立命館法学  一九九七年一号(二五一号)一〇五頁(一〇五頁)




法的概念としての「損害」の意義
ドイツにおける判例の検討を中心に


若林 三奈






は  じ  め  に
第一章  ドイツにおける「差額説」批判の本質
  第一節  BGB立法者の損害概念と伝統的損害論
  第二節  規範的損害論の台頭
  第三節  損害概念の「規範性」と「自然性」
  第四節  小    括              (以上、二四八号)
第二章  BGH判例における損害論の展開
  第一節  市場価値の低下と控除
  第二節  被害者の自助的な損害低減要因
  第三節  事前準備費用と損害予防措置費用
  第四節  抽象的利用利益
  第五節  無駄になった消費
  第六節  人身侵害における損害
  第七節  望まれない子に対する扶養損害      (以上、本号)
第三章  BGH判例の検討と「損害」正当化規範
  第一節  BGH判例における損害論の検討
  第二節  「損害」正当化規範
お  わ  り  に





第二章  BGH判例における損害論の展開


第一節  市場価値の低下と控除
  第一項  市場における価値の低下
  例えばある人の車が他人の加害行為によって毀損され、修理に出されることになったとしよう。修理によりこの車の機能は完全に回復され、結局最後まで所有者により十分に使い切られた場合、所有者たる被害者は、その修理代金や修理期間中この車を使えなかったことによる不利益とは別に、自分の車はまさに事故を経験したのだという事実をもとに、何らかの損害を加害者に対して主張することができるであろうか。いわゆる評価損(merkantiler Minderwert(1))の問題である。仮に被害者がこの車を市場に出すとすれば、この車は事故経験車であるがゆえに、やはり同種同等の中古車に比べてその取引価格は低くなるであろうから、この場合には被害者は自分の財産の一つである自動車の価値を客観的に減じられたといえよう。しかし実際には被害者がこの車を市場に出さず、自己のもとで何ら支障なくその車を利用しつくした場合に、被害者に仮定的に生じる財の市場価値の減少を損害として、加害者に賠償請求できるのかということが問題となる。
  ドイツの判例は戦前から不動産については、「社会生活上の見解 (Verkehrsauffassung) に従えば、なお購買の手控えが生じうるのであり、そのような市場の反応は、実際の財産減少とは関係なくその物の経済的価値を下げる」として、このような現実化していない市場価値の低下という不利益を賠償相当な財産的損害として認めてきた(2)
  翻って戦後、このような評価損に関する判例の相当部分を形成しているのは自動車に関するそれであり、この問題について、BGHが最初に態度を決定したのは、一九五八年四月二九日(民事第六部)判決(BGHZ 27, 181ff.)においてである。ここでBGHは、「事故車両」であるという性質による仮定的な市場価値の減少は、加害による所有者の財産価値の減少であるとして財産的損害となることを認めているが、所有者がこの車を市場に出さず彼自身が使う限りでは、この車の評価損は次第に減少し最終的には消滅するものであるので、評価損による賠償を認めることは損害の填補ではなく被害者の不当な利得になるとして、損害の「確認」にとどまりそれに基づく賠償請求は否定した。しかしその後、一九六一年一〇月三日(民事第六部)判決(BGHZ 35, 396ff.)において評価損の損害賠償を認め、現在これが確定的な判例となっている。BGHは以下の理由により認めている。
  @市場における価値の低下は、修理後の利用により、時の経過とともに減少する。しかしこれは「市場における」価値低下に特有の問題ではなく、キズや技術(工学)的欠陥についても同様のことがいえるが、これらの場合に賠償義務が認められることについては争いがない。ARGの判例によれば他の利用財について、評価損が認められている(S. 397f.)。B評価損の賠償相当性を際限なく承認しても、被害者の不当な利得とはならない。なぜなら所有者がこの車を継続して利用しようとする場合、彼は一般的な社会生活上の見解によれば、無事故車両に比べて低い価値の車の利用をもって満足していることになるからである(S. 398)。Cこの価値の低下は、著しく毀損され修理された車は一般的に損害性向がより高いという事実を考慮するものである。被害者は経済的にはこのような立場に立つに違いないので、たとえ被害者がなおキズのない物を所有していたとしても、損害法は、この取引(Verkehr)上の価値の低下を考慮すべきである。評価損の賠償を認めないならば、価値が完全ではない車を継続して利用しようという所有者の決心が加害者の免責につながることを見過ごすべきではない(S. 398)。
  BGHは市場価値の低下に対する抽象的な損害について賠償請求を認めた場合、この損害は現実的な財産減少(実損)ではないがゆえに、結果的に事故により被害者は財産を増やすことになる点を当然に認識している。しかしこれを「被害者の不当な利得」になるとして賠償を認めなければ、今度は逆に「加害者の免責」を認めることになることを考慮し、このような金銭賠償を被害者が受け取ることは不当ではないと判断したのである。つまり評価損が問題となる場合、被害者は価値の低い財をもって満足しているのであり、このような事態の方がむしろ不当であると判断されたのである。以上のことから、BGHは一九六一年判決によって、損害賠償法の補償原則=不当な利得の禁止という原則を「加害者を不当に免責すべきでない」という規範によって修正し、実損を越える不利益(ここでは客観的市場価値の減少)を賠償相当な損害と見なしたといえよう。
  第二項  新品調達による控除
  加害事故により物が毀損・滅失した場合の財産的損害が、原状回復により賠償される場合、被害者には同種の新品か、同種同程度の中古品が提供されることになる。どちらになるかは取引を含む社会一般の慣習(Gepflogenheiten des Verkehrs)による(3)。それでは被害者が一定使用した物が毀損・滅失されたにもかかわらず加害者によって新品が調達された場合、両者の価値の差額は控除の対象となるのであろうか。判例では、火事により家屋の一部が毀損、一部が滅失したため、家を再建し、その新築した家屋と事故以前のそれとの価値の差が問題となった事例において、BGHは以下のように、控除を認めない例外事例があることを指摘している(4)
「利益の控除可能性(Anrechenbarkeit)を決定するに際して、法的問題としてむしろ重要なのは、加害事故によって加害者と被害者の間にどのような利益状態が存在するのかを包括的に概観することである。つまり加害行為によって相当因果関係のある利益を評価〔控除〕すべき原則は、例外なく妥当するものではない。\\期待可能性の問題につき重要となり得る特別な状況とは、例えば原告が経済的に必要な超過費用を調達する状況にはなかったと思われるような場合である」(S. 33)。
  このようにBGHは、損益相殺を否定する場合に生じる被害者の二重の利益を、例外的に正当なものと認める(この意味において差額説から離れる)場合があることを指摘し、このような例外を認める基準として「期待可能性(Zumutbarkeit)」を挙げている。当事者、それも特に被害者に酷(Ha¨rte)であるかないかが、その判断指標となっているようである(5)。しかし本件では、そのような特別に過酷な状態を被害者が主張せず、確認されなかったことから、控除しなければ「被害者は彼の損害を越える賠償を得る」(S. 35)として、一定額の控除が認められた。
  また毀損・損壊された中古品が金銭賠償によって填補される場合、通常、賠償基準は交換価値に求められるが、所有者にとっての「経済的」利用利益がその交換価値を越える場合には、そのような所有者にとって特別な利用価値にまで賠償義務が拡張されている(6)。このような賠償は、同種かつ同程度に有用な物の取得に支出される再調達価格(Wiederbeschaffungspreis)にしたがって算定すべきであるとの見解が一般的である(7)。したがって、この賠償が同種の新品の財が提供されることにより行われた場合の控除額も、当然、交換価値ではなく、その物が加害事故以前に被害者にとって有していた価値(=利用価値)にしたがって決定されることとなる(8)。すなわち控除の算定基礎は、賠償されるべき物が全体として付与したであろうと予見される利用可能性の継続における使用関係(耐用年数や走行の性能)とされるのである。
  以上のことから、「不当な利得の禁止」原則より、中古品の毀損に対し新品の提供により賠償がなされた場合には一定の控除が認められるが、被害者においてその控除が著しく負担となる場合には、「期待可能性」のもとに控除が否定される場合があり、これにより公平性が考慮されていることが明らかである(9)。また物損における賠償基準として、交換価値を越える物の利用価値をも含み得る「再調達価値」が立てられている点も注目に値する。

(1)  merkantiler Minderwert とは、@修理後、加害事故との関係をもはや立証し得ないような欠陥が後に現れること、A修理された物を後に売りに出したとしても、買い主がそれが事故物であるとの理由から購入を手控えることに基づく価値減少である。この概念の対概念として technischer Minderewrt があるが、これは修理後なお客観的に確認しうる瑕疵が残ることによる価値減少をさす(H. Lange, Schadensersatz, 2. Aufl. (1991) S. 262)。日本では両者はあまり区別されておらず、どちらも「評価損」に包摂されるため、本項でも「評価損」の語を用いる。なおドイツにおける自動車の評価損(市場価値の低下)については、差額説との関係から、すでに吉村良一「ドイツ法における財産的損害概念」立命館法学一五〇ー一五四合併号(一九八〇年)八〇九頁以下、山本豊「西ドイツにおける損害(概念)論の動向」下森定他編著法政大学現代研究叢書9『西ドイツ債務法改正鑑定の意見の研究』所収(一九八八年)二五七頁以下においても紹介がある。
(2)  例えばRG一九一四年七月一四日(民事第五部)判決(RGZ 85, 252)においては、原告が被告から購入した家屋が海綿状のキノコで覆われていたことを理由に、売買価格の減額を要求した。RGは、「社会生活上(im Verkehr)の見解により耐性のあるナミダタケが永続的に除去されたという真実がまだ認められず、またなおこのキノコの再発生に対する懸念が残る限り、この家屋が新たなキノコによって再度被害に遭うかもしれないという懸念は、この不動産の売買価値を減少させる欠陥と見なされる(S. 253)」として、「当該客体が社会生活上その価値を減少している限りにおいて、その評価損を認める(S. 255)」とした。この他BGHは、不動産だけではなく、壁、屋根、デッキ、床などの耐久性、積載能力など建物構造についても評価損を認めている(NJW 1986, 428 他、Lange, a. a. O., S. 263)。なお本稿においては、Verkehrsauffassung との原語に、取引通念をも含むより広義の(経済取引を前提とする)社会生活上の見解との訳語を用いる。
(3)  Lange, a. a. O., S. 258.
(4)  BGH一九五九年三月二四日(民事第六部)判決(BGHZ 30, 29ff.)。
(5)  さらに、一般的には被害者には支払猶予が認められており、さらに必要に応じて、被害者において増加した価値が効力を発揮するまで猶予が認められる。このような場合、賠償義務者が新品価格全額を立て替えなければならない(Lange, a. a. O., S. 260)。
(6)  H. Stoll, Haftungsfolgen im bu¨rgerlichen Recht (1993) S. 300.
(7)  BGH一九六六年五月一七日判決(NJW 1966, 1454)。
(8)  Lange, a. a. O., S. 261.
(9)  G. Schiemann, Argumente und Prinzipien bei der Fortbildung des Schadensrecht (1993) S. 142f.



第二節  被害者の自助的な損害軽減要因
  加害によって通常ならば生じたであろう財産的損害が、被害者の個別の事情によって、結果的に現実的な財産的損失にいたらなかった(回避もしくは軽減した)場合、このような被害者は通常ならば生じていたであろう財産的損失を、他の実際に損害が生じた同種の事故の被害者と同様に「損害」として加害者にその賠償を請求することができるであろうか。この場合、差額説を貫徹すれば、現実的な財産減少は生じていないのであるから、賠償に相当な損害の存在する余地はないであろう。しかし、BGHは以下のような一定の事例につき、被害者の努力や措置によって回避された不利益について、同種の事故における他の被害者と同様に財産的損害を認めている。
BGH一九五七年一〇月二九日(民事第六部)判決(NJW 1958, 627)
〔事実〕  被害者は資金がなかったため医師に処方された薬を買うことができず、自然治癒するのを待たざるを得なかった。被害者は加害者に対してBGB二四九条二文に基づきこの処方薬に相当する額を財産的損害として賠償請求した。
〔判決理由〕  身体もしくは健康を害された者は、その回復に必要な金額をBGB二四九条二文に基づいて賠償し得る。健康の回復に必要なものは、被害者の財産関係に基づいて決定されるのではない。被害者が資金不足から満足し得なかった場合にもその限りにおいて増加した需要に対して賠償を与えるべきである。決定的な視点は加害者は被害者のそのような事情によって必要な治療費用の賠償義務を免れるべきではない、ということである。
  このケースでは、@原状回復に要する費用は被害者の財産関係に左右されないこと(=これによって不当に扱われるべきでないこと)、およびA加害者を免責すべきではないこと、という二つの判断から、被害者に具体的な財産支出はなかったにもかかわらず、財産的損害を認めている。ここでは、被害者側の事情として、同様の事例の仮定的な(資力ある)被害者と比較し、資金がなく薬を買えなかったから損害がないというのでは公平が害される、との考慮も働いている。学説においてはこの判決に対する批判も強いが(1)、他方で保険制度が十分に発達した今日のドイツでは、このような事態が生じることはほとんどなくなった、との指摘もある(2)
BGH一九七一年二月一六日(民事第六部)判決(BGHZ 55, 329=NJW 1971, 836)
〔事実〕  被告の乗り合いバスが原告の教習車にぶつかり毀損したため、この教習車が修理に出された。この車は教習用の特別仕様車であったため、原告は代用車を借りることができなかった。原告は判決時には、すでに事故によって行えなかった教習時間を休日等を利用して埋め合わせていたが、修理期間中の営業日九日間分計一六二〇マルクの収入から一部を差し引いた一五七〇マルクにつき賠償を求めた。
〔判決理由〕  原告の請求認容。差額説によれば損害はないが、BGB二五四条二項の法的判断から、損害の防止および損害の回避が、被害者の義務を越える努力によってなされる場合には算定上考慮すべきではない。この教習時間の埋め合わせは義務を越える措置によってなされたものであるので、被害者の逸失利益の賠償を認めるべきである。
  この判決は被害者が事後的な努力によって得た利益を相殺するかどうか(3)との基準をBGB二五四条二項の損害回避・軽減義務の範囲に求めるが、結局この義務の内容を明らかにはせず、@損害賠償の目的に合致し、A加害者を不当に免責するわけではない場合にのみ損益相殺を行うと述べるだけである。他方、次の判決は、損害の軽減をもたらし得た原告の措置がその義務範囲内であるとして、原告の賠償請求を否定している。
BGH一九七〇年五月二六日(民事第六部)判決(BGHZ 54, 82ff.)
〔事実〕  原告のトレーラーと被告の路面電車が衝突事故にあった。当事者は双方の損害を折半することでは合意したが、被告の損害範囲が争われた。被告は事故車両の修理にも対応できるだけの独自の修理工場設備をもっていた(他社の修理工場に委託することもあった)。この場合、被告の損害は、被告の自社工場での修理に要する諸経費に限られるのか、それとも他社での修理に基づいて損害算定をするのかが争点となった。
〔判決理由〕  独自の修理工場を持っている交通事業体が、車両を毀損された場合、加害者に対して、実際には行われていない(通常経営利潤を含むがゆえにより割高となる)他の修理業者による修理費用に基づく割高な損害賠償を請求することはできない。このことは大企業、とりわけ被告のような交通事業体について妥当する。
  個別事例において必要な金額は、所有者が被害者のおかれた特別な状況のもとで合理的かつ経済的に判断した場合に期待可能な修理に対して行うであろう消費から明らかになる。したがって、被害者に修復を容易にするような特別な状況がある限り、ここで問題となるのは、被害者がそのような状況を用いることを期待しうる(zumutbar)のか、またとりわけそれを加害者の利益に組み入れることを期待しうるのかということだけである。この関係において実際意味があり得るのは、まさに被害者の状況においてより安価な修復方法が、賠償義務の問題とは関係なく、慣例(u¨blich)たり得るか否かということである。
  この判決においてBGHは、損害概念における「主体関連性」として(4)、合理的・経済的に考えた場合に、原告のような交通事業体は自社工場で修復をなすことが社会生活上の慣例(verkehrsu¨blich)となっており、また期待可能(zumutbar)であるかどうかを問題にし、修理に必要な金額=財産的損害を(企業利潤が算入されていないがゆえに)より安価な実際の自社工場での修復に要した費用に制限していることが注目される。したがって、逆に被害者が自動車修理工であり、事故によって毀損した車を自分で修理し修理費用を低く抑えたような場合には、加害者は通常、修理工場に委託した場合に要する費用を賠償しなければならないとされる(5)
  以上のことから、被害者が自己の格別の努力や特別な措置によって結果的に損害の発生を回避もしくはそれを軽減せしめた場合、BGHは、その金銭賠償の範囲を、BGB二四九条二文の「必要性」概念やBGB二五四条二項の義務に照らしつつ、「加害者を不当に免責すべきでない」との法思想や「合理的・経済的に考え得る通常(社会生活上)の期待可能性や慣例」という規律によって規範的に判断していることが明らかであろう。

(1)  Staudinger 〔Medicus〕 BGB, 12Aufl. (1983) § 249 Rz. 133, Lange, a. a. O., S. 150.
(2)  本判決は、戦後間もない保険制度がまだ未発達であった時期の判例である(Schiemann, a. a. O., S. 34)。しかしこの判決そのものは、「需要」も財産的損害かという問題を提起したものとして今日でも重要な意義を有するものである(山本・前掲二六〇頁)。
(3)  BGHは、「事実上、被害者の独自の行動に基づく利益は、それがBGB二五四条二項一文の損害軽減義務を越えるものである限り、計算に入れるべきではないということが、一般的な法的見解にかなう」として、本件では損益相殺との構成をとっている。このような見解を示すのは、例えば、ティーレ(Thiele)やメディックス(Medicus)である(W. Thiele, Gedanken zur Vorteilsausgleichung, AcP 167 (1967) S. 193, 236, D. Medicus Bu¨rgerliches Recht § 31 VI 2d)。
(4)  この判決において、BGHは客観的損害算定について肯定するものの(S. 84)、これは「概念的に実際的な修復の実施とは無関係に、典型的な平均的費用たる意味での賠償額を損害事故のより細かな状況を顧慮することなく規範化すべきことを意味するものではなく(S. 85)」、「そのような規範的算定は、現行の損害概念の主体関連性と矛盾(S. 85)」するとして否定している。本判決では「客観的損害算定」と「規範的損害算定」とが概念的に区別されていることがわかる。
(5)  例えば、BGH一九七三年六月一九日(民事第六部)判決(NJW 1973, 1647ff.)は、一九七〇年判決を前提におきつつ修理工場に委託した費用の賠償を認めている。なお本件の争点は、このようなケースでは、被害者の賠償額から通常の修理費用に含まれる売上税分を控除すべきかということにあり、BGHは「事実把握から抽象的に評価した損害賠償額を認めているのであり、事実上生じた消費の補償を行っているのではない」との理由から、売上税の控除を否定した。このような判断は現在の通説・判例となっているが(例えば、BGHZ 61, 56)、「法感情に矛盾する」などといった理由から否定的に見る見解もある(E. Hofmann, Der Umfang des Ersatzspruchs nach § 249 Satz 2 BGB im Reparaturfall und der vertraglichen Reparaturkostenentscha¨dingung in der Fahrzeug-Vollversicherung, DAR 1983, 374ff., M. Werber, Total- und Teilschaden im Versicherungsvertragsrecht und im Schadensrecht des BGB, VersR 1971, 981, 993)。



第三節  事前準備費用と損害予防措置費用
  第一項  事前準備費用(Vorhlatenkosten)
  被害者があらかじめ一定の損害回避(もしくはその拡大防止)のために事前に何らかの予防的処置を講じている場合がある。実際、このような被害者側の措置によって加害による損害の発生が回避もしくは軽減された場合、被害者は(当該加害行為がなくとも)この事前予防的な措置に要した費用を、この(偶然にも加害行為を行った)加害者に対して財産的損害として賠償を要求することができるであろうか。このようなケースとして交通事業体が被害者となる交通事故の事例がある。すなわち、交通事業体は旅客運送法により、事故等に対する備えとして、予備車両を保持することが義務づけられている(1)。それゆえ加害事故が生じた場合であっても、通常このような予備車両を利用するため逸失利益は生じない(2)
  この問題に関する転換点となったのは、次のBGH判決である。
BGH一九六〇年五月一〇日(民事第六部)判決(BGHZ 32, 280ff.(3))
〔事実〕  加害事故によって、原告である路面電車会社の車両が大破した。原告はこの車両を自社の修理工場で修理し、この間、予備のトレーラー付き電車を利用し、それによって逸失利益損害の発生を回避した。原告は加害者に、逸失利益に代わり、この予備車両に関する費用、すなわちこの予備車両の@減価償却費用、A資本費用、B維持費につき、その日額に修理期間一〇二日を乗じた額(総額六二五二マルク六〇ペニヒ)を損害として賠償を求めた。
〔判決理由〕  以下の衡量のもと、原告の請求を認容。もし原告がこの予備車両を利用していなかったならば原告には逸失利益が生じており、被告は本質的により高額となる損害額を賠償することとなったであろう。原告が準備措置を怠っている場合には、損害回避および軽減義務違反に基づく共働過失となる。被告は原告に予備車両の利用を期待するのであれば、その予備車両に対して当該修理期間になされた固定経費(Kapitalaufwand)を補償しなければならない。被害者の損害軽減・回避義務は、それに投じた措置に対する加害者の費用賠償義務と対応するものである(S. 285)。予備車両を事前に準備していたことによって加害者に倹約せしめた企業は、代用車両の調達および利用による高額な費用に対して責任を負わなければならないのであり、それゆえ加害者によって惹起された予備車両投入期間に関係する限りにおいても補償を認めなければ、信義則と相いれない結果となる(S. 285)。
  本件のような場合、交通事業体には法的な準備義務があり、それゆえこの準備費用は当該加害事故とは無関係に投じられていたものである。したがって、加害事件と被害者の準備費用との間に因果関係が存在しないことは明らかである。それゆえいわば被害者は加害事故によって(その事故の度に)利得を得(重ね)ることとなるため、この点について多くの学説の批判がある(4)
  このように学説から批判を受けたことから、BGHは一九六一年(民事第六部)判決(5)において、賠償に相当するのは「明らかに限定しうる費用」であり、「特別な管理措置がもっぱらこの目的のためになされた場合(6)」に限られるとした(7)。すなわち、因果関係を「目的性原理(Finalta¨tsprinzip(8))」として示され得る特別な帰責関係により補完したのである(9)。しかしながら、この「目的的準備(finalen Reserve)」論も、後にBGH自身によって「経済的になじまない考え方である」として否定された(10)。すなわち、判例は実務的な考慮から、一般的な事業準備的な設備(Betriebsreserve)が他人に帰責される加害事故に対して投入された場合にも、その賠償相当性は失われないとした。すなわちこの準備措置(Vorsorge)によって損害が軽減したことで十分であるとすべきとしたのである(11)
  いずれにしても、この問題においては被害者の不当な利得は避け得ない。したがってここではその点よりも「加害者の不当な免責の回避」、「加害者への責任追及」といった法思想が優越しているといえよう。もちろん、賠償請求の認容によって加害者が制裁されるのか、ということは、とりわけ交通事故の場合には責任保険制度との関係でなお検討の余地があろうが、一定の予防および予防的な効果は期待できるであろう。
  第二項  損害予防措置(任意の監視措置・安全措置)
  事業主等が、その事業の性格上、ある程度予見し得る加害行為の予防のために、任意に監視および安全措置を施している場合について検討してみよう。これらの事前予防的な措置によって加害者が発見された場合、この(偶然にも発見された)加害者に、その具体的加害行為によって直接侵害された権利・財貨への賠償の他に、そのような加害者発見のために被害者が投資した損害予防措置費用についても損害として賠償請求できるか、ということがここでの問題である。
A.音楽著作権の侵害に対する監視
  この問題の発端は、音楽著作権という特殊な権利への加害とその防止にある。ドイツでは音楽著作権協会(GEMA(12))が音楽著作権を管理しており、また契約によって内外の作曲者の音楽上演権を保護している。著作権者の許諾なく作品を上演し得るのは、その上演を行う催しが非公開(nicht o¨ffentlich)の場合に限られる(音楽著作権法二七条一項一文)。BGHは音楽著作権侵害の場合に、このGEMAによる侵害防止のための監視費用を侵害者に負担させるとの立場をとっている。すなわち、BGH一九五五年六月二四日(民事第一部)判決(BGHZ 17, 376ff.)では、被告(七〇〇〇名規模の株式会社)が従業員およびその家族を対象に主催した「従業員の夕べ」という会での音楽の上演が問題となった。BGHは、損害賠償額として、原告の主張する通常使用料の倍額を認め、このような損害算定を、原告が著作権侵害を探知するのに大規模な監視機構を運営せねばならないこと(13)、このような費用は、公平の観点から権利侵害者にのみ負担させるべきであることから正当化した(S. 383)。
  通常の利用料金に一〇〇%の追徴金を課すことによって倍額の損害賠償請求を認めるこのBGHの判決は、一九三〇年代以降続いてきた判例の流れをくんだものである(14)。しかし、このケースにおいても、多くの学説によって、この監視に要した費用と加害者の侵害行為との間に直接的な因果関係がないことから、このような倍額賠償を認めることにつき批判がなされた(15)
  それにもかかわらずこの一七年後に、BGHは、GEMAの音楽著作権侵害につき、監視費用と具体的事件との因果関係の不存在を理由に正規の使用料だけを損害とし原告の倍額請求を否認した原審を、以下の理由から破棄し、差し戻した。
BGH一九七二年五月一〇日(民事第一部)判決(BGHZ 59, 286ff.(16))
〔判決理由〕  GEMAの監視費用は個別損害事故とは無関係に生じ、それゆえに因果関係がないという学説からの批判を踏まえた高裁判決の衡量は損害法上の出発点からはむろん適切なものである(S. 287)。事故以前の消費は、それが損害の軽減・回避となり結果的に加害者に有利に働くような特別な状況がある場合にのみ賠償に相当する。そのような具体的損害事故とは無関係になされた、権利侵害を回避するための、一般的な予防措置(Vorkehrung)は、通常、その保護を受ける者によって負担されなければならない(S. 288)。
  しかし原告によって保護されているいわゆる小さな音楽上演権は、多数存在するのであり、同時にかついたる所で様々な人により利用される。ゆえに、個別の著作権者によって著作権侵害を追及することは実質的に不可能であり、特別な監視機構を設立し、かつ相応に多額の出費をなさない限り、音楽著作権の保護はなしえない(S. 288f.)。
  原審の見解に従えば、著作権侵害者は、何ら経済的に不利益を被ることがない。さらに、音楽上演権の容易な侵害可能性および発見の困難を考えれば、不当な侵害から全く保護することができなくなるであろう(S. 291)。したがって、権利侵害者に対して使用料を割り増して賠償を認めなければ、この巨額の監視費用は個別の著作権者によって負担されることになるか、さもなくば通常の利用料を値上げし、適法な利用権者が、他の利用者の違法な行為がなければ生じなかったであろう費用を負担することになる。これらのことは双方とも不当である(S. 292)。
  本判決は、結局、因果関係を論難する見解に対し直接反駁することはせず、「事物の本質」による要保護性から、より強く公平の観点を打ち出すことで批判をかわしている(S. 291)。すなわち、「侵害がきわめて容易であり、その発見がきわめて困難であるという他の無体財産権と区別された演奏権侵害特有の事情、および、そのような事情に鑑みて侵害を監視するために設立されたGEMAの特殊性から(17)」、公平たる観点を全面に出すことによりこのような監視費用の賠償を正当化しているのである。したがって、ここでの損害確定における決定的な要素は、保護客体の特殊性にあるといえ、これを「公平」のフィルターに通すことによって賠償が認められている。そしてGEMAのケースでは、権利侵害がただちに通常使用料の倍額賠償を導き出しており、ここではまさに最少損害による客観的損害論が展開されている。
B.その他の監視、予防措置
  これに対し、BGHは、音楽著作権の侵害以外の場合に、予防措置の費用を加害者に負担させることについては否定的である。例えば、原告の経営するスーパーマーケットで約一二マルクの商品を万引きした被告に、原告が万引きによる損害防止策に要した費用として五五〇マルクの支払いを求めた事例において、以下の理由から賠償を否定した判決がある。
BGH一九七九年一一月六日(民事第六部)判決(BGHZ 75, 230ff.=NJW 1980, 119ff.)
〔判決理由〕  万引き対策のような被害者である店舗側の努力は被害者の帰責および答責の範疇に属するものであり、加害者の責任の保護目的外のものである。したがって、基本的に、被害を被った事業体は、損害の探知および清算によって増大する仕事に関する費用を個別的立証(Einzelnachweisen)による算定に基づいても、包括的算定(gescha¨tzte Pauschale)によっても、加害者に賠償を求めることはできない(S. 232)。この権利「防御(wahrung)」についての努力は被害者側に配分されるものであり、それゆえにこの損害防止対策に要した費用が通常の固定経費と明確に分けられたものであったとしても(例えば万引き対策の部課を独立しておいている場合)この費用は被害者によってのみ負担されるべきである(S. 234)。
  BGHは前項で述べたように、事業上義務のある準備費用は「損害除去およびさらなる損害の回避」のため賠償されうるとしたが、本件のような万引き損害防止措置費用は、「単なる権利擁護のための努力」にすぎず、この負担は被害者側に帰属するという。したがって例えば、鏡・テレビカメラ等の万引防止措置についても、「個別加害者との関係では具体的な権利侵害関係がなく」、また「個別の権利侵害に対し消費された相当な費用は十分には探知することはできない(S. 237)」として賠償は否定されている(18)
  しかしながら他方で、BGHは「被害者は、自己の管理領域の規模やそれによる潜在的な損害発生の増加から、そのような組織的な措置が目的的かつ必要と思われるとしても、損害の予防措置費用の賠償可能性の問題について特別な立場を主張することはできない(S. 232)」と述べている点にも注意する必要がある。すなわちそこには各店舗はその規模に応じて万引等による損害のリスクを引受けるべきであり、そのような措置をそもそも施すことができない(概して小規模店舗の)被害者に比して有利に扱われるべきではない、との判断がある。
  なお本件では、原告は当該行為以前に万引きの現場を押さえた店員に対し、五五〇マルクの「捕獲懸賞金(Fangpra¨mie)」を支払う旨を約していたため、その懸賞金五五〇マルクについても原告が損害賠償を求めており、これについては個別具体的な万引きとの因果関係を認め「理性的・経済的に見て、目的相応かつ妥当(S. 238)」な額(本件では五〇マルク)での賠償を認めている(19)
  第三項  ま  と  め
  本節で検討したような事前的準備や損害防止に要した費用の中でも、音楽著作権に基づく上演権の侵害については、その侵害容易性という保護客体の特質から(半ば慣習法的に)具体的な因果関係がなくとも損害賠償が認められており、ここにおいては、公平・予防・制裁という観点が強く押し出されている。また交通事業体における予備車両など、「損害除去およびさらなる損害の回避」のために投じられた費用については、被害者の不当な利得となるにもかかわらず、信義則および「加害者への責任追及=免責すべきでない」との法思想に基づき賠償相当性が認められており、その損害範囲については「実務性」が考慮されていた。逆に、万引き防止のような「単なる権利擁護のための努力」とされる場合には、責任の保護目的外として賠償が否定されている。しかしながら、これは被害者間の資力から見た「公平」という視点をも含むものであった。また、加害行為とその損害の因果関係が明らかな場合においても、賠償すべき損害は理性的・経済的思考から、責任規範の保護目的に相応し、かつ妥当な限りにおいてのみ「相当」であるとして規範的に確定されている。いずれにしても、単純な数額的計算によって損害が導かれるものではないことは明らかであろう。

(1)  一九六一年五月二一日の旅客運送法(Personenbefo¨rderungsgesetz)二一条。
(2)  生じるのは、自社工場による(=経営利潤を含まない)修理費用だけである(第二章第二節)。
(3)  なおすでにRG時代に同様の判例がある。運河で沈んだ船を引き上げるのに要した費用として、船の引き上げのための人的・物的措置の事前の準備費用が考慮された事案である(RGZ 74, 362, 365)。
(4)  とりわけニーダーレンダー(Niederla¨nder)が、準備をなした被害者の「不当な優遇」であり、損害賠償に際限がなくなるとして批判している(H. Niederla¨nder, Schadensersatz bei Aufwendungen des Gescha¨digten vor dem Schadesnereignis, JZ (1960) S. 619)。
(5)  VersR 1961, 358.  本件は、国鉄(被害者)の求めた管理費に対する賠償を否定した事案である。
(6)  例えば従業員の特別手当などである。
(7)  その後のBGH一九六九年二月二八日(民事第二部)判決もこの民事第六部の判決に従っている(VersR 1969, 473)。
(8)  一九六〇年判決でも、代用として用いられた車両が、@他人による有責な事故(fremdverschuldete Unfa¨lle)のために準備されていたこと、Aまさにこの加害事故の危険によって特別かつ限定しうる費用を生じたことを要求していた。しかし Lange は、このような要件は経営実務と矛盾しており、中小企業と大企業とで問題を含む差異を導くことになりうるとして、判例変更は当然と評価している(Lange, a. a. O., S. 301)。
(9)  BGHは、「目的性」という新たなメルクマールを加えることにより、機械的な補償に代わる「正当な」補償という実質的な目的観念を維持することを意図した(Schiemann, a. a. O., S. 110)。
(10)  BGH一九七五年一〇月一四日(民事第六部)判決(VersR 1976, 170)。すなわち、制限的な準備ではなく、予備の設置に際しての数量的な事故の考慮が、全般的に要求された。
(11)  BGH一九七八年一月一〇日(民事第六部)判決(BGHZ 70, 199, 201)。なお本件では、原告は補足的に利用利益損失に対する賠償をも求めている。事前費用賠償と抽象的利用利益の不明瞭な関係については、BGH一九六五年一二月一三日(民事第三部)判決(VersR 1966, 192)以来、学説からは批判(例えば W. Thiele, Die Aufwendungen des Verletzten zur Schadensabwehr und das Schadensersatzrecht, FS Felgentraeger (1969) S. 404 など)があり、BGHは本判決において、この種の車両に関する補足的な利用利益賠償の余地はないと判示した(S. 204f.)。
(12)  Gesellschaft fu¨r musikalische Auffu¨hrung の略称。ドイツ国内唯一の音楽著作権管理団体である。
(13)  監視費用のコストは、一回の侵害につき、通常の使用料と同じ、としている。
(14)  GEMAの前身であるSTAGMA(=Staatlich genehmigte Gesellschaft zur Verwertung musikalischer Auffu¨rungsrechte)の頃より倍額請求が認められており、BGHはこれを踏襲したものである(Schiemann, a. a. O., S. 112ff. 山本・前掲二六四頁、田村善之『知的財産権と損害賠償』(一九九三年)一四〇頁以下)。
(15)  この判決の直前にレーベンハイム(Loewenheim)が、倍額賠償による保護論につき、@予防権的保護についてはすでに著作権法九七条一項二文に基づく利得返還請求権の規定があること、A「民事罰」として裁判官法上承認され得ないことを理由とする批判を行っている(U. Loewenheim, Schadensersatz in Ho¨he der doppelten Lizengebu¨hr bei Urheberrechtsverletzungen?, JZ (1972) S. 12ff.)。この批判に対して、本判決では、BGHは@の点につき、侵害者の利得は音楽上演権においてはほとんどの場合確定し得ないこと(BGHZ 59, 286, 290f.)、Aの点につき、賠償額は「相当」な特許権使用料と許可された上演に対して名目的により低く設定されている料金との差額にすぎないとして批判をかわしている(S. 292)。また Esser は具体的な損害事故と無関係になされる権利侵害防止のための一般的な予防措置は、通常それをその保護のために任意でなす者によって負担されなければならないと批判している(J. Esser, Schuldrecht Allgemeiner Teil, 4. Aufl. (1970) § 42 I 3)。
(16)  本判決については特許権侵害への適用可能性との関係で、田村・前掲書一四一頁以下に詳しい紹介がある。
(17)  田村・前掲書一四一頁。
(18)  下級審ではあるが、駐車違反を防止するための偵察費用につき、それは被害者自身の義務の範囲に含まれるとして賠償が認められなかった事例がある(ミュンヘン(Mu¨nchen)地裁一九八八年一月二七日判決、DAR 1988, 383f.)。
(19)  BGHによれば、五〇マルク以上の賞金は、その捕獲促進機能の維持からみて必要ではなく、その範囲で、責任の保護目的から、万引きした商品との価値のバランスによって損害額は決定される(BGHZ 75, 230, 240)。



第四節  抽象的利用利益
  第一項  自動車の抽象的利用利益
  例えば、乗用車が加害事故によって毀損されたため、その車を修理に出した場合、その間、被害者はこの車が利用できず不便を感じる場合には、代わりの車をレンタルしたり、他の交通機関を利用し、それらの費用は(相当な範囲で)当該事故による積極的財産損害として賠償されるであろう。しかし、被害者がそのような対応を行わなかったため(例えば車が利用できないことによる不便は感じつつも、他の財産的出費を伴わない方法によって我慢した場合など)、積極的な財産減少には至らない場合もある。この場合、車の修理期間中に被害者が受けた不利益である車の利用不能そのもの(=抽象的利用利益の喪失)を損害として加害者に賠償請求できるであろうか。
  このようないわゆる抽象的利用利益の喪失について、まずその先駆けとなったのは自動車の利用利益である。BGHは自動車の抽象的利用利益の喪失について、一九六三年九月三〇日(民事第三部)判決(BGHZ 40, 345ff.)以来、いわゆる「商品化」論(1)によって財産的損害と見なし賠償を認めている。
  すなわちBGHは、まず「損害概念は純粋な法的概念ではなく、法秩序に関係づけられた経済的概念である」(S. 347)との定義を前提とした上で、自動車の利用不能の様々な経済的評価を列挙し(2)、さらに「一時的な利用不能は、経験則(Lebenserfahrung)によれば車両価格に影響し得るものであり、ただちに利用し得ない車は、通常、即座に利用し得る車よりも割安である(S. 348)。いつでもそしてすぐに、ガレージや家のドアの前にある車を利用しうる可能性は、今日一般的に経済的利益(Vorteil)と見なされているのであり、彼がこの車を使っているのか、それはどの程度かということは問題ではない(S. 349)」としている。
  このようにBGHは損害概念は経済的概念であるとした上で、自動車の利用可能性に「経験則」や「一般的見解」に従って経済的価値を付与することにより、利用可能性の侵害は、いまや商品化されたものとして、財産的損害としての賠償を認めたのである。ドイツではBGB二五三条の規定により、明文規定がない限り非財産的損害の金銭賠償は認められていない。したがってこのような利用可能性の剥奪によって被る不便を賠償するにはそれを「財産的損害」として法律上構成する必要があったのである。そこでBGHは、このような被害者に生じた不利益が賠償対象としての「損害」とすべきか、という判断において社会生活上の見解を媒介とする「商品化論」によって正当化を試みたのであり、その意味でここでは「社会生活上の見解」が決定的な役割を果たしているようにも思われる。
  このような判断は非常に恣意的であるとの批判を受ける危険もあるが、この点につきBGHは、傍論において、自動車の抽象的利用利益喪失の賠償相当性判断に対し一定の制限を設けている。すなわち@内在的要因として被害者の利用可能性についての明白性(fu¨hlbar)による制限、またA外在的要因として被害者の損害回避・軽減義務を定めたBGB二五四条二項による制限である(3)
  この一九六三年判決の「明白性」基準の内容は、三年後のBGH一九六六年四月一五日(民事第六部)判決(4)によって具体化されている。
  この判決の中でBGHは差額説の純粋計算の限界を指摘しつつ、被害者の不当な利得を防ぐため、抽象的利用利益賠償請求権の前提として、明白な侵害の存在=被害者のその車に対する「利用意思」および「利用可能性」を挙げ、賠償要件の明確化を試みている。すなわち修理期間中に被害者に車を使う意思があり、なおかつ被害者が(車があれば)客観的に車の利用可能な状況にあった場合には、実際に代用車を調達し利便を得た被害者と同様に扱い、抽象的に財産的損害を認めることとされたのである。なおこのような不利益が賠償すべき財産的損害たる(=商品化している)ことは、本件でも社会生活上の見解によって正当化されている。またこの判決においては、財産的損害は全財産状態の差額という考え方に必然的に結びつくものではなく、個別損害として個々の侵害された財産的財貨に対してのみ探知し得るのであり、「個別の財産利益の具体的侵害においては、そのような算定上の差の考察には限界がある(S. 218)」ことを明言している。
  さらに注意すべきは、これらの判例には以下のような法政策的な判断があったと思われることである。すなわち多発する自動車事故においては、被害者は代用車を調達して利便を得るのが一般的であり、その場合には差額説により財産的損害が認められる。しかし一定の事情から、そのような利益享受の意思と可能性があったにもかかわらず、結果的にそのような利益を享受することができなかった被害者がいた場合、そのような被害者に不便を強要をするのは不当である、との判断である。つまり同種の加害事故の被害者は公平な待遇を与えられるべきである(Gleichbehandlung)、との考え方である。このような被害者間の不平等は自動車事故の発生頻度が高いが故に際だつものであろう。またこのような問題は、一方で被害者側の問題であるとともに、他方で、幸運な加害者を出さない=加害者を不当に免責しない、との法的判断をも含むものであろう。例えば、BGH一九七一年五月一八日(民事第六部)判決(BGHZ 56, 214ff.)においては、「被害者が金銭価値ある利用(もしくは消費)をあきらめた場合になされる節制(Entbehrung)を加害者自身の利益に吸収すべきではない(S. 215)」ことが明言されている。
  その後、自動車の利用利益損失の賠償相当性は、個別の事例を通じて賠償要件がさらに具体化され制限されてきているが(5)、全体としては、このような自動車の利用利益賠償について、BGH自身はそれを「裁判官の法創造の成果である」として積極的に評価している(6)
  第二項  その他の客体に関する抽象的利用利益
  抽象的利用利益は単に事故頻度の高い自動車にのみ法政策的に認められるものなのであろうか。本項では、その他の客体に関する利用利益喪失の事例についても検討を行った上で、抽象的利用利益の賠償正当化規範をまとめることとしたい。まず狩猟権の抽象的利用利益が問題となった次のような判決がある。
BGH一九七〇年一二月一五日(民事第六部)判決(BGHZ 55, 176ff.)
〔事実〕  被告との交通事故により重傷を負った原告が、約一年間自己の有する狩猟権を行使できなかったとして、狩猟権、狩猟税、保険および猟区の監視について生じた費用一年分につき賠償を請求をした(被告の責任保険には、「狩猟権に基づく賠償請求権」は含まれていなかった)。
〔判決理由〕  BGHが一般的に認めている自動車の抽象的利用利益は、その認容の前提として、「利用可能性」と「利用意思」が必要であり、被害者が事故により入院し完全な労働無能力の場合には利用可能性がなく賠償は認めていない。本件では、利用権者は負傷しているが、利用客体そのものは侵害されていないのであるから、まさに賠償相当な利用侵害は否定するのが妥当である(S. 148)。原告は身体侵害を被ってはいるが、依然として、この利用について自由に処分しうる状態にあった(例えば被害者はこの利用を第三者に譲渡することはできた)。被害者は単にその処分の自由(Dispositionsfreiheit)において侵害されたのであり、逆に、利用可能性そのものは排除されていない。ここでは、被害者の不利益は、非財産的損害の賠償においてのみ考慮されるべきである(S. 150)。
  本件では、加害者によって直接侵害されているのは「利用権利者」であり、利用客体そのものではない。それゆえに客体の抽象的利用利益の喪失は問題とならないとされた。すなわち利用権者の身体侵害により、単に利用客体の「処分の自由」が侵害されているにすぎないのである。このような不利益は非財産的性質のものであり、それゆえ身体侵害を生じている限りにおいて慰謝料で斟酌されるにすぎず、財産的損害としての利用利益喪失損害は否定されているのである。この判例は以後踏襲されており、例えば次のような判決がある。
BGH一九七四年一〇月三一日(民事第三部)判決(BGHZ 63, 203ff.)
〔事実〕  飲酒運転をしていた原告が、パトカーにつかまり、アルコールテストによって二〇日間免許証を没収されたが、結局この刑事訴追が証拠不十分として中止されたため、原告が免許証の剥奪による車の利用利益喪失の賠償請求を行った。
〔判決理由〕  単に権利者の処分権能(Dispositionsfa¨higkeit)の瑕疵によって生じたにすぎない経済的不利益は損害とは認められていない。自動車の利用利益の喪失が損害として認められるのは、車の利用不能が車そのものの利用権能(Gebrauchfa¨higkeit)の「客観的」侵害によって惹起された場合、つまりこの車の利用可能性が「客観的に」もはや存在しない場合だけである(S. 206f.)。本件では、自動車保有者もしくは利用権者の免許証の一時的な剥奪が問題となっており、ここにおける侵害には、一定の自動車における客体関連性(Objektbezogenheit)が欠けている(S. 207)。したがって、この種の事例では、被害者は、その免許証の一時的な剥奪もしくはその一時的な押収の結果、事実上財産上の消費の増大もしくはその他の経済的不利益が生じた場合にしか賠償を請求することはできない(S. 203, 207)。
  一時、判例は自動車の抽象的利用利益において構築してきた理論にしたがって、他の侵害客体についても商品化論を用いて財産的損害を承認する傾向を見せたが(7)、その後、自動車以外の抽象的利用利益の賠償を制限する動きがでてきた(8)。とりわけ、BGH民事第五部が、立て続けに自動車事故以外の抽象的利用利益の喪失の賠償につき懸念を示し(9)、さらに一九七九年一一月三〇日判決(BGHZ 75, 366ff.)において、不法行為による単なる土地の利用侵害は、賠償に値する財産的損害ではないとした。しかし、次の大法廷により、自動車以外の客体についても、一定の場合に抽象的利用利益喪失を財産的損害と認めることが改めて確認されている。
BGH一九八六年七月九日大法廷判決(BGH 98, 212ff.)
〔事実〕  被告が傾斜地に列状の住宅を建てたことにより地盤が崩れ、それによって原告は市の命令により約一ヶ月間、住居の利用ができず、これに基づく利用可能性の剥奪につき損害賠償を求めた。
〔判決理由〕  民事第三部、民事第六部、民事第七部、民事第八部は、@支配的な社会生活上の見解が独自の(自己の)利用における物の能力(Fa¨higkeit)に恒常的な財産価値を認める場合、A所有者の損失が「明白(fu¨hlbar)」(=利用可能性と利用意思の存在)であった場合には、原則的に利用利益喪失の賠償を肯定している。車に代表されるような、恒常的処分可能性(Verfu¨gbarkeit)を有する物は通常購入されたものであり、それゆえその利用の侵害は財産的価値のあるこの財産消費の等価物の侵害となる。ここで強調されるのは、@この一時的な物の利用不能はその物の購買価値にも影響すること、またA市場に基づく基準をその物の利用可能性の評価に対して自由に処分できたであろうこと、そしてB被害者が利用に関して倹約した場合にも加害者を免責することは許されないことである(S. 213f.)。
  この判決によれば、自動車にかかわらず、その恒常的な処分可能性に権利者が自己の経済的活動に基づく生計のために通常頼らざるを得ないような客体類型については、その利用客体への侵害は賠償に相当する損害を理由づけるとされ、それゆえ本件のような被害者本人が居住していた住居への不法な侵害による利用可能性の一時的損失は、その所有者にその損失期間中に明白な利用可能性がある限り、賠償に相当する財産的損害とされた。ここではBGHが、抽象的利用利益賠償において「加害者の不当な免責は許されない」ことを強調していることが注目される。
  この大法廷判決以後、被害者の自己経済的な生計について、恒常的な処分可能性をその中心的意義とするような生活財については抽象的利用利益が認められている。したがって自動車(10)を筆頭に、下級審では、自転車、バイク、電動車椅子、住居、台所設備、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、盲導犬などに対する利用利益喪失に対する賠償請求も認められている(11)。反対に、必ずしも生活上不可欠な需要に含まれない財については保護の対象とされていない(12)
  なおこの利用利益の喪失を「財産的損害」と構成することは、差額説と矛盾することは明らかであろう。しかし、この大法廷判決では、差額説は次のように理解されている。すなわちBGHの判例においては、差額説は評価中立的な法的処理として、責任の保護目的や損害賠償の補償機能に接して、差額計算に組み込まれる損害項目を評価的に決定することとは切り離せない、という認識が貫かれてきた。この意味において、いずれにしても差額説は−それは制定法において承認されたものとは異なるが−規範的に捉えられるものである(S. 217)。
  第三項  ま  と  め
  もはや抽象的利用利益賠償において本来的な差額説が貫徹していないことは、判例も認めるとおりである。重要なのは、このような修正が、責任の保護目的や損害賠償の意義・目的さらには期待され得る機能といった規範的な考慮を加えることによって行われていることである。それではこの問題においてBGHは具体的にいかなる規範を用いてきたのであろうか。
  まずBGHは、自動車の抽象的利用利益喪失に対する加害者の賠償義務を以下のような衡量のもとに認めているように思われる。すなわち、一つは「レンタルを断念した用心深い者や倹約した者を、自動車をレンタルした者と比べて悪い状態におくべきではない」という、被害者間の公平・平等という衡量である。そしてこれは他方で、加害者側を不当に免責しない、すなわち加害者における不当な利得の回避に対応するものであるといえよう(13)。また、ここで保護されてきたのは例えば自動車の「恒常的な処分可能性」から得る利益であった。そしてこの利益喪失による不利益に「商品化」論により財産的損害としての正統性を付与したのは社会生活上の見解であった。まさにこの手続きを経てはじめてこのような不利益はBGHにおいて賠償相当性を獲得せしめられたのである。すでに述べたようにこのような自動車に関する考え方は、その他の、同様に「恒常的処分可能性」を示し、なおかつ被害者が生計維持のために典型的に頼らざるを得ないような利用客体についても転用されている。ここではいわゆる「生活必需品」というような基準が立てられ、そのような客体についても、社会生活上の見解によってそれが決定されるが故に保護対象となっている。
  なお、そもそも利用利益は財産的損害ではなく、本質的には非財産的なものであるが、BGB二五三条との関係から、商品化論によって財産的損害とせざるを得なかったにすぎない、との指摘がある。しかし、このような事実は、裏を返して見れば、現存の制定法枠組による制限を越えても、このような利用利益の剥奪は賠償すべきである、すなわち賠償相当な損害とすべきであるとの判断が裁判上なされ、確立してきたことを示しているのではなかろうか。したがって、ここにおいてもBGB二五三条の存在というドイツ法の特殊性を越えて、保護されてきた法益、およびそれを根拠づけるための法規範を探究することは損害賠償法を考える上で重要な意味を有することが確認されよう。

(1)  対価的に得られた利益は、そのことによって財産的利益となり、そのような利益の侵害は財産的損害となるとの考え方である(K. Larenz, Schuldrecht, Allgemeiner Teil, 12 Aufl. (1979) S. 410)。この理論に対して問題となる損害を財産化することにより、BGB二五三条による非財産的損害への制限という問題を解消しようとしているとの見方が一般的である(例えば G. Holoch, Allgemeines Schuldrecht,”Gutachten und Vorschla¨ge zur U¨berarbeitung des Schuldrecht, Band I (1981) S. 409ff.)。
(2)  利用不能によって@他人にこの車を賃貸する可能性を失ったこと、A代替車や他の輸送手段の利用には通常金銭的費用を要すること、B自動車の保有には通常財産的負担を要するが、それは車をいつでも使用可能にするための支出であることなど(BGHZ 40, 345, 354f.)(判決についての詳細は吉村・前掲「財産的損害」八〇六頁を参照)。しかしこのような経済的評価は、シーマンによれば、利用可能性に対する賠償は実際の消費を越えるのであるから、結局、補助的衡量にすぎないという(Schiemann, a. a. O., S. 44)。
(3)  シーマンは自動車の抽象的利用利益賠償を認めることにより、@被害者におけるあらゆる犠牲の除去、A保険法の保険還付論を参考に、代用車を借りず出費=損害を抑えた被害者へのプレミアム的給付、という法政策的目的の実現を前面に出すべきことを主張している(Schiemann, a. a. O., S. 45)。
(4)  BGHZ 45, 212ff.  本件では、原告の乗用車の一ヶ月に及ぶ修理期間中の利用喪失が問題となった。
(5)  例えば、旅行に行っていたり(BGHZ 40, 345, 353 傍論)、自動車事故によって身体傷害を負ったために入院等により、車の修理期間中も客観的に利用できなかった場合には「利用可能性」はない(BGH NJW 1968, 1778)。但し、親近者などの第三者であってもその車に利用意思および利用可能性があれば請求権は成立する (BGH NJW 1975, 922)。他方、被害者がいわゆるセカンドカーを所有している場合にもこの賠償請求はできない(BGH NJW 1976, 286)。しかしそれが単にある第三者が車を貸してくれたにすぎない場合にはそれが無償であってもこの賠償請求には影響しない(BGH NJW 1976, 286)。また、そもそも被害者が修理を放棄した場合には、利用利益の剥奪という前提が欠けるため、この損害の賠償を請求することはできない(BGHZ 66, 239, Weber VersR, 1983, 405)。本権のない占有者は、その車の所有者に自力救済によってこの車を剥奪されたとしても、利用利益喪失を賠償請求することはできない(BGHZ 73, 362, BGHZ 79, 237)。
(6)  BGH一九八六年七月九日大法廷判決(BGH 98, 212)は、「結局、歩んできた道を進み続けることが、法的安定性や信頼保護という原則からも、最高裁判例による制定法解釈に与えられているように見える(S. 221)」と述べている。
(7)  BGH判決では、住居について(BGH NJW 1967, 1803)、また下級審では、同じく住居(NJW 1967, 1233)、スイミングホール(NJW 1974, 560)、航空機(MDR 83, 575)などの利用利益の賠償が認められた判決がある。
(8)  ミンクのコートやキャンピングカーが利用権者の手に渡らなかったことにより生じた抽象的利用利益について、社会生活上の見解によればそれぞれ「贅沢品」であるとして(ミンクBGHZ 63, 393, 398、キャンピングカーBGHZ 86, 128, 130, 133)、またプールは単なる「趣味、道楽(Liebhaberei)」(BGHZ 76, 179, 184, 187)、モーターボートについても単なる「暇つぶし(Freizeitgestaltung)」の手段にすぎないものとして(BGHZ 89, 60, 62, 64)、いずれも、自立的な経済的価値をもたないとして抽象的利用の損失に基づく賠償請求は否定された。
(9)  BGHは一九七六年五月二一日判決(BGHZ 66, 277)、および一九七八年四月二一日判決(BGHZ 71, 234)において、自動車事故など「ほぼ輪郭の明確な、典型的な大量危険の規定領域」以外での利用利益賠償の承認に対して憂慮を表明した。
(10)  日常的な輸送機関として利用されている場合には、キャンピングカーについても認められている(VersR 1990, 864, NJW-RR 1987, 1515)。
(11)  Palandt-Heinrich BGB Vorbem v § 249 3c.
(12)  例えば、プール(BGHZ 76, 187)、ミンクのコート(BGHZ63, 393)、狩猟権行使の可能性(BGHZ 112, 398)、モーターボート(BGHZ 89, 64)などの請求は否定されている。
(13)  吉村・前掲「財産的損害」八〇八頁。レーベ(Lo¨we)によれば、これにより判例は、利用不能そのものを財産的損害と見ることにより、損害賠償の権利追求(Rechtsforderung)機能を承認したことを指摘している(W. Lo¨we, Gebrauchsmo¨glichkeit einer Sache als selbststa¨ndiger Vermo¨genswert? NJW 1964, 721)。



第五節  無駄になった消費
  第一項  一時的な利用の挫折(一時的利用利益喪失)
  一定の利益享受を期待して行った出費、労働力や時間の投入(=消費)が、ある加害行為によって無に帰した場合、被害者はその無駄になってしまった消費を財産的損害として加害者に賠償を求めることができるであろうか。もちろんたとえこのような消費が、財産の出費を伴うものであっても、これは加害事故以前に、加害行為とは関係なく行われたものであり、差額説によれば賠償の可能性はない。
  この問題は、投資した利益享受の期待が「客体の利用」から生じる場合には、前節の利用喪失損害の問題としても考慮しうるものである。それゆえ以下の事例の被害者はあわせて利用利益喪失についても賠償を求めているが、本項ではそれらの判決が「無駄になった出費」について言及した部分のみを取り上げる。
  まず、前節でも取り上げたBGH一九七〇年一二月一五日(民事第六部)判決(BGHZ 55, 176ff.)は、原告が交通事故により用益していた狩猟権を利用できなくなったという事案であり、本件では原告の請求を、利用できなくなった一年間の狩猟権についての「抽象的利用利益の喪失」と並んで、一年間利用できなくなったがゆえに「無駄になった出費」という二つの観点から検討している。そして無駄になった出費を損害とみるいわゆる「挫折理論」について、BGHは一般論は回避しながらも(S. 151)、本件については以下の理由から賠償を否定している。
〔判決理由〕  挫折理論のように際限のない利用損害賠償可能性の認容を控えることが、以下の理由からも必要である。すなわち身体および健康侵害の範疇においてこれを認める場合、伝統的に承認された賠償義務と並んで、見当もつかない範囲の負担が加害者に生じるであろう(例えば入院期間中の住居の賃貸借費用など)。したがって賠償すべき財産的損害という観点で、妨げられた利用に対してこのような広範な補償責任を加害者に負わせることは、問題となる責任規範の意味内容に合致しない(S. 152)。
  BGHは、とりあえず本件のような身体および健康侵害の場合には、挫折理論によれば責任規範の意味内容を越えて、「賠償義務の際限ない拡張」が生じるとして賠償を否定するとともに、挫折理論に対し消極的な態度をとっている。しかしこの場合の責任規範の内容についてまでは明らかにしていない。また前節の一九七四年判決と同じく免許証の剥奪による自動車の抽象的利用利益喪失の賠償が否定されたBGH一九七五年九月一八日(民事第三部)判決(BGHZ 65, 170ff.)においても、右の判決と同様の理由から、挫折理論に基づく損害の賠償相当性が否定されている。
〔判決理由〕  損害賠償請求は無駄になった消費という観点からも正当化し得ない。当損害賠償法には、損害賠償義務のある事件の結果無駄になった消費は、原則として賠償されねばならないといった内容の法命題はない。無駄になった出費を財産的損害と見る説も、賠償義務の際限ない拡張という危険を防ぐために、そのような消費の賠償相当性を制限している(S. 175)。
  以上のように、不法行為等による結果損害としての「無駄になった出費」は、賠償に値する損害とは認めないのが判例のほぼ一貫した態度である(1)。このような消費の挫折は、身体侵害を伴う場合に慰謝料で勘案される余地が残されているだけである。しかしながら、これらはいずれも「賠償義務の際限のない拡大に対する危険の防止」という法政策的な判断に基づいた結論であり、差額説からの論理必然的な帰結ではない。
  第二項  「休暇」の挫折
A.契約枠組みにおける休暇の挫折
  以上のようにBGHは一般的に無駄になった消費を賠償対象とは見ていない。しかしながら、旅行契約の枠組みにおいて「休暇による満足の利益」が侵害された場合には、例外的に財産的損害として賠償を認めてきた。現在では一九七九年の法改正により立法的解決を見ている。ここではそれに至るBGHの法創造の過程、とりわけ損害と認めるに当たっての理由づけを見てみよう。
BGH一九七四年一〇月一〇日(民事第七部)判決(BGHZ 63, 98ff.(2))
〔事実〕  工場主である原告が、旅行業者である被告との間で二週間のパック旅行契約を締結したが、その旅行内容が事前の契約内容とは異なって粗悪であったため、原告にとって非常に不満足なものにおわった。原告は商品契約における債務不履行に基づく損害賠償(BGB六三五条)に加え、さらにこの不満足な休暇により無駄になった出費の賠償を求めた。
〔判決理由〕  少なくとも本件のように@労働力の維持・再生産に資する保養休暇が問題となり、Aその休暇を(被用者の場合)労働の対価によって得たり、(自営業者の場合)代わりの者を立てるのに一定の消費を要した場合には、財産的価値を認めるという、支配的な見解に従う(S. 101)。被用者の場合も、自営業者の場合も、余暇は、まさにそれを一定の目的に利用するために、「購入」されたものである。したがって、休暇は支配的な社会生活上の見解(Verkehrsauffassung)によれば、独自の財産価値を伴う生活財(Lebensgut)である(S. 102f.)。被用者か自営業者かで区別する意味はなく、どちらの場合にも、同様に、「商品化論」が妥当する(S. 104)。自動車の利用利益判例で展開した法的な考え方を、他の比較し得る事例にも適用することは、それが現在の社会生活上の見解に合致する限り、妨げられない。国民の大半が給与の一環として獲得またはその他の方法で「購入」することにより労働力の維持および再生産に資する保養休暇を得ており\\以上のような前提のもとで獲得された休暇それ自体はすでに財産価値ある財貨と見なす必要がある(S. 105)。
  この判決は、自動車の抽象的利用利益で用いた「商品化論」をここに転用し、社会生活上の見解によれば、休暇は独自の財産価値を有する生活財であるとして、「休暇の満足の挫折」=財産的損害として賠償を認めている。つまり、休暇とは通常、労働力の再生産のために、労働もしくは一定の消費により対価的に得られる財産的利益であると見ているのである。しかしながら、単なる旅行給付の瑕疵までもが休暇の「挫折(Vertan)」となるわけではない。単なる瑕疵は、旅行代金の減額もしくは損害賠償によって事前に約していた給付と実際になされた給付との価値の差を埋めることによって解決され、このような場合に感じる単なる不快感は非財産的損害にすぎないため、そのような不快感は契約責任の原則から賠償する必要はないのである。したがって、休暇の挫折損害の賠償は、旅行給付に重大な瑕疵がある場合、すなわち「休暇によって追求された保養目的が完全に無に帰された場合(S. 106)」に制限されている。
  その後、この判例を踏まえ、一九七九年一〇月一日のBGB改正において、旅行契約に関して、以下の規定が創設された。
BGB六五一f条二項
「旅行が無に帰せしめられたもしくは著しく侵害された場合には、その旅行者は無駄に費やした休暇に基づいても、相当な賠償を金銭によって要求しうる。」
  まさにこの規定が創設されたこと自体が、「旅行契約による休暇の挫折」の本質は非財産的損害であることを意味しているといえよう(3)
  さらに、判例は、いわゆる旅行業者による旅行契約の場合でなくとも、休暇を目的とする内容の契約の場合にも、例えば次の判決において、結果的に無に帰した休暇についての損害賠償を認めている。
BGH一九八〇年五月一二日(第七民事部)判決(BGHZ 77, 124ff.)
〔事実〕  原告は、家族(妻と障害をもつ二〇歳の娘)とともに、およそ二週間半の休暇を保養施設で過ごすべく、被告との間でその賃貸借契約を締結した。しかし、被告がそれを売却してしまい、代わりの施設を用意することもできず、また原告も仕事の都合上、休暇期間を変更することができなかったため、結局原告らはその期間自宅で過ごさねばならず、休暇が台無しになった。
〔判決理由〕  本件の利益状況はパック旅行の事例と同様であり、保養施設の賃貸契約の締結の場合でもこの法的効果は同じである。原告の主張によれば、車椅子に頼らざるを得ない原告の娘は、持続的な特別な援助および看護が必要である。それゆえに、原審は、被告の契約不履行の結果による原告に対する侵害は、特別に「重大」なものとして、またその結果自宅で過ごした休暇は原告によって「無に帰した」ものと見ており、このことは法的根拠から反論すべきものではない。休暇を家で過ごさねばならなかったことは、本件では原告にとって重大な侵害であり、これは当法廷の判例によれば、無駄になった休暇に基づく損害賠償を惹起する。
  このように保養を目的とした休暇の実現を内容とする債権が問題となる限り、旅行契約の場合でなくとも、重大な侵害がある場合には、六五一f条二項と同様の法理が適用される。判例はこのような賠償正当性の根拠を「利益状態の同質性」に求めているだけである。
B.結果損害としての休暇の挫折
  不法行為等による物損もしくは人損によって結果的に休暇が挫折した場合はどうであろうか。次に、以上のような契約による保護規範が働かない場合について検討を試みたい。
BGH一九五六年五月七日(民事第三部)判決(NJW 1956, 1234(4))
〔事実〕  原告とその妻が、一八日間の豪華客船の旅に出かけたが、税官吏のミスにより原告夫妻のトランクが船に積み込まれなかったため衣類等が使えず、旅行が台無しになったことから、原告夫妻が賠償請求を行った。
〔判決理由〕  ここで問題となるのは非財産的損害ではなく、むしろ財産的損害である。原告とその妻が一八〇〇マルクで「購入」した保養は、トランクが手渡らなかったことによって、普段のようにかつ相応に下着や服を替えることができなかったのであり、格別にかつ不快に侵害されている。この船旅によって原告が求め、また通常得られる満足について、問題となるのは、純粋に非財産的な、理念的な価値ではない。むしろこの「満足」は通常相応の財産の出費によってのみ「購入」できるものであり、本件でも実際これは購入されたものであり、つまり一定の範囲で商品化されている。それゆえ、この満足の侵害は、行われた財産消費によって求められた(財産価値ある)等価物の侵害である。したがって原告に一〇〇マルク、その妻に二〇〇マルクの損害を認めることに対する異議は認められない。
  本件は不法行為による債権侵害の事例である。「休暇」は購入されたものであるとして財産的観点から損害を認めている点では、契約責任における休暇の剥奪による賠償損害の事例と同じである。しかしこの財産的損害の内容は同じでないことが、その算定論より明らかである。すなわち先の一九七四年判決では、「再度休暇を取得する場合に生じる減収額」が損害算定の基礎となっているのに対して、本件では名目的に旅行費用である一八〇〇マルクを基礎として算定しつつも、最終的には原審の「衣類等を使えなかったことによって、この旅行の第一の目的である保養が侵害されたのであり、たしかに妻の方が原告に比して一層の侵害を被っているように思われる」との判断に基づき、夫につき一〇〇マルク、妻につき二〇〇マルクと損害額を評価している。したがって、一九七四年判決では「休暇そのものの商品化」という観点が前面に出ているのに対し、本件では税吏の過誤により旅行代金相応分の債権が実現しなかったことに重点があり、「休暇」そのものが賠償と考えられているのではない。また本件では、夫と妻の賠償額が差別化されており、不法行為による債権の満足侵害に対する慰謝料的な側面があるようにも思われ、いずれにしても本件は、他の判決と同一に論ずることはできないように思われる。
  不法行為により休暇そのものの挫折が問題となった事例として次のような判決がある。
BGH一九七三年二月二二日(民事第三部)判決(BGHZ 60, 214ff.(5))
〔事実〕  原告は被告市の道路の不整備により乗用車を毀損したため、当初、その車とキャンピングカーの二台で家族で外国でキャンプする予定であった(申し込みはまだであった)のが、結局、キャンピングカーだけで週末に何度か家の近くでキャンプをするだけとなった。しかしこのキャンプが妻や子どもを家に帰さねばならないほどひどい天候の時もあり、また仕事の都合上休暇を変更することもできなかったことなどから、原告は休暇の喜びの剥奪についても賠償を請求した。
〔判決理由〕  本件のように、物的結果損害としての、「休暇の喜びの剥奪」が問題となる場合に、財産的損害が認められるのは、@被害者が一定の休暇に対して出費しており、この自動車の侵害故に無駄になった場合、またはA自動車事故の結果強いられた(仕事の都合等で変更できなかった)休暇の価値が、被害者が計画していたものや支払ったものよりも低くなった場合だけである(S. 216)。
  本件では原告は、当初の予定地とは変わったが、キャンプをしたのであり、重大に侵害されたとはいえない。また天候も、たいていは良好であり、当初予定していた場所の天候の善し悪しについてもわからない。いずれにしても原告には財産的損害が生じていない。
  本判決では、原告の「休暇」に財産的価値があるか、すなわち前提として何らかの消費があったか否か(それが減じられたかまったく無駄になったか)という点に重点がおかれている。このことは、制定法上規定のない非財産的損害の金銭賠償は認められる余地がない(BGB二五三条)というドイツ損害賠償法特有の問題に起因する。つまり本件で問題となったのは当初原告が主観的にのみ予定していた場所の変更に基づく休暇への不満足であり、これは非財産的な不利益にすぎない。そもそも「休暇の喜び」それ自体は、非財産的な性質のものであることは、六五一f条二項からも理解できるであろうし、また交通事故により保養休暇に出かけられなかった医師の休暇の挫折損害が争われたBGH一九八三年一月一一日(民事第六部)判決(BGHZ 86, 212ff.)では、「被害者が身体侵害によって計画した休暇の享受を妨げられた場合には、休暇の喜びの『商品化』に基づく財産的損害の賠償ではなく、慰謝料の算定において考慮され得るだけである」ことを明言している。したがって、「休暇」は旅行契約等、具体的な対価によって獲得されない限り、その挫折は非財産的損害となるにすぎない(6)。それゆえ不法行為による物的侵害の結果として休暇が挫折するにすぎない場合には、現行BGBの枠組みにおいては賠償される余地がないのである。
  いずれにしても、裁判官が社会的見地から、法創造によって一定の「休暇の喜びを享受する」という非財産的な人格的利益を積極的に損害賠償法において保護の対象としてきたことは注目に値しよう。
  第三項  余暇の挫折
  被害者が本来自由に使える時間を加害者によって無に帰せしめられた場合、そのような時間・余暇の損失をも損害として加害者に賠償請求できるのであろうか。このような余暇の損失は財産的損害とはならないとするのが一般的な判例の態度である。例えば、@被害者が自動車事故にあい、その事後処理のために、病院や修理工場、弁護士などにたびたび出向かねばならず、自由時間を費やさねばならなかった事例(7)、A口頭での土地の売買契約に基づき、買主がその土地に建物を建てるために、余暇を割いて建築案を練っていたが、売り主がこの契約を反故にしたために、結局この契約が破棄され、その労力と時間が無駄に終わった事例(8)、B共働きの夫婦が子どもが退院した後も、その外来診療およびリハビリの付添いに要した著しい時間の消費につき賠償を求めた事例(9)などである。
  @やAのケースにおいては、それぞれ無駄にした時間を当該事情がなければ、他で働き、それによって収入を得たであろうことを証明しない限り賠償は認められないとされている。つまり、単なる自由時間に財産的価値は認められていない。さらに@については、このような事故処理のために、被害者が特別に代理人を立てた場合であっても加害者はそのような費用に対して賠償義務は負わないとされている(10)。他方、Bのケースでは、このような子どもの身体侵害や健康侵害によって増した子供への愛情に基づく行為は、たとえそれが膨大な時間を要したとしても、それ自体賠償に相当な損害ではないという、特殊な判断に基づき賠償を否定している。
  したがって、余暇(自由時間)そのものは一般的には財産的価値は認められていないといえる。しかしながら、被害者がBGB二五四条に基づく損害軽減義務を越える格別の努力によって、不利益な結果の発生を回避した(それによって加害者が利益を得た)場合には、例外的に、被害者の当該措置がなければ存在したであろう利益状態をもって判断されることがある(11)。なお、このケースや右Bのケースでは、賠償相当性を認めるに当たって、法的な評価が前面に出されていることは注目に値しよう。

(1)  このような「無駄になった費用」論の帰結が、契約関係においても妥当するか、ということについては、次項において検討する旅行契約とのかねあいもあり争いがあった。BGHは、当初、契約不履行の場合には、債権者には当該給付と債権者が当該契約を考慮して行った消費を最少損害として賠償請求しうるとの立場をとっていたが、結局、一九七八年四月二一日(民事第五部)判決(BGHZ 71, 234ff.)において、このような挫折損害が契約枠組みの中で生じた場合にも、不法行為における結果損害の場合と同様に否定した。本件では家の建築請負契約が締結されたが、建築された家に瑕疵があったため引渡しが遅延した。これにより原告が遅延による当該家屋の「利用利益」とともに「無駄になった費用」についても賠償請求をしたが、どちらの請求も否定された事例である。その後この判例が踏襲されている(例えばBGH一九八六年一二月一〇日(民事第八部)判決(BGHZ 99, 182ff.)。政治団体と市の地域法人との間で締結された市営ホールの一日賃貸借契約について)。
(2)  本件の事実関係については、山本・前掲二六九頁も参照されたい。
(3)  このような規定の性格が明らかとなる判決として例えばBGH一九八二年一〇月二一日(民事第七部)判決(BGHZ 85, 168ff.)がある。事案は、被告の主催したパック旅行が事前に予定されたものと全く異なり当初約三週間の予定であった旅行を一週間で切り上げざるを得なかったというものであり、本件では学生についても無駄になった休暇に基づく賠償を原則的に要求しうることを確認している。
(4)  本判決について、吉村・前掲「財産的損害」八一四頁、山本・前掲二七〇頁にも紹介がなされているので、参照されたい。
(5)  下級審判決であるが、フライブルク(Freiburg)地裁(NJW 1972, 1719)、コンスタンツ(Konstanz)地裁(VersR 1972, 182)などでも、同様に「休暇の挫折」損害を否定した事例がある。
(6)  判例も、休暇の喜びに対する侵害が、契約の給付客体に対して直接的・間接的に向けられた場合には、まさにそのような利益は、契約上の合意によって商品化しているのであり、それゆえに財産的損害となるにすぎないことを指摘している(BGHZ 60, 214, 216.)。
(7)  例えばBGH一九七六年三月九日(民事第六部)判決(BGHZ 66, 112)。
(8)  BGH一九七七年四月二九日(民事第五部)判決(BGHZ 69, 34, 36)。
(9)  BGH一九八八年一一月二二日(民事第六部)判決(BGHZ 106, 28, 32)。本件については、本章六節二項参照。
(10)  BGHZ 66, 112, BGH一九七九年一一月二二日(民事第六部)判決(BGHZ 75, 231)。
(11)  BGH一九七一年二月一六日(民事第六部)判決(BGHZ 55, 329)。



第六節  人身侵害における損害
  第一項  労働能力の喪失
  判例は労働能力の喪失そのものは、財産的損害とは見ていない(1)。これは具体的な給与等に裏打ちされない抽象的労働能力の低下が認められる場合にも同様である(2)。例えば高裁判決ではあるが、身体侵害により教会の修道会士が無償の奉仕活動を行えなかったというケースにおいて、労働能力喪失に基づく損害賠償請求が否定されている(3)。しかし次の場合に、いわゆる「規範的損害」論との関係が問題となる。
A.主婦の労働能力の喪失
  一九五八年に男女同権法が施行される以前、妻は夫に対して家事労働の義務を負い(BGB旧一三五六条)、妻の家事労働が侵害された場合には、夫に家事に関する労務給付の権利者として損害賠償請求権が与えられていた(BGB八四五条)。しかしこのような夫の請求権を構成する労務給付損失は、通常、実際的な財産減少を伴うものではなかった。BGHは戦後間もなく、この損害の性質について、妻が交通事故死したことにより夫が妻の労務給付の価値を定期金によって賠償を求めたケースにおいて、BGBの一般的な構成とBGB八四五条の目的から以下のように確認している。
BGH一九五一年一二月三日(民事第三部)判決(BGHZ 4, 123ff.)
〔判決理由〕  BGB八四五条は、労務受給権者が対価的に(家政婦などの)代わりの補助労働力を得ているかということは問題とせず、少なくともその限りにおいて、この規定は損害の発生とは無関係に存在することを示唆するものである。それゆえライヒ裁判所は、八四五条に基づく請求はこの労務を労務受給権者たる夫自身が行う場合にも存在する、との帰結に当然に従ってきた(S. 130)。
  死者の失われた労務給付に対する賠償として、一般的に、少なくとも相応の補助労働力の労務提供を必要とする需要がなければならない。この金額が労務価値を賠償するに足りるか否かは、個別事例の状況による。ここにおいては、近親者の労務が通常、他の補助労働力による労務と比べてより意義のあることを考慮すべきである。
  しかしながら、その後、ボン基本法三条二項に定められた男女同権原則の実現のため、一九五七年に男女同権法が制定(翌年施行)されたことに基づき、家族法上の妻の家事労働も、夫と同じく家族扶養に寄与するものとされた。このような変化に従い、BGHは、妻の負傷による労働力喪失損害を、BGB八四五条による夫の損害としてではなく、BGB八四二、八四三条により妻本人の損害として独自の賠償請求権を認めるようになった(4)。特に注目すべきは、BGB八四五条の効力を明白に否定した上で、妻の賠償請求を認容した次の大法廷決定の決定理由である。
BGH一九六八年七月九日大法廷決定(BGHZ 50, 304ff.(5))
〔決定理由〕  旧BGB一三五六条に基づくBGB八四五条においては、損害とは、労働力の喪失そのものと見なされていた。すなわち例えば家政婦を雇うために財産的な消費をなしたか否かは問題とならない。したがって、損害概念は当時すでに規範的に捉えられていたのである。
  遅くとも男女同権法の施行により、BGB八四五条はその根拠を失っている。現在では、妻は家事労働を、扶養給付として家族全体にもたらすという観点から、夫の生業活動と並ぶ同等の権限をもつものである。このような妻の賠償請求権の主体関連性は、まさに近時の判例において展開してきた規範的損害概念によって正当化されている。内容的には、本件の妻の請求についても規範的損害概念が妥当するのであり、このような損害概念は、かつての夫の請求(BGB八四五条)においても承認されていたものである。したがって、夫にではなく、妻に、その家事遂行の妨害に基づき損害賠償請求権があり、またこの請求においては、彼女が、代替力(例えば家政婦)の報酬に対して実際に出費したかどうかということは関係なく、損害の算定については、その種の考え得る経費が根拠となる。
  この大法廷決定によりBGHは、BGB八四五条の効力の否定によって生じる弊害を「規範的損害概念」という枠組みを使って回避し、八四五条において認めてきた価値賠償という態度をその後も継続することを実現したといえる。しかしながら、この規範的損害は、実際の出費がなくとも認めるという意味にすぎず、まさに続くBGH一九七〇年五月五日(民事第六部)判決(BGHZ 54, 45ff.)では、結局、先の大法廷決定は「事実上の労働給付」の損失に対してのみ賠償を認めようとしているにすぎないとの解釈がなされ(6)、修正されている。つまり、BGHはこの規範的損害論によって労働能力の喪失そのものを抽象的に財産的損害と認めたわけではなく、それゆえこのように規範的損害論を展開する場合の制限基準として、すなわち差額説の要素である損害の主体関連性要因として、被害者の労働の意思と客観的な労働可能性があることを前提として要求しているのである。
B.賃金の継続的支払い
  以下の事例は、いずれも、事故にあった被害者が、一定期間就労できなかったにもかかわらず、その間も使用者から継続して賃金や給与などの労働報酬を得ていた事例である。差額説によれば、逸失利益と第三者によって継続的に支払われた金銭が損益相殺され、被害者には財産的損害は生じていないことになる。しかしながら、いずれの場合も、そのような被害者から一定の財産を拠出した第三者へ被害者に生じた逸失利益の賠償請求権の移転を認めている(7)。まずBGH一九五二年六月二五日(民事第三部)判決(BGHZ 7, 30ff.)においては、BGB六一六条二項の成立史、意義および目的から、本規定は社会保険との特別な関係に基づく衡量のもと成立した規定であること(S. 47)を前提に以下のように述べている。すなわち社会保険法上の目的規定から見て、不法行為の場合にも、加害者を免責し、かつ被用者および使用者に最終的に損害を負担させることは、この規定の意味および目的と合致し得るものではない。BGB六一六条二項は、ライヒ保険法(Reichverschicherungsorderung: RVO)一八九条との関係から、健康保険組合(被害者に継続的に賃金を支払った本件原告)を免責するが、不法行為においては、損害惹起者に有利に働くことはない(S. 47f.)。
  続く、BGH一九五六年六月二二日(民事第六部)判決(BGHZ 21, 112ff.)においても、判決はまず使用者の労働者への継続支払い規定の意義から出発している。さらに立法史より、この規定は「社会政策上の観点および人道主義に基づく」ものであり、それゆえに就労義務者および通常社会的弱者を、責任のない短期的な就労妨害による彼の生活関係への不利益な影響から保護するものであると説く。「つまり、就労義務者および彼の家族には、みな賃金や給与によって一定の生活水準の保障が維持されねばならない。このような使用者の継続的な給与の支払いは、\\使用者の扶助義務によって正当化される(S. 114)。決定的なのは、第三者もしくはある共同体がその侵害によって被害者が不利益とならないように扶助(Sorge)を負担することに基づいて、有責な身体侵害により他人の労働能力を侵害した加害者が損害賠償義務から免責されるべきではない、という衡量である(S. 116)」。
  以上から明らかなように、ここにおいて働いているのは「加害者を不当に免責すべきでない」という法思想である。一九五二年判決によれば、BGB六一六条二項の成立史、意義および目的から社会保障的性格が重視され、後の一九五六年判決では、これに加えて損害賠償の一般規定であるBGB八四三条四項における一般的な法思想をも援用(8)し賠償を正当化している(9)。すなわち、この給付が結果的に損害事故を有責に惹起した者に有利となるならば、この給付の社会政策上の意義に反するという衡量と、加害者を免責すべきでないとの一般的な損害賠償法上の思想から賠償が正当化されているのである。したがってこのケースにおいて判例のいう「規範的損害概念」における「規範」とは、まさに、このような「加害者を不当に免責すべきではない」との法思想に基づくものである(10)
  さらに近時、失業者につき以下のような判例が出された。
BGH一九八四年三月二〇日(民事第六部)判決(BGHZ 90, 335ff.)
〔事案〕  健康保険組合(原告)が、事故によって身体侵害の被害を受けた失業者に対して、失業手当に代わり失業保険を支払ったことに基づき、原告が加害者の責任保険会社(被告)に対して、RVO一五四二条の規定にしたがって、当該経費の五五%の補償を請求。
  〔判決理由〕  交通事故の結果、失業者である被害者は労働無能力となり、それによって失業手当請求権を失ったことに、被害者が賠償すべき財産的損害が存在する。むろん従来の判例によれば、労働力そのものには財産的価値はない。したがって、労働力の喪失だけでは「規範的な」考慮においても責任法上の意味における損害ではない。それ故、自己の財産もしくは年金によってのみ生活する者、すなわち労働の意思がない者、もしくは失業保険金もしくは失業手当を請求し得ない失業者には、彼の労働能力の損失によるだけでは賠償義務を伴う損害は生じない。しかしながらこの賠償義務は、被害者の労働力の侵害によってその財産に具体的損害が生じた場合には存在する(S. 336)。
  失業保険金もしくは失業手当を得ている失業者には、この種の財産的損害が生じる。それは、法律がそのような失業者をその者の労働能力および労働給付への準備ゆえに、広く労働市場に関与していると見なしているからであり、かつこのような失業者が事故によって労働無能力となったことにより、その生存保障(Exsistenzsicherung)に基づく地位およびこれに関係する社会的な給付請求権を失った、という理由に基づいている(S. 377)。
  このような失業者は労働能力があり(arbeitfa¨hig)、またいつでも就職の斡旋が可能であり、それゆえに労働市場の中に存在しているといえる。失業保険金および失業手当は労働賃金に代わるものであり、この意味においてこれは「賃金代替機能」を有する。したがって、このような失業保険は、広義の稼得損害(Erwerbsschaden)と見なすべきである(S. 377f.)。
  このように失業者であっても、労働市場への労働力投入の「意思」と「可能性」がある場合には、その労働力の喪失は規範的に財産的損害と見なされる(この点は主婦の労働力喪失の問題と同様である)。とりわけ加害によって労働力投入の客観的な可能性が失われた場合には、まさにそれにより失業手当請求権を失い、この限りで明らかな財産減少を生じる。それゆえ、失業手当等はまさに賃金代替機能をもつ。したがってこのような前提に立つならば、結局、このような失業手当を得る失業者の場合には、上記の一般の賃金継続支払いの事例と同様の帰結となる。
  第二項  その他の財産的損害
  不法行為によって負傷した場合に要する治療費などの積極的財産損害は、明文規定はないが、被害者は直接BGB二四九条に基づき請求できるとされる(11)。また加害事故によって被害者に増大した需要も賠償され、これは定期金による賠償も可能である(八四三条一項)。八四三条の損害は、「需要」で十分であるが、原則的に事実上必要であることが要件とされており(12)、単なる需要の可能性では不十分である(13)。身体侵害の場合にも、原則は「原状回復」であり「補償」であるが、以下の事例においては、まず回復すべき「原状」とは何か、また何を補償すべきであるのか、ということが問題となっており、いずれも差額説によって損害が確定されているわけではないにもかかわらず賠償が認められている。以下、BGHが人身侵害の領域において「原状回復に必要な金額(二四九条二文)」をいかなる規範によって判断しているのかということを見てみよう。
  T.通常、この「必要性」は社会通念や経験則によって決定される。例えば、BGH一九五七年一〇月二二日(民事第六部)判決(VersR 1957, 790f.)では、重傷を負った子供の健康回復における両親の看護の必要性が問題となったが、まず八四三条四項の規定の加害者を免責させるべきではないとの一般的な法思想に言及した上で、「入院に両親の付添いが必要なことは経験則(Lebenserfahrung)に合致する。これゆえに、入院中の子どもには両親の訪問を計算に入れるべきである。なぜならこのように訪問することが、子どもを元気づけ、健康の回復に有益であるからである」として、付添看護費用も治療費に含まれるとしている(14)
  U.保険によりカバーされない高額な看護費用についても、BGH一九六三年一二月一六日(第三民事部)判決(VersR 1964, 257f.)では、この費用を認めるにつき相当因果関係や被害者の損害低減義務に照らして問題はないとした上で、「本件のあらゆる事情を公正かつ理性的な衡量のもと考えれば、原告の二等クラスへの入院およびそれによって生じた差額費用は、原告の健康の回復に適切かつ必要」であり、より低い等級で保険をかけていたからといってそれに拘束される義務(損害低減義務)はなく、このことを「経験則」によって正当化し賠償を認めている。
  V.さらにBGH一九六九年九月二三日(民事第六部)判決(VersR 1969, 1040ff.)では、ドイツに住むアメリカ国籍をもつ原告らが、ドイツ国内で交通事故に巻き込まれ、とくに娘が手に重度の火傷を負ったためアメリカで整形手術を受けたのであるが、このような治療費用が認められるかが問題となった(15)。本件でも「加害者は事故によって生じた治療費を、二五四条二項に基づき、妥当である限り賠償しなければならず」、「合理的人間という立場をもって当該事実状態において目的的かつ相応に思われる全ての消費を賠償しなければならない」ことを前提においている。しかし他方このような治療費は高額であり、加害者に酷となる。しかし本判決では、メルテンス(Mertens)の理論(16)に依拠しつつ、「被告の重大な過失が、このような補償すべき特に重大な損害を惹起したということを考慮すべきである」と明言しており、治療費のような財産的損害の認容において「加害者の重大な過失」が考慮されていることが注目される。
  W.BGH一九七四年一二月三日(民事第六部)判決(BGHZ 63, 295ff.)は、被害者である男性が事故によって顔の右耳の前に斜めに残った約二・五センチの事故傷痕の整形手術による除去費用を求めた事例である(慰謝料はすでに別に認容)。判決は「一定の身体侵害があれば、通常、当法秩序は身体的完全性を含む人格に重要な意義を付与しているのであるから、加害者は被害者に侵害の除去(の可能性)を断念することを期待すべきではない」と前置きしつつも、以下の理由から本件については被害者の賠償を否定している。すなわち、とりわけ被害者の完全な人格の尊厳においても重大でない侵害が問題となる場合には、被害者の回復要求が均衡を逸した消費ゆえに信義にもとるかどうかという利益衡量が必要であるという。被害者は損害事故を無制限に経済的に利用することは許されない。基本法二条二項は、被害者が信義則に反することにより、内的な法的正当性を欠いた賠償請求の追求においてまで被害者を支持するものではない。ここでは、とりわけ被害者に対する回復を断念する程度と意義、責任を根拠づける侵害に対する賠償義務者の答責性の程度、並びに両当事者の経済的関係および一般的な生活習慣や一般的な見解が重要である(S. 300f.)。
  Wのケースでは、BGHは被害者の請求の「必要性」が信義則によればアンバランスなものであるとして否定した。すなわちBGHは、「身体的完全性」を含む人格の保護価値の尊重を大前提としつつも、被害者の完全な人格の尊厳においても重大ではない身体侵害(本件では顔の事故傷痕)の場合には、利益衡量をなす余地があるとして、被害者の請求を信義則によって比較衡量しているのである。このケースを含めて、一連のBGH判決が示しているのは、次のような考え方である。すなわち人身侵害における損害を考える場合、まず出発点は、「身体的完全性」を含む「人格保護価値の尊重」という理念である。それゆえにこれを体現する「原状」すなわち「健康」を復元するに、通常(=経験則、社会通念、理性的判断)「必要な」金額が、その意味で客観的基準にしたがって個別具体的に賠償されることとなる。ここで考慮される原告の個別的事情とは、@原状回復の意義と程度、医療的必要性、被害程度、A経済的立場、B社会関係、生活習慣などであるが、注目すべきは、これに加えて加害者側の事情もが勘案されていることである。すなわち加害者の@答責性の程度・態度、A経済的・社会的関係などが考慮されているのである。

(1)  例えば、BGH一九七〇年五月五日判決(BGHZ54, 45, 50)など。
(2)  BGH一九六二年九月二五日判決(BGHZ 38, 58)。
(3)  ツェレ(Celle)高裁一九八七年一二月三日判決(NJW 1988, 2618)。
(4)  一九六二年九月二五日(民事第六部)判決(BGHZ 38, 55ff.)。本判決は、男女同権法の施行により妻の家族扶養への寄与としての家事労働の経済的価値を評価している。しかし、抽象的な労働能力の減少が損害なのではなく、あくまでこれは具体的損害であることを強調している。したがってこの損害の算定基準は家政婦を雇う費用であるとする。
(5)  吉村良一「ドイツ法における人身損害の賠償」(立命館法学一五九・一六〇合併号)五九八頁以下において、本大法廷決定を含め、主婦の負傷による損害に関する一連のBGH判決が詳しく紹介されているので参照されたい。
(6)  BGHZ 54, 51.
(7)  一九五二年、一九五六年、一九六三年の継続的賃金支払いに関する判決理由の詳細は、吉村・前掲「人身損害」六〇八頁以下の紹介も合わせて参照されたい。
(8)  BGHZ 21, 112, 117.
(9)  これによって、その後、BGB六一六条二項が問題とならない合資会社の無限責任社員の請求についても、被用者との契約により継続して賃金支払いを受けた場合には同様に損害賠償請求が認められる、とされている(BGH一九六三年二月五日判決、NJW 1963, 1051)。
(10)  吉村教授は、「この『規範的損害概念』とは、何らかの給付によって被害者の不利益が填補されていたとしても、そのことによって加害者が免責されるのは不当だとの判断が成り立ちうる場合、その給付を考慮すべきではないという内容を持つものなのである」と指摘する(吉村・前掲「人身損害」六一〇頁)。
(11)  Lange, a. a. O., S. 307.
(12)  Lange, a. a. O., S. 310f.
(13)  しかし、第二節で検討したようにBGH一九五七年判決では、被害者は現実には薬を購入することなく、つまり具体的な消費に裏付けられた需要がなく賠償が認められていた点が注目される。
(14)  さらに本件では、訪問によって生じた父親の稼得損害をも認めている。しかしながら、訪問に要した「時間」そのものの喪失は損害とはならないことが判示されている(本章・第五節・第三項参照)。
(15)  別に慰謝料について、精神的影響、著しい痛み、かつ結婚のチャンスと職業上の将来的見込みへの侵害並びに加害者の重大な過失等を鑑みて、一五〇〇〇マルクが認められている。
(16)  H. Mertens, Der Begriff des Vermo¨gensschadens im bu¨rgerlichen Recht, S. 186, 189.



第七節  望まれない子に対する扶養損害
  例えば、ある薬剤師が避妊薬の調合を誤ったため、あるいは(妻または夫への)不妊手術の過誤により、もしくはその際まれに残る妊娠の可能性について一定の警告を怠ったため、さらには中絶手術の失敗により、望まずして子を懐胎した場合。また遺伝的疾患をもつ子どもの出生を回避するため出生前診断を受けたにもかかわらず医師の診断ミスなどによって、その夫婦にとって「望まれない(健常児でない)」子どもの出生に至った場合。これらの場合に、適正な出産回避(もしくは障害児の出産回避)措置を施さなかった者に対して、当事者である夫婦がこの望まずして得た子どもに要する扶養費用を財産的損害として請求することが認められるか否かということが問題となる。ここでは、これまでに述べてきたケースとは異なり、いわゆる損害賠償の補償原則に則るならば、損害賠償を認めることそのものには何の問題も生じない。むしろこれまでのケースとは逆に、果たしてこのような不利益を法的に「損害」として認めるべきか否かという損害論に本質的な議論がここで生じているのであり、それゆえ本稿の検討に際してこの問題を扱う意義は大きい。
  英米法圏では、早くからこのような問題が議論され(1)、ドイツにおいても一九六八年にすでにこのような問題が裁判で扱われ、これをきっかけにその是非をめぐって議論が巻き起こった(2)。BGHが態度決定したのは、以下の一九八〇年三月一八日の二つの判決(BGHZ 76, 249ff. および BGHZ 76, 259ff.)においてである。一つ目の事案では、すでに二人の子どもをもつ低所得層夫婦の妻が不妊手術を受けたが、この手術に過誤があり双子が生まれた。この妻は神経科治療のため度々の入院看護が必要であったため、この双子を施設に入れる必要が生じたというものである。二つ目の事案は、すでに六人の子どもをもつ夫婦が不妊手術を受けたが、結局その手術が失敗に終わったため七人目の出産に至ったというものである。いずれも、BGHは、否定および肯定の学説等を詳細に検討した後に、手術の過誤による計画外子の出生による扶養負担に対して損害賠償を認めている。判決理由の詳細は例えば第一の判決においては以下のように示されている。
〔判決理由〕  「価値実現」としての子どもは損害とはなり得ず、そのような判決は「キリスト教的・人道主義的文化観念」に矛盾する、との原審の立場はここでは問題ではない。なぜならここで問題となるのは、計画に反した子どもの出産によって惹起された両親の扶養負担であるからである(S. 253)。子の出生原因である治療契約の不適切な履行が、この子に対する扶養の需要をも法的損害として帰属させ得ることになるのは、当該不履行によって事実上家族計画が妨害される場合だけであるが、これはつまり当該妊娠が、不妊手術の成功に対する勘違いから予想外のものであったというだけでなく、それ故にこの妊娠が両親に望まれたものではないという場合である(S. 256)。
  その後も、本件のような不妊手術の失敗の場合(3)の他に、遺伝的障害に関する出生前診断における診断の過誤により重度障害をもつ子どもをもつに至った事例(4)、合法的になされた中絶手術の失敗により子どもをもうけた事例(5)などでも、望まれずして生まれた子どもに対する両親の扶養負担が損害として認められている。しかしながらこれらの判例を通じて、当該夫婦がかなり困窮した状況にない場合(6)、夫婦の家族計画が事後的に修正され、その子どもの出生が望ましいものとなった場合(7)、また妻が再手術を拒否する場合(8)には損害賠償は考慮されない、とされている。このことは「望まれない子どもの出生による扶養負担」がただちに財産的損害となるのではないことを示している。しかしそれゆえに、この問題は複雑な様相を呈しており、法政策的な判断や法的な評価にその多くを依存しているといえよう。
  このような問題状況を背景に、連邦憲法裁判所(以下、BVerG)一九九三年五月二八日のいわゆる第二次妊娠中絶判決(9)において、傍論ではあるが、望まれない子どもの出生に関する民事上の損害賠償について、BGHの判例に以下のように疑問が呈された。
  契約の不適切な履行や女性の身体的完全性への不法行為侵害に対する民事上のサンクションは原則的に必要である。しかし、子どもの存在を法的に損害と見なすことは違憲である(基本法一条一項)。子どもに対する扶養義務を損害となすことを禁じるべきであり、この点において医療上の診療過誤もしくは中絶手術の失敗に対する責任に関する民事判例は再検討を要する(S. 1751, 1764)。
  しかしながら、BGHは、このような「望まれない子どもによる扶養負担」に対する損害賠償について、これを認める従来の判例態度を踏襲することを、続くBGH一九九三年一一月一六日(民事第六部)判決(BGHZ 124, 128ff.)において確認している。事案は、医者の出生前の遺伝学的判断のミスにより、障害を持つ子どもを持つに至ったものである。先の違憲判決を踏まえ以下の理由によって扶養による財産的損害を認めている。
〔判決理由〕  扶養需要の法的判断に関わる出発点は、適法な契約における医者の契約責任である(S. 138)。契約が法秩序によって許された目的、つまり(ここでは遺伝的疾患のある)子どもの出生を回避すべきであるという目的に従うものであるならば、医師は彼が受諾した義務の履行によってこの契約目的の達成に対して責任法上の責任についても負うべきである。当法廷は、医師がその都度の治療もしくは診療契約によってそのような負担からの保護をもともに引き受けた場合には、医師の責任は経済的な結果にも及ぶとする立場を維持する。このことは家族計画に基づく不妊手術の場合にも肯定する(S. 138)。
  この損害は、計画に反する子どもの出生によって惹起された扶養需要において存在する。子どもの存在やその争い得ない人格としての価値と、両親に生じた扶養負担とを区別することは、「子どもの人的な総体の解体」や分解を意味するのではなく、損害法上の考察方法において矛盾のないことを明らかにするものである。まさに扶養に対する金銭的需要による両親の負担は、損害を是認する財産減少である(S. 140)。当法廷は、経済的負担は子どもの誕生によって初めて惹起されたということを誤解せず認めている。しかしその限りで、単に自然科学的な因果関係が問題となるだけであり、それ自体に価値はない。むしろ、子どもの誕生によって示される複合的な生活事実関係の経済的側面だけに損害法上の考察を制限することは、損害の探知に必要な財産状態の比較において、単に、扶養負担のある場合とない場合の扶養義務の経済的状況を査定すべきであるとの結論に至る(S. 141)。このような負担は契約目的からまた損害賠償の補償目的から財産的損害と見なすべきである(S. 143)。
  診療契約の保護目的は当事者意思に応じて重度障害を持つ子どもに対する財産的需要による負担、すなわち両親がこの子どもや自らその扶助によって節約しようとする負担にも及ぶものである。当法廷の見解によれば、障害をもつ子どもの存在やここから個別に生じた需要において、「通常」の子どもという基準をおくことは、基本法一条一項の意味における子どもたる人間の尊重とは相いれないであろう。それゆえにこのような事例においても包括的な扶養需要から両親を解放することは、全く子どもの尊厳への誤解と結びつくものではなく、むしろ損害賠償法上で保護、保障していくものである(S. 146)。
  以上のように、BGHは、契約の責任規範および損害賠償の補償目的から、このような扶養損害も損害賠償法上、財産的損害として位置づけるべきことを強調している。すなわち、子どもそのものは損害ではないことを強く打ち出すことによって憲法裁判所による違憲との批判をかわし、従来の判決を踏襲したのである。しかしながら、「両親の人格権侵害による非財産的損害に対する公平な金銭賠償請求」については次のような理由から否定している。すなわち、「子どもの存在を彼の両親に対する非財産的不利益として正統性を与えることは、医者によるその(部分的)負担に対する両親の経済的負担の確認よりも、より直接的かつより重大に、子どもの人格に影響を及ぼすからである」。
  結局、このようなBGHの態度は、民事上の損害賠償責任において、憲法的な価値を尊重しつつも、最終的には民事損害賠償法の体系内的な解決をめざすべきことを示唆しているようにも思われる。そして、この場合においても判断の基準となるのは、損害賠償の目的や機能であり、責任規範であることが本判決を通してさらに確認されたといえよう。

(1)  丸山英二「アメリカ法」一四九頁以下。服部篤美「望まない妊娠・健常児出産事件にみる損害賠償請求の可否とその範囲」宇都木伸・平林勝政編『フォーラム医事法学〔追補版〕』所収(一九九七年)五頁以下、Stoll, a. a. O., S. 268ff. に、欧米各国の判例状況の詳細が紹介されている。
(2)  イッツェホーエ (Itzehoe) 地裁一九六八年一一月二一日判決(VersR 1969, 265)。事案は薬剤師の過失により、処方された避妊薬とは異なる薬を服用していた女性が、この薬の効力を信頼していたために、六番目の子どもを生むに至った。判決は薬剤師の契約違反に基づき、扶養年金による損害賠償を認容した。
(3)  他に、以下のようなBGH民事第六部の一連の判決がある。一九八〇年一二月二日判決(VersR 1981, 278ff.)、一九八一年五月一〇日判決(VersR 1981, 730ff.)、一九八四年六月一九日判決(VersR 1984, 864ff.)、一九九二年六月三〇日判決(VersR 1992, 1229f.)など。
(4)  BGHZ 86, 240ff., BGHZ 89, 95ff.、一九八七年七月七日判決(VersR1988, 155f.)。
(5)  BGHZ 95, 199ff.  一九八四年一一月二七日判決(VersR 1985, 240ff.=NJW 1985, 671)、一九八五年六月二五日判決(VersR 1985, 1068ff.=NJW 1982749=JZ 1986, 137)、一九八六年四月一五日(VersR 1986, 869f.)、一九九二年二月二五日判決(VersR 1992, 829ff.)。
(6)  BGHZ 95, 207.
(7)  BGH NJW 1984, 2626, NJW 1985, 637.
(8)  BGH NJW 1985, 672.
(9)  NJW 1993, 1751ff.  ドイツの妊娠中絶判決については日本においてもすでに多くの紹介がなされている。例えばBVerG一九七五年二月二五日の第一次妊娠中絶(堕胎)判決について、嶋崎健太郎「胎児の生命と妊婦の自己決定−第一次堕胎判決−」ドイツ憲法判例研究会『ドイツの憲法判例』(一九九六年)四九頁以下、など。一九九三年の第二次妊娠中絶判決について、レンツカール・フリードリッヒ「ドイツ連邦憲法裁判所の第二次妊娠中絶判決について」ジュリスト一〇三四号(一九九三年)六八頁以下、小山剛「刑法の堕胎罪規定を改正した妊婦及び家族扶助法の合憲性(第二次堕胎罪判決)」自治研究七〇巻四号(一九九四年)などである。