立命館法学 一九九七年二号(二五二号)三八七頁(一二三頁)




国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)活動の評価とその教訓 (一)
カンボジア紛争を巡る国連の対応 (一九九一ー一九九三)


一柳 直子






  目  次
は じ め に
第一章 UNTACの活動
 1.パリ協定
 2.UNAMICの設立
 3.UNTACの任務と特徴
 4.UNTAC各部門の活動 (以上本号)
第二章 UNTACの評価 (以下第二五三号)
 1.成功
 2.失敗
 3.成否の決定要素
第三章 UNTAC活動からの教訓
 1.UNTAC活動からの教訓
 2.ポストUNTACのカンボジア
結   論


は じ め に

 一九九三年五月に国連によってカンボジアで実施された総選挙は、歓喜と熱狂のうちに終了した。この選挙によって、カンボジア人はその歴史上初めて、自らの手で政府を選ぶという権利の行使が可能となった。さらに、この選挙の実施そのものは、長年の内戦の戦禍を越えて、その国家を再建するという役割を国連が担うという国連史上初の野心的な実験の成功を意味した。それはまた、カンボジアで平和の実現の可能性が最も高まった瞬間でもあった。
 一九七八年クリスマスの、ヴェトナム軍の民主カンプチア (ポル = ポト政権)への越境攻撃に端を発したカンボジアの内戦は、東西冷戦という時代背景も手伝って、「代理戦争」の様相を呈した。翌七九年から始まった、国連での議論共々、内戦は完全に袋小路に入り込んでしまい、具体的な包括的和平案の画策には、東西冷戦の終了まで待たねばならなかった。カンボジアの紛争四派 (1) による「四派連立政権」樹立の和平プランを断念し、それまでカンボジア紛争の解決に、実質的には何の役割も果たせなかった国連 (2) に「国家再建」と「民族和解」という重要な役割をまかせるという和平案がオーストラリア案をたたき台に、国連安全保障理事会常任五カ国 (P5)によって模索され、実現の日の目を見たのも、この冷戦終焉という国際政治上の一大事件を抜きにしては語れない。後にこの「P5提案 (3) 」は、九一年一〇月二三日の、「カンボジア紛争に関する包括的和平協定 (4) (パリ協定)」のカンボジア四派と一八カ国の代表 (及び国連事務総長)による調印で結実した。
 パリ協定は、調印後直ちに効力を発し、「国連カンボジア暫定統治機構 (United Nations Transitional Authority in Cambodia : UNTAC)の組織と派遣を事務総長に要請した。翌九二年二月に提出された事務総長による実施計画 (5) に従ってUNTACはカンボジアでの活動を開始した。
 本稿の目的は、自由で公正な民主選挙の実施をその任務の核とした、この国連PKO活動の総括を行なうことである。またさらに、このPKO活動から引き出される、今後国連が国際紛争を処理する際に学ぶべき教訓を考察することも本稿の主要な目的である。以下、まず第一章では、パリ協定の内容を概観した後に、主要七部門の活動の総括を試みる。続いて、第二章では、UNTAC活動全体を総括し、その成功した分野及び失敗に終わった分野を列挙し、各々の要因を分析する。最後に第三章において、UNTAC活動から引き出される教訓と、今後の国連のPKO活動への提言についてを論じることにする。けだしUNTAC活動を分析することによって、冷戦終焉後の国際政治の舞台における、国際紛争処理の分野での、あるべき「国連像」を議論していく上での手掛かりの一つを提起できると考えるからである。

(1) カンボジアの紛争四派とは、
 FUNCINPEC : Front Uni National Pour Un Cambodge Inde´pendent, Neutre, Paci■c et Coope´ratif (独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線)のフランス語の頭文字を取ったもので、元シアヌーク派、現在はその息子であるラナリットを長とする王党派。
 KPNLF : Khmer People's National Liberation Front (クメール人民民族解放戦線)で、ロン = ノル時代の元首相ソン = サンに率いられる。BLDP (Buddhist Liberal Democratic Party : 仏教自由民主党)はその政治政党である。
 PDK (Khmer Rouge): Party of Democratic Kampuchea (民主カンプチア)、ポル = ポト派。現在はキュー = サムファンが代表を務める。
 SOC : State of Cambodia (カンボジア国)、元の People's Republic of Kampuchea : PRK (カンプチア人民共和国政府:一九八九年まで)で代表はフン・セン首相。その政党が Cambodia People's Party : CPP (カンボジア人民党)である。
(2) 一九七九年から九一年までの、カンボジア紛争を巡る国連の対応に関しては、拙稿、カンボジア紛争を巡る国連の対応 (一九七九ー一九九一)、立命館法学、第二四八号 (一九九六年第四号)、立命館大学法学会、一九九六年、を参照されたい。
(3) United Nations, A/475-S/21689, 31 aou^t 1990.「国連安保理事国の五常任理事国のカンボジアに関する声明」
(4) United Nations, A/46/608-S/23177, 30 oct. 1991.
(5) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.

第一章 UNTACの活動1.パリ協定

 一九八九年七〜八月にパリで開催されたカンボジア和平会議は、二年以上にわたり、ついに一九九一年一〇月二三日の、カンボジア四派と一八カ国の政府ーー国連安保理事会の五常任理事国 (P5)、ASEAN六カ国、ヴェトナム、ラオスのインドシナ諸国及びオーストラリア、インド、日本といった諸国を含むーーによる一連の協定の調印へと至った。このカンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定 (1) (パリ協定)はカンボジア紛争 (国内及び国際舞台における二〇年間の争い)の包括的解決のための革命的な青写真を提供し、さらに、国連にこうした紛争の解決と管理に際してのユニークな役割を与えた。パリ協定の特筆すべき点は、以下の通りである。すなわち、第一に、解決プランの包括性、第二に最高民族評議会 (Suprime National Council : SNC)を移行期間中のカンボジアの「主権、独立、統一を含んだ唯一の正統機関と権威の源」であると規定したこと、第三に、解決過程における先例のない国連の役割、である。
 パリ協定によって、関係当事者は、停戦と武装解除ーー国連平和維持活動の伝統的領域ーーだけでなく、法と秩序の維持、難民の帰還、人権と新憲法のための諸原則の促進、国連の機関による行政機関のいくつかの領域の監視と管理、及び、最も重要なことには、国連による選挙の組織、開催、監視についても合意した。コンゴでの活動 (ONUC)とナミビアでのそれ (UNTAG)の先例に加えて、国際社会は、国連にその歴史上初めて、加盟国の政治的経済的再建に携わらせたのである。
 協定の調印国は和平を実現するために二つの機関を創設した。すなわち、最高民族評議会 (SNC)と国連カンボジア暫定統治機構 (United Nations Transitional Authority in Cambodia : UNTAC)である。協定は移行期間を、協定の効力が発効する一九九一年一〇月二三日から、選挙で選出された新しい議会が新たなカンボジアの主権政府を設立するまでと規定した。移行期間中、四派によって構成されるSNCはカンボジアの合法的な主権を「体現する」ものとされた。そして、一九九二年二月に安保理事会によって設立された権威機関であるUNTACは、協定の意図した和平を実現するものとされた。

2.UNAMICの設立
 調印に先立ち、事務総長はこれから始まる大規模なカンボジアでの活動に備えて、カンボジアに調査団を派遣した。調査団は、加盟国が提供する六人の将校及び国連職員六人からなり、一九九一年八月から九月の二週間にわたって現地を訪問した。その任務は、停戦及び外部からの軍事援助停止の監視のために要する人員数を確定すること、SNCが要請した地雷認知プログラムのための勧告を提出することであった。
 しかし調査団は各派の非協力のせいで、特に停戦及び軍事援助停止の監視のための人員数確定に必要な情報が入手できず、これを確定することができなかった。また同じ理由で、UNTACに予定される軍事的任務の実施についても、具体的な提案を提供することができなかった。その目的のためには、別途組織を派遣することが適当であるとして、調査団は、国連カンボジア先遣団 (United Nations Adavance Mission in Cambodia : UNAMIC)の派遣を勧告した。このようにUNTAC発足までに、何段階にもわたる準備が必要となったのは、その政治状況の不安定、複雑さに加えて、国内では道路から電気、電話などの通信設備、石油、ガソリンから車両、トラック、汽車、船舶などの輸送網、水、食料から衣料品、日用品に至るまで、「まるで何もないと思っていれば間違いない。思い付く全てのものを担いでいくしかなかい」状況だったからである (2)
 したがって、UNAMICの主な任務は、(1)連絡と情報伝達を通じて停戦を維持すること、(2)SNCとの関係を確立すること、(3)地雷認知プログラム (後に地雷除去トレーニングとなる)を制度化すること、最後に、(4)PKO軍の展開に必要な情報を収集すること (3) 、であった。A・カリム (外交官:バングラディシュ)、J・M・ロリドン (陸軍准将:フランス)をその長に (4) 、総勢二六八名からなる文民及び軍事連絡スタッフ (5) 、軍事地雷認知ユニット、後方支援及びサポート要員で構成された (6) UNAMICはパリ協定調印後直ちに活動を開始し、一九九一年一一月上旬にカンボジアに入った。一二月に入り、軍事、文民行政、選挙の各調査チームがカンボジアでの活動を開始したが、結果的に言えば、選挙調査チームの活動は後のUNTAC活動にとって有益な情報を取得できたが、残りの二つの調査チームは選挙調査チームに比べて余り有益な情報を集めることができたとは言えなかった。
 要するに、UNAMICには完全な任務と権限及びUNTAC到着準備のための装備が欠けていたのである (7)

3.UNTACの任務と特徴
 パリ協定の第二条でその調印国は、国連安保理事会に対してUNTACの設置を要請した。パリ協定及びその付属書によれば、UNTACの任務は以下の通りである (8)

(1) 自由で、公正な選挙を組織、実施する。
(2) そのため、新政府樹立までの間、国連が外交、防衛、財政、公安、情報の行政責任を持つ。
(3) 外国軍隊の撤退、停戦の監視、モニター、検証を行う。
(4) 一般的人権の監視。
(5) 難民及び避難民の帰国と再定住の促進。
(6) 国の再建と復興。
 二月初めに明らかにされた国連事務総長案によると、UNTACは二万人以上、一〇億米ドルの規模になる予定でいたが、その後、二〇億米ドルとの見積もりが出た。その要員の内訳は、軍事部門では平和維持軍が一二大隊で約一万五〇〇〇人、軍事監視要員が約五〇〇人、文民部門では、本部要員が一〇〇〜二〇〇人、行政機関の管理、監督に約二〇〇人、選挙の組織と実施に三〇〇〜四〇〇人、他に加盟国から出向してくる人が約一〇〇〇人、国内の治安維持のための警察官約三〇〇〇人である (9)
 その任務の核となるものは、パリ協定にある構造をカンボジアに構築することとカンボジア人に政府を設立する機会を与えることであり、そこから最優先事項は選挙の実施に置かれた。また、パリ協定は、その条項から、カンボジア各派による協定違反の場合に、協定の遵守を強制することやいかなる種類の制裁措置を取る権限も与えていなかった。換言すれば、協定は全関係当事者の善意の履行を前提とされていたのである。協定は、共同議長国であるフランスとインドネシアが、協定違反やそのおそれのある場合に、着手されたコミットメントを尊重することを保証するための適切な処置をとることを通じて協議する権利を有することを規定した二九条を明記していたのみであった。UNTACは平和維持にその任務を限定されており、平和執行はその任務ではなかったのである。その意味で、UNTACは、いわゆる「第二世代 (10) 」のPKOではなく従来からの伝統的なそれであった。なぜなら、それは、第一に、同意の維持、第二に中立性、第三に自衛の場合のみに武力の行使を限定するという点を強調したPKO活動であったからである (11)
 このような任務を持つUNTACの特徴はまず第一に、それに与えられた広大な権威である。すでに述べたように、独立国であるカンボジアで選挙を実施・監視し、新政府樹立までの移行期間中の現地の行政機関を国連が「直接管理」をすることを認めた点で、UNTACは国連史上類を見ない性格を持つものとなった。第二点は、その複雑かつ多岐にわたる任務である。七部門で構成されたUNTACは包括的な組織であり、またさらに、このことによって国連諸機関間の各部門間のライバル関係がUNTAC内で再現されることを回避することができた (12)
 それでは続いて、UNTAC各部門の活動について見ていこう。

4.UNTAC各部門の活動
 A 軍事部門:要員 一六、〇〇〇人 (13) (三二カ国 (14) から派遣)
司令官 ジョン・サンダーソン将軍 (オーストラリア)
 軍事部門の任務は以下の通りである (15)

(1) 全ての種類の外国軍隊、軍事顧問、軍事要員とその武器、弾薬、軍用機器の撤退とそれらが再びカンボジアへ入国、ないし搬入されないことを確保する。
(2) 本合意の実施を妨げるような近隣諸国内、ないしその近辺での動きについて、これらの諸国との接触を図る。
(3) カンボジア四派に対する外国からの軍事援助停止をモニターする。
(4) 全土にあると思われる隠匿武器、軍事補給を摘発、押収する。
(5) 地雷除去のための援助及び、カンボジア人民に対する地雷除去技術及び安全教育プログラムを実施する。
(6) 付属書二に合意される日程にしたがって、UNTACは全ての軍隊を再編成し、指定された宿営地への移動を監視する。
(7) 軍隊が宿営地に移動するにつれてUNTACは、付属書二に明記された武器管理、削減を行う。
(8) 付属書二にしたがってUNTACは、各派の軍隊の段階的動員解除について必要な措置を取る。
(9) 必要に応じて国際赤十字を支援して、戦争捕虜及び戦闘参加者の釈放を助ける。
 軍事部門の任務の重要な目的は、選挙を行うために国内の治安を安定させ、紛争四派間に信頼関係を構築することであった。そのための最も主要な任務の一つが停戦の監視と各派軍隊の武装解除であったわけだが、この和平プランの根幹をなす分野に関して言えば、軍事部門はその任務を果たせたとは言えない。軍事部門には、武装解除を成功させるための確固たる姿勢が欠如していた。すなわち、実施計画では、外国軍の存在をいかにして検証するかが明確にされておらず、外国軍の駐留を検証するために、二種類の監視チームが用意されていたが、それに必要な人数や装備については触れられていなかったのである。
 九一年五月一日から始まったカンボジア四派の自主停戦は、翌九二年一月五日にKR軍が、コンポントム州のSOC政府要員を攻撃したことで破られてしまった (16) 。その後、SOCがKRへの反撃を本格化したため、停戦は部分的にしか遵守されず、UNTACの展開中も戦闘は断続的に継続したままであった。さらに、外国軍駐留の情報については、四派どの派からもその情報提供はなく、UNTACは完全に協力を得ることができなかった。
 パリ協定によると、武装解除は九二年九月までに各派の七〇% (17) の動員解除が終了予定であった。実際には、九二年五月九日に、武装解除の第一段階が終了し、六月一三日から第二段階 (各派軍隊の一定地点への集結と武装解除の開始)に移行した。この時点で、PKO軍の派遣は四〇〇〇人までしか完了しておらず、そのため武装解除を行なう前の治安の確保はできず、PKO軍は武装解除にのみ携わった。そして、第二段階移行後、KRの武装解除拒否が鮮明となり、その結果、予定の日程までに、二〇万の軍隊の五%以下しか武装解除はできなかった。武器に関して言えば、五万個 (そのほとんどが使用不可)を没収できたのみにとどまった。SOCの主張によれば、UNTACがこのKRの協定違反に対して断固たる態度をとれなかったことから、SOCは再武装を決定した (18) 。さらに、UNTACは、KRからの攻撃の増加から、後に三派に武器を一部返還することを余儀なくされた。第二段階終了後も、SOC軍は一〇万から一五万の兵力を保持し、KR軍は一二、〇〇〇の戦闘員を有していた。
 KR側からはこのパリ協定不参加の理由が以下のように説明されている。すなわち、(1)国内に残留するヴェトナム軍の問題、(2)プノンペン政府からの「真の」権力移行がなく、国連の「直接管理」にもかかわらず、SOCは国家機関ーー特に秘密警察ーーを使用できている (19) 、の二点である。ヴェトナム軍の残留問題に関しては、FUNCINPEC及びKPNLFの両派もこの主張に同調した。そこでUNTACはこの件に関して徹底的な調査を敢行したが、カンボジア婦人と結婚して民兵や警官として働いている者など数名以外には、組織化されたヴェトナム兵は一人も見つからなかった (20) 、という結論に達した。このKRの行動は、(1)初めからパリ協定を遵守する気などなく、再結集のための時間稼ぎに過ぎなかった、(2)UNTACがSOCを解体できると考えていたが、そうではないことが明かとなった、(3)パリ協定調印後、(国内の)政治的展望が変化するまでは、選挙を実施するほうが良いと計算していたこと、(4)村落へのネットワーク拡大、帰還難民の自派への取り込み、自軍の再配備、国連の解決策のテスト、軍事行動から政治行動への長期的な転換の試み、などといったように分析されているが、結局のところ、和平プロセスが自分たちの利益になるであろうと考えてパリ協定に調印し、対SOCとの力関係からもそうせざるを得なかったというのが真相であろう (21)
 KRの非協力な態度は次第に強固となり、UNTAC展開から一五カ月後、KRによってUNTACが立ち入りを禁止された地域は二倍になり、明石事務総長特別代表は、UNTAC責任者のインド人将校から、「ポト派とは、地雷撤去に関する協力も、部隊長レヴェルでの接触のいずれもない。UNTAC要員は行動の自由を一切与えられておらず、またポト派兵士が国連の決めた宿営地に結集する気配は全くない。」との説明を停戦第二段階開始直前に受けている (22)
 こうしたKRの強硬姿勢に直面した関係諸国は、同派に対する懸命の調停工作を開始し、それは、九二年六月に開催されたカンボジアの復旧・復興に関する東京会議の際にも裏で続けられたが、事態は膠着していった。八月には日本とタイによる共同調停工作が始まった (23) 。九月に入って、オーストラリアが妥協案を提案した。すなわち、パリ会議の共同議長国であるフランスとインドネシアが、この袋小路から脱出するために協議を行うこと、安保理事会がKRに対して制裁措置を行なう日程を設定すること、そして、こうした措置にもかかわらず、KR側から積極的な姿勢が見られない場合には、KR抜きで和平プロセスを進めること、であった (24) 。しかし、これに対して、キュー・サムファンKR代表は、「これらの措置はパリ協定の公正さを脅かすものである (25) 」と反対した。さらに、共同議長国によって、容認可能な解決策が模索された (26) 。こうした努力は、九二年一〇月一三日に採択された安保理決議にも反映された (27) 。これより少し前の九月二二日には、SNCによって原木の輸出停止が採択された。しかしこの慎重な作戦も不調に終わり、和平プロセスに協力しない派に対しては石油の禁輸措置を取ることを定めた安保理決議が採択された (28) 。この禁輸措置は、米、英といった安保理内の強硬派と仏の柔軟派の妥協の産物であり、中国、タイ (29)への配慮から「制裁」という言葉を使用しなかった。こうした措置と並行して、和平プロセスからのKRの離脱を防止するための対話路線は継続されたのだが、KRが安保理の決めた和平日程に抵抗するようになって以来、安保理は毅然とした態度を明らかにするとともに、表向きは制裁という言葉を使わないようにしながら、事実上の制裁措置を次から次に取っていった (30)
 こうした中、現地では、武装解除の失敗から、選挙の実施に焦点を当てる戦略への変換を余儀なくされた。そこで軍事部門もその任務の重点をそれまでの停戦の監視・武装解除から文民スタッフの安全確保をはじめとした選挙実施のための中立で安全な環境の保障へと変化していった。この政策変更のため、軍事部門の展開も選挙まで続くこととなったが、UNTAC軍が選挙まで存在していたという事実そのものが、選挙プロセスに信頼を提供することに成功した。
 このPKO軍の新たなサポート任務は段階を経て徐々に進められた (31)。第一段階では、選挙キャンペーン期間中のUNTAC要員と設備の安全を守ることにその主眼が置かれた。同時に、選挙調整センターがプノンペンに本部を、また合同調整事務局が各州に設立された。この軍事部門の新たな任務によって、軍事部門と選挙部門との間の協力が促進された。第二段階と第三段階は、選挙人に投票をさせることを目的としたもので、第二段階では、投票所の安全、投票用紙の保護、集計所の安全を確保することがその目的であった。最後に第三段階では、カンボジアからのUNTACの撤退の際にUNTACの設備を保護することとUNTAC要員の安全を確保することがその任務として課された。さらに、投票日が近づくにつれて、軍事部門は、候補者と政党の保護も行なうようになった。しかしこの新たな軍事部門の任務は、攻撃的な性格も懲罰的な性格も持たないものであった。
 次いで、軍事部門の貢献として、内戦そのもののレヴェルをダウンさせたことも挙げることができる。この背景には、パリ協定の下に設置された混成軍事作業グループ (Mixed Military Working Group : MMWG)の果たした功績が指摘できる。これは当初、停戦に関する問題解決のために設立された機関であったのだが、現地ではカンボジア各派の軍に対処するための軍司令部の主要な機関として機能した。
 一方、軍事部門の任務の一つである地雷除去であるが、技術力の問題も含めて遅々として進まなかった。九三年に入って、若干のスピードアップが見られたものの、同年半ばまでに一二、〇〇〇個の地雷がUNTACのプログラムの下で除去されたに過ぎない。UNTAC終了後も、八〇〇万〜一〇〇〇万個の地雷がカンボジア国内に除去されずに残っていると見積もられている (32)
 また、他のPKO軍と同様にUNTAC軍が複数の軍隊派遣国から集められた軍隊であったため統一された軍隊ではなかったことから、プラス・マイナスの両面が露呈されることとなった。ある部隊は必要最低限の装備すら持っていなかったし、またある部隊は十分に訓練を受けたものでなかったりした (33)。さらにUNTAC兵の多くはカンボジアの文化についての説明を派遣前に受けておらず、それが後にカンボジア人から「国連の兵士の多くが、バーや売春宿にたむろしたり、国連の車を乱暴に運転したりして時間を過ごしているように (34)」思われる一因ともなった。しかし、装備がしっかりしていてこの任務のために専門化された部隊であったオランダ (北西部に駐留)のように、その兵士や市民をしっかりと保護できた部隊や、マレーシア (西部に駐留)のようにクメール語を学んだ兵士を擁してその駐留地でKRとの関係を発展させようとした部隊などもあったことは事実である。こうした部隊間の格差は、国連がPKO要員を訓練するための権限を有していないことを反映している。UNTAC軍の文化的多様性は統一軍としての統合を困難なものにしたが、その一方で、それがプラスに働いた側面もあった。カンボジアと同様の社会・経済問題を抱える諸国やカンボジアとの類似性を持った諸国から派遣された軍隊はカンボジア人のニーズや感性に理解を示しやすく、カンボジア人民とUNTACとの関係を強化することができた (35)
 その他の問題点としては、軍隊の規模ーー特に航空班とエンジニア部門ーーが小さすぎたことと、後方支援の遅れが指摘できる (36)。最後に各国の大使がUNTAC軍の活動に大きく関与していったことが、軍隊の規律を維持することに貢献した (37)点は十分に認識されるべきである。

 B 文民行政部門 (38):要員 プノンペンに九五名の国際スタッフ
   プノンペン以外の地方に一二五名の国際スタッフ
司令官 ジェラルド・ポーセル
 パリ協定は第六条で、「自由で公正な選挙を実施するために必要な中立の政治的環境を保障するために、選挙の結果に直接影響を与え得る行政機関、組織、事務所は国連の直接監督と管理の下に置かれる (39)」と、国連の「直接管理」について規定している。それによって、UNTACはカンボジア四派それぞれの外交、防衛、財政、公安、情報の行政機関を直接管理する権限を与えられた (40)。この国連史上類を見ない野心的な試みの任務を与えられたのが、文民行政部門である。
 文民行政部門の任務は具体的に以下のようなものである (41)。すなわち、

(1) 外交、防衛、財政、公安、情報関連の行政について、UNTAC特別代表が当該官庁に指示を与える。指示はまた、他の三派にも出され、彼らを拘束する。
(2) 特別代表はまた、その他に選挙の公正さに直接影響を与えると認める行政機関を決定し、UNTACの直接管理の下に置く。
(3) 特別代表の権限として、カンボジア四派の全ての行政事務所に国連の人員を派遣する。
(4) 特別代表はこれら事務所のいかなる人員をも解雇、再雇用する。
(5) 派遣された国連の人員は、全ての行政活動及びそれに関する情報を無制限に入手する。
(6) 警察はUNTACの監督、管理の下で活動する。
(7) SNCと協議の上でUNTACはまた、その他の法執行及び司法手続きを、必要な範囲において監視する。
(8) 同様にUNTACは、現行行政機構による行為に対する不服申し立てを受理し、調査し、必要な是正措置を取る。
 この「直接管理」について、UNTACの文民統治官は、自分たちがカンボジアを「統治」する任務を有しておらず、またその任務に現行行政機構を変えることも含まれていない、という認識を持っていた (42)。UNTACのある内部文書によれば、文民行政部門はその任務遂行にあたって、以下のような哲学を持っていた。すなわち、「UNTACはカンボジアに行政機関として存在しているのではなく、行政官として行動する権限を与えられているわけでもない。こうした状況の下、行政機関として行動することは、パリ協定でUNTACに要求された厳格な中立性に矛盾するものとなるであろう。しかしながら、社会不安を引き起こしかねず、さらに民族統一、平和、民族和解や自由で公正な選挙を脅かしかねない行政活動を発見することは、UNTACの権限及び明白な任務内の行為 (43)」である。
 こうした認識の下、文民行政部門は三つの作業手段を取った (44)。一つ目は、アポステオリなもので、政策決定、人事政策、「データ」の分野における現行行政機構の活動を取り扱う全ての資料を収集する、二つ目に、アプリオリなもので、人事や財政といった問題に関する全ての決定の優先的な知識の収集及び必要とあらば、決定変更の権限行使であり、最後に、評価活動として、現行行政機構の活動における改善点を提起することであった。
 こうして文民行政部門は九二年七月一日より、プノンペン政権の五つの行政領域の「完全な管理」を開始した。しかし、プノンペン政権が首都とその周辺地域のみしか掌握しておらず、地方への統制が行き届いていなかったために、UNTACの活動は開始早々から困難なものとなり、地方に対する管理は機能しなかった。
 それでは、六つの主要機関が行なった活動を見ていこう。まず、外交サービスであるが、これには三つの任務が与えられた。すなわち、(1)ビザ・パスポートシステムの検査、(2)移民プロセスの合理化、(3)外国からの援助の分配と監視、である。外交サービスは国境管理部隊と合同で作業してこれら三つの任務遂行にあたった。この外交サービスの活動の成果として、(1)出入国ビザの廃止、(2)SOCにSNC発効のビザとパスポートを承認させる、(3)公人の移動の自由を許可、の三点が挙げられる。
 次に、防衛サービスはSOCの国防諸機関の「非政治化」の任に当たった。が、国防省では、カンボジア人は依然として自由に行政活動が行えたのが現実であった。公安サービスの任務は、現行行政機構の行政長官 (知事・市長)と警察官の訓練、刑法の草案作り、刑務所の訪問、隔週の作業グループの開催、等であった。これらの活動で特にインパクトを与えたものはなかった。が、しかし、刑務所を定期的に訪問することによって、いくつかの刑務所でそのアメニティーが改善される、といった効果が見られた。公安サービスはそれ以外にも、判事、検事の訓練にも当たった。
 次いで、財政サービスは、(1)財政管理人を各省、中央銀行、州政府へ、予算の支出を調整するために派遣、(2)KPNLFとFUNCINPECの支配地域の地域開発と保健プログラムのコストを監査、(3)税収と関税収入を監督、の三点がその任務であった。このサービス部門は、通貨の発行、合法な国境貿易、国家予算の収支の監督といった分野で成功を収めている。特別管理サービスは、公共衛生、教育、農業、海・河漁業、コミュニケーション、郵便、エネルギー生産と配分、可航水域と公共輸送、観光と歴史的建造物、地雷と一般行政といった様々な分野を監督した。最後に、特定の苦情の解決並びに不服の実態と範囲の全容の収集といった活動に従事したのが、不服申し立て及び調査サービスであった。このチームは、不服解明委員会と公安に関する合同常任委員会を設立し、その任に当たった。また、文民行政部門は、九三年一月に、監督チームを設立して、プノンペン以外の地域での現行行政機構に対する監視を補完し、パリ協定違反がないかどうかを調査した。
 文民行政部門の主たる成果として、民族和解のための枠組みを強化すべく、より近代的でより効率のよい政府の下地を作ったこと、限られた資源の中でベストを尽くしたこと、さらに、プノンペン政権の差別的な活動や汚職と戦ったこと、などが挙げられる (45)。しかしその一方で、「直接管理と監督」が実施できなかったために、非公式に、その任務を各派の選挙活動の監督に集中させることへの変更を余儀なくされた(46)。このUNTAC活動の根幹をなす「直接管理」が失敗に終わった原因はいくつか考えられるが、(1)このような概念を持った活動のための計画を行う時間がなかったこと、(2)国連のPKO活動にこのような前例がなかったこと、(3)専任スタッフが確保できなかったこと、(4)UNTAC側に、「直接管理」に対する躊躇が見られたこと、(5)カンボジアの法体系が古くなっていて活用できなかったこと、(6)言葉の問題、(7)事前に派遣された調査ミッションの査定が限定されたものであり、且つずさんなものであったこと、などが指摘できよう。
 さらに、文民行政部門は、(1)コミュニケーションの問題、(2)部門内での調整機能の欠如、(3)後方支援の不足、(4)クメール語を話せる人や税関、公共財政、公安の分野での経験を積んだスタッフの不足(47)、といった活動上の問題点を数多く含んでいたのが実情であった(48)。こうした中、SOCからは、「他派よりもSOCに対して (UNTACが)より厳しい管理・監督活動を行っている」との苦情がたびたび表明されたが、これは、スタッフ不足からプノンペン以外の地域での活動が制限されたことも一因であった。また、より重要なことには、UNTACがKRを監督できないことで、UNTACの中立性が侵される結果となった。UNTACは、「当事者の協力なしには、管理はできないが、当事者が協力の姿勢を見せていれば、管理する必要はない(49)」という矛盾を抱えていたのである。
 以上のような経験から、こうした任務を遂行するに当たって、行政権を政治権力から切り離すこと、民族和解を促進するための制度の確立 (カンボジアではSNC)、さらに経験を積んだ文民支援軍の設立、といった点が強調されるべきであろう(50)

 C 文民警察部門:要員 三、六〇〇名の文民警察官
 結論から言えば、文民警察部門は最も成果を挙げられなかった部門である。この部門の任務とは、カンボジア四派の警察の監視、監督、管理であったが、活動はSOCの警察に集中した。これは、ナミビアPKOをモデルに画策された部門であったのだが、その役割はパリ協定では十分に説明されず、その活動プランもないままのスタートであった。また、これらの任務を遂行するには、警察官の数が不十分であったのも不成功の一因である。
 しかしながら、成果を挙げられた分野も若干ながらある。それらを列挙すると、(1)人権及び約九、〇〇〇人のカンボジア警察官への警察活動の基本原則に関する有益なブリーフィング、(2)警察官への訓練、(3)選挙集会の監視、(4)選挙の後方支援の供給(51)、などである。
 これらの成果にもかかわらず、文民警察部門は失敗した分野の方が目立ってしまっている。文民警察部門の失敗には、(1)対立政党や市民への警察による威嚇を減らすことができなかったことーーこれは、その監視任務に必死になって、人権侵害調査を進める責任を軽視した結果である、(2)帰還難民の擁護ができなかったことーー非武装の警察官にこの任務は難しい、(3)政党事務所を保護する責任が軍事部門の方にシフトしたこと(52)、などが指摘される。この文民警察部門の活動が失敗した最大の原因は、カンボジアに独立した司法制度が欠如していたことと、彼らに訴追権がなかったことである。したがって、文民警察は、既存システムを監督する権限しか持たなかったのでる。そこで各方面からの突き上げにあったUNTACは、明石特別代表自身の躊躇(53)やUNTACの他部門からの強力な反対(54)にもかかわらず、この現状を打開するために、九三年一月六日に、UNTAC指令九三/一によって、特別検察官事務所を開設した。これによって、人権侵害の被疑者に対する調査権と逮捕権(55)がUNTACに与えられることとなった。
 加えて、文民警察部門の活動が失敗した原因には、先にも触れたように、派遣前の準備が不足していたこと、活動手続きの合意がなかったことと並んで、警官同士の作業用語がなかったこと(56)、国連に「平和維持警察」を使用した経験がほとんどなかったこと、その展開が大きく遅れたこと、スタッフ不足に加えてスタッフの質が要請からかけ離れたものであったこと、人権侵害を調査するためのガイドラインに共通の枠組みが欠如していたこと(57)、などが挙げられる。最後に各国から派遣された警察部隊が使用していた機材が統一されていなかったことから、各部隊間のコミュニケーションが困難になったことを付け加えておく。
 以上の点を踏まえた上で、文民警察部門の活動に関する提言を何点か列挙しておく。
 その一点目は、要員派遣国が国連の人材募集に見合った人材を提供すべきである(58)、という点である。その最低基準としては例えば、警察官としての経験が数年間あるといったことや自動車の免許を有していること、さらに自動車の運転歴があることの他に、国連の公用語が話せること、などが挙げられよう。第二点目は、派遣前に警察部隊の訓練を国連が行うことであり、その際に派遣地の人々に関するバックグラウンド情報を提供することは重要である(59)。ここにおいて、その人員の選抜に関して細心の注意を払ったことと派遣前の訓練のおかげで、最も効率良く活動することができたシンガポールの警察部隊の例は、将来の国連の任務のための警察の訓練のモデルになり得るであろう(60)

 D 選挙部門:要員 一五〇名以上の国際スタッフ
四七〇名の国連ボランティア
一、五〇〇名以上の現地カンボジア人スタッフ
 UNTAC七部門中、最も成功したと評価されている選挙部門の任務は以下の通りである(61)

(1) 選挙法の制定。
(2) 政党の結成や政党や候補者の権利の枠組み作り。
(3) 有権者の登録 (三カ月間)。
(4) 市民教育と訓練のための広報・教育ユニットの設立。
(5) 選挙の実施。
 九一年一一月に第一調査団が予備選挙プラン (一二章から成る)を立案し、UNTAC派遣後に、このプランは二六巻から成る作業計画へと発展するが、この詳細な計画は、後の選挙部門の活動に有益なものとなった。また、選挙部門の指揮官を務めたレジナルド・オースティンは、九一年一一〜一二月にプランニング派遣団の一員としてカンボジアに出向いた前歴を持っていたが、この、他の部門には見られなかった計画から実施まで、同じ専任スタッフが継続して作業に携わっていたという事実も後の活動に有益であった。が、しかし、後方支援の調達の遅れから、選挙部門の本部の設立は九二年一二月まで待たねばならなくなってしまった。その一方で選挙準備の一端として、最新のコンピューターを活用した全国的な選挙人登録の準備や、民主主義、人権などについて市民教育を実施するための四〇〇人の国連ボランティア (UNV)の導入が着々と進められた。
 民主主義の経験の無いカンボジアで、選挙を成功させるために最も重要なことは、市民に選挙そのもの、選挙プロセスや民主主義、人権などについて教育をすることであると考えたUNTACは市民教育に重点を置いた。市民教育を行なう上で、様々な道具が用いられた。それには、例えば、コミック本、リーフレット、ステッカーやポスターが文字の読める人用に、またそうでない人のために、ラジオ放送、ビデオ、演劇などが用意された。そのどれもが、秘密投票の保障、投票する政党の選択の自由、憲法制定議会、選挙人登録の権利や投票の方法などといった選挙プロセスや民主主義的価値観をその内容としたものであった。この市民教育プログラムがカンボジアの市民に与えたインパクトを測ることは難しいが、この活動が選挙プロセスに大いに貢献したことは明白である(62)
 一方、選挙法の制定には、「カンボジア人民」の定義で紛糾し、結果的に約四カ月が費やされた。さらに、選挙規約(63)と選挙手続きをめぐる交渉は、投票の三六時間前まで続けられた。選挙法案は九二年八月五日にSNCで、四派のうちポト派を除く三派の賛成を得て採択された。最後まで紛糾した選挙人資格については、パリ協定では「カンボジアで生まれた一八歳以上の者か、あるいはカンボジアで生まれた親 (どちらかの親でOK)を持つ者」であったのが、「カンボジアで生まれた一八歳以上の者で、かつ少なくとも両親のいずれかがカンボジアで生まれていること」に加えて、「その出生地に関係なく、一八歳以上で、両親のいずれか、または祖父母のいずれかがカンボジアで生まれていること」と修正された(64)。これは「ヴェトナム系の人間には絶対に投票させるな」というカンボジア人と「ヴェトナム系だからといって、カンボジアで生まれて長く暮らしてきた人たちを除外するのは人種差別につながる」というUNTAC側との妥協の産物であった(65)。また、海外に滞在しているカンボジア人も、ヨーロッパ、北米、オーストラリアに設置される投票所のいずれかで投票できることとなったが、FUNCINPECとBLDPから提案されたカンボジア国外での選挙人登録については受け入れられなかった。
 選挙人登録は、九二年一〇月五日に、三カ月間の予定で始まった。それは後になって、選挙人が予測よりも多かったこと、政治的な問題から全土へのアクセスが妨げられたこと、さらには九二年の雨期によって道路が軟弱な状態になったことや選挙法の施行が遅れたことなどの理由から、九三年一月三一日まで延長された。そして、最終的に選挙人登録をした人の数は四七六万人にのぼり、これは総有権者数の実に九〇%の人が登録した計算になった。これにはカンボジア人の選挙に対する関心の高さもさることながら、地方選挙監視人の四五〇人以上の国連ボランティアと四、〇〇〇人の現地カンボジアスタッフの精力的な活動も特筆に値する。
 選挙プロセスが進行するにつれて、KRの支配地域へスタッフがアクセスできないことが最大の問題となってきた。さらにKRの武装解除拒否から、選挙プロセスをめぐって様々な動きが現地で展開された。具体的には、この時点で、UNTACは選挙の延期、あるいは選挙の放棄、もしくはUNTACそのもののカンボジアからの撤退といった選択肢を突き付けられることとなったのである。しかし、ガリ事務総長は選挙プロセスの継続を主張した。彼はその理由を「これほども多くの活動がなされ、また少なくとも平和と民主主義が達成されるだろうというカンボジア人の希望がこれほどまでに高まった後に、UNTACが撤退することは受け入れられない。また、選挙の実施を延期する選択肢は、カンボジア内の政治的・経済的状況では移行期間の延長を支えることができないため、却下されるべきである(66)。」と説明している。こうして、選挙プロセスは予定どおりの日程で継続されることとなったが、このことはパリ協定の (四派が参加するという)構造の放棄を意味するとともに、UNTAC活動に取っての大きなターニング・ポイントでもあった。
 九二年八月一五日より、政党の一時登録が始まり、当初一四の政党が登録し、後に二二まで増えたが、最終的に、翌九三年一月二七日には二〇の政党が正式登録を済ませた。結局、KRは政党登録を行わず、ここにおいて、KRの選挙プロセスからの脱落も明かとなった。
 九二年一二月になって、FUNCINPECとSOCが、総選挙前に大統領選を実施することをUNTACに要求した。当初この「大統領選」案に乗り気であったシアヌークであったが、こうした措置そのものが、そもそもパリ協定に想定されたものではなかったことと、事前の各方面への根回しが徹底しておらず大きな反対を受けたことから、翌九三年二月一四日に不出馬宣言をして、この提案は頓挫した。
 九三年四月七、八日のガリ事務総長のカンボジア訪問を期に、選挙運動の幕が切って落された。選挙運動の期間中、計一、五〇〇回以上の集会が国内各地で行われ、八〇万人以上の人が動員された(67)。UNTACは、複数の政党が参加する政治集会を開催し、各党には一〇分間の持ち時間内で、その政策を説明する機会が与えられた。選挙運動は、相対的に平和裡に行なわれたが、UNTACの集計によると、三月一日から五月一四日までの間に、二七件の政党関係者に対する襲撃事件が起こり、二〇人の死者・行方不明者を出した。加えて、同期間中にKRによると推定される襲撃事件が二五件発生し、KR兵士を含め七七人が死亡した(68)
 五七%の得票率もしくは二六〇万票の得票を目標としたCPPは、人民の支持を強化するために「草の根強化チーム」を設立し、その選挙運動を開始した。CPPの選挙戦略は、例えば、公務員にCPPの党員となることを強制したり、対立政党に対する攻撃をKRと闘うものであるとして正当化したり、といったものであった。選挙戦の経過とともに、CPPの政治的嫌がらせはますますエスカレートしていき、CPPの選挙集会への参加を強制したり、監視、言葉による嫌がらせを行ったり、公務員の雇用を剥奪したり、また対立政党の政党事務所への手榴弾及びロケット弾攻撃から対立政党活動家の殺害にまで及んだ。
 こうした状況の中、選挙前夜に、明石特別代表は、(選挙開催に必要とされる)真に中立的な空気がカンボジアに存在しないことを認めた(69)。これはUNTACに取って、大きな譲歩であった。ガリ事務総長は、選挙の「自由と公正さ(70)」について、「受容可能な最低限の基準(71)」を (カンボジアでは)満たしている、と発言し、国内の安全状況が不安定な中(72)での選挙実施を支持した。この「受容可能な最低限の基準」とは具体的に言うと、「秘密投票が保障されている」ということであった。
 選挙キャンペーン終了後一週間の冷却期間を置いて、五月二三〜二八日に、全国一、三〇〇余りの投票所でカンボジア初の民主選挙施された。投票日前日の二二日には、シアヌークが北京から帰国し、選挙の雰囲気を盛り上げた。
 投票プロセスの間中、詐欺と不正行為を防ぐために細心の注意が払われた(73)。投票者はまず、投票を済ませたかどうかを識別するために、右手の親指に目に見えないインクを塗られた。投票者は、このインクを拭き取ろうとしないかどうかを監視人が確認している間 (三〇秒間)は、投票用紙をもらうために移動できなかった。その後、投票者は、投票用紙を受け取り、そのかわりに自分の選挙登録人カードの右隅に、重複を避けるために穴を開けられた。そしてようやく、投票者は投票ブースに進み、投票を済ませた。その際、投票が確実に行なわれ、投票用紙以外のものが投票箱に投入されないように、投票箱監視人が目を光らせていた。また、不正行為は、投票箱にシールを貼ったり、その他の手段で回避された。
 初日から有権者の出足は順調で、二五日にほとんどの固定投票所での投票が終了し、二六日から三日間は、遠隔地や危険地域に二〇〇カ所前後開設する移動投票所での投票に移った。投票率は最終的に八九・五六%に達した。KRによるとみられる投票所周辺への攻撃が、シエムレアプ、バンテアイ・ミアンチェイ、カンポート各州のごく一部で見られたが、大事には至らず、逆に、バンテアイ・ミンテェイ州のポイペトでは二四日、約二〇〇人のKR兵士が投票にやって来たことが確認された(74)
 二九日から開票が始まり、UNTACの最終集計によると、各党の得票は、FUNCINPECが、四五・三七% (五八議席)で第一党に躍り出て、以下、、CPP、三八・二三% (五一議席)、BLDP、三・八一% (一〇議席)、その他の一七の政党が一二・五六% (Moolinaka 党、一議席、自由のための Nakataorsou Khmere、一議席)となった(75)。CPPは一一の州でトップとなり、FUNCINPECは一〇の州でトップを取った。
 この高い投票率は、以下のように説明される(76)。すなわち、
(1) 有権者がSOC政府にもKRにも飽き飽きしていたこと、
(2) 有権者に対する啓蒙キャンペーンの成功、
(3) 選挙に対する目新しさと興奮、
(4) シアヌークの帰国と平和的な環境に対する呼びかけ、
(5) 国際社会の選挙プロセスへの確固たる支援、
(6) カンボジア人の勇気、献身、熱意、
である。
 選挙で、FUNCINPECが勝利した理由は様々考えられるが、一つには、ラナリット党首の父、シアヌークの人気が挙げられる(77)。彼はカンボジアの「黄金時代」の象徴であって、カンボジア人の中には、シアヌークが問題の解決となるとの信念があった。二点目としてあげられるのは、カンボジア人が現状維持を望まなかったという点である(78)。が、逆に、フン = センらを否定したことにもならず、両者による民族和解が望ましい、というのがこの選挙結果となって現れている。
 選挙が成功した要因は、(1)UNTACが自由で公正な選挙の実施に腐心したこと、(2)カンボジア人民の平和への希求、(3)シアヌークの際立ったバランス感覚(79)、に加え、(4)KRが妨害活動を行わなかったこと(80)、(5)UNTAC放送局の設置等に見られる選挙部門の貢献などが挙げられる(81)
 秘密投票が保障されたことと並んで、UNTACが選挙の実施を直接管理したことは、危機に瀕していた和平プロセスを救うこととなったが、最後に選挙部門に残された技術面での教訓として、十分な技術備品の入手の確保が、今後の同様の活動に望まれることを指摘しておく。

 E 人権部門:要員 当初、一〇名の専門スタッフ
後に、ボランティアでプノンペンに一五名の専門スタッフ及びその他の地方に二一名の専門スタッフと二一名のクメール語を話せるアシスタント
 人権部門の任務はPKO史上、最も広範なものであって、以下の通りである(82)

(1) 人権概念の教育。
(2) 各派がいかにして基本的な自由を侵害したかを監視。
(3) 移行期間中に起こった人権侵害の申し立ての調査。
 人権部門のあげた成果として、九二年四月にSNCは世界人権規約をはじめとした人権に関するいくつかの国際条約に調印した。次に、市民の人権教育プログラムを開発した。九二年九月までに数百人の教育官のためのトレーニング・セミナーが開催され、初等・中等学校での人権教育カリキュラムが準備され、大学レヴェルで人権コースが導入された。またこれらの活動は大衆広報キャンペーンによって補完された。同じく九月までに、人権に関しての四つのテレビとラジオの会話及び一七のラジオ広告が準備され、用いられた。さらに基本的な人権に関するリーフレットを五、〇〇〇部配付した。同時に、UNTACの他部門のスタッフに対しても人権問題の訓練を行なった(83)。そして、司法制度を整備し、刑法、裁判法の改正を行い、囚人の処遇を改善し、政治犯の釈放も実現させた。最後に、国連人権センターの出先機関である人権事務所のカンボジア支部を開設した(84)
 しかし、(1)人権問題が生じた際にそれを矯正する行動が取れなかったこと(85)、(2)人種差別的なプロパガンダのトーンを和らげる以外のことができなかったこと、(3)人権を尊重するうえでの重要な改善が行なえなかったこと(86)、(4)証人保護プログラムや判事養成コースを設立できなかったこと、(5)行政上の訓練や裁判プロセスを通じて、被告人を拘束することができなかったこと(87)、などがその任務の失敗として指摘されている。さらに、安直な囚人の釈放によって犯罪が増加したという非難も受けた(88)。この失敗の原因は、まず第一にスタッフの絶対的な不足である。第二に、他部門とのコミュニケーションがほとんどなかったことが挙げられる(89)。最後に、人権トレーニングに関する事前教育も国連要員や非国連要員のための基本的な人権に関するブリーフィングもなかったことである。この件に関しては、アドホックな人権ブリーフィングセッションがあったのみで、不十分であった(90)
 また期間中続発したヴェトナム系住民の虐殺問題に直面して、UNTACは、「ヴェトナム系住民の問題はパリ協定に含まれていない(91)」としてその保護を拒否し、反対に「安全通過」活動を組織して、彼らの強制出国を正当化したのだった(92)
 以上の人権部門の活動から引き出される教訓は、(1)基本的な人権についての体系的な訓練が、全ての上級PKO要員に対して提供されるべきであること、(2)地元のNGOやその他のコミュニティー・グループのより活発な関与を通じて、文化的・地域的相対主義の概念がより体系的に強調されるべきであること、(3)平和構築の分野で重要な役割を果たすべき部門の文民スタッフが十分に確保されるべきであること、(4)オンブズマン型システムの確立が考慮されるべきであること、(5)現地でのPKO活動の人権活動に精通するために、また将来の活動に適切なサポートを提供するために、人材センターの活動が促進されるべきであること、(6)人権高等委員会は、将来のPKOの形成に政策レヴェルで関与すべきであり、また将来のPKOに必要な熟練要員のリザーブにアクセスできるようにすべきであること(93)、である。

 F 帰還部門:要員 一二七名の専門・顧問・一般スタッフ
 帰還部門の任務は、三五〜三七万人の難民と一七万人の国内避難民の帰還と再定住に関わるものである(94)
 帰還部門はその任務遂行に際して、まず、四つのゴールを掲げた(95)。すなわち、

(1) タイにいる全ての難民に対して、帰還の時期、方法、最終目的地を自由に選択できることを保障する、
(2) 帰還民の輸送の組織、受け入れセンターの設置、定住地域の安全の確保、
(3) KR支配地域への難民の帰還の保障及び保護
(4) SOC支配地域への帰還民に対する嫌がらせの防止、
である。
 九二年二月一九日に提出された事務総長の難民帰還計画によると(96)、(1)難民と国内避難民の帰還は九カ月間で行なう、(2)入手可能な農地を明確にし、難民のための再定住支援と食糧は一年間、もしくは必要とあらば一八カ月間供給される、(3)自力で帰還した者 (後に三万人がUNTACのプログラム外の方法で帰還)に対する再定住支援と食糧は一二カ月間供給される、(4)クイック・インパクト・プロジェクトを通じて、帰還民には再統合支援と基本的なサービス (ヘルスケア、教育、銀行業務、電気通信等)の改善が供給される、(5)国連開発プログラム (UNDP)は、UNTACの難民帰還のための予算とは独立した財源を通じて、インフラの整備に従事する、と難民帰還に際して必要な措置が定められた。
 この計画のもと、難民はまず、各キャンプからタイの中継地点へ移動し、そこで最終的な登録を済ませ、バスや列車に搭乗し、次に、国境を越え、国内の受け入れセンター (六カ所、一〇、七〇〇人収容)へ行き、そこで一週間滞在した後、最後にトラックで最終目的地まで移動した。難民の帰還は、当初はスローペースであったが、UNHCRが帰還作業の遅れに対する懸念を表明した (九二年五月)後、加速した。九三年一月末までに七つあるタイ国境キャンプのうち五つが閉鎖し、四月までに、難民の九六%が帰還した(97)。また、難民の九〇%以上がSOC支配地域へ帰還した(98)。KRは難民の帰還を妨害しなかった。
 帰還民が帰還の際に選べるオプションについては、途中様々な変更が加えられたので、少し詳しく見ておこう。当初、一家族につき二ヘクタールの土地、定住地の選択の自由、独身女性に対する住居建設の補助、家財道具、食糧供給、その他の短期支援の補助、などが取決められていたのだが、九二年五月になって、地雷のない、適当な土地が入手不可能であることから政策転換を余儀なくされ、農地、世帯区画、住宅物資のキット、農具、四〇〇日間 (プノンペン地域では二〇〇日間)の食糧、補助金、工具、UNTACへの雇用、へと修正された。その後、これらのオプションはさらに細分化され、以下のようになった(99)。すなわち、
オプションA(農業):輸送、農地 (一世帯当たり二ヘクタール)、住居建築用木材、拭きワラ及び竹を購入するための二五米ドル、住居・農業キット、四〇〇日間の食糧。
オプションB(住宅建設):輸送、住居用の区画地、住宅建設用木材、拭きワラ及び竹を購入するための二五米ドル、住居・農業キット、四〇〇日間の食糧。
オプションC(現金支給):輸送、再定住資金 (大人一人当たり五〇米ドル、一二歳以下の子ども一人当たり二五米ドル)、住居・農業キット、四〇〇日間の食糧 (プノンペン地域では二〇〇日間)。
オプションD(特殊工具):輸送、工具キット、住宅キット (水の容器を含む)、四〇〇日間の食糧。
オプションE(UNTACでの雇用):雇用地に最も近い受け入れセンターへの家族同伴の移動、再定住資金 (大人一人当たり五〇米ドル、一二歳以下の子ども一人当たり二五米ドル)、四〇〇日間の食糧 (プノンペン地域では二〇〇日間)。
オプションF(家族の再会):家長が定住しているところに最も近い配給地への移動、再定住資金 (大人一人当たり五〇米ドル、一二歳以下の子ども一人当たり二五米ドル)、四〇〇日間の食糧 (プノンペン地域では二〇〇日間)。
自発的帰還者:四〇〇日間の食糧 (プノンペン地域では二〇〇日間)。
タイ以外の国からの帰還者:四〇〇日間の食糧 (プノンペン地域では二〇〇日間)。
 UNCHRの九二年一〇月のデータによれば、七〇%以上の帰還民がオプションC (現金支給)を選択している(100)
 帰還民の多くがタイ国境付近の地域に戻りたがった(101)が、そこでは十分な土地が確保できなかった。帰還政策の変更は、土地を受け取れないことに怒った難民の、タイ難民キャンプでの抗議運動を引き起こした。さらに、九二年九月までに、UNTACとUNCHRが、難民を再定住させているのではなく、単にカンボジアへ送り返しているだけである、という批判が帰還民からも難民事務官からも起こった(102)
 難民を無事に帰還させた後にも、様々な問題が生じた。帰還難民の精神的な問題がその一つで、難民の大半が、キャンプに来て以来、経済活動に従事していなかったことと外国からの「援助漬け」の生活から、「依存シンドローム」と呼ばれる現象が帰還民の多くの者に見られた。この帰還難民の精神的な問題は、彼らの生活の全ての分野で強烈な影響を及ぼし、彼ら自身とその社会にとっての真の脅威となるであろう(103)。帰還民が直面したもう一つの問題は、(キャンプ地における)都市生活環境へのシフトという問題であった(104)。難民キャンプに来るまで、難民の多くは農民であったが、キャンプでの生活の中で、彼らの生活は、(以前のように)農民として生計を立てるそれから、都市住民となるためのそれへと変わった。そして、カンボジアへの帰還に伴って、農業に従事する生活スタイルへの回帰を余儀なくされたのであった。それは、田畑や牛、森などを見たことがないものがほとんどであるという一五歳以下の子どもが四七%を占める難民にとって、容易なことではなかった。さらに、帰還民が戻った村では、援助をもらえる帰還民と生きていくのが精一杯という村人との間の社会的緊張が強まっていった(105)。最後に、カンボジア全土に数多く残った地雷は、彼ら帰還民のみならず、カンボジア国民の新しい生活にとっての、大きな障害となった。UNTACが地雷除去作業を軽視したことはまた、難民帰還作業に支障をきたす結果となった。
 にもかかわらず、選挙部門と並んで帰還部門のプログラムが成功した要因は、(1)カンボジア全四派からのサポート、(2)UNHCRのカンボジアでの長い経験と信頼感及びUNTACからの独立、(3)独立した財源の確保、(4)UNTACの他部門及びNGO諸団体との密接な関係、(5)帰還部門の中立性、(6)再建のためのクイック・インパクト・プロジェクト (QIPs)の使用(106)、(7)カンボジア人自身の態度、(8)シアヌークの存在(107)、(9)UNTACの他の任務からの物理的・行政的分離(108)、(10)帰還プロセスの非政治化(109)、などが指摘できよう。

 G 復興部門:要員 三〇〜五〇名の専門スタッフ
 復興部門の任務は、カンボジアの経済復興の支援である(110)。UNTACの復興支援活動は、「(UNTACは)短期間のアシスタンスにすぎず、国の再建は選挙で新しく樹立される政府の責任(111)」であるという哲学に支えられたものであった。
 事務総長の実施計画では、緊急ニーズが、(1)人道的援助 (食糧、衛生、住宅等)、(2)難民及び難民が帰還する村の住民に対する再定住支援、(3)インフラの整備とサービス部門、の三つのタイプに分類された(112)。また、資金は四派それぞれに行きわたるようにする、というのが援助の原則であったが、国連スタッフが、自由に移動できることが保障されるという留保条件が付けられていた。また、基本的なニーズを充足することが民主主義の推進力になるという前提の下で、復興プログラムが画策された。
 九二年五月の事務総長アピールによれば、カンボジアの復興には巨額の資金が必要であった(113)。が、援助国の出足は鈍く、六月に開かれた「カンボジアの復旧・復興に関する東京会議」において、ようやく八億八、〇〇〇万米ドルの支援を約束するに至った(114)。しかし、援助の大半は難民の再定住プログラムと大規模なプロジェクトに利用され、村々には届かず、またプノンペン及びその周辺に集中したというのが、その実態である。加えて、プノンペンのサービス部門へ投資が集中し、選挙後、開発のパターンを維持することの困難さが懸念されている。
 経済援助とは別建てで実施されたクイック・インパクト・プロジェクトは難民向けで、国連開発プログラムと各NGO、UNHCRからの財源を元にしたものであった。これはまた、労働集約型の援助で、難民の雇用源となり、難民の再統合を促進し、地元経済にキャッシュを注ぎ込むことによって、UNTACに対する村民の支援を集めることになった。具体的には、道路、橋、病院、診療所、学校、公衆便所等の修復と建設、井戸や池の採掘や、野菜の種、漁業用用具、蚊帳、水桶の配付といったスタート・アップ・ローンなどが行なわれ、九三年一月末までに、三四〇万米ドルが使われた。さらに、同年六月までに、UNHCRは二一全ての州で計一八のプロジェクトに融資した(115)。カンボジア村民の生活への実体的な経済効果とカンボジア人民に国連と国際社会が彼らに注意を払っているという意識を植え付けたことが、このクイック・インパクト.プロジェクトの与えた主たる効果であった(116)
 復興部門の成果としては、(1)援助金の流れの監視、(2)通貨管理に関する財政上の重要な改革の導入 (文民行政部門と共同で行なう)、(3)カンボジア再建のための土台作りーー計画の発展、優先事項の決定、(UNTAC期及び新政府樹立後の)国際支援を調整するためのメカニズムの確立、カンボジア再建に関する援助提供国の関心の保持(117)ーー、などが挙げられる。
 しかし、その任務の目的は、達成されず、再建プロジェクトに関してみても、UNTACの活動開始から半年経っても、再建プロジェクトのいずれもが実行されなかった(118)。また、停戦、武装解除の失敗から、主要な援助供給国が資金を回収し始めた。この失敗の要因はいくつか指摘できるが、第一に、再建プロジェクトに関するUNTACの役割がそれであって、再建プロジェクトの調整に対する責任はあるが、プロジェクトそのものを始めたり、画策したりする任務がUNTACにはなかったのである(119)。第二に、復興部門には任務遂行能力がなかったことが挙げられる(120)。復興部門は、単に、国際社会がカンボジアの経済を支援するための土台を整えるだけであって、再建の成否は援助提供国をはじめとした国際社会の責任であったのである。また、和平プロセス内で、復興活動に優先権が与えられなかったことが第三の点である(121)。第四点目として、援助提供国から万全の協力が得られなかったことが指摘できる。プロジェクトは、二国間援助のものが多く、また援助提供国の利害を考慮した形のものであった(122)。次いで、中立性の欠如が第五点目として指摘できる(123)。援助金が公正に分配されるようにしようとしたにもかかわらず、外国からの投資を管理することも、援助提供国がその支持グループを支援する形での援助を防ぐこともできなかった。六番目は、KRがSNCにおいて、再建プロジェクトの認可に反対したことである(124)。七点目は、カンボジアに技術訓練を受けた経済プランナー、地元NGOや草の根組織が不在であったことである(125)。最後に第八点目として、開発援助分野における本質的に政治的な性格が指摘できる(126)

 H 広報・教育ユニット:要員 四五名の国際スタッフ
一〇〇名のカンボジア人スタッフ
 広報・教育ユニットの任務は以下の通りである(127)。すなわち、

(1) カンボジア人にパリ協定の性格及びUNTACの役割、目的、活動について情報を与えること、
(2) 有権者教育を拡大するために必要な物資や放送機材を提供すること、
(3) 情報分野の直接管理、
(4) 政党の綱領やメッセージを放送するための資源やプログラムの供給、
(5) カンボジア人民のUNTACの任務についての理解を通じて、UNTACの信頼性を確立し維持すること、
(6) パリ協定の人権に関する条項を折り込んだビデオ、ポスター、リーフレット、旗などを作ることによって、人権部門の啓蒙活動を補完すること、
(7) 「メディア・ガイドライン」(九二年一〇月、全てのカンボジア政党が公正にメディアへのアクセス権が与えられることを目的として作られる)を設立して、文民行政部門の監視任務を補完すること、
である。
 事務総長による実施計画で、大規模な広報及び教育キャンペーンの重要性が認識され、中央集権的な広報部隊が必要である、という認識から設置されたこのユニットであったが、実際には、後方支援及び翻訳者の不足から、キャンペーンの展開は大幅に遅れた。その一方で、文民行政部門の管轄の下に、情報管理ユニットが開設され、メディアと地方での情報活動を監督し、またこのユニットによって、「メディア・ガイドライン」の設立が準備された(128)。九二年一一月九日には、UNTAC放送局が開設され、電波の届く範囲が狭く、タイ外務省とVOA (Voice of America)との調整が必要となったにもかかわらず、日本のNGOと政党がトランジスタラジオを全国的に集める運動を展開したこともあって、毎日一五時間にわたるUNTAC放送は、漫才をまじえた啓蒙番組や客観報道番組によって、カンボジアで聴取率第一位の人気放送局となり(129)、その果たした役割は非常に重要であった。
 この広報・教育ユニットが挙げた成果は、(1)カンボジア人に選挙の意義と重要性について直接コミュニケートしたこと、(2)カンボジア人に選挙が秘密投票で実施されることを納得させたこと、であるが、果たした役割の割に、その成功が評価されていない部門である(130)
 このユニットの活動から明かとなったことは、PKO活動を行なう際に、PKOはメディアに対して常にオープンでなくてはならないということで、PKO要員に対して、その点に関する訓練が必要であるということである(131)。また、その際に、国連のスポークスマンが果たす役割の重要性も認識されるべきである(132)
 本章では、UNTACの七部門の活動に主眼を置いて、各部門の活動の総括を試みた。そこで、次章では、UNTAC活動を全体として総括し、評価しながら、このPKO活動の成否の両面を、その決定要素と合わせて、眺めていこうと考える。

(1) @「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」とその付属文書、Aカンボジアの主権、独立、中立などに関する協定、Bカンボジアの再建復興に関する宣言、Cパリ国際会議の経過と人権重視を謳った国際会議最終文書、の四文書で、調印後直ちに発効した。また、パリ協定の調印国は、カンボジアの四派、オーストラリア、ブルネイ、カナダ、中国、フランス、インド、インドネシア、日本、ラオス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ソ連、イギリス、アメリカ、ヴェトナム、ユーゴスラビアの一八カ国と国連事務総長である。
(2) 福田菊、国連とPKO ーー戦わざる軍隊のすべて、第二版、東信堂、一九九四、一七七頁。
(3) United Nations, S/23097, et additif, S/23097/Add. 1, 30 sept. 1991.
(4) United Nations, S/23218, 14 nov. 1991.
(5) 軍事要員派遣国の内訳は以下の通り。アルジェリア、アルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、バングラディシュ、ベルギー、カナダ、中国、フランス、ドイツ、ガーナ、インド、インドネシア、アイルランド、マレーシア、オランダ、ニュージーランド、パキスタン、ポーランド、ロシア、セネガル、タイ、チュニジア、イギリス、ウルグアイ、アメリカ合衆国。
(6) Janet E. Heininger, Peacekeeping in Transition : The United Nations in Cambodia, THE TWENTIETH CENTURY FUND PRESS. N.Y. 1994, p. 31.
(7) Trevor Findlay, Cambodia : The Legacy and Lessons of UNTAC (SIPRI (Stockholm International Peace Research Institute) Research Report No. 9), OXFORD UNIVERSITY PRESS, Oxford, 1995, p. 26.
(8) United Nations, A/46/608-S/23177, 30 oct. 1991.
(9) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v 1992.
(10) ブトロス = ガリ国連事務総長によれば、「第二世代」のPKOはその任務に、「紛争当事者の武装解除、秩序の回復、武器の管理と可能であれば破棄、難民の帰還、保安要員のための顧問と訓練サポート、選挙の監視、人権保護、政府機構の改革あるいは強化及び政治参加のための公式・非公式のプロセスの促進が含まれるであろう」とされている。(Boutros Boutros-Ghali “An Agenda for Peace" United Nations, A/47/277-S/24111)
(11) Findlay, op. cit., p. 157.
 PKO活動としての性格付けについては、意見が分かれるところであり、「第二世代のPKO」であるとするガリ事務総長や同じく「平和構築活動」(Micheal W. Doyle, UN Peacekeeping in Cambodia : UNTAC's Civil Mandate, Lynne Rienner Publishers, Boulder, Colo., 1995, p. 26.)でありまた「複合的多面的PKOの第三ヴァージョン」(Micheal W. Doyle and Nishkala Suntharlaingam, The UN in Cambodia : Lessons for Complex Peacekeeping, International Peacekeeping, Vol. 1, No. 2, Summer 1994 p. 142)であるとするM・ドイルから、「国連憲章六章3/4の活動」(Heininger, op. cit., p. 67)であるとするJ・ヘイニンジャーなど、見解は一致していない。
(12) が、その一方で、ニューヨークの国連本部が行政管理を掌握し、九三年初頭まで分権化されなかったことが、活動のスムーズな展開を阻害したのも事実である。
(13) 軍事部門の構成は、一二の歩兵大隊 (一一カ国から派遣)、国連停戦監視団 (メコン河管理用の海軍部隊を含む)、エンジニア部隊、通信班、航空班 (一〇のエアクラフトと二六のヘリコプター)、地雷処理訓練班、医療班、後方支援班、四八五人の軍事顧問、軍事警察、工兵大隊から成る。
(14) 軍事部門派遣国の内訳は以下の通りである。アルジェリア、アルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、バングラディシュ、ベルギー、ブルガリア、カメルーン、カナダ、チリ、フランス、ドイツ、ガーナ、インド、インドネシア、アイルランド、日本、マレーシア、オランダ、
ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、ポーランド、中国、ロシア、セネガル、タイ、チュニジア、イギリス、アメリカ合衆国、ウルグアイ。
(15) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.
(16) 九一年一一月末に、キュー・サムファンKR代表が、SNCの会合のためにプノンペン入りした際に、集まった群衆から暴行を受けるという事件が起こった。KRは、この事件をUNTACの無力さに起因するものとして、これを非難した。この時、彼を保護するために、UNTACが素早くかつ適切な行動を取っていたならば、KRによる最初の停戦違反は回避できたかもしれない、とペオウ氏は分析している。(Sorpong Peou, Con■ict Neutralization in the Cambodia War : From Battle■eld to Ballot-box, Oxford University Press, Kuala Lumpur, Singapore, 1997, p. 183.)
(17) 各派の七〇%の兵力の内訳は、SOCが一三一、〇〇〇人、KRが二七、〇〇〇人、KPNLFが二七、八〇〇人、FUNCINPECが一七、五〇〇人であった。
(18) Yasushi Akashi, The Challenges Faced by UNTAC, Japan Review of International Affaires, Summer 1993, p. 196.
(19) Mats Berdal and Micheal Leifer, Cambodia, The new interventionism 1991-1994 : United Nations experience in Cambodia, former Yugoslavia and Somalia, James Mayall (Ed.), CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, Cambridge, 1996, p. 43.
 なお、KRの武装解除拒否の理由として、この二点に加えて、SNCに実効的な支配力がない点も挙げている (Doyle, op. cit., pp. 34-35.)。
(20) 明石康、忍耐と希望ーーカンボジアの五六〇日、朝日新聞社、一九九五年、五四頁。
(21) Findlay, op. cit., pp. 49-51.
 ポト派は九一年一〇月二三日のパリ和平協定調印直後の九二年一月に開いた最高指導部会議で、六月からの停戦第二段階 (武装・動員解除)入りの拒否を決定するとともに、支配地域での宝石、木材取引を資金源に武力で勢力を拡大し、プノンペン政権打倒後、シアヌーク殿下を国家主席に擁立して、再びポト派政権を樹立する戦略を確立していたことが明らかになった (近藤順夫、カンボジアPKO:ゆれ動いた三七二日、日本評論社、一九九四年、八三頁)。
(22) 明石、前掲書、四七頁。
(23) これは、ポト派の主張の中に妥当な部分があれば認めてもよいとの考えに立ち、ポト派に近いタイの立場も顧慮したものだった(明石、同上書、五三ー五四頁)。
(24) 《Cambodge : Mesures a` prendre》, document australien date´ du 16 se´ptembre 1992. Document 44, Les Nations Unies et le Cambodge, 1991-1995, Les Nations Unies De´partement de l'information, N. Y. 1995. pp. 213-215.
(25) Lettre date´e´ du 29 se´ptembre 1992, adresse´e´ au Secre´taire ge´ne´ral par M. Khieu Samphan, membre du Conseil National Supreme qui se re´fe`re au document australien intitule´ 《Cambodge : Mesures a` prendre》. Document 47, Les Nations Unies, Ibid., pp. 227-229.
(26) フランスのジャン・レトビ・アジア局長から提起された妥協案は、KRが入ると入らないとに関わらず和平の日程はきちんと進めていくと同時に、日本とタイにもう一度調停の労を取ってもらい、それが不毛に終わった場合には、共同議長国と安保理が何か具体的な方策を打ち出す、といったように段階的に事を進めることであった (明石、前掲書、五二頁)。
(27) United Nations, S/RES/783 (13 oct. 1992). 同時に、予定どおりの日程で選挙を行うことも決定している。
(28) United Nations, S/RES/792 (30 nov. 1992). この決議に際し、中国は棄権している。
(29) しかし、タイ文民政府は、軍部との関係からバランスを保つことが必要であったため、この禁輸措置に非協力的であった。
(30) 明石、前掲書、一三五頁。
(31) Peou, op. cit., p. 228.
(32) Cambodian Times 31 Oct.-7 Nov. 1993, p. 3.
(33) その弱さを如実に露呈したのは、インドネシアとウルグアイの部隊で、インドネシア部隊は、一三人の兵がKRによってその武器を取り上げられ、KRの州本部で五日間人質となった。
(34) Berdal and Leifer, op. cit., p. 52.
(35) Nassrine Azimi (Ed.), The United Nations Transitional Authority in Cambodia (UNTAC): Debrie■ng and Lessons −Report and Recommendations of the International Conference Singapore, August 1994 (The Institue of Policy Studies of Singapore and The United Nations Institue for Training and Research), Kluwer Law International, London, 1995, p. 12.
(36) Berdal and Leifer, op. cit., p. 47.
(37) Azimi, op. cit., p. 12.
(38) 文民行政部門の構成は以下の通りである。すなわち、外交サービス、防衛サービス、公安サービス、財政サービス、情報管理部門、特別管理サービス、不服申し立て及び調査サービス。それに加えて、州調整事務所の下、二一の州事務所さらにその下に管理チームが設置された。
(39) United Nations, A/46/608-S/23177, 30 oct. 1991.
(40) しかし、SOCがカンボジアの約九〇%を実効支配しているという事実から、国連の直接管理は事実上、SOCの行政機関をターゲットにしたものとなった。
(41) United Nations, A/46/608-S/23177, 30 oct. 1991.
(42) Heininger, op. cit., pp. 83-84.
(43) Ibid., p. 84.
(44) Doyle, op. cit., p. 37.
(45) Heininger, op. cit., pp. 88-90.
(46) Doyle, op. cit., p. 44.
(47) パリ協定で想定されていた文民行政部門の活動を行なうためには、二〇〇名以上の国際スタッフが必要であった (Peou, op. cit., p. 197.)。
(48) Doyle, op. cit., p. 42.
(49) Ibid., p. 45.
(50) Azimi, op. cit., pp. 22-23.
(51) Doyle, op. cit., pp. 47-48.
 しかし、任務が大きすぎて、一部失敗した部分もある。
(52) Heininger, op. cit., pp. 81-82.
(53) 明石特別代表は、「刑罰は国家の責任にあるものであって、国連はそれを促進したりあるいは助長することはできても、(国家に)取って代わることはできない」と信じていた (Findlay, op. cit., p. 65.)。
(54) 最も強固に反対したのは、文民行政部門で、「(逮捕権は)UNTACの任務外である」と主張した。国連PKO史上初めて、文民警察に逮捕権が与えられたことは、非強制の原則からの離脱を潜在的に意味している (Berdal and Leifer, op. cit., p. 45.)。
(55) 逮捕権が与えられた後も、この権力の行使は上手く機能しなかった (Peou, op. cit., p. 224.)。
(56) Berdal and Leifer, op. cit., p. 44.
(57) Doyle, op. cit., p. 48.
(58) Azimi, op. cit., p. 19.
(59) Ibid., p. 18.
(60) Heininger, op. cit., p. 80.
(61) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.
(62) Peou, op. cit., p. 211.
(63) 選挙規約はUNTACによって、九月一二日に発布されたが、四派全派からの同意を得られることはなかった。
(64) Les Nations Unies, op. cit., p. 32.
(65) 明石、前掲書、五六頁。
(66) Heininger, op. cit., p. 105.
(67) 明石、前掲書、七九頁。
(68) 同上書、九四頁。
(69) Heininger, op. cit., p. 112.
(70) 明石特別代表によると、選挙が自由で公正であることを判断するのは、(1)投票の技術的な管理、(2)選挙戦が暴力、威嚇、嫌がらせによって損なわれない程度、(3)政党がその政治目的のために国家機関を用いることや、野党が公共メディアへのアクセスを拒否されることによって不利益を被らない程度、の三点であるが、二点目と三点目については満たされていなかった (Doyle and Suntharaligam, op. cit., p. 135.)。
(71) United Nations, S/25124, Troisie`me rapport du Secre´taire ge´ne´ral sur l'APRONUC, 25 jan. 1993.
(72) 九三年四月八日、日本人国連ボランティアの中田厚仁さんの殺害で、ついにUNTAC要員からも犠牲者が出た。
(73) Peou, op. cit., p, 212.
(74) 明石、前掲書、九三頁。
(75) United Nations, S/25913, Rapport du Secre´taire ge´ne´ral sur le de´roulement et le re´sultat des e´lections au Cambodge, 10 juin. 1993.
(76) Findlay, op. cit., pp. 86-87.
(77) David Roberts, Democratic Kampuchea ?, The Paci■c Review, Vol. 7. No. 1. p. 107.
(78) Heininger, op. cit., p. 113.
(79) 明石特別代表の評価による (Heininger, Ibid., p. 38.)。
(80) 実際、選挙の成功は、カンボジア国内の投票期間中の治安状況が予想されていたよりも安定していたことに拠るところが大きい。
(81) Berdal and Leifer, op. cit., p. 54.
(82) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.
(83) Heininger, op. cit., p. 94.
(84) Ibid., p. 99.
(85) Ibid., p. 96.
(86) Raoul M. Jennar, UNTAC : ‘International Triumph' in Cambodia ?, Security Dialogue, Vol. 25 (2), p. 147.
(87) Heininger, op. cit., p. 98.
(88) Eva Arnvig, Women, children and returnees, Peter Utting (Ed.), Between hope and security : The social consequances of the Cambodian peace process, United Nations Research Institute for Social Development (UNRISD), Geneva, 1994, p. 164. 及び pp. 218-220. Appendix 1, Concerns of The Border Khmer.
(89) Heininger, op. cit., p. 93.
(90) Azimi, op. cit., p. 23.
(91) Les Nations Unies, op. cit., p. 47. UNTAC高官の中には、「国内の治安問題はカンボジア人自身で解決すべきである」と考える者もいた。
(92) Jennar, op. cit., p. 148. 選挙前の数週間の期間中、およそ二万人のヴェトナム系住民がヴェトナムへ避難した (Grant Curtis, Transition to what ? Cambodia, UNTAC and Peace process, Utting (Ed.), op. cit., p. 49.)。
(93) Azimi, op. cit., pp. 23. 26-27. 及び Heininger, op. cit., p. 100.
(94) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.
(95) Azimi, op. cit., pp. 28-29.
(96) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992.
(97) Berdal and Leifer, op. cit., p. 42. なお、九三年四月末の難民帰還活動終了時での、帰還難民の内訳は以下の通りである。タイから、三六二、二〇九名。インドネシアから、一、一二九名。ヴェトナムから、六三三名。マレーシアから、二一四名。シンガポールと香港から、各一名づつ(Les Nations Unies, op. cit., p. 45.)。
(98) Berdal and Leifer, op. cit., p. 42.
(99) Vance Geiger, The return of the border Khmer : Repatriation and reintegration of refugees from the Thai-Cambodian border, Utting (Ed.), op. cit., p. 192. 及び pp. 223-224. Appndix 3, UNHCR Repatriation Options for Khmer Refugees.
(100) Geiger, op. cit., Utting (Ed.), p. 208. Table 6. 1. Repatriation options by percentage of returnees.
(101) このことは、(1)戦闘の再開に対する危惧、(2)タイ国境から近いほうが、よりはやく定住できる、という二点で説明されている(Les Nations Unies, op. cit., p. 22.)。
(102) Heininger, op. cit., p. 52.
(103) Arning, op. cit., Utting (Ed.), pp. 157-158.
(104) Ibid., p. 159.
(105) Heininger, op. cit., pp. 51-52. バッタンバン州の役人によると、「ようやく生きていけるという生活を送っている村人は、日々の生計を立てるため以上の援助をもらって戻ってきた帰還民に、憤りを感じて」いた (Henry Kamm, Return of refugees to Cambodia to take longer than planned, New York Times, April 12 1992.)。
(106) Azimi, op. cit., p. 31.
(107) Ibid., p. 29.
(108) Heininger, op. cit., p. 38.
(109) Ibid, p. 128.
(110) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.
(111) Doyle, op. cit., p. 49.
(112) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.
(113) United Nations, S/23870, 1er mai. 1992. 必要とされる資金の総額は五億九五万米ドルで、以下、詳しい内訳は、難民の帰還に一億一六万米ドル、帰還難民の再定住資金に八、二八〇万米ドル、食糧や野菜の種、農業用具に四、四八〇万米ドル、保健、安全な水、衛生に四、〇六〇万米ドル、教育と訓練に三、三六〇万米ドル、公共施設、道路、港湾、鉄道、やその他のインフラ整備資金に一億五、〇三〇万米ドル、カンボジアの経済安定のための資金に一億一、一八〇万米ドル、であった。
(114) 実際に、選挙前までに、行なわれた援助額は一億米ドルに満たなかった (Peou, op. cit., p. 195.)。
(115) Heininger, op. cit., p. 53.
(116) Ibid., p. 122.
(117) Ibid., p. 50.
(118) Ibid., p. 58.
(119) Ibid.
(120) Ibid., p. 54.
(121) Peter Utting, Introduction : Linking Peace and Rehabilitation in Cambodia, Utting (Ed.), op. cit., p. 33.
(122) Heininger, op. cit., p. 59.
(123) Ibid., p. 64.
(124) Ibid., p. 58.
(125) Doyle, op. cit., p. 51.
(126) Ibid. 例えば、FUNCINPECは、SOCに有利になると思われる世界銀行からの緊急貸し付けに反対した。
(127) United Nations, S/23613, 19 fe´v. 1992 et additif, S/23613/Add. 1, 26 fe´v. 1992.
(128) メディア・ガイドライン設立後も、SOCによるメディアの独占状態は続いた (Peou, op. cit., p. 222.)。
(129) 明石、前掲書、八二頁。当初、国連本部は開設に反対であったが、やがて支持にまわった (同上書、同頁)。
(130) Heininger, op. cit., p. 116.
(131) Azimi, op. cit., p. 41.
(132) Ibid.