立命館法学  一九九六年三号(二四七号)




インサイダー取引に対する刑事規制についての一考察

金 尚均






目    次




1  問題の概観


  今日では世界的に金・モノにまつわる経済犯罪が大きな社会問題・国際問題になっている。日本とて例外ではなく、むしろその只中にある。営業の自由という憲法上及び市民法上の基本原理、競争の自由という資本主義秩序の競争原理に則り、需要と供給の法則に基づいて、主として貨幣を媒介にして商品を売買したり、また労働力を提供し、それに対する対価を受ける。こうして経済は日々機能していくのであるが、そこでの問題はそれほど単純ではない。独占の問題の新たな出現、大口株主による会社の経営支配、高度の消費社会の到来につけ込んだ詐欺的商法の横行、などにより経済機構の機能に対する市民の信頼が害されたり、現実に一般消費者に被害が及んだりする現象が増大している。
  第二次世界大戦後、日本は高度経済成長を遂げ、それにともなって次第に人々の所得収入も増えてきた。相対的に市民の生活レベルも向上し、家庭の中にはありとあらゆる消費財があり、しかも求めようものなら、金さえあればあらゆる物質をすぐに手に入れることができるようになった。海外旅行なども市民のレジャーの一つのヴァリアントとして定着し、今日の日本は物質的に「豊かな国」となり、そのレベルたるや世界でも有数の金持ち国であると言っても過言ではない。また、この様な社会状況の中、かつては一般市民には無縁だと思われていた事柄を実現することができるようになった。先の海外旅行しかり、外車の購入しかり、そして主婦などの株の購入しかりである。しかしその反面、この社会の精神として、金儲けのためであればなにをしてもかまわない、といった発想も生まれ、またこれを一種のバイタリティの表れとして促進、助長する声もある。
  この様な拝金主義的な風潮のなかで、マルチ商法、ねずみ講、先物取引等の消費者詐欺的商法などが生まれ、しかも増加し、一般市民に多大な被害を及ぼしている。他面、独禁法違反、インサイダー取引や相場操縦など経済システムに対する毀損を意味する態度が大きな社会問題となっているのも厳然たる事実である。
  しかも、空前の好景気であったバブル経済の時代が終わった−いわゆる、「バブルが弾けた」−後、土地価格の急激な低下と景気の悪化(不景気)にともない、バブル経済の代償が様々な形で明るみに出てきて、それら自体とその対処が社会問題になっている。
  日本では、企業の違法な経済行為に対しては従来、行政のコントロールで対応する態度をとってきた。しかし、近年ではコントロールの予防効果の弱さなどが指摘されるにいたり、コントロールの強化を担保するために刑罰による対処が強調される傾向にある(1)。また、経済に関する情報・知識等に疎い一般消費者をねらって不当に利益を収奪しようとする行為に対して、実害に関係なく刑罰をもって否定現象に対抗しようとする傾向もある。ここでの特徴としては、第一に、行政的規制の効果の弱さ、不十分さを刑法で補うということ。第二としては、実害に対処するのではなく、未然の防止に重点が置かれているということである。
  刑法の任務は法益保護である。だが、あらゆる法益が刑法上の保護を受けるわけではない。何でもかんでも刑法で保護することは社会にとって有害でもある。そのことを考えるとき、刑法で保護すべき法益に関して一定の限定の必要性が当然に浮かび上がってくる。事前的防止が刑罰規定において強調される場合には、法益の抽象化、つまりいつ害されたのかが明確にならないような事柄が法益として記述される場合がある。しかも同時に、このことは刑法の保護範囲の拡張を意味する。これは経済刑法において顕著である。そうであるならば、上述の危惧は現実のものになりかねない。その意味で、刑法における法益の問題を考察することは古くて新しい問題をはらんでいるといえよう。
  ここでは、近年、法益保護の早期化傾向を示している経済刑法の領域をとりあげる。とりわけ、法益保護の早期化の問題と絡めて経済刑法における法益の問題を中心に検討したい。


2  経済刑法における法益保護の早期化


  近年、経済刑法において議論されている刑罰規定を列挙してみると、つぎのようになる。競売入札妨害罪(刑法第九六条の三)、独占禁止法、証券取引法におけるインサイダー取引の規制、相場操縦に対する規制、マルチ商法、ねずみ講等の消費者詐欺的商法に対する規制、出資の受け入れ、預かり金及び金利等の取締に関する法律第一条・二条・五条、貸金業の規制等に関する法律第一六条・二一条、訪問販売等に関する法律第五条の二・一二条、無限連鎖講の防止に関する法律第五条、宅地建物取引業法第三二条・四七条一号、金融先物取引法第四四条、海外商品市場における先物取引の受託等に関する法律第九条、等である。
  近時の経済刑法の立法動向を見ると、明らかに事前・未然の予防措置に重点が置かれているのを窺うことができる。特に注意すべきは、立法者の予防目的を実現するために抽象的危険犯、業法上の規則違反・義務違反としての形式犯が多用されていることである。判例では、抽象的危険犯については当該構成要件に該当する行為があれば足るとされ、法益に対する危険の惹起は必要ないと解されている。形式犯についてはなおさらである。ここでは、刑事的制裁は、民事的規制や行政的規制を担保するものとして位置づけられているといえよう。
  抽象的に言うと、上記の法律とその規定は、経済取引が公正かつ公平に行われる為の基盤としての現行経済制度そのもの、その安定的持続、またその機能能力を保護することに重点が置かれていることからして、「システム」や「システムに対する信頼」といった法益を保護することを基調としているといっても過言ではない。ドイツでは、このような法益は「普遍的法益」(Universalrechtsgut)と呼ばれている。抽象的危険犯と普遍的法益とは、いわば、いつもいっしょにいる仲のよい恋人同士みたいなものであるが、現代刑法において事前予防が強調される場合にはまさに両者はワンセットとして把握される。
  とりわけここでの問題としては、第一に、未然の結果防止の要請から普遍的法益を保護するという理由で抽象的危険犯が用いられるのではなく、むしろ侵害結果の前段階の行為−すなわち、抽象的に危険な行為−を処罰するために普遍的法益が用いられているきらいがあるということである。第二に、例えば、経済情報に疎い一般消費者−特に、老人や主婦−を標的にして行われる詐欺的な商法などで、損害の事実と詐欺の故意についてその証明が困難であるという実務上の要請も法益保護の早期化に寄与しているということだ(2)。しかも、抽象的危険犯という規制形式が問題解決・対処のための戦略手段として性格づけられている。だが、法益保護を任務とする刑法からすれば、このようなことは本末転倒なことではなかろうか。ここでは、法益は単に刑法的規制の正当化根拠にすぎず、これがもっている立法(者)規制・限定機能は影を潜めている。
  法的規制の手段は刑法以外にも存在する。とりわけ、刑法はその中でも処罰の峻厳性ゆえに一番最後の地位にある。これは、数ある法的制裁のウルティマ・ラティオなのである。私見によれば、今述べたことは、まさに刑法で保護すべき法益の範囲やその中味にも波及するように思われる。
  なるほど、確かに一律に法益の範囲を限定することは困難な作業である。が、しかし刑法をウルティマ・ラティオとして把握しながら、立法や法的な規制手段を検討する必要があると考えることはなんらおかしなことではない。


3  システム保護としての法益


  経済犯罪に関して、それぞれの態様に応じて各類型に分けることは便宜と思われる。しかし、経済刑法の区分は学説上一致を見ていないのが現状である。とりわけ神山氏の区分にしたがえば、大きくは((1))一般消費者の経済利益の侵害((2))経済主体たる企業、商人等の経済利益の侵害((3))国家の経済制度に関する制度的利益の侵害に分けられている(3)。この区分では((1))と((2))が刑罰の対象となっており、((3))は主として秩序罰の対象とされる。このように経済刑法における犯罪化について、上記の区分はいかなる事柄に刑罰を科すのかを区別するには有益である。しかし、これよりも先に重要なのは、いかなる事柄が刑法における法益として記述されるかである。
  例えばインサイダー取引であれば、刑罰規定の法益が「証券市場の公正性・健全性に対する投資家の信頼の確保」であったり、不正競争防止法では「取引制度の適正さ」であったり、また競売入札妨害罪(刑法第九六条の三第一項二号)では「自由市場における競争制度」であったりする。特徴的なのは、要約的にいえば、自由主義経済システム、その取引システムの保護や当該システムに対する一般市民の信頼が保護法益になっていることではなかろうか。
  経済刑法の保護法益をいかに把握すべきかに関して京藤氏は、これを基本として「国民経済的利益」に求め、この合目的的解釈と限定解釈の必要性を説く。京藤氏の解釈の基礎には、「人々の経済的なつながりが緊密化し、その経済関係の維持のために経済制度が高度に技術化され、したがってその結果、脆弱性も増している社会」が置かれている(4)。京藤氏は、緊密化、技術化、脆弱化に象徴される社会において市民の経済生活を保護するために一定の経済制度の「機能」それ自体といった超個人的法益の保護を経済刑法の支柱に据えることを妥当とするのである(5)
  小林(敬)氏は、経済刑法において具体的な被害者の特定を要件とする考えは真の被害者保護ではないとした上で、「健全な経済取引、公正で自由な競争、取引の安全といった市民的経済秩序そのものに対する違反行為についても刑事制裁で望む必要があるのではなかろうか」、と主張する(6)。小林(敬)氏は、この目的を効果的に実現するために、直接的には個人の利益とは関係しない競争、信頼、取引の安全といったような「共同体価値」という超個人的法益を構想する(7)。この説によれば、経済刑法は経済法の目的である自由主義経済秩序の保護を補助・担保する任務を担うことになるが、しかし国家的制裁たる刑罰と他の制裁との区別、刑法による保護範囲の限界なき拡張を招くことになりはしないであろうか。
  つぎに、個人の経済的利益と直接的な関係を持たないシステム保護を意図する見解に対して、経済刑法の保護法益を市民の経済生活の利益に求める学説がある。
  神山氏は、消費者の経済的利益の保護という観点から経済刑法の保護法益を捉えようとしている。神山説においては国家的経済秩序の保護といった場合に、その侵害もしくは危殆化の判断がきわめて観念的・抽象的なものになるとして反対しているように思われる。これに対して、「消費者の経済的利益というのは、それほど抽象的なものではなく、行為形態を明確にする限り、経済刑法の保護法益として構成することは可能であり、・・・経済刑法の中心的な保護法益として位置づけるべきであろう」、と一般消費者の利益の保護を中心に法益を構想する(8)
  芝原氏は、「市民の経済生活の利益」を保護法益と考える(9)。芝原説によれば、単に「一定の経済秩序自体を刑罰によって維持しようという政策は、現在のわが国においては妥当でもなく効果的でもない」、とした上で(10)、「市民の経済的利益を侵害する蓋然性が類型的に高い」行為−例えば、訪問販売法第一二条の重要事項不告知・不実告知罪−を刑罰の対象とすべきだと解する(11)
  また、長井(圓)氏は、主にマルチ商法、無限連鎖講、(海外)先物取引に対する一般消費者の保護を機軸にしながら、経済刑法の保護法益を「『一般消費者の経済的利益』すなわち『国民経済的利益』」に求めている(12)。長井説では、現行経済システムそれ自体の保護を志向する学説とは異なり、一般消費者の利益というより具体的な事柄に還元されている。
  だが、長井説について言うと、結果無価値論に依拠して刑法理論を理解することについて長井(圓)氏は、「モラルによる市民の自立を刑事不法の領域外に放逐するが、そのことによって、かえって長期的には犯罪化(法益保護の拡充)を自己培養する結果をもたらさないであろうか」、と批判している(13)(14)。が、しかし果たしてそうであろうか。経済取引にあって規制されている行為は、それが刑法上違法であるか否かということはきわめて曖昧だということは従来から言われていることである。一面では、経済刑法はまさにラベリング・アプローチの格好の素材なのである。このような性格をもつ経済取引行為に対する規制は、慎重であるべきではなかろうか。長井説においてもこのことは認識されていると思われるが、しかし行為無価値論のように行為本位に刑法理論を把握すると、社会的に有害な「実害」結果を軽視することになりかねず、一般消費者の保護の名の下で結果を惹起すると推定される行為に対する規制を「追いかけっこ」のように繰り返すのではなかろうか。また、実害なき行為規制に主眼があるとすれば、消費者の経済的利益の保護を根拠にかなり広範な行為が刑事規制の対象になると思われる。
  もしそうであるならば、長井(圓)氏が警戒していた刑法による市民生活への過度の介入を引き起こすことになりはしないだろうか(15)
  「システム」保護を基調とした学説と「市民の経済的利益」の保護を強調する学説の双方とも、最終的目的は一般消費者の利益を保護することであり、そのために「自由競争機能」を考慮する点では、一見大差ないように思える(16)。けれども、法益論からみた場合、社会の中で個人が存在し、生活している事実を認めつつも、法益の把握の際に「個人」を基調とするか、それとも人間の共同生活のための諸条件を保護することが刑法の任務であると捉え、社会の保護と個人の保護を同値するか、または個人を社会システムの一機能要素として理解するか、これらのいずれに依拠するかによって、社会的法益に対するアプローチに差異が生じることになると思われる。また、上記の学説においては、法益保護の早期化の必要性−特に、抽象的危険犯の多用化−が説かれる点では一致しているが(17)、これについても法益把握と絡んで、問題があるように思われる。
  私見は、抽象的危険犯を「全面的」に否定する見地に立つものではないが、問題は、前者のように超個人的法益、ドイツ的に言えば、「普遍的法益」に立脚しながら刑事規制を考える場合、解釈の場面では、法益の抽象性とあいまって、危険判断も抽象化させられる恐れがあるのではないかということである。また、立法の場面では刑法で対処する領域を拡張させ、形式犯、抽象的危険犯の増大を招き、しかも規制的介入の過多によって市民の自由を危うくするのではなかろうかという疑問も沸き上がる。この疑念に対して憲法を根拠に規制を正当化する学説があるが、これに対しては、「基本法を示すことで法的不安定性(Rechtsunsicherheit)を回避できると思われているが、しかしそのことによって、かかる刑法から生じる法的安定性の喪失という究極的な危険を看過することになる。その喪失は、一方では厳密でないことまたは前傾化から、他方ではまた明確でないことから生じる可能性がある」、と批判されていることにも耳を傾ける必要があると思われる(18)
  また、キントホイザーは刑法の正当性の見地から議論を展開する。つまり、刑罰は害悪であって、過去に行われた瑕疵ある態度に対して行為者に非難を加えることが本質なのであり、これに対して、強制的な民法上の損害に対する原状回復や危険防止のための行政的強制も非難というモメントはなく、したがって、法としての刑法は、害悪を加えることで法倫理的な非難をするための前提条件を公式化しており、それゆえ正当性が特に高くなければならない、と(19)。このことから、経済刑法も刑法として法の一部であって、経済刑法が経済秩序とそのサブシステムの維持のための単なる道具だと間違って理解すべきではなく、他と変わることなく、刑法の正当性の基準を満たす場合に正当なのである、とも言う(20)
  とりわけ、今の議論を前提としながら、インサイダー取引に対する規制にみられる「信頼」保護に焦点を当てて、この問題を検討する。


4  インサイダー取引に対する刑事規制の動向


  ドイツでは、一九九四年、第二次資本市場振興法(Zweites Finanzmarktfo¨rderungsgesetz)の成立により、証券取引法(WertpapierhandelsgesetzキーキWpHG)が新たに制定されたが、そこではインサイダー取引が法律上−とりわけ、刑罰をもって−規制されるに至った。従来、ドイツにおいてインサイダー規制は、証券取引所や業界の自主規制に委ねられていた。
  今回、インサイダー取引が規制された背景には、第一に、ドイツ国内においてインサイダー取引にまつわる幾つかの事件が発生したことが伝えられている。第二に、インサイダー取引に関する一九八九年一一月一三日EC委員会指令(89/592/EWG)に基づいて、一九九二年六月までに加盟国は国内において法律上、何らかの制裁規定の制定を義務づけられていたが、ドイツはこれを履行していなかった。しかし近年、EUの統合作業が推められる中、加盟国における重要な問題について数々のガイドラインが出され、これに沿って国内の立法作業も行われる傾向にある。ズィーバーは、「とりわけ、しかしまた国家刑罰規定のヨーロッパにおける統一の背景と原動力は、ヨーロッパ共同体の相当多くのガイドラインであることがしばしばであり、これは、ヨーロッパ刑法に習うことを国家の立法者に強制している。現在、国家刑法をこれに拘束することは、その適用領域だけではなく、その規制内容にも広がっている。ヨーロッパ共同体の実際の法制定は、明らかにその加盟国に対し、もはや以前のようにヨーロッパ共同体の利益を保護するために必要な措置だけを定めるのではなく、−一部は詳細に−制裁規範の創出に関して義務を課す傾向を示している(21)」、と指摘しているが、インサイダー取引規制もこのような文脈の中で理解可能と思われる。
  また、第三に、ヨーロッパ統合の動きが高まる中、ドイツの経済的地位も日増しに高まりつつあり、しかも東西ドイツの統合による新たな経済の動きも手伝って、これに見合った、大きな、信頼性の高い資本市場の創設が必要であったこと、つまり、「資本市場としてのドイツ(Finanzplatz Deutschland)」の確立が強調されたこと、などがある。
  ちなみにインサイダー取引に関する法律を列挙すると、つぎのようになっている(22)
・証券取引法第一三条一項一号
  インサイダー・内部者とは、有価証券の発行企業または発行企業と結合した企業の経営執行機関もしくは監視機関の構成員または無限責任社員として
・同項第二号
  発行企業または発行企業と結合した企業に対する資本参加に基づいて
・第三号
  職業、彼の業務または任務に基づいて
インサイダー証券・内部者取引の対象となる証券(Insiderpapiere)の一つもしくは複数の発行企業に関連するか、またはインサイダー証券・内部者取引の対象となる証券に関連して、しかも公に知れた場合にインサイダー証券の相場に重大な影響を及ぼすような、公に知られていない事実について知っている者(第一次内部者の処罰(23)
・第一四条一項
  内部者について次のことが禁じられる。
・同条同項第一号
  内部事実についての自己の知識を利用して自己もしくは他人の計算で、または第三者のためにインサイダー証券を売買すること
・第二号
  第三者に内部事実を権限なく漏洩し、または知得させること
・第三号
  第三者に対して内部事実に関する自己の知識に基づいてインサイダー証券の売買を推奨すること
・同条第二項
  インサイダー事実に関する知識を有する者は、このインサイダー証券に関する知識を利用して自己もしくは他人の計算で、または第三者のために証券を売買することを禁じる。(いわゆる第二次内部者の処罰)
  刑罰について
・第三八条一項
  次の者は五年以下の自由刑または罰金刑に処する
・同条同項第一号
  第一四条一項一号または二項の禁止に違反して、インサイダー証券を売買した者
・第二号
  第一四条一項二号の禁止に違反して、インサイダー事実を漏洩または知得させた者
・第三号
  第一四条一項三号の禁止に違反して、インサイダー証券の売買を推奨した者
・同条第二項
  相応な外国の禁止は、本条第一項の意味における禁止と同じ効力を有する
  ドイツにおいても、−東西統一以前から−かつてからインサイダー取引については刑事規制の必要性が唱えられていた。
インサイダー情報の濫用がもつ問題として、オットーは、次の事柄を示す、
  ((1))  インサイダー・内部者が働いている企業に対する信頼を破る
  ((2))  個別の投資家の財産に損害を与える
  ((3))  投資家がもつ資本市場の機能能力に対する信頼を害する(24)
  ((1))の企業に対する保護は、既にドイツ刑法第二〇三条(個人の秘密の侵害)及び第二〇四条(他人の秘密の利用)で保護されている。問題は、((2))と((3))である。これらが本稿で問題としているインサイダー取引に対する主たる保護目的となるが、一般的に((2))は((3))の中に吸収される傾向にある。
  ドイツにおいてインサイダー取引規制の端緒となる刑事法分野の議論は、ディンゲルデイによるものである。ディンゲルデイによれば、インサイダー取引規制に関する保護法益は、証券取引市場の機能能力とされる(25)。証券取引市場の機能についてディンゲルデイは、株式市場において貯蓄資本と投資資本を変換させる機能(Transformationsfunktion)と株式市場の進展によって生まれる国家的に指揮される財産構築をする機能を挙げる(26)。このように、証券取引市場の機能能力の保護が必要とされる背景には、次のような理由がある。つまり、「かなり相互に依存しあっているこれら双方の証券取引市場の機能を最適に実現するのは、証券取引所での進展を基本的に見通すことのできない投資家がこのような制度の機能メカニズムに対して信頼しなければならない、ということを前提にしている。個々の投資家が関係者の誠実さとそこでの全体の出来事の清廉さを信頼する場合にのみ、彼は自分のお金を証券取引に投資することが可能になる(27)」、ということである。ここでは、証券取引市場の機能能力の実質は、投資家の「株取引の公正性に対する信頼」にあるとされる。特に、株取引での出来事の清廉さに対する投資家の信頼は、全ての市場参加者が原則的に機会均等であり、個々の投資家はなんら不当な特別の利益を意図することはあり得ないということを彼が出発点として置いている場合に、特に大きいと言ってよい、と解されている(28)。このような議論の文脈から、インサイダー取引の問題性の規範的克服について、株取引において出来る限り十分に競争の機会の平等を確保することが課題とされるのである(29)。つまり、信頼の内実として、株取引において投資者間で特定の一部の者が、未公開の、−他の一般投資家には−通常であれば知り得ない情報を利用して取引に臨むような行為がないということを意味するだけではなく、証券取引市場においてかかる行為が行われるべきではないということも含まれる。
  最終的に、ディンゲルデイによれば、インサイダー問題を有効に解決する株式市場の規範的な秩序づけは、競争における全ての投資家の原則的な機会均等を保障するために刑罰による手段を用意しなければならず、−これが成功する限りで−これによって公共の信頼を強化し、最終的に株式市場の機能能力を保全する、と指摘されるのである(30)
  つぎに、シュターケは、インサイダー取引では、その保護目的の構成にとって、超個人的な観点と非実体的な観点が一般的にますます重要性を増しており、それらが共同生活の枠組みを構築することを可能にする価値として共同社会によって承認され、最終的に無数の個人的立場と実質的立場を保障するということが認識されなければならない、と述べる(31)。かかる価値とは、資本市場の機能能力であろう、これはインサイダー取引によって害されるとする(32)。「株式市場とは、単に自由な制度にすぎず、それは自発的に正当化されるのではなく、それが経済全体の文脈の中で充足する役割から正当化される。この文脈は、市場経済システム、その要素たる資本市場、そして部分要素たる証券取引市場からなる。証券市場は、資本市場での需要と供給を調整し、資本市場が機能し発展するのを許容する。それゆえ、保護に値する法益として資本市場が考慮される。より詳しくは、その機能能力(33)」、とシュターケは説示する。
  ところで、なぜ、資本市場の機能能力の保護が必要なのかについて、シュターケは、「企業にとって次第に高まる資本の必要性は、一方では、高額な外部からの融資を通じてまかなわれ得る。他方では、しかしこのような融資も、十分な程度に(まかなうための)基礎に密接に関連する自己資本を利用する場合にのみ可能である。これによって、企業が自己資本を非常に必要としており、しかもそれが高まっているということは明らかである。これは、規模と費用に応じて資本市場を介してのみ充足され得る。それゆえ、今日、資本市場の給付能力と信頼性は、資本主義的に組織された国民経済の機能能力とその進展にとって最も重要である」、と説明する(34)。これによって、今日、資本市場が保護財であることを示すことが可能であるだけではなく、その上そうであることを示さなければならない、と言うのである。
  シュターケによれば、インサイダーの問題性は、投資家の平等と彼らのチャンスを害するところにあるとされる(35)。より詳しくは、インサイダー取引により、投資を決定する情報をめぐって、競争における投資家の出発点の平等(Ausgangsgleichheit)という株取引に関連したモデルの前提条件と機能の前提条件が部分的に害されるということによって、資本市場の機能能力は毀損される。価格形成と資本競争が偽って行われることによって、証券取引市場の基本的機能が毀損される、と解されている(36)
  また、オットーは、株取引は、機会の平等を前提としており、それが株取引を魅力あるものにし、この機会の平等はインサイダー取引の際には保障されず、ここでは取引の相手方は不釣り合いな取引の危険を担うことになる、と指摘する(37)。ここでは、取引の相手方の経済的な目的を不当に誤らせることが真正な財産侵害を基礎づける、とされる(38)。オットーは、インサイダー取引について、投資家の個人的損害を別個取り上げて見ることは誤りであり、むしろこの損害の中に資本市場、特に株に生じる損害が明らかになる、と解する。なぜなら、投資家に対してなんら信用に値する機会を提供しない市場は投資家によって逃避されるからだ(39)
  このオットーの見解では、インサイダー取引のもつ損害性は、個々の投資家の不利益に直接的に還元させるのではなく、株取引と証券市場が機能するための前提となる条件という超個人的な利益に求められる。
  今指摘したことを根拠にしながら、オットーは、個別の場合を超えたインサイダー取引の損害は、財産損害としては包括可能ではなく、資本市場の諸機能に対する信頼の喪失にあるので、ここで問題となっているセクターにおける資本市場の保護を保障するためには、侵害犯や具体的危険犯も妥当な犯罪形式を提供せず、超個人的法益と規制違反的な攻撃態様に対応する刑法的保護の手段は抽象的危険犯である、と主張する(40)。ここでは秩序の保護が重要であり、これによって初めて個人的展開が可能になるとされる(41)。また、抽象的危険犯という規制形式の必要性について、ボットケは、侵害の惹起または具体的危殆化が重要性を欠くために、抽象的危険犯について言及されるのであり、これは狭義の意味での経済刑法に固有のものであって、したがって、そのような用語は、かかる規制技術と、これによって行われる、「侵害となるにはほど遠い(schadensferner)」行為態様の犯罪化の正当化を説明することなしに、経済刑法の犯罪を記述する上での特徴を示唆するにすぎない、と説示する(42)
  以上のドイツの議論動向の概説から、ドイツにおけるインサイダー取引規制に関して−概略的ではあるが−、以下のような特徴がみられる。
  第一に、インサイダー取引の不法について、不当なインサイダー取引による利益の取得または損失の回避とその後の重要な事実の公開に基づく相場の変更がもたらす一般投資家の現実の損失に重点が置かれるのではなく、「証券市場の機能能力」とか、「証券取引の公正性に対する一般投資家の信頼」といった超個人的な利益に置かれている。
  第二に、この超個人的利益とは、証券市場において機会平等原則の下で株取引が円滑かつ公正に行われているという証券市場が正常に機能するための条件、つまり証券市場の機能能力を意味する。しかも、機能能力の保護の背景にある実質的中味として、一般投資家の証券市場における取引の公正性に対する信頼が挙げられる。
  第三に、このような超個人的法益の保護は、抽象的危険犯という規制形式で行われる。超個人的法益の刑法的保護とそのための抽象的危険犯の多用化は、現代的犯罪の大きな特徴といえる(43)。インサイダー取引では、インサイダーが一般的には知り得ない未公開情報に基づいて株の売買をしたことそのものを規制の対象にしている。それは、情報に接触する機会に関する一般的平等を害するもので、いわば抜け駆けをするという、形式的な「ルール違反」行為の性格をもっているといえよう。
  日本では、インサイダー取引にまつわる疑惑事件、特に、一九八七年に起こったタテホ事件を機に、インサイダー取引規制の気運が高まった。なお、タテホ事件の概要については、すでに多くの文献で解説されているので、ここでは割愛する(44)。その後、日新汽船株事件やマクロス事件(45)などが発生したが、それらは、比較的規模の小さなものといえる。また、大規模なものとして、住宅金融専門会社の経営危機にまつわる一連の住専問題(一九九六年)に関連して、東証一部上場の日本住宅金融(日住金)の大口株主だった金融機関のうちのいくつかが、経営危機を根拠に日住金に対する大蔵省の第一次立ち入り調査(一九九一年)の後の一九九二年に、−このような事情を一般投資家には伏せた形で−日住金の経営悪化による株価の低下を恐れて約二千万株を売却したことで、インサイダー取引の疑惑がもたれたのである(46)
  現行証券取引法のインサイダー取引に対する規制(会社関係者等による取引の禁止(証券取引法第一六六条以下)、情報受領者による取引の禁止(証券取引法第一六六条第三項)、公開買付者等関係者による取引禁止(第一六七条第一項)、公開買い付け等の事実に関する情報受領者による取引の禁止(第一六七条第四項)などの規制が、近年、刑事法の領域で議論となっている。その立法趣旨は、上場株式の発行者である会社の役員やその会社と関係を有する者が、その職務などに関わって、会社の業務などに関する重要事実を知った場合に、その重要事実の公表以前に当該会社の上場株式を売買することを禁止し、もって証券取引市場の公正性及び健全性に対する一般投資家の信頼を確保することと言われている。つまり、株等の発行会社の業務に関する内部情報及び株式の公開買付けに関わる未公開情報を知りながら、一定の身分を有する者が株式等を取引する行為を規制することに主眼が置かれている(47)
  従来、日本ではインサイダー取引は刑事規制の対象外であったといえよう(48)。その規制主体は、主として大蔵省の行政指導そして証券取引所及び証券業界の自主規制であったのに対し、しかし新たに規定されたインサイダー取引の禁止規定において注目すべきは、刑事罰をもってこれに対応する点である。したがって、通常の刑法典に規定されている犯罪と同様に、刑法の一般原則が適用されなければならない関係上、これは刑法の問題でもある。刑法の任務を法益保護に求めるのが通説的見解といえようが、日本でもインサイダー取引の規制においては、「証券市場の公正性・健全性に対する投資家の信頼の確保」を保護法益と解するのが一般的な理解である。ここでは証券市場システムに対する「信頼」が刑法上の保護対象となっている。
  先ほど紹介したように、ドイツにおいても上記の学説と同旨の主張が展開されている。オットーは、経済刑法において保護すべきは、行為者−被害者関係の中での具体的な信頼ではなく、抽象的な「システム信頼」であると指摘している(49)。ここでオットーのいうシステム信頼とは、人間相互の信頼を基礎に据えたものではなく、むしろ一個の確立したシステムに対する信頼なのである。具体的には、制度化された秩序が有効である(wirksam)とか、この制度に対して信用できるということを内容とするといわれている(50)。このオットーの学説は、日本のインサイダー取引規制に関する保護法益及びその把握と軌を一にするといえよう。
  確かに、我々が社会生活を営む上で、社会秩序に対して、全面的ではないにしろ、一定の信頼を与えることなしにはそこでの市民の生活は不自由であり、かつ不合理でもある。経済生活においても同様であろう。この信頼を媒介にして、人々は将来に向けていかなる結果が生じるのかについて未知の行為に着手することもできるし、また信頼によって行為に際して一定の結果も予測することが可能になる。証券取引市場において、市場が正常に機能し、しかもそこでの株の取引が公正に行われることに対する信頼が一般投資家の内心にあることは、証券市場の機能にとってきわめて重要な事柄である。そもそもこの信頼がなければ、投資行為はきわめて危険な行動となってしまう。その意味では、これは十分に理由のあるものといえよう。


5  システムに対する「信頼」保護としてのインサイダー取引規制


  ルーマンによれば、近代社会の成立以降、社会(Gesellschaft)は様々な社会システム(Soziale Systeme)に分化し(51)、そこでは、多数の人の行為が互いに結合されるときにはいつでも、社会システムないし行為システムが成立する(52)。それゆえ、それは複雑性を特徴としている(53)。このように「複雑性」を基調とする社会にあっては、個人には見渡し得ないほどの諸現実と諸可能性が存在している。「しかも世界は、時間的・空間的に展開していく複雑性を通じて、見渡しえないまでの世界の諸事実と諸可能性を通じて、問題を課す。従って、個人が世界に対して確実な立場を採ることは、まさにこうした複雑性ゆえに不可能なのである(54)」。しかし諸個人の生活、つまり社会的接触が安定的に遂行されるためには、ひいては社会システムの安定化のためには、その複雑性を縮減する必要性が出てくる。この問題に関してルーマンは、「信頼」をして複雑性を有効に縮減する形式として利用可能であると指摘している(55)。ここで「信頼は、複雑性の縮減を通して、信頼なしには不可能にして魅力なしと思われるにとどまったであろう行為の可能性を、したがって信頼がなかったら現実にはならなかったであろう行為の可能性を開示する(56)」性質をもっている。ルーマンの理解によれば、そもそも信頼は他人やあるシステムに対する自己の情報不足に由来する。したがって、「信頼を通して、ある種の危険が、つまり除去はできないが、しかし行為の妨げになってはならない危険が中性化される(57)」。つまり、「システムは、信頼という資本を利用することによって抵抗力をつけ、より困難な状況を切り抜けることが出来る」、とされるのである。
  システムに対する信頼についてルーマンは、自己と他者とのコミュニケーションを前提にして、「システム信頼は、他者もまた〔システムの機能的能力を〕信頼しており、信頼のこの共通性が意識されていることに基づいている」、と言う(58)。その意味で、あるシステムに対する信頼は、当該システムを円滑に機能させるのに有益であり、しかも不可欠である。つまり本稿の関連でいえば、証券市場の機能が公正に作用していることを自己のみならず、他者もこれを信頼しているのだということがシステム信頼の基礎として措定されるといわれることになる。
  一般的見解のように、インサイダー取引の規制においては証券市場の取引の公正さに対する一般投資家の信頼を保護すると解する場合にも、上記のルーマンの信頼分析が示したように、システム信頼に関しては、システムに対して自己と他者が相互に相手方がシステムを信頼しているのだと信頼することが基礎になっていることを念頭に置く必要がある。株式市場システムの機能とその機能能力に対する信頼を保護する場合、ここではシステムそれ自体をとりあげて、個人的法益たる個人的財産の侵害と区別してシステム信頼の毀損を理解すべきではない。システムは、一定の秩序の下で人々が活動するために構築されたものであり、人々の必要性と密接に関係しているのである。システムに対する信頼も、一定の秩序の下でそのシステムが本来もっている機能が営まれていることに対する自己の信頼であり、また他者もこれを信頼しているのだという自己の信頼、つまり二重の信頼なのである。このシステム信頼の中味を探ると、他者の違法行為によって、自己または第三者の利益が侵害・危険にさらされたときに、彼の行為はシステムに対する自己の信頼を害するのであり、システムにとって脱機能的現象といえるのである。所詮、システム信頼も個々人の信頼に対する信頼に依拠しなければならない類のものである。諸個人のシステムに対する信頼とシステムに対する他人の信頼への自己の信頼がなければシステムはうまく機能しないのである。
  株取引行為について言えば、証券市場において株取引が公平・公正に行われていることについて、他者の信頼に対する自己の信頼によって、結果の不確定な行為、つまり儲かるか、損をするかわからない証券市場において、投資家をして取引行為を可能ならしめる。その意味では、システム信頼も客観的な側面をもっていることは否定できない。
  このように、システム信頼を自己と他者の相互の信頼とこれに基づく取引行為へと還元することができるのであれば、信頼に対する毀損という実害を基礎とした違法性解釈も可能ではなかろうか。しかし、インサイダー取引が行われたからといって、一般投資家の信頼が損なわれたか否かを測定するのはきわめて困難である。反対に、信頼の毀損の有無の判断が困難であるということを逆手にとって未然の規制を行おうとするのは、一般市民に対して根拠の不十分なままでの警察的規制への道を作ることになりかねない。このようなことは、経済刑法の目的が、直接的には行為者の側面だけに着目した「システム」の保護、「システムに対する信頼」の保護に置かれており、間接的な効果としてのみ「個人的法益」の保護と関連しているにすぎないことを露呈するものである。
  ヘルツォークは、経済刑法において問題となっている信頼は、個人的法益の保護のなかに含まれている信頼保護とは別物だと批判している。曰く、「刑法による法益保護は、諸個人が相互に承認し合うなかで行動しなければならない、ということを保障する」ことが課題であり、ここでは交換可能な行為のパースペクティブ(Handlungsperspektiven)と予期の地平(Erwartungshorizonte)に対する人際的な信頼、つまり個々人のなかで分かち合われた共通の価値の承認が問題なのだ(59)」、と。これによって、刑法の信頼保護のあり方の再検討の必要性を唱えている。すなわち、ヘルツォークの学説では、刑法が扱うべきはシステムに対する一方的な信頼の付与ではなく、個人と個人の信頼関係の構築とその安定的かつ継続的な維持こそが課題であると主張されているように思われる。
  また、株取引において、そこでの基本は私人対私人の株の取引ということになる。例えば、私人Aは、不特定の他者Bに対して彼が証券市場の公正性について信頼し、公正に株の売買をおこなうということを信頼する。このような信頼の事実を出発点として証券市場システムは成り立っている。この私人間の取引行為に対して刑法はむやみやたらに介入すべきではない。確かに当事者の平等が確保されない場合も十分に予想される。ここで不平等を是正するために何らかの措置を講じる必要性がでてくる。だが、悪いからといって即座に刑罰の賦課を考えることも合理的だとは思われない。刑法を単なる強烈な予防的制裁の手段におとしめることは、大局的には、予想もしない結果を生むことにもなりかねない。他の制裁で済ませようとする努力も必要ではなかろうか。経験的には、金銭的利益を追求する者に対しては金銭的な不利益で対抗することも考えられる。このようないわゆる非犯罪化の提案として、まず行政コントロールの刷新、強化、そして課徴金(60)や、違法に得た利益の剥奪と懲罰的損害賠償を特徴とする、アメリカのインサイダー取引制裁法における民事制裁金(得た利益、または免れた損失の三倍額までの支払)などの刑罰以外の制度が挙げられている(61)
  なお、介入するとしても公正の明確性、法益の個別化・具体化、実害としての危険の存在を必要とすべきだろう。
  上述で繰り返したように、証券取引法において、インサイダー取引に対する刑罰規定の保護法益は、一般的に「証券市場の公正性・健全性に対する投資家の信頼」といわれる。つまり、インサイダー取引は、「証券市場の構成要件性を害し、投資家の証券市場に対する信頼を損なう者(62)」とされている。
  証券取引法第一六六条は信頼を毀損する行為を予定しているといわれる。ここでは内部情報を知って株式等の売買をすることだけで構成要件は充足されることになっており、取引によって実際に利益を得たこと、損失を免れたこと、そして利益を得る目的や内部情報を利用して取引をすることは要件とされていない(63)
しかも、構成要件が危険の存在の必要性を記述していないところから抽象的危険犯と解することができる。だが、刑法で扱うべきものは法益を現実に侵害・危険にさらす社会的有害な行為に限るべきだという見地に立つ場合、信頼の毀損の不明確さ、毀損の発生時期、そして現実の毀損の存否の判断が問題となる。
  証券市場の公正性・健全性に対する信頼をその毀損から保護する場合には、実際には法益に対する実害というモメントは考慮されない恐れがある。なぜなら、信頼の毀損の有無は計り難いからである。神山氏もまた、「それは抽象的で精神的なものであるので、法益とするには不適切である(64)」、と批判している。
  信頼の毀損の概念の不明確さということから、可罰的違法行為とそうでないものとの限界がつけがたく、形式犯的な取扱いがおこなわれる危険がある。またこのことは、刑法で扱うべき事柄とそうでないものとの区別がますます曖昧になることを意味する。にもかかわらず、刑法的規制が指摘されるのは、刑法への過大な信頼、行政のコントロールの不徹底さ、そしてこの不徹底さをなおざりにしたままで、その責任を刑法に転嫁することにその原因を求めることができよう(65)


6  若干の考察


  それでは、インサイダー取引規制の保護法益は、いかに把握されるべきであろうか。
  神山氏は、インサイダー取引そのものが一般投資家の具体的な経済的利益を侵害するものではなく、したがって、保護法益を一般投資家の財産的・経済的利益に求めることはできないとしつつ、インサイダーが重要事実を知って取引することによって常に利益を上げるということは、証券市場における当該会社の株の取引の公平性を侵害することは考えられるので、「当該会社の株の取引の公平性」を保護法益の中心に据えることはそれなりに合理性がある、と把握する(66)
  これを前提にして、証券市場秩序は、当該会社の株取引に関係するだけでなく、それ以外の会社の株取引にも関係することから、インサイダー取引は、直接的には当該会社の株取引の公平性を侵害し、それがひいては証券市場の公平性・健全性とか秩序も侵害する、と捉え(67)、−刑罰を用いてのインサイダー取引規制に消極的ながらも−インサイダー取引規制の保護法益を社会的法益として位置づけるのである(68)
  また、佐藤(雅)氏は、インサイダー取引における保護法益について、「証券市場の公正性」の実質を一般投資家の利益を媒介にして捉えるべきだとして、これを「平等な情報状態での取引の可能性」という一般投資家の利益と把握しつつ、保護法益を具体的かつ類型的に侵害する場合、さらには相当な不当利益が現実に得られた場合に可罰性を限定しようと試みる(69)。佐藤(雅)説では、投資家間において投資行為を行うための形式的に平等なスタートを保障することに刑法の任務を限定しようとする意図があると思われる。確かに、佐藤(雅)説において意図されていること自体は正当と思われ、システム信頼を保護する学説よりも法益の危険を客観化・具体化可能なものにするといえる。しかし−ここで提案した考えにも当てはまることであるが−、「『平等な情報状態』といっても、証券市場において投資家間の情報収集能力には大きな相違があり、しかも投資判断に影響を与えるあらゆる情報への平等なアクセス可能性を求めることは不可能に近いのであるから、このような利益にはなお抽象性・観念性が残らざるをえないであろう(70)」、との佐藤(雅)氏の正当な指摘にも表されているように、平等な取引の可能性といった場合、個々の投資家が持つ当該会社との関係に差異があるのは周知の事実であり、しかもこれは投資行為の際の前提とも言えるし、また情報化、コンピュータ化が高度に発展した現代において何が平等なのか、また平等な情報状態を逸脱する行為とはいかなるものを指すのかを確定することには困難がつきまとはざるをえない。この問題は今後の課題となる。
  たとえインサイダー取引が行われたとしても、それによって直ちに証券市場に混乱が生じたり、証券市場全体に対する一般投資家の信頼が毀損されるとは言い難い。むしろ、具体的には、インサイダー取引の対象となった銘柄の株との関連−株の価格の上昇または減少との関連−と当該株を購入、売却、そして保有している一般投資家との関連を考慮しつつ、インサイダー取引の保護法益を考える必要があるように思われる。
  とりわけ、現行法の解釈に関しては、「証券市場における取引の公平性」を保護法益と解しつつも、インサイダー取引が行われた結果、当該銘柄の株に関係する一般投資家の具体的な売買に際して、株等の取引に関する投資家間の「公平性」を現実的に毀損するようなものに限定すべきではなかろうか。このような理解は、保護法益を「直接的には当該会社の株の取引の公平性、間接的には証券市場の秩序(あるいは全株取引の公正性・健全性ともいえよう)」と解するものと大差はないと思われる(71)。一つの例で言うと、株価が下落する情報を予め知り、株を売り払うことで損失を免れ、情報を知らない一般投資家の若干の者たちが現実に経済的に損害を被ったことを基礎に法益に対する危険を考える必要がある。一般的には、((1))インサイダー(内部者)と当該会社との親密性や当該会社における地位(の重要度)など、インサイダーと当該会社の関係((2))内部情報に基づく株の売買によって得た利益もしくは免れた損失の額((3))インサイダー取引の後、当該銘柄の株の価格が、行為時と比較して重要事実の公開後とでは著しく変化したこと((4))これによってインサイダー取引を行った者とそうではない一般投資家(インサイダーから株を購入した匿名の投資家を含む)との比較において、当該銘柄の株の売却価格に差が生じることで、−確かに損害の抽象性は免れないが、重要事実の公表後の諸事情を考慮して−一般投資家に損失をもたらしたこと、などを考慮して、インサイダー取引の可罰性を判断すべきだと思われる。
  このような論理からすると、一律に全てのインサイダー取引を刑法の問題とすべきではなく、むしろ他の法領域における規制についても検討すべきだと思われる。さもなくば、この規制は単に悪いから処罰するということになってしまう。


7  補足信頼保護は刑法的保護に適しているか?


  未だ日本の社会風土においては「コネ」がまかり通っていることは否定できない。よく日本が「コネ社会」と言われるのはこのことを象徴している。「コネ」を多く、かつ強いコネを持っている人物は社会的に有力だと評価されていることも事実である。インサイダー取引はなにも日本固有の現象ではないが、日本の分脈からいえば、上記のコネ社会が生む一現象であり、コネを持つ人のみが享受することができる出来事といえるのではなかろうか。
  株取引においても、この「コネ」は大きな影響力をもつといえる。インサイダー取引にしてもコネを持っている人のみがインサイダー情報に接することができるのであり−損失保証や損失補填も同様である−、これは、株取引の公正性を害するのであるが、その反面、日本社会の文脈からすれば、明確に不当なものとはみなされていない。なぜなら、コネは、社会を機能させる潤滑油の役割をしてきた、またはしているからである。そうであるならば、インサイダー取引が社会にとって有害な行為である、という規範意識が市民に根づいているかは、未だ判然としない。このような状況下では、刑罰によるインサイダー取引規制は、応報ではく、市民の規範意識の創出と遵法の訓練という教育的な目的を持つことになる。しかし、刑罰による市民の規範意識の改変には、賛成しがたい。
  インサイダー取引の規制強化の姿勢そのものは肯定的に評価すべきと思われる。だが、「日本の証券業界において、インサイダー取引が真に害悪として認識され、業界内部の者が相互にチェックし合う状態にいたらない限り、その摘発は依然として困難となろう(72)」、という苦言も出されている。
  安易な刑罰賦課の姿勢は刑法の加重負担となり、それにより、刑法に対する市民の信頼を喪失させてしまう。ひいては、犯罪に関して人々は、「スピード違反」のように、事件が発覚しても単に「しまった」ぐらいにしか思わなくなってしまい、彼らの「罪悪感」を薄れさせる恐れのあることにも注意しなければならない。


(1)  hierzu vgl. Makoto Ida(井田良), Strafrechtliche Haftung von Leitungsorganen, KEIO LAW REVIEW No. 8 (1995), p. 63.
(2)  Katsuyoshi Ikuta(生田勝義), The Consumer Protection Criminal Law in Japan, RITSUMEIKAN LAW REVIEW No. 3 (1988), p. 26.
(3)  神山敏雄「経済犯罪−その実情と法的対応(一)」捜査研究四九〇号(一九九三年)三九頁。
(4)  京藤哲久「経済刑法の構成要件と合目的的解釈」刑法雑誌三〇巻一号(一九九〇年)九六頁。
(5)  京藤、前掲九九頁。
(6)  小林敬和『経済刑法の理論と現実』(一九九一年)八四頁。
(7)  小林、前掲、一五四頁、一六三頁。
(8)  神山敏雄「経済刑法における保護法益」Law School 二九号(一九八一年)五一頁。
(9)  芝原邦爾「独占禁止法違反の罪(二)」法律時報五八巻七号(一九八六年)九六頁。
(10)  芝原邦爾「消費者保護と刑法の役割」法律時報五九巻三号(一九八七年)八九頁。
(11)  芝原、前掲「消費者保護と刑法の役割」、八九頁。
(12)  長井圓『消費者取引と経済規制』(一九九一年)一〇頁。
(13)  長井、前掲、三頁。
(14)  同じ趣旨の主張と思われるものとして、佐久間修「コンピューター犯罪と悪徳商法」法学教室一八八号(一九九六年)二四頁。
(15)  長井、前掲、一一頁。
(16)  松宮孝明、中山研一他編『経済刑法入門』(第二版)(一九九四年)一八六頁。
(17)  京藤、前掲、九八頁、一〇六頁。芝原、前掲「消費者保護と刑法の役割」、八八頁。小林、前掲、七〇頁、八五頁。長井(圓)、前掲、九頁、四五頁。
(18)  Stefan Werner, Wirtschaftsordnung und Wirtschaftsstrafrecht im Nationalismus, 1991, S. 601.
(19)  Urs Kindha¨user, Zur Legitimita¨t der abstrakten Gefa¨hrdungsdelikte im Wirtschaftsstrafrecht, in:Bernd Schu¨nemann und Carlos Sua´rez Gonza´lez (Hrsg.), Bausteine des europa¨ischen Wirtschaftsstrafrechts, 1994. S. 125.
(20)  Kindha¨user, a. a. O. S. 125.
(21)  Ulrich Sieber, Entwicklungsstand und Perspektiven des europa¨ischen Wirtschaftsstrafrechts, in:Bernd Schu¨nemann und Carlos Sua´rez Gonza´lez (Hrsg.), Bausteine des europa¨ischen Wirtschaftsstrafrechts, 1994, S. 353.
(22)  Vgl. Christian Schro¨der, Aktienhandel und Strafrecht, 1994, S. 129ff.  Peter Cramer Strafbarkeit der Ausnutzung und Weitergabe von Insiderinformationen nach dem Recht der Bundesrepublik Deutschland, in: Kurt Schmoller (Hrsg.), Festschrift fu¨r Otto Triffterer zum 65. Geburtstag, 1996, S. 324f.
(23)  これに関して、Christian Schro¨der, Strafbares Insiderhandeln von Organvertretern einer AG nach geltendem und neuen Recht, NJW 1994, S. 2879.
(24)  Harro Otto, Miβbrauch von Insider-Informationen als abstraktes Gefa¨hrdungsdelikt, in:Bernd Schu¨nemann und Carlos Sua´rez Gonza´lez (Hrsg.), Bausteine des europa¨ischen Wirtschaftsstrafrechts, 1994, S. 450.
(25)  Thomas Dingeldey, Insider-Handel und Strafrecht, 1983, S. 64.
(26)  Dingeldey, a. a. O. S. 64f.
(27)  Dingeldey, a. a. O. S. 65f.
(28)  Dingeldey, a. a. O. S. 66.
(29)  Dingeldey, a. a. O. S. 66.
(30)  Dingeldey, a. a. O. S. 66f.
(31)  Henning Starke, Das franzo¨sische Insiderstrafrecht, 1993, S. 26.
(32)  Starke, a. a. O. S. 26.
(33)  Starke, a. a. O. S. 26.
(34)  Starke, a. a. O. S. 28f.
(35)  Starke, a. a. O. S. 31.
(36)  Starke, a. a. O. S. 31.
(37)  Otto, a. a. O. S. 451.
(38)  Otto, a. a. O. S. 452.
(39)  Otto, a. a. O. S. 452.
(40)  Otto, a. a. O. S. 453.
(41)  Otto, a. a. O. S. 457.
(42)  Winfried Bottke, Zur Legitimita¨t des Wirtschaftsstrafrechts im engen Sinne und seiner spezifischen Deliktsbeschreibungen, in:Bernd Schu¨nemann und Carlos Sua´rez Gonza´lez (Hrsg.), Bausteine des europa¨ischen Wirtschaftsstrafrechts, 1994, S. 112.
(43)  拙稿「抽象的危険犯の現代的展開とその問題性(一)(二)(三・完)」立命館法学二三九・二四〇・二四一号(一九九五年)。
(44)  神山敏雄=佐藤雅美、中山研一他編『経済刑法入門』(第二版)(一九九四年)八一頁以下。
(45)  判例時報一四三八号一五一頁。
(46)  この問題に関して、「これら(論者注日住金の株主である銀行、保険会社、などの一八一の金融機関)の所有株数は一億八百六三万株で、日住金の株式総数の七六%を占めていた。しかし、翌九三年三月時点では、金融機関の株主数は、百六七行になり、所有株数は八千八百十八万四千株、株主比率も六十二%に減っていた」、と報道されている(朝日新聞、三月九日朝刊(一九九六年))。
(47)  重要事実の公開の意義について、証券取引法第一六六条第四項及び証券取引法施行令第三〇条を参照。
(48)  なお、現行の証券取引法第一五七条一号「有価証券の売買その他の取引・・・について、不正な手段・・・をすること」、とあるが、−確かに文言の不明確さ、抽象性は否定できないが−この規定でもインサイダー取引を規制することは可能であったといえよう。しかし、現実の立法過程ではそうは理解されなかった。
(49)  Harro Otto, Konzeption und Grundsa¨tze des Wirtschaftsstrafrechts, ZStW 96, 1984, S. 343.
(50)  Otto, a. a. O. S. 344.
(51)  社会システムの定義について、社会システムとは、互いに指示し合う社会的行為の連関のことである。
(52)  舘野=池田=野崎訳/ゲオルク・クニール=アルミン・ナセヒ著『ルーマン・社会システム理論』(一九九五年)四四頁。
(53)  複雑性とは、現実化されうる以上の可能性が常に存在するということ、または世界の中で生起可能な出来事の総体を指す(参照、村上純一=六本佳平訳/ニクラス・ルーマン著「法社会学」(一九七七年)三八頁)。
(54)  大庭=正村訳/ニクラス・ルーマン著『信頼』(第二版)(一九九〇年)五頁。
(55)  ルーマン、前掲、一一頁。
(56)  ルーマン、前掲、四二頁。
(57)  ルーマン、前掲、四二頁。
(58)  ルーマン、前掲、一二九頁。
(59)  Felix Herzog, Gesellschaftliche Unsicherheit und strafrechtliche Daseinvorsorge, 1991, S. 118.
(60)  神山敏雄『日本の経済犯罪』(一九九六年)七一頁以下、七四頁、三〇三頁以下。
(61)  神山敏雄=佐藤雅美、前掲、八四頁以下。
(62)  芝原邦爾「インサイダー取引の処罰」法学教室一六六号(一九九四年)九二頁。
(63)  佐藤雅美「インサイダー取引と刑事規制」刑法雑誌三〇巻四号(一九九〇年)五五九頁。
(64)  神山敏雄「インサイダー取引と経済刑法」岡大法学四〇巻三・四号(一九九〇年)四二五頁。
(65)  神山氏は、直罰方式でのインサイダー取引規制には賛成せず、つぎのような提案をする。つまり、「インサイダー取引は不当に利得した利益を剥奪することによって効果的に取締まることができよう。証券取引分野においても、公取委のような専属的取締機関を設け、公取委並の権限を与えて、課徴金のような行政処分によって利益を剥奪することにすれば、刑事摘発よりははるかに多くの行政摘発が可能となるのは確実であり、それに伴って規制もかなり根づいてくるであろう」(神山、前掲「インサイダー取引」、四二七頁)、と。
(66)  神山、前掲「インサイダー取引」、四二三頁。
(67)  神山、前掲「インサイダー取引」、四二三頁以下。
(68)  神山、前掲「インサイダー取引」、四二七頁。
(69)  佐藤(雅)、前掲、五六四頁。
(70)  佐藤(雅)、前掲、五六三頁以下。
(71)  神山、前掲「インサイダー取引」、四二七頁。
(72)  神山、前掲「インサイダー取引」、四四〇頁