立命館法学  一九九六年六号(二五〇号)一六〇一頁(二六一頁)




占領軍と京都(一)


赤澤 史朗






は  じ  め  に

  本稿で占領軍と京都との関係を論ずるに当って、主な史料として利用しようとしているのは、『終戦連絡京都事務局執務報告書』ならびに『京都連絡調整事務局執務報告書』である。これらは元は「外務省外交記録マイクロフィルム」として公開されたもので、現在は『日本占領・外交関係資料集  第二期』(柏書房  一九九四年)第七巻としても復刻されている。
  終戦連絡地方事務局およびその後身である連絡調整地方事務局は、全国のすべての府県に設置されたわけではなく、配置された占領軍との関係で全国の特定の地域を選んで開設された日本側の機関である。終戦連絡地方事務局は、一九四五年九月六日の閣議決定によって、「聯合国地方軍司令部ニ対スル諸情報ノ提供、設営(中略)各種ノ便宜供与及其他連絡事務ヲ擔任」するものとして外務大臣が「必要ナル地」に設置できるものとされ、また場合によってはその地方事務局の出先機関として出張所を設置することもできると決められていた(1)。ただしこの九月六日の時点では、地方事務局はとりあえず京都と横浜の二カ所にのみ設置される予定であったらしい。これは当初日本を占領した米軍が第六軍と第八軍であり、その第六軍の司令部は京都に、第八軍の司令部は横浜に置かれたためである。しかしその後設置される地方事務局の数は急速に増加し、さらに一九四五年一二月までで京都に司令部が置かれた第六軍が日本より撤収して日本全土が第八軍の占領下に置かれるようになったこともあって、終戦連絡京都事務局の比重は相対的に低下していくことになるのであった。
  その過程を具体的に見てみると、まず正式に終戦連絡地方事務局が設置されたのは一九四五年九月二二日、前述のように横浜と京都が最初である。しかしすでにこの時点ではこれ以外に、奈良・呉・横須賀・佐瀬保の四カ所にも地方事務局の設置が考えられており、また外務省告示によって正式に地方事務局が置かれたわけではないものの、進駐する占領軍との関係で実際の必要上からか、同年九月二四日現在で全国一四カ所に同様の機関が置かれていた模様である。その一四カ所の機関の職員総数は一三九名を数えたが、ほとんどが十名以下の小所帯であり、横浜事務局の三五名、京都事務局の三四名はその中で飛び抜けて大きな機関であった(2)。その後終戦連絡地方事務局は、同年一〇月一〇日には横須賀、札幌、仙台、佐瀬保、大阪、呉の六カ所に設置され、一一月一九日には鹿屋、福岡、松山、名古屋、館山にも設置される。その結果一九四五年一二月一五日現在で見ると、終戦連絡地方事務局及び地方事務委員会の職員総数は一九〇名、そのうち職員数の多い順から並べてみると、横浜及び大阪がそれぞれ一八名、札幌一七名、横須賀一六名であり、京都は佐瀬保と並んで一五名が配置されており、全国一四カ所の地方事務局のうちその規模としては上から五番目に位置づけられているのがわかる(3)。その後も終戦連絡地方事務局については、占領米軍の統制・命令系統の変化にも対応して各地に新たに開設されるもの、逆に廃止されるものと小さな変動が続くが、京都は第六軍の撤収後も、一九四六年一月一日より西日本全体を統轄する第八軍第一軍団司令部が第六軍司令部の跡地に置かれたこともあって、終戦連絡京都地方事務局は占領の終りまで廃止されることはなかった。とはいえやがて占領軍の規模も、従ってそこに雇用される日本人従業員の数も、京都のそれは隣接する大阪・兵庫に比べてはるかに少数となっていくため、第一軍団司令部との連絡という政治的にそれなりの意味をもつ件を除けば、業務の大部分を占めるその地に進駐した占領軍地方司令部とのさまざまの折衝という点では、京都地方事務局はそれほど多くの事務量を抱えることもなかった模様である。
  これら終戦連絡地方事務局及び地方連絡調整事務局の史料としては、北海道から九州まで全国で一一カ所(一時期置かれていた熊本事務局を独立して考えれば一二カ所)のものが残されているが、占領初期に当る終戦連絡地方事務局時代(一九四八年一月まで)の史料は相対的に乏しく、ほとんどがそれ以後の地方連絡調整事務局時代の史料であると言える。中でも一九四六年の時期に限れば終連地方事務局の「執務報告書」があるのは、横浜・京都・九州の三地域に限られており、しかも横浜と九州はそれぞれこの年は一回分だけである。しかし幸いなことに、これに対して京都だけは例外的に一九四六年に関し七回分が残されている。つまり京都のみは比較的初期の、終連地方事務局の動向を知り得るわけである。
  占領の円滑な実施のため、占領軍と現地との間で生起するさまざまな問題の解決の窓口として設置された終連地方事務局などの機関は、これまでの研究でも指摘されているように、後の時期になればなるほどその位置・役割を低下させている。それは占領軍と日本側との間のパイプが、問題に応じて多様な次元でつくられるようになり、必ずしも終連や連絡調整事務局の窓口を介在させなくても良くなっていくからである。ここではそうした地位の低下する中で、終連や連調の地方事務局が果たそうとし、また実際に果たすことができた機能はいかなるものであったのかに焦点をあてながら、これらの史料から知り得る占領軍と京都との関わりを探ってみたい(4)

(1)  「終戦連絡事務局地方機構ニ関スル件」 『終戦事務情報』第一号所収(『日本占領・外交関係資料集  第一期』第一巻  柏書房  一九九一年)。傍点引用者。
(2)  「終戦連絡地方事務局及終戦連絡委員会職員表」(二〇・九・二四現在)  前掲『終戦事務情報』第一号
(3)  全国一四カ所というのは、この時点までに和歌山事務局が加わっているからである。「終戦連絡地方事務局及委員会職員名簿」(昭和二十年十二月十五日現在)。前掲『終戦事務情報』第五号
(4)  これまでにこの史料を用いた研究としては、立命館大学産業社会学部鈴木良ゼミナール『占領下の京都』(文理閣  一九九一年)がある。そこでは主に連絡調整事務局になってからの時期(一九四八年二月−)の徴税、供米、大衆行動の制限、教育改革、イールズ事件などでの占領軍の行動がこの史料を用いて点描されているが、いずれの場合も占領軍の命令的・高圧的強制の契機が強調されている点に特徴がある。しかし占領軍と日本政府(中央・地方を問わず)、さらには日本国民との関係をそのような一方的命令と他方の側の服従ないし抵抗という図式で捉えることが妥当かどうか、本稿はこれとはやや異る見解をもっている。またこの史料で知りうるのは、あくまで終連地方事務局または地方連調事務局というフィルターを通して見た地方占領行政の展開であるため、考察に当ってはそのフィルターのもつ独自の関心のあり方を考慮に入れる必要があると思われる。


一、終戦連絡事務局時代


  終戦連絡京都事務局発行の『京都事務局月報』第一号は一九四六年三月のものであり、これ以前の時期の終連京都事務局の活動については、ごく断片的なことしかわからない(1)。しかしともあれこの段階での終連京都事務局の活動の第一は、米軍の進駐にともなう米軍側からのさまざまの要求に応ずることやそのための事務処理−典型的には建物接収や労務調達をめぐる問題−を迅速・適切に進めていくことであった。建物接収に関して言えば、一方では次々と新たな接収がおこなわれる反面で、他の建物に部隊が移転したり、またこれまで居た部隊が他府県に移動したりする結果、これまで接収されていた建物に関する接収解除も続々とおこなわれていく。しかしいつ接収解除になったかは、「補償月額ト重大ナル関連ヲ有スル」ので、終連京都事務局としてもかなり早急・迅速な対応が求められていた。またその補償料に関しても、進行するインフレ下では適正な料金を定めることがかなり難しく、一九四六年三月時点ではとりあえず一九四五年一二月までを第一期に、四六年三月までを第二期に、同年四月以降を第三期にという形で、時期を区切って「別個ニ補償料ヲ査定スル」という方式を考え出している(『京都事務局月報』第一号、一九四六年三月、以下『月報』と略称)。
  またこの段階の終連京都事務局の仕事でかなりの比重を占めるのは、米軍の要求する労務提供の斡旋業務であった。特に進駐が一段落したこの頃には米軍とその家族の快適な生活を保障するための「特殊技能労務者」への要求が高まっていく。その「特殊技能労務者」とは、たとえば「『エレベーター』修理工」、「冷凍装置〔冷房及び冷蔵庫〕技術者、写真版及び『オフセット』印刷技術者及び英語に堪能な電話交換手」、さらには「コック、ベーカー、理髪師、配管工、大工」などであるが、これらはいずれもかなり「供給困難なる職種」であり、到底米軍側の要求するだけの人員を「先方指示の期日に供給すること不可能の実情」で、ラジオや新聞広告も利用して募集につとめている(『月報』五号、六号、七号、八号、四六年七月、八月、九月、一〇月)。これらの職種で供給が困難であるというのは、単にもともとこれらの「技能工」「特殊技術者」の数が少いというだけでなく、ここにも進行するインフレが影を落していた。つまりこれらの職種でも「技能優秀な者」は、占領軍に雇用されなくとも「一般市中職場で既に相当の高賃金で稼働して居り当方の募集に応じて来る者は自然技能程度の低い者に限られる」という事情があった。一般的には占領軍による雇用は高賃金であったものの、これらの職種の技能優秀者にとっては逆に占領軍への雇用が低賃金だったと言えよう。そのため占領軍の方では終連京都事務局の斡旋した労働者の技能を査定した結果、技能未熟で雇用しないということを繰り返し、「聯合軍側の要求を充足するには再三人物を取変へて差出し始(ママ)めて就労確定する実情」にあったのである。これに対し京都は高等教育機関も多いためか、一九四六年一〇月頃には「男子通訳、事務員」など英語ができるというだけの事務職関係の職種では、もはや「応募過多」となっている(『月報』八号、四六年一〇月)。
  また、このような募集難にまでハネ返ってくることはなかったが、インフレの進行は占領軍向けに雇用されている「日傭労務者」にあっても、「従来の賃金では到底生活困難なる実情」を生み出していた。そこで京都府ではこの占領軍向けの「日傭労務者」の賃金を、一九四六年七月一日から「各職種共一率に十円増額」し、またこれとは別の「進駐軍向常傭使用人」については、同年八月中旬になって終連中央事務局より臨時特別手当を出しても差しつかえない旨の指示があったので、終連京都事務局では五月一六日にさかのぼり支給可能な最高限度額の月額二五〇円を支給することを決定している(『月報』五号、六号、四六年七月、八月)。なお京都においてはこれ以降も「進駐軍向常傭労務者」を雇用する際、「初任給が各職種別共最高給が支給され」たばかりでなく一九四七年から四八年にかけては連続九ヶ月「殆んど各月毎に」昇給するような政策をとったようで、そのためやがて後には「近畿地区の進駐軍要員の給料に関し京都地区は大阪其他の比して著しく高く近接の地区(大阪、兵庫)方面より皆京都に職を求めて行くので要員の辞職するものが多い」という事態まで生み出し、迷惑を蒙った大阪などからの苦情から大きく問題化するに至っている。これにはたとえば一九四八年二月時点で、占領軍に雇用される日本人労働者の数が、大阪では約九七〇〇名、兵庫では約七七〇〇名で「給与額が莫大なものに反し京都は二三百名なので、給与金額が嵩まない」ため、京都では高賃金の支給ができたという事情があったらしい(2)。ともあれ終連京都事務局ではこうした賃金政策をとるとともに、さらに折にふれて「米加配の外、酒、煙草、塩、衣料等の特配」を実施したりして、占領軍向け労働者の確保につとめている(『月報』七号、四六年九月)。
  終連京都事務局の第二の活動は、進駐した占領軍と現地の日本人との間で起るさまざまの軋轢・紛争の解決をはかっていくことであった。とはいえむろん終連地方事務局は、占領軍と正面からの交渉によって解決をはかるだけの権限や力量を備えていたわけではなく、それはどちらかと言えば占領軍に対する遠慮勝ちな陳情という形をとる場合が多かった。しかしそれも、占領初期の意思疎通が困難な時期から、次第にビジネスライクにものが言えるように変化していくと言えよう。たとえば比叡山に登る京福電鉄ケーブル線は占領軍将兵が多く利用していたが、それらは将兵が個人で乗る場合も無賃乗車となっていた。この件について一九四六年八月、京福電鉄運輸課長が何とかならないものかと終連京都事務局にその解決方を依頼してくる。これに対し終連京都事務局では終連中央事務局に問い合わせるが、終連中央事務局業務局の回答は、「進駐軍個人乗車の場合」のみを限って「運賃を正規に徴集すべきことを申入することは不可能」というものであり、結局この時点では京福電鉄側は泣き寝入りを余儀なくされたのであった(『月報』六号、四六年八月)。しかしその後も占領軍将兵の無賃乗車は後を絶たず、しかも比叡山に登るという行為は占領軍としての業務の必要上から来るものでなく、ほとんどが将兵個人の観光・遊覧目的であることが明らかであるのにこうした状態が続いたため、京福電鉄側の負担する「臨時的経費は多額に上り、会社経営上の赤字」を出すに至っている。そこで翌一九四七年六月、京福電鉄側からの再度の申し入れに接した終連京都事務局では、「遊覧施設としての性質よりして運賃を徴集するを妥当と認め会社経理状況並びに利用状況調査の上之が運賃徴集許可方」を京都の米軍「軍政部に申請」している(『月報』六号、四七年六月)。
  なおこうした諸種の軋轢は、特に占領初期には占領軍部内の事情もからんでさまざまな形で噴出していた。たとえば占領軍将兵専用の店とされた河原町四条上ルにあったアサヒビヤホールは、一九四六年三月末「軽易ナル不注意カラ」営業時間を過ぎて営業を続行していたのをたまたま米軍MPに発見され、MPは直ちにこの店に「無期営業停止ヲ命」じている。しかしこのビヤホールの経営者からの営業再開の陳情を受けた終連京都事務局では、このビヤホールが「従来ヨリ進駐軍将兵間ニ於テモ好評ノモノ」であることを見透かした上で、営業再開を「MP当局ニ依頼」し、四月二日には営業停止解除にまで漕ぎつけている(『月報』二号、四六年四月)。また、一九四六年九月一日よりビールに課せられる税金も増税することとなったが、これに対応して「進駐軍専用キャバレーに於けるビールもその販売価格を値上げ」すべく、終連京都事務局が占領軍当局の諒解を取りつけに行ったところ、米軍の京都地区憲兵司令官からキャバレーのビールは免税品であるはずだと突っぱねられ、「増税による値上げは絶対認められぬ旨言ひ渡」されてしまう(『月報』六号、四六年八月)。この件は結局中央での大蔵省と占領軍財務課との話合いに委ねられることになり、この両者間で九月中旬になって「課税するも可なりとの結論に達し」、京都でも増税にともなう販売価格「値上げの申請」をして直ちにその「許可」を得て一件落着となっている(『月報』七号  四六年九月)。
  以上のような事例は、占領軍によって侵害されたり侵害されかかったりした日本側の業者の利益を守ろうとする動きであったと言えようが、それも長期的には占領の円滑な実施に資するものであった。しかし終連京都事務局は必ずしも単純に日本側の立場を擁護するといった行動をとろうとしていたわけではない。終連京都事務局はむしろしばしば占領軍の意向を受けそれを代弁する形で、同時に日本側の利益もはかって行こうとしていたようである。たとえば上賀茂ゴルフ場の計画がこれを示す。上賀茂ゴルフ場とは「上賀茂神社裏山一体の二十万坪の景勝の地に起伏する丘、点在する小池を利用して、十八ホールの理想的コースを建設する」という計画で、これを占領軍専門のゴルフ場として造成しようとするものであったが、当初地元と神社側はその建設に反対していた。これに対し京都府や終連京都事務局では、外国人観光客誘致にとってこうしたゴルフ場建設が「有意義」と見て積極的協力の姿勢で応じて神社や地元の説得に当る。ところが一九四六年一一月初旬占領軍より土地接収の命令が発せられ、基礎工事の一部にも着手したにもかかわらず、その後の占領費節減の方針によってこのゴルフ場建設計画は中止に追い込まれることになった。すると京都府や終連京都事務局では、このゴルフ場建設を占領軍の仕事としてではなく、「民間の工事として近畿国際観光株式会社の手で」実現しようとはかっていくのである。この背後には「連合軍側の熱心唱(ママ)慂」があったのは言うまでもない(京都連絡調整事務局『京都事務局月報』第二号、一九四八年三月一日ー一五日)。
  さて、以上のような占領の円滑な実施に努力することは、将来的には占領期間の短縮や有利な講和条約獲得のための必須の前提として、もともと日本政府によって意識的に追求されていたものであったが、単にそのような遠大な目標だけでなく、終連の占領軍協力にはより手近な獲得目標があったのを見落とすことはできない。それが終連京都事務局の第三の活動である、民需産業転換許可と賠償指定解除のとりつけである。
  アメリカの対日賠償政策の基本方針は、((1))産業の非軍事化、((2))実物賠償・在外財産引渡し、((3))平和産業の復興の三点から成っていたと言える。このうち((1))は、まず何より軍需産業施設及び潜在的に軍需産業を支える施設から賠償撤去をおこなうことを意味し、((2))は工場の機械設備などを賠償の対象とすることを含み、((3))は日本国民の最低生活水準の維持は認めるという考え方を示していた(3)。ただこの((1))−((3))の基本的枠組みを認めたとしても、日本国民の最低生活水準とはなにか、それを維持するためにはどれだけの民需部門の産業が必要か、とするとどこまでを潜在的に軍需産業を支える産業と認めて賠償撤去の対象とし、どこまでを日本国民の生活再建に必要な施設と認めて残すかについては、なお見解の相違が生ずる可能性があり、交渉の余地が残されていないわけではなかった。一九四五年一一月に来日し賠償問題を手がけたポーレー使節団の姿勢は日本にとって厳しいものであったが、この占領軍と賠償問題で折衝を担当する日本側の中心機関は終連中央事務局賠償部であった。終連中央事務局賠償部は、民間賠償指定工場を管轄する商工省、旧陸海軍工廠など国有財産を管理する大蔵省、造船所などを管理する運輸省と連絡をとりつつ、占領軍側に対し賠償緩和の必要を訴えて働きかけていく。しかしこの点については部分的な緩和はあったものの、一九四八年末の対日占領政策の転換までは大幅な指定解除がおこなわれることはなかった。
  これに対し相対的に早くから占領軍側も容認の姿勢を見せていたのが、軍需工場の民需転換許可の方である。占領軍では一九四五年九月二二日の指令第三号で、兵器・航空機等の直接的武器生産の禁止を命じつつ、それら軍需施設の民需転換についての申請を認める規定を設け、一九四六年一月二九日には賠償指定工場に関しても第八軍司令官の許可により民需転換を可能とする規定をSCAPINによって認めている。特に一九四六年一一月二二日のSCAPINは、生産物が日本経済又は占領軍にとって必要不可欠であり、他に代替施設の存しない場合には、賠償指定工場と肥料生産工場以外は占領軍の許可がなくても民需転換を認めるという画期的な指令であり、また賠償指定工場であってもこれらの条件を充たせば民需転換を認めようとする方向を打ち出したものであった。そのため対日占領政策の転換以前に、かなりの数の工場で民需転換が認められるという結果となっている(4)
  こうした中で終連京都事務局でも、民需産業転換許可をとりつけるため、「米側ニ対シ当該申請工場ノ実情ヲ具申シ日本政府ニ意見ヲ陳述スル等之カ許可方ノ促進ニ努力」することを自からの「重要業務」と位置づけていた。これは言うまでもなく、「一日モ速カニ民生安定産業ノ復興ヲ図」らんがためである。それと同時に終連京都事務局では、賠償指定の軍需施設の中にもすでに民需転換したり民需転換を計画したりしている工場が多いこと、その生産物の中には「我ガ国ノ最低民需品確保ノ為ニ必要不可缺ノ生産品目」も含まれていること、にもかかわらずこれら工場側では賠償指定解除申請をおこなうことに「兎モスレバ消極的トナリ又ハ去就ニ迷フ」様子が見られること、などに注目していた。そして終連京都事務局では、一方でこれらの工場に対し「指導啓発」を加えて賠償指定解除申請の書類を米軍側宛に提出させるとともに、他方で終連中央事務局や関連中央省庁とも連絡を取って、民需転換したこれら工場の「生産継続更ニハ賠償ノ対象ヨリ除外方ヲ地方米側ニモ具申」し、賠償指定解除をとりつけようと活動している(『月報』一号、四六年三月)。
  たとえば一九四六年五月二一日、京都府を管轄している米軍第一〇三軍政部より、戦時中に航空機部品製作に当っていた吉忠工業モに対し賠償指定と操業停止の命令が下されたが、この工場では戦後「京都府ノ指導ニ依リ、甘藷蔓、甘藷根、蔓根団栗等ノ未利用資源ヲ活用シテ、代用食ヲ製作中」であったことから、終連京都事務局では第一〇三軍政部に対し「操業停止ハ現在ノ食糧事情ニ鑑ミルトキ、重大ナル支障ヲ来ス」旨を「具申」し、操業停止の「解除」を認めさせ、その後も賠償指定物件からの「除外方」を働きかけている(『月報』三号、四六年五月)。しかし前述のように賠償指定の解除の方は、なかなか困難な場合が多かった。そこでたとえば指定解除が「極めて困難視」された島津製作所三条工場の場合には、その工場全体でなく「戦時中も民需品生産に従事して居た部分だけでも除外して貰へるやう」「会社側の嘆願書」を米軍宛に提出させ(『月報』六号、四六年八月)、結局「一部の賠償対象からの除外決定」に導くことに成功している(『月報』七号、四六年九月)。これに対し民需転換許可に関しては、比較的重要なものに関しては第一軍団司令部が、簡易なものについては府県を管轄する軍政中隊などがその権限を掌握していたが、日本側からの申請が認められる場合が多かった。第一軍団司令部の許可件数で言えば、一九四六年四月は一八件、五月は三九件、六月は二九件、八月は一五件、九月は一二件、一〇月は八件と(『月報』二号−三号、五号−八号、四六年四−五月、六−一〇月)、前述の一九四六年一一月二二日のSCAPINの発出以前の時期でもかなりの数が許可されている。
  終連京都事務局の第四番目の活動は、食糧配給問題を含む治安問題の部面であり、この部面では終連はむしろ占領軍に依存して解決の方策を採ろうとし、占領軍の方でも終連の陳情に対し協力的であった。一九四六年九月から一〇月初旬にかけて京都では深刻な「食糧危機」に見舞われたが、この危機は「進駐軍当局よりの輸入食糧放出」によってかろうじて「急場」をしのいでいる(『月報』八号、四六年一〇月)。ただしこれら「輸入食糧」の中には、日本の庶民にはその利用方法がわからず「甚しきに至っては放棄又は飼料とせられたものさへあ」ったらしく、米軍第一軍団司令部からはこれら輸入食糧の「利用方法普及に極力努力せられたい」との「注意」が終連京都事務局に与えられている(『月報』九号、四六年九月)。また翌四七年六月の端境期にも、京都では食糧配給の「缺配」問題が生じており、京都工業会会長ら同会幹部は米軍京都府軍政部軍政官を訪れ、「工場単位の食糧買付に対して援助を懇請」し、軍政官シェフィールド少佐はこれにつき「府当局に於て異議が無ければ軍としても異議がない旨回答した」という(『月報』六号、四七年六月)。ここでの「工場単位の食糧買付」とはおそらくヤミ米などの買い付けのことであろうから、それに対する「援助」とは要するに警察の方で厳しく取り締らないでほしいという趣旨で、占領軍側もこれを諒承する方向にあったということであろう。また米軍京都府軍政部では同じ頃に知事以下消費者代表までの食糧配給問題の関係者を集めて、この食糧「遅配問題」にどう対処するかについての懇談会を開いているが、その席で京都府軍政部のイッシュ大尉は、「軍政部でも京都府が割当完納県である特殊性に鑑み出来る限りの援助を惜しまないから必要あらば何時でも軍政部に出かけて事情を話してくれる様」にと語ったとのことである(『月報』六号、四七年六月)。ここでの占領軍の姿勢は、ほとんど日本の政府・国民に対する保護者としての姿勢であると言って良い。
  なおこうした治安問題の一種として、旧植民地人である朝鮮人、中国人問題があった。それは闇市や労働争議などに関わる朝鮮人、中国人によって犯される犯罪の取締りの問題である。京都ではこの当時、「朝鮮人ニ依ル軍需物資強奪事件」であるとか「二條駅軍拂下綿花ノ鮮華人ニ依ル不法奪取」であるとか(『月報』一号、四六年三月)、また「朝鮮人ノ退職ニ際シ、退職費不当要求事件」であるとか(『月報』三号、四六年五月)いった事件が起きていたが、日本の警察が今や外国人となった朝鮮人、中国人をどこまで取り締ることができるのかといった点が警察当局にもハッキリしないところがあった。しかしこの問題に関しても、占領軍は終連や日本の警察の後押しをする立場に立っていたようである。一九四六年四月四日には米軍の京都府軍政官は、終連京都事務局に「在京都中国人(台湾省人ヲ含ム)朝鮮人団体ノ参集ヲ求メ」、「食糧緊急措置令」などヤミ食糧物資統制のための「法規ノ趣旨遵奉方」を「指示シタ」という。その際米軍京都府軍政官は、この種食糧関係の「違反事件ニ関シテハ日本側警察当局ノ積極的活動ヲ慫慂シ必要に応ジMPノ協力ヲ措(ママ)シマナイ」とも述べていた(『月報』二号、四六年四月)。さらに米軍軍政官は、一九四六年九月二七日にも京都府の「警察部長及各課長立会の許」で、「朝鮮人取締に関し在洛各朝鮮人団体代表」に対し「鮮人指導者の善処方要望」している(『月報』七号、四六年九月)。こうした占領軍の姿勢を受けて、終連京都事務局交通班では、「第三国人との接衝に関する根本態度」を、「聯合軍の指示に基き法の適用については厳正な態度で臨むこと」とすることで意思統一している(『月報』八号、四六年一〇月)。つまり朝鮮人・中国人のヤミ食糧物資をめぐる違反事件の取締りなどに関しては、占領軍は日本政府による治安統制の後楯となり、終連を媒介に協力関係を強める方向にあったと言えよう。
  なおこの終連時代のことであるが、『京都事務局月報』とは別に『京都地方情勢報告』というのも一時期出されている。これは京都の政治情勢、経済情勢、労働情勢などについて終連京都事務局がまとめたもので、一九四七年二月発行の第一号と、同年五月発行の第四号が残されている。同様の地方情勢報告は、東北・横浜・大阪・神戸・広島の終連地方事務局が一九四七年二月以降の時期に発行しているが(5)、その多くは経済・労働情勢に関する記述に偏しており、京都の報告ほど政治情勢に詳しいものではなく、量的にも小さな報告に止まっている。しかしともあれこれら地方情勢報告は、二・一スト後の各地の労働情勢などを探ろうとの意図の下に各地の終連地方事務局から提出させたもののようであるが、形式・内容とも区々であり、同年九月以降のものは一通も残されていない。京都の地方情勢報告にしても、各党派・労働団体の動向などをできるだけ特定の立場にとらわれず客観的な姿勢で記述しようとする姿勢はうかがわれるが、その報告を通覧しても、終連がこの情勢の中でいかなるスタンスを取ろうとしているのかは判然としないものとなっている。おそらくこの種の地方情勢報告は、終連中央事務局が当初意図したことが十分貫徹しないまま、発行中止に至ったのではないかと推測される。

(1)  たとえば一九四五年一一月二七日開催の終戦連絡各省委員会の席で、終連中央事務局総務部より、京都事務局からの通報として、日本人の武器回収が進まないのは「本邦法規ノ不備ニ基クニ非スヤ」と米第六軍当局は考えており、第六軍では「其ノ旨ヲGHQニ具申スル模様」だとの見通しが提起されていることを報告している(『終戦連絡各省委員会議事録』  前掲『日本占領・外交関係資料集  第一期』第二巻)。
(2)  大阪連絡調整事務局『大阪事務局月報』第一号(一九四八年三月)  前掲『日本占領・外交関係資料集  第二期』第八巻)。
(3)  『通商産業政策史』第三巻(通商産業調査会  一九九二年)五二頁。
(4)  前掲『通商産業政策史』第三巻  六二ー六五頁。
(5)  前掲『日本占領・外交関係資料集  第二期』第三−四巻、第八−一〇巻。