立命館法学  一九九六年二号(二四六号)




◇論  説◇
自己危殆化への関与と
合意による他者危殆化について
(一)


塩谷 毅






目    次




はじめに  ---問題の所在
    公法的な性格を有する刑法において、一定の被害者態度が行為者の犯罪成立の妨げになりうるということは、今日犯罪論上の様々な場面で認められている。例えば、「被害者の承諾」と呼ばれる犯罪阻却事由(1)は、被害者の個人的な法益処分意思がそれのみで行為者の刑法的不法を遮断する場合であり、またいわゆる過失犯における「信頼の原則」は、主に道路交通事例などにおいて、被害者が(2)適切な行動をとることを信頼するのが相当な場合には、たとえその者の不適切な行動によって結果が発生しても行為者の刑法的答責性を問わなくてよいとする理論である。
  そのような犯罪阻却的効果を有する被害者態度のうちで、「自己危殆化への関与」および「合意による他者危殆化」とよばれる一連の問題状況が、近年ドイツの判例及び学説において興味深い展開を示している。また、この問題は、従来、「過失犯における被害者の同意(3)」であるとか「危険引き受け」(Risikou¨bernahme(4))、あるいは「自己危険に基づく行為」(Handeln auf eigene Gefahr(5))などの概念でも説明されてきたものである。それは以下のように定式化できよう。
  「被害者が自己の法益を危険にさらす行為を行い、それに関与した者が存在し、法益侵害結果ないしその危険が発生した場合、その関与者は刑法上いかなる責任を問われるべきであろうか。あるいは、他人(行為者)の危険行為の実行によって自己の法益に危険が生じることを認識して法益主体(被害者)がその行為の実行を許し、それによって法益侵害結果ないしその危険が発生した場合、行為者は処罰されるべきなのだろうか。」
  このような問題状況の特色は、以下の点に求めることができる。
  (A)  不法結果の発生は、行為者(関与者)と被害者の不注意な態度の相互作用による共同惹起であると見なされうること。
  (B)  その際、行為者(関与者)においても被害者においても、決して結果発生を望んだのではなくて、むしろ、結果の不発生が信じられ、期待されていたこと。
  (C)  従って、被害者が「過失的に」結果発生に関与することがここでの問題状況の特色である(6)。また、行為者(関与者)も主に「過失犯」としての可罰性が問題となる。
そして、それは具体的には以下のような場合に問題になるとされている。
  ((1))  嵐の日に無理に渡河すれば生命に危険が生じることを認識して乗客が渡河を要求し、それに従って渡し守は渡河を試みたのだが、途中で転覆し、乗客を溺死させてしまった場合。
  ((2))  飲酒のため操縦不能状態になっている被害者が、友人にオートバイ競争をしようと持ちかけ、競争の最中に友人に追い越されまいとジグザグ運転をし、事故を起こし死亡するに至った場合。
  ((3))  被害者(同乗者)は、飲酒のため操縦不能状態になっている運転手に家まで送ってくれるよう要求し、車に同乗したのだが、途中で事故にあい同乗者が死亡又は傷害を負ったような場合。
  ((4))  同じく飲酒運転の運転手の車に同乗し、事故にあって同乗者が負傷したのだが、それは運転手の方から同乗するよう誘ったような場合。
  ((5))  麻薬常用者にヘロインなどの麻薬を譲渡し、その麻薬常用者が自分の手で麻薬を注射することによって死亡した場合。
  ((6))  麻薬常用者に麻薬を譲渡するだけではなく、彼が自分の手で注射することができないので、麻薬密売人が注射もしてやり、その麻薬常用者の死が引き起こされたような場合。
  ((7))  エイズに感染している者が、自分の恋人に感染の事実と危険を告げ、恋人の承諾を得て避妊具を装着せずに、性交を行い、感染させてしまったような場合。
  ((8))  ボクシング、プロレスなどの格闘技スポーツにおいて、一方の選手が死亡又は重大な傷害を負った場合。
  ((9))  スポーツ選手が筋力増強などの目的で、ドーピングを行い、それがもとで彼に重大な健康障害が発生した場合。
  なお、ここでは、具体例として特に生命法益及び身体法益への侵害が問題となる状況のみを取り上げたが、もとより不法結果の発生に対して被害者の慎重さを欠いた態度が影響を与える事例は、背任罪や詐欺罪などのような財産犯罪に関しても生じうる(7)。しかし、それは別稿の課題とし、本稿は生命・身体に対する罪に関連する事例のみを対象として、主にドイツの判例及び学説を参考にしながら検討を加えるものである。
    「自己危殆化」と「他者危殆化」を区別する基準としては諸説がある(8)が、本稿では「他の行為の媒介なしに、直接結果発生に導いた時間的最終行為」を行った者が被害者であったのか行為者であったのかに従い、「自己危殆化」と「他者危殆化」を区別する(9)。「直接手を下したのはどちらであるか」による区別である。例えば前述の事例でいえば、((2))や((5))のような場合が「自己危殆化」の事例であり、それ以外が「他者危殆化」の事例である。
  「他者危殆化」の事例においては、行為者が結果発生を導く行為を直接行うので、第一に彼に結果が帰属すると推定される。しかし、「自己危殆化」事例においては、結果の発生に対して被害者行為の方が行為者行為より身近にあるので(10)、結果の行為者(関与者)行為への帰属、特に正犯的答責性の帰属は他者危殆化の場合とは異なり明確ではない。
  しかし、いずれにせよ、被害者の慎重さを欠く態度が「自己危殆化」あるいは「他者危殆化に対する危険の引き受け(合意)」のいずれと見なされるのかが、行為者の可罰性の判断に対して決定的なのではないであろう。自己危殆化に属する事例においても行為者(関与者)の処罰に賛成すべき場合もあれば、他者危殆化においても被害者態度によって行為者の不可罰を帰結すべき場合もある。結論を先取りすれば、筆者は行為者の可罰性の判断にとっては、いずれの事例においても、被害者の慎重さを欠く態度の「自己答責性」に着目すべきであると考えている。しばしば多義的な「自己答責」概念の明確化は、第五章において行われる。
  なお、ドイツとの比較法的な観点からこの問題を考察しようとするとき、以下のことに注意する必要がある。
  ドイツでは、刑法二一六条に要求による殺人が規定されているが、自殺関与(故意的な自殺への故意的教唆・幇助)は不可罰とされている。そのため、自己危殆化に関してしばしば主張される「自殺への関与が不可罰であるなら、自己危殆化への関与も不可罰である」という論証連鎖は、我が国においては刑法二〇二条において自殺関与も可罰的とされているために、そのまま用いることはできないのである。
    さて前述したように、本稿で扱われる問題状況は、ドイツでは従来判例及び学説において、いわゆる「被害者の承諾」という論点のもとで有力に論じられてきた(11)。しかし、「被害者の承諾」の問題状況の特色としては、被害者は自己の意思によって自己の法益を処分し、行為者の法益侵害を承認しているのである。その点で、被害者は行為者行為が危険であることは認識しているが、結果の不発生を期待しているような本稿で扱う問題状況とは異なっている。言い換えるならば、「被害者の承諾」においては、被害者が自己の法益が侵害され結果が発生することを承認しているので、被害者は不法結果発生に対して「積極的な」意思を有している。これに対して、本稿での問題状況においては、被害者は確かに慎重さを欠く態度をとり、それが危険な行為者行為の実行と不法結果の発生に関係しているが、被害者態度はあくまで結果の発生に対して「消極的」なものにとどまっている。それ故、このような「消極的」な被害者態度からは、不法結果の発生は被害者が唯一責任を負うべきものであって、それに関与した行為者は被害者の態度によって犯罪成立が阻却されるという結論を、疑いもなく導くことはできないのである。
    そこで、本稿での問題状況の適切な解決のために、「被害者の承諾」論以外の理論構成が試みられることになる。ドイツにおいては、判例・学説において、従来より様々な理論構成が提案されてきた。
  たとえば、BGHは「喧嘩闘争事件(12)」において、「義務違反性欠落の理論」とも呼ばれる以下のテーゼを定式化した。「特別の前提のもとで、誰かがある一定の危険を明確に認識して甘受し、行為者が一般的な注意義務を満たした場合には、態度の義務違反性は否定されうる(13)」。このテーゼはその後の道路交通における違法態度が問題となった諸判決(14)に受け継がれ、学説においても被害者の危険の引き受けでもって行為者の「義務違反性が欠落又は減退」することを説く者がある(15)
  また、ツィップは「刑法における同意と危険引き受け(16)」において、これらの問題についても考察を行った。彼は、「危険引き受け」の法的取り扱いについて、「社会的相当性」による解決を試みた。
  「刑罰構成要件において捕捉される危殆化結果もしくは侵害結果を惹起する行為は、それが制定法のもとにおかれている要求(たとえば、交通適合的な態度)にふさわしいものであれば、法適合的であり、刑法的に重要な結果への因果性にもかかわらず、構成要件該当性が阻却されるのである。・・・同様なことは、社会的に相当な危険行為に対しても妥当する。たとえ、それが個別事例において刑罰加重結果に対して因果的であったとしてもである(17)」。
  さらに、近年においては「客観的帰属論」の枠内で問題解決を図る立場が有力であり、また、「被害者の自己答責性原則」の思想も、この「自己危殆化」領域においてもっとも有力に展開されてきているのである。
    我が国において、本稿で扱う問題状況を直接の題材とした先駆的業績としては、山中教授の「過失犯における被害者の同意−その序論的考察(18)−」と荒川教授の「過失犯における被害者の同意に関する一考察−生命・身体犯を中心として(19)−」がある。しかし、それらの論文が公表されてから、すでに一〇年以上の歳月が経過しており、その間にドイツにおいて、実務上は一連の「麻薬事例」や「エイズ感染事件」などの重要な判例が相次いで出され、また学説においても、それを受けて従来からの「被害者の承諾論」や「客観的注意義務論」以外に「被害者学的原則(20)」や「被害者の自己答責性原則(21)」と呼ばれる重要な法思想が、この問題に密接に関連して主張されるようになってきている。
  また、我が国においても、近年「被害者の落度」が結果発生に関係した事案の重要な最高裁判例が出ている。
  「柔道整復師事件(22)」では、医師資格のない柔道整復師が風邪の誤った治療方法を患者に指示し、患者がこれに忠実に従ったため病状が悪化の一途をたどり、脱水症状を起こしてついには死亡するに至った。ここで最高裁は被害者側に「医師の診察治療を受けることなく被告人だけに依存した落ち度」があったことは否定できないとしながらも、なお被告人の行為と被害者の死亡との間に刑法上の因果関係はあるとした。
  また、「夜間潜水訓練事件(23)」では、海中における夜間潜水の講習指導中に、潜水指導者が不用意に受講生のそばを離れこれを見失い、受講生が圧縮空気タンク内の空気を使い果たして溺死した。ここで、最高裁は「被告人を見失った後の指導補助者及び被害者に適切を欠く行動があった」ことは否定できないとしながらも、それは被告人の行為から誘発されたものであって、やはり被告人の行為と被害者の死亡との間に刑法上の因果関係を肯定している。
  本稿における「被害者の自己危殆化」態度に関する考察は、特に「被害者態度が行為者の犯罪成立に与える意味」というパースペクティブから、以上のような問題の解決にも一定の示唆を与えるであろうと思われる。
  以下では、まず第一章において、ドイツにおけるBGH判例を中心にした事例状況の整理を行い、その類型的な着眼点を示すことを試みる。それをふまえて第二章から第五章まで、ドイツにおける近年の学説を中心に、「被害者の承諾論」「客観的帰属論」「被害者学的原則」「被害者の自己答責性原則」のそれぞれのアプローチを検討し、最後に「被害者の自己答責性原則」を重視する立場から、私見を整理する。


(1)  いわゆる「被害者の承諾」が構成要件該当性阻却事由であるのか違法性阻却事由であるのかは争いがあるところであり、構成要件該当性阻却を Einversta¨ndnis(合意)、違法性阻却を Einwilligung(同意)と呼んで区別する見解も有力である。これについては、以下の文献を参照。井上祐司「被害者の同意」『刑法講座第二巻』一六〇頁以下、宮野彬「被害者の承諾」『現代刑法講座第三巻』一〇九頁以下、山中敬一「被害者の同意における意思の欠缺」関大法学論集第三三巻三・四・五合併号二七五頁以下。なお、ドイツにおける重要な文献として、Friedrich Geerds, Einwilligung und Einversta¨ndnis des Verletzten im Strafrecht, GA 1954, S. 262ff.  本稿では「被害者の承諾」の体系的位置づけを探ることを直接の課題とするものではないので、ここでは被害者の「承諾」、「犯罪」阻却事由という名称を用いた。なお、第二章「被害者の承諾論」によるアプローチを参照。
(2)  もとより、この理論において不適切な行動をとる主体としては被害者以外に第三者であってもよい。
(3)  山中敬一「過失犯における被害者の同意−その序論的考察−」『平場安治博士還暦祝賀・現代の刑事法学(上)』(一九七七)三三二頁以下、荒川雅行「過失犯における被害者の同意に関する一考察−生命・身体犯を中心として−」法と政治三三巻二号(一九八二)九七頁以下。
(4)  Heinz Zipf, Einwilligung und Risikou¨bernahme im Strafrecht, 1970.
(5)  Hans Stoll, Das Handeln auf eigene Gefahr, 1961.  なお、その紹介として、前田達明「Hans Stoll 著、自己危険に基づく行為」法学論叢八五巻四号六八頁以下。
(6)  従って、筆者の立場からは、「自殺」のような被害者の「意識的自己侵害」態度は本稿で扱う「自己危殆化」とは区別される。これについては、以下の文献を参照。Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 32, 49.  ただし、「自己危殆化」概念の定義によっては、故意的な「自殺」も「自己危殆化」とされることがあり得る。山中教授は、「危険実現連関」において、危険実現を否定する類型の一つとして「被害者の意識的自己危殆化行為の介在する場合」を挙げ、その例として、被害者の輸血の拒否、「御神水」を塗った場合のほかに「被害者が自殺した場合」を挙げている。浅田ほか『刑法総論』(一九九三)七七頁。
(7)  Ulrich Weber, Objective Grenzen der Strafbefreienden Einwilliung in Lebens-und Gesundheitsgefa¨hrdungen, in Festschrift fu¨r Ju¨rgen Baumann zum 70. Geburtstag, 1992, S. 43.
(8)  たとえば、デリングは「行為支配」が被害者と行為者のどちらにあるかによって自己危殆化と他者危殆化を区別する。Dieter Do¨lling, Fahrla¨ssige To¨tung bei Selbstgefa¨hrdung des Opfers, GA 1984, S. 79.
(9)  後述するように、オットーは時間的最終行為によるこの区別を、「もしこの行為に照準を合わせるならば、ただ時間的な結論のみが決定的であるとされ、これに対して、事象の不法内容がおろそかにされてしまうことになる」と批判している。第三章「客観的帰属論」によるアプローチ第二節ハロー・オットーの見解を参照。
(10)  たとえば、麻薬事例におけるような行為者行為(麻薬密売人の麻薬譲渡行為)と被害者行為(麻薬の自己使用行為)の関係、すなわち前者が後者より時間的に先行する自己危殆化の場合は、「(因果関係の)狭義の相当性」や「危険実現連関」での「行為者行為後の被害者行為の介入」の事例である。しかし、危険なオートバイ競争事例のような自己危殆化においては、「被害者の事故を引き起こした運転行為」と「行為者の競争行為(関与行為)」とは時間的に同時的である。
(11)  詳細は第二章「被害者の承諾論」によるアプローチを参照。
(12)  BGHSt 4, 88. Urteil vom 22. 1. 1953.  本件は以下のような事例である。本件での被害者は、ほろ酔いの状態で被告人に喧嘩を売り、それが拒絶されると臆病者といって被告人を挑発した。そこで、被告人は被害者の頭部に拳骨を食らわせ、被害者は脳内出血によって死亡した。BGHは、「被害者の承諾」による正当化を否定した上で、「義務違反欠落の理論」を述べ、本件においては、被害者が被告人に喧嘩を売ったという事実が被告人の一般的な注意義務を変更するのではないとされた。
(13)  BGHSt 4, 89.
(14)  BGHSt 6, 232. 及び、BGHSt 7, 112.  第一章第三節を参照。
(15)  Klaus Geppert, Rechtfertigende Einwilligung des verletzten Mitfahrers bei Fahrla¨ssigkeitsstraftaten im Straβenverkehr, ZStW 83, 1971, S. 993f.
(16)  特に Zipf, a. a. O. (4), S. 64ff. を参照。
(17)  Zipf, a. a. O. (4), S. 81.
(18)  山中敬一・前掲論文(3)
(19)  荒川雅行・前掲論文(3)
(20)  第四章「被害者学的原則」によるアプローチを参照。
(21)  第五章「被害者の自己答責性原則」によるアプローチを参照。
(22)  最決昭和六三年五月一一日刑集四二巻五号八〇七頁
(23)  最決平成四年一二月一七日刑集四六巻九号六八三頁



第一章  ドイツにおける事例状況の整理
第一節  総    説
    まず、考察の第一歩として、本章では問題となる諸事例を関連法規やその他の特徴に従って整理し、概観する。ここでは特に、ドイツにおける自己危殆化への関与及び合意による他者危殆化の諸判例を参考にする(1)。ドイツにおいては、これらの諸事例を類型化する様々な試みが為されている。
  例えば、ライナー・ツァツィクは、((1))メーメル河事件((2))エイズ感染事件((3))飲酒運転への共犯((4))麻薬譲渡における他者答責、の四つに事例状況を分類し、それぞれについて「被害者の自己答責性」の観点から可罰性を論じている(2)
  また、ウルリッヒ・ウェーバーは、行為の制定法的禁止の有無や行為によって追求された目的の正当性などによって、以下のように類型化を試みる(3)
  ((1))  関与者が危険な態度でもって高く評価しうる目的を追求する事例。医師による手術など。
  ((2))  関与者が、積極的に評価されうる目的を追求するのではないが、明言された危殆化禁止に違反するのでもない行為態様。メーメル河事件など(4)
  ((3))  一般の利益保護の観点から危険な行為が制定法的に禁止されている行為態様その一。道路交通における違法態度から生じる危険に対する同意が問題になる場合。
  ((4))  一般の利益保護の観点から危険な行為が制定法的に禁止されている行為態様その二。麻薬の使用と結合した危険に対する同意が問題になる場合。
  ((5))  危険を招くことは確かに未だ国家の法によっては禁止されていないが、しかし団体の内規によって禁止されている場合。高度の能力を要求する競技スポーツにおけるドーピング。
  ((6))  危険行為を禁止する制定法が存在しないにも関わらず、良俗違反性の評価を考慮される場合。エイズ事例。
以上のように分類し、同意の良俗違反性を重視し、「被害者の同意の有効性」から検討を加えている。
    これらを参考にしながら、私は本稿において問題状況を大きく三つに分類し、それぞれの問題の着眼点を示すことを試みる。
  まず、一つ目の類型としては、「その危険行為の実行が制定法によって禁止されていない合意による他者危殆化の事例」が挙げられる。後述するように、飲酒運転への好意同乗や麻薬の自己使用が問題となった事例においては、「飲酒運転行為」「(連邦保険庁によって許可されていない)麻薬譲渡行為」そのものが制定法的に禁止されている。ところが、ここで問題にするメーメル河事件、エイズ感染事件においては、「嵐の日に渡河を試みる行為」「エイズ感染者が性交する行為」自体が制定法的に禁止されていたわけではない。しかも、この両者は、筆者の自己危殆化と他者危殆化の区別基準に従えば、いずれも他者危殆化の事例である(5)
  次に、「道路交通における違法態度事例」が挙げられる。ここでは、飲酒運転への好意同乗や一般道路での危険なオートバイ競争などの諸事例が問題となる。「飲酒運転行為」自体が、ドイツでは刑法三一五条cや三一六条によって、我が国でも道路交通法六五条一項や同法一一七条の二によって、禁止されている。ここでは「道路交通の安全」という公共の法益が問題となるので、そもそも個人は自己の生命・身体に対する有効な処分は為し得ないのではないかという問題性が考慮される。
  最後に、「麻薬事例」が挙げられる。被害者である麻薬中毒者に麻薬密売人が麻薬を譲渡し、麻薬中毒者がそれを自己に注射することによって彼の死が引き起こされた場合、麻薬密売人の責任は麻薬譲渡に尽きているのであろうか、それとも被害者の死に対してまで彼の責任は及ぶのであろうか。後述するように、我が国においては、過失致死罪の法定刑が麻薬関連諸法のそれより軽いために、この類型はほとんど問題とならない。しかし、ドイツにおいては、前者の法定刑が重いために、この類型がしばしば問題となっているのである。


(1)  ドイツにおける諸判例の類型化及び評価については、特に以下の文献を参照。Ralf - Peter Fiedler, Zur Strafbarkeit der einversta¨ndlichen Fremdgefa¨hrdung, 1990, S. 9ff., Susanne Walther, Eigenverantwortlichkeit und strafrechtliche Zurechnung, 1991, S. 8ff.
(2)  Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 58ff.
(3)  Ulrich Weber, Objective Grenzen der Strafbefreienden Einwilligung in Lebens und Gesundheitsgefa¨hrdungen, in Festschrift fu¨r Ju¨rgen Baumann zum 70. Geburtstag, 1992, S. 43f.
(4)  ウェーバーによれば、我が国の「板東三津五郎ふぐ中毒死事件(刑集三四巻三号一四九頁)」もこの種の事案であるという。Weber, a. a. O. (3), S. 44.
(5)  むろん、異なった限界基準によれば、両判例は「自己危殆化」の事例であるとも言いうる。事実、「エイズ感染事件」において、裁判所は「自己答責的に望まれた自己危殆化への関与」であるという評価を行ったのである。

第二節  メーメル河事件とエイズ感染事件
    本節では、その危険行為の実行が制定法的に禁止されていない合意による他者危殆化の事例を扱う。ここでは特に、有名なメーメル河事件とエイズ感染事件が挙げられる。ウェーバー流に言えば、前者は「目的中立的な」危険引き受けの場合であり(1)、後者は「それを禁止する制定法的禁止が全く存在しないにもかかわらず、公序良俗違反性を考慮される」事例である(2)。まずメーメル河事件からみていこう。
    「メーメル河事件」(RG Urteil vom 3. 1. 1923(3)
  被告人である渡し守は、嵐で増水しており渡河すれば生命に危険のある状況において、渡河を望む二人の乗客の懇請を受け入れ、小舟でメーメル河を渡河することを試みた。渡し守は、このような天候での渡河の危険性を予見し、あらかじめ二人の乗客に、渡河すれば生命に危険があると印象的に指摘していた。渡し守の試みは失敗し、小舟は高波を受けて転覆し、二人の乗客は溺死して渡し守だけが助かった。彼は過失致死罪に問われた。
  RGは、被告人を過失致死の非難から開放し、無罪を言い渡した。
  まず、生命に危険な行為はそれ自体義務違反的なものであるか否かにつき、以下のように述べて否定した。
    「危険な行為の実行は、すでにそれ自体、それに内在する危険性だけの故に義務違反性を含むわけではない。むしろ、その行為は、状況によっては義務適合的であり得るのである(4)」。
  次に、渡し守は人間的共同生活によって一般的に要求される二人の乗客の健康及び生命への配慮を欠いていたのか、つまり彼の行為は義務違反的なものであったのかということについても、以下のことを指摘し否定した。
  二人の乗客はともに、意図された渡河の危険性を被告人と同程度正確に見通していた成人であった。被告人に二人の乗客に対する特別な監督もしくは注意を義務づける事実は認められない。被告人は渡航の企ての危険性について乗客を欺いたわけではなく、軽率な思い上がりから自己の個人的な利益のために彼らの申し出に従ったわけでもない(5)
  結局、被告人は義務違反的に行為したのではなかったのである。
    本件では、「被害者の承諾」の法理への直接の言及は為されず、もっぱら義務違反性の検討が為されている。
  嵐の日に渡河を試みることは、転覆の危険がある行為であり、被告人も被害者もそのことは十分認識していた。もし、制定法的に嵐の中での渡河が禁止されていたならば、本件における判断も異なったものとなり得たかもしれない。
  また、本件においては、被害者である乗客がなぜ嵐の日に危険な渡河を要求したのかは特に言及されていない。論者によっては、乗客の渡河の目的という主観的な事情を重視する者もいる。たとえば、デリングは(6)、被害者の承諾の有効性に対して、承諾の目的性を重視し、「危篤状態の父親に別れを告げるために」渡河を要求した場合には、被害者の承諾が正当化事由として認められ、処罰されないとしている。
    メーメル河事件において、渡河を試みた渡し守の行為が良俗違反であるとの主張は聞かれないが、エイズ感染事件においては、検察官によって、行為の良俗違反性を根拠に被害者の同意は無効であると主張された。
    「エイズ感染事件」(Urteil des BayObLG vom 15. 9. 1989(7)
  被告人は、一九八五年の終わりから一九八六年のはじめの頃、彼のホームドクターから自分がエイズに感染していると聞かされた。ホームドクターは、エイズ発病の可能性、発病の結末、成功を期待できる治療が欠如していること、及びとりわけ性交を行った際の感染可能性について、彼に完全に説明していた。証人(被害者)は、一九七〇年生まれのギムナジウムの学生であったが、彼のエイズ感染についてはすでに知っており、一九八七年半ば頃から、それはまだ彼との最初の性交に及ぶ前なのだが、たびたび被告人と感染について話し合った。その際、被告人は、無防備な性交の危険、場合によっては死に至りうる感染の結末、及び治療可能性の欠如を彼女に気づかせた。被告人は当初、コンドームを装着しない被害者との性交を断っていたが、しかしついに、強い疑念を抱きながらも無防備な性交に対する彼女の強い懇請に譲歩した。そしてたびたび無防備な性交を彼女との間で行った。
  検察官は、原則的に可罰的な、合意による他者危殆化の構成要件が存在し、また行為は善良な風俗に違反するため被害者の同意は有効ではなく、違法でもあると主張した。
  これに対して、バイエルン上級裁判所は、以下のような見解を示した。
  自己の感染を知っていて、避妊具を装着せずに他人と性交を行うエイズ感染者は、危険傷害(刑法二二三条a)によって可罰的でありうる。エイズ病原体の感染が確定できないならば、その未遂の可罰性が考慮される。
  しかしながら、本件における被告人は危険傷害の未遂(本件では被害者へのエイズ病原体の感染が確定できなかったので「未遂」)構成要件を実現していない。なぜなら、彼は自己答責的に意欲され、実行された被害者の自己危殆化に単に共働しただけであったからである(8)
  そして、本件が「合意による他者危殆化」の事例ではなく、「自己危殆化への関与」の事例であることについて、特に以下の点を指摘している。
  本件では、被害者の危殆化は、被告人がエイズヴィールス保持者であったという単なる事実から引き起こされたのではなく、彼と行った(無防備な)性交によって引き起こされたのである。無防備な性交は、行為支配の観点のもとでは重要な、危険な態度である。それに対して、被告人が医学的・ヴィールス学的な意味において危険源を構築したのだという事情は、行為支配の問題にとっては決定的な意義を持たない。
  いずれにせよ、本件においては、被告人が唯一行為支配をもっており、被害者は自己の運命を彼の手のもとにおいていたのだとは、言うことはできないのである(9)
    本件では、エイズ感染者の男性の行為は検察官が主張する「合意による他者危殆化」ではなく、「自己答責的に意欲された自己危殆化」への関与であると判断された。裁判所の認定によれば、本件の被害者は被告人のエイズ感染の事実と、彼と避妊具を装着しない性交を行えば自分にもエイズが感染する危険のあることを完全に認識していた。そして、被告人が避妊具を装着しない性交を拒否し続けたにも関わらず、むしろ被害者の方からそれを駆り立てた(dra¨ngen)とされている(10)。また、「各々は、常に性的接触を中断することができたし、たとえばコンドームの利用によって危険性を減少させることもできた」とも指摘されている(11)
  本件では、「被害者の自己答責性」は、これらの点において疑いもなく肯定し得るように思われる。本件では、被害者は一七歳の未成年者であったが、エイズ感染者との危険な性交についての「自己答責能力」を否定されなかった(12)。裁判所の認定による被害者の態度からすれば、これは正当であろうと思われる。
  デリングは、仮に本件が「(合意による)他者危殆化」と見なされたとしても、さらなる事情がつけ加わることなしには被告人の可罰性は導かれないであろうとし、たとえば「被害者の同意」によっても、本件は被告人行為を正当化することができたとしている(13)。「合意による他者危殆化」であるとすれば、特にドイツにおいては「承諾の有効性」が刑法二二六条aの「良俗条項」との関連で問題になるであろう。この点について、ウェーバーは、エイズ感染事例において、行為の良俗違反性は一義的に確定し得ないことを指摘している(14)


(1)  Ulrich Weber, Objective Grenzen der Strafbefreienden Einwilligung in Lebens und Gesundheitsgefa¨hrdungen, in Festschrift fu¨r Ju¨rgen Baumann zum 70. Geburtstag, 1992, S. 51.
(2)  Weber, a. a. O. (1), S. 44, 53.
(3)  RGSt 57, 172ff.
(4)  RGSt 57, 173.
(5)  RGSt 57, 173f.
(6)  Dieter Do¨lling, Fahrla¨ssige To¨tung bei Selbstgefa¨hrdung des Opfers, GA 1984, S. 88.
(7)  NStZ 1990, 81f.  本件については、以下の評釈がある。Dieter Do¨lling, JR 1990, S. 473ff., Gu¨nter Solbach, JA 1990, S. 31f.
    なお、以下の文献も参照。Roland Helgerth, Aids-Einwilligung in infectio¨sen Geschlechtsverkehr, NStZ 1988, S. 261ff.
(8)  NStZ 1990, 81f.  なお、本判決によれば、自己危殆化と他者危殆化を以下のように区別している。「ある者が、自己を危殆化する行為を行った場合、もしくはすでに存在する危険に自ら入っていく場合」には自己危殆化であり、「ある者が、危険を完全に認識して他人によって初めて脅かされる危険にさらされ、従って「行為者」が唯一法益の危殆化を惹起した事象の行為支配を行い、「被害者」は単に危険な行為者行為の効果にさらされ、被害者の運命は行為者の手にある場合」には合意による他者危殆化が認められる。NStZ 1990, S. 82.
(9)  NStZ 1990, 82.
(10)  NStZ 1990, 82.
(11)  NStZ 1990, 82.
(12)  NStZ 1990, 82.
(13)  Do¨lling, a. a. O. (6), S. 477.
(14)  Weber, a. a. O. (1), S. 55.

第三節  道路交通における違法態度事例
    本節においては、道路交通における違法態度が問題になった諸事例を検討する。例えば、飲酒運転への好意同乗の事例を見れば明らかなように、飲酒運転という行為者の危険態度は制定法的に禁止されている。ドイツでは、刑法三一五条c一項一号aが「道路交通において次の行為を行った者は、五年以下の自由刑又は罰金に処する。車両を、アルコール飲料もしくはその他の麻酔剤の摂取のため、車両を安全に操縦できる状態にないにも関わらず操縦し、これによって他人の身体もしくは生命又は著しい価値を有する他人の物を危険にした者」と規定しており、刑法三一五条c三項は「第一項の場合において、過失によってその危険を引き起こした者、又は、過失で行為し、かつ過失によってその危険を引き起こした者は、二年以下の自由刑又は罰金に処する」と定めている。刑法三一六条一項は、刑法三一五条c一項一号aから、具体的危殆化のみを取り除いた規定であり、その過失の場合も「過失によってその行為を行った者も、第一項により罰する」と刑法三一六条二項は定めている。
  日本の道路交通法においても、飲酒運転、酒気帯び運転という行為者の危険行為は制定法的に禁止されている。道路交通法六五条一項は「何人も、酒気を帯びて車両を運転してはならない」と定め、一一七条の二は「次の各号のいずれかに該当する者は、二年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。一.第六十五条一項の規定に違反して車両を運転した者で、その運転をした場合において酒に酔った状態(アルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態をいう)にあったもの」と定めている。また、百十九条一項は酒気帯び運転について次のように定める。「次の各号のいずれかに該当する者は、三ヶ月以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する。七の二.第六十五条一項の規定に違反して車両等(軽車両を除く)を運転した者で、その運転をした場合において身体に政令で定める程度以上にアルコールを保有する状態にあった者」。
  日本にはドイツ刑法三一五条c一項一号aのような「他人の生命・身体・著しい価値を有する物への具体的危殆化」を要件とするような構成要件は存在しない。ここで、好意同乗者がドイツ刑法三一五条c一項一号aにおける具体的危殆化客体に含まれうるか否かが一つの問題になっている。もし好意同乗者が刑法三一五条c一項一号aでの危殆化客体に含まれないとすれば、好意同乗者以外には危殆化客体が存在しなかった事例においては刑法三一五条c一項一号aの適用の有無は問題にならず、刑法三一六条のみが問題になりうるからである(1)
    ドイツで「飲酒運転への好意同乗」のケースが刑事事件となった例として、まず以下の事例が挙げられる(2)
    「飲酒運転への同乗事件」(BGH Urteil vom 24. 6. 1954(3)
  被告人は酒を飲んだ後でトラックを運転していた。被告人によって制御されたトラックは、彼の失策によって中央分離帯を乗り越え、対向車である別のトラックと衝突した。被告人と被告人のトラックの同乗者は重い傷害を負い、衝突したトラックの運転手は軽い傷害を負った。
  BGHは、刑法三一五条a及び三一六条による行為者の可罰性を肯定した。
「共通危険(Gemeingefahr)の惹起は、危殆化された同乗者が運転手の運転無能力を認識して同乗したことによって排除されない(4)」。
「刑法三一五条a、及び刑法三一六条は、同乗者のみを危殆化した場合にも適用される(5)」。
「刑法三一五条a、刑法三一六条の各構成要件においては、被害者の同意は被告人の行為の違法性を除去できない。これらの規定は、個人としての交通関与者の身体および生命のみを保護するものではない。それらはとりわけ道路交通の安全および公共(一般)の安全をも目的としているのである。被害者の同意は、彼が保護される財の唯一の保持者である場合にのみ、意義を持つ。刑法三一五条aや三一六条のように、同時に公共の利益の危殆化も処罰される場合には、同意は違法性を排除しないのである(6)」。
    この判決からも明らかなように、飲酒運転を禁止する規定の保護法益としては、「道路交通の安全」という社会的法益が考えられている。ここから、好意同乗者などの、飲酒運転によって実際に傷害された者のみの個人的法益が問題になっているのではないので、飲酒運転による傷害に対する「被害者の承諾」はありえず、好意同乗者の慎重さを欠く態度を被害者の承諾であると考えることによって、「当該規定」の構成要件該当性もしくは違法性が阻却されることはあり得ないと言えよう。
    しかしながら、道路交通において運転手が誠実な運転を義務づけられており、その義務づけが「道路交通の安全、一般の保護」から基礎づけられるとしても、そのことからただちに「過失致死罪」において被害者の同意が許容されないことになるのであろうか。オートバイ事件では、過失的侵害に対する同意の有効性が否定された。
    「オートバイ事件」(RG Urteil vom 11. 6. 1925(7)
  被告人は車の運転のおおよそは知っていたが、運転免許を持っておらず、そのことは後に被害者となる友人も知っていた。ある時、被告人はその友人とオートバイで出かけた。当日、被告人のオートバイのハンドブレーキ及びフットブレーキの調子が悪いことを被告人自身は出発前から認識していたが、その友人は気づいていなかった。被告人のオートバイはスピードを出しすぎ急カーブを曲がりきれず対向車と衝突し、同乗者(被害者である友人)は死亡した。
  RGは、被告人を刑法二二二条(過失致死罪)によって有罪とした。
  判決は、被告人は誠実な運転を義務づけられており、その責任は一般に対してと同様に同乗者に対しても「絶対的に」存在していること、その責任は明示的にも黙示的にも免除されてはいないということを指摘し、過失的な侵害に対する同意を過失による自傷であるとすることは誤りであり、結局、同乗者の同意は問題にならないとした。
  しかし、スクーター事件において、過失傷害に対しては、被害者の承諾による行為者の犯罪阻却が肯定された。
    「スクーター事件」(BGH Urteil vom 13. 7. 1959(8)
  被告人は祭りの夜、飲酒した上喧嘩し、三人の仲間とスクーターに乗って逃走する途中に転倒して、一人を死亡せしめ、二人を傷害した。
  判決は、まず、刑法二二六条aの同意傷害規定は、過失傷害にも適用されることは通説においても肯定されており、実際にも、予見可能な過失傷害への同意が確実に認識されている故意的傷害への同意より有効性が少ないとすることは理解できないとし、本件において刑法二二六条aの意味における違法性が肯定されるかを検討している。
  そして、「自己の危険性を明確に認識して、交通違反的な運転(ここでは、スクーターに四人乗りすること)での逃亡に関与し、他人の運転によって場合によってはありうると思われた過失的な自己の身体への傷害に同意した者は、その他人から刑法二二六条aの意味における違法性を奪い去るのである(9)」とし、被告人の「良俗違反性」は本件では否定されたのである。
    「オートバイ事件」では、運転手は誠実な運転を義務づけられており、その責任は一般に対してと同様に同乗者に対しても「絶対的に」存在し、それは免除されてはいない、結局被害者の承諾は問題にならないという理由から過失致死罪による処罰が肯定された。しかしながら、およそ過失致死罪、過失傷害罪といった個人的法益に対する罪の可罰性が問題になる限り、個人(被害者)の承諾は考えられることである。もちろん、承諾「対象」の問題として、過失犯に対する被害者の有効な承諾があり得るかという問題と、特に生命処分に対する承諾が正当化効果を持ちうるかという問題は別に議論する必要がある。「被害者の承諾」論以外の、たとえば客観的帰属論などからのアプローチの検討も必要である。また、「スクーター事件」においては、過失傷害の可罰性について、刑法二二六条aにいうところの「良俗違反性」は認定されず、その限りで、被害者の承諾の有効性が認定されている。我が国においては、同意傷害についてのこのような「良俗条項」は存在しないので、行為もしくは同意の良俗違反性を重視する必要はないであろう。ここでも、過失犯に対する被害者の承諾の有効性と傷害に対する被害者の承諾の有効範囲、「被害者の承諾論」以外のアプローチが検討されよう。
    なお、以上の判決はすべて「合意による他者危殆化」に関するものであるが、被害者の「自己危殆化への関与」の可罰性が問題となった事例も存在するので最後にそれを見ておくことにする。
    「オートバイ競争事件」(BGH Urteil vom 25. 1. 1955(10))
  二人は飲酒した後で、被害者の方から被告人に夜のオートバイ競争をしようと誘った。その発起人(被害者)は、軽オートバイしか所有していなかったので、ハンデをもらった。被害者は被告人のオートバイが追い越しをしようとするのを妨げるためにジグザグ運転をし、その際に事故にあい、死に至る傷害を負った。
  BGHは、以下の点を指摘した。
  被告人の態度は違法である。なぜなら、いかなる正当化根拠も提示されないからである。「被害者は確かに自己の危殆化を受け入れたが、その同意は殺害行為にとっては何ら法的な効果を持つものではない。(また)文献においては、とりわけ生活上重要な意義を持つ行為の実行において、「許された危険」の観点のもとで、偶然に危険をもたらした行為は法適合的であると説明されている。しかし本件においては、その競争は必要不可欠なものでも生活上重要な意義を持つものでもないのであるから、そのような正当化根拠が支えとなるかは未決定なままでよい(11)」と。
  また、共同危険行為において、他人の過失的な自傷への共働が義務違反的であるとされるかは、事案の諸状況に依存するとされ、その際には、特に「危険を明確に認識した完全に答責的な合意、企ての動機や目的、万一のための予防措置並びに不注意の程度と危険の大きさ」が考慮されるべきであるとしている(12)
    本件のような「自己危殆化」が問題となる事案は、特に被害者が「自己答責的」に行為していたのかどうかに着目すべきであろう。この点に関して、判決は被害者が飲酒していたことと、被告人は少量の酒は飲んでいたがそれは被害者ほどではなく、「被告人は被害者より危険を明らかに予見していた(13)」ことが指摘されている。
  また本判決に対し、シューネマンは、どのような場合に過失的な自傷への共働が義務違反的であると見なされるかについて判決が事案の諸状況に依存すると述べたことに対して、「このような曖昧な屁理屈(Ra¨sonnement)を帰属問題の確固とした適用基準と見なすことはできない」と批判し、そもそも本件では「合意による他者危殆化」が問題になったとしている(14)


(1)  Vgl. Friedrich Christian Schroeder, Die Teilnahme des Beifahrers an der gefa¨hrlichen Trunkenheitsfahrt, JuS 1994, S. 846.
(2)  同様の事例の民事判例としては、BGHZ 34, 355 が有名である。
(3)  BGHSt 6, 232ff.  山中敬一「過失犯における被害者の同意−その序論的考察−」『平場安治博士還暦祝賀・現代の刑事法学(上)』(一九七七)三二五頁も参照。
(4)  BGHSt 6, 232.
(5)  BGHSt 6, 233.
(6)  BGHSt 6, 234.
(7)  RG JW 1925, 2250ff.  荒川雅行「過失犯における被害者の同意に関する一考察−生命・身体犯を中心として−」法と政治三三巻二号(一九八二)一一四頁以下も参照。Vgl. Susanne Walther, Eigenverantwortlichkeit und strafrechtliche Zurechnung, 1991, S. 9.
(8)  BGH MDR 1959, 856. Vgl. Walther, a. a. O. (7), S. 11.
(9)  MDR 1959, 856.
(10)  BGHSt 7, 112ff. Vgl. Walther, a. a. O. (7)., S. 10f.  山中・前掲論文(3)三二五頁以下参照。
(11)  BGHSt 7, 114.
(12)  BGHSt 7, 115.
(13)  BGHSt 7, 115.
(14)  Bernd Schu¨nemann, Fahrla¨ssige To¨tung durch Abgabe von Rauschmitteln?ーBesprechung des Urteils BGH, NStZ 1981, 350ー, NStZ 1982, 61.


第四節  麻薬事例
    最後に、麻薬事例を検討する。ここでは、主に、麻薬密売人が麻薬常用者である被害者に麻薬を不法に譲渡し、被害者がそれを服用することによって彼の死が引き起こされた場合の麻薬を譲渡した者の刑法的答責性が問題になる。
  我が国では、麻薬関係諸法の処罰規定の法定刑が過失致死罪の法定刑より重い(1)ので、この種の事例で過失致死罪の成立を認める実益はない。
  しかし、ドイツでは事情が異なる。ドイツにおける麻薬剤法二九条一項一号は次のように規定している。
「本法三条一項一号の許可(連邦保険庁の許可)無く麻薬剤を栽培、製造、及び取り引きしたり、もしくは取り引きすることなくこれを輸入、輸出、譲渡、交付、その他市場に出す、これを買い取る、もしくは他の方法で調達した者は四年以下の自由刑又は罰金に処す」。
  また、麻薬剤法三〇条一項三号は以下のように規定する。
「麻薬剤を譲渡し、他人に投与し、もしくは直接の使用に委ね、それによって死を軽率に(leichtfertig(2))引き起こした者は、二年以上の自由刑に処す」。
  一方、過失致死罪(刑法二二二条)の法定刑は五年以下の自由刑又は罰金であり、麻薬常用者の自己使用によって死が発生した場合に、彼に麻薬を譲渡した麻薬密売人の麻薬譲渡行為を「過失によって被害者の死を惹起した行為」と評価することが実際にも意義を有することになる。そのため、ドイツでは、しばしばこのような事案において、麻薬を譲渡した麻薬密売人が「過失致死罪」によって処断されてきたのである。
    BGHは、はじめこの種の事案において、意識的自己危殆化という観点が過失致死罪の成立を妨げることを認めなかった。たとえば、次のような事案がある。
    「麻薬交付による過失致死事件」(BGH Urteil vom 28. 4. 1981(3)
  被告人は、彼の家で被害者Pに一回分のヘロインを販売し、被害者Pは被告人の家で自分自身にそれを注射した。被害者Pは、心筋組織及び肝臓組織の炎症性の病変によって、注射の後すぐに麻薬中毒のために死亡した。この病変は麻薬常用者には典型的に生じる性質のものであった。
  地方裁判所は、病変のためにPのヘロインに対する耐性が弱化していたこと又はPが普通の麻薬常用者よりも麻薬摂取に寛大な身体的特質を持っていたことを被告人は知り得なかったということを考慮して、(被告人の)過失とりわけ死の発生の予見可能性を否定した。
  BGHは、これをくつがえし、以下のように判示した。
「ヘロインの密売人がヘロイン依存者の死をヘロインの販売又は譲渡によって引き起こした場合には、刑法二二二条(過失致死)の意味における過失の承認のためには、通例、購入者がその麻薬を注射することを行為者が知っているかあるいは計算に入れなければならないことと譲渡した物質の危険性を知っていたかあるいは知ることができたことで十分である(4)」。
    しかし、このようなBGHの態度は、以下の「ヘロイン注射判決」において、画期的な転換を遂げることになる。重要な判例なので、やや詳しく引用する。
    「ヘロイン注射事件」(BGH Urteil vom 14. 2. 1984(5)
  被告人は、かつて習慣離脱治療を受けたこともあったが、犯行時にはまた時々麻薬を使用するようになっていた。彼は、ある日、彼より重度の麻薬使用者である友人に出会った。その友人は彼に、自分は一緒に注射できるヘロインを持っていると告げた。そこで被告人は、必要な三本の使い捨て注射器を調達し、その友人と飲食店のトイレに入り、その友人は「沸騰した麻薬」を二本の注射器に満たして、一本を被告人に渡した。その注射の後すぐに、二人は意識を失った。客の通報によって医師が駆けつけたとき、その友人はすでに死亡していた。
  被告人は、原審において、ヘロイン不法所持と過失致死によって有罪とされていた。
  BGHは、彼の過失致死による可罰性を否定して、以下のように述べた。
  まず、故意的な自殺及び自傷への故意的関与及び過失的関与の不可罰を「自殺(自傷)の構成要件不該当性」から導く。「自己答責的に意欲され、実現された自殺あるいは自傷は、殺人の罪あるいは傷害の罪の構成要件に該当しない、なぜなら、法律は他人の殺害あるいは傷害だけを刑罰でもって威嚇しているからである。それに関与する者は、刑法二五、二六、二七条一項の意味での行為ではない事象に関与したのである。それ故、故意的関与者は、(正犯行為の欠如のために)教唆もしくは幇助としては処罰され得ない。自殺あるいは自傷を導く自己答責的な自己侵害行為を、過失的に誘致し、可能化し、もしくは促進する者は、故意による誘致、可能化、促進が処罰されない場合には、処罰され得ないのである(6)」。
  同様に、自己危殆化への故意的及び過失的関与の不可罰性も、「自己危殆化行為の構成要件不該当性」から導かれている。「自己答責的に意欲され、実現された自己危殆化も、危殆化によって意識的に引き受けられた危険が実現しているか「結果」が発生していないかには関係なく、殺人の罪あるいは傷害の罪の構成要件に該当しない。単に自己答責的に意欲され惹起された自己危殆化行為を、故意あるいは過失によって誘致し、可能化し、促進するだけの者は、殺人の罪及び傷害の罪の可罰性が問題になる限り、構成要件該当的ではなく従って可罰的でない事象に関与しているのである(7)」。
「意識的にそして自己答責的に自己を危殆化する者が、結果発生に至らないであろうということを期待し、もしくは信頼していたということは、法的意義を持たない。彼は、危険なそのあり得る射程範囲を見通した態度でもって、危険実現の危険を引き受けたのである(8)」。
  ただし、「関与者が優越する事物知識によって、自己危殆化者より危険をより多く認識している場合(9)」には、関与者の可罰性が生じうるとする。もっとも、本件においては、認定は、被告人が友人より危険をより多く認識していたとする手がかりはないとしている。
  以上のことから、本件では、被告人は、麻薬所有者である友人の意識的自己危殆化(及び自傷)を単に可能化しただけであるとしている。
  被害者の「自己答責性」が肯定されるべきかは、本件では十分に認定が為されなかった。判決は次のようにのみ述べている。
「(被害者である)その友人が自己答責的に行為したのかどうかは、確かに疑わしい。しかし、この問題についてのこれ以上の認定はもはや不可能である。それ故、自己答責的な行為の基準をどのように規定するかには関係なく、これは被告人に有利に、肯定されなければならないのである(10)」。
    しかしながら、麻薬事例における「被害者の自己危殆化への関与の不可罰性」は、麻薬剤法三〇条一項三号の要件のもとで行為した行為者をも不可罰に導くことができるのかはなお未解決なままであった。続く判例は、この問題に対して、否定の回答を与えた。
    「意識的自己危殆化と麻薬剤刑法の保護目的」事件(BGH Urteil vom 25. 9. 1990(11)
  本件では、被告人は麻薬の商取引のために、麻薬剤法二九条三項、三〇条一項によって可罰的であるとされた。彼に起因する麻薬の摂取によって、一人の麻薬依存者の死と三人の麻薬依存者の意識喪失が発生したからである。
  判決は特に以下の点を指摘した。
  麻薬剤法の規定の領域においては、意識的自己危殆化は、以下の場合には行為者の答責性を制限する意義を持たない。それは、麻薬剤法三〇条一項三号もしくは同法二九条三項二号において、麻薬の摂取による人の死もしくは健康毀損の危険が刑罰加重の根拠となっている場合、もしくは、一般的にそのような結末の刑罰加重的評価が問題となる場合である。このことは、麻薬剤法規定の保護目的から帰結される。それは、自己答責原則の制約及び意識的自己危殆化の諸原則の制約を要求する(12)
  麻薬剤法刑罰規定の保護財は、刑法二一一条以下、二二二条、二二三条以下のような個人の生命や健康だけなのではない。むしろ、とりわけきつい麻薬の蔓延した使用とそれに由来する個人の健康毀損から公共に対してもたらされる侵害が予防されるべきなのである(13)
  なお、この判決においては、以上のような麻薬剤法の刑罰規定の適用が問題となる「特殊問題」について、自己答責思想の制約を明言しただけでなく、被害者の自己答責的な自己危殆化への関与は不可罰であるという思想が「過失致死罪」の適用において刑罰解放を導くことができるということについても留保が示されている(14)
    以上のような麻薬の自己使用事例においては、特に被害者である麻薬常用者の「自己答責性」が重要になる。麻薬中毒の症状によって、被害者が麻薬を打たずにすませることがおよそ期待できない状態であったか否かが、麻薬譲渡者の正犯的答責性の帰属に対して問題となろう。もっとも、これは「ヘロイン注射判決」のように、しばしば認定しにくいものであるかもしれない。しかし、いずれにせよ、被害者に麻薬を譲渡した時点で、被害者が中毒症状により、もはや麻薬を注射せずにすませることができないのが明らかであれば、つまり彼が自己答責的に行為できないような状態であれば、それを認識して麻薬を譲渡する行為は被害者の死を惹起する危険性が高い行為であり、麻薬譲渡者が被害者に対する行為支配を有しているといえるであろう。また、そういう状態であれば、主観的にも、彼には被害者が麻薬を注射し、それによって死傷の結果が生じる予見可能性を有していたと言えるであろうからである。


(1)  たとえば、麻薬及び向精神薬取締法六四条の二は、「ジアセチルモルヒネ、その他塩類またはこれらのいずれかを含有する麻薬の製剤、譲渡等」は一〇年以下の懲役とし、覚せい剤取締法四一条の二は「覚せい剤を、みだりに、所持し、譲り渡し、または譲り受けた者」を同じく一〇年以下の懲役とする。一方、刑法二〇九条(過失傷害)は三〇万円以下の罰金又は科料、刑法二一〇条(過失致死)は五〇万円以下の罰金、刑法二一一条(業務上過失致死傷等)でさえ五年以下の懲役もしくは禁錮又は五〇万円以下の罰金である。
(2)  ケルナーは、ここでの「軽率さ」は、たとえば民法でいう重過失のような、通常の過失より高い程度のものであるべきだという。そして、以下のように続ける。「行為者が重大な不注意で、自分が構成要件を実現していることを認識しなかった場合、すなわち、行為者が明確に認識していなければならないことを無視している場合に、軽率さが考えられるのである」。(Harald Hans Ko¨rner, Beta¨ubungsmittelgesetz, Arzneimittelgesetz, 4 Aufl. 1994, S. 757f.)
(3)  BGH NStZ 1981, 350.  本判決については、シューネマンの評釈がある。Bernd Schu¨nemann, Fahrla¨ssige To¨tung durch Abgabe von Rauschmitteln?ーBesprechung des Urteils BGH, NStZ 1981, 350ー, in NStZ 1982, 60ff.  なお、このシューネマンの評釈に関して、葛原力三「ベルント・シューネマン『麻薬の交付による過失致死?−BGH, NStZ 1981, 350 についての論評』」警察研究五四巻第一一号九四ページ以下を参照。
(4)  NStZ 1981, 350.
(5)  BGHSt 32, 262ff.  本判決に対する評釈としては、特に以下のものを参照。Claus Roxin, NStZ 1984, S. 410ff., Harro Otto, Jura 1984, S. 536ff., J. Seier, JA1984, S. 533f., Walter Stree, JuS 1985, S. 179ff.
(6)  BGHSt 32, 263f.
(7)  BGHSt 32, 264f.
(8)  BGHSt 32, 265.
(9)  BGHSt 32, 265.
(10)  BGHSt 32, 265f.,
(11)  BGHSt 37, 179ff.  本判決に対する評釈としては、以下のものを参照。Winfried Hassemer, JuS 1991, S. 515., Hans Joachim Rudolphi, JZ 1991, S. 571ff., Ralf Hohmann, MDR 1991, S. 1117f.
(12)  BGHSt 37, 181f.
(13)  BGHSt 37, 182.
(14)  BGHSt 37, 181.