立命館法学  一九九六年五号(二四九号)




タイの国営企業と労使関係法


吉田 美喜夫






目    次




一  は  じ  め  に

〔イ〕工業化の初期段階では、国家が主導して産業の発展を図る場合がある。とくに開発途上国では、民間の資本力や経営能力の不足、政府の歳入目的などの理由から、鉄道、電気、電話、運輸、港湾、金融など基幹的な産業を中心に国家の手により様々な「国営企業(1)」が経営されてきた。
〔ロ〕国営企業のうち、産業基盤となる事業は、政府の経済発展計画と密接に関連することから、政治的にも重要であり、大量の資本や人材が投入されることになる。当然、経営規模も大きくなり、これが経済の牽引力となって、その国の経済全体に多大な影響を及ぼす。しかし、場合によっては、国営企業の経営陣が政治権力と癒着し、腐敗を招き、経営に歪みをもたらすこともある。また、経営体として見た場合、非効率的な経営に陥ることもある。そして、民間部門に力量がついてくると、かえって国営企業は経済活動の桎梏となる場合もあるし、財政負担が深刻化すると、「民営化」の必要が叫ばれることにもなる(2)
〔ハ〕以上の事情は、労働法との関係において重要な意味がある。なぜなら、国営企業は、労働法が規制対象とする労使関係の展開する初期の段階での場面を提供しただけでなく、多数の労働者が雇用されることによって、労使関係が展開する最大の場をも提供したからである。また、事業が公的性格を帯びるだけに、国家による労使関係への介入をめぐって、また、とくに労働争議や「民営化」問題では、国民経済と労働者の利益との緊張関係を生み出すことによって、その規制の在り方が問われることにもなるからである。
〔ニ〕以上のことは、本稿が対象とするタイについてもいうことができる。タイの国営企業は、民間と比較して規模の大きいものが多く、また多様な産業に及んでいる。その経営状態や、そこで展開される労使関係の在り方は、タイの政治、経済にとって大きな意味をもってきた。労働組合運動の分野でも、その中心勢力となり、政治的にも無視できない存在であった。実際、これまでのタイの労働法の形成と展開の中で、国営企業の労使関係の法規制問題は、一つの論点であった。そして、国営企業の労使関係の法規制が一九九一年のクーデターを契機に制定された「国営企業職員関係法(3)」(以下、本稿では「九一年法」という)によって民間企業から切断され、決定的に変化、後退することになった。すなわち、それまでは国営企業も一九七五年に制定された労使関係法(以下、本稿では「七五年法」という)の適用対象下に置かれていたが、今度は九一年法という別個の法律の適用を受けることになったのである。これはタイの労働法の歴史において、きわめて重要な変化であった。
〔ホ〕そこで、以下では、国営企業とその労使関係法がタイ労働法の特質を理解する上で重要な研究対象になるとの認識に立って、タイの国営企業における労使関係への法規制の展開過程とその内容を検討することにする。

(1)  この意味については、二で述べる。
(2)  木村陸男編『アジア諸国における民活政策の展開』(アジア経済研究所・一九九二年)五頁参照。
(3)  State Enterprises Staff Relations Act B. E. 2534.  条文は、Government Gazette Special issued Vol. 108, Part 69, dated 18 April 2534 を参照。


二  「国営企業」の意義

〔イ〕民間企業と区別して「公企業」(public enterprise )という場合、そこには様々な形態で運営されている経営体が含まれる。タイにおける「国営企業」を問題にするに当たっては、まず広義と狭義の二つの意味で理解されている「公企業」概念を検討し、そのことを通じて「国営企業」の意義を確認しておく必要がある。
〔ロ〕まず、広義の場合である。この場合には、王室や軍が資本参加している多数の企業が含まれることになる。しかし、この点を明らかにする公的資料もなく、その実態の把握は困難であるといわれている(1)。また、少なくとも労使関係法制との関係では、これらは一般の民間企業と同じに取り扱われるので、本稿の課題から見て、検討対象から除外してよい。
〔ハ〕次に、狭義の場合である。この場合は、直接・間接に政府の資本参加が五〇%を超える企業をいう。これが「国営企業」(state enterprise)の意味であって、一九五九年の予算編成法上の定義でもあり、予算編成書にも登場してくる。そして、後に述べるように、九一年法でも、この意味での国営企業が適用対象になっている。したがって、以下では、この意味での国営企業を主要な検討対象とする。
〔ニ〕右の意味での国営企業の分類の仕方は様々に可能である。たとえば、設立方法、目的・機能、所管省庁、業種などによる分類が考えられる。以下では、代表的な二つの分類方法について述べることにする。
  まず一つは、根拠法(2)を基準とする方法である。この場合、以下の四つに区別できる。すなわち、(1)一九五三年の国営企業法に基づく勅令により設立されるものであって、資本は全面的に政府が所有し、たとえばタイ高速道路・高速運輸公団や林業公団がこれにあたる。(2)特別法による場合であって、資本は全面的に政府が所有し、タイ石油公団やタイ港湾公社、タイ電話公団、タイ空港公団、タイ発電公団などがこれにあたる。(3)民商法典に基づいて有限責任会社として設立される場合であり、政府が五〇%を超える株式を所有し、タイ国際航空株式会社やタイ合板株式会社、クルン・タイ銀行(ただし、銀行法による)などがこれにあたる。最後は、(4)閣議決定に基づくものであって、法人ではないが、所管省庁の監督に服し、タイたばこ専売やタイ政府宝くじ事務所がこれにあたる(3)
  もう一つの方法は、国営企業の設立目的による分類である。この場合、ふつう以下の四つに区分される。(1)政府の特別の歳入の追求、(2)国家の安全保障上の目的に使用される生産物の取り扱い、(3)政府の特別の目的、または金融、天然資源の維持・利用、農業・商業の促進などの政策の遂行、(4)大規模で莫大な資本を必要とする水道、電気、通信などの公益事業の四つである(4)
〔ホ〕上述のように、本稿では狭義の公企業、すなわち国営企業での労使関係を対象とするが、労使関係に対する法規制との関係では、国営企業に限らず、広く民営の公益事業も問題となる。たしかに、公益事業の多くは国営企業の形態で経営されているが、それで止まらない。また、古い時代では、当該企業の所有形態が曖昧なものもある。したがって、以下では、公益事業、国営企業、広義の公企業も含めて言及する場合もある。

(1)  恒石隆雄『タイ工業化と国営企業』(バンコク日本人商工会議所・一九八九年)三頁参照。
(2)  各国営企業に関する事業法の翻訳として、やや古いが、『タイの公営企業関係法』(アジア経済研究所・一九六二年)がある。
(3)  Department of Labour, Labour Relations in the Public Sector of the Economy:Topical Issues in Labour Law:in”Third Asian Regional Congress of Labour Law and Social Security (ILO, 1985), p. 105.  以下、本論文は「労働局・前掲論文」と略す。なお、恒石・前掲書九頁では、この他、一九七二年のクーデター後の一九七二年革命評議会布告に基づくものを区別して加えているが、労働局・前掲論文の分類では(1)の中に含められている。
(4)  労働局・前掲論文一〇六頁参照。なお、恒石・前掲書八頁では、この他に「その他」を加え、五つに分類している。


三  タイの国営企業の歴史と現状

(1)  工業化の出発と国営企業
  ((1))  国営企業設立の背景
〔イ〕タイにおける近代化の出発点となったのは、絶対王政を打倒し、立憲君主制へと移行させた一九三二年の「立憲革命」である。これ以前には工業活動はほとんど存在せず、あっても零細な小屋工業でしかなかった。
〔ロ〕この段階で工業化を担ったのは国営企業であったが、その設立の背景は以下の通りである。
  第一は、立憲革命で権力を握った、旧支配層の下にあった下級官僚層には経済的基盤がなかったので、それを固めるために、経済ナショナリズムに立って華僑を弾圧しながら、かれらの資本や経営能力を利用するために国営企業が多数設立されたのである(1)。具体的には、一九三九年の工場法、一九四二年の工業省設置法などがその手段となった。これ以前も含め、第二次大戦前の国営企業の設立状況は、以下の通りである(2)。一九二三年一、一九三〇年一、一九三九年四、一九四〇年八、一九四一年一五、一九四二年三、一九四三年二、合計三四である。
  第二は、世界恐慌により米価が国際的に下落し、それによる農村での失業の増大と都市への人口の流入という失業問題の発生に対処するため、失業者の吸収先として工業化が促進され、その担い手として国営企業が設立されたのである。すなわち、当時、零細な経営である製粉や製材などは中国人によって経営されていたが、タイ人がその下で働くことを好まなかった(3)こともあって、労働力の吸収先としては、勢い国営企業に頼らざるを得なかったのである。当時の重要な製造業は、たばこ、蒸留酒、製革、製糖などであり、これが国営企業として経営されていた。
〔ハ〕もっとも、この時期の工業化の程度は低かった。一九三七年−一九三八年の調査によると、全労働力の一・八%に当たる一二九、九五四人が鉱・工業に従事していたに過ぎなかった(4)
  ((2))  国営企業での労働争議
  立憲革命後、政治状況の変化と世界恐慌の影響を反映して、ストライキが多発した。一九三六年には、国鉄労働者(5)が賃上げや経営陣の交代を要求してストライキを行った。このケースは仲裁で解決したが、政府は苦情の内容を調査するという妥協的姿勢を見せた(6)
(2)  戦後初期段階の国営企業の積極的推進政策
  ((1))  国営企業の積極的設立
  一九三八年に政権についたことのあるピブン・ソンクラームは、第二次大戦後、一九四八年四月六日のクーデターにより政権に復帰すると、経済ナショナリズムを掲げた政策を遂行し、多数の国営企業を設立した。その理由は、民間の資本や人材・技術不足の他、政権復帰に助勢した将軍に対する論功行賞の手段として国営企業を利用することにあった(7)。また、一九五三年の国営企業設立法により、議会の承認なしに大規模国営企業が設立できるようになったことがその条件であった(8)。そして、第二次大戦後から五〇年代にかけての国営企業の設立数は五九に上っている(9)
  ((2))  国営企業の状況
〔イ〕当時の国営企業の状況を示す数字が幾つかある。まず、一九五〇ー一九五一年における工業省の管轄下にあった主要な国営企業の労働者数は以下のとおりである。砂糖公社が工場数六、労働者数三、九六七人、蒸留酒製造所が工場数一六、労働者数二、九六六人、製紙工場が工場数二、労働者数五七八人、織物工場が工場数一、労働者数六五三人、なめし革工場が工場数一、労働者数三五人であり、総工場数二六、労働者数八、一九九人であった(10)
〔ロ〕次に、一九五五年段階では、主要な国営企業は砂糖工場、蒸留酒製造所、製紙工場、黄麻工場、屠殺・缶詰工場、織物工場、なめし革工場、カード製造工場、マッチ工場、たばこ工場などであった。このうち、蒸留酒製造所とたばこ工場は政府独占であった。これらの労働者総数は、一九五四年に二一二、五〇〇人であった。そして、一九五六年以前において、一般的には工場の規模は小さく、一工場あたりの平均労働者数は一〇〇人以上に達していなかったという状況の中で、例外は国営企業の工場だけであった(11)。ここに、当時の国営企業の位置の大きさが表現されている。
  ((3))  労働組合の状態
  戦後になって労働組合の設立が進展したが、その理由は、消費物資の生産が増大し、新しい工場で働く労働者が登場したこと、公益事業の多くの部分を政府が行うようになり、インフラの整備が始まり、労働者を増大させたこと、独立運動の指導者が帰還してきたことなどに求めることができる(12)。たとえば、一九四六年六月の国営鉄道でのストライキを契機に労働組合が結成され、一九四七年一月には、民間も公共部門も一本で全国組織(Central Labour Union=CLU)が結成され、二年後に世界労連に加盟するなどの発展があった(13)。さらに、後述する一九五六年労働法で労働組合の結成が法的に承認された後に結成された四つの労働組合も国営企業でのものであった。これらに示されるように、戦後の労働運動の出発点において国営企業労組が先導的役割を果たしたのである。
  ((4))  国営企業の「失敗」と政策転換
  国営企業は、たばこ、宝くじ、タイ銀行を除き、大幅な財政支出を必要とするなど経営状態は芳しくなく、政府にとって悩みの種となった(14)。そのため、国営企業による経済発展政策が疑問視されることになった。そして、五〇年代の終わりには、経済政策における民間部門へのシフトが明確化してきた。
  この判断の背景の一つに、国営企業を批判し、民間部門の強化を求める世界銀行のレポートがあった(15)。そして、サリット・タナラットが一九五八年にクーデターで政権をとった際、その口実の一つに、国営企業が設備過剰、汚職などで収益を上げていない点を指摘していたといわれる。こうして、このクーデター後の経済政策の基調は、アメリカによる軍事的・経済的援助の積極的容認と並んで、産業における拡大した政府の役割に反対し、外国資本の導入による民間主導の工業化の推進へと移行したのである(16)
(3)  民間重視への政策転換以降の国営企業
  ((1))  民間重視への政策転換
  工業化の転機となるのは一九五九年の投資委員会(BOI)の設立である。これが外国投資認可の窓口となり、外資による工業化が促進された。さらに一九六〇年には従来の産業奨励関係法令を一本化して産業投資奨励法が制定された。そして、この法律はアメリカの企業コンサルタント団の検討に付され、その結果として、いくつかの勧告が行われたが、その中に、国営企業の民間払下げが含まれていた。この勧告を受けて一九六二年に新産業投資奨励法が公布された(17)
  ((2))  国営企業の状況
  この段階以降、経済の中心は外資と民間企業に移ることになる。しかし、これによって国営企業が無くなったわけではなく、引き続いて重要な位置を占めていた。六〇年代と比較すれば、その数は減少傾向を示しているが、従業員数について見ると、寧ろ若干とも増加している。すなわち、一九七〇年では企業数七二、従業員数一二九、二八八人、一九七五年企業数七〇、従業員数一八〇、〇〇〇人、一九八〇年企業数七三、従業員数二二〇、五〇〇人、一九八五年企業数六九、従業員数二九四、一〇六人であった。内容的にみると、製造業部門の比重が低下し(一九五八年の四〇社から一九八五年の一六社へ)、石油・天然ガス、運輸・通信、電力・水道などのインフラ部門の比重が上昇している(一九八六年に総支出額の七〇%、収益の六八%を占める(18))。そして、国営企業の資産がGDPに占める割合は、一九七〇年に約三〇%であったものが、その後、年々上昇し、一旦一九八四年に三八%余りに低下したものの、一九八七年には六五%を超え、さらに国営企業の総支出額も中央政府の支出額より多いという状況であった(19)
  ((3))  八〇年代以降の民営化政策
  国営企業の民営化方針は、上述のように、すでに五〇年代末から開始され、七〇年代のはじめには経済計画(第三次社会・経済開発計画)の中に採り入れられたのであるが、そのとおりには実行されず、実際には七〇年代末から公共投資が増大し、そのかなりの部分を国営企業が担うことになった。すなわち、一九七九年の第二次石油危機の下で景気が下降局面に入り、民間投資が減少したのに対し、産業構造高度化(第二次輸入代替工業化)のための東部臨海開発などのため国営企業支出が増大したのである(20)。その財源を外国からの借り入れに依存した結果、対外債務問題が深刻化することになり、八〇年代には輸出指向型の軽工業振興策の実施と並んで、国営企業支出の大幅削減のため、民営化方針の強化が図られることになった。とくにインフラ整備関連プロジェクトでの国営企業の比重が高かったため、その民営化が課題となったのである。これを実行しようとする政府の姿勢は、景気が回復した一九八六年以降も変化していない。むしろ、経済成長にとって必要なインフラ部門に民間企業の参入を進める政策が採られている(21)。このような政策基調は、一九九一年のクーデターによっても変更されなかった(22)

(1)  滝川勉他『東南アジア現代史』(有斐閣・一九八二年)二一〇頁参照。
(2)  恒石・前掲書六四頁以下に、設立年毎の国営企業名一覧がある。
(3)  Phiraphol Tritasavit,”Labor Policy and Practices in Thailand;A Study of Government Policy on Labor Relations, 1932-1976 (New York University, 1978), pp. 16-17.
(4)  Ibid., pp. 16-17.
(5)  当時、国鉄はまだ政府の一部局として営業されており、一九五一年七月一日のタイ国有鉄道法により独立の機構となった。田村喜照編『タイの公企業』(アジア経済研究所・一九六三年)一〇七頁参照。
(6)  労働局・前掲論文一〇三頁、Medhi Dulyachinda, The Development of Labour Legislation in Thailand, International Labor Review, IX, November, 1949, p. 437. なお、タイの初期労働運動について、次の論文がある。Kanchada Poonpanich, The Beginning of Labor Movement in Thailand (1900-1930), ASIAN REVIEW 1988, p. 24ff.
(7)  Phiraphol, op. cit., p. 22.
(8)  滝川他・前掲書二〇三頁以下、Chira Hongladarom, The Structure of the Thai Economy and Its Implications for Industrial Relations in Thailand:in”Comparative Labor and Management:Japan and Thailand (Thammasat University Press, 1982), p. 66.
(9)  恒石・前掲書六五頁以下参照。
(10)  Phiraphol, op. cit., p. 36.
(11)  Ibid., pp. 23, 32.
(12)  Arnold Wehmho¨rner, Trade Unionism in Thailand-A New Dimension in a Modernising Society, Journal of Contemporary Asia, Vol. 13, No. 4, p. 482.
(13)  労働局・前掲論文一〇四頁参照。
(14)  Phiraphol, op. cit., p. 24.
(15)  滝川他・前掲書二一〇頁参照。
(16)  Phiraphol, op. cit., p. 25.  滝川他・前掲書一九八頁、二〇三頁参照。
(17)  滝川他・前掲書二一三頁参照。
(18)  河森正人「タイの公共部門と八〇年代の民営化政策」アジアトレンド一九八八年四号七四−七五頁参照。
(19)  恒石・前掲書一一頁の表および一二頁以下参照。
(20)  河森正人「クーデタ後の政治構造変化と経済政策のゆくえ」アジアトレンド一九九一年二号七頁参照。
(21)  以上について、河森・前掲「タイの公共部門と八〇年代の民営化政策」七四頁以下、恒石・前掲書一六頁以下参照。
(22)  一九九三年の国営企業数は六八、従業員数は三二一、六八二人である。ジェトロ・バンコク・センター『ビジネスガイド  タイ』(日本貿易振興会・一九九五年)二六頁参照。


四  国営企業の労使関係上の基本問題

(1)  タイの労働組合運動における国営企業労働組合の位置
〔イ〕主だった企業が国営企業である以上、労働組合がそこにおいて結成されることになったのも当然のことである(1)。国営企業の労働者は教育水準が平均より相対的に高く、労働条件も良いが、そのような条件のあるところでまず労働組合が登場するという経験をタイの場合も示している(2)。すなわち、前述のように、戦前から国営企業では労働組合運動があったが、戦後も真先に労働組合運動の中心的位置を占めた。とくに、一九五六年に初めて団結権が承認された(一九五六年労働法(LabourAct)による。以下、これを「五六年法」という)ものの、早くも一九五八年に禁止に逆転してしまった後、一九七二年に再び労働組合の結成が認められると、鉄道、電力の国営企業で労働組合が結成され、その後の一九七三年一〇月から一九七六年一〇月までの「民主化の時代」には、労働組合運動も高揚し、国営企業、民間企業で一〇〇を超える労働組合が結成された。そして、ストライキを禁止する法令を無視するという目的を達するため、あるいは労働条件の改善を求めて国営企業でストライキが実施された。たとえば、一九七三年の国有鉄道でのストライキ、電話公社での示威行動などがその例である。こうして一九七六年にはナショナル・センターとしてLCT(タイ労働会議)が結成され、最大で最強の労働組合となった(3)。その後、一九七六年、一九七七年のクーデターにより禁止されていた国営企業の労働組合は一九七八年に解禁されたが、ストライキは一九八一年まで禁止されていた。しかし、そのような状況の下でも、実際には、ストライキは実行されたし、国営企業の労働組合で協議団体が結成されるなどの展開があった(4)
  なお、LCTの結成後に結成されたその他のナショナル・センターでも国営企業労組が支配的地位を占めていた。たとえば、一九八四年六月時点では、TTUC(タイ労働組合会議)は国営企業中心だが民間も加入し、NFLUC(全国自由労働組合会議)は国営企業中心と特徴づけられる状況であった(5)
〔ロ〕このような国営企業の労働組合の位置からして、それらは政治的にも重要な意味をもつことになる。すなわち、政治と密接に関係し、たとえば歴史的には、軍部は政府批判の間接的手段として国営企業労組を利用してきた。したがって、一九九一年のクーデター後、権力を獲得した勢力が国営企業労組に対して厳しい姿勢を採ったのは、両者の関係が変容したからだと見られている(6)。また、一九八九年七月三日、タイ電気公団でストライキが発生した時、チャチャイ首相は軍隊・警察を全面警戒態勢に置くとともに、スト中の労働者が抗議行動に出ると、その解散命令も出した。しかし、それを無視したので、軍部がこれを口実にしてクーデターを起こし、民選政府を倒すおそれがあったが、デモ隊が解散したので、クーデターは起こらなかったという経験もある(7)
  このように、国営企業の労働組合は、政治権力の帰趨に関わる大きな政治的意味を有する運動を展開してきたのである。
〔ハ〕なお、国営企業労組の特徴として次の二点を指摘しておきたい。一つは、労働組合の組織率が高いことである。九一年法直前の状況を知る意味で一九八八年について見ると、組合数は民間も含め五五九組合であったが、国営企業の組合は一一八組合を占めていた。そして、組織率はタイ全体では必ずしも高くなく(一三%)、とくに民間では五%程度でしかないのに対して、国営企業の場合、六〇%程度の高い組織率であった(8)
  もう一つは、労働組合の併存が見られるのは、ほとんどが国営企業の場合であるということである。たとえば、一九八六年の場合、六七の国営企業のうち、二〇で併存していた。そして、国営企業全部で一〇五あった組合のうち、七四の組合が二〇の国営企業にあった。民間では三六五組合あったが、四企業で一〇組合があったに過ぎない。
  このように、国営企業で組合併存状態が甚だしかったのは、指導者間の方針の違いや経営側が別の協力的な組合を作らせることが原因であると考えられている。そして、組合併存の結果、経営側がいずれの組合とも交渉しなければならないことになるので、これを改めたいということが、長年にわたって国営企業の労使関係を民間と別の法規制の下に置こうとする試みが繰り返された一つの背景である(9)
(2)  国営企業労働者の賃金問題
  ((1))  相対的に良好な国営企業の賃金
〔イ〕国営企業労働者の賃金体系は公務員のそれに沿って作成されている(10)。しかし実際には、たとえば一九八一年四月当時の例であるが、国家公務員の給与の最低が一、〇八〇バーツ、最高が一五、二二五バーツであったのに対して、国営企業労働者は、最低一、三五〇バーツに生活手当て四〇〇バーツ、最高が一六、〇〇〇バーツないし三〇、〇〇〇バーツであった(11)。また、国営企業の給与は国家公務員と比べて五五%も高いとの指摘もある(12)。さらに、国営企業労働者は、社会保障法が制定(一九九〇年)される過程で、それに反対したが、それは、国営企業の場合、すでに無料で死亡や障害、老齢について財政的援助があるにもかかわらず、新制度になれば新たに保険料を納めなければならなくなるからであった(13)
〔ロ〕公務員と国営企業労働者との間でこのような労働条件上の格差が生じた理由の第一は、一九七一年に、国営企業は必要があれば新規採用者に対して、ほぼ同じ職位にある公務員の賃金の二〇%まで割増しできるという閣議決定が行われたことである(14)
  第二に、独占的利益を上げている国営企業ではボーナスが支給されたことである。一九八一年一二月二九日、政府は国営企業の従業員に対するボーナスの支給基準を定めたが、それによると、国営企業が上げた純利益の九%をボーナスとして配分するという内容であった(15)。しかし、業績の良い国営企業と、そうでない国営企業が生まれることになるのは当然であるから、右の取り扱いの結果、国営企業毎に賃金水準が違うという問題が生じ、これをどうするかが一つの問題となったのである(16)
  第三に、そして、これが最大の理由と考えられるのであるが、国営企業の労働者は労働組合を結成でき、交渉力があるのに対して、公務員はそれが否定されていることである。たとえば、一九九〇年六月、国営企業労働組合が政府に対して賃上げを要求したことについて、回答が低いのでゼネストも辞さずという態度をとり、部分的な職場放棄やストライキも行われ、チャチャイ首相が緊急事態宣言の草案を用意しつつ、「必要なら主要な国営企業に軍隊を導入する用意がある」と発言したが、結局、賃上げは実現し、抗議行動は中止されたという事実があった(17)
〔ハ〕なお、特殊な要因として次の点も重要である。すなわち、国営企業の民営化問題は、前述のように、かなり以前からの政策課題であったが、国営企業は軍関係者の天下り先でもあった。そこで、彼らはその利権を維持するために、良好な労働条件を保障することで、民営化阻止に労働組合をかりたてようとしたのである。つまり、良好な労働条件は労組対策としての面があったのである(18)
  ((2))  国営企業における労使交渉への政府の介入
〔イ〕以下に述べる一九七八年の閣議決定以前には、各国営企業で労使は自由に交渉し、労働条件を決定することができた(19)。このため、前述したように、各国営企業間で労働条件に違いが生じたのであるが、実は、この格差是正の要求を通じて労働条件の改善を実現するという成果を生み出すことにもなったのである。
  このような労働組合の動きに対処するため、内閣はいくつかの決定を行った。これは、政府が労使関係および労使紛争に対して実質的に関与している典型例であるといえる(20)
  まず、一九七八年八月二二日の閣議決定は、各国営企業が賃金を引き上げようとする場合、大蔵省の承認を求めなければならないというものである。また、一九八〇年七月八日の閣議決定も、国営企業の賃上げ額を交渉で自由に決めることを禁止した。ただし、この決定は、新賃金体系が一九八二年一月に実施されると同時に廃止されることになっていたが、一九八一年九月一五日、政府はこの決定をそのまま有効とする決定を下した(21)。すなわち、国営企業の経営陣が条件改善要求に譲歩することを禁止し、労働コストについては関係する省で決定され、政府による承認が必要となったのである。さらに、一九八二年一月一二日、上記一九八一年閣議決定の延長が決定された。そして、一九八二年から一九八八年末まで賃金は据え置かれたままであった。
〔ロ〕このように、国営企業の場合、労働協約の締結は可能であるが、経営陣はそれを実行する権限がないのである。その結果、組合によって協約違反を理由として労働裁判所に訴えられることになる。また、労働者側は平和的な手続きに訴えるかわり、協約を履行させるためにストライキに訴えることにもなる。
  たとえば、タイ港湾機構で次のような紛争が発生したことがある。すなわち、この機構の経営陣が前記の一九八一年九月一五日の閣議決定を守らずに労働組合との間で俸給の増額を協定し、機構理事会でも承認され、労働局にこの協約の登録が申請された。しかし、閣議決定があることから、機構の経営陣がそれを履行しないので組合が訴えを提起した。結局、最終的に最高裁判所は、たとえ七五年法どおりの手続きを経た協約でも機構は履行できないという判断を下した(22)
  また、組合が実力行動に走った例としては、電池公団(バッテリー社)の例がある。すなわち、一九八二年六月三日、同公団の労働者約一五〇人が賃上げ決定の遅延について大蔵省に対して抗議行動を行ったが、これは、同公団では賃上げを経営委員会が決定し、所管の国防省も承認して大蔵省に回したが、なかなか大蔵省が回答しないことに対するものであった(23)
〔ハ〕このように、国営企業の場合、経営陣には組合側に対して譲歩する完全な権限がないので、誤解を与えたり、力の対立につながるような回答を交渉の場で与えることができない(24)。そして、回答能力がないことは労働条件の問題に限らず、労使協議会の設置問題の場合も同様である(25)。このような制約は、団交権に対する大きな制約であるし、民間企業での労使関係にも一定の影響を及ぼす。すなわち、国営企業では、労働者が組織されているにもかかわらず、実際には、その交渉能力が規制されているので、勢い実力行使により解決が図られることになるが、このような現実は、民間企業の経営者側からすると、政府と一緒になって労使関係上の問題の解決に努めようとする意識が生じない原因になっているというわけである(26)
(3)  国営企業の民営化問題
  ((1))  民営化の背景
  国営企業の民営化方針が政府によって設定されたのは、前述のように五〇年代末のことである。この方針は、それ以後も一貫して維持されただけでなく、八〇年代以降、とくに一九八五年以降は、その強化が図られた(27)。それは、借款の最大の原因が国営企業の資金確保にあったことから、国営企業の民営化が財政赤字を解消するための最重要な課題となったためである。
  ((2))  民営化の「障害」
〔イ〕民営化の実現に対しては、以下のような「障害」があった。その第一は、労働組合の存在である(28)。民営化反対はナショナル・センターの運動スローガンとして一貫して掲げ続けられてきただけでなく、活発な反対運動も展開されてきた。たとえば、一九八五年当時、タイたばこ公社の民営化が組合の反対で実現しなかったが、これは、組合の反対が民営化の障害になった典型例であるといわれる(29)。また、一九九〇年七月当時、民営化法案が政府で立案され、多額の損失を抱えた国防省所有の保存食品機構が民間企業に売却されたのに対し、後述のように、力のある港湾労働組合からは、新設港の民間による運営に猛烈な反対が行われ、計画が進展しなかったという例もある(30)
  この港湾労組の例は、国営企業の民営化に対して組合が反対している例であるとともに、国営企業の行っている事業分野(新開発計画)に民間企業が参入することに対する組合からの反対の例でもある。すなわち、タイ港湾公社では、一九九〇年一月に、民間企業の荷役営業を認めるという方針に組合が反対し、ストライキも辞さない姿勢を採った。そして、実際、一月三〇日から二月二日にストライキを実施したが、陸軍総司令官が政府に方針を再考してもらうよう伝える約束をしたので終結したということがあった(31)
  このように国営企業の民営化に対する労働組合の抵抗がストライキという形で行われ、とくにチャチャイ政権下で公益事業でのストが続発した。そして、チャチャイ首相は一九九〇年三月一日、反対運動の高まりを前に、国営企業の民営化計画を一時延期し、労働者も参加した委員会で検討していく考えを表明した(32)。同様の事態は、その後も発生しており、タイ電話労組、郵便労組、電信労組の三大労組が、電信電話サービス分野の近代化(光ファイバー化など)に伴い、民間資金が入ることに反対している(33)
  しかし、他方で、このようなスト多発は、国民の反感を買うところとなり、後にも触れるように、一九九一年二月のクーデターによって国営企業労働組合を解体させる一つの原因になったのである(34)。つまり、この反感が民営化への反対勢力を弱体化させることに利用されたのである。
〔ロ〕第二の障害は、いわば国営企業の体質に基づく。すなわち、公益事業部門は、とくに軍部の主要な天下り先であるとともに利権の温床となってきた。このことを示す例は多いが、たとえばタイ国際航空の首脳陣の中には、様々な下請業務で儲けているものがいるといわれる(35)。そのため、前述のように、良好な給与と引き替えに労働組合を抱き込んで民営化に抵抗させているといわれる(36)。このような事情があったことから、国営企業の民営化という国家の基本政策を実行するため、一九九一年のクーデター後には、国営企業の多くのポストを軍から取り上げ、その障害を取り除こうとされたのである。すなわち、一九九二年六月に誕生したアナン政権は、軍の影響力を削減する措置として、軍が会長職を独占してきたタイ電話通信会社やタイ国際航空など、五〇以上の国営企業に対する軍の利権縮小を行ったのである(37)
〔ハ〕第三は、民営化が雇用問題の発生につながる点である。国営企業は過剰労働者を抱え、非能率ではある(38)が、それだけに民営化は失業問題を引き起こしかねないのである。たとえば、バンコク大衆輸送公社の規模縮小問題に際しては、七、〇〇〇台のバスのうち三、〇〇〇台を減らし、それを運転手に払下げ、個人によるバス所有を認めるというものであったが、買い取るだけの資金のない労働者は失業することになる(39)
(4)  国営企業労使関係の法規制問題
〔イ〕公務員の場合と違って、国営企業の労使関係は、後に詳しく見るように、一九九一年までは、基本的には民間の場合と同様の、ただし、ストライキの禁止を含んだ法規制を受けてきた。そして、このような規制の在り方について、労働組合からストライキの規制をはずせという要求(40)の他、現状以上に規制を強化すること、とくに民間から切断された法規制の下に置くことについては常に抵抗があった(41)
  このように組合が民間からの法規制上の切断を重視してきたのは、ストライキはその禁止にもかかわらず、実際には実行されてきただけでなく、それに対する当局の制裁も優位な力関係の下にはねかえしてきたこと、当局も、利権の維持のために協力を取り付ける意図から労働組合の要求に比較的柔軟に対応してきたという伝統があったからだと考えられる(42)
〔ロ〕しかし、前述のような国営企業の位置の大きさゆえに、クーデターに象徴される政治変動の度に、国営企業の労働組合は厳しい攻撃の対象とされてきた。たとえば、「民主化の時代」がクーデターによって終わらされた一九七六年一〇月には、とくに国営企業の労働組合だけ非合法化された(43)。その後も、国営企業の組合そのものを全面的に禁止しないまでも、七五年法の規定、すなわち、四条五号が政令で適用除外を定めることができる旨を定めていることを利用して、たとえばタイ空港公社は一九七九年、タイ銀行は一九八〇年に、閣議決定により組合結成が禁止された(44)。また、国営企業を七五年法の適用対象から除外し、別個の法規制の下に置こうとする試みとして、前述の一九七六年のクーデターの時の例(45)、一九八〇年一二月二日の閣議決定などがあった(46)
〔ハ〕このような経過に加え、国営企業の存在が、とくに深刻な財政危機やインフラを整備するという経済発展を第一に据えた国家の基本的な経済政策に影響を及ぼすような事態になると、一層厳しい規制が考慮されてくるのも当然である。国営企業の労働者数は九一年法制定直前の一九八七年で約二七万人であり、タイの総労働者数に占める割合は一%でしかない(47)が、そこでの労使関係の持つ意味は、この割合よりはるかに大きいのである。
〔ニ〕こうして、一九九一年のクーデターの際、次章(五)で見るように、ついに国営企業に関する労使関係法の決定的な変更が行われたのである。九一年法の制定は政治的にも大きな意味をもつ措置であるだけに、クーデターを契機に実行されるとともに、民営化路線推進のために必要な措置であるとの説明が与えられるとか(48)、国営企業のストライキに対する世論の批判的なムードも最大限に利用されたといえる(49)

(1)  国営企業における労働組合運動の歴史的概観について、「タイの公益企業労働組合」世界政治八三九号三五頁以下参照。
(2)  Wehmho¨rner, op. cit., p. 484.
(3)  この指導権は国営企業労組が握っていた。そして、登録組合の八〇%を組織していた。Bevars D. Mabry, The Thai Labor Movement, Asian Survey, Vol. 17, No. 10, p. 939. なお、一九七三年当時の国営企業での組合運動を分析したものとして、次の論文がある。Sungsidh Piriyarangsan, The Rise of Labor Movement in Thailand:An Analysis of Public Enterprise Workers, ASIAN REVIEW 1988, p. 54ff.
(4)  国営企業労組関連グループ(State Enterprise Relations Group)は当初八つの組合で結成されたが、その後二五組合に増大した。海外労働時報一五六号二二頁参照。
(5)  高木剛『タイ見たまま感じたまま』(日本労働協会・一九八五年)二二三頁参照。
(6)  河森・前掲「クーデタ後の政治構造変化と経済政策のゆくえ」九頁参照。
(7)  チャムロン・スィームアン『タイに民主主義を』(サイマル出版会・一九九三年)二七九頁参照。
(8)  井上詔三「経済の躍進と労使関係の現状」日本労働協会雑誌三五四号六四頁参照。ただし、内務省の統計では、全体の組織率は三・六%とされている。小森良夫「アジアにおける労働者階級の状態」経済一九九六年一二月号一〇五頁参照。
(9)  併存状況も含めて、以下の文献参照。Nongyao Reecharoen, The Problem of Union Recognition in Thailand, in:A Survey of the Current Situation in ASEAN (ILO, 1987), p. 99.
(10)  海外労働時報二一九号四頁参照。
(11)  海外労働時報五一号三六頁参照。
(12)  河森・前掲「タイの公共部門と八〇年代の民営化政策」七九頁参照。
(13)  海外労働時報一五四号一八頁参照。なお、国営企業職員の社会保障制度の内容については、久保清「タイの労働者に関する社会保障制度(上)」所報(バンコク日本人商工会議所)一九九三年三月号五〇頁参照。
(14)  海外労働時報五四号五頁参照。
(15)  海外労働時報五九号二一頁参照。
(16)  海外労働時報五四号五頁参照。
(17)  海外労働時報一六四号一九−二〇頁参照。
(18)  河森・前掲「タイの公共部門と八〇年代の民営化政策」七九頁、八二頁参照。
(19)  以下について、労働局・前掲論文一〇八頁以下参照。
(20)  Chuta Manusphaibool, Industrial Relations and Their Problem in Thailand, International Symposium on Environment and DevelopmentーIts Legal and Political Aspects (Nagoya University, 1992), p. 77.
(21)  海外労働時報六〇号一一頁、一四一号五四頁、一四四号三九頁参照。なお、Chuta, op. cit., p. 77 も参照。
(22)  Viyada Simasathien, The Administration and Enforcement of Collective Agreements in Thailand, in:A Survey of the Current Situation in ASEAN (ILO, 1987), pp. 77-78. なお、類似の紛争が多発している点について、海外労働時報一三六号四五頁参照。
(23)  Bangkok Post, June 4, 1982.
(24)  Wong Chantong, The Right to Strike and Lockout in Thailand, in:A Survey of the Current Situation in ASEAN (ILO, 1987), p. 119.
(25)  Nangyao, op. cit., p. 95.
(26)  Tanai Bunnag, The Labor Relations in the Point of View of Management at the Enterprise Level, in:Comparative Labor and Management:Japan and Thailand (Thammasat University Press, 1982), p. 123.  しかし、このような批判は、労使自治による労使関係上の問題を処理することの意味が十分に理解されていないことを表現しているといえよう。
(27)  海外労働時報一六六号七頁参照。なお、プレム内閣(一九八〇年三月成立)は、国営企業の民営化を図るため、一九八五年に国営企業を管轄する国営企業委員会の設置を決定した。恒石・前掲書一九頁参照。
(28)  恒石・前掲書五一頁参照。
(29)  河森・前掲「タイの公共部門と八〇年代の民営化政策」七九頁参照。その他、四大ナショナル・センターが民営化に一致して反対したことについて、海外労働時報一二七号四〇頁参照。
(30)  海外労働時報一六二号五頁参照。
(31)  海外労働時報一五九号一四頁、一六〇号二〇頁参照。
(32)  海外労働時報一六一号一六−一七頁参照。
(33)  海外労働時報一三二号四一頁以下、一七一号一八頁参照。
(34)  岡本邦宏『タイの労働問題』(日本貿易振興会・一九九五年)一〇五頁参照。
(35)  海外労働時報一五七号二一頁、プラサート・ヤムクリンフング『発展の岐路に立つタイ』(松薗裕子・鈴木規之訳)(国際書院・一九九五年)三四頁参照。
(36)  河森・前掲「タイの公共部門と八〇年代の民営化政策」八二頁参照。
(37)  チャムロン・前掲書二八六頁参照。
(38)  海外労働時報五四号四−五頁参照。
(39)  海外労働時報一五六号二〇頁参照。
(40)  たとえば、一九八九年二月のアジア・アメリカ自由労働協会主催のセミナーで公益事業、国営企業のストライキに関する七五年法二三、二四、二五条を廃棄することに対する組合の要求が決定された。海外労働時報一四七号八頁参照。
(41)  ナショナル・センターの対政府要求活動でこの点がテーマであったことについては、高木・前掲書二二八頁参照。また、一九八一年には、重要な国営企業を七五年法の適用対象から除外する法令の取消要求を国営企業労組の代表者の会議が決議した。海外労働時報四七号五頁参照。
(42)  なお、国営企業では、労働組合の承認に関する問題は大きくなかった点について、Nongyao, op. cit., p. 98 参照。
(43)  ただし、この措置は、組合からの抵抗で一九七七年のクーデター後、廃止された。『タイの日系企業における労使関係』(日本労働協会・一九八三年)二五頁参照。
(44)  タイ銀行の例について、海外労働時報四二号一一頁、四三号二二〜二三頁参照。
(45)  ただし、この試みは実現しなかった。労働局・前掲論文一〇五頁、Mabry, op. cit., p. 944.
(46)  ただし、組合の反対によって、そのような決定はなかったことが確認された。前掲「タイの公益企業労働組合」三八−三九頁参照。なお、国営企業労組を七五年法の適用対象外にしようとする試みは、その後も登場した。たとえば、一九八九年の例について、海外労働時報一四六号一二〜一四頁参照。
(47)  恒石・前掲書一二頁以下参照。
(48)  河森・前掲「クーデタ後の政治構造変化と経済政策のゆくえ」九頁参照。
(49)  岡本・前掲書一七七頁は、国営企業の労働組合を労使関係法から排除し、ストライキを禁止したことについてのマティション新聞とラムカムヘン大学政治学部との合同のアンケート調査の結果を紹介しているが、そこでは、市民の多くが右措置に賛成していることから、それがスト多発による市民の反感を基礎にして実施されたものであると評価している。


五  国営企業の労使関係に対する法規制

(1)  国営企業の労働者と団結権
〔イ〕タイにおける労働組合の結成は一八九七年の市街電車労働者協会の設立に始まるが、本格化するのは第二次大戦後のことである(1)。しかし、政府自身が国営企業の経営者であるという面を持っていたこと、中国系の人々が労働組合を政治目的に利用することを恐れたことから、第二次大戦直後の段階では労働組合の法的な承認は行われなかった。
〔ロ〕労働組合が法認されたのは、前述のように、五六年法が最初である。本法は、公務員以外の労働者に対して団結権、団交権、ストライキ権を承認した。ただし、国営企業の労働者は、団結権、団交権は保障されたが、ストライキ権までは認められなかった。すなわち、公共機関または勅令で定める「その他の事業」での労働争議は労働関係委員会の強制仲裁に付され、仲裁に異議のある場合も最終的には内務大臣の決定が最終的拘束力をもち、その決定に反してストライキに訴えることは禁止されていた(一二〇条)。そして、ここでいう「その他の事業」には、公共機関・金融機関・軍需品の生産、修理部門、乗物、輸送機関が含まれていた(2)ので、国営企業の事業内容に照らすと、国営企業でストライキを行うことはできなかったと解することができる。
〔ハ〕しかし、本法は、一九五八年のクーデターにより廃止され、組合結成は勿論のこと、ストライキ、ロックアウトも禁止された。ところが、実際には労使紛争が無くならなかったことから、その対策として一九六五年に労働争議調整法が制定された。ここでは、労働組合の設立自体は認められなかったものの、要求提出から交渉、調停、仲裁の手続きが定められ、場合によってはストライキも可能であった。ただし、公益事業、国営企業ではストライキが禁止されていた。
〔ニ〕その後、再び労働組合の結成が可能となるのは一九七二年の革命評議会布告一〇三号を受けた内務省令(3)(以下、これを「七二年法」という)によってである。しかし、本法は五六年法と同様に労働組合に対する介入的な規制を含むとともに、紛争処理手続きが煩雑であったので、法定の手続きを経ない違法ストが続発した。そこで、手続きを緩和する内務省令の改正が行われた後、本格的な労使関係法として、七五年法が制定されたのである。これにより、民間企業では、労働組合の結成はもとより、ストライキも認められた。ただし、国営企業では、ストライキは行うことができなかった。
〔ホ〕しかし、一九七六年にクーデターが起こり、一九八一年まで組合弾圧の時代に戻ってしまった。ただし、民間では組合の結成並びにストライキ以外の活動は可能であったが、国営企業の労働組合は非合法化されたままであった。国営企業での組合結成禁止が解かれるのは一九七七年のクーデターで成立したクリアンサック政権によってである。これ以後、組合活動は活発化するが、まだストライキは民間も含め禁止されていた。それにもかかわらず、ストライキは実行された。しかし、実際に禁止命令が発動されたのは一九八〇年のタバコ専売でのケースだけという状況であった。民間企業についてスト禁止が解禁されるのは一九八一年一月であり、以後、協調的な労働組合運動が順調な経済発展とともに進展した。
〔ヘ〕しかし、一九九一年二月にクーデターが起こり、組合活動は可能であったものの、ストライキは禁止され、紛争は強制調停に付されることになった。そして、国営企業については、七五年法の適用から除外し、特別の規制の下に置く九一年法が制定された。
(2)  七五年法と国営企業の労使関係
  ((1))  七五年法制定の背景と七五年法の特徴
〔イ〕七五年法は、現在、民間企業の労使関係を規律する基本法であるが、九一年法が制定される以前は、国営企業の労使関係もその規制下に置かれていた。ただし、七五年法四条は、中央行政機関、地方行政機関、地方自治体、バンコク都行政機関、その他政令で定められたものを適用除外としている。そして、前述のように、政令で定められた適用除外の例として、タイ空港公社とタイ銀行があった。
  以下では、七五年法と九一年法とを比較する前提として、七五年法の特徴について概観しておくことにする(4)
〔ロ〕ところで、七五年法は、タイ労働法の出発点と評しうる七二年法の経験の上に立って制定されたものである。すなわち、前述のように、七二年法では、とくにストライキの実行に至るまでの煩雑な手続きが導入されたため、かえって違法ストが頻発し、ちょうど時代が一九七三年の「学生革命」に象徴される「民主化の時代」を迎えたこともあって、組合運動が活発化した。その中心にあったのが国営企業の労働組合であった。この時期に制定されたのが七五年法であるが、この時代背景を反映して、たとえば七二年法では労働組合の全国組織の結成や国際組織への加盟ができなかったものを可能にするなど、団結権を前進させる内容を含み、実際、民間の組合については、組織化が前進した。
〔ハ〕しかし、七二年法の改正理由の一つが公益事業でのストライキの多発にあった(5)ことから、むしろストライキについての規制は手続きと対象の明確化を通じて強化されたといえる(6)。たとえば、七二年法では、公益事業(私立病院などを除けば、事実上、国営企業と重なる)でのストライキを禁止する明文規定があった(二一条)。しかし、それ以外の事業では、要求書の提出によって開始される交渉が不調に終わった場合、調停官の調停に付されることになっているのに、ストライキを禁止された事業では、交渉が不調に終わった場合、労働関係委員会に付託され、その決定が最終のものとされているだけである。これに対して、七五年法では、後述のように、国営企業でのストライキを明文で禁止するという形式ではなく、交渉が不調に終わった場合、労働関係委員会の強制調停に付し、それに不服な場合、最終的には内務大臣の裁定で決着が付けられるという手続きが定められた。もちろん、これは労働者の権利保障の存否という点から見ると、ストライキ権の否定には違いないのだが、その方法としてストライキ権の明文による直接的な否認ではなく、手続的な制約を通じて、実質的にストライキ権を否定する形式が採られたといえるのである。
  ((2))  ストライキの禁止
〔イ〕七五年法では、公益事業、国営企業または当該労働争議を内務大臣の命令により労働関係委員会に付託しなければならない事業所では、労使ともストライキ、ロックアウトの権利を有しない。すなわち、鉄道、港湾、電信・電話、エネルギーまたは電力の生産・販売、水道、石油の生産・精製、病院・医療施設、そして、「省令で定めるその他の事業」では、解決されない紛争が発生しても、ストライキに移行することができないのである。そして、「省令で定めるその他の事業」を定める一九七六年一〇月二〇日付の内務省令二号で、スト禁止の範囲が拡大され、すべての国営企業、私立の大学と学校、協同組合、陸・海・空の輸送と関連事業、観光事業、石油販売事業も、その中に包含された。
〔ロ〕ところで、国営企業で労働争議が発生した後の手続きは次のとおりである。すなわち、調停官が争議の解決に失敗した場合、当該争議は労働関係委員会に送付され、送付を受けた日から三〇日以内に裁定が下される。その裁定に両当事者が同意しない場合、七日以内に内務大臣に上告し、上告を受け取ってから一〇日以内に最終決定が下される。そして、これには両当事者は服さねばならないことになっている(二三条)。また、民間労組では、労働協約に違反があった場合、相手方はストライキ、ロックアウトをする権利が保障されている(7)が、国営企業の場合、この権利がないので、労働協約の実行を迫ることもできないことになる。
〔ハ〕以上のように、国営企業の場合、ストライキは結局のところ禁止されているが、実際には、過去において、賃金、福祉、経営方針、職務命令に関してストライキが行われた。そのいくつかは政府の国営企業に関する政策が原因であるといわれている。たとえば、一九八一−一九八五年に、一一の国営企業で二六のストライキがあり、とくに一九八三年は一〇のストライキがあった。多くは一日のストライキであったが、組合によって、あるいは組合が表に出ずに行われた。そして、一六のストが政府の政策と経営への不満が理由であり、賃金が原因であったのは六件のストライキだけであったといわれる(8)
〔ニ〕なお、ストライキ以外にも、国営企業労働者は法の裏をかいて「緊急総会」を開催し、事業運営を停止することができた、といわれる(9)。そして、一九八五年当時の見解であるが、国営企業に対する批判の中で最も強かったことは、そこでの労働争議が公共に及ぼす影響であるとされていた(10)
  このような状況に対処しようとする点に、九一年法のねらいがあったということができる。
(3)  九一年法の制定とその内容
  ((1))  九一年法制定の経過
  一九九一年二月二三日、未遂を別にすれば、一九七七年一〇月二〇日以来、一三年振りにクーデターが実行され、全土に戒厳令が敷かれるとともに、二月二六日にはストライキの非合法化が発表された(11)。その後、クーデターの指導者であるスチンダ将軍は、国営企業の民営化に向けた段階として国営企業の労働組合を解散させる方針を明確にするとともに、その理由として、労働組合が国の開発の障害である旨を述べ、そのため、国営企業労働組合を七五年法の適用から除外することを提起した(12)。そして、一九九一年四月一一日、政府は国営企業労働組合の解散を目的とする二法案を承認し、四月一五日、緊急国家立法議会が招集され、同法案は可決された(13)
  以下では、七五年法と比較しながら、九一年法の内容を検討することにする(14)
  ((2))  適用対象
  本法の適用対象は「国営企業」の労使関係である。ここでいう「国営企業」とは、法律によって設立された政府組織および国家事業、国家の所有する事業組織、並びに以上の組織ないし事業の下にある国営企業および省、局、部もしくはそれらに相当する政治的部局が資本の五〇%を超えて所有する有限責任会社またはパートナーシップのことをいう(四条)。したがって、前述(二)のように、「公企業」のうち、いわゆる狭義のものが適用対象となる。そして、このような国営企業の経営陣以外の職員および労働者(両方を「職員」と総称している。以下、「職員」とは、この意味である)に対して適用される(四条)。
  ((3))  国営企業職員協会
〔イ〕各国営企業に唯一の国営企業職員協会を設立することができる(二一条)。用語としては、samakom(協会)が当てられている。組織の対象となるのは当該国営企業の職員でなければならず、かつ、いかなる労働組合の組合員であることも許されない(三〇条)。これにより、協会と他の労働組合とは切断されることになるとともに、七五年法の下で、とくに国営企業で顕著であった複数組合併存の実態は解消されることになる。
  以上の規制と一致させるため、七五年法の九五条に、国営企業職員関係法にいう職員は労働組合に加入できないという規定が加えられた(二項)。また、企業レベルの協会より上のレベルでの結合を認めていない点(15)で、この協会は企業内に封じ込められることになった。
〔ロ〕本協会を設立するためには登録が必要である。そして、登録官およびそれによって選任された担当官は、協会の活動を検査するため事務所に立ち入ること、必要な書類や収支計算書の提出などを命ずることができる(三七条、三八条、四二条)ことにより、組織の全容が国家によって把握されることになる。この点は通常の労働組合の場合と同じである。
  登録をする場合、一〇人が発起人になり、かつ職員の一〇%が会員となることを意思表示している必要がある(二四条)。しかし、これは発足段階での要件であり、存続するためには、それでは足らず、三〇%以上を組織し続けていなければならない(二二条)。これに満たない場合、要件不備の通知を登録官が発行した日から一年以内に、三〇%になるようにしないと、登録申請自体が失効してしまう(二六条二項)。これは七五年法に基づいて労働組合を結成する場合、一〇人の労働者が集まれば良い(八七条)ことと比べると、きわめて大きな割合である。そして、この率を下回るに至った場合、解散しなければならない(三九条)という点でも厳しい要件である。
  もし、登録申請が複数となる場合、早い申請が受理され、同時であれば一本化の調整が行われるが、不調の場合、会員数の多い方が協会として登録される(二六条三項)。したがって、この点でも、各国営企業での協会の一本化が図られている。なお、登録に対する不服申立ては、最終的には所轄大臣によって決定される(二六条)。
〔ハ〕以上のようにして設立される協会の権限は、後述する「組織体関係委員会」に対して会員の権利および特典に関して提案や苦情を提出したり、代表を送ることである(三三条)。したがって、協会は直接当局と交渉する位置にはない。
  ところで、七五年法では、使用者に対して提示できる要求は「雇用条件」に関するものであるが、この雇用条件には「雇用もしくは労働条件、労働日、労働時間、賃金、福利厚生、解雇または・・・その他の利益」(五条)が含まれていた。これに対し、協会が提出する上記の提案や苦情は、「労働日および労働時間、賃金、俸給並びに職員手当と関係する特典」(四条)に関するものであるので、従来は可能であった労働契約の終了に関する事項は対象にならないと考えられている(16)
  ((4))  ストライキの禁止
  ストライキが明文をもって禁止されている(一九条)。この違反に対しては一年以下の禁錮もしくは二万バーツ以下の罰金、または両罰が併科される。そして、ストライキを煽ったものは、その二倍の刑罰に処せられることになっている(四五条)。七五年法では、ストライキとロックアウトがパラレルに規定されているが、本法では一方だけの定めである。この点に加え、協会は労働組合とは位置づけられていないにもかかわらず、ストライキ禁止の規定を置いているということは、ストライキを制約する点がいかに強く意識されているかを表現しているといえる。また、とくに協会の集会を規制している点が特徴的である。すなわち、総会の開催日をわざわざ公休日および祝祭日に限定している(二八条三項)のは、過去において、実際は就業時間中に総会を開催してきたし、これが事実上のストライキの意味も有したという経験を踏まえてのことであると考えられる。
  ((5))  国営企業関係委員会
〔イ〕国営企業関係委員会が設立され、所轄大臣のほか、政府代表五人(本委員会の事務局長を含む)、経営代表・職員代表・有識者代表各五人、合計二一人から構成される。議長は所轄大臣が就任する(六条)。そして、可否同数の場合、議長がもう一票を投ずる(一〇条)。このような構成は、もはや三者構成とはいいがたいのであって、きわめて政府の意向が貫徹しやすい仕組みになっているといわねばならない。
〔ロ〕問題は、本委員会の権限である。第一一条によれば、国営企業の職員の権利と特典の基準を設定すること、後述する労使協議機関である組織体関係委員会による審議結果、および、それに不服のある場合の申立てについて承認を与えるか否かを審議すること、一定の場合の不利益取り扱いに関する請願を審議・決定すること、などが主たる権限である。したがって、本委員会が労働条件を基本的に決定することになる。しかも、この決定は所轄大臣の承認を受けること、および、すべての国営企業について適用されることになっている(一一条二項)から、以前、問題になったことのある国営企業間の労働条件の格差が解消されるように考慮されていると考えられる。さらに、本委員会が組織体関係委員会での審議結果について審議するに当たっても、本委員会で定めた基準が考慮されることになっているから、一層、労働条件の統一化につながるといえよう。
  ((6))  組織体関係委員会
〔イ〕各国営企業において、議長となる理事のほか、理事会代表、協会代表各同数によって構成される組織体関係委員会が設立される(一四条一項)。協会がない場合でも、理事会によって職員代表が任命されることになっている(一四条二項)。したがって、この委員会は必ず設立される機関である。七五年法でも労使協議機関の設立について定めているが、従業員五〇人以上の事業所の場合であって、かつ設立は任意である(四五条以下)点に違いがある。なお、本委員会は、議長が置かれる点に示されているように、団体交渉機関ではない。
〔ロ〕この委員会は、少なくとも月一回は開催される(一七条)から、七五年法の労使協議機関の場合、最低三カ月に一回の開催とされている(五〇条)ことと比較して開催密度の高い協議機関であるといえる。この委員会は、就業規則の制定と改正についての勧告、職員の権利および特典についての職員または協会からの請願を審議すること、職員の権利および特典の改正についての協会からの提案を審議する権限がある。しかし、権利および特典の改正についての提案を審議する場合、その提案が財政と関係するものである時は、国営企業関係委員会に承認を求めて審議結果を提起しなければならないから、とくに賃金について各国営企業で自由に最終的な決定ができるわけではない。これに対し、請願および財政に関係しない提案についての組織体関係委員会の審議結果に対しては国営企業関係委員会に不服申立てをすることができる。そして、国営企業関係委員会の決定は最終的なものであり、争うことはできない(一八条)。
(4)  九一年法の評価と改正の可能性
  ((1))  九一年法の評価
〔イ〕もともと七五年法の下でも、国営企業の場合、ストライキは禁止されていた。しかし、現実にはストライキが実施され、かつ国営企業労組は労働組合運動全体において指導的な役割を果たしてきた。九一年法は、単にストライキを封じ込めるだけでなく、国営企業における労働組合の存在そのものを否定し、同時に民間労組との間に楔を打ち込む狙いがあったといってよい(17)。そして、スチンダ将軍の先の発言に見られるように、国営企業の労働組合は治安的観点から把握されていたといえる(18)
〔ロ〕一九九一年のクーデター、および、それに続く九一年法の制定により、タイの労働組合運動は多大な打撃を受けた(19)。それは、組合運動の構造をも変化させたといえる。すなわち、一九九一年四月の数字で、組合員数が三三八、〇〇〇人から一五二、〇〇〇人へと激減した(20)。TTUC(タイ労働組合会議)が最も大きな影響を受け、一一八、二〇〇人から二七、三〇〇人へ、そして、四〇人の委員会(=執行委員会)委員のうち国営企業出身者の二〇人が辞任しなければならなかった。LCTも組合員が六八、二〇〇人から二七、七〇〇人となった。当然、組合費収入も減少した。さらに、企業別組合、産業別組合が複数集まって結成する労働組合連合も一六から一四になった。
〔ハ〕こうして、これまで運動の先頭に立ってきた国営企業の労働組合が禁止されたことで、労働者全体の交渉力が低下し、最低賃金の引き上げ、社会保障問題などについての取り組みが低下したのである。また、各種三者構成機関では労働組合の代表が構成メンバーになるが、国営企業職員協会は労働組合ではないことから、それに参加することもできなくなったのである(21)。国営企業労組の元活動家たちも、弾圧後は転職や労働運動への幻滅により脱落していったといわれ(22)、運動の担い手の弱体化も進んだ。
〔ニ〕しかし、九一年法の下でも、労働条件の改善は進んでいる。たとえば、一九九四年秋の国営企業の賃金紛争の場合、国営企業職員協会の代表も参加する国営企業関係委員会で賃上げについて審議されたが、その答申を政府が拒否して再検討を要請するなどの対応があったものの、最終的には労働者代表と大蔵大臣との会談で職位の低い労働者についても適正な賃上げをするとの妥協が成立し、会計検査院の作成した賃上げ案を受け入れることになった(23)という例もある。
  ((2))  九一年法改正の動向
〔イ〕九一年法が国営企業の労働者の団結権を否定するものである以上、その復活要求が出るのは当然である。このような動きは、クーデター直後から見られ、ILOへの申立て(一九九一年五月二一日)とILOによる団結権侵害との結論(一九九一年一一月一五日(24))、さらに、民主化運動を弾圧した一九九二年の「五月事件」後の民主化の前進の中で、次のような法改正の動きが生じた(25)
  すなわち、一九九三年三月末には下院の労働問題・社会福祉委員会で九一年法の修正案の審議が終了した。この案では、国営企業労組を認めた上で、それが民間労組のナショナル・センターに加盟できること、事業組織の改編の決定へも参加できること、が定められていた。そして、その後も改訂への準備が進められ(26)、一九九三年一一月三〇日には、国営企業労働組合および労使関係に関する法案が閣議で承認された。それによると、(1)九一年法および国営企業関係委員会を廃止する、(2)労働福祉大臣を委員長とし、政・労・使各五名の委員によって構成される国営企業労働関係委員会を設立する、(3)労使紛争が発生した場合、労使双方とも交渉の申し入れをすることができ、その申し入れから五日以内に交渉を開始しなければならない、(4)財政問題以外の紛争の場合、合意事項はただちに法的効力を有し、財政問題であっても国営企業が独自に解決できる場合には労使双方が自主的に解決できる、(5)財政問題であって、国営企業が独自に解決できない問題の場合、国営企業は国営企業労働関係委員会に判断を求める、(6)紛争和解協定は書面により、かつ、登録される。有効期間は三年以内の一定期間定めることができ、期間の定めのない場合、一年間の期間の定めと看做される、(7)自主的交渉も合意も達せられない場合、労使紛争は仲裁委員会(国営企業労働関係委員会によって任命される)に送付され、一〇日以内に判断され、さらに行き詰まった労使紛争の場合、自主的に解決されえないと看做された日から一五日以内に国営企業労働関係委員会に送付される、(8)国営企業労働関係委員会の判断は最終判断であり、一年間絶対的効力を有する、(9)労使双方とも争議行為は禁止される、(10)労働者は使用者による不当な取り扱いから保護される、という内容のものであった(27)
  この法案は、要するに、国営企業で労働組合を結成することを再び認めながらも、あくまで国営企業の労使関係を七五年法とは別個の法規制の下に置くことを維持しようとするものであるといってよい。
〔ロ〕しかし、この法案は制定には至らなかった。そして、再び国営企業労組の承認に関する法案が一九九四年九月二八日に緊急に国会で審議されることになり、第一読会を通過するに至ったが、これはチュアン首相とアメリカのクリントン大統領との首脳会談を控えているという事情があって、一般特恵関税の剥奪を恐れてのことであったと観測されている。つまり、人権を侵害しているというアメリカの批判をかわすことにその意図があったというわけである(28)。そして、一九九五年のメーデーでは、ナショナル・センター八団体が共同して政府に対して八項目の要求を提示したが、その第二項目に、「国営企業労働者に組合結成権を認めるように法改正すること」が位置づけられていた(29)。通常、上位に位置する最低賃金の引き上げ要求より前にこの課題が置かれている点から見て、これが重視されていることがわかる。
〔ハ〕その後、右法案は一九九五年七月二日に成立したバンハーン内閣の下で下院を通過し、上院に回付されたが、大幅な修正が加えられたことから、上・下両院の合同委員会が設置された。しかし、その審議中に下院が解散された(一九九六年九月二七日)ことに伴い、自動的に廃案となった(憲法一四一条、一四四条参照)。そして、一九九六年一一月一七日に実施された総選挙後に成立したチャワリット内閣は、一九九六年一二月一八日に法案を下院に再上程し、これは第一読会を通過した。しかし、この法案は、先に廃案となった、上院で大幅に修正された内容を含む法案であったので、労働者側から批判を受けることになった。その批判は、(1)国営企業労組と民間企業労組との合同の禁止、(2)登録した目的以外の活動に対する組合幹部への科罰、(3)集会・会議の開催日の休日への限定、の三点に向けられている(30)
  右の法案は、一九九七年一月時点では下院の委員会で検討中であり、可決にまで至っていない。


(1)  以下について、拙稿「タイの労使関係と法(一)」立命館法学二一六号一六七頁以下参照。
(2)  舟橋尚道編『タイの労働事情』(アジア経済研究所・一九六二年)二五四頁(秋田成就)参照。
(3)  「七二年法」というのは通称であり、実際は一九七二年に定められた四つの内務省令からなる。このうち、労使関係に関する内務省令の条文の翻訳として、塚本重頼監修・鷲尾宏明訳『タイの労働法』(アジア経済研究所・一九七五年)三七頁以下がある。
(4)  この点については、前掲・拙稿「タイの労使関係と法(二・完)」立命館法学二一七号三五七頁以下参照。
(5)  岡本・前掲書九七頁、高木・前掲書二一七頁参照。
(6)  スト規制が強化されたとの評価について、河森・前掲「クーデタ後の政治構造変化と経済政策のゆくえ」九頁参照。
(7)  七五年法三四条一項二号参照。なお、Viyada, op. cit., p. 83.
(8)  Wong, op. cit., pp. 112-113, Viyada, op. cit., p. 82.
(9)  海外労働時報一四六号一四頁、二二三号五頁参照。
(10)  労働局・前掲論文一〇三頁参照。
(11)  クーデターを行った国家治安維持団の一連の布告については、岡崎久彦他『クーデターの政治学』(中央公論社・一九九三年)一六一頁以下、世界政治八三五号二八頁参照。
(12)  世界政治八三五号三二−三三頁参照。
(13)  法案の概要は、海外労働時報一七五号一四頁以下参照。
(14)  本法の概要については、岡本・前掲書一七七−一七八頁に紹介がある。
(15)  Sungsidh Piriyarangsan and Kanchada Poonpanich, Labour Institutions in an Export-oriented Country:A Case Study of Thailand, in:Workers, Institutions and Economic Growth in Asia (ILO, 1994), p. 248.
(16)  和田肇「タイ労働法の特徴」名古屋大学法政論集一四一号八一頁参照。
(17)  Chuta, op. cit., p. 68.
(18)  Sungsidh and Kanchada, op. cit., p. 248.
(19)  詳しくは、山田陽一「タイ軍事政権による国営企業労働組合の侵害」季刊労働者の権利一八九号八頁以下、Sungsidh and Kanchada, op. cit., p. 248 参照。
(20)  後者の数字は民間企業の労働者六〇〇万人の二・五%に相当する。
(21)  Sungsidh and Kanchada, op. cit., p. 248.
(22)  海外労働時報二一八号六頁参照。
(23)  海外労働時報二二四号四頁参照。
(24)  神津里季生「タイの労働組合」所報(バンコク日本人商工会議所)一九九三年三月号三五−三六頁参照。
(25)  海外労働時報二一二号五頁、二二三号五頁参照。
(26)  岡本・前掲書一七九頁、海外労働時報二〇三号五−六頁参照。後者では別にあった内務省案の一部も紹介している。
(27)  海外労働時報二一二号五頁参照。
(28)  海外労働時報二二三号五頁参照。
(29)  海外労働時報二三一号四頁参照。
(30)  海外労働時報二四四号五−六頁、Bangkok Post, December 20, 1996 参照。


六  お  わ  り  に

〔イ〕タイでは、国営企業は、産業を興し国の財政収入に貢献するという目的で止まらず、労働運動対策、治安対策の対象としての意味ももった点に特徴がある。とくに、一九九一年のクーデターと九一年法は、経済成長を目標にしている場合に決定的に重要なインフラの整備が課題になっているタイでは、その多くを担当している国営企業での組合の抵抗を弱体化する意味があった。
〔ロ〕しかし、このような意味を実現するために採られた措置は、余りにも過剰であったといわねばならない。なぜなら、国営企業職員関係法は、単にストライキを禁止するだけでなく、労働組合の結成そのものを禁止した点で、法的には一足飛びに労働組合の禁止段階に逆戻りし、しかも国営企業の労働組合が占めてきた位置からして、タイの労働法そのものが禁止段階に逆戻りしたに等しいといえるほどの変化をもたらしたからである。
〔ハ〕それにもかかわらず、労働者の労働条件等に関する要求を全く無視するという労使関係の形成は今日では不可能なことを、九一年法は示しているともいえるのである。なぜなら、「協会」の設立を認め、そこで「請願」という形式によって労働者の要求を吸い上げるという仕組みは用意しておかざるをえなかったからである。そして、この仕組みは労働条件の改善にとって一定の効果を発揮している。
〔ニ〕労働者に対して労働組合の結成を認め、それとの交渉を通じて労働条件の維持・改善を図るという労使関係の在り方は、タイにおいてもますます否定しがたい原則になっており、すでに九一年法の改正に向けた動きも進行している。今後いかなる九一年法の改正が行われるのか、そして、それがタイ労働法の将来の発展にとっていかなる意味をもつことになるのかという問題は、将来の検討課題である。