立命館法学  一九九六年三号(二四七号)




ギュンター・ヤコブス
機能主義と古きヨーロッパの原則思考の狭間に立つ刑法
はたまた「古きヨーロッパ」刑法との決別か?




松宮孝明
        訳
金 尚均








I  序    説


  刑法的機能主義とは、ここではつぎのように概念づけられる。つまり刑法は、規範的アイデンティティーの保障、すなわち国家、社会体制の保障に向けられる。ここで社会は、−デカルトに続いて−ホッブスからカントにいたるまでの個人の意識に着目した哲学が考えたものとは異なって、契約を結び、定言的命法を産出し、または同様のことが拡大するような、諸々の主体から構成されるシステムとは理解されない(1)。確かに哲学の歴史が教えるように、これらのことも主題にあげられてもかまわないし、しかも懸案となっている諸問題をしばらくの間一つの概念にまとめることは可能であるにもかかわらずである。ところで、意識が固有の規則にしたがうように、このことはコミュニケーションもそうである。それゆえ主体志向的な手がかりと対をなすもの、つまり共同社会的、古きヨーロッパ的ーアリストテレス的な全体としての国家論モデルによっても、ともかくも社会的基体が定式化される場合には、問題の解決方法は見つからない。もちろん原則的には刑法とはかなりかけ離れるが、法システムのための推論を伴うので、社会システムと心的システムの相違に関する最も明確な説示は、現代ではルーマンのシステム論にある(2)。もっともこの理論について少ししかかじったことのない人でも、すぐに当の(ルーマンの)説明が、決して一貫して理論にしたがっていない、それどころかその要点においてさえまったく理論に従っていないと感じるであろう(3)

II  基    礎


1.社会の一部としての刑法
  機能とは、−単独で又は他と共同して−システムが保有している諸々の働きである(4)。働きについて言うと、ここでは刑法全体のそれが問題なのであり、刑罰だけが問題になるというわけではない。刑罰は、これだけを見ると、害悪以外のなにものでもなく、しかも行為と刑罰の客観的な連続性に目を向けると、ヘーゲルの有名な言葉によれば、二つの害悪の非理性的な連続だということがはっきりしている(5)。行為を規範に矛盾する主張とし、刑罰を規範を確証する応答とするコミュニケーテイブな理解によって初めて、回避することのできない、しかもその意味で理性的な関連が明らかになる。このことは、ここで検討する予定の諸々の条件の下で明らかになるのである。
  刑法の働きは、社会のアイデンティティーを規定している規範に異議を唱えることに対して国家の側で異議を唱えるところにある。すなわち刑法は、社会のアイデンティティーを確証するものなのである。すなわち犯罪は、社会進化の始まりとか、認知的に処理されるべき結果とは見なされずに、瑕疵あるコミュニケーションとして受けとめられる。その際、その瑕疵は行為者が負うべき責任(Verschulden)として帰属される。つまり社会はこれらの規範を堅持し、自己の解釈変更を拒むのである。このような理解によれば、刑罰は社会のアイデンティティーを維持するための手段だけではなく、既にこれを維持することそのものなのである。確かに、例えば、法信頼の維持または強化に対する期待など、様々な態様の社会心理的もしくは個人心理的効果が刑罰に期待されるかも知れない。しかし、刑罰は、既にかかる効果とは独立したものを、すなわち自己確認・確証(Selbstvergewisserung)を意味するのである。
  積極的一般予防を経験的に考察するというのは(6)、それゆえ常に少々場違いなものにならざるを得ない。というのも、これは、周辺の事柄(Umfeld)、すなわち個人もしくは社会心理的効果に関するものであるが、しかしこの理論の本質に関するものではないからである。そもそも真摯に規範侵害を理由として手続きが行われる場合には正真正銘いつでも、コミュニケーテイブな領域上で、刑法は撹乱された規範の妥当を絶えず再確立する。このことは同時に、これによって社会の不変のアイデンティティーが明らかにされるということを意味する。経験的に把握可能なのは、このような出来事では、単に犯罪、手続き、そして両者の関連にすぎない。特に、アイデンティティーの確証は経験的には把握できない(7)。なぜなら、それは手続きの効果ではなく、その意義だからである。
  さて、このような法システムの自己充足性と「社会システムのいかなる問題が特殊法規範の分化及び最終的に特定の法システムの分化によって解決されるか(8)」とは、全く別個のものである。ともかくも機能主義は、社会システムの問題が解決されなければならない、と主張するが、しかもこのことは機能主義にとって二つの忌まわしい事柄の原因となる。今一つは、純粋正義論を背景にしたものであり、もう一つは、単に社会システムとの機能的関係を根拠にしているものである。これを明らかにするために、つぎのような主張をつけ加えよう。つまり、偶然の結果以外のものが産出されるべきであるとすれば、法システム外在的な働きは、法的規制の展開に際して、すなわち理論的作業に際して、法システム内在的に先取りされなければならない、と。客観的帰属から規範的責任論に至るまで、規範の不知による責任阻却の可能性から先行行為によって罪責を根拠づける可能性に至るまで、近代刑法の特記すべき理論的道具は全て、法的規範性(rechtliche Normativita¨t)の機能を顧慮せずに純粋法システム内在的に見るだけでは展開され得なかったであろう。そうだからといって、これを考慮することが常に意識的に行われると主張するわけではない−機能的ということは、「正当」であると表現されてきたかもしれない。客観的に帰属可能な態度の確定については、次のこのことが明らかになる。つまり、単に内在的な視点は、内在的理論に反して、構成要件の実現と社会的相当性が排除しあうことはないということを教える。衝突の止揚のためには明らかに包括的パースペクテイブが必要である。さらに明確にするためには先行行為のための言葉で十分かもしれない。外在的な見方をしなければ−常に繰り返し公式化されているように−、ドグマーティクは、有意的な作為との類似性という基準を克服することはできなかったし、また今もできない。しかし、すなわち、自由に行動する余地があるにもかかわらず予期・期待の安定性を保障するという、作為責任の機能が認識されるなら、不作為に関していえば、結果回避義務は特別の危険を冒すことに伴う負担であるという洞察になるのである。ここで外在的と特徴づけられた見解を考慮することとは−既に上述の事例が教えているように−、前代未聞の刷新が問題なのではない。つまり、むしろ、最初はまだなじみのないパースペクテイブにおいて明らかになったものが外在的と見なされる。これに関する究極の例として、フィナリスムスに対しても、−反論として見れば正当な、しかし異議を述べたものではないけれど−それは、哲学的ー人間中心主義的な、そしてこのような意味において外在的なパースペクテイブに依拠している、と主張されたのである。
  同様に、刑法による社会問題の解決は、いずれにせよ社会の部分システムたる法システムを通じて行われるのであり、つまり、その解決が社会内在的に行われるのである。すなわち、社会と刑法を引き離すことは不可能である。つまり、言い換えれば、ある程度、刑法が社会の他の部分から推察され得るように、刑法が社会のかなり言明力のある名刺(Visitenkarte)であることを意味する。例えば、最高刑が、魔法に対して科せられるのか、総統を冒涜する行為に対してか、はたまたは殺人に対してかは、刑法と社会の双方を特徴づける。
  これにしたがえば、社会と刑法は相互に依存し合っている。社会システムに見合った複雑性を法システムがもつに至るまで−また逆に、刑法が、社会について、自由裁量に委ねられないような、妥当している格律(Maximen)として、これを考慮するよう促すこともある−、新たな社会問題に対して刑法がその克服に努力せよと要請されることもある(9)。しかし、このことは、そのつど進化論的な進歩の条件と一致していなければならない。社会システム、そして法システムも、それらの本性に反したことはしない。すなわち、刑法を単に待女へとその地位を落としめることが問題ではなく−それは社会の部分でありまたそうでなければならず、比喩的言うと、仮に明るく照らし出されたときでも堂々としていなければならない−、また刑法によって社会を操縦することもできない。−社会の形態、もちろん発展可能な形態の維持のためにもはや何の寄与もいらないのであれば、操縦がうまくできることは重要ではない。
2.規範の保護
  刑法が行う規範的アイデンティティーの確証が、なぜ社会システムの問題を解決するのであろうか。その理由は、社会の構成が−人格や主体自身の構成と同様に−規範を通じて行われるからである(10)。このことを簡潔に概略すると、社会は(規範を媒介にした)コミュニケーション連関の構造物であり、常に、それは、現実に構築されたのとは別の形で構築され得るものである(そうでなければ、それは構造物ではない)。ここでは形成すること(Gestaltung)が問題であって、状態を固定させることが問題ではないとすれば、社会のアイデンティティーは、形成のための規則を通じて、すなわち状態や財ではなく、規範を通じて規定されるのである(もちろん、領域によっては、規範の反映、例えば財から規範が遡推され得る場合もある)。必ずしも全ての逸脱が進化の端緒と見なされるべきでないとすれば、コミュニケーション連関は逸脱した構想に対抗して、その形態を主張することができなければならない(11)。しかも仮にこの場合でさえも、社会進化のための諸条件が保障されなければならない。なぜなら、さもなくば進化はもはや恣意とは区別され得なくなるからである。
  ここで問題にしている諸規範の一部は、その内部で、近代では一般的に接続可能なコミュニケーションが行われる合理的世界を構築する。しかもなんら特別な安定化を必要としない(12)。このような規範の部分は、認知的に十分に保全される。これを承認しない者は、何らかの部分社会では理解されることもあるかも知れないが、しかしそこでだけである。例示的に言うと、自然科学的にある程度調和のとれた世界像にしたがって生活していない者は、西欧タイプの近代社会において有利と見なされるあらゆる機会を即座に失う。もっと具体的に言うと、土台のしっかりしていない家は、すぐに倒れる。そして雨ごいをする者は、せいぜいのところ近代社会のはずれで(訳者注社会との)関係を見つけるにすぎない。
  社会を構成する諸規範の他の部分は、自己安定化のためのかかる先天的な力を欠いている。その規範とは、すなわち、社会の理解によれば所与のものとは見なされない規範、つまり自然法則としてでもなく、また今日もはや神から啓示された法としてでもなく、しかるべき根拠があるとしても、作られた法としかみなされない全ての規範である。自然法則や神の自然法といった規範は、それらに従う者全てに対して強制的に一定の態度をとらせるための基礎を構築する−それらにまったく服従しない者は社会的に無能力である−のに対し、いずれにせよ個々の場合にであるが、後者の規範は、主体によって自由に処分される。究極の例で言うと、家を二階から造り始めることを誰も欲することはできないけれども、おそらく建築法が禁じている場所で家を立てようと欲することはできるであろうし、しかも完成させることもできるであろう。このことは、つぎのような公式にまとめることができる、すなわち、瑕疵ある認識に起因する瑕疵ある意思がその無能力を露呈し、しかも多かれ少なかれ自然の刑罰(Poena naturalis)を必然的にともなうのに対し、個々の意思の瑕疵そのものだけでは、なんら不利益な態度結果を恐れさせるものではないということである。
  まさにこのような規範の明白な偶然性ゆえに、つまり法規範さらには倫理規範における正当な意思の証明不可能性ゆえに、その妥当は他の方法で保障されなければならない。それは、まさに制裁によってである。つまり刑法規範に関しては、公式的な手続きにおいて賦課される刑罰によってである。自然法の終えん以来、刑罰は非理性的な者に科せられるのではなく、反抗する者に対して科せられるのである。制裁は規範違反者の世界構想への対抗を意味する。違反者は、問題の事件に対して、規範が妥当していないことを主張するが、制裁は、このような主張が(訳者注現行社会において)基準にならないことを確証する。
3.社会性対主体性
  (a)  媒介された主体性(Vermittelte Subjektivita¨t)
  さて、機能主義に対して広く行き渡っている反論とはつぎのようなものである。つまり、機能主義によれば社会が安定化されなければならないとされるが、自由な主体は問題ではないことになる(13)。あるいは、規範が安定化されなければならないとされるが、自由を可能にする規範が問題なのか、あるいは犯す規範が問題なのか、はっきりしないということが機能主義の特徴なのだ、と。
  「社会が安定化されるといわれるが、自由な主体については問題とはされていない」、という第一の反論について言えば、前半については同意する。つまり、法システムを分化させた社会システムのアイデンティティーを維持することが課題である。しかし、自由な主体が消えてしまっているとする後の半分は的はずれである。つまり、正確に言うと、主体は、それがコミュニケーテイブに媒介されるのにしたがって、すなわち社会の自己記述が規定するのにしたがって存在する。もちろん媒介がなければ主体もない。しかし、主体はコミュニケーションの中心的客体にもなることができ、その上、彼は他のこと全てを支配する。この端緒は、その限りでなにをも排除せず、中立的である。
  これに対しては、またしてもつぎのように申し立てられる。つまり、あたかも社会のおかげで生きているような自由な主体は少なすぎる、と。主体を派生的に基礎づけることは許されず、主体は端緒と目的を構築しなければならない、すなわち、主体は必然的に、刑法という企行の主たる中味を構築しなければならない、と。
  このような反論を経験的に理解しようとした場合、それは明らかにつじつまが合わないであろう。コミュニケーション主義論争がとにかく何かをもたらしたとしたなら、それは、主体性は具体的に常に社会(Sozialita¨t)の中で発達するのであり(14)、人形芝居小屋においてではない、という洞察であり、しかもこの洞察は、適切にも「比較的平凡な」ものと言われたのである(15)。例えば、ミードによってこれについてすでに詳細に考察されている(16)。それどころか、すでにルソーにおいてもそうである。つまり、第二の論文で(17)、彼は、貧弱な形式の、偶然で、相反する道具的(instrumentiell)な手がかりでしか社会が生まれていない原始の状態について言及している。そこてそのように行動している人々(ルソーは彼らを森の中に住んでいる野蛮人と記述している)はアイデンティティーをもつものではない。すなわち、自己連関、それどころか、自由な自己連関を可能とする状態からはかなりかけ離れている。主体性は社会によって媒介されて生まれることになる(18)
  些細なことではあるが、以上の経験的所見は一つの理論をャッ提唱する。つまり、「自由主義」対「集団・団体主義」という意味において、主体性を構成する諸条件を社会(Gesellschaftlichkeit)を構成する諸条件と対置させることは間違っている、と。機能化された社会がなければ、主体性の経験的な諸条件は欠如したままである。おそらく気づかれるだろうが、これと逆のことは問題ではない。つまり、機能化された社会が皆、主体が相応の権利を認められる社会であると主張されるのではない。強調して言うと、機能化された社会がなければ、個々人にとって拘束的な連帯がないために、客観的世界を知りもせず、それゆえ彼の固有の感情の域を超えることもできないような、個人の偶然的な集積以外のなにものも存在しない、と主張されるにすぎない。
  例えば、社会が逸脱行動を公式的リアクションなしに処理することができるか否かを考察し、しかもそれが不可能となる条件の総体−これを「責任」と呼ぶのであるが(19)−を考察している者は、そのことによって、例えば自由の精神を汚すのではなく、もちろん自由でない社会をも安定化させることもあるが、しかし同じく自由な社会が放棄することのできないような、何かあるものを公式化するのである。俗世の義務を俗世の支配者に対してきちんと果たしていない者は、すでにこの世において神に奉仕することが可能となるのに必要な条件を破っているのであって、他に何をやっても無駄である。コミュニケーティブな手続きがなければ、なんら自由な主体は生まれないのである。
  もちろん、社会における主体の経験的基礎づけについてこのような指摘をすることによっては、主体の社会に対する関係についての存在論的な問題に答えていない。つまり、それはここでも答えることはできない。わたしには、アリストテレスからヘーゲルに至るまでの流れを現実のものにしようと試みることができるにすぎない。この流れは、通常「古きヨーロッパ」的と呼ばれている諸々の立場を結びつけているのだ。「共同社会で生活できない者、またはこれを必要としない者は、動物かまたは神である」、という厳格な言葉は(20)、常になお真実の一面を表している。つまり、そもそも、自己を主体として他と一線を画し、しかも主体として理解するようになるためには、主体はどこかで社会と関係をもたなければならない。なぜなら、孤立した主体性というものは、孤立している他人と同様、ほとんど考えることはできないからである。つまり、比較可能な主体を背景にしてのみ輪郭が浮かび上がってくるのである。より詳しく言うと、コミュニケーテイブな意味を背景にしてのみ主体の意味が現れてくるのである。その際、社会を何か完成したものとして主体の上位に置くことは問題ではない。単に逆もまた不可能であるにすぎない。別様に公式化すると、主体とは、社会が存在するための前提条件であるだけではなく、社会の帰結でもある(21)。拘束的な客観的世界がなければ、主体性は存在せず、逆もまたそうである。
  しかし社会関係であれば、何でも拘束力ある客観世界だと見ると、上で概略した見地はもっと簡略になる。部分社会における多元主義として知られている思想はそのようなものである。すなわち共同体を私的なものとして理解するのである。これによってそこで社会化された者は、特殊な者になり、また、普遍的な寛容をもって他の私人と交流する私人になる。つまり、交流することは互いにとって気晴らしになる。「あるがままの私」ということが、社会化の目的になる。アリストテレス風に言うと、これは、動物の集団や神々の集団の形成であろう。なぜなら、アリストテレスが考えていた共同体は、公共、つまり国家だからである。国家は、ヘーゲル(22)が試みたのとは異なり、今日もはや主体にとって神聖なものとは概念づけることはできないが、しかし、このことはまた、市民社会のあり方に基づいた合法性の原則に対してもっともな別の選択肢があるということも意味していない。また、このような認識に主体は何とか到達しなければならない。さもなくば彼にとって合法性とは単なる強制であり、彼は動物になるか、もしくはとるに足らないが、彼は神として行動するかである。公共的共同体の原理をなんら基礎づけることのできない者は、公共において主体でもなく、そして空想的な原理しか知らない者は、空想を越えたところでは、同じく主体ではない。
  機能主義刑法が純粋に主体に敵対しているとの批判は、すなわち社会、また法的に組織された社会と主体性が有する経験的かつ理論的関係にも合致せず、むしろそれは、主体を「抽象的」に把握することによって、その現実については沈黙してしまっている(23)。おそらくこの反論は、その上全く明らかに幾人かの著者によれば、社会機能的見地を集団主義的またはそれどころか全体主義的に方向づけられた社会モデルとを単に取り違えているにすぎないということに起因しているのであろう(24)。しかし、機能的見地はなんら一定のモデルに固定されてはいない。機能的に組織された自由主義社会は存在するのであり、最近の歴史が教えるように、非機能的に組織された集団主義的社会は破滅する。社会が機能的に組織されていることしか知らない者は、その具体的な形態、すなわち接続可能なコミュニケーションの内容については何も知らない。−これを確証するために−歴史によって提供される、頭がおかしくなるほどたくさんのテーマの多様性を考えて見よ。しかし、彼は、すなわち害された重要なものが再びバランスを取り戻すようなやり方で、犯罪行為のような、常日頃生じるコンフリクトを処理するための制度をこのような社会が持ち、しかもこれを利用するということを知っている。機能的見地ではこのような自己維持力だけが問題であるにすぎない。もちろんいかなるシステムもこのような力を放棄することはできない。例えば、民事的な措置へと大幅に後退させようとするような、公的な刑罰請求権の危機は、「刑罰請求権(25)」の危機だけではなく、公共の危機でもあろう。
  (b)  法規範
  それと共に、わたしは、「規範が安定化されるべきだとされるが、自由を可能にする規範が問題なのか、あるいは犯す規範が問題なのか、はっきりしない」、という第二の批判に言及する。「犯罪発生率とともに個人の自由権や人格の尊重も低下させるテロと化した刑法(terrorisierendes Strafrecht(26))」によっても規範の保護がおこなわれるといわれる。このことは確かに正しい。つまり、全ての奴隷制社会は、奴隷化のための規範を保護する。そうでなければ、その社会は奴隷制社会ではないことになる。しかし、単に、規範の保護が問題であるという状況は、強調的な意味において法規範の保護が問題であるということを意味せず、もちろん一定の形態の社会が維持されなければならないということもまた意味していない。例えば、奴隷は主人の財産として法律関係の客体ではあるが、すでにそれゆえ、法における人格、すなわち潜在的に権利を有する者でも潜在的に義務を負う者でもない。しかも、動物と同じく単なる道具として、彼は自分の主人が属している社会の構成員でもない。もっとも、主人は道具としての奴隷とコミュニケーションをとることもあろうが、けれどもその際、働き馬を動かす場合にしか社会は生まれない(27)。両方の側を拘束する規範によって初めて、非道具的な社会が登場するのである。つまり例えば、奴隷自身が賭けごとをして公正なゲームに破れたことを理由に、自分は奴隷に格下げされると認識しなければならなかった関係−そのようなことが成立し、かつ自己矛盾のゆえに否定されないと仮定した場合(28)−が、法律関係である。その際、奴隷はまた事態を受け入れた者として主人と同等の人格であり、しかも主人は、奴隷がかつては人格であった者としての彼の固有性において奴隷なのであり、単に力に服する者としてではないということを承認せざるをえないのである。
  ヘーゲルの古典的定式化によれば、次のようであろう。法の命令によれば、「人格たれ、そして他の人を諸々の人格として尊敬せよ(29)」、と。その場合、これは機能的見地とかなり親近性をもっている。もちろんまた他の見地もありうるが。これをもってして答えられない問題は、もちろんこのような命令の中に全ての人間が包含されるか否かということである−原則的に奴隷はそうではない。今日ではある程度受容可能とみなされる社会システムはかかる人格主体からの排除を許容しないとしても、これは、排除禁止をあらゆる社会に通用させるなんらの根拠でもない。古代ローマ法もしくは南北アメリカの植民地時代の法は、奴隷の購入に関する契約を無効だと宣言したのは誰かを正しく記述していないし、しかも旧東独の法は、亡命者に対する射撃をシステム内在的に可罰的だと見なしているのは誰であるかを記述していない(30)。つまり、これらの秩序はまさにかつて一定の人間を排除することをを知っていたのである。しかし排除しなかったとしても、ある者が人格足り得るのに満たさなければならない最低条件とはいったい何かという問題が残る。−責任をもつ必要なく−十分に生活の糧を手に入れるチャンスのない者は、自分の贅沢を擁護する者を人格としてほとんど尊重することはできず、承認闘争を始めるであろう。明らかなことだが、このような問題と多くのさらにつきまとう問題は、いわば刑法内在的に処理され得ないし、しかもそれゆえ解釈者が適当と見なす社会モデルに刑法を準拠させることもまた妥当ではない。望ましい社会の刑法が問題なのではなく、法システムを分化させた社会の刑法が問題なのである。急ぐとか遅らせるとかということは、すでに存在している基準にスポットを当てることが妥当な場合に初めて意味をもつ場合に、そこではもちろんそれは、拙速やだらだらとした仕事ぶりが規範的効力を欠くのと同じように意義を有する。
  それゆえ社会が実際に自由権を削減する方向に向かう場合(31)、それはこのことを刑法において行うだけではない。しかも、かかる傾向に対してしか最終手段が投入されない所では、刑法の危機をも想起されうる。不必要に過剰な犯罪化が問題となるのか、それとも必要な中核の防衛が問題となるのかは、政治的にしか決まらないのであって、刑法学によって決めることはできない。刑法学は、確かに新たな法的規制が何をもたらすのか、そして既存の価値によれば、もたらされたものの中の何が利益として通用ししかも何が損害として通用するのかということを明らかにするかも知れない。が、しかし、政治的価値転換に対して、それは無力であり、かつそれは政治的価値転換を選択することはできない(32)

III  個別問題


1.抽象的危険犯
  おそらく「規範の保護」という文言は、つぎのようなことを示唆する、つまり、せめて短期間だけでも現状を維持しようとして(介入主義的基礎から)あるかなり劣悪に基礎づけられた規範を刑罰で保護する場合にはいつも、機能主義とかかわり合わなければならない、ということである。その際特に嘆かれる展開は、比較的厳格に輪郭づけられた法益、とりわけ個人的法益(Privatrechtsgu¨ter)を保護する刑法から、このような財が広範な領域へとその保護範囲を拡張することで、抽象的危険犯へと至ることだ(33)。これに加えて、「展開の大筋は正しく示されているが、この展開は−少なくとも現在のところは−不可逆的である」、というテーゼすら唱えられている。けれども、刑法における機能主義は、機能的規範と介入主義的規範を十分に区別することが可能である。
  一定程度複雑な社会を国家的に管理するためには、法益侵害に対抗する規範を定立することだけでは足らなかった(これによって、法益というメタファーでは多くの社会の相当部分が適切に記述され得ないと言っているわけではない(34))。その上、若干の市民によって、すなわち周辺的な判断(dezentraler Beurteilung)によって無害なものと評価される行為態様を主流では危険なものと承認し、しかも規範に対する違反行為を制裁することも常に必要であった。この抽象的危険犯が用いられる場とは、警察刑法(Polizeistrafrecht)もしくは−ヨゼフィーナ刑法典においてそうであったように−「政治犯罪」の章だけであって、刑事刑法(Kriminalstrafrecht)ではなかった。すなわち、−もっぱら、もしくはすぐれて秩序撹乱としての−警察犯から−社会のアイデンティティーに対する侵害としての−犯罪へと抽象的危険犯の位置づけを高めることが十分な根拠をもって行われるのか、または介入主義的な態様と方法で行われるのかということが問題である。わたしは、全体としてこの展開を正当化することが可能な三つの根拠を挙げる。
  第一に、財に含まれている一連の周辺条件がもっている潜在力を現実のものにするために各々の財が必要であるが、これらの条件が所与のものであっても、今日ではもはや当然のこととは見なされず、またこれらが欠けている場合でも、不可避な運命と見なされない。これを確証するものとしてつぎのスローガンで十分だ。つまりエコロジカルな意味での環境である。財の保護という言葉で定式化すると、大切なのは、古典的な法益ばかりではなく、今日の理解によれば、それを利用するための条件もそうなのである。すなわち、これは前者と同様に保護される。もちろん静的に理解された「古典的法益」と並んで、今や静的に理解された周辺条件がさらに財として据えられるということを、これによって示唆しているのではない(35)。道路交通の「安全性」、「健全な」環境、または同様の状態は明らかになんら自然状態ではなく、これらは社会的安定の帰結である。つまり、これが意味するところは、自己を方向づけようとする者はこのような安定作業によって作り上げられた規範の妥当を考慮しなければならないということだ。「古典的法益」におけるよりも明確であるが、ここにおいては、抽象的危険犯では、すなわち規範の妥当が課題なのであって、何らかの客体の状態が課題なのではない(同じように言えば、つまり「古典的法益」について語るときは、これが意味することは、実体に則せば、法益の問題も規範妥当の陰喩的問題であるということが、より明らかである)。これはさておき、いずれにせよ、社会的周辺条件−そのもとで財ははじめてしっかりとしたものになる−にも言及することなく、財を彼の回りに集め、市民についてのみ論じたとしたら、このような立場においては社会のアイデンティティーは十分には記述されない(36)。ロックの市民政府二論(一六九〇年)は−歴史的影響力はあったけれどもーなんら現代に通用する書物ではない(37)
  第二に、このことが常に基礎としている法化傾向の中では、中でも給付国家(Leistungsstaat)においては、安全性を警察活動の反映として把握することはもはや許容されず、安全性は、国家によるその保全が要求され得る権利となる(38)。安全性の毀損がもつ重要度が高められるのは、安全性がもつ重要度が高まっていることに対応している。抽象的危険犯は、このような理解によれば、もはや公的秩序を撹乱するだけではなく、あらかじめ示された規範的意味での安全性に対する権利を侵害する。これが権利の侵害だとは見なされないとすれば、社会のアイデンティティーは、この場合でも正確には記述されない。
  第三に、その上実体的に、今日、社会の少なくない部分において、許された、もしくはそれどころか望ましい態度と規範違反的態度との限界は、十分にはぐくまれた、生きた慣習に対応した限界ではなく、それは単に構成されたものにすぎず、多かれ少なかれ恣意的に決められている。このことは、経済、交通、環境などの領域において当てはまる。これに対応して、例えば貿易会社において商売のうまい者と経済犯罪者とは、−もちろんこういうことは未だ存在するが−かつて市民と悪人に区別されたように分けられるのではなく、彼らは法違反に至るまでよく似た者になってきた。もっとも、感覚的に言うと、環境法における基準値の場合にもっとも明白だが、限界の厳格さというのは現代社会のアイデンティティーにとって欠かすことはできない。なぜなら、現代社会のアイデンティティーが限界に達するまでうまくやって全てのありうべき利益を手に入れようということを許容するだけではなく、アイデンティティーが経済に従属しているからである(39)
  このような三つの根拠が少しでも妥当であるとすれば、抽象的にしか結果関係的であるにすぎない態度さえも計算に入れなくてよい、という予期の保障は、社会のアイデンティティーを決定するメルクマールのひとつであり、その結果、これにふさわしい刑罰規定が機能的に正当化され得るのである。このような舌足らずなコメントには、つぎのことを補足しなければならない。つまり、以上のことをもって、まったく全ての抽象的危険犯と全ての抽象的危険犯の法定刑が正当化されるというわけではない、ということだ。特に、私にすれば−通貨偽造罪(ドイツ刑法二六七条)が主たる例だが−、既遂同様予備を処罰している、全体的に主観的要素によって構築された抽象的危険犯は正当化されない。法親和的雰囲気、すなわち精神的周辺条件を保護するものとされる全ての犯罪(ドイツ刑法一三〇条、一三一条、一四〇条)も同じだ。このような犯罪は、自由な市民によるコミュニケーションという社会の姿勢と矛盾する。付随的であるが、それらはまた秩序違反に変えることが可能だということではなく、完全に抹消すべきである。私はこのことをかなり以前から提唱していたが(40)、今回はこれを想起するに止める。
2.人的帰属
  (a)  人格対主体
  法は社会的撹乱(soziale Sto¨rung)に対処する。このことは−同じく社会的な撹乱として−(特にアルミン・カウフマンのプログラムに対応して(41))孤立した主体、彼の能力、そして命令的なものと考えられている規範の概念に解消し尽くすことはできない。むしろ、社会的側面に目を向けるべきだ。つまり、社会的に媒介された主体、すなわち人格の概念、付与された任務領域、すなわち管轄の概念にであり、そして制度的な社会的予期・期待としての規範にである。
  人格であるということは、役割を果たさなければならないということを意味する。persona とは、仮面のことである。すなわち、まさにその担い手の主体性を表現するものではなく(42)、むしろ社会的に理解可能な能力を表現するものである(43)。全ての社会は客観的世界の構築から始まる。恋愛関係も社会である以上、そうである。社会に関与する者−つまり、コミュニケーション上基準とされる個人−は、その際彼らにとって今や客観的世界、すなわち少なくとも規範が妥当しているということによって定義される(44)。これによって既に関与者は、−ひょっとすると小さいものかもしれないが−ひとつの役割を果たさなければならない。しかしここでの説明についてさらに深く探り出さなくてもかまわない。むしろ、ここでの説明は、自ずと湧いてくる特殊性に関連することができる。その特殊性とは、匿名の接触をかなり高度に機能させるために存在せざるを得ないものである。なぜなら、かかる接触は、とりわけを主観とは独立して組織されなければならないからである。
  人間の主体性は、すでにその概念からして他者に決して直接的にはアプローチできるものではなく、発言か、あるいは発言に付随する事柄の脈絡の中で解決されなければならない客観化を介して媒介されるにすぎない。それだけをとりあげると、各々の態度は多義的である。かかる場合では、他人の現実の態度は、推定的な主観的な意味にしたがって彼の生活(Vita)を詳細に知ることによってしか解釈することはできない(45)。しかも仮に解釈に相当な根拠があるとしても、主体そのものに到達することはできない。例示的に言うと、他者について、彼を信頼できるようにするためには、彼についてよく知らなければならないということは誰でも知っており、しかも仮によく知っていても予期がはずれること(Entta¨uschung)がなきにしもあらずだということも誰でも知っている。
  他者がいかなる規範システムを拘束的なものと考えているかがはっきりしている場合には、事態はもちろん変わる。他人が熱狂的なキリスト教者であるか、それとも常に一貫して快楽主義者であることを知っている者は、その者のかなりの態度を計算することができる。
−広範な態度についての文脈に関する知識と標準的な規範システムに関する知識−出来る限り主体関係的に態度を解釈するための双方の条件は、社会のあらゆる非全体的な領域、すなわち明らかに、大量の匿名のまたはほとんど匿名の接触とまさにそれによって個人的な生活形成が可能になる多元主義社会においては欠けざるをえない。
  このような場合には、態度が何を意味するか−規範違反か無害なのか−が客観的に確定されなければならない。各々の態度がその意味と結びついて明確になるような概念的枠組みを展開することが必要であり、しかもこのような思考パターンが規律を立てなければならないとすれば、これは大量の主体的な特殊性というカオスを引き受けることはできず、標準、役割、客観的典範に関係しなければならない。つまり、関与者と他の関与者は、きわめて多様な意図と選好をもつ個人と見なされるのではなく、彼らは法的にかくあるべき者、すなわち人格と見なされるのである。誰が侵害経過について管轄を有するかどうかは、彼ら−行為者、第三者、義務侵害ゆえに被害者自身、また自己の場合にも同様−の間で決められる。特に、危殆化を許容することに関する管轄も、主観的選好によってではなく、客観的基準に基づいて区分される。さもなくば複雑な社会は組織され得ないからである。しかも、道路に出ようとするだけの者でも許された交通の危険(Risiko)を甘受しなければならないし、しかもある都市に引っ越す者は、その土地では当たり前の大気汚染を甘受しなければならない。彼にとってはいずれも主観的に不快かもしれないが、けれども、かかる危険(Gefahren)の創出を回避する他人の義務は、このことからは生じない。なぜなら、危険を甘受することは交通関与者もしくは都市居住者の役割だからでる。
  (b)  客観的帰属
  現代の刑法が客観的帰属の理論の枠組みのなかで、構成要件に該当する態度の理論、すなわち許された危険、信頼の原則、自己危険に基づく態度、そして−専門用語上は、その実体以上に争われている−遡及禁止の理論を展開したとき、この展開は、社会機能的な手がかりに依拠しているか、又はいずれにせよ、これに合致している。例示的に言うと、自分自身の瑕疵ある態度に対してのみ責任をもち、予期可能な他人の瑕疵ある態度に対して責任をもつ必要はない、という信頼の原則が保護される場合にのみ、モーターライズされた道路交通の参加者の下でのような、大量の社会的接触を組織することができる。その上、強力に分業の進んだ経済は、買い手が基準を満たした製品を犯罪もしくは損害を発生させるために用いるか否かを考慮することは、その製品の売り手の役割ではないということを前提にしている。一般化して定式化すると、法的に保障された予期・期待は、個人的に瑕疵ある態度によってではなく、客観的に瑕疵ある態度によって違背させられるのである。なぜなら、かかる予期・期待は、人格、すなわち役割の担い手に向けられているので、予期・期待の違背の最低条件とは、役割に反することだからである。
  もっとも、客観的帰属について、その刑法的側面に関して言えば、そもそも他人が自己の役割を積極的に充足するのを保障することを課題とするのではない。刑法はかかる保障をすることはできない。なぜなら、それは、(自動車運転手、医者、静力学者などの)特別な役割の違反だけに反応するのではないからである。責任に関しては、なお法に忠実な市民という一般的役割が問題となる。いずれにせよ、責任なき不法は不処罰のままである。客観的帰属に関する特殊な刑法上の知恵は、ひとえに、輪郭のはっきりとした領域に、任務と、それにしたがって責任を限定することにある。
  (c)  故意?
  人格が問題であって、主体は問題ではないのであるから、機能的見地からすれば、主体の現実の認識は、伝統的で、自然主義的な、心理的事実に執着した理論が与えたようには、重要性をもたないことになる。認識とは、個人の心理的な所見であり、管轄の領域及び範囲と完全に合致しているというわけではない。不法の意識については、そうこうするうちに、それは広く認められるようになった。回避可能な不認識の場合、実定法の規制(刑法一七条)は完全な刑罰の賦課を許容しており、しかもこのことは、法について無関心であること(Rechtsgleichgu¨ltigkeit)に起因する不知(Unkenntnis)の場合にも妥当する規制である。驚くべきことに、このような規範的見地は、構成要件実現の管轄についてはまだ発展途上である。これまでのところ、規範的責任概念には、心理的故意概念は結びつくことなく対置している。これは、無関心から自己の態度の当然の悪い結果に気づいていない行為者は、せいぜいのところ、過失行為について責任を科せられるにすぎないのに、良心の呵責をもちつつ、まさに許されない危険を注意深く認識していた行為者に対しては故意犯の刑罰が科せられるという、妙な帰結へと導く(46)。他の事情が同じならば、彼は、社会的相当性とかなり親近性を有するために、(訳者注予期・期待を)違背した態度に関して、広く許されない範囲で行動した者よりも管轄は少ない。明確にするための例をあげてみよう。二人の労働者がタールを使って仕事をしている。一人は熱心に働いているが、しかしこのようなやり方だと、通行人が汚される可能性があるということがまったく明らかであるにもかかわらず、これを考慮に入れていない。もう一人は、若干注意していたが、それにもかかわらず、器物損壊の重大な残りの危険(Restrisiko)を排除することができていない。かかる出来事の社会的克服のために刑法を用いる必要があるか否かは疑わしい。しかし、現行刑法はこの場合を刑法第三〇三条一項に関係するものと定義している。もっとも奇妙なことに、第二の行為者については刑法第一五条、一六条一項が関係する(器物損壊が問題なのではなく、例えば殺人が問題だとすれば、事象について無関心な行為者は最高でも五年の法定刑である。良心の呵責をもっていた者に対する法定刑は、最低でも、この五年である)。
  回避可能な不法の不知に関するのと同様に、回避可能な構成要件実現の不知に関しても、つぎのように区別すべきである。すなわち、行為者が自分のしたことについて無関心な人格として現れる場合には、不知は責任を軽くしない。なぜなら、さもなくば規範システムは彼自身による無視を助長することになるからである。けれども、不知が、その他の点では正常な態度計画の中において錯誤で生じた計算違いか、または彼の側での無理もない錯乱もしくは類似の状況に起因する場合には、不知のかかる根拠は特に他人の財に向けられてはおらず、むしろこのような根拠は自然の刑としての自己侵害の危険を伴うのであって、それゆえかかる誤りの源泉を回避する必要性は、いずれにせよ認知的に明らかにされるので、刑罰によるリアクションはもはや必要でないかもしくは単に弱められた形でしか必要でなくなるということを、指摘することができる。間違って計算された態度には模倣効果はないだけに、いっそう、そのようにいうことができる。これが、機能的考察による場合の、過失行為の可罰性の減少もしくは不処罰の根拠である。つまり、言及したように、不法の不知というパラレルな事例における広範な学説に対応する考え方である。
  (d)  責任
  機能的システムにおける帰属に関するこれまでの説明は、例えば、何が課題なのかを明らかにするものである。ここでは、明白な諸々の事情から、帰属論全体に関する包括的概観を提供することはできない。とりわけ、通説の共犯論の心理主義に関する注釈と、作為と不作為の区別の自然主義的な過大評価に関する注釈は、本稿では扱わない(47)。もちろん責任概念に関するいくつかの注釈は以下で論じるつもりである。なぜなら、そこでは全てが語られるからである。これに関して、わたしは、個々の制度に関する数々の既存の機能的解釈を繰り返すのではなく、その根幹を述べようと思う。
  機能的解釈に際して、基本的な相違はつぎのことである、つまり社会か環境かというこである。コミュニケーションに関連させて定式化すると、意味か自然かということである。つまり、行為者は自己の行為によってコミュニケーション上重要な意味を提唱するか、または彼はコミュニケーション上の重要性を欠いているか−すなわち、彼がこの自然を個人的に意味と考えるとしても、自然の中に潜んでいるままかのいずれかである。何が意味と見なさるかとか、何が自然と見なさるかは機能的に確定される。これは、刑法における機能的責任概念の中核テーゼである。この区別は、それゆえ社会の全ての部分で同じであるということはない。例示的に言うと、教育者は、刑法的見地では自然なものとなる子供の行為を意味あるものと解釈する場合がある。ましてや、賞賛についての(lobende)帰属には固有の規則がますますもって当てはまる。いずれにせよ、刑法においては、意味と自然の区別をするのは責任概念である。責任概念に先行する各々の刑法秩序は、その任務が唯一責任概念を運用可能にするところにある補助概念、つまりその任務が教授法的なものに尽きている補助概念にしたがって実現される。
  このことは不法という概念に基づいて明確にされる。責任なき不法を取扱うことは、なんら固有の刑法の任務ではない。それゆえ、刑法は、責任なき不法とは何なのかを拘束力をもって確定することもできないのである。因果主義的不法概念、目的的な不法概念、社会的不法概念、及びその他の不法概念の間で行われた、かつての深刻な論争は、実体に即して言うと−例えば、客観的帰属可能性の必要性の論争に関してのように−、責任の前提条件が問題にはなっていない場での犯罪構造の教授法についての論争であったか、またはそうですらなかったのである。なぜなら、各々の不法概念では、様々な要素を目一杯に積み込まされた不法概念であっても、常に、瑕疵ある意味表現が存在するという推定が問題であるにすぎないからである。因果主義者は、既に因果的な法益侵害的態度に関して意味表現を推定し、目的的行為論者は、いずれにせよ、故意犯の場合、所定の故意が存在する場合にはじめてこれを推定する。双方において、客観的帰属の諸要素が増える可能性がある。その際、この推定は標準の侵害をも仮定するが、結果的に責任を欠く場合には、それは、見かけ上、コミュニケーションに寄与するにすぎなかった、すなわち見かけ上、有意味な態度にすぎなかったのであって、現実には、自然、すなわち病人、不可避な錯誤、緊急事情、恐怖、驚愕による結果が問題であるか、またはいずれにせよ自然的存在(Naturwesen)、情緒的存在(Affektwesen)としての人による結果が問題であって、能力をもった、意味に媒介されたコミュニケーション参加者としての人による結果が問題ではなかったのである(48)。それゆえ−ここではこれに関連して−、行為者の精神的かつ生理的な主体の欠陥が既に客観的帰属の検証に際して考慮されるのか、しかもいかなるそれが考慮されるのかということは、ある程度どうでもよい。普通は、大まかに言えば、生理的欠陥を考慮すべきであるが、これに反して精神的欠陥はそうすべきではないとされる。このように区別するための基礎は、おそらく、生理的欠陥は精神的欠陥よりもしばしば容易に知覚され得る可能性があり、そしてこれに相応して、同様にしばしば規範的予期・期待は、より早く認知的予期・期待に転化するということであろう。しかしいつかは、予期・期待は、精神的欠陥に際しても順応しなければならないし(責任の前倒化の問題はここでは考慮外である)、しかも刑法的リアクションにとっては、唯一、あらゆるものの上に位置している責任が問題なのであって、予期・期待態様の転換が不法の領域において行われるか、またはその後の段階において行われるかは、どうでもよい。
  これによって核心部分に到達する。つまり、社会的機能的見地からすれば、刑法は、規範は妥当しないという(法治国的手続きによって証明された)(訳者注ある行為者による)意味表現に対し異議を唱えることを保障するにすぎない。この陳述によれば、瑕疵ある内容の意味表現が答責されるべき表現である。不法は存在するが責任を欠いていた事例(49)、すなわち責任能力の欠如、不可避的な違法性の意識の欠如、または期待可能性の欠如は、コミュニケーション上重要な「意味」を単に個人的なことがら、つまり偶然によるものに変え、しかもこのような理解において「自然」に(コミュニケーションの「環境」に)変えるのである。
  このような立場を予期・期待に遡って、または、わたしが関知する限りでは、規範に遡って定式化すると、特殊刑法上、単に責任がないこと、積極的な意味で言うと、十分な法忠誠を意味しており、十分な法忠誠だけが期待されているということ、あるいは十分な法忠誠を実現するためにのみ義務が存在するということが明らかになる。確かに、例えば、責任無能力の者が人を殺したり、傷害行為をしたり、物を壊したりしないという予期・期待もあるが、このような予期・期待は民法やよりすぐれて警察法上のものであり、刑法上のものではない。なぜなら、単に予期・期待がはずれたにすぎない場合は、なんら刑法的反応をもたらさないからだ。このことから、その維持を刑法が保障する役割は、法に忠実な市民、すなわち法律上の人格のそれである。
  しかしその限りで、そもそも、役割、つまり客観的典範が問題なのであって、むしろ主体性は問題ではないのであろうか。心理的責任概念−そのような概念が存在したとすれば−が規範的責任概念にとって代わられて以来、責任が規定される基準は、徹底して客観的な基準であるということは確定されている(50)。なぜなら、何事も自分自身を物差しにして自分を測定することはできないからである。しかし、規範的責任概念は基準だけを構成するにすぎず−いずれにせよ明確には−、判断されるべき人格を構成していない。機能的責任概念は、昔から実際に行われてきたことを理論的に加工することによって、判断されるべき者の構成をおこなう。主体という個人的な構成物は、なんらコントロールすることのできない逸脱を恐れる必要のないようなところでのみ尊重される。これに対して、そうでなければ、十分な法忠誠に配慮することが市民固有の関心事と見なされることになる(51)。つまり、法を一般化させることを阻害しない限りでのみ、主体は自分が個人であることを確立することができるのである。なぜなら、コンフリクトは、帰属によるのとは違ったやり方で処理され得るからだ。
  責任という基準によって判断されるのは、すなわち主体ではなく、人格である。詳しく言うと、法を尊重することが役割である、考えられ得るもっとも一般的な人格である。これ以上なんら削られるものはない。この役割が問題とされない限りでのみ、役割以外のデータを考慮することができる。例えば、規範の錯誤に関しては、役割の担い手の原則的に法親和的な態度、免責的緊急避難に関しては、法親和性のない突然に降りかかってきた窮地、過剰防衛に関係しては、攻撃者、すなわち法を尊重せず、それゆえ他人に対して自分を尊重をせよ、と要求することのできない人格に対して過剰防衛をすること、免責されるべき良心犯(zu dekulpierender Gewissensta¨ter)に関しては、原則的に法親和的な認識をもった態度の場合がこれに当たる。これは要するに、法を尊重する者の役割は、人格性、平等、また能力を意味するのではなく、病気とか精神錯乱を意味するような、そもそも意味のない態度によっては問題とされないということである。過失に関する寛容な取扱いに至るまでの個々の事柄(52)は文献において広められているので(53)、ここでは繰り返さない。
  結論的に、刑法は、個々人の意識の中ではなく、コミュニケーションの中で役割を果たす。その関係者とは、行為者や、被害者、裁判官というそれぞれの側に立つ人格であり、個人的感情ではなく、社会がその諸条件を立てるのであり、しかもこの主たる条件とは、行動の自由を許容している社会にとって都合のよいものである。それは、主体を人格にすることである。おそらく気づかれたであろうが、ここでは「そうあるべきだ」という主張ではなく、「そうである」という主張が問題なのである。機能的責任概念は、同じく、社会が規定されている程度において必然的に記述的である。真実らしいのは、このような中立的な記述、すなわちユートピアの排除であり、かつ機能論全体の中で実際上、最も嫌われるものなのである。

IV  コミュニケーションの態様


1.問題
  もちろん人格的なコミュニケーションの条件が記述される際、その条件とは、人格でない者を意味する、奴隷からの搾取やよそ者(Fremden)との関係の条件ではなく、平等の者の下でのコミュニケーションの条件である。それゆえ、最後に私は、ここで描写した像があまりにも伝統的であり、しかも懸案の問題を正確に伝えていないとする批判を前もって処理しておくことにする。確かに、そう見えるのかもしれない。平等の者として標準的な意味を表現し、刑罰をもって異議を唱えられる人格として法違反者を解釈することは−歪曲されるかもしれないが−、いずれにせよ、社会が道具的コミュニケーションとしてだけでなく、相手を承認するコミュニケーションとして現れるという構想に結びつく。そもそも十分にそうであるということが保障済みだとはもはやみなすことはできない。
  道具的コミュニケーションとは、コミュニケーションが目的にかなっているか否かのいずれかであり、いずれにせよ参加者は何にも拘束されず(そしてそれによればこのようなコミュニケーションではしかも人格ではない)、機械との関係に似ている。すなわち、機械は正しく操作される権利をもっていない。これに対して人格的なコミュニケーションでは、他人は戦略的計算の客体だけではなく、平等な者でもある。彼は愛されていることにより、または法的コミュニケーションでは、彼は理性をもつ者もしくは社会契約を結んだか、また別の理由を有することにより法律上の人格なのである。このような平等な者として承認するに際して、確かに帰責が問題となる。しかし、人格を勝手にでっち上げることはできない。きわめてはっきりと自己の理性を否定するか、そのものを極めてはっきりと法共同体の存立の諸条件とは独立して自己のアイデンティティーを確立する者を、有意義に法律上の人格として扱うことはできない。いずれにせよ、実際上扱うことはできない。さらに、合法性という条件を外的な拘束と見なす者は、なぜ他人が自分を法律上の人格として取り扱わなければならないのかという問題に対してなんらの解答も知ることはできない。もっともこのような取扱いが戦略的に命じられたものだという答えであれば別だが。端的に言うと、極端な多元性は、共通性とともに人的な平等性をも希薄にする。委託された領域に残っているものは、道具的に互いに折り合いをつける試みである。人は、相互に自然になり、ルソーの言葉を借りれば、野獣となる(54)。確かに人格を社会から排除することはできないが(55)、全ての人が将来において相互に人格として理解されるということはまったく保障されないことになる。
  かかる展開を嘆いても、それを阻止することはできない。すなわち、おそらく、社会は人格的なものから道具的なものへと流れるであろうし、そして先に提唱された、人格的に方向づけられた社会の刑法のいくつかの原則と基本原理のわずかに機能的な修正は、人格に固執して、余りにも古きヨーロッパ的なものを前提とすることになろう。
2.道具的コミュニケーション
  道具的コミュニケーションと人格的コミュニケーションとの区別は、幾分直観的なもっともらしさを期待して行われてきた。この区別を理論的に定着させるための概要を以下で行う。まず第一に、道具的領域について、個々の個人について考えてみると、彼が生きていく場合には、彼の精神は身体の欲求を十分に(快/不快、もしくはこれに類するものといった)一つのコードで描写し、しかも欠損状態が克服されるかもしくはすぐにはそれが生じないように、環境を利用することを可能にする。この個々の個人の精神は、もっぱら彼が用いるコードにしたがって、自分の回りの環境全体を秩序づける。これは同時に彼が自己の欲求に応じて全てのことを秩序づけるということを意味する。個々の個人は、−彼にとって−環境全体の自分に対するこのような関連につけ加えて、なおも自分自身を把握することはできない。なぜなら、そうなるためにはその際精神と対置しうる何かが存在していなければならないが、精神は、上述のモデルではもっぱら全てを秩序づけるからである。特に、意識が有する自分自身に対する関連も、個人的秩序を再形成するもの(妥当にも、不快は回避されるように整理されたであろうか?)としてのみ有り得るのであろうが、しかし主体性を基礎づけるものとしてではない。主体は、例えば、客体という背景を前にしているのではなく、他の主体という背景を前にしてはじめて主体となるのである。例示的に言うと、全体世界が視覚的に同じ色彩の赤で知覚されるとすると−それも記憶や観念の中でも−(「明るい」と「暗い」と並んで)、それは、概して無色とみなされるであろう。赤という色は、コントラストを欠いてはそれぞれの性質を欠くことになる。環境全体は、それゆえ個人にとっては、精神が管理する巨大な身体のようなものである。精神は輪郭を規定するが、精神そのものを規定するものは何もない。なぜなら、精神は規定根拠として必然的にそれ自身の固有の規定の盲点にあるからである。
  この個々の個人の構造は、彼が他人と接触する場合にも維持されるかもしれない。つまり、例えば、他の個人は、石や植物以上に複雑な環境であるが、それ自体は何も新規のものではない。個々の個人は、幾人かの他人に対して自分自身と同じように作られていると認識することもある。しかも個人は、他人を精神システムと推定することもある。例えば、抑圧をするために、彼はこのような発見を利用する場合もあるし、または−そうでなければ、共生関係におけるのと同様に−十分に目的をもって協働をするようになることもある。もっとも、このこと全ては、例えば、快/不快という個人的コードに基づく秩序以外の何かが生じることなしにである。
  他人は昼と夜の移り変わりも知覚する、という知識は、協働のために必要であると想定してみよう。その際、このような移り変わりは、共通の、しかもこの意味において客観的な世界に属さないのであろうか。個々の個人が他人の知覚を私と同様の他人の知覚と理解するならば、そうであろう。しかし余すところなく、世界全体は、他人と彼の精神をも含めて、個人的秩序を通じて媒介されるので、知識の内容とは以下のようである。つまり、(ここでは他人として特徴づけられる)部分世界は、昼と夜の移り変わりを、無媒介に考慮されなければならないものとして記録しており、しかも、このことは、目的にかなった世界構築をするための前提条件として考慮すべきである、と。
  ルソーはこのような状態を記述し、ここではなんら主体的アイデンティティを獲得することはできない、と認識した(56)。つまり、「彼(野蛮人)は、自分の現実の欲求を感じ、しかも、ただ、彼が自分にとって関心があると思っているものだけに注意を払う(57)」、と。これは、自分のいる場所を認識せずに、個々の個人が自己の欲求と関心のままに流されていることを意味する。もっともルソーは、技能と協働する機会を得ることの難しさについて誇張した(58)。つまり、道具的言語を含む道具的展開が欠如していることは、上述の状態のことではない。ルソーの言う野蛮人が果実をつかみとるように、彼は耕作を行い、または産業をも営むかもしれない。そこでは個人の協働がかなり複雑に構築されることもありえるし、しかも言語は、考え得る限り複雑なコンピュータ言語に対応する複雑性を受容することができる−しかし、それは関与者の主体という性質と必ずしも結び付くものではない。
  さらにもっと言うと、何らかの規則が登場する可能性もある。内的にも外的にも広くそれらが個人的な精神的秩序に属することが検討されるのではなく、ステレオタイプ的に属するものとして扱われる規則である(例えば、「自然科学的研究の結果が否定されることは許されない」という規則)。かかる諸規則は、ここでは、人々がこれに従属することが推定され、しかもこれに従属しない場合には、これに従属していないことを表明する者が「欠陥」と定義されるという広い意味で、規範(標準)である。その上、システムは狭義の意味における規範によって整えられるかもしれない。一つの規制(Regelwerk)は個々の個人に任務を与え、しかもこの充足について、個人に望ましい結果が帰属されるか、さもなくば望ましくない結果が帰属される。これにより予防的刑罰が生まれる。もちろん、十分強い者にとっては、このような規制は(前の段落で示したように)、有益か、または反故紙となるかのいずれかである。規則を破ることが彼の精神的状態とよりうまく調和するや否や、彼は規則を破る。
  個々の個人の中の一人がこの世界を記述しようとすると、他の選好の中枢と並んで、彼は選好の中枢(Pra¨ferenzzentrum)(選好を最大に生かすための戦略から設定される中心)と呼ばれ、固有の選好の中枢を「私」と呼ぶことにはなんらの障壁もない。法人(juristische Person)の機関は、これを「我々」と呼ぶのと同じ意味で、すなわち法人はそのような言葉によって自己意識を身につけるものではないのと同様、「私」と呼ぶことだけでは、選好の中枢は主体にはならない。
  ホッブズが、人が雨後の筍のように出てきて(59)、自己の生命を保存し、あらゆる社会的条件から自由で、むしろ全ての者に対して自然的権利をもっている者であるということを前提としようとするとき、彼は人をそのように扱っている(60)。その際、認知的に生命保存と一番うまく調和する、環境との、すなわち他の生命保存の中枢との関係を見い出すことが重要である、と。それは、ホッブズによれば社会契約になり(61)、しかも−ルソーとは異なり(62)−ホッブズは、社会契約を外界においたままにしておくとするので、つまり精神的システムの自己記述が変更されないとするので(63)、契約は、それが賢明さのルールによれば生命維持に不可欠であるという個人的な活動基盤にしか妥当しない。つまり、生命を犠牲にする場合には契約は妥当しないということを意味し(64)、しかも−スピノザが示したように(65)−それを必要としない強者にとっては妥当しない。規範は、かかるシステムにおいては仮言的命法を通じて基礎づけられ、そして仮言が妥当しないかまたはもはやしない場合には死滅する。
  もっともホッブズは、上述した、純粋に道具的な相互関係という状態の中に人を見い出すということを前提としているのではなく、彼は人を発見的な理由からこのような状態に再び置くのである。実質的財をめぐる競争と並んで、彼は万民の万民に対する戦い(bellum omnium contra omes)のための理由として社会的地位の承認を得るための戦いを心得ている。「なぜなら、全ての者は、彼が自分自身を評価するように、彼の隣人を評価するということに目を注ぎ、しかもあらゆる軽蔑または過小評価のあらわれに対して、本能的に彼は自分を軽蔑する者を害することによって、しかも手本を見せることによって自分を誇張して価値評価するよう他人にせまる(66)」、と。かかる戦いは、選好の中枢ではなく、自己意識的な主体が行動するということを前提としている。なぜなら、尊重されている者自身が評価している者による尊重だけが重要だからである。無条件に服従する者による承認はなんらの地位ももたらさない(67)。羨み、嫉妬、功名心、その他ホッブズが紛争の原因と呼んだものは、純粋道具的な社会においては考えることはできない。ルソーもまたこのことを認識しており、かくして彼は、自己と同等な者を求める気もないし、また彼を害する衝動をもつことがない人を森の中であちこちさまよわせるのである(68)
3.人格的コミュニケーション
  これまで描かれていた世界は−前の段落でふれた例外に至るまで−、道具的なそれにとどまっており、そして確かに選好の中枢を知ってはいたが、しかしなんら主体も、したがってこれによりなんら社会的に媒介された主体、つまり人格も知らないのである。このモデルでは、(同じくそれゆえ)まったく客観的世界は存在さえしない。確かに多くの事柄が、関与者によって、事実上同じように見え、かつ同じように判断されるであろう(昼と夜についての上述の例を参照)が、しかしこのような見方は単なる計算であって、しかも個人の利用状態以外にはまったくさかのぼって当てにすることはできない。相当数の者は、かかる世界から先には進まない。
  −心理学的に定義すると−自分は少なくとも他の個人との関係ではもはや、単なる選好の中枢ではなく、少なくとも選好に依存していない独立した規則によって定義されており、その結果、他人はこの規則に依拠することができるものとして、個々の個人が自分を理解するや否や、新たな世界が生まれる。かかる規則は狭義の社会規範である。これが破られる場合、それは、他人が顧慮しなくてよかった世界形成を選んだということである。
  なぜ、かかる新たな世界、つまり狭義の規範的予期・期待を伴った世界になるのかということは、ここでは問題外である。主として興味深いのはつぎのことである。つまり、個々の個人は、彼が一人この世にいるのではない場合にのみ意味のあることをするのである。これによって彼は、他人を自分と同等の者と認め、そして−そうでなければ、これは不可能である−自分自身を、固有の選好の管理に限定しない中枢として、つまり「自由な意思(69)」として理解したのである。
  他の主体という輪郭を前にしてのみ、主体は自己を理解することができる。彼は、対置する者と同様の論理的根拠から、すなわち彼らの「間」に存在する狭義の規範の定義から生まれるのである。ほとんどの場合、主体は一つの規範のもとにとどまるのではなく、常に諸主体の関係を構成するのは複数の規範である。この規範は客観的世界である。それらがコミュニケーションを、それも個々の個人の実際の選好には依存せずに規定するので、客観的なのである。
  主体は、彼が規範を媒介して他人を理解することによって自己を理解するが、理解する者の自己連関はその都度固有のもののままである。他人を前にして、主体は規範に自己を拘束することによって自己を構成するのであり、そして他者が彼の側で主体となるためには、他者の固有の自己連関が必要なのである。拘束的世界は、必然的に常に現行規範のもしくは現行の諸規範の枠組みに限定される。主体は、社会というものにおいてはそのように限定づけられてしか(ここでは興味の対象ではないが、同じくこのような制限において自分自身を前にしてもまた)、つまり役割の担い手、すなわち人格としてしか現れない。それゆえ、非道具的なコミュニケーションは人格的コミュニケーションである。
  上での説明(W.3)は−またその素描を度外視しても−、もちろん、もっと精密化されなければならない。規範の承認を通じての主体の自己連関は心理的事実として叙述されたが、しかしそれ自体としては、これに依拠して社会を構築可能にするには、あまりにも偶然的である。このような偶然性は規範によって克服される。すなわち、いかにして個々人が自己を理解するか、ということも、また主体として自己を理解したように彼が現れるのか否かということも問題ではなく、規範の受容が彼の任務であるというように、彼を表現することができるのか否かということが問題である。仮に、規範を明白に無視したことを理由に認知的に既に対処しなければならない場合でも、そうである可能性がある。例えば、正当防衛によって攻撃者に対処するということは、コンフリクトについて管轄を有する者として攻撃者を定義するということを妨げるものではない(しかも唯一それゆえに防衛は必要性によってのみ−法益均衡によってではない−制限されるのである)。つまり、社会からみると、例えば、人格は人格的コミュニケーションを自発的に基礎づけるのではなく、人格的コミュニケーションが諸々の個人をして人格と定義するのである(70)
  本稿で関心をおいているのは、法の領域である。法は、法における人格として立ち現れている者のために基礎づけられるのである。法における人格に関するカントやヘーゲルの陳述が統合される場合に、心理学的に研究された公式化において完全な叙述があらわれる。カントは、規範による構成をつぎのように公式化している。つまり、人格とは、その行為が帰属可能な主体である(71)。ヘーゲルは(72)、相互作用をつぎのように公式化している(73)。つまり、「人格であれ、そして人格として他人を尊重せよ」、と。人格的コミュニケーションの原則だけが問題となっているので、個々のことは省略する。
  人格を形成するその時々の規範複合体が問題となる。主体は、実際上、常に様々な見地において人格である。なぜなら、彼は様々な役割を演じるからである。叙述された人格が同一線上に並べられればそれだけ、主体的アイデンティティーは成功する。もちろん、全く一直線であれば、進化する能力がないことを証明することになるかもしれないが、逆にそれが頻繁に破られれば虚偽性が露呈される。
4.両コミュニケーション態様の併存
  人格的コミュニケーションと道具的コミュニケーションの相違を、社会が余すところなく人格的コミュニケーションを勝ちとらなければならないということによって理解することは間違っている。社会的コンタクトは、場合によっては広く機械的な給付の代替物としてのみ必要なこともありうる。−その際、その限りでコミュニケーションは非人格的なものになることができる。例示的に言うと、ホテルの朝のモーニングコールが受付の人によって行われるかまたは機械によって行われるかは、どちらでもよい。しかし、かかる小さな出来事だけでなく、経済的な、そもそも日常のコミュニケーションの大部分などもまた、道具的に行われてよいであろう。
  同様に、コミュニケーションの態様を道徳的に区別しようとすることも間違いであろう。道具的コミュニケーションは、仮言的命法という道徳のみを許容するが(74)、しかし場合によってはこのことは全ての考えられ得る目的にとって十分かも知れない。
  二つのコミュニケーションの態様のうちの一方の優越性を確定することが問題なのではなく、このような双方の態様が日常生活において密接に絡み合って生じる場合にも、正確に区別するということが問題なのである(75)。なぜなら、人格的領域においてのみ狭義の規範的予期が存在し、しかもそこだけにのみ機械的な情報への接続や機械的な情報からの接続が排除されるからである。
☆本文は、−II.2、 III.2(C)、IV.2-4を除いて−一九九五年五月二八日ロストックでの刑法学者大会に於ける報告を再現したものである。

(1)  これに関して Luhmann, Gesellschaftsstrukutur und Semantik, Bd. 2, 1993, 195ff., 235ff[初版一九八一年].  間主観性については ders., Soziologische Aufkla¨rung, Bd. 6, 1995, S. 169ff., 174f., 181f.
(2)  最近のものとして Das Recht der Gesellschaft, 1993.
(3)  特にII.3(b)とY以下を参照。
(4)  機能とは、社会システムの維持に寄与する観点から見た諸々の働きである(Luhmann, in:Ritter u. a. (Hrsg.), Historisches Wo¨rterbuch der Philosophie, Bd. 2, 1972)。
(5)  Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts (1821), Ausgabe Glockner, Bd. 7, Neudruck 1952, § 99.
(6)  Do¨lling, ZStW 102 (1990), S. 1, 9ff.  最近のものとして Baurmann, GA 1994, S. 368.「証拠不十分」とする立場に関して Kuhlen, GA 1994, S. 347, 365f.
(7)  妥当なものとして Prittwitz, Strafrecht und Risiko, 1993, S. 228.  これによれば、「むき出しの予防よりもむしろシンボリックな保全」、と解する。主張と反論が理解されるかどうかは、原則的に検証可能である(S. 231)。しかし、検証可能でもある将来の動機の形成(法信頼か又はそうでないか?)は、単に理論の枠組みを構築するにすぎない。参照 Baratta, Festschrift fu¨r Arthur Kaufmann, 1993, S. 393, 412.
(8)  Luhmann, Das Recht der Gesellschaft, 1993, S. 124.
(9)  Luhmann,(注8), S, 225.  このことは、このような漠然とした形においてすら、争いがある。むしろ、刑法を−社会の状態とは関係なく−故意で、不法の意識をもって行われた、生命、身体、及び自由に対する暴力的な攻撃に限定しようという試みがある(Naucke, Die Wechselwirkung zwischen Strafziel und Verbrechensbegriff, 1985, S. 35)。また、現代化の問題に対しては、法の現代化によって対応すべき、つまり、刑法の下位に介入法を展開すべきだ、と提唱されている(Hassemer, Produktverantwortung im modernen Strafrechts, 1994, S. 23)。第一の提案に対しては、とりわけインフラ(生命、身体、自由、及び財産に対する故意による暴力的攻撃に関係する予期に再公式化することもまた[Kargl, Die Funktion des Strafrechts in rechtstheoretischer Sicht, 1995, S. 42f.]、これらの予期のためのインフラの必要性を、とりわけこれに対する認知的な根拠づけの必要性をなおざりにしている。)に埋め込むことなく財に固執していることを理由に反論することができるし、また少なくとも後者に対しては、−ハッセマーの事例が形成する−製造物責任を無視して中核財を侵害することに関して、それが心理主義であることを理由に反論することができる。製造物責任に関して、いずれにせよ−ハッセマーの研究において主に扱われている−BGHSt. 37,106 の判決に関して、法治国刑法に関する−最終的に明確になった自由主義的不法及び責任論の立場を維持することを不可能にするような−根本的に新たな異議はまったくない(その点に疑念をもつものとして Lu¨derssen, in:ders., Abschaffen des Strafens?, 1995, S. 7ff., 11)。つまり、(a)BGHが合法的態度に先行行為による義務を結びつけながら、違法な態度について論じたのは、確かに引用された判決の欠点である(これについて、Hassemer, a. a. O., S. 50ff.;Kuhlen, NStZ 1990, S. 566;Hirgendorf, Strafrechtliche Produzentenhaftung in der,, Risikogesellschaft”, 1993, S. 138f.)。もっとも、事物の本質上、生造物によって満足を得ていることを理解している社会は、出荷が事前に見れば許された危険を越えていないような生造物でさえ、特別な危険として定義しなければならない、つまり結果の負担を生産者に押しつけなければならないのである。(b)因果関係の問題に関して(Hassemer, a. a. O., S. 38ff.)、−Hassemer, a. a. O., S. 42, Samson, StV 1991, S. 182,183;Puppe, JR 1992, S. 30, 31 とは逆に−重大な作用要因が明白かつ確実に認識されていない場合には、「外的な作用要因」を「確実に排除することはできない」(Hassemer, a. a. O.)というものではない。何らかの成分が一定の効果を及ぼすこと知られているだけで、どの成分なのかは知られていないというのは薬学に限った話ではない(これについてはつぎのものも参照 Hilgendorf, a. a. O., S. 121ff.)。問題になっている決定に際して、資料が認織にとって十分であったか否かということが別の問題としてある。しかし、ここで仮に−潜在的な多数の被害者に関して−公衆を不安に陥れる決定を回避する試みが大変重要となるとしても、このことは、製造物責任の根本的問題ではない。(c)決定集団の構成員に対する帰属に関して、参照 Jakobs, Festschrift fu¨r Miyazawa, 1995, S. 419.  参照 Ro¨h, Die kausale Erkla¨rung u¨berbedingter Erfolge im Strafrecht, 1995, S. 145ff.
(10)  このことは「形式主義」と非難されるか(Hirsch, ZStW 106 [1994], S. 746, 753)、または「決定を通じての充足に左右される」といわれた(Schu¨nemann, GA 1995, S. 201, 221)。しかも提唱された考え方は、それが具体的な社会でしか適用することができない限りで、非難される。しかし、このことは、このような抽象化されたすべての概念に当てはまる。例えば、具体的な社会において何が法益であるかを確証する以前に、刑法は法益を保護するものとするのは「形式主義」である。極端に言うと、法は神聖なもの、すなわち、今日及び永遠に神々をとにかく和解させるものを保護しなければならない、といわれる(Goethe, Xenien, Hamburger Ausgabe, Bd. 1, 5. Aufl. 1960, S. 227 Nr. 136)。しかも何が和解させるのであろうか。確かにここでの手法は、問題となっている規範が強調した意味での法規範であるということを保障するものではない。つまり、むしろこれに関して言えば、規範的なものの理解が問題なのである。殺人者は彼が刑法二一一条の規範に反抗したからといって簡単に処罰されるのではなく、人の生命を否定したから処罰されるのである(Hirsch, a. a. O.)、とするさらに他の批判は、人の生命の否定は、ほとんど殺人の本質そのものだということを明らかに無視している。−繰り返し基礎づけられるように−規範が、精神的かつ生理的システムたる「人」を、ゆえなく殺されるべきではない人にするのである。
(11)  Gu¨nther, KJ 1994, S, 135, 146. 参照。今日−ほとんど−全ての道徳規範は偶然的であり、いずれにせよ基本的な刑法規範よりも強度に認知的であるので、行為者を悪人と道義的に特徴づけることが刑罰に対するオールタナティブを隠蔽してしまうとするのは(S. 153)、疑わしいかもしれない。
(12)  以下の文脈について Jakobs, ZStW 101 (1898), S. 516;ders., Das Schuldprinzip, 1993, S. 8ff., 12ff., 23ff.  参照 Meder, Schuld, Zufall, Risiko, 1993, S. 121ff., 127ff.
(13)  Albrecht, StV 1994, S. 265,266;Stu¨binger, KJ 1993, S. 33, 34f.  これによれば、その側では正当化されないシステム維持への寄与が問題だとされる。Kahlo, Das Problem des Pflichtwidrigkeitszusammenhanges bei den unechten Unterlassungsdelikten, 1990, S. 206.  これによれば、個々の人々は、大きな機能連関の歯車におとしめられる、といわれる。妥当にも機能主義概念に対する侮蔑的な適用に反対するのは Hilgendorf(注9), S. 45ff.
(14)  詳しいものとして Forst, Kontexte der Gerechtigkeit, 1994, S. 20ff.
(15)  Seelmann, Rechtsphilosophie, 1994, S. 190.
(16)  Mead, Geist, Identita¨t und Gesellschaft, 3. Aufl. 1978 (Mind, Self and Society, 1934), S. 177ff.  これに関して Du¨sing, Intersubjektivita¨t und Selbstbewuβtsein, 1986, S. 41ff.
(17)  Discours sur l’ origine et les fondements de l’ ine´galite´ parmiles hommes, 1755.  これはつぎのものに基づいて引用 Weigend (Hrsg.), Rousseau, Schriften zur Kulturitik, 1972, S. 143ff.
(18)  De Cive(Opera Philosophica quae Latine scripsit, hrsg. von Molesworth, Bd. 2, Neudruck 1961), S. 249 (8. Kapital).  ホッブズもまた、人が雨後のタケノコのように出てくるという仮説が発見的であることを認識している。そうでなければ、どういう意味で精神的戦い−つまりおそらく自己意識的主体の戦いが最も激しいのであろうか(a. a. O., S. 163 [1. Kapital])。国家構築に先立つ社会化の意義については、ders., Behemoth (English Works, hrsg. von Molesworth, Bd. 6, Neudruck 1962), S. 227(実の父親に対する死刑の執行について)参照。
(19)  これに関して用いられる事例について、衝動行為者の免責と医学的措置の相関関係(Jakobs, Schuld und Pra¨vention, 1976, S. 11)は、最も大きなつまづきのもとを作った(最初のものとして Stratenwerth, Die Zukunft des strafrechtlichen Schuldprinzips, 1977, S. 32.  最近のものとして Papageorgiou, Schaden und Strafe, 1994, S. 75)。社会にとって絶対的な責任の基準が存在すると言われるときには、判断されるべき人格が社会的文脈から(これが彼を初めて人格にする)隔絶されているので誤解を招くようになる。しかし、犯罪は、断固として、社会的コンフリクトである。つまり、これに関して、犯罪が生じる具体的な社会を考慮しなければ、無拘束な状態が生じるだけである。まったく全ての行為に関して「衝動のもつ動的連関へのますます多くの洞察」(Stratenwerth, a. a. O., S. 33)が可能となっているが、そこから明らかになることは、一般に、自分の自由な領域を自分で管理するという人格の管轄以外の何物でもない。つまり、社会に対する洞察が帰属による以外のやり方でコンフリクトを処理する可能性を開いて初めて(その際、遍在するものにとらわれた動機の場合には、事故として説明することは排除され、去勢や十分に長期の保安拘禁は極端な場合にしか考慮されない。後者について、区別しないものとして(Stratenwerth, a. a. O., S. 32))、それは責任概念を変えるのである。それ以外では、このような機能化だけが責任をこれと類似のものにとって代えることを許容するということを看過すべきではない。
(20)  Aristteles, Politik, 1253a (Rolfres und Bien, 4. Aufl. 1981 の版のものを引用);Hegel, U¨ber die wissenschaftlichen Behandlungen des Naturrechts, Ausgabe Glockner, Bd. 1, 1985, S. 510f.
(21)  ルーマンは、自由を道徳の帰結と述べる(Gesellschaftsstruktur und Semantik, Bd. 3, 1993[初版一九八九年], S. 439)。これに関して Navas, in:Hruschka (Hrsg.), Jahrbuch fu¨r Recht und Etik, Bd. 1, 1993, S. 293, 296.  しかし道徳は、自由の先取りを前提とする(自己管理能力の意味においてであって、非決定性の意味ではない。Jakobs, Schuldprinzip(注12), S. 34)。この文は、つまり正当であると同時に可逆的でもある。
(22)  Rechtsphilosophie(注5), S. 258.
(23)  (カントに反対して)Hegel, Rechtsphilosophie(注五), S. 33 補足と付記がたびたび用いられている。
(24)  例えば、ロクシン(Roxin, SchwZStr. 104 (1988), S. 356, 366f.;ders., Allg. Teil I, 2. Aufl. 1994, 19/31ff., 34)においては集団主義と混同している。全体主義的な誤解について Hirsch, in:LK, 11. Aufl. 1994, Vor § 32 Rdn. 182d mit Fn. 381.
(25)  Lu¨derssen, in:ders., Abschaffen des Strafrechts?, 1995, S, 23ff.  もっとも、リューダーセンが「社会における合意の手続き」の意義の中になお「公共」を通じての刑罰の正当化の可能性を見いだす時、彼は、この正当化は国家支配(「イデオロギー」)の過去志向的な像に重ねられる(S. 49)、と考えている。このような場合、救済を下手な正当化の理解の解明にではなく、補償と再社会化(S. 71)、つまり、民法や社会法に求めるべき理由は明らかではない。いずれにせよ、再び民事の事柄に引き戻すことは、公共性の放棄か、又はより適切には、仮定された公共性の放棄を意味する。つまり、私的な経済的損害は、全く公共的なものでなくなるのである。
(26)  Hassemer, in:AK StGB, 1990, vor § 1 Rdn. 254.
(27)  ルーマンが人格は社会から排除されないと説明するとき、このことは正しいが、しかし、全ての人間が人格であることを意味していない。妥当にも ders., Die Wissenschaft der Gesellschaft, 1990, S. 34.  これについて IV. 2, 3 以下参照。
(28)  これについてKant, Handschriftlicher Nachlaβ, Akademie-Ausgabee Bd. 19 (Bd. 6 des handschriftlichen Nachlass), 1934, S. 474 (Reflexionen zur Rechtsphilosophie Nr. 7633);Mill, U¨ber Freiheit (On Liberty), 1969 (1859), S. 123f.
(29)  Hegel, Rechtsphilosophie(注5), § 36.
(30)  これについて Jakobs, GA 1994, S. 1. 論争の状況に関する文献については Fn. 25 und 29.
(31)  Hassemer(注26).
(32)  Max Weber, Gesammelte Aufsa¨tze zur Wissenschaftslehre, 3. Aufl. 1968, S. 146ff., 150.
(33)  広範な批判の中で Monita Hassemer, in:AK StGB, vor § 1 Rdn. 480ff.;ders., Festschrift fu¨r Buchala, 1994, S. 133,144;ders., in:Simon (Hrsg.), Rechtswissenschaft in Bonner Republik, 1994, S. 259ff., 296ff., 307;NStZ 1994, S. 553, 557.;Naucke, KritV 1993, S. 135, 143ff.;Herzog, Gesellschaftliche Unsicherheit und strafrechtliche Daseinsvorsorge, 1991, S. 50ff., 70ff.;Prittwitz, StV 1991, S. 435;ders.(注7), S. 236ff(「大統制」と「シンボリックな保全」について).
(34)  Mu¨ssig, Schutz abstrakter Rechtsgu¨ter und abstrakter Rechtsgu¨terschutz, 1994, S. 155.
(35)  そのような傾向のものとして Kindha¨user, Gefa¨hrdung als Straftat, 1989, S. 227ff.  例えば、彼が安全性を、十分に配慮されている状態として記述する場合には(S. 280)、そうである。これに反対するものとして Mu¨ssig(注34), S. 201ff.
(36)  Stratenwerth, ZStW 105 (1993), S. 679, 694.  法益と規範妥当の関係についてすでにWelzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl. 1969, S. 1-5.
(37)  Stratenwerth(注36), S. 689;Schu¨nemann(注10), S. 207  参照。
(38)  概して、もちろん誰に対しても、彼が私を行為によって害した場合以外には、敵対的に振る舞うことはないと仮定されており、このことはまた、双方が市民的ー合法的な状態にいる場合、全く正当である。なぜなら、このことが同じように繰り返し行われることによって、そのような状態はこのような者に対して(双方に関して権力を有する当局を媒介して)必要な安全性を提供するからである。これについて Kant, Zum ewigen Frieden, Akademie-Ausgabe Bd. 8, 1923, S. 349 Fuβnote.  しかし、その際、当局は−場合によっては抽象的に危険な態度の処罰を含めて−必要な措置をとらなければならない。
(39)  先日、グリーンピースが環境破壊者としてフォルクスワーゲン社の幹部スポークスマンをやり玉に挙げたことは、限界値の恣意性を指摘したが、それがしかたのないことであることについては沈黙しており、それゆえ反啓蒙的である。
(40)  Jakobs, ZStW 97 (1985), S. 751, 773ff.
(41)  Armin Kaufmann, Lebendiges und Totes in Bindings Normentheorie, 1954, S. 3ff., 102ff., 160ff.;Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S. 2ff., 35ff.;Zielinski, Handlungs- und Erfolgsunwert in Unrechtsbegriff, 1973, S. 121ff.
(42)  Hobbes, Leviathan (The English Works, hrsg. von Molesworth, Bd. 3, Neudruck 1962) S. 148 (16. kapitel);Forst (Anm. 14), S. 430;Luhmann, Wissenschaft (Anm. 27), S. 33:「人格は社会システムのオートポイエシス構造である」。これを媒介にして ders., Aufkla¨rung(注1), S. 142ff., 153.  これによれば、「人格は、精神的システムと社会システムが構造上カップリングするのに奉仕する」。これについて Gurjewitsch, Das Individuum im europa¨ischen Mittelalter, 1994, S. 116ff., 117f.
(43)  −常に統一しているとは限らないが−古典的な法用語における「ペルソナ」の用い方について Rheinfelder, Das Wort ≠oersona, 1928 (Beiheft 77 der Zeitschrift fu¨r romanische Philologie), S. 148ff. (auch S. 6ff.).
(44)  「人格とは、その行為が帰属可能である主体である」(Kant, Metaphysik der Sitten, Akademie-Ausgabe Bd. 6, 1914, S. 223.)、と。法秩序への包含の公式化として、「市民社会において一定の権利を享受する限りで、人は人格と呼ばれる」(Preuβisches ALR I 1, § 1.)、と。または「人格は概して権利能力を持っている」(Hegel(注五), § 36.)、と。
(45)  Luhmann, Gesellschaftsstruktur und Semantik, Bd. 2, S. 254.(役割について)ders., Soziale Systeme, 1984, S. 430ff.
(46)  この問題に関する論証については Jakobs, Allg. Teil, 2. Aufl. 1991, 8/5ff. mit Fn. 9.  また、Anm. 12. 参照。プッペは、許されないが、しかし軽微な危険を故意の対象としては除外している(Vorsatz und Zurechnung, 1992, S. 35ff.)。このことは正しいことであろうが、しかし、一面しか、つまり特に良心のとがめがある場合だけを除外しているにすぎない。他面、無関心による不知についてはつぎのようである。すなわち、「故意の認識要素をも規範化させることは、相互的価値判断の一般的基準とはずいぶんかけ離れるであろう」(dies., ZStW 103 [1991], S. 1, 37)。しかし、ドイツ刑法の第一七条の領域では、どうして事情が異なるのであろうか。
(47)  共犯論に関して、共同正犯について妥当なものとして Lesch, ZStW 105 (1993), S. 271.  これに反対するものとして Ku¨pper, ZStW 105 (1993), S. 295.  上述の故意の説明によれば、機能的見地からすれば、制限従属性に関する規定も何ら不変のものではないということは明らかである。証明のついた詳細なものとして Jakobs, Allg. Teil, 22/12ff.  作為と不作為の区別の客観性について Jakobs, Allg. Teil, 28/13ff.(これに続いて詳細なものとして ders., Die strafrechtliche Zurechnung von Tat und Unterlassen, 1996);Freund, Erfolgsdelikt und Unterlassen, 1992, S. 39ff., 51ff. und passium;Vogel, Norm und Pflicht bei den unechten Unterlassungsdelikten, 1993, S. 358., 372ff.
(48)  Jakobs, Der strafrechtliche Handlungsbegriff, 1992, S. 41ff.  これに批判的なものとして Stu¨binger, KJ 1994, S. 119.ーStu¨binger, KJ 1994, S. 123とは逆にー「行為」概念と「帰属」概念は不可分であり、しかもヘーゲリアーナーもまた、徹底的には区別しなかった。例えば、参照 Berner, Lehrbuch des Deutschen Strafrechts, 18. Aufl. 1898, S. 117.  包括的なものとして Radbruch, Der Handlungsbegriff in seiner Bedeutung fu¨r das Strafrechtssystem, Neudruck 1967, S. 86.  また批判的なものとして Schild, GA 1995, 101ff.  これによれば、因果主義者においては、「固有の行為」とは、違法で有責な行為である、つまり(固有の)行為概念が犯罪であるとするのは、−シルトとは逆に−認めるべきではない。例えば、von Liszt, Lehrbuch des Deutschen Strafrechts, 5. Aufl. 1892, S. 128  参照。これによれば、行為の概念は二つの部分から構成される。つまり、一つは身体運動、もう一つは、結果であり、原因と結果の関係によって双方は結びつけられる。さらに批判的なものとして Schu¨nemann(注37).  これによれば、彼は、ここでは行為概念が犯罪概念と混同されているのではなかろうか、という反論と目される説示をしている。しかし、刑法上、犯罪を離れて何が関心を呼び起こすのだろうか。
(49)  不法が存在しない場合、瑕疵のない意味表現が存在する場合がある。
(50)  判断の客観性がいかに明確に行われないかは、例えば、規範的責任概念の主張者がここでの見解を規範性にゆだねる場合に明らかになる。
(51)  また(注19)も参照
(52)  妥当なものとして Streng, NStZ 1995, S. 12, 161, 162.  そこでは、(ドイツ刑法第二〇条の枠組みにおいて)責任判断の構築に際して、立法者と裁判官の動機と欲求が重要である(「動機と欲求」はもちろんその側では心理学的に理解されるのではなく、社会の機能性のメタファーと見なされなければならない)、という陳述がされている。−そうでなければ基本的な感情に担われた正義に対する期待の影響力が軽視されるという理由で−シュトレンクが責任を一般予防の派生物と説明することを妥当としない場合、このことは首尾一貫していない。機能的見地では、このような価値評価も「立法者と裁判官の動機と欲求」を社会心理学的に固定させるものとしか理解することはできない。「自己決定能力」は、システムの維持のために行われる帰属の必要性とは関係なく基礎づけられなければならない、なぜなら、さもなくば、帰属が公然と行われる場合に、それは承認されないからだ、という批判がこれに対応する(最近のものとしてFrister, Die Struktur des ≠魔盾撃浮獅狽≠狽奄魔n Schuldelements, 1993, S. 77,80 und passim.  このような議論に対して、さらに別の証明もしている)。このような批判は、つぎの二重の錯誤に起因する。すなわち、(1)法の彼岸で機能を喪失した帰属システムが存在する(特に、道義的帰属も方法のための方法としておこなわれるのではない)。(2)社会システムの強制は、人格には無縁のもので、必要不可欠とは解されない、という批判である。確かに、消滅または破滅した社会はある。しかし、なぜ、公然と自己を記述し理解する社会の諸条件を、その生成においてはっきりとしない正義という観念に比べて、承認すべきではないのであろうか。
(53)  その論証は Jakobs, Allg. Teil, 17/18.;ders., Schuldprinzip(注12), S. 23ff.  過失について注12参照。
(54)  注17と同じ
(55)  参照注27
(56)  Rousseau(注17), S. 141ff.
(57)  Rousseau(注17), S. 185.
(58)  Rousseau(注17), S. 141ff., 183.
(59)  例えば Hobbes(注18).
(60)  Hobbes(注42), S. 117(一四章).
(61)  Hobbes(注18), S. 157f(一四章).
(62)  Du Contrat Social, 1762, S. 23 (4. Buch, 7. Kapitel a. E.), S. 45f. (2, 5), 155 (5, 2):≠ke Citoyeen consent a` toutes les loix, me^me a` celles qu’ on passe malgre´ lui, et me^me a`celles qui le puissent quand ilose vioker quwlqu’ une.
(63)  (正当な)国家は、ルソーによれば、道徳をも規定するとされているが、ホッブス(注42 S. 436(三七章))によれば、合法性しか規定しないとされている。後者について、C. Schmitt, Der Liviathan in der Staatslehre des Thomas Hobbes, 1982, S. 94f.
(64)  Hobbes(注42), S. 208(二一章).  ホッブスの国家においては、生命を処分する権利は付与されない。人はこのような自然権を持っている場合には、彼はその限りで人格とはならない。犯罪を理由に行われる死刑に関して、関係の道具化が特に明確になる。つまり、国家機関は安全をもたらすが、しかしこれを阻害する者は、その結果を必要な場合に事実上(しかも主権者の自然権に基づいて)甘受しなければならないが、国家的権利に基づいて甘受するものではない。この問題について、全て確証するものとして Dix, Lebensgefa¨hrdung und Verpflichtung bei Hobbes, 1994, S. 94ff.
(65)  Tractatus theologico-politticus, hrsg. von Gawlick u. a., 1979, S. 475f.
(66)  Hobbes, Leviathan(注42), S. 110(一三章).  翻訳について U¨bersetzung von Euchner in der Ausgabe von Fetscher, 1984, S. 95.
(67)  Hegel, Pha¨nomenologie des Geistes, Ausgabe Glockner Bd. 2, Neudruck 1951, S. 148ff., 154f.
(68)  Rousseau(注17), S. 183.
(69)  Hegel, Rechtsphilosophie(注5), §§ 4, 21.
(70)  人格とは、社会システムのオートポイエシスを持つ構造であり、それだけでは精神的システムまたは完全な人間ではない(Luhmann, Wissenschaft(注27), S. 33.)。人格的コミュニケーションと道具的コミュニケーションの区別については、決定するものの連関から読みとるべきではない。奴隷は人格ではないが、しかしコミュニケーションから排除されるか否か(つまり、一体、道具的コミュニケーションは存在するのか否か)は不明確なままである。原則的にコミュニケーティブに構成された人格を主体の意識と全く対立するものと見ることはやり過ぎであろう。コミュニケーションのプロセスにおいて、「了解として達成されるものが何かであるかが絶対的に決定される場合、意識の刺激は偶然にゆだねられる。とにかく誰かがすでに了解しなければならないか、了解しているふりをするか、または接続を強要できなければならない。意識システムは社会システムと相互に浸透し合うことによって社会化されるということと、「コミュニケーションシステムは身体及び精神的な見地(意識についても一緒に考えて)において人間の固有の動態を考慮する」、ということが、媒介として提唱される。コミュニケーションプロセスは、つまり意識の統一性とその複雑性を考慮しなければならなず、その限りで「絶対的」ではない(Luhmann, Aufkla¨rung(注1), S. 37ff., 51f.)。
(71)  Kant, Metaphisik der Sitten(注44), S. 223.  これについて Siep, in:ders., Praktische Philosophie im Deutschen Idealismus, 1992, S. 81ff., 90ff.
(72)  注29
(73)  通常の解釈によれば、ヘーゲルは法哲学の中でまさに間主観性の意義を割り引いてしか考慮していないとされる。特にそう解するものとして Theunissen, in:Henrich u. a(Hrsg.), Hegels Philosophie des Rechts, 1982, S. 317ff., 358.  もっとも、法哲学の全ての命題に関して、自己認識している意思は、はじめから互換的な承認関係を包含しているということをも合わせて読みとるべきである。これについて Siep(注71), S. 255ff., 259.  これついてつぎのものも E. Du¨sing(注16), S. 357. Hegel(注5), § 24.  自由な意思とは、「その中に全ての限界と特定の個別性が止揚されるので、普遍的」なのである。そうでなければ、特にヘーゲルのカントやルソーに対する批判(注5, § 29)は理解できないままである。もっとも、承認関係は抽象的法において不十分な中身しか持たない(Theunissen, a. a. O., S. 345)。すなわち、「主として人格とそこから導き出されるものを侵害してはいけない」という消極的な中身しか持たない。これは、「市民の本来の義務は不作為にのみ」及ぶとするフォイエルバッハの見解と一致する。これについて Lehrbuch des gemeinen in Deutschland gu¨ltigen peinlichen Rechts, 11. Aufl. 1832, § 24.  つぎのものも参照 Jakobs, Festschrift fu¨r Arthur Kaufmann, 1993, S. 459,460 mit Fn. 8.
(74)  上述 IV. 2.
(75)  神話の領域における共同体思想からルーマンが隔絶したことに同調し(Luhmann, Soziale Systeme, S. 298ff.;ders., Gesellschaftsstruktur(注1), S. 195ff., 244f.;Fuchs, Die Erreichbarkeit der Gesellschaft, 1992, S. 185f. und passim)、かつ社会は主体から構成されるものではないとか主体の「間」に根を下ろすことはあり得ないというテーゼを承認する者(Fuchs, a. a. O., S. 209)も、一元的な態様のコミュニケーションだけが、つまり一元的な社会だけが存在するということを基礎づけはしなかった。

  ヤコブス九五年ロストック講演に対するコメント
  本論文は、筆者のボン大学ギュンター・ヤコブス教授自身の注にもあるとおり、ロストックで開催されたドイツ刑法学者大会における一九九五年五月二八日のヤコブスの報告に基づくものである(以下、敬称略)。この大会では、「機能主義刑法と古きヨーロッパの原則思考に立つ刑法」との間の論争という企画が設定され、ヤコブスとフランクフルト大学教授のリューダーセンの報告が用意された。その模様は、ドイツの『全刑法雑誌』(ZStW)の一〇七巻四号に掲載された二人の論文から知ることができる。
  この大会では、当初、企画者は、ヤコブス刑法理論を「機能主義刑法学」と捉えた上で、それは、犯罪行為者の心理や主体性を中心として構築される伝統的なドイツ刑法学とは異なる新たな潮流と考えて、古典的な原則を重視するフランクフルト学派のリューダーセンとの論争を企画したのだと思われる。しかし、これに対するヤコブスの報告は、参加者の予想を超えるものであった。というのも、ヤコブスは、社会と人格との「関係」を基調とする自らの考え方こそが、アリストテレス以来の伝統的なヨーロッパ思想に沿うものであると主張したからである。したがって、訳者の伝え聞くところでは、大会当日の議論もまた、いったい何が「古きヨーロッパの原則思考」なのかという論点に集中したようである。
  いずれにせよ、犯罪主体の側だけに着目したのでは説明のできないような刑法現象を、自らの理論で鮮やかに解き明かしていくヤコブスの理論展開は、わが国の研究者にとっても、様々な点で有益なものと思われる。もっとも、わが国でも、「期待可能性の標準」に関する佐伯博士の「国家標準説」のように、期待する側とされる側の「関係」に着目した理論がなかったわけではない。しかし、このような考え方は、その後わが国の刑法学では、必ずしも十分な発展を見なかった。ヤコブスの本論文が、その点でも、わが学界にとって何らかの刺激になれば幸いである。
松宮孝明
金 尚均