立命館法学  一九九六年六号(二五〇号)一五六七頁(二二七頁)




トクヴィルのデモクラシー論
−デモクラシー精神の探求とその行方−


中谷  猛






一  は  じ  め  に

  近年のトクヴィル研究の状況を整理してみると、二つの特徴が指摘できる(1)。一つはいうまでもなくイェール大学バイネッケ図書館所蔵のトクヴィル手稿(『アメリカにおけるデモクラシー』の自筆草稿を含む)を利用した研究の進展で、その成果の一つにJ・シュライファー著『トクヴィルのアメリカにおけるデモクラシーの形成』(一九八〇)を挙げることができる。またE・ノラの厳密な注解と著者の書き込みや抹消部分まで復元したテキスト『アメリカにおけるデモクラシー』(一九九〇)の刊行もある(2)。もう一つはフランスでのトクヴィル思想に対する関心の高まりといってよい。その背景については後で触れるが、差し当たりA・ジャルダンの『トクヴィル伝』(一九八四)の出版とF・メロニオの『トクヴィルとフランス人』(一九九三)という著作が関心の推移を示していて興味深い(3)
  とくにフランスでのトクヴィル研究については多少の説明がいるだろう。この国ではアメリカのトクヴィル研究の持続的な取組みに比べて、思想の全容を解明する本格的な研究は遅れていたといってもよい。確かに新トクヴィル全集の刊行は一九五一年から始まり、一九六〇年代にはR・アロンの社会学的立場による研究が発表された(4)。とはいえ、フランスでのこの稀有の思想家についての関心は低かったと思われる。研究対象としてはじめてトクヴィルをとりあげた博士論文が提出されたのは一九八三年で、それはランベルチ(Jean-Claude Lamberti)の『トクヴィルと二つのデモクラシー』(Tocqueville et les deux democraties)であった。一九八〇年代には数多くの著作や論文が発表され、「トクヴィル・ルネサンス」(A・ジャルダン)ともいうべき現象が見られる。その広がりは一般文芸誌『Magazine Litteraire』がトクヴィル特集「トクヴィル  自由主義とデモクラシー」(一九八六、二三六号)を組んだことからも推量されよう。また彼の主著の普及版(ブキンやプレイアド)も相次で刊行された(5)
  今日この思想家は様々な視角から論じられているが、自由主義が政治の現実で問題にされるにつれて、デモクラシー論をはじめ彼の厳しい官僚制批判や分権自由主義論などについて活発な議論が展開されている。つまり彼の思想から引き出せるテーマとは自由主義とデモクラシーの関連性に他ならない。
  ところで、新トクヴィル全集の編者であったJ・P・マイヤーは戦前にトクヴィル思想の重要性を指摘していた。彼によると、トクヴィルはみずからの政治経験に照らして現代の民主的な大衆社会現象にメスを入れた最初の政治哲学者であり、「まさに大衆社会の偉大な予言者」として位置づけられた(6)。今日ではこの評価の正しさは、様々な広がりをもって受け止められ、伝記研究家A・ジャルダンは次の引用に見られるようにトクヴィル思想の現代的意義を明らかにしている。すなわち「近代世界の大きな社会的病根が明るみに出るにつれて、トクヴィルは読者をみいだしてきた、ということだけを確認しておこう。その病根とは、全体主義、消費社会における人間の疎外、無名の官僚制による全能支配である。これらの病根を断罪したおかげで、トクヴィルはわれわれの同時代人となっているように思われる(7)。」かつて彼の主著のうち『アメリカにおけるデモクラシー』第二巻(一八四〇年出版)は難解なものとして同時代の人々から敬遠された。だが、いまその著作をよむと、われわれは実に新鮮な印象を受ける。トクヴィルはいま、生きているといってもおそらく過言ではない。彼の思想の現代性に焦点をあて、その中心のテーマである「デモクラシー」精神とは何か、またその精神がジレンマを生み出すとすれば、どのような方法でその現象は認識されたのか、この点について主著の考察を通じて明らかにすることが本稿の課題である。
  この課題に取り組む場合、差し当たり「デモクラシー」という言葉が問題になる(8)。彼の思想を理解しようとするとき、用いられたこの言葉が曖昧なため読者は当惑せざるをえない。もちろんこのことはいずれの思想家の場合にもよくあることだが、彼の場合、その言葉のもつ意味の明晰性を求めようとすれば、異なる文脈のあいだで示された多様な言い換えられた表現に注意を払わねばならない。「デモクラシー」とは平等の進展による様々な社会的傾向や諸条件の平等とその変化を意味する。それはある場合には社会革命を意味し、またある場合には近代社会の歴史的「事実」とみなされそこに生きる人々にとって不可避な潮流となる。その限りで発展途上の社会状態を意味する。さらには人民主権やこの主権に基づく法・政治制度、この制度のもとに生きる人民の情熱や行動様式の全般を捉える場合にも用いられる。「デモクラシー」が具体的な結社の自由や広範な普通選挙制の実施、職業の自由を意味する場合、それは自由の理念に力点がある。だが、一括していえば「デモクラシー」は平等の原理を基調において市民社会と政治社会の動態的関連性を把握する方法としても用いられているので、その意味の複雑性は一層増してくる(9)。彼がこの言葉の意味をなぜ曖昧なままにしておいたのかと問うことは愚問であろう。行論において明らかになるようにトクヴィルは新しい事象という感覚でもって「デモクラシー」の考察に取り組んでいたからである。

(1)  近年のトクヴィル研究の動向については、拙稿「近年におけるトクヴィル研究の動向」(『立命館法学』一九八五年第四号)一〇九頁以下参照。
(2)  Eduardo Nolla, Alexis de Tocqueville, De la de´mocratie en Amerique, Premie`re e´dition historico-critique revue et augmente´e par E. Nolla, 2 vols, Librairie Philosophique, J. Vrin, 1990.  トクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』について研究する場合、J・P・マイアー編集トクヴィル全集に収録された同書よりもE・ノラ編集によるものの方がよい。テキスト校定が様々な角度から行われており、草稿類も注で記入されているからである。また、このテキスト刊行時までの研究論文等の詳細な文献目録が付録にあるので、研究に役立つ。以下この版を使用の場合、E. Nolla, D. A. L. 1, と略記。
(3)  Andre´ Jardin, Alexis de Tocqueville, 1805-1859. Hachette, 1984.  大津真作訳『トクヴィル伝』(晶文社、一九九四年)。この伝記以前には、トクヴィルの伝記はわずかに、Antoine Redier, Comme disait Monsieur de Tocqueville, 1925 とJ・P・マイヤーの注6の著作があったにすぎない。
  Francoise Me´lonio, Tocqueville et les Francais, Aubier, 1993.  F・メロニオのこの著作は、トクヴィルとフランス人との関連性を多角的に検討しており、様々なトクヴィル像が浮き彫りにされている。トクヴィル思想を全体的に知るうえで、詳細な文献が役立つ。
(4)  Raymond Aron, Dix-huit lacons sur la socie´te´ industriell, Gallimard, 1962.
(5)  Alexis de Tocqueville, introductions et notes de Jean-Claude Lamberti et de Francois Me´lonio, Bouquins, 1986.  Tocqueville, iuvres, e´dition publie´e sous la direction d’Andre´ Jardin. 2 vols. Gallimard, 1991 (Bibliotheque de la Ple´iade)
(6)  J., P. Mayer, Alexis de Tocqueville, a biographical study in political science.  Harper, 1960.  初版は The Prophet of the Mass Age の題名で一九三九年にロンドンとニューヨークから出版された。戦後に改題され、この版には「百年後のトクヴィル」という論文が収録されている。またフランス語版に Alexis de Tocqueville, Gallimard, 1948 がある。J. -P. Mayer, op. cit., p. XV.
(7)  アンドレ・ジャルダン著大津訳『トクヴィル』五九一頁。
(8)  トクヴィル思想の今日的意義を中心に論じたものとして L’Actualite´ de Tocqueville, CAHIES de philosophie politique et juridique, N゜ 19, 1991 (Centre de Publications de L’Universite´ de Caen) がある。
(9)  J・シュライファーは、その著作で「デモクラシー」という言葉について検討し、十一に分類される文献上の意味の確定を行なっている。J. Schleifer, The Making of Tocqueville’s Democracy in America, The University of North Carolina Press, 1980, pp. 263-274.


一  トクヴィルの知的冒険


1  トクヴィルにおける「懐疑」の問題
  若いJ・S・ミルが「精神の危機」に陥ったように、一六歳のときアレクシ・ド・トクヴィルも自分の世界が崩壊するような大きな精神的苦痛を体験した。そのときの様子を晩年、敬虔なカトリックのスヴェチン夫人に語ったが、それは彼を育んできた貴族的伝統と価値観の土台を揺り動かし、まるで地震に遭遇した人が足下の大地の揺れにおののくのにも似た強い衝撃であったという。そのきっかけは、父の蔵書で読んだヴォルテールやルソーの思想にあり、それらが彼の抱いていた信念を打ち砕くことになる。
  このときの印象は五〇歳を過ぎた彼に鮮明によみがえってくる。「しかし青年になり始めた頃に抱いた印象(その頃一六歳だった)は時折、私の心にとりつきます。そのとき私には再び姿を変える知識の世界をみ、そしてこの全般的な動きの中で茫然自失となります。というのはそれが私の信念と行動を支えてきた真理のことごとくをひっくりかえし、揺さぶるからです(1)。」トクヴィルが若き日にとりつかれた「懐疑」は注目に値する。彼はアメリカ旅行中のノートにこう記す。「もし人間の様々な悲惨さ(les mise´res humaines)にランクをつけろといわれたら、私は次の順番で挙げたい。一  病気。二  死。三  懐疑(doute(2))。」この三つのうち彼の思想の展開から見て極めて重要なものは「懐疑」、つまり肯定と否定のいずれかを決めかねる疑いである。このあやふやな気持、不安が思想の根底にあって、いわば思索の源泉の位置を占めていたのではないか。後に詳しく述べるが、彼にとって新しい現象としての「デモクラシー」なるものは絶えず社会とそのもとに生きる人間すべてを有為転変の状況においやり、みずからの生活を確実にする不動の岩盤を浸蝕していく未知の力に他ならない。
  概して人間は確固たる自己の立つ基盤を求めないと不安でしかたがない。「デモクラシー」の不可避性をアメリカ旅行によって実感した結果、トクヴィルは自己の不安にこのデモクラシーが生み出す様々な社会変化の様相を重ねる。その思索過程から形成される「デモクラシー」像について冷徹な分析を加え、われわれの前にあれかこれかの二者択一の道を示す。すなわち、文明社会の将来には自由で平等な社会か隷従の意識なき平等社会かの二つの道があると予測される。人間は果たしてそのどちらを選択するのか。
  トクヴィルは未来の闇に向かって歴史という灯火をたよりに歩む(3)。彼は行動において人間が一貫性を保持することの難しさをよく知っている。だが、みずからの言説には責任をもって論理の一貫性を追求しようとする。その意味では彼は理性の人といえる。終生「懐疑」につきまとわれていたため、逆に知識の確固たる基礎に依拠して、「懐疑」の根源を見定めようとしていたのかもしれない。
  トクヴィルの「懐疑」、つまり強い不安を引き起こすような精神世界の崩壊=価値の転倒の体験は、人々が「デモクラシー」をどのように認識しているのか、またそれとどのように戦うのかという政治イデオロギー次元の問題のみならず、さらにこの現象の背後にあって人々の内面の意識がどのように規定されるのかという問題に導く。広く西欧キリスト教世界に「デモクラシー」の時代が到来することによって、その現象は人々の生活、行動、意識さらには政治世界と制度にどのような影響を及ぼすのか。こうした問題関心がトクヴィルを未知の旅へと駆り立てる。変貌する同時代の社会を観察しその構図を描くという知的冒険が始まる。この企ては彼が味読したモンテスキューの仕事に匹敵するといってもよい。
2  方法としての旅
  トクヴィルの思想を全体として理解しようとする場合、方法としての旅の視点を設定することは有効である。モンテスキューがヨーロッパを旅行したように、トクヴィルも生涯に何度も旅にでている。今日では、彼の主著である『アメリカにおけるデモクラシー』が約九ヵ月に及ぶ友人ボーモンとのアメリカ旅行体験とその観察に基づいて執筆されたものであったことを知らぬ読者はいない(4)。彼の最初の旅は次兄エドゥアールとのイタリア・シシリアへの旅であり、イギリス(アイルランドを含む)へは三度、ドイツとスイスには妻を伴って二度の小旅行にでかけた以外に、政府の派遣でアルジェリアに赴き、また別の機会に同地を妻同伴で訪れている。
  概して旅にでると、自然に自国と他国との比較の目が養なわれる。彼の著作を読めば明らかなように、比較の手法は様々なレベルにおいて、例えばフランス(人)とアメリカ(人)、貴族制と民主制、過去と現在などの対比が縦横無尽に駆使されている。比較文明の方法といってしまえば簡単である。だが、その方法が旅で体験したこと、つまり見聞、いろいろな階層の人々との対話と交流、省察などで練り上げられ、単純な二項比較の枠を超え三項比較(フランスとアメリカとイギリス)や政治社会と市民社会との相互的関連性の認識にまで及ぶ。周知のウェバーの「理念型」的方法の先駆としてトクヴィルの方法の特色が捉えられているが、その評価は半面の真理にすぎない。彼の方法にはつねに知的冒険の企て、言い換えると新たなものを「発見」する旅であるとともに旅のもつ不安が付きまとっており、そのため確かなものを求めて方法自体は固定されず変化し、比較の尺度は分類や識別の作業によってますます複雑化する。例えば晩年における現在(同時代のフランス)から過去への旅の成果は『アンシャン・レジームと革命』となり、ヨーロッパとフランスの現在からその将来を展望するために、まさに彼から見れば未来の社会であるアメリカへの旅にでる。ヨーロッパではいまだ実現されていない「デモクラシー共和国」への旅行の知的成果が『アメリカにおけるデモクラシー』(第一巻、一八三五年)に他ならない。比較は社会科学の方法として考察対象の分析に客観性を付与するものとはいえ、その過程においておのずと価値判断を要請する。例えば、自国と他国の習俗を取り上げた場合、比較の背後には優劣の感情が走ることは否めない。そして眼前に展開される新しい現象が比較の尺度を超えるものであるなら、どうすればよいのか。
  トクヴィルは『アメリカにおけるデモクラシー』の第二巻(一八四〇年)でこうした事態に直面したことを示している。「社会状態にあって様々な法則や思想や人間感情に変化をもたらす革命はいまだ終結するにはほど遠いにしても、革命の成果はかつての世界で見られたものと比較しようにも何も比較できない。私はさかのぼれるだけ最も遠い古代にまで世紀から世紀へと歩んだが、私の眼前にあるような変化に類するものは何一つ目に入らなかった。過去はもはや未来を照らしださず、精神は暗闇の中を進んでいる(5)。」過去の知的遺産は引証基準として変化を計る尺度になりえない、つまり比較の尺度がないという感慨と、にもかかわらずその変化の行く末を多少なりとも見定めたいという意志との混合を示すこの引用文には彼の方法を支える合理的精神の健在性が読み取れる。というのは彼は新しい政治社会現象を考察しその特徴を説明する場合、人間理性に依拠しそれ以外の超越的な力による説明を排しているからである。
  もちろん、「デモクラシー」の進展を不可避な「摂理的事実」と説明している場合がある。こうした表現は一九世紀前半では社会通念として一般的で、例えばヘーゲルにも見られる。おそらくそれは「デモクラシー」に反対する政派の動きに配慮して、彼らを説得するために用いたレトリック的手法ととれないこともない(6)
  概して旧い貴族的ヨーロッパ社会と新しい民衆社会のアメリカとの対比枠組みを用いて近代社会の変動を「巨大なデモクラシー革命」として認識した方法的特徴の形成はアメリカ旅行の経験なしには語れないが、その方法が根底に不安を宿した合理的精神から生まれたものであったことは留意しておいてよい。
3  「更地」に構築されたデモクラシー社会
  トクヴィルはアメリカ合州国を旅行した際、その地で見聞したことを丹念にノートに記していた。それら合わせて一一種類のノートがあり、そこに書き付けられたアメリカ人との会話や訪れた合州国各地での見聞録や長文と短文との入り交じった印象記、メモ・ノートは彼のデモクラシー観全体の考察には欠かせない。またこうしたノート類は主著『アメリカにおけるデモクラシー』の形成過程を探る不可欠の資料でもある。だがそのこと以上に「デモクラシー」とは何かを考える素材が加工されずに提示されているので、ノートを読んだ者にはアメリカ旅行体験の重みが実感できよう。例えば、一八三二年一月一三日のノートにはアメリカ人が「更地に(sur table rase)自分たちの社会を構築しえた(7)」と記す。「更地に」という表現は、一見さりげない表現のように見えるが、そこに込められた意味は極めて深い。当時、文明の進んだヨーロッパから見れば、新天地アメリカは文明社会というよりも、文明化の途上国とのイメージが強い。したがって、文明と未開の混在という構図でこの国を捉えることもできる。トクヴィルの場合、この視点は辺境の事象を取り上げる事例に限定されている。したがって合州国は民衆教育の普及した文明国であって、興隆するこの国の秘密こそ「更地に」社会を築きあげたことだと捉え、この側面を強調する。すでに指摘したようにこの認識は彼が旅行から得たもので、デモクラシー論の土台をなすものといっても過言ではない。
  歴史の事実に照らせば、先住民のインディアンがいたが、広い大陸でのヨーロッパ移住民の活動をこの認識のもとに捉え、「デモクラシー」の発展は不可避なものと考えた点で彼は極めてユニークな観察者であったといえよう。だが、社会の建設は白紙に絵を描くようにいくわけがない。「アメリカの諸制度の最も顕著な特色の一つは全く理論的な関連性にある(8)」と書く場合、そのことは制度の理解に当たって論理の連関で押さえることが優先され、制度形成の歴史性が捨象されることを意味する。あえてその視点をとることを彼に選択させたものは「更地に」という実感があったからではないか。
  別のノートでは「更地に」アメリカ社会が築かれたと述べた後、そこには勝者も敗者も平民も貴族もなく、門地や職業への偏見もないばかりか、アメリカ全体にこのことは当てはまるが、共和政は合州国でしか成功しないと記す(9)。トクヴィルが革命後の自国社会を念頭において叙述していたことは明らかだが、二つの社会を対比する尺度に「平等の原理」を設定しなければ、彼の社会の見方と共和政についての断定的発言は理解しにくい。また、貴族も平民も存在しないということは特権的身分制社会構造がないという歴史認識を前提にしなければ、その主張は意味をなさない。叙上のような仮定を立てた場合、旅の観察的事実そのものが明らかに後で述べるトクヴィル的思考の方法によって、取り出されていたように思われる。ともあれ、彼の社会分析が単なる比較によるのでなく、まさに社会構造の発想に支えられた多角的比較であって、旅行ノートの分析を進めるとそのことがよく理解できる。
  ところで、歴史性を抜きにして本来社会考察は可能であろうか。トクヴィルがこの問題を無視して知的作業を押し進めたとは到底考えられない。アメリカ社会を観察する場合、「更地」という視角をとれば、いわゆる歴史からの接近は当然後景に退く。彼が対象に向かう方法は事物の起源を探る、つまり「出発点」を明らかにすることにある。
  うえに述べたような「更地」論だけでは「デモクラシー共和国」の成功あるいはその維持について説明はできない。ヨーロッパ政治思想の伝統では大抵の思想家が大きな共和国の存続可能性を否定しており、事実ヨーロッパには小共和国の経験しかなかった(10)。この認識に立てば、トクヴィルが新大陸における大きな共和国の成功の秘密に関心を抱いたのは当然のことかも知れない。共和政が維持されているのはなぜか。その要因とは何か。彼はこの問題を粘り強く追求する。そのための接近方法として事物の起源に遡る考察と広い意味での社会構造の発想とが組み合わされる。その意味では純然たる歴史的考察ではない。
  人間と事物の説明に用いられる原因と結果、つまり因果関係による分析を用いたとしても、彼の場合、ミニェやティエールに見られるような歴史における必然史観に立脚しているわけではない。彼はむしろ歴史における人間の選択可能性、換言すると自由な意志と行為に力点を置く。こうしたトクヴィルの比較に立脚した総合的認識の方法は主著よりも旅行ノートに端的に示されているようだ。
  例えば、「社会状態の様々な原因と現在のアメリカ政治」というテーマで彼は一〇項目を挙げる。
  1.アメリカの起源、素晴らしい出発点。宗教と自由の精神とが打ち解けた形で混ざりあっていること。冷静で合理的な人種。
  2.アメリカの地理的位置、隣国が存在しないこと。
  3.アメリカの商業と産業活動、彼らアメリカ人の悪徳までもがいまやその活動にプラスになる。
  4.アメリカ人は物質的幸福を享受する。
  5.宗教的精神の支配、共和主義的、デモクラシー的宗教。
  6.実用的知識の普及。
  7.全く純粋な様々な習俗。
  8.アメリカを小さな州に分けたこと。彼らには大きな国家に向かう何の証拠もない。
  9.すべてが集中される大きな首都がないこと。それを避けるための配慮。
  10.商業的で地域的な活動が行なわれ、各人は自分の仕事に専心している(11)
  このような項目をすべて「デモクラシー」と関連づけて考察するところにトクヴィル的思考の特徴が見られるのであって、よく言われるように彼の思考の特色を演繹性に求めるだけでは不十分である。むしろ事物の相互関連の認識こそ彼の方法的特色といってよい。そしてこの方法を駆使して彼は「デモクラシー」の支配力、あるいはその影響力のもたらす政治的社会的および文化的結果を見定めようとしていたといえる。
  したがって彼の旅行ノートの検討から引き出される結論の一つは、まさに旅人としてのトクヴィルの目が捉えていく対象の変化にしたがい、彼の関心がますます拡大していったことを如実に示す。好奇心の旺盛な者なら当然のことで、これは取り立てていうほどのものでもない。問題は、うえに指摘したようにこの多様な関心をすべて「デモクラシー」という言葉に収斂しようとしたこと、そして同時に「デモクラシー」化と「産業化」との交錯を「デモクラシー」の「社会状態」として認識しようとしたことにある。このように考えてくると、トクヴィル思想の鍵概念である「デモクラシー」が多義化するのは当然であろう。いわば彼がこの国で新しい現象と目に映じたものはすべて「デモクラシー」の大きな袋に投げ込まれたといってよい。一般にトクヴィルのこのような問題関心、ある国の政治、経済、社会、文化など全般に関連する考察には文明という概念が用いられている。つまり彼は新興のデモクラシー文明を観察の対象にしていたはずである。では、なぜ文明という概念が用いられなかったのか。

(1)  Alexis de Tocqueville, iuvres Comple`tes tome xv-2, correspondance d’Alexis de Tocqueville et de Francisque de Corcelle, correspondance d’Alexis de Tocqueville et de Madame Swetchine, Gallimard, 1983. cit., p. 315.  トクヴィル全集(ガリマール版)からの引用は以下 O. C. t. xv-2 と略記。
(2)  O. C. t v-1, Voyages en Siciles et aux Etats-Unis, Gallimard, 1957. cit., p. 183.  プレイアド版トクヴィル著作集 iuvres I, Gallimard, 1991 に各国旅行の際、彼の記したノート類が収録されている。この著作集版の方がガリマール版より校定が一層厳密である。その理由は草稿上の不明部分などの解読が進んだから、その成果が取り入れられている。
(3)  E. Nolla, D. A. t. I-2, p. 279.  トクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』(第二巻)には岩永・松本両者による抄訳(研究社、一九七二年)がある。同訳書を参照した場合、岩永・松本訳書と略記。トクヴィル思想における譬喩としての「闇(暗闇)」(te´ne`bre)は色々な意味で重要な役割を果たしている。「不安」と「闇」とはいわば表裏一体の心理状態と見てよく、暗闇を歩むというトクヴィルの表現は真理探求者の一面を示しているといえる。また、トクヴィル思想をパスカルの視点から論じ、政治哲学と関連づけた著作に P. A. Lawler, The Restless Mind, Alexis de Tocqueville on the Origin and Perpetuation of Human Liberty, Rowman & Littlefield Publishers, 1993 がある。p. 7.
(4)  トクヴィルのアメリカ旅行についての古典的研究 G. W. Pierson, Tocqueville and Beaumont in America, Oxford University Press, 1938 には各地で会談した人々の名前が列記してあり、彼の知的形成を考察する場合に重要な手掛かりとなる。Pierson, op. cit., pp. 782-786.
(5)  E. Nolla, D. A. t. I-II, P. 279.  かつて拙稿「トクヴィルの政治思想ー人間の自由と連帯を求めてー」(『立命館法学』末川博先生追悼論文集、一九七七年、第一三三−一三六号)において、トクヴィルの「闇」の問題を念頭において旅の体験と思想方法について触れた。同書三〇六頁以下参照。
(6)  この点で宇野重規の指摘が示唆に富む。「フランス自由主義の諸相とアレクシス・ド・トクヴィルー個・政治・習俗ー」(『国家学会雑誌』第一〇七巻第五・六号)二〇一頁以下参照。トクヴィルの歴史観における「摂理」の問題には様々な解釈が可能である。M・ゼターボウムは彼の自然科学的な類推方法による「摂理」解釈の重要性を指摘している。M. Zetterbaum, Tocqueville and the Problem of Democracy, Stanford University Press, 1967. p. 8.
(7)(8)  O. C. t. v-1, p. 203.
(9)  O. C. t. v-1, p. 205.
(10)  例えば、モンテスキューは『法の精神』(上)第一部第八編第十六章で「共和国が小さな領土しかもたないということは、その本性から出てくる。そうでなければ、それはほとんど存続しえない」と書く。野田他訳『法の精神』上巻、岩波書店、一九八七年。一七〇頁。
(11)  O. C. t. v-1, p. 205.


二  文明と「社会状態」の問題


1  文明と「デモクラシー」の関連性
  アメリカを総体として認識しようとする場合、「デモクラシー文明」の概念は確かに有効である。だがトクヴィルは「デモクラシー文明」の概念を一度も用いていない。「デモクラシー」の言葉は「デモクラシー国民(あるいは国家)では」、「デモクラシー社会では」、「デモクラシー時代(あるいは世紀)では」の用例に見られるように「国民(あるいは国家)」や「社会」や「時代」と結び付く。
  ここで思い起こされるのはトクヴィルの良き理解者であったJ・S・ミルの評言である。彼は『アメリカにおけるデモクラシー』(第二巻)の書評でトクヴィルが文明のもたらす諸成果とデモクラシーのもたらす諸成果とを混同していると述べ、二つの現象の因果関係を明らかにする必要を説いた(1)。両者ともギゾの文明史講座の方法に学び、またその内容に感銘を受けたことは確かであった。それゆえ、デモクラシーと文明との関連性に関するミルの問題提起は、トクヴィルのデモクラシー論の考察にとって看過しえない。ミルはトクヴィル主著『アメリカにおけるデモクラシー』第一巻の書評を書いたあと、『文明論』(一八三六)を発表している。その論考によると、文明とは二重の意味をもつ言葉として考えられている。「われわれは、或る国がよりよく進歩し、人間と社会との最高の特徴についてすぐれ、完全性への道においてよりよく進歩しており、より幸福、崇高かつ賢明であると考えるならば、その国をよりよく文明化していると呼び慣れている。これが文明という言葉の一つの意味である。しかし、別の意味では、文明とは、豊かで人口の多い国民を未開人や野蛮人から区別するような種類の進歩だけを意味する。われわれが文明の害悪または悲惨について語り、また文明が全般的に善であるか悪であるかということが深刻に問われるのは、この第二の意味についてである(2)。」この引用が示しているようにミルにとって文明の概念は人間と社会との進歩やその進歩を善と見る価値判断に支えられている。ギゾの場合でもミルと同様に文明とは社会生活の進歩・発展と個人の内面生活における発展・人間性の進歩に他ならない(3)。概して文明の意味が一八世紀の啓蒙思想の「理性」・「進歩」・「幸福」の概念を吸収して形成されたことはよく知られているが、その概念にはヨーロッパの自己意識の表明である限り文明化の過程として、つまり未開から文明への進歩の歴史として語る方法概念の意味がある(4)。もちろんトクヴィルがこうした文明概念の影響から免れていたわけではない。だが彼は「デモクラシー文明」とはいわない。アメリカ社会の考察において多用され、重要な役割を果たす言葉は「社会状態」(etat social)である。
  彼にとって「デモクラシー」はうえに述べた文明の意味に含まれるものの、デモクラシー化は即文明化とはならない。文明には進歩の観念が結びついているのに対して、彼にはデモクラシーの潮流に進歩という価値判断を下すことにためらいがある。負の意味でのデモクラシー化、すなわち社会における均質化・画一化・類似化を助長する傾向は個人の内面生活に悪しき影響を及ぼし、また政治権力に隷従しやすい精神的土壌の形成に作用すると考えていたからに他ならない。
  一方、彼が文明ということで提示する事例は過去の偉大なローマ文明や中国文明である。アメリカ合州国、すなわち人口が増え商業が活発で全体として共和国が栄えている事実を眼前にした場合、文明化した社会という認識は当然あっても、それを「デモクラシー文明」として見るという認識は彼になかったようだ。おそらく新しい「デモクラシー社会」が形成途上にあると見る視点が強く働いていたためと思われる。その視点と単純な進歩史観への反発があったため彼は「文明」概念でこの社会を捉えようとしなかったといってよい。そこでルソーなどが使った「自然状態」と「社会状態」という「状態」対比概念がトクヴィルによって加工されることになる。すなわち、「社会」と「時代」(あるいは「世紀」)の二大制約条件が導入されそのもとで「デモクラシー」が躍動する状況とその発展を認識する概念として「社会状態」が創出されたと考えられる。この意味で「社会状態」は、当時普及しつつあった「文明」概念とは異なって明らかに社会比較を動態的に考察する手段の意味をもっており、啓蒙思想家たちの用語と区別しておかねばならない。したがってトクヴィルのデモクラシー論とその思想を検討するとき、文明比較と社会比較からなる彼の二重の思考操作が生み出す叙述そのものにメスを入れることが必要になる。
2  二つの社会類型、貴族制社会(Aristocratie)とデモクラシー(民主制)社会(De´mocratie)の検討
  トクヴィルの「社会状態」は類型化された貴族制社会と民主制社会との比較分析をとおして明瞭になる。これら二つの社会類型を用いた社会分析の成果は『アメリカにおけるデモクラシー』の全巻に見られるが、その第一巻よりも第二巻において顕著である。その理由は第二巻では事実に基づく叙述よりも抽象的思索的叙述の度合いが高くなっているためといってよい。では彼の著作からどのような政治・社会体系としての二つの社会類型が構成されるのか。
  この問題を検討する際、G・ポッジのトクヴィル研究が役立つ(5)。彼によるとトクヴィルの貴族制社会の特徴とは次の三点に要約できる。第一に、貴族制社会は上層の特権的少数者と下層の大衆との間がきっぱり分けられた二元的構成をとる。もちろん少数者の場合にも多様な次元(教育や機会など)において内的に分化が見られる。第二に、特権的少数者を構成するそれぞれの個人とその集団的構成体は特権を享受するが、特権とはなによりも権利であって、彼がローマ法の定式の引用から示していることから分かるようにそれは力や秘密の取引きや懇願に対する許容によって得るものでない。特権を有する者はそれぞれの利益になる仕方でこの確立された権利を持つ。したがってこの特典に対する侵害があれば、彼らはたとえ侵害が支配者からくる場合でも、正当に抵抗し得るのである。つまり不可侵の免除特権の領域が形成されることになる。第三に、特権者によって享受される権利のうちには彼らに統治権力の行使を認める場合がいくつかある。その際、この権力の対象は民衆のある部分や特権的集団自体の成員に向けられる。したがってこの社会では全体として特権的少数者の多様な部分のあいだで、社会の統治は多少の程度の差があるものの彼らの特権の一部として分散される。
  こうした特徴をそなえた社会を歴史学では「身分制国家」と呼ぶのは容易いし、またトクヴィル自身がこの社会の中核である貴族階級の役割をよく把握している。とくに特権的集団としての貴族階級の政治的役割の問題は、「デモクラシー社会」との対比において取り上げる必要がある。その役割は政治権力のありように端的に示されている。彼はいう、「貴族制的に階序づけられた構成をとる国々においては、権力は被治者全体を直接対象とすることは決してなかった。人々はお互いに関わりをたもち、上位の人々の行動に制約され、その他は彼らに服従した(6)。」と。各人の前にはただ服従の義務を果たすある人がおり、この人物を通じて人々はその他のすべての人々に結びつけられていた。忠誠ー義務の関係を中心にした垂直的上下関係の結節点に貴族階級がいて、彼らが人々を統治し管理する任務を引き受けていた。
  したがって国王と貴族との関係を見れば、「支配者(国王ー引用者)は自分だけですべてのことを行なっていたのでない。大抵の場合、彼の代わりに官僚たち(貴族たちー引用者)が行動したが、その権力は自分たちの生れから引き出したのであって、彼から授けられたのではなかった。彼らは支配者の手につねに握られていたわけでなかった。支配者といえども彼の気紛れによっていつでも彼らを任命したり更迭したりはできず、彼らの意志を無視して一律的な服従を求められなかった(7)。」この国家の支配原理は確かに門地にあるが、その統治機能は、身分的特権と結び付いた権力の多岐性のもとに彼ら固有の行政機構と重複的な権威をそなえた他の多くの集団(教会、教団、都市、大学など)によって遂行された(8)
  ところで貴族制社会の政治的機能を主に担う貴族階級に関して、そこに不平等の原理が支配していたとしても統治集団としては優れていたことが強調される。トクヴィルの見解ではこの集団には統治活動の連続性をはじめ、諸政策追求の一貫性や将来世代の利益に対する配慮などがある。「貴族階級ほど世界に自分の見解をはっきり堅持しているものはいない。人民大衆の場合には自分の無知や情熱にまどわされやすい。人は国王の考えを見破り彼の計画をぐらつかせることができるかもしれない。そのうえ国王も不死身ではない。だが貴族団はあまりに人数が多いので丸め込むことができず、軽率な情熱にやすやすと熱狂して行動するにはその人数があまりに少ない。貴族団は堅固で開明的な人間であって、しかも不死身である(9)。」彼は、このような貴族団が存在する場合には国王の専横を阻止し、また貴族団が担う権力分節化の構造が統治機能の集中に由来する諸々の害悪を防ぐと見ていたのである。
  ではこの社会で人々はどのように位置付けられるのか。この点はイギリスを念頭に置きながら、『アメリカにおけるデモクラシ』第二巻において次のように叙述されている。すなわち「富とは切り離されて人々を区別するものが生まれにだけある場合、各人は社会的階梯のどこに自分がいるかをはっきりと知っている。彼はその階梯を上っていこうとしないし、また、そこから滑り落ちる心配もない。このように組織された社会では様々な階層の異なる人々はお互いに交流することはほとんどない。だが、偶に彼らが接触する機会があれば、喜んで意気投合するが互いに混じり合うことを期待もしなければ、気にも掛けない。彼らの関係は平等(の原則ー引用者)には基づいてはいないが、強制的なものではない(10)。」この引用文には門地や習慣を肯定し、人々を上下関係の鎖の輪につなぎ止める伝統的社会とその下に生きる人々の社会的心理がよく捉えられている。人々が「連鎖をなして」結び付く不平等だが、共同的な社会、この社会イメージは人々が階層的障壁なしに流動化する「デモクラシー社会」像とは対照的である。
  確固たる伝統や信仰に支えられた貴族制社会では人々は身分的に安定していたが故に、孤立感や不安感に襲われることがほとんどなかった、とトクヴィルは考えていたようだ。もちろんその社会の内部には秩序づけられた同質的な集団が存在したが、諸身分間の階層的な序列が構造上の特徴をなしている限り、「デモクラシー社会」との対比では人々の意識と行動は均質的なものでない、むしろ多様であるとみなしていたことは確かだ。
  一方、「デモクラシー社会」とは発展途上にあるアメリカがモデルの経験的基礎であったことはすでに述べた。しかしその社会は貴族制社会のように歴史の土台に根をおろしたものでなく、まさに新しい現象として生起し、躍動している。トクヴィルにとってその限りでこの社会は初めから動態=現われとして把握せざるをえない。観察対象がもつ「発展」という特性がデモクラシー社会の構造を認識する場合に重要な働きをする。すなわちこの社会が永続的に「発展」するとするなら、どのような方向に向かって進むのか。将来の社会像を考えざるをえないという点では、彼が貴族制社会に対してとった立場とは対照的といってよい。「アリストクラシー」は過去のものに過ぎないが、「デモクラシー」は未来に属している。したがって彼が二つの社会を比較しているといっても、それは単純な比較論でないことは明瞭で、将来予測を前提にした文明比較の方法が駆使されることになる。
  彼の場合、『アメリカにおけるデモクラシー』の序論で述べたように「デモクラシー」の潮流は不可避なものである。将来の社会に対する期待と不安あるいは恐れ、この感情がデモクラシー論の論議を彩っているとはいえ、その傾向を捉えて彼の貴族的イデオロギー性を強調する必要性はない。一九世紀の前半にあってブルジョワ社会を「デモクラシー社会」の視角からまともに論じた人は彼以外にいなかったからである。
  トクヴィルは二つの社会を比較しているが、そのことによってわれわれに二者択一の選択を迫っているのではない。広くヨーロッパ国民の前に「デモクラシー」の到来が予測されている。その限りで二つの社会比較は初めから平行的比較でなく、新しい現象の「発展」性を計るための尺度として「貴族制社会」のモデルがあると考えたほうがよい。
  では「デモクラシー社会」の基本的特徴とはどのようなものか。この社会の基本原理は平等にある。彼は『アメリカにおけるデモクラシー』の中でしばしば「デモクラシー社会」、「デモクラシー国民」また「デモクラシーの世紀」という表現を使う。その場合、「デモクラシー」とは「諸階層の平等(化)」あるいは「諸条件の平等(化)」を意味することが多い。市民たちが身分的障壁のないところで自由に活動する社会、そして彼らが平等の情熱によって突き動かされる社会である。その際、人々の「平等自体への愛着(11)」に彼の鋭い観察眼が注がれる。
  まず一人ひとりの個人は、社会空間においてお互いにばらばらに切り離されたアトム的状態にあるものと理解される。「デモクラシー国にすむ人々はどんな優越者も下位者ももたず、また、日常的にはどうしても必要な協力者ももたないので、進んで自分自身に依拠しみずからを孤立したものとみなしている(12)。」一方、彼らはお互いに「人民主権」のもとに制定された法律による明確な権利をもち、みずからの利害関心によって結びつく。その限りで人々の結合関係は日常的に形成されているので、彼の捉え方は問題だといえるかもしれない。だがこの社会の中で個人は伝統にも習慣にもしばられず、利害関係で結びつく結合社会と見れば、彼らを結び付ける紐帯は貴族制社会より弱いことは確かだ。そのうえこの社会には人々の地位の不安定性が呼び起こす「嫉妬心」が大きく作用し、「安楽」を好み「物質的幸福を求める情熱(13)」とこれが一つになれば、個人の独立的な活動は強化され、その結果個人間の結合は弛緩のせざるをえない。したがって各人が平等な権利主体と規定されることは、彼にとって積極面と消極面との両価性が前提になる。つまり、「社会状態」において独立=孤立という意味において個人が認識されるのである。
  次に社会の平等化が進展すると、人々の心に不安を生み出すダイナミズムがこう描かれる。「人々の身分が混じりあい、様々な特権が打破されるとき、家屋の分割が進み知識と自由が普及する。その場合、貧者の心の中に安楽を獲得したいとする欲望が浮かび、冨者の心の中にそれを失うのではないかという恐れが生じる(14)。」こうして全体として見れば、この社会は「物質的幸福を求める情熱」が突き動かすエネルギーによって活性化する。トクヴィルはこの点を「デモクラシー社会」の長所と捉え、この社会の特徴を流動化と差異の消滅の傾向に求めていく。それゆえ、彼にとって社会構成原理としての平等性(デモクラシー)は苦渋に満ちた決意によって容認されたのである。なるほど、文字通りにこの社会ではすべての人が平等であるというような意味での平等ではない。
  第二巻のデモクラシー論執筆当時の手稿に次のような一文がある。「ある国民、ある社会やある時代がデモクラティクというのは人々すべてが平等である国民とか社会とか時代とかということはできない。そういった国民や社会や時代にはもう身分的階層制も確固した階級も特権も個人の独占的な権利も永続的財産も家門のもとに所有される不動産もない。そこではすべての人々が絶えずあるときには(社会の階梯ー引用者)を上り、あるときには下りる。そしてそこでは互いにあらゆるやり方でみんなが混じり合うのである(15)。」つまり彼が想定する「デモクラシー社会」のイメージとはそこに生きるすべての人が社会の上層と下層の間を往来し、将来的には中産化するイメージで捉えられていたといえる。
  さて流動化がこの社会の半面だとすると、平等化がもたらすもう一つの半面が人々の思想や行動や関心などにおける均質化・同質化である。「一国民において様々な身分がほぼ平等になると、人々みんながほとんど同じような考え方やものの感じ方をするので、誰もが一瞬にして他のすべての人の感情をみてとれる(16)。」だからトクヴィルは彼らが自分自身をすぐに顧みれば事足りると考えた。彼らが自分を他者と似たような同類(均質性・同質性)と意識する、という彼の主張は現在の社会学の認識(大衆社会論)からすると、常識の部類にはいる。だが、一九世紀前半にあってこれがいかに一般的認識とずれていたかは容易に理解できる。彼のデモクラシー論はまさにこの社会構成員の同質化=差異の消滅化を予測しつつ展開されていたのである。
  さらに彼の分析に依拠すれば、その傾向が逆に金銭のみによる人々の差異化に収斂する。この点に着目してはじめて「デモクラシー社会」の問題性が見えてくる。「様々な古いものに固く結び付いていたあの威信は消えてなくなり、生まれや身分や職業ではもはや人々は区別されないか、ほとんど区別されない。人と人の間の極めて明白な区別を生み出すものはもはやほとんど金銭しかない。そしてそれが彼らと同輩とを区別するものとなる。富みから生じる区別のためにその他のあらゆる区別は消失し縮小していく(17)。」こうしてトクヴィルの場合、「富への愛着」と「平等への情熱」が相即不離のものと認識される結果、社会における人々には金銭の多寡を尺度とする指標を除いて、差異の感情またはその意識が希薄化すると考えられたのである。いわゆる市民社会の平等というとき、この原理が権利上の観念としてでなく、社会心理の次元でどのように作用していくのかを分析した人ことトクヴィルに他ならない。
  彼の二つの社会比較は、過去を振り返る立脚点から検討された「貴族制社会」と未来を見込む立脚点から予測された「デモクラシー社会」との較量が平等原理の動態把握、つまり「デモクラシー」の因果関係の両面から考察されている。だが彼の経験の深層に目を向けると、すでに指摘した「不安」の意識がこの社会分析の根源にあるようだ。おそらくこの推測は間違ってはいない。というのは「私を取り囲む暗闇の只中に引き込まれる」というような示唆的でレトリックな表現を見出すことができるからだ(18)

(1)  J・S・ミル著山下重一訳『アメリカの民主主義』(未来社、一九六二年)、七九頁参照。「トクヴィル氏は少なくとも表面的には、デモクラシーの影響を文明の影響と混同している。彼は一つの抽象的な理念の中に現代の商業社会の諸傾向の全体を取り入れて、それにデモクラシーという一語を与え、彼が国民的繁栄の単なる進歩から、その進歩が現代において示す形態において自然的に生じてくる結果を、諸条件の平等に帰しているような印象を与えている。」
(2)  杉原・山下編『J・S・ミルの初期著作集三』(御茶の水書房、一九八〇年)一八二頁。
(3)  G. F. Guizot, Histoire de la civilisation en Europe, Hachette, 1985, pp. 55-72.
(4)  西川長夫『国境の越え方』(筑摩書房、一九九二年)一二九頁以下参照。
(5)  G・ポッジ著田中・宮島訳『現代社会理論の源流』(岩波書店、一九八六年)五−六頁参照。ただし、ポッジの捉え方はトクヴィルの描いた社会像を理論的に整理したもので、やゝ過剰解釈された点には注意がいる。また、トクヴィルの「貴族制社会」とその政治に関する理解について、問題を指摘したJ・S・ミルの批判は、二人の思想家の政治的立場の微妙な差異を反映している。とくに貴族政治の評価について、J・S・ミルの批判は正しいが、類型比較の方法としての側面がここでは注目されねばならない。J・S・ミルの批判とは「私が思うには、トクヴィル氏は、或る特殊な貴族政治だけの属性と断定すべきことを、貴族政治全般について肯定してしまったのである。すぐれた政策で有名になった統治が、一般的に貴族政治であったことは事実である。しかし、それは、すべての成員が行政の仕事に個人的に参与することができるほどのごく少数の成員で構成された間口のせまい貴族政治であった。それは、一貫性をもってーすなわち一定の原理に従ってー行政をする自然的傾向をもつ統治である。」(J・S・ミル初期著作集三、一五八頁)。
(6)  E. Nolla, D. A. t. 2, p. 166.
(7)  Ibid., p. 272.
(8)  Ibid., p. 108.
(9)  Ibid., p. 179.
(10)  Ibid., p. 149.
(11)  Ibid., p. 93.
(12)  Ibid., p. 243.
(13)  Ibid., p. 119.
(14)  Ibid., p. 119.
(15)  Ibid., p. 14, note g.
(16)  Ibid., p. 147.
(17)  Ibid., p. 191.
(18)  トクヴィルの表現形式についての分析は、C・ルフォールの論文が参考になる。Claude Lefort, Ecrire a` l’e´preuve du politique, Calmann-Le´vy, 1992, p. 55 et suiv. Tocqueville:de´mocratie et art d’e´crire.


三  「デモクラシー」と知的権威


1  「デモクラシー社会」の人間像
  かつてモンテスキューは『法の精神』の中で民主政の国では平等への愛や質素への愛が鼓吹されたと書いた(第一部第四編第三章)。だが彼はこの情熱を抱いた人々が社会全体にどのような影響を及ぼすのか、という視角から論じたことはなかった。アメリカ合州国を旅行して人々の平等への愛に着目したトクヴィルは、この人間の情熱が権利上制定された「デモクラシー社会」を観察対象に設定し、新しい人間類型としての「デモクラシー」的人間の把握に向かう。そしてこの点において彼はその後の思想家に多大の影響を及ぼすことになる。つまり、彼の主な関心は前章で述べたような貴族制社会とデモクラシー社会との対比枠組みのもとで浮かび上がってくるやや抽象的な「デモクラシー」的人間像にある。したがって、この全体像は『アメリカにおけるデモクラシー』の第一巻と第二巻との対比において検討した場合に見られる各巻の人間像(楽天的市民像と悲観的大衆像)とは一応区別しておかねばならない(1)。また、ここで取り上げるのは行論との関連における「デモクラシー」的人間像の社会心理的な特徴である(2)
  トクヴィルによれば、下は農民から上は国王まで一つの鎖の環のようにつながっている貴族制社会の人々と異なって、「個人は神聖なもの(3)」という価値観に立つ「デモクラシー社会」の個人は「常に自分は一人だと考えることに慣れ、自分の運命はすべて自分の手の中にあると思いがちである(4)。」その社会の成員は一面では積極的な意味をもつ価値観のおかげで、独立した自由人として活動するが、他面ではそのことがお互いの無関心を助長し、そこに他者感覚が力をえていく。言い換えると人間同士の情愛の弱さである。彼らには貴族社会の特権的な身分の諸個人が有したような同胞の運命を大きく左右する富も権力もない。だが彼らは「自足し得る程度の知識と財産を獲得し、かつそれらを保持するのである(5)。」こうした人々を歴史実態的にみれば中産階級とかブルジョワ階級といってよい。だが、トクヴィルの文脈上の意図ではむしろ自足し得る程度の知識と財産の所有者であると同時に連帯感情の希薄な孤立した個人に力点がある。彼の場合、知識の普及とささやかな財産の遍在にこそ「デモクラシー社会」到来の指標があるので、この社会的特質と知的権威の関連性の論議は看過しえない。
  ではこの社会の人間には、「貴族制社会」の人々と相違するどのような集団的性格が生まれているのか。彼によれば、貴族制のもとに生きる人々ではその家族は何世紀にわたって同じ身分のまま、多くの場合同じ場所に暮している。そこではすべての世代が同じ世代のように伝統や習慣に守られ、共通の感覚を基礎に生活していたと見る。というのは、ひとりの人は自分の祖先をほとんどいつも知っており、彼らを尊崇する。また自分のひ孫の存在までをとっくに信じ、彼らを慈しむ。お互いに喜んで義務を果たしあい、みずからの楽しみを今は亡き人々やこれから生まれてくるもののためにしばしば犠牲にすることがあるからだ(6)。すでに述べたようにトクヴィルは、この貴族社会に生きた人々を伝統、習慣、義務、階層、宗教などで固く結び付けられた安定した社会イメージのもとで捉えている。彼らの特質は「人間の情愛のきずな」の強さにある。まさに彼らは「デモクラシー」的人間とは対照的といってよい。
  一方、「デモクラシー社会」の人間の「精神」(esprit)、あるいは「心」(coeur)を規定するものは何か。それは「個人主義」と「物質的安楽への好み」である。彼は主著第二巻「デモクラシー国における個人主義」(第二部第二章)の中で、利己主義(e´goi¨sme)と個人主義(individualisme)とを区別し、「貴族制社会」には利己主義があったが、新しい思想が生んだ個人主義は平等化とともに広がったと見る。まず「利己主義」とは「激しい度を越した自己愛であり、何事も自分の利益だけに関わらせ、なによりも自分を愛する態度である(7)。」それゆえに彼はこれを「盲目的な本能」から生じたという。「個人主義」とはその源泉が「心の様々な悪習や精神の欠陥」にあるが、それは「誤った判断」から生じるもので、かならずしも低劣な感情でない。「個人主義」はまさに「思慮のある穏やかな感情」であって個々の市民をばらばらな孤立した状態に置くことになる。その意味でこの感情は人々の社会生活にとって必要な「様々な公徳の源泉(8)」(la source des vertus publiques)を涸す。長い期間をおいて見た場合、この感情はあらゆる徳を攻撃してついには「利己主義」と一体化してしまうのである。
  トクヴィルが「デモクラシー」的人間の抱く「個人主義」の感情を問題にするとき、彼は人間の正しい判断能力への期待と人々の備えている徳を念頭において論じている。そのうえで身近な人々とその小社会につながりを求め、より大きな社会=政治社会に目を向けようとしない孤立した人々の群れ(大衆)が「デモクラシー」的人間像として想定されているように思われる。もちろん彼らにも「人間の情愛のきずな」はあり、そのきずなの広がりも認められる。しかし彼らはおよそ「市民」意識をもつ人間にはならない。彼らの人間的な結合を不断に壊す発条がこの社会に働いているからである。その一つに他者に対する「妬み」が指摘できる。
  彼は、「個人主義」の概念を用いて「デモクラシー社会」における人間の結合のあり方を分析し、その社会での人々の結合のもろさ、不安定さ、あるいは「人間の情愛のきずな」の希薄さを明らかにした。だが近代社会は産業文明の産物であり、その成果が人間の物質生活と精神生活をますます複雑にする以上、人々の生活にも意識にも変化がでてくるのは自然なことといわねばならない。そこでこの変化の様相を平等化と産業化の交錯する状態から把握し、「デモクラシー」的人間の情念として位置付けたのが「物質的安楽への好み」(gou^t du bien-e^tre materiel)と呼ばれるものである(同書、第二部第十章)。
  トクヴィルによれば、物質的な幸福を享受したいという気持は誰もが覚える自然で本能的なものだが、「貴族制社会」の場合、富者にとって物質的幸福の追求は一つの生き方であって生きる目標でない。また貧者にとってその幸福を得ることは困難で、それを欲するほどには恵まれていないから、それに少しも思いいたらない。貧者の思いは来世に向けられる。
  ではこの欲求はどのようなときに一般化するのか。ひとの心がものにもっとも激しく執着する場合とは「ある貴重なものを安全に所有しているときでなしに、それを持ちたいとした場合不十分なかたちでしか満たされず、それを失う恐れが絶えずあるときである(9)。」そして彼はこのような時代とは階層的社会秩序がくずれ、無数の小財産が人々の手に握られる「デモクラシー」時代だという。すなわち「自分の素性のいやしさやその財産の少なさに駆り立てられ、またそれらに限りのあることが分かっている人々に本来備わっている情熱を一つ求めるとすれば、安楽を好むことほどこれに適合するものを私は見い出せない。物質的安楽を求める情熱は本質的に中産階級の情熱である(10)。」この情熱のおかげで「デモクラシー社会」は商業的工業的に繁栄した社会を生み出すことができるのである。
  叙上のような社会では人々がみずからの財産を保持し、物質的安楽を追求しようとすれば、秩序の安定は不可欠なものといってよい。むしろその充足には秩序の混乱をこそ恐れねばならない。したがって「デモクラシー」的人間は秩序それ自体を好む傾向がある。トクヴィルが「平等」への情熱を非難するのは変革を84e1い「許容された楽しみの追求(11)」に人々を没頭させるからに他ならない。
2  知的権威と「社会」権力の誕生との関係
  トクヴィルが詳しく分析したようなアメリカ社会、すなわち「デモクラシー共和国」は、モンテスキューが描いたような「徳」の原理による共和国像からは大きくずれている。この近代の共和国では徳に当たるものといえば、それは民衆の知識欲であり、教育の普及である。平等化は人々の好奇心に火をつけ知的自由を拡大し、各人は理性の行使のためにそれを役立てる。一見すると、「デモクラシー」的人間には「個人の思考の自立性(12)」が保障され、彼らはそれによってみずからの知的領域を拡大しているように思われる。だか、トクヴィルはその自立性が限られた領域に留まる、と見る。前章で述べた二つの社会比較の類型論によって、まず「貴族制社会」の政治階級の自然や人間についての誇り高い観念が強調される。この社会では貴族はなるほどしばしば極めて暴虐非道であったが、名誉を重んじその欲望を壮大な目標にむけた。矮小な快楽に熱中することがあってもそれに「一種誇り高き侮辱を示す。」「貴族制の時代には、概して人間の尊厳、その力と偉大さに関して極めて広範囲にわたる様々な観念が作り上げられる(13)。」また、貴族制の時代には「精神の悦び」が学問に求められる。
  一方、トクヴィルはデモクラシーの時代には「肉体の楽しみ」が求められると書く(14)。このような見解を知れば、人間の営みとしての精神的領域と物質的領域の二分法を前提にした彼の思考が精神的価値の称揚と不即不離のものであることを指摘するのは容易だ。だが、この論法を注意深く分析すれば、思想の展開を支えているものが「人間の尊厳」への強い感情以外のなにものでもないことは直ちに理解できる。では「デモクラシー」的人間の知的関心はどこに向かうのか。彼らの精神は富を獲得するための新しい手段の開発や快適で便利な生活をするためのあらゆる発明に、つまり実用的知識の拡大に注がれる。というのは、彼らの大半は「いまある物質的安楽に極めて貪欲で、いつも自分の占めている地位に不満を抱き、絶えずその地位を自由に離れられるので、自分の境遇を変え、財産を殖やす手段のことしか頭にない(15)」からである。
  それゆえこの種の知識と学問的才能を持つものや発明者は、利益や栄誉や力さえ与えられる。「なぜなら、デモクラシー(社会ー引用者)では勤労する階級が政治に参加し、彼らに奉仕するものに対して金とともに名誉をも与えることになるのは当然である(16)。」その限りで人間の精神は「深遠で時間のかかる精神活動(17)」を軽視し、「知性のもっとも高い領域に(18)」みずからを高めようとはしない。したがって、物質的価値が人々の判断の中心となる社会では、知的権威の基礎は崩れやすく、人間の徳性に関する感覚も希薄にならざるをえない。
  トクヴィルが危惧しているのは、「デモクラシー社会」のもとで知識が普及し、学問が発展するにもかかわらず、それらが多様な形で展開せず、ある傾向に収斂していく点にある。つまり精神活動のあり方が根幹から問われ、その跛行性に疑問が投げかけられているといえる。
  人間はみずからの知性によって自由の領域を拡大しているのであろうか。彼がこの社会そのものに対してある種の「不安」を感じたのは確かである。そしてそれは自国の政治的変動からくる展望の予測不可能性と結び付いて彼の心の中でますます大きくなっていく。主著の第二巻に漂う悲観的論調はおそらくこの「不安」から説明できるであろう。
  ところですでに述べてきたことから分かるように、トクヴィルの議論では市民社会と政治社会との関連性は「デモクラシー」を基軸に総合的に把握されている。例えば両者の関係は、市民社会の拡大化・活性化と政治生活の縮小化あるいは希薄化として捉えられる。「デモクラシー時代では私生活が活発で欲望の充足や仕事に追われ、そのため各人にとってはもう政治生活のためのエネルギーも暇もほとんど残らないのである(19)。」彼の場合、「デモクラシー」的人間の特徴として内面の精神生活を軽視する傾向や公共生活への関心の希薄さが強調される。この視角からすると、一体彼らはみずからの判断や行動において何を基準とするのか。言い換えると、「デモクラシー社会」における権威の性格の問題が浮かび上がってくる。
  概してどの社会にも宗教をはじめとして様々な権威は存在し、それがない社会は想像できない。ところが「デモクラシー」政治の本質とは「多数の支配の絶対性(20)」にあって、多数派が政府を支配する。そしてこの支配を社会的に支えているものこそ彼によれば、「世論」の支配に他ならない。ここにきて「デモクラシー」的人間は無名性のもとに数量的に扱われることになる。だが、この「数量」のもつ精神的威力は従来の「権威」の観念では把握しきれない。彼は「世論」が政治の世界に及ぼす影響についてもっとも早くきづいた一人だが、問題はこの次元を越えたところにある。
  すでに触れたように、トクヴィルは「デモクラシー社会」の建設を「更地」という見方で論じた。アメリカでは「デモクラシー革命」を妨げるものは何もない。この国の人々は自由に振る舞い、それぞれの精神活動には「限りないほとんど何もない空間(21)」が開かれている。ヨーロッパの旧社会には伝統と歴史があり、諸条件の平等は様々な階級闘争の結果として徐々に認められてきた。それゆえこの地では、当然王権やカトリック教会の権威そのものへの反抗・破壊があった。そのことが広く権威への不信を生んだ。
  一方、「デモクラシー社会」では知識が求められ普及するにつれて、逆に知的権威が強く求められる傾向にある。だが一般の人々にはすべての問題に十分な意見を述べる時間も判断力もない。彼はいう、「平等時代に生きる人々は好奇心が旺盛だが暇がない。彼らの生活は極めて実用的で複雑であり、大変活発で積極的である。そのため彼らには考えるための時間がごくわずかしかない。デモクラシー時代の人々は一般に受け入れられた考え(les ide´es ge´ne´rales)を好む。というのは様々な個々の場合を考えることをしなくてもよいからだ。−中略−そこで粗雑な考えのもとにわずかな時間で検討したあと、ある問題のあいだに共通の関連を見い出したと思い、それ以上の追求をしない。また、様々な部分部分にはどうして同じようなところや差異があるのかを検討もせずに、急いでそれらの問題を同じ形式のもとに分類して次の問題に移ってしまう(22)。」こうして社会に流布する皮相的な検討から出てきた意見、「一般に受け入れられた考え」に彼らは依拠しようとする。トクヴィルは、こうして知的な権威が「社会」そのものに求められるのは確固たる信念が見出せないからだと判断した。
  そこで次の問題はこうなる。かつての信仰がすたれ確固たる信念がなくなる場合、「デモクラシー」的人間の求める権威の源泉はどこにあるのか。彼の「デモクラシー」論草稿の中にはその問題への追求の跡が読み取れる。それによれば、デモクラシー社会の人々が自分のよりどころを求める場所は彼岸でも人間より高いところでもなく人間(社会)それ自身にある。この人間の中にあって各人が極めて多くの問題について自分の意見をもてぬ場合、それらを作り上げようとして関心を寄せるのは専ら大衆に対して(a´ la masse)である(23)。「大衆」が知的権威の源泉であると洞察したのはトクヴィルがはじめてに相違ない。
  彼が「世論」を否定的に捉えていたという解釈もあるが、思想の交流や討論を重視し、様々な見解に必要な「共通の意見」を認めていた彼に広い意味で世論を肯定的に見る余地は十分あった(24)。だからトクヴィルの権威論を問題にする場合、「大衆」と「世論」と「社会」の三者関係を等式で結びつけて理解するのはやや粗雑な議論といえないか。「政治社会」と対比される「市民社会」の中に形づくられる合力としての「社会」に重点があったように思われる。彼が恐れたのは数の力の上に立つ「社会」的権威であったといったほうがよい。

(1)  この二つの人間像の問題については拙著『フランス市民社会の政治思想』(法律文化社、一九八一年)三八頁以下参照。
(2)  P・マナンは「デモクラシーの問題は、つまり民主的人間の問題であり、またこの人間の特徴とは平等への情熱である」という。P. Manent, Tocqueville et la nature de la de´mocratie, Julliard, 1982. cit., p. 95. これは、いわばあたりまえのことであって、この点のみで「デモクラシー」的人間を捉えるのは逆に問題を残す。この人間の特徴は、徳とデモクラシー的悪弊との葛藤のうちにあるといえるだろう。
(3)  O. C. t. vi-1, pp. 52-3.
(4)(5)  E. Nolla, D. A. t. 2, p. 98.(岩永・松本訳書九八頁)。
(6)(7)(8)  Ibid., p. 97.
(9)  Ibid., p. 119.
(10)  Ibid., p. 120.(前掲訳書一三〇頁)。
(11)  Ibid., p. 122.
(12)  Ibid., p. 18.  なお権威についての問題に次の著作が参考になる。A. Carter, Authority and Democracy, Routledge & Kegan Paul, 1979.
(13)  Ibid., p. 50.
(14)(15)(16)  Ibid., p. 51.
(17)  Ibid., p. 50.
(18)  Ibid., p. 51.
(19)  Ibid., p. 243.
(20)  Ibid., p. 193.
(21)  Ibid., p. 17.
(22)  Ibid., p. 30.
(23)  cf. E. Nolla, D. A. t. 2, p. 19. note a.
(24)  一八世紀フランスの重農主義者は「世論」の概念をつくり出し、その意義を認めていたので、トクヴィルにはこの視点が継承されていたと考えることもできよう。ハーバーマスの『公共性の構造転換』は権威の問題を考える素材となる。


お  わ  り  に


  「デモクラシー」論のジレンマを問題にするとき、この数量的側面の機能と論理上の位置づけがどのような思考の展開によって行なわれたか、注目する必要があろう。トクヴィルは「貴族制社会」と「デモクラシー社会」とを比較した場合、両社会に共通に「市民」という言葉を使用しており、この言葉自体が理念的に用いられていたことはよく分かる。それは西欧の政治思想的伝統に見られる公的領域で活動する自由な政治主体であって、私的領域に閉じこもる「個人」ではない(1)。彼が貴族に「市民」の姿を求めるとき、そこに戦士の自己犠牲や高邁な理想の追求や精神の高貴さを見ていたからであり、アメリカのタウンの住民を「市民」とみなしたのは彼らの公共心の強さ、様々な次元での地域行政への参画や積極的な政治参加のゆえであった。つまり彼の思考では「市民社会」よりも「市民」の活動の場としての「政治の世界」が優位を占め、この理念的な「市民」(つまり自由の担い手)が政治理論の形成上重要な役割を果たすことになる。ところが「デモクラシー社会」ではまさに「社会」それ自体が「政治の世界」に巨大な影響を及ぼしていく。それは彼にとってこの世界を支える政治主体の基盤の変容を意味する。この二つの領域を結ぶ共通の力こそ数として捉えられるばらばらな個の集まり、つまり「大衆」に他ならない。大衆としての個人という場合の形容矛盾、つまり一人ひとりの個人は「個」として数えられることで、一方で自立した人間とみなされ、他方それゆえに数量的に還元される側面を引受けざるをえないのである
  「デモクラシー社会」は独立で自由な人々の活発な活動に支えられて繁栄していくように見えるが、他方で人々はそれぞれ平等の実現を求めて、類似化、同質化していく。産業化の成果がこの社会的傾向を促進するのに寄与する。同時にこの傾向が人々の独自性=個性の追求を促し、個性の多様化も広がる。だが「デモクラシー」の精神は二つの傾向を発条として一層の均質化=全体化に向かう。「デモクラシー社会」のジレンマの問題とはこの運動自体から人間が逃れられないことにある。彼が「大衆」を恐れたと書くのは正確でない。このジレンマを彼の思想の根本において議論しなければならない。トクヴィルは「大衆」を構成する各人に「市民」の資質があることを知っていたし、彼ら一人ひとりに対して不信の目をもっていたわけではない。彼は今後ますます巨大化するであろうと予測した「社会」の「力」(「社会的権力」)にほとんどの人間が支配されることに恐れを抱いたに違いない。この力を単に「世論」に矮小化してしまうことは彼の描いた社会イメージを捉えそこなう。この「力」には類似化や均質化のみならず、こうした運動それ自体が含意されていたからである。
  トクヴィルの思想の根底にはつとに「不安」の感情が渦巻いていた。この感情はアメリカ旅行の体験をへて、彼のデモクラシー論に影響を及ぼしつつ、「デモクラシー社会」それ自体に内在する階層間の流動化・類似化などの傾向や「社会」の「力」の増大傾向を発見するに及んで一層、膨れ上がったといえるのではないか。例えば、文明が発展すれば、人々の習俗は荒々しいものから緩やかなものになり、法制度も整備され法の支配と順法精神が形成される。これは社会秩序の維持から見れば、積極的な意味をもつ。それゆえ彼自身もこの傾向を肯定している。だがその傾向は別の視点から見れば、「社会の権威」の強化を助長するものに他ならない。「社会の権威」または「社会の権力」の増大化と個人のもつ力の弱体化。これらの傾向が相補性の関係を保持しつつ拡大するという認識を二つの社会比較の考察から引き出した「デモクラシー社会」の最大の問題とすれば、彼の自由論は知的権威の問題を抜きに語れず、また従来のいわゆる政治的自由主義の枠組み(国家対個人、権力からの自由)によって捉えることは難しい。それは彼の自由論の一側面にすぎない。かつて私が示したように人間の自由の視角から重層構造的に捉えることが大切である(2)。彼の分析した「デモクラシー社会」のジレンマと自由の問題との関連性、この課題はわれわれの時代の課題といってよく、その意味でトクヴィルはこれを先取りして苦闘していたといえる。あえてポスト・モダンという言葉を用いれば、彼こそこの時代に生きる思想家といってよいであろう(3)

(1)  拙著『フランス市民社会の政治思想』第三章三節九三頁以下参照。古代ギリシアのポリスでは「市民」とは投票権をもち同時に戦士であったことに注意しておく必要がある。
(2)  拙稿「トクヴィルの政治思想ー人間の自由と連帯感を求めて」第二章、三二三頁以下参照。なお、トクヴィルの自由論を現代の共同体論の観点から論じたチャールズ・ティラー「多文化主義・承認・ヘーゲル」(『思想』、一九九六年七月号)がわれわれの関心を引く。ティラーはいう、「わたしの場合は、簡単に言えば、自分ではトクヴィル主義者だと思っています。言いかえると、わたしは近代的な自由主義をある程度評価します。それは、近代社会が達成した最大の功績の一つが、自由だけでなく、自ら治める大衆の出現にあると考えるからです。・・・中略・・・トクヴィルが明快に述べているように、社会についてひとびとの強固な共通の意識(common identification)と民主的な構造がなければ、その社会は危ういものになります。自由社会は、どちらかというと強い共同体意識(sense of community)を必要としているのです。」(同書一八頁)。コミュニティの絆の重要性に着目してトクヴィルの自由論を読む一つの流れ=コミュニタリアン的トクヴィル解釈の方向がティラーによって示唆されている。
(3)  トクヴィルの思想を同時代の文脈から捉えると、保守主義とフランスの急進的共和主義の二つの側面が指摘でき、したがっていわゆる自由主義の分類に入らない。こうしたトクヴィル像を考察した著作に R. Boesche, The Strange Liberalism of Alexis de Tocqueville, Cornell University Press, 1987 があるが、本稿は、彼の懐疑とデモクラシー理解の関連性の観点から論じているので、この種類の文献には言及していない。
(3)  トクヴィルの思想を同時代の文脈から捉えると、保守主義とフランスの急進的共和主義の二つの側面が指摘でき、したがっていわゆる自由主義の分類に入らない。こうしたトクヴィル像を考察した著作に R. Boesche, The Strange Liberalism of Alexis de Tocqueville, Cornell University Press, 1987 があるが、本稿は、彼の懐疑とデモクラシー理解の関連性の観点から論じているので、この種類の文献には言及していない。