立命館法学  一九九七年一号(二五一号)二八頁(二八頁)




Theodor Kipp による「無効と取消の二重効」とその今日的意義
法律効果競合論研究序説


林 孝司






    目    次
一、問題の所在と本稿の課題
  1  「無効と取消の二重効」の扱われ方とその現状
  2  不活性な議論状況の原因
    (1)  Kipp の二重効理論に内在する次元の異なる問題群とその整理の困難さ
    (2)  Kipp の主張と我が国における誤解
  3  本稿の課題
二、私法学方法論レベルの問題提起
  1  Kipp の主張
    (1)  法律学における「形而上学的・自然科学的傾向」あるいは「法概念を比喩以上のものととらえる傾向」への批判
   (2)  二重効承認の理論的根拠(法命令説の採用と無効・取消の法的構造からの説明)
  2  問題の意義
    (1)  「ドイツにおける形而上学的・自然科学的傾向」研究の必要性
    (2)  「法概念を自然界の物体と同視してはならない」「法概念は比喩に過ぎない」というテーゼが持つ今日的意義・問題点
    (3)  「法命令説」それ自体の問題点
    (4)  「取消は条件付き無効である」というテーゼがもつ問題点
三、訴訟法レベル(訴訟法と実体法の関係について)の問題提起
  1  Kipp の主張
    (1)  訴訟における無効・取消の「併存的主張」と二重効による根拠づけ
    (2)  「実体的司法法(Materielles Justizrecht)」の承認
  2  問題の意義
    (1)  「訴訟における併存的主張」と我が国における誤解
    (2)  「実体的司法法」の学説史的意義に関する研究の必要性
四、実体法における解釈論レベルの問題提起
  1  Kipp の主張
  2  問題の意義
    (1)  我が国における今日的意義
    (2)  問題となり得る局面とそのパターン
    (3)  無効と取消で付随的効果が異なる場合の多様性
    (4)  従来の二重効否定説の問題点
    (5)  二重効肯定説が克服すべき課題(優先すべき規範決定の基準)
五、結びに代えて



問題の所在と本稿の課題

1  「無効と取消の二重効」の扱われ方とその現状
  「無効と取消の二重効」と言えば、「ある原因によって既に無効となっている法律行為を別の取消原因に基づいてさらに取消せるか」という問題として、我が国においても古くから議論されてきたテーマである。がしかし、この問題を単行論文のテーマとして独立に取り上げた論者は過去にそう多くはない(1)
  そしてまた、この「論文の数」よりもさらに問題なのは、これらの論者によって、その都度重要な問題提起・指摘がなされてきたにもかかわらず、どう贔屓目に見ても、かつてこのテーマをめぐる議論が活性化したことはほとんどなかったといわざるを得ない点に存在するのである。というのは、先に掲げた文献中、二重効を承認するかどうかという形式的な結論のレベルで振り分ければ、承認する立場が多いといえるのだが、これに疑問を提示し反対する立場も存在する(2)。しかし、結局、解釈論レベルでは(特に無効と取消の競合の領域に限定すれば)両説共にほとんど変わりがないように見えるためか(3)、二重効承認の側からの反対説に対する反論は、実は、これまでなされてはいないのである。ということは、このような議論状況を前提とする限り、少なくとも、これまで両説の間で「かみ合った議論」がほとんどなされていないと判断されてもやむを得ないわけであり、残念ながら、それが実状と言わざるを得ない。
  ところが、それにもかかわらず、教科書や体系書のレベルでは、このテーマについてコメントしているものは大変多い(4)。しかも、その説明においては、驚くことに、前述の反対説に全く言及することなく、二重効の承認を当然視し、あたりまえだと言わんばかりの記述がほとんどなのである。しかも、その説明があまりにも簡単であるために、このテーマに関する議論は既に終わってしまっているのではないかというような印象すら与えかねない。つまり、現在、無効と取消の二重効を承認するという見解が「かみ合った議論のないまま通説化している」と言っても過言ではない状況なのである。はたして、このテーマに関する議論は「既に終わってしまったもの」といえるのであろうか。

2  不活性な議論状況の原因
  それでは、このように、ほとんどかみ合った議論のないまま不活性な状況が続いている原因は一体何なのであろうか。その主要な原因を挙げれば、次のように二つに分けることができよう。
  (1)  Kipp の二重効理論に内在する次元の異なる問題群とその整理の困難さ
  まず第一に、二重効理論の主唱者である Theodor Kipp の問題提起そのもの(あるいはその仕方・方法)に内在する原因について一応の説明をしておくべきであろう。それは、Kipp の問題提起自体が、多くの、しかもかなり次元の異なる問題群を内包しており、それらが複雑に絡み合ったまま未整理な状態で一度に提示されてしまったため、我々はこれらの問題群を整理・理解するだけでも相当な困難を余儀なくされるという点にあると言ってよいように思う。というのは、一見単純に思える「無効と取消の二重効」の主張も、分析すると、次のような三つの問題提起を含んでおり、これらが混然一体となって主張されているからである。

  1.   私法学方法論レベルの問題提起(法律学における『形而上学的・自然科学的傾向』及び『法概念を比喩以上のものとして扱う傾向』に対する批判)
  2.   訴訟法レベル(あるいは実体法と訴訟法の関係について)の問題提起(訴訟における無効・取消の『並存的主張』を基礎づけること)
  3.   実体法上の解釈論レベルの問題提起(二重効を認めなければ解釈論上不当な結論が導かれることの指摘)
  しかも、これら一つ一つの問題提起が、一九世紀末から二〇世紀初頭(Kipp が二重効理論を主張したのは一九一一年)にかけてのドイツ民法学の状況と密接不可分に関連しており、これと切り離して理解することは困難であるという点も、このテーマのわかりにくさに拍車をかけることとなっていたのではないかと思われる。
  勿論、これらの問題群の整理とそれぞれの問題の個別的検討及び二重効理論の歴史的背景の分析については、これまでの我が国においてもなされいる(注(1)の於保論文や奥田論文)が、いまだ学界における共通の認識となるまでには至っていない状態であり、これからの検討課題であるように思われる。
  というのは、従来の我が国においては、これらの問題群の整理が不十分なまま、前記(b)の問題だけが二重効の問題として議論される傾向があり、そのことが、かみ合わない議論・不活性な議論状況の一因となっているように思われるからである。すなわち、これまでの我が国の教科書・体系書レベルの文献では、(b)以外の問題、(a)については、Kipp の主張の上澄みの部分だけが、その歴史的背景から切り離されて((b)を承認する根拠として)簡単に説明されるのが一般的であり、(c)に至っては、全く問題として取り上げられないのが通常なのであるが、前述した二重効反対説の主張は、教科書・体系書レベルで全く触れられることのない、この(c)の問題についての議論なのである。
  (2)  Kipp の主張と我が国における誤解
  第二に、これらの Kipp の問題提起が、我が国の民法学において、本当に正確に把握されていたのだろうか、という疑問もここで指摘しておく必要があろう。
  前述したように、従来の我が国の教科書・体系書レベルの文献では、二重効の問題というと、前述した(b)なのであるが、この(b)のとらえ方(正確には、問題として議論しようとした局面)にすら、我が国の主要文献((注1)及び(注4)の文献)と Kipp の主張との間に大きな「ズレ」があるように思われてならない。
  というのは、Kipp は、訴訟における無効と取消の『並存的主張』(つまり無効と取消に基づく遡及的無効を同時に主張すること)を根拠づけるために二重効承認の必要性を説いたのであったが、我が国では、何故か、無効と取消の「選択的主張」あるいは「条件的主張」を根拠づけるための議論にすり替えられて今日に至っているからなのである(詳細は三で後述)。
  この『並存的主張』と「選択的主張」・「条件的主張」との差異、及び「選択的主張」「条件的主張」の可能性の問題は本当に二重効の問題なのか、という点については後述するが、ここでは、少なくとも、従来の我が国で当然視されてきた「何が問題とされる局面か」という前提ですら、Kipp の主張を正確に把握していなかったのではないか、という疑問が存在することを指摘しておきたいと思う。いずれにしても、このような誤解が、かみ合わない議論・不活性な議論状況の一因になっていることは否めない事実であると思われる。

3  本稿の課題
  そこで、本稿では、Kipp が主張した問題提起をでき得る限り整理することに徹し、それぞれの問題がどのような意味をもっているのか、また、これらの問題群は我々の今後の研究対象としてどのように位置づけられるべきか、を模索することを主要な課題としたい。そのことによって、我が国における従来の「二重効の問題」の取り扱いが適切なものであったかどうかということを検証することができ、かみ合った議論が行われ得る土台が少しでも見えてくるのではないかと考えるからである。そして、今後は、この整理を出発点として、それぞれの問題の個別的な検討や立ち入った二重効理論の歴史的背景の分析も行うことができるのではないかと考える。
  なお、Kipp は、無効と取消の問題以外にも、二重効理論を膨大な領域に拡張し、譲渡による所有権取得と時効による所有権取得の二重効や、解除後の取消なども認め、かなり広範囲にわたる議論をひとまとめにして展開しているのであるが、これらについては、本稿では意図的に対象外とした。これらを同次元で一度に論じようとする考察態度が、無用の混乱を引き起こしている原因だと考えたからである。
  無効と取消以外の領域については、解除と無効・取消の競合など相当重要なテーマが含まれているが、今後十分な整理を行った上で検討していきたいと考えている。

(1)  主要な文献を列挙すれば、乾政彦「法果競合論」法学志林一八巻三号二六頁以下(大正八年〔一九一九年〕)に端を発し、於保不二雄「二重効(Doppelwirkungen)について」「財産管理権論序説」三八二頁以下所収(初出は法学論叢四一巻二号(昭和一四年〔一九三九年〕)で本格的に論じられることとなるが、その後かなりの空白があった後、伊藤進「無効行為の取消」法律行為・時効論一三五頁以下所収(初出は田中実・山本進一編「民法総則・物権法《法学演習講座A》」)(昭和四六年〔一九七一年〕)、奥田昌道「二重効の意義−民事法における「二重効」の意義と問題性について述べよ−」民法学1《総論の重要問題》〈有斐閣〉六〇頁以下(昭和五一年〔一九七六年〕)、舟橋諄一「取消と無効の二重効−詐欺による取消と錯誤無効、行為無能力者の意思無能力による無効と取消−」ジュリスト増刊民法の争点T五二頁、と続くのであるが、このとおり数量的にもそう多いとは言えない状況である。この他、二重効プロパーの論文ではないが、これに触れた重要な文献として、石田喜久夫「無効と取消の横断的一考察(下)」Law School 八号四三頁、磯村保「契約成立の瑕疵と内容の瑕疵」(1)ジュリスト一〇八三号〔一九九六年〕八一頁以下がある。
(2)  代表的なものとして、奥田・前掲(注1)七三頁や石田喜久夫・前掲(注1)四三頁。
(3)  反対説も取消の意思表示は無意味だが、対第三者効などの取消に伴う付随的効果は認めるという立場をとる((注2)に掲げた文献の該等箇所参照)。なお、この点についての検討は本稿四の2の(4)を参照。
(4)  主要なものを列挙すれば、我妻栄「民法総則」〈岩波書店〉五三〇頁以下(昭和五年〔一九三〇年〕)、同「新訂民法総則(民法講義T)」〈岩波書店〉三一一、三八七頁(昭和四〇年〔一九六五年〕)、近藤英吉「注釋日本民法〔総則編〕」〈嚴松堂〉三四七、四五四頁(昭和七年〔一九三二年〕)、於保不二雄「民法総則講義」〈有信堂〉二〇二頁(昭和二六年〔一九五一年〕)、舟橋諄一「民法総則」〈弘文堂〉一一〇頁(昭和二九年〔一九五四年〕)、川島武宜「民法総則」〈有斐閣〉三〇一頁(昭和四〇年〔一九六五年〕)、幾代通「民法総則」〈青林書院新社〉四四八頁(昭和四四年〔一九六九年〕)、星野英一「民法概論T」〈良書普及会〉二三二頁(昭和四六年〔一九七一年〕)、五十嵐清ほか「民法講義1総則〔改訂版〕〈有斐閣大学双書〉」(稲本洋之助執筆)二一一頁(昭和五六年〔一九八一年〕)、松坂佐一「民法提要  総則(第三版・増訂)」〈有斐閣〉二九五頁(昭和五七年〔一九八二年〕)、石田喜久夫編「現代民法講義」(磯村保執筆)〈法律文化社〉一六二頁(昭和六〇年〔一九八五年〕)、四宮和夫「民法総則(第四版)」〈弘文堂〉二〇八頁(昭和六一年〔一九八六年〕)、93b9悌次「民法総則講義」〈有斐閣〉一八四頁(昭和六一年〔一九八六年〕)、山田卓生ほか「民法T総則(有斐閣Sシリーズ)」(山田卓生執筆)一二八頁(昭和六二年〔一九八七年〕)、乾昭三・長尾治助編「新民法講義1契約法」〈有斐閣〉(大河純夫執筆)一一五、一三七頁(昭和六三年〔一九八八年〕)、森泉章「民法入門・民法総則」〈日本評論社〉二二三頁(平成二年〔一九九〇年〕)、遠藤浩他「要論民法総則」(鎌野邦樹執筆)一四八頁(平成二年〔一九九〇年〕)、近江幸治「民法講義T〔民法総則〕」〈成文堂〉一八一、二四六頁(平成三年〔一九九一年〕)、椿寿夫「民法総則講義(上)」〈有斐閣〉一二三頁(平成三年〔一九九一年〕)、中井美雄「通説民法総則」〈三省堂〉一八七頁(平成三年〔一九九一年〕)、副田隆重ほか「新・民法学1総則」(中舎寛樹執筆)〈一粒社〉一五一頁(平成四年〔一九九二年〕)、石田穰「民法総則」〈悠々社〉三六三、四六八頁(平成四年〔一九九二年〕)、北川善太郎「民法総則(民法講要T)」〈有斐閣〉一五七、二〇一頁(平成五年〔一九九三年〕)、内田貴「民法T総則・物権総論」〈東京大学出版会〉七〇、一〇七頁(平成六年〔一九九四年〕)、川井健「民法概論1(民法総則)」〈有斐閣〉四一、一七九、二二一、三一〇頁(平成七年〔一九九五年〕)、永田真三郎ほか「民法入門・総則エッセンシャル民法1」(松岡久和執筆)〈有斐閣〉一三九頁(平成七年〔一九九五年〕)、高森八四郎「民法講義1総則」〈法律文化社〉九七頁(平成七年〔一九九六年〕)など。このほか、教科書以外では、於保不二雄編「注釈民法(4)総則(4)」(奥田昌道執筆)二四五頁以下、遠藤浩ほか「演習民法(財産法)〈法学教室選書〉」〈有斐閣〉設問五「錯誤と詐欺」二三頁以下(昭和五九年〔一九八四年〕)、遠藤浩ほか編「演習民法(総則  物権)〔新演習法律学講座4〕」〈青林書院〉における〔19〕「錯誤と詐欺」(石川利夫執筆)一八五頁及び〔27〕「無効」(伊藤進執筆)二四四頁、田山輝明「特別民法講義〔総則〕」〈法学書院〉六四頁以下(平成八年〔一九九六年〕)がある。


二、私法学方法論レベルの問題提起


1  Kipp の主張
  (1)  法律学における「形而上学的・自然科学的傾向」あるいは「法概念を比喩以上のものととらえる傾向」への批判
  Kipp が二重効理論を提唱するに至った最も主要な動機は、当時(少なくとも一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて)のドイツ民法学において蔓延していた「形而上学的・自然科学的傾向(metaphysisch-naturwissenschaftliche Richtung)」を批判することにあった。彼の論文の目的もまさにこの点にあることを、彼自身明らかにしている(1)
  それでは、ここで批判の対象となっている「法律学における形而上学的・自然科学的傾向」とは一体何なのか。現在の我々にとっては、すぐにはピンとこない問題と言えようが、我が国における従来の紹介・研究をふまえるなら、このうちの「自然科学的傾向」については、ある程度の理解は可能であろう。それは、法律効果を自然界における物体と同じ次元で取り扱う傾向であり、その中に「既に破壊されてしまった物体はさらに破壊され得ない」(あるいは「既に死んでしまった人間は殺せない」)というのと同様に「既に消滅している法律効果をさらに消滅させることはできない」つまり「既に無効な法律行為は取消せない」という結論を導く見解(2)が含まれているのである。
  しかし、注意を要するのは、この無効・取消の競合を否定する見解だけが、自然科学的傾向の全てではないことであって、この点については Kipp 自身の指摘するところである(3)。では、これ以外に存在する自然科学的傾向とはいかなるもので、どの程度の範囲で広く蔓延していたのか、また、この傾向は当時の法思想の流れの中でどのように位置づけることができるのか、という疑問点については、我々は、いまだに共通の認識をもってはいない。つまり、この自然科学的傾向の実体については、まだまだ謎の部分が多いのである。
  さらに、「形而上学的傾向」とは何なのか、という点についていえば、さらに謎は深まると言わざるを得ない。従来の我が国において、正確な理解がなされていたのかどうか、という前提の問題から検討する必要性すらあるのではなかろうか(4)
  いずれにしても、ここで確認すべき最も重要な点は、Kipp の二重効理論が批判のターゲットとしていたのは、無効行為の取消可能性を否定する解釈論上の見解だけではなく、むしろ、それを一つのサンプルとして含む、さらに大きな規模で当時のドイツ民法学に蔓延していた「私法学方法論にかかわるある種の傾向」だったということなのであり、この点を見落としてはならないのである。
  ともあれ、Kipp は、このような傾向が、法概念を物体的世界で把握し、それらをあたかも比喩以上のものとして理解しているという点で批判する。そして次に、「権利及び法律関係の発生・変更・消滅、権利の移転などを説明する場合、それは比喩的表現(Bildersprache)」に過ぎないのだということを強調し(5)、それを出発点として二重効理論を展開するのである。
  (2)  二重効承認の理論的根拠(法命令説の採用と無効・取消の法的構造からの説明)
  Kipp は、法概念が比喩に過ぎないことを強調したが、それだけで無効・取消の二重効を十分に説明したことになるとは思っていなかった。彼は以下の二つの理論的な根拠を掲げて説明を行っている。
  まず第一に、あらゆる法規が一般的に有しているとされる法的性質、つまり「全ての法規は命令的性質をもつ」という立場(法命令説)から理論的説明を試みた(6)。すなわち、法律効果と法律要件の関係を「命令または命令からの解放とその条件の関係」としてとらえるなら、法律効果は人に対する「命令」であり、法律要件さえ充足されれば、法は同じ内容の命令を同じ人物に何度でも繰り返し下すことが可能であると説いたのである(7)。これを無効と取消の競合の問題に敷延すれば、「法律行為を初めから無効なものと扱え」という命令と「法律行為は取消されたのだから遡及的に無効なものと扱え」という命令は競合しても矛盾しないということになろう。
  しかし、Kipp は、一般論であるこの法命令説だけではなく、これを前提にして、さらに無効・取消という個別の法制度、特にそれらの法的構造、法的性質論に立ち入った検討を行い、そこから最終的に無効・取消の二重効を根拠づけている。これが第二の理論的根拠というべきものである。すなわち、Kipp によれば、無効とは、本来その法律行為がもたらすべき効果がもたらされないということであり、取消可能性とは、取消権者の意思表示によって遡及的無効の効果を発生させ得るということであり、いわば「条件付きの無効」というべきものである。従って、もし取消可能性が、既に存在する効果を除去するという性質のものなら、除去される効果がなければならないということになるが、そういうことではない。取消権者によって取消の意思表示がなされれば、条件付きの無効が無条件の状態となり、遡及的無効の効果がもたらされるというだけのことである。従って、取消の前に当該法律行為が既に無効であったとしても、それは無効と無効が競合する場合と何ら異なることはなく、競合は可能だというわけである(8)
  ここで確認しておくべき重要な点は、Kipp が、二重効の理論的根拠として、@法規一般が持っているとされる命令的性質とA無効・取消という個別的制度の法的構造・法的性質の説明とで二段階の説明を行っているということである。

2  問題の意義
  以上、Kipp の主張のうち、私法学方法論レベルの問題と思われるものを整理してきたのであるが、次に、これらの問題は「現在の我々にとって如何なる意味を持っているのか」また「今後、どのような視角で検討される必要があるのか」について、ここでまとめておきたい。
  (1)  「ドイツにおける形而上学的・自然科学的傾向」研究の必要性
  まず我々は、Kipp が直接批判の対象としていた「形而上学的・自然科学的傾向」の実像を把握しておく必要があるように思う。具体的にいえば、「このような『形而上学的・自然科学的』傾向は、当時のドイツ民法学において、どのような形で、どの程度蔓延していたのか」、「その原因は何なのか」、また、「このような傾向は方法論史あるいは法思想史の流れの中でどう位置づけられるのか」等の疑問を説き明かす必要があるのである。従来の我が国においては、これらの疑問点についてほとんど手付かずの状態だというのが実情であるが、これらの研究は、純粋に法学史的観点からも重要だと思われる。
  というのは、この「形而上学的・自然科学的傾向」は、いわゆるドイツ「概念法学」の一断面としての性格を持っており、現在のドイツでも「概念法学の極端な変種」と評価されている(9)が、このような観点から見て、前述の研究を推し進めることは、従来の我が国において乏しかった「概念法学」の実証的研究の端緒としての意味を持っていると思われるからである。
  今日の我々は、「概念法学」という用語を、最高度に非難されるべき対象の意味で使用することが多いのであるが、それにもかかわらず、ドイツにおける概念法学の実態、「概念法学とは何か」及び「何がどういう理由で悪いのか」について、必ずしも明確な共通認識があるわけではないだろう。このような現状に照らしてみても、この研究の意義は十分にあると思われる。
  (2)  「法概念を自然界の物体と同視してはならない」「法概念は比喩に過ぎない」というテーゼが持つ今日的意義・問題点
  法概念を自然科学の対象である物体や生物、自然現象と全く同一のレベルで扱い、その自然科学における法則を法律学の中に没価値的に持ち込むことが誤りであることは言うまでもない。なぜなら、法律学(特に法解釈学)は、我々人間社会とは独立無縁に存在する事象についての認識の学問ではなく、人間社会で日々生じる事象に対する評価と当為の学問であり、それゆえ法概念も、所詮、人間がある事実関係を評価することによって作り出した便法と言わざるを得ないからである。
  そして、それと全く同じ理由で、権利・義務の観念的な存在を前提とししつつ「それら権利・義務が発生・変更・消滅するという説明は、ことごとく比喩に過ぎないのだ」という Kipp の主張も真理であると言わざるを得ないであろう。
  しかし、だからと言って、「比喩に過ぎないから」という説明だけで、それまで行ってきた「権利・義務の発生・変更・消滅」という説明を否定する、あるいは、本来の法律上の論理構成を無意味なものとして撤回するということが、はたして許されるのであろうか。もしこれが許されるのならば、全ての法概念・論理構成は、結局煎じ詰めるところ比喩なのだから、何時いかなる場合でも、全ての説明を簡単に全面撤回することが可能だということになってしまう。しかも「比喩だから」という理由以外何の説明もなくそれが可能だとすれば、それはもはや法律学の自殺行為という評価を受けてもやむを得ないのではなかろうか。
 勿論、Kipp 自身は「比喩だから」という理由だけではなく、一応、 法の命令的性質及び 無効・取消の法的構造・法的性質からの説明という二つの理論的根拠(その当否は別途検討する必要がある)によって「無効と取消の二重効」を説明している。「比喩だから」という説明だけでは不十分であるということを彼なりに認識していたからにほかならない。
  ところが、従来の我が国の教科書・体系書のレベルでは、そのほとんどが「比喩だから」という説明、あるいは、それとほぼ同趣旨とみることのできる説明のみで、無効・取消の二重効を根拠づけている。「無効は絶対的に効力がないのに対し、取消は一応有効だといってもそれは比喩に過ぎない」とか、「無効も取消も意思表示の効力を否認する場合の一つの論理構成に過ぎない」というような趣旨の説明がそれであり(10)、それ以上の根拠を示していない論者が圧倒的に多いのである。
  なるほど、これらの記述には、「無効と取消の競合可能性などという瑣末な問題に対しては、この程度の説明で十分だ」という評価が前提となっているのかもしれない。しかし、このことは、少々大袈裟な言い方をすれば、その論者が全ての法解釈を行っていく際の学問的態度、すなわち法学方法論上の問題に繋がっているように思われてならないのである。前述のように、都合が悪くなれば「比喩だから」という理由のみで、権利・義務の観念的存在を前提とした説明やその他あらゆる法律上の論理構成を否定できる、というのでは、それらの法律上の説明・論理構成は軽視され、ご都合主義的な解決が横行することとなり、ひいては法秩序全体を脆弱化させてしまうということになりかねないのではなかろうか。
  いずれにしても、「比喩だから」という説明だけでは不十分である。やはり、これに加えて何らかの説明が必要だと言わざるを得ない。
  結局、この点に関連して、我々が今後議論すべき課題を定式化すれば、次のようになろう。まず第一に、「もし、このような法律上の比喩(ないし論理構成)を否定できる場面、また、否定しなければならない場面があるとすれば、どのような場合なのか」、その「基準と根拠」が検討されなければならないし、第二に、「その場合、従来までの比喩に代えて、どのような説明がなされるべきなのか」も模索される必要がある、ということなのである。
  (3)  「法命令説」それ自体の問題点
  まず、法命令説の採用それ自体の問題点について言うならば、「多くの法規」は命令的性質をもっているという点は首肯できるとしても、「すべての法規」がそうであると言い切れるか、という疑問が以前から指摘されており、この法命令説に反対する学説も有力なようである。例えば、Larenz は、法規には命令を直接規定するものばかりではなく、権利や権限を付与することを内容とするものなどもあり、これらを命令説で説明し切ることには無理があること、そして、これらすべての法規(その内容である命令と権利・権限付与など)を網羅する説明が必要であるとして、法律効果と法律要件の関係を妥当指図(Geltungsanordnung)とその条件の関係ということで説明している(11)
  いずれにしても、この問題は、法学方法論ないし法哲学の分野で、特に「法規範の論理的性格」の問題として古くから議論されており(12)、これ自体二重効の問題とは異なる独自の深みと広がりをもった問題である。しかし(2)、で触れたように、仮に権利・義務の発生・変更・消滅という説明が比喩に過ぎないとするなら、それを直接規定する法規の構造、特に法律要件と法律効果、及びそれらの関係をどうとらえるべきなのか、という問題に結びついてくるわけで、Kipp が立脚する法命令説の当否云々も今後検討せざるを得ないのではないかと思われる。
  (4)  「取消は条件付き無効である」というテーゼがもつ問題点
  なるほど、無効を「効力が発生しなかったものと扱えという命令」、取消可能性を「取消の意思表示があったならば効力が発生しなかったものと扱えという命令(条件付き無効)」としてとらえれば、二重の命令は可能であり、無効原因が二つ重なった場合と同じ次元で説明することができる、という点については、一見首肯し得るように見える。
  しかし、このような見解については、さらに克服しなければならない二段階のハードルがあるように思われる。
  まず第一段階のハードルは、純粋に論理的なレベルで検討されるべきものである。すなわち仮に取消を「取消の意思表示」がなされることを条件とする条件付き無効であるととらえたとしても、「取消の対象は法律効果である」という理解に基づけば、既に無効であることによって法律効果が発生していない以上、取消の対象はなく、取消の意思表示そのものが不可能となるわけで、条件付き無効の条件が成就しないことになるのではないか、という疑問点がそれである。勿論、このような疑問に対しては、「法律効果を自然界の物体と同視してはならない」「法律効果の発生(不発生)といってもそれは比喩に過ぎない」というような回答によって循環論に陥る危険性があるのであるが、それでは、取消の法的構造を十分に説明したことにはならないだろう。「取消の対象は一体何なのか」「もし取消の対象など議論する必要はないとすればそれはなぜなのか」、そこまで立ち入って検討されなければならないのではなかろうか。
  次に、第二段階のハードルは、規範的なレベルで検討されるべきものであり、今後の最も重要な課題と思われる。すなわち、もし仮に、論理のレベルで無効行為の取消が可能だとしても、規範的評価のレベルで「取消はその対象となる行為が一応有効であることを前提としているものなのではないか」という疑問の検討がそれである。つまり、取消(可能な行為)は一応有効だと説明されるのが一般的であるが、それは、関係当事者の利益を比較衡量し、結論の妥当性を検討した上で、なおかつ「取消の効果よりも常に無効の効果の方が優先されるべきであるから、取消は一応有効な行為のみを対象とする」という判断が下っているのではないか、ということが検討されなければならないのである。
  なるほど、奥田昌道教授が指摘するように(13)、法規相互間には順位関係があったり、またある法律要件の中である事実の存在または不存在が内在論理的に前提にされていることはあり得るであろう。それでは、この取消の場合の「一応有効」という論理構成は、この『前提』というべきものなのか、またそう扱うことが妥当なのか、規範的評価レベルの検討なしには済まされないように思われるのである。

(1)  Theodor Kipp, U¨ber Doppelwirkungen im Recht, insbesondere u¨ber die Konkurrenz von Nichtigkeit und Anfechtbarkeit. in Festschrift fu¨r von Martiz S. 211ff. 〔1911〕
(2)  Kipp a. a. O. S. 220, 224.
(3)  実は、「形而上学的・自然科学的傾向」の表現が最初に使用されたのは Kipp の前掲(注1)の論文ではなく、その約二〇年前、一八九〇年に公表された、Wilhelm Schuppe, Die metaphysisch-naturwissenschaftliche Richtung im Jurisprudenz, Gruchots Beitra¨ge Bd. 34, S. 801ff. 〔1890〕(「法律学における形而上学的・自然科学的傾向」)が最初であり、Kipp 自身、論文の冒頭で確認している。Schuppe のこの論文は、当時のこの傾向が様々な形で蔓延していたことを指摘している。
(4)  この点で、於保博士の説明には誤解があるように思われる。於保博士は「Kipp は\\ Schuppe の法律学におけるい形而上学的・超自然科学的方向の線に沿い、\\形而下学的・自然科学的方法は排撃せらるべきことを強調しようとしたのであった。」(財産管理権論序説三八七頁)として、Schuppe や Kipp が、あたかも、この形而上学的傾向の推進者であるかのように扱っておられる。しかし、Schuppe や Kipp は、この形而上学的傾向を自然科学的傾向と同列に並べて批判しているのである。
(5)  Kipp, a. a. O. S. 211.
(6)  Kipp, a. a. O. S. 212.
(7)  Kipp, a. a. O. S. 219, 220.
(8)  Kipp, a. a. O. S. 220, 224ff.
(9)  Wieacker, Privatrechtsgesschichte der Neuzeit.  2 neuarbeitete Aufl. 〔1967〕 S. 434.
(10)  我妻・前掲一の(注4)(昭和五年)五三〇頁がその代表例。そのほか、代表的な文献を列挙すれば、川島・前掲一の(注4)は「構成概念の意味を実体化する誤り」「取消というのは意思表示の効力を否認する場合の一つの論理構成にほかならない」(三〇二頁)「無効ということばを実体化するという誤解に由来する」(四一九頁)といい、幾代・前掲一の(注4)は「法律行為の有効とか無効とかいう概念を、事物それ自体に自然科学的な属性のごとくそなわった客観的・固定的・実在的なものであると考え」(四四八頁)と表現し、星野・前掲一の(注4)は「無効な法律行為とか取消しうる法律行為とは、法律行為の自然科学的な属性(赤いとか大きいとか)のようなものでなく、一定の法律効果(履行請求の否定、返還請求の認容など)を基礎づける法律上の根拠にすぎない」(二三二頁)、四宮・前掲一の(注4)は「法律的概念を自然的存在と同視するもの」(二〇八頁)という。
(11)  Larenz, Methodenlehre der Rechtswissenschaft, 2. Aufl., S. 180ff.
(12)  加藤新平「法哲学概論」〔一九七六年〕三一五頁以下参照。
(13)  奥田・前掲一の(注1)七〇頁。


三、訴訟法レベル(訴訟法と実体法の関係について)の問題提起


1  Kipp の主張
  (1)  訴訟における無効・取消の「併存的主張」と二重効による根拠づけ
  Kipp が、二重効を承認すべき実質的根拠の実例としてまず最初に提示したのが、訴訟における「併存的主張」の可能性とその根拠づけの問題であった。Kipp によれば、訴訟においては、同一の法律行為についての無効と取消が同時に「併存的に(nebeneinander)」主張されることが許され、これに対して、裁判官も「無効かどうかは未決定にしておいたままで取消による遡及的無効を認定する」というように「選択的(alternativer)」に判断することが許されるのであるが、これらの イ訴訟当事者の「併存的主張」、 ロ「裁判官の自由な選択的な判断」とでも言うべきものは、二重効を承認しなければ説明が困難だというのである(1)
  ここで注意を要するのは、Kipp が、あくまでも「併存的主張」、つまり、「無効でありかつ取消を主張する」という可能性を問題としていることである。すなわち、従来我が国で二重効の問題とされてきた「選択的主張」(無効には何も触れずに取消を選択して主張する)、あるいは「条件的主張ないし予備的主張」(まず無効である、もし仮にそうでないとしても取消を主張する)を問題にしているわけではないということである。というのは、まず、選択的主張については、Kipp 自身問題として取り上げてすらいないからであり、また、条件的ないし予備的主張については、Kipp にとっては、むしろ否定的な評価の対象と言うべきものだからである。すなわち、条件的ないし予備的主張の場合、裁判官は、まず無効であるかどうか審査し、無効でないことを確認した上で、取消の主張を認めるという手順を踏むことになるが、それは二重効を認めずとも可能なことである。Kipp 自身、このような手順が非常にばかげたことであると評価するからこそ(2)、実体法上も無効と取消が矛盾なく同時併存することを力説したのであって、いわば、条件的ないし予備的主張とは、二重効を認めればその必要性を全く失うものだとすら言えるわけである。この点の詳細については後述するが、従来の我が国における二重効問題の理解に根本から反省を迫る事実のように思われる。
  そして、さらにもう一点ここで確認しておくべきことは、Kipp は、この「当事者の併存的主張」「裁判官の自由な選択的判断」という本来なら訴訟法レベルで扱うべき現象を、訴訟法上の説明(例えば、弁論主義など)で満足するのではなく、あくまで実体法レベルでの「無効・取消の同時併存」ということで説明している。この実体法レベルの説明で貫徹することこそ、二重効理論の生命線であり、最大の特徴だったと言えるのである。
  (2)  「実体的司法法(Materielles Justizrecht)」の承認
  以上のように、Kipp が、訴訟におけるこのような法現象をできる限り実体法と矛盾しないよう、あくまで実体法レベルで説明し切ろうと試みたのは、実は、彼独特の理論的前提基盤が存在したからである。その基盤こそが「実体的司法法(Materielles Justizrecht)」の観念である(3)
  この実体的司法法とは、ドイツの訴訟法学者 James Goldschmidt によって、一九〇五年に提唱された概念であり(4)、Kipp の理解によれば、次のような法規範を意味する。すなわち、実体的司法法とは、私法でも訴訟法でもなく、裁判官に対して「私法(実体法)上の規定と完全に一致するような判決を下せ」という命令を発する法規範のことだと言う。つまり、私法(実体法)と訴訟法との間に、このような法規範を位置づけることにより、私法(実体法)上の規定と矛盾した判決を下してはならないことを裁判官に義務づけるわけである。
  Kipp は、この実体的司法法の(現行法上の)存在を全面的に承認する。それだからこそ、彼は、私法によって生じた法律効果と訴訟法における当事者の主張・裁判官の判断が矛盾してはならず、完全に調和しなければならないことを確信しているのである。訴訟における当事者の併存的主張、及びこれに対する裁判官の自由な選択的な判断が、実体法と矛盾するものではないこと、そして、その矛盾を回避する理論が、まさに二重効理論であることを、何度も執拗に説いているのは、このためなのである(5)

2  問題の意義
  (1)  「訴訟における併存的主張」と我が国における誤解
  前述のように、Kipp は、あくまで、訴訟における「併存的主張」の可能性を二重効の問題として提起したのであって、従来の我が国で二重効の問題ととらえてきた「選択的主張」あるいは「条件的ないし予備的主張」の可能性を問題としたわけではない。おそらく、このことは、Kipp の二重効理論に関する我が国での最も大きな誤解であるように思われる(6)。そこで、「これら訴訟における三つの主張方法はいかなる理由により根拠づけることが可能なのか」また「二重効の承認による根拠づけが必要かどうか」を検討することが今後の課題ということになるのであるが、詳細は後の研究に譲るとしても、ここでは簡単な確認・整理を行っておく必要があるであろう。具体例としては、我が国で二重効の問題として取り上げられることが最も多い「錯誤無効」と「詐欺取消」の競合事例をサンプルにして整理していくことにする。なお、問題となっている事実関係は、錯誤の要件も詐欺の要件も充足していることを前提とする。
  (a)  訴訟における三つの主張方法と五つの具体的な主張パターン
  これら三つの主張方法を、さらに具体的な主張パターンに分ければ次のようになろう。

T  選択的主張
      
@  詐欺取消については全く触れずに、錯誤無効を選択し単独に主張・立証する。
      
A  錯誤無効については全く触れずに、詐欺取消を選択し単独に主張・立証する。
U  条件的(ないし予備的)主張
      
B  第一に錯誤無効、仮にそれが認められないとしても、第二に詐欺取消というように条件的に主張・立証する。
      
C  第一に詐欺取消、仮にそれが認められないとしても、第二に錯誤無効というように条件的に主張・立証する。
V  併存的主張
     
D  錯誤無効、同時に詐欺取消、というように順序をつけず、並存的に主張する。

  (b)  検    討
  まず第一に、これらの主張パターンのうち、@の選択的主張については、無効な行為を無効だと主張しているのみで、無効行為の取消は全く問題になっていないので、まず二重効の問題から除外されるべきことは言うまでもなかろう。
  第二に、Aの選択的主張であるが、これについては、二重効の承認を前提にせずとも、訴訟法上の説明、つまり民事訴訟法における弁論主義の観点から説明がついてしまうように思われる。特に、弁論主義の中でも「裁判官は当事者の主張しない事実(特に主要事実)を判決の基礎にしてはならない」というルールを、このAの選択的主張について適用すれば、それが明らかになろう。すなわち、当事者が主張してもいない錯誤を裁判官が勝手に認定し、それを基礎に当該法律行為を無効とする判決は下せないはずであり、仮に裁判官は当該事実が錯誤の要件を満たしていると判断できたとしても、当事者が主張していない限り、不問に付す以外に方法はないわけである。結局Aは、無効と取消が実体法上も同時併存するという説明を持ち出さなければ説明できない法現象ではないと言えるのではないか。
  第三に、Bの条件的(ないし予備的)主張においては、Kipp も認識していたように、そもそも二重効(錯誤無効と詐欺取消の効果の競合)は問題にもならないと言えるのではないだろうか。というのは、「まず無効かどうか判断してくれ、仮にそうでなければ取消可能かどうか判断してしてくれ」という主張は、二重効否定説に立ったとしても、当然可能なはずである。なぜなら、 無効かどうか判断した結果「そうでない」つまり有効だということになれば、(二重効否定説に立ったとしても)取消は可能なわけで 、そもそも「無効な行為は取消せない」という命題に全く抵触していないからである。
  第四に、Cの条件的(ないし予備的)主張のケースにおいては、かような主張を行うこと自体を禁止する理由はないとしても、裁判官が、錯誤無効かどうかを全く判断せず、詐欺かどうかの審査だけを行い、詐欺取消を認めて判決を下せるのかどうかが問題となろう。つまり、「裁判官は、論理的関係を重視し、当事者のつけた順序に反してまでも、詐欺取消より先に錯誤無効を判断しなければならないかどうか」という問題である。
  実はこれに対しても、訴訟法上の観点から、二重効の問題を持ち出すまでもなく、次のように説明できるのではないか、という疑問がある。つまり、錯誤無効か詐欺取消かという判断は「判決理由中の判断」であるが、この判断には既判力が生じず、善意の第三者が当事者となっていない限り、錯誤者(でありかつ詐欺の被害者)勝訴の法律上の結果に差異を生じるものではない。従って、裁判官は同じ目的を持つ数個の主張がなされた時、その相互の論理的関係や歴史的前後にかかわらず、どれを取り上げてその主張者を勝たせてもよい、というわけなのである(7)。その結果として、Cのケースで、裁判官は錯誤の方だけを判断して無効とする判決を導いてよいし、逆に、前述したBのケースでも、当事者がつけた順序に反して、詐欺取消の方だけを取り上げて判断してもよい、という結論が導かれそうである。そこで、もし仮に、このような訴訟法上の説明を是とすれば、無効・取消の実体法上の同時併存ということを持ち出すまでもないということになるのではないだろうか(勿論、このような説明・結論の当否は検討が必要であることを留保しておく)。
  そして最後に、Dの併存的主張であるが、この主張方法、主張パターンこそ、本来 Kipp が二重効理論で説明しなければならないケースとして主張したものであったことであったことは先に述べたとおりである。
  しかし、このDような主張も、前述した訴訟法上の説明、つまり、既判力の及ばない判決理由中の判断に関する主張であって、どれをとっても結果が同じなら、当事者はどう並べて主張しても良いし、裁判官はそのうちのどれを取り上げて判断しても自由だということで、二重効理論を持ち出すまでもなく、説明がついてしまいそうである。
  もっとも、Kipp は、「実体的司法法」の観念を認め、そこから「当事者の申し立てに対して、実体法と完全に一致するような判決を下せ」という命令が裁判官へ発せられていると考えるので、「同じ目的を持つ数個の主張のうちからならば、その相互の論理的関係や歴史的前後にかかわらず、どれを取り上げてその主張者を勝たせても良い」ということを認めることはできないであろう。つまり、「それら数個の主張が併存しても、実体法のレベルで何ら矛盾を生じていないこと」を証明して初めて、上述のような裁判官の自由な選択的判断が可能となると考えているからである。
  (c)  小    括
  以上、検討してきたように、いずれのパターンにおいても、このような当事者の主張や裁判官の自由な選択的判断の可能性を、二重効を承認すること以外に説明することが不可能かというと、そうでもなさそうである。特に、Bについては、二重効がそもそも問題とならない場面と言えることについては前述したとおりである。
  また、Aについては「弁論主義」、CDについては「判決理由中の判断には既判力が及ばない」ことなど、訴訟法的観点からの説明が可能なように見えるのであるが、これらの当否については、従来の我が国における二重効の議論では、はっきり認識されていたとは言えない論点だと思われる。今後は、果たしてこれらの説明で十分なのか、結論において問題はないのかどうか(特にBCの場合に、当事者のつけた順番を裁判官は全く無視できるという結論について)、実体法の研究に携わる者の側でも、さらに詳細な検討が必要であるように思われる。
  (2)  「実体的司法法」の学説史的意義に関する研究の必要性
  訴訟法の観点から見れば説明がついてしまいそうにみえる、このDの併存的主張の可能性について、Kipp があくまでも実体法レベルでの説明にこだわっていたこと、また、その最大の理由は、彼が、実体法と訴訟上の主張・判断との完全な一致を要求する「実体的司法法」の観念を前提基盤としていたからであることは、既に見てきたとおりである。
  それでは、現在の我々も Kipp と同様に、この「実体的司法法」の観念を所与の前提として承認し、二重効の問題の出発点としなければならないのであろうか。この点について、疑問なしとは言えないであろう。率直に言って、現在の我が国において、この観念を承認・主張する論者を私は知らないし、この状況は実体的司法法概念の故郷であるドイツにおいても現在同様なのではなかろうか。すなわち、我々は、この「実体的司法法」の観念の正確な内容・実態、及びドイツの民事訴訟法学の学説史の上でどのような位置づけがなされているのか、検討した上で、その当否を判断する必要があるように思われるのである。さらにもっと二重効の問題に引きつけて言えば、James Goldschmidt の主張する実体的司法法と Kipp の理解する実体的司法法は全く同じ内容・位置づけのものなのかどうか、ということも問題となろう。なぜなら、実体的司法法の主唱者 Goldschmidt 自身も、Kipp と同じように、併存的主張の可能性は実体法レベルでの二重効の承認によってしか説明できないと考えていたかどうか、Kipp は明らかにしてはいないからである。

(1)  Kipp, a. a. O. S. 223.  厳密には、Kipp は「併存的主張」という概念を使用しているわけではない。しかし、Kipp が二重効の問題として取り上げているのは、明らかに併存的主張と呼ぶべき主張方法であることは次の記述で明らかである。少し長いが引用する。「全く同様に、同一の法律関係は二つの原因に基づいて否認され得る。特に、二つの解消原因が同時に競合するということも可能となる。一つの賃貸借関係が契約当事者双方から同じく有効に解約告知し得るということについては何の障害もない。つまり、このことをさらに厳密に言えば、単に二つの解約告知が同時になされたという場合だけでなく、二つの解約告知が相前後してなされた場合にも、双方からの解約告知は有効なのである。また、ある抗弁と法律上当然に生じた請求権の消滅(Tilgung eines Anspruchs)も同時に競合し得る。例えば、ある債権が弁済によって消滅し、さらに時効によって消滅するということも可能なのである。つまり、弁済と時効消滅は訴訟において 併存的(nebeneinander)に主張され得るのであり 、その際の裁判官の判決は、主張された弁済がなされたかどうかは未決定にしておいたままで、いずれにせよこの請求権は時効消滅した、という内容のものであり得るのである。それゆえ、被告は正当にも請求権の履行を拒絶し得るということになるのであり、このことについて疑いを抱くものはいまい。しかし、このような判決を下すことが正当化されるのは、消滅時効の抗弁と履行による債権の消滅が、その効果において、相互に排斥し合うものではないということを私法上も認めた場合のみである。もしこのことが認められないならば、裁判官は(非常にばかげたことだけれども)、主張された弁済がなされていないことを確認して初めて、消滅時効の抗弁を顧慮(審査)することができ、またそうしなければならないということになってしまう。さらにまた、二つの抗弁は、同時に私法上競合し得る。つまり、確かに訴訟において裁判官は、詐欺と強迫の抗弁を選択的(alternativer)あるいは予備的(eventueller)に判決理由の中で採用するが、それは、私法上一方の抗弁か他方の抗弁かどちらか一つが根拠づけられ得るからだというのではなく、二つの抗弁を訴訟において主張するという可能性は、それら抗弁が、私法において、双方 併存的(nebeneinander)に その効力を生じ得る、ということに基づいているのである。(Kipp, a. a. O. S. 223)」
    以上の引用は、債務の弁済と消滅時効の競合、詐欺と強迫の競合についての記述であるが、Kipp は無効と取消の競合も含め、これらの問題を同一平面で扱っており、無効と取消の競合についても全く同様の評価がなされていることは疑う余地はないように思われる(Kipp, a. a. O. S. 224)。
    また、Kipp は「裁判官の選択的判断」という概念も直接使用しているわけではないが、先程引用した記述から判断して、このように表現して良いように思う。
(2)  (注1)で引用した箇所のうち、このような手順(債務の弁済と消滅時効の競合の問題を扱った箇所であるが)を、わざわざ「was ho¨chst unvernu¨nftig wa¨re」と表現していることからも明らかである。
(3)  Kipp, a. a. O. S. 212, 213.
(4)  James Goldschmidt, Materielles Justizrecht, in der Festgabe fu¨r Hu¨bler, S. 85ff. 〔1905〕
(5)  Kipp, a. a. O. S. 221-224.
(6)  我が国の文献では、Aの選択的主張を二重効の問題だととらえるのがほとんどである(@を明示するものはないようであるが当然これを含んだ主張と見るべきであろう)。その代表例は、我妻・前掲一の(注4)(昭和四〇年)三一二頁、舟橋・前掲一の(注1)五二頁及び(注4)一一〇頁、幾代・前掲一の(注4)四四八頁、四宮・前掲一の(注4)二〇八頁であり、Bの条件的(予備的)主張あるいは仮定主張を二重効の問題だととらえるもの(Cも当然含まれていると見るべきであろう)が、奥田・前掲一の(注1)六二頁である。川島・前掲一の(注4)三〇一頁は「競合的主張」という表現を用いているけれども、その意味するところが、Kipp と同一かどうかは定かではない。
(7)  兼子一「新修民事訴訟法体系(増訂版)」〈酒井書店〉二一〇頁(昭和五五年〔一九八〇年〕)、三ヶ月章「民事訴訟法(第三版)」〈弘文堂〉三二五頁(平成四年〔一九九二年〕)、新堂幸司「民事訴訟法(第二版補正版)」〈弘文堂〉三〇二頁(平成五年〔一九九三年〕)など。どれも、無効と取消の例が示されているわけではないが、判決理由中の判断という点で同一レベルで結論づけられるのではないだろうか。


四、実体法における解釈論レベルの問題提起


1  Kipp の主張
  Kipp が、二重効を承認すべき実質的根拠の実例として第二に提示したのが、「無効行為の取消を認めなければ、解釈論上不当な結論が生じる事例が存在すること」であり、Kipp の主張の中でも最も大きな反響を呼んだものである。そして、そこで取り上げられた事例は、後の論者によって中心事例と呼ばれるほど(1)、以後の論争のまさに中心的な争点となるのであるが、この事例については、従来の研究においても既に詳細な紹介がなされている(2)。しかし、便宜のため、以下でこの事例の概略について述べておくことにする。
  未成年者Aが、法定代理人の同意を得ないまま、Bの詐欺によって自己の物(Sache)をBへ譲渡したが、法定代理人は、この譲渡行為について追認を拒絶した(BGB一〇五条及び一〇八条により確定無効)。その後、Bはこの物を第三者Cへ転売したが、このCは、Bが詐欺によってこの物を取得したことは知っていたが、Aが未成年者であること、及びその法定代理人の追認拒絶によってA・B間の法律行為が無効になっていることについては知らなかった(つまりCは、詐欺を理由とする取消可能性については悪意であるが、行為無能力を理由とする無効については善意であるわけである)。
  これが、Kipp の提示する事例(3)であるが、Kipp は、無効行為は取消せないとする当時の支配的見解を引き合いに出して、次のように批判する。
  無効行為は取消せないとする見解を前提とすると、この事例の場合、未成年者Aと詐欺者Bとの間の法律行為は、既に無効となっているから、Aは詐欺による取消権(BGB一二三条)を行使することができなくなる。それ故、詐欺については悪意である第三者Cであっても、Aが未成年者であること、法定代理人の追認拒絶によってA・B間の法律行為は確定的に無効となっていることについては善意なのであるから、その物を善意取得できることになり、その結果、Aはその物を取り戻すことができなくなる。このような結論が承認され得ないものであることは、万人の認めるところであろうが、二重効を承認すれば、Aは取消権を行使することが可能となり、その物を取り戻すことができるようになる(BGB一四二条二項により、取消原因について悪意であったCは取消権行使の結果としての遡及的無効についても悪意者と擬制され善意取得はできなくなる)、と主張するのである。また、Kipp は次のようにも言う。二重効を承認する以外にも、「信義則」や「法の精神」などの概念を用いて、「この不当な結論」を回避することはできるかもしれないが、二重効を承認する立場に立てば、このような「危険な、遠回りな細道」を通る必要はないと主張し、二重効承認以外に考えられ得る解決方法を予め想定した上で非難しているのである(4)

2  問題の意義
  (1)  我が国における今日的意義
  ここでの Kipp の最大の功績は、無効と取消は法律行為の効力を不発生に終わらせるという点で主要な目的・効果を同じくするが、付随的効果(Nebenwirkung)に差異のある場合が存在すること(前述の中心事例では、対第三者効)を明らかにした点であろう(5)。そして、無効な行為は取消せないという見解を前提とすれば、取消の付随的効果を認めないと妥当な結論を導けないと思われる場合でも、必ず無効の付随的効果の方が優先される結果となってしまい、不当であること、それ故に、無効行為の取消を認める実益が存在するのであり、従って、二重効の承認は「無効と取消で付随的効果に差異のある場合」にこそ最大の威力を発揮するのだということが主張されているのである。
  現在の我々にとっても大変重要な意味を持つ問題提起であろうと思う。なぜなら、この中心事例をそのままスライドし、我々の問題として議論できるかどうかは別にしても、これと関連する我が国の民法固有の問題を発見できる端緒としての意味があるからである。つまり、我が国においても、それぞれの無効原因・取消原因ごとに異なった付随的効果が発生する場合が多数あるが、それらの付随的効果が、特に個々の法規によって結びつけられている場合が多く、各付随的効果の内容もドイツの場合とは異なっていて多様である。それ故、我が国独自の検討を必要とする問題にぶつからざるを得ないと言えるのである。
  ところが、我が国における従来の議論においては、このような実体法における解釈論レベルの問題については、それほど深く検討されてきたわけではない。むしろ、二重効の問題と言えば、教科書・体系書のレベルでは、訴訟における選択的主張の可能性の問題が取り上げられるだけであり(6)、教科書・体系書以外の文献を含めて、一般に、この解釈論レベルの問題に言及する者は少数であったと言わざるを得ない(7)。また、これに言及する論者においても、Kipp の中心事例の紹介に止まるのが通常で、我が国固有の問題を指摘する者はさらに稀である。乾政彦博士が、Kipp の中心事例とほぼ同じ構造を持つ事例、つまり動産の善意取得に関する事例を、我が国の民法に即応した無効原因(錯誤)・取消原因(強迫)の例に修正して提示している(詳細は(3)の(a)で後述)ほか、わずかに、幾代通教授が、無能力者取消と詐欺取消が競合した場合、不当利得返還義務の範囲に差異が生じる(一二一条但書による現受利益の返還義務と七〇四条の悪意の受益者の返還義務の差)という重要な指摘をされたことが目を引くのみである(詳細は(3)の(b)で後述)。ただ、最近になってようやく、磯村保教授により、競合し得る制度相互間の調整という観点から、詐欺取消と錯誤無効、詐欺取消と公序良俗違反による無効など、各制度の効果面での差異、特に対第三者効の差異が検討されるに至り(8)、二重効が内包する問題のうち、この解釈論レベルの問題にやっと光が当たり始めたというのが現状なのではないだろうか。
  この付随的効果の差異という観点から、我が国の二重効の問題をとらえ直し、さらに徹底した整理・分析を行っていくことが必要となろうが、それこそ今後の最大の課題であると言えるであろう。
  (2)  問題となり得る局面とそのパターン
  詳細は別稿に譲らざるを得ないが、以下では、このような観点から、我が国において問題となり得る局面を簡単に整理しておきたいと思う。
  まず、この解釈論レベルの問題が、「訴訟においてどのような形態で発生し得るのか」、三で述べた訴訟法レベルの問題との差異を鮮明にする意味で、その特徴を明らかにしておきたい。すなわち、その特徴とは、「解釈論レベルの問題は、訴訟当事者の一方から無効及びその付随的効果が主張され、これに対して、他方からは取消及びその付随的効果が主張されるという形で、異なる付随的効果を持つ無効規範と取消規範の優劣が争われる局面において最も鮮明に顕在化する」ということである。つまり、訴訟当事者の一方から無効・取消が主張される局面を中心に扱ってきた三の訴訟法レベルの問題とは異なり、 当事者双方から無効・取消が交叉して主張される局面 が中心となるわけである。このような局面においては、裁判官は、もはや、どちらの規範の適用を選択して認めても、結論は同じだと高を括っているわけにはいかない。結論の異なる規範の選択(あるいは規範相互間の調整)を否応無しに迫られる、という点で、訴訟法レベルの問題とは全く次元の異なる問題なのである。
  また、さらに、このような当事者双方からの交叉的主張のパターンをさらに分析すると、大きく二つに分類できるように思われる。まず、通常想定することが容易なのは、@当事者ABのうち、Aが無効を主張し、取消権者Bが自己の取消権を行使するパターンであるが、これとは異なり、A二重の取消原因により二つの取消権を持つAが一方の取消権を行使した後、さらに自分に有利な付随的効果を伴う別の取消権を行使したが、これに対してBはAの先に行った取消権行使により既に無効となり、その後の取消は不可能である旨主張するパターンなども考えられる。
  このように、問題となり得る局面・パターンは多種多様であることが予想できるのであるが、これらの整理・分析は、今後さらに徹底して行う必要があるであろう。
  (3)  無効と取消で付随的効果が異なる場合の多様性
  それでは、次に「どのような付随的効果の差異が問題となり得るか」ということ、つまり付随的効果の内容の観点から問題となり得る具体的局面の全般を大まかに整理しておきたい。現時点で考えられ得る局面を大別すれば、(a)対第三者効と(b)不当利得返還義務の範囲の二つの局面において付随的効果に差異が生じるケースが問題となろう。
  (a)  対第三者効が問題となる局面
  この対第三者効の問題も、 無効と取消とで第三者保護規定の存否に差異が生じるケースと 第三者保護規定の適用において無効原因・取消原因に関する第三者の善意・悪意のアンバランスが問題となるケースとに分類できるであろう。
  まず第一に、 についてであるが、我が国の民法典には、各々の無効原因や取消原因を規定する条文(あるいはこれと関連する条文)が、第三者保護規定を持っている場合と持っていない場合が存在することは、改めて言うまでもないことかもしれない。しかし、あえてここで列挙すれば、例えば、行為無能力取消(四条二項・九条・一二条三項)・公序良俗違反による無効(九〇条)・錯誤無効(九五条)・強迫取消(九六条一項)・無権代理(一一三条この場合の第三者とは、例えば、相手方からの目的物の転得者)には第三者保護規定がないが、虚偽表示無効(九四条二項)・詐欺取消(九六条三項)には存在する。
  そこで問題となるのは、これら第三者保護規定を持つ無効原因ないし取消原因と、第三者保護規定を持たない無効原因ないし取消原因が競合した場合である。結局、ここに列挙した無効原因・取消原因の組み合わせが問題となるということになるのだが、勿論、単純な組み合わせだけの問題ではなく、各原因の要件レベルで、どちらの要件も充足するという事実を想定することが可能かどうか、今後綿密な検討を行う必要があるであろう。
  が、参考のために、その具体的な事案をここに幾つか例示しておこう。例えば、無能力者Aが、法定代理人あるいは保佐人の同意を得ることなく、自己の不動産を相手方Bと通謀の上相手方に仮装譲渡し、これを信頼した善意の第三者CがBから当該不動産を転得したというように、虚偽表示無効と行為無能力取消が競合する場合が想定できる。この場合、九四条二項を優先させれば、第三者Cは保護されるが、行為無能力取消の効力を優先させるならば、Cは保護されないことになろう。また、Aが無能力者ではなく、相手方Bの強迫によって、仮装譲渡させられてしまったという場合には、虚偽表示無効と強迫取消の競合が想定できようが、この場合も善意の第三者Cは、九四条二項によれば保護されるが、九六条一項によれば保護されないということになろう。
  また、錯誤無効と詐欺取消が競合した場合の第三者保護の問題も、要件レベルでの両制度の類似性が原因で、一般に競合が発生し易いと考えられており、最も関心の高い論点であると思われる。現在のところ、錯誤無効にも詐欺の第三者保護規定(九六条三項)を類推適用するという形で、両制度間の調整を図ろうとする見解が有力であるように思われるが(9)、この類推適用を否定する見解も存在する(10)。「類推適用とは何か」「どのような場合に許されるのか」という問題は、我が国において必ずしも十分な論議のなされていないテーマの一つであるように思われる。この類推適用そのものの問題も含め、「二重効の場合、異なる付随的効果を一致させるような調整の努力が、常になされなければならないのかどうか」という問題も問い直してみる必要があると言えよう。
  この他、無能力者Aが、法定代理人や保佐人の同意を得ることなく、Bの欺罔行為によって自己の不動産をBに売却した後、善意の第三者Cが当該不動産をBから転得したというように、無能力取消と詐欺取消の競合も想定し得る。このケースでは、AはAB間の契約を詐欺に基づいて取消した後(遡及的無効の効果発生)、Cが九六条三項を援用してきたので、Aはさらに無能力を理由とする取消を行う、という形で、相入れない付随的効果が対立することとなろう。これは(2)で前述したAのパターンなのであるが、このように、取消と取消の競合ケースも視野に入れて検討する必要もあるであろう。
  以上、この他にも、磯村保教授が指摘されるように(11)、公序良俗違反(特に暴利行為)による無効と詐欺取消の競合なども想定することができるのであるが、詳細な検討は今後の課題としておきたい。
  第二に、 についてであるが、これは、第三者保護規定は存在するが、その適用において、無効原因・取消原因に関する第三者の善意・悪意にアンバランスがあり、結論に差異を生じるケースである。これは、Kipp の中心事例をモデルとしてそれと共通の構造を持つ類型と言えるものである。例えば、即時取得(一九二条)が問題となる場合、第三者は、前契約の無効原因については善意であるが、取消原因については悪意である場合などである。このような事例については、前述のとおり、乾政彦博士が早くから独自の問題を提起されている(12)。すなわち、甲が乙を強迫して乙所有の時計を丙に譲渡させようとしたが、乙は錯誤によりこの時計を丁に譲渡してしまい、丁はこの時計をさらに戊に譲渡した。戊が強迫については悪意だが、錯誤については善意であった場合、無効行為が取消せないとの前提に立てば、乙は戊から時計を取り戻せなくなって不当であると指摘されるのである。勿論、今日においては、錯誤無効は表意者以外の者は原則として主張し得ないというルールが確立しているので、Aは、錯誤無効を主張せず、強迫取消だけを主張すればこのような問題は生じないということになろう(Aが主張しなければ、弁論主義の観点から、裁判官は勝手に錯誤無効を基礎とする判決を出せないということについては三で述べた)。しかし、このような事例の提示は、即時取得を巡って前契約で様々な無効原因・取消原因が考えられ、それに応じて第三者の善意・悪意もバラエティーに富んだパターンが想定し得ることを示唆する点で重要な指摘であるように思われる。なお、「無効原因については善意でも、取消原因について悪意であるなら、別に二重効を認めずとも、即時取得で保護される第三者としては悪意と取り扱うことも可能ではないか」というような疑問も生じるであろうが、このような問題も含めて、即時取得という法制度の構造と二重効との関連を今後検討して行かなければならないであろう。
  この他、競合する無効原因・取消原因共にそれぞれ固有の第三者保護規定を持っているけれども、第三者が、その無効原因につき善意で取消原因につき悪意であるというケースも考えられる。実際に裁判で問題となったのは、虚偽表示無効(九四条二項)と詐害行為取消(四二四条)の競合ケースである。すなわち、AからBへの不動産売買契約が虚偽表示でありかつ詐害行為でもあるというケースで、Bが当該不動産につきYのために抵当権を設定した後、Aの債権者Xが、AB間の契約を詐害行為として取消したところ、詐害行為につき悪意の転得者であるYは、AB間の契約は虚偽表示により無効であり、Yは善意の第三者であってその無効を対抗できないし、無効である以上取消は不可能で、右契約は詐害行為の対象とはなり得ないことを主張した、というものであった(13)。詐害行為取消は、今まで論じてきた取消とはかなり次元の異なる制度であるが、無効行為を対象に取消せるかという問題の枠で共通に議論できる要素を持っており、大変興味深い事案であるように思われる。結局、大審院は、Yが虚偽表示につき善意の場合は、詐害行為取消は認められるという処理を行っており、少なくとも、一定の範囲で二重効を認めた形になっている。このような場合にも、即時取得の場合と同様に「取消原因について悪意であれば、無効原因について善意であっても、別に二重効を認めずとも、虚偽表示の第三者としては悪意と扱うことも可能ではないか」という疑問も生じて来るかもしれない。その場合、詐害行為についての悪意を虚偽表示の悪意と扱うことに無理がないかどうか、また、それぞれの無効原因・取消原因に固有の第三者保護規定とその規定における善意・悪意の意味とは何か、を再検討する必要があるのではないだろうか。
  (b)  不当利得返還義務の範囲の差異が問題となる局面
  ここで問題の中心となるのは、無能力者の負担軽減のため、行為無能力取消の付随的効果として、不当利得返還義務の範囲を「現受利益」に縮減する民法一二一条但書の存在である。この規定に関連し、かつて幾代教授は次のような事例問題を設定された(14)。すなわち、それは「準禁治産者Aは、その所有する土地のすぐ近くに高速自動車道のインターチェンジができるといってBを欺き、この土地を時価の二倍ちかくの価格でBに売却したが、これはAの保佐人の同意を経ていない取引であり、Aは、受け取った代金のうちの約半分をギャンブルなどに浪費してしまった。Bが詐欺を理由に売買を取消した後に、Aからも無能力を理由に同じ売買を取消す、ということは可能か」というものであった。詐欺取消による不当利得返還義務と行為無能力取消による現受利益返還義務が競合するケースである。この場合、Bの詐欺に基づく取消の効果が優先され、Aの無能力取消は不可能であるという二重効否定説に立てば、Aは七〇四条に基づく悪意の受益者として返還義務を負うが、Aの無能力取消を許し、その効果が優先されるとする立場に立てば、Aの返還義務は現受利益に縮減され、ギャンブルなどに浪費した代金の約半分は返還を免れられるということになる。結論の妥当性から見れば、欺罔行為を行っているAの返還義務を現受利益まで縮減させて保護する必要があるかどうか疑問であるため、二重効を否定した方が良いようにも思われるが、もしこの事案で、Aの行為無能力取消の方がBの詐欺取消よりも先になされていたら、二重効否定説では妥当な結論は導けないだろう(反対説のあることについては(4)で後述)。二重効を認め、両方の効果の同時発生を一応認めつつ、具体的妥当性など何らかの基準によって、優先して適用される効果を決定するという作業を行わざるを得ないのではないだろうか。このように、この事例は、二重効を承認するということが、決して後で行われる取消の方が必ず優先されることを意味するものではないこと、同時に発生した複数の効果・規範のうちから優先的に適用される効果・規範を決定する作業を行わざるを得ないことを示唆してくれる点で大変重要なものだと思われる((5)で後述)。
  このほか、この事例のアナロギーとして、Bが詐欺の被害者ではなく、自分で錯誤に陥っていた場合で、このインターチェンジができるであろうという動機が相手方に表示され、それが意思表示の内容となっていたとみなされるという事案も想定できるが、この事案においても、不当利得返還義務を巡って、ほぼ同じような問題が生じるであろう。この場合も、現受利益への縮減によるAの保護は必要ないのかどうか、検討する必要があるであろう。
  (c)  小    括
  以上、このように付随的効果の内容の差異について見てきたが、それがいかに多様であるかということが確認できたのではなかろうか。今後は、これらをさらに網羅的に整理して行くことと、さらにこれ以外に異なる内容の付随的効果はないかどうかの検討が課題となろう。
  (4)  従来の二重効否定説の問題点
  さて、それでは、このような付随的効果に差異があるケースで、取消の付随的効果の方が妥当な結論を導くであろうと思われる場合、無効行為の取消を否認し、二重効を否定する見解は、一体どのような処理を行って事案を処理すべきだというのであろうか。
  奥田教授は「はじめから無効であったり、既に別の他の取消権が行使された結果として無効である場合には、法律効果を否定するための重ねての取消は無用であり、ただ独立に取消権を行使したならば与えられるであろう効果(対第三者効、あるいは現状回復義務等)だけを gelten(通用)させればよいのである。とくに制度上、順位関係や排除関係が存しない限りは、このように取消における効果の面だけを適用すれば十分である。それを基礎づけるのに、あえて無効行為を取り消すという『取消』(形成)の意思表示までは不要ではなかろうか」と主張される(15)
  しかし、このような処理の仕方に問題はないのであろうか。特に、実際の訴訟の場において、取消権者が取消の意思表示を行っていないにもかかわらず、取消の付随的効果が発生し、それが無効の付随的効果よりも優先されて処理されるという事態を、他方当事者に対してどう説明するのか、という問題点が存在するように思われる。いずれにしても「訴訟において一方当事者が主張してもいない取消を基礎に判決を下すことは、他方当事者にとっては不意打ちをくらわされることにつながりはしないか」、また「弁論主義との関連でどう説明するのか」など、議論すべき問題点は多いように思われる。
  (5)  二重効肯定説が克服すべき課題(優先すべき規範決定の基準)
  そもそも、二重効を承認するということは、付随的効果を含めて、無効の効果と取消の効果の両方の発生を承認するということに尽きるのであって、その発生した両規範のいずれを選択して事案を処理すべきかという問題まで、本来、守備範囲として含むものではないはずである。つまり、無効行為は取消せたとしても、取消規範(特にその付随的効果)の方が、同時に発生している無効規範よりも優先して処理されるべきだという結論の理論的根拠は、従来のどんな二重効理論にも内包されていないはずなのである。二重効理論とは、無効規範は既に発生していても、取消規範も同時に発生し得るということを根拠づける理論に過ぎないのであって、論理の上では、元来それ以上のものではないはずだからである。ところが、提唱者 Kipp 以来、二重効理論に依って立つ論者は、この判断、特に取消規範の優先適用を、暗黙のうちに行って結論を導いて来ている(16)。彼らにとって、無効行為が取消せるということは、無効規範よりも取消規範の方が優先して適用されるという結論を当然のこととして含んでいるのである。この点は、従来ほとんど意識して論じられなかった側面ではないだろうか。
  そこで、注目せざるを得ないのは、二重効の問題とは、結局、二重の効果の同時発生の可能性に止まらず、その複数の効果(規範)のうちから、妥当な結論を導く効果(規範)を一つ決定しなければならい、という契機を必ず含んでいるという点である。すなわち、決して最後まで「二重」のままなのではなく、「妥当な結論を導く一つの規範を決定する」という段階まで行き着かざるを得ないのである。それは、前述のごとく、訴訟当事者の一方が自己に有利な付随的効果を伴う無効を主張し、他方がそれと矛盾する内容の付随的効果を伴う取消を主張するという局面において最も鮮明に顕在化する。裁判官は、そのどちらか一つを、事案を処理する規範として決定せざるを得ず、その決定から逃避するわけにはいかないからである。その場合、無効規範が必ず取消規範に優先するとか、逆に取消規範が常に無効規範に優先するとか、というようなルールが、立法者によって予め用意されているとは思えない。なぜなら、二重の効果発生という事態そのものが、立法者の予想していたものとは到底考えられないからである。
  ならば、その規範決定の基準は一体何なのか、その基準もまた一種の規範と言えるものなのか。その基準ないし規範の法的根拠は何に求められ、その法的性質はいかなるものなのか。これらの問題に取り組むことにより「既に同時に発生している複数の法律効果(規範)のうちから、さらにある基準(規範)によって実際に裁判で準拠すべき法律効果を選択し決定する」という、今までほとんど気付かれることのなかった法の重層構造が見えてくるように思われるが、このような構造を整理・分析することは、今日の法律学にとってこれまた相当重大な意義をもっていると言わざるを得ないであろう。いずれにしても、今後の二重効の議論は、これらの問題群を避けて通ることはできない。これらの課題こそが、今後検討されるべき最大の課題と言えるように思われるのだが、それらは、具体的解釈論を出発点としながらも、再び私法学方法論の領域への広がりを内包しているように思われる。二重効が内包する問題群に一貫して流れているモティーフと言うことができるであろう。

(1)  Bernd Oellers, Doppelwirkungen in Recht? Acp. Bd. 169 〔1969〕 S. 68ff.
(2)  於保・前掲一の(注1)三八五頁、奥田・前掲一の(注1)六一頁。
(3)  Kipp, a. a. O. S. 227.
(4)  Kipp, a. a. O. S. 227.
(5)  この点を指摘するのは Hubernagel, System der Doppelwirkungen im Zivlrecht 〔1935〕 S. 6.
(6)  この点については本稿一の2参照。
(7)  乾・前掲一の(注1)三二頁、於保・前掲一の(注1)三八五頁、奥田・前掲一の(注1)六一頁、石田喜久夫・前掲一の(注1)四三頁、幾代通「強迫による取消と無効」新版・民法演習1一六三頁以下。
(8)  磯村保・前掲一の(注1)八一頁以下。
(9)  我妻・前掲一の(注4)(昭和四〇年)三〇四頁、幾代・前掲一の(注4)二七七頁、内田・前掲一の(注4)七八頁、磯村保・前掲一の(注1)八四頁等。
(10)  石田穣・前掲一の(注4)三五一頁、川井・前掲一の(注4)二〇八頁。
(11)  磯村・前掲一の(注1)八五頁以下。
(12)  乾政彦・前掲一の(注1)三二頁。
(13)  大判昭和六年九月一六日民集一〇巻八〇六頁以下。
(14)  幾代・前掲(注7)一六三頁以下。
(15)  奥田・前掲一の(注1)七三頁、石田喜久夫・前掲一の(注1)四三頁も同様の見解。
(16)  例えば、Hubernagel, a. a. O. S. 10.


五、結びに代えて


  以上見てきたように、Kipp の提起した二重効の問題には、様々に次元の異なる問題群が充満していることが確認できたのではないかと思われる。そして、これらの問題群を(a)私法学方法論レベルの問題、(b)訴訟法レベル(訴訟法と実体法の関係について)の問題、(c)実体法における解釈論レベルの問題というように三つに分けて整理してきたわけであるが、(a)が二重効理論の理論的根拠、(b)と(c)が二重効を認めるべき実質的根拠、と関連していると評価できるように思う。そして、(a)と(b)は大変興味深い重要な問題ではあるが、どの論者にとっても異論のない結論をどう説明するか、という側面が大部分を占めるのに対して、(c)は論者によっては結論も異なり得る。また、今までほとんど議論されていなかった問題だけに新たな発見もあり得よう。(c)の比重は今後増すことはあっても減退することはないように思われる。


  付記:本稿は、事情により「中井美雄教授・長尾治助教授退職記念論文集」に掲載できなかったものです。両先生の学恩に感謝しつつ本稿を献じる次第です。