立命館法学  一九九六年六号(二五〇号)一四九五頁(一五五頁)




近世の非合法的訴訟(五)
−駕籠訴・駆込訴を素材として−


大平 祐一






目    次


  • 一  は じ め に
  • 二  駕籠訴・駆込訴の取扱
      (一)  序
      (二)  駕籠訴・駆込訴の取扱(このまで、一八三・一八四合併号)
      (三)  駕籠訴人・駆込訴人の取扱(以上、一九四号)
      (四)  三奉行への駕籠訴・駆込訴
      (五)  小括(以上、二一一号)
  • 三  駕籠訴・駆込訴の背景
      (一)  序
      (二)  訴訟抑圧(以上、二四三・二四四合併号)
      (三)  不公正な審理(以上、本号)




三  駕籠訴・駆込訴の背景

(三)  不公正な審理
  (a)  序
    近世日本の「訴訟」審理は、厳密な意味で客観的な法に拘束されて行われる第三者の判定という営みではなかった。
  (イ)  原告・被告が相争う出入筋の裁判では、奉行所は、「双方の申立に必ずしも拘束されず、状況を勘案して独自の立場で結論を出し、奉行が『裁許』として申渡す(1)」。奉行は、「原告の主張が法規範等に照して理由があるか否かではなく、当該紛争をめぐる諸問題に公権的裁定・処分を下し、必要ならば関係者に軽い刑罰を科(2)」したのである。裁判において奉行は、当事者の主張と既定の法との双方から独立した判決が可能であったのであり(3)、近世における「裁許」の実質は、「行政処分的なもの」といってもよい(4)
  こうした性格を有する近世の民事的裁判(出入筋の裁判)は、水林彪氏の指摘されるように、「父による兄弟喧嘩の裁定ににている(5)」。そこに見られるのは、「家族内紛争を、権威的教諭的に、形式的な法的諸原理や手続上の確定的形式によって拘束されることなく解決するところの」家父の権力である。近世の民事的裁判の家父長制的性格は、こうした家父のイエ権力の原理を、国家的次元へ拡大転用することによって生じたものといえよう。そこでは、イエの内部秩序の場合と同様に、紛争当事者も裁判官も、およそすべての人々が等しくそれに拘束される超越的規範という意味での「法」なるものを語ることができない。
  (ロ)  刑事事件の裁判ともいうべき吟味筋の裁判は、いうまでもなく裁判役所の役人が訴追者(検察官)と裁判官の役割をともに担って被疑者を追求するという糺問主義の裁判であった。そこでは自白が最も重要な証拠とみなされ、それゆえ事実認定の核心をなしたのは、供述録取書(「吟味詰り之口書」)をとることであった。被疑者の自白を引出すために厳しい尋問、拷問等が行われたのであり、事実認定の審理において客観的な証拠法とそれにもとずく第三者の判定は期待できなかった。事実認定の審理は、「国家の役人による犯人の取調べ」にほかならず、厳密にいえば裁判ではなく、今日の「行政当局による被疑者の取調べ」の段階に比すべきものであった(6)
  事実認定が終了すれば、次の課題は、それが法的にどのような評価を受けるのかという法的判断の問題である。刑事裁判の法的判断にさいしては、周知のように、「御定書」(「公事方御定書」)が第一次的な準拠法とされていた。しかし、「御定書を第一次的に準拠とするといっても、その適用に当っては自由に類推拡張をなすことが許されていた」。「いな、御定書に拘束されることなく、その趣旨を具体的場合に応じて推及し、妥当な解決を見出すべきものとされていたのである(7)」。「御定書」の規定に拘泥せず裁判官の「見込の趣(8)」をもって判断することが認められていたのである。
  このことは第二次的な準拠法とされた先例についてもいえることであり、相当の先例がなければ無理に不相当な先例によるのではなく、類例によるべきものとされ、しかも「類例の範囲は自由に拡張しえた(9)」のである。
  こうして見ると、「御定書」、先例、類例のいずれも、裁判官が裁判にさいしそれに拘束される客観的な法というよりは、原理的には、法的判断にさいし用いる一つの基準にすぎなかった。裁判官は、網羅的でないこれらの「法」を無理に適用する必要はなく、これらを基準にして、適宜、軽重を較量することが認められていたのである。この意味で、徳川幕府刑政は罪刑法定主義の立場に立つものではなかった(10)
  近世の刑事裁判の法的判断において最も重視されたのは、犯罪が成立するか否かの有罪・無罪に関する問題よりも、犯罪的な行為の存在を前提として、その行為がどれほどの刑罰に値するのかという問題であった。それゆえ、判例法は、「刑罰適用論を中心とし、その限りで精緻に発達した(11)」。「御定書」、先例、類例は、こうした刑罰適用にさいし用いられる一つの基準−すなわち、量刑の基準−にほかならなかった。裁判官に求められたのは、刑罰適用について具体的妥当性をはかることであり、その限りでこれらを利用したのである。具体的妥当性をはかるための裁判官による裁量は、客観的法にもとずく判定としての司法作用というよりも、「合目的性の追求を本旨とする行政作用(12)」に近い性格のものといえよう。
  (ハ)  訴願的「訴訟」の審理も、裁判所であると同時に行政庁でもある奉行所や代官所等の裁量によるところが大きく、客観的法に拘束された第三者による判定という性格をもつものではなかった。そこに見られるのは、行政目的から見てその訴願が妥当であるかどうかという「合目的性の追求を本旨とする行政作用」にほかならなかった。
    かくして近世日本の「訴訟」審理は、裁判的「訴訟」においても、訴願的「訴訟」においても、いずれの場合も厳密にいえば、客観的法に拘束されて行われる第三者の判定という性格をもつものではなかった。司法的色彩をもつとはいえ行政的性格の濃い民事・刑事事件の審理、そして行政そのものともいうべき訴願の審理、これらはいずれも支配者が天下を治める行為の一環にほかならず、その基本原理は、家産的家父長制的支配にほかならなかった(13)
  しかし、そのことは、「訴訟」審理が全く恣意的に、裁判官、裁判所役人の思うままになされてよいということを意味したのではない。家産的家父長制的支配は、確かに、究極的には法に拘束されることのない支配であるが、それは裸の暴力的支配、無秩序の支配ではない。およそ支配と呼び得るものは、支配される者の服従の意思なくして円滑に行われ得るものではない。「訴訟」審理が、紛争解決、治安の維持、民生の安定、人民の要求充足など、広い意味で支配の一環としてなされるかぎり、それは「訴訟」当事者の納得いくものとして展開される必要があった。それゆえ、「訴訟」審理担当者には、審理を公正に、人民に疑念を抱かせることなく遂行することが強く求められた。
  (b)  「公正な審理」の理念とその不徹底
    近世日本において、「訴訟」審理の公正さを保つため、公事裁許等を取扱う者が心得るべきものとして力説された言葉に、「官」「反」「内」「貨」「来(14)」という五文字で表わされる言葉(「五過」)がある。「官」とは、「役儀の威勢」を笠にかけ、「訴訟」の取捌に私曲のあることをいい、「反」とは、人に対する恩や怨の感情から判断に依怙贔負があることをいう。「内」とは、妻、妾等の口入によって裁許等に偏頗が生ずることをいい、「貨」とは、賄賂に心をとられて非を理にすることをいう。そして「来」とは、日ごろ出入りをし目を懸けている者の望にまかせた取捌きをすることをいう。裁判官、裁判役所役人のこのような振舞いによって、審理の公正さが失われることはいうまでもない。このような不公正な取扱いをすると裁判役所の信頼が失われ、人々がお上(かみ)の統治に不信を抱くことになることは火を見るよりも明らかである。それゆえ、近世日本の名裁判官として知られる人々は、公正な審理を行うべく、つね日ごろからこの「五過」について注意を怠らなかった。
  清廉潔白で知られる京都所司代板倉勝重には、次のような逸話が残されている(15)。勝重が京都所司代に就任する前の天正一六年(一五八八年)、徳川家康が駿府に移住したさい、勝重は家康より駿府町奉行への就任を命ぜられた。「自分はその任に耐えない」と固辞する勝重に、家康が強く就任を迫ると、勝重は、「妻と相談して御返事したい」と答えた。家康は笑って勝重の申し出を許した。勝重は帰宅して妻に事の次第を話し、妻の意見を求めた。唐突な質問に驚く妻に対し勝重は、「自分がこの任に耐えるかどうかは、自分一人の決心によるのではなく、お前の心がけによるのだ。これまで奉行、頭人などと云われた人で、その身、その家を亡さなかった例はまれである。その原因は、内縁、賄賂等による不正に起因することが多く、こうした災いは婦人よりもたらされるところがある。もしお前が、親しい人に言いよられて訴訟の事をとりもったり、あるいはさし出がましくものを申したりするようなことは一切しないと誓わなければ、自分はこの職に任ずることはできない。だからお前と相談せよと殿様も言われたのだ」と述べた。事の次第を理解した妻は、勝重の求める通り固く誓う旨答えた。この妻の返事を聞いて勝重は大いに喜び、出勤せんとして衣服を着した。その際、袴の後腰が乱れていたので妻が注意し直そうとしたところ、勝重は、「さし出がましいことは言わないと、たったいま誓ったことを忘れたではないか。このようなことでは自分としては重職を引受けるわけにはいかない」といって衣服を脱ごうとした。妻は大いに驚いて、先程の誓いを怠りなく守る旨述べると、勝重は、「その言葉いつまでも忘れたまふな」といい残して家康のもとに出向き、駿府町奉行就任の承諾をしたという。
  勝重の実際の「訴訟」審理がいかに公正であったかは、『藩翰譜』に、「当時の智ある人に勝重の事を尋ねしに、此の人の訴へを断るに、訟(訴カ)へにまけしもの、おのが罪なる事を悔みて、職(勝重ー大平註)を恨まずと答へしといふ。此一言にて、此の人の才と徳とを知るべし(16)」とあることからも知られよう。
  勝重の子、重宗もまた名裁判官としての誉れが高い。彼が公正な審理を行うため、裁判役所での「訴訟」審理にさいし、明り障子をたててその内側に座わり、茶磨で茶をひきながら訴えを聞いたという話しはあまりにも有名である。父勝重に劣らず清廉潔白な重宗については、「此の人、官反内貨来の五つともに備はりしかば、訴へを聞く事の明かなる事むべなり(17)」と言い伝えられている。公正な審理のため、重宗は、父勝重同様、「五過」についてつね日ごろから注意を怠らなかったのである。
  近世初期の名君といわれた保科正之も、「官」「反」「内」「貨」「来」を、公事裁許を行う者、さらには政務にあずかる者全般の心得として力説し、「諸事公平之取扱ひを失ひ候得者、四民心服可致様無之義、常々無油断心ニ不戒候而ハ難相成事(18)」と注意を与えている。公正な「訴訟」審理を行うことは、人民の「心服」を獲得するための必要不可欠な要素であったのである。
    しかし、板倉父子や保科正之の力説した「公正な審理」の理念は、裁判官、裁判役所役人の間に十分徹底されず、現実の「訴訟」審理も、彼らの説くように、公正無私に行われたわけでは必ずしもなかった。実際、訴訟人の言い分を満足に聞かぬ審理、相手側の糺問を十分行わぬ審理、強圧的審理など、「訴訟」関係者にとってとうてい公正とは思えぬ審理が少なくなかった。なかには、裁判官が紛争の一方当事者の背後に控える権威に恐れをなし、不公正な裁判を行うという場合も見られた(19)。周知のように、大岡越前守忠相が山田奉行時代に、山田奉行支配下の幕領農民と紀州藩領民との争論につき、紀州藩の権威を恐れず紀州藩領民側に敗訴判決を申し渡し、その公正な裁判ぶりを徳川吉宗に大きく評価されて、のちに江戸町奉行に抜擢されたと伝えられている。この逸話については、直接に争論に関する史料も残っておらず、大岡忠相と将軍吉宗を結びつけようとした後世の作り話の可能性が高いともいわれている(20)。仮にそうであるとしても、このような逸話が作られるということは、当時、権威を恐れず公正な裁判を行う者が極めてまれであったということを示すものといえよう(21)
    近世日本において、「訴訟」審理の公正さをゆがめたもののなかで筆頭格として挙げられるべきものは、いうまでもなく、賄賂であろう。賄賂により「訴訟」の審理がゆがめられるという現象は、近世全般を通じて広範に見られた現象であるが、その徴候は、かなり早い時期から見られた。上述した板倉勝重の駿府町奉行就任の際の逸話に見られるように、当時も、賄賂による不公正な「訴訟」審理を行った罪により、その身、その家を亡ぼす奉行等が少なくなかったのである。明暦二年(一六五六年)から万治二年(一六五九年)まで、足かけ四年にわたって幕府評定所で争われた宇和島藩と土佐藩の漁場入会をめぐる争論(沖之島争論)も、賄賂によりゆがめられた裁判の一例といえよう。この争論では、土佐藩家老野中兼山が、老中酒井忠清に接近するとともに、評定所の目安読、右筆などに手を廻し、「十のうち九までは」土佐藩側の言い分が通るような判決を引出した。兼山はさらに右筆に依頼して、老中に内緒で判決文言の一部を土佐藩側に有利になるように書き改めさせたといわれる。この右筆には、後日、土佐の朝倉神社の縁起清書への謝礼という名目で土佐藩から「黄金十両」が贈られた。事実上の賄賂である(22)
  江戸幕府の基礎が固まり天下泰平の世が続くにつれて、商品取引・金銀流通も盛んになり、交換価値としての金銀に対する人々の欲望が増大するなかで、賄賂の風潮も一段と激しくなった。そして、上下を問わず行政、政務にたずさわる者全般が、その家来たちを含めて贈収賄の流れの中に巻き込まれていった。宝永六年(一七〇九年)二月に、老中、若年寄等への内証の音物や「間之見舞」と称する音物、ならびに老中・若年寄等の家来への贈物を禁ずる法令が出された(23)が、これは、当時、いかに政務にたずさわる高官たちへの疑惑に満ちた贈物が多かったかを端的に物語っている。賄賂の弊風が役人全般に蔓涎するなかで、公事訴訟もおのずとその影響を受け、音物、手土産、袖の下、鼻薬等の類を役得のように考える風潮が強まっていった(24)。正徳二年(一七一二年)九月五日、評定所一座宛に達せられた法令にも、「凡公事訴訟の事、或は権勢の所縁有之候輩、或は賄賂を用ひ行ひ候輩之類は、其志を得候て、其望を達し候者共有之由、世上に申沙汰し候所、すてに年久敷候を以、御代始之時、御条目にしるし出され候といへとも、其旧弊今に相改らさるよし、猶々其聞え候(25)」とあり、権勢・賄賂により公事訴訟の審理がゆがめられるという風聞が断えなかったことが分かる。実際、評定所や奉行所の実権を握った留役らが、しばしば職権を乱用し、賄賂によって判決を左右したことは、つとに『折たく柴の記』が指摘するところである(26)
  目を地方に転じてみると、正徳三年(一七一三年)五月、佐渡国百姓より佐渡奉行へ次のような訴状が差し出されている。
  「一先御代荻原近江守様初入国之後、二度御下向被為遊候ニ付、廿ケ年余以来当国之公事沙汰、其外請物せり物等ニ至迄、惣而御役人衆江御内証よろしく不申入もの共之儀ハ、筋目之御訴訟ニ罷出候而も利不尽ニ被仰付候ニ付、理ヲ達而申分候得ハ、剩籠舎手鎖ニ被仰付、身体失候者共、町人百姓ニ至迄限無御座候(以下略(27))」
右訴状によれば、佐渡奉行所役人に内証に宜しく申入れておかない場合は、農民たちの公事沙汰等は、たとえそれが「筋目之御訴訟」であっても奉行所役人より「利不尽ニ被仰付」という不公正な取扱いを受けたのである。内証に宜しく申入れるとは、いうまでもなく、音物や贈物を持参して宜しく取り計らってくれるよう内々に願い出ることであり、実質的な賄賂の提供であった。京都町奉行所でも、元禄の頃、音物等により不正を行う与力が多かったといわれる(28)。大坂町奉行所では、元禄八年(一六九五年)一一月、奉行の加藤泰堅が知行所を没収され、磐城棚倉城主内藤紀伊守へ預となっている。配下与力の収賄を黙認していたことが発覚したためである(29)
  近世前期の日本において、「訴訟」審理をめぐる収賄は、中央・地方を問わず、高級政務官から下級役人に至るまで、広範に見られた現象であったのである。
    『梧窓漫筆拾遺』は、賄賂の危険性を次のように指摘する。
  「賄賂の一條、古今政治の通弊なり。尭舜三王の御世には各別なり。其他は賢主明君の世とても此一條は止みがたき理なり。厳禁を加へられば、公には行はれずして隠私に行はる。進むまじき不材の者の進むも、勝つべき訟獄の負けになるも、政治の濁乱是よりして生ぜり。甚しきは、官爵も獄訟も売り物となりて、世は傾くなり。畏るべきの甚しきなり(30)
賄賂による昇進や不公正な「訴訟」審理(「勝つべき訟獄の負けになる」、「獄訟も売り物とな」る)が、一国を滅ぼしかねないことを、端的に指摘している。
  こうした賄賂の危険性を熟知していた新井白石は、蔓涎した賄賂による政道・裁判のゆがみを是正すべく、賄賂禁止、網紀粛正に精力的に取り組んだ。彼は、奉行やその家来等が賄賂により「訴訟」審理をゆがめることを厳しくいましめる(31)とともに、公事訴訟の当事者が奉行や奉行所役人、家来等へ内縁を求めて音物を贈ることを禁ずる法令を、江戸町中ならびに全国の寺社方、御料、私領へ発し(32)、賄賂による不公正な「訴訟」審理の防止に懸命につとめた。また、白石は、江戸の三奉行や遠国奉行等が、各方面の人物から、その支配下の者の事柄につき頼まれ事を引き受けることを禁じている。頼んできた人物如何によっては断わることができず、「正道之沙汰」が保障できなくなるからである(33)
  新井白石のあと幕政を主導した八代将軍徳川吉宗は、虚礼虚式を嫌い、質素倹約を旨とし、賄賂を嫌ったといわれる(34)。吉宗も、白石同様、公正な「訴訟」審理の実現に意欲をもやし、賄賂・贈物等による「訴訟」審理のゆがみの発生を防止すべく努力した(35)。享保一四年(一七二九年)一一月二九日、百姓の訴訟につき賄賂を貪った評定所留役山本伝九郎、安野八郎左衛門が切腹を命ぜられた(36)。同年一二月二八日、代官野村作右衛門、小林平六が収賄の罪で追放されている(37)。また、元文五年(一七四〇年)五月一二日には、奉行所役人等に対し、訴訟人や願人のことにつき頼みがましいことをする者があった場合は老中等へ届出るように命じた法令が出された(38)。「公事方御定書」の中には、「寛保三年極」として、「公事諸願其外請負等ニ付而、賄賂差出候もの、并取持いたし候もの  軽追放」なる規定が、吉宗の下知により置かれることになった(39)。これらはいずれも、賄賂を嫌い公正な職務遂行を期待する吉宗の姿勢のあらわれといえよう。
  吉宗は、「公事方御定書」の編纂を命じた将軍としてつとに知られているが、服藤弘司氏は、この「公事方御定書」編纂の直接的理由は、古法の励行により民事裁判の立直しを図り、民事裁判上の種々の悪弊を一挙に打開せんとすることにあったとされる(40)。当時の民事裁判上の最大の悪弊が、もし、服藤氏の指摘されるように、健訟の弊にあり、しかもその悪弊が賄賂の横行をもたらしたことを、吉宗も冷静に認識していたとするならば、悪弊打開による民事裁判の立直しを意図した「公事方御定書」の編纂は、間接的にではあれ、賄賂横行への対策としての効果をも期待されていたと見ることもできよう。
    こうした新井白石や徳川吉宗の努力にもかかわらず、訴訟関係役人の収賄は容易に跡を絶たず、江戸時代後半には日常茶飯事とさえなった(41)。『甲子夜話』に、「明和・安永の頃は官事皆賂遣を以て取行ひ・・・(42)」とあることからも、そのことが推し測られよう。文政五年(一八二二年)二月の大坂町奉行所「口達」にも、郷宿(百姓宿)や用達が、百姓の公事出入の際、「利欲ニ拘、役筋へ手入并謝礼等之儀申勧候者有之哉ニも相聞、不届之事ニ候(43)」とあり、郷宿や用達が賄賂のあっせんをしていたことが知られる。文政一二年(一八二九年)に京都町奉行所与力手塚氏喬が著した『自警録(44)』にも、「右役掛りニ付、諸向より音物等若干受用することなれは、他組之与力とは家内暮方抔も格別潤沢なるに任せ、逐々驕奢の者も出来、元禄の滝川山城守殿、安永の赤井越前守殿御代なと、時勢につれて不正を行ふ与力も多かりし」とあり、音物受用により与力が不正を行っていたことが記されている。大坂・京都町奉行所与力・同心たちの収賄については、文化一三年(一八一六年)に成ったとされる武陽隠士の『世事見聞録』にも、奉行が職務不案内あるいは怠慢等により、公事訴訟や罪人の詮議を奉行所の役人に任せておくところがあるのを良いことに、与力・同心等が奉行を「誑かし欺」き、「賄賂をとり、贔屓偏頗に非義非道を行へり」とある(45)。天保九年(一八三八年)に派遣された幕府の巡見使に対し、佐渡国農民が越訴したさいの訴状には、「訴訟」にさいし佐渡奉行所役人が賄賂をとることが記されていた(46)
  江戸町奉行所役人の公事訴訟をめぐる賄賂については、寛政年間に書かれた『植崎九八郎上書』に、「町奉行与力同心、町方にて権威を振候、公事訴訟其外悪事を為すか、隠賄賂を送れば、無遠慮取之、甚敷は手前より求め・・・」とあり、露骨な収賄の実態が指摘されている(47)。天保年間に、堺奉行、大坂町奉行、勘定奉行、江戸町奉行等を歴任した矢部定謙も、「江戸にては借金出入訴へになれば、双方へ理解を含めなどすれども、其間に奸吏因縁して賄賂を貪るの弊少からず」と述べ、緩慢な訴訟手続のもとで、江戸の奉行所役人が賄賂を擅にしていることを指摘している(48)。公事出入りにさいし、評定所一座(寺社、町、勘定奉行)や町奉行所与力等に金品を送った事例も報告されている(49)。大名領(藩)や旗本領(知行所)においても、「訴訟」をめぐる賄賂については、事態は変わるところがなかった(50)
  『甲子雑録』は、こうした「訴訟」をめぐる賄賂の実態について次のように記している(51)。「重き役人」や「執政の職」に就任したさい、出入りの者より奥向へ賄賂を贈り頼み入ることが多く、「数度に至れハ義理ニなり取り上さる事を得」なくなる。この出入りの者が「屋敷の権を借て公事の世話をなし、金を貪る事」もある。また、訴訟において原告・被告双方より役人へ賄賂を贈り、そのため「公事ハ片付す」、「重役へ賄賂を贈り、重役の引有て、奉行の一了簡に決し難く、自由ニならぬ事も有之」、と。また、『世事見聞録』も、当時、訴願にさいし、「その筋の役人へ賄賂を入れ」、あるいは取持ちをしてくれる侍への「進物」をすることが行われていたことを指摘するとともに、公事訴訟においても、「また当世、公事出入りに付き、賄賂の事もっぱら行はる・・・」と、賄賂が横行していたことを指摘している(52)。刑事事件についても事態は変わらなかった(53)
  周知のように、近世日本において、公事訴訟に関する助言や訴訟指導を行う者に、公事宿や公事師、公事巧者などと呼ばれるものたちが居た。上記『世事見聞録』が指摘する「公事出入りに付き、賄賂の事もっぱら行はる」というのは、これらの者たちの暗躍によるところが少なくなかった(54)。奉行所の事情にくわしい彼らが関係役人、権門らに取入り、賄賂を取り次ぐということは頻繁に見られた現象であり、その腐敗ぶりのゆえに、しばしば取締りの対象となった(55)
  旧南町奉行所与力佐久間長敬の著した『江戸町奉行事蹟問答』には、町奉行所与力の賄賂について極めてリアルな描写が見られる。そこには、人に知られずに賄賂をむさぼり取る方法、賄賂をもって頼み事をしてくるルート、法外な賄賂強要の事例等々、町奉行所における「訴訟」審理の実質的担当者たる与力の収賄の実態が刻明に記されている(56)
    上級下級を問わず、裁判役所の役人たちの間にこうした賄賂が蔓涎するならば、「遂には賄賂世界となりて、公事訴訟の曲直も賄賂次第にて、善悪も分かりかたく(57)」なることは火を見るよりも明らかであろう。そしてその結果、裁判役所の権威が失われることも、これまた明らかであろう。武陽隠士も指摘するように、こうした賄賂による不公正な「訴訟」審理が行われるならば、人々は、「役人を疑ひ相手方を憎みて、かへって意地悪しきもの」となり、「強情」になるのである(58)。後述のように、駕籠訴・駆込訴の判決文中に、訴訟人が裁判役所の役人の審理に服さず「我意を張り」、老中・三奉行に駕籠訴・駆込訴をしたという趣旨の、訴訟人を非難する文言がしばしば見られるが、訴訟人が「我意を張り」、駕籠訴・駆込訴をする背景には、こうした納得のいかない不公正な「訴訟」審理という問題があったのである。
  (c)  現実の「訴訟」審理
    近世日本の実際の「訴訟」審理を見てみると、「訴訟」当事者にとってとうてい納得のいくものではない場合が少なくなかったことが知られる。そのことは、現実に断行された駕籠訴・駆込訴にさいし、その訴訟人が提出した訴状を見ると良く分かる。以下、若干の事例を紹介する。
〔事例1〕
  文政九年(一八二六年)一〇月三日、道中奉行兼勘定奉行石川主殿正忠房に駕籠訴した安藤治右衛門知行所相州鎌倉郡阿久和村百姓与右衛門の訴状(59)を見ると、次のようなことが記されている。
  「私は、元名主与八郎の親幸左衛門(与八郎の前の名主)の不正、村役人の私欲押領等を訴えて、地頭所(地頭役所)へ訴状を提出した。ところが、元名主与八郎が相原権平と改名して地頭所に勤めており、村役人や幸左衛門がこの権平と馴合い不正の取計らいをしている。私の分家の市兵衛は、この六月、地頭所で権平の取調べを受け、極暑の時分、手鎖のうえ空部屋に押込められ、窓ぶたをされるという大変な目に合わされ、ようやくのことで命が助かったと私に申しており、私がもし、地頭所の手限吟味を受けた場合、権平の取計らいでどのような咎を仰せつけられるか、命の程も計りがたく思われるので、ここに恐れを顧りみず駕籠訴をする」
〔事例2〕
  文政四年(一八二一年)七月、勘定奉行所に駆込訴した山本大膳代官所甲州都留郡上野原村本町組百姓七六人総代金兵衛、金之助の訴状(60)を見ると、次のようなことが記されている。
  「私たちは、名主兼帯組頭太郎兵衛の不正を訴え、目安掛にて私欲押領出入の訴状を代官役所に提出した。代官役所で取調べのうえ、七月五日差日(出頭日)附の差紙(出頭命令書)を頂戴し太郎兵衛方へ送達したが、彼是難渋を申して受取らず、差紙を私どもへ投げ付けた。この件を代官役所へ訴えたところ、代官役所より太郎兵衛を召出し、七月一日、代官役所において太郎兵衛へ差紙を渡した。しかし期限が過ぎても返答書を提出せず、延びのびになったままであった。ところが同月八日、代官役所へ呼出されて出頭したところ、代官役所より、去年の年貢は太郎兵衛へ納めよと申渡され驚き入った。今年三月中代官役所より仰せ渡され、そして、我々も請書を提出した通り、年貢上納の件は百姓代平兵衛、同次郎兵衛へ上納し、類焼拝借金は右両人より割賦返済することになっているので、今さら太郎兵衛へ上納するということはできない。このことを色々と代官役所へ申立てたが全く聞き入れてもらえず当惑している。何とぞ当三月仰せ渡されの節の請書通りに取計らってほしい」
〔事例3〕
  文化七年(一八一〇年)正月、老中松平伊豆守信明へ駕籠訴した板倉伊予守領分下総国匝瑳郡太田村百姓惣代六郎兵衛、同太郎右衛門の訴状(61)を見ると、次のように記されている。
  「名主が品々不正の取計らいをし、百姓が難儀していたので、昨年四月、我々は勘定出入の訴えを提起した。名主側は、我々が年貢を皆済しても皆済したという証拠を渡さず、甚だ不法である。こうした不法を行いながら我々に対し、年貢皆済を滞ったと申し立て、我々に御咎を蒙らせ、我々が提起した勘定出入の訴えをくじこうと企らんでいる。
  昨年一二月、我々は江戸の領主屋敷を訪れ、年貢皆済を証明する受取りをもらいたいと願い出たが拒否された。そこで帰村しようとして隣村まで戻って来て村の様子をうかがったところ、『名主側からの反訴により、一二月二五日より小前百姓が出頭を命ぜられ、年貢不納のかどで取調べられた。その結果、先の惣代両人が入牢を仰せつけられ、その他五八人が手鎖を申付けられた。しかし、名主側は一向に取調べがない』とのことである。
  今回の件は決して年貢不納ではなく、既に九俵分は、名主側は請取を出さないけども津出をした河岸場問屋より馬切手を取ってある。その余の端米の分についてぜひ皆済勘定をし、皆済受取と引替に御米を渡したいと我々は願っている。それにもかかわらず、右のようなことになったのは、勘定出入の吟味をされると名主側は全く申し披きが出きなくなるゆえ、中途で右のような異変をデッチあげ、難題を吹っかけてきたのである。特に先の惣代両名は一命を取られかねない目に合い、難儀至極であり、我々も帰村すれば右両名同様になるので、帰村もできず、途中で引き返して再度江戸へ出たが、もはや領主屋敷には入れそうもなく、恐れ多いことではあるが、ここにお願い申上げる次第である」
  右三例のうち、〔事例1〕は、旗本領における元名主の親や村役人たちの不正、勘定未済、私欲押領等を訴えた事例であるが、被告の息子が旗本役所(地頭所)に勤務し、「訴訟」審理担当者の一員となっており、不公正かつ強圧的な審理が予想されるという事例である。〔事例2〕は、幕府直轄領(代官所)における名主兼組頭の不正を訴えた私欲押領出入であるが、実質的な審理不開始のまま、代官役所が紛争の一方当事者たる名主側に加担するような措置をとった事例である。〔事例3〕は、大名領における名主の不正を訴えた勘定出入に対し、名主側が反訴を提起した事例であり、二つの対抗する訴訟のうち、藩当局が、一方の側(名主側)の提起した訴訟についてのみ審理を開始し、しかも、審理にさいし、相手側(百姓側)に入牢等の強圧的措置をとった事例である。
  右〔事例1〕〔事例2〕〔事例3〕のいずれの場合も、百姓たちは、領主(大名)、地頭(旗本)の役所や代官役所での取調・審理に承服しかねて、幕府高官に非合法の越訴を行っている。取調・審理がとうてい公正なものとはいえず、納得しがたかったからである。こうした不公正な「訴訟」審理を理由とした駕籠訴・駆込訴の事例は枚挙にいとまがない。
    ここで注目すべきは、名主ら村役人側が、領主・地頭役所や代官役所の役人らと「馴合い」、「依怙不正之取計」をしていると、百姓たちから見られていたことである。たとえば、寛政元年(一七八九年)閏六月、大原郡代の曲事を訴えて飛州大野郡片野村甚蔵および同州同郡松本村長三郎の両名が老中松平越中守定信へ直訴した駕籠訴状(62)に、「御郡代様へ御出入名主并取次、町年寄等、馴合色々手段仕候儀、百姓共困窮の筋に相成、難渋至極に奉存候」とあり、郡代と出入りの名主、取次、町年寄等との馴合いにより、「百姓困窮」となるような悪辣なことが行われていると訴えている。また、勘定奉行への駕籠訴にまで発展した「天保三年小前訴訟一件(63)」においても、名主・組頭らが地頭用人と共謀して村入用不正取立、先納金押領、過納金不払など多くの不正をはたらいていると、原告の小前百姓らから指摘されている。
  実際、「地頭家来と村役人馴合、非分之取計いたし候(64)」、「地頭家来役人馴合、検見いたし方、年貢諸夫銭取計共非分有之(65)」、「御代官之手代ともと定左衛門(村役人ー大平註)馴合、不正之取計有之(66)」、「同人(地頭用役本郷磐助ー大平註)儀村役人馴合、私欲いたし候(67)」、「名主ニ相成候惣五郎と申もの、地頭所用人中と馴合、地頭所へ品能申立(68)」等の理由から、農民たちが駕籠訴・駆込訴に走った例は少なくない。取調・審理を担当する役人が紛争の一方当事者たる村役人らと「馴合い」、不正を働いていると農民たちの目には写ったのである。このような「馴合い」状況のもとで行われる領主・地頭役所や代官役所の取調・審理が、公正なものとはとうてい思われなかったのである。
    また、「馴合い」とまではいわぬにしろ、公平な吟味をせず、一方当事者に有利な取計らいをしていると思われる場合も少なくなかった。たとえば、寛政一二年(一八〇〇年)三月六日、戸田内蔵助知行所濃州莚田郡仏生寺村百姓ならびに医師が連名で寺社奉行所に提出した「差上申一札之事(69)」によれば、両人は、葬式出入につき地頭の吟味を疑い、その後地頭の本家松平丹波守のもとでの吟味の節も、「兎角役人共申口而已御取用被成候様子ニ候」と思い、吟味中、老中へ駕籠訴を決行している。両人の目には、地頭ならびに地頭本家での吟味は、村役人側の主張のみを取上げているように写ったのである。また、『三聴秘録』所収寛政三年七月二八日「御挨拶書(70)」によれば、牧野備後守領分泉州日根郡西見村元百姓当時無宿吉右衛門は、村役人の私欲を領主役所へ訴へ出て領分払いとなった。そこで吉右衛門は牧野備後守へ駕籠訴し、「村役人の私欲を訴え出たのに、領主役所の役人たちは『明白の糺』もせず、そのため自分は領分払となった。現在無宿で難儀しているので帰住したい」、と訴えた。ここでも吉右衛門の目には、領主役所の役人がきちんとした吟味をせず、村役人側のかたをもち、自分を領分払にしたと写ったのである。
  寛保元年(一七四一年)二月、勢州飯高郡大足村庄屋潤田荘右衛門は、藩の家老三浦長門守の知行地たる同郡西野村との山論において、藩の役人が家老の権威をおそれ、きわめて不公正な裁判を行ったことに不満をいだき、藩主徳川直宗に直訴している(71)。寛政三年(一七九一年)一月、但馬国城崎郡伊賀谷村の百姓惣代源左衛門が、同国同郡郷野村との争論につき老中松平定信に駕籠訴をした。その訴状は、「伊賀谷村の言い分は一向に取り上げず、郷野村の言い分は一々もっともだと取上げる代官の不公正さ」を強調している(72)。天保一五年(弘化元年、一八四四年)四月、尾花沢代官支配の村々が、庄内藩預所として支配替になることに反対して、勘定奉行や老中に駕籠訴を行ったが、その訴状の中で述べられている反対理由の一つは、庄内藩役人が用水地境論、金銭貸借、喧嘩口論等の紛争解決にさいし、不公平な裁決を行なっているということであった(73)。役人たちの吟味は、「訴訟」関係者にはとうてい公正なものとは思えなかったのである。
  当時の判例集を見ても、「(領主家来のー大平註)吟味非分之趣申立(74)」、「地頭家来非分有之趣推量(75)」、「地頭吟味不行届(76)」、「地頭ニ而非道ニ取計(77)」、「裁許之趣ハ請印いたし相済候得共、右裁許ハ違候儀と存(78)」、「荒木又兵衛(代官所役人ー大平註)片落成吟味いたし(79)」等々の主張をして、訴訟人が頻繁に駕籠訴・駆込訴に及んでいたことが知られる。人民が、領主・地頭役所、代官役所の吟味の不公正さを訴えて駕籠訴・駆込訴する事例はあとをたたなかったのである。当時の人々にとって、いかに裁判役所の取調・審理が納得いかないものであったのかが分かる(80)
    もっとも、駕籠訴・駆込訴人たちのこうした「吟味非分」、「取計非分」、「吟味不行届」、「裁許は違」、「片落成吟味」等を理由とした訴えが、江戸の幕府裁判役所での審理においてそのまま認められたわけでは必ずしもない。いな、多くの場合、こうした訴えはしりぞけられている。「無証拠、不取〆(止カ)儀品々申立(81)」、「相違之儀を訴状ニ相認(82)」めたものとみなされたのである。
  確かに、駕籠訴・駆込訴の訴状が訴訟人の立場に立って書かれたものであり、それゆえそこには、自己の立場を有利にするための一定の誇張や強弁、あるいは情報量の不足にもとずく不正確な把握・誤解等が見られる場合も少なくなかったであろう(83)。しかし、そのことから、これらの訴状が、領主・地頭の役所や代官役所の吟味について全くの嘘いつわりを、意図的に書き並べたものと見るのは妥当ではない。駕籠訴・駆込訴において「訴訟」がもし取上げられた場合、当然、ことの真相を解明すべく江戸の幕府裁判役所での吟味が始まることを、訴訟人は十分承知しており、しかも、取上げられることを求めて駕籠訴・駆込訴をするのであるから、役人の吟味につき全く根拠のない事柄を意図的に訴状に書くことは一般にはありえなかった(84)。訴状に記された領主・地頭役所や代官役所の吟味の問題状況は、「訴訟人の目に写った真実」にほかならなかったのである。
    駕籠訴・駆込訴が老中になされた場合、既述のように、その多くは、これといって問題にするほどのこと(「為差趣意」)もないのに、所定の手続を踏まずに差越して訴え出てきた願であるとして受理されず、関係方面に引渡された(85)。幕府高官にとって、駕籠訴・駆込訴は、その多くがほとんど問題とするに値しない、些細・瑣末な事柄についての訴えであったのである。しかし、それはあくまでも幕府高官の立場から見た場合の話しであり、訴訟人の立場に立ってみると、事態は幕府高官が認識するような軽々しいものでは全くなかった。訴訟人にとって駕籠訴・駆込訴を決行するということは、「これといって問題にするほどのこともない」のに願い出たというものでは決してなかった。駕籠訴・駆込訴とは、上記のように、不公正と思われる審理、とうてい納得することのできない審理により自からの利益を著しく侵害されかねないという重大な事態に直面して、それを座視しているわけにはいかないという危機感にかられて行った一つの決断にほかならなかったのである(86)
    江戸の幕府裁判役所における「訴訟」審理についても、領主・地頭役所、代官役所におけるそれと同様、多くの問題をはらんでいた。江戸の裁判役所においては、民事・刑事のいずれの事件についても、裁判官たる奉行が初めに「一通吟吟」をしたのち、あとは奉行所役人(与力、留役等)が実質的な審理(「追々吟味」)を担当した。奉行所役人の審理が終結し、口書が作成されると、それにもとずき判決原案が作成され、奉行が判決を申渡す。すなわち、「最後に奉行が形式的に判決の申渡を」行ったのである(87)。ここで問題になるのは、奉行所役人が担った実質審理についてである。
  町奉行所では、「審理に当って詰問、惨酷、激励大音、声を荒らゝげるに至っては、声音正しく往還通行人の耳を突ん裂く事があった(88)」といわれている。「雑人と雖も、罵詈讒謗の語気を以て吟味すまじく候」という吟味上の心得にもかかわらず、与力たちは、実際には、「吟味中、折には激声を発し叱咤すること」もあった(89)。吟味にさいしては、出入筋(民事的裁判)でも牢舎や手鎖を申し付けることがあり(90)、吟味筋(刑事裁判)では自白を執拗に追求したため、笞打や石抱などにより責めつけることも少なくなかった。こうした審理状況は、江戸の三奉行所のいずれにおいても共通したものと思われる。
  中田薫「徳川時代の民事裁判実録(91)」「同続篇(92)」には、勘定奉行所、寺社奉行所での吟味状況が刻明に描かれている。いま、前者の論文中でとり上げられた「文化五年対談違変出入」の勘定奉行所での吟味状況を見てみると、役人(留役)の審理は「峻厳」であり、民事事件の被告に向って、「其方、如斯證文に有之上ハ、株ヲ渡スカ、夫が難儀ならハ金子不残渡セ」、「渡サヌト云ヘハ、其方、今日内へ返さぬ」、「謀判(私印偽造ー大平註)ヲ致た不届」と威嚇している。本件は内済のための対談取極が一度は整うが結局破談となったため、役人の取調・審理がさらに続けられることになり、役人は、相変わらず刑事責任の問題を持ち出して被告を威嚇し、返金(債務の弁済)を強制している。審理の様子は次の如くである。「やい親父、どうだ」、「サア、年が寄テ太儀デモ牢へござれ。サアどうだ、金ヲ渡スカ。金か出ズハ、株ヲ渡共娘ヲ渡共致セ。日延ハ成らぬ」、「二、三日待テ、其上渡さねバ、牢へたゝつ込デやる」。役人のねらいは双方の互譲による内済にあり、被告に対し、「牢へたゝつ込、是牢へたゝつ込で一度セメルと我死ぬハ。何ト心得ル」と威して厳しく返金を迫るとともに、原告に対しても、被告の示した譲歩案に「何ゼ承知せぬ」と叱りつけ、譲らぬ原告に対し、「夫なら我勝手にしろ。逗留したい程逗留して居ろ。奉行所デハモウかまハぬ」と厳しく叱責している(93)
  このような裁判役所での審理が、「訴訟」当事者を心から納得させることになるとはとうていいえず、しかも、上述のように賄賂が蔓涎していたことを思うならば、『世事見聞録』の指摘するように、裁判で非とされた者はそれを依怙贔屓と感じることもある(94)のは当然といえよう。人々にとって公正とは思えない吟味は、人々に、ときとして承服しがたいという感情をひき起こさせることになった。江戸の奉行所の吟味に対する不服の念から、「訴訟」関係者が駕籠訴・駆込訴に走る場合もあったことは、幕末の町奉行所与力佐久間長敬がみずから認めているところである(95)
    以上から理解されるように、領主(大名)・地頭(旗本)役所、代官役所、江戸の奉行所等での「訴訟」審理には多くの問題があったのであり、当事者が納得する公正な審理とはとうていいえない場合がしばしばあったのである。「訴訟」当事者は、裁判役所の審理に強い不満を抱き、役人の取計らいに承服できないと感じたときには、「訴訟」が審理中であるにもかかわらず、幕府高官に駕籠訴・駆込訴を行った。幕府の判例集にも、「地頭吟味中、度々駕訴、駆込訴いたし(96)」、「地頭支配之糺中、差越し、奉行所え銘々駆込訴いたし候(97)」、「領主役場吟味中、度々差越願いたし候(98)」、「領主ニて吟味中、差越、奉行所え駆込訴いたし(99)」、「支配御代官ニて糺中、差越、女房ゑいえ申付、御老中方え駕訴為致(100)」、「地頭吟味中、百姓惣代之もの共ハ、度々奉行所江駆込訴いたし(101)」等の表現が頻繁に見られ、審理の最中に幕府高官に対し日常茶飯事のように駕籠訴・駆込訴が行われていたことが分かる。裁判役所での「訴訟」審理に、「訴訟」当事者がいかに不満を抱いていたかが如実に知られよう。上記した支配代官吟味中に女房ゑいに命じて老中へ駕籠訴させた事例では、夫は、端的に、「実は、承伏いたし兼候間、支配役所之吟味会得いたし兼候趣訴状に認、女房ゑいえ申付、御老中方え駕訴為致候(102)」と述べている。代官役所の「訴訟」審理に承伏できなかったのである。
  幕府、大名、旗本の各種裁判役所の「訴訟」審理に納得せず、幕府高官に救済を求めてこのように駕籠訴・駆込訴を行う人民の姿は、裁判役所の役人たちの目には、しばしば、支配役人たちの吟味を素直に受け容れない強情者と写った。駕籠訴・駆込訴に関する判決文中に、「御領主役所之吟味を拒(103)」、「領主吟味を拒、口書印形難渋いたし(104)」、「我意不法申張(105)」、「我意強ニて(106)」、「難立義を強而申立(107)」、「我意申張(108)」等の文言が見られるのがそれである。裁判役所の役人たちにとっての「我意(109)」も、実は、訴訟人の立場からするならば、不公正な審理、納得のいかない審理に対する不承認の意思表示であったのである。
  近世日本においてしばしば見られた駕籠訴・駆込訴の背景には、こうした不公正な審理、納得のいかない審理という、「訴訟」審理上の重大な問題点があったのである。

(1)  平松義郎「近世法」(朝尾直弘ほか編、岩波講座(新)『日本歴史』11、近世3(岩波書店、一九七六年)三六二頁)。なお、本論文は、のちに、平松『江戸の罪と罰』(平凡社、一九八八年)に収録される。本稿での引用は、岩波講座(新)『日本歴史』収録論文による。
(2)  平松「近世法」三六二、三六三頁。
(3)  水林彪「近世的秩序と規範意識」(相良亨・尾藤正英・秋山虔編、講座『日本思想』3、秩序(東京大学出版会、一九八三年)一二六頁)。
(4)  平松「近世法」三六二頁、石井紫郎『日本国制史研究』I(東京大学出版会、一九六六年)一三六頁、一三七頁、野田良之「日本における外国法の摂取、フランス」(伊藤正己編、岩波講座『現代法』14、外国法と日本法(岩波書店、一九六六年)一九五頁)。
(5)  水林彪「近世の法と裁判」(木村尚三郎ほか編『中世史講座』第四巻、中世の法と権力(学生社、昭和六〇年)一五九頁)。以下の叙述は本論文による。
(6)  水林・前掲「近世的秩序と規範意識」一二三頁。なお、近世の刑事裁判手続については、平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』(創文社、昭和三五年)後編(五九八頁以下)をも参照。
(7)  平松『近世刑事訴訟法の研究』五四〇頁。
(8)  寛政元年九月「三奉行へ」(高柳真三・石井良助編『御触書天保集成』下(岩波書店、昭和三五年第二刷)六三三〇号(七六〇頁)、大蔵省編『日本財政経済史料』第八巻(財政経済学会、大正一四年)七二四頁、法制史学会編・石井良助校訂『徳川禁令考』後集第一(創文社、昭和四三年第二刷)上編四号(四三頁))。
(9)  平松『近世刑事訴訟法の研究』五四一頁。
(10)  同上。
(11)  平松「近世法」三四二頁。
(12)  兼子一『民事訴訟法』(有斐閣、昭和五九年)二九〇頁。
(13)  水林・前掲「近世の法と裁判」一五九頁、同「近世の法と国制研究序説(五)−紀州藩を素材として−」(「国家学会雑誌」九四巻九・一〇合併号)五八頁以下、滋賀秀三『清代中国の法と裁判』(創文社、昭和五九年)三六七頁等参照。
(14)  『家世実紀』巻之七、正保四年一二月条(豊田武編『会津藩家世実紀』第一巻(吉川弘文館、昭和五〇年)二九〇頁)、『豊年税書』(滝本誠一編『日本経済大典』第三巻(明治文献、昭和四一年)六九七頁)。『家世実紀』によれば、この「官」「反」「内」「貨」「来」の「五過」についての記述は、中国の『書経』呂刑之篇に見られ、『豊年税書』によれば、中国の『尚書』という書物に見られるという。なお、『家世実紀』には「官反内貸来」とあるが、「貸」は「貨」の誤植であろう。
(15)  新井白石『新編藩翰譜』第二巻(新人物往来社、昭和五二年)四三三頁以下、小山松吉『名裁判官物語』(中央公論社、昭和一六年)五頁以下。
(16)  新井白石『新編藩翰譜』第二巻、四三五頁。なお、元和五年(一六一九年)一二月、板倉勝重が触出した「町代堅可申触条々」中に、「一公事ニ付てよしミをたのミ、他所より状を持来候を(者カ)、不立入理非、其者まけに可申付事」なる一条が見られる(京都町触研究会編『京都町触集成』別巻二(岩波書店、一九八九年)三〇六号(一七七頁)。ここにも、公事訴訟における公正さを重視する勝重の強い姿勢がうかがわれる。
(17)  新井白石『新編藩翰譜』第二巻、四三九頁。
(18)  『家世実紀』巻之七、正保四年一二月条(前掲『会津藩家世実紀』第一巻、二九〇頁)。
(19)  たとえば、後述する寛保元年二月勢州飯高郡大足村庄屋潤田荘右衛門の直訴の例(本文一八頁)も、こうした不公正な裁判の存在を示す一例といえよう。また、正徳二年(一七一二年)九月五日、評定所一座に達せられた法令にも、「権勢」により公事訴訟の審理がゆがめられるという問題が指摘されている(本文八頁)。本居宣長も、「訴訟に限らず、万の事に、権門がゝりの筋は、取捌く役人の甚迷惑なる物にて、これ大なる国政の妨と成る事あり」と、同様の問題を指摘している(『玉くしげ別本』巻下、『日本経済大典』第二三巻、八九頁)。
(20)  たとえば、大石学『吉宗と享保の改革』(東京堂出版、一九九五年)二三九頁参照。
(21)  牧健二氏は、近世日本の裁判において、裁判官は、「当事者の領主や主人、彼等の身分、事件の牽連関係などを考えると、容易に判決を下しにくい場合もある」(牧「近世武家法の和解及び調停」、北村五良編『斉藤博士還暦記念  法と裁判』(有斐閣、昭和一七年)二二六頁)と述べておられるが、これも、権威に左右されずに公正な裁判を行なうことが容易でなかったことを示すものであろう。
(22)  『愛媛県史』近世上、六二五頁以下。なお、高木昭作『日本近世国家史の研究』(岩波書店、一九九〇年)三九、四〇頁、杉本史子「地域と近世国家−『百姓公事』の位置−」(曽根勇二・木村直也編『新しい近世史』2、国家と対外関係(新人物往来社、一九九六年)をも参照。杉本論文によれば、土佐藩側は、老中酒井忠清のほかに、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、側衆、目安読等にも、公事勝利のため、積極的な政治工作を行っている(二三六頁)。
(23)  宝永六年二月「覚」(『御触書寛保集成』一三九号(一〇三頁)、『日本財政経済史料』第五巻、七〇三頁、『徳川禁令考』前集第四、二四四二号(三四〇頁))。
(24)  中瀬勝太郎『江戸時代の賄賂秘史』(筑地書館、一九八九年)九頁。
(25)  正徳二年九月五日「評定所之面々え被仰出御書付」(『御触書寛保集成』一五号(二一頁)、『徳川禁令考』後集第一、上編三号(三六頁))。
(26)  新井白石著・羽仁五郎校訂『折たく紫の記』(岩波書店、昭和四三年第一二刷)二六〇頁。
(27)  『新潟県史』資料編九、近世四、八三四頁。
(28)  本文一一頁所引『自警録』よりの引用文参照。
(29)  藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』(清文堂出版、一九九〇年)四〇七頁。なお、池田信道『三宅島流刑史』(小金井新聞社、昭和五三年)所収「三宅島流人帳控」によれば、元禄九年四月四日三宅島着の流人一一名中に、「公事出入之儀内緒取持候に付」という罪名で流刑に処せられた大坂出身者が二名見られる。公事訴訟に関する贈賄の罪によるものであろう。
(30)  『百家説林』正編(吉川弘文館、明治三八年)一一〇六頁。
(31)  註(25)所引史料。
(32)  正徳五年七月「公事訴訟人より音物贈り候儀御制禁之儀ニ付御書付」(『徳川禁令考』後集第一、上編二二号(一四八頁)、『日本財政経済史料』第八巻、九一五頁、『同上書』第一〇巻、七一一頁、『御触書寛保集成』一〇二八号(二)(五四二頁))。
(33)  『日本財政経済史料』第一〇巻、七一一頁所引正徳五年七月令。
(34)  中瀬・前掲『江戸時代の賄賂秘史』五五頁。
(35)  小出義雄「御定書百箇條編纂の事情について」(「史潮」第四年第三号)一二二頁。
(36)  『有徳院殿御実紀』巻三〇、享保一四年一一月二九日条(黒板勝美・国史大系編修会編『新訂増補国史大系』徳川実紀、第八篇(吉川弘文館、昭和五一年)五一六頁)。
(37)  同、享保一四年一二月二八日条(同、五二二頁)。
(38)  元文五申年五月一二日「松平左近将監殿三奉行え御渡候書付」(石井良助編『享保撰要類集』第一(弘文堂、昭和一九年)一、被仰出御書附之部、一〇七号(三五、三六頁)、『御触書寛保集成』二五九五号(一二一二頁))。
(39)  『徳川禁令考』後集第二、下編二六号(七三頁)。
(40)  服藤弘司『刑事法と民事法』(創文社、昭和五八年)四七頁以下、特に、五三頁。
(41)  服藤弘司「近世民事裁判と『公事師』」(大竹秀男・服藤弘司編『幕藩国家の法と支配』(有斐閣、昭和五九年)三六一頁。
(42)  『甲子夜話』巻四四(吉川半七編集并発行『甲子夜話』第二(国書刊行会、明治四三年)一五七頁)。なお、本居宣長も、「総体近世は、何事によらず、此賄の行はれざる事はなくして、公事訴訟に、邪なる捌をなし、刑罰に、当らざる事多き抔は申に及ばず、其外諸の作事普請などに付ても、此筋専ら行はるること也」と、賄賂の横行を指摘している(『玉くしげ別本』巻下、『日本経済大典』第二三巻、八八頁)。
(43)  文政五年二月「口達」(『大阪市史』第四上、七八〇頁)。
(44)  国立公文書館内閣文庫所蔵『澄清樓叢書』に収録されている。
(45)  『世間見聞録』四の巻、公事訴訟の事(武陽隠士著・本庄栄治郎校訂・奈良本辰也補訂『世事見聞録』(岩波書店、一九九四年)二二一、二二二頁)。以下所引の『世事見聞録』は、本岩波文庫版による。
    なお、「訴訟」をめぐる大坂町奉行所役人・与力への賄賂については、藪田貫「『御館入与力』について−『支配国』と領主制−」(「日本史研究」四一〇号)をも参照。
(46)  『新潟県史』通史編五、近世三、五〇頁以下、特に、五二頁。
(47)  『日本経済大典』第二〇巻、四九五頁。『破レ家ノツゞクリ話』にも、「兎角町奉行ノ下役ハ事ニ馴レテ利口ニ立振舞ヒ、賄賂ヲ受ルヤウナル事多シ」とある(巻下、『日本経済大典』第三三巻、一七〇頁)。
(48)  『見聞偶筆』(菊池謙二郎編『新定東湖全集』(博文館、一九四〇年)五五三、五五四頁、服藤・前掲「近世民事裁判と『公事師』」三六三頁註(19))。なお、安竹貴彦編『大坂堺問答−一九世紀初頭大坂・堺の民事訴訟手続−』(大阪市史史料、第四十四輯)(大阪市史料調査会発行、平成七年)一一九、一二〇頁をも参照。
(49)  石尾芳久・藤原有和「摂州嶋下郡味舌下村馬場家文書の研究(三)−支配違江懸る出入を中心として−」(「関大法学」二六巻三号)一〇二頁以下、同「上掲論文(四)」(「同上」二七巻一号)一二九頁。
(50)  たとえば、広島藩については、『春草堂秘録』に、「高田高宮両郡ハ、菟(兎カ)角公事訴訟相企、役人共も賄賂取扱候義甚多く有之」とある(『広島県史』近世資料編Y、七四頁)。大垣藩については、『座右秘録』に、「百姓町人、公事訴訟其外何事に不寄、手筋を以役人共へ相頼、且又家中者共之内、役人共へ致内達遣候者も有之由、粗相聞、其不埒之事に候」(宝暦九年一二月二四日)、「賄賂之儀、毎々被仰出之、表向は御兼(禁カ)制相守候趣に候得共、内々手筋を求取扱候由」(文政八年一二月一二日)とあり、公事訴訟等にさいし、賄賂により内々裁判役所役人へ手筋を求めていく者があることが記されている(小野武夫編『近世地方経済史料』第七巻(吉川弘文館、一九六九年)四五四、四五五頁)。『昇平夜話』附録にも、「百姓の諸願事は、庄屋、代官、郡代などと、次第を経て願ふべき事なるに、家老頭人杯へ縁を求め、賄賂を行ひ、内分取繕ひ事を済し置、表向願は一通り掟斗りの様子なり」とあり、家老、頭人等への賄賂により諸願事が処理されていることが指摘されている(『日本経済大典』第一四巻、四九二頁)。
    旗本領については、たとえば、天保一一年(一八四〇年)四月、河内交野、讃良郡旗本領一一カ村百姓が、陣屋役頭大橋左太郎の更迭を願い出た直訴状に、大橋左太郎が「得手勝手之政事をいたし候条々」として、「公事訴訟等ニ付、軽重之無差別、賄賂之依甲乙、糺明ニ不抱(拘カ)取捌仕候事」が掲げられている(青木虹二編・保坂智補編『編年百姓一揆史料集成』第一五巻(三一書房、一九八八年)三八六頁以下)。公事訴訟の取捌が賄賂の如何により左右されていたことが糾弾の対象となっている。
    私領においても、公事訴訟の際の賄賂を禁ずる法令を発している例は少なくない。こうした法令の存在は、「訴訟」をめぐる賄賂が無視しえないものであったことを意味している。
(51)  日本史籍協会編『甲子雑録』第一(東京大学出版会、一九七〇年覆刻)一六四、一六五頁。
(52)  『世事見聞録』四の巻、公事訴訟の事(『世事見聞録』二一〇−二一二頁)。
(53)  たとえば、高橋敏『江戸の訴訟−御宿村一件顛末−』(岩波書店、一九九六年)には、御宿村で起った刑事事件の裁判につき、幕府や藩の役人等への贈答謝礼などに膨大な金額を費したことが記されている(第四章、第五章)。『世事見聞録』にも、京、大坂では、殺人事件ですら、「内証の賄賂」を入れたならば、吟味役人は、奉行の手前もうまく取繕ってくれるとある(『世事見聞録』二二二、二二三頁)。長崎奉行所における賄賂については、藤井・前掲『大坂町奉行と刑罰』四〇九頁を参照。なお、刑事内済をめぐる賄賂については、陶山宗幸「江戸幕府の刑事内済−傷害罪の検討を中心として−」(「法制史研究」四一号)一一九、一二六頁をも参照。
(54)  服藤弘司・前掲「近世民事裁判と『公事師』」三六〇、三六一頁参照。
(55)  服藤・前掲「近世民事裁判と『公事師』」三三三頁以下、茎田佳寿子「内済と公事宿」(朝尾直弘ほか編『日本の社会史』第五巻、裁判と規範(岩波書店、一九八七年)三二六頁)、稲田篤信「公事宿嫌疑一件−寛政三年の石川雅望−」(「文学」五二巻五号)五八頁以下、南和男「江戸の公事宿(下)」(「国学院雑誌」六八巻二号)七〇、七一頁等参照。
    なお、大坂でも、公事出入につき奉行所役人への賄賂を斡旋した郷宿が、「不筋之儀ニ付、不届之取斗致候」という理由で処罰されている(註(43)所引文政五年二月「口達」)。大坂では、組与力その他役筋の者へ手筋があるので、「訴訟」審理を有利にしてくれるよう頼んでやるといって、訴訟当事者から金銀を貪り取る者があとをたたず、このような者を取締る町触はくり返し出されている。
(56)  『江戸町奉行事蹟問答』巻六、与力聴訴席の部(佐久間長敬著・南和男校注『江戸町奉行事蹟問答』(人物往来社、昭和四二年)一四五、一四六頁)。
(57)  頼杏坪『老の●言』(『広島県史』近世資料編Y、一八九頁)。
(58)  『世事見聞録』四の巻、公事訴訟の事(『世事見聞録』二一二頁)。
(59)  「乍恐書付ヲ以御訴訟奉申上候」(『編年百姓一揆史料集成』第一一巻、三〇四頁以下)。
(60)  「乍恐以書付御慈悲奉願上候」(『同上書』第一〇巻、二八〇頁以下)。
(61)  「乍恐以書付御慈悲奉願上候」(『同上書』第八巻、三二六頁以下)。
(62)  「乍恐御訴訟奉申上候」(『同上書』第六巻、三九九頁)。
(63)  『同上書』第一一巻、三〇四頁以下。
(64)  『御仕置例撰述』後編一五、寛政一一年一一月小石川諏訪町東八、巧を以駆込訴いたし候一件(石井良助編『近世法制史料集』(雄松堂フィルム出版、昭和四二年)マイクロフィルム・リール番号38)。
(65)  『同上』初編一七、寛政元年七月上州根岸村五郎兵衛、村役人取計之義品々申立候一件(『同上』マイクロフィルム・リール番号36)。
(66)  『同上』初編一七、寛政三年五月越後国保田町百姓共惣代仁左衛門、相手同町定左衛門私欲出入一件(同上)。なお、本史料は、『編年百姓一揆史料集成』にも収録されている(第六巻、四六二、四六三頁)。
(67)  『寺社方同役進達』(東京大学法学部法制史資料室所蔵)六、文政一二年野州寺内村本山修験三光院元春、地頭家来非分之由駆込訴いたし候一件吟味伺書。
(68)  嘉永二年一二月一八日「阿部伊勢守様御駕籠訴仕候願書写」(『編年百姓一揆史料集成』第一七巻、二八七頁)。
(69)  『編年百姓一揆史料集成』第七巻、一九二頁。
(70)  小寺鉄之助編『近世御仕置集成』(宮崎県史料編纂会発行、昭和三七年)一六三頁。
(71)  堀内信編『南紀徳川史』第一〇冊(清文堂出版、平成二年復刻版)六二九頁以下、水林彪「近世の法と国制研究序説(五)−紀州藩を素材として−」(「国家学会雑誌」九四巻、九・一〇合併号)八六頁。
(72)  松尾寿「但馬国伊賀谷村の山論と庄屋平右衛門の遠島」(「但馬史研究」一六号)一頁以下、特に、七頁。なお、同「流人平右衛門の遺書『国之家土産』について」(「島根大学法文学部紀要」文学科編、第一七号ー一)をも参照。
(73)  『山形県史』第三巻、近世編下、昭和六二年、九一二頁。
(74)  『御仕置例類集』続類集、三之帳、文政元年万石以上領分之百姓、領主之吟味相拒候ニ付、奉行所吟味申上候儀、評議(石井良助編『御仕置例類集』第七冊(名著出版、昭和四七年)八四号(一五五頁))。
(75)  『御仕置例撰述』後編一五、寛政一一年一一月武州西別府村民蔵外弐人儀、地頭家来取計之儀を申立、駆込訴致候一件(石井編『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号38)。
(76)  『同上』初編一七、寛政元年三月野州戸宝村元百姓平兵衛駆込訴一件(『同上』マイクロフィルム・リール番号36)。
(77)  『同上』後編一五、享和二年一一月武州上奈良村清吉儀、地頭在番留守預親類之吟味を拒候一件(『同上』マイクロフィルム・リール番号38)。本史料は、『編年百姓一揆史料集成』にも収録されている(第八巻、七九、八〇頁)。
(78)  『御仕置例撰述』初編一七、寛政三年七月武州大竹村仙右衛門儀、提敷之儀申立候一件(『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)。
(79)  同上、寛政一〇年九月甲州下鶴島村と同国新田村之もの共、材木陸揚利潤之義申争候一件(同上)。
(80)  旧幕府の役人安藤博の編纂した『徳川幕府県治要略』にも、「訴訟事件等に依り、原被(原告・被告ー大平註)の内、郡代、代官、又は当該吏員の審糾に対し不服を懐き(傍点大平)、窃に逸走、江戸に上り、勘定奉行若くは老中が登営の道を遮り、書面を捧げ訴願するを越訴と云ひ、駕籠訴とも云ふ」とある(安藤博『徳川幕府県治要略』(柏書房、一九七八年第三刷)三九三頁)。
    なかには、訴訟人側、相手側双方が駕籠訴、駆込訴に訴える例も見られた。双方にとって裁判役所の「訴訟」審理は納得しがたいものであったのである。
    たとえば、天保一五年(弘化元年、一八四四年)正月、出羽国村山郡新町村惣百姓の名主退役を求める提訴から始まる新町村方出入では、惣百姓側、名主側双方から駆込訴、駕籠訴が決行された。百姓側は、代官役所(東根役所)の吟味が「片吟味」であるとして、別の代官役所(尾花沢役所)へ駆込訴を行った。その後、東根役所に着任した手代が百姓側よりの立場に立って名主退役を強要したので、名主側は、百姓側指導者が新任の手代に賄賂を贈ったとして勘定奉行へ駕籠訴した(茎田佳寿子『幕末日本の法意識』(厳南堂書店、昭和五七年)一四九頁以下)。百姓側、名主側いずれにとっても、代官役所の審理はとうてい得心できるものではなかったのである。
(81)  『御仕置例類集』古類集、拾八之帳、寛政七年和州宇智郡久留野村百姓勘兵衛、夫人足賃米割戻之儀願出候一件(司法省調査課編『御仕置例類集』第一輯、古類集三(「司法資料」別冊第一一号)一三四五号(三〇三頁))。
(82)  『同上』続類集、三拾五之帳、文政四年武州淵村源永寺甚隆変死いたし候一件(石井編『御仕置例類集』第一〇冊、続類集四、一四五八号(三五七頁))。
(83)  一例を示すと、嘉永二年一一月、陸奥国信夫郡鎌田村の小前百姓が、名主の年貢取立て過ぎを訴えて駕籠訴したが、取調べの結果、「取立過等一切無之、訴訟方疑念相晴候」ということになり、小前百姓たちの誤解−不十分・不正確な情報にもとずく判断といった方が、より正確であろう−にもとずくものであることが判明した(布川清司『近世庶民の意識と生活−陸奥国農民の場合−』(農山漁村文化協会、昭和五九年)一三五頁)。
(84)  もっとも、駕籠訴・駈込訴において、意図的に虚偽の内容を訴えた事例も全くないわけではない。しかし、その多くは、個人的な意趣遺恨や酔狂によるものである。たとえば、大平祐一「近世の非合法的訴訟(四)−駕籠訴・駈込訴を素材として−」(「立命館法学」二四三・二四四合併号)四五頁所引文化七年元飯田町源次郎初筆押借いたし候一件、『徳川時代裁判事例』続刑事ノ部(「司法資料」二七三号)二八〇頁所引中根鍋三郎知行武州旛(幡カ)羅郡八ツ口村百姓三五郎一件、同四三五頁所引麻布新町十兵衛店平次郎方ニ居候浪人松本吉右衛門一件等参照。
(85)  大平「上掲論文(一)」(「立命館法学」一八三・一八四合併号)一六七頁以下、大平「上掲論文(二)」(「立命館法学」一九四号)九頁以下参照。
(86)  こうした決断の背景にある、人々の理非を求める意識の成長については、白川部達夫『日本近世の村と百姓的世界』(校倉書房、一九九四年)一三五頁を参照。
(87)  以上、小早川欣吾『増補近世民事訴訟制度の研究』(名著普及会、昭和六三年)三六八頁以下、特に、三七五頁以下および四〇三頁以下、平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』七四六頁以下。
(88)  原胤昭氏による実父作(佐カ)久間健三郎(江戸町方与力)に関する懐古談(「江戸文化」四巻八号、一五頁)より。南和男「町奉行−享保以降を中心として−」(西山松之助編『江戸町人の研究』第四巻(吉川弘文館、昭和五〇年)一一七頁)参照。
(89)  『吟味之口伝』(柳沼澤介編集并発行『刑罪珍書集』(I)−江戸の刑政一斑−(『近代犯罪科学全集』第一三篇)(武侠社発行、昭和五年)二六三、二六四頁)。
(90)  『江戸町奉行事蹟問答』巻六、与力聴訴席の部(『江戸町奉行事蹟問答』一五二頁)。
(91)  中田薫『法制史論集』第三巻下(岩波書店、昭和四六年)七五三頁以下。
(92)  同、八三三頁以下。
(93)  こうした公事出入における吟味役人の審理の問題状況については、服藤・前掲「近世民事裁判と『公事師』」三六〇頁、青木美智男「近世民衆の生活と抵抗」(青木美智男ほか編『一揆』4、生活・文化・思想(東京大学出版会、一九八一年)二一六頁をも参照。
(94)  『世事見聞録』四の巻、公事訴訟の事(『世事見聞録』二一二頁)。
(95)  『江戸町奉行事蹟問答』巻七、改獄の部(『江戸町奉行事蹟問答』一七九頁)。石井良助編『江戸町方の制度』(人物往来社、昭和四三年)にも、江戸の三奉行(寺社、町、勘定奉行)の裁判に不服な場合、「訴訟」関係者が駕籠訴に走ることもあったことが記されている(一二頁)。なお、安藤優一郎「寛政期の越訴対策−越訴実行の背景−」(早稲田大学大学院「文学研究科紀要」別冊第二一集、哲学・史学編)八二頁をも参照。
(96)  註(81)所引史料。
(97)  『御仕置例類集』新類集、弐拾之帳、文化七年江州外村外弐ケ村之もの共、地頭申付を背候一件(司法省調査課編『御仕置例類集』第二輯、新類集二(「司法資料」別冊第二〇号)七七〇号(二一八頁))。
(98)  註(74)所引史料一五四頁。
(99)  註(82)所引史料。
(100)  『御仕置例類集』天保類集、弐之帳、文政一〇年武州幸手宿仲町弥兵衛不束之取計いたし候一件、吟味下之儀ニ付評議(石井編『御仕置例類集』第一一冊、天保類集一、一七号(二八頁))。
(101)  『諸処刑調書』竪立門訴差越訴等之部六〇、寛政七年野州堀込村伊八外六人、地頭申付難渋いたし候一件(石井編『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号50)。
(102)  註(100)所引史料二六頁。
(103)  年不詳市場堺出入之儀ニ付黒田鶴松より問合之下札(司法省調査課編『徳川時代民事慣例集』不動産ノ部(下)(「司法資料」第二一三号)三八〇頁)。
(104)  註(74)所引史料一五七頁。
(105)  『御仕置例類集』新類集、五之帳、文化二年武州上川上村三郎右衛門弟佐源太初筆及狼藉候一件(司法省調査課編『御仕置例類集』第二輯、新類集一(「司法資料」別冊第一八号)一一五号(二二六頁))。
(106)  註(74)所引史料一五四頁。
(107)  『御仕置例撰述』初編一七、寛政元年五月甲州府中神主国沢大進、相手同国上條新居村社人上條志摩外六拾弐人申渡難渋出入一件(石井編『近世法制史料集』マイクロフィルム・リール番号36)。
(108)  『御仕置例類集』天保類集、弐拾之帳、文政一二年上州寺井村聖王寺住職之由申立候浄光寺増光儀、同村喜兵衛外三人を相手取、私欲之取計いたし候由申立候一件(石井編『御仕置例類集』第一二冊、天保類集二、三六四号(三一二頁))。
(109)  白川部達夫氏によれば、「我意」は、近世後期の我侭者−代表的表現として、小賢しきもの−を非難する文言として使われた(白川部・前掲『日本近世の村と百姓的世界』一二九頁)。

(一九九六年一二月二一日、未完)