立命館法学 一九九七年二号(二五二号)二六五頁(一頁)




署名活動と請願権・名誉権
署名者個人への働きかけと憲法(二・完)


市川 正人






は じ め に

 このところ、署名簿を提出された相手方が、署名簿の代表者ではなく個々の署名者に対して直接働きかけた事例が幾つか報道されており、こうした署名者個人への働きかけがどこまで許されるのかという新しい論点について検討を加えることが必要になっている。というのも、署名簿を提出された国家機関や大企業が署名者個々人に直接働きかけ論難することが無制限に認められれば、多くの市民が署名するのを躊躇してしまう可能性が高いからである。前稿では、署名簿の提出を受けた関西電力が一部の人の電話番号を調べ、署名の趣旨等を問い合わせたという事件を取り上げ、私企業 (大企業)が署名者個々人へ働きかけることがどこまで許されるかという論点を扱ったが (1) 、本稿では、羽曳野市の事件を取り上げて、国・地方公共団体による署名者個人への働きかけの許容性について検討を加えたい。
 羽曳野市の事件とは、保育園の人員削減計画があるとしてそれに反対する署名活動がなされ、約一万二千人が署名した「保育園職員削減反対 保育水準低下を許さない要望署名」が市長宛に提出されたところ、市秘書室長・保健福祉部長連名の文書「保育行政等に対する考え方について」が署名者の全世帯 (約四〇〇〇世帯)に送付された、というものである。この文書は、市の保育行政を説明すると共に、署名活動及び署名活動を行った団体を強く批判していた。そこで、署名活動を行った団体等 (市職員労働組合、保育運動連絡会、及び、署名活動を行いあるいは署名をした市民一六名)は、当該文書送付が請願権、表現の自由を侵害すると共に、名誉を毀損するものであるとして、大阪弁護士会に人権救済申立を行った (2) 。市秘書室長及び保健福祉部長は、市の執行機関である長の補助機関であるから、法的には、署名を提出された市長が署名者全世帯に対し文書を送付した、ということになる。ここでは、署名簿を提出された地方公共団体の長 (及びその補助機関)が、署名者個々人に対して直接的に働きかけることができるか、また、どこまで働きかけることができるか、が問題となっているのである。
 ところで、前稿では、関西電力の事例に関して、大要次のような見解を述べた。
 @ 署名活動 (署名を集める行為)は、他人に対して請願書・要望書・抗議文等の趣旨に賛同し署名してくれるよう働きかける活動であるから、表現の自由の保障を受ける表現活動である。また、私人・私企業への署名提出は、相手方に対して抗議や要望を表明する集団的な表現活動と解するべきであり、私人・私企業に提出する署名簿に署名する行為は、そうした集団的な表現活動への参加を意味する。
 A 署名者は、署名簿に氏名・住所を記載することによって、後に署名を提出された相手方から、個別に、署名にどのようなつもりで賛同したのかを尋ねられ、あるいは、署名による要望・抗議について反論されることがあるとは意識していない。署名者は、署名簿への氏名・住所の記載によって、集団的表現活動に参加するという限りで部分的に匿名性を放棄したにとどまり、相手方からの対応・反論は署名を提出した代表者に対してなされるものと想定している。署名者は、署名する自由が行使しにくくならないよう、原則として署名が提出された相手方 (とりわけ巨大企業)から直接働きかけられない権利を有する。また、署名活動を行う者も、その表現の自由の保障の一内容として、署名が提出された相手方 (とりわけ巨大企業)が署名者に直接働きかけないことを期待できる。
 B 表現の自由の保障内容がそのまま関西電力に対して主張できるかという問題 (私人間における人権保障の問題)がある。署名者へ直接働きかける行為は、署名の趣旨の調査であれば情報収集として、反論であれば情報提供として表現の自由の行使と捉えられる。そこで、署名を提出された私人・私企業が個々の署名者へ直接的に働きかける場合には、私人・私企業の表現の自由と、署名活動者・署名者の表現の自由とが衝突していると捉えられる。しかし、この表現の自由の衝突を調整する際には、電力会社と国との密接な関係が考慮に入れられ、個人の側の人権保障の趣旨が圧倒的に重視されると解すべきである。
 C 署名提出は、電力会社のような、国から一定地域での独占的営業を認められた巨大企業に対し市民が要望を述べ抗議をする手段として、きわめて重要であるが、他方、電力会社のような、強大な企業であると共に市民生活に不可欠なものを供給する企業が、署名者個人に働きかけることは、今後の電力会社に対する署名に大きな萎縮効果を及ぼす。他方、関西電力は、署名への適切な対応策を決めるために、署名者の署名の趣旨や原子力発電についての理解度を調査しようとしたものであると説明している。しかし、署名への適切な対応策を決定するのにこうした調査 (署名者個人に対する質問)がどれほど必要なのか疑問がある。さらに、かりにその必要性を認めても、電話による直接的な問い合わせではなくアンケートの送付などといったより衝撃度の少ない方法もあった。それゆえ、関西電力の行為は、署名活動者・署名者の人権を侵害するものであった。
 ところで、羽曳野市の事件のような、署名簿を提出された相手方が国ないし地方公共団体の機関である場合は、私人・私企業である場合と次のような相違がある。第一に、国・地方公共団体の機関への署名提出は憲法一六条が保障する請願権の行使である。第二に、国・地方公共団体の機関が憲法の人権規定によって拘束されることは疑いない。この二点の相違が、署名を提出された地方公共団体による署名者個々人への働きかけの許容性にどのように反映するかに注意しながら、以下検討を進めたい。また、羽曳野市の事件では、人権救済申立を行った署名活動団体等は名誉毀損の主張もしているので、名誉毀損が成立するかという点についても触れることにしたい。

(1) 拙稿「署名活動と表現の自由・プライバシーーー署名者個人への働きかけと憲法 (一)ーー」立命館法学二五〇号一三四一頁 (一九九七年)参照。
(2) 毎日新聞一九九六年四月二六日、産経新聞一九九六年四月二六日。本稿の以下の部分は、当該人権救済申立に関して大阪弁護士会人権擁護委員会に提出した意見書に若干の修正加筆を行ったものである。

一 地方公共団体の機関への署名の提出と請願権

 地方公共団体の機関へ提出するための署名を集める署名活動は、表現の自由の保障を受ける表現活動である。他方、地方公共団体の機関への署名の提出は憲法一六条が保障する請願権の行使である。また、地方公共団体の機関に提出するための署名簿に署名する行為は、そうした請願行為への参加を意味する。「請願」とは、国や地方公共団体の機関に対して、それぞれの職務にかかわる事項について、苦情や希望を申し立てることをいうが、「請願権」とはどのような性質の権利であり、どのような保障内容を有するのであろうか。
 学説上は、「請願の自由を妨げられず、これを提出したことを理由に差別待遇を受けるものではないという意味で、自由権としての性格が強い (3) 」とする自由権説もあったが、従来の通説は、請願権を、請願の受理という国務を要求しうる権利という国務請求権ないし受益権であると捉えていた (4) 。そこでは、請願を受けた機関が請願内容を実現する義務を負うべきではないことが強調され、受理義務だけを負うにすぎないとされた。請願法は、官公署が請願を受理し誠実に処理しなければならないと定めており (五条)、国家機関の側に請願を受理する義務と共に、請願を誠実に処理する義務を課しているのに、その点は全く位置づけられていなかった (請願法五条は、政治的義務を課す訓示規定であると解されてきた)。しかし、こうした請願を受理してもらうだけの権利と捉える請願権理解は、臣民が国王に対して「恐れながら」と請い願い出る権利として登場した請願権の沿革には適合しているが、国民主権原理に立つ日本国憲法における請願権の理解としてはあまりにも消極的なものである。そこで、当然ながら、請願権をより積極的に捉えようとする動きが強まってきている。
 まず、最近では、請願権を能動的権利あるいは政治的基本権、政治参加の権利に分類し、参政権に近い位置づけを与える学説がむしろ多数になってきている。たとえば、佐藤幸治教授は、請願権を参政権と共に能動的権利に分類した上で、「請願権は、その行使の相手方たる機関に請願を受理し誠実に処理する義務を負わせるにとどまり\\、該機関は請願内容に応じた措置をとるべき義務を負うわけではない」とする。そして、「この権利は、元来国政に民情を反映せしめようとする趣旨を有する点で、参政権として把握すべき性格の存することは否定し難い」が、「むしろそのような参政権を補充する意味合いをもっている」という (5) 。また、浦部法穂教授は、「請願権は、請願の内容について審理をし何らかの判定・回答を求める権利を含まず、ただその受理を求める権利たるにとどまる。すなわち、請願をうけた機関は、請願内容に応じた措置をとるべき義務を負うわけではなく、それを受理し『誠実に処理』する (請願五条)義務を負うにとどまる」として、誠実処理義務を認めている。そして、「今日における請願権は、選挙以外の場で国民の意思を国政に反映させる一つの手段として、参政権的な機能を有する」が、「国家意思の決定に参与する権利そのものではないから、典型的な参政権とはいえず\\いわば、補充的参政権\\とでも言うべきものであろう」と述べている (6)
 さらに、請願権を参政権そのものと捉える見解も有力に提唱されている。たとえば、渡辺久丸教授は、請願権を、受益権的性格から、参政権として、「国民主権を基盤にするがゆえに、自由権的性格と国務要求権的性格をより高い次元で統一的に内含し、単に請願の受理を要求する権利たるに止まらず、審査、さらにはその結果の回答 (理由つきの)を要求する権利」へと性格を変えたものとして捉えるべきであると主張している (7) 。また、吉田栄司教授も、請願権を明確に参政権と位置づけることを主張し、「選挙によって国政を信託した国民が、日常的にその意思を国政担当者とりわけ代表議員に伝達し、その責任を追及する手段として再評価されなければならない (8) 」としている。そして、誠実処理義務には内容審査義務だけでなく、審査の結果 (処理結果)を請願者に通知する義務も含まれるとし、「最低限度の要請として、国民代表機関であり国権の最高機関である国会への請願、地方公共団体にあってはその議会への請願について、少なくとも一人の議員を選出しうる人数\\の署名をともなう請願については、審査結果等を公報等によって公示させ、少なくとも筆頭署名者に対してそれを通知する義務が構成されてしかるべき」であるとする (9)
 以上、学説状況をやや詳しく見てきたが、最近の学説においては、請願権が、参政権か参政権的権利かはともかく、国民の政治参加のための重要な権利として位置づけられていること、請願を受けた機関は請願を抑圧しない義務、請願の受理義務を負うだけでなく、誠実処理義務をも負うと構成されていることが確認できた。以上を踏まえて請願権の権利内容を確認しておきたい。まず第一に、請願権は、請願をすることを妨げられず、請願をしたことによって処罰されたり不利益を課されたり、その他差別を受けない権利である (自由権的側面)。第二に、国家機関 (地方公共団体の機関を含む。以下同じ)は請願を受理する義務を負う。さらに、第三に、請願を受理した国家機関は、請願内容を実現しなければならないわけではないが、請願を誠実に処理する義務を負う。請願権は単に国家機関に対して、希望の陳述を受理してもらうだけでなく、その誠実処理を求める権利と解される。請願を受理した機関が請願を誠実に処理するとは、まず、請願の内容を審査することを意味する (内容審査義務)。当該機関は、必ず請願内容に応じた措置をとらなければならないわけではないが、請願を受理すれば、請願内容を誠実に検討しなければならない。さらに、参政権説に立つ論者が主張するように、誠実処理義務には審査の結果 (処理結果)を請願者に通知する義務も含まれると解する余地もある (10) 。審査の結果を知ることなくしては、請願をした国民は、国家機関に対して責任を追及することができないのであるから、このような解釈は、請願権の参政権的な機能を重視し、「選挙権以外の国民による日常的統制手段 (11) 」として位置づけた場合の自然な帰結であろう。
 それゆえ、憲法上の請願権には、請願内容の審査の結果を通知される権利が含まれるとする解釈や、請願法五条の誠実処理義務は審査結果通知義務を含むとする解釈は十分合理的であると思われる。あるいは、そのような解釈をとらず、請願を受理した機関が、請願内容を審査しその結果を請願者に通知することは、憲法や請願法の直接的要請ではないとしても、請願権保障を実質化するものと評価できよう (12) 。しかしながら、請願権の保障をより実効的なものにしようとして国家機関が結果の通知を行い、その結果、将来の請願行為がしにくくなるとすれば、それは背理である。国家機関の側の通知は、将来の請願行為を萎縮させるようなものであってはならないはずである。
 ところで、請願は、請願者の氏名・住所を記載し、文書で行わねばならないが (請願法二条)、要望内容に賛同した市民が氏名・住所を記載した署名簿を提出する形でなされるのが通常である。こうした署名簿提出による請願は、国家機関・地方公共団体の機関に対して、これだけ多数の市民が要望しているということを示すことによって、要望内容の実現を迫ろうとするものである。この場合、署名簿に署名した者は、署名簿に書かれている要望に基本的に賛同して、集団的請願行為に加わるということを明らかにする趣旨で氏名・住所を記載しているにすぎない。署名者は、署名を提出された機関からの働きかけは代表者に対してなされるものと想定しており、後に署名を提出された機関から、個別に、署名にどのようなつもりで賛同したのかを尋ねられ、あるいは、署名による要望について反論されることがあるとは意識していない。にもかかわらず、署名を受理した機関による署名者個人への働きかけがなされれば、たいていの署名者は迷惑に思うであろうし、国家機関・地方公共団体の機関の有する権力・権限を意識して畏怖してしまう署名者もいるであろう。署名してくれるよう求められた者は、署名を提出された機関から個別に働きかけられるかもしれないと考えれば、署名の趣旨に賛同していても署名するのに躊躇してしまう可能性が高いであろう。国や地方公共団体の機関と個人で渡り合う覚悟がなければ請願署名への署名はできないというのであれば、署名提出による集団的請願という請願方法の意義は大きく損なわれることになる。それゆえ、署名者は、請願権保障の一内容として、原則として、請願を受けた機関から個別的に働きかけを受けないことを期待できると解すべきである。
 また、表現の自由は、将来の表現活動が妨げられないことに対する保障をも含むと解すべきであるから (13) 、署名活動を行う者は、将来の署名活動が妨げられない権利をもつ。しかるに、署名を提出された機関による署名者への個別的な働きかけによって、署名活動を行った者の将来の署名活動が妨げられるおそれがあることは確かであるから、署名活動を行った者は、原則として署名を提出された機関が署名者に直接働きかけないことを期待できると思われる。
 もっとも、署名を受理した機関による署名者個人への働きかけといっても、さまざまなものがある。審査結果を署名者全員に文書で通知することは、署名者個々人に電話をかけ署名した趣旨を尋ね論難するというようなことに比べて、署名者の今後の署名を萎縮させる効果は小さいであろう。しかし、全署名者への文書の通知であっても、文書を受け取った署名者は、国家機関が自分が署名者であることを明確に把握していると意識するであろう。国家機関が、「一〇〇〇名の市民がこの要望をしている」と署名者を全体として捉えているのではなく、「誰がこの要望に賛成したのか」を個別的に把握していると意識されれば、将来の署名に若干の萎縮効果が生ずることは確かである。この点で、地方公共団体が広報で全市民に署名に対する見解を明らかにすることと、署名者個人へ文書を送付し通知することとは、区別されねばならない。それゆえ、請願を受けた機関による審査結果の通知は、原則として署名者の代表者に対してか、広報・公報によって全市民に対してなされるべきであろう。また、審査結果の全署名者への通知文書の内容が露骨に請願署名を敵視し非難するようなものであれば、署名者の今後の署名を萎縮させる効果は大きいであろう。それゆえ、例外的に署名者全員への文書による審査結果の通知がなされる場合であっても、送付される文書の内容が今後の署名による請願を不必要に萎縮させるものでないよう十分配慮されたものでなければならないであろう。

(3) 田口精一「請願権」田上穣治編『憲法の論点』九四頁 (法学書院、一九六五年)(但し、続けて、「請願権の本質は、公的機関に対して請願の受理を義務づけるところにある」とも述べている)。
(4) 法学協会『註解日本国憲法 上巻』三七五頁以下 (有斐閣、一九五三年)、佐藤功『日本国憲法概説 全訂第四版』二七三頁 (学陽書房、一九九一年)、伊藤正己『憲法 第三版』三九七頁以下 (弘文堂、一九九五年)等参照。
(5) 佐藤幸治『憲法[第三版]』六三九ー六四〇頁 (青林書院、一九九五年)(傍線は引用者)。
(6) 樋口陽一ほか『注釈日本国憲法 上巻』三五九ー三六〇頁 (青林書院、一九八四年)(浦部執筆。傍線は引用者)。浦部法穂『[新版]憲法学教室U』二六〇頁 (日本評論社、一九九六年)も参照。
(7) 渡辺久丸『現代日本の立法過程』一一四頁 (法律文化社、一九八〇年)、同『請願権』一五頁 (新日本出版社、一九九五年)(傍線は引用者)。
(8) 吉田栄司「請願権の現代的意義・再考」関西大学法学論集四三巻一・二号三〇九頁 (一九九三年)。
(9) 同三一九頁 (傍線は引用者)。
(10) 通知義務が存在すると解すべきであるとするものとして、さらに吉田善明『地方自治と住民の権利』一一七頁 (三省堂、一九八二年)、粕谷友介「憲法一六条 (請願権)について」上智法学論集二八巻一 = 三号一七三頁 (一九八五年)、渡辺中「請願権」吉田善明ほか編『憲法政治ーー軌跡と展開ーー』三二七頁以下 (敬文堂、一九九六年)参照。若干の国家の憲法が、請願を受けた国家機関が内容審査義務・通知義務を負うと規定していることにつき、渡辺『請願権』一三五ー一三六頁参照。また、ドイツ連邦憲法裁判所は、請願権が請願の受理を求めるだけでなく、請願内容の審査を受け、その処理の態様につき通知を受ける権利をも含むとする解釈をとっている。吉田・前掲注(8)三一九頁参照。
(11) 吉田・前掲注(8)三一八頁。
(12) 伊藤『憲法 第三版』は、請願権の法的性格・内容に関して従来の通説の立場に立っているが、「請願権の行使にもっと実質的効果を与えるためには、請願者が請願内容について審査をうけその調査結果について報告をうけるなどの改革\\が必要とされよう」と述べている (四〇〇頁)。野中俊彦ほか『憲法T』四八五頁 (有斐閣、一九九二年)(野中執筆)も同旨。
(13) 最高裁は、取材の自由を表現の自由そのものではなく、「憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値するもの」としつつ、取材の自由の保障が、取材資料につき、みだりに裁判所への提出を強制され、あるいは、捜査機関に押収され、将来の取材活動が妨げられることのない保障を含むことを認めている。最大決昭和四四年一一月二六日刑集二三巻一一号一四九〇頁、最決平成元年一月三〇日刑集四三巻一号一九頁、最決平成二年七月九日刑集四四巻五号四二一頁参照。取材の自由だけでなく、表現の自由全般につき、将来の表現活動が妨害されない保障を含むと解すべきである。

二 羽曳野市当局による文書送付と請願権

 では、羽曳野市長 (市当局)の署名者への文書送付は、請願内容を審査した結果を通知して請願権を実効的に保障していこうとするものと評価できるであろうか、あるいは、請願権行使を萎縮させるものであり、審査結果の通知として正当化できないものであろうか。
 羽曳野市当局が、秘書室長・保健福祉部長連名で署名者の全世帯に送った「保育行政等に対する考え方について」と題する文書は、冒頭で、「最近、巷に流れている誤解されるビラや、社会的混乱を引き起こしかねない署名活動等が見受けられ、羽曳野市の保育園運営にあらぬご心配をお掛けしているのではないかと拝察いたします。/従いまして、次のとおり保育行政に対する考え方をお示しします。」と述べ、続けて、「《はじめに》ー反対署名・カンパについてー」という署名活動を強い調子で批判する囲み記事を置いている。そこでは、臨時・パート保母を「『保育水準低下・保育園職員削減反対』との誤った内容の反対署名活動を行うことは、いたずらに保護者並びに市民を惑わし、許されるものではありません」と批判し、父母の会に対し、園児にカンパ袋や署名用紙を持ち帰らせた、保育園内の連絡箱を私物化したと批判している (14) 。同文書は、その上で、「保育行政等に対する考え方」を縷々述べている。

一 文書送付の必要性
 羽曳野市は、こうした文書を送付したことにつき、一九九六年六月広報の「よりよい保育を求めて」という記事において、「署名\\の内容が明らかに事実と異なることから、一刻も早く誤解が解け安心していただけるよう、署名者の方々 (一世帯ごと)に、市としての考え方を説明させていただくためにとり急ぎ送付させていただいたものです」と説明している。また、秘書室長は、毎日新聞の取材に対して、「市民に正確な情報を知ってもらおうと思っただけで、署名活動を弾圧する意識は全くない」と応えたと報じられており (15) 、保健福祉部長は、産経新聞の取材に対して、「まだたたき台の段階にあった削減計画をどこからか入手して、反対の署名活動をする団体の行動を『おかしい』と思って行ったことで」あると応えたと報じられている (16) 。さらに、福谷剛蔵市長は、一九九六年三月一一日の市議会本会議において、まともな要望であれば答える必要もなかったであろうとし、父母の会が署名用紙を園児に持って帰らせたこと等を指摘し、署名活動をした団体が「きちっとした正しい団体ではございませんので、そういうようなことも、善良な市民に周知徹底するよう、そしてまた、誤った市政批判に基づく署名運動がなされ、それがあたかも\\正論のようにやられる政党があるわけでございますから、そのようなことをしてもらっては困るという事で\\きちっとした考え方を、その署名された方々に送らせていただいた」と答弁している。
 以上をまとめれば、羽曳野市当局が署名者の全世帯に文書を送付したのは、請願内容への反論と署名活動及び署名活動団体への批判を行うためであった。当該文書は、請願内容に反論し、市の保育行政等に対する考え方を説明する点で、請願内容を審査した結果の通知と見ることもできる。しかるに、先に述べたように、請願内容審査の結果を署名者に文書で通知することは例外的にのみなされうるものと考えるべきである。市広報は、「一刻も早く誤解が解け安心していただけるよう\\市としての考え方を説明させていただくためにとり急ぎ送付させていただいた」と述べている。しかし、署名の代表者に市の政策を伝えることでは不十分なのか、市広報あるいはその号外等の市民への配布では不十分なのかは述べられていない。それゆえ、現段階では、はたして例外的に署名者全員への文書通知が認められるような状況にあったのか判断できない。
 また、当該文書は、《はじめに》において「保育水準低下・保育園職員削減反対」という署名内容が誤ったものであるときめつけ、「保育行政等に対する考え方」において保育園職員の削減がないことを述べている (この部分は、現在勤務中の正職保母人数の削減予定がないこと、正職・嘱託・パート保母の適正な配置、臨時・パート保母二七名中二二名の嘱託保母への採用、パート保母の増員等という順に述べられている。実にわかりにくいが、これを全体として読めば、保育園職員の削減はないということになるのであろう)。しかし、なぜ「誤った」内容の署名活動がなされる事態に至ったのか、なぜ市の保育行政が誤解されたのかについては全く説明していない。署名活動に至るには、一九九五年一二月の園長会において配付された「保育園の勤務体制等について(案)」によって市が職員削減を計画していると受け取られ、また、九六年二月二日に行われた保健福祉部長・子ども財産課長と父母との話し合いでも市側から職員削減問題について明確な答えがなされていなかったという経緯があった。そうした経緯について触れ説明するものでなければ、署名活動を行い、また、署名をした父母・市民の不安・不信は拭えないであろう。それゆえ、当該文書は、請願内容の審査結果の通知として誠実さを欠き、不十分なものである。

二 署名活動への批判
 次に、市当局が送った文書は、請願内容への市の反論を示すだけでなく、署名活動及び署名活動を行った団体を厳しく批判しているが、この批判は適切であろうか。また、市長への請願を不必要に萎縮させるものではないか。まず、当該文書は、署名活動を、「誤解されるビラや、社会的混乱を引き起こしかねない署名活動」(冒頭部分)、「『保育水準低下・保育園職員削減反対』との誤った内容の反対署名活動」(《はじめに》)と批判している。しかし、前述したように、当該文書は、署名活動に至る経緯につき何ら説明せず、「とにかく人員削減はない」といっているだけであるから、ビラの内容が誤解を招くものである、署名活動の内容が誤ったものであると批判しても説得力を欠いており、単なるレッテル貼りになっている。
 この点、羽曳野市の広報は「保育園園長会に提案した職員の勤務体制の見直し内容について、一部の職員の誤解と憶測が保護者に伝わり、署名運動に発展したものと思われます」が、「提案の内容は、職員の増員をせずに\\新たな保育ニーズに応える方法を提案したもので、職員の削減を図ったものではありません」と述べており、ようやく「誤解」された経緯を説明している。しかし、園長会において示された案が、人員削減を主たる目的としてのものであるかどうかはともかく、人員削減をともなう勤務体制の見直し案であることは否定できない (園長会において配付された「保育園の勤務体制等について(案)」の「1.昨年度との比較」の表では、平成八年度には正職保母一名、臨時保母一〇名、パート保母六名の減を含む三四名減となっている)。実際、この広報の記事も、「職員の増員をせずに\\新たな保育ニーズに応える方法」、「職員の削減を図ったものではありません」とかなり微妙な表現を用いている。問題の案が、新たな保育ニーズに応えるために職員の適正配置を図ろうとして、結果的に職員の削減を伴うものになっているということを暗に認めているようにも読める。かくして、園長会に提案された案が職員の削減を伴う案でなかったかのようにいうのであれば、それは強弁である。また、結果的には職員が削減されるにせよ職員の削減を意図した案でなかったというだけでは、当該案を臨時・パート保母らが職員削減案として受け取ったことを「一部の職員の誤解と憶測」ときめつけ、職員削減に反対する署名活動を「誤った内容の反対署名活動」ときめつけることはできない。
 結局、せいぜいいえて、産経新聞報道の保健福祉部長の発言のように、「まだたたき台の段階にあった削減計画をどこからか入手して、反対の署名活動を」されたということであろう。とすれば、「誤解されるビラや、社会的混乱を引き起こしかねない署名活動」とは、未だ内部的に検討中のものであり、まだ未確定の職員削減案が喧伝され、それに対する反対運動がなされ、市当局とすれば非常に迷惑しているという趣旨なのかもしれない。しかし、かりに削減案が単なるたたき台段階のものであり、未確定なものであったとしても、その未確定な案に基づく反対運動・署名活動を「社会的混乱を引き起こしかねない署名活動」ときめつけることは適切ではない。地方公共団体においては、意思形成過程の情報を混乱を引き起こすとして外にもらさないようにする傾向がなお根強いが、住民の政策形成過程への参加を進めていくためには、内部での討議に具体的な支障がない限り未確定な案であっても住民に示すべきである。未確定案を出せば住民の側からの過剰反応があるかもしれないが、地方公共団体がそれを「社会的混乱」と敵視・嫌悪するようなことがあってはならない。地方公共団体当局としては、多少わずらわしくとも、住民とともに考えていくという姿勢を保つことが重要である。そうであってこその住民自治であろう。

三 臨時・パート保母らへの批判
 市当局が送付した文書の《はじめに》は、強い調子で署名活動を批判しているだけでなく、署名活動を行った団体・グループを厳しく批判している。まず、《はじめに》は、その最初の段落で、羽曳野市臨時・パート職員労働組合が、公平委員会に登録しておらず、地方公務員法に基づく応諾義務のない団体であることを述べている。次の段落ではこの組合の構成員である臨時・パート保母による署名活動を「いたずらに保護者並びに市民を惑わし、許されるものではありません」と批判している。最初の段落の先頭に◎がついており、第三段落の先頭に再び◎がついていることからして、一つ目と二つ目の段落がひとまとまりとされていているように見えるが、一見したところこの二つの段落の関係は明らかでない。しかし、第一段落は、正規の団体でないものが署名活動をすることはおかしいというニュアンスーーそれは応諾義務の前に「適法な」という言葉があることで強まっているーーを与えるものとなっている。市長の議会答弁では、署名活動を中心になって行っている団体が「きちっとした正しい団体」ではないことを善良な市民に周知徹底しようとしたものと説明されていることからして、右のようなニュアンスを与えることを意図していたものと思われる。しかし、応諾義務のない労働組合だからといって署名活動を組織してはならないということはまったくない。むしろ、応諾義務がないがゆえに、請願に訴える必要性は高いとすらいえる。それゆえ、応諾義務のない団体であるから署名活動を推進するのがおかしいといわんばかりの記述には問題がある。
 《はじめに》の第二段落は、「この組合[羽曳野市臨時・パート職員労働組合]の構成員である臨時・パート保母は、事前に市から身分の取り扱いや保育運営の説明を受けたにもかかわらず、自分たちの主張が通らないからといって『保育水準低下・保育園職員削減反対』との誤った内容の反対署名活動を行うことは、いたずらに保護者並びに市民を惑わし、許されるものではありません」と、強い調子で臨時・パート保母を批判している。そこでの批判の内容は、臨時・パート保母が事前に説明を受けており納得していたはずのことを市民の力を借りて覆そうとしたということと、市民に誤った事実を伝えて署名活動を行っているということである。羽曳野市の場合、臨時・パート保母に対して事前にどのような説明がなされていたか、また、実際上、身分や保育運営に関してどのような了解が形成されていたかは定かでない。しかし、かりに保母たちが事前に了解していたとしても、事前に了解していたはずの事項について文句をいうことは一切許されないとはいえないであろう。保母たちが、事前に了解していた事項の変更を求め、署名活動を組織し、請願することも当然許される請願権の行使である。さらに、批判点の第二は、署名の内容が誤っているということだが、そうした批判に理由がないことはすでに見た。未確定のたたき台に基づく反対署名活動が「いたずらに保護者並びに市民を惑わ」すものでないことも先に見た通りである。最後に述べておきたいのだが、かりに「誤った市政批判に基づく署名運動」(市長答弁)であっても、市がそれを「許されるものではない」などと批判すべきではない。住民はどのような請願ーー市当局から見て誤ったものであってもーーもなすことができる。市は、許されない署名活動とのレッテルを貼り、そのことを市民に示すような文書を送りつけるべきではない。

四 父母の会への批判
 《はじめに》の第三段落は、父母の会が保育園の連絡箱を私物化し、園児に署名用紙等を持ち帰らせたというものである。保育園の連絡箱 (ウォールポケット)は、保育園と園児の保護者との連絡用に設置されているものではあるが、父母の会 (保護者会)も保護者への連絡用に用いてきている (17) 。こうした従来の使用方法からすれば、父母の会が署名活動に取り組むことを決定し、署名用紙を連絡箱に入れて保護者に送ることをあながち不当な利用・私物化ときめつけることはできないであろう (実際、一〇年以上前から署名用紙の配付に利用されているという)。連絡箱を用いて署名用紙を配付しても、それが市長に対する署名であることからして、「市の行為とまぎらわしい」とはいえないであろう。また、連絡箱から署名用紙を持ち帰るのは、保育園に園児を迎えに来た保護者であり、羽曳野市の保育園では保護者の送迎が必要であることからして、園児に署名用紙を持ち帰らせるということはほとんどありそうもない。「園児にカンパ袋や署名用紙を持ち帰らせた事実」とは、保護者が連絡箱から取り出した署名用紙を園児に持たせたような場合を誤解してのものか、ごく例外的な場合 (保護者が迎えに来ることができず、他の園児の保護者や保母が園児に連絡箱の中味を持たせて送っていったような場合)を指摘しているものであろうか。前者の誤解に基づくとすれば「園児に持ち帰らせた」という指摘は誤っているし、後者のごく例外的な場合の指摘であるとすればーーこうしたことがあったのか定かではないが、かりにあったとしてもーーごく例外的な事例を挙げて署名活動を批判することもあまりフェアではない。また、かりに保護者が園に迎えに来ず連絡箱の中のものを園児に持たせた事例があるとしても、園児は署名用紙を持ち帰っただけであり、それ以上に園児が政治的に利用されているわけではない (たとえば園児にスローガンを書いたゼッケンを付けさせて帰宅させたというようなものではない)。

五 当該文書と請願権・表現の自由
 以上見てきたように、市が署名者に送付した文書の保育行政についての説明の部分は、署名活動に至った市民の不安・不信を解消するのに必要な説明を欠いている。また、署名活動・署名活動者に対する批判の部分は、全く根拠を欠くか、少なくともフェアなものではなく、ただ市当局者の強い怒りだけが伝わるような類のものである。どうも市当局は、署名活動に対して冷静さを欠き過剰反応してしまい、署名活動・署名活動者に不当な批判を加えてしまったようである。その背景の一つは、意思形成過程情報に基づき反対運動がなされたことへの苛立ちであると思われる。さらに、「誤った市政批判に基づく署名運動がなされ、それがあたかも\\正論のようにやられる政党があるわけでございますから、そのようなことをしてもらっては困るということで、私は\\きちっとした考え方を、その署名された方々に送らせていただいたところでございます」という市長答弁からも窺われるように、市当局が署名活動に野党の影を強く意識したということもあるのであろう。では、署名活動をもたらした住民の不安・不信に誠実に対応せず、説得力を欠く、市当局の敵意と怒りだけが伝わってくるような批判がなされている当該文書が送付されたことは、今後の署名活動 (大衆的署名による請願活動)にとってどのような意味をもつであろうか。
 まず、この文書は、直接的には、署名活動及び署名活動者を批判するものであるから、署名活動に携わった保護者・父母も自らが批判されていると感じるであろうし、彼らが「市のブラックリストに載ったのではないか」、(保育園の措置決定直前であっただけに)「保育園への入所措置がなされないのではないか」等と危惧したであろう可能性は高い。さらに、署名活動に積極的に携わったわけではなくただ単に署名しただけであっても、これだけ強い調子で署名活動が批判されていれば、市に睨まれたのではないかと危惧した人や、「恐くなり、これからはこうした署名にかかわりたくない (18) 」と思った人も相当数いたであろう。いずれにせよ、市民に対し、市の政策に反対する署名を提出すれば、市当局は請願内容に誠実に対応せず、署名活動・署名活動者にヒステリックな批判を加えるのかといった印象を与え、今後市長に請願するための署名活動を組織すること、市長に提出する署名簿に署名することに対して大きな萎縮効果を与えたことは確かである。
 そもそも羽曳野市が全署名世帯に文書を送付する特別な必要があったのか疑わしいが、問題の文書は請願内容の審査結果の通知として適切なものでない。そして、その文書はその不適切な内容・表現のゆえに、市民に対して今後の請願活動に対する大きな萎縮効果を与えてしまっている。それゆえ、羽曳野市の署名者への文書送付は、署名者の請願権を侵害し、署名活動者の請願権・表現の自由を侵害するものであったといわざるをえない (19)

(14) 「《はじめに》ー反対署名・カンパについてー」の全文は以下の通りである。
 「◎ 反対署名をしている羽曳野市臨時・パート職員労働組合は、公平委員会に登録しておらず、地方公務員法に基づく適法な応諾義務のない団体です。/この組合の構成員である臨時・パート保母は、事前に市から身分の取り扱いや保育運営の説明を受けたにもかかわらず、自分たちの主張が通らないからといって『保育水準低下・保育園職員削減反対』との誤った内容の反対署名活動を行うことは、いたずらに保護者並びに市民を惑わし、許されるものではありません。
◎ 園児にカンパ袋や署名用紙を持ち帰らせた事実がありますが、これは市の行為ではなく、保育園内の連絡箱を、父母の会が私物化して使用し、あたかも市が行ったかのようになっており、公共施設の私物化の禁止、及び紛らわしい行為について厳重に謹んで頂くよう通知をいたしました。」
(15) 毎日新聞一九九六年四月一四日。
(16) 産経新聞一九九六年四月二六日。
(17) 羽曳野保育運動連絡会 (各保育園の父母の会等によって構成される団体)会長M氏の大阪弁護士会人権擁護委員会宛陳述書による。
(18) 本件人権救済申立人であるY氏の大阪弁護士会人権擁護委員会宛陳述書。
(19) なお、本事件の署名の取り扱い団体は、羽曳野保育運動連絡会、保育園の父母の会、羽曳野市保育園労働組合、羽曳野市臨時・パート職員労働組合であり、こうした団体も署名活動者に含まれる。そこで、こうした団体が憲法が保障する人権である請願権や表現の自由を享有できるかが問題となる。団体ないし法人の「人権享有主体性」について、通説・判例は、団体・法人も性質上可能な限り憲法上の権利が保障されるという立場をとっている。しかし、日本国憲法が保障する権利が人間 (すなわち自然人)である以上当然に有する基本的人権であるとされている (一一条・九七条)ことからして、法人の活動には、法人を構成ないし運営する諸個人による人権の共同行使と捉えられる限りで、及び、そうした人権の共同行使を実効的あらしめるのに必要な限りで、憲法上の権利の保障が及ぶと解されるべきであろう。拙稿「ケースメソッド憲法第五回 企業の政治献金」法セミ四八九号八一頁 (一九九五年)参照。しかし、この立場からも、右の諸団体は、保育園の職員から構成される団体や、保育園の保護者から構成される団体及びそれを構成団体とする団体であるから、保育園職員の削減につき請願し、また、そのための署名を集めることは、憲法上保障された請願権・表現の自由の行使であったと解される。

三 署名活動者に対する名誉毀損

 本人権救済申立事件において、申立人らは、羽曳野市当局が署名者に送付した文書は、市職員労働組合 (市職労)、父母の会、羽曳野保育運動連絡会 (保育連)、及び、当該署名活動に従事した諸個人の名誉を毀損するものであると主張している。申立において名誉が毀損されたとされている者のうち、市職労、父母の会、保育連は、自然人ではなく団体であるが、団体についても不法行為としての名誉毀損が成立することは最高裁によっても認められている (20) 。名誉毀損とは、事実及び意見の表明によって他人の社会的評価を低下させることであり、憲法一三条の規定する幸福追求権に含まれる名誉権を侵害する人権侵害行為である (21) 。そして、羽曳野市が送付した文書の最初の部分は、署名活動に従事した個人や団体の社会的評価を低下させるような記述に満ちている (22) 。《はじめに》の、「この組合の構成員である臨時・パート保母は、事前に市から身分の取り扱いや保育運営の説明を受けたにもかかわらず、自分たちの主張が通らないからといって『保育水準低下・保育園職員削減反対』との誤った内容の反対署名活動を行うことは、いたずらに保護者並びに市民を惑わし、許されるものではありません」という部分は、臨時・パート保母達の (さらには、彼女達によって構成され、署名取り扱い団体でもある臨時・パート職員労働組合の)社会的評価を低下させるものである。また、《はじめに》の直前の、「巷に流れている誤解されるビラや、社会的混乱を引き起こしかねない署名活動」という部分や、《はじめに》の「『保育水準低下・保育園職員削減反対』との誤った内容の反対署名活動」という部分は、署名活動を厳しく批判するものであり、署名活動に従事した団体 (保育連、父母の会等)・個人の社会的評価を低下させるものである。さらに、《はじめに》の、父母の会が保育園の連絡箱を私物化し、園児に署名用紙等を持ち帰らせたという記述は、父母の会の社会的評価を低下させるものである。
 もっとも、社会的評価を低下させれば直ちに不法行為としての名誉毀損が成立するわけではない。刑法上の名誉毀損罪については、名誉権と表現の自由とを調整するものとされる刑法二三〇条の二があるが、不法行為としての名誉毀損の成否についても、刑法二三〇条の二と同様の考え方が妥当するとされているのである。すなわち、刑法二三〇条の二は、他人についての事実を公表し、その他人の社会的評価を低下させる場合であっても、@当該公表行為が公共の利害に関する事実に係り、A目的が専ら公益を図ることにあり、かつ、B真実であると証明できれば、処罰されないと定めている (これは一般に違法性が阻却されると解されている)。さらに、判例は、真実であると証明できなくても、真実であると信じたことに相当の理由があれば、故意・過失を欠き名誉毀損は成立しないとしている (相当性の理論 (23) )。また、意見・論評によっても不法行為としての名誉毀損は成立する (24) が、意見・論評の前提となる事実が公共の利害に関するものであり、公表目的が公益目的であり、かつ、意見・論評の前提となる事実が真実であるか、真実であると信じたことに相当の理由があれば、論評が単なる人身攻撃ではなく公正である限り、その用語や表現が相当に激烈、辛辣であっても、名誉毀損は成立しない、という公正論評の法理 (フェア・コメントの法理)が妥当するとされている (25)
 地方公共団体の機関 (公務員)による公表が名誉毀損として争われた事例としては、洗剤パニック調査報告書公表事件 (花王石鹸事件)と魚介類水銀分析事件が著名である。どちらの下級審判決 (26) も、通常の名誉毀損の違法性阻却ないし責任阻却の基準を適用している。この点は、犯罪に関する警察発表が名誉毀損として争われた事例についても同様である (27) 。しかしながら、前述の名誉毀損に関する法理は、名誉権と表現の自由との調整を図るためのものであるのだから、表現の自由の享有主体でない地方公共団体による公表 (28) に対して適用されるのかが問題となる (29) 。この点、有力な学説は、「国民主権の理念ないしいわゆる国民の『知る権利』の観点からすれば、国民にとって必要な情報の公権力による提供は促進さるべきこそすれ阻害されることがあってはならない」とし、公務員が職務権限内ないし職務執行にあたって、公共の利害に関する事項について、公共目的を達成する趣旨で発言した場合には、少なくともその発言の立脚する事実が真実性をもち、または真実と信ずるについて相当の理由があったときには、名誉毀損の責任は生じないものと解すべきであろう、と主張している (30) 。ここでは、結局、理由付けは異なるものの、地方公共団体の機関を含む国家機関による公表について通常の名誉毀損法理とほとんど同様の基準が適用されることとなる。
 しかし、国家機関 (地方公共団体の機関を含む。以下同じ)による公表に関して通常の名誉毀損法理と同様の基準が適用される、とりわけ一般的に相当性の理論が適用されるという立場をとることには疑問がある。確かに、国家機関による広報活動や行政手段としての公表は、今日、国民の知る権利に応えるためにも、また、国民の生命・生活を守るための行政手段としても重要性を増している。そして、国家機関は表現の自由の保障を受けないとはいえ、その職務権限の自由で適正な行使を確保するために、あるいは、国民の知る権利に応えるために、国民に対して一定の事実を公表することが保障されねばならない。だが、国家機関による公表によって名誉毀損が成立しても、当該公務員自身が責任を追及されるわけではなく、国家が国家賠償責任を負うというのが判例の立場である (31) 。それゆえ、公務員の自由な職権行使のために名誉毀損からの免責を広く認める必要性は、アメリカのような公務員個人が責任を問われうる法制度の下においてと比べて低いといえよう (32) 。また、国家機関による公表について、誤った事実の表明であっても名誉毀損の責任を負わせないでおく必要性は、報道機関の報道ーーそれは公権力のチェックのために不可欠であるばかりか、私人・私企業によるものなので調査能力は限られているーーの場合よりも低いように思われる。国家機関による公表について、多少誤っていてもいいから自由にさせるべきだという理由は一般的にはないように思われる。やはり、国家機関が誤った事実を公表し、私人の名誉を毀損すれば、国家は名誉毀損から生じた損害を賠償するというのが筋であろう。
 もっとも、国家機関が保有する情報の中には、消費者情報に典型的に見られるように、誤ったものである可能性が少しはあっても市民の生命、健康を守るために、積極的に市民に対して公表されるべきものもあろう (33) 。それゆえ、国家機関によって公表された事実が虚偽であった場合に、直ちに名誉毀損の成立を認めるか、それとも、十分な調査の結果真実であると信じて公表したのであれば免責されるか等について、行政領域の性質、情報の種類・性質、情報提供の重要性・緊急性に照らして類型化していくべきではないかと考えられる。現時点では明確な類型を示すことはできないが、こうした立場からすれば、本件の羽曳野市の文書は、そこで述べられている事実が真実でなければ名誉毀損の責任を負うべき場合にあたるのではないかと考えられる。市の保育行政に対する姿勢・全般的な政策を市民に知らせることや、市の保育行政に関して生じた誤解・混乱を解消するということがどれほど緊急性のあるものなのか疑問であるからである。
 以上、国家機関による事実の公表を問題としてきたが、意見・論評についてはどうか。この点、国家機関は論評の内容及び表現について慎重であるべきであり、国家機関による意見の公表・論評は節度をもったものでなければならないと考える。国家機関は表現の自由の享有主体ではなく、市民に対して公権力の行使を通じて優越的な地位を有している。それゆえ、国家機関に行き過ぎてもいいから自由な意見表明・批判を認めるといった必要性はないであろう。前述した有力説も、公権力による論評については公正論評の法理は適用されないとしている。「この法理は、私人相互間において、言論の自由との関係においてあみ出されてきたものであって、公権力との関係においてそのまま妥当する法理というべきかは問題であ」るというのである (34) 。魚介類水銀分析事件の名古屋地裁判決は、公正論評の法理を適用したと見れないこともないが (35) 、やはり、地方公共団体の機関による意見の表明・論評については公正論評の法理は適用されないと解すべきであろう。地方公共団体の機関による意見の表明・論評は、その意見・論評の前提とされる事実が真実でないーー地方公共団体の機関による公表について相当性の理論が採用されるべきであるとすれば、さらに、その事実を真実であると信じたことに相当な理由がないーー場合や、意見・論評が事実からの合理的な推論ではなく、十分な理由を有さない場合、表現が不必要に激烈・辛辣である場合には、それによって意見・論評の向けられた者の社会的評価を低下させる限り、名誉毀損の成立が認められよう。
 以下、右に述べてきた地方公共団体の機関による名誉毀損に関する一般論をもとに本件文書を検討してみよう。まず、父母の会が保育園内の連絡箱を私物化した、園児に署名用紙等を持ち帰らせたという事実の指摘についてだが、私見によれば、市の側が、「連絡箱の私物化」という事実、及び、園児に署名用紙等を持ち帰らせた事実の存在を証明できなければ、名誉毀損は成立する。また、判例や有力説によれば、地方公共団体の機関によって公表された事実が真実でなくても、当該機関が真実であると信じたことに相当の理由があれば、名誉毀損は成立しない。その場合には、市の側が、「連絡箱の私物化」という事実、園児に持ち帰らせた事実があると信じた相当の理由があると十分論証できない限り、名誉毀損が成立するであろう。私は、前述したように、園児に署名用紙を持ち帰らせたという事実がごく例外的にせよあったのか否か知らない。ただ、これまでの慣行から見て、「連絡箱の私物化」といえるような事実はなかったし、「私物化」されていると判断したことに相当な理由があったとはいいがたいと考えている。「連絡箱の私物化」という事実の公表は、父母の会の名誉毀損にあたると思われる。
 次に、「巷に流れている誤解されるビラや、社会的混乱を引き起こしかねない署名活動」、「『保育水準低下・保育園職員削減反対』との誤った内容の反対署名活動」という部分は、市秘書室長及び保健福祉部長の意見の表明・論評である。「保育水準低下・保育園職員削減反対」という署名内容を一概に誤ったものということができないこと、当該署名活動を「社会的混乱を引き起こしかねない署名活動」と論難するのが不当であることは二で見たとおりである。この意見・論評は、事実からの合理的な推論の結果ではなく、十分な理由を欠くものである。それゆえ、この部分による社会的評価の低下につき名誉毀損の成立を否定する理由はないように思われる。さらに、臨時・パート保母達が署名活動を行ったことを、「いたずらに保護者並びに市民を惑わし、許されるものではありません」と批判する部分も、市秘書室長及び保健福祉部長の意見の表明・論評である。臨時・パート保母が職員削減反対の請願活動をすることは非難されるべき筋合いのものでなく、また、署名内容が誤ったものともいえないのだから、この「許されるものではありません」という意見が不当なものであることも二で見たとおりである。この意見・論評は、事実からの合理的な推論の結果ではなく、十分な理由を欠くものであり、さらに、十分な根拠を欠くわりには不必要に厳しい表現を用いるものである。それゆえ、この部分による社会的評価の低下についても名誉毀損の成立を否定する理由はないであろう。
 以上、羽曳野市当局が全署名世帯に送った文書は、保育園の父母の会、臨時・パート保母や彼女たちの組合、その他の署名活動者の名誉を不当に侵害するものであると思われる。

(20) 最判昭和三九年一月二八日民集一八巻一号一三六頁は法人について名誉毀損が成立することを当然の前提としているし、サンケイ新聞意見広告事件判決 (最判昭和六二年四月二四日民集四一巻三号四九〇頁)は、法人格を有さない団体についても名誉毀損が成立しうることを認めている。
(21) 佐藤幸治『憲法[第三版]』四五一頁参照。なお、ここでも「人権」たる憲法上の名誉権を団体が享有できるのかが問題となる (もっとも、団体に対する名誉毀損の成立が認められている以上、団体が「人権」としての名誉権を有していなくても、法律によって名誉権が付与されているということになるだけである。団体が憲法上の名誉権を有するか否かは、団体の名誉毀損を「人権侵害」といいうるか否かといった相違がもたらされる程度の問題にすぎない)。団体は、構成員の人権の共同行使と捉えられる限りで、及び、そうした人権の共同行使を実効的なものにするのに必要な限りで、憲法上の権利を保障されるという立場 (前掲注(19)参照)からしても、本件で名誉が毀損されているとされる団体は、憲法上保障された人権の行使としての署名活動にかかわって批判を受けており、少なくともこうした事柄につき憲法上の名誉権が認められることに異論はない。
(22) 人権救済申立書は、当該文書の《はじめに》の、羽曳野市臨時・パート職員労働組合が、公平委員会に登録しておらず、地方公務員法に基づく応諾義務のない団体であることを指摘している部分は、当該労働組合及びその上部団体である市職労の名誉を毀損するものだと主張している。確かに、その部分は、「同組合が、あたかも何か『違法な団体』であるかのような印象を市民に与える」(申立書)効果を有している。申立書がいうように、そうした印象を与えることを目的として書かれている可能性も高いように思われる。しかしながら、職員の労働組合が公平委員会に登録していないことは、当該団体が違法な団体であることを意味するわけではないのであるから、この事実の指摘自体で当該組合の社会的評価を低下させたとはいいがたいであろう。
(23) 最判昭和四一年六月二三日民集二〇巻五号一一一八頁、最大判昭和四四年六月二五日刑集二三巻七号九七五頁参照。
(24) もっとも、意見の表明それ自体については名誉毀損は成立しないと解するべきであると主張する学説もある。松井茂記「意見による名誉毀損と表現の自由」民商一一三巻三号三二七頁 (一九九五年)参照。しかし、同論文は、意見表明がなされた場合に名誉毀損を一切否定するわけではなく、意見表明に内在する、あるいは、それが前提とする事実の表明については名誉毀損の成立を認めている。
(25) この法理を採用したとされる下級審判決として、女子プロレス事件判決 (東京地判昭和四七年七月二日判時六八八号七九頁)、動労順法闘争批判事件判決 (東京地判昭和五四年二月二六日判時九一七号三三頁)参照。また、最高裁も、長崎教師批判ビラ事件判決 (最判平成元年一二月二一日民集四三巻一二号二二五二頁)において、本文の@〜Bを満たす場合につきーー相当性の理論に触れていないがーー公正論評の法理をとっている。
(26) 東京地判昭和五四年三月一二日判時九一九号二三頁 (洗剤パニック調査報告書公表事件)、名古屋地判昭和五七年一月二二日判時一〇四六号九三頁 (魚介類水銀分析事件)。
(27) 鈴木庸夫「行政機関の公表行為とその法理」法令解説資料総覧四九号九七頁以下 (一九八五年)参照。
(28) 洗剤パニック調査報告書公表事件の東京地裁判決は、東京都の行政広報活動が憲法二一条の保障を受けるものと解すべきであるとするが、疑問である。
(29) 松井茂記「名誉毀損判決の動向」判タ五九八号一二五頁 (一九八六年)は、政府職員・公務員が名誉毀損的事実を公表した場合に、表現の自由と名誉保護との調整原理である真実性・相当性の理論は本来適用されないはずであるという。
(30) 樋口ほか『注釈日本国憲法 上巻』二九〇頁 (佐藤幸治執筆)。山田卓生「行政当局による公表と名誉毀損」ジュリ七八九号八四頁 (一九八三年)も同旨であろう (八四頁の記述からは若干不明確だが、八二ー八三頁の記述からして、事実の真実性、真実と信じた相当性の存在を前提としているようである)。
(31) 東京高判昭和五四年二月二二日判時九二五号六八頁参照。もっとも、名誉毀損的な公表を行った公務員に故意または重大な過失がある場合には、被害者が当該公務員に対して損害賠償を請求することが認められる余地もあろう。
(32) 松井・前掲注(29)一二五頁参照。
(33) 堀部政男「地方公共団体の消費者情報提供と名誉毀損 (下)」ジュリ六九五号一一二頁以下 (一九七九年)参照。
(34) 樋口ほか『注釈日本国憲法 上巻』二八九頁 (佐藤執筆)。また、山田・前掲注(30)八四頁、中井勝巳「地方公共団体における消費者情報提供制度の法的諸問題」福島大学行政社会論集一巻一 = 二号一一九頁 (一九八八年)も参照。
(35) 判時一〇四六号九四頁及び判タ四七〇号一五五頁の当該判決の解説、島野康「知る権利・知らされる権利(中)」国民生活研究三〇巻一号三四頁注二四 (一九九〇年)参照。もっとも、同判決は、論評について前記@〜B及び相当性の理論が妥当するとしたものであり、そうした条件を満たしていれば論評が公正である限りいかに激しく辛辣であってもよいーーこれこそが公正論評の法理の精髄だがーーとまでは述べていない。
結   び

 以上検討してきたように、羽曳野市当局が全署名世帯に送った文書は、署名者の請願権、署名活動者の請願権・表現の自由を侵害すると共に、署名活動者の名誉権を侵害し名誉毀損となる可能性の高い、人権侵害行為であったといわねばならない。市当局は、市長に対する請願活動に強い萎縮効果を与えるような行為を慎きであったのである。
 人権救済申立を受けた大阪弁護士会も、一九九七年三月末、本稿と同様の結論に至り、羽曳野市長宛に勧告書を送付した。勧告書は、全署名世帯に文書を送付したことは、「その文書の前文やはしがきの記載内容と表現方法等の点において署名者及び署名活動者の請願権並びに表現の自由という基本的人権に対する配慮が欠けており、署名者及び署名活動者の意思表明の自由を制約し、署名運動を萎縮させる危険性が非常に高いもの」であると共に、署名活動者の名誉を毀損するものでもあるとしている。勧告書は、地方公共団体当局による署名者個々人への働きかけが請願権行使に対する萎縮的効果を与えうることを前提に、当該文書の「記載内容と表現方法等」の具体的な検討に基づき、当該文書配布を「憲法で保障されている署名者及び署名活動者の請願権並びに表現の自由という基本的人権を侵害する」とするものであって、現代における請願権の意義を踏まえた妥当なものであると高く評価できよう。
 さらに、勧告書は、羽曳野市に対して、今後、同様な行為をしないよう求めると共に、当該文書送付が基本的人権を侵害するものであったことにつき、市民に対して広報誌等を通じて周知徹底するよう求めている。こうした勧告内容は、本件の場合、すでに文書送付によって市長に対する請願に強い萎縮効果が与えられている以上、そうした効果を払拭する努力がなされるべきであることからして、注目に値する。将来の請願の自由、請願のために署名を集める自由を確保するためには、市当局が今回のようなことは二度としないということが市民に広く知らされる必要があるのである。
 ところが、大阪弁護士会から勧告書の郵送を受けた羽曳野市当局は、「一方的な判断で市としては承服しかねる」として勧告書を弁護士会に返送した (36) 。さらに、大阪弁護士会が羽曳野市役所を訪れ勧告書を手渡そうとしたのに対し、市当局は受け取りを拒否した (37) 。地方公共団体が弁護士会の勧告書を返送したり、受け取りを拒否するなどということはきわめて珍しいことである。羽曳野市当局は、批判には一切耳は貸さないということなのであろうか。羽曳野市当局が、請願権の保障の重要性を踏まえて、当該文書の送付の妥当性について再検討することを望みたい。

(36) 朝日新聞一九九七年四月一日、毎日新聞一九九七年四月一日。
(37) 朝日新聞一九九七年七月九日。