立命館法学 一九九六年四号(二四八号)




石原 廣 一 郎 小 論 (二・完)
---その国家主義運動の軌跡---


赤澤 史郎






目    次




二、排英運動の推進


1.
 石原の国家主義運動家としての第二期は、陸軍衛戌刑務所から釈放された後の一九三七年二月から、大政翼賛会成立直前の一九四〇年九月までの期間である。近衛文麿の首相就任と日中全面戦争の開始をきっかけに政治活動を再開した石原は、やがてこの時期の国家主義運動の大きな流れとなる排英運動のリーダーの一人として、政治の表舞台に浮上していくことになる。とはいえ石原が表立った政治活動に奔走するのは、この第二期の最初からではない。一九三九年の半ば頃までの石原は、二・二六事件に連座した者の一人として、対世間的には雌伏を余儀なくされていた面があったからである。もっとも二・二六事件への連座は、逆に政界や軍部上層部の間での石原の知名度を高める役割を果したようであり、またこれをきっかけにして東京憲兵隊の大谷敬二郎特高課長とは、個人的な結びつきすら生じている。そのためこの前半の逼塞の時期にも、石原は政府・軍の要人に接触して進言したり、徳川義親らの同志たちと組んで秘かに排英運動に加担したりしていた。
 政府や軍の要人に進言するという活動スタイルは、第一期から石原に見られるものであるが、日中全面戦争以降の彼の意見書は、敗戦までの期間に全部で七通が残されている。これらの意見書は、直接それら要人たちに手渡されるものであるため、警察や憲兵の検閲や取締りを免れており、この時期に石原が他で公表した文章には見られない軍事・外交政策についての自由な発言が見られると言えよう。このうち日中戦争期の意見書としては、((1))「事変ヲ如何ニ収拾スルカ」(一九三七年九月、近衛首相・末次軍事参議官・安井文部大臣・多田参謀次長への進言)、((2))「大本営設置ニ伴フ持久対策」(一九三七年一一月、近衛首相への進言)、((3))「根本国策私案」(一九三八年一〇月、進言先不明)、((4))「国難打開ノ道」(一九四〇年六月、進言先不明)の四通が残されており(1)、((3))については進言先は確定できないものの、進言のおこなわれた月の一〇月六日、二八日の両日には木戸幸一と面談しており(2)、一〇月二九日には近衛首相と会見している模様からすると(3)、進言先は近衛や木戸であった可能性がある。ともあれ((1))〜((3))の意見書は、いずれも第一次近衛内閣期のものであり、石原の近衛に対する期待が高い時期のものであった。これに対し時期的にも一つだけ飛び離れて米内内閣末期に当る((4))の意見書は、今のところその進言先を特定することはできない。
 第一次近衛内閣から、その近衛内閣の延長の観もある平沼内閣までの期間は、石原は首相の人格への信頼が未だ高かったようである。また石原の「回想録」の記述や『近衛日誌』などを見ても、一九三七〜三九年にかけては年間少なくとも五回〜七回以上は近衛と会見している可能性が高い。石原の回想によると、近衛は第一次内閣途中の一九三八年五月の内閣改造に当って、石原の入閣を約束しながら実現しなかったとのことである。その折近衛は石原に対して、「君を入閣せしめて支那事変解決に当たろうとしたが、陸軍中堅層の反対によりどうしても実現しなかった。併し自分は全力をあげて事変収拾に当る積りであるから閣外より援助して呉れ云々と言い、石原も近衛協力を誓った」という(4)。近衛の側に石原を入閣させようとすることにどれほどの熱意があったかは別として、少なくとも石原の思惑としては、第一次近衛内閣期の意見書は、入閣の可能性のある近衛の側近の一人としての献策であったのである。比較的史料の少ないこの第一次近衛内閣期については、この三つの意見書を中心に考察してみたい
 第二期以降の石原の主張を第一期のそれと比べてみると、その主張の重点が圧倒的に内政問題から軍事・外交問題に比重を移しているのがわかる。もともと南進論に結びつく軍事・外交論こそ石原の本領に属する部分であったことからすると、石原の国家主義者としての個性もこの時期になって大いに発揮されるようになったと言えよう。その石原の独自の視点は、まず日中戦争批判の中に見て取れる。
 石原が日中戦争を批判したと言っても、彼は戦争に反対していたわけではない。むしろ石原は、たとえそれがいかなる戦争であれ、戦争は開始した以上勝たねばならないと考えていたし、勝つためには国民の戦争協力を当然とする見方に立っていた。とはいえ彼が事変不拡大派に属していたのは間違いない。最初の意見書である「事変ヲ如何ニ収拾スルカ」は、事変開始二カ月後の九月三日夜に二時間ほど近衛首相に会って進言した内容であるが(5)、そこでは盧溝橋事件直後の政府の不拡大・現地解決の方針を「臨機ノ処置」として賞讃し、その後のこの方針に反する事変拡大の経過を批判する立場に立っている。しかしここまで事変が拡大して日本の生死を賭けた「未曾有ノ大事件」となった以上、「過去ノ失敗手落」は今さら深く追求せず、「今後如何ニシテ勝ツカ」こそ問題とすべきだというのが石原の立場であった。
 石原はこの意見書の中で、日中戦争の早期勝利は不可能との判断を早くも示している。というのは、たとえ日本軍がさらに進撃して「首府南京ヲ陥落セシメタトシテモ、支那政府ハ首府ヲ何レカニ遷都」してなおも抗戦を続け、イギリス・アメリカ・ソ連などを後楯に「出来ル限リ戦争ヲ長引カセ、日本ノ疲レルノヲ待ツ」作戦に出るだろう。つまり「支那ノ作戦」は、「戦線ヲ拡メ、日本ヲ多数出兵ニ導キ、一方持久戦タラシメ、以テ日本ガ経済的ニ行キ詰ルノヲ待ツノ作戦ト見ルベキデアル」。従って今日の日本軍の戦線拡大は、「蒋介石ニ引キズラレ」た結果に過ぎない。中国軍側は戦況不利と見れば奥地に「兵ヲ引」き、日本軍はこれを「何処迄モ追フコトガ出来ナイ」。つまり日本側が軍事的に「戦争ノミデ解決スルコトハ見込ナ」く、しかも日本は国際的に孤立し「外債募集ハ不可能」で、「仲裁」をしてくれる国もない。従ってこの戦争は、「何日結果ガツクカ見透シガツカヌ」というのが石原の認識であった。これは日中戦争初期のこの時点としては、極めて的確な情勢判断であったと言わねばならない。
 こうした石原の当面の日中戦争対策は、中国の対外交通を遮断した上での戦線縮小論であった。日本軍は中国全土で南京など六つの「重要都市ノミニ限リ占拠シ」、「他ハ時々空軍襲撃ニ止メ、持久戦形態ヲ採ルコト」が提言される。それと同時に中国に宣戦布告して「支那ト諸外国トノ交通ヲ遮断シ」、中国への「兵器其ノ他物資」の供給の道を閉そうというのである。つまり石原の戦線縮小論は第三国による援蒋行為の遮断と結びついており、その第三国の代表こそがイギリスであった。
 石原の排英の主張は、英統治下のマレーでの鉱山経営において、イギリス当局によって経営的発展を阻害されていると感じていたことに由来する、いわば彼にとっての根っからの持論であったが、それがここで「対支問題解決ノ根本方策」として持ち出されてくる。「北支事変ノ解決ハ支那ヨリ英国ノ勢力ヲ駆逐スルニアリ」というのである。中国に対する戦線縮小論は、その縮小によって生じた兵力の余力を挙げてイギリスに振り向け、イギリスに「一戦交フル覚悟」で当ることに結びついていたわけである。むろんそこには、日本が強硬決意を示せばイギリスは譲歩するのではないかとの期待もないではなかったようだが、そうはいっても「英ノ出方ニ依リテハ断然戦フ」ことになる可能性も想定されていた。これは日中戦争を縮小する一方で、より強力な敵と戦うことを求めて、危険な大戦争に突入する賭博的な方策であるとも言える。
 抗戦する中国の背後にあるイギリスを叩くという排英の主張は、日中戦争下で国家主義者の共通の要求として大衆運動を伴って発展するが、石原の排英論はその中でも早い時期からのものであったと言えよう。そして石原は、漢口陥落直前の一九三八年一〇月の意見書「根本国策私案」の中でも、新たな戦線縮小の計画として、漢口までの揚子江流域など合計四地域だけを日本軍の支配下に置いて「完全ニ守備」し、その他の「奥地ノ兵ハ引揚ゲ」、他方で「新タニ広東、海南島ヲ占拠シ、支那ノ対外交通ヲ完全ニ遮断シ、以テ持久態勢ヲ採ルコト」を提案している。そしてこの提案は、「躍進日本ノ障害」であるイギリスが「日本ノ進路ヲ障ケ」る行為に出れば、これとの「戦ヒヲ辞セズ」とする排英の方針と、ぴったりと結びついていたのであった。
 二・二六事件での起訴によって一時明倫会を脱退した石原は、釈放後まもなく明倫会に復帰した模様であり、一九三七年八月には明倫会理事として活動していることが確認されるが(6)、復帰した石原と明倫会本部との関係には微妙なものがあったと言わねばならない。というのは明倫会本部は、陸軍主流派の応援団にふさわしく、盧溝橋事件直後の一九三七年七月二〇日には、政府が「此際従来の『事件不拡大、局地解決』の方針を一擲し、断然速に全力を挙げて彼の武力を撃滅」すべきであるとする声明を発していたからである。明倫会では翌一九三八年四月二三日の本部評議員支部長会議においても、政府が「長期持久の消極方針より断然速戦速決の積極方針に転換」せよとする決議を採択している(7)。これらはいずれも日中戦争における一撃論=拡大論の主張であり、石原の不拡大論・戦線縮小論とは正面から対立するものであったと言ってよい。
 しかし明倫会本部は、同時に排英の主張も打ち出していた。民間の国家主義団体が排英運動に動き出すのは、一九三七年一〇月からであったが、明倫会では同年一一月三日に声明を発し、「英国の反省を求むると共に、我政府に対し従来の親英政策の一大転換を強硬に要望」する行動に出ていた(8)。この期の石原の最大の政治目標が排英にあったことからすると、明倫会に不満があったとしても、なお明倫会に止まることができたのはこのゆえであったと言えよう。
 この時期石原の参加した排英の主張をもつ団体に、徳川義親を中心とした大和倶楽部がある。大和倶楽部は一九三八年四月一一日に結成された排英主義的な政・官・軍・財界の知名人の参加する国家主義団体で、毎月講師を招いて時局懇談会の例会を開き、事務所を中心にこの倶楽部の参加者が日常的に集まって情報交換をおこなうなどの活動をおこなっていた模様であり、国家主義団体といっても大衆動員をおこなう政治団体ではなかった。河野恒吉情報では、「創設者石原広一郎、幹事大川周明、会長徳川義親、会員ハ三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件、神兵隊等ニ(ママ)関係者ニシテ在京ノ者、此倶楽部ハ末次 (信正)支持ナリ」と記されているが(9)、実行団体ではない。石原は事務所設置などの資金を提供したのであろうか。徳川義親の日記で見ると、そこには建川美次、松井石根らの軍人や白鳥敏夫など外務官僚が参加しているのがわかる。ともあれ大和倶楽部は政治的影響力をもつ知名人のゆるやかな結合体であり、排英の世論づくりを支える集団であったと言えよう。
 それでは石原は、この中国戦線での戦線縮小と長期持久態勢の確立、それに排英の実行を誰に期待したかというと、それは近衛首相を中心とする新たな強力内閣によってであった。第二番目の意見書である「大本営設置ニ伴フ持久対策」では、国内的な引きしめを含むこうした政策を首相は閣議に提示し、「反対スル者」は直ちに「引退」させ、閣僚中に「多数異論者」ある時には内閣総辞職せよ、そうすれば「御親任厚キヲ以テ、恐ラク大命再降下スベク、此ノ時ハ進ンデ強力戦時内閣ヲ組織」すれば良いとの方策が示されている。しかしその「戦時強力内閣」の下で実行に移される筈の国内の「持久戦対策」は、極めて精神主義的なものであった。石原のような日本主義者の長期戦対策は、国内の資源と労働力を長期戦に向けて合理的・計画的に動員する組織やシステムを造り出すという総力戦体制論とは、決定的に異なるものであったからである。そこでは戦時下であるにもかかわらず「政府其ノモノニ信念ト真剣味ヲ欠イテ居ル」ことが、国内の「持久戦対策」を成功させていない最大の問題点とされており、この状況の克服のために具体的には「各役所ノ自動車ヲ半減」したり、「各省大臣官舎ヲ廃」したり、「宴会ヲ廃止」したり、地方長官会議などの「諸会議ノ召集ヲ廃止」したりして、政府自らが国民に質素倹約の「範ヲ示ス」ことが求められる。軍人にしても官吏と同断で、「軍人ニシテ内地勤務者ノ戦時手当ヲ辞退セシメルコト、並ニ官公吏年末賞与ノ半減ヲナスコト」といった率先した自粛が要請されている (以上、「大本営設置ニ伴フ持久対策」)。これは石原のような日本主義者が、社会や国家というものを個々の指導者の人格的な影響力を越えて動く一つのシステムとして捉えるような思考法を持たないことに基因していた。高度国防国家形成のための強力内閣待望論はこの時代に広く見られる政治論だったが、石原のそれは国民再組織や機構・制度改革によって強力内閣をつくり出そうとするプランでなく、首相である人の力量と決意によってそれがつくり出されるという構想であった。
 また経済統制に対する批判はこの時代の資本家一般に共通するものであったが、石原の場合も消費規制は認めるものの「産業ハ自由タラザルベカラズ」、「産業ノ国家管理ハ一種ノ抑圧ニシテ伸展ヲ阻害ス」と、資本家・経営者としての権限に制限を加えるような生産統制一般に対して、原則的に反対する姿勢を示している。特に石原が強く反対していたのは、対外為替相場の維持をはかろうとする政府の為替管理政策と強制的割り当てによって売りさばく公債消化政策の二点についてであった。しかし「為替相場一志二片堅持ノ如キハ、為替思想ノ錯誤ト英国倚(ママ)存ノ旧弊ニ基ク悪政ニ外ナラズ」と非難してみても (以上、「根本国策私案」)、現実に軍需物資を含む多くの原料資源を英帝国圏からの輸入で賄っている以上、対英一シリング二ペンスの為替相場の維持は当面の資源の安定的輸入に不可欠の政策であったと言えよう。前述の対中国宣戦布告論も同様であるが、石原の為替管理政策批判ももしこれを実行に移せば、軍需物資を含む原料資源の輸入が極度に困難になる部面が生じ、日本の対外的危機を一挙に昂進させる可能性の高いものであった。それからすると、石原はここで積極的にイギリスとの間での死活的経済摩擦状況をつくり出し、それをテコに一挙に対英戦争に日本を突入させようと狙っていたのかもしれない。しかしこうした冒険的経済政策の提案は、資本家の中でも多くの支持を得られるものではなく、政府がおいそれと採用するものでもなかった。
 そして近衛首相は石原の期待するような対英強硬路線を取り上げようとせず、第一次近衛内閣末期の一九三八年末には石原も近衛に対する失望感を深めていく。この時、石原は、「池田や、宇垣なぞ入れたら絶対駄目だとあれ程いって置いたのに聞き入れないから、こんな事になるんぢやないか。もう近衛もいい加減止めたらいい。僕は絶交状を叩きつけてやったよ」と語っている(11)。これからすると石原は、親英米派とされた池田成彬や宇垣一成の入閣に反対していたらしいことがわかるが、この「絶交状」発言にもかかわらずその後も石原と近衛の交流は続いている。この発言の頃であろうか、一九三八年一二月の大川周明の日記には、「石原氏来訪。近衛内閣は到底維持し難きにより後継内閣の相談をする。平沼氏が最適の後継者といふに一致し、その実現に努力することにする」との記事があり(12)、どうやら近衛に代って平沼に期待を懸けることになったようである。しかし近衛内閣を人的に継承した平沼内閣も石原の期待に添うものではなく、やがて独ソ不可侵条約締結で平沼内閣が総辞職した後に石原は、平沼首相は「腹一文字に掻切って世を去」る形で責任を取るべきだったと平沼を批判するようになるのであった(13)。
2.
 平沼内閣倒壊後の一九三九年九月頃から、石原は急速に政治的に浮上してくるようになる。第二期に石原が著した「論説」及び「講演等」の著作の合計数を見ると、一九三七年中から一九三九年八月までの著作数が約二年半で四篇に過ぎないのに対し、第二期の後半期に当る一九三九年九月から一九四〇年九月までの期間は約一年間で一八篇に及んでおり、しかも前半期にはそのテーマが主に財界人・資本家としての立場からの発言に限られているのに比べ、後半期には対蘭印政策など南進論を中心としたものに変化してきているのがわかる(14)。これは排英運動が発展して南進論に結びつく中で、南進論の早い時期からの鼓吹者であるばかりでなく稀な実践者として、石原に世間の注目が集まってきたためであった。一九三九年一〇月には『熱血児石原廣一郎』と題する伝記まで、財界人物評論全集の一巻として刊行されているが、この本も石原の真骨頂を「国策事業」を担う「愛国主義的事業家」であることに見出して、石原が南方での鉱山開発事業を成し遂げるまでの七転び八起きの苦闘を中心に叙述したものであった(15)。
 同時に石原に対する社会的な注目が集まって来たのは、この時期に石原が新たに国内外での鉱山開発に成功し、さらに重工業部面にも乗り出すなど軍需産業の資本家として大発展を遂げたためでもあった。即ち、石原産業海運が一九三四年に買収してそれから探鉱を続けていた紀州鉱山は、一九三七〜三八年にかけて相い次いで優良な銅の大鉱脈を発見して本格的な増産に乗り出し、マレーのジョホール州で開発したボーキサイトは一九三六年から日本への船積みを始めていた。また一九三九年海軍による海南島占領にともなって、海軍当局側との話し合いによって開発の独占権を石原が獲得した田独鉱山の開発では、早くも一九四〇年六月から鉄鉱石の日本への輸送を開始しているが、この田独鉱山はすでに凋落期にあったマレーの鉄山に代る有力な鉄鉱石の産地として発展していくことになる。
 他方、紀州鉱山から産出された銅とフィリピンでの鉱山開発を見込んで立案された四日市における銅製錬工場は、地元の四日市市と三重県の工場誘地政策による協力によって一九三九年から建設が開始され、一九四〇年には銅製錬工場に先立って一足早く硫酸工場が造られる。この四日市工場はその後、伸銅所、特殊鋼の製鉄所などを含む「綜合工場」として発展する計画のものであった。またマレーのボーキサイトについても、当初は四日市にアルミニウム工場を建設して加工する予定もあったが、一定の技術蓄積のある森矗昶の経営する日本電工に供給することとし、その結果日本電工は一九三七年四月からは石原産業海運の供給するボーキサイトによるアルミナ生産を開始する。これに伴って、石原産業海運は日本電工の株主中第二位の地位を占めるようになり、石原の末弟である高田儀三郎は日本電工の副社長に就任している。こうした中で、一九三四年三月に二四〇万円の資本金の株式会社として発足した石原産業海運は、増資に増資を重ねて一九四〇年八月には資本金五三〇〇万円の企業へと膨張を遂げ、傍系関連会社も一四社を数えてそこへの投資額も一千万円に達するに至った(16)。こうした彼の企業的発展が、石原の知名度や社会的影響力を増大させたことは間違いない。石原の語るところによると、石原は軍需物資である鉄鉱石やボーキサイトのみならず、商工省が「唯一の頼り」としている国産の銅を多量に産出しているので、この頃商工省では石原の言うことを「何んでも聴く」ようになってきたという(17)。海南島開発での海軍当局との結びつきは前述の通りであり、「国策」と結びついた石原の企業的発展は、国家の一部との新たなパイプをつくり出していくことになる。
 さて、もはや誰の目にも早期に中国を軍事的に屈服させることが不可能であることが明らかとなったこの時点で、石原は日中戦争に関する自己の見通しの正しさにいよいよ自信を深めていったようである。汪兆銘新政権が出来たといっても「余リニモ無力過ギ」将来発展の見込みなく、「味方ノ根拠地ハ線ト点」なのに対し「敵ハ四億ノ支那人」全部という状況で、つまりは「蒋介石打倒ノ目算立タズ」、勝利への展望は開けそうにない状態である。従って「奥地ノ兵ヲ引揚ゲ、海岸線ニ兵力ヲ集中シ」て中国の対外交通を遮断するという、これまでと同じ提案が繰り返されることになる (以上、「国難打開ノ道」)。
 このように基本的な主張は同一であるとはいえ、この頃からこの中国戦線での戦線縮小論を支えるもう一つの柱が出現して来ているのを見落すことはできない。それは、満州を含め中国の埋蔵鉱物資源はけっして豊かであるとは言えず、むしろ貧弱であるという認識である。つまりこんな貧しい地域を占領しても、何の得にもならないというのである。石原は講演の場で、「政府は満州ハ好イ好イト盛ンニ放送スルモ馬鹿ノ骨頂ナリ」、「政府ハ北支開発ニ力ヲ用ヒアルモ北支ノ鉄鉱ノ如キ全ク土石ニ等シ」と語り(18)、北支開発・中支振興の両会社の設立発起人となることを薦められた時も、「北支にある龍烟鉄鉱、山東省の金嶺鎮鉄鉱」は低品位でけっして「価値あるものにあらず」、また「大同大原の石炭」は確かに埋蔵量こそ豊富であるが、これを搬出する陸上交通輸送力に大いに難点があり、到底「利用価値なきものである」として、その発起人となることを断っている(19)。そして中国は今さら開発しても益がないというこの見解は、次第に豊富な資源をもつ南方にこそ目をつけるべきだという南進論の主張とセットで押し出されるようになっていく。
 こうした中国戦線縮小論・開発無価値論は、第三次近衛声明 (一九三八年一二月二二日)の中国に対する賠償請求をせず領土の割譲を求めないとする方針への支持と結びつくものであった。石原はこの声明の以前から、「治安維持だけは、日本の手でやるべき」であるが、「矢張り支那の政治は、何と言っても支那人自体にやらすやうにしなければいけない」、「支那開発」を含め「支那の内政に日本が深入りする」と、結局は失敗に終る結果となると発言していたが(20)、それがこの声明の支持につながっていた。とはいえこの第三次近衛声明の非賠償・不割譲の線に沿って戦争の収拾がはかられた場合、これまで「莫大な犠牲」を払ってきた「国民の承服」が得られるかというと、石原は「何等実質的成果を得ずに退くこと」はなかなか国民の納得を得にくい「根本的難点」があると考えていた。さればとて「假に近衛声明を修正して賠償を要求するとしても、支那には支拂能力はなく」、賠償請求は無益に終るだけである。それではこの「近衛原則に則り、かつ事変の成果を確保するの途」はあるのか。石原に言わせるとその道が、「白人勢力の東亜からの後退」の実現ということになる(21)。つまり排英の実行と日本の南方進出に求められるわけである。
 それではこの排英と南進はどのようにして実現するのか。永井和の排英運動の研究によれば、独ソ不可侵条約の締結後、国家主義者の排英運動は三つの流れに分岐していったという。その第一は親独連ソ排英派であり、「北守南進」を主張するグループ、第二は親英防共派であり「北進南守」の主張者、そして第三は防共排英派であり「反ソ・反英」をともに主張する一派である(22)。そして石原は、いうまでもなく第一のグループに属していた。前にも述べたように、日独ソの連繋によって北守南進を実現するというプランは、日中全面戦争開始のはるか以前から石原の唱えていた説であった。この点からするとかつては奇矯な論とも見られていた石原の説が、ようやくこの時になった初めて国家主義者の中の有力な政治グループに担われるようになったとも言えよう。つまり日中戦争の見通しについてだけでなく親独連ソ排英論の提唱の点でも、石原は先見の明を誇りうる立場に立ったわけである。石原に言わせると、むろん日本とソ連とではその国是・思想は異なっているが、「思想や主義に於て国家が相争ふといふことは、昔はあったかも知れぬが、これは有り得べきことぢやない」、「日本は何處までも北守南進の国是を貫く為に、日本とソ聯、ドイツ、イタリーは握手して自由主義国家である所の英仏米を敵に廻して戦って行かねばならぬ」ということになる(23)。第二期の前半期にはあまり表立った政治活動をおこなわなかったことから、時には親英派の一人かとの誤解を受けてイギリスの駐日大使クレーギーから接触を求められたり、憲兵から注意を受けたりしたこともある石原は(24)、この頃から親独連ソ排英の立場で公然たる政治活動をおこなうようになる。
 このように石原が公然たる政治活動に乗り出すことは、他方から見ると石原が、単に軍事・外交分野に止まらぬ政府・軍部批判の旗幟をいよいよ鮮明にすることと結びついていた。なぜなら石原から見ると今日の日本が内外で「行詰リヲ来シタ」のは、「要スルニ政治家、軍首脳部ガ事変ノ処理上、銃後ノ内政上ニ信念ト自信ヲ持タズ、責任ヲ弁ヘザリシコトガ根本原因」と捉えられていたからである (「国難打開ノ道」)。石原からすると「銃後ノ内政」は、「日本精神ヲ知ラヌ役人共」によって(25)、「組織ト形式ニ因ハレ」、「総テ法律命令ヲ以テ国民ヲ拘束」する「官吏独善」の横行する世界に外ならなかった (「国難打開ノ道」)。そして軍部もこの官僚機構の一部として批判されているのであるが、石原に特徴的なのは軍部の政治介入を批判する視点である。「軍人カ此頃盛ニ政治ニ容喙シ来シカ甚タ良シ(ママ)カラサル所ナリ。殊ニ最近経済ニ迄嘴ヲ出スニ至リ、為ニ幾多破綻ヲ生シタルハ事実ナリ」とは、名古屋の講演会での石原の発言であるが(26)、これに限らず「銃後ノ内政運用上ノ誤リ」の一つは、「軍部ノ言フコトナレバ、其ノ善悪ヲ論ゼス政府ハ取上ゲタルコト」(「国難打開ノ道」)に求められていた。
 こうした石原の姿勢は、明倫会本部と石原の乖離をより大きくするものであった。明倫会本部は陸軍支援の立場で一貫しており、陸軍出身の阿部内閣が貿易省問題で一頓座に見舞われた時には、反抗した外務省官吏を非難して内閣を支持する声明を発していた。また一九三九年一二月には物資配給問題で阿部首相に進言し、「軍人出身の総理大臣たる閣下」にふさわしく、「国民に気兼なく」「思ひ切ったる強度の御統制」を「断行」することを要請していた(27)。ところがこれに反し石原は、阿部内閣成立の当初から「この内閣は二箇月ぐらゐよりもたん」と否定的な発言をおこない(28)、一九三九年一一月にもなると、日中戦争を処理する能力をもたぬ「かういふ資格の無い内閣を何時までも続けて置くことは出来ない、早く倒す方がお国の為である」として、阿部内閣の退陣要請を「要路者」に向っておこなっている(29)。石原はこの頃北尾半兵衛ら明倫会京都支部のリーダーたちと共に、明倫会から一時離れていったようであり、翌一九四〇年四月二八日の明倫会本部評議員会全国大会にも同年一〇月二七日の全国評議員会にも、石原と京都支部代表は参加していない(30)。その石原や北尾は、新たに結成された東亜建設国民聯盟に参加していたのであった。
 この東亜建設国民聯盟結成に向けての動きは、一九三九年九月から一〇月にかけての徳川義親を中心とした会合の中に始まっている。徳川義親が主催した排英派の知名人たちを集めたこの会合は、九月一九日、二六日の二回は徳川邸で、一〇月五日、一一日の二回は丸ノ内会館で開かれているが、この四回の会合参加者は合計で一七名を数えた。このうち比較的熱心な三回以上出席者は徳川義親、建川美次、中野正剛、橋本欣五郎、村川堅固、石原廣一郎の六名であったが(31)、のちに東亜建設国民聯盟が結成された時、徳川義親はその顧問に、建川・中野・橋本・石原は中央常任委員に、村川は中央委員に就任している(32)。徳川を中心としたこの会合は、最後の一〇月一一日に「末次氏を首班とすることに決して」散会しているが(33)、その末次信正は東亜建設国民聯盟が結成された時会長に就任している。つまりこの動きは末次擁立の倒閣運動に結びつくものであり、事実この会合の噂は政界に伝えられてちょっとした衝撃を与えていた(34)。
 東亜建設国民聯盟準備会は、一九三九年一二月七日親独連ソ排英派の右翼の大同団結の組織として発足する。この団体には国民同盟総裁の安達謙蔵、東方会会長の中野正剛、大日本青年党統領の橋本欣五郎、大亜細亜協会理事長の下中彌三郎がそれぞれ組織を率いて参加し、創立準備委員は二六名、このうちから実行委員六名が選ばれたが、実行委員の顔ぶれは前記の安達・中野・橋本・下中に加え、末次信正と武藤貞一であった。石原はここに創立準備委員の一人として参加している(35)。東亜建設国民聯盟準備会は、その創立から約一カ月半後の一九四〇年一月二一日イギリス軍艦による浅間丸臨検事件が起るや、翌二二日にはこれを「日本政府の対英米媚態」の結果と攻撃して、イギリスに対しては「速かに交戦権を行使」せよとする声明を発し、全国各地で演説会を開催して排英・強硬南進論の世論を盛り上げ、聯盟の運動を大いに発展させている(36)。その余勢を駆って一九四〇年四月二九日、東亜建設国民聯盟は結成大会を挙行する。会長には末次信正が就任したが、下中彌三郎の設立経過報告によるとこの聯盟には「大日本青年党、国同、東方、大亜細亜、郷軍、明倫等の有志」の参加が見られたという。このうち大日本青年党、国民同盟、東方会、大亜細亜協会の四団体については前述したが、「郷軍」とは信州郷軍同志会のことで中原謹司が参加して中央常任委員の一人に加わり、明倫会からはその擁する唯一人の代議士である今井信造と石原が中央常任委員に、京都支部の北尾半兵衛が中央委員となり、かつて明倫会に居て石原の同志でもある斎藤瀏もやはり中央委員として参加している(37)。東亜建設国民聯盟は、石原のかねてからの持論である北守南進論の強硬派の結集体であり、国家主義団体の大組織が参加し、石原の期待にも大きいものがあった。聯盟は結成大会に先立って一九四〇年四月二二日事務所を東京都赤坂区表町に設置しているが、この事務所は石原が提供したものであり、またそれ以外にも石原は聯盟への資金提供をおこなっている(37)。
 東亜建設国民聯盟は時の米内内閣の欧州戦不介入の方針を批判して政府と鋭く対立し、一九四〇年六月二三日聖戦貫徹議員聯盟と共催で開いた時局国民懇談会には石原も参加していたが、この懇談会の模様を報道した文書は発禁となり、聯盟の機関紙『東亜建設』は創刊号も第二号も発禁処分を受けている。こうした中で石原は、同年七月七日聯盟主催の対外国策根本転換大演説会で下中・中野・末次らとともに演壇に立ち(38)、八月五日から佐賀県で開かれた東建塾九州班、八月二五日から長野県で開かれた東建塾にも講師の一人として講話をおこなっている(39)。
 この間、一九四〇年六月に書かれた進言先不明の意見書が「国難打開ノ道」である。この意見書の中で石原は、現在の日本の難局とその問題点を指摘しつつ、なお「今改ムレバ聖戦貫徹ニ懸念ナシ」として、例によって「為政者」が「実行ニヨリ国民ニ範ヲ示ス」ことや中国戦線の縮小などの打開策を提示しつつ、それを実行するための「政党、軍部ヲ指導シ得ル力」をもつ「強力内閣」の成立を求めている。こうした「強力内閣」は、首相の人物いかんによって直ちに組織され得るものだが、ここで注目すべきは石原が「強力内閣」の首相たる要件として二点を挙げていることであろう。その要件の第一は「家柄」なのであり、強力な政治指導を支えるのに必要な国民的支持を集めるためには、近衛に対する人気で見てもわかる通り「家柄」の良さが不可欠だと石原は考えたのであった。要件の第二は、「支那事変ハ勿論過去ニ於テ政治的責任ヲ負フベキ者ハ首相トシテ資格ナシ」という点である。この意見書中では、それでは誰が首相として「適任者」であるかについては、文字の形では残していない。しかし第一の要件からする限り首相「適任者」中より末次信正は除外され、第二の要件からする限り近衛文麿が除外されるのは明らかである。石原がこの翌年に東久邇宮内閣の成立を策していることからすると、或いは東久邇宮を首相候補に想定していた可能性もあるが、ハッキリしない。しかしともあれ、近衛の首相としての再登板の期待が急上昇している一九四〇年六月というこの時点で、石原は一方で東亜建設国民聯盟の運動に力を注ぎながら、同時に近衛でも末次でもない人物の擁立活動を穏密裡に進めていたのであった。
 こうした石原にとって、一九四〇年七月の第二次近衛内閣の組閣とその下での新体制準備委員会の発足は、不本意なものであったに違いない。東亜建設国民聯盟は一九四〇年九月八日全国連絡会議を開催し、この場で石原は京都一般情勢の報告をしているが、末次信正、橋本欣五郎、中野正剛の三名を新体制準備委員として送り込んだ東亜建設国民聯盟は、同年九月二五日には政治団体としての解散を決定している(40)。東亜建設国民聯盟は、石原がスポンサー兼リーダーの一人として関わった国家主義団体の中で、石原とはやや傾向の異る革新右翼系の団体であることを除けば、最も石原の本来の意図に合致し政治的にも大きな影響力を振う団体であった。この聯盟の解散によって、石原は独自の孤立した道を歩むことを余儀なくされるのであった。

(1) 以上四つの意見書は、いずれも前掲『石原廣一郎関係文書』下巻所収。以下これらの意見書からの引用には、いちいち注記しない。
(2) 前掲『木戸幸一日記』一九三八年一〇月六日、二八日条
(3) Diary of Prince Konoye (米国国立公文書館所蔵、以下『近衛日誌』と略記)
(4) 「石原廣一郎氏戦争犯罪事件弁護準備書」、前掲『石原廣一郎関係文書』下巻所収
(5) 『徳川義親日記』一九三七年九月四日条
(6) 「支部特報」『明倫』五巻九号 (一九三九年)
(7) 前掲『明倫会会史』一六一、一六四頁
(8) 「本部情況報告 (自昭和十二年五月至同十三年四月)」『明倫』六巻五号 (一九三八年)
(9) 『木戸幸一関係文書』(東京大学出版会 一九六六年)四六六頁
(10) 『徳川義親日記』一九三八年四月八日条
(11) 「スナップーー今年は慶応三年かナ」『政経新報』一九三九年一月
(12) 『大川周明日記』一九三八年一二月一九日条
(13) 石原廣一郎「事変處理の鍵」『祭政』一九四〇年三月
(14) 「石原廣一郎著作目録」前掲『石原廣一郎関係文書』下巻
(15) 井東憲『熱血児石原廣一郎』東海出版社 一九三九年
(16) 『創業貳拾年史』(石原産業海運 一九四一年)、石原廣一郎『創業三十五年を回顧して』(石原産業 一九五六年)、長島修「森コンツェルンの成立とアルミニウム国産化の意義」(『市史研究よこはま』第四号、一九九〇年)
(17) 「鉄鑛王石原廣一郎氏時局談」『科学知識』一九三九年一〇月
(18) 留守第三師団長より陸軍大臣宛「有害時局講演ニ関スル件報告」(一九四〇年五月二七日)『昭和十五年密大日記』第六冊
(19) 石原廣一郎「回想録」第一部 一〇七頁、前掲『石原廣一郎関係文書』上巻所収
(20) 石原廣一郎「長期建設と日本の姿勢」『ダイヤモンド』一九三八年一一月二一日
(21) 石原廣一郎「事変と南洋政策」『エコノミスト』一八巻三号 一九四〇年一月二一日
(22) 永井和「一九三九年の排英運動」『年報近代日本研究5 昭和期の社会運動』(山川出版社 一九八三年)
(23) 石原廣一郎「日本の進むべき道」『明倫』七巻一一号 (一九三九年)
(24) 『徳川義親日記』一九三八年二月三日、一九三九年七月一二日条
(25) 前掲「有害時局講演ニ関スル件報告」
(26) 前掲「有害時局講演ニ関スル件報告」
(27) 「進言」(一九三九年一〇月六日)、「阿部前首相に対する本部の進言理由」 前掲『明倫会会史』一六九、一七一ー一七二頁
(28) 前掲『西園寺公と政局』第八巻 七二ー七三頁
(29) 前掲「事変處理の鍵」
(30) 『明倫』八巻五号、八巻一一号 (一九四〇年) なお府議会議員五名を擁する京都支部は、明倫会全体の中でも有力支部であった。
(31) 『徳川義親日記』一九三九年九月一九日、九月二六日、一〇月五日、一〇月一一日条
(32) 司法省刑事局『思想資料パンフレット別輯・国家主義団体の動向に関する調査 (九) (昭和十五年四・五月)』
(33) 『徳川義親日記』一九三九年一〇月一一日条
(34) 椎名弘夫「排英運動の據点徳川侯邸の会談を覗く」 掲載誌巻号数不明
(35) 司法省刑事局『思想資料パンフレット別輯・国家主義団体の動向に関する調査(六) (昭和十四年十二月)』
(36) 司法省刑事局『思想資料パンフレット別輯・国家主義団体の動向に関する調査 (七)(昭和十五年一月)』
(37) 『下中彌三郎事典』二八二ー二八四頁 (平凡社 一九六五年)
(38) 司法省刑事局『思想資料パンフレット別輯・国家主義団体の動向に関する調査(十)(昭和十五年六・七月)』
(39) 司法省刑事局『思想資料パンフレット別輯・国家主義団体の動向に関する調査(十一)(昭和十五年八・九月)』
(40) 司法省刑事局『思想資料パンフレット別輯・国家主義団体の動向に関する調査 (十一) (昭和十五年八・九月)』

三、「大東亜共栄圏」構想とその帰結



1.
 石原の国家主義運動家としての第三期は、大政翼賛会成立とともに石原が独自の道を歩み出す一九四〇年一〇月から、日本の敗戦によって彼が国家主義運動家としての活動を閉じることになる一九四五年八月までの期間である。この第三期は石原にとって、国家主義運動の指導者・イデオローグとしての成熟期であると言えよう。この第三期も大きくは前半期・後半期に二分できる。この前半期とは一九四〇年一〇月から一九四二年九月までの、ちょうどアジア・太平洋戦争の開戦をまん中にはさんだ二カ年間に当るが、この時期は「大東亜共栄圏」論浮上の中で、石原は南方を実地で知っている数少ない専門家の一人として世間の大きな注目を浴び、講演に著述に座談会にと、彼の全生涯の中でも最も華々しい活動を展開した時期であった。これに対して一九四二年一〇月から一九四五年八月に至る後半期は、再び石原が逼塞状態に陥る時期である。しかし例によってこの時期にも、石原は一部の政界・軍部指導者との接触を保ち、何事か画策するところがあった。
 大政翼賛会の成立は、国家主義団体の歴史の中で一転機をもたらすものであった。観念右翼系統の小結社を除いて革新右翼系の大組織は、政治結社としては軒並み解散して思想結社に転換し、もはやこれ以降国家主義団体に大がかりな反政府的大衆運動を展開する力は残されていなかった。しかしこの頃から「南進国策の先駆者」として社会的知名度が上るようになった石原は、小組織のリーダーに成長していく。すでに一九四〇年八月一三日に京都円山公園音楽堂で開かれた排英大会で石原は、「数万の聴衆を前に」「三時間余に渉って独演」し(1)、同年一〇月二四日には「我南進と青年の覚悟」と題して初めて全国ラジオ放送をおこない(2)、『改造』同年一一月号にも「三国同盟と東亜共栄圏」という論説を載せている。石原の発言が、これまでにはなかった大きな舞台に乗るようになったわけである。
 石原をリーダーとする小組織の一つは、明倫会聯合会であった。明倫会は大政翼賛会に一応協力の姿勢を示して、一九四〇年一〇月主義綱領の改訂をおこなっているが、翌四一年二月一九日田中国重総裁が死去してからは、明倫会の「解散を唱ふる渡辺良三を主流とする本部派と、石原廣一郎を擁立し存続せんとする支部派と相対立し」、結局は一九四一年六月七日に解散している(3)。この「本部派」と「支部派」の対立は、本部理事の大多数を占める在郷将官軍人層と地方政界に地盤をもつ一部支部指導者層の対立のように思えるが、この六月七日の解散式の直後に後者によって開催された全国代表者会では、明倫会聯合会を結成して「石原廣一郎氏を聯合会長に推戴することに協議一決」している(4)。ただしこの明倫会聯合会に対する石原の態度には微妙なところがあり、一九四一年一一月七日に正式に会が発足した時、石原は「当分は背後的存在として諸君と運動を共にす」ることを約して、その顧問に就任するに止まっている(5)。石原がスンナリ会長に就任しなかった事情はハッキリしないが、ここに結集した地方支部指導部には「自己の選挙地盤」の維持がらみで石原の資金援助をアテにしていたらしいこと、石原はそれに十分に同意していたわけではなく(6)、また他方で、石原は一部の在郷将官を自邸に集めて「時局懇談」の会を開いていたことなどによるものかと思う(7)。
 これとは別に、石原廣一郎を指導者にして南進論を主張する新日本建設青年聯盟という国家主義団体も、一九四〇年秋までには生まれている模様である。この新日本建設青年聯盟は、本部を京都に置く京都・大阪地域の地方的国家主義団体であったらしく、一九四一年一月一四日には「蘭印への実力発動」を政府に要請する決議を挙げ、一月一七日には十万人針国旗入魂式を挙行している。この十万人針国旗とは、三国同盟締結の翌日の一九四〇年九月二八日から一月一六日までかかって同聯盟の女子会員が中心に「千人針」を集めたもので、ヒットラー・ムッソリーニに送る予定のものであったという(8)。また一九四一年の紀元節には、聯盟の大阪の会員一二〇名で八尾駅から橿原神宮まで、大東亜共栄圏確立祈願のための鍛錬行軍をおこなっている(9)。
 なおこの聯盟とも関連をもつものであろうか、一九四一年六月までには南方学塾研究会が組織されている。この会は、「南進国策ニ基キ南方ノ資源、産業文化ニ関スル研究ヲ目的」とするもので (会則第二条)、その「設立趣旨」によれば、「南進実践ノ先覚者デアリ一世ノ愛国者タル石原廣一郎先生ヲ会長ニ、且又南方問題各方面ノ諸権威者ヲ顧問」とした団体であった。顧問の名を見ると、その多くは南方地域と関係の深い企業の役員であり(10)、南進のための現地に赴く実務的指導者の養成をはかろうとした団体のようで、マレー語の講習会などを実施している(11)。
 なお石原は、大政翼賛会に対しては「初めから賛成でな」く、どうせ「長続きしない」と公言していた(12)。一九四一年にはやがて大政翼賛会京都府地方協力会議の議長に就任するとの含みをもって、京都府の地方協力会議議員となることを川西実三京都府知事から強く薦められているが、結局はこれを謝絶している(13)。しかしこの謝絶によって、後から見ると石原は政治的な公職に就く最大の可能性を逃すことになるのであった。
 またこの第三期の前半期を通じて、石原は斎藤瀏と共に各地を講演したりしている。二・二六事件で禁錮五年の実刑判決を受けた斎藤瀏は、早くも一九三八年九月には仮出獄していたが、その後『獄中の記』(東京堂 一九四〇年)を著わして名を挙げていた。二・二六事件の受刑者たちは、一九四〇年一一月の紀元二六〇〇年の大赦までに軒並み減刑・釈放されることになるが、この頃から二・二六事件に連座したことが、一種の大物扱いされ"勲章"となるような状況が生じていたのである。斎藤の『獄中の記』も、一九四〇年一二月二七日に初版を発行し、翌四一年四月三日には四〇版を数えるベストセラーとなっている。この時期の石原に対する世間の注目にも、石原が二・二六事件で起訴された経歴の人物であるという側面が含まれていた。
 アジア・太平洋戦争の開戦前には、石原はこれまでにも増して南進断行論を説くようになる。もともと第二期の石原の排英論は、イギリスを敵としつつアメリカとは可能な限り友好関係を維持しようという英米可分論の立場に立つものであった。しかし第三期になると石原は、次第にアメリカとの対決を不可避のものと考えるようになっていく。とはいえその対米姿勢は、現実の日米関係の微細な変動を反映して硬軟両様に揺れ動いており、時にはアメリカに対して警戒的となって、アメリカは日本を「衰弱」させようとする作戦を採っており、そうである以上「日本自らが逆にアメリカと経済断交をやるといふ決意」を持つべきだと語ったり(14)、またこれとは逆にアメリカは対日融和の姿勢を取るのではないかと期待して、「日本自ら進んでアメリカとの戦ひをする必要はない」と述べたりしている(15)。しかし後者の場合でも、アメリカの「介入」の可能性いかんにかかわらず、大東亜共栄圏の確立に向けて南進することは日本の「既定の方策」なのであり、いざとなれば「武力に愬へても、われわれの主張は通さなければならぬ」というのが石原の考えであった(16)。従ってアメリカが日本の南進を阻む姿勢を見せてからは、アメリカとは「結局力によって」決着をはかるほかはないという主張を押し出すことになる(17)。
 こうした南進断行論はむろん石原の持論でもあったが、同時にこの時期に独特の彼なりの危機意識に支えられたものであった。それは日中戦争下での「物資の不足と政府の統制」に対する国民の不満が、「万一にも米騒動」といった暴動の形で爆発しはすまいかという危機感である。石原が特に重視しているのは、今や国民が「前途に対して希望がなくなっ」ているという事態であった(18)。一九四一年の初めから石原は講演の場で、「一年間待て」ということを繰り返すようになる。たとえ今現在、国民が物資の不足や転廃業などによっていかなる困難を抱えていようと、とりあえず「一年間我慢せよ」、一年間経てば必ず日本は南進して「東亜共栄圏を確立」し、現在の生活上の困難は悉く解決する、その時までは決して「国内に不祥事があってはならぬ」というのである(19)。このように石原の発言は、次第に予言者的な相貌を帯びてくる。もともと石原には「衆は愚である」という発想があり(20)、民衆は物資上の利益によって動く存在であるとの考えがあった。従って石原の南進論は、国民にこの点での「前途」の「希望」を持たせるものでもあった。「現在皆様は非常に砂糖に困っておられますが、(中略)何と皆さん、百六十匁の砂糖がジャバでは五銭ですよ。(笑声) それだからこれを解決したならば、皆様はお菓子をいくらでも食べることが出来ます。(笑声)」という講演での彼の発言は(21)、これを物語っている。
 また、日中戦争以来「陸軍のやり方に不満を持」つようになっていた石原は、末次を通しての結びつきか「海軍贔屓」となっていたが(22)、これは陸軍があくまで中国からの撤兵に反対し汪兆銘政権にもこだわっていたのに対し、石原は「南方進出」のスムースな実現のためには、「場合によつては蒋介石と直接手を握つてもいい」と考えていたことに関連しよう(23)。一九四一年八月頃から石原は東久邇宮擁立の工作に乗り出すが、これは陸軍を抑え国民の不満を抑えて順調に南進を実現するためには、皇族内閣である東久邇宮内閣しかないと考えたためのようである。石原は八月六日には近衛首相に会い、九月一日には木戸内大臣と会見して東久邇宮首班案を薦めるが、近衛はこれに賛成したものの木戸は強く反対した。また一九四一年一〇月の第三次近衛内閣総辞職に際しても、東久邇宮擁立工作をおこなうがうまく行かない(24)。しかし石原は成立したばかりの東条内閣の早期退陣を予想して、同年一一月にも近衛、賀陽宮、東久邇宮らに会って、東久邇宮擁立の活動を続けている。このように石原が東久邇宮擁立にこだわったのは、彼が現下の「国、内、情勢」を「非常に急迫し、はなはだ危険」な状況にあると理解しており、これを適切に導くには「皇族内閣」以外にないと判断していたからであった(25)。石原は一一月二六日にも徳川義親と会って、「次は宮様に出て頂くより外なし」との話を繰り返している(26)。
 とはいえ一二月八日のアジア・太平洋戦争の開戦に、石原は直ちに双手を挙げて賛成している。多くの国民は開戦の報道に接して強い不安と緊張の念にとらわれていたが、石原にとっては長く待ち望んだ日の到来に外ならなかった。「隠忍に隠忍を重ねた、我が帝国今や起つ!! 昭和十六年十二月八日午前六時日出新聞社より電あり、帝国の必勝を期し戦はん、壮なる哉壮なる哉、一億火の玉たれ!!」というのがその時の石原の感慨であり(27)、この朝の京都日出新聞社からの電話取材による石原の談話は、開戦は「寧ろ遅ひ位である」、「今回の日米交戦は日本に利益を斎すものであるといふことを国民は明確に認識すべきである」というものであった(28)。
 アジア・太平洋戦争の開始は、大政翼賛会成立に続く国家主義団体の第二の転機をもたらすものであった。これには開戦に伴う多くの国家主義団体の政府へのすり寄りと、この直後に制定された言論出版集会結社臨時取締法によって、政事結社が従来の届出制から許可制へと転換した影響が大きかった。この中で実質的に石原を中心とする明倫会聯合会も、東条政権支持の方向を打ち出していたようである。石原自身も一九四二年三月には、翼賛選挙の各府県における推薦母体である翼賛政治体制協議会京都府支部の会員一五名の一人に選ばれており(29)、政府支持の姿勢を鮮明にしている。石原はさらに、京都一区から推薦候補の一人に選ばれるという噂も立てられていたが(30)、結局はその選衡から洩れることとなる。これは或いは、前年来の大政翼賛会に対する彼の否定的な対応が原因となったのかもしれない。明倫会聯合会全体と翼賛選挙の関係を見ても、京都支部を代表して明倫会聯合会常務委員に就任した北尾半兵衛と、大阪支部から常務委員となった川上胤三の二人が、それぞれ京都二区、大阪一区の推薦候補に選ばれており(31)、明倫会聯合会が政府の支持基盤の一つに組み入れられているさまが窺える。そしてこのうち北尾は落選しているが、川上は当選している(32)。
 アジア・太平洋戦争の開戦は、石原をこれまでにも増して「時の人」とするものであった。開戦の翌日の一二月九日京都で開かれた朝日新聞社主催米英膺懲大講演会では、石原は「世界戦争と日本の使命」と題する講演をおこない、一二月一〇日の京都日出新聞社主催米英撃滅国民大会では、「詔書奉読」の役割を振り当てられている。一九四二年の一月一日から三日にかけて『京都日出新聞』は「石原氏に聴く南方資源」を連載し、『東京朝日新聞』が一月一日〜八日に連載した「南方資源開発座談会」には、石原は藤山愛一郎らとともに出席している。その後も諸方から講演に招かれるが、一九四二年二月二日の和歌山経済会・商工会議所共催の南方問題講演会では、石原は県知事、和歌山市長、商工会議所会頭、県会議長、県経済部長、学務部長ら「県、市、経済界の有力者、各階(ママ)代表ら七百余の聴衆」を前にして約三時間にわたる講演をおこなっている(33)。また同年六月二日から七月八日にかけては、福岡・佐賀・長崎・大分・山口・広島・和歌山・三重・京都・大阪・長野・東京といった西日本を中心とした各地で、ラジオ放送も含めれば合計三六回にわたる講演を連続的におこなっている(34)。これらの講演のテーマは、言うまでもなく大東亜共栄圏論であった。それでは石原の大東亜共栄圏構想とはいかなるものであったのか、次にその特質を考えてみたい。
2.
 この第三期に石原は、比較的大きな著述をものにしている。その前半期を代表するのは、『転換日本の針路』(三省堂、一九四〇年一二月)と『南日本の建設』(清水書房、一九四二年九月)の二冊であり、石原の大東亜共栄圏構想はこの二冊などを中心に展開されていると言えよう(35)。
 『転換日本の針路』において、大東亜共栄圏は「新東亜諸国」と表現されているが、それは「東経九十度より百八十度迄」の地域とされ、オーストリアやニュージーランドも含まれていた。オーストラリアやニュージーランドについては、ともに「日本の直轄領とし、東亜民族の共同殖民地」とするというのであるが、これはこの地に居住している「六百万」の白人は「放り出し」て(36)、その跡地に日本人を「移民」させるという相当に乱暴な案であった。石原の大東亜共栄圏構想の中では、オーストラリアはかなりの重要性をもっていたようであり、日本人移民はこの地で「第二の日本を建設」するものと考えられていた(37)。従って書名ともなった「南日本の建設」とは、このオーストラリアに建てられる「第二の日本」と日本の勢力下にある熱帯南方圏を合わせたものとして想定されていたと言えよう。
 次にその政治体制について『転換日本の針路』は、「新東亜建設諸国の統治假定」として次のようなプランを示している。
「建設されたる新東亜諸国は、何れも我皇道精神を遵奉し、日本の保護下に於て王族の自治統治制を執り、特に内政と宗教に関しては其の民族の風俗習慣を尊重し、日本の風習語学を強要せず、国民が熱帯自然の気分に添ひ自由の生活を営み得るよう、立法行政を掌らしめ、日本は国防と外交の外深く干渉せざるものとす。
 尚各国王は二ヶ年に一度日本の皇室に伺候し施政方針に付き上奏をなさしむるを要す。」
 これらからすると石原の構想では、各国が昔の王制に復帰し、盟主である日本が諸国の軍事外交権を掌握した上、各国王に「二ヶ年に一度日本の皇室に伺候」させるなど、まるで中華帝国の異域支配のようなほとんど前近代的とも言える国際秩序が考えられていたことがわかる。こうした国際体制を理想としたのは、もともと石原が日本主義的な観念右翼の系列に属しており、およそ近代的政治制度というものについての理解を欠いていることに由来するものではあったが、ここで重要な点は石原の大東亜共栄圏構想が、アジアの民族独立運動を全くその基礎に置こうとはしていない点である。一般にアジアの民族独立運動は、植民地支配をおこなう帝国主義国と対決するものであるとともに、これら帝国主義国と癒着した土着の封建諸候とも対立するものであった。そして日本の大アジア主義者たちは、しばしばこうした反帝反封建の民族革命運動を支援して、これを逆に日本の支配に利用しようとするプランを考えていたのであるが、石原の構想ではアジアの民族革命運動への期待が全く見られないのである。
 もともと石原は、南方の「土着民」たちは「国家観念に乏」しく、「革命を起して何とかしようとか、独立をしようとかいふやうなことよりも、まァ楽に暮せたらいゝといふ気分」の民族だと考えていた(38)。インドネシアに於ても「独立運動をやかましく言つて居る者」は専らオランダ人との「混血児」ばかりで、「本来の原住民はさう云ふ考へ方、気持は全然持つて居らぬ」ものと理解していた(39)。しかも石原は、「南洋の土人は皆日本の進出を待ち望んで」おり(40)、「白人に支配されるよりは全能の日本人に支配してもらいたいと言ふ希望を抱いて居る者が多い」と考えていたのである(41)。独立に関心のないこれら「南方民族」は、むろん反封建の立場にも立っていない。従って土着の「残つてゐる王室をたてゝやるといふことは彼の地住民にとつてこの上もない喜びであります」ということになる(42)。つまり前述の構想は、少なくとも石原の思惑においては、単に日本の利益となるばかりでなく現地住民の希望にも添うものと考えられていたのである。石原が南方地域で実際に活動したのは、一九三一年満州事変直後に帰朝するまでの時期であったが、こうした構想には未だ民族革命運動が盛り上りを見せていない一九一〇〜二〇年代のマレー、ジャワの住民の状態への幻想がある。ここにはいわば「支那通」の中国論の場合と同じく、一度民族主義的な自覚を獲得した被抑圧民族が、どれほど巨大な民族的エネルギーを爆発させるかについての予見や洞察力が欠けているのである。
 しかしこのような根本的な時代錯誤性にもかかわらず、石原の南方統治論は現実の日本軍の占領地支配に対する部分的な批判を含むものであった。それは石原にはともかくも、南方の諸民族には日本人とは異なる生活と独自の価値観があり、外から来た日本人は彼ら南方諸民族の生活のスタイルを変えることも価値観を変更させることも出来はしないのだという、長い南方での経験に根ざした確信があったためである。そしてこの確信こそが前掲の引用文の中で、「特に内政と宗教に関しては其の民族の風俗習慣を尊重し、日本の風習語学を強要せず」と唱える立場に結びつくことになる。つまり「南方民族の統治」の要諦は「絶対に干渉政治をやらんこと」にあり、「日本語の普及強制したり彼等の風俗習慣を一挙に変へて日本式を強要することは厳に慎まねばならない」のであって、「満洲・支那のやうなつもりで深入りすると失敗する」というのであった(43)。従って石原は、「南方事情」をロクに知りもしない「日本の施(ママ)政官」が南方に赴いて統治するのは全く誤りであり、その地域の「内政の如きは原民族に任」す形で現地人の「自治を基本」にすべきだという意見を唱えて(44)、現実の日本の軍政を批判する立場に立つことになる。
 しかし石原の大東亜共栄圏構想が現実の日本の南方政策を最も鋭く批判したのは、彼が自分の本領とし相当の力を入れて展開した経済論の部面においてであった。石原が日本を工業地帯と設定し南方諸地域を原料・資源地帯と位置づけて両者間の垂直分業体制を考えたのは、最初の著作である『新日本建設』以来のものであるが、この第二期に至って石原は南方地域の早期開発不要論を繰り返し説くようになる。これを開戦直後の時期の新聞談話記事から引用してみよう。
「東経九十度から百八十度までの大東亜から生産原料物資が輸出される額は日本を除いて事変前の昭和十年度でみると四十五億四千万円、この多額の原資材は共栄圏で使ひ切れずして外へ出廻ってゐたのです、今日世界は大戦渦中に巻込まれる事になつたがそれでは今後これ等の物資はどうなるか、四十五億円の物資は船舶で各地方に運ばれてゐたのが、既に世界の二割五分の船舶が海の藻屑と消え又破損によつて航行不能に陥つたこと等から考へると従前通りに輸送は甘く行かない、之加(ママ)船舶は直接戦争にも使用されてゐるのですから尚更のことで、現在物資は滞荷してゐるのです、蘭印のゴムは倉庫に遊んでゐるしフイリツピンの砂糖も動かない、(中略)四十五億円の尨大な物資は到底消費し切れない譯で、ゴムも砂糖も過剰になることは明らかです、小麦、澱粉、胡椒、バター等の食糧は持つて帰つても余ることになり、工業用ではコプラ、羊毛、麻、錫、ボーキサイト、その他植物油なんかも消費し切れないでせう」
「日本として考へるべきことは南方が解決さへすれば最早何處にも依存せずとも物資はふんだんに得られる譯ですから後は共栄圏内六億の人々に生活物品を製造して送つて遣ればよいといふ点です、綿、人絹織物、食料缶詰、煙草、鉄製品、エナメル等の輸入品を今まで欧米から卅一億買つてゐたのですからこれに相当する製品を日本が造つて送つてやればよいのです、(中略)この為にはもう現在においても平和産業の大拡張をすることが急務中の急務だ(45)」
 石原がここで重視しているのは、東南アジア地域が第二次世界大戦以前において、原料資源の供給地として、ヨーロッパ地域およびアメリカをそれぞれ一角とする世界の三角貿易の決済地としての位置を占めていたという事実である。つまり東南アジア地域は膨大な原料資源を輸出する代りに、その見返りとしてヨーロッパおよびアメリカから生活必需の加工品を輸入し、この交易によって経済が成り立っていたのである。従って戦争による対欧米貿易の切断は、そのまま行けば東南アジア経済の崩壊をもたらす可能性があり、すでに海上輸送力の大幅減少から現地では物資の「過剰」と「滞貨」が生じていた。そうである以上今や日本は、これまでの欧米諸国に代って東南アジア一帯の原料資源をすべて引き受けて輸入し、その見返りに東南アジア地域での日常生活に必要な加工品を大量に供給しなければならない、とするとその加工品の供給のためには、日本の「平和産業の大拡張」こそが戦時下の「急務」だというのが石原の論旨であったのである。ここには南方圏との交易を続けていた海運業者としての石原の、時代に抜んじた視点があった。
 とはいえ加工業の「平和産業」はそうすぐには成長しないし、現状では日本が東南アジアの原料資源をすべて製品化するだけの生産能力を欠いていることは明らかであった。とすると原料資源は過剰となる。事実石原が作成した「大東亜共栄圏重要資源一覧表」によれば、「共栄圏」内の資源は銅と綿花を除きほとんどが「生産過剰」であり、それからすると「近き将来、開発は愚ろか極端なる生産制限を余儀なくせざるを得ぬ状況にあるを以て、当分南方開発は必要なし」というのが石原の結論であった(46)。従って農業や鉱山開発を目的とした日本からの移民は全く必要ないし、たとえ行ったところで不成功に終るだろうというのが彼の見通しである。「皆様は南洋に行つて一儲けしようと考へられるが、一体南洋へ行つて何の儲けがあるか」というのである(47)。
 もっとも石原が日本人の南方開拓移民に反対なのは、単に経済的な観点からばかりでなかった。石原に言わせると、そもそも日本は国土狭く人口過剰であり物が少ないため、日本人はどこに行っても「物を極度に求める」性僻があり、常に「何處かに物はないか」とばかり考えている。満州でも中国でもこの調子で失敗を繰り返していたのであるが、なお「こんな調子で、南に進む。すると直ぐ南方開発だと大騒ぎする。日本人はどうも餓鬼道に墜つてゐる。乞食根性だ。斯様のことでは、大東亜の建設もおぼつかない」というのである(48)。だいたいが「何事でも貪る事はいけないことで」あるが、南方地域に於て「日本人が彼等土人を指導するんだとの美名の下に貪る」ようでは、必ずや破綻を来たすこととなるだろう(49)。しかも移民として「日本の労働者や大衆がドツト入つて行くと」どうなるか、「日本人は女を連れて行かないから、婦人を荒らすに相違ない」し、「土人」の方も「日本人といふものはもう少し高級な者かと思つてゐたが、日本人はこんなにつまらぬ者かといふことになる」、つまり南方に日本人「移民を入れたら滅茶苦茶にしてしまふ」に違いないというのが、石原の予測であった。従って日本人移民が行っても良いのは、「無人島に等しいニューギニアであり、また濠洲である」ということになる(50)。こうした発言には、おそらく南方地域でこれまで石原が見聞きしてきた日本人大衆に対する不信の念が見え隠れしていると言えよう。
 石原は一九四二年一月一六日、東条首相に会って彼の大東亜共栄圏政策について進言しているが、「その時の東条は君からそのような話を聞く必要はないと言わぬばかりの不遜の態度であって、不愉快な気持ちでわずか三十分ぐらいの会見で辞去した」という(51)。その翌月の一九四二年二月、東条首相を総裁とする大東亜建設審議会が設置され、八部会に分れて大東亜共栄圏建設の政策を審議・立案することになるが、委員の一人に選ばれても不思議ではない石原はその選から洩れることになる。ただし大東亜建設審議会での審議や答申のすべてが、石原の大東亜共栄圏構想に反していたわけではない。たとえば「人口及民族政策答申」の中で、日本人の移民すべき地域として「満・支・濠洲、「ニュージーランド」」を挙げ (石原は「満、支」は挙げていないが)、その他の熱帯地域には専ら指導者だけを派遣するといった見解は、石原のような早期開発不要論に基づくものではないが、その移民先に関する結論では石原とも一致している(52)。とはいえ大東亜建設審議会の答申を見ると、そこには南方の資源をいかに日本のため、日本の軍需のために利用し工業化すべきかという発想はあっても、日本の側から南方の住民に加工品を供給しようという発想はほとんど全く無いのである。これに対し石原にあっては、南方の「豊富なる物資を如何にして利用し、以て原住民の生活の安定を図るべきかが急務」という理解があった(53)。なぜなら日本人が「自己中心の考へよりして南方物資の独占を画策し、彼等被統治民族にも與へることを忘却したならば、大東亜永遠の平和樹立は画餅と化して了ふ」からである(54)。石原の中には日本が南方での統治を成功させるためには、南方住民の合意の調達をはからねばならず、その南方住民の合意の調達のためには、彼等の生活の安定・向上をはかるなど不可欠の条件があるとの発想があった。日本語強制批判に象徴される「自治」論もそれだし、日本人移民反対論もそれだし、南方圏への加工品供給論もそれであった。しかしこれに対して大東亜建設審議会の答申には、南方住民の合意獲得の必要性に対する自覚が欠けており、そもそも南方圏というものが、政治・経済・文化のあらゆる領域で独自の生活圏と意思をもった存在としては考えられていない点に、石原との大きな違いがあったと言えよう。
 しかし石原が、いくら南方圏との物資の円滑な流通のために「最も緊要な点は造船能力の増大による船腹の増加である」と海上輸送力の増強の必要を語り(55)、「日本の平和産業を発展させなければ南方の統治は出来ない」と述べて(56)、平和産業を「支那事変前の五倍乃至十倍に拡張」すべきであると説いてみても(57)、現実の戦時日本資本主義は、民需を大きく圧迫してかろうじて増大する軍需の要求に応じているような状態にあり、石原の示すような民需のための海上輸送力の増強や平和産業の拡充の余地はほとんど存在していなかったと言って良い。言いかえるとそもそも日本資本主義には、欧米帝国主義国に代って東南アジア経営をおこなうだけの力量が欠けていたのである。つまり石原の意見は、ある意味では正論でありながら現実には空理空論たらざるをえなかったのであり、石原の大東亜共栄圏の経済論は、客観的には皮肉にも、日本の大東亜共栄圏の破綻の経済的必然性を示す議論となったと言えよう(58)。
 石原が公的な立場で発言できたのは、第三回中央協力会議に協議員の一人に選ばれた時においてであった。しかしそれは大東亜共栄圏政策についての発言を求められたのではなく、あくまで鉱業資本家の一人として発言を求められたものであった。石原はその場で、一九四二年九月二七日に「長期戦に対する基本産業の増産対策」と題する提案の説明をおこなっている(59)。石原の説明には戦時統制経済批判が含まれていたため、その一部は議事録から削除されることになったが、その発言の趣旨は、鉱産物など原料の統制価格が加工品価格に比べ低く抑えられ過ぎており、増産の阻害要因になっているという以前からの持論を繰り返したものであった(60)。その後石原は一九四二年一一月一〇日から約一カ月間、フィリピンの視察に赴く。そして帰国後になって自分が「『マニラ』憲兵隊に収容されたとの噂」を耳にする(61)。この時から彼は自分が東条に狙われていることを察して公然たる政治活動の場からは身を引いて、同時に東久邇宮や近衛に接近して秘かに東条内閣打倒を画策するようになっていくのであった。
3.
 石原の南進論にはもともと、今や「白色人種の全盛期は既に去らんと」しており、これに代って「有色人種」の代表としての日本は白人のこの不当な世界支配を排除する使命をもつという (『新日本建設』)、人種主義的なテーマが含まれていた。この人種主義的な考えが独自の文明交代論にまで発展するところに、第三期の石原の特徴が見出せると言えよう。そしてここにおいて彼の大東亜共栄圏思想は、これまで述べて来た政治論・経済論に加えて文明論的視点をも持つことになるのである。石原の人種主義的発想は、彼の南進論者・国家主義者としての考え方の基底に根強く存在するものではあったが、それ自体としてはけっして石原に独自のものでなく、むしろ明治、大正期の南進論に共通するものを多く含んでいた。しかしそれが一種の文明論にまで発展した時、彼の南進論=大東亜共栄圏構想は独自の思想としての意味をもつことになったと言えよう。この文明交代といった発想をもたらした契機は、ヨーロッパでの第二次世界大戦の勃発にあったが、この考え方は『南日本の建設』(一九四二年九月刊)を経て、第三期後半期の主著である意見書「今日ノ世界戦ト我ガ戦備」(一九四三年八月八日)に至って一つの頂点に達することになる(62)。
 「今日ノ世界戦ト我ガ戦備」において石原は、記録にはハッキリしないものの、人類はこれまで幾度か滅亡を経験したのではないかという仮説を提示している。「人類ハ常ニ進歩ト発展ヲ求メテ苦労シ」ているが、それによって文化が発達し「ソノ文化ノ頂点ニ達シタ頃ニナルト」、或いは「天変地異」や或は「人類自ラノ争闘」の結果、「ソノ文化ガ破壊サレ、同時ニ人類ガ滅ビ行クノデアル」。こうした過程はこれまでに「幾回トナク繰返サレタモノト想像サレル」のであり、今日我々の知っている「原始時代」とは、過去の「人類文化ガ没落シ、人類ガ清算サレ、少数ノ人類ガコノ広キ世界ノ上ニ残ツタソノ時代」にほかならないのではないか、というのがこの仮説の趣旨であった。こうした前提に立って、石原は世界の現段階を次のように捉えてみせる。
「コノ大動乱ハ近代文化ノ破壊、否欧洲文化ノ清算期デハナカラウカ。人類史上マタトナキ変革期ガ来タノデハナイカト思ハレルノデアル。
 ソコデコノ度ノ欧洲文化ノ清算、否世界動乱ハ、人類ガ造ツタ文化ヲ、人間ノ造ツタ船舶ヲ自ラ撃チ沈メ、交通機関ヲ破壊シテ物ノ生産ヲ減殺シ、一方物ノ大消費ヲ行ヒ、生産地ノ物資ハ停滞シ、消費地ニハ物資ノ大欠乏ヲ来シ、遂ニ生存上ノ悩ミトナリ、世界各所ニ餓死者ヲ出シ、年ト共ニソノ数ハ増加シ行クノデハナイカ。現在二十億ノ人口ハ年々減少シ、来ルベキ新シキ世界建設ノ発足ノ時ニ於テハ、或ハ五億減ズルカ、或ハ十億減ズルノデハナイカト見ラレルノデアル。サウシテコノ清算サルベキ人々ハ何処ニアルカト云ヘバ、云フ迄モナク神ナガラノ大道ニ背キ、大自然ニ逆行シテ来タ人々デアル。所謂欧洲文化ニ陶酔シテ来タ者程コノ被害大ナリト云ハネバナラヌノデアル。
 日本ハ神国デアリ、神ナガラノ大道ニ忠実デアツタゞケニ、一時的ニハ欧洲文化ニ侵サレタトハ雖モ、三千年ノ長キニ亘ル大和民族ノ血潮ヲ有ツ吾々民族ハ逸速ク欧洲文化ヲ清算シ、将ニ大和民族本然ノ姿ニ立チ還ラントス。斯クシテ日本ハ欧洲文化清算ノ神ノ制裁ヲ逸速ク脱却シ、次ノ時代ノ建設者、否正(ママ)界ノ指導者トナルコトハ疑ヒヲ容レザルトコロデアル。」
 これはほとんど最後の審判を予言する宗教的指導者の発言に近いものである。それは「欧洲文化」は「神ナガラノ大道」に背いているため「神ノ制裁」を受け、今回の世界大戦の動乱の中で餓死者続出する悲惨な状況の中で衰亡するが、この「欧洲文化」に一時的には「侵サレ」なから軽微の程度に終った日本は、今にして反省すれば世界の指導者となることが約束されているという予言である。石原によると現在「欧洲文化」の国々が神罰を受けているということは、英・米・独・仏・伊国それに日本など「世界ノ文化国」が揃いも揃って戦争の渦中に巻き込まれ苦しんでいるのに対し、「アフリカ、南米、或ハアジアノ奥ニ居ル未開ノ人人程、今日ノ世界戦ノ影響を享ケルコトガ薄イ」ことによっても実証されているという。そしてこの点は、実に「支那事変」の経過によっても知ることが出来るというのである。
「試ミニ支那事変ニ就イテコレヲ見ルニ、日本ハ近代文化ヲ有チ、兵器製作所ノ設備ヲ有チ、思フヤウニ兵器ヲ製作シ、世界ニ負ケナイ鋭利ナル兵器ヲ自ラ製作シ、マタ戦(ママ)後ニ於ケル銃後体制ヲ見テモ、計画経済、統制経済、ソノ他欧洲文化ニ基ク戦争体制ヲ備ヘテ居ルニ反シ、敵蒋介石ハ国土内ニ兵器製作所ヲ有タズ、戦争ニ要スル兵器ソノ他ノ物資ハ英米ニ依存シ、国内ハ法律モナク、同時ニ統制経済モ計画経済モナク、所謂欧洲文化ノ上カラ見レバ全ク無統制極マル姿デアル。コノ両者ノ戦ヒニ於テ、既ニ七年有余ヲ経過シ、今ナホ未解決ノ姿ニ置カレテ居ルトイフコトハ、如何ニ近代文化ノ力弱キカ、コレニ依ツテモ明白ニ物語ルコトガ出来ルノデハナイカ。支那ハ兵器製作所モナク、近代文化モ有タズ、アノ広大ナル国土ニ四億ニ上ル多数ノ人類ガ生存シテ居ル。コノ大自然ノ姿ト、一方蒋介石ヲ中心トシテ、支那四億ノ民族ガ蒋介石ヲ信ズル姿、即チ法律ニ依ツテ縛ルニアラズシテ、タゞコゝニ心ノ繋ギ合ヒノ姿、コレ即チ自然ノ形デアリ、大自然ノ力ト見ルベキデハナイカ。」
 ここでは日本の位置は前に述べたところから逆転し、滅亡すべき「欧洲文化」を身にまとった姿として捉えられている。ここで否定されている「欧洲文化」=「近代文化」とは、「兵器製作所」や「統制経済」や「法律」に象徴される、現代戦のための技術と組織の完備した国家のことであり、これに対する「大自然ノ力」=「神ナガラノ大道」とは、それらすべてを欠きながら、ひたすら深い人格的な信頼によって結ばれた抗戦体制のことに外ならない。そしてその「自然ノ形」を、「支那」が体現しているのである。以上のような考え方は、石原が日本主義・日本精神論の一極である反近代主義の立場に立っていることを物語るものであり、ここで展開されているのは反近代主義の地点から見た戦争体制論であった。
 こうした「近代文化」批判の視点は、おそらくは石原の戦時国内態勢批判に関連するものであろう。石原の戦時国内態勢に対する批判は、日中戦争期に始まり、アジア・太平洋戦争期になるとその内容が一層詳細になるものの、議論の基調は変化していない。アジア・太平洋戦争期の戦時国内態勢批判を代表するものは、東久邇宮に進言した意見書である「大東亜戦備と革新政策の説明」(一九四三年一月二六日)であったが、それは現下の「統制経済の誤り」や「法律条規を以て国民を縛る」「官僚独善政治の弊害」を批判して、国民に信頼され軍を統制する力量を有する「強力なる内閣」の成立を待望したものであった。こうした日本の戦時体制に対する批判や提言は、考えてみるといずれも皆「支那」の抗戦体制への高い評価を結びつくものであった。つまり反近代主義的な文明交代論の着想は、おそらく日本主義の立場からの戦時国内態勢批判の展開の中で成熟してきたものであったと言えよう。
 それではこうした反近代主義的な歴史観・文明論が、前述の大東亜共栄圏の政治論・経済論といかなる関係に立つかというと、そこには根本的な不一致が含まれているようにも思える。なぜなら前述の大東亜共栄圏の政治論・経済論では、日本が近代的軍事力を備えた中心工業国であることが前提とされ、その維持・発展こそが共栄圏存立の不可欠の条件とされていると思われるのに、ここで展開されている反近代主義的な歴史観・文明論では、それらの価値は否定されているからである。石原の中では、どうやらこの両者の矛盾は明確に自覚されていたわけではないようであり、従ってそこに首尾一貫した説明が与えられているわけではない。しかし「欧洲文化」とは異質の「大自然」の価値の提起は、西欧世界と異る大東亜共栄圏の存在理由を示したものであったとも言えよう。なぜならその復古主義的な姿勢から讃美される原始回帰と「大自然」の代表こそ、南方圏の自然と素朴な生活であったからである。石原に言わせると「今の日本人は神経過敏過ぎる」のに、南方諸民族は「ぼうつとして居」て「お坊ちやんで少しも神経過敏でない」が、これこそ自然本然の姿であるということである(63)。つまり石原の反近代主義的な価値観は、その日本主義的な考え方に根ざすものではあったが、同時に彼が日本人の祖先を南方民族に求めていたことから知れるように、南方民族の生活の中に今日の日本人とも異なる原日本人の、そして東アジアの諸民族に共通する「自然」な生き方を見出していたのである。ここには侵略主義的なものとは異質な、一種の南方へのロマン主義が脈打っていた。そしてこの点からすると、石原の中には二つの異質な大東亜共栄圏論が矛盾しながら共存していたとも言いうるのであった。
 なおアジア・太平洋戦争期にこうした反近代主義的な価値観が前面に出て来たことは、反面では現代文明の代表者であるアメリカに対する敵意を強めるべく作用した。もともと石原には、イギリスに対する強い敵対の意識はあったが、アメリカを必ずしも敵視していたわけではない。しかしアジア・太平洋戦争の開戦後になると、むしろイギリスに対するよりアメリカに対する明らさまな敵意が昂進してくるのである。この時期の石原のアメリカ論には、アメリカ憎しの感情ばかりが先走って冷静さが欠けている印象があるが、それは現実の主な対戦相手がアメリカであったことに加え、この時期の反近代主義的な価値観の昂まりに基くものであろう。
4.
 アジア・太平洋戦争の戦争目的は、開戦の詔書に示された限りでは二つの目的が並立していた。日本の「自存自衛」と大東亜共栄圏の樹立である。この二つの戦争目的相互の関係はけっして自覚的に整理されておらず、戦争が日本にとって有利な間は大東亜共栄圏の樹立が前面に出、逆に戦局が不利になるに従って「自存自衛」の方が前面に出るという御都合主義的なものであった(64)。しかし石原からすると、第一義的な戦争目的は従来の日本の欧米依存の貿易関係を断ち切る大東亜共栄圏の樹立に外ならず、これを除いて日本の「自存自衛」などは存在しなかった。従って石原の場合には、戦局が不利になればなるほど大東亜共栄圏の樹立という一方の戦争目的が曖昧化するのでなく、逆に不利になればなるほど、妥協できる部分は大きく妥協し切り捨てられる部分は切り捨てでも、あくまで大東亜共栄圏の樹立に固執して、それを可能とするような国際政治的条件を追求しようとするのであった。この大東亜共栄圏樹立へのこだわりが、特に戦局が不利になるアジア・太平洋戦争の後半期に、彼独自の軍事外交政策論を生み出すことになる。
 もっともこのように述べても、石原の軍事外交政策論はけっして国際情勢についての正確な知識・情報に立脚したものではなく、思い込みの強い独断的なものであった。そこではたとえドイツの意図を忖度しソ連の思惑を探ってみても、所詮自己の立場からの想像・予想に過ぎず、素人の国際政治論の域を出ないものとも言える。しかしより正確な情報を知悉していた筈の「玄人」たちの軍事外交政策が、戦争目的の曖昧さと支配層間での意思統一の困難に災いされて常に後手に回る結果となったのに比べると、冒険主義的な部分を含む石原の議論には一種の先見性がはらまれていた。
 独ソ戦の推移の中で特に石原が重視するようになったのは、ソ連の向背である。ソ連について石原は、独ソ戦開始以前に書かれた『転換日本の針路』の中でも、ソ連は日独の枢軸国側にもつかず英米側にもつかずに、両陣営を戦わせて自身は両者の間で「『ホラガ』峠を極め込」み、最終的には「漁夫の利を占めること」を狙っているのではないかと疑っていた。そしてこの同じ発想から一九四三年の時点でも、たとえ現在ソ連が連合国側に立ってドイツとあれだけ激しく戦っていようと、十分な利をもって誘えばソ連は連合国から離脱する可能性があると考えていたのであった。一九四三年一月に東久邇宮に進言した「大東亜戦備と革新政策の説明」の中で石原は、日本が「独ソの居中調停に乗出し独ソ和平、ソ聯を枢軸国に引入れる手を打つべきである」との案を示している。前述のように石原は、大東亜共栄圏の樹立にとってオーストラリアの確保は不可欠と考えていたのであるが、このソ連を枢軸国側に引きれる方策は、「万難を排して濠洲政略に進軍」するための前提と考えられていたのであった。
 しかし同年八月付の意見書「今日ノ世界戦ト我ガ戦備」の中では、もはや「盟邦ドイツハ遺憾ナガラ勝ミナシ」と予想し、独ソ間の居中調停をとる案は放棄され、これに代って日本がソ連と新たな同盟を結ぶことが提起されている。このソ連との同盟も「濠洲政略」の前提条件なのだが、この日ソ接近・オーストラリア政略と同時に、「コゝニ日本ハ潔キヨ (ク)支那全土カラ皇軍ヲ引揚ゲ」、蒋介石と手を結んで「大東亜建設ニ乗出」すようにはかるという計画が示される。つまり大東亜共栄圏樹立のためには、中国からの全面撤兵も辞さないというのである。そして石原によれば、もはや日本の戦局不利のこの段階では、ソ連との同盟を結ぶには「相当ノ人物ヲ派遣スルト同時ニ、又相当ノ手土産ヲコレニ携帯セシメル必要ガアル」とのことであった。
 この石原の計画が東久邇宮を通じて、現実の政治日程に乗る可能性が生じたのは、その一年後の一九四四年八月から九月のことである。石原も含め東条政権下で逼塞していた諸勢力が一斎に息を吹きかえして来たこの時期は、戦争の苦況挽回のために起死回生の外交方策を採ることが諸方から提起された時期でもあった。一九四四年八月一九日、最高戦争指導会議は「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定する。そこで提起された施策は、ソ連に対してはたとえ譲歩しても少なくとも現在の中立関係の維持をめざし、さらに出来得れば不可侵条約の締結にまで進み、なお可能なら独ソ間の和平の斡旋をおこなう、そして中国に対しては、ソ連をも利用して重慶工作をおこない和平の実現をはかるというものであった(65)。対ソ工作と対中国和平工作の同時発動というこのプランは、一年前の石原の提起にも合致したものであった。しかし問題の一つは、日本側でソ連に譲歩する条件の内容にあった。
 外務省がこの最高戦争指導会議の決定に基いて九月六日立案した「対『ソ』施策要綱」は、ソ連側に日本が与える「代償」条件として、「津軽海峡ノ通航容認」、「満洲」や「内蒙古」における「『ソ』聯勢力範囲ノ承認」、南樺太・北千島の譲渡などを挙げていた(66)。これに対しちょうどこの同じ日に石原は、東久邇宮に会ってやはり対ソ外交施策について進言しているが、石原の提示した条件は「満洲、朝鮮を日ソ間の緩衝地帯とし、朝鮮を独立させ、日ソ防衛同盟を結ぶ」というもので、外務省の案よりはるかに大胆なものであったばかりでなく、その交渉のための特使として民間人の久原房之助を起用するというものであった。久原を起用する理由として石原は、「ソ連のスターリンは各国首脳者中、飛びはなれた偉い人物であるから、普通の辞令巧みな外交官では相手にならない」と述べているが(67)、久原がかつてスターリンと個人的に面談したことのある政治家であり、小磯首相にも久原を駐ソ大使に用いる考えがあったこと、また久原が大東亜建設審議会第一部会の席で朝鮮独立論をぶつような人物であったことを考慮したのかもしれない(68)。ともあれこの石原の提案は、明らかに対ソ外交に乗り出そうとしている政府の動きを事前に知った上での対応であった。東久邇宮は石原のこの提案に賛成し、九月一一日久原の代理で参上した三尾邦三に向って、対ソ新外交の特使として久原を起用したいこと、その交渉の条件は以下のごとくであると説明している。
 「一、ソ連をしてアジアのソ連たることを自覚せしめること。
  二、思想と政治、外交は別問題として、日ソ防衛同盟を結ぶ。
  三、満州、朝鮮からわが軍備を撤廃し、日ソ両国間の中立地帯とすること。
  四、東亜に関しては、英米をして絶対に手をつけさせないこと。
  五、他方、ソ連をして欧州はもちろん、インド、中部・西部アジアで自由に活動せしめ、英米に対抗する如く指導す。
  六、中共をして対日抗戦を中止せしめる(69)。」
 ここで示した東久邇宮の提案は、すべて石原の考えに基づくものではないかと思われる。九月六日の石原の提案にあった朝鮮の独立はここに含まれてはいないが、おそらく石原にとっては日本が朝鮮を領有するか否かは問題であっても、独立させるか否かはけっして大きな問題とは考えられていなかったろうし、また四に記された「東亜」からの英米勢力の排除など、石原の発想に合致する点がたいへん多いからである。そして翌九月一二日、久原は東久邇宮の提起を諒承する旨の回答を寄越している(70)。しかし東久邇宮の説得に応じて、小磯首相・杉山陸相・梅津参謀総長も一度は賛意を表し実現するかと思われた久原特使派遣案は、結局日の目を見ずに終ることになる。実現しなかった理由の第一は、担当の重光外相が広田元首相の派遣を強く推して久原の派遣に反対したことにあり、第二はソ連が日本からの特使派遣を断ったことであり、そして第三は重慶工作の方を対ソ外交に優先させようとする方向で政府の姿勢が固まっていったことにあった。ソ連側の特使受け入れ反対の回答を踏まえて石原は、東久邇宮と合意の上のようであるが、改めて小磯首相に対し「久原房之助を日露協会理事とし、個人の資格でソ連に特派」することを提案する。しかしこの案にも重光外相や木戸内大臣の反対があったらしく、そのため小磯首相は難色を示し(71)、久原訪ソ案は遂に流れることとなるのであった。
 石原の計画は、久原特使派遣の件にせよ、たとえ実現していたにしても石原の企図通りに事が運ぶとは限らない性格のものであった。しかしこうした提言の中から窺われることは、石原の大東亜共栄圏構想が決定的に南方圏やオーストラリアを重視し、それらの確保のためには中国・満州・朝鮮からの撤兵も敢えて辞さないとするプランであったということである。言いかえると石原の南進論者としての本領は、日本が軍事的に頽勢になるにつれてかえってその姿を露わにしていくのであった。
 敗戦を直前にして、石原は徹底抗戦論の立場に立ち続ける。ただしその徹底抗戦論は、陸軍のそれと同じ立場に立つものではなかった。一九四五年七月阿南陸相に進言した意見書「戦争ハ必ズ日本ノ勝利」は、沖縄決戦論を唱えた海軍の立場をいぜん支持して陸軍の本土決戦論に反対し、同時に軍人が一般国民に比べ食糧・衣類・交通の便宜などで優先権を与えられ特権を振るって国民の反感をかっていること、しかも事実を偽る大本営発表やお手盛りの勲功により、いよいよ国民の信頼を喪失していることを批判したものであった。しかし石原はこのような状態の下でも、もし今にして軍部が反省し「軍民一体ノ実ガ挙レバ」日本に勝機は残されていると唱え、徹底抗戦を説くのである。その徹底抗戦のための石原の策は、「軍部改革」であり「軍部ノ作戦用兵改革」であった。彼はこれを、八月四日には東久邇宮に、八月六日には鈴木首相に、八月八日には木戸内大臣に説いてまわり、八月六日に鈴木首相に説いた時にはこの軍部改革とともに鈴木が首相を辞任し、「天皇自ラ戦線ニ立チテ指揮スル姿ニシテ頂ケバ、民心ハ一変シ総力体制トナル」と鈴木首相に説明している(72)。これからすると石原の強力内閣による指導論は、最終的には内閣をも廃した天皇による指導にまで帰着したと言えよう。しかし、石原が説いてまわった側の反応は、いずれもはかばかしいものではなかった。東久邇宮は「既ニ手遅レデナイカ」と言い、鈴木首相は「黙々トシテ語ラズ」、木戸内大臣はちょうどソ連参戦の当日でもあり、ポツダム宣言受諾の必要を述べて石原の提案を頭からハネつけている(73)。
 その後も石原は、徳川義親らとも組んでポツダム宣言受諾反対の工作を続けるが、結局この活動は功を奏せず、敗戦後石原は侵略主義的な資本家の一人としての容疑で、巣鴨拘置所にA級戦犯容疑者として拘禁されることになるのであった。

(1) 「南進国策の先駆者 石原陣営の相貌」『日本経済新報』三一〇号 (一九四一年三月一日)
(2) 石原廣一郎『転換日本の針路』(三省堂 一九四〇年)口絵写真
(3) 内務省警保局『昭和十六年度に於ける社会運動の状況』五二五ー五二六頁
(4) 平木吉治郎「新生明倫会の始動」『明倫新報』七八号 (一九四一年八月一五日)
(5) 前掲『昭和十六年度に於ける社会運動の状況』
(6) 前掲「石原廣一郎氏戦争犯罪事件弁護準備書」三八九頁
(7) 石原前掲「回想録」第二部三五五頁
(8) 「断乎・蘭印を膺懲せよ 我ら血肉を捧げん 新日本建設聯盟 政府へ要請文」「独伊へ贈る十万人針国旗 新日本建設青年聯盟」(一九四一年一月一七日)、いずれも掲載紙不明。『スクラップ・ブック』(石原産業大阪本社蔵)
(9) 司法省刑事局『思想資料パンフレット別輯・国家主義団体の動向に関する調査(十四) (昭和十六年一、二、三月)』
(10) 「南方学塾研究会」 なお同会から塾頭石原廣一郎『南方問答』(一九四〇年七月)が発行されている。
(11) 「南方学塾と馬来語講習会」 『三十五周年史落穂集』(石原産業 一九六三年)
(12) 今里勝彦「末次信正と石原廣一郎」『月旦』一九四一年五月
(13) 石原前掲「回想録」第一部一一六頁、前掲「石原廣一郎氏戦争犯罪事件弁護準備書」四四二頁
(14) 石原廣一郎「南方経営論」『現代』二二巻一号 (一九四一年)
(15) 石原廣一郎「亜米利加・恐るゝに足らず」『青森県評論』一九四一年六月
(16) 石原廣一郎「東亜共栄圏の建設と南方進出の必然性」『ダイヤモンド』二九巻一九号 (一九四一年七月一日)
(17) 石原廣一郎「日米決裂の焦点・南方共栄圏」『鉱山之友』一九四一年一月
(18) 石原廣一郎「南方問題縦横談」『京都日日新聞』一九四一年一月一日〜八日付
(19) 石原廣一郎「日本の決勝戦・此の一年」(石原廣一郎・斎藤瀏『此の一年』 明倫会京都支部 一九四一年)
(20) 「半戦時議会に要望する諸問題」『経済情報』一二巻二五号 (一九三七年九月一日)
(21) 石原廣一郎「南進日本の必然性」 掲載誌不明 一九四一年七月
(22) 石原前掲「回想録」第二部三四三ー三四四頁
(23) 前掲「南方問題縦横談」
(24) 石原前掲「回想録」第一部一一九ー一二四頁
(25) 東久邇宮稔彦『東久邇日記』(徳間書店 一九六八年) 一九四一年一一月一六日・一七日条 傍点引用者。
(26) 『徳川義親日記』一九四一年一一月二六日条
(27) 『スクラップ・ブック』(石原産業大阪本社蔵)
(28) 『京都日出新聞』一九四一年一二月九日付夕刊
(29) 資料54「翼賛政治体制協議会地方支部会員名」 吉見義明・横関至編『資料日本現代史4 翼賛選挙((1))』(大月書店 一九八一年)
(30) 『報知新聞』一九四二年四月一日付
(31) 資料58「翼賛政治体制協議会推薦候補者一覧表」 前掲『資料日本現代史4 翼賛選挙((1))』
(32) 資料134「第二十一回総選挙に於ける国家主義団体候補者成績調」 資料140「第二十一回衆議院議員総選挙一覧 (道府県総括表)」 吉見義明・横関至編『資料日本現代史5 翼賛選挙((2))』(大月書店 一九八一年)
(33) 『和歌山日日新聞』一九四二年二月五日付
(34) 石原廣一郎「英霊に感謝を捧げて 私の奉公記録」『月刊明倫新報』八八号 (一九四二年七月三一日)
(35) 『転換日本の針路』は、前著である『新日本建設』の改訂版であり、内政改革を扱った一五五頁以下の部分は『新日本建設』と同文であるが、「東亜共栄圏」の構想や外交政策、それに戦時国内態勢についてはここで新しく書かれている。
(36) 石原廣一郎「大東亜建設と南方の資源」 京都市文化課編『南方講座』(京都市役所 一九四二年)
(37) 石原廣一郎「南方問題と大東亜戦争の将来」『桂』一六八号 (一九四三年三月二八日)
(38) 石原廣一郎「新東亜の一環としての蘭印を説く」『明倫』八巻六号 (一九四〇年)
(39) 石原廣一郎「南方資源と我等の建設目標」 東亜経済懇談会編『続南方の民族経済』(大東亜出版 一九四四年)
(40) 石原廣一郎「三国同盟と東亜共栄圏」『改造』一九四〇年一一月
(41) 石原廣一郎『南方問答』 南方学塾研究会 一九四一年
(42) 石原廣一郎「住民の喜ぶ政治こそ我が南方経営の要諦」『青森県評論』巻号数不明 (一九四二年)
(43) 前掲「住民の喜ぶ政治こそ我が南方経営の要諦」
(44) 石原廣一郎「信じ合って団結へーーフィリピンの近況と南方建設」 『京都新聞』一九四三年一月一日付
(45) 「石原氏に聴く南方資源」『京都日出新聞』一九四二年一月一日ー三日付
(46) 石原廣一郎述『南方経営の具体的方途』交通展望社 一九四二年。なお南方圏を占領したら原料資源の過剰に陥るだろうという石原の見通しに対し、これまで南方圏との交易に携わって来た企業の経営者たちは、皆口々に賛意を表している (「座談会・南方資源対策を語る」『東洋経済新報』二〇〇五号 一九四二年一月二四日)。
(47) 前掲「大東亜建設と南方の資源」
(48) 石原廣一郎「南方資源と大東亜共栄圏の建設」『満洲経済』三巻三号 (一九四二年)
(49) 前掲『南方問答』
(50) 石原廣一郎「新日本建設と南方国策」『揚子江』四巻一号 (一九四一年)
(51) 石原前掲「回想録」第一部一三〇頁
(52) 「大東亜建設審議会総会・部会等関係資料」 石川準吉編『国家総動員史 資料編第四』(国家総動員史刊行会 一九七六年)
(53) 前掲『南日本の建設』
(54) 前掲『南方経営の具体的方途』
(55) 「有能者適宜配置 当を得た開発計画」掲載紙および日付不明。前掲『スクラップ・ブック』
(56) 石原廣一郎「南方の資源と皇国の前途」『日本講演』二〇巻一三輯 (一九四二年五月一〇日)
(57) 前掲「大東亜建設と南方の資源」
(58) 石原産業の戦時下における展開はこうした彼の議論とは裏腹に、軍からの受命に基いて軍需用の南方鉱山資源開発に力を注ぐものであった。しかしそれらも、「多くの場合資材不足に輸送力不足が重なって新たな開発を行い得ないままに敗戦を迎える結果になった」のである (前掲『「南方共栄圏」』四八六頁)。
(59) 『大政翼賛運動史料集成』第二集、第四巻五八ー五九頁 柏書房 一九八九年
(60) この発言の趣旨は、すでに日中戦争期に書かれた石原廣一郎「鉱物資源増産方法の一提唱」(『ダイヤモンド』一九三九年五月一日)の中でも提案されており、石原はこの中で「鑛産物価格の引上げを断行せよ」と主張していた。なお石原の第三回中央協力会議での提案は、石原が属した生産拡充委員会委員長の郷古潔によって取り上げられ、「総常会政府上通議題」中にも組み込まれている。
(61) 石原前掲「回想録」第一部一三三頁
(62) アジア・太平洋戦争期の石原の意見書としては、「大東亜戦備と革新政策の説明」(東久邇宮宛、一九四三年一月二六日)、「今日ノ世界戦ト我ガ戦備」(進言先不明、一九四三年八月八日)、「戦争ハ必ズ日本ノ勝利」(阿南陸相宛、一九四五年七月)の三通が残されている (いずれも前掲『石原廣一郎関係文書』下巻「資料集」所収)。以下これらの意見書からの引用には、いちいち注記しない。
(63) 前掲「南方資源と我等の建設目標」
(64) 由井正臣「太平洋戦争」(藤原彰・今井清一編『十五年戦争史3』 青木書店 一九八九年)、藤田省三『転向の思想史的研究』(岩波書店 一九七五年)二二八ー二二九頁
(65) 「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」(昭和十九年八月一九日) 『明治百年史叢書38敗戦の記録 参謀本部所蔵』 原書房 一九六七年
(66) 外務省「対『ソ』施策要綱」(昭和一九、九、六) 前掲『敗戦の記録』
(67) 東久邇稔彦『東久邇日記』(徳間書店 一九六八年)一九四四年九月六日条
(68) 『久原房之助』 久原房之助翁伝記編纂会 一九七〇年
(69) 前掲『東久邇日記』一九四四年九月一一日条
(70) 前掲『東久邇日記』一九四四年九月一二日条
(71) 前掲『東久邇日記』一九四四年九月一四日、九月二〇日、九月二七日、九月二八日、一〇月二七日、一一月八日条
(72) 「石原廣一郎日記」一九四五年八月四日、八月六日条 (赤澤史朗「史料紹介 石原廣一郎日記ーー終戦から巣鴨獄窓ーー (抄)」 『立命館百年史紀要』第三号 一九九五年)
(73) 前掲「石原廣一郎日記」一九四五年八月四日、八月六日、八月八日条


お わ り に

 石原は巣鴨拘置所の中で自分の過去を振り返って、自分が実業の世界で成功したのも政治活動で不成功に終ったのも、ともに「大自然の摂理」に基くものであり、「政治思想運動でわが意を得なかったのは大自然の法則に逆行していたからであった」と大いに悟るところがあったという(1)。ともかくこの巣鴨への拘禁をきっかけにして、石原は国家主義運動家としての政治活動から足を洗い、二度と政治の世界に直接身を投じることはなかったのである。
 確かに石原の国家主義運動家としての活動の跡をたどって行くと、政治の世界では結局のところ志を得なかったと言えよう。表面上は時流に乗り、また政界・軍上層部の知遇を得ていたにもかかわらず、その提言の多くは容れられず、現実政治の上で大きな影響力を振るうことはできなかったからである。それは石原の考えが、その時々の政治動向と一種のズレをはらんでいたためであろう。そのズレは、時には独断的で飛躍的な提言となり、時には時代の先を読んだシャープな批判ともなるのであるが、そうした石原が終始自己の考えに忠実でいられたのは、国家主義運動家の中では珍しく自ら企業のワンマン経営者であり、すべてが自己資金による政治活動であったためであろう。つまり社会的立場からも資金面からも主人持ちでなく、その意味での妥協を不要としていたからであった。
 こうした石原の政治活動の第一の特徴は、一方でファッショ的な大衆運動やその組織に肩入れして資金提供をおこない、自からもその指導者の一人となりながら、同時に他方で特定の中枢的人物と結びつき、その人物に献言しその人物を担ぐ形で政治活動をおこなっていることである。その特定の中枢人物とは、荒木貞夫陸相であり、近衛文麿であり、末次信正であり、東久邇宮であった。これは石原が政治上の公的なポストに就いたことがなく、政策決定の正規のルートから排除されていたためでもあるが、もともと彼の政治思想が組織や運動といったものに大きな期待を寄せず、特定の指導力ある人物による改革を重視する性格のものであったためである。
 石原の国家主義運動家としての第二の特徴は、いうまでもなくその北守南進論にあった。彼の著作の中で「北守南進」という用語が初出するのは、一九二三年に書かれた『日蘭合弁事業計画書』の「趣意書」においてであるが、この時から一九四四年の久原特使派遣案に至るまで、その時々の国際情勢に応じて「北守」の方法や「南進」の手だてを変化させつつも、彼は一貫して北守南進の主唱者であり続けたと言えよう。清水元の指摘するように、石原の南進論は竹越興三郎『南国記』に大きな影響を受けていた。特に『南国記』の中にある「熱帯を制する者は世界を制す」という一句など、石原の著作にも講演にもほとんど公理のように繰り返し登場するのだが、石原の場合はこの一句を単なる修辞としてでなく、文字通りに信じていた点に特徴があった。石原によると南洋の地域は資源的に世界最大の宝庫なのであり、日本が南進してこの地を押えることは、直ちに日本が「世界一の国家」となることを意味していたのである(2)。つまり石原の大東亜共栄圏構想では、圧倒的に南方熱帯地域に比重がかかり、中国にはそれほど大きな位置・役割は与えられていない点に特徴があった。
 ただこうした石原の考え方は、専ら南洋を資源の地として見る「北人南物論」(後藤乾一)に立脚したものであり、日本人の南洋に関する一般通念の域を出ないものであったとも言える。しかし石原の中にはこれとは反対に、南方圏からの発想というものも備わっていた。それは現代日本人の生活や意識と異る南方民族のあり方に価値を見出し、そこから現代日本を批判するような視点であったと言えよう。この考え方はアジア・太平洋戦争期に、独自の文明論の形をとって成熟してくる。
 石原に著述は多いが、その多くは必ずしも独創的な思想を示していない。これは石原の本領が、なによりも行動の人であることにあるのであって、思想家であることにはなかったためであろう。しかし彼の大東亜共栄圏構想の中には、さまざまの問題があるにせよ、現実の大東亜共栄圏の実態を批判しこれを超えるような独創的な視点がはらまれていたのであった。そしてここに、彼の生涯のテーマである南進論の、一つの思想的結実を見ることができると言えよう。

(1) 前掲『八十年の思い出』
(2) 前掲『日本の決勝戦 此の一年』