立命館法学 一九九七年三号(二五三号)四四九頁(一頁)




恒藤恭の法哲学と唯物史観
没後三十年に寄せて


天野 和夫






一 は じ め に

(一) 恒藤恭の歩み
 恒藤は一八八八年島根県松江市に生まれた。豊かな芸術的資質をもち、若いころは短歌、紀行文、小説など多くの作品を発表している。一高の同期に菊池寛、久米正雄、山本有三等の人々がいたが、ことに芥川龍之介との親交のなかで自己の文学的能力の限界を感じ、その方向への道を断念して京大法科に進学したとされる。
 京大を卒業後、大学院 (初め国際公法を専攻、やがて関心は法哲学へ向かう)を経て一九一九年同志社大教授、二二年京大経済学部助教授となり、二八年京大法学部助教授、翌年教授となった。三三年京大事件 (瀧川事件)で辞職し、大阪商大専任講師、四〇年教授となる。戦後四六年大阪商大学長、のち学制改革により大阪市立大学長となり、京大教授を兼任した。そして、戦後は日本学術会議会員、日本法哲学会理事長を歴任するとともに、四九年日本学士院会員、六六年文化功労者となるなど、昭和期の最も代表的な法哲学者の一人であったといえよう。
 恒藤の法哲学は、新カント派の研究を基調とし、ドイツ観念論哲学、歴史法学、マルクス主義、生の哲学、現象学などの諸学説を批判的に摂取するとともに、哲学、社会学、政治学、思想史などにわたる広い学識に基づいて、独自の法哲学的思索を展開している。主要な著書としては、初期に『批判的法律哲学の研究』(一九二一年)、『羅馬法に於ける慣習法の歴史及び理論』(一九二四年)、『法律の生命』(一九二七年)、『価値と文化現象』(同年)があり、戦前期の代表的なものに『法の基本問題』(一九三六年)、『法的人格者の理論』(同年)があげられる。戦後も学界の指標となる数多くの論文を執筆したが、没後『法の本質』(一九三五、六年に「公法雑誌」に連載ー一九六八年、岩波書店刊)が出版され、また恒藤武二・海原裕昭の編集に成る『法思想史概説』(一九六八年、日本評論社刊)、さらに加藤新平・八木鉄男の編集によって戦前、戦後の諸論稿を収めた『哲学と法学』(一九六九年、岩波書店刊)、『法の精神』(同上)、『法と道徳』(同上)の三冊がまとめられた。
 一九三三年の京大事件では、文部省が提示した妥協案に屈せず、田村徳治、末川博らとともに京大を去った信念の人であり、戦後は平和問題談話会や憲法問題研究会の関西における中心メンバーとして活躍し、あるいは憲法改悪阻止各界連絡会議 (略称・憲法会議)の呼びかけ人になるなど、新憲法を擁護するのに力を尽くした。一九六七年に七十八歳で死去したので、今年はあたかも没後三十年にあたる。

(二) 河上肇との交流
 恒藤はみずからの学究生活を振り返って、社会学の高田保馬、米田庄太郎、哲学の西田幾太郎、田辺元、そして法学では佐々木惣一など諸先輩の教えを受けたこと、また京大を相前後して卒業した森口繁治、田村徳治、栗生武夫等とさかんに議論したことを記しているが (「学究生活の回顧」『現代随想全集』27巻、一九五八年、創元社刊、所収および「田村徳治君の追憶」『田村徳治』一九六〇年、田村会刊、所収、参照)、その唯物史観との関係で逸することができないのは、終始変わらぬ河上肇との交流であったと思う。
 河上と恒藤との個人的接触は、すでに恒藤の大学院時代に始まっていたものと思われる。恒藤の回想によると、大学院を三年経過したとき、河上と佐々木惣一の世話で同志社大学教授に就任している。しかし、特に親密の度を増したのは、一九一九年の末ころからであった。河上が残している書簡によれば、当時河上が学生のために開いた『共産党宣言』の講読会に恒藤が傍聴出席し、そういう恒藤の社会思想への関心を河上が喜んでいたことがうかがえる。また、恒藤は同志社大学での社会思想史の講義のために、河上が京大の図書室から借り出していた『資本論』『共産党宣言』『哲学の貧困』などマルクス関係の原書の転貸を申し込んでもいる。河上の勧めによってプレハノフ『マルクス主義の根本問題』を邦訳したのもこのころであった (『河上肇全集』24巻、一九八三年、岩波書店刊、参照)。
 恒藤は二二年京大経済学部助教授に転じ、二四年在外研究のため渡欧、二六年に帰国した。当時京大では学生が社会科学研究会を組織し、河上を中心に活発な動きを示していたが、恒藤はその例会に出席、報告したり、それとは別に河上が三木清をチューターにして始めた『ドイツ・イデオロギー』の読書会にも出ていた。恒藤は、この読書会で河上がしばしば三木に質問し、弁証法の論理に強い関心を示していたことを記している (「河上さんの面影」『回想の河上肇』一九四八年、世界評論社刊、所収、参照)。
 この間二人の交流はますます頻繁になったと思われるが、河上は恒藤の哲学的素養やドイツ語の読解力をかなり頼みにしていた節がある。二七年の半ばころ、久留間鮫造 (大原社会問題研究所)がエンゲルスの手紙の翻訳について問い合わせたのに対し、河上は恒藤に聞いてみたら「どこにも理解しにくいところはない、何が問題なのか」と反問されたことを記している。この二七年の暮れに、のちのち語り草になった一つの出来事があった。それは、十二月十五日労農党の大山郁夫が京大での講演を終え、河上、恒藤とともに構内の楽友会館へ夕食に向かう途中、暴漢に殴りかかられたので、同夜三条青年会館の民衆大会で河上、恒藤が演壇に立って、大山に対する暴行の事実を証言しようとしたところ、立会の巡査によって「中止」「解散」を命ぜられたというのである。河上はこのことを『社会問題研究』の発行を依頼していた岩波茂雄および弟の河上左京 (画家)に憤懣やるかたない調子で書き送っており、当時恒藤が河上と社会的活動を共にしていたことがうかがえる。恒藤は翌二八年三月経済学部から法学部に転じた。その四月に河上は京大の辞職を余儀なくされ、書斎を離れて実践活動に入り、三三年治安維持法違反で検挙、懲役五年の判決を受けて下獄したが、そのさいも恒藤への挨拶状を秀夫人に託していた (『河上肇全集』25巻、一九八四年、参照)。
 河上は三七年に出獄、東京・杉並の家に帰ったが、恒藤は上京のさいであろうか、見舞いに立ち寄ってもいる。河上がふたたび京都に転居してからは、ときどき訪ねて戦争の経過や時局について語り、囲碁の相手もしていた。河上は詩や歌を作り、漢詩を学び書もよくしたから、若いころから文芸の才をもっていた恒藤とはその方面でも話が合ったのであろう。河上は日本の敗戦を見届け、ちょうど恒藤が大阪商大学長に就任した四六年一月に世を去った (「河上さんの面影」前出、参照)。

二 恒藤法哲学の概観

(一) 恒藤法哲学の特徴
 法哲学と同義の呼称に法理学というのがある。恒藤はそれほどこだわっていたわけではなかろうが、京大における科目の名称が法理学となっていた関係もあり、それに愛着を覚えていたように思われる。しかし、本稿では今日の慣用に従い、ここで法哲学と法理学との異同について論ずることは控え、法哲学と呼ぶことにする。それでは、恒藤の法哲学は日本の他の法哲学者と比べて、どのような特徴をもっていたのであろうか。
 (1) 法哲学は学問の分類の上から見ると、一面で哲学の一部門であり、他面で広義の法学に属する。そのため、どちらかというと前者に重きを置く「哲学的」法哲学の傾向と、後者に重きを置く「法学的」法哲学の傾向とに分かれる。そして、法哲学が長年にわたり法学部の設置科目としてなじんできた関係もあって、とくに実定法を意識した「法学的」法哲学のほうが多数派になってきたといえるであろう。しかし、恒藤の法哲学は、「哲学的」法哲学の性格を強く帯びるものであった。それは、のちに述べる法的世界観の確立を法哲学の根本課題としたことにも端的に示されていると思う。
 (2) 恒藤の法哲学は、広壮な、しかし静的な体系の構築を目ざすのでなく、肯定的契機 (合理的要素)とともに否定的契機 (非合理的要素)をも包容して成り立つ法の世界を、歴史的に発展する動的なものとして、弁証法の論理により全面的、具体的に捕捉しようとする思索の積み重ねであった。先に掲げた恒藤の法哲学上の諸著作は、『法の本質』を除けば、いずれも一つの主題のもとに集成された論文集である。しかし、それらの中で法哲学の主要な問題、すなわち法の概念、法の理念、法の目的、法の機能、法の効力等については、すべて論及されている。恒藤の学問はよく「体系なき体系」と評されるが、これはそのかぎりで当たっているであろう。戦後ある座談会で、恒藤が『法律体系論』『政治体系論』『国家体系論』を著した田村徳治の学問を評した言葉からすると、かれは意識的に右のような学問態度を保持したものと思われる。
 (3) 恒藤は自然法論を排し、法実証主義の立場をとった。そして、初期の『批判的法律哲学の研究』やラスク『法律哲学』の翻訳、さらに『法律の生命』『価値と文化現象』によって、わが国法哲学界への新カント派の本格的な導入者として高い評価を受け、またその論調には総体的に見て新カント派の方法二元論および文化哲学の立場を色濃く反映しており、あるいは戦後も親しい人たちには新カント派をもって自任していたといわれるなど、一般に新カント派と目されることが多い。しかし、「法の歴史性」という命題の定立に伴う、歴史の発展段階論や社会の階級性論などを見れば、明らかにマルクス主義の基礎理論である唯物史観に立脚していた。ただし、その評価とともに、問題提起や批判的記述も少なくない。それは、唯物史観への関心の深さと読み取ることができるのではあるまいか。論者の中には、カントとマルクスとの「同居」とか「共存」という評をする向きもあるが、これは恒藤だけに特有のものではなく、一九世紀末以降のドイツ新カント派の理論は割合社会主義思想と親縁的であった (たとえば波多野鼎『新カント派社会主義』社会科学叢書第12編、一九二八年、日本評論社刊、参照)。もっとも、恒藤の思索の中では、そのほかに多くの思潮が一つのものに練り上げられていったと見るべきであろう (『法の基本問題』序、参照)。

(二) 法的世界観の主張
 戦前、戦後を通じて、恒藤の諸論稿にはしばしば法学者の使命、自覚ないし法的世界観に触れた記述がある。それが集約的に論じられているのは戦前の「法的世界と法的世界観」(『哲学と法学』所収)であり、戦後の「法哲学の意義と課題」(同上所収)においても法哲学的思惟の主要動機として述べられている。
 恒藤のいう法的世界観とは、一方で法の観点から世界を考察し、他方で世界の観点から法を考察して究明される世界の真相であり、その場合の世界とはとりわけ人間の社会的存在を包容するものである。そして、法的世界観の確立を法哲学の根本問題とすることには多くの法哲学者が賛成しないとしても、法の本質とか法の存立根拠とか法の目的等々の法哲学の主要問題を正しく解決するためには、学問的に精錬された一定の法的世界観から出発しなければならないというのが恒藤の強い主張であった。ただし、その法的世界観の構成の要求は、既成のあれこれの世界観に立脚すればよいというものではない。
 そのためには、人間は実践的活動の主体として自己の本領を自覚し、法の世界において何をなすべきか、いかに生きるべきかを究明することを要するのである。ここには、河上肇の学問態度と相通ずる、法哲学者のもつべき志操が語られているといえるであろう。すなわち、法の世界は法的存在の世界であると同時に法的実践の世界であり、これらの両面を考察しながら、法の世界の真相を全面的、具体的に把握するのが法的世界観の立場であり、したがってそれは法哲学の主要問題を考察するよりも一層高次の立場を予想する、と。また、法哲学的考察は、法解釈学のように現行法に内含される法的世界観、その意味での法の精神の拘束を受けるものではなく、自由な立場で法的世界の真相を究明するものであり、時間的・空間的に限定された法的世界に関心を集中するのでなく、法的世界一般を問題にするものとしている。

(三) 法本質論
 恒藤による法の本質 (概念)論は、戦前の「法の本質とその把握方法」(『法の基本問題』所収)および『法の本質』のなかで本格的に展開されており、戦後の諸論稿においても、多少のニュアンスの違いはあれ、その立場は基本的に保持されていると思う。恒藤のいう「法の本質」は通常の法概念よりも、また「法価値」は法理念よりもやや広い意味をもっている。
 法の本質へのアプローチは、きわめて多面的な視角から、しかも根本的な態度でなされている。その出発点に置かれているのは、法は社会的現実に内含される諸契機の一つであり、社会の歴史的発展の所産であるという「法の歴史性」の命題にほかならない。そして、法の本質の考察にとっては政治や国家との相互関連を究明することが不可欠であり、また型概念による認識方法に依拠すべきことも説かれている(『型による認識』一九五〇年、勁草書房刊、第一篇参照)。

* 右の「法の歴史性」の命題とともに、「社会」の観点および「文化」の観点の重要性が力説されており、特に「文化」の観点は恒藤法哲学の核心を形作るものと思われるが、唯物史観との関係を主テーマとする本稿では、詳しい論及を控える。
『法の本質』の中での「文化」の観点に関する論述によればーー法は文化の一種であり、そうした文化の産出は、主観的なものが客観的存在を獲得する過程であり、また客観的なものが主観化される弁証法的過程にほかならない。したがって、文化は一面で人間の人格的・主体的性格をそなえつつ、多面で人間の活動の対象ないし制約者として客体的なものの側に属する、としている。

 ところで、恒藤は社会的現実の構造把握において唯物史観が鋭い洞察を与えているとし、社会の実在的基礎は経済であり、その上に法および政治という中層建築が立ち、さらにその上に宗教、芸術、哲学等を包含する最上層建築がそびえ立つという理解を一応肯定的に引用している (『法の基本問題』五〇ページ)。この認識は、社会的存在と社会的意識との関係を追求したプレハーノフの所説および特にマルクス『経済学批判』の序言における「法的および政治的上部構造」と「一定の社会的意識諸形態」との区分から得られたものであろう。そして、この三層 (土台ー上部構造ー社会的意識)の構造把握の図式は、恒藤によってやや変形して採り入れられたが (本稿の三、参照)、社会的現実の構造は基本的に社会的構造と文化的構造とに分かたれるべきであるというのが、実は恒藤の真意であった (『法の基本問題』五二ページの注(2)参照)。
 さらに、恒藤は歴史的世界の発展の原動力を問うという、いわば歴史哲学的課題を提起し、カントの目的論、ヘーゲルの客観的精神の哲学、ディルタイやジンメルの有機的生の動態論等を検討するなかで、唯物史観の物質的自然を原動力とする立場を推奨してもいるのである。しかし、かれの法本質論において最も注目を引く論述は、「歴史的発展の過程はつねに全体社会を基体として行われるのであり、全体社会の性格と歴史的発展の過程のそれとは互いに他を制約する関係に立つ」(『法の基本問題』五五ページ)という全体社会に触れる立論であろう。
 さて、恒藤は法的世界一般を問題とする場合、時と所とにかかわらず観取される法の普遍的 (類性的)本質と、時と所によって異なった様相を呈する法の型態的本質とを分け、前者は後者の基層であるが、双方を密接に関連させつつ、それぞれの本質を究明、洞察すべきものとする。そして、法の普遍的本質の考察にあたっては、法の諸型態を一様に取り扱うのでなく、近代法または現代法には特別の考慮を払うべきものとしている。恒藤の思索において、法の普遍的本質規定に至る主要な経路は、大筋で次のようにまとめられると思う。ーー
 (1) 全体社会論ーー「社会あれば法あり」という諺を法の本質に関する一規定とした場合、ここにいう「社会」は種々の部分社会ではなく、全体社会をさすものと解すべきである。すなわち、全体社会こそが法の発生・存立の社会的基礎 (地盤)にほかならない。なお、恒藤の論述には、全体社会とほぼ同義に「統一的全体」とか「規範共同体」という用語の使われている箇所がある。
 (2) 法の特性 (概念的種差)の把握ーー社会規範の代表的なものとしては、法的規範のほかに道徳的規範および風習的 (習俗的)規範があり、これら三者を比較、対照することによって法的規範の特性を明らかにすることができる。ここで、恒藤は諸学説を検討、吟味した上で、いわゆる「法の外面性・道徳の内面性」という区別に独自の見解を提示している。すなわち、道徳的規範が人格的・内面的な共同関係の維持・発展を目標とし、社会的実在の内面的構成を重く見る立場から社会的行動を規律するのに対して、法的規範および風習的規範は社会機構的・外面的な共同関係の維持・発展を目標とし、社会的実在の外面的構成を重く見る立場から社会的行動を規律するのである、と。そして、法的規範は政治的権力 (武力)を基礎とする強制作用によってその実効が確保されるのに対して、風習的規範はこのような仕方でその実効が確保されるものではない。
 また、戦前、戦後の論稿を見ると、特に法 (法規範)の機能の考察を中心に道徳および風習との差異を明らかにしているものが多い。すなわち、前後で言い表し方に違いはあるが、法の評価基準的機能および指令的機能の明確性、授権的機能、制度形成的機能ならびに強制的機能の特有性についてしばしば論じている。恒藤の法本質論が、ときに機能論であると評されるゆえんであろう。しかし、これはかれが法とその隣接諸領域との作用連関を重視したことによるものと思う。
 (3) 法の型態的本質の把握ーー法の普遍的本質を規定するためには、社会の歴史的発展の諸段階に即して法の諸基本型態の本質的様相を明らかにする必要がある。
 歴史社会に先立つ原始社会、すなわちいまだ国家組織が成立せず、氏族制のもとにおいても、その後期には「原始法」(法の潜在的様相)が存在したというのが恒藤の見解である。すなわち、原始法は氏族制社会特有の構造によって基本的に制約され、原始的・宗教的意識と密接な関係をもち、また個人ではなく血縁団体が法的主体として現れるというのがその本質的事態である。
 歴史社会に入って、国家機関による法治的機能の行われたことが原始法と異なる歴史法の重要な特色であり、「古代法」「中世法」「近代法」という法の諸基本型態について、おもに社会の構造変化 (奴隷制ー農奴制ー資本主義)による制約、また法の主体の変化に焦点を当て、全体的には宗教の優越的地位の後退とそれに伴う合理性の要素の増大という方向で各段階の形態的本質へのアプローチがなされている。そして、特に近代法においてすべての個人が法の前に平等とされたことは、古代法および中世法に対する大きな特色として強調された。
 このような経路を経た総体的認識の上に、恒藤は「直観」の作用により、法の普遍的本質規定、すなわち法の実質的定義に到達したのであった。それによれば「法とは、社会の外面的構成の観点から人々の社会的行動を規律するところの、かつ政治的権力の作用によってその実効の確保されるところの社会規範である」(『法の本質』一九九ー二〇〇ページおよび二一九ページの論述に筆者が加工)ということになる。もっとも、戦後は功利的精神ないし合理的精神という見地から法の利益調整の機能を重視し、あるいはイェーリングの法の定義「社会の諸生活条件の総体」を思わせる説明が多いように思う。論稿「法哲学の意義と課題」には「法は、諸々の法的主体のあいだに権利・義務の関係を定立することにより、社会の諸成員のいとなむべきさまざまの機能の確保と統制をおこない、同時に諸々の私的および公的利益の調整・確保をおこなう」もの (『哲学と法学』一〇四ー五ページ)という概括がある。

* 恒藤がいう功利的精神は、「最大多数の最大幸福」を主張する社会的功利主義のそれではなく、「法による利益の社会的調整を行う知性のはたらき」(「世界における法と人間」『法と道徳』所収)である。
 なお、恒藤が、法は国または国家機関を受規者とする裁判規範であるという大方の限定的見解を批判し、一般国民をも受規者とする行為規範である点を強調していること、および法本質論のなかでもしばしば国際法に言及し、これを視野に入れていることを特記しなければならない。

(四) 法 価 値 論
 恒藤の法 (法律)価値論の骨格は、すでに戦前の論稿「法律と法律価値との関係について」(『法の基本問題』所収)において提示されており、それは法本質論と同様に基礎的、根本的な考察から始まる。すなわち、価値と当為とは非現実的存在であり、これに対して規範は現実的存在であるという視点から、価値、当為、規範の三者について綿密な検討を加え、その上で規範の基本的価値が「規範の目標価値」であり、「規範遵守行為の価値」およびそれを制約する「規範の価値」は派生的価値であるとする。
 (1) 法価値の種類ーー法価値とは法現象を基盤として現れる価値であり、法現象には狭義の法のほかに、法の定立過程、法の適用過程、法的諸機構、法的生活秩序が含まれるところから、法価値は法規範価値 (狭義の法価値)、法過程価値、法機構価値、法的生活秩序価値等の種類に分かれ、このうちの法的生活秩序価値こそが右の規範一般についていわれた基本的価値であり、その他の価値は派生的価値であるという。
 (2) 法価値の内容ーー法価値論の中心的部分、すなわち法価値の内容について、恒藤は正義 (ことに社会的正義)、社会的安定、文化助成の三つをあげ、これらの価値のいずれかという一元的見解ではなく、多元的見解が妥当であると説く。そして、法現象はこれらの価値的意味をやどす文化現象であり、正義価値 (公正価値的意味)と社会的安定価値 (公安価値的意味)とが核心的意味内容を形成し、文化助成価値 (公利価値的意味)は外周的意味内容を形成するとする。また、前二者についていえば、社会的安定価値が正義価値の基底をなすのである。これは、通常説かれる法価値の二元説、正義と秩序ではなく、ラートブルフが法理念の相互矛盾として展開した正義、合目的性、法的安定性、またザウアーが法の根本原則として掲げた正義、公共の福祉、法的安定性とも共通する三元説といえよう。いずれにしても、恒藤は法価値の多元性を承認し、また自然法論の価値絶対主義をしりぞけ、あるいは法的価値判断の多様性を肯定しているところから、価値相対主義の立場をとったといえる。
 なお、恒藤は戦後、法的価値判断の体系に関して、狭義の法価値 (正義)は形式的理念であり、これに加えて「社会の存続の確保」という法の実質的目的、ならびにそれに従属する社会の治安の確保、対外的防衛、社会経済の維持、家族生活の秩序の保障、行政作用や司法作用の規律ある持続等々の特殊的諸目的、さらにこれらの実現方法についての技術的観点など多様な価値判断をも視野に入れるべきことを説いている (「法解釈学と価値判断」『法の精神』所収)。

三 全体社会と市民社会

(一) 全 体 社 会
 全体社会の概念が、恒藤の法本質論において重要な意義をもつことは既に述べたとおりであり、その論稿のあちこちでこれに触れた論述が見られる。ただし、全体社会の概念自体は恒藤の創始にかかるものではなく、すでに高田保馬が『社会と国家』(一九二二年)において展開し、当時大正の末期から昭和の初期にかけて「全体社会」とか「社会的全体」ということが、研究者の間でかなり広く議論されていたように思われる。恒藤の初期に近い論稿には「社会的全体」という表現も見られる。高田は「全体社会というものは一方において相互に密接なる連絡を保てる一切の結合の集積を意味し、他方においてこれらの結合にあずかれる人々をも関係せしめてこれを意味する」(高田、前掲、第二章第一節)と説明し、また別の箇所では多元的国家論者マキヴァーの所説を批判的に参照しつつ「全体社会は結合の網の自足的封鎖的組織に他ならない。換言すれば一定の範囲において存立する結合的関係の総体である」(高田、前掲、第三章第四節)と述べている。
 恒藤の全体社会概念は、全体社会を法の発生・存立の社会的基礎と見ることによって独自の見解と展開を示していると思う。全体社会が最も簡約して述べられているのは「世界法の本質と其の社会的基礎」における次の一節であろう。

「全体社会は何らかの広さの地域の上に、何らかの大きさの人口を包容しつつ成立するのであり、その地域の上に成り立つ一切の社会的形象を内含すると共に、その地域の上に形成される一切の客観的文化を保持しつつ存立するのである」(『法の基本問題』二六七ページ)。
 ところで、恒藤の全体社会概念は、すべての部分社会の包括という単なる抽象的普遍概念ではなく、幾つかの重要な意味を含蓄しつつ展開されている。できるだけ恒藤の表現にそって挙示するとーー
 (1) 全体社会の歴史性ーー先にも触れたように、全体社会は歴史的発展の基体であり、かつ全体社会と歴史的発展の過程とは相互に制約し合う関係にある。すなわち、歴史の世界は動的全体であり、それは無数の人格的存在者およびかれらの社会的交渉、諸種の文化的形象の産出過程およびその成果を包容する総合的全体社会にほかならず、そして歴史の世界における精神と自然、意識と物質との矛盾的対立は、きわめて深刻な仕方で全体社会の現実態の上に反映する。
 (2) 全体社会の構造ーー全体社会の構造は、社会的構造と文化的構造とに分かたれる。社会の現実においては、諸人格的存在者の社会的・主体的交渉と、諸種の文化の産出、維持、増進に向けられた活動とは深く結合しているが、社会的・主体的存在性そのものと.文化的・客観的過程とは本質的に区別されるべきであり、社会の全構造はこれら別個の原理を内含する二様の構造の統一として成り立つ。そして、国家は全体社会の社会的構造の一部分であり、法や政治は全体社会の文化的構造に属する。
 (3) 全体社会と国家ーー全体社会の社会的構造の中には多種多様な部分社会とその相互関係が包含されるが、そこでの国家の地位はきわめて重要である。すなわち、前近代的国家と近代的国家との間の根本的差異は全体社会の性格を強く制約し、しかも全体社会に包容される人格的存在者全体の運命と使命は国家によって深く影響される。しかし、全体社会の原始的型態にあってはいまだ国家的集団は存在せず、それは歴史的型態に至って初めて発生するのであり、またあらゆる部分社会および一切の文化形態を包容する全体社会と、そうでない国家とを同一視すべきではない。
 (4) 全体社会の諸相ーー原始的型態の後期において、家族、氏族、部族などの部分社会が有機的に結合して全体社会を形作る。
 歴史的型態について見れば、まず国家の領域の上に成立する全体社会として「国民社会」が観取される。ある国民社会が他の国民社会から孤立して存在している場合、それは閉鎖的 (局限的)な全体社会である。この国民社会は恒藤によって、全体社会の根本的形態としてとらえられている。
 次に、国民社会相互の交渉・接触が、それぞれの国民社会に属する国家、その他の団体や個人を媒介にして行われる場合、そこに生ずる国際事象のすべてを包容する「国際社会」が成立する。この国際社会は二国間だけのこともあり、またその範囲が拡大されることもあるが、国民社会と比べれば普遍的であるにしても、やはり局限的全体社会にほかならない。国際法の社会的基礎は、まさにこの局限的全体社会としての国際社会であって、その構成部分である国際的社会集団や国際的社会関係ではない。
 さらに、恒藤は「世界社会」に論及している。世界社会は諸国民社会の全部とともに、国際社会をも包容して成り立つ高次の普遍的全体社会である。古代から中世にわたって東方アジア、インド、西洋に幾つかの世界社会が並立してきたが、そのいずれもが普遍的全体社会としての性格をそなえていた。そして、現代における普遍的全体社会は世界的規模を有し、真に世界社会という名に値する、と。
 (5) 全体社会の全体性ーー全体社会概念は外延の上から見た全体性をもつだけでなく、内包の上から見た全体性をも併有する。この全体性の内容は、原始的型態における血縁的全体社会と歴史的型態における地縁的全体社会との差異、また国民社会、国際社会、世界社会という範囲の大小に応じ、いわば時代の変遷につれてかなり大きく変動する。一般的にいえば、全体性とはまず一定の地域と一定の人口を擁するという意味のーーあるいは個人、団体、それらの相互的交渉関係をも包容するという意味のーー包括的普遍性である。その最大のものは世界社会の世界性であり、次いで国際社会の国際性であるが、国民社会にあっては、人格的存在者の個別性との関連では普遍性をもつものの、それが国家の領域を範囲として成り立つという点では、むしろ閉鎖的、完結的であることが全体性にほかならない。
 そして、恒藤の所論において特徴的なのは、理念的にはヘーゲルの客観的精神の諸形態を貫く統一的全体性が念頭にあったのではないかと推量されること、また何よりも諸個人が人格的・個性的存在を保有しうると同時に、諸種の文化形象の生成を可能にするという総合性の強調であろう。ちなみに、論稿「国家の全体性について」(『法と道徳』所収)においては、全体はそれに属する部分を包容することによって閉鎖的・完結的統一を形作り、その内面には一方で各部分の全体に対する依存関係が、他方では諸部分相互の間に全体への共属関係が存立するという説明がある。
 恒藤の全体社会論は、後続の有力な法哲学者たちに大なり小なり影響と刺激を及ぼしており、ことに峯村光郎は恒藤の所説に依拠して法規範の場としての全体社会について論じ (『法の実定性と正当性』一九五九年、有斐閣刊、第二論文)、加藤新平は全体社会をほぼマキヴァーのコミュニティと解しつつ、その意味内容を周到に吟味し、法の基盤は国家でも部分社会でもなく、全体社会であると説いている (『法哲学概論』法律学全集1、一九七六年、有斐閣刊、第四章第二節の四)。

(二) 市 民 社 会
 マルクス主義の市民社会概念が通常、広義の市民社会と狭義の市民社会という両義性をもって語られてきたことは、よく知られるとおりである。(ただし、六〇年代後半以降わが国のマルクス研究者の間には、市民社会の三層把握の理解が出てきている。法学分野では篠原敏雄『市民法の基礎構造』一九八六年、論創社、参照。)しばしば引用される『ドイツ・イデオロギー』の中の叙述に、(イ)「これまでのすべての歴史的段階に存在した生産諸力によって条件づけられ、またそれをふたたび条件づける交通形態は市民社会であり、\\この市民社会があらゆる歴史の真のかまどであり舞台であるということ」(服部文男監訳『〔新訳〕ドイツ・イデオロギー』一九九六年、新日本出版社、四六ー七ページ)および (ロ)「市民社会という言葉は、所有諸関係がすでに古代的および中世的な共同体から抜けだしていた十八世紀に現れた。市民社会としての市民社会は、ようやくブルジョアジーとともに発展するが、\\」(前掲、一〇〇ページ)という箇所がある。右の (イ)における「歴史の真のかまど」である市民社会は、広義の、いわば歴史貫通的次元の市民社会概念であり、これに対して (ロ)の「ブルジョアジーとともに発展する」市民社会は、狭義の、近代的ブルジョア社会次元の市民社会概念にほかならない。
 恒藤は『ドイツ・イデオロギー』の市民社会概念について熟知していたと思われるが、その論述に見られる市民社会は狭義のそれであり、広義の市民社会には直接触れるところがない。すなわち、近代的ブルジョア社会についてはーー一五、六世紀から一九世紀までのヨーロッパで行われた社会生活の合理化の過程は、新興市民階級の要求により、個人主義的社会組織である市民社会の完成を目ざして進行した。この市民社会の経済的側面は資本主義 (商品生産社会)の客観的経済法則によって根本的に制約され、個々の市民の自覚的意思を超越した客観的諸条件に基づいて形成される。そして、個人主義的社会観から要請された市民社会の法は、所有権不可侵の原則、契約自由の原則、個人的責任の原則等を確立することにより、個人の自由な経済的活動のために不可欠な法的諸条件を確保するものであった、というふうに述べている。
 さて、問題はマルクスの広義における市民社会概念と恒藤の全体社会との関連である。恒藤はヘーゲルの「法の地盤は一般に精神的なものである」という見解ではなく、物質的自然を原動力と見る唯物史観の立場をとり、そういう歴史の発展の基体として全体社会を措定することによって、そこに法の地盤を見据えようとした。そのかぎりで、恒藤の全体社会概念は、その出発点においてマルクスの「歴史の真のかまど」と同一線上にあったと思われる。しかし、かれの全体社会は歴史的・社会的現実の世界を総体として包容することで、マルクスのいう「交通形態」から離れ、広義の市民社会とは異質の展開を示すことになった。
 先にも触れたが、全体社会の二元的構造について論稿「法の本質とその把握方法」の末尾の部分 (九および一〇)には、恒藤の総括的な論述が見られる。すなわち、(イ)全体社会は基本的に社会的構造と文化的構造とに分けられるが、両者の間には差異、相互的制約関係とともに、密接な関連がある。(ロ)法的文化領域は社会的構造の型態的変化によって影響を被り、それに伴って法的文化領域の構造の型態的変化を生ずる。(ハ)諸種の生活領域は平面的に全体社会の部分構造をなすのではなく、互いに交錯、連関して立体的構造を形作る。(ニ)社会的構造においても文化的構造においても、自然的・物質的なものが基礎にあり、その上に精神的・意識的なものが存立し、両者は弁証法的対立によってその存在性格を規定される。(ホ)社会的構造においても文化的構造においても、基礎的、中層的および上層的建築という立体的相互関係が観取される。ーーこうした全体社会の立体的構造 (重層的制約関係ともいえようー筆者)について、恒藤はそれがヘーゲルの客観的精神の哲学 (家族、市民社会、国家)および唯物史観からの示唆によるものと述べているが、要するに基本的には社会的構造が文化的構造を制約し、また両者のなかの基礎的部分が順次中層的、上層的建築を制約する関係にあるものと考えられよう。
 そして、マルクスの広義における市民社会概念、すなわち先に引用した箇所の「交通形態」は諸個人の社会的交渉 (後に生産関係を含む)であり、それは恒藤の設定した社会的構造の基礎的部分に当たるといえようし、また恒藤は時に経済を法、政治、芸術、学問、宗教等と並べて客観的文化としているが、「凡そ経済を伴うことなくして (全体)社会の存立することは全く不可能であると言わざるを得ない」(『法の基本問題』二六二ページ)という断言を見ると、経済は全体社会の社会的構造のなかに含まれると解することもできる。しかし、この社会的構造と文化的構造とについて、おのおの基礎的、中層的および上層的建築を配した、合わせて六層の枠組みは、それぞれの具体的内容と相互関係が必ずしも明らかではなく、やや複雑な構想であったし、そのことによってマルクスの市民社会概念からは離れたものになった。

四 唯物史観との距離と社会進歩への志向

(一) 唯物史観との距離
 恒藤は唯物史観の歴史観、社会観について基本的に賛意を表し、関連する文脈の中では推奨、評価もしている。こうした恒藤の指導を受け、その学問傾向を受け継いだのは橋本文雄と加古祐二郎であった。いずれも六、七年の短い学究生活の後に三十代初めの若さで早世したが、戦後出版された橋本文雄の『社会法と市民法』(一九五七年、有斐閣刊)および加古祐二郎の『近代法の基礎構造』(一九六四年、日本評論社刊)には、恒藤がそれぞれの人と業績を愛惜する編者序あるいは追憶を寄せている。特に加古の著作は、戦後わが国のマルクス主義法学の研究者に少なからぬ関心と刺激を与えた。(なお、加古理論を紹介、また批判的に検討したものに、森英樹「加古祐二郎」潮見俊隆・利谷信義編『日本の法学者』一九七五年、日本評論社、所収、および田中茂樹「加古祐二郎における存在論的弁証法と法システム」『日本の法哲学T』法哲学年報一九七八、有斐閣刊、所収などがあり、これらの論評は恒藤にも関連する。)
 だが、恒藤と唯物史観との間には明らかに一定の距離があった。戦前・戦中のアカデミー哲学に対しては、唯物史観の側からのさまざまな批判がある (たとえば、森宏一『唯物論の思想と闘争』上・下、一九七一年、新日本出版社、参照)。当然恒藤法哲学、とりわけその世界観や方法論に対しても唯物史観の側からの根本的批判があろう。しかし、この場所では、恒藤の側から提起された二つの主要な問題点をあげておく。
 (1) 戦前の早稲田大学の講義録「法理学」のなかに唯物史観と題する講述がある (『法の精神』三九〇ー二ページ)。そこでは、一方で唯物史観が法理学にもたらせた大きな貢献を認めつつ、他方で「人格の内面的自由を無視して、社会的諸勢力の相互的、外面的制約関係をもって、社会の歴史的発展を規定する唯一の因素たるものと見んとする点において、したがって人生をして真に意義あらしめるところの原理たる諸々の理念の本質について明確なる認識を把持していない点において、ふかき欠陥をもっている。\\」とかなり厳しい批判を行っている。
 右の引用箇所に続く文章を含め全体的に見ると、恒藤は唯物史観が「人格の内面的自由」を無視するところに批判の焦点を当てている。この「人格の内面的自由」の原型は、おそらくカントの実践哲学、とくに『人倫の形而上学の基礎づけ』における理性的存在としての「人格」であり、道徳法則に従う意思の自律という意味の「内面的自由」であろうと想像される。しかし、私見では、厳格主義の倫理観に基づく倫理的自由の展開が歴史的発展の原動力になるとは考えがたい。
 また、恒藤には同じ箇所で「人間をして人間たらしめる内面的自由」という表現がある。これを広く人間の精神的自由と解すれば、唯物史観がそのような自由を全く無視してきたとはいえないように思う。すなわち、マルクスの初期の「ユダヤ人問題によせて」や『経済学・哲学草稿』によれば、政治的解放だけでは人間的解放とはいえず、「自由で意識的な活動」を強調している部分があり、さらに「一個の社会的な、すなわち人間的な人間としての人間の、自己にとっての帰還」を究極の目標 (共産主義)とする記述も見られる。
 もっとも、恒藤が指摘している「諸々の理念の本質についての明確な認識」において、従来唯物史観の立場から触れるところが少なかったのは事実であろう。マルクス主義の価値論はもっぱら経済学上の問題として論じられ、ことに恒藤が重んじてきた文化的価値についての論及はほとんどなかったといってよい。旧ソ連で哲学上、倫理学上の価値論が現れてきたのも、ようやく一九六〇年代半ば過ぎからであった (粟田賢三『マルクス主義における自由と価値』一九七五年、青木書店刊、第二部のU、参照)。ともあれ、人間の社会的存在が彼らの意識を決定するという唯物史観の根本テーゼとの関係では、恒藤との間にやはり少なからぬ距離があった。
 (2) 戦後の「法と経済との関係について」(『法と道徳』所収)のなかでは、マルクス『経済学批判』の序言における有名な唯物史観の定式ー本稿の二でも触れたーをヘーゲルの世界観、歴史観と比較しつつ、一応肯定的に引用している。重要な箇所なので恒藤の訳を再録する。

「人間は、彼らの生活の社会的生産において、彼らの意思に倚存しない一定の関係、すなわち彼らの物質的生産力の一定の生産諸関係のなかに立ち入るものである。これらの生産諸関係の総体が社会の経済的構造を形成するのであり、この実在的土台の上に、法的および政治的上部構造は存立し、かつ一定の社会的意識形態がそれに対応するのである。物質的生活の生産方法が社会的、政治的、精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。その発展のある段階において社会の物質的生産諸力は、従来その中で動いてきたところの既存の生産諸関係と、または法的な言いあらわしかたをすれば、財産諸関係と矛盾するに至る。前者の発展形態であった後者が、前者の桎梏に転化する。経済的基礎の変化につれて巨大な全上部構造が徐々に又は急速に転覆する。」
 この文章について恒藤は、経済決定論であるという唯物史観に向けられる非難を妥当でないものと退け、その上でなお右の主張は再検討を要するという。その再検討の的は、社会の全構造を実在的な下部構造と非実在的な上部構造とに二分して、前者は経済によって形作られ、後者は法、政治および狭義の意識形態によって形作られるという論旨ーそれは恒藤の読み取りであるがーに絞られている。恒藤によれば、(イ)経済と広義の意識形態とはその存在性格において相違するところはなく、上部構造も下部構造も等しく実在するのであり、(ロ)客観的現実態において不可分離の一体をなしている法と経済とを、相互に分離して存立するものと見ることは明白な矛盾にほかならない、と。同様の批判は、戦前の『法の本質』のなかで、法の存在性格 (その実在性ないし社会的現実性)について論じた箇所にも見られる。
 しかし、唯物史観において土台が実在的であるというのは、社会の経済的構造こそがそれ自体の弁証法的発展の歴史をもち、その意味で究極的には土台が上部構造を制約するという趣旨であり、上部構造も一定の相対的独自性をもち、土台に対して反作用を及ぼすものと考えられている。したがって、上部構造を非実在的なものと見たという批判は、唯物史観の立場からは容認されえないであろう。また、法と経済との分離という批判も、恒藤は自然法論や規範主義を排し、存在論的な見方に立って社会、経済、法律、宗教等々の歴史的存在領域が統一的全体を形作るという主張を随所で繰り返しているが、唯物史観もまた法と経済との密接な関連を認めているのであって、批判をそのまま受け入れるわけにはいかないと思う。

(二) 社会進歩への志向
 恒藤は既に戦前期において、人間の自覚は合理的思惟の活動を伴い、それは次第に社会生活により強く、より広く影響を及ぼして行き、原始社会から歴史社会へ、また古代、中世、とりわけ近代に至って合理的社会へ、文化的諸事象の合理化へ向かうものと、どちらかといえば楽観的に見ていた。もちろん近代法といっても、そこに多大の欠陥が伴うことはいうまでもないが。ーーこのような歴史認識をふまえ、恒藤の論述にはしばしば社会進歩と文化的発展への努力と行動を促す文章が見られる。そして、人間がみずからの存在性格について自覚を深めるよう強調しているところなどには、人格主義的傾向がうかがえる。この進歩、発展ということでいえば、新カント派の代表的な法哲学者シュタムラーの「歴史的進歩」や広い意味で新カント派と目されるデル・ヴェキオの「法の進歩」という立論が想起されるが、この進歩の思想の源流は、自然の意図に基づいて人類は次第に理念に接近するものと見たカントの小論『世界市民的観点における一般史の理念』に遡るであろう。
 一九三一年の柳条湖事件に始まる満州事変、また三七年の盧溝橋事件に始まる日中の全面戦争、そして四一年の太平洋戦争突入という戦前・戦中の時期は、恒藤にとって重苦しく、また時局への苛立ちを覚えた時代であったに違いない。言論、思想統制は次第に強化され、恒藤自身が当事者の一人になった三三年の京大事件、美濃部達吉が攻撃された三五年の天皇機関説事件、山田盛太郎、平野義太郎らが検挙された三六年の講座派弾圧事件、山川均、大内兵衛ら労農派学者グループが検挙された三七、八年の人民戦線事件、河合栄治郎、土方成美が東大を罷免された三九年のいわゆる平賀粛学等々と続いた。恒藤の身近なところでも、京大・社会科学研究会の学生は治安維持法違反で多数検挙され、また中井正一、新村猛ら京都の知識人を中心とする「世界文化」の同人も三五年一斉検挙、そして三七年には具島兼三郎、田畑忍らが処分された同志社大学事件があった。知己の三木清も敗戦後であるが、刑務所で非業の死をとげている。理論分野で見ても、マルクス主義研究者のなかに一方で歴史の発展段階論として自由主義から全体主義へとか、東亜新秩序の世界史的必然という現実肯定の論策が現れ (転向、偽装転向の問題を含む)、他方三木清は「ヒューマニズム」、戸坂潤は「科学的批判」を標榜することによって唯物史観の立場を固守しようとする状況であった (毎日新聞社編『昭和思想史への証言』一九六八年、参照)。
 戦後は恒藤にとって、まさに戦前・戦中の暗い谷間から脱し、再生の息吹の感じられる時期ではなかったかと思う。戦後間もなくの論稿「世界における法と人間」(『法と道徳』所収)は、戦前期からの理論的蓄積の総括であるとともに、戦後の内外の動向に着目しつつ、新たな時代の道標を提示しようとするものであった。ここでは、世界および人類に対する日・独・伊の「叛逆的」行動、また戦中の日本主義的世界観 (主要には右翼・軍部・文部省を背後にした「日本主義哲学」、国民精神文化研究所を中心にした「日本精神の哲学」、そして「日本法理」をさすものと思うー筆者)を厳しく指弾し、その上で法哲学の主要な問題について、社会の進歩ならびに思想の進歩という観点から綿密な歴史的考察を行っている。こうして、恒藤は閉鎖的社会から開放的社会へ、国際社会から世界社会への展望を語ったのであった。ただし、戦前の全体社会概念を用いた説明は後景に退き、進歩・発展の評価基準ないしその特質として「非合理性の原則」に対する「合理性の原則」、「非合理的要素」に対する「合理的要素」、「非合理的精神」に対する「合理的精神」、また民主主義 (民主政治)の視点の強調が目立っている。
 五〇年には安倍能成、大内兵衛、末川博らとともに平和問題談話会を結成し、全面講和・中立・軍事基地反対の声明に名を連ねており、五八年には政府の憲法問題調査会に対抗する形で発足した憲法問題研究会に属し、関西の重鎮として活躍した。この間雑誌『世界』にたびたび筆をとり、それらは新憲法の国民主権・人権・平和の三原理を擁護する立場から、あるいは日米安保体制を批判し、あるいは砂川事件の最高裁判決を論難するなど、鋭い気迫に満ちていた (後に『憲法問題』岩波新書としてまとめられた)。論稿「個人の尊厳」(『法の精神』所収)は、キリスト教諸思想ならびにカントの倫理思想の限界を検証しつつ、第二次大戦を契機につくられた国連憲章、世界人権宣言、また日本国憲法一三条の人権保障規定を思想史的進歩と評価し、現実的個人の全存在を個人の尊厳の基礎とすべきことを説いている。恒藤は一貫して社会進歩を志向し、人間的自覚と合理的社会の実現を促すため、世に訴え続けたといえるであろう。 (一九九七・七・三一) 

〔参考文献〕
 1 恒藤の人と学問全般については、八木鉄男「恒藤恭」潮見俊隆・利谷信義編『日本の法学者』一九七五年、日本評論社刊、所収がある。
 2 若い時代の文芸的活動については、山崎時彦編『若き日の恒藤恭』一九七二年、世界思想社刊および関口安義「評伝恒藤恭」(一、二)『都留文科大学研究紀要』第45、46集、一九九六、九七年、所収がある。
 3 恒藤と河上肇との交流については、杉原四郎「河上肇と恒藤恭」『河上肇記念会会報』51号、一九九五年九月、所収がある。
 4 近代日本法理論史の観点で恒藤法理学を論じたものに、松尾敬一「大正・昭和初期の法理論をめぐる若干の考察」『法哲学の諸相』法哲学年報一九六九、有斐閣刊、所収がある。特に、唯物史観に対する恒藤と尾高朝雄との学風の対比が興味深い。
 5 恒藤法哲学の核心に触れる紹介、論評として、加藤新平が恒藤恭『法の基本問題』第五刷、一九六九年、岩波書店刊に寄せた「あとがき」、また稲垣良典「恒藤教授の法哲学と価値相対主義」『法哲学の諸相』前掲、所収および八木鉄男「恒藤恭の法哲学ーーとくに法の本質についてーー」『日本の法哲学T』法哲学年報一九七八、有斐閣刊、所収がある。