立命館法学 一九九七年三号(二五三号)四七四頁(二六頁)




外国人の私権と梅謙次郎 (一)



大河 純夫






は じ め に

 外国人の法的地位・人権は、定住外国人の公務就任権をはじめ、依然としてこの国の法律学のアクチュアルな問題である(1)。本稿の課題は、のちにみるように、第一〇議会・第一二議会に提出された民法第二条修正案 (第一〇議会には民法第二条削除案も提出された)をめぐる議論を整理すること、その上で民法第二条の起草の中心にあった梅謙次郎の理論を整理しその法思想的背景を明瞭にすること、そして韓国併合に携わった梅の対応の仕方を通じて明治民法第二条の理念の行方を探ること、にある。
 このように、本稿の対象は限定されておりいわば「研究ノート」にとどまるものであるが、ある代表的な概説書がいまなお「日本人の権利能力に対する制限は、法律 (形式的意味)による必要があるが、外国人については、憲法上の保障がないから、命令や条約によっても禁止することができるのである(2)」と説いている背景を明らかにすることになろう。

(1) 生田勝義=大河純夫編・法の構造変化と人間の権利 (法律文化社 一九九六年)三七頁以下〔市川正人〕、芦部信喜・憲法学U 人権総論 (有斐閣 一九九四年)一二一頁以下、山下健次「外国人の人権」ジュリスト一〇〇〇号 (一九九二年)一九頁以下等参照。
(2) 四宮和夫・民法総則〔第四版〕(弘文堂 一九八六年)四三頁。引用した表現は、その初版 (一九七二年)から一貫している。この理論にあっては、外国人の人権享有主体性についての消極説を連想させる憲法理解にとどまらず、外国人・法人の私権について共通に使用されている「特別権利能力」概念の方法論的意味が吟味されなければならないであろう。本稿はこれに立ち入ることを目的としたものではないが、筆者の見通しに触れておこう。
 たとえば、於保不二雄・民法総則講義 (有信堂 一九六〇年)四〇頁は、特別権利能力を「特殊な法律関係又は権利義務の主体たりうる資格」と定義している。さらに遡れば、末川博編・新法学辞典下卷 (日本評論社 一九三七年)の「特別権利能力」の項は、「一般権利能力に対して、個別的に特殊の権利を享有し得る能力をいふ。外国人は一般権利能力を有しても特別権利能力において制限されてゐることがある」(七一八頁)としていた (なお、一九九一年版 八二二頁も参照のこと)。こうみてくると、「特別権利能力が権利能力として考えられるのは個別的権利能力の問題としてである。自然人の権利能力を一般的に剥奪しない近代法においても、個々の権利は剥奪される。特別能力が外国人の権利享有問題として問題となるのはこの意味においてであり、それは個別的権利能力の問題」(西賢「国際私法における能力」神戸法学雑誌七卷四号 (一九五八年)七一六頁=同・国際私法の基礎 (晃洋書房 一九八三年)四八頁)との指摘が明言するように、およそいっさいの自然人に権利能力が承認される構成のもとにあって、個別具体的な権利の帰属が否定されたり制限される例外的事例を権利享有主体の側から表現するための言辞が「特別権利能力」概念なのであった。ここでは、一般・個別の関係があるのみである。もともと、一般権利能力と特別権利能力とを等置するのは権利享有主体間の区分そのものと誤解させかねないのであるが、四宮・前掲書のように「特別権利能力」の表題の下に外国人 (そして法人)を取り扱うにいたっては、一般権利能力者 (内国自然人)・特別権利能力者 (外国人・法人)を区分するに等しいものであり、民法における「人」の把握としては適切ではないだろう。
 この問題に関しては、鳩山秀夫・増訂改版日本民法総論 (岩波書店 一九三〇年)の把握、「一般権利能力ハ総テノ自然人之ヲ享有スルモノニシテ今日ノ法制上外国人モ亦総テ之ヲ享有スルモノトス。\\相互主義ニ至リテハ既ニ一般権利能力ハ之ヲ認メタルモノニシテ、唯特定ノ権利能力ヲ認ムルヤ否ヤニ付キ條約又ハ法律上ノ相互主義ヲ採リタルニ過ギズ」(四七〜四八頁)が出発点に据えられるべきであろう。なお、法人の私権については、法人論にかかわることもあり、別の機会に論ずることにしたい。

一 民法第二条修正案・削除案について

  民法第二条は、「外国人ハ法令又ハ条約ニ禁止アル場合ヲ除ク外私権ヲ享有ス」と定めている。民法第二条の原案は、一八九三年 (明治二六年)九月二一日付で主査委員に配布された甲第三号議案に含まれているが、その内容は、
  「外国人ハ法令又ハ條約ニ禁止アル場合ノ外私権ヲ享有ス(1)
であった。その「理由」も「本條ハ既成法典ノ字句ヲ條成〔修正の誤植〕シタルニ過キス但法律ヲ改メテ法令ト為シタルハ憲法上命令ヲ以テ外国人ノ権利ヲ規定スルコトヲ得レハナリ(2)」と簡単なものであった。第二条が審議されたのは、同年九月二九日の第九回民法主査委員会であった。高木豊三が「法令」を「法律」と改める提案をしたが、賛成を得られず、可決となる(3)。委員総会が第二条を審議したのは同年一〇月二七日の第四回総会においてであった。この会議では、「法令」を「法律命令」と改めるとの末延道成の提案が否決されたほか、「寧ロ法令又ハ條約ガ外国人ニ認許シタル場合ニ於テ外国人ハ私権ヲ享有スル事ヲ得ルト云フ様ニ規定シタ方ガ宜カラウト思ヒマス(4)」との穂積八束発言が目に付く。しかし、梅の説明に穂積八束は納得し、第二条原案は可決された。「明治二十六年十一月総会決議 (総甲第二号議案)」をみても第二条はなんら変更はされていない(5)
 一八九四年 (明治二七年)一二月一五日配布の「(整)第一号」でも第二条の文言上の変更はない(6)。しかし、一八九五年 (明治二八年)一二月一六日の第四回民法整理会で、「禁止アル場合ノ外」を「禁止アル場合ヲ除ク外」に修正することが「外ノ文例」にならうことを理由に承認されている(7)。これを受け、一八九六年 (明治二九年)一月配布の「(確)第二号(8)」は、
  「外国人ハ法令又ハ條約ニ禁止アル場合ノ\ヲ除外ク私権ヲ享有ス」
と記載し、「ノ」が「ヲ除ク」に改められたことを確認している。この修正は文意を明瞭にするための修正にとどまるといえる。
 明治民法の第一・二・三編は民法中修正案として第九議会 (会期:一八九五年=明治二八年一二月二八日〜一八九六年三月二八日)に提出される。衆議院の第一読会 (一八九六年二月二六日)の後、民法中修正案委員会の議に付され、三月一六日の第一読会続・第二読会・第三読会を経て可決される。貴族院では、第一読会のち、民法中修正案特別委員会に付され、同年三月二三日の第一読会続・第二読会・第三読会を経て可決された。民法第一・二・三編は、四月二七日、法律八九号として公布された。議会での審議をみる限り、たしかに民法の台湾への適用問題に関する伊藤博文の答弁(9)には本稿との関係で興味深いものがあるが、第二条そのものについては全く議論がなされなかった。
 しかし、民法第一・二・三編が公布された後に開会された第一〇議会 (会期:一八九六年=明治二九年一二月二五日ー一八九七年三月二五日)において、元田肇・大竹貫一は一月二六日に「民法中改正法律案」を衆議院に提出した(10)。それは、明治民法第二条を、「外国人ハ法律又ハ條約ニ認許シタル場合ニ限リ私権ヲ享有ス(11)」と改正しようとするものであった。また、会期末の三月一六日にいたって、柏田盛文・鳩山和夫は「民法中削除法律案」を衆議院に提出した(12)。元田・大竹案は二月一日、三月一八日、一九日、二二日、二三日と衆議院の議事日程にはのぼったものの会議に付せられることなく廃案となった。三月二二日、二三日の議事日程にのぼった柏田・鳩山案も同様である(13)

  衆議院議事速記録からは以上のように静かなように見えるが、この提案をめぐる動きにははげしいものがある。「民法修正案に関する論戦 (雑録)」法学協会雑誌一五巻三号 (明治三〇年三月二日発行)二八八ー二九〇頁がこの状況をまとめており、これを手掛かりに補充・整理すると次のようになる。

明治30・
1・16
中村進午 (梅謙次郎校閲)「外国人の権利」日刊世界之日本 (一月二九日号まで一一回連載)
1・26 元田肇・大竹貫一「民法中改正法律案」を第一〇回帝国議会 (衆議院)に提出
「元田氏の民法修正案」(記事)毎日新聞二頁
2・6 山田三良「民法第二条修正案を評す」毎日新聞七・九・一二日と連載。日刊世界之日本七日号三ー四頁、法学協会雑誌一五巻二号)。読売新聞「外人私権享有問題」六日・七日号各二頁は要旨。
2・7 「外人私権制限と当局大臣」(記事)毎日新聞二頁
2・8 有賀長雄「外人私権享有問題に就て」読売新聞五頁。続は一〇日号二頁。
2・9 「(社説)私権の享有と排外主義」毎日新聞一頁
2・11 山田三良「外国人の地位について」東京専門学校課外講義 (毎日新聞二月一一日号五頁の (予告)報道による)
2・14 富井政章「外国人の私権享有に就て (談話)」日刊世界之日本五頁
「穂積 (八束)博士の民法修正意見 (上)」毎日新聞五頁。(下)は一六日号六頁
2・15 梅謙次郎「法典に関する政府委員」に就任 (第一〇回帝国議会衆議院議事速記録八九頁。法典に関する政府委員は一月二八日に任命されており、追加任命になる)
2・16 「穂積〔陳重〕博士の民法修正案に対する意見」日刊世界之日本一頁。「穂積陳重氏の民法修正意見」毎日新聞六頁
2・xx? 山田三良・民法第二條修正案反対私見(14)
2・19 山田三良「穂積八束先生に答ふ」日刊世界之日本四頁 (二月二七日号まで六回連載。毎日新聞一九・二三・二四・二五・二七日号の五回連載
2・20 山田三良「江木氏の民法妄誕論を評す (上)」毎日新聞二頁。(下)は二一日号一頁。
2・25 穂積八束「民法修正意見」法学新報七一号一頁 (日付は発兌日)、江木冷灰「民法妄誕論」同一三頁
2・28 穂積積重「民法第二條修正案に就て」(模擬国会・早稲田議会での政府委員としての演談。於:東京専門学校)穂積陳重遺文集第二冊三四九頁
3・11 「民法修正論 (社説)」日刊世界之日本一頁
3・16 「天野法学士の民法第二條削除説」毎日新聞二頁
3・16 柏田盛文・鳩山和夫「民法中削除法律案」を第一〇回帝国議会 (衆議院)に提出
?・? 梅謙次郎「外国人の権利 (和仏法律学校講談会での講演)」法学協会雑誌一五巻七号・八号、法典質疑録一九号・二〇号
7・12 寺尾亨・国際私法 (和仏法律学校)
11・20 穂積八束「法典実施及現行條約」法学新報八〇号一頁。

 日刊世界之日本が「民法修正案 いよいよ議事日程に上りたる暁には政府は法典起草委員たる富井、梅、穂積の三博士の内に政府委員を命じ充分反対の意見を述べしむべしと云ふ」(二月一三日号二頁)、「元田代議士の提出せし民法第二條の修正案に対しては法学者中穂積富井の両博士参謀となり専ら反対運動中なりしが\\同案が議事日程に上るの日は政府委員梅博士は元田案反対理由の長演説をなす筈なりと云ふ」(二月一七日号二頁)と報道しているように、梅謙次郎を政府委員に送り込み三起草委員が総力を挙げて阻止にまわったのである。そして、穂積等は山田三良「民法第二条修正案反対意見」をパンフレットにし、「貴衆両院議員に配布(14)」した。また、二月二八日 (日)、東京専門学校で開催された模擬国会「早稲田議会」は、鳩山和夫 (議長)・穂積陳重 (総理大臣)・寺尾亨 (司法大臣)・有賀長雄 (外務大臣)・斉藤波太郎・小山愛政・山田三良等 (議員)の構成で、第二条修正法律案を議題にした(15)。山田三良は、「かくて衆議院においても漸くその非を悟り賛成を取消す議員が続出した(16)」としている。
 元田等の構想は、第一二議会 (会期:一八九八年=明治三一年五月一九日ー六月一〇日)中の五月一九日に衆議院に提出された元田肇・大竹貫一・山田喜之助の「民法中改正法律案」に再現される。神鞭知常外一九名の「賛成者」を得て提出されたこの法律案の内容は、
   民法中改正法律案
  明治二十九年法律第八十九号中左ノ通改正ス
  第二條 外国人ハ法律又ハ條約ニ依リ特ニ認許シタル場合ニ於テ私権ヲ享有ス(17)
であった。五月二五日第一読会が開催されたが、提出者元田肇自ら、「理由書」を議員が検討する余裕を確保するためとの理由で延期の動議を出し、提案理由の説明はおこなわなかった。結局「提案者から都合があって延期したいと云ふ動議が出」たとの理由づけで「本案延会宣告」がなされた(18)
 この法律案に対して、梅が「第二條修正案を真正面より論駁する長文の趣旨書を各方面に配布した(19)」といわれている。

  ところで、明治民法の第一・二・三編が公布された後に展開された民法第二条をめぐるこの動きについてはやや誤解があるようである。これは、

  「民法修正案が議会へ出た時は殆ど修正がなかつたと言つて宜しいのですけれども、一つ大きな問題となつたのは民、法、第、二、條、です。当時は対外硬と云ふ言葉があつた。外国に対して強いと云ふ意味なのです。此の思想は安部井盤根氏とかーー是は福島県の代議士でしたーー元田肇氏とか、さう云ふ錚々たる連中が民法第二條の原則をひつくり返さうと云ふ意見を持つた。『外国人は法令又は條約に別段の規定ある場合に限り私権を享有す』と云ふ事にしようとした。そこで政府委員であつた起草委員は大いに驚かれて、今頃さう云ふ思想の法律が出来ては大変だと云ふので、当時法例の起草の為に穂積先生は案を練つて居られた時で、其の補助委員として山田三良君が居られた、そこで其の山田君が穂積先生の意を受けた事に相違ないのですが、パンフレットを出して、『外国人の権利義務』と云ふ本を作つて配布したり何かして、原案維持に骨を折られた。幸ひにして事無きを得て第二條は其儘通つたが、一時大問題でした。兎に角民法第二條を修正して原則をひつくり返さうと云ふのですから、是が一番大きな問題であつたのです」
(「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」法律時報一〇卷七号二六頁。傍点・原文)
 

との仁井田益太郎発言の評価にかかわって、いまなお議論の対象となっている問題でもある。
 たとえば、谷口知平編・注釈釈民法(1)(有斐閣 一九六四年)一六六頁〔三浦正人〕、新版注釈民法(1)(同 一九八八年)一七頁〔同前〕は第一〇議会に提出された「民法中修正案」を指摘していた (もっとも「明治三〇年国会」と表現されている)。明治三〇年七月一二日発行の寺尾亨・国際私法 (和仏法律学校)九〇頁以下が第一〇議会に修正案・削除案が提出されたことに触れており、以後国際私法学にあってはこれは常識に属することのようである。
 他方で、民法編纂史研究の一環としてこの問題に立ち入った星野通・民法編纂史研究 (ダイヤモンド社 一九四三年)は、大日本帝国議会誌第四巻 (同刊行会 一九二七年)を指示して、「元田肇その他二名によって民法中改正法律案」が第一二議会に提案されたと指摘し (これ自体は正当)、併せて「猶元田案提出は『仁井田博士に民法編纂の事情を聴く座談会』によるも、また『博士梅謙次郎』よるも、いづれも民法前三編の修正案即ち民法修正案が第九回帝国議会に上程された時に行はれた様に書かれてあるが、これは間違」と断定し、元田等の提出が「民法三編公布後三十一年六月の第十二回帝国議会において提案された」(一九六頁)とした。星野の見解は、帝国議会議事録の閲覧が困難で大日本帝国議会誌に依拠せざるを得ないという当時の資料的制約によるものであるが、結果的には第一〇議会への注意をそらすことになった。石井良助・日本文化史2法制編 (洋々社 一九五四年=原書房 一九八〇年)五四八頁、広中俊雄「日本民法編纂史とその資料ーー旧民法公布以後についての概観ーー」(年報)民法研究第一巻 (信山社 一九九六年)一六九頁注 (19)などその影響は大きく、いずれも第一二議会のみを取り上げるにすぎない。また、星野・前掲書が仁井戸田発言「民法修正案が議会へ出た時」を、「民法修正案」=「民法修正案 (前三編)」、「議会」=「第九議会」と読み込んだことは、仁井田発言の解釈に無用な誤解を与えている。
 このように、元田等の修正案の提出が第一〇議会または第一二議会の一方のみへの提案ととらえられているが、前者は国際私法学サイドの常識のみに依拠したものであり、後者は資料的制約を免れえなかった星野通の研究に依拠したものである。しかし、以上にみたように、第二条修正案は第一〇・一二議会と二度提出され、第二条削除案は第一〇議会に提出されており、どちらかといえば第一〇議会をめぐる動きが焦点である。仁井田発言にしても、不正確な表現があるものの、「民法中修正案」が第九議会 (第一・二・三編)と第一一・一二議会 (第四・五編)に提出されたことを考慮するなら、つまり仁井田のいう「民法修正案」が第九・一一・一二議会にかけられたとみるなら、存外よく整理された発言といえるのである。
 しかも、第一〇議会開会まえに連載された中村進午 (梅謙次郎校閲)「外国人の権利」からみても、また法典調査会委員総会での穂積八束発言 (一八九三年=明治二六年一〇月二七日)からみても、第二条をめぐる動きはかなり以前にその源流があるとみなければならないように思われるのである。一八九六年 (明治二九年)二月発行の法学新報五九号に掲載された江木冷灰「修正民法草案批評(一)」が目につくし、事実、一八九七年 (明治三〇年)一月二七日の毎日新聞の記事「元田氏の民法修正案」(二頁)は、「右 (民法第二条削除案のこと・引用者)は曾て元田氏が法典調査会に提出して大に議論ありたる末否決せられたる問題にて(21)本問題は昨今法律社会に於て学理上実際上に於ける一の疑問となり居る問題」としていた。

(1) 日本近代立法資料叢書一三 第二綴 一四頁。
(2) 同前 第一綴 一八七頁参照。
(3) 日本近代立法資料叢書一三 第一綴 一八七〜一八八頁参照。
(4) 日本近代立法資料叢書一二 第四綴 七八頁。
(5) 日本近代立法資料叢書一三 第三綴 一頁参照。
(6) 日本近代立法資料叢書一四 第二綴 一頁参照。
(7) 日本近代立法資料叢書一四 第一綴 九〇〜九一頁参照。
(8) 日本近代立法資料叢書一五 第一綴 四頁。
(9) 第九回帝国議会衆議院民法中修正案委員会速記録一五五頁=帝国議会衆議院委員会議録明治編二七 (東京大学出版会 一九八七年)二一三頁参照。明治二九年三月一三日の (衆議院)民法中修正委員会での山田泰造の質問に対するもの。
(10) 議会制度七十年史帝国議会議案件名録 (一九六一年)五三五頁。提出を議長が衆議院に報告したのは明治三〇年一月二八日のことである。第一〇回帝国議会衆議院議事速記録〔復刻版〕五三頁参照。なお、山田三良・回顧録 (山田三良先生米寿祝賀会 一九五七年)一四頁は、この法律案は「代議士過半数の賛成を以て」提出されたとしている。議院法 (明治二二年 法律二号)二九条によれば、議員による議案発議には二〇人以上の賛成を要する。
(11) 提案の趣旨説明がなされなかったために、衆議院議事速記録に提出された法律案の正文をみいだすことはできない。発行されているはずの第一〇回帝国議会法律案も国立国会図書館で欠本となっているために、法案のテキストを確定することはできていない。
 なお、当時、修正案の内容について、次の三つの理解があった。(イ)「外国人ハ法律又ハ條約ニ特ニ認許アル場合ニ限リ私権ヲ享有ス」(毎日新聞「(社説)私権の享有と排外主義」) 「特ニ」・「限リ」を使用していることが特徴。(ロ)「外国人ハ法律又ハ條約ニ認許シタル場合ニ限リ私権ヲ享有ス」(寺尾亨の序文、山田三良「民法第二條修正案反対私見」) 「特ニ」は使用していないが、「限リ」はのこしているもの。(ハ)「外国人ハ法律又ハ條約ニ依リ認許シタル場合ニ於テ私権ヲ享有ス」(日刊世界之日本明治三〇年三月一一号一頁「(社説)民法修正論」) 「特ニ」・「限リ」を使用しないもの。なお、穂積八束「民法修正意見」法学新報七一号一頁は、「外国人は法令又は條約の許す場合に於て私権を享有す」としている。
 現在のところ確定は困難なので、本文では第二のものを引用しておいたが、確信は持てない。第一二議会に提出された民法中改正法律案と同一のように思われてならない。
(12) 前掲・議会制度七十年史帝国議会議案件名録五三八頁参照。提出を議長が衆議院に報告したのは明治三〇年三月一七日である (第一〇回帝国議会衆議院議事速記録〔復刻版〕四六九頁参照)。現時点では、この法律案のテキストも確認することはできていない。「民法第二條は不要なり、全然之を削除せざるべからず」と主張する江木冷灰「民法妄誕論」法学新報七一号 (明治三〇年二月二五日発兌)一三頁との関連も明確ではない。穂積重行編著・穂積歌子日記 (みすず書房 一九八九年)四二〇頁以下の指摘を参考にするなら、鳩山和夫はこの法律案の提出によって対外硬陣営の分断をはかったとみるべきか。対外硬については、さしあたり酒井政敏・近代日本における対外硬運動の研究 (東大出版会 一九七八年)参照。
(13) 前掲・議会制度七十年史帝国議会議案件名録五三五頁、五三八頁参照。いずれの法案についてその結果を「未了」としている。自由党報第一三一号=第十議会自由党代議士報告 (明治三〇年四月二五日)六五頁 (帝国議会報告書集成第二卷 (柏書房 一九九一年)三二一頁)は、この二法律案を「閉会ノ為メ会議ニ付セサリシ法案」の項目に掲げている。
 梅謙次郎が、法律案が否決されることを見通した提案者が「頻リニ遷延シ閉会前到底議了ノ遑無キ時ニ至リテ漸ク之ヲ日程ニ加ヘ竟ニ其希望ノ如ク握潰シト為レリ」(「(講演)外国人ノ権利」法学協会雑誌一五卷七号六八八頁)と語っているのは、適確な評価であろう。ちなみに、第一〇議会時、第二条修正案の提案者の一人元田肇は衆議院予算委員長であり、また第二条削除案の提案者の一人鳩山和夫は衆議院議長の任にあった。
(14) この小冊子は未見。仁井田益太郎は『外国人の権利義務』としているが、東京帝国大学附属図書館和漢書目録 法律政治経済之部 (東京帝国大学附属図書館 明治三二年三月)二〇〇頁の記載『民法第二修正案反対私見 山田三良撰 明治卅年』が正確なように思われる。山田三
良・前掲回顧録一四頁も『民法第二条修正案反対私見』としている。
 この小冊子は、法学協会雑誌一五卷三号二八八頁「(雑録)民法修正案に関する論戦」によれば、穂積陳重の序文 (同二九〇〜二九四頁)・寺尾亨の序文 (二九四〜二九七頁)・山田三良の自序 (二九七〜二九八頁)・本文からなり、これを「穂積 (陳重)博士寺尾法学士の両氏は\\印刷費を補助せられ、寺尾教授より之を代議士諸氏に寄贈」したものである。山田三良が執筆した本文は、山田三良「民法修正案を評す」法学協会雑誌一五卷二号 (発行は明治三〇年二月五日のこと)一九一頁を「増補」した「民法第二條修正案を評す」(毎日新聞二月六日以降、日刊世界之日本二月七日号等。国家学会雑誌一一卷一二〇号・一二一号では「民法第二條非修正私見」)を更に補正した「民法第二條修正案ヲ評ス」であろう (日本近代立法資料叢書一六卷第六綴。ただし、この復刻は誤解を招く表題「山田三良氏の修正案 第二條批評」を付け加えている。なお、山田・前掲回顧録一五〜三二頁にも収録されている)。福島正夫編・明治民法の制定と穂積文書 (民法成立過程研究会 一九五六年)一〇四頁が掲げている「民法第二條修正案を評す  法学士 山田三良 コンニャク版二八枚」の検討を経て確定する必要があろう。
(15) この早稲田議会の意義については、穂積重行・前掲穂積歌子日記四二〇頁以下の指摘、およびそこに全文引用されている早稲田学報一号の記事「早稲田議会」を参照されたい。「貴衆両議員八十有余名」も傍聴者として参加したとされる。
(16) 山田三良・前掲回顧録一四頁。もっとも、この事実は確かめる必要があろう。
(17) 前掲・帝国議会七十年史帝国議会議案件名録五三九頁参照。提出された旨を議長が衆議院に報告したのは翌二〇日のことである。法律案は第一二回帝国議会衆議院議事速記録〔復刻版〕六五頁に掲載されている。同四頁によれば、「賛成者・神鞭知常外一九名」とある。法律案は大日本帝国議会誌第四卷九五九頁にも掲載されているが、「認許」とあるべきところが「認可」と誤植されている。これを底本にした星野通・前掲明治民法編纂史研究一九六頁は「外国人ハ法令又ハ條約ニヨリ特ニ許可シタル場合ニ限リ私見ヲ享有ス」としているが、「ヨリ」・「許可」・「限リ」の用語は不正確。
(18) 第一二回帝国議会衆議院議事速記録=帝国議会衆議院議事速記録一三 六五頁参照。穂積重行・前掲穂積歌子日記四二二頁は「撤回」したと記述しているが、この議事録によるも、また前掲・帝国議会七十年史帝国議会議案件名録六三九頁 (「未了」としている)によるも、撤回の事実を確かめることはできない。
(19) 「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」法律時報一〇卷七号 (一九三八年)二六頁〔仁井田発言〕。
 この「趣旨書」は、東川徳治・博士梅謙次郎 (法政大学・有斐閣 一九一七年)一五三〜一六四頁に収録された文書であろう。緒言、「民法第二條と現行法令」、「民法第二條と各国條約」、「民法第二條と外交政略」、「民法第二條修正案の論評」、「民法第二條削除案の論評」、「結論」から構成されている。この趣意書が「元田肇外二名より衆議院に提出したる所謂『民法中改正法律案』」(一六一頁)と表現していることからみて、つまり「元田肇外二名」の記載から、第一二議会時のものと考えてよい。もっとも、「鳩山和夫等の唱道する」・「民法第二條削除案」への言及 (一六三頁以下)もあるのであって、疑問がないわけではない。鳩山等が第二条削除の再提案を行うと予測して執筆したものとみるべきか。福島正夫編・前掲明治民法の制定と穂積文書一〇四頁が掲げている「民法第二條ニ関スル卑見 梅謙次郎 コンニャク版二二枚」との照合を経て確定しなければならない。
 なお、穂積重行・前掲穂積歌子日記四二二頁は「梅もまた同じ時期に議会において政府委員として全く同趣旨の説明を行い、これを敷衍した趣意書を議員に配布している」としているが、政府委員梅が議会で説明した事実を確認することはできていない。のちに触れる梅謙次郎『一八九七ー九八年度民法総則講義筆記』が、「中には此民法中の個条を修正せんとする『やから』もあり」(六三丁表)、「以上論する処を以て見れは、民法は此点に於ては現行の規則の原則を認めたるものにして決して現行の主義に反対したるものにあらさることは明なりと信す。此点に於ては大に議論ありしも、今日に於ては冷却したるものの如し。余か反対論者等にも内々此理由を云ひしが、今日は大抵承知したるものの如し」(六六丁裏)と述べており、このほうが正確か。
(20) 同編著・民法修正案 (前三編)の理由書 (有斐閣 一九八七年)四二頁、四九頁注(43)、同「民法修正案 (前三編)に関するおぼえがき」法学五〇卷五号 (一九八七年)七六六頁も同旨。
(21) 東京朝日新聞一月二七日号一頁の「民法修正案」も同文。しかし、法典調査会の議事録等からはこの事実を確かめることはできない。むしろ元田肇はなにも語ってはいなかったとされているのであり、元田が記者に語ったことを鵜呑みにしたとみるべきであろう。また元田肇は衆議院の民法中修正案委員会の委員にも就任していたが、議事録でみる限り、ここでも何も語っていない。