が示しているとおり、本書の中心的関心はホッブズの代表国家思想であり、それのエッセンスをここに紹介しようとするものである。
  *本書についての書評で、オディール・リュデル(Odile RUDELLE)は、「どのようにして人々からなる群衆と諸利益から結合を見いだすのか?  欲望、すなわち羨望と不安が蔓延した世界で、どのようにして合理性を見付けるのか?  どのようにして、この無秩序から、財産と人間の安全を保障することのできる『ひとつ』の権力を出現せしめるのか?」ということが「いつも問題になる」としつつ、ジョームの著書を、そのような「『一』と『多』を考えるもうひとつの方法である」として高く評価している。「もうひとつの方法」とは、「多数者の論理への服従は、個人の反抗の運動を排除することはできない」ということをジョームが明らかにしたという意味である(以上、Revue francaise de science politique v. 36-4)。
  *なお本稿以下においては、ジョームの本書からの引用は、本文中に(X)の形態で頁を示す。またホッブズ『リヴァイアサン』からの引用は、あまりに有名なテクストであるから、極力排除した。引用する場合は、「世界の名著」版の永井・宗片訳の当該箇所から引用し、本文中に(訳書X)としてその頁数を示した。ジョームは、本研究において『リヴァイアサン』の英語のテクストに主として依拠しつつ、トリコー (F. Tricaud) によるフランス語訳(Paris, Sirey, 1971)から引用している。
  *ホッブズの思想については夥しい研究文献が存在するが、ここでは、それらの研究史を知る上で便利な以下の二著のみを掲示するので、それを参照していただきたい。
  田中浩編『トマス・ホッブズ研究』一九八四年。本書一二章で、代表的なわが国のホッブス研究の業績が紹介されている。
  リチャード・タック、田中浩・重森臣広訳『トマス・ホッブズ』。本書第三部は「ホッブズ解釈の系譜」を整理している。また末尾には、「文献案内」がある。
  *またホッブズの代表理論について、ジョームは、「全体的研究の対象にはなってこなかった」(9)と述べており、ピットキンも、「ホッブズは、通常、代表に関する理論家とは考えられてない」(Hanna F. Pitkin, The consept of representation, 1972 p. 14)と述べている。それ故、以下に紹介するジョームの業績は、ホッブズの代表理論に関する初の本格的論説であると思われる。
(1)  ホッブズのパラダイム
  ホッブズは、「最も極端な個人主義者であり、同時に完全に統一された全体性としての国家の樹立の賛美者ではなかろうか?」(17)。このような「逆説的緊張」を『リヴァイアサン』は、孕んでいるように思われるが、ホッブズの論理において、この「逆説」はどのように解決されているのであろうか?
  一六五一年の『リヴァイアサン』初版の表紙の絵は、何を意味するのだろうか。それはホッブズの構想である。その絵においては、周知のとおり「読者は、具象化されたものとしての国家を目のあたりにするのであるが、それは、人間の姿をしており田園やまちを支配する巨人であり、かれがひとつの有機体に統一するところの人間たちによって彼自身が構成されているのである」(19)。しかもこの巨人をつくりだしたのは、それに寄りあつまった人々であり、その「人間は、一方ではかれらの諸制度をつくりだす存在であるが、他方ではかれがつくりだしたものに従属するのである」(21)。人々によってつくられたこの巨人こそが「リヴァイアサン」に他ならない。「すなわち、《コモンウェルス》とか《国家》・・・と呼ばれる偉大な《リヴァイアサン》を創造するが、それは疑いなく一個の人工人間にほかならない。・・・人工人間にあっては、『主権』が人工の『魂』でありそれが全身に生命と運動を与える」(訳書五三)
  こうしてホッブズが示唆するのは、「国家は、その有機体によって、統一と命令の原理ないし主権をそのうちに保持する政治主体である」(22)ということである。
  そこでは、そもそもこの国家をつくりだした人間たちは、その有機体のうちに「体内化 (incorporation)」されてしまうのである。そこでは個人は「その独立性を失い」、「彼なしには存在しえない、より高次の統一性に協力するのである」(23)。つまり「個人は国家のためにのみ存在し、国家は個人によってのみ存在し、そして国家は個人の上位に存在する」(23)ということをホッブズは示唆するのである。
  このような「奇妙な『生産』」から明かとなるホッブズの「構想は、二重の意味で国家の統一性を確立することであると思われる。すなわち諸個人の統合としての国家構造の統一性および政治主体としての国家意思の統一性である」(24)。
  さて、冒頭で示した「逆説的緊張」から、このようなホッブズの構想する「国家の統一性の形成に対するあらゆる種類の障害物は、明らかになるであろう。それらは、まさしく人間の内に存するのである。すなわち人間の性質の内に、そして自然状態の人間の内に」(24)。
(2)  自然状態、状態の変化、国家的審級の登場、人工論
  有名な「各人の各人にたいする戦争状態」(訳書一五六)をもたらす無制約の個人主義は、ホッブズの「人間の欲望の理論の帰結」(25)であるが、その欲望の原動力は、「時間に対する不安」である。その原動力に突き動かされて人々は「各人の各人にたいする戦争状態」に陥る。このような状態と「国家の結合的で、それゆえに統一的な状態」との間に存するアンチテーゼをホッブズは、どのような方法で解決するのだろうか?
  それを探求する前に、「各人の各人にたいする戦争状態」は、ホッブズにおいては「実際の状態をいわば忠実に再現した描写ではな」く(26)、「実は、欲望の理論は、運動の理論なのであって、純粋な論理によって再構成された想像上の状態において考えられたものなのである」(27)。それは『物体論』における物理学上の運動の理論のアナロジーである(28)。
  さて、「人間の本性と自然状態にある人間についてのこのような青写真にしたがって、どのような奇跡によって従順な市民が獲得されるのであろうか・・・」(29)。
  ところで「架空の実験というアリーナから立ち去り、観察に立ち戻ると、諸国家が存在するのである。たしかにそれらは反乱と内戦・・・を知っているが、同じように、社会的秩序の回復という性格をも示しているのである。さらに、自然状態から考えると説明不可能と思われる巨大な物質的進歩を文明化は体験したのである」(30)。これらの「経験的な観察は・・・人間は、本来的に、生産的な動物すなわち創造的な動物でもある」(30)ということを示している。それでは、人間の性質のうちで何がこのような生産的な能力を与えることができるのであろうか?
  それは、計算としての理性である。しかし理性は、「自然状態を強化するもの」でもありうる。そこで人間の理性といっても、人間の状態の変化を生み出すのは、他者との衝突による「自らの消滅について考えなければならない」(35)ところの「反省的な」理性である。「そして、実は、計算的で反省的なエゴイズムとしての理性は、素朴なエゴイズムとしての理性とは対抗的に作用しはじめるのである。つまり理性はその計算をより推し進め、また言語の助けをかりて、理性は各種の行動規範をつくりだすということがいまや必要となるのであり、ホッブズは、その行動規範を自然法と名付けるのである」(36)。
  そこで個人主義は「自らの理性に従うか全員の理性に従うか」という「十字路」に立たされる。理性は、「普遍性を理解することができるようになる」(36−37)。「状態の変化が可能となる」(37)が、その移行が現実的なものになるためには、「迂回、いやむしろひとつの審級を必要とするであろう。それは、衆知のとおり国家的審級である」(37)。この国家は「理性の客観化」であり、「各人の理性の延長部分」でもある(38)。「自然状態の個人が、かれの理性によって垣間見、期待したものである平和は、理性の客観化なくしては、そこに参加できないのである」(37−38)。結局人間は、「かれらの精神のなかの自然法と外在的な政治体」(38)とをつくるのである。それは、「倫理への扉」ではあるが効果はなく、むしろ「外在的な対症療法」である(38)。つまり、「結局は、人間は、その欲望においては変わらないのであるが、これからは制約されるのである」(39)。
  このように「ホッブズの政治学および人間によってなされる人間の条件のこのメタモルフォーズの基礎に横たわる認識論」は、「人工論」、すなわち「生産的な動物としての人間観」なのである(41)。

(3)  代表ー体内化
  さて、以上のようにして、人間は、自らの状態のメタモルフォーズを可能にするのであるが、その帰結は、「始原的な人間関係から統一性と全体性への転換としての代表制国家である」(46)。人間の計算によって追求される目的(外敵に対する防衛、内部における相互の保護、物質的な幸福を獲得するための人間の産業の発達、満たされた生活)に必要な手段は「自分たちすべての人格を担う一個人、あるいは合議体を任命」(訳書一九六)することである。そこに「著作全体の鍵となる概念がみられるであろう。すなわち、政治的技がつくったものは、主権者にとっては、『群衆』である諸個人の『人格を担う』ないし『役を演じる』という行為に存するのである」。その「政治的技がつくったもの」こそ「代表者」である(47)。重要な点は、次のことである。「すなわちこの各人を代表するという作業は、同時に全員を一つの意思に統一するという作業なのである。かれらは、たしかに、代表者の『人格』のうちに以前はかれらの間に存在しえなかった統一性を見いだすのであり、またかれらは、その時から、その人格のうちに自分を見いだすのである」。そして「諸個人は、かれらの意思およびかれら自身の判断を放棄する。なぜなら、かれらがつくりだしたこの観念的存在のうちにその代償を見いだすからである」(47)。
  「ここには、創設者の創設されたものへの(あるいは生産者の生産物への)服従がみられる・・・なぜなら、代表者が『かれらの人格を担う』ことによって諸個人を統一するまさしくその時に(あるいは、それ故に、であろうか?)、代表者は、逆に、諸個人を統一的な意思に従わせるのである・・・『統一的』なということが、したがって、この代表者の本質的な属性なのである」(47)。
  しかしなぜ「体内化」なのだろうか。それは次のようなことである。「人民は自然的現実ではなく人工的なものであ」り、「ホッブズの人民には、生成過程がある」。すなわち代表者が「人民をつくる」ということを、「体内化」は象徴する。つまり「諸個人からなる群衆が獲得した統合、すなわち実践的人工的に生成された人民の出現を、それは、逆に、象徴するのである」(50−51)。
  「発展であり突然変異でもあるこの過程の注目すべき特徴は、ひとつには、人間はその性質ににおいて変わらないということであり、しかしながら、その条件においては、人間は、人間の性質の発揮の諸条件を根本的に変更するところのひとつの全体に統合されるということである」(52)。
(4)  連続的な過程としての代表のメカニズム
  この「代表−体内化」は、実は、「連続的な過程」である。それはどういうことか?
  自然的平等状態にある「ホッブズ的人間は、かれと同等のもの、かれの同類としか契約を結ばない。なぜなら、平等とアイデンティティがかれの不幸の原因であると同時にかれの安全の原理でもあるからである」(76)。そして「自然状態から脱却するためには、『部分的には情念に、部分的には理性による』『可能性』がある。・・・第一のものは、普遍的な敵対において、またそれによって成し遂げられる事実上の平等であるが、なぜなら、決定的な力を求める各個人の欲望は、他者のそれと衝突するからであり、その働きは、結局は、総和に対するいかなる部分でもない。理性に存する可能性は、それはそれで、相互的な平等の保障であり、その平等は、自然法による予測によるこの能力を『互いに同意できるようなつごうのよい平和のための諸条項』と同じようなものとみなすのである」(77)。
  「しかし、それでは、誰が、あるいは何が、理性によってこのように予想された平和のためのかかる同意を実際に保障するのであろうか?」(78)。それには、「全員が同時に第三者をつくり、それに訴える必要がある。この第三者は、普遍的な敵対の外部における願いを(強意で)具現しているのである。かれとともに、不安を引き起こすような鏡の作用による万華鏡あるいは自然的平等を動かしているシステムは砕けるのである。そしてかれによって客観的な市民的平等への移行が確立されるのである」(78)。ホッブズにとってはこの第三者の属性は、ほとんど問題とならない。「かれは、それを仮定する必要性を認めているように思われる」(78)。「権力は誰かによって征服されたものではない。いわんや権力は誰かとの妥協によって引き出されたものでもない。それは・・・『設置された』・・・ものなのである。すなわち権力は、それをつくった人々にとっては外在的なものであり、同時に彼らによる産物なのである。またその形式的な必要性があらゆる属性の問題を取りのぞくのである」(79)。
  つまり、「誰か(個人あるいは部分的ないし全体的集団)を主権者にとどめておくのではなく、一六五一年の著作では、人間たちは、積極的に代表者をつくるのである。その代表者とは、逆にかれらに対するその行為によって主権的権力を持つものである。このことは、人工論的観点の完成に見事に対応するものである。いま再構成したばかりの契約問題の解決とは、それ故に、連続的な過程としての代表のメカニズムなのである」(81)。
(5)  「人工人格」代表されるものと代表者との結合
  「このように外にある第三者を任命することによって、人々は、彼らによって『承認された』、すなわちかれらによって公認された第三者をつくるのである。そうすれば、公認される人と公認する人々とを接合する過程の総体としての人格が現われる。つまり・・・それは、代表者(=諸しるし)と群衆(=源泉)の言葉と行為の間の人工的で連続的な関係なのである」(84)。「群衆は、主権者となった第三者の『芝居』を見物し・・・また同時に群衆は、この芝居においてかれらが観るものによって結ばれるのである。なぜならこの芝居はかれらの作品だからである」(84)。
  「代表者が、自分自身の言葉および行為の『源泉』および『作者』として人々を客観化しない限り、人々は代表者をつくりだすことはできないのである」(85)。問題は「承認契約」である。すなわち「承認は、代表過程を支える正当性となるのであり、源泉を『その』諸しるしに中継するのである」(85)。したがって「諸個人が体内化されるということは、実は、両極の緊密な関係をつくるということを意味するのである。つまり、人々なくして権力もない、しかし権力がなければ人々の間の平和的な関係もないという関係である。また最後に、諸個人と諸権力の結合なくしては国家もないという関係である」。それは「静態的」ではなく「運動」である(85)。
  「群衆の主権の可能性は全くありえない・・・なぜなら主権は代表の創設の帰結であって、決してそれに先立つものではないからである。『承認された』という点で、『代表する』人は、従って、かれの言葉と行為の確実な源泉である人々に対して、逆に、語りかけたり行為したりすることができるのである。このように、諸個人は、かれらが所持していない主権を設置するのである」(85)。
  左の図はジョームが掲げるものである(86)。
(6)  人格 (persona) ・「空想の過剰」・「見せ物」としての「代表」
  しかしホッブズの代表人格モデルは、人格という言葉に存する「意味上の亡霊」(87)を利用することによって、その「意味を増やす」(86)のである。
  すなわち人々によって「承認された」第三者(代表者)の占める地位は、「変装、仮面および役者を同時に意味するところのローマの人格を担うことによって、今度は、役者の一座によって占められる」(87)。そのようなキケロの「人格」概念を利用しつつ、ホッブズが示唆するのは、「言葉の完全な意味における見せ物」あるいは「演劇の上演」としての「代表」なのである(87)。
  そしてそこで上演される「この戯曲においては、観客は、戯曲の『作者』である。言い換えれば、権力の演劇的な代表においては、諸個人は、自らが代表され、政治的に代表される市民としての彼ら自身の生活を読みとるのである」(88)。
  そして「『役者』と『作者』は、両方とも、代表を正当化する承認の関係の二つの極として理解されるべきである」のだ(88)。
  このようにしてなされる「統一と他性の連接は、代表、そして人工人格の本質そのものである。その運動において実現される本質である」(89)。
  つまるところ、ホッブズにおいては「代表者は、人々の名において自身の考えを表現するだけではなく、彼らの代わりとなってそうするのであり、それも永久に!」(89)。
(7)  主権および人民の理論
  しかし、ここまでの説明は「代表」の説明であって「主権」の説明ではない。主権とは何か?
  「たしかに各個人は、各個人とともに、代表者をつくる。しかし、その時から、代表者にかれらのために発言し行為することを委ねた各個人は、次のことをも認めなければならないのである。つまり代表者は、各人および他のすべての人々の名において、どのような点についてであろうが発言し行為するのである」(109)。「その時から各人が、自然状態では決して見ることのない権力をこの代表者のうちに見るのは、不可逆的に、またいかなる行為や言葉についても、他のすべての人々は、彼と同じく作者であるからである。それが主権なのである」(110)。要するに、「各人は、各人とともに確かに代表者をつくる。しかし各人は主権者はつくらない。あるいはさらに、主権は、代表から生じるのであり、主権は代表の結果なのであって、その同等物ではない」。したがってホッブズにおいては「完全に排除されているのは、主権が代表をつくりだすということである。始原的な主権を排除したことこそが『リヴァイアサン』のなした主たる訂正である」(110)。
  このような「私的な力から公共的な権力への移行」の「結論」は、「代表者を公認し承認する可能性は、私的の力の一般的な放棄から生じる」ものという「消極的な側面」と「その時、代表者は全員の名において発言するのであるから、代表者は権力を持っているのであり、代表者は諸権力を持っているのである、代表者は権力なのである」という「積極的側面」とを持つ(110)。すなわち「各人がつくるのは主権者ではなく統一なのであ」り、この「統一」とは、「ひとつの全体への私の帰属意識」である(110)。
  そしてそのような「主権の行使とその諸結果」(111)として「人民」が創設されるのである。すなわち「主権的行為の内実」とは、「承認の過程の結果として生じた属性」である「権限」であり、「この主権者の行為の内実から、主権者の臣民に対する言葉である市民法が姿を現わす」(112)のである。そしてその「主権者の行為の形式」は、「人民を創設する」ということである。したがって「人民とは、主権者によって媒介され、統一的な形式を与えられた群衆に他ならない」(112)。それゆえ、「人民もまた人工的な存在であり、決して所与の経験的存在ではない」(113)のである。こうして「人工論的過程は、完全なる逆転に達する」(114)のである。
  「ホッブズの代表理論の秘密」は、このように「民主主義的な着想から出発し、その反対物に行き着く」ということである(115)。そして「ホッブズは、主権のあらゆる返還への道を遮断したと考えている。・・・なぜなら、この返還は、人民の存在そのものをなすところの安全と統一性という地位をただちに消滅させるからであると理解されたからである」(115)
  しかしこうしてホッブズが築き上げた「非常に強力なリヴァイアサンは、張り子の虎でもあるのだ」(116)。すなわち「つねに、契約は破られ、また不正義が犯されるかもしれないからである」(115−116)。
  以上がジョームの書物の第一部でなされているホッブズの代表国家思想の読解であるが、ここで、いま一度、ジョームの読解のポイントを以下のように整理しておきたい。
  ((1))  生産的な動物としての人間観。ホッブズにおいては、リヴァイアサンは、人間たちが自らつくりあげるものなのである。
  ((2))  過程としての代表。それは、絶え間ない過程であり、「源泉」から絶えず湧き出る泉のようなものである。
  ((3))  代表国家は、「対症療法」である。すなわち「万人の万人に対する戦争状態」である自然的平等状態における人間の欲望は、変わらないのであり、ただ外から制約されるだけである。
  ((4))  ホッブズにおいては、代表者は、それをつくりあげた人々の名において発言し行為するだけではなく、かれらに取って代るのである。
  ((5))  「主権」や「人民」は、始原的に存在するものではなく、人工的過程の結果にすぎない。
  ((6))  リヴァイアサンは、「張り子の虎」である。
  人と市民、ホッブズにおける「絶対主義」の問題
  本節では、ジョームの書物の第二部でなされている読解を扱うが、ホッブズにおける人と市民という問題に限定して、極簡潔に、それを紹介する。
  アリストテレスにとっては、「公的生活は、人間の性質のすばらしさを示すもの」であるのに対して、「ホッブズにおいては、私生活が重要な部分となる。そしてそれは、公への統合によって与えられる保護の保障を必要とするものである」(135ー136)。すなわち「ホッブズの理想は、もはや善良な市民ではなく、恵まれた個性なのである」(136)。問題は、市民という「人工的部分」と人という「自然的部分」は、どのようにして両立するのかという点にある。それは、『リヴァイアサン』の中の次の二つのテーゼがどうして両立しうるのかという問題である。
  ((1))「どのようなコモンウェルスにおいても、主権は絶対的でなければならない」(訳書二二七)。
  ((2))「すべての権利が譲渡されうるわけではない」(訳書一六二)。
簡単にジョームの読解だけを示しておく。
  「二つの領域」が存在する。すなわち「自然権の動態の延長である人という領域」および「公的領域である。そこでは市民は主権者にしたがう」(142)。そして「主権は、その固有の領域においてのみ無制約なのであり、しかし、全体的な主権ということが、人がリヴァイアサンに完全に体内化されたということ、また市民が人をあますところなく吸収したということであるという意味においては、主権は全体的ではない」(142)。
  つまるところ、「調和のとれた国家・・・においては、市民が人を覆い隠すのである。このことは、市民が人を消滅させる、あるいはさらに市民が人を教育し異文化を受容させるという意味ではない。市民とは、非常に正確に、人のその自然権の人工論的(したがってつねに一時的な)転換にすぎないのである」(144)。したがって、主権者が「安全」を「もはや確保できなくなったり、それを直接に攻撃する段になると、代表と、したがって、主権をつくった契約そのものが非論理的なもの、すなわち無効となる」のであり、「人の自然的自由」が「抵抗権という姿」をとって登場するのである(143)。さらに「法の沈黙」(146)にかかっている「私生活」という領域がある。それは後にフランス人権宣言第五条が表明するような分野であり、「自然権の領域と市民法という公的領域の交差点を表象する領域」である(147)。
  以上を図にすると左のようになる(149)。
  この三角で示された部分が「私生活」の領域であり、「主権者は、私生活の領域を強くも弱くも規制することができるが、しかしそれを完全に規制してしまうことはできないのである」(149)。
(9)  リュシアン・ジョームの結論
  さて以上のようにジョームのホッブズ読解を、不十分ながら紹介してきたが、何故、ジョームは、ホッブズの代表国家思想に注目し、それに徹底的な分析を加えたのだろうか?ジョームは、結論において、当惑するような「逆転」を示す。そしてそれは、今日「民主主義とは何か」を考えるにあたって大変注目に値する「結論」でもある。その「結論」を示す前に、本書の第二部第二章における「代表」についての総括を簡単に紹介しておく。
  ((1))  代表とは何か
  「代表は、我々においては、選挙、そして同時にこの選挙が前提とし、あるいは生み出すような代表者と被代表者の関係であるとされている」(182)が、ホッブズによって回復せられたのは「存在しないものを存在せしめる」ということを内実とする代表概念である(183)。そして、「人民(ないしさらに国民)は、その議会における存在ー不在(pre´sent-absent)と把握される」(184)。「したがって、ホッブズは、次のような共通の観念をとくに強調し、根拠づけたということが確認される。自然人としての人々は、かれらの代表者(一個人ないし合議体)の内に、存在する(人々が代表者を創設する)と同時に存在しない(代表者が人々に取って代る)のである。さらに理性の計略たる諸自然法を客観化することによって、代表者は、代表者に属するところのかれの諸決定によって、人々に属するところのかれらの期待を本当に実現するのである」(184)。そのような「代表は・・・運動であり、連続的な創造なのである」(185)。
  「現実には代表者が、人々があるところのものおよび彼らの関係の反復的に移し替えるだけであるならば、何も解決されないであろう。つまり自然状態の忠実なコピーは、やはり(人工的な)自然状態なのである」(185)。そこから引き出される結論は、「代表は映し出すのではなく、作用を及ぼすのである」(185)、すなわち「代表者の外部で、代表者に『先立って』決定された諸構想を伝達し映し出すのではなく、決定し立法するのは代表者である」(185−186)ということである。「鏡の作用は、むしろ政治的想像力の産物に属する」(186)。
  では「どのように」作用を及ぼすのであろうか。ホッブズの場合、「代表のうちに入ると同時に、自は、((1))自の他との関係の((2))統一された全体における自動生産過程に入るのである」(186)。そしてそのことは、「代表者における主権的統一性への群衆のメタモルフォーズ」であり、「そこではさまざまな意思の全部が、唯一の意思ないし多数者の意思に還元されるのである」(創設の過程の第一段階)。そしてまた「主権者の権威による、市民の全体としての人民への群衆のメタモルフォーズが存在する」(創設の過程の第二段階)(189)のである。
  そのような意味で「存在しないもの」すなわち「統一的意思」や「人民」を「存在せしめる」という代表概念をホッブズはつくったのだとジョームは読解してきたのである。そしてホッブズの「この理論の主たる利益は、諸個人という単位から出発して、代表の側面を生み出すことであると思われる。少なくとも一瞥したところでは、これは、まさしく、近代性の観点であり、またそれは、今日なお我々のものであり続けているのである」(189)。この文章から明らかなようにジョームは、そのようなホッブズの代表概念に、なお我々が囚われていることを示唆している。
  ((2))  民主主義とは何か
  それに対してジョームは、そのような「統一性」や「人民」の概念に囚われない民主主義のあるべき姿を以下のように提起するのである。
  「一」と「多」、「自」と「他」は、どのようにして和解しうるのか? あるいは「多」はどのようにして「一」をつくりうるのか、また「自」はどのようにして「他」をつくりうるのか? 言い換えるならば「どのようにして好戦的な個人主義は、平和な秩序、保障される私的個性および規則に則った市民性のために、自らを修正しうるのか、と理論家は自問せざるをえなかったのである。しかし、そうであるからこそ、個人主義を救済するのは、人間の生産的な資質であり、ホッブズによって明らかにされた実践的人工論なのである」(226)。
  これは、ジョームが、「なお我々のものであり続けている」と述べているホッブズの代表理論である。それに対してジョームは、次のように述べ、観点の転換の糸口とする。
  すなわち、「そうして国家は出現するのであるが、しかしだからといって何も決定的なものはないのである。神殿の円柱はぐらつくかもしれない。人間たちは、政治的代表というこの『生産過程』を中止するかもしれない。『多』への回帰が突発するかもしれないのである。なぜなら、社会と権力とが人間を髪の毛から爪先までくまなくすっかり変えたと信じるのは気違い沙汰だからである、つまり、諸個人の違法な諸行為において、そして様々な幻想において、始原的な暴力が徘徊しているのである。また政治は・・・直接的に『情念の管理』であるわけではなく、情念が(そこに満足するかぎり)私的領域において十分に満足せられるための、公的領域における諸条件の管理なのである」(227)。
  しかし「『多』の『一』への変換は、経験的に実在する民主主義においては、それがマームズベリーの理論家〔ホッブズ・引用者注記)において獲得するような強迫的な力を持つものではない・・・実際、この理論家は、たとえば、政治的論議の多元性を内戦の兆候と見做していた。反対に、かかる強迫観念が民主主義において現われるならば、民主主義は、歪められ、冒険へと移行する」(228)。
  このようにしてジョームは、「多」の「一」への変換、すなわち群衆の人民への、あるいは人の市民への人工論的メタモルフォーズをホッブスの「強迫観念」であるとし、現在に生きる私たちが、そのような宗教的内戦の時代の産物である「強迫観念」に囚われる必要はなく、むしろそのような「強迫観念」に囚われるならば、今日の民主主義は破壊されるだろうと述べているのである。それでは、今日においてジョームの考える民主主義とは何であろうか?ジョームは、「選挙という行為」が今日においていかなる意味を持っているのかを明らかにすることにより、その問題に答える。
  すなわち、今日、基本的問題は次の点にある。すなわち「選挙によって我々が『つくり』、またその諸決定によって我々を拘束する権力は、なお我々なのであり・・・人および市民としての我々自身の延長なのであるというのは本当に正しいのであろうか?」あるいは「我々は、効果的に、つまり完全な合理性の観点からみて、民主主義的権力のうちに代表されている(存在せしめられている)のかどうかを確認すること」(229)である。
  ジョームは問う。「『承認』でも『生産』でもないのであれば、それでは、選挙行為の時に、自分のためにつくるとされるこの絆は何なのであろうか?」(229)
  ジョームが、民主主義とは何かという問題に答えるにあたって重要視するのは代表者と被代表者との選挙によって作られる「絆」なのではなく、次のような観点である。
  本当は、「厳格な意味における選挙行為」を考えるには、別の観点が必要だろう。すなわち「この作業は、統一性ではなく、より正確には多数者をつくりだすことを目的としているのである。また多数者は、不安定で変更可能なものである。そして最後に、多数者は、憲法で定められた期間により、つねに一時的なのものである」(230)。
  すなわち、ここでジョームは、今日においては、選挙は、代表者における統一的意思をつくるために存するのではなくて、一時的で、不安的な多数者をつくるという意味しか持たないというのである。その意味では、今日の選挙は、統一性をつくることよりも動態的な多様性とでも言うべきものの上に成り立っていると言える。
  「ここでは『一』における『多』への回帰が観察されるのであり、またこれは、民主主義の副次的ないし消極的な要素であるどころか、むしろ積極的であるとともに主要な点なのである。事実、ここで統一性の保持者であるのは・・・代表制度なのである。反対に民主主義の生命をなすのは、制度の内実の変動の場である。そのように、民主主義は、制度の占有者の任命をめぐる論争と競争を行いつつ(民主主義の運動と生命をなす多様性)、制度の実在および尊重(統一性の要件の保障であるもの)と調和しうるのである」(230−231)。
  「制度の実在および尊重」=「統一性の要件」という「一」のうちに、「論争と競争」=「民主主義の生命をなす多様性」という「多」が観察されるとジョームは、いうのである。
  「統一性の保持者」としての「代表制度」が「統一性の要件」であるとすることによって、ジョームは、「統一性」を「強迫観念」的ではないものとし、むしろその制度の内側での活発な「多様性」こそが「民主主義の生命」をなすものであるというのである。ジョームは「統一性」を、この「民主主義の生命」をその中に入れるべき「容器」のようなものとして把握していると理解してよいであろう。
  結論。「このようなわけで、イギリスの理論家には気に入らないことであろうが、代表民主主義は、統一性への還元を妨げるものによって生きる(また時には、強まる)のであると思われる。つまりそれは、豊かである『多』に扉を開いた討論や対立であったり、あるいはまた、ひとつの社会の表現とは決してみなされえない、一切の議員の多数者の(ないし一切の大統領の)一時的性質である」(231−232)。
  ひとりの人物、一つの政党、あるいは多数者の決定などを、決して、それ自体として「ひとつの社会の表現」と見做すことは、もはやできないのである。おそらくジョームにとっては、「ひとつの社会の表現」ということ自体が、排斥されるべき「強迫観念」なのである。
  以上、リュシアン・ジョームのホッブズ代表国家思想の研究を紹介してきた。この不十分な紹介から、現代フランスを代表する政治・憲法思想学者のひとりでありながら、わが国ではほとんど紹介されてないジョームの研究の一端、そして彼国における代表制研究の一端を、多少とも理解していただければ幸いである。本格的な、ジョームについての研究・紹介作業は、他日を期する他はないが、本書を読みつつ、私なりに示唆を受けたことを前提に、次に、国民代表制論の、今後のありうべき方向性を試論的に提起してみたい。


三、半代表「制」と半代表の論理
  「統一性」が、今日の民主主義において「強迫観念」ではないのかどうか。それは、おそらくこれから検討されなければならない問題である。
  「強迫観念」ではないとして、それでは、今日において「統一性」とは、代表制というシステムの枠組みのことにすぎないのかどうか。すなわち「理性」であるとか、「社会的同質性」であるとか、「実存する人民」であるとかされてきた一般意思は、今日では、内容空虚な「容器」、そのなかに多様性が注ぎ込まれるべき「容器」なのかどうか。今日ににおいて「統一性の保持者は・・・代表制度なのである」というジョームの主張は、そのように考えるべきであることを示唆している。ここでジョームは、明らかにクロード・ルフォールの民主主義論を念頭に置いている(ジョーム自身、少し前の部分で引用している。196)。ルフォールによれば、権力の場が「空虚」であることが民主主義なのである(1)
  憲法学上、このような議論は、どのように受け取るべきであろうか?  以下、試論的に、ひとつの枠組みを提起してみたい。
  まずは、半代表「制」というシステムと半代表の論理とを区別するべきである。そして第一に、システムとしての半代表「制」にあっては、「一般意思」とは、あれこれの属性・内容を備えたものではなく、多様性を注ぎ込むべき「容器」にすぎない。この場合、「容器」として議会制度だけが考えられるべきではなく、第一の、そして主たる「容器」からこぼれ落ちた部分をフォローする「違憲審査制」をも第二の「容器」として把握し、それらの全体が「統一性」の「保持者」であると理解する。
  ただ、この場合に統一性をどう理解するのかが問題である。それは結局、「憲法が保障する権利」がこの「容器」によって保障されている限りにおいて人は、「自分が代表されている」と感じ、「ひとつの全体への私の帰属意識」(110)を持った「市民」となるのだろうか。この点は、なお検討を深めねばならない。しかし、この観点から、脈絡は異なるが、奥平康弘教授が、「語弊はあるがあえて言えば、『人権』というものは野性味ゆたかで生きのいいじゃじゃ馬みたいなものである。これを人々が憲法的秩序に適合するように飼い馴らすことによって、『人権』は『憲法が保障する権利』となる(2)」として、「憲法が保障する権利」と「人権」とを区別して論じていることは興味深い。奥平教授の学説の誤解ではないかと自問しつつ、あえて、次のように考えてみる必要があると思う。
  「各人の各人にたいする戦争状態」を生み出す危険のある「人権」が代表国家過程を媒介にして「憲法が保障する権利」となる。そうであるとすると、今日なおわたしたちは「人権」を「飼い馴らす」という「強迫観念」に囚われて、自ら代表国家をつくりつづけているのであろうか?そうであるとすると、実は、半代表「制」という「容器」の外延を画するのは、「憲法が保障する権利」ということになり、またしても「容器」から「内実」へという方向転換が現われる。そして「憲法が保障する権利」の主体としての(代表国家によってつくられた)市民と「人権」の主体としての人との主体の別も問題になりうる。
  ここのところをさらに検討してみる必要があろう。
  それは今後の課題とし、さしあたり半代表「制」=「容器」と把握した上で、第二に、半代表の論理とは何か。それは、多様性そのものの主張であり、制度ではなく、半代表「制」という「容器」に注ぎ込まれるものである。それは、民主主義の「生命」をなすものであるが、決して「制度」ではない。むしろ制度外的な、抵抗の論理、強迫観念的な統一性の主張に抵抗する論理なのである。
  抵抗の論理であるかぎり、半代表の論理の主体は「人」である。「抵抗権という姿」をとって登場するのは「人の自然的自由」なのである(143)。
  しかし、半代表「制」もまた、異様な形態ではあれ、二段階的な仕方で、統一性を実現し、国民を「統合」するという意味では、やはり「代表制」の一類型なのだろう。
  そこでは、なにがしかの「作用」が働いているはずである。なぜなら、ジョームが言うように、「現実には、代表者は、人々があるところのものおよび彼らの関係を反復的に移し替えるだけであるならば、何も解決されないであろう。つまり自然状態の忠実なコピーは、やはり(人工的な)自然状態なのである」(185)から。それとも半代表「制」は、(人工的な)自然状態において、一切を解決しているのだろうか?私には、必ずしも、そうは思われないし、それが、ある種の代表制である以上、かならずやシュミットのいう「代表の契機」、すなわち「統治し」・「支配する」という契機が含まれているはずなのであると思う。それは、以前に発表した拙稿でも論じたとおり、多数決・妥協・調整・討論などの議会の議場における代表性の貫徹の問題(3)であるが、なお今後、先に述べた「人権」と「憲法が保障する権利」との区別の問題を射程に入れて検討を続けていく次第である。


終 わ り に
  統一性から、その内容を抜きさり、枠組みとしてしまうことによって、ジョームが狙っているのは、おそらく、「市民」に解消しえない「人」=「私」民社会の多様性を確保しうるような代表制論であり、それは、共和主義的発想とは、明らかに、一線を画するものである。
  前国家的な「人権」の存在を前提にした(その意味で近代的な)「戦後日本の憲法学のパラダイム(4)」を維持するのであれば、「統治し」・「支配し」・「統一する」という意味における国家における「代表」とは区別された、前国家的な、あるいは国家に対抗的な「私」民社会における多様性の「反映」としての「代表」の論理(「半代表の論理」)が析出されるべきではないのか?
  最後にルソーの言葉を引用して、筆を置こう。
  「民主政もしくは人民政治ほど、内乱・紛争の起こりやすい政治はないということをつけ加えておこう。というのは、民主政ほど、烈しくしかもたえず政体が変わりやすいものはなく、その存続のために警戒と勇気とが要求されるものはないからである。とくにこの政体においては、市民は実力と忍耐とをもって武装し、ある有徳な知事がポーランドの議会でいった言葉をその生涯を通じて、毎日心の底から叫ばねばならぬ。『わたしはドレイの平和よりも危険な自由を選ぶ』と(5)」。

(1)  クロード・ルフォール、本郷均訳「民主主義という問題」現代思想一九九五年一一月号四八頁。ルフォールの民主主義論については、この現代思想の特集「民主主義という問題」の他に佐々木允臣『もう一つの人権論』一九九五年を参照。
(2)  奥平康弘『憲法III憲法が保障する権利』一九九三年二〇−二一頁。
(3)  前掲・拙稿
(4)  松井茂記「国民主権原理と憲法学」岩波講座・社会科学の方法Y一九九三年を参照。周知のとおり、松井教授は、そのような「戦後日本の憲法学のパラダイム」の「特異性」を批判している。
(5)  ジャン・ジャック・ルソー、桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』九七頁。