立命館法学 一九九七年二号(二五二号)三二六頁(六二頁)




法的概念としての「損害」の意義(三・完)
ドイツにおける判例の検討を中心に


若林 三奈






は じ め に
第一章 ドイツにおける「差額説」批判の本質
 第一節 BGB立法者の損害概念と伝統的損害論
 第二節 規範的損害論の台頭
 第三節 損害概念の「規範性」と「自然性」
 第四節 小  括            (以上、二四八号)
第二章 BGH判例における損害論の展開
 第一節 市場価値の低下と控除
 第二節 被害者の自助的な損害低減要因
 第三節 事前準備費用と損害予防措置費用
 第四節 抽象的利用利益
 第五節 無駄になった消費
 第六節 人身侵害における損害
 第七節 望まれない子に対する扶養損害  (以上、二五一号)
第三章 BGH判例の検討と「損害」正当化規範
 第一節 BGH判例における損害論の検討
 第二節 「損害」正当化規範
お わ り に              (以上、本号)


第三章 BGH判例の検討と「損害」正当化規範序


 第二章で検討したように、BGHはもはや損害は差額説のみによって規定されるものではないということを正面から認め、当該加害から発生した不利益が賠償に値する損害であるか否かということを法的な評価や規範によって検討し、(半ば法政策的に)正当化している。ここではそれらの判例の特徴を整理し、そこから看取される「損害」を法的に正当化してきたいくつかの規範を抽出してみたい。

第一節 BGH判例における損害論の検討
 第一項 最少損害としての客観的価値と再調達価値 (Wiederbeschaffungswert)
 個々の財貨や物さらには権利の価値は、まさにその財の所有者に視点をおいた所有者本人にとっての価値 (主観的価値)という側面と、他方、より普遍的な、客観的価値や通常価値 (gemeiner Wert)という二つの側面に分けて考えることができる。後者は、市場価値や交換価値として表されることもあり、系譜的には「物の価値」につながる概念である。対して、前者の主観的価値は (被害者の)「利益」としても表され、たいていの場合には「賠償すべき損害」と等しく考えられている (通説 (1) )。利益は、一般的に、通常価値を越える価値とされるが、被害者が当該財について全く利用価値を有していない場合やそれを売却する意思や可能性がない場合など、客観的価値よりも低くなることもある。しかしこの場合においても当該財の客観的価値が減じられていることには変わりなく、その意味で客観的価値は物損においては賠償すべき最少価値と考えられる。
 それゆえ物損の場合、損害発生時に当該財の売買によって得られたであろう価格が損害算定の出発点であり、これはBGBの規定からも明らかであるとされる (2) 。もちろん毀損または滅失された物が、権利者にとってより高い経済的価値をもちうることも認められるのであるから、完全賠償原則により、交換価値を越える物の経済的価値 (=主観的価値)も考慮されることは当然である (3) 。このような所有者にとっての特別な価値は多義的かつ不明確な概念であるが、被侵害客体の客観的な交換価値が主観的価値に比して著しく低くなる場合には重要である。特に中古品が毀損・滅失された場合には、継続的利用の中断から本人に生じる経済的価値の損失は、市場での交換価値によっては十分に汲み尽すことはできず、中古品であるというだけで著しい価値減少が生じることが少なくない (4) 。そのためここでは、中古品の損失に対する損害賠償は、毀損された物と同種かつ同程度に利用しうる物を取得するため支出される価格 (=再調達価格)にしたがって算定されるべきとの考え方が一般に展開されている (5) 。これは再調達価値が物の交換価値を越える場合に実務的な意義があり、またこれによって交換価値を越える特別な物の利用価値が金銭的に補償されることとなる (6) 。しかしながら、このような利用価値が賠償されるのは、それが経済的価値をもつ場合に限られる。それが全く個人的な感情による価値 (Affektionswert)しかもたず、経済的価値を有さない場合には、財産的損害を構成しないとして賠償は否定される (7) 。けれどもこのような利益を一概に非財産的なものとしてその賠償を放棄するのではなく、あくまでも当該権利者が有するその物への感情が法的に保護に値する利益であるのかどうかを検討すべきことが指摘されている点は重要であろう (8)
 翻って原則論に戻れば、物損の賠償は、通常、物の客観的価値 (交換価値)によって把握される。ではこのような客観的価値の減少が具体的な財産的損失に結びつかない場合においても、それは最少価値として賠償の対象となるのであろうか。このことは損害賠償法における補償原則や不当な利得の禁止原則、これと結合する差額説の観点から問題となることが考えられる。判例は、実際には被害者の財産が減少していない (現実的財産損失が生じていない)場合にも、侵害された物の価値の減少、すなわち被侵害財貨の市場における客観的な価値の減少は財産的損害となるとして賠償を認めることがある。例えば評価損のケースである。このケースのように市場での客観的かつ仮定的な価値減少を損害とみることについて、差額説をめぐる理解は二分されている。まずBGHによれば、評価損は差額説の論理的帰結として認められる (9) 。なぜなら市場価値の減少は (それが現実化しようとしていまいと)まさに被害者の財産価値の減少を意味し得るからである。これに対して、ここでのこの市場価値の減少は現実化したものではなく、被害者は具体的な現実化した財産的損害は被ってはいないとの理由から、これはむしろ差額説の破綻の一例と見るべきであるとの主張もある (10) 。しかしながら注意すべきは、差額説の破綻と見なされる場合にも、それによって評価損の賠償は否定されるわけではないということである。むしろ差額説から離れ、評価損を抽象的な財産的損害として承認することにより、被害者は常に最少損害として通常価値を要求しうるという客観的損害論を展開する (11) 。評価損については、所有者 (被害者)がその物を将来売却する意図があるかどうかということを考慮していない点を考えれば、判例もこのような考え方をとっていると言えるのではないだろうか (12)
 今やBGHの判例において、加害前後の単純な財産額の差が損害とされているのではない。問題はむしろ加害によってどのような価値が減じているのか、またそれを賠償対象、すなわち損害として構成することが妥当かということにある。ここでは当該価値が市場経済的な評価に値するのかということが一つの重要な判断要素となっているが、他方そのような評価に耐え得ない価値についても、それが法的保護に値する価値 (=利益)であるのかという側面から検討を行うべきことが主張されている (むろんドイツ法では、当該価値が非財産的価値しかもたないと判断された場合、BGB二五三条により、その価値賠償 (=金銭賠償)は制限されることになる)。他方、評価損のケースにおいては、客観的な市場価値は最少損害として構成されるが、このような考え方は客観的損害論に立脚しない限り、常に認められるわけではない。とすれば、どのような場合にこのような価値の賠償が認められる (正当化される)こととなるのであろうか。ここにおいて主張されるのが、損害賠償法における権利追求という規範である。この規範については次節において検討するが、少なくともそれは差額説が基盤とする伝統的な補償枠組みに止まるものではない。そしてこのことからもまた、賠償相当な損害を判断するにおいて、損害賠償法の目的・機能を担う規範を探求することが不可欠であるといえよう。
 第二項 被害者の損害回避・軽減義務ーー事後的な措置、事前の消費
 差額説によれば加害前後の財産状態の差が損害となる。しかしBGHは、前章で見てきたように、具体的な加害事故の発生以前に、被害者が生じうる損害の回避・軽減を目的としてなした消費についても、それが結果的に本来ならば加害者が賠償すべき多額の損害を回避した場合には、その限りにおいて賠償相当な財産的損害となることを認めている。これは明らかに伝統的な差額説とは矛盾するものであり、とりわけ当該費用と損害の間に具体的な因果関係がないという問題をも含んでいる。それゆえこのようなBGHの判断に対する学説の評価は必ずしも肯定的なものではない。
 判例を肯定する説 (13) は概ね、被害者の措置によって損害が回避・軽減されたのであり、このような措置がなければ加害者がより大きな損害を負担することとなったという理由から、加害者に当該措置が有効に機能した範囲に応じた費用を負担させることを認めている。その場合、判例と同様に、「加害者は不当に免責されるべきではない」との法思想が引き合いに出される (14) 。他方、否定説はとりわけ被害者の損害を回避・軽減せしめた措置に要した消費と具体的な損害事故における加害行為との因果関係の欠如を問題とする。すなわちこのような消費は加害事故と関係なく法律上義務づけられたものであるから、経営上すでに計算されている (例えば利用料金に加算されることにより利用者に転嫁されている)ことを指摘する。したがってこのような消費についてまで賠償請求を認めれば、被害者は加害事故の発生によって利益を得ることになるのであり (=被害者の不当な利得)、それゆえ判例の立場に懐疑的である (15)
 また判例は万引き発見に対して懸けられた捕獲賞金についても、それが捕獲機能を果たすに妥当な範囲で損害と見なしている。学説も、当該措置そのものは加害行為以前になされたものではあるが、このような消費はまさに加害行為によってはじめて生じるとの前提から、被害者に必要と思われる限り (16) 、または盗難物と相当な関係にある限り加害者にその賠償を請求しうると見ている (17) 。いずれにせよ判例が因果関係のない損失についても、加害者への責任追及および被害者間の公平という考慮から損害として認めている点が注目される。
 このような対立にもかかわらず、被害者が投じた現実の消費が、実際に加害者によって惹起された損害の拡張・拡大を回避するのに役立った場合には、学説においても一般的に、それが相当と思われる限りにおいて賠償に値する財産的損害となることが認められている (18) 。これは、被害者はこのような費用を「被害者の目的追求において、彼の立場上、合理的・経済的にみて合目的的かつ是認しうるものと見なされ得る場合」に限り、損害回避費用の賠償として要求しうる、との考え方と一致するものである (19) 。この反面、被害者には、BGB二五四条二項により、事故による損害の発生につき事前の防止措置 (回避)と事後的な克服努力 (軽減)をなす義務が課せられている。実際、判例もこの規定から加害による損害に対する被害者の事前的消費や事後的努力・措置による不利益の賠償相当性を検討している。つまりBGHは、BGB二五四条二項によって求められる義務を越える被害者の事前の消費や事後の努力・措置によって生じる不利益を「合理的・経済的に考え得る通常の (社会生活上の)期待可能性」や「慣例」などに照らして、またBGB二四九条二文の「必要性 (Erforderlichen)」概念に即して、そのような不利益の賠償相当性を判断しているのである。しかし他方でこれらの損害に正当性を付与する上で、「加害者を不当に免責すべきではない」との法思想が働いており、さらに被害者が事後の個人的努力によって彼の健康を回復した事例では、被害者に実際的・具体的な消費がなくとも、消費の「需要」によって損害が認められていたことも注目に値しよう。
 判例は、被害者の消費が損害の軽減に有用となるのではない場合、すなわち単に違法行為の防止および行為者の探知を目的とするにすぎないような事前措置 (例えば万引き対策)に要した消費については損害とは認めていない。学説も因果関係の問題と並んで、これらの措置は被害者独自の義務に含まれるものであるとして、被害者の賠償請求を認めないのが一般的な傾向である (20) 。しかしながら例外的に音楽著作権に基づく上演が侵害された場合には、判例・学説ともにGEMAに機構運営に要する費用賠償を認めている。学説はGEMAの倍額賠償判決を、権利追求の費用として (21) 、また音楽の上演権というその過度に侵害容易な保護法益の特殊性に鑑みて承認しており、半ば慣習法化されていると評価される (22) 。ここでは単なる補償を越える制裁や予防という観点が鮮明に現れる。この判決を出発点に客観的損害論を展開する説もあるが、これらの理論が一般化するにはなお批判が多く、その意味でGEMA判決は損害論において特殊な地位におかれていることがわかる。
 第三項 商品化論と挫折理論ーー利用と休暇
 BGHは一九五六年の客船旅行判決以来、いわゆる商品化論を用いた損害論を展開しており、その後も様々な判決において場合によっては挫折理論にも言及しつつ、「抽象的利用利益」、「休暇」等の損失によって被る不利益を財産的損害として賠償を認めてきた40 (23) 。第二章で触れたように、旅行契約の目的が無に帰せしめられたことによる不利益の賠償については立法的解決を見たわけであるが、このような判例の判断を学説はどのように評価しているのであろうか。
 例えば、判例と同じく客体の一時的利用損失による不利益を財産的損害と認める説には、古くはノイナー (Neuner)の客観的損害論がある。ノイナーによれば、「財産的損害」とは「財産価値ある利益の侵害」であり、「社会生活上金銭で獲得・譲渡される財の侵害 (24) 」であると定義される。さらにノイナー以外にも、この定義に基づき抽象的利用損失に対する賠償を認める学説がいくつか存在する (25) 。これらの説は、そこにおいては差額説は妥当し得ないとして、差額説の枠組みを越える客観的な最少損害としての抽象的利用利益損害を強調するのに対し、他方で、抽象的利用利益の賠償を認めつつも、これと差額説とは矛盾しないと主張する説もある (26) 。この両者の相違は差額説の「差」の捉え方の相違に由来するが (27) 、いずれにしてもここでは損害は客観的に把握されるのであり、差額説は補償原則と密接に関連するものであることを考えれば、伝統的な差額説とは矛盾するものであると見るのが素直であろう。
 以上のような問題もさることながら、学説ではそもそも抽象的利用利益など商品化論によって賠償の正当性が付与される損失は非財産的性格のものであるとの考え方が有力である (28) 。それゆえこれらの問題は、むしろBGB二五三条による非財産的損害の金銭賠償についての制限から生じる、非財産的損害と財産的損害の境界の問題として議論されている。商品化論の議論の発端となった「休暇」の利益については、BGBに六五一f条という明文規定がおかれたことおよびそれに至る改正過程から、それが非財産的利益であることは明らかである (29) 。しかし現代のように高度に発達した取引経済社会秩序においてはあらゆる非財産的財を対価的に獲得することができるがゆえに、商品化論の画一的な適用は財産的損害と非財産的損害の境界を曖昧にし、損害賠償を不当に拡張するのではないかとの懸念が示されている (30)
 他方、抽象的利用利益喪失の賠償という考え方を否定する学説の中には、このような法的構成に代わって、客体の利用喪失の結果無駄になった消費 (つまり金銭的出費や時間の費消)を財産的損害であるとして賠償対象とすることを認める考え方がある。この説によれば、加害行為により一定の目的の達成が挫折せしめられた場合、その目的のためになされた消費が損害となる (いわゆる挫折理論 (31) )。例えばシュミット (Schmidt)は、抽象的利用利益の喪失は本来的には非財産的損失であることを指摘しつつも、判例等によって (経済的観点から)財産的損害として承認されてきた点をふまえ、より正確な算定をもって財産的損害として維持すべきであるとして「無駄になった消費」論を展開している (32) 。この理論によれば、例えば利用不能期間に相当する税金や保険金のような、まさに利用不能であった時間の経過によって決定的に失われる財産的価値こそが財産的損害である。このような経済的財産概念に依拠することにより、財産的損害と非財産的損害との間に事後的に検証可能かつ事実に即した線引きが可能であると考えるのである (33) 。しかしながら通説・判例は、このような考え方に否定的である (34) 。これは例えば挫折理論は商品化論以上に、BGB二五三条の完全な解体をもたらすことによる。すなわち挫折理論によれば、損害とは「まさにそれが『価格』をもつがゆえに、消費によって『購入』された『財産的財貨』として見なされる財の剥奪 (35) 」を意味する。挫折理論によっても消費そのものは損害とは考えられてはいないが、このことは、挫折理論においては、財貨の財産価値は権利者がそれに対して「消費」したのか否かということによって決定されることになり、その財貨が市場価格を有するか否かということと無関係になるとの点が批判されている。さらに挫折理論は消費範囲が予想し得ず、実務的にも耐え難い理論であること (36) 、結果的に法的根拠のない単なる行為可能性や利用の見込みもが賠償すべき損害となること (37) 、などの批判もあり、依然としてその評価は低いものに止まっている。
 結局、「商品化論」と「挫折理論」の二つの説は、現実には抽象的利用利益や休暇といった一定の非財産的な利益の喪失を「財産的損害」と擬制するための一手段にすぎず、これによって二五三条による制約をクリアし、金銭賠償可能な損害を拡張する役割を担うものであった (38) 。したがって逆に見れば、これらの利益の喪失は現行の枠組みでは法律上賠償し得ないが、現実には賠償すべきものである、という法的判断が判例や学説においてなされてきたといえる。ではこのような賠償の拡大はいかにして正当化されるものであったのであろうか。
 一つは、加害事故によって出費をなした被害者と出費をなさなかった被害者との平等 (被害者間の平等)、また幸運な加害者を出さない、すなわち加害者への責任追及や加害者の消極的な不当な利得の回避という法思想が重要な役割を果たしていたことが指摘できよう。他方、これら非財産的損失の要保護性の増大、とりわけ社会生活上の価値の増大ということが考えられる。例えばどのような侵害客体を「商品化」したものと見なすかは、「社会生活上の見解」によって半ば法政策的に決定され、またこれにより、裁判官の法創造が正当化されてきた側面がある。このような事実は、法的な損害を決定するに際して、純粋に法的な規範に加え、個別具体的な局面において、より一般的な社会規範に依拠した個別判断も不可欠であることを示している (39)
 第四項 「規範的損害」論ーー労働能力の喪失
 判例は「規範的損害」論によって、@賃金の継続支払いの事例およびA主婦の労働能力の事例の場合に、被害者に実損が生じていなくとも加害者に損害賠償の支払いを命じてきた。しかしこれは労働能力の喪失そのものを客観的に損害と見なしたがゆえの結論ではない。少なくともこの損害を認めるに際して、労働力投入につき被害者の「労働意思」と「客観的可能性」が必要とされ、加害行為がなければその労働力の投入により対価を獲得したあるいはし得たことが前提とされる。それゆえまず失われた労働能力が現に労働市場に存在したか、あるいは労働市場における潜在的「商品」として投入する可能性があったことが賠償のための第一条件であり、この前提条件をクリアして初めて、さらなる法的規範により「(規範的)損害」と格付けされるにすぎない。逆にみれば、ここでは労働能力を全く評価されない重度障害者や高齢者などの完全な失業者の場合にはこの意味での規範的損害は生じないと考えられる。
 以上の二つの問題は労働能力の喪失を考察対象とするものとして、損害論において並列的に論じられてきたが、現在では性質の異なる問題として別々に論じられている。まず賃金継続支払いの問題については、この問題の本質は賠償請求権を直接の被害者に制限しているドイツ法の構成要件原理の機能と制限にあるとして規範性の議論から除外されている (40) 。つまり問題は、結果的に財産上の負担を被るのは加害事故による直接被害者ではなく、このような被害者に対して扶助給付を拠出した使用者や社会保険団体であるが、これらの者には賠償請求権が認められないことにあった。しかしこのような第三者の給付によって加害者が免責されるのは不当であるとして、「規範的損害論」が主張されたのである。しかしながらこのようなドイツ法上の厳格な構成要件原理に由来する問題は、現在では立法措置により修正され (41) 、使用者や社会保険団体などの一時的な扶助給付者に、加害者に対する補償請求権をこの扶助給付がなければ加害者が被害者に支払わねばならなかったであろう範囲において取得させている。それゆえにこの問題は、現実に生じた財産的損害の求償の問題にすぎないとされるのである。
 他方、主婦の労働能力の喪失における規範的損害のケースにおいては、加害者が正確に金銭で換算し得る財産上の損失を惹起したことは明らかである賃金継続支払いのケースとは異なり、被害者である主婦が加害により被った不利益が財産的損害となるかということがまさに問題となるのである。主婦の労働能力は、歴史的にはBGB八四五条により、その抽象的な労働能力をも損害賠償の側面において評価されてきた。例えばコイク (Keuk)は、なお主婦の労働能力喪失損害は八四五条に基づく価値賠償と理解している (42) 。しかし当然ながら通説・判例は、主婦の労働能力侵害の請求基盤をもはや八四五条ではなく八四三条に基づく損害賠償規定に求めており、またそもそも八四五条についても価値賠償を規定したものとは見ていない。いずれにしてもBGHによれば労働能力喪失そのものは財産的損害ではない。生業における仮定的な労働能力の損失にしたがって客観的に算定することを認めているにすぎない (43) 。つまり損害は「労働価値」それ自体の価値をもって把握されているのではなく、労働能力によって獲得された「対価」にしたがって把握、算定されているのである (44) 。それゆえここでいう「規範的損害」とは、労働の意思と可能性という被害者の主観的条件の上に形作られたものであり、純粋な客観的損害論を意味しているのではない。学説もこのような判例の見解に従うのが通説である (45)
 しかしながら他方で、以下のように労働能力そのものに財産価値を認める学説があることにも注目すべきである。代表的なものとして、グリュンスキー (Grunsky)を挙げることができる。グリュンスキーによれば、対価的に獲得しうる利益が被害者から剥奪された場合には常に財産的損害が生じる。その場合、その利益が被害者の金銭獲得に資するものであるのか、単に快適さに資するにすぎないのかということは問題ではない。ここでは市場価格 (客観価値)が最少損害として賠償されるべきことが主張され、それゆえ労働力そのものに財産価値があり、また労働力の消費も財産的損害となる (46) 。もっとも、そもそも労働力の侵害そのものが財産的損害であるのかという問題を主婦の問題に象徴させて考察すべきでない、との見解もある。というのもこの見解によれば、家事は依然として労働としての評価が低く、その他の労務および労働給付のように「生産的活動」とは評価されていないからである。しかしこの説においても主婦の労働能力の喪失に対する賠償は否定されるのではなく、むしろこのような社会的障壁を克服し、家事活動を家族の需要を満たすための様々な労働形態の一つであることを認識すれば、家事活動は金銭的損失を伴っていなくともそれを生業活動と見なすことに問題はない、と明言している (47) 。それゆえ、主婦の場合にも他の労働力侵害の場合と同様に、社会的に十分な生業の保護を民事責任法によって与えるべきであり、労働力を国民経済という考え方に応じて所有権と並ぶ財産利益として構成し、労働力は大半の国民にとって主要な生産源であるという社会的事実を反映して、従来より責任法で強調されてきた完全性保護を「活動の保護 (Aktivita¨tschutz)」において補完すべきであるという (48) 。したがってこの説は、結論的にはグリュンスキーと同様に、これらの損害は特別な証明がなければ、具体的な専門能力を含む労働力の平均価値によって算定すべきことを主張するのである (49)
 さらにマグヌス (Magnus)は比較法的視点から、抽象的な労働能力の損失に対しても十分な賠償を認めることがもっとも適切であると結論づけ、グリュンスキーの見解をさらに具体化することを試みている (50) 。グリュンスキーの理論によっても対価的に得ることができる労働力しか金銭賠償の対象とならないため、例えば職を斡旋し得ない完全な失業者や高齢者については再び保護の欠落が生じることとなる。しかしこの保護の欠落は、このような被害者が労働力を金銭に換算し得る者と同様に (労働)能力損失を感じている場合には、マグヌスによれば、不当なものであるとされる (51) 。それゆえマグヌスは、抽象的労働力の損失の賠償は認められるべきであると考えるものの、実務で行われているようにそれを財産的損害としての賠償ではなく、非財産的な人格的利益の侵害に対する賠償という方向を示唆している (52)
 以上のように、ドイツにおいても労働能力の喪失の賠償をいかなる法的構成をもって認めるのか、またそもそもここにいかなる価値が体現されていると見るのかということはなお未解決であるといえよう。そして判例が示す「規範的損害」論とは、労働能力たる人格に特有の法益侵害がただちに財産的損害を導くという法理論ではなく、いわゆる「主婦の労働能力」の喪失に対する賠償を念頭においたものであり、あくまで「労働の意思」と「その客観的利用可能性」という前提がある場合にのみ実損を伴わなくとも労働能力の喪失により被る不利益を財産的損害として擬制するための一つの法技術にすぎない。しかしながらいずれにしてもここでは規範を介することによって一定の労働能力の喪失についても賠償相当な損害とされているのであり、このことからも伝統的な差額説の枠組みにとどまるものではないことは明らかである。そしてここでいう「規範」とは、まさに「加害者を不当に免責すべきではない」という法理念であると同時に、人が人として生活する上であらゆる活動の源となる「労働能力」に対する強い保護の要請の表れであるように思われる。
 第五項 損害の客観化とその限界
 BGHは、利用・休暇・労働力の喪失など、一定の場合に実際の財産減少とは無関係に、すなわち伝統的差額説定義から演繹される「損害の主体関連性」から離れ、客観的 (規範的)に損害を認めてきた。とりわけこのことは評価損や音楽著作権に基づく上演権侵害の場合には顕著であり、この場合には権利侵害はただちに損害の発生を意味し、評価損では市場における価値減少額が、上演権の場合には常に通常使用料の倍額の賠償金額が最少損害として認められ、「客観的損害論」が展開されてきた。しかしながら一般的には、BGHは、なお差額説における「主体関連性」要件を完全には放棄していない。
 例えば主婦の労働能力に関する大法廷決定 (53) では、この損害は「規範的損害」である一方、同時に「主体関連的」損害であると説明されている。また一九七〇年の自己修理の場合の損害に関する判決では、「客観的算定とは、概念的に実際の修理の実施とは無関係であるが、これは、損害事故の詳細な状況を考慮することなく、典型的な平均的消費の意味での賠償額を規範化することを意味しているのではないであろう。そのような規範的算定は現行の損害概念の主体関連性と矛盾するものである」と述べられている (54) 。このように客観性と主観性という言葉上相対立する概念が抽象的利用利益・消費の需要・労働力の損失などの事例においては相互補完的に機能するわけであるが、結局はこのような対概念の利用は「衡量の必要性」を示しているにすぎないとの指摘がある。すなわち「主体関連性とは、『規範的に』拡張された賠償給付の範囲内での制限基準を引き出すもの」であり、また「判例技術のもとでは、ケース・バイ・ケースである (55) 」。
 もちろん、判例の意図する主体関連性とは、従来の差額説が意図したそれと全く同じものとはいえない。というのも伝統的な差額説における主体関連性とは、当該損害事件における個別具体的な被害者に生じた実損を具体的に算定することとほぼ同義であったが、BGHの主体関連性とは、一定の規範によっていわゆる自然的損害を越える損害にまで賠償責任を拡張する際の制限要件として、被害者主体における客観的条件を意味するにすぎないからである。BGHは純粋な客観的損害論を主張するのではなく、その損害把握の出発点は依然として差額説に求めているが (56) 、一定の場合には、客観的に把握し得る具体的な条件 (=損害における主体関連性)を留保しつつも、差額説に基づく損害概念を何らかの規範によって修正し、または差額説的損害把握に制限を加えており、その意味において損害を客観化・規範化している (57)
 他方、利用や労働能力については、その損失 (侵害)はそもそも財産的損害であるのか、という問題がある (休暇は法改正によりすでにその非財産的性質が明らかである)。また事前準備費用などが問題となる場合には因果関係の問題も未解決のままである。これらを考えあわせるならば、まさにBGHは、BGBの構造上、本来的には救済されない利益の保護を拡大する一方で、「主体関連性」という文言によって賠償義務の不当な拡大を防ぐ働きをしてきたのである。したがって評価損のケースのように、BGBの他の賠償要件において問題のない、純粋かつ明白な財産権侵害の場合には、なお制限的にではあるが、客観的損害として最少損害が認められる余地が残されているといえよう。
 第六項 人格的利益の尊重
 BGHは以上のような様々な局面において「主体関連性」によって個別具体的に、合理的な範囲に賠償すべき不利益の範囲を制限しつつも、従来の損害概念からの演繹的な枠組みを越えて損害概念を拡張してきたといえる。その場合には「加害者の不当な免責の回避」という視点が強調され、加害者の賠償責任の追及ということに重点のある場合もあれば、むしろ被害者の救済の拡大、すなわち保護法益の拡大という役割を担ってきた場合もある。とりわけ財産的損害という名目を有しつつも、実質的には非財産的性格を有すると指摘されるような諸利益、すなわち人格的利益の保護に果たしてきたBGHの功績は大きかったように思われる。
 ドイツでは一般的人格権は、一九五四年に初めてBGHにより基本法を根拠に承認されたのであるが (58) 、同時にこれはBGB八二三条一項における「その他の権利」に包摂され、私法上の絶対権として保護されている (59) 。またこの間BVerGが、女性の「自己決定権に基づく家族計画」についても人格権として包摂されることを明言している (60) 。さらに望まれない子の扶養費用損害が問題となる場合には、シュトル (Stoll)は比較法的見地から、そこにおける保護法益は、個人的な義務や負担からの解放ではなくまさにこの家族計画に対する権利にあるとする (61) 。このような考え方は基本的にBGHと同じものであり (62) 、いずれにおいても家族計画に対する自己決定が人格権にまで高められていることが看取しうる。
 さらに一連の損害概念の修正を通じて、とりわけ判例は、人格権ないしは人格的利益という構成はとっていないが、実質的には人格的利益の保護を拡大してきたことも明らかである。例えば商品化論によって財産的損害として賠償を承認されてきた「利用」、「休暇」、「(具体的な収入をもたない)労働能力」などの利益は、本来的には非財産的利益であった。そしてこのような非財産的損害は人格的利益の一部を形成するものであるといえよう。そもそもBGBは二五三条により非財産的損害に対する金銭賠償を明確に制限しており、このことからも立法者によって重視されていたのは本来的には財産的利益の保護であったことが容易に推察されよう。しかしその後の時代の変遷や要請に伴いーー例えば国家社会主義の経験、戦後「人間の尊厳」を基調とするボン基本法の制定などーー、民事法においても人格的利益の尊重および保護の必要性が増してきたのであろう。判例や学説は、このような社会的背景に基づく法的 (法政策的)判断により、、損害概念の修正を通じてこれらの非財産的不利益を財産的損害と擬制することで、古典的なBGBの賠償構造に基づく弊害をいわば立法化への過渡期にある問題として乗り越えてきたように思われるのである。例えばシュトルは利用利益の侵害は権利者の人格に関連し、どの程度権利者が自己の人格的発展および経済的発展を妨害されたかが問題となるのであり、これは「人格侵害」にすぎず、それゆえにこのような侵害に対する賠償は「人格保護」という考え方によって正当化しうるにすぎないことを明言している (63)
 またいわゆる「規範的損害」論が人身損害においてのみ展開されたことも特徴的であった。人身損害の場合においては、次節で詳述するように、賠償において「扶助」原則が強調される場合があり、物損とは異なる観点からも損害論が展開されている。さらに人身損害の場合には、実際の具体的な消費に裏打ちされずとも、現実化することのない「需要」によって財産的損害が認められる場合があった。これらのことを総合的に考えれば、いわゆる伝統的差額説における「損害」概念の修正を通じて、「人身」および「人格」の不可侵性、つまりその完全性利益を重視すべきであるという基本的な思潮が損害賠償においても有力となり、ドイツ法ではその法構造ゆえに、財産的損害の賠償の拡大という形で現れてはいるが、実質的には人格的利益や価値の保護の拡大が行われてきたといえるのではなかろうか。
 第七項 小  括
 以上のように、BGHや学説は「損害」把握の出発点をなお差額説におきつつも、様々な法理論によって「損害」概念を修正することにより、時として構成要件をも柔軟に解し民事責任および被害者の保護を拡大し、また公平な解決を追求してきた。そして判例および学説は、これらの事例類型において、損害賠償法における様々な規範的要因によって、差額説の修正やそこからの逸脱を正当化しているのである。しかしながらこのような損害概念の修正は全くもってカズイシュティッシュになされたものでもないし、裁判官の恣意的な判断によるものでもない。以上概観してきたように、そこにはいくつかの方向性、傾向を看取することができた。とりわけ商品化論、挫折理論などが適用される局面においては、人格的利益の保護の拡大が図られていることが確認された。
 ところで従来の通説の差額説によれば、損害とは差額説にしたがって画一的・演繹的に決定される。しかしこれまで見てきたように、差額説のみならず、時として賠償構造をも越えて「損害」が認定される場合がある。すなわち法的に賠償相当な損害を考えるにおいて、もはや法的構成いかんによってではなく、損害賠償法の理念や目的、機能によって正当化されていることがわかる。法的構成はその正当化を説得的に説明する上での一手段にすぎなくなっている。では、このように差額説とは異なる結果となる場合 (それは他方で損害賠償義務の拡張や制限をもたらす)、それらの結論はどのような規範によって正当化されるのであろうか。すなわちいかなる規範によって、被害者に生じた様々な不利益の中から、賠償すべき損害が抽出、根拠づけられているのであろうか。以上のような見地から次節においては、第二章で検討した各判例の判決理由および近時の損害賠償の目的やそれが現実に果たしている機能にそって損害概念を考えるべきであるとの学説の流れに鑑みて、損害賠償法の目的や機能を中心として、損害賠償法において損害概念を規定する規範の整理を試みたい。さらにとりわけ望まれない子の扶養損害請求訴訟におけるBVerGとBGHの衝突という事実を踏まえ、民事法における基本法や憲法の規範的役割等についても一定の考察を加えてみたい。

(1) K. Larenz, Schuldrecht, 12. Au■. (1979) S. 395.
(2) BGB八四九条は、物の侵奪や毀損によってその価値を減じられた場合に、価値決定の基礎となるべき時より、その賠償額に利息を付することを規定しており、これによって債権者に損害の発生から損害の補償に至るまでの間の抽象的利用利益が認められていると一般的に理解されている。またこの規定は履行遅滞における法定利息について規定する二八八条と同様に、物損の場合には、損害発生時の通常価値や売買価値によって抽象的に算定されることを前提にするが (H. Stoll, Haftungsfolgen im bu¨rgerlichen Recht (1993) S. 296f.)、もちろん債権者は当該利息分よりも多くの損害を被ったことを具体的に算定し、請求することが可能である(差額説的帰結)。
(3) BGB第一草案二二〇条に、取引価値を越える債権者の「特別な価値」の賠償に関して明文で規定していたが、BGBは加害者の有責性とは無関係に完全賠償原則を義務づけているとの理由から、第二委員会によってこの規定は無意味であるとして削除された (B. Mugdan, Die gesamten Materialien zum bu¨rgerlichen Gesamtbuch fu¨r das deutshes Reich, II (1979) S. 515)。
(4) 購入して間もない物である場合には、特に顕著である。車は一度ナンバープレートをつければ、衣類も一度袖を通せば、その客観的価値は格段に下がる。このような極端な場合には、新品の購入価格自体が賠償されることがあり、もちろんこの場合には控除もされない (デュッセルドルフ (Du¨sseldorf)地裁一九八八年一一月二四日判決 (NJW-RR 1989, 332))。
(5) H. Mertens, Der Begriff des Vermo¨gens im bu¨rgerlichen Recht (1976) S. 145ff., Stoll, a. a. O., S. 301.
(6) Stoll, a. a. O., S. 300f.
(7) 有名な事例として、模型船が毀損されたケースがあり (BGH一九八四年七月一〇日判決 (BGHZ 92, 85))、これに対して学説は批判的である。
(8) Stoll, a. a. O., S. 306.
(9) 一九五八年判決 (BGHZ 27, 181, 184)以来、BGHは一貫してこの立場を採っている。学説ではランゲ (Lange)が、被害者は加害により価値不完全な物を所持すること、また隠れた瑕疵や利用継続期間そのものの短縮という危険を負担することから、抽象的な財産減少を認め、差額説に反しないと理解している (H. Lange, Schadensesrsatzung, 2. Au■. (1991) S. 264.)。
(10) そもそもこのような差額説の理解をめぐる見解の相違は、差額説そのものが多義的概念であり、損害の算定基準時、価値概念や利益概念など、差額説が包摂する個別の問題に対し認識の相違があったことに由来することが指摘されている (山本豊「西ドイツにおける損害 (概念)論の動向ーーホーロッホ鑑定意見の紹介を中心にーー」『西ドイツ債務法改正鑑定意見の研究』(一九八八年)二五八頁以下)。
(11) R. Neuner, Interesse und Vermo¨gensschaden, AcP 133 (1931) S. 239ff. をはじめとして、Mertens, a. a. O., S. 141ff., 195ff., B. Keuk, Vermo¨gensschaden und Interesse (1972) S. 194ff., Stoll, a. a. O., S. 12, J. Esser, Schuldrecht Bd I, 4Au■. (1970) § 41 II 6c, Larenz, a. a. O., S. 396. など多くの論者がこの立場をとっている。
(12) Larenz, a. a. O., S. 396.
(13) V. Beuthien, Nutzungsausfallschaden trotz eigner Betriebsreserve ?, NJW (1966) S. 1988, W. Thiele, Die Aufwendungen des Verlezten zur Schadensabwehr und das Schadensersatzrecht, FS Felgentraeger (1969) S. 402ff. など。
(14) Palandt BGB (H. Heinrich) Vorbem. 3laa vor § 249.
(15) H. Niederla¨nder, Schadensersatz bei Aufwendungen des Gescha¨digten von dem Schadensereignis, JZ (1960) S. 617ff., W. Rother, Haftungsbeschra¨nkung im Schadensersatzrecht (1965) S. 154ff., Larenz, a. a. O., S. 414f., Lange, a. a. O., S. 298f., E. Deutsch, Haftungsrecht I (1976) S. 448f. など。ランゲなど、差額説を支持する立場からはこのような考え方は当然に否定される。
(16) Larenz, a. a. O., S. 416.
(17) G. Schiemann, Argumente und Prinzipien bei der Fortbildung des Schadensrecht (1980) S. 233, Deutsch, JZ (1980) S. 102, Palandt (Heinrich), a. a. O., Vor § 249 Rn. 44. など。
(18) Larenz, a. a. O., S. 414, Rother, a. a. O., S. 154f.
(19) Stoll, a. a. O., S. 252f.
(20) Lange, a. a. O., S. 296f., Mu¨nchKomm (W. Grunsky) Rn. 76b, Staudinger BGB (D. Medicus) Rn. 123., Larenz, a. a. O., S. 416. など。このような防犯費用は結局、商品価格に転嫁される、つまり真面目な顧客にその負担が不当に転嫁されているようにも見えるが、この点につきランゲは、商品価格は第一義的には競争原理によって決定されるがゆえに、このことはたいした問題にはならないことを指摘している (Lange, a. a. O., S. 297)。
(21) Neuner, a. a. O., S. 290ff., Larenz, a. a. O., S. 416.
(22) Lange, a. a. O., S. 296f., Palandt (Heinlich), a. a. O., Vor § 249 Rn. 45.
(23) 一九五六年判決では、直接には「商品化」という言葉そのものは用いられていないが、この判決が商品化論に依拠して判断された、との評価が一般的である。
(24) Neuner, a. a. O., S. 277, 290, 306.
(25) D. No¨rr, Zum Ersatz des immateriellen Schadens nach geltendem Recht, AcP 158 (1959/1960) 1, 6., Niederla¨nder, a. a. O., S. 617, 620.
(26) A. Zeuner, Schadensbegriff und Ersatz von Verma¨gensscha¨den, AcP 163 (1963) S. 380, 394., G. Wiese, Der Ersatz des immateriellen Schadens, 1964, 22ff.
(27) 後者の説によれば、差額説における「差」とは、算定的・抽象的でもありまた具体的でもあり、加害前後の被害者の利益状態の差異の確定によって探知されうるものと理解されている。またメルテンス (Meretens)のように、「財産」概念の規定の特質性から、差額説に基づき利用利益を認めるとする説もある (Meretens, a. a. O. S., S. 157)。
(28) J. Esser/E. Schmidt, Schuldrecht, 7. Au■. (1993) § 31 II, E. Bo¨tticher, Schadensersatz fu¨r entgangene Gebrauchsvorteile, VersR 1966, 301f., Keuk, a. a. O., S. 208ff., 241ff..,
(29) 旅行契約条項制定に関する連邦議会の報告書において、賠償を認めるために考慮すべき状況として、@「侵害の程度」と並んでA「旅行価格」並びに、B「代わりの休暇をとるために必要であろう消費」が挙げられ、そして、「個別事例のあらゆる状況が考慮されなければならない」旨が述べられている。したがってラレンツによれば、「これらの衡量もまた、『無駄になった休暇時間』においては、何らかの判断基準によって算定しうる財産的損害ではなく、非財産的損害が問題となるのであり、それに対して、これは契約目的に相応するがゆえに、個別事例の状況に従って算定すべき『妥当な賠償』が認められるべきである」(Larenz, a. a. O., S. 412.)。
(30) Palandt (Heinrich), a. a. O., Vor § 249 Rn. 10.
(31) このような理論は、古くはフォン・ツュール (v. Tuhr)によって示されている (v. Tuhr I, S. 320 Anm. 33.)。Larenz, a. a. O., S. 409., Esser/Schmidt, a. a. O., S. 183ff. もこの説を採用する。
(32) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 182ff..
(33) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 185f.
(34) Staudinger (Medicus), a. a. O., § 249 Rn. 128, Mu¨nchKomm (Grunsky) Rn. 12c, Palandt (Heinrich), a. a. O., Vor § 249 Rn. 33, 34, BGHZ 55, 71 ; 71, 234 ; 99, 196 ほか多数。
(35) Larenz, a. a. O., S. 409.
(36) Staudinger (Medicus), a. a. O., § 249 Rn. 128, Lange, a. a. O., S. 171.
(37) Palandt (Heinrich), a. a. O., Vor § 249 Rn. 33.
(38) G. Hohloch, Allgemeines Schuldrecht, “Gutachten und Vorschlage zur des Schuldrecht", Band I (1981) S. 409f.
(39) 例えば学説においても、抽象的利用利益喪失の賠償を理論的に否定しながらも、自動車のそれについては法政策的判断および半ば慣習法化された実務に鑑みて賠償相当な損害として認めるべきであることが主張される場合がある。しかしながらこれとは反対に、シュミットは、自動車事故の場合保険補償が一般的であること (保険料に転嫁されることの不経済性)、およびエコロジーという視点から、法政策的に自動車の抽象的利用利益賠償について疑問を呈している (Esser/Schmidt, a. a. O., S. 180f.)。なお、一九八六年の大法廷決定が出されるまでの抽象的利用利
益の喪失に関する学説状況につき、菅谷元彦「利用利益の侵害に対する損害賠償について (2・完)ーー西ドイツにおける判例・学説の動向ーー」六甲台論集第三四巻第四号 (一九八八年)一〇八頁以下の紹介を参照されたい。
(40) 例えば Esser/Schmidt, a. a. O. S. 175f. など。
(41) ドイツ法において賠償請求資格を有するのは保護法益を侵害された本人だけである (債権者利益の原則)。債権者でない第三者に生じた損害は、第三者損害として区別され、これは請求権規定がなければ通常賠償することはできない (D. Medicus, Bu¨rgerliches Recht, 17. Au■. (1996) S. 618)。もちろんこのような債権者利益ドグマは差額説の帰結の一つである。しかし賃金継続支払法によって立法者は先のドグマを修正し、第三者たる扶助支給者は当該損害を被害者 (債権者)に起因する権利および被害者の人格に基づき請求し得ることを認めた (Esser/Schmidt, S. 175f.)。
(42) Keuk, VersR 1976, 402, 406.
(43) BGHZ 54, 52.
(44) U. Magnus, Schaden und Ersatz (1987) S. 240., BGHZ, 54, 51.
(45) Magnus, a. a. O., S. 240, Deutsch, a. a. O., S. 438 など。
(46) W. Grunsky, Aktuelle Probleme zum des Vermo¨gensschadens (1968) S. 73ff., 87.
(47) シュミットは、この点において、「利用」と「労働力」を明確に区別している。すなわち、彼は、損害概念を財産概念によって整理し、「評価」を必要とする損害は、原則的にそれが財産的性格のものと認められる限り賠償を認め、その際、正確な算定を要求している。それを越える経済的に把握し得ない侵害は、二五三条の制限がある限り、補償すべきではないという。したがって「利用」などについては、明確な財産的損害が必要であるとして、「無駄になった消費」という考え方を立てる。しかし、所得の源泉となる労働力については、「人的資源 (Humankapital)」の保護や社会国家的な配慮によって実質的な財産損失を問題とせず賠償を正当化している (Esser/Schmidt, a. a. O., S. 178ff.)。
(48) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 178f..
(49) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 179, Grunsky, a. a. O., S. 77ff..
(50) Magnus, a. a. O., S. 263f.
(51) Magnus, a. a. O., S. 264.
(52) Magnus, a. a. O., S. 267.
(53) BGHZ 50, 304ff.
(54) BGHZ 54, 82, 85.
(55) Schiemann, a. a. O., S. 149.
(56) BGHZ 27, 181, 183f. ; 40, 345, 347 ; 75, 366, 371 ; 86, 128, 130 など。
(57) BGHZ 45, 212, 218 ; BGHZ-GS 50, 304, 306 ; BGHZ-GS. 98, 212, 221 など。
(58) BGH一九五四年五月二五日 (民事第一部)判決 (BGHZ 13, 334ff.)において、基本法一条二項の人格権を根拠に、手紙その他の私文書は生存している著作者の同意を得、かつ著作者の認めた方法でのみ公表が許されるとされた。
(59) 右のBGH一九五四年判決をはじめとし、その後もBGHはこの立場を踏襲している。
(60) 一九七五年第一次堕胎罪違憲判決において、BVerGは、堕胎はまさに、女性の自己決定権に基づく家族計画たる人格権と胎児の生命保護という二つの憲法価値の衝突と見ている。
(61) 但し、このような利益が権利として法的に保護されるのは「家族関係が事実上、持続的かつ期待に反して侵害されている」場合に限定され、その限りで両親に損害賠償請求権を認めるべきことを主張する (Stoll, a. a. O., S. 276ff.)。
(62) BGHZ 76, 249.
(63) Stoll, a. a. O., S. 309f.

第二節 「損害」正当化規範
 第一項 補  償
 本節では、損害論との関係で論じられてきたいくつかの損害賠償法の目的および機能に関する議論を検討する。ドイツにおいても損害賠償制度の目的および中核的な機能は「補償」である。このことはBGB二四九条にその根拠が求められるが、同条はこれと並んで、被害者は加害事件により生じたすべての損害を填補し (完全賠償)、当該加害がなかったならば存在したであろう状態を復元する (広義の原状回復 (1) )という原則をも明らかにするものである。このように損害賠償法の目的原則を「補償」におく考え方は、当事者間の損害賠償関係において、BGBの視点が、通常加害者にではなく、被害者にあることを示すものと一般に理解されている (2)
 「補償」思想は、通常その背後に「不当な利得の禁止」もしくは「儲けの防止 (Gewinnabwehr)」というような法理念を伴うものである。これは、被害者は損害事故によって以前の (損害の発生していない)状態よりも (経済的に)有利な状態になってはならない、加害事件を利用して不当に儲けてはならない、ということを意味する法理念である。しかし、BGHは一定の場合に、差額説の枠組みを越えて、被害者に具体的な財産的損失が発生していないにもかかわらず、応分の賠償請求権を認容してきたのであり、このような場合、補償という考え方と矛盾することになる。特にGEMA判決では、常に生じた損害の倍額賠償を認めており、これらの事例においては被害者は、現実に発生した財産的損害以上の賠償を得ることとなり、その限りにおいては加害事故によって利得を得たこととなる (3) 。もちろん以上のように実質的に不当な利得の禁止という原則は侵犯されているにもかかわらず、なお伝統的な補償原則は放棄されているわけではない (4) 。しかしながら一定の規範や法的評価によって実損害 (実質的経済的損害)を越える不利益を賠償相当な損害として承認する場合には、単に不当な利得禁止原則と表裏一体の「補償」以上の機能を損害賠償が果たしていることは明らかであろう。このことを考えあわせるならば、仮に補償原則を損害賠償制度の根幹においてなお維持するとの前提に立っても、このような考え方と矛盾する法的効果は何によって正当視されるのかということ、すなわち補償原則の補完原理を明らかにする必要があるのではなかろうか。
 このような視点からシーマンは、補償原則は損害の評価を不明瞭なものにとどめることを指摘し、補償思想によって「損害」と「賠償に値しない財貨」とを区別することは、次のような堂々巡りに陥る危険があるという。すなわち「毀損された物の『自然 (通常)』価値または具体的市場価値は、別の『概念』または『法以前の所与の』根拠をもって確定するものであり、その結果、まさにこの価値は、該当する法的判断がない場合には、それゆえに全く一般的な補償という考え方によってのみ賠償すべきだと言うことができる (5) 」。つまり伝統的な補償概念とは、加害者および被害者の「不当な利得の禁止」という考えを伴うものであるから、補償の対象となるのは、相当因果関係にある不利益のうち、現実に生じた財産の減少、すなわち実損害だけが賠償すべき損害となる。その意味において実質的には「不当な利得の禁止」という準則にしたがって補償の範囲 (=損害)が決定されることになる。しかしこのような準則は表には出ず、またこれが妥当せず、別の異なる何らかの規則や規範によっても損害が把握されることがある。その場合、補償すべき損害の中身は「実損」よりも拡張もしくは縮減することとなり、そうした場合、被害者においても加害者においても、不当な利得の禁止という準則はもはや意味を持ち得ないことになる。しかし逆に言えば、従来の補償すべき損害を「実損」に限るとする考え方も、その実不当な利得の禁止という一種の規範によって損害を把握していることには変わりはない。この点に鑑みて、シーマンは、「補償たる目的は、初めから、その目的の実現に対して一定の前提とともに考えられることが推定し得る」ことを指摘し、「このような前提は自然的価値やそこから導かれる事実的損害概念からは見い出すことはできない」として損害概念における規範的判断の不可避性を説いている。結局、シーマンによれば補償原則によって決定される「補償すべき損害」とは、補償原則そのものから明らかになるのではなく、その背後にある不当な利得の禁止あるいはその他の規範的な準則によって決定されるものである。したがって補償原則が命題たり得るのは、その前提として損害概念においてコンセンサスが別にある場合だけであり、補償原則そのものは実際には無内容なものとなる (6)
 このようなシーマンの考え方とは逆に、補償原則を「損害」概念の規範として再評価する説がある。例えばロウソスがこの立場である。しかし、ここでは補償原則に包摂される内容が従来の通説的理解とは異なることに注意する必要があろう。ロウソスによれば、補償原則とは、「単なる目的の指標 (Zielangabe)」であり、さらなる下位原則に区分する必要を伴う一般的な損害分配原則にすぎない。そしてこのような様々な下位目的や二次目的によって、補償思考は明確にされ、価値相当な修正がなされるという。これに関して、例えば、責任逸脱の禁止、不当な利得の禁止、権利追求思想、社会法的な考え方や扶助思想を列挙し得るという。このことから結局、補償原則を「冒険者が自己の冒険のリスクの現実化に対して (それによる侵害が自己の領域であれ他人の領域であれ関係なく)責任を負うことについての法倫理と市場経済に基盤をおく公平ルールの表れと見なす」。しかしながら「同時に、このリスク負担に妥当な制限をおくことが、まさに行為自由の原則の優越から導かれる合理的要請である」。したがってこの限りにおいて補償原則は、完全賠償原則における「妥当な補償 (angemessen Ausgleich)」として明らかにされるべきである (7) 。つまるところ、ロウソスの考える「補償」とは、「賠償に値する損害の『最外郭』であるにすぎず」、その結果「規範的損害」は補償原則によっても把握される (8) 。このような考え方の前提には、完全な損害補償という考え方が強く出されているが (9) 、いずれにしてもロウソスは、補償原則を「刑法思想の否定」や「不当な利得の禁止」という考え方と直接には関連づけておらず (10) 、その限りで従来の通説とは異なる理解に立った上で、これを損害賠償法の原則としていることは明らかである。
 以上のように、伝統的な補償原則では現行の損害賠償制度を捉えるには不十分であるとの基本的な考え方に立ってその目的・機能を考える場合には、「補償」思想の内容の修正と「補償」を補完する他の原則の探究との二つの方向性が考えられよう。本稿においては、補償原則が形成されてきた歴史的経緯を考慮し、ひとまず「補償」を不当な利得の禁止を伴う伝統的な意味での狭義の「補償」概念において捉え、このような前提のもと、「賠償すべき損害」を確定するに際して補完すべき他の原則を検討することとしたい。
 第二項 加害責任の追求ーー予防・制裁ーー
 この間、BGHは様々な場面において「加害者を不当に免責すべきではない」との法思想のもと、いわゆる差額説において包摂され得ない被害者側の不利益をも損害と認めることにより被害者の利益の保護・救済を拡大してきたのであるが、これはまた同時に加害者の賠償責任の拡大を意味するものでもある。このことは、損害賠償の視点が、いわゆる「被害者に生じた損害の除去」のみならず、「加害行為者の責任の追及」にも及んでいることを示しているといえよう。ここでは加害者の賠償責任を承認することにより、当該加害者および潜在的加害者に対する一定の作用が期待されているのであり、ここからいわゆる「予防」や「制裁」といった思想が導かれることになる。本項ではドイツの学説において予防および制裁といった思想が損害賠償法においてどのように捉えられているのか検討してみたい。
 ラレンツによれば、予防思想とは、当該法秩序に望ましくない行為態様によって損害が生じる場合につき、そのような行為態様を一般的に抑止し、かつその抑止によってその種の損害を可能な限り防止するために、一定の不利益を損害賠償義務という形で引き合いに出すことを意味する (11) 。しかし実際にはこのような予防による「威嚇的 (abshreckende)作用は、当該規範の受け取り手が損害を低減する行為を決定し得る可能性をもつ場合にのみ」機能するものであることから、「この前提は、過失責任および (当該責任者が主として実施義務を負う予防措置によって損害発生の危険を低減するような状態にある限りにおいて)一定、危険責任においても妥当するものであるが、これら以外の損害賠償義務者に対しては妥当しないものである」。とくにラレンツは、予防思想から要求される行為の危険性と賠償義務による負担との相関関係に鑑みて (12) 、「とりわけ立法者が一定の行為をその行為の危険性だけを理由として禁止する場合や制裁的に賠償義務を与える場合」には、予防を「付随的目的」として肯定する。すなわちラレンツによれば、ドイツ損害賠償法は、まず第一義的に「損害賠償として何に責任を負うかは、制裁や予防思考によってではなく、補償思考」によって方向づけられているのであるが、「たとえ主要目的としてではなくとも、多くの場合においては望まれる損害賠償の副産物として考慮されている」とし、二次目的として予防思想の存在を認めている (13)
 ランゲも基本的にはラレンツと同様の見解を展開している。特に近時の賠償システムにおいては、保険制度によって明らかに予防機能は大幅に制限されていることを指摘しつつも (14) 、これによって損害賠償法の内容は、一般には影響されないとして、特に、共働過失における衡量、慰謝料額の算定、重大な人格権侵害への賠償における損害算定による予防機能を評価している。さらにランゲは著作権侵害に基づく請求形態 (例えばGEMAの倍額賠償という請求方式)においても予防思想は重要な役割を果たしていることを指摘する。またロウソスも、一定の損害については、その算定の局面において、明言されてはいないものの、明らかに制裁や予防といった判断を担う結果となっていることを指摘している。とりわけ最少損害が認められる場合に注目しつつ、その限りにおいて「制裁や予防の考慮は、まさに損害原則の『暗黙の』構成要素として不可分にこの原則に吸収されている」という (15)
 他方ドイチュは、複数の段階的な責任法の目的を、法の発見・解釈の指針として、また法の欠缺を補填するものとして考えている (16) 。ドイチュによれば、「損害除去〔いわゆる補償原則〕が〔過失責任が支配的であるところの〕不法責任においては、第一のかつ主要な目的」であり、「被害を受けた財産状態は保証機能〔いわゆる権利追求機能〕によって回復されるべき」である〔括弧内筆者〕。そして次に「可能な限り将来の損害再発の回避をも」責任法の目的とする。またドイチュは例外的に予防が損害除去、すなわち補償に優先する法的効果をも認めている。例えば、契約違反を予防しその履行の確保を目的とする契約法上の違約金である。また慰謝料における満足機能、特に名誉毀損の場合には、金銭賠償による補償よりも事後的な予防が前面に出ていることを指摘している (17) 。それゆえにドイチュによれば、損害の除去と予防という二つの目的が、相互依存的に一方の目的による濫用を防ぐことになる。この場合、予防目的は損害除去の過剰な機能によって結果責任となることを制御する。他方、賠償額の高額化は損害発生に予防的に作用する (18) 。またこのような予防目的は、責任範囲の決定に際して、公平などの様々な要素が考慮される場合、例えば過失相殺や慰謝料において、損害の除去という目的と並べて考慮されることになる。
 いずれにしても、第二章において検討したような一定の場合には、具体的に現実化した実損を越える抽象的な損失が、法的判断を介して賠償対象たる損害として認められているのは明らかである。とりわけ単純な結果責任ではなく、すなわち加害行為によって惹起される被害者における様々なレベルの不利益すべてがただちに賠償につながるのではなく、一定の法的判断による制限をもって賠償対象となる損害が画されていることに鑑みても、まさに被侵害法益の保護、すなわち一定の利益の侵害の予防が法的に目的化されているように思われる。またこのような損害が判例によって確立されることにより、この予防目的はその機能を一層明確に果たすことになろう。
 では次に、損害賠償法における「制裁」思想に対するドイツの学説を検討してみよう。BGBは損害賠償の発生要件の一つに故意・過失を含み、その限りにおいて、損害賠償は法的に不当な行為を前提としているといえよう。しかしこれは制裁を意図したものではなく、むしろドイツ法は、まさにそのような事態を、歴史的な法の発展過程を経て回避してきたとの理解から、民事法における不法への単純な制裁という考え方を否定するのが通説の立場である (19) 。条文上もBGBは、賠償義務の範囲を責任非難 (有責性)の程度によって段階的に設定してはいない。また普通法時代においては、被害者に過失がある場合には被害者の賠償請求権は否定されていたのであるが、現行のBGBではこの点は変更され、被害者に共働過失がある場合には、その過失を考慮するものの損害賠償請求権そのものを否定してはいない (二五四条)。以上のことから、損害賠償は、答責ある行為への非難ではなく、「損害の公平な賠償」を重視しているとするのが通説である。例えばこのような立場からラレンツは、「不法それ自体の法秩序への反射という意味での制裁という考え方は刑法に帰属する」のであって「民事法はそれに馴染まず」、立法者によっても民事上の損害賠償法へのこのような「道徳的もしくは刑法的な歴史的観点の導入は意識的に拒否」されていたとして、制裁を目的とした損害賠償を明確に否定している (20) 。同様にランゲも、「刑法的思考は、民事法には縁遠いものでなくてはならない」という。なぜなら「それと異なる歩みは、一世紀もの間非常な困難を伴ってなされてきた (民事・刑事の)分離過程に対する後退」であり、また「損害賠償手続には処罰に対する必要な保障が欠けている」からである (21) 。しかし八四七条の慰謝料の機能については、これを補償とみる見解と満足とみる見解があるのは周知の通りである。判例は、人格権侵害において当該慰謝料の満足機能を承認しており、慰謝料の満足機能につき否定的な学説においても、満足機能から根拠づけられる慰謝料について、制裁的観念から導き得る賠償が存在することが指摘されている (22)
 民事責任において予防や制裁といった目的や機能をどの程度正面から認めるかについて議論は残るものの、いずれにせよ以上のような予防や制裁といった視点から損害賠償法を捉える考え方、つまり加害責任に重点をおく考え方は、いわゆる最少損害が認められる場合には否定できないように思われる。なぜならここでは被害者において実際の損害が生じたか否かにかかわらず、権利 (法益)の侵害をもって加害責任に基づく賠償が認められるからである。さらにBGHが、人身損害における財産的損害の認容に際して加害者の重大な過失を考慮しているケースがあるが (23) 、この場合には、まさに加害者の賠償責任の範囲がその行為態様によって加重されていることを考えれば、このような損害賠償の認容が加害者に対して予防・制裁的に機能することは否定し得ないであろう。
 第三項 権利追求
 ノイナーに端を発する客観的損害論 (最少損害論)において主張されてきたのが、損害賠償における権利追求機能の承認である。これはいわゆる不当な利得の禁止という原則と結び付く補償原則に基づく実損害主義に対する批判として、客観的損害論を認める主要な根拠として展開された考え方である。「権利追求」とは、被害者に、請求権規範において保護された権利の価値を保障すべきであるという考え方であり、これによれば「権利侵害」があれば、具体的な「損害の発生」がなくとも、その被侵害法益の最少価値として客観的価値の賠償が認められることになる。したがって、ここで直接問題となるのは、加害者の行為様式ではなく、個別の被害者に帰属する権利や法益である。
 しかし、このような「権利追求」の損害賠償における承認は、「権利侵害」要件と「損害の発生」要件の同一化をもたらす。BGBは賠償義務の発生につき、権利侵害のみならず、いわゆる損害の発生 (差額説でいうところの「差」)をも要件としており、それゆえこの点において批判がある。例えばランゲは、すべての所有権侵害や名誉毀損が損害を惹起するとはいえず、それゆえにあらゆる権利侵害をただちに有意な加害と見なすことはできないことを指摘する。またそれゆえに、権利追求という考え方は「損害概念の規定や損害賠償義務の内容の規定に対し、独自の価値を認めることはできない」という。しかし、注目すべきは、ランゲも権利追求という考え方そのものを否定しているわけではないという点である。つまりランゲは、権利追求はBGBの損害賠償法体系においてすでに内包されたものと見ているのである。すなわち「当損害賠償法の機能に相応するのは、補償 (清算)が第一義的に原状回復によってなされるべきことである。これによってBGBは、権利および法益の保護を財産の保護よりも優先しているのである。この意味において、権利追求を語ることは全くもって正当である」。したがって権利追求は、損害論においては補償原則と対立する規範として展開されてきたのであるが、ランゲによれば、それ自体「正しく理解されたならば、補償原則と対立するものではない (24) 」。
 同様にシーマンも、このような考え方をBGBが含むことは、現行の二四九条以下の規定からも、またその立法過程 (25) からも明らかであるという (26) 。すなわち、「権利追求は、当損害賠償法における自然的原状回復と価値賠償という『複線的』な法機能を明確化するものであり、このことを通じて、このルールの個別的な目的を一つの矛盾のない秩序に導き得るものである。つまり、『法益の原状回復』として自然原状回復を把握するという歴史的根源は、当該損害賠償の特徴上、被侵害法益の追求として維持されている。そしてこのことは、価値賠償にも影響する」。またBGBにおける原状回復原則からは、「常に、損害発生以前に存在する法益状態の完全性、すなわち損害のない状態が前提となる」として法益の完全性利益について言及し、そして通常、ここにおいて重要であるのは、被侵害法益の再調達価値であるという。このようにシーマンは、BGBにおける原状回復の優越的規定から体系内的に損害賠償請求の権利追求的側面を根拠づけ、ここから法益の完全性保護を導き、さらに最少損害の賠償を認めるのである (27)
 さらにラレンツも、単なる「権利追求」によっては、第一次侵害損害しか賠償範囲に含まれず、後続損害の賠償に不十分であることから、「補償思考は結果損害の補償をも要請するものであるがゆえに、単なる権利追求たる考え方を凌駕するものである」ことを指摘しつつ、「権利追求たる考え方は、補償思考に含まれた観点として認めるべき」であることを主張している点 (28) に注目したい。
 第四項 扶  助
 近時、労働力の喪失などの人身損害に基づく賠償においては、損害賠償の目的として「扶助 (Versorgung)」思想もが認められる傾向にある。この考え方によれば、あらゆる事故犠牲者に対し妥当な補償が認められ、とりわけ医療扶助の費用および当該加害による収入損失の補償が確保されるべきものとなる。先駆的に損害賠償における扶助思想を人身損害における補完的原則として、いわゆる補償原則を越えて損害を規範的に評価する近時の諸判例の動向から帰納的に引き出したのはシーマンである。シーマンによれば、扶助原則は「損害を考慮するに際しての民事的な損害賠償と社会法との機能上の統一から生じる。『健康や労働力』を通常個人の重要な『資本』として保護したり、被害者の状態が維持されるようその損失に応じて埋め合わせを行うという社会法的目的は、社会国家的な法の発展枠組みに方向付けられた現代民事法についても承認すべきである」。ここにおいては、民事上の損害法は「犠牲者の完全な扶助という包括的な目標の範疇で、『現存の扶助の欠缺の補填』によって独自の寄与を与え得る」として、損害賠償は、法政策的に、社会法上の扶助の補完的機能を果たすものとされている (29) 。そして社会法の有する原則的な方向づけにしたがい、このような補償は、人身損害においてのみ有意義なものであるとして、例えば、治療費、健康の回復に要する特別な需要、所得の喪失、非財産的損害そして様々な第三者損害 (30) といった具体的な損害項目を列挙している。
 ランゲも「人身損害においては、損害賠償法と社会的な扶助による保護とが縫合され、(社会的扶助が損害賠償法を)補完することは正当である」として、人身損害における「扶助」思想の介入を一定評価している。ただしこの場合、民事上の請求は被害者が社会的保護によって生じた損失を填補できない場合に止まることから、「社会的保護が介入する限り、民事上の損害賠償請求はほとんどそれに移行する」ことを指摘している。しかし「需要 (Bedarf)を問題にする社会法の課題領域は、特別法に組み込まれる民事法上の損害賠償の課題となる領域とおそらく重なり合う部分もあるであろうが、社会法の目的はより強く公益に向けられるがため、それによっては完全な補償はなされ得ない」。このことから「民事上の損害賠償法を、社会的保護によって、一つの統一的な扶助法において克服することはほぼ不可能であろう」として、結局「ここにおける損害賠償の扶助機能は、特殊な補償思想たる観点と何ら異なることはない」と結論づけている (31)
 ロウソスは、扶助原則は現行責任法の枠組みにおいては (損害発生原因となる)事故犠牲者の扶助を満たさないとの認識から、この原則に対して消極的な評価を行っている (32) 。ロウソスによれば、犠牲者の完全な扶助という目的は、我々の社会に一般的に根付いている共同体の役目にまで高められた「損害の社会化」によってその実現が目ざされている。これによって (社会や潜在的加害者や被害者などの)集団的な担い手に肩代わりされる損害は、当該損害発生や当該個人とは無関係に填補されることになる (33) 。さらに損害の集団化、すなわち社会的集団に損害が転嫁される場合には、財源の問題と (システム運営などに要する)コストの合理化という問題が必然的に考慮されることになる。これらの考慮は、結果的に補償の範囲をまさに「基礎的な」扶助に限定することを要求することになるであろう。このようにして個人利益と集団利益が密接に絡み合い、その結果、個人の扶助利益の実現は社会および集団のそれの重大性と比較され、制限的に実現されるに過ぎなくなるであろう。したがってこのような個人的利益の共同体利益への統合は、補償原則への著しい制限となることが懸念される。すなわち従来の損害賠償法における補償原則においては、個人の「事故による犠牲への完全な扶助」が保障されているからである。それゆえに扶助原則は、現行法における「個人たる被害者の被った損害の完全な補償という考えが危険にさらされない限りにおいてのみ妥当し得る」に過ぎない (34) 。さらにロウソスは、(社会法上の)扶助思考の損害法への移行が、一般的な帰責原理として以下のような危険を覆い隠すことに憂慮すべきであるという。すなわち賠償請求は損害犠牲者の社会的状況に鑑みてのみ理由付けられることになり、これによって「公平」な決定というプロセスが制度化されること、並びに加害者の社会的状態や扶助状況に応じて賠償請求が切り詰められるという危険が覆い隠されることを懸念している (35)
 いずれにしても、扶助原則を損害賠償原則の目的として位置づけるためには、完全賠償原則や原状回復原則、健康回復原則などの純粋に民事上の要請として導かれる諸原則や完全性利益と、このような「扶助」思想との調整という問題が残ることとなる。しかしながら、それにもかかわらずこの原則が人身侵害の場合に限って考えられるものであることは、言い換えれば、物損中心に展開してきた損害法を修正するものとして、従来にはなかった発想からの損害賠償の目的に関する提起であるという点にこの原則を語る重要な意味があるように思われる。
 第五項 憲法 (基本法)規範
 民事上の損害賠償における「損害」を枠づける規範として、憲法規範はいかなる作用をもたらすのであろうか。例えばいわゆる一般的人格権の発展につき、ドイツの学説・判例は、ボン基本法一条・二条からこれを基礎づけ (36) 、さらには基本法一条の人間の尊厳の最高価値性から、一定の要件のもとにではあるが一般的人格権侵害に対して慰謝料をも認めるに至っている (37) 。これらのことから、民事責任における保護法益の拡大という局面において憲法規範が一定の役割を果たしてきたことは認めざるを得ず、また人格的利益のより一層の保護の必要性が認識される今日、そのような役割の一端を担うことが期待されているといえよう。例えばドイチュは、人格権のように立法的欠缺がある場合には憲法は責任法の「法源」たることを認めている (38) 。しかしながら、他面において、ドイツでは一般的人格権は今や私法上の絶対権 (八二三条一項の「その他の権利」)として構成されていることからも伺えるように、このような権利は憲法 (基本法)の存在なしには全く認められ得ないものであるとも考えがたい。つまりこれらの人格的利益は、そもそも前憲法的な価値として、民法においても (体系内的に包摂しうるものか否かにかかわらず)独自に認めうる価値として存在し得るものではないか、との疑問も生じ得るのである (39)
 ところで、ある価値が憲法規範から演繹されるか否か、またそれが民法に適用されるか否かということがとりわけ重大な問題となるのは、憲法上の理念や価値と民法上のそれとが抵触する場合である。本項においては、まさにこのような場合に当たるのではないかという疑問が呈せられた望まれない子の出生による両親の扶養損害賠償請求のケースを素材に、民事損害賠償の対象としての「損害」概念において、憲法 (基本法)規範と民法とがどのような関係に立つのかにつき、ドイツの議論を検討してみたい。
 憲法が私人間の紛争においても適用されるのかとの問題は、従来、特に民事上の私的自治の原則や契約自由の原則との関係において、いわゆる憲法の「第三者効力」ないし「私人間適用」の問題として主として憲法学において議論されてきた。通説・判例は、ドイツにおいても、日本と同様に、本来対国家的権利である基本的人権の規定を一般条項を通して私人間の民事上の紛争にも間接的に適用しようとする、いわゆる間接適用説であるとされる (40) 。これによって基本権の尊重と私法の独自性および私的自治の尊重の調和が試みられてきたものと思われる。しかしながらドイツでは近時、これらの問題とは別に基本権の客観法的意味内容の一つとして判例・学説において確立しているとされるいわゆる「国家の基本権保護義務」論により、従来の問題の枠組みを越え、私人間効力に関する問題を再構成しようとの動きが見られる (41) 。国家の基本権保護義務とは、国家に第三者による侵害から個人の基本権を保護するために積極的な措置を講じるべく課せられた義務のことであるが、このような考え方を私人間効力が問題となる局面においても拡張しようとするものである (42) 。保護義務論においては、国家による保護は憲法上要請される最低限を下回ってはならず (過少保護の禁止)、またその保護によってその相手方の基本権に過度に介入しないこと (過剰介入の禁止)が要請され、当事者双方の基本権の衡量が基本におかれている (43) 。一九九三年の連邦憲法裁判所判決においては、まさにこの「国家の基本権保護義務」の帰結として、中絶手術の失敗により子どもが生まれた場合に、その子どもに対する扶養義務を損害と見なすBGHの民事賠償判決が遺憾なものとされ、このような民事判決に再検討をせまったのである。いうなればBVerGは、保護義務に基づく「過少保護の禁止」原則から、妊婦の自己決定権と胎児の生存の尊厳とを比較衡量し、ある種パターナリスティックに胎児の基本的人権の保護に乗り出し、民事上の「望まれない子」の扶養損害請求を禁じたのである。
 国家の基本権保護義務論を私人間適用の問題に接合し、私人の対国家的保護請求権 (保護権的構成)を初めて明確に主張したのは民法学者であるカナーリス (Canaris)であるとされるが (44) 、このような (具体的にはBVerGによる)民事への介入について、民法学者の多くは好意的な受け止めをしているとはいいがたいように思われる。例えばシュトルは、両親の扶養損害賠償請求は子どもそのものを損害と捉えるものであるとしてそれを否定することは、「『全ての人をその生存において個人として尊重するためのあらゆる国家権力の義務 (45) 』によって行うべきではない」ことを明言している (46) 。またギーセン (Giesen)も、「まさにBVerGや裁判官に重要なのは、すでに根本的に問題ある方法でもって、さらにここでは人への侵害という誤解に基づく重砲によって、民事上の問題についてその法的見解を貫徹することではない。彼らにとって重要なこととは、日常的な法的生活において、憲法におかれた我々の法秩序の基本的価値に効力を認めることである」と述べている (47) 。これらの指摘は、まさに民事上の中心的問題においてまでも、国家にこのような保護義務を認めるべきであるのか、との疑問を導くものであろう。保護義務そのものは、とりわけドイツにおいては、基本法一条において、「尊重」のみならず「保護」についても国家の責務だと明言されていることから正当化されるとの見方もある (48) 。しかしながら、このような保護義務が直ちに民事責任を肯定・否定する上で効力を及ぼすか、ということについてはさらなる検討が必要であると思われる。
 いずれにしても、望まれない子の扶養請求のケースにおいては、医師と妊婦との間で取り交わされた妊娠中絶契約は締結時において適法であったにもかかわらず、このような有効に成立した契約の履行に不備があり損害賠償請求事件となった時点で、両親の私権 (扶養費用賠償請求権)が憲法規範を背負った「国家の保護義務」の名の下、国家権力によって一方的に制限されていることは明らかである (この場合、生まれた子どもにとって両親の扶養請求権の認容の是非につき意思表示することはできない)。結果的には、この事件について、BGHは、子の出生そのものを損害と見なしているのでないとしてBVerGからの批判をかわした上で、扶養負担を損害賠償の「補償」目的や「契約の保護規範」にしたがって賠償を認め、包括的な損害評価を行った。その意味でBGHは従来の判決を維持し、民事上の体系内的な理念、原則にしたがった判決を行ったといえよう (49)
 とりわけドイツ法においては全体主義の経験という歴史的経緯から、ボン基本法における人間の尊厳をはじめとした基本的な価値が強調されざるを得ず、それゆえ私法関係においても基本権を尊重しようという法状況があるとされる (50) 。しかしながら国家の基本権保護義務をもって、私法関係へ介入することについて、民法学の側ではなお全体としては懐疑的であると思われる。いずれにしても今後も慎重に検討を行うべき領域であるといえよう。
 第六項 補助的規範ーー社会生活上の見解
 この間BGHは、被害者に生じた様々な不利益を以上のような法規範によるのみならず、「社会生活 (または取引)上の見解 (Verkehrsauffassung (51) )」や「実務性」、「経験則」など、いわば現実的な法政策的判断を (補足的に)用いつつ「賠償相当な損害」として正当化してきた。とりわけ商品化論とともにBGHの損害論において多用される「社会生活上の見解」という規範について、ここでは簡単にではあるが検討を試みたい。
 判例は、例えば、商品化論や評価損を認めることが妥当か否かという場合に、とくに「市場」にかかわる「社会生活上の見解」によって被害者の不利益を賠償相当な損害として正当化してきた。それゆえ社会生活上の見解とは、(取引)社会における通常人の考え方を意味するとも思われる。これによって市場を媒介とした社会的な価値の変動 (価値観の変化)、社会的な意識変化を現実の紛争の解決 (裁判)に取り入れることを可能にし、硬直的な法運用を回避し、柔軟かつ適切な、その限りで「公平な」法的結果を招来しようとするものであろう。それゆえこのような社会生活上の見解という柔軟な補助的規範は、場合によっては、立法に至るまで、過渡的に一定の法創造機能をも果たしてきたように思われる。例えば、BGBにおける旅行契約条項の創設はまさに判例の積み重ねの結果であろう。またこれは他方で学説の動向や下級審判決の傾向などを反映するものでもあった。
 しかしこのような規範は、その反面、シーマンが指摘するように、「判決を行った法廷の価値見解に基づく決定が正しいことを端的に表現するものにすぎないのではないか、との疑いを容易に引き起こすものである (52) 」。例えばBGHは抽象的利用利益の事例において、様々な客体の利用損失を社会生活上の見解にしたがい、贅沢品や道楽、暇つぶしにしかすぎないとして賠償を否定しているが、ここにおいては、社会生活上の見解は裁判所の「個別事例における衡量の結果 (53) 」として用いられている。このような「社会生活上の見解」によって「損害」を根拠づけることは、一般的な社会的判断や社会意識を適宜、損害法に反映し得るという利点をもつ反面、裁判官の裁量の余地を不当に拡げ、そのような判断を正当化する手段として用いられるおそれも大きい。であるからまた「社会生活上の見解」とはあくまで他の優先する規範的判断に基づく結論を、補足的・より説得的に根拠づける補助的な規範にすぎないといえる。それゆえにここにおいては、より妥当な法律構成 (例えば商品化論)や、より上位の法規範 (例えば損害賠償法の目的・機能)によってこのような補助的規範の作動範囲を限定することが重要な作業となろう (54)
 第七項 ま と め
 ここで、本節において概観してきた差額説的損害概念の修正の際に作用してきたいくつかの規範を損害賠償の目的や機能という視点を中心に簡単にまとめてみよう。
 損害賠償の主要目的・機能は、ドイツにおいても「補償」である。これは伝統的には「不当な利得の禁止」などの法理念とほぼ不可分の考え方であり、それゆえここでは、補償すべきであるのは経済的・現実的損失であるとの規範が働いており、まさにこのような賠償目的論は、伝統的差額説における実損主義たる損害観に対応するものであったと思われる。したがってこのような実損主義的な規範に代わって、経済的指標のみでは測れない損害をも (別の規範によって)法的に把握しようとする場合、つまり差額説的枠組みを修正しようとする場合、「不当な利得の禁止」や実損主義といった法理念や法規範に裏付けされた伝統的な意味での補償原則によるのみでは「損害とは何か」という問いに対して積極的な回答を得ることは困難となり、ここにおいては、従来の実損主義的な規範と一体化した補償原則に代わる、もしくはそれを補完する他の原理の探究が不可欠となる。近時の補償原則を再評価する学説も、結局は、補償概念を様々な規範を含む公平ルールと理解し、全部賠償原則を意図しているにすぎないことからも、これらの (並列的にせよ二次的にせよ)補完原則を明確にする必要は明らかであろう。
 いわゆる伝統的補償および差額説が修正される場合、「被害者に生じた(実)損害の除去」との視点もさることながら、「加害者を不当に免責すべきではない」との法理念が強調される場合が少なくなかった。これはいわゆる「予防」や「制裁」といった考え方として現れるものである。とりわけ制裁という考え方については損害賠償においてこれを正面から認めることについてはなお抵抗があるものの、実務的には、非財産的損害の確定 (慰謝料算定)をはじめとして、損害賠償の制裁的側面自体が簡単には否定できない状況にあることは学説の多くも認めるところである。
 さらに予防思想に至っては、通説によっても、補償と並ぶ損害賠償制度の重要な二次的・付随的目的として承認されている。たしかに、近時の損害の集団化傾向、とくに保険制度の著しい発達に鑑みれば、予防目的は十分に機能しないのではないかという懸念も生じよう。さらに、損害賠償制度それ自体そもそも個人利益の追求の場であることから、予防目的の意義を問われることもある。しかし損害賠償制度も社会制度の一つであることにはかわりなく、またそれゆえ、一部の学説においては、予防思想は単なる損害賠償制度の二次的目的に止まらず、補償と並ぶ相互補完的な目的にまで高められ積極的に評価されているのである。実務においても、このことは補償原則と矛盾する結果を導く場合、つまり現実の財産的損失を越える不利益が賠償対象となる場合には顕著であった。今後も法益の「完全性利益」が重視されればされるほど (また完全な原状回復が不可能な法益であるほど)、予防思想は重要なものとして現れることとなろう。その意味では近時のBVerGによる私法関係における国家の保護義務論の展開もこのような予防思想の表れと見ることもできよう。保護義務論の是非はともかくとしても、現代の予防法学の構築を重視するという流れに鑑みれば、損害賠償法制度における予防思想は、その役割および期待をさらに増すこととなると思われる。
 そのこととも関連して、損害賠償の目的・機能において、とりわけ損害論との関係で強く主張されてきたのが、ノイナーが提起した客観的損害論に端を発する損害賠償の「権利追求」という考え方である。権利保護そのものが重要な法命題であることは明らかであることから、このような考え方は概ね好意的に受け止められているといえよう。しかし学説では、権利追求原則そのものを一つの独立した目的や機能と見るのではなく、後続損害の賠償などとの関係も踏まえて、権利追求とは補償原則の具体的な一側面、すなわちこれを補完・強化しつつそれに包摂される原則と捉えられる傾向にあるといえよう。とくにBGB二四九条において、第一義的に、権利の貫徹 (Rechtsdurchsetzung)という理念に基づき原状回復の原則が明記されていることから、学説ではこのような考え方はBGB体系にすでに内包された理念であり、それが具体化されたにすぎないとされる。しかし従来の差額説的損害論との関係においては、権利侵害が現実の損害の発生 (実損)を導かなくとも客観的な最少損害を認めるべきかということが問題となるような場合には、なおこの考え方そのものに積極的な意義があるといえよう。
 さらに以上の諸規範に補足して、人身侵害においては、社会法的な見地から「扶助」という特殊な考え方が取り入れられるべきことが主張されている。「人」それ自体は、実際の生活を送る上で一定の権利・利益を享受する主体そのものである。それゆえに、このような権利主体に対する侵害を重大なものとして、その原状 (加害以前の「健康」状態)を回復するに最低限の賠償を確保することを目的とし、相応の費用を損害として認めようとする立場である。しかし民事法の本質からみて、このような考え方によって、個人の完全な権利追求までをも制限することは許されるべきではない。それゆえここでは、社会法的な要求と民事法的な要求とのバランスを考慮する必要が生じるのであり、このことは法政策的な判断を不可欠なものとして呼び寄せることになる。
 右の民事上の損害賠償法における諸規範の検討に加え、近時、わが国でも検討が始められた損害賠償における憲法規範の意義についても一定の考察を加えた。すなわち、憲法規範や価値と民法のそれとの関係である。とりわけ一般的人格権の創造においては、憲法規範が法源的にもしくは説得の手段として利用されてきたという現象があるが、現在ではそれは私権として保護されている。この問題に関連して、本稿においては特に、望まれない子の扶養損害賠償請求事件における規範の衝突という問題を取り上げたのであるが、ここにおいては、このような問題以前に、BVerGとBGHにおいて、まさに「何を損害と見るか」という視点そのものに違いが生じていた、という問題もあった。さらにBGHにおいても、医療および診療契約 (計画・期待)に反して生まれた子どもの存在は、子どもの世話や扶養、家族関係の複雑化、または子どもの障害等による両親の負担などを含め、両親にとって何らかの負担となることは否めない反面、子どもの誕生とは絶対的な価値実現であることからここで問題となる損害は「まさに様々な利益と不利益が交錯する複合的な損害」であることが指摘されている。また学説も、この問題においては、精神的な利益・不利益、財産的不利益が混在し、まさに複合的な損害が存在することを指摘している (55) 。それゆえ、BGHはこの問題については、包括的な観点から、あらゆる具体的な状況を考慮し、その意味においてはまさに損害を法的に評価し解決しているのである。
 以上のことから、いずれにしても、「何が損害であるのか」との問いに対しては、損害賠償法の基本原則、とりわけその目的や期待されるべき機能や効果に即した解決が図られるべきであり、また憲法というフィルターを具体的に通すか否かにかかわらず、現代的な価値秩序、法観念 (例えば人格的利益の尊重)に応じた修正がなされる必要があることは明らかであろう。この点について、現行の憲法理念に限っていえば、私人間においてもそのような理念をある程度参照し尊重していくことは有意義であろう。しかしながら、これらの諸規範が相互に抵触する場合、どのように調整しまたは優劣を決定するのか、また同一規範のもとに保護されるべき他者との利益についてはどのような調整をすべきであるのかという問題がなお残る。これらは最終的には我々の法秩序、社会枠組みにおいて民事損害賠償法制度にいかなる理念、価値秩序を付与するのかという問題に帰着することになろう。さらに、一定の画一的な規範による損害の法的評価に限界が伴う場合、当面、想定される問題を個別的・機能類型的に考察していく作業も必要となろう。これらの問題については今後の課題としていきたい。

(1) いわゆる損害賠償方法としての原状回復 (狭義の原状回復)ではなく、まさに当該加害事件がなければあったであろう状態 (原状)を復元することを意味する。
(2) Lange, a. a. O., S. 9.
(3) 他に、例えば営業保護法における特許権侵害の事例の場合がある。ここでは被害者が実際に特許権侵害によって営業権を侵害されたか否かにかかわらず、妥当な特許権使用料にしたがって抽象的に損害算定が行われている。また加害者に対する利得返還請求をも認めている。また、損益相殺の局面においても「不当利得」が生じている。例えば損害保険による給付が控除されない場合などである。
(4) ランゲは先の事実によっても補償原則は完全に放棄されるのではなく、今後もなおその境界線を維持すべきであり、特別な法的判断に基づいて例外を認めるにすぎないという (Lange, a. a. O., S. 9)。
(5) Schiemann, a. a. O., S. 186.
(6) 例えば、「自然的損害概念は経済上の物的価値、売却価値、収益価値そして取得価値という具体的に市場関連的理解において受け入れられるという言葉の利用の仕方によって組み入れられてきた」ものであり、結局は補償原則たる命題が持つ力は損害概念におけるコンセンサスによるものであるという (Schiemann, a. a. O., S. 187)。
(7) Roussos, a. a. O., S. 15ff.
(8) Roussos, a. a. O., S. 401.
(9) Roussos, a. a. O., S. 16f.
(10) Schiemann, Literatur, AcP 194 (1994) S. 415. シーマンはロウソスの考える補償原則は伝統的な考え方からは逸脱するものであり、これは「補償原則を全賠償の政策的な理由付けに役立てているにすぎない」と批判的に指摘している。
(11) Larenz, a. a. O., S. 351.
(12) 「予防思考は、抑止効果を目的とするがゆえに、(行為者にとって)不利益、つまり当該賠償義務の程度と、当該賠償義務によって抑制される行為の危険性との間に一定の関係を要求している」。すなわち、より危険性の高いものほど、賠償義務の負担もより過大なものとなる (Larenz, a. a. O., S. 351)。
(13) Larenz, a. a. O., S. 351.
(14) Lange, a. a. O., S. 10.
(15) Roussos, a. a. O., S. 10. しかしながら、ロウソスの場合は、「予防」思想を損害算定に制限的な規定として一定評価するものの、その特殊 (広範)な「補償」概念の理解によって結論的には補償原則に一元化されている。
(16) Deutsch, a. a. O., S. 66ff.
(17) Deutsch, a. a. O., S. 73ff.
(18) Deutsch, a. a. O., S. 74f.
(19) Larenz, a. a. O., S. 350f.
(20) Larenz, a. a. O., S. 350f. メルテンスも同様の観点から民事法における制裁思想を否定し、損害の補償を問題とすべきことを説いている (H. J. Mertens, Der Begriff des Vermo¨gnsschadens im bu¨rgerlichen Recht (1973) S. 96f.)。
(21) 但し、ランゲは、その限界領域の問題として、「満足機能」による慰謝料の判例や、その他にも制裁に向けられた衡量が損害賠償法上の決定においてあることを指摘し、とりわけ法政策上問題となる領域において制裁に一定の余地を認めている (Lange, a. a. O., S. 12f.)。
(22) Schiemann, a. a. O., S. 222.
(23) BGH一九六九年九月二三日判決、VersR 1969, 1040ff. (第二章第六節の整形手術の事例参照)。
(24) Lange, a. a. O., S. 11.
(25) デーゲンコルプ (Degenkolb)は、BGB損害賠償法の第一草案について、「完全な原状回復 (Naturalherstellung)という考え方は、損害賠償法上の思想に特別なものではない。むしろそれは権利の貫徹 (Rechtsdurchsetzung)に由来する考え方である」と述べている (H. Degenkolb, Der spezi■sche Inhalt des Schadensersatzes, AcP 76 (1890) S. 76)。
(26) BGB二五三条は非財産的損害の金銭賠償について制限しているが、二四九条一文による原状回復はもちろん法益の財産性は問題としない。つまり当該損害が原状回復によって補償し得ない場合、その損害が「財産」的性質のものであれば金銭賠償される可能性があるにすぎない。このことからシーマンによれば、結局、権利追求思想とは、原状回復は純粋な財産の復元以上に可能性があるといったような類の「単純な事実を越える独立の保護観点を含むものではなく」、補償原則に吸収されるものである (Schiemann, a. a. O., S. 224f.)。
(27) シーマンによれば、再調達価値とは「損害のない静的状態を適切かつ価値相当に把握したものを現実化した価値」であり (Schiemann, a. a. O., S. 209)、この価値は被害者における「利用価値」を考慮することなく賠償されるべきものである (Schiemann, a. a. O., S. 304f.)。
(28) Larenz, a. a. O., S. 352.
(29) シーマンは、民事上の賠償は、@「因果関係のある」責任構成要件を充足する場合にのみ認められ得ること、A被害者はBGB二五四条における共働過失の規定にもとづき、完全な賠償がなされず、軽減される可能性がありこれを覚悟しなければならないことから、社会法上の補償における制限よりもハードルが高く、したがってその補完的機能を果たすという (Schiemann, a. a. O., S. 305)。
(30) 例えば葬儀費用、得べかりし扶養、得べかりし労務 (Dienst)などである。
(31) Lange, a. a. O., S. 10.
(32) Roussos, a. a. O., S. 13ff.
(33) それゆえにロウソスによれば、行為そのものの制御によって損害事故の発生を低下させるという目的は、補償とともに予防目的をも計算に入れる補償体系とは異なって、扶助原則にあっては二次的な目的にとどまるのである。
(34) Roussos, a. a. O., S. 14.
(35) Roussos, a. a. O., S. 14f.
(36) 現在では、一般的人格権はBGB八二三条の「その他の権利」の中に含まれるものと解されている。
(37) BGHは、一九五八年の「素人騎手事件」において、肖像権侵害に対してBGB八四七条を類推し慰謝料請求を認めるに至った (BGHZ 26, 349)。このようなBGHによるBGB二五三条を越えた法創造は、その後一九七三年の「ソラヤ事件」においてBVerGによっても承認されている (BVerfGE 34, 269)。同様に日本においても、憲法一三条を根拠に人格権が認められてきた経緯があるが、これに対してフランスでは憲
法と民法は対等な規律として存在し、憲法上の人格権と民法上の人格権の関係は「法律以前の存在として人間に属する人権が、一方で国に対して主張できる憲法上の権利、他方で他の人に対して主張できる人格権 (フランスの「根源的権利」)として現れている」(星野英一『民法=財産法』(一九九四年)五二頁)。
(38) E. Deutsch, Allgemeines Haftungsrecht, 2. Au■ (1996) S. 26. ドイチュは、基本法一条の人間の尊厳条項に鑑みて、望まれない子の扶養費用は憲法によっても損害とは見なされないということを明言したり、また生まれた子に障害があった場合に慰謝料を否定するなど、責任法規範に憲法規範を基礎におく場合には、憲法規範の影響は責任の解釈にまで達していることを指摘する。しかしながらこのように憲法により絶対的影響を受ける民事法領域 (Verfassungszivilrecht)は、「可能な限り最小限にとどまるべきこと」を主張しており、憲法の法源性は@立法的欠缺のある場合、A責任法上の解釈のゆがみを制御する場合、B個別事例における耐え難い結果を回避する場合に認められるという (Deutsch, a. a. O., S. 25f.)。
(39) 例えば星野教授は「人間には、人間であるがゆえの尊厳、守られるべき価値があることは憲法の規定 (憲法一三条)を待つまでもなく認められるはずである」として、そもそも人格権の基礎づけとして本当に憲法は必要か、との疑問を呈している (星野・前掲『民法』五二頁)。
(40) 芦部信喜『憲法学U人権総論』(一九九四年)二九四頁以下、小山剛「私法関係における基本権の保護ーー基本権の私人間効力と国の保護義務ーー」法学研究六五巻八号 (一九九二年)二五頁。しかしながらドイツにおいても私人間効力の問題についてはなお完全に解決されたとは見られていない (小山・前掲二五頁以下)。
(41) 一九七五年第一次堕胎罪判決が国家の保護義務論のリーディングケースである。本件では、女性の人格権の発展 (基本法二条一項)に基づく中絶の自由と胎児の生命保護という二つの憲法法益が憲法の価値秩序の中核である人間の尊厳との関連で検討されており、基本法一条一項に照らして、胎児の生命保護は妊婦の自己決定よりも上位におかれるべきこと、つまり女性の自己決定権の方に優位を与える考え方は、基本法の価値秩序に適合するものではないことを明言している。詳細は、小山剛「妊娠中絶立法と基本権 (胎児生命)保護義務ーードイツ『妊婦及び家族扶助法』をめぐる憲法論を素材にーー」名城法学四三巻一・二号 (一九九三年)一三七頁。
(42) 最近では、連邦憲法裁判所も、私人間効力問題について基本権保護義務を援用するに至り、なお反対があるものの支配的な地位を確立しつつあるようである。
(43) C.W. Canaris, Grundrecht und Privatrecht, AcP 184 (1984) S. 227f.
(44) 山本敬三「現代社会におけるリベラリズムと私的自治ーー私法関係における憲法原理の衝突ーー (一)」法学論叢一三三巻四号 (一九九三年)一九頁以下。
(45) BVerG一九九三年五月二八日判決 (NJW 1993, 1751, 1764)。
(46) Stoll, a. a. O., S. 274, 脚注 N. 178. またドイツ民法典百年を記念して一九九六年度の比較法学会において企画された講演の中でも、シュトルは、憲法裁判所が契約の自由について制限を下した判決 (BVerG一九九三年一〇月一九日判決 (BVerGE 89, 214))につき「契約の自由の一般的な限界というような私法の中心的な問題において、法律の定めを理解し、発展させていくにあたって、憲法にまで遡らなければならないというのは、自然なことではないし、民事法典の将来の意義にとってあまり好ましいことではない」と批判的に述べている (ハンス・シュトル「ドイツ民法典の百年」海老原明夫訳「比較法研究」(一九九六年)一〇二頁以下)。
(47) Giesen, a. a. O., S. 292. なおギーセンは望まれない子の扶養費用賠償請求判決は、誤解を与えるような言葉の使い方をしているが (例えば「損害としての子ども」)、そもそも扶養賠償が承認されたとしてもこれによっても人間の尊厳は侵害されないとしており (例えば Giesen, a. a. O., S. 291)、またドイチュも、BVerGの判断は「人間の尊厳の誤った理解」とみている (Deutsch, a. a. O. (Fn. 47) S. 26f.)。
(48) 山本助教授によれば、このような要因がなくとも、そもそも市民が誰からも基本権を脅かされることなく平和に共存できるようにするのが「国家」の第一のつとめであり、また現代国家は自力救済を原則的に禁止しているのであるから、国家がこのような基本権保護義務を負うのは当然であるとされる。
(49) なお望まれない子判決では、BVerGによる傍論での民事責任への言及について、これに事実上の拘束力はあり得るのであろうか。この点につきBGHは、子どもの扶養について新たに検討する機会が生じる限りにおいて、BVerGの見解を無視することはできないが、その際にBGHがBVerGの見解に従う義務まではないとされる (Giesen, a. a. O., S. 288f.)。
(50) 山本敬三「特集民法と憲法・憲法と民法の関係ーードイツ法の視点」法学教室一七一号 (一九九四年)四九頁以下。
(51) Verkehr という言葉自体、多義的であるがゆえに、様々な訳語を当て得るが、いわゆる「取引上の見解」という場合にも、社会的なニーズの反映、社会的取引慣習という意味が込められているのであり、その意味で本稿では、社会一般における考えという広義の意味として「社会生活上の見解」という言葉を用いることとする。
(52) Schiemann, a. a. O., S. 154.
(53) Schiemann, a. a. O., S. 154.
(54) 例えば、BGH一九七〇年一二月一五日判決では「狩猟権行使の可能性が社会生活上の関係によって財産的価値として格づけられた場合であっても、賠償相当な財産損害は存在しない (BGHZ, 55, 147, 150.)」ことを明言している (本判決についての詳細は第二章第四節第二項参照)。
(55) Stoll, a. a. O., S. 260ff.

お わ り に

 本稿のまとめにかえて、これまでの叙述を振り返り、ドイツでの以上のような議論がわが国の損害賠償法においていかなる意味をもつものか考えてみたい (1)
 第一章で述べたように、現在でもなおドイツの判例および通説は、伝統的な差額説に損害論の出発点を求めるが、これはすでに様々な局面において修正されている。伝統的差額説は、現実に生じた財産的損失 (=実損)の填補を目的とする補償 (賠償)原則と有機的に結合した定式として理解される。損害賠償法の目的原則を補償におくことは、いわゆる「不当な利得の禁止」という法思想を具体化することにつながるものであった。ここから賠償相当な損害の範囲を実損に限定するという考え方が出てくるわけであるが、このような理解そのものは、差額説の当然の帰結というよりはむしろ、差額説と不可分一体のものとして捉えられてきたもう一つの損害概念、すなわち普通法からの伝統である自然的損害概念に由来する考え方である。
 ドイツにおいては早くから、右のような自然的損害概念に反して、一定のケースにおいて現実の財産的損失のみならず、これに含まれない損失をも「賠償相当な損害」として賠償を認めるべきことが主張され、とりわけこのような議論は「規範的損害論」として、伝統的な損害論と対立構造をもって理解された。このような問題は、第一章第三節において検討したように、損害概念における「自然性」と「規範性」をいかに捉えるかという問題に収斂されるが、近時のドイツの学説における理解を見てみると、ドイチュの「事実的・規範的損害」という言葉に示されるよう、損害概念を原則的に自然的・事実的なものとして捉えるか、それとも規範的なものとして捉えるかという問題設定は実質的な意味を失ってきていることがわかる。この二つの対概念には明確な枠組みはなく、両者は何らかの形で純粋な形から修正され、接近しており、また社会的・法的に不利益と評価し得ることを損害と認める点においては双方一致するものである。とくに現実の損害概念においては、両概念が折衷混合しているということを正面から明確に認める学説においては、損害を正当化する根拠として損害賠償法の目的や機能が挙げられており、このことは損害を決定するに際して、損害賠償制度の社会的・法的役割り、その目的および機能が重要な意味を有していることを示唆するものであろう。
 このような視点から、従来差額説批判として展開されてきた規範的損害論の批判の本質を見れば、それは伝統的損害論の枠組みの中では賠償対象が実損に制限されることにより生じ得る不正義にあり、突き詰めれば、不当な利得の禁止と表裏の関係にある補償原則の支配への批判であったといえる。ここにあっては、まず損害賠償法の大原則である損害の公平な分配という理念に基づき、加害によって生じた不利益のうち「損害」と評価しうる部分を賠償対象として加害者に配分することになる (もちろん、過失相殺などよりさらなる配分、調整は別の法技術によってなされる)。しかし「補償」という規範のみによって加害者に帰すべき損害を評価することは、時として不公平な結果を招き、その場合により公平な配分を実現するための損害概念が志向され、その法的判断を正当化する法技術としてーー補償規範のさらなる規範的修正という意味でーー「規範的損害」概念が主張されるに至った。したがってこのような損害概念の定義をめぐる問題提起は、損害賠償法の目的や機能とは何か、またそれはいかにあるべきなのかという問題と密接に関連するものであり、とりわけ差額説を実質的に支配する補償原則の是非をめぐって議論が展開することになる。
 なお「規範性」について一言付け加えておくならば、伝統的損害論 (自然的損害概念論)にあっても「不当な利得の禁止」「実損主義」という規範的指針を含む補償という損害賠償法の目的規範に則って損害は把握されてきたのである。中でもここでいう現実の財産的損失とは、差額説とつながることにより、積極的財産的損害のみならず逸失利益をも含むという法的判断に立脚するものである。それゆえ結局は、伝統的損害概念においても法的な意味において損害という限り、不可避的に何らかの判断規範を内在していることは明らかであり、このことからも法的損害概念とは規範的損害概念であるのかそれとも法的な要素を一切排除した自然的損害概念であるのかという議論は、あまり有意なものとは思えない。
 詰まるところ伝統的損害論への批判は、伝統的な損害論が担ってきた法的価値判断 (=実損主義)への修正の要請であり、これは法社会の発展や変遷、またそれに伴う社会の(法)意識の変化から出現したものであることが考えられよう。差額説にしても、歴史的には財産的損害の範囲を積極的損害にとどまらず、消極的損害にまで拡大する機能を果たし、その意味で時代に応じた損害 (利益)概念の修正をなしたものであり、またそこにこそ差額説の本来的意義を見いだすことができる (2) 。逆に言えば、差額説がもつ現代的意義とは何か、ということについて改めて見直す段階にあるともいえよう。逸失利益が一損害項目として確固たる地位を得た今、差額説は、もはや賠償すべき損害を検討するための法技術というよりは、考え得る損害算定式の一つにその役割を後退したともいえるのではなかろうか。
 むろんドイツの判例・学説において差額説はなお原則としての地位を与えられている。ここでこの意味についても少し考えてみたい。たしかに相当因果関係にあるすべての損害が完全賠償されるとのドイツ法構造においては、統一的損害概念を立てることに一定の意味があろう。それゆえに差額説は、完全賠償原則や原状回復原則と軌を同じくする、すなわち生じたマイナスをゼロに戻す、その差を完全に埋め直すという点において一定の意味をもちうるともみれよう。しかしながらすでに見てきたように、伝統的差額説は多くの点において修正を余儀なくされており、その問題の多くは、不当な利得の禁止という法思想を伴う補償原則によって賠償対象が制限されてきたことにある。つまり完全賠償原則や原状回復原則はそれ自体、補償原則に親しむ考え方であるが、如何せんそこに不当な利得の禁止という法思想がつながることによって、経済的利益にのみ比重を置く形で、差額説的損害概念が歪められてしまったといえよう。以上のことから、差額説は、そこに内包する原状回復という視点そのものの重要性は否定できないが、「賠償すべき損害とは何か」という意味での損害論においてはもはや出発点としかなり得ず、またその意味で理念的な原則としておかれているにすぎないのではなかろうか。このことからも問題は、損害賠償法の目的・機能をいわゆる補償原則に制限するのか (=現実に生じた (財産的)損失だけを損害と見るのか)、それともさらにもう一歩踏み込んで別の目的・機能をも含み込んで損害を考察するのかという点にあるといえるのである。
 第二章においては、ドイツの損害論のどのような局面において差額説枠組みが修正を迫られてきたのか、またそのような修正はいかなる法規範によって正当化されてきたのかということを、BGHにおいて展開されてきた具体的な判例群を通して整理・検討をし、そこからいくつかのルールを析出することができた。まず第一に、このような伝統的な差額説的損害概念が修正されるのは、具体的な財産的損失が被害者に生じていないが、被害者に生じた一定の不利益な状態を損害と評価すべきであるとの判断がなされる場合である。このようなケースにおいてさらなる損害を認定した場合、被害者側にいわゆる「不当な利得」が生じることになるが、これは賠償を認めないことによって生じる「加害者の不当な免責」という状態を放置しておくことの方が、より許されるべきではないという (ある種比較衡量的な)法的価値判断によって正当化される。この種の損害概念の正当性は、取引社会における経済的思考に止まらず、場合によっては共同体に内在するより一般的な社会通念によって担保されることもある。中でも加害との因果関係が成立しない財産的不利益についても、実務性や慣例、公平などといった様々な観点から「損害の発生」が正当化される場合があることは注目に値する。さらに人身侵害によって生じる財産的損害については、BGHにおいても「規範的損害論」という表現によって、このような法的判断を前面に出した判旨が展開された。とりわけ権利主体である人が様々な権利・利益を享受するための活動の基盤となる稼働能力について、このような論旨が展開されたということが、物損との対比において非常に興味深い。
 右のケースとは逆に、財産的不利益が現実に生じているにもかかわらず、損害の発生を否定すべき場合があるのではないかという観点からも、差額説はその適用の可否が問われることがある。このような問題を検討する素材として、本稿においては望まれない子の扶養損害の賠償請求に関するケースを取り上げた (3) 。これにつきBGHは、最終的には医師と両親との間の医療契約の保護目的の問題と捉え、医師の賠償責任を認定したのではあるが、同時に当該財産損失の賠償が人間の尊厳条項に反するものであるのかということについて、BVerGの傍論での違憲判断に対する批判的検討を含め、詳細な損害論を展開している。この事例は、結論的にいえば形式上は伝統的な差額説の枠組みによって解決されたのであるが、ここではそれは当然のものとしてではなく、補償原則もまた妥当な結論を得るための選択しうる規範の一つにすぎないという観点から適用された点が重要である。とりわけ、BGHは損害賠償法の補償原則に鑑みて損害の発生は否定し得ないと結論づけていることからも、問題は差額説を支持するか否かということにあるのではなく、損害賠償法の目的・機能をいかに把握するかという点にあることが明らかであろう。
 続いて第三章では、まず第一節において、BGHや学説が様々な法理論によって通説である差額説的損害概念を柔軟に解釈し、修正している点、とりわけこのような損害概念の是正によって民事上の責任および保護利益を拡大し、被害者の救済をはかってきたことを確認した。その中でも商品化論や挫折理論などは、非財産的不利益を財産的利益と擬制することにより、非財産的損害の金銭賠償を制限するというドイツ法に特有の賠償構造による制約を越え、現代社会の法意識の変化に応じて、非財産的な利益の保護を拡充するものであった。そしてこのような損害概念における修正は、従来差額説が補償原則との関係において正当化されてきたのと同様に、本質的には法の目的や機能、損害賠償法の理念などによって正当化されている。以上のような判例・学説の動向を法理論的に見れば、伝統的な損害賠償の目的・機能を補償原則のみによっては説明することはできず、これに代わる規範またはこれを補足する規範が必要となることは明らかである。
 以上のことを踏まえ、続く第二節においては、従来の差額説の基礎におかれてきたこの補償原則を含め、差額説の是正過程において注目されてきたいくつかの損害賠償法の主要な目的・機能について検討を加えた。ここにおいて伝統的な補償原則と並んで、時としてはそれと矛盾しても、予防や制裁、権利追求、扶助などの様々な考え方をも相補的に把握する必要性が改めて明らかになった。これらの考え方が具体的な紛争において公平・妥当な解決を得るため、賠償相当な損害を正当化する上で重要な役割を演じているのは歴然とした事実である。このような規範を補償原則の下位規範として組み立てる説もあるが、ここではあえて並列的な規範として捉えて検討をした理由は、前述したとおりである。
 また現行の損害賠償法理論は、従来の経済的利益に偏重してきた枠組みを修正し、これまで軽視されてきた「人格的利益」や「人格権」の保護を拡大する機能を果たしていること、とりわけドイツ法においては、非財産的損害の金銭賠償が制限されているため、これらのことが被侵害利益の財産性を擬制することによって行われているという特徴が顕著であった。ところでドイツにおいては、このような民事上の問題を検討するに際して、しばしば基本法に立ち返り、ここに体現された価値序列への言及が説得的になされている点が注目される。このような「民法と憲法」との関係について、近時わが国においても、従来の憲法学におけるいわゆる私人間効力論においてではなく、民法サイドからの検討もなされ始めており (4) 、ドイツのこのような状況は、日本法の研究を行う上でも非常に興味深いものである。ドイツにおいても日本においても、戦後、現行憲法に具現化され、個人に保障された基本的権利や価値が最大限に尊重されるべきことはいうまでもないが、私法上その射程距離をいかに設定するか、すなわちそれらの価値をどのように捉え、またそれにどのような意味をどこまで付与するのかということについては、さらなる検討が必要であると思われる。
 以上のような本稿の検討を通じて、故意・過失、因果関係などと並ぶ損害賠償請求権の成立要件の一つとして、損害概念を論ずること、すなわち加害行為によって被害者に生じた様々な不利益のうち賠償に値する「損害」と評価できる事実 (損害項目)は何か、我々の法秩序においていかなる社会的不利益を賠償対象として「損害」と認めるのかという意味での損害論を論じることが損害賠償法の機能を考察し、またその目的を検討する上で、重要な受け皿となっていることがあらためて明らかになったと思われる。どのような不利益を賠償対象たる損害として位置づけ、同時に加害者にその賠償責任を追及するのかという問いかけには、我々の理想とする法社会に鑑みて答えるべきであろう。その意味においてもここでは、とりわけ損害賠償法にいかなる目的を付すか、またこれによっていかなる作用、効果を期待するのかまた現実に果たしているのか、という視点が重要となる。そして実は、従来の (算定論を中心とした)損害論において展開された差額説の是非をめぐる議論も、損害賠償法の目的をどのように把握すべきかという点に核心があったのである。つまり差額説そのものの妥当性は今や問題ではない。ドイツにおいて差額説批判として展開してきた規範的損害論も、またわが国の人身損害の賠償方法をめぐってなされてきた差額説批判としての損害論も、それぞれの差額説から演繹される具体的な損害概念像には異質な点が含まれるものの、双方とも結局のところ、実損主義に裏付けられた補償原則を修正し、現実の財産的損失とは異なる不利益をも賠償対象に取り込むために、新たな損害概念や算定方法を構築し、これに対応する新たな補完規範や代替規範を主張することによって、そのような考え方を正当化しようと試みるものであったという点においては共通の流れの下にあるものである。具体的には、わが国での人身損害領域において展開されたいわゆる個別損害項目積上方式と包括請求方式との対立を見ても、それぞれの立場の正当性を主張するにおいて、前者は伝統的な補償原則・差額説という構図を基礎におくものである一方、後者は、原状回復理念を基調としつつ、予防や制裁といった機能をも不法行為法に包摂するなど、これらの一連の議論の背後には、損害賠償法の目的や理念をめぐる論議があったといえるのであり (5) 、ドイツにおける差額説や規範的損害論にかかわる一連の論争過程と、この点において類似する。特にわが国では一九六〇年代以降、企業による公害や自動車による交通事故が社会問題化したのをきっかけに、不法行為法においては人身損害賠償のみならず、広く原状回復や人間の尊厳の尊重といった理念が主張されるに至り、ここにおいて損害賠償に対して予防や制裁といった機能が期待され、重視されてきている。このような従来の補償原則の補完・修正は、損害論において社会生活上の不利益一般と「賠償相当な損害」との相違を明らかにする上で有用であると思われる。
 ではわが国において損害とはいかに定義されるべきであろうか。たしかに伝統的な損害概念である「差額説」が、加害前後の事実状態の差異を賠償対象たる損害と据える、つまり原状回復の理念を損害概念において表したものであると考えるならば、近時、損害賠償法において原状回復理念を尊重すべきことが、学説において有力に主張されているという状況に照らしても、ドイツと同様に、損害概念の理念型たる思考上の出発点として差額説をおくことには一定の意味があるようにも思われる (6) 。しかしながらもはやそこにおいて意味があるのは、差額説がその定義に内在する原状回復理念にあるにすぎないのではなかろうか。もちろん復すべき原状 (の利益状態)、つまり賠償対象となる損害もまた規範的な評価により一定の幅をもつのであるから、原状回復という理念もまた損害論においては出発点にすぎない。結局、本稿において検討したように、何が損害であるのかを損害賠償法の目的や機能にしたがって把握しようと試みるならば、差額説のように統一的かつ演繹的な損害概念を立てることはあまり意味がなく、むしろ損害概念は一つの機能的概念として捉えられるべきではなかろうか。
 いずれにせよ、伝統的な差額説的損害概念が内包する規範のみによっては、様々な現実の紛争の公平妥当な解決をなしえない。つまり損害の公平な分配や原状回復といった損害賠償法の根幹をなす理念を実現し得ないことは明らかであり、これを補完する、もしくはこれに代わる他の法規範を探求することが不可欠である。この点について、本稿では若干の考察を行ったものの、これらの規範が個別具体的な場面において十分に実効性のある規範を掲げるには至ってはいない。この点については、例えば一定の個別化・類型化によってより具体的な規範 (準則)を抽出することが必要となろう。これらの点を踏まえ、次に今後の残された課題について簡単にまとめてみたい。
 一つには、以上のような損害論における賠償相当な損害 (項目)の確定と、因果関係論における損害賠償の範囲の画定との関係について解明する必要があると思われる。というのもとくに因果関係論において規範目的論が展開される場合、損害論の問題は他方で帰責の問題と重なることになるからである。例えば、本稿において検討した望まれない子の扶養損害賠償請求のケースもその一つである。前述の通り、本件ではBGHは最終的には医師と両親間の医療契約の保護目的によって判断を行ったが、その判断の前提において、BGHは詳細な損害論を展開し、そこでは損害賠償法の目的という観点を重視している。もちろんドイツの学説ではこのような状況にあっても、帰責問題と損害論はなお明確に区別されるべきことが主張されている (7) 。なぜならば、損害が発生しているということは損害賠償責任を負う上での不可欠の要件であり、このような損害の存在によってはじめて請求権についての議論は生じるからである (8) 。しかしいずれにおいても、ドイツの完全賠償原則を制限する理論として機能してきた相当因果関係論や規範目的論と損害論との関係を、それぞれの問題領域において作用してきた規範やその機能およびその関連について整理を進める作業が必要であろう。さらに第二章で見たように、例えば事故に対する事前準備や加害行為に対する予防的措置などに要した加害以前に投じた費用の賠償が認められる場合など、加害行為と損害との因果関係の存在そのものが問題となる場合が指摘されており、伝統的因果関係論をも揺るがすような問題が損害論の側から提起されていることも重要である。
 第二に、本稿の冒頭においても述べたが、わが国においては近時、人身損害賠償の領域において損害賠償法の本質に照らした損害論が活発に論じられるようになったものの、なおそれは算定論を中心とした議論にとどまっているものと思われる。わが国においては、賠償すべき不利益を明らかにするという意味での損害論は、差額説という損害概念との関係におくよりもむしろ、責任充足的因果関係における賠償相当な損害の範囲の問題や権利侵害に代わる違法性論の中で論じられてきたような印象がある。わが国においては、賠償範囲の問題は因果関係の問題とされ、不法行為法領域における因果関係判断は、四一六条を相当因果関係説を規定したものと見なした上で類推適用するのが富喜丸判決以来の判例の一貫した立場である。しかしながら近時学説において指摘がなされているように、ここにおける相当性判断は「公平判断」に代わり、制限理論としてはその有意性が失われてきているのが現状である。例えば「モスクワ帰国事件 (9) 」を見てみよう。本件では被害者の娘が、ウィーンへ行く途上モスクワで引き返し母親である被害者の看病のために帰国したのであるが、このように被害者の近親者が看護等のために被害者のもとを往復するのに要した旅費が賠償すべき損害に当たるかどうかが問題となった。最高裁は、このような旅費は被害者の障害の程度、近親者が看護に当たることの必要性等諸般の事情から見て社会通念上相当であり、かつ被害者が近親者に旅費を返還または償還すべき場合には、通常損害になるとしたが、この費用が賠償されるべきか否かという問題は、大隅裁判官が補足意見において述べているように、「公平の観念から判断すべき」であり、因果関係の問題としてではなく、まず損害論の問題として検討されるべきではなかったか。すなわちいわゆる賠償範囲の問題に、いかなる不利益を損害項目と捉えるのかという問題 (損害論の課題)と、損害項目と判断された不利益のうち何を当該事件における責任損害と見るのかという問題 (賠償範囲の課題)が意識されることなく混在してきたのではなかろうか。前者の問題を損害論として切り離すことによって、個別の加害者における帰責判断としての賠償範囲論を、より簡明に整理することが可能となるのであり、逆に損害論を因果関係論に混在させたまま放置することは、因果関係論そのものにも混迷をもたらし、法律構成等を不透明にさせてしまうのではないだろうか。
 しかしながら以上のような因果関係論と損害の交錯現象がわが国で一般的であったかどうかについては、なお推測の域を出ないものであり、その意味でも、本稿で取り上げたドイツにおける損害論において行われた、賠償目的に照らしたある不利益の要賠償性に関する議論が、わが国においては、従来どのような概念によってどのような局面においてなされてきたのか、およびそのような処理が方法論として、さらには結論として妥当であるのか、ということについて今後さらなる検討を行う必要があろう。その場合にまず、いわゆる損害賠償の範囲としての因果関係論において語られてきた賠償相当な損害の中身について整理する必要がある。相当性理論の多義性についてはすでに指摘されているところではあるが、さらに相当性概念が損害概念を考える上で果たしてきた役割、そこでの判断作用を整理することにより、わが国で実際に機能してきた損害規範についても一定明らかにできるのではないかと思われる。
 また同様のことが違法性概念などにおいても妥当するのではなかろうか。例えば医療事故法の領域で延命利益、期待利益、自己決定権などの侵害に対し慰謝料請求が主張される場合など、これらの保護法益への侵害が賠償責任を導くか否か、すなわち賠償すべき損害と認められるか否かということは、もっぱら違法性判断に依存していることが指摘されている (10) 。しかしながら違法性についても必ずしも明確な判断基準の枠組みはなく、また「損害」と「被侵害法益」とは同義におかれるものか否かということもなお検討の余地の残された問題である。さらにわが国の不法行為法においては、「権利侵害」が「違法性」要件に置き換えられているが、七〇九条においては損害賠償要件として「権利侵害」と「損害の発生」が掲げられているのであり、両概念の関係をいかに把握するのかということも重要な課題となろう。
 第三に、統一的損害概念を否定し、個別的に「損害」を探知することになると、従来の通説において維持されてきた財産的損害と非財産的損害というような下位概念の意義・機能についても再度検討する必要があろう。例えば、人の死亡は、死傷損害説によればそれは一つの非財産的損害を生じるにすぎないとされる。また下級審を中心に逸失利益を否定したことを根拠に慰謝料を高額化することがある。ここでは下位概念としての各々の損害概念が有する法的意義が改めて問われることになろう。ドイツにおいてはBGB二五三条による非財産的損害の金銭賠償への厳格な制限ゆえ、この区別は重要となる。わが国においても、条文上区別されて使われていることなど考慮しつつ、このような概念区別の実質的な意義についてもさらなる検討を加えたい。
 以上、いくつかの損害論にかかわる課題を挙げたがこれらのことは問題の一角にすぎず、なお多くの課題が山積されている。本稿は、損害論を一つの契機として損害賠償法の目的や機能などについても一定の考察を加えたものであるが、損害賠償論に内包されるいくつかの問題を損害論という視点から序論的に呈示したものにすぎない。損害賠償法における損害概念の位置づけとその意味、他の概念との関係の解明をし、それによって今後のあるべき損害賠償法制度の形を模索していくこと、さらに民事損害賠償法を含む現代社会における様々な被害者救済制度とのあるべき関係およびそこにおける損害賠償法制度の本来的な存在意義、目的・機能の解明を今後の研究課題とすることを確認し、本稿を締めくくりたい (11)

(1) 日本とドイツの損害論を比較法的に検討する場合、以下のような両国間の損害論の視点の相違を踏まえておくことが重要である。@ドイツでは財産的損害概念を中心とした損害概念分析がなされているのに対して、日本では主に人身侵害の領域でなされ、とりわけ表面的には個別項目積上方式と包括請求方式の対立として現れ、それぞれの立場の正当性の根拠として損害賠償の理念をめぐる議論がなされていること、A慰謝料の位置づけが日本の方が格段に高く、慰謝料の占める比重が賠償額の点でも訴訟技術の点でも肥大化していること、B差額説の意味自体にドイツと日本では異なった理解がなされていることである (潮見佳男「人身侵害における損害概念と算定原理(一)」民商法第一〇三巻第四号 (一九九一年)五一一頁、山本豊「西ドイツにおける損害 (概念)の動向ーーホーロッホの鑑定意見の紹介を中心に」『法政大学現代研究所行叢書9』(一九八八年)二八四、二九二頁)。
(2) 樫見教授においても、モムゼンの差額説による利益 (損害)概念の当初の目的が、@逸失利益の賠償給付の実現、A損害賠償範囲の決定に際しての因果関係以外の因子の排除にあることから、「差額説による損害概念による損害賠償法の様々な問題領域への支配とその克服のための学説の差額説批判の成り行きは、すでにその使命を終えた当初の主張からすれば、モムゼンにとって予想もできなかった事態であったかもしれない」と論文を結んでいる。樫見由美子「ドイツにおける損害概念の歴史的展開ーードイツ民法典成立前史ーー」金沢法学第三八巻第一・二号合併号 (一九九六年三月)二三八頁。
(3) わが国でも、近時、望まない妊娠による損害賠償事件が散見される。しかしこのような事件で欧米では子の養育費が主たる争点となるものの、日本ではそもそも請求項目に挙げられず、裁判所も精神的損害を認定するにとどまる。具体的には不妊手術の失敗につき、@不完全な不妊手術につき、信義則上の説明義務違反があるとして病院の責任が肯定された事例。なお胎児は中絶されている (横浜地裁昭和五六年六月二四日判決、判タ五〇七号二五〇頁以下)。A不妊手術後の妊娠可能性につき説明義務違反があるとして医師に賠償責任を認めた事例。なお本件においても子どもの養育費用は請求されていない (大阪高裁昭和六一年七月一六日判決、判タ六二四号二〇二頁以下)。また出生児の障害が問題となった事例として、妊娠初期に風疹に罹患した妊婦に対する診療上の注意および説明義務違反が認められた事例 (@東京地裁昭和五四年九月一八日判決、判時九四五号六五頁以下、A東京地裁昭和五八年七月二二日判決、判時一一〇〇号八九頁以下)。わが国においても、扶養費用などの財産的負担について今後争点になる可能性があり、またそのような損害は概して金額的に過大となることなどを考慮すればこのような損害を一医師に現実はどこまで追及することができるのかという問題も生ずるが、当該損害についての問題は本文で指摘したとおりであり、今後も慎重な検討を要する領域である。
(4) 例えば、山本敬三「現代社会におけるリベラリズムと私的自治ーー私法関係における憲法原理の衝突ーー」法学論叢一三三巻四号・五号 (一九九三年)、星野英一他「特集民法と憲法ーー民法から出発してーー」(一九九四年)法学教室一七一号参照。
(5) 英米法においても、賠償責任の結果としての「損害論」がなされ、その場合に、損害概念の理論的分析ではなく、損害賠償の機能が問題とされていることが指摘されている (Stoll, a. a. O., S. 237ff.)。
(6) 潮見教授は、現在の議論の到達点を踏まえ、侵害状態からの「原状回復」が不法行為法の目的であることがより的確に表現できる損害概念であるとして「損害とは、侵害行為がなければ存在するであろう仮定的事実状態と、侵害行為の結果として現在あるところの現実的事実状態との差」とする「事実状態比較説」が適当であるという。本稿の冒頭に挙げた於保教授に代表される加害前後の財産額の差をもって損害とする伝統的な差額説は、総体差額説 (金額比較説)として区別されている (潮見佳男「財産的損害概念についての一考察ーー差額説的損害観の再検討ーー」判タ六八七号 (一九八九年)八頁)。
(7) 例えばBGHの一九六八年六月七日判決 (NJW 1968, 2287)において、被害者である国鉄職員が治療を受けたところ、潜在していた別の病気が発見されたことにより予定より早く退職せざるを得なくなったという事件で、BGHは責任規範の保護目的に基づき被害者の損害賠償請求を却下した。これに対し、シュトルはここでは、加害者によって侵犯された規範の責任根拠および目的が問題となるのではなく、被害者である職員の利益 (稼働能力を侵害する病気が存在するも、予定より早く退職させられるべきではないという利益)が責任法上、保護を与えられるか否かという衡量が決定的であることを指摘する (Stoll, a. a. O., S. 244)。
(8) Hohloch, a. a. O., S. 418.
(9) 最高裁昭和四四年二月二七日判決 (民集二三巻二号四四一頁以下)。
(10) 松浦以津子「損害論の『新たな』展開」森島昭夫教授還暦記念論文集『不法行為法の現代的課題と展開』(一九九五年)一〇九頁以下。
(11) このような問題についてとくに法哲学や法社会学など基礎法学領域からも興味深い研究がなされており、そのような視点からも問題を捉えていく必要があろう (棚瀬孝雄編『現代の不法行為法』有斐閣 (一九九四年)など)。