立命館法学  一九九六年五号(二四九号)




ポストモダンの製造物責任法


平中 貫一






は  じ  め  に

  消費者法のパラダイムが新古典的パラダイムから現代的パラダイムへ、さらに現代的パラダイムからポストモダン・パラダイムへとシフトしたという視点(1)からは、日本の製造物責任法の成立はやや奇妙である。無過失責任というまさに現代的パラダイムに属すべき法律がポストモダンのさなかに成立したからである。もちろん、パラダイム・シフトといっても、新古典的パラダイムや現代的パラダイムは現在でも基底的パラダイムでありつづけているので、日本で遅れていた法的インフラの整備のひとつと見れなくもない。また、日本は明治時代における西洋法継受の以前からポストモダン・パラダイムを基底的パラダイムとして原始的な形であれ有してきており、欧米のパラダイムシフトは日本では妥当しないとも考えられる(2)。しかし、典型的な形でパラダイムをシフトさせてきたアメリカと比較することで製造物責任法とポストモダンを対比してみたい。

一  製造物責任法とポストモダン


  無過失製造物責任という法現象は現代的パラダイムに属するものだが、日本では諸外国と異なり、ポストモダン・パラダイムの時代になってようやく導入をみた。それも国際的圧力に屈したとの印象が強い。日本での導入はなぜ遅れたのか。それを探るために、アメリカでなぜ早く導入されたかを明らかにすることが有益である。
  アメリカでは、一九六三年カリフォルニア州最高裁判決(グリーンマン事件)をきっかけに、六〇年代末までにかなりの州が厳格不法行為責任を判例法上採用した。背景としては、新製品の増加と消費者の権利・権利意識の高揚が大きかった。消費者は製品の安全性について製造者を信頼するしか道が無かったし、ケネディ教書、第二次不法行為リステイトメントの公表(一九六五年)、ネイダーの活躍などは消費者の権利の実定化に貢献した。日本にケネディやネイダーが生まれなかったと言ってしまえばそれまでだが、それ以外に以下のような理由が考えられる(3)
  a  陪審制度・・・アメリカの製造物責任訴訟はたいてい陪審制によって行われている。生涯的身体マヒの被害者が出廷し、証言する姿は陪審員に大きな影響を与える。特に、加害者が大企業や保険会社である場合、報償責任(deep pocket)や危険責任という無過失責任の根拠から考えても、被害者が有利になることは否定できない。また、裁判官自身も日本よりは政治的である。時代の要請をより応答的に受けとめることができる。
  b  成功報酬制度・・・アメリカの弁護士は弁護士費用について成功報酬で受任することが多い。敗訴すれば、一ドルも受け取らないが、勝訴の場合には、多いときには半額までも受け取ることができる。これが貧困な被害者の提訴を促しており、泣き寝入りを防ぐ反面、いいがかり的訴訟も増加させている。
  c  懲罰的損害賠償・・・加害者に故意・重過失が認められる場合、アメリカでは実損をはるかにこえる損害賠償が懲罰的に課せられることがある。一九七五年以降、一〇〇万ドルを超えるケースが増加しており、多い年で九〇件に達したときもある。被害者の被害ではなく、加害者の儲けを直視しないと、加害者の違法行為を抑止できないというのはそのとうりだが(被害が小額のときには、被害の買取りを可能にしてしまう)、結果的に訴訟を賭博的にし、保険料の高騰を招き、州立法による反動化をもたらした。
  d  医療保険制度の不備・・・メディケア、メディケイドなどの医療保険制度が不十分であり、特に貧困者にはまったく保険を受けられない者も存在する。ちょっとした被害でも、保険制度でなく不法行為制度を通じてしか救済が得られない。これに比べて、日本では医療保険が充実しており、欠陥製品事故の一部は確実に医療保険によって救済されている。また、労災や自動車事故についても、この指摘は当てはまる。
  e  欠陥商品の多さ・・・日本よりもアメリカの方が欠陥商品が多い。デミング賞に象徴される品質管理は日本で開花した。アメリカにおける日本車の多さがそれを物語っている。クランストンも欠陥商品がイギリスより多いと指摘している。
  以上がアメリカの先駆性の理由だが、裏返せば、ヨーロッパや日本の遅れもある程度理解できる。ヨーロッパでは一九八五年に無過失責任の採用を命じるEC指令が発表され、一九八七年にイギリス、一九九〇年にドイツと主だった国で無過失責任が立法化されている。立法後のデータは不足しているので、その影響は計りにくいが、今のところ立法前とあまり変わっていないようである。おそらく、その事実は日本にも当てはまるだろう。すなわち、無過失責任を立法化しなくても、すでに実質的な意味で無過失化が判例法および特別法上実定化されていたのであり、また日本で言えば、消費生活センターなどのADRがかなり有効に機能していたということである。その意味で、無過失責任立法が実現したとはいえ、それによって被害者の救済が飛躍的に前進するということもなければ、保険料が高騰し、零細な企業が保険を利用できないという事態も起こらないということなのである。

二  製造物責任法の批判的検討


1  製造物
  第二条は「製造又は加工された動産」を製造物と定義している。不動産の除外は明確であるが、それ以外に何を除外しようとしているのか曖昧である。不動産の除外は建築請負契約によって保護されるという理由からであろうが、注文者でない者の保護に欠けると思われる。建て売り住宅などは製造物に他ならず、含めてよいと考えられる。もちろん、住宅に組み込まれた部品については、それらの製造物責任が成立する。
  次に、電気はどうか。民法上、物とは有体物とされ、電気は含められていない(これに対し、刑法上は電気は財物とみなされている)。製造物責任法の解釈上、電気を含めることはありうる。EC指令は第二条で電気を製造物とみなしている。ただ、停電を電気の欠陥と判断すると、膨大な損害の発生が予見され、問題となる。もちろん、不可抗力による免責は想定できる。
  農水産物や狩猟品はどうか。欧州諸国は零細な事業者保護の観点からこれらを製造物から除外している。日本では、これらは製造加工の有無の判断で区別されることになる。立法者によると、加熱、味付け、粉挽き、搾汁は製造加工に入るが、切断、冷凍・冷蔵、乾燥などは入らないという。これによると、味付けノリは製造物に入るが焼きノリは入らないという奇妙なことになってしまう。焼ノリの製造者は名称が紛らわしいので、乾燥ノリに変更するのであろうか。これは余りにも形式的であると批判されている。
  血液製剤はどうか。エイズや肝炎など、輸血にさいして感染する病気が問題となっている。ウイルスの完全な除去が困難であるとして、製造物から血液製剤を除外せよとの要求が主として医学会からなされた。しかし、血液製剤も製造物であることに変わりはないことから、立法では製造物に含められている。とはいえ、開発危険の抗弁が認められたため、適切な警告表示さえなされていれば、製造者が免責される可能性は大きい。
  最後に、タバコはどうであろうか。アメリカではかなり強烈な警告表示がなされており、タバコは不可避的に安全でない製造物であるとして、危険があっても、欠陥ではないとされている(4)。日本では、タバコも当然に製造物であるが、警告表示が問題となろう。警告表示が間接的で緩やかであるため、警告欠陥とされる可能性がある。また、アメリカではタバコ会社は民間であるため、加害者の特定が困難であったが、日本では専売公社からJTと加害者の特定は容易である。いずれJTや厚生省の責任が認められるかもしれない。
2  製造者
  アメリカでは製造物責任は製造者に限られていないが、日本は製造者等に限定した。製造者に含められるのは、狭義の製造者のほかに輸入業者、製造者でないのに製造者と表示したか、誤認されるような表示をした者である。第二条三項三号はさらに実質的な製造者と認めることができる氏名等の表示をした者を挙げているが、これは二号の表示者の解釈で含めることが可能であろう。製造者の概念を実質化するのは望ましいが、それを細かく規定することは困難である。
  そもそも、消費者保護のためにはアメリカのように製造から小売りにいたるすべての関与者に責任が追及されるべきであるが、日本は欧州諸国と同様に製造者等に限定するという立場を取った。責任集中により、危険回避のインセンティヴが生じ、保険も重複がなく付けやすいからである。しかし、今日の製造物からは製造者の顔が見えてこないのが通常である。これをドイッチュは流通機構の匿名性と呼んでいる(5)。スス村のススさんが作ったお米ですと顔写真でも貼ってあれば、製造者は明らかだが、通常の製造物では製造者ははっきりしない。スス製薬の表示も本当かどうか疑わしい。消費者は店舗や表示等を信頼して購入するほかはないのだから、そのような信頼をここでは保護すべきなのである。だとすると、製造者等に限定する方法は消費者の信頼を裏切りかねない。もちろん、消費者の信頼はたいてい製造者等に向けられているから、実害は少ない。しかし、たとえばオウム病事件では、消費者の信頼は小売り商よりもスーパーに向けられていたのではないか。また、零細な製造者の製造加工した製造物を大規模小売り商が販売する場合には、消費者の信頼はほとんど小売り商に向けられている。農水産物を製造物から除外する意義はまさしくその零細性にあったのであり、逆に大企業性は責任主体にふさわしいと思われる。その意味では、責任主体は製造者等に限定せず、消費者の信頼・選択に委ねるべきであり、限定するとすれば、せめて欧州諸国のように供給者の補完的責任(製造者が不明の場合には、供給者(製造から小売りにいたるすべての者)が責任を負う)を肯定すべきである。現在、大規模小売り商は製造者保証に代えて独自の保証を付けるようになってきているが、そのような望ましい努力を法はディスカレッジすべきではない。
3  欠  陥
  製造物責任法において、欠陥とは、当該製造物の特性、その通常予見される使用形態、その製造業者等が当該製造物を引き渡した時期その他の当該製造物に係る事情を考慮して、当該製造物が通常有すべき安全性を欠いていることとされた。立法者が参考にしたとされるEC指令とは「当該製造物のプレゼンテーション」が当該製造物の特性に、「人が期待できる安全性」が「通常有すべき安全性」に置き換えられている。立法者はEC指令と何ら変わらないと説明しているが、疑問である。欠陥概念については、先進国であるアメリカにおいて判例法上の消費者期待基準と危険効用基準の争いやモデル法・連邦法案上の欠陥類型毎に区別された判断基準などが知られており、立法者もそれらを無視することができず、形式的にはEC指令をほぼ採用したが、解釈という形でその後の判例・学説に具体化を委ねたものと考えるべきである。だとすると、先の変更は重要な意味を持ってくるのであり、たとえば危険効用基準の採用、従って製造物責任法は設計欠陥や警告表示欠陥には適用されないとの解釈も成り立つ(6)。これはかなり極端で立法者の意図に反する解釈であると批判されるかもしれないが、実務上の解釈において採用されないとは言い切れない。
  欧州諸国でも、イギリスは「人が期待できる安全性」を「人々が一般に期待できる安全性」に置き換えている。これは前者の定義が消費者期待基準、それも被害者個人の主観的期待を含むかのように思われるのに対して、平均的消費者期待基準、さらには一般人期待基準であることをより明確にしたものと思われる。日本の「通常有すべき安全性」も、このような意図による置き換えであると解釈すべきであり、だとすると結局のところ、製造者も含めた社会一般の期待が基準となり、これは危険効用基準と何ら異ならないと思われる。製造物責任において無過失責任が妥当するのは製造欠陥や安全性の表示に限られ、設計欠陥と警告表示欠陥では人と物とのインターフェイスが不可欠である以上、欠陥を外形的・物理的欠陥に限り判断することは不可能なのであり、危険効用基準を介して製造者等と消費者、さらにはそれらと物とのインターフェイスを慎重に考慮しなければならない。結局、かかる作業は過失の判断に他ならないのである。
  これまで、欠陥については類型化が試みられてきた。製造物責任法はEC指令と同様に類型を取り込んでいない。しかし、欧州諸国でも類型化の意義は否定されておらず、解釈上の重要な課題となっているので、日本でも同様に解釈すべきであろう。まず、製造欠陥について無過失責任が妥当し、製造物責任法の対象であることは欧州諸国においても疑いがない。アメリカにおけるリーディング・ケースも製造欠陥が問題であった。どれだけ設計が優れていても、また今日製造工程がどれだけ機械化されていても、人が介在するかぎり、失敗は避けられない。品質管理にも限界がある。このため、ごく少数の製造欠陥が発生し、それをともなった製造物が出荷されることはありうる。このような場合、過失責任原則のもとでは人為的ミスが過失と評価されれば責任が肯定されるが、回避困難な失敗であると評価されれば責任は否定されてしまう。まさしく、この場面が無過失責任を採用すべき場面なのであり、製造欠陥に無過失責任を適用することは、あらゆる無過失責任の根拠・正当化に合致している。欠陥の証明も標準逸脱基準により容易である。これに対し、設計や警告の場合はどうであろうか。
  製造欠陥が製造者等のミス・失敗という領域に属するのに対して、設計欠陥・警告欠陥は製造者等の意図的な判断の領域に属する。同じ費用便益分析とか危険効用判断とかいった言葉を使用しても、ここでは製造者等が技術的専門家として行うそれと、法的なそれとは区別されるべきである。前者では合理的な判断が後者では不合理とされることがありうる。特に、被害の重大性というファクターは法的に最優先のファクターであり、それが重視される結果、経済合理性が無視されることはあってよい。何よりも、人の生命・身体・健康は尊重されるべきであり、その侵害が正当化されるのは同等の法益がその侵害によって救済される場合に限られるべきである。もちろん、欠陥の判断に被害の重大性が絶対的であると言っているのではない。今日、自動車は環境や人間に対して、地球的規模で重大な被害を与え続けているが、自動車の私的使用はこれまで禁止されたことがない。これは他のファクターとの比較考慮の結果なのである。自動車事故は深刻な社会問題であるとしても、大多数の模範的なドライバーにとって事故の蓋然性は低いといえる。高齢者や身体障害者のモビリティの保障、地方における公共交通の不足の代替などの社会的効用、代替手段の開発の遅れ(LPガス・電気自動車)、安全装備の費用なども関係する。
  このように、設計・警告欠陥の判断には、被害の重大性、事故の蓋然性、代替設計の可能性と費用(警告の可能性)、消費者の知識・経験、当事者の職業・専門性、回避可能性および予見可能性といったファクターの比較考慮が必要である(7)。この判断基準では、回避可能性と予見可能性という一見主観的な要素を取り入れている点が従来の提案と異なっているが、純然たる過失責任のそれとは異なり、いずれの証明も製造者等の負担であり、また他のファクター、とりわけ被害の重大性が優先考慮される結果、実際には形式化・客観化され、決定的な要素であるわけではない。あくまで、製造物責任を製造者等に対する客観的帰責の問題と理解する立場からの帰結に他ならない。欠陥は人と物のインターフェイスに生じており、物単独で判断することも、消費者の信頼だけから計ることも妥当ではない。
4  損  害
  製造物責任法は生命・身体・財産の侵害の結果生じた損害の賠償を目的としている(第三条)。損害が製造物自体にとどまる場合には、瑕疵担保責任など契約責任の追及で十分だと考えられたのである。そのため、そのような侵害がなく、精神的損害が生じた場合、たとえば製造物を使用していて「ひやっとした」、「ショックを受けた」などは、製造物責任法によって救済されないと解釈されている(立法者等)。そのような精神的損害は民法による救済で十分というのであろうか。
  この点を考えるのにドイツが参考となる。実は、ドイツでも精神的損害の賠償は製造物責任法によって否定されている。しかし、ドイツでは精神的損害の賠償はもともと例外的であり、契約責任ですら否定され、無過失責任立法では一般的に精神的損害の賠償を否定するという傾向にあった。このような伝統から、ドイツの製造物責任法は精神的損害の賠償を否定したのである。ところが、日本ではこのような伝統を欠き、生命・身体・財産の侵害なく生じた精神的損害だけをことさらに排除する意義に乏しい。ドイツでも、BGB自体に家畜以外の動物による加害について例外が定められていることから、伝統の意義が批判にさらされている。ゆえに、製造物責任法においても精神的損害の賠償は一般的に許容されていると解釈すべきである。
  欧米において精神的損害の賠償を否定ないし制限すべきだとの議論は主にその賠償額が過大になりすぎるという点を論拠としている。特に、アメリカでは懲罰的賠償と重なって議論されている。しかし、日本では精神的損害の賠償はむしろ低額に抑えられており、懲罰的賠償はその制度すら存在しないのだから、そのような心配は不要である。
5  開発危険の抗弁
  製造物責任法によれば、製造者等は引き渡し時の科学又は技術に関する知見によって当該製造物にその欠陥があることを認識できなかったことを証明すれば免責される。このような開発危険の抗弁を認めることは、一方で製造者等の新製品開発へのインセンティヴが促進されることになるが、他方で被害者の救済が阻まれることになる。そのため、開発危険の抗弁を製造物責任法上認めるか否かはほとんどの国で激しい議論を引き起こしたが、結果的には一部の国を除いてほとんどの国が抗弁として採用した。産業界と消費者サイドの争いに産業界が勝利した形となっているが、その実際の影響は未定である。たとえば、日本であるが、開発危険の抗弁が一番問題となる製造物である医薬品については、すでに基金法が存在し、一定の救済がはかられている。給付金を越える損害の賠償が開発危険の抗弁によって阻まれるにすぎない。また、問題となる科学・技術の水準は最高度のそれであり、当該産業界の慣行や悪習を追認するものではない。だとすると、実際には産業界が熱望したほどの効果は開発危険の抗弁から得られないものと推測される。むしろ、日本では加工概念から除外される製造物の方が問題が大きいといえる。医学会が血液製剤についてその除外を主張したように、一定範囲の製造物を製造物責任法の適用範囲外とすることの方が実質的なのである。
  さて、開発危険の抗弁は通常、設計・警告について問題となる。製造者等は設計段階で許容範囲の危険を計算し、その危険を回避できる設計を可能な限り行い、回避できない危険については適切な警告を付ける。また、出荷前に判明した新たな危険に対しては、設計変更による危険の除去や新たな警告による危険の回避をはかる。出荷後も、苦情処理などを通じて製品のモニタリングを行い、必要とあればリコールや新たな警告を付ける。このような品質管理はたいていの製造者等が現に実施しているものであり、できないなどと言う製造者等が存在するとは考えられない。結局、開発危険の抗弁は出荷前には認識できなかった危険が事故発生後に認識された場合、当該事故の被害については製造者等は責任を負わないというものなのである。しかし、過去の薬害の実例をみても、事故発生後に危険が認識可能となっても、その後かなりの期間、同種の事故が多発しているのが通常である。だとすると、大多数の事故被害は開発危険の抗弁によって免責されえないと考えられるから、なおさら最初のころの被害者だけを救済しないという理屈は不当である。製造者等が最善の努力を尽くすという前提が満たされる限り、実は開発危険の抗弁は不要なのである。新製品開発の犠牲となった不幸な被害者を救済するのは法の常道である。
6  除斥期間
  製造物責任法は除斥期間を一〇年に短縮した。通常の製造物の場合、その耐用年数は長くても一〇年未満であること、製造物に欠陥があればその欠陥は流通後比較的初期に発現すること(いわゆる初期不良である)、保険料の計算を容易にすること、製造者等の欠陥不存在の証明負担を軽減することなどがその理由である。たいていの耐久消費財について、一年の品質保証がなされており、その期間が品質管理の観点から正当視されており、またどれほど優れた製造物でも永遠に機能し得ない以上、耐用年数を標準に製造物責任の存続期間を制限することは合理的である。もちろん、経年劣化はそれ自体欠陥ではないから(たとえば、五年も走ればタイヤの溝はなくなる)、一〇年の期間制限をしなくても、たいていの場合、製造者等に不利となることはない。製造者等が現に行っている品質管理を徹底すれば、たいていの欠陥は比較的早期に発現するのだから、顧客リストに基づくなどして、そのような欠陥の警告やリコールを行うことは容易である。この意味で、一〇年への短縮は実際上たいした効果を持つわけではない。

三  ポストモダンの製造物責任法


  製造物責任法が施行されてはや一年半を経過した。ポストモダンの製造物責任法の特徴はどこにあるだろうか。まず、その規制緩和的性格を指摘できる。無過失責任の立法化がなぜ規制緩和なのか疑問に思われるだろうが、先にも述べたように無過失化の実際的意義は乏しかったのであり、むしろ規制緩和の時代に日本市場での日本企業の不当な優遇措置を一部撤廃するという意義が立法化の要因であったと考えれば理解しやすいかもしれない。実際に水面下では、これまで行政が行っていた安全基準の設定・監視などの手続きがすでに民間機関に委任されるという規制緩和が進んでいる。このような対応は無過失責任の立法化というハードでリーガリステイックな文脈からは理解困難であり、規制緩和の文脈においてはじめて理解可能となる。
  つぎに、ADRの重視が特徴的である。ポストモダン、特にソフトローでは、いたるところで裁判からADRへのシフトが行われているが、それらの多くは一部にせよ消費者の保護を目的としていたはずである。ところが、日本ではそれは規制緩和の文脈の中で行われている。そのため、これまで無料であった行政的苦情処理の有料化が叫ばれたり、相次いで設立された民間のPLセンターの苦情処理機能の強化が図られたりしている。このような姿勢はこれまで各地の消費生活センターが消費者の保護に果たしてきた役割を否定するものであり、納得できない。すでに各地の消費生活センターでは、行政改革時代の緊縮財政のなかで、これまでの役割を見失い、民間のPLセンターに安易に依存する傾向がみられるのは悲しいことである。民間のPLセンターでは、いくら中立委員が含まれているとしても、どうしてもその判断が業界寄りになることは避けられず、消費者からの苦情を愚かな消費者の思い違いや言いがかりとして処理することになりかねない。これまで消費生活センターはポストモダンの基底的パラダイムとして消費者支援を実現してきたのであり、その役割を自己否定すべきではない。
  このように日本の製造物責任法はポストモダンの否定的イメージを強調する結果となっている。無過失責任化の代償があまりに大きすぎるように思われる。もともと、無過失責任化の実質的意義はほとんどなかったのだから、その見返りに大幅な規制緩和を実施する現在の潮流は受け入れがたい。ポストモダンのより積極的なイメージもまた取り入れるべきである(8)。消費者の保護を前進させるどころか後退させるようなポストモダンは国民に対する詐欺行為である。運用の改善を強く望む。

(1)  このような視点はありふれたものだが、ブレーメンのライヒのプレ介入主義、介入主義、ポスト介入主義の区分を参考としている(Reich, Diverse Approaches to Consumer Protection Philosophy. in:King (ed.) Essays on Comparative Commercial and Consumer Law 245 (1992).)。ライヒの区分と内容的にはほとんど差がないのだが、わかりやすさの点でこのような用語を使用した。特に、なにがポストモダンであるかは論者により分かれるところであり、ここで詳細に論じるべきであるが、本稿の主題とは異なることから、むしろ曖昧にしておきたい。
(2)  これを明瞭に指摘するのは村上淳一である(ドイツ現代法の基層七〇頁(一九九〇年))。
(3)  以下については、拙稿「イギリスの生産物責任報告書」民商七八巻二号二三五頁以下参照。
(4)  ただし、昨年、連邦地裁レヴェルであるが、たばこ会社の責任を認めたケースが二件あり、またクリントンが選挙対策とはいえたばこを gateway drug と呼ぶなど、環境が変化してきた。
(5)  Deutsch, Unerlaubte Handlungen, Schadensersatz und Schmerzensgeld 141 (3. aufl., 1995).
(6)  積極的にではないが、北川・債権各論二九四頁(第二版、一九九五)。
(7)  詳しくは、拙稿「商品等の警告表示責任」長尾・中坊編・セミナー生活者と民法二二二頁(一九九五)。
(8)  法の応答性や順応性を高める提案がトイプナーやヴィートヘルターらによってなされてきているが、ここでは消費者法に関するものとして、Bourgoignie, Elements for a Theory of Consumer Law. in:King (ed.) Essays on Comparative Commercial and Consumer Law 277 (1992) を挙げるにとどめておく。