立命館法学 一九九七年二号(二五二号)四三〇頁(一六六頁)




フランクフルト大学犯罪科学研究所編
   『刑法の驚くべき状態について』の紹介 (二)

Vom unmo¨glichen Zustand des Strafrechts / Institut fu¨r Kriminal-
wissenschaften Frankfurt a. M. (Hrsg). -Frankfurt am Main ; Bern ;
Ner York ; Paris ; Wien ; Peter Lang, 1995



刑  法  読  書  会
生 田 勝 義 編
本 田 稔  







 ヴァルター・カーグル
  法の保護を通じての法益保護
― 法益、損害 (Schaden)、そして刑罰の限定的連関について ―
Walter Kargl, Rechtsgu¨terschutz durch Rechtsschutz, in : Institut fu¨r Kriminalwissenschaften Frankfurt a. M. (Hrsg.), Vom unmo¨glichen des Strafrechts, 1995, S. 53〜S. 64.

〔紹介者はしがき〕
 ヴァルター・カーグルは、現在フランクフルト大学の教授の職にある。カーグルの過去の業績から見て、認知科学的、社会学的なアプローチをもって刑法の問題に取り組んでいるようである。本稿は、機能主義刑法とも言うべき政策的見地が多大に介在している現代刑法が、その管轄範囲を際限なく拡張させている状況に対して、一石投じようとするものといえる。
 まず、カーグルは刑法の任務を法益保護に求めるが、いかなる法益侵害に対応するかについて、行為の社会侵害性に根拠を求める。これは、刑事立法など犯罪化の基礎にもなりうるのである。その上、社会侵害性を中身をどこからくみ出すかという問題に関してカーグルは、これを社会システム的な見地からではなく、個人的な「利益」概念から把握しようと試みる。例えば、殺人罪であれば、生命に対する利益であり、突き詰めれば、その侵害性・損害性は、道徳侵害、つまり個人の生命に対する尊重を軽視するところにある。
 つぎに、刑罰論についてカーグルは、予期 (Erwartung)理論と規範の関係を用いてその機能を説明するが、その意義を彼は、予期が規範によってシンボリックに一般化され、その上刑罰という制裁によってその違背に対して保全、再確証されるところに見い出すのである。
 最後に、カーグルは、予期理論を応用して刑法の管轄の限定をも試みる。つまり、主観的法、具体的には、生命、身体、自由、そして財産に対する故意による暴力的侵害に刑法的管轄を絞ろうとする。
 詳細については以下の紹介を読んでいただきたいが、ここでの試論が成功するか否かについては、過失犯や抽象的危険犯など、なお検討すべき点がかなりあると思われ、今後の理論展開に期待したいと思う。
      

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T 法益の人格関連性

1.状態侵害としての損害 (Schaden)
 「政策化された」刑法に対するオールタナティブを形成しようとする全ての試みは、機能の確定をしなければならない。その際、多くの機能が除外されるということは明きらかであろう。なぜなら、法において目的設定の範囲が広ければ広いほど、それだけ必然的に法の分化は、組織の領域と同様、利益衡量の枠組みで把握されることになり、しかもそれだけますます、法の特殊性を誤解する危険が生じるからだ。すなわち、法にとって他の社会システムの働きと重なり合わない目的の確定というものを的確に表現しなければならない。それでは、刑法に固有の働きとは何であろうか。
 この問題に答えるために、刑法が何に対して反応するのかをより詳細に規定することが有益と思われる。伝統的に次のようなことが言われる。つまり、刑法は法益侵害、すなわち、人の態度によって法的に保護された利益に対して惹起された侵害に対応する、と。例えば、被害者が殴られることによって、彼の身体的健康が毀損されたとすると、損害 (Schaden)は明確に証明されたものと見なされる。つまり、認識可能な侵害結果が保護客体に現れたということになる。望ましくない、不利益なものと判断された事態の変更が生じたのである。同じく、このような損害性 (Scha¨dlichkeit)の判断は、ーー場合によって十分でないかもしれないがーー犯罪化の有効な根拠になる。つまり、刑法は、侵害的行為を回避する任務をもっているのだ、と言われる。社会侵害的態度を阻止することに関連することが、こうして重要な規範的基体としての中核刑法の構成要件の保護に奉仕する。
 しかし、このことがかなり客観的な損害 (Schaden)概念をあまりにも簡略に理解しているということを刑法理論そのものが証明しており、とりわけ、未遂犯の特別な場合に明らかになる。特に「不能未遂」は、明らかに損害性 (Scha¨dlichkeit)の判断が被害者の具体的な生命の状態に基づく侵害もしくは危殆化につきないということを説明している。しかし、ここでも最終的に何が非難可能性の規範的基礎を築くのかについて、従来なんら一致は得られなかった。ひょっとすると、もっとも根本的な刑法の正当性の問題における見解の分裂の主たる根拠は、法益理論が、ビルンバウムによるその発見、生成とリストによるその発展以来、自然的世界像にとらわれていたという点にあるのであろう。それによれば、損害 (Schaden)とは、その意義において、生命にとって重大な要件に対する侵害という不利益な結果もしくは公共にとって不利益な結果として定義される。この問題に対する従来とは異なる視線を投げかけるような二つの問題設定で、私 (カーグル)は、かかる損害 (Schaden)確定の重要性を示したい。

2.尊重侵害としての損害 (Schaden)
 最初の例はロバート・ノージックに由来し、これは損害 (Schaden)の具象性に関係する。我々には一定の損害に対して最適な補償を受けるということを規定するような、補充権限をもつ規則 (implementationsfa¨hige Regeln)があると仮定しよう。例えば、中古車を壊したことに対して原状回復として真新しい製品を交換することが予定されている。補償されたにもかかわらず、壊されたと、我々はどの程度までここで主張することができるであろうか。第二の例として、死に関するパラドクスに注意を向けると、一方では、我々は、基本的価値の疑いようのない生命への利益をもっており、他方で、生命が毀損された場合にこのような機能の毀損の結果が生命の担い手にとってもはや重要でない場合がある。ここでは、個人の展開の最も必要な条件が最終的に放棄されることにより、逆説的に侵害判断の基礎も排除されるように見える。生命利益が存在しない場合には、各々の者は彼の生命利益においていかに害され得るのであろうか。ここでは、第一に、侵害を確定する困難にぶちあたり、第二に、被害者を証明する困難にぶちあたる。
 しかし、これらの問題は視野を狭めることから生じる。このことは、損害概念の道具的理解と関連している。損害 (Schaden)というものが補正不可能であるということは、すなわち偶然的理由によってではなく、論理的理由によって生じる。かかる根拠は、各々の者が他人の法益を事後的に補正する限りで、彼がこれらを勝手に使用することができるならば、いったい何が起こるだろうかということを単純に考えると、我々は、承認という明確な意味において、固有の利益を失うということになる。ある状態の毀損、行為、または結果が補正可能な異変として考察されるならば、我々が概して客観的世界に対抗して自らのものと主張するようななんらの「利益」もないということを認めなければならないであろう。ここで避けられない結果とは、各々の者の生命計画の損失のことであろう。なぜなら、個人的な、意味のある目的設定は、日常的な不安定という条件の下では考えられないからである。
 また、一定の損害が補正不可能であることに関するこのような考察は、より重大なことに、唯一破壊され得る利益にもなお妥当する。つまり、生命に対する利益である。死は我々にとっては否定であるということは確かに正しいことかもしれない。「我々が存在している限りで、死はない、そして死がある場合には、我々はもはや存在しない」。このような根拠から、人の殺害という損害は、広範な価値を有する人生の一時期を挫折させることにあり、その前の「投資」を無意味なものと見なすというところにではない。死は、被害者に対して、「損害的」と特徴づけられ得るようななんらの形跡ものこさない。死が害するものは、生命に対する利益である。このよう利益は、被害者を暴力的に殺害することで一瞬にして害される。
 では、このような利益の根本は何であろうか。すなわちこの死は、生命を価値あるものと感じ、できる限り長くこれを保護しようとする道徳の文脈の中ではじめてその規範的性格を獲得する。殺人の損害性は、したがって道徳の侵害、つまり個人的生命に対する尊重の軽視にある。このような生命に対する軽視があると予想されるとすれば、生命計画の根本的前提条件、つまり個人の生命の不可侵性に対する信頼が害されるであろう。損害の具象性の問題に際して示したように、損害性判断は、主としてそれ自体として望ましくない、不利益な状態の惹起に基礎をおくのではなく、このような状態は一定の状況の下では生じないという要求の侵害に基礎をおいている。

3.システム侵害としての損害
 殺すことの損害性の従来の議論は、生命保護の道徳が社会全体の目的から導かれるという意見を助成することができよう。このような観点の下では、損害性判断は、社会的に規定されつつ構成される。すなわち、殺人行為の「損害性」は、将来における他の社会構成員にとっての不利益な結果の中にある。つまり人を殺すというタブーが破られるという点にある、ということが主張される。このような人的なものとは独立して、社会全体的な意味において、しばしば「社会損害性」という概念が解釈され、しかもその延長線上で刑法に対して公共における共同生活を保護する一般的任務が割り当てられる。
 しかし、このことは、ここで主張される見地ではない。生命に対する利益はむしろ、各々の個人の認知的な発達の諸条件を基礎に構成されるのである。それによれば、Aが殺されたことを誰も知らなかった場合にも侵害的である。この判断は、Aの生命の利益に依拠しており、これがなければ、彼個人の生命計画を展開することができなかったであろう。これをもってして生命という価値は、「システム存続」のための意義からではなく、個人の展開という「究極目的」から導かれる。人の自律性の展開を可能にするのに不可欠な尊重価値の確定は、このような厳格な道徳的根拠づけに基づいている。

U 刑罰の社会関係性

1.法益保護という任務
 ここで考えられている基本的利益がその正当性を人格関係的な道徳からくみ出しているという事情から、あらゆる道徳的利益の侵害を刑法が犯罪化してもよいとか、刑法の主たる任務が道徳の強制であるという誤った結論には至らない。確かに刑法は、道徳を通じて法益を供給せざるを得ず、基本財の選択は、人格関係的な利益の範囲からのみ行われることが許容されるが、その選定基準には社会的な目的考慮が必要である。このことは必然的に刑法の任務設定から明らかになる。つまり、根本的道徳にとって価値あるものの維持を保障することである。
 このような見地においては予防モデルも自然法モデルもしくは理性法モデルも有益ではない。予防モデルは、刑法について侵害を回避することが道徳であると誤解しているのでだめである。自然法モデルは、承認関係、尊重の再確立を刑法にやらせようとするのでだめである。また、予防モデルは、道徳の基礎づけを道具的ーー社会的に概念づけることによって、基礎づけのやり方を間違えている。これに対して、自然法モデルは、自律的ーー人格的に理解することによって刑罰の基礎づけのやり方を間違えている。これとは逆に、刑法においては両方の観点を統合することが課題なのである。つまり、法益の人格関係性と刑罰の社会関係性である。それぞれ別個に取り上げてみても、両方の要素は刑法を限界づけることはできない。刑法が道徳を貫徹しようとするならば、刑法が各々の社会的利益を流布させようとする場合よりも少なからずその限界は崩れると言われる。しかし、社会関係的で、合目的的に理解された刑罰論の限界づけ機能はどこに存在するのであろうか。

2.シンボリックな確証という目的
 機械的な損失の観念の視点から目を反らし、射程の広い、時代を超越した、それぞれの予期の不可侵性に対する信頼の意義に目をむける人格関係的責任概念は、刑法の目的に関する考察の出発点を強調する。個人の自己組織の構成に際して、予期に対して重要な地位が与えられる。それによれば、(認識論的基礎から)人間が自己の知覚能力とコミュニケーション能力を構築し、自律性を生み出すことを可能にする基本財 (Grundgu¨ter)が原則的に保護に値するということになる。このような利益を承認することによって、我々は、内面的な見地から世界を構築可能な領域として体験することが可能になる。これに対して、一時的な毀損を超えて、人格の生命に対する侵害の危険は、生命の保護に対する軽視の経験と平行して現れる。同時に侵害的結果は、常に我々の生命計画の展開の可能性を顧慮した時に重要性を有するので、このような側面の下では、侵害が一時的に補償可能なのかまたは補正可能なものと見なされるか否かはもはや問題ではない。常に正当な利益の中に具現された相互の承認、つまり尊重要求が不動であることも侵害されるのである。また、シンボリックな領域が毀損されるとも言うことが可能である、これは偶然的な状況のもと不動と見なされなければならない。このようなシンボリックな領域が震撼させられないという予期は、人格性の前提条件である。
 我々は、生命に対する暴力的な干渉またはこれに対する軽視の経験を前にしては安全ではあり得ない。将来の態度は予想可能ではなく、また規制すらできないであろう。少なくとも刑罰という手段をもってしてはできない。しかし我々は少なくとも、いかなる予期が社会的な後ろだてとなるか、またいかなる予期がそうではないかを知ることができる。予期の領域でのみまだ見知らぬ将来に適応できる。コンフリクトに対して貫徹力をもった予期の構造を備え付けているのは、唯一法に固有の機能である。予期を規範に結びつけることは、つまり幻滅の事例をあらかじめ予期にとって重要でないものと見なす意義をもっている。規範は、予期にとって瑕疵ある態度を前提としている危険をシンボリックに中和する。つまり、これに対してもちろん、規範が充足されるか否かという予期はどうでもよいのである。けれども、支配的な見解とともに、法にとっては予期の現実化、態度操縦、侵害回避という法的状態が課題であるということが前提とされる場合には、法のシンボル化の機能は誤解されるであろう。
 問題となっている行為態様は、主として、刑法的道徳、つまり「法益」という規範においてシンボル化された価値要求を侵害するゆえ、侵害的である。道徳的に基礎づけられた予期は法によって「支えられ」、「保障される」限りで、無批判的な刑法による存続維持という疑念にさらされることなく、利益侵害もしくは予期の幻滅は一貫して法侵害もしくはシステム侵害として特徴づけることができる。ここで概略された安定化の理論の批判的手がかりのための前提条件は、もちろん刑法規範が人格関係的かつ道徳的に基礎づけられているということである。このような前提条件の下で、法の保護を通じての法益保護の問題も一貫して意味をもつ。それは、犯罪を実質的に (主観的)法の侵害と定義する啓蒙哲学の基礎づけの伝統を再び受け入れる。このような定義において、強力に被害者側を強調することで生じる刑法理論の一面化は排除されるであろう。刑罰が法益保護という厳命のもと社会関係的にのみ正当化可能である限りで、絶対的な刑罰の基礎づけの行為者指向もその意義は減少するであろう。いかなる見地において、シンボリックな規範確証の社会関係的機能は、その側で政策的な脱限界化に対する防壁を築くことができるかについては、最後に端的に言及する。

3.時間に拘束されたものとしての構造
 刑法の目的設定の明確な重点は、(例えば、合法的態度、社会統合、損害原状回復、など)法に相応しい状態の確立にあるのではなく、規範においてシンボリックに一般化され、制裁によって幻滅に対して確固として確定された予期の助成、保全、確証にある。規範は、これをもって「瑕疵ある」行動や規範が予定している者の勝手な動機に対抗する。過不足なくである。このような機能確定を経験的に示すことは、現代の刑事政策では全く無視されている前提条件を負わされる。なぜなら、それは、既に道徳の基礎づけによって厳密に限界づけられた刑法規範の範囲をさらにかなり限定するからである。
 上述の意味において結果を約束された予期の制度化は、三つの前提条件に依存している。つまり、第一に、規範的叙述 (Die normativen Zuschreibungen)は、予期を幻滅させる態度とその結果を想定し、しかも記述できなければならない。第二に、それは、その結果が行為として帰属されることが可能となるような行為の担い手を予測しなければならない。第三に、過去の確定と現在の確定が未来の社会的展開によって変更されるということを忘れてはならない。立法者がこのような条件を遵守する場合にのみ、硬直化によって生じる予期を誤る危険は除去できる。さもなくば、誰が誤って行動しているのか、正しく行動しているのか、誰が誤って予期しているのか、正しく予期しているのか不明である。合法/不法の二元的コード化の厳格さは、明きらかに、いかなる時間の次元から規範的予期がその方向づけの知識を引き出しているのかにかかっている。過去からか、それとも未来からか?
 今記述した諸条件は答えを先取りしたのであって、それらは法システムを明確に過去の事象に関連させている。このことは、予期の強化という目的設定から論理的に明らかにされる。合法と不法の間の決定に際して、未来の、現在ではまだ知られていない事象が決定的な影響力を与えるとすると、現在において一定の予期に拘束することは危険を伴うことになる。このことは、法のコード化によって排除されるべきである。規範的決定によって時間を拘束することで、未来を過去からコントロールし、それとともに現在の非連続性をシンボリックに橋渡しすることになる。このことが成功するか否かは、本質的に未来を見通した上での現在 (ku¨nftige Gegenwarten)の認識可能性にかかっている。
 この点で、そもそも規範的な秩序モデルの前提は、社会構造的前提とはもはや合致しない。近代社会は、学習の準備のできた予期構造をあらかじめ知っていることによって特徴づけられる。科学化 (Verwissenschaftlichung)と機能的分化の結果、社会の可能性領域は莫大に高められる。全ての現代における偶然性の経験ーーつまり危険意識ーーは時代の象徴になり、規範的な、道徳をもって準備された予期を抑制した。
 このような新たな時代の主たる方向づけに適応しようとする刑法にとって、結果が重要であろう。危険の統一的評価や統一的な危険政策のための同意の機会もまったく存在し得ないので、このような領域では行為の規準のなんらの相互関係も予期することはできない。それとともに危険と法のジレンマも明きらかである。法のもつ予期を保障する機能は現代と未来が互いに分裂していることで失敗する。法は未来において同じことを繰り返すことを保障することができる場合にのみ、予期の動揺のない継続の中に法を見いだすことが可能である。
 法益の道徳的基礎づけと並んで、法にとって重大な事情を時間的に制約することによって、限界のない、政策的刑法に対抗する強い武器が鍛えられる。なぜなら、わずかな予期を媒介にしてのみ、今日既にある程度はっきりと次のことを言うことができるからである。つまり、法は予期を未来においても援護する、と。法とは、明らかに予期である。その予期とは、生命、身体、自由、および財産に対する故意による暴力的な侵害に対して国家的に制裁を加えるということである。このような (生命、身体、自由などの)利益の中に具現された尊重要求の保障のために、今日ではなんら刑法と同等の機能的等価物はない、と言うことができる。

(金 尚均)