立命館法学 一九九六年四号(二四八号)




カンボジア紛争を巡る国連の対応
(一九七九〜一九九一)


一柳 直子






目    次




は じ め に

 東西冷戦の終焉は、その「代理戦争」の要素を持っていたカンボジア紛争にも、多大なインパクトを与えた。冷戦時代、カンボジア問題は、米中ソの大国と地域大国であるヴェトナム、タイなどの様々な思惑に締めつけられて、解決されなかった地域紛争の一つであった。そのことは、カンボジア情勢が国連総会での議題に初めて上がった七九年から、総会決議がアメリカ、中国といった国々の意向を汲んで、ヴェトナムへの非難・カンボジアからの撤退要求の一点張りで、大国によって国連が恣意的に運営されてきたということにも端的に表れていた。
 そうした国連での議論が、国連カンボジア暫定統治機構 (United Nations Transitional Authority in Cambodia : UNTAC)の設置・派遣へとシフトしていった時期は、冷戦の終焉の時期と一致した。こうして、カンボジア和平の実現は、冷戦終結後の世界秩序において、国連が国際紛争処理に関して機能できるのか、また国際紛争処理に関して今後どのような新しい役割、機能を持つ機関が創設されるべきかなどといった重要な問題を論ずるための一つの事例としての課題が与えられることになったのであった。
 本稿の目的は、カンボジア問題の解決過程を、国連での議論を中心に分析することである。その際に、カンボジア国内の情勢の変化及びカンボジア情勢にインパクトを与えた国際情勢の変化にも視点を当てて、冷戦構造の中で袋小路に入り込んでいたカンボジア問題がどのようにして国連主導の政治的解決へとシフトしていったのかについても分析を試みる。第一章で、カンボジア問題の歴史的背景を概観した後、第二章では、国連総会での議論の流れを詳しく見ていく。最後に第三章で、国連総会外での国連の活動を中心に二つのカンボジアに関する国際会議、及びUNTAC派遣を決定した安保理事会での議論とその推移について検討を加える。さらに、こうした事例研究を基に、その後、UNTACが直面することになった問題の起源にも言及することができるであろう。

第一章 カンボジア問題の歴史的背景
 インドシナ半島の小国であるカンボジアは、東はヴェトナム、西はタイと国境を接しており、この国の歴史はそのままこういった近隣諸国との領土争いの歴史でもあった。
 現在のカンボジア王室の源流を汲むクメール帝国は、その最盛期 (一一C)には、今のビルマ、ラオス、マレーシア、タイそしてヴェトナム南部 (いわゆるコーチシナ)を含む一大帝国であったが、その後衰退し、一八C後半以降はヴェトナムとシャム (現在のタイ)への領属関係に置かれることとなった。ヴェトナムは歴史的に見てカンボジアをタイとの緩衝地帯として見てきたし、タイもまたカンボジアをヴェトナムとの緩衝地帯として対応してきた。
 二つの強大な大国に挟まれて、再び領土の割譲を迫られるのではないかと危惧したノロドム王は、失われた領土の回復を図って、一八六二〜六四年にかけてインドシナの植民地化に着手していたフランスに対して「保護」を求め、六三年に両国は保護条約を締結し、ここにフランスのカンボジア支配が始まることとなった。フランスはその統治にあたって、行政機関の中に多くのヴェトナム人官吏を新しく登用して一般住民を掌握させたことから、カンボジア人とヴェトナム人の民族的な相克と憎悪を煽ることになった。
 日本は一九四〇年ごろから、日中戦争の戦略的要請から仏領インドシナ (日本での呼称は「仏印」)への進駐を計画し、六月にフランス本国がナチス・ドイツに敗退するのを見て仏印に進駐、四一年六月には日・「仏印」共同防衛協定を締結、これを占領した。日本の無条件降伏後、一時カンボジアは独立を獲得するが、仏軍の再進駐によって独立は事実上消滅し、シアヌーク国王は独立宣言を撤回させられた。
 シアヌークは戦後独立を達成(1) (五四年)した後、独立を保障する中立を維持するために、米国と経済援助協定、中国と軍事援助協定、ソ連と経済援助協定を結んで、巧妙なバランス外交を展開してきた。しかし、カンボジアの中立政策は国際的に保障されたものではなく、当時の国際情勢のバランスの上に成り立っていたため、国際的な諸要因や動向によって破綻する危険性を常にはらんでいた。したがって、カンボジアはシアヌークの必死の努力にもかかわらず、結局ヴェトナム戦争に巻き込まれていったのであった。
 米国は七〇年に、ロン = ノル首相のクーデターを支援して(2)、中立を維持しようとするシアヌーク体制を覆して、カンボジア国内への大規模な爆撃、侵攻作戦を開始し、北ヴェトナム正規軍、南ヴェトナム民族解放戦線の根拠地を攻撃した。中国の周恩来首相は、「反ロン = ノル、反米」を共通項として、カンボジア共産党、ヴェトナム共産党、シアヌーク支持派を握手させ、これによってインドシナ共産勢力と王政支持派が協力してロン = ノル政権と戦うというカンボジア内戦が始まった。七三年のパリ和平協定によってヴェトナム戦争は終結し、ヴェトナムだけではなくカンボジア、ラオスを含むインドシナ三国からの全外国軍の撤退が義務づけられ、さらにカンボジア、ラオスの独立が保障された。国内でも、七五年四月一七日、解放軍がプノンペンに入城し、内戦は終結した。
 解放直後、軍事力に勝るクメール・ルージュ (ポル = ポト派)がシアヌーク派を押さえ、実権を握り、七六年一月民主カンプチア政府が成立した。民主カンプチア政府が目指した社会は、搾取のない真の民主主義が支配する幸福な社会であり、それを集団労働方式で建設していく、としていた。その究極の目標は、近代的諸技術やぜいたく品を廃し、国民皆労働の名の下に通貨を必要としない自営的な共同体 (集団協同組合)を作ることにあった。この政策の下、何百万というカンボジア人が民主カンプチア時代に虐殺された。
 対外的には、ポル = ポト政権はヴェトナムへの「攻撃(3)」を繰り返した。一方、国内では、七八年一二月三日に、ヘン = サムリンを中心に生き残った旧人民党系の古参幹部や東部管区を抑えていた親越派の軍人達が、カンプチア救国民族統一戦線を結成し、ヴェトナムの支援を受けてプノンペンを目指した。ヴェトナムは、ポル = ポト政権との交渉の試みや、中国、ラオスの仲介などの後、外交手段を用いてポル = ポト政権の侵略を止めることはできないと判断して、激化するポル = ポト政権の国境侵犯に武力で対抗することを決定し、カンボジア内の反ポル = ポト勢力と共同で、七八年一二月二五日、カンボジアに越境攻撃を仕掛けた(4)。いわゆる「カンボジア問題」の勃発であった。
 ヴェトナム軍の支援を受けたカンプチア救国民族統一戦線は、翌七九年一月七日、プノンペンを占領し、翌日にはカンプチア人民評議会 (ヘン = サムリン政権)を樹立し、カンプチア人民共和国が成立した。ヴェトナムのカンボジア侵攻を受けて、中国は「制裁」と称して、二月、ヴェトナム領内に大規模に侵攻し、中越紛争が勃発した (三月に中国軍撤退)。
 最後に、ヴェトナムのカンボジア侵攻が主な国々に与えたインパクトについて見ておこう。
 まず、ASEAN諸国の対応であるが、当初は懸念表明・中立模索であったのが、難民の責任追及を契機とした対ヴェトナム姿勢の硬化を経て、八〇年六月の越軍のタイ領越境によって最も強硬化した。しかし、カンボジア紛争を巡る対応において、ASEAN内で必ずしもコンセンサスが取れていたわけではなく、こうした認識・対策のずれが、ASEANの対外的エネルギーと説得力を削ぎ、さらにはソ越両国による分断工作の余地を与えることとなった(5)。ヴェトナムに対して最も強硬な姿勢を取ったのは、カンボジアがヴェトナムに取り込まれることで、実質、ヴェトナムと国境を接することになり、ヴェトナムの次のターゲットとなることを恐れたタイで、中国と緊密に協力した。シンガポールはこれを全面的に支持した(6)。ヴェトナムの侵略に反対してASEANに加盟した経緯を持つフィリピンも基本的にタイに同調した。これに対して、その対局にあったのがインドネシアで、ことあるごとに、「東南アジアにとっての長期的な脅威はヴェトナムではなく中国である(7)」と主張して、ヴェトナムとの妥協点を探った(8)。自国内の華人に対して脅威感をもつマレーシアも、対中国という関係から基本的にインドネシアに同調した。
 中国は、カンボジア紛争の発生当時、ソ連を「主要的」と見做し、その「覇権主義」に対抗することを最大の外交目標としていた(9)。そこで、「前線国家」タイと協力関係を結ぶが、しばしば繰り返された中国の一方的なタイ支援声明は、両国の友好関係の反映というより、ソ越両国による南北からの包囲網の打破という戦略的要請であった(10)。したがって、「この目的に合致するいかなる勢力とも連携しよう(11)」というのが中国の対カンボジア政策の基本方針であった。中越紛争以後、中国はカンボジア問題の国際化を図り、ASEANや日米などの西側諸国の支持を得ることに成功した。さらに中国は、戦争の長期化によってソ連=ヴェトナム連合に最大限の負担を強いる戦術を取った(12)。
 一方、ソ連のカンボジア紛争への関心は、「最も危険なライバルたる中国の封じ込めの拠点として、同時に、退潮期にあったアメリカのアジアでの影響力に対抗する拠点としてのヴェトナムの確保(13)」に絞られていた。そこで、ヴェトナム軍の行動を自衛権と人権擁護の見地から弁護し、ヴェトナム及びプノンペン政府に多額の援助を与えた(14)。
 アメリカは、当初から「ASEAN諸国のイニシアティブに従う」との消極的姿勢に終始してきた(15)。当時カーター政権 (七九年)は、カンボジアにおける人権侵害(16) (ジェノサイド)に関して、UNCHR (国連難民高等弁務官)に言及し、カンボジア・ヴェトナムの国境紛争に対して安保理事会で議論するように提案したが、それ以外のことは大きく動かなかった。
 七九年の国連総会で、カンボジア情勢に関する議題が初めて議論されることになったのだが、それでは、こうした複雑な背景を持つカンボジア問題が、国連でどのように扱われてきたのかを、次章で見ていこう。

(1) インドシナに関する一九五四年ジュネーブ会議において、「カンボジアにおける敵対行為の終始に関する協定」によって、停戦、外国軍の撤退、クメール抵抗派の武装解除、国際休戦監視委員会の設置などが取決められた。なお、この会議における中国のインドシナに対する帝国主義的な態度について、ウィルフレッド・バーチェット『カンボジア現代史』連合出版、一九八三年、三九頁以下を参照。
(2) シアヌークは、その前年の六九年に断交していた米国との国交を再開し、米軍にカンボジア領内のホー = チ = ミン・ルートの使用を許可していたが、その真意は、国内の共産勢力に対抗するためのものであって、ヴェトナム戦争に対して米国側にコミットすることを意味するものではなかったため、米国としては、対インドシナ戦略の一環として、、カンボジアに親米政府が必要であった。また、クーデターは親米派の意図に沿ったものであったが、ポル = ポト派とこれに合流したサンクム左派の一部が誘発したという要素の指摘については、和田正名『カンボジア問題の歴史的背景』新日本新書、一九九二年、四九頁を参照。
(3)  ポル = ポト政権によるヴェトナム「侵略」とされる現象は、七五年五月の政権軍によるヴェトナム領フーコク島、トーチュー島上陸がそ
版面あわせの最初であったとされている。(和田、前掲書、一〇七ー一〇八頁。)また、ポル = ポト政権によるヴェトナムへの攻撃を説明するには、以下の四つの要素が挙げられよう。すなわち、((1))インドシナにおける主導権争い、((2))民族統一戦略、((3))中国のバックアップ、((4))ヴェトナムの権力に対する恐怖心、である。(Craig Echeson, The Rise and Demise of Democratic Kampuchea, Westview Press, Boulder, Colo, 1984, p. 188.)
(4) ヴェトナムのカンボジア侵攻の決定要因としては、((1))民主カンプチアによる再三の国境侵犯に対する自衛権行使、((2))ジェノサイド政権の排除、((3))民主カンプチアの中傷によって傷ついた非同盟運動や国連内での評判を回復する必要性、((4))インドシナ半島を支配する欲望、などが挙げられる。(Micheal Hass, Genoside by Proxy-Cambodian Pawn on a Superpower Chessboard, (以下、Haas- I と略記)Praeger, N. Y. 1991, pp. 58-59.)また、C・エチェソンはヴェトナムのカンボジア侵攻の動機を、((1))カンボジアをヴェトナムの新経済区域 (New Economic Zone)に組み込もうとしたこと、((2))コーチシナの領有問題、((3))カンボジア・中国、二国との国境紛争に対する脅威、((4))人道的要素 (ジェノサイド)、としている。(Etcheson, op. cit., p. 193.)
(5) 黒柳米司「カンボジア紛争終結過程とASEAN諸国---”ポスト・カンボジア”への教訓」岡部達味編『ポスト・カンボジアの東南アジア』一九九二年、日本国際問題研究所、三三頁。
(6) このシンガポールの強硬姿勢は、自らも小国であるが故に、大国が小国を蹂躙することを許さないという原則論によるところが大きい。(田中恭子「カンボジア問題と中国」岡部達味編、前掲書、二〇二ー二〇三頁。)また、黒柳氏は、シンガポールの強硬姿勢として、((1))リー = クワンユーら指導部の反共哲学、((2))国境侵犯への弱小国としての警戒心の強さ、((3))アメリカの軍事プレゼンスを確保しようとする意向、などに根ざす、半ば体質と化したものであると分析している。(黒柳、前掲論文、三五頁。)
(7) 田中、前掲論文、二〇二頁。
(8) このインドネシアの姿勢の裏には、ASEANの盟主としての強い誇りがある。加えてインドネシアは、自国と同様に武装闘争によって独立を達成したヴェトナムに対して元来親近感を持ち、好意的である。(田中、同上論文、同頁。)
(9) 田中、同上論文、一九三頁。
(10) 黒柳、前掲論文、三〇頁。
(11) 同上論文、同頁。
(12) 中国は、カンボジア紛争の政治的解決は、「ソ連がヴェトナムを支えきれなくなったとき初めて可能になろう」(韓念竜外務次官談)と考えていた。(Nayan Chanda, Brother Enemy : The War after The War, Harcourt Brace Janovich Publishers, San Diego, 1986, p. 379.)
(13) 黒柳、前掲論文、三〇頁。
(14) ソ連は一九七六ー九〇年の期間に、ヴェトナムに対して二三〇ー二八〇億ドルの経済援助を与え、また、プノンペン政権の経常予算の七五%以上を負担していたと言われる。(Far Eastern Economic Review, 5 July 1990, pp. 44-45.)
(15) この消極性は、「対中友好を偏重し、ヴェトナムへの嫌悪感を脱しきれない」という二重の誤りの結果であった。(John McAuliff, Byrne McDonell, “Ending the Cambodian Stalemate" , World Policy Journal, Vol. VII, No. 1 (Winter 1989-90), pp. 84-90. 黒柳、前掲論文、三七頁より引用。)
(16) カーター政権下の人権擁護政策にもかかわらず、アメリカは民主カンプチアに援助していなかったので、経済制裁といった方法を採れなかった。


第二章 カンボジア問題を巡る国連総会の動向とその背景
 カンボジア問題の上程
 一九七九年一月三日、その前年のクリスマスに始まったヴェトナムのカンボジア侵攻を受けて、民主カンプチアは安保理事会にこの問題について協議することを要求したが、同月七日に、プノンペンは陥落した。また、シアヌークも同月、ニューヨークの国連本部にまで出向いて、カンボジア問題を取り上げることを直訴した。こうしてまず、カンボジア問題は安保理事会で論議されることとなった。一月に開かれた安保理事会では、理事会内 (当時)の七カ国の非同盟諸国ーーバングラディシュ、ボリヴィア、ガボン、ジャマイカ、クウェート、ナイジェリア及びザンビアーーが提出した「カンボジアからのヴェトナム軍の撤退を求める」決議案にソ連が拒否権を行使した。同年三月に再び開かれた安保理事会でも、ASEAN諸国が提出した「紛争全関係国が自国へ撤退することを求める」決議案が、ソ連の拒否権によって葬られた。こうして相次ぐ拒否権によって機能が麻痺してしまった安保理事会に代わって、カンボジア問題は総会で引き続き議論されることになったのである。
 安保理事会の勧告を受けて、カンボジア問題は「カンボジア情勢」という議題で、同年一一月に初めて総会で議論された。この年の総会で注目されることは、三つの決議案が提出されたことである。すなわちASEAN諸国からのもの、ヴェトナムからのもの、インドからのものである。
 ASEAN諸国から出された決議案の骨子は、(1)全外国軍のカンボジアからの撤退、(2)カンボジア人民の自決権を尊重し、カンボジアの主権、領土保全、独立と他国の内政不干渉原則の尊重、(3)問題を平和的に解決するために事務総長の斡旋を要求、(4)事務総長にカンボジア国際会議を開催する可能性を模索することを要求、(5)加盟国に対する事務総長報告の提出、(6)「カンボジア情勢」を継続議題とすること(1)である。一方、ヴェトナムから提出された決議案の内容は総会での議論の中では明らかにされていないが、ラオス代表の発言によればその目的は、(1)カンボジア人民が自分たちの国を再建するために平和を保障する、(2)域内国がその友好・協力関係を発展させるために平和と安定を保証する(2)、の二点である。 
 その決議案からも判るように、ASEAN諸国の基本姿勢は、「ヴェトナムの侵略は地域の安全への脅威かつ国連憲章違反(3)」であった(4)。そして、総会においても中国、アメリカをはじめ大半の国がこの見解を支持し、ヴェトナムの侵略を非難した。
 ヴェトナムは当初、自らの自衛権行使の主張が総会でも受け入れられると考えていたようである。実際、票決前の発言でも、(1)民主カンプチアの先制攻撃を主張し、自衛権の行使であったことを強調し、(2)ヴェトナムの行動がカンボジアの要請に応えたものであったとして、国連憲章違反にはならないことを主張し、(3)カンボジア人民共和国の正統性を擁護し、さらに、(4)ポル = ポト派やその他の派に対するASEANの支持をカンボジアの再建を阻害するものであると非難した(5)。しかしながらこの見解を支持したのは同じインドシナ諸国であるラオス(6)とソ連とその衛星国のみであった。よって、総会ではヴェトナムの自衛権の主張が却下されたのみならず、ヴェトナム決議案も非難された。
 第三世界諸国はこの問題にどのような態度で臨んだかというと、同年九月にハバナで開催された第六回非同盟諸国会議において、この問題について、(1)包括的政治的解決を要求、(2)外国軍の撤退要求、(3)カンボジア各派への外国からの軍事援助の停止、(4)和平に向けての対話と域内の全ての国の独立、領土保全の必要性、を主張した最終コミュニケ(7)を採択した。したがって総会での第三世界諸国の行動はこのコミュニケに従ったものであった。この第三世界諸国の中でも独自の動きを見せたのが、自ら作成した決議案を提起したインドであった。
 インド決議案の主たる内容は、(1)インドシナ諸国とASEAN諸国との対話を準備し、外部の大国による干渉を排除する必要がある、(2)問題解決に当たって事務総長の役割が重要視されなければならない、(3)全関係各派、全関係諸国が参加する国際会議を開催し、全ての争点について議論する(8)、というものであった。しかし、この決議案についてはタイ代表によって、「(インド決議案には)問題がインドシナ諸国とASEAN諸国間だけのそれであるかのような趣旨があったが、この問題は国際社会全体に関わる問題であること、国際会議開催の点についても、全関係各派の参加は認められないこと(9)、さらに全ての争点について議論することは議題範囲が広すぎて混乱を招くだけである(10)」と非難された。このタイの非難を受けて票決前の発言でインドは、(将来開催されるであろう)国際会議に外部の大国が参加することは解決をさらに困難にするであろう、とその懸念を表明したが、インド決議案がASEANやヴェトナムのそれの代案になろうとする意図のないこと、またASEANとの友好関係を重視する立場から、この決議案を票決に付することを断念した(11)。
 こうして、提起された三つの決議案は、議長 (タンザニアのサリム氏)の提案によって、まずASEAN決議案を総会における決議として票決することについての票決が行なわれ、賛成:八五、反対:三二、棄権:二三で可決された。続いてASEAN決議案についての票決が行なわれ、賛成:九一、反対:二一、棄権:二九で可決され、A/RES/三四/二二となった。最後に、ヴェトナム決議案を票決しないことに対する票決が行なわれ、賛成:六二、反対:三六、棄権:三八で可決された。
 三派連合政府結成とヴェトナムの対応
 八〇年、八一年の総会での議論・決議は、七九年のそれと大きく変わってはいない。すなわち、総会での議論においてはASEAN諸国や西側諸国からヴェトナムのカンボジア侵略への非難とそれを経済・軍事的に援助するソ連への非難、そしてカンボジア人民共和国政府がヴェトナムの傀儡にすぎないことといった発言が繰り返され、それに対してヴェトナム側からは、いわゆる「中国の脅威(12)」が強調され、「チャイナ・カード」を用いてカンボジアとラオスに自らの影響力を再び確立しようとするアメリカの野心が指摘された。一方決議に関しても、八〇年からは決議案はASEAN諸国を中心として作成されたものしか提起されなくなり、その内容も七九年の決議を概ね踏襲したものであった(13)。
 しかし、変化が全くなかったわけではない。八〇年の決議では、包括的政治的解決を目指すために、カンボジアの全紛争当事者と関係諸国が参加するカンボジア国際会議の開催が提案され(14)、翌八一年七月にニューヨークにおいて開催された。(この会議については次章で詳しく見る。)
 M・ハースが指摘しているように(15)、三派連合政府結成で合意のなされた八一年以降、総会においてはASEAN諸国への支持がますます強固になっていき(16)、カンボジア人民共和国ーソビエトーヴェトナムの見解から乖離していくようになった。
 この三派連合政府結成の動きは、タイ等が中心になって、まずシアヌーク派とソン = サン派を和解させ、八一年九月の連立政権樹立について合意させたことから始まった。そして次に、米国の強い圧力を受けたこともあって、ポル = ポト派との妥協、提携の戦略を取らざるを得なくなったASEAN諸国は、反共二派をポル = ポト派との会合に引きずり出し、翌六月、民主カンプチア同盟 (CGDK)を結成させることに成功した(17)。ASEAN諸国と米国がCGDK結成を促した目的は、ポル = ポト派の動きを牽制すると同時に、ポル = ポト派を利用してプノンペンに対して圧力を加えるということであった(18)。こうした状況を見たヴェトナムは事態打開のために総会の場で様々な提案を行った。八二年七月、インドシナ三国外相会談のホー・チ・ミン・コミュニケにおいて発表されたヴェトナム軍の部分撤退もこうした動きの一環であった。が、この発表に伴って実施された撤退は多くの諸国から(19)、「駐留部隊の入れ替えにすぎない」と批判されただけであった。さらに八一年のカンボジア国際会議をボイコットしたヴェトナムは東南アジア地域内での、参加国を限定した国際会議を開催すること(20)を提案した。こうした主張の裏側には、ヴェトナム側が国連を用いた解決に期待を表明しながらも、紛争の一方側に深くコミットしている---三派連合政府にカンボジアの代表権を認め、それを支持するASEAN決議案を採択する---国連に対してのぬぐえない不信感があった(21)。
 中越対立の激化とヴェトナムの国連観
 この間、中越間の非難の応酬は激しさを増すばかリであった。ヴェトナムが八二年の総会において、中国が中越関係正常化の条件にカンボジア問題の解決を要求し、この問題が両国の紛争の根源であると主張し、ポル = ポト派を使ってヴェトナムを圧迫してきている(22)、と批判すれば、中国も、ヴェトナムによる「中国の脅威」論に対抗すべく、ASEAN諸国に対する「ヴェトナムの脅威」論(23)を展開した。
 総会において大々的に批判を受ける中で、ヴェトナムの国連に対する懐疑的な見方(24)は助長されることとなった。こうした国連不信の立場から、ヴェトナムはついに八四年から八六年の総会をボイコットした(25)。が、八四ー八五年はヴェトナム軍の乾期攻勢によって三派連合政府軍が大打撃を受けた年でもあったため、総会において真正面からこの活動への批判を受けることを避けるためであったとも推察できよう。
 ヴェトナム軍の軍事行動と完全撤退声明へのリアクション
 ヴェトナム軍の乾期攻勢 (八四年)に驚いたASEAN諸国は、インドネシア代表が、「ASEAN諸国はヴェトナムといつでも、いかなるレヴェルでも協議もしくは交渉する準備がある(26)」と発言して、対ヴェトナム強硬姿勢を若干軟化させ、マレーシア代表も、「ヴェトナムとの二国間協議を歓迎し、その交渉の姿勢が継続することを希望(27)」する旨の発言を行った(28)。
 八五年一月ホー・チ・ミン市で開かれた第十回インドシナ三国外相会議で初めて、「ヴェトナム軍はたとえ政治的解決がなくても五年ないし一〇年以内には撤退する」という意思が表明され、同年八月の第十一回三国外相会議においてさらに、撤退完了期限が九〇年末と明確にされた。この撤退宣言は、シンガポール代表によってその信憑性に懐疑的な発言がなされた(29)ほか、その他の諸国にもインドシナ三国側のプロパガンダであると見る向きが多かった。しかしそういったいわゆる建前上のリアクションとは裏腹に、この八五年の総会ではいくつかの重要な姿勢の変化が見られた。すなわち、第一の変化は政治的解決に関するもので、これまでの「包括的政治的解決を求める」という基本姿勢に変化はなかったものの、その際に「カンボジア内の関係全派の利害を考慮すべきである(30)」という、事実上政治的解決の枠組みの中にカンボジア人民共和国政府を含めることを容認する姿勢(31)が打ち出されたことである。これは、「全てのカンボジア人によって民族和解のプロセスが進められるべきである」というシアヌークの考え(32)を支持したものであった。こうして、関係全派による交渉への道が開かれたのであった。
 第二の変化はポル = ポト派の処遇に関する点で見られた。八四年に、ポル = ポト派支配下のカンボジアの悲惨な虐殺をドキュメンタリー・タッチで描いたイギリス映画『キリング・フィールド (原題 The Killing Fields)』が公開されて、反ポル = ポト派の国際世論が大きく高まったことから、総会の場でも反ポル = ポト派の姿勢を打ち出した発言が多く見られるようになった。例えばシンガポール代表は、「この期間 (一九七五ー七八年)に行なわれた政策(33)」が再びなされるべきではないと、名指しを避けながらもポル = ポト派を批判した。またアメリカは人道的見地から、下院外交委員会東アジア・太平洋問題小委員会委員長ソラーズ民主党議員が「ポル = ポト派を将来のカンボジア政府から排除(34)」したいという意思を表明し (八四年)、八五年になって、レーガン政権は「(アメリカからの)NRC (Non-Communist Resistance ; シアヌークとソン = サンによって結成されていた非共産主義同盟、三派連合政府結成後はその中に組み込まれた)への支援を強化し、シアヌークを将来のカンボジア新政府の長にしたい(35)」と、ポル = ポト派排除の用意のあることを明らかにした。ECも八六年になって、「ECが行う政治的解決への働き掛けは、ポル = ポト派の復権を支持することにはならない(36)」とイギリス代表が発言し、ここにきてはっきりと反ポル = ポト派の姿勢を打ち出した。
 この年、ソビエトでゴルバチョフ政権が誕生したことが第三の変化の要因であった。すなわち、彼が推進した「ペレストロイカ」路線、「新思考」外交が米・ソデタントへのきっかけとなったことで、カンボジア問題を複雑にしていた外的障害の一つが取り除かれようとしたのであった。アメリカ代表は総会において、「アメリカはソ連と問題解決のために交渉する意思がある(37)」ことを表明し、さらに、「ソ連が政治的解決に向かわせるためにヴェトナムに対してその影響力を行使する(38)」ことを希望した。
 中ソ和解への動き
 一方、今一つのの外的障害たる中ソ関係の方であるが、こちらは八〇年代に入って関係改善を模索し始めた。八二年三月、ブレジネフ書記長はタシケント演説の中で中ソ関係改善の呼びかけを行った。同年九月、「全方位外交」へとその外交政策を転換した中国は、中ソ関係の三大障害を、(1)中ソ・中蒙国境の軍備配備、(2)ヴェトナムのカンボジア侵攻への支援、(3)アフガニスタン侵攻、と列挙し、これを除去していく意欲を示した。これ以降、年二回の外務次官級協議が始まった(39)。八六年一〇月には、次官級協議において初めてカンボジア問題が議題となり、以後継続議題となった。このソ連の (ヴェトナムとの同盟関係に反する)中国への歩み寄りの背後には、「ASEAN諸国、アメリカとの同盟関係を進め、国連においてその見解に大多数の支持を集めることに成功した中国 (ひいてはアメリカ)とデタントを進めることが、カンボジアでの長引く紛争をコントロールすることよりも差し迫った問題である(40)」とのクレムリンの判断があった。「ソ連の経済軍事援助がヴェトナムのカンボジア作戦継続にとって死活的に重要であったことは疑う余地もない」が、「ヴェトナムの経済が危機的な時期に最大の脅威国たる中国に和解の手を差し伸べたソ連の行動は、かつてヴェトナム戦争の最終段階でアメリカに接近した中国の変節を再現したものと認識されたに違いない」と言えよう(41)。
 政治的解決の試みの萠芽
 カンボジアを取り巻く国際環境が変化していく中、八六年に、三派連合政府は北京で閣議を開いた後、ヴェトナムに対して政治的解決のための二段階撤退と四派連合政府の樹立などを盛り込んだ、いわゆる八項目提案(42)を発表した。このことは、三派連合政府をカンボジアの正統政府と見做し、カンボジア人民共和国政府をヴェトナムの傀儡にすぎないとして、これとのいかなる妥協も拒否してきた中国 (とポル = ポト派)が、初めてこれと交渉することを認め、四派連合政府樹立に取り込むことに合意したことを意味した。総会でも多くの国がこの提案を評価する旨の発言を行った(43)。
 この提案そのものはヴェトナムによって拒否された(44)が、翌八七年にこの提案に応える形で、カンボジア人民共和国政府から五項目宣言(45)が発表された。シアヌークを三派連合政府の代表として認め交渉する準備があること、もはやポル = ポト派全体の排除は求めず、排除をポル = ポトなど数人の急進派指導者に限定すること(46)、などを表明したこの宣言を受けて、同年末から翌年初めにかけて、シアヌークとフン = センの会談が行われた。両者を会談させることが解決の糸口になるという信念を持っていたフランスの尽力によって(47)この会談は実現した。第一回の会談では実質的な成果は得られなかった(48)ものの、対立する二派の首脳が会談したというだけでも紛争解決に向けて特筆に値すると評価された。
 ヴェトナムの政策変更と域内交渉の開始
 ヴェトナムの実質的な戦略転換は、一九八四年に入ってからであった(49)。一九八四年三月一四ー一五日に来越したモフタル・インドネシア外相に対して、ヴェトナム側は五項目案 (行方不明米兵士 (MIA)捜索問題の解決、越を含めたカンプチア国際監視・管理委員会の設立、越軍の撤退、ポル = ポト派の排除及び国際委員会監視下の選挙、東南アジアにおける外国軍基地問題の凍結)を提示した。一九八六年一二月の第六回党大会で、グエン・バン・リンが書記長に就任し、改革派が実権を握ったことで「ドイモイ (刷新)政策」が推進されることとなった。この背景にはヴェトナムの国内的要因のほかに、ソ連の内政、特に経済の建て直しへの傾注、また第二次冷戦期にあったソ越間の戦略的同盟の重要性の低減に伴うソ越関係の冷え込み (ソ連の対越援助削減、中ソ正常化に伴うソ越間の摩擦など)があった(50)。
 その間もヴェトナム軍の撤退は続いた。紛争の長期化で肥大した駐留費と経済制裁から来るヴェトナム経済の混乱が、撤退へと戦略をシフトさせた一因であることは間違いないであろう(51)。ヴェトナムは八七年一一月に二万人を、翌八八年五月に五万人を撤退させた(52)。八八年、ヴェトナムは再三にわたり、九〇年末までに完全撤退し、その後は二度とカンボジアに派兵しないと言明した。八九年一月には、同年九月末までに全面撤退すると発表し、中国もこれを歓迎した(53)。
 このヴェトナム軍撤退声明のリアクションは、地域内での交渉促進となって表れた。ヴェトナムとASEAN諸国との二国間協議は八五年からずっと続けられていたが、特に両陣営間のパイプ役を自任していたインドネシアとのそれは、八七年になって、インドネシアが提案した「(交渉に当たっての)前提条件もなく、政治的レヴェルでもない非公式の、カンボジア全派が参加する会合 (いわゆる”カクテル・パーティー”案)」を開催することで両国間の合意がなされた(54)。大国の介入を盛んに懸念するインドネシアやシンガポールをはじめとするASEAN諸国と経済関係を強化したい中国は、「関係各派間で合意を達成した場合、中国は他の国々と共に、それを国際的に保証する枠組みに参加する用意がある(55)」と言明し、介入の意思がないことを強調した。そしてソ連もまた、この年ゴルバチョフ書記長が、冷戦構造を解消して紛争解決に国連を活用することを提唱し(56)、総会においては、将来合意が達成された場合、他の常任理事国と共にその枠組みに参加する意思があることを表明した(57)。ここにおいて、「米ソ間を中心とする東西冷戦のゲームが明らかに変わり始めた(58)」のであった。
 JIMの開催 (八八年)と総会での議論
 このインドネシア=ヴェトナム合意を受けて、翌八八年七月にジャカルタで第一回の非公式協議 (ジャカルタ非公式協議:JIMI)が開催された。JIMIでの確認事項は、インドネシア代表によれば、(1)問題は政治的手段によって解決する、(2)民族自決と民族和解を達成する、(3)ヴェトナム軍撤退とポル = ポト派復権阻止をリンクさせる、(4)外国による内政干渉と三派連合政府への武器供給を停止する、(5)撤退のタイムテーブルと国際監視(59)、の五点であった。
 したがってこの年の決議案にもいくつか新たな要素が組み込まれた。すなわち、(1)外国軍の撤退の国際監視、(2)暫定的な行政機関の創設、(3)民族和解の促進、さらに、(4)世界的に批判されている過去の政策の実行を復活させない(60)、であった。しかしヴェトナムはこの決議案が「JIMIでのコンセンサスが反映されていない(61)」と全面的にこれを批判し、代わりにラオスと共にASEAN諸国に対して共同で決議案を提起することを提案したが、ASEAN諸国に拒否された。
 中国はヴェトナム軍撤退後の四派連合政府の設立を主張し、その際のポル = ポト派の排除もカンボジア人民共和国政府側への権力集中にも反対を表明し、カンボジアの内政問題と自軍の撤退をリンクさせようとするヴェトナムの姿勢を非難した(62)。NCRの実現の可能性を信じて疑わず(63)、シアヌークを最善の道として支持するアメリカは、この決議案を支持しながら、ポル = ポト派の復権阻止に言及し、そのために有効な保障手段を講じる必要性を唱えた(64)。
 八九年の総会外での和平への動き
 八九年の総会の場でいわゆるオーストラリア案が紹介された(65)が、この年は和平に向けての様々な動きが見られた年でもあった。まず、ジャカルタでJIMIIが開催され (二月)、四派間で「民族最高評議会 (SNC)」の設置が同意された。次いで、ゴルバチョフ書記長が北京を訪問し中ソ和解が成立した (五月)。その後、パリで一カ月間、「カンボジアに関するパリ国際会議 (Paris Conference on Cambodia : PCC)」が開催され (七ー八月)、カンボジアではヴェトナム軍が完全撤退を完了した (九月)。そこで総会でも、若干の問題点は残しながらもこうした一連の動きを評価する発言が目立った。
 なかでも画期的であったのはやはり、オーストラリアのエヴァンス外務通商相が提起した「包括的政治解決案(66)」であったと言えよう。これは総選挙実施までの過渡的措置として国連を活用する提案を骨子としたものであった。具体的には、
 (1) 停戦、
 (2) 政権移行期間中の国際機関による国際監視メカニズム (International Control Mechanism : ICM)、
 (3) 撤退の国際監視、
 (4) クメール・ルージュ時代の国際的に非難されている政策の実行が復活されることを阻止するための強力な保障、
 (5) カンボジア全派への外国の軍事援助の停止、
 (6) シアヌーク指導の下、民族和解の促進、
 (7) 停戦から新政権樹立までの期間の暫定行政機構、
 (8) 新憲法制定、新政府樹立のための自由民主選挙、
 (9) 主権、独立、領土保全、中立、非同盟、内政不干渉の国際保障、
 (10) 難民の安全な帰国と国土復興のための条件創造、
というのがその内容であった。
 和平に向けての争点
 この頃になると、JIMIIでSNC設置が同意されたことを受けて、和平への最大の焦点は民族和解への方策ではなく、ICM、すなわちヴェトナム軍撤退から選挙実施までをどのように国際的に監視・保障していくかという問題(67)とポル = ポト派の処遇のそれに移行しつつあった。こうして論調は、ICMに国連の機関を用いること (UNプレゼンス)を主張するASEAN諸国(68) (及び中国、西側諸国)と包括的政治的解決の枠組みへのUNプレゼンスに否定的なヴェトナム(69) (及びラオス)との間で、自己の見解の妥当性の主張に終始した。
 ポル = ポト派の処遇をめぐっては、ヴェトナムやラオス (あるいはソ連)の「その復権を断固として認めず、復権阻止が国際的に保障されるべきである(70)」という主張は一様であったが、ASEAN諸国をはじめとした西側諸国の足並みは揃っていなかった。ポル = ポト派の復権反対の立場を表明したのは、アメリカ、フランス (EC)、日本、フィリピン、マレーシア、ブルネイといった国々であった。アメリカは、総会が開催される前にソ連との間で、(1)内戦の激化を回避する、(2)ポル = ポト派の復権を阻止する(71)、の二点で合意していた。マレーシアをはじめとするASEAN各国は、ポル = ポト派の復権に反対すると同時にヴェトナムの侵略も非難して(72)、両者に対する警戒心を強めていた。日本はポル = ポト派そのものに反対するのではなく、彼らが過去に行った「非人道的な政策(73)」の復活に反対を表明し、その批判のトーンは他の諸国に比べて若干弱めであった。
 逆にポル = ポト派を全面的に擁護したのは中国で、シアヌークを指導者とする四派連合政府の設立を主張し、その枠組みの中である派が排除されることにも、ある派が権力を独占することにも反対し、そうなった場合の内戦の可能性をも示唆した(74)。フィリピンやオーストラリアといった国々はより現実的で、特にフィリピン代表は、ポル = ポト派の復権には反対しながらも、「この問題はカンボジア人が選挙を通じて決めるべきである(75)」と述べ、また、オーストラリア代表も、「現実問題としてポル = ポト派を受け入れる方向でなければ政治的解決が達成されない(76)」との認識から、「彼らが武装解除に応じるのであれば復活を許されるべきである(77)」として長期的な視野に立つ必要性を訴えた。
 一方、シアヌークの指導力についての評価は年々高まってきており、ASEAN諸国をはじめ、中国、アメリカのみならずヴェトナムも含めて、彼が将来結成される四派連合政府の代表となることは衆目の一致するところであった(78)。

(1) United Nations, A/RES/34/22.
(2) United Nations, A/34/PV. 65. para. 38.
(3) United Nations, A/34/PV. 62. para. 9. マレーシア代表の発言より。
(4) 同時に同年二月の中国のヴェトナム侵攻も非難している。例えば、シンガポール代表の発言 (United Nations, A/34/PV. 62. para. 168)やインドネシア代表は「インドシナ情勢は中国の介入でより悪化している」という認識を表明している (United Nations, A/34/PV. 65. para. 136)。またアメリカも中国のヴェトナムへの報復を非難している (United Nations, A/34/PV. 64. para. 21)。
(5) United Nations, A/34/PV. 67. para. 141-149.
(6) インドシナ三国のもう一国、すなわち当事国であるカンボジアの代表権は、「カンボジア人民共和国」ではなく「民主カンプチア」にあったため、「カンボジア人民共和国」の代表は総会に出席できなかった。
(7) United Nations, A/34/542.
(8) United Nations, A/34/PV. 63. para. 133-135.
(9) ASEAN諸国にとって、全関係各派を会議に招聘することは、カンボジア人民共和国政府を承認することになるとして、絶対に認められることではなかった。
(10) United Nations, A/34/PV. 66. para. 133-136.
(11) しかし票決に際してインドは、ASEAN決議案に反対票を投じている。
(12) ヴェトナムの言う「中国の脅威」とは、中国がポル = ポト派を使ってヴェトナムを制圧しようとしている、というものである。ヴェトナムはこの「中国の脅威」がなくならない限りカンボジアから撤退できない、との強硬姿勢を堅持した。詳しくは、United Nations, A/35/PV. 36. para. 114. 及び 123.
(13) 詳しくは、United Nations, A/RES/35/6、及び United Nations, A/RES/36/5 を参照。
(14) United Nations, A/RES/35/6. para. 2.
(15) Haas-I, p. 186.
(16) 例えば、イギリス代表はその発言の中で、「三派連合の結成は包括的政治的解決に向けての重要なステップである」とこれへの支持を表明している (United Nations, A/37/PV. 9. p. 68.)。
(17) Chanda, op. cit., pp. 390-391.
(18) 土佐弘之「カンボジア紛争の解決過程と戦略的関係の変化 (一九八二ー一九九一)」『国際政治』第一〇三号 (一九九三年五月)日本国際政治学会、一四八頁。
(19) 例えば、タイ代表の発言 (United Nations, A/37/PV. 10. p. 87.)、民主カンプチア代表 (シアヌーク)の発言 (United Nations, A/37/PV. 11. p. 11.)など。
(20) このアイデアはラオス代表の説明によると、参加国をインドシナ三国、ASEAN五カ国、ビルマ、ソビエト、アメリカ、中国、フランス、イギリス、インドの十五カ国に限定してカンボジア問題を議論するために開催する、というものであった。(United Nations, A/37/PV. 15. p. 77)なお、この主張の裏には、「カンボジア人民共和国の参加が許されなかった国連主催のカンボジア国際会議は無効である」というヴェトナム側の見解がある。
(21) この点に関してラオス代表は、「東南アジアの平和と安定に寄与している国連を歓迎するが、その一方で国連はポル = ポト派の延命に積極的な役割も果たしている」と発言し、さらにカンボジア人民共和国政府の正統性を主張している (United Nations, A/37/PV. 15. pp. 78-81.)。
(22) United Nations, A/37/PV. 20. p. 42.
(23) ヴェトナムは中国のこの主張を、中国が自らの拡張主義を隠蔽するために用いたレトリックであると非難している。(United Nations, Ibid,.)
(24) この見解の背景には、七九年以前の段階でヴェトナムが民主カンプチアとの国境紛争の平和的解決を国連に持ち込んだ際に、国連が中国の拒否権にあって無力であったことがあった。詳しくは、和田、前掲論文、一一九ー一二〇頁、及び Haas-I, p. 26. を参照のこと。
(25) ラオスも八四年の総会での発言を拒否した。
(26) United Nations, A/39/PV. 43. para. 79.
(27) United Nations, A/39/PV. 40. para. 8.
(28) 特にインドネシアとマレーシアは、東西冷戦構造が未だ固定化している時期から、ヴェトナムとの交渉を始め独自の外交を展開していた。一九八〇年三月には、インドネシアのスハルト大統領とマレーシアのフセイン・オン首相が、マレーシアのクアンタンで会談し、東南アジア地域を平和ゾーンにするためにもヴェトナムを中ソの影響から開放しなければならないとし、ヴェトナムの利害も考慮した上でのカンボジア紛争の政治的解決を目指さなければならない旨の声明 (クアンタン原則)を出した。(土佐、前掲論文、一四五頁)
(29) United Nations, A/40/PV. 61. p. 48. これまでの経験から、「駐留部隊の単なる入れ換えにすぎないのではないか」と発言している。
(30) インドネシア代表の発言 (United Nations, A/40/PV. 61. p. 32.)。またマレーシア代表も、「カンボジア紛争の解決はカンボジアの全人民、全派によって満足されるものでなければならないし、さらにヴェトナムや近隣諸国の正当な主張に合致するものでなければならない」という認識がASEAN諸国の共通認識である、と発言している (United Nations, A/40/PV. 63. p. 59.)。
(31) 具体的には、三派連合政府とヴェトナム (カンボジア人民共和国政府の参加を認める)との交渉を提案したマレーシア代表の発言 (United Nations, A/40/PV. 63. p. 56.)、包括的政治的解決の枠組みにカンボジア人民共和国政府の参加を認めたシンガポール代表の発言 (United Nations, A/40/PV. 61. p. 52.)、ASEANが政治的解決のための交渉にカンボジア人民共和国政府の参加を認めたことを評価したアメリカ代表の発言 (United Nations, A/40/PV. 62. p. 36.)など。また、このカンボジア人民共和国政府を交渉プロセスから排除する方針は、八三年五月のリタウディン (インドネシア外相)=タク (ヴェトナム外相)合意に基づく「五+二方式」(カンボジア抜きのASEAN=インドシナ対話)にも表れている。なお、この提案そのものは、タイ、シンガポールの反対によって挫折した。
(32) シアヌークは八四年にフン = セン首相 (カンボジア人民共和国)と会談したいという意思を表明したが、中国によってその会談の実現は阻止された。(Micheal Haas, Cambodia, Pol Pot, and the United States. The Faustian Pact, (以下、Haas-II と略記)1991, Praeger, N. Y. p. 62.)
(33) United Nations, A/40/PV. 61. p. 51.
(34) Haas-II, p. 62.
(35) Ibid., p. 64. なお、アメリカの基本政策の一つである人道重視政策にもかかわらず、アメリカのNRCへの軍事援助は三派連合政府結成によって、そのほとんどがポル = ポト派の手に入るという結果となっていた。アメリカの反共産主義運動への支援という形でのNRCへの軍事援助は、ポル = ポト派への援助に反対する国民の世論に対する隠れみのであったと言える。この点に関して詳しくは、Haas-I. p. 84. を参照。
(36) United Nations, A/41/PV. p. 71. ただし、「このことがヴェトナムの行為を正当化することにはならない」とも発言して、ヴェトナムを牽制している。
(37) United Nations, A/40/PV. 62. p. 36.
(38) United Nations, Ibid.
(39) 中国は第一回から毎回カンボジア問題を議題にするように要求したが、ソ連は二国間の問題ではないと拒否し続けた。なお、中ソ関係の改善については、田中、前掲論文、一九七頁以下に詳しい。
(40) Haas-I, p. 161.
(41) 黒柳、前掲論文、三六頁。
(42) United Nations, A/41/298-S/18014. (17 Apr. 1986)
(43) 例えば、タイ代表は「この提案がASEAN諸国をはじめ、日本、中国といった多くの国々に支持されている」(United Nations, A/41/PV. 44. p. 53.)と述べ、中国代表もこの提案を「高く評価する」(United Nations, A/41/PV. 43. p. 76.)と表明している。
(44) このヴェトナムの提案拒否の理由はタイ代表の分析によると、(1)ポル = ポト派復権阻止が保証されていないこと、(2)カンボジア人民共和国政府の正統性の主張、(3)この問題はほっておいても自ずから解決に向かうだろうという認識、などが挙げられている。(United Nations, A/41/PV. 44. p. 54.)
(45) その内容は、(1)シアヌークを三派連合政府の代表として認め、交渉する準備があり、その交渉の場にポル = ポト派以外のグループ (あるいは個人)を歓迎する、(2)ヴェトナム軍の撤退と三派連合への援助、これらの外国領使用の停止とカンボジアへの内政干渉の停止は全てセットで行なわれるべきである、(3)ヴェトナム軍撤退後、外国の監視の下に普通選挙を実施する、(4)タイ・カンボジア国境交渉のための直接、または間接交渉を要求する、(5)カンボジアの二派、インドシナ諸国、ASEAN諸国、ソ連、中国、インド、フランス、アメリカ、イギリスなどが参加した、カンボジアの独立等を保証するための国際会議の開催、である。(United Nations, A/42/632-S/19188.)
(46) 排除されるべき「ポル = ポト派」の解釈をめぐりソ連から圧力がかかったと言われている。この間の経緯については、秋野豊、「ポスト・カンボジアの東南アジアとソ連」岡部達味編、前掲書、一七二頁に詳しい。
(47) 実際フランスはこの会談の開催地にパリを提供した。さらにヴェトナムが自軍の撤退を八九年九月末までに完了させると発表した後に、国際会議のホストになることを申し出た。なお、この間のフランスの動きについては、Haas-I, p. 179 を参照。
(48) 席上、フン = センはシアヌークに国家元首として権力の座に戻ることを要求している。
(49) 土佐、前掲論文、一四九頁。
(50) FEER, 9 June 1988.
(51) Haas-I, p. 122. なお、カンボジア紛争及び中越国境防衛の軍事費はヴェトナムの年間予算の四〇ー五〇%にのぼっていたと見られている。(田中、前掲論文、一九八頁)
(52) こうした撤退のタイムテーブルに関しては、中国からソ連に圧力がかかったと言われている。またソ連はさらに、中国とヴェトナムとの間に外交チャンネルを提供した。(Haas-I, p. 162.)また、田中氏は、「八八年五月、ヴェトナム軍の撤退計画が明らかになると、ASEANと西側諸国はポル = ポト派が武力で政権を奪回する可能性を心配し始め、政治的解決の動きが活発になった」と述べている。(田中、前掲論文、二〇三頁)
(53) 中国は、ヴェトナムの撤退声明を公式には見せ掛けであると非難してきたし、八八年の撤退の際も「古いレトリック」であると決め付けていたが、同年一一月に、李首相はヴェトナム軍の撤退が国際監視によって確認されれば、三派連合への武器援助を削減ないし中止してもよいと語り、態度を変化させていた。詳しくは、田中、前掲論文、一九八頁を参照。
(54) インドネシア代表の発言 (United Nations, A/42/PV. 37. p. 66.)、ヴェトナム代表の発言 (United Nations, A/42/PV. 37. p. 46.)なお、この年ヴェトナムは四年ぶりに総会に復帰した。
(55) United Nations, A/42/PV. 8. p. 48.
(56) 秋野、前掲論文、一七三頁に紹介されている『プラウダ』、『イズベスチア』一七.〇九.一九八七.付による。
(57) United Nations, A/42/PV. 38. p. 42.
(58) 秋野、前掲論文、一七三頁。
(59) United Nations, A/43/PV . 42. p. 48.
(60) United Nations, A/RES/43/19. なお、この第四点目のフレーズは、ポル = ポト派の復権阻止に言及した八五年の事務総長の年次報告のそれを採用したものであった。(United Nations, A/40/795. para. 13.)
(61) United Nations, A/43/PV . 44. p. 81. ヴェトナムにとっての最大の不満はポル = ポト派復権阻止への言及が不適当であったことにある。ヴェトナムは常にポル = ポト派の処遇に関して、各国に厳しい態度を要求してきている。
(62) United Nations, A/43/PV . 43. p. 49. 中国のポル = ポト派問題に対する見解はあくまでも「カンボジアの内政問題であってカンボジア人民が自由選挙を通じて決めるべきである」という姿勢で、国連監視下の自由選挙の実施を早くから訴えている。
(63) Haas-I, p. 86.
(64) United Nations, A/43/PV . 44. p. 42.
(65) 一九八三年三月にホーク労働党政権が誕生したオーストラリアは、米中及びASEAN強硬派のヴェトナム孤立化政策とは一線を画したヴェトナムとの対話路線に転じ、独自の動きを示した。一九八三年一〇月、オーストラリアはASEANの国連総会決議案の共同提案国から降り、外相演説内容からヴェトナムのカンボジア侵攻批判を落とすなど、ASEAN強硬派の路線と一線を画するようになった。(土佐、前掲論文、一五一頁)
(66) United Nations, A/44/PV . 57. p. 11. またオーストラリアは代表権問題にも言及し、空席もしくは (選挙までの期間)暫定機関にすることを主張している。(United Nations, A/44/PV . 57. p. 13.)
(67) 例えば、タイ代表は具体的なICMの任務として、撤退の検証・停戦の監視・外国からの武器供給停止の監視・選挙人登録のための人口調査・選挙の実施、を挙げている。(United Nations, A/44/PV . 57. p. 72.)
(68) 例えば、タイ代表の発言 (United Nations, A/44/PV . 57. p. 71.)なお、八八年八月にタイにチャチャイ政権が成立したことは、ASEANの政策において大きな転機となった。彼は「(インドシナを)戦場から市場へ」のスローガンを掲げて、カンボジア後をにらんで従来の強硬姿勢を捨て、ハノイ、プノンペンとの妥協に転じた。詳しくは、田中、前掲論文、二〇三頁を参照。
(69) ヴェトナムは、国連ではなくPCC内の枠組みを用いて和平を達成すべきである、と主張した。この主張の裏には、「JIM、シアヌーク・フン = セン会談、PCCや非同盟運動での枠組みを考慮に入れた決議を採択しない国連は、和平に向けて主要な役割は果たし得ない」との認識がある。(United Nations, A/44/PV . 56. p. 49.)ソ連は「ヴェトナム軍撤退の事実を認めない決議案は、国連が平和構築の分野でその役割を果たすことをさらに困難にするだけである」(United Nations, A/44/PV . 57. p. 41.)として決議案には反対しているが、同年五月にゴルバチョフが北京を訪問した際に、ハノイとプノンペンの政策に反して、移行期間中の国連の役割を認めている。
(70) ヴェトナム代表の発言 (United Nations, A/44/PV . 56. p. 46.)。ラオス代表はその発言の中で、「ヴェトナム軍撤退後、権力配分をかけてポル = ポト派が軍事行動を活発化させている」と指摘した。(United Nations, A/44/PV . 58. p. 53.)
(71) 米ソ外相共同声明 (United Nations, A/44/578. p. 7. 23 Sept. 1989.)
(72) マレーシア代表の発言 (United Nations, A/44/PV . 58. p. 72.)、ブルネイ代表の発言 (United Nations, A/44/PV . 56. p. 63)。
(73) United Nations, A/44/PV . 56. p. 54.
(74) United Nations, A/44/PV . 56. p. 69.
(75) United Nations, A/44/PV . 57. p. 49.
(76) United Nations, A/44/PV . 47. p. 12.
(77) United Nations, Ibid.
(78) 例えば、アメリカ代表は「カンボジア人民に恩恵をもたらすであろう (政治的)解決を発展させられる人物がシアヌークであることで一致している」と述べた。(United Nations, A/44/PV . 57. p. 62.)この発言の裏には「シアヌークをヘッドにした四派連合政府が “Best Policy" である」とのアメリカの信念があった。ブッシュ政権 (当時)がその"四派連合政府"オプションを捨て、"国連による暫定統治"オプションにシフトしたのは、下院でそのことが決議された九〇年二月以降のことであった。M・ハース氏によれば、八〇年代のアメリカのカンボジアに関する政策のベストシナリオは"四派連合政府"であり、"移行期間中の国連管理"はシナリオの九番目に位置づけられていたにすぎなかった。(Haas-II, pp. 55-56, Table 3. 2)

第三章 国連総会外での国連の活動
[一] 二つの国際会議
 続いて、以上のような総会の議論の流れに、直接・間接に影響を与えた国連の諸活動について見ていくことにしよう。
 カンボジア国際会議 (八一年)
 七九年に初めてカンボジア問題が議題に上がってから総会が最初にその外で行った活動が、「カンボジア国際会議 (International Conference on Kampuchea : ICK)」の開催であって、八一年七月のことであった。こうして、七九カ国(1)が参加して同会議は開催されたが、ヴェトナム、ラオス、ソ連、東欧諸国及びインドなどは参加をボイコットした(2)。
 会議では、まず、「カンプチアに関する宣言(3)」が採択された。この「宣言」の要旨は以下のとおりである。
 (1) 以下の点に関して交渉することを要求する。すなわち、
 (a) 全紛争当事者による停戦の合意、早急な平和維持軍/監視グループによる監視・検証下の外国軍の撤退、
 (b) 紛争当事者が自由選挙の開催を妨害しないことへの合意と自由選挙の結果を遵守する保障、
 (c) 外国軍の撤退にしたがって、選挙で選ばれた新政府成立までの法と秩序の維持と自由選挙開催の方法、
 (d) 国連監視下の自由選挙の実施、
(2) 安保理常任理事国、東南アジア諸国、他の関係諸国は以下のように考える。すなわち、
 (a) カンプチアの独立、主権、領土保全、非同盟、中立を尊重し、監視し、その国境を侵されざるものとして認める、
 (b) 内政不干渉の原則を繰り返し主張する、
 (c) カンプチアをいかなる軍事同盟にも加入させない、
 (d) カンプチアに外国軍を駐留させず、また軍事基地を設立させない、
 (e) カンプチアの内政に干渉するために他国の領域を使用しない、
 (f) カンプチアの安全保障の脅威とならない、
である。
 そして最終日 (七月一七日)には、ベルギー、日本、マレーシア、ネパール、ナイジェリア、ペルー、セネガル、スリランカ、スーダン、タイの十カ国で構成されるアド・ホック (Ad Hoc)特別委員会の設立を盛り込んだ決議(4)を採択した(5)。
 アド・ホック委員会とその活動
 この決議を基にして、同年七月に第一回のアド・ホック委員会 (サレ委員長:セネガル)が設置され、その後毎年設置されて、総会に年次報告の形でその活動の報告書を提出している。その年次報告によれば、八七年まで委員会の活動としては各国へ使節団を派遣する以外のことは取り立てて何も行なわれておらず、報告も総会での議論の焼き直しにすぎないものが多いと言える。
 しかしインドシナ三国の共同声明で、ヴェトナム軍撤退の意思が明らかとなった八五年以降、その活動も活発なものとなった。八六年の活動の総括(6)では、「交渉は関係各派間のバランスある協議を通じて行う」と交渉プロセスに言及し、さらに、三派連合政府による八項目提案に触れ、ヴェトナムにこれを検討することを要求した。また、その活動として八七年には、初めてアメリカに使節団を派遣し (四月)、アメリカ政府から国連の活動とASEAN諸国の努力に対する支持を取り付けた(7)。
 総会においても和平に向けての動きが俄然活発になった八八年からは使節団を派遣するだけではなく、各国で協議活動をも行うようになった。この年、委員会は北京 (六月)、バンコック (七月)、ウィーン (七月)でそれぞれ協議を行っている。例えば中国との協議においては(8)、(1)中国は解決模索の機が熟したと考え、早急かつ公正、合理的な政治的解決を望む。またそのためのあらゆる努力を支持する。その意味で、JIMの成功を歓迎する、(2)越軍の早期・完全撤退が解決の鍵であり、ヴェトナムはできるだけ早く撤退のタイムテーブルを提示すべきである、(3)いかなる派も排除または卓越しない四派連合政府をシアヌークのリーダーシップの下に設立すべきである、等が確認された。
 パリで「カンボジアに関するパリ会議」が開催された八九年には、パリ会議開催直前にパリに使節団を派遣し協議を行っており、その際、国際会議開催にあたってのパリのイニシアティブが表明された(9)。
 以上に見てきたのが、ICKとその下部組織であるアド・ホック委員会の活動である。ICKの枠組みそのものが、紛争の当事者であるヴェトナムが不参加であったため、その機能は初めから限界を持ったものであったと言える(10)。こうしたヴェトナム、プノンペン政権、ソ連の不参加というICKの欠陥の教訓を生かし、変わりつつあった当時の国際情勢をも踏まえて開催されたのが、八九年七ー八月のパリでの「カンボジアに関するパリ会議 (Paris Conference on Cambodia : PCC)」であった。
 カンボジアに関するパリ会議 (八九年)
 ヴェトナム軍の撤退完了を翌月に控えて開催されたPCCには、カンボジア内の四派と一九カ国(11)、それに国連事務総長を含めた国連の代表が出席した。この会議の開催自体は、ICKのように国連の枠組みを通じて提起されたものではなく、シアヌーク・フン = セン会談開催にあたって尽力したパリがイニシアティブを取り、それにASEAN内でヴェトナムとのパイプ役を任じてJIMの開催をリードしたジャカルタが呼応した形で、両国が共同議長国となったものであった。しかし国連の枠組み外とはいえ、会議には事務総長や安保理事会五常任理事国 (P5)も揃って参加し、国連の関与を広く内外に印象づけることとなった(12)。
 七月三〇日から開かれた同会議は、八月一日に外相レヴェル閣僚会議で国際監視機構設置など六項目の合意文書(13)を採択して、それによって設置された四つの作業委員会が、同月二六日に再び開催される閣僚会議での「和平協定」調印を目指して、それぞれ個別の問題を討議する運びとなった。設置された四つの作業委員会とは、I.停戦、外国の軍事援助停止などの監視を任務とし、将来の総選挙準備にあたる国際監視機構委員会 (共同議長国:カナダ、インド)、II.自由、民主、主権、中立の新たなカンボジアの国家形態を国際的に保証するカンボジア和平委員会 (同:マレーシア、ラオス)、III.戦後処理のための難民・経済復興委員会 (同:日本、オーストラリア)、IV.総選挙までの暫定政府の構成などを検討する特別委員会・民族和解委員会(14) (同:フランス、インドネシア)、であった。
 この合意を受けて高官レヴェルによる作業委員会の協議が開始された。国際監視機構委員会での主な争点は、(1)ICMの形態、(2)ICMの権限配分、(3)ICMの設置から総選挙実施までの期間の長さ、(4)停戦と外国からの軍事援助停止、であり、このうち最も紛糾したのは、ICMを国連の管轄下に置くか、それとも独立した機関にするのかという点であった。カンボジア和平保証委員会での争点は「ジェノサイド」という文言を明記するかどうかという点と中立カンボジアの保証であった。
 民族和解委員会での争点はもちろん暫定政府の構成の問題であったが、プノンペン政権の代表がポル = ポト派の根絶を主張したため、委員会は最初から暗礁に乗り上げてしまった。そこで、フランスが「四派が主要な政治決定を行い、プノンペン政府の現在の公務員がそれを施行する」という妥協案を提案したが、どの国からも賛同が得られなかった。次いで、シアヌークが妥協案を提起した。それは、シアヌークが民族連合政府の大統領になり、キュー = サムファン、ソン = サン、フン = センがそれぞれ副大統領になること、そしてこの暫定政府は国防・外交・情報・内務の四省のみを統括する、というものであった。シアヌーク案はポル = ポト派を含めるものであったため、結局議論は先へ進まなかった。そこで、プノンペン政府側は、新たに「シアヌーク派とプノンペン政府の代表からなる暫定政府」案を提示した。それによれば、シアヌークは民族和解政府の大統領となり、その政府は管理委員会・選挙委員会・軍事委員会・政治委員会の四つの委員会から構成される、とされていた。したがって、この案は他の二派に受け入れられるものではなかった。委員会での議論はこうして、三カ月間の二派からなる暫定評議会と一年間の四派連合政府とのどちらを選択するかという議論に集約された。この間、権力配分に関する妥協点を目指して、委員会では討議が続けられたが何ら具体的な進展は見られなかった(15)。
 こうした状況の中、パリ会議閉会の一週間前に会期中の妥協を目指して三つの新たな提案がなされた。一つはソン = サン派からのもので、「九項目の条件が達成されるまで選挙を遅らせる」というのがその骨子であった。その条件の一つとは「真の平和と安全の保障」のためのものであったが、ポル = ポト派が妨害できるものであった。したがってこの提案は、シアヌーク派の提案した四派連合政府案を骨抜きにするものであった。第二のものはフランスから提起された。これはフランスの第五共和制をモデルとしたもので、シアヌーク派とプノンペン政府の提案の要素を共に含んだ妥協案であった。具体的には、シアヌークが大統領として全政治機構を統括し、その下に他の三派を代表する副大統領を置き、政府は首相となるフン = センが統括する、というものであった。これを受けて、フン = センは若干の変更(16)を加えてフランス案に同意した。このフン = セン案は「建設的(17)」であったが、相互理解が得られなかった。最後にASEANがP5の代表と会合した後に妥協案を提示した。それは、シアヌークを長とする国家評議会を設置し、四つの主要閣僚は四派から任命される、というもので、要するに「非協力的なカンボジア各派間の協力を想定した(18)」提案であった。
 こうした各派間の対立のあおりもあって、設置が早くから決定されていた国際監視機構も、国連参加の是非をめぐって合意できず、設立に至らなかった。こうしてカンボジアでは、和平の枠組みを欠いたまま、同年九月末までにヴェトナム軍が撤退し、撤退の国際監視も不可能となったのであった。さらにまたこの結果を受けて、イギリス、中国、ソ連とアメリカ(19)の各外相が最終の閣僚会議 (八月二八日)に不参加という事態も生じた。
 以上に見てきたように、PCCでの議論は空転を重ね、何の実質的成果も生まぬままに予定の会期を終えることとなった。このPCCが失敗に終わった理由は様々考えられるが、デュマ仏外相が指摘したように、「天安門」(同年六月)以降の中国の保守化傾向やソ連の傍観主義的な態度、さらにアメリカの高姿勢などが挙げられよう。

(1) 参加国はアルファベット順に、アルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、バーレーン、バングラディシュ、ベルギー、ボリビア、ブラジル、ビルマ、ブランディ、カナダ、中央アフリカ共和国、チリ、中国、コロンビア、コスタリカ、民主カンプチア、デンマーク、エクアドル、エジプト、フィジー、フランス、ガンビア、西ドイツ、ギリシャ、グアテマラ、ホンデュラス、アイスランド、インドネシア、アイルランド、イスラエル、イタリア、日本、ケニア、クウェート、ルクセンブルク、マレーシア、モルディブ、マルタ、モーリタニア、モーリティウス、モロッコ、ネパール、オランダ、ニュージーランド、ニジェール、ナイジェリア、ノルウェー、オマーン、パキスタン、パナマ、パプアニューギニア、パラグアイ、ペルー、フィリピン、ポルトガル、カタール、セントルチア、サモア、サウジアラビア、セネガル、シエラレオーネ、シンガポール、ソマリア、スペイン、スリランカ、スーダン、スウェーデン、タイ、トーゴー、トルコ、アラブ首長国連邦、イギリス、アメリカ、ヴォルタ、ウルグアイ、ヴェネズエラ、ユーゴスラビア及びザイールの七九カ国。なおそのほかに、クメール人民民族解放戦線 (ソン = サン派)、カンボジアの独立、中立、平和及び協力のための民族連合戦線 (シアヌーク派)の二グループが会議への参加を許可 (投票権はなし)され、ボツワナ、ジプチ、フィンランド、ギネア、ホリーシー、リベリア、マリ、メキシコ、韓国、セントヴィンセント、スリナム、スイス、タンザニア、カメルーンがオブザーバーとして参加し、さらにECもオブザーバー参加を許可された。
(2) ヴェトナム、ラオス、ソ連といった国々の不参加の理由は「(カンボジアの正統政府たるカンボジア人民共和国政府が参加できなかった)ICKは内政干渉にあたる」(ラオス代表の発言、United Nations, A/36/PV. 38. para. 27.)といったものであったが、インドは、外部の大国が介入してくることに批判的で、非同盟運動の精神を受けて地域主義を主張しての不参加であった。(United Nations, A/36/PV. 39. para. 207-9.)また、M・ハース氏は、アメリカが参加しヴェトナム、ソ連が不参加であったこの国際会議の結果を、(1)ポル = ポト派復権への道を開くプランの協議、(2)ヴェトナム非難、であったと論評している。(Haas-II, p. 18.)
(3) United Nations, A/CONF. 109/5. ANNEX. I. “Declaration on Kampuchea."
(4) United Nations, Ibid,. ANNEX. II.
(5) ASEAN諸国は、国際監視下の選挙実施とそれに先立つカンボジア領内の全派の武装解除などの骨子からなる案を用意するが、中国との協調関係を戦略的に重要とする米国の強い圧力にあい、ポル = ポト派を含めた全派の武装解除を求めた事項についての修正、削除を強いられた。(Chanda, op. cit. p. 386-389.)
(6) United Nations, A/CONF. 109/ 11. para. 22-24.
(7) United Nations, A/CONF. 109/12. para. 9-11.
(8) United Nations, A/CONF. 109/13. para. 13-14.
(9) United Nations, A/CONF. 109/15. para. 12. その際、委員会はシアヌークから「自由選挙は四派連合政府結成後一年経過した後に行うべきである」との見解を表明された。なおこの年、それ以外にはブルネイ、バンコック、ウィーンでも協議が行われている。
(10) M・ハース氏は、「八〇年代、国連とICKは第二次的な役割しか果たさなかった (第一次的な役割を果たしたのは、東南アジア地域内におけるものであった)」と述べている。(Haas-I, p. 188.)
(11) 参加国の内訳は、ヴェトナム、ラオス、インドネシア、タイ、フィリピン、シンガポール、マレーシア、ブルネイ、アメリカ合衆国、ソ連、中国、フランス、イギリス、オーストラリア、カナダ、インド、日本、ジンバブエ、そしてユーゴスラビアであった。ジンバブエとユーゴスラビアは非同盟運動からの代表であった。なお、参加を巡る各国の動きは、Haas-I, p. 193. に詳しい。
(12) 実際同年の総会では、PCCへの事務総長の参加を評価する発言がフランス代表からなされている。(United Nations, A/44/PV. 57. p. 18.)
(13) 合意文書の骨子は以下のとおりである。すなわち、(a)カンボジアに対する外国の介入停止と非人道的政策の再来阻止及び外国からのカンボジア各派への軍事援助停止、(b)((1))停戦、外国の軍事援助停止などの監視を任務とし、将来の総選挙準備にあたる監視委員会((2))自由、民主、主権、中立の新たなカンボジアの国家形態を国際的に保証する保証委員会((3))戦後処理のための難民・復興委員会((4))総選挙までの暫定政府の構成などを検討する民族和解委員会ーの四委員会を設置する、(c)以上四委員会を統括する調査委員会を設置し、直ちに協議に入る、(d)各委員会の作業を助けるため、カンボジア現地へ調査団を派遣する。
(14) この民族和解委員会の設置に当たっては、ヴェトナムとプノンペン政権側が「外国の内政干渉を招く」と反対したが、土壇場でグエン = ゴ = タク・ヴェトナム外相が「長期的には内戦のない包括的な解決は必要であり、会議成功のため譲歩する」と妥協したいきさつがあった。
(15) 委員会の空転を見て、委員会の外では様々な交渉が見られた。こうした交渉については、Haas-I, pp. 202-203 に詳しい。
(16) フン = センが加えた変更とは、(1)シアヌークは国家元首となり国防・外交・司法を統括する、(2)暫定内閣はシアヌーク派とプノンペン政府の半数づつの大臣で構成される、(3)暫定統治機構はシアヌーク派とプノンペン政府の代表から構成され、憲法の起草、停戦の監視、選挙の実施などの委員会に補佐される、(4)総選挙はこの同意が実施されてから六カ月後に行なわれる、といったものであった。
(17) Haas-I, p. 204.
(18) Ibid., p. 205.
(19) 同会議において、アメリカは終始一貫して、高姿勢であった。Ibid., p, 204.

[二] 国連主導の政治的解決に向けての議論の推移
 では続いて、UNTACの設置・派遣がどのように決定されたのかを見ていこう。
 オーストラリア提案
 十余年にわたるカンボジア紛争に終止符を打つはずであったPCCは前項で触れたような結果に終わった。国連参加の是非をめぐって合意が得られず、設置されなかった国際監視機構に代わって、八九年一一月にオーストラリアのエヴァンス外務通商相によって「移行期間中の国連の役割」を規定したオーストラリア案が提起された(1)。これは、ナミビアをモデルとした(2)国連の「信託統治」案であった。このオーストラリア案は、国連の内外を問わず国連の役割を模索する議論へ一石を投じるものであった。
 国連の役割を巡る各国の思惑
 それまでの国連の役割を巡る解釈はおおまかに言えば、国連の積極的な役割を支持するASEAN諸国をはじめとした西側諸国と、国連の積極的な関与を排し少数の選ばれた国による国際監視委員会のような機関によるものを主張するプノンペン政府、ヴェトナムをはじめとした東側諸国とに二分できる。しかし、それまでプノンペン政府やヴェトナムの見解を支持してきたソ連が、八九年五月のゴルバチョフ訪中の際、移行期間中の国連の役割を認めたことで議論は大きく展開し、ついにはオーストラリア案を基礎にして、UNTACの設置を盛り込んだP5案が作成され、安保理事会で合意に達することとなった。ではここで、各国の国連の役割に対する見解がどのように推移してきたかについて見ておこう。
 当初から国連の役割に否定的であったヴェトナムは、PCCが開催される以前までは、国連の機関よる国際監視には反対の立場を表明していた。ところが、九〇年六月に東京で和平会談(3)が開催された後、中国がポル = ポト派への後ろ盾の姿勢をやめるのであれば国連の役割を認める、と態度を若干変化させた。同年一二月に、パリでSNCの非公式協議が開かれた際、タク外相は新聞に声明を発表して、P5案に原則的に合意する姿勢を打ち出した。が、その際、PCCを再開会してジェノサイド問題について討議することを留保条件とした。さらに、アメリカがヴェトナムとの国交正常化に同意すれば、P5案に署名するであろうとも言明して、カンボジア問題を対米関係正常化の取引材料に用いる戦略に出た。
 一方、中国は八〇年にすでに、「国連監視下の総選挙実施」という考えに同意する準備がある、との声明を発表しており、国連の役割に対しては、早くから比較的積極的な姿勢を打ち出していた。しかし、ヴェトナムが、国連の役割を支持することに対する条件として、ポル = ポト派への肩入れをやめるように要請した際 (九〇年六月)には、逆にヴェトナムに対して、SNCが四派で形成されるようにフン = センに圧力をかけることを希望し、P5案に対しては当初、ヴェトナム軍の撤退が国連によって検証されればこれに同意する、という姿勢を表明していた。また、P5案そのものは、中国の同意を取り付けるために、ポル = ポト派復権阻止について、「人権侵害の再現防止」という婉曲な表現でしか言及されなかったのが現実であった。
 カンボジア各派の対応はと言えば、まずプノンペン政権は、三派連合政府をカンボジア代表として承認している国連は不偏不党の機関ではなく、カンボジア問題に関与する資格を持たない、と主張し続けていた。したがって、国連の役割に対しては非常に否定的で、加えて、「アメリカに牛耳られた総会(4)」によってカンボジアが支配されることを非常に危惧していた。そうしたプノンペン政府の懸念を考慮して、八九年一〇月にカナダ (PCCの国際監視機構委員会の共同議長国)が、事務総長によって派遣され、彼だけに対して責任を負う形式のICMを提案した時、これを総会が統括しない組織であると評価し、そのような形態での国連の役割には歓迎の意を表明した。同年一一月にオーストラリア案が提起された後は、「移行期間中の国連の役割」という考えを受け入れる一方で、プノンペン政府の解体を拒否した。さらに、P5案に対しては、九〇年一一月、「パリ国際会議共同議長宛の覚書(5)」という書簡で統一見解を発表し、これを包括的政治的解決の枠組みとして高く評価しつつ、(1)カンボジアの主権を尊重する、(2)現政権は解体しない、(3)UNTACは必要最低限として、平和維持軍の性格を与えない、(4)移行期間は九カ月以下とする、(5)二政府平等の原則、(6)ジェノサイド防止措置を強化する、といった同案の根幹にかかわる批判を展開した。同年一二月のパリでのSNC非公式協議の折、フン = センは停戦と選挙の実施という国連の役割を含んでP5案を受け入れたが、その際、移行期間中の国内の安全保障とポル = ポト派復権阻止の保証の二点を要求した。つまり、「国連には、軍隊の武装解除や再編を強要するのではなく、監視して欲しい(6)」というのが、国連の役割に対するプノンペン政府の意向であった。
 シアヌークはオーストラリア案が提起された時、国連の平和維持軍には同意したが、プノンペン政権を解体せずに、それを「改造し、編成し直す(7)」ことを主張した。しかし、このオーストラリア案が国連内において次第に支持を集めるようになると、態度を変化させ、「一年間の"国連統治"と最大十年間にわたる平和維持軍のカンボジア領内の駐留を歓迎する(8)」と表明した。
 ポル = ポト派は、八九年一一月にタイのチャチャイ首相が提案したICMの任務ーーすなわち、停戦↓越軍撤退の検証↓自由選挙の実施ーー案を拒否し、オーストラリア案に肯定的な姿勢を見せたが、選挙前 (SNC設置同意後はSNC内)の権力配分に対しては、自らの取り分をめぐって強硬にこれに抵抗した。また、ソン = サン派は国連の役割を最大限に歓迎し、積極的に評価していた。
 米ソ両国は共に、PCC開催までは特に和平プロセスには介入していなかった。八五年以降、それまでASEANのイニシアティブを支持してきた米国はその戦略を若干変更し、NCRへの支持を強化し、シアヌークを新政府の長とする方針を打ち出していた。八六年になって、中国ー国連の和平プランを支持したが、ASEANの提起した四派連合政府案には、プノンペン政権の認知につながる、として反対した。八八年に誕生したブッシュ政権以降も、国連の組織による和平の達成と総選挙の実施を支持する見解に変化はなかったが、次第にASEANの戦略にしたがって四派連合政府案を受け入れるようになっていった。しかし、九〇年になって、下院において、ブッシュ政権に"四派連合政府"政策から"国連監視下の暫定統治機構"政策に、その戦略を変更させることを求める決議がなされ (二月)、これが最終的に米国の政策転換へとつながり、同年八月のP5提案の発議(9)へ、さらには合意へと進んだのであった。
 一方のソ連は、八八年九月のクラスノヤルスク演説において、ゴルバチョフ書記長が、カンボジア問題を国際協定によって解決することに協力することを表明していたが、武装解除は国連を代表していない機関によって行なわれるべきであるとして、ヴェトナム、プノンペン政府の見解を支持していた。ところが、前述のように、翌年のゴルバチョフ訪中 (5月)の際に、国連の介入への積極的な支持へとその政策を転換させた。このことはまた同時に、中ソ関係正常化に伴うソ越関係の冷却化を意味するものであった。こうしてソ連は、P5内において、P5案推進の協力者となったのであった。
 最後にASEAN諸国のそれであるが、紛争の最初からASEANは紛争の国際化を図り、国連において対越非難決議が採択され、また国連の議席をカンボジア人民共和国政府ではなく、民主カンプチアが維持するように積極的にロビー活動を行ったのであった。しかし、ASEANが最初に政治的解決の方策として推進したのは"四派連合政府案"であった。国連の役割については、PCC開催までは、「それがいかなるものであっても、プノンペン政府の既成事実化となる」という否定的な見解と、「域内への大国の介入を排して"代理戦争"を終結させる方が得策である」という肯定的な見解とに分かれていた(10)。しかし、PCC開催後は「移行期間中の国連の役割」を認め、これを支持するようになり、オーストラリア案が提案された後には、タイのチャチャイ首相が中国にこれを受け入れるように働きかけている。
 この一見中立性を装った国連主導の台頭の裏では、米国等によるポル = ポト派排除政策、そしてフン = セン・シアヌーク連合によるポル = ポト派排除という現実政治の駆け引きが展開していたのであった(11)。
 UNTAC設置の決定:P5提案
 UNTACによる停戦監視と外国軍の撤退検証を包括的枠組みとすることに合意がなされたのは、九〇年八月の安保理常任理事国の協議においてであった。九〇年に入るまで、P5はカンボジア問題には深くコミットしてこなかったが、この態度は八九年のPCCで具体的な成果が得られなかったことを受けて変化する。
 P5での協議は、非公式の形で九〇年一月からパリで始まった。パリでの第一回の次官級非公式協議において、「国連の役割」について、オーストラリア案が満場一致で承認された。中国がそれまでの態度を軟化させてこれを受け入れたのは、「天安門」以後、冷却する一方であった西側との関係改善を望んだためであった。翌月のマルタでの米ソ首脳会談の席で、カンボジア問題を解決するためにP5が積極的にその役割を果たすことが決定された。こうして、P5はオーストラリア案を下敷きに、六回の協議を経て、同年八月、五章三六項目からなる「国連安保理事国の五常任理事国のカンボジアに関する声明(12)」(いわゆる「P5提案」)を発表した。この合意では、(1)SNCの早期設置(13)、(2)国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)による停戦監視と外国軍撤退検証、の二点がカンボジア問題解決のための包括的枠組みとされた。
 P5での合意を受けて、まず同年九月九、一〇日の両日に開催されたJIMIIで、当事者四派が、(1)国連の役割強化を前提とするP5和平提案の原則的受諾、(2)SNCの性格規定、(3)三派連合とプノンペン政府それぞれ六人からなるSNC名簿、などの六項目の合意(14)に達し、共同声明に調印した。続いて、このJIMでの合意を受けて九月二〇日に開催された安保理事会において、安保理決議(15)が採択された。その骨子は以下の通りである。すなわち、(1)四派の「和平の枠組み受け入れ」声明を歓迎する、(2)SNCは総選挙までの最高権力機関であり、国連議席を保有する(16)、(3)速やかにSNC議長の選出を求める、(4)和平のためのパリ国際会議の早期開催を求める、である。さらに、同年一〇月に総会でもこの安保理決議が採択された(17)。
 カンボジア内での動き
 翌九一年に入って、カンボジア国内でもいくつかの動きが見られた。まず、四月には国連事務総長からの停戦の呼びかけを受けて、カンボジア四派が、同年五月一日からの自主停戦を受諾した。六月には、タイ・パタヤでSNC第一回正式会議(18)を開催し、国内の無期限停戦、外国からの武器援助停止、プノンペンのSNC本拠地設置などで合意した。このSNCパタヤ会議の成果は、PCC、P5提案など、全て外国主導で進められてきた和平に対して、カンボジア人の民族の誇りが導きだしたものであったと言える。七月に北京で行われたSNC非公式協議には、フン = セン首相も出席し、シアヌーク殿下をSNCの議長に選出することで合意がなされた。フン = セン首相の出席は、これまで一貫してポル = ポト派を支援してきた中国のカンボジア政策の大きな方向変換を意味しており、中国がプノンペン政権を「事実上」認知したことを示唆するものであった。そして、八月に再度パタヤで開催された第二回SNC正式会議の席上では、四派の兵力を七〇%解体するというフランスの提案(19)に合意した。
 パリ協定の調印
 安保理決議を受けて、同年一〇月にパリでPCCが再び開催された。最終日には、シアヌークSNC議長とPCC加盟の一八カ国の外相が、UNTACの設置を盛り込んだ「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定(20)」(いわゆる「パリ協定」)など四つの和平文書(21)に調印した。このパリ協定の骨子は以下の通りである。すなわち、
 (1) SNCを新政権樹立までの唯一の合法権力とする、
 (2) シアヌークSNC議長が最終決定できないときは、決定権を国連事務総長特別代表 (後に明石康氏に決定)に委譲する、
 (3) 移行期間中の外交、国防、財政、政治、情報の全行政機関は国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)が直接管理する、
 (4) 停戦は二段階で実施し、各派はまず軍隊を七〇%解体、UNTACが監視・検証する、
 (5) 総選挙は、州単位の比例代表制で行う。議会は選挙後三カ月以内に憲法を採択、憲法に基づき新政府を樹立する、
 (6) 憲法は主権、独立、永世中立を宣言し、複数政党制に基づく「自由民主主義国家」と規定する、
である。
 これによりカンボジアは九三年前半に予定する総選挙と新政権樹立までの間、国連の管理下に入ることとなった。カンボジアは一三年に及ぶ内戦に終止符を打って、国連主導で再建をめざす道を選択したのであった。

(1) エヴァンス外務通商相は、八九年一〇月、ワシントンへ飛び、カンボジア和平への積極的関与をアメリカに呼びかける一方、ニューヨークでのソラーズ米下院議員との会談から国連暫定政府を核にしたオーストラリア案を練り上げていった。(土佐、前掲論文、p. 158.)
(2) 南アフリカ共和国の植民地であったナミビアは、八八年の国連総会決議によって、その独立から総選挙実施の移行期間を国連が信託統治することが決定されていた。総会決議を受けて、独立と公正な総選挙実施を保証するために、八九年四月に国連ナミビア独立支援グループ (UNTAG)がPKO (国連平和維持活動)として派遣され、総選挙を実施し、新しいナミビア政府が樹立された翌九〇年三月に、その任務を終了して解散した。また、国連が総選挙の実施を監視するモデルとしては、ナミビアのほかにニカラグアと東欧のそれがあったが、大半の国がナミビア型を支持した。(Haas-I, p. 219, 276.)
(3) 「経済大国」だけでなく、「政治大国」をも目指す日本が、アジアの一員として、冷戦終結後の国際秩序に貢献する政策の第一歩とし選んだのが、この「カンボジア問題」であった。この日本のモチーフを基にして開催されたのが、九〇年六月の「カンボジア和平に関する東京会議」であった。ポル = ポト派抜きのまま、フン = セン、シアヌークがSNCの早期成立を盛り込んだ共同声明に調印して、ポル = ポト派の孤立が鮮明化した。
(4) Haas-I, p. 233.
(5) 「カンボジアに関するパリ国際会議共同議長宛インドシナ三国の覚書」(一九九〇年一一月七日)(『世界政治ー論評と資料』一九九〇年一二月上旬号)
(6) Haas-I, p. 295.
(7) Nayan Chanda & Tai Cheung “China Seeks ASEAN Support for Spratly Plan : Reef Knots" FEER, 30. 08. 90. p. 11.
(8) Haas-I, p. 228.
(9) 和田氏によれば、「プノンペン政権を解体してシアヌーク政権に変えるという構想」はアメリカにとってカンボジア戦略とも言うべきもであった。(和田、前掲書、一九八頁。)
 また、九一年四月一〇日の米下院外交委員会東アジア・太平洋問題小委員会で、ソロモン国務次官補は次のように発言している。
 「我々は、五常任理事国方式だけが公正で恒久的な解決の期待の持てる基盤であると考えるが、それには、全ての当事者の積極的な支援を要する。それは現在の軍事的紛争を戦場から投票箱に移すであろう。それは、カンボジア人民に自らの政府を選ぶ機械を与えるであろうし、シアヌーク殿下と非共産主義グループの将来の立候補者を通じて非共産主義の政治的代案を提供している。」
 「特に軍事勢力の管理、文民統治と選挙、人権の擁護という決定的な分野において、強化された国連の役割を含む、五常任理事国の解決プロセスの立案に、我々は積極的に参加してきた。我々の関与は、大きな成果を挙げている。解決文書・・・は、恒久的な解決のための実行可能な方式を提供し、戦闘を停止させるのに必要な軍事的安全の条件を作り、自由で公平な選挙に必要な、行政の安定と中立的な政治状況を作り出す。これらの要素の全ては・・・交渉のテーブルと選挙過程において非共産主義の代案を保持するという合衆国の政策の重要な目標に合致した解決に到達するうえで、唯一でないとしたら、最良の道である。」(三和義彦『米国のインドシナ外交:米国議会証言の分析ーーベトナム・カンボジア・ラオス環太平洋時代の援助の課題』日本貿易振興会、pp. 126. 128-9. 及び、『世界政治ー論評と資料』一九九一年七月上旬号。)
(10) Haas-I, p. 268.
(11) 土佐、前掲論文、一四五頁。
(12) United Nations, A/45/472-S/21689.
(13) SNCについては、九〇年二月のJIMIIにおいてその設置で合意が一度はなされたが、その構成をめぐって各派間で鋭い対立があり、同年六月の東京会談の席でも合意が得られず、設置に至っていなかった。
(14) United Nations, A/45/490-S/21732.
(15) United Nations, S/RES/668.
(16) SNCの国連議席保有に関しては、九月のJIMIIから一週間後にバンコクで開催されたSNC第一回会合が、議長選出をめぐって対立、決裂したため、四派はSNCを正式に発足させることができず、同年の総会でのカンボジアの代表権は事実上空席とされた。この時、シアヌークの議長就任を容認しつつ、プノンペン政府側のメンバーを一人追加して両派同数とすべきであるとするプノンペン政権と、十三番目のメンバーとしてのシアヌーク議長はジャカルタで合意済みであるとしてこれを認めないポル = ポト派とが対立し、両派間の調整は不可能であった。
(17) United Nations, A/RES/45/3.
(18) SNC設置の基礎となったアイデアは、八六年に三派連合政府側から提起された八項目提案での「四派連合政府」案であった。具体的にSNCとしてこの設置が合意されたのは、九〇年二月のJIMIIの席上であった。同年六月の「カンボジア和平に関する東京会談」では、フン = センとシアヌークがSNC早期成立を盛り込んだ共同声明に調印したが、ポル = ポト派は調印しなかった。同年八月のP5提案を受けて、同年九月九、一〇日に開催されたJIMIIにおいて、四派が初めてSNCの設置で具体的に合意に達したが、同月一九日に行なわれたSNC初会合は、議長選出で紛糾し、決裂した。その後、SNCはSNC内の権力配分と議長選出問題で紛糾し、正式に発足させることができない状態が続いた。翌九一年六月のジャカルタでのカンボジア和平会議 (インドネシア・フランスが主宰)で、「シアヌーク議長、フン = セン副議長」の線で、シアヌーク派・プノンペン政権・ソン = サン派の三派が同意したが、ポル = ポト派の賛同が得られず、会議は決裂した。この時点でのSNCの構成は、シアヌーク派二、ソン = サン派二、ポル = ポト派二の合計六人と、プノンペン政権側六の六対六となっていた (詳しい構成メンバーについては、『カンボジアに関するジャカルタ非公式協議の共同声明』United Nations, S/21732. 10 Sept. 1990, para. 4.を参照)。そのためシアヌーク議長が誕生すると、三派連合側が七人になるので、プノンペン政権側を一人増やし、構成を七対七とすることで、ポル = ポト派を除く三派間で合意されていた。このジャカルタでのカンボジア和平会議の失敗を受けて、同月二四日、シアヌークの提案により、タイのパタヤでカンボジア和平に関するSNCの会合が開催された。これが「正式」会議と呼ばれる所以は、この会議がSNCメンバー十二人だけの参加によるものであるためである。また、同会議は、シアヌーク殿下を議長に選出し、ここにおいてシアヌークがSNCを代表することとなった。この「シアヌーク議長」は、同年七月の北京でのSNC非公式協議の席で、四派間で確認された。その際、シアヌーク議長は十三人目のメンバーとされた。
  また、座礁した交渉を再び開始させた重要な要因として、湾岸危機が挙げられる。「各派がP5案を受諾し和平合意しなければ、世界からカンボジア問題は忘れ去られることになる」などと、フランスやインドネシアは、警告を発し紛争当事者に対して圧力をかけた。(FEER, 6 Dec. 1990. 3 Jan. 1991.)
(19) 「七〇%軍解体」はフランスが七月のSNC北京会議で提案、中越両国も同意していた。P5提案をまとめたアメリカは「軍の完全解体」と「国連の監督」を強く主張していたが、最終的にはこれに同調した。
(20) United Nations, A/46/608-S/23177. (30 Oct. 1991)
(21) ((1))国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)の休戦監視や、軍事力の解体、総選挙実施の和平手続きを盛り込んだ「包括的政治解決に関する協定」とその付属文書、((2))カンボジアの主権、独立、中立などに関する協定、((3))カンボジアの再建復興に関する宣言、((4))パリ国際会議の経過と人権重視を謳った国際会議最終文書、の四文書で、調印後直ちに発効した。また、パリ協定の調印国は、カンボジア、オーストラリア、ブルネイ、カナダ、中国、フランス、インド、インドネシア、日本、ラオス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ソ連、イギリス、アメリカ、ヴェトナム、ユーゴスラビアの十九カ国と国連事務総長である。

む  す  び

 八〇年代の総会でのカンボジア問題に関する議論の流れは以下のように整理することができよう。すなわち、総会では、当初のヴェトナム非難・撤退要求決議に始まり、三派連合政府の結成を契機としてASEANー中国ーアメリカ"政策"(三派連合政府の国連代表権の承認、問題の国際化)の支持が強固となった(1)。そして、それによってヴェトナムがそれまでの「カンボジア問題は存在し得ず」との態度を軟化させ、八五年の越軍撤退の意思表明を受けて、総会は紛争の政治的解決の道を模索し始めたが、大きな進展は見られなかった。が、しかし、八八年の越軍完全撤退声明によって、論調はようやく本格的な和平交渉へとシフトし、八九年のオーストラリア提案 (移行期間中の国連管理)を発端にして、政治的解決の枠組みに国連を活用する方向で議論がなされるようになったのであった。こうして、最終的には紛争解決のために国連を用いる結果となったのであった。
 しかし、現実問題として、UNTACは総選挙による新政権樹立までの移行期間中の外交、財政、治安、情報の行政機関を直接管理し、四派で形成するSNCよりもその地位が上位に置かれていたし、その長たる国連事務総長特別代表 (明石康氏)にはSNCで政策決定がなされなかった場合の最終決定権が与えられることとなった。このことは、プノンペン政権やヴェトナムなどから、「国連による主権侵害」ではないか、という批判が提起される所以となった。さらに、そもそもカンボジア問題の解決を先送りしてきた大国自身が、その包括的和平案を推進したことで、「民族自決権」を無視した大国の論理が罷り通った紛争解決案であったため、紛争当事者の見解が十分に反映されず、彼らによる協定違反の続発、ひいてはポル = ポト派の総選挙の不参加・妨害行為を導いたのではないかと言われているのも事実である。カンボジア紛争の解決過程を国連の介入 (あるいは、紛争初期に関していえば、不介入)という観点から検討した上で浮き彫りになった諸問題の一つは、国連と民族自決権との問題や国連と内政不干渉の原則といった、これまでは不文律と見做されていたが、新たな「世界秩序」の下でこれまでのように絶対視できなくなってきているといわれる問題(2)である。このことは、すなわち、今後新たに地域紛争が生じ、国連がその問題に介入していく際に、いかにして民族自決権や内政不干渉の原則を尊重しつつ、紛争を解決していくのか、という問題提起でもある。この問題を検討するには、実際のUNTAC活動の評価を行うことが必要であるが、このUNTAC活動の評価に関しては、別稿で改めて論ずることにしたい。

(1) ハース氏は、総会において多くの国々がこのASEANー中国ーアメリカの政策に賛同したのは、こういった諸国がアメリカの援助カットを恐れたからである、と分析している。(Haas-I, p. 187.)
(2) しかし、国連憲章は、その第一章で民族自決権の尊重と内政不干渉の原則を謳っていることを、想起されたい。